「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いにどう答えるかという問題があります。今回はそれについて考えてみます。
 
この問いが問題になったのは、1997年、いわゆる酒鬼薔薇事件が起こって少年犯罪が注目され、「子どもたちに『「人を殺してはいけない』ということを教えるべきだ」という声が高まっていたころのことです。あるテレビ番組で一人の高校生が「なぜ人を殺してはいけないのか」と発言し、居合わせた識者が誰も答えられないという出来事がありました。このことは多くの人にとってショックだったらしく、その後、私の知るところではふたつの雑誌が「『なぜ人を殺してはいけないのか』という問いにどう答えるか」という特集を組み、多くの識者が答えを寄せましたが、その答えはみごとにばらばらでした。
ということは、誰もまともに答えられなかったのです。
 
近代以前には、こうしたことはありえませんでした。道徳は宗教に根拠を持っていたからです。「なぜ人を殺してはいけないのか」と問う者がいれば、「それは神の教えだから」とか「そんなことをすれば地獄に落ちるから」と答えればよかったのです。
近代社会では、宗教に代わる根拠が求められることになりました。その役割を担うのは倫理学ということになりますが、今の倫理学は残念ながらまったく役に立ちません。
 
ただ、私は科学的倫理学=進化倫理学という立場を標榜しているので、その立場から答えてみます。
 
 
まず今の世の中に「人を殺してはいけない」という道徳はありません。私たちは正当防衛で人を殺し、死刑制度で人を殺し、戦争で人を殺すことを容認しているからです。ハリウッド映画の正義のヒーローが大量殺人を犯すシーンでは拍手喝采しています。
ですから、正しくは「罪のない人を殺してはいけない」というべきです。
 
「罪」というのも面倒くさい概念なので、もっと単純に「悪くない人を殺してはいけない」ということにします。
つまり今の世の中は、「悪くない人を殺してはいけないが、悪い人、とくに極悪人なら殺してもかまわない」というのが主流の道徳になっています。
 
しかし、こういう議論になると、善と悪とはなにかという問題になり、倫理学不在の状況では誰も答えられません。
 
 
科学的倫理学=進化倫理学の立場からは、そもそも人に向って「人を殺してはいけない」と言うのが愚かなことです。
というのは、人間は誰でも人を殺したくないという本能を持っているからです。
自分がナイフか拳銃を持って人を殺す場面を想像すればわかるはずです。
「戦争における『人殺し』の心理学」(デーヴ・グロスマン著)という本によると、人間には同類を殺すことには強烈な抵抗感があって、訓練された兵士ですら戦場でなかなか敵兵を殺せないということです。

とはいえ現実に殺人事件はあって、なにも悪いことをしていない人間が殺されることがあります。
こういう場合、たいてい犯人には長期間にわたる強烈なストレスがかかって、人間性がゆがんでしまっているものです(酒鬼薔薇少年もそうでした)。
しかし、そういう人間に「人を殺してはいけない」と言っても効果はないでしょう。
 
人に向って「人を殺してはいけない」と言うことは、「お前はもしかして人を殺すのではないか」という不信感を表明しているのと同じです。
さらには「私は人を殺してはいけないことがわかっているが、お前はわかっていないだろう」と、相手を見下していることにもなります。
酒鬼薔薇事件のときはおとながパニックになって、見境なく若者に「人を殺してはいけない」と言ったので、不愉快になった1人の若者が「なぜ人を殺してはいけないのか」と反撃したのです。
 
ですから、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対しては、「人を殺してはいけないなどと言ってすみませんでした」と謝るのが正しい答えです。