安倍首相は広島と長崎の平和祈念式、全国戦没者追悼式に出席し、式辞を述べました。
しかし、その言葉は白々しく、心が感じられません。
毎年同じ言葉だとか、核廃絶についての意志がないとか批判されますが、もっと根本的な問題があります。
それは「人の命」に対する認識です。

次が安倍首相の言葉です。
 
 
平成三十年 全国戦没者追悼式式辞
 天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、戦没者のご遺族、各界代表、多数のご列席を得て、全国戦没者追悼式を、ここに挙行いたします。
 苛烈を極めた先の大戦において、祖国を思い、家族を案じつつ、戦場に斃(たお)れた御霊(みたま)、戦禍に遭い、あるいは戦後、遠い異郷の地で亡くなった御霊、いまその御前(おんまえ)にあって、御霊安かれと、心より、お祈り申し上げます。
 今日の平和と繁栄が、戦没者の皆様の尊い犠牲の上に築かれたものであることを、私たちは片時たりとも忘れません。改めて、衷心より、敬意と感謝の念を捧(ささ)げます。
 未(いま)だ帰還を果たしていない多くのご遺骨のことも、脳裡(のうり)から離れることはありません。一日も早くふるさとに戻られるよう、全力を尽くしてまいります。
 戦後、我が国は、平和を重んじる国として、ただ、ひたすらに歩んでまいりました。世界をより良い場とするため、力を尽くしてまいりました。
 戦争の惨禍を、二度と繰り返さない。歴史と謙虚に向き合い、どのような世にあっても、この決然たる誓いを貫いてまいります。争いの温床となる様々な課題に真摯に取り組み、万人が心豊かに暮らせる世の中を実現する、そのことに、不断の努力を重ねてまいります。今を生きる世代、明日を生きる世代のために、国の未来を切り拓いてまいります。
 終わりに、いま一度、戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆様にはご多幸を、心よりお祈りし、式辞といたします。
平成30年8月15日
 

「御霊」という言葉を連発しています。
安倍首相としては、ほんとうは「英霊」と言いたいところでしょう。
 
人が死ぬと霊になるなら、死はそれほどいたましいものではないことになります。英霊になるならなおさらです。
そういうことから安倍首相の追悼の言葉には心がないのです。
 
なお、これは追悼式であって、慰霊式ではありません。
天皇陛下のお言葉には「霊」という言葉はまったく出てきません。
 
天皇陛下のおことば
全国戦没者追悼式 平成30815日(水)(日本武道館)
本日,「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり,全国戦没者追悼式に臨み,さきの大戦において,かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い,深い悲しみを新たにいたします。
終戦以来既に73年,国民のたゆみない努力により,今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが,苦難に満ちた往時をしのぶとき,感慨は今なお尽きることがありません。
戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ,ここに過去を顧み,深い反省とともに,今後,戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い,全国民と共に,戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し,心から追悼の意を表し,世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

 
本来なら天皇陛下は神道につながる存在ですから、霊を語ってもいいはずですが、「人の死」を直視しています。
そして、この世に生きる人間を幸せにするのが政治家の仕事なのに、安倍首相は「御霊」を語るという、おかしなねじれが生じています。
 
 
また、安倍首相は「今日の平和と繁栄が、戦没者の皆様の尊い犠牲の上に築かれた」と語っています。
「尊い犠牲」という言葉を、私は前から死を美化するものとして批判しています。
尊いのはあくまで命です。「尊い命がむごい犠牲になった」というべきです。
いや、「犠牲」という言葉も「神への捧げもの」という意味なので、少し死を美化しています。
ですから、「尊い命がむごく失われた」というべきです。
 
 
また、「祖国を思い、家族を案じつつ、戦場に斃(たお)れた御霊(みたま)」という表現も気になります。
 
人間における最大の感情は、生きたい、死にたくないというものです。
ですから、戦場にたおれた若い兵士を思うなら、もっと生きたかっただろう、恋愛して、結婚して、いろんな楽しいことをしたかっただろうということですし、妻子のいる兵士なら、もっと家族といっしょにすごしたかっただろうということです。
「祖国を思い、家族を案じつつ」という言葉には、「自分が生きたい」という肝心のものが抜けています。
安倍首相の頭にあるのは、「祖国と家族のために進んで自分の命を捧げる」という理想の兵士のイメージのようです。
 
これでは戦没者追悼の言葉に心がこもらないのは当然です。