9月1日と4月8日は統計的に子どもの自殺が多い「自殺の特異日」ということで、8月末にメディアでいろいろな人が「つらければ学校へ行かなくてもいいよ」という呼びかけを行っていました。
 
学校へ行かなくてもいい――という考え方は、ひと昔前はありえないものでした。
ほとんどの親は、子どもが不登校になるとパニックになり、むりやり子どもを学校に行かせようとして修羅場を演じました。
といって、世の中の価値観が変わったというより、「自殺の特異日」という概念がよかったのでしょう。子どもの命より学校がたいせつというわけにはいきません。
 
今でも親にとって学校は子どもの命の次ぐらいにたいせつなのではないでしょうか。
というのは、憲法に義務教育の規定があるからです。
この義務は子どもが負うのではなく親が負うわけで、子どもが学校に行かないと親が憲法違反をすることになります。憲法違反をしたくなければ、親はむりにでも子どもを学校に行かせなければならないわけで、憲法が親子対立を生むことになります。
 
これはもちろん義務教育という規定が間違っているわけです。
憲法には「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」とあり、もともと教育を受けることは権利なのです。
ですから、義務教育の規定をなくして権利のままでいいのです。
 
さらに、「教育を受ける権利」というのも、今は「学習権」という考え方が定着しているので、時代遅れになっています。
憲法改正をやるなら、義務教育を廃止して、学習権を明記する改正をやるべきでしょう。
これは実質的な意味があります。
 
 
今は義務教育の規定があるので、かりに子どもがイジメにあっていても、親は子どもを学校に行かせなければなりません。それ自体が子どもには不幸なことですし、自殺につながることもあります。
また、義務教育であれば、どんな教え方をしても子どもは学校にくるわけで、これは教師の堕落につながります。
 
今あるのは「教育を受ける権利」ですから、親や子どもは教育の中身を選ぶことができません。しかし、「学習権」になれば、子どもは学習したいものを学習できることになります。
たとえば小学校ではプログラミング教育の必修化が予定されていますが、子どもには適性があるので、全員にさせるのは疑問です。かといって、どの子に適性があるかを見きわめるのもたいへんです。これは子どもに選ばせればいいわけです。
 
今の教育は、能力も適性も違う子どもを同じ教室に入れて一律に教えています。また、年1回の入学ですから、実質的に6歳の子どもと7歳の子どもが同じ教室にいます。教える側の効率しか考えていないのです。
その結果、ほとんどの子どもにとって教室は苦痛で退屈な場所となり、そこからイジメや不登校が生じるのは当然です。
 
子どもに選ばせればいいというと、それでは子どもがわがままになってだめだという反論がありがちですが、それは人間性も人権も民主主義も否定する考え方です。
 
「自殺の特異日」という発想で学校絶対主義みたいなものは少し揺らぎましたが、自殺を回避すればいいというものではありません。
教える側主体の「教育」から学ぶ側主体の「学習」へと、学校制度の根本的な改革が必要です。