今年度から小学校で道徳科(特別の教科道徳)の授業が始まりましたが、教師はどのように成績をつけているのでしょうか。
常識的にはこういう五段階評価になるはずです。
 
よい子
ややよい子
普通の子
やや悪い子
悪い子
 
「欽ドン!」の「良い子・悪い子・普通の子」のようですが、子どもを道徳的に評価すればこうなるしかありません。
 
しかし、文科省は「数値による評価ではなく、記述式とすること」としています。
そして、なにを基準に評価するかというと、「一面的な見方から多面的・多角的な見方へと発展しているか」と「道徳的価値の理解を自分自身との関わりの中で深めているか」ということを挙げています。
 
「多面的・多角的な見方」はたいせつなことですが、それは道徳科で学ぶというより、歴史や社会や国語を学ぶ中で身につけていくことではないかという気がします。
「道徳的価値」にいたっては、文科省だって理解していないはずです。
成績をつけるのに苦労している教師が多いというのももっともです。
 
 
そもそも道徳を教えるということはまったく不可能なことです。
というのは、道徳の中心概念である善と悪についての定義がないからです。
善とはなにか、悪とはなにかという問いに誰も答えられないのですから、教えられるわけがありません。
 
「善」を国語辞典で引くと、「よいこと」とか「道義にかなっていること」などとありますが、これは言い換えているだけです。
 
百科事典ではどうかということで、「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」の「善」の項目を見てみました。
 
一行目に「意志を満足させるゆえに積極的価値をもつと判断されるものすべて」と書かれています。
わかりにくい文章ですし、「意志」という、これも定義の定かでない言葉を前提としています。ヒトラーの意志でもいいのかと突っ込みたくなります。
二行目以降はこうなっています。
 
ソクラテスは善を美や有用性と同一視し,善はキュレネ派では快であり,キュニコス派では苦の欠如である。プラトンでは善は存在の根拠,美や真の原理。アリストテレスは人間における善を幸福とし,すべて現実的なものは善であり,善はまず個物に存在するが,一般にはそのものの類的本質の実現にあるとした。彼はまたそれ自体善であるものと,それとの関係で善であるものとを区別した。スコラ哲学は存在と善を等置し,個物の善はそのものが神の意志したとおりのものであること,すなわちそのものの完全性にあるとされた。 T.ホッブズでは善は努力の目標となるもの,功利主義者にとっては幸福は最大の快,最小の苦であり,J.ベンサムは快楽計算を試み,B.スピノザもまた善の相対性,主観性を強調した。 I.カントはそれ自体善である倫理的善を,手段としての善である有用性とはっきり区別した。プラグマティズムは功利主義的相対論を継承し,G.ムーアらの分析哲学派も善か否かは判断される対象がおかれている場に依存することを強調している。
(後略)
 
つまり善についての考え方は人それぞれなのです(しかも、どれもわかりにくい)
 
岩波書店の「哲学・思想事典」で「善」を引いてみると、三ページ余りにわたって「西洋」「インド・仏教」「中国」「日本」の四項目に分けて説明がされています。ということは、これもばらばらだということです。
 
悪は善の対立概念とされるので、善がわからない以上悪もわかりません。
 
哲学者ジョージ・E・ムーアはこのような状況を踏まえて、「倫理学原理」という著作で善を定義することは不可能だと述べました(善は直観で理解するものだというのがムーアの立場です)。定義が不可能だということには異論がありますが、善に定義がないということは、これによって広く認められました。
 
それまで倫理学は、人間の善い生き方を探究する学問とされていましたが、善の定義がないということで、善とはなにか、道徳とはなにかということを探究しなければならなくなりました。その分野は「メタ倫理学」と呼ばれます。
従来の人間の善い生き方を探究する倫理学は「規範倫理学」と呼ばれます。
そして、生命科学の進歩によって生まれた生命倫理学、地球環境問題が生じたことによって生まれた環境倫理学などの新しい分野は「応用倫理学」と名づけられました。
つまり現代倫理学にはメタ倫理学、規範倫理学、応用倫理学という三つの分野があるわけです。
 
しかし、少し考えればわかることですが、メタ倫理学が善とはなにか、道徳とはなにかを解明しないと、規範倫理学も応用倫理学も成立しませんし、倫理学そのものも成立しません。
 
ということで、今は倫理学という言葉はありますが、倫理学の実体はないも同然です。
ですから、「道徳的価値」なるものは誰にもわかりません。
「良い子・悪い子・普通の子」もギャグにしかなりません。
こんな状況で道徳科をつくっても、教えることはなにもないし、教えた結果を評価できないのも当然です。
 
どうしても道徳を教えたければ、宗教と一体でやるしかありません。
欧米では、道徳教育をする場合はキリスト教倫理に基づきます。
戦前の日本の修身は、現人神である天皇からくだされた教育勅語を根拠としていました。
ですから、教育勅語を復活させたいという動きがあるのはわからないではありませんが、もはや天皇は現人神ではなく、教育勅語の中身も時代に合わないので、無意味なことです
 
道徳科をつくるという間違った政策のために、道徳を教え、評価するという不可能なことをさせられている教師が気の毒です。