善と悪の定義もないのに道徳科が成立するわけがないということを、前回の「なぜ道徳教育は不可能なのか」という記事で書きました。
善と悪の定義がなくてもたいした問題はないという意見があるかもしれませんが、そんなことはありません。たとえば夫婦喧嘩はたいてい「お前が悪い」という認識から始まりますが、これについてはいくら議論しても解決しないので、どんどん問題がこじれていくのです。
 
なぜ善と悪の定義がないかというと、善と悪について根本的な認識の間違いがあるからです。それはさまざまな逆説的状況として表れているので、列記してみます。
 
 
「悪人」「悪党」「悪漢」「悪女」などの言葉にはどこか魅力的な響きがあるが、「善人」「善良な人」などの言葉にはあまり魅力的な響きがない。
 
若いころは不良だったと自慢する人はいるが、若いころはよい子だったと自慢する人はいない。
 
非行、登校拒否、家庭内暴力などの問題行動を起こす子どもは、小さいころよい子とされていたケースが多く、そのため最近は「よい子」とカギカッコつきで表記されることが多い。
 
ヤクザ、マフィア、ギャング、殺し屋、詐欺師、悪徳警官などを主人公にした小説や映画が多数存在し、読者や観客は主人公に感情移入している。
 
親鸞が言ったとされる「善人なおもて往生す、いわんや悪人においてをや」という言葉に深い感銘を受ける人が多い。
 
性善説と性悪説とどちらが正しいのかわからない。
 
「必要悪」という言葉がある。
 
 
善と悪は、人間がつくりだした概念で、人間に適用するものです。自然界に立脚していないので、人間の都合だけでどんなふうにもつくれます。そのためこんなおかしなことになっているのです。
 
善悪や道徳には根拠がないので、つねに暴走しがちです。
ですから、社会では道徳を制限するということが行われてきました。
 
たとえば、悪いことをしたことがない人はいないので、誰でも悪人と認定される可能性があります。それは困るので、あらかじめ法律を決めておき、法律に違反した場合だけ悪人と認定される制度になっています。法の支配とか法治主義といわれるものです。
マスコミも、逮捕されるまでは悪人扱いしないという不文律を守っています。
ただ、逮捕されるとマスコミは悪人として徹底的に非難し、容疑者に厳罰を与えるべきだと主張します。つまり道徳の暴走です。
ただ、これについても法律は、「懲役〇年以下」とか「罰金〇万円以下」というように刑罰に上限を決めています。
もしこうした法律がなく、道徳だけで裁かれるようになれば、恐ろしいことになるに違いありません。
 
道徳は人間を働き者と怠け者に分けます(これは善人と悪人のバリエーションです)
生活保護のような福祉の窓口で、担当者が来訪者を働き者か怠け者かを判定するようになると、福祉の業務が混乱することは必至です。働き者か怠け者かということに客観的な根拠はないからです。
 
政治の世界でも、レーガン大統領が「悪の帝国」と言い、ブッシュ(息子)大統領が「悪の枢軸」と言ったことがありますが、国際政治の世界に道徳を持ち込むのは危険なこととして批判されました。
トランプ大統領は平気で「悪いやつ」といった言葉を使っていますが、危険なことです。
 
学校教育に道徳を持ち込むのも、同様に危険なことです。
生活保護の担当者が受給希望者を働き者か怠け者かを判定するように、教師が子どもをよい子か悪い子かを判定するようになれば、教室が混乱するだけです。
教師はむしろ善悪のメガネを外して、ありのままの子どもを見つめることがたいせつです。