善と悪については、定義もないし客観的な基準もありません。ですから、善と悪は使いものにならない概念です。学問の世界では、善悪を切り離す善悪相対主義が当然のこととされています。
正義についても同じです。正義の定義はなく、正義論は正義を論じる思想家の数だけあります。
ところが、多くの人は善悪や正義を価値あるものと勘違いしています。
その勘違いの原因は、映画や小説に描かれる勧善懲悪の原理にあると思われます。
 
もともと「勧善懲悪」という言葉は儒教にあるものですが、江戸時代の歌舞伎や読本の物語の原理を説明する言葉として一般に使われるようになりました。ハリウッド映画や「水戸黄門」はもちろん、推理小説や刑事ドラマなども基本的には勧善懲悪の原理で成り立っています。
 
物語は単純です。善人が悪人に苦しめられているところに正義のヒーローが現れ、悪人をやっつけ、善人を救い、めでたしめでたしとなります。
 
こうした物語に年中触れているために、現実も同じだと勘違いしている人が多いのではないでしょうか。
 
勧善懲悪はもともと物語の原理を説明する言葉として使われてきたもので、現実には当てはまりません。
物語では悪人と善人が一目見ただけでわかるようになっていますが、現実ではそんなことはありません。物語では正義のヒーローが必ず勝ちますが、現実では負けるかもしれません。そうすると勝った悪人が正義を名乗り、負けた正義のヒーローは悪人とされます。
つまり現実では、善人と悪人と正義のヒーローの区別はつかないのです。
 
また、物語には必ず終わりがありますが、現実に終わりはありません。かりに悪人をやっつけたとしても、仲間が復讐にくるとか、また新たな悪人が出現するとかして、かえって事態が悪化するということがありえます。
終わりがないと、悪人をやっつけた正義のヒーローはその場に君臨することになるでしょうが、絶対的強者だけに傲慢になり、悪人になるかもしれません。
 
つまり勧善懲悪の原理は物語の中だけで有効なのです(そのように物語がつくられているわけです)
 
しかし、倫理学がまったく役に立たない学問なので、代わりに勧善懲悪が俗流倫理学として社会に採用されています。
 
勧善懲悪はもちろん勧善と懲悪に分かれます。
昔はある程度両者のバランスがとれていたと思います。「一日一善」ということがよく言われ、小さな親切運動とか、社会を明るくする運動などが盛んに行われていました(調べると、小さな親切運動と社会を明るくする運動は今も行われています)
今は懲悪に比重がかかっています。ハリウッド映画は悪人をやっつけるシーンがどんどん派手になっていますし、世の中には凶悪犯罪が起こるたびに死刑にしろという声があふれます。
 
ですから、今の俗流倫理学を一言でいえば、
「悪いやつをやっつければ世の中はよくなる」
というものです。
 
いや、「悪いやつをやっつければ世の中はよくなる」と言うと、「ほんとうにそれで世の中はよくなるのか」と反論されるに違いありません。
ですから、世の中で言われるのは、
「悪いやつをやっつけろ」
ということです。
悪いやつをやっつけると気分がスカッとするので、みんなそれだけで満足し、やっつけたあとどうなるかは知ったことではないようです。
 
ヘイトスピーチも移民排斥もトランプ大統領の言っていることも、要するに「悪いやつをやっつけろ」ということです。
 
「悪いやつをやっつけろ」という俗流倫理学が世の中を動かしている状況はかなり滑稽です。