性差別や人種差別の表現はどんどん巧妙になって、もはや言葉狩りでは対処できません。
 
たとえば、先日現役引退を発表したレスリングの吉田沙保里選手は「霊長類最強」と言われてきました。
これは「ゴリラやオランウータンよりも強い」という意味でしょうが、ゴリラやオランウータンと比べるのは失礼です。もし吉田選手が黒人だったら完全にアウトな表現です。
ただ、「吉田選手の強さを讃えた表現だからいいではないか」という主張もあって、許されてきたのでしょう。
 
今、西武・そごうの「わたしは、私。」というテレビCMが問題になっています。
 




 
SEIBU SOGOわたしは、私。
 
 
 安藤サクラさんが登場して、パイ投げのパイが周りを飛び交い、安藤さんの顔に当たり、最後に顔のクリームをぬぐって、「わたしは、私。」と言うものです。
CM中の言葉はこうなっています。
 
女の時代、なんていらない?
女だから、強要される。
女だから、無視される。
女だから、減点される。
女であることの生きづらさが報道され、
そのたびに、「女の時代」は遠ざかる。
今年はいよいよ、時代が変わる。
本当ですか。期待していいのでしょうか。
活躍だ、進出だともてはやされるだけの
「女の時代」なら、永久に来なくていいと私たちは思う。
時代の中心に、男も女もない。
わたしは、私に生まれたことを讃えたい。
来るべきなのは、一人ひとりがつくる、
「私の時代」だ。
そうやって想像するだけで、ワクワクしませんか。
わたしは、私。
西武・そごう
 
 
ツッコミどころが満載で、論じる人の数だけ論じ方があるという格好になっています。
 
「女だから、強要される。女だから、無視される。女だから、減点される」という言葉は、医学部入試の女性受験者減点問題などを踏まえていて、女性の置かれた現状を表現しているようです。
『活躍だ、進出だともてはやされるだけの「女の時代」なら、永久に来なくていいと私たちは思う』という言葉は、安倍政権のキャッチフレーズ「すべての女性が輝く社会」を批判しているようです。
そういうことで、共感する人もいます。
 
一方で批判する人もいます。
どうして評価が分かれるのでしょうか。
 
いちばんの曲者は「パイ投げ」です。
女性がひどい目にあっているのが不愉快だという人がいます。
確かに映像的にはそうなります。
しかし、「パイ投げ」というのはコメディでしか行われません。もしパイを投げつけられて怒る人がいたら、その場はぶち壊しになりますし、その人はパイ投げを理解していないと非難されます。
女性差別をパイ投げというコメディにしていることがいちばんの問題です。
これは子どもへの性的虐待を「いたずら」と表現していたのと同じです。
 
性差別の現状を映像で表現したいなら、女性に石のつぶてが投げつけられて、女性が額から血を流しているというシーンのほうがいいでしょう。
それと比較すると、パイ投げはぜんぜんだめだということがわかるはずです。
 
細かい表現でおかしいところもあります。
たとえば『女であることの生きづらさが報道され、そのたびに、「女の時代」は遠ざかる』という部分。
これはまったく逆です。
たとえば医学部女性受験者減点問題は、報道されたことで少しは改善するはずです。報道されないほうが「女の時代」は遠ざかります(このコピーの書き手は、報道内容を問題と思うのではなく、報道されることが問題だと思っているようです)
 
いちばんの問題は、前半で性差別の現状を語っていたのに、突然「時代の中心に、男も女もない」『来るべきなのは、一人ひとりがつくる、「私の時代」だ』と理想論に切り替わるところです。
しかも、パイを投げつけられながら語っています。
これでは性差別はすべて不問にされ、女にパイを投げつけてもかまわないということになります。
 
 
では、このCMはどうすればいいかというと、女の視点でつくればいいのです。
 
女の目にはパイを投げつける男の姿が見えています。それを描けばいいのです。
いや、パイ投げはやはりコメディになってしまうので、試験で女性だけ減点する男とか、セクハラする男とか、女の言い分を無視する男とかを描けばいいのです。
そういう男の前で「わたしは、私」と言うのなら、女性の共感を得られるCMになるはずです。
 
もっとも、セクハラする男の姿を見るのは不愉快だという批判の声が上がるかもしれませんが、地球環境汚染防止キャンペーンのCMで環境汚染のシーンが出てくるのと同じことなので、気にすることはありません。