「人間は教育されて初めて人間となることができる」という言葉があります。
これは単なる俗説ではなく、カントの「教育論」に「人間は教育されなくてはならない唯一の被造物である」という言葉もあり、教育界ではむしろ一般的な考え方かもしれません。
 
では、人間は教育されないとなにになるのか――というと、よく狼少女の話が持ち出されます。インドで狼に育てられたとされる二人の少女が発見され、まるで狼のように行動したという話です。
しかし、狼と人間では、授乳期間も自立するまでの期間もぜんぜん違いますから、狼が人間の子どもを育てられるわけがありません。狼少女の話はフェイクです。
 
人間は教育されないとなにになるのかというと、「教育されない人間」になるだけです。
しかし、「教育されない人間」とはどういうものか、誰もが教育される今の時代には想像できないかもしれません。
 
狩猟採集生活をしている未開社会では、子どもはどのように育っているでしょうか。狩猟には技術や経験が必要なので、おとなが子どもに狩猟のやり方を教えているのでしょうか。
 
 
「森の小さな〈ハンター〉たち」(亀井伸孝著/京都大学学術出版会)という本が、狩猟採集の未開社会における子どもの姿を教えてくれます。
 
文化人類学者の亀井伸孝氏は、中部アフリカの熱帯雨林に生きるピグミー系バカ族とともに1年半にわたって生活し、とりわけ子どもを対象に調査しました。
なぜ子どもを対象にしたのか、著者はこう説明します。
 
おとなが子どもたちに対して、手取り足取り、森の歩き方や狩猟採集の方法、動植物の知識などを教え込んでいる姿を、私は見たことがない。このような放任的な社会において、子どもは、なぜ、いかに、そのような知識と技術を獲得して、この社会の成員としての役割をもつおとなの男女となっていくのであろうか。(中略)「子どもが文化を獲得し社会の成員となる過程」を社会化過程と呼び、その仕組みを明らかにすることを目指したい。
 
従来の人類学では「子どもたちは遊びを通して教育・訓練される」と説明してきました。あるいは、おとなの狩猟採集のまねをして遊ぶ子どもの姿を「教育の第一歩」と解釈してきました。しかし、著者はこれらを「おとなの目線」で語られるモデルであるとします。子どもたちは「教育されたい」「訓練されたい」と思って遊ぶのではなく、単に「おもしろい」という衝動にかられて遊んでいるのです。
 
子どもたちは、毎日のように狩猟採集活動へと出かけていく。
多くの場合、それは子どもたちだけの集団で行われている。日中、おとなたちが本格的な狩猟採集活動に出かけている間、年長期の少年少女たちが自ら道具を取り出し、年少期の子どもたちを引き連れて、さっそうと森の中に入っていく。
もっとも、そこで見られる「狩猟」「採集」と言いなす諸活動は、必ずしも成果を伴うものとは言えず、むしろ、手ぶらか、ごくわずかな収穫物とともに帰ってくることが多い活動群である。しかし、それは目的を逸脱した遊びとも言えず、有用な動植物を探し出して得ようとする目的がはっきりしている。これら、狩猟採集の目的をはっきりとそなえた、しかし、実益性が限りなく低く、遊戯性がきわめて高い、遊びと生業活動の中間に位置する活動群に、子どもたちが多くの時間を費やしていることが分かった。
 (中略)
「あの子たち、今日は川に行ったけど、エビひとつも捕れなかったってさ」
エッヘッヘと笑いながら、日暮れ時の集落で、おとなたちが子どもたちのかいだし漁の成果を笑い話にする。子どもたちの方も、とくに気落ちしたでもなく、また恥じ入るわけでもなく、次の成功に向けた作戦を練るでもない。鍋やかごをぶらさげて、ニコニコと帰ってくる。
何も捕れなくても、楽しかった。そう言いたげな子どもたちの満足した表情を見つめ、また、おとなたちのなんら期待していない寛容な姿勢を眺め、私はバカの社会の放任的な子育てのスタイルを象徴するような風景であると感じていた。
 
「かいだし漁」というのは、乾季に水位の下がった川の流れをせき止め、川床の魚などを手づかみで捕る漁法のことです。水流をせき止める大きな堰を木の枝と土を使って築くには技術が必要で、おとなと子どもがやるのとでは、収獲量が十倍以上も違います。おとなと子どもがいっしょにやる場合もありますが、そのときもおとなが子どもに教えるということはなく、子どもはみずから学ぶのです。
 
子どもはおとなから「漁の練習をしてきなさい」と言われて行くわけではなく、自分から漁や狩りに出かけていきます。狩猟採集というのは遊び感覚でできるのでしょう。
近代産業社会では、遊びと仕事、遊びと勉強が分離しています。生活は豊かになりましたが、遊びの楽しみは限定的になりました。
 
ともかく、狩猟採集社会では、基本的に子どもは教育されません。それでもちゃんと人間になります。
というか、それが本来の人間の姿です。
 
 
なぜ教育が行われるようになったかというと、競争に有利だからです。古代ギリシャの都市国家のように互いに争っていると、都市国家は子どもを戦士に育てる教育をするようになります。日本の富国強兵の教育も同じです。また、個人と個人でも、教育のあるほうが出世して高収入になるので、親は子どもを教育するようになります。
しかし、こうした教育は子どもの意志と関係なく行われるので、登校拒否や学校内のイジメのような問題も生じます。
また、こうした教育によって築かれた社会は、ほんとうに人間的な社会かという根本的な疑問も生じます。
 
私は、社会のあり方や人間のあり方を考えるときは、「教育されない人間」に立ち返って考えることにしています。