東京都は体罰禁止条例を都議会に提出し、国会でも児童虐待防止法の改正や民法の「懲戒権」見直しへの動きが起きています。
そこで議論になっているのが、しつけと虐待の境界線です。
 
児童虐待は、身体的虐待、性的虐待、ネグレクト(養育放棄)、心理的虐待の四つに分かれるとされます。体罰は身体的虐待です。
この中でむずかしいのは心理的虐待です。
 
セクハラの場合は、「職場において労働者の意に反する性的な言動が行われ、不利益や業務の支障が生じること」と定義され、「本人が不快に思えばセクハラだ」ということが言われます。
それにならって、「子どもが不快に思えば虐待だ」ということにすれば簡単です。
しかし、そうすると、子どもに予防注射をするとか、お菓子を食べる時間を限定するとかも虐待になってしまいます。
 
子どもが不快に思っても、子どものためになることなら虐待ではありません。
子どもが不快に思って、かつ子どものためにならないことが虐待です。
 
「親が子どものためにならないことをするわけがない」と思う人がいるかもしれませんが、たとえば「あなたのため」と言いながら、自分の虚栄心のために子どもに合わない学校をむりやり受験させる親などもその例です。
親が「子どものため」と言うと、子どもはなかなか反論できないので、親はいくらでも虐待ができてしまいます。
「しつけ」もそうしたもののひとつです。
 
「しつけ」は辞典ではこう説明されています。
 
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
社会生活に適応するために望ましい生活習慣を身につけさせること。基本的生活習慣のしつけが中心になるが,成長するにつれて,家庭,学校,社会などの場における行動の仕方へと,しつけの内容が拡大していく。(後略)
 
百科事典マイペディアの解説
社会生活への適応に必要な望ましい生活習慣を形成すること。田の植付けや着物を仕立てる際のあら縫い(仕付)の意から,子どもに幼児から礼儀・作法を教え込むことをいうようになり,〈躾〉の字が用いられるようになったとされる。(後略)
 
「社会生活への適応に必要な望ましい生活習慣」を身につけることは子どものためです。
ただし、身につけるには、子どもの発達に応じた適正な時期があります。
ところが、親は適正な時期よりも早めにしつけをしがちです。早く行儀を身につけてくれると好都合だからです。
 
早すぎるしつけに対しては子どもは抵抗します。
そのとき、親が引き下がれば問題はありません。
ところが、子どもの抵抗を「わがまま」ととらえる親がいます。
そして、世の中には「子どものわがままを許すと、子どもは限りなくわがままになる」という“思想”があります。
そのため、親は抵抗を無視して徹底的にしつけをしようとし、子どもはさらに抵抗をし、こうして虐待が発生します。
 
つまり「早すぎるしつけ」と「子どものわがままを許してはいけないという思想」が虐待の原因です。
ですから、親は早すぎるしつけをしがちだということを自覚して、子どもに無理強いしないように心がけていれば、虐待は起こりません。
 
原理的なことを言えば、動物の親は子どものしつけをしませんし、狩猟採集生活をする未開社会でもしつけや教育はありません。
つまり子どもは生活に必要なことはみずから身につけることができるのです。
親はしつけをするときは、本来子どもに必要ないことをしているのだと思っているとちょうどいいのではないかと思います。