千葉県野田市の栗原心愛さん(10歳)が虐待死した事件で、千葉地検は3月6日、父親の栗原勇一郎容疑者を傷害致死と傷害の罪で起訴しました。殺人罪は適用されませんでした。
 
これまで親が子どもを虐待して死亡させた事件は数多くありますが、私の印象では、一般の殺人事件より概して刑が軽いです。「子どもは親の所有物」という考え方があるからでしょうか。尊属殺人罪が廃止されても、いまだに尊属・卑属という考え方が残っているともいえます。
 
心愛さんの事件でも、殺人罪でなかったので、少なくとも死刑になるということはありません。これに対して、ネットでは死刑にするべきだという声があふれています。
 
自分の子どもを殺した場合は刑が軽いというのはおかしなことなので、是正されるべきだと思いますが、殺人事件が起こるたびに死刑にするべきだと声高に叫ぶ人にも困ったものです。
 
死刑を叫ぶ人というのは、「被害者遺族の感情」ということをつねに理由に挙げます。ところが、心愛さんの被害者遺族は栗原勇一郎容疑者と栗原なぎさ容疑者です。「被害者遺族の感情」は理由になりません。
 
さらに、心愛さんには1歳の妹(次女)がいます。両親が逮捕されてしまったので、今は施設にいるか、かつて心愛さんもいた沖縄の親戚の家にいると思われますが、死刑を叫ぶ人は次女のことを考えているでしょうか。
 
こういう状況で死刑を叫ぶ人というのは、要するに「虐待の連鎖」や「憎悪の連鎖」に巻き込まれているのです。
勇一郎容疑者が心愛さんを虐待した様子はかなり具体的に報道されました。その報道に接した人は、勇一郎容疑者に影響され、同じような心理になったのです。
 
人間が他人に影響されるのは当然のことです。人に親切にしている人を見かけると、自分も人に親切にしなければいけないなあという気持ちになるものです。同様に、人に暴力をふるっている人を見かけると、自分も暴力をふるいたくなります。「死刑にしろ」と叫ぶのはそういう心理です。
勇一郎容疑者は「しつけのため」と自分を正当化していました。
「死刑にしろ」と叫ぶ人も「正義のため」と自分を正当化しています。
 
 
勇一郎容疑者を死刑にしても、喜ぶ人や得する人は誰もいません。
次女のためにも、勇一郎容疑者となぎさ容疑者には更生してもらわなければなりません。
そんなことができるのかと思うかもしれませんが、「虐待する親への支援」で検索すると、虐待防止のプログラムがいろいろあることがわかります。
 
犯罪者の更生よりも処罰を優先させてきたこれまでの司法が間違っているのです。
「厳罰から更生へ」というのは世界的な流れで、なぜか日本だけ逆行しています。