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「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」を巡る騒動が終わったところに、日本赤十字社が献血のキャンペーンに巨乳のアニメキャラを使ったのはセクハラだという騒動が起きました(献血キャンペーン騒動についてはこちらを参照)。
このふたつの騒動を見て思ったのは、「表現の自由」の裏には「見ない自由」があるのだなということです。


1993年、筒井康隆氏の短編小説「無人警察」が高校の国語教科書に収録されることになったところ、てんかんの記述が差別的であるとして日本てんかん協会が抗議し、それに対して筒井氏が断筆宣言をするということがありました。筒井氏の作品に関しては、差別問題のほかに政治的、宗教的な点でもつねに批判や抗議にさらされてきましたが、このときに限って断筆宣言に至ったのは、作品が教科書に収録されたからです。
筒井氏の作品が雑誌や本に載っている限り、読みたくない読者はスルーすることができます。つまり「見ない自由」があります。しかし、教科書に載ると、生徒に「見ない自由」はありません。そのため日本てんかん協会も強く抗議したのでしょう。

企業や団体の行うキャンペーンは、より多くの人の目に触れるように行うので、「見ない自由」が侵害されます。そのため日本赤十字社の巨乳キャラを使った献血キャンペーンは批判されました。
ただ、批判されたのはあくまで日本赤十字社のキャンペーンで、巨乳キャラの原作マンガが批判されたわけではありません。

似たようなケースとして、ホラー映画のテレビCMもあります。ホラー映画を嫌う人は多くいますが、そういう人は「見ない自由」を行使するので、問題はありません。ただ、ホラー映画のテレビCMが流されると、否応なしに目に入ってしまい、「見ない自由」が侵害されます。かつてはテレビの視聴者から批判が出たこともありました。そのため最近は、ホラー映画のテレビCMにはあまりショッキングなシーンを使わないように配慮しているようです。

そういうことを考えると、「表現の自由」の裏には「見ない自由」が必要なことがわかります。
「見ない自由」がないと、「表現の自由」が危うくなります。
逆に言えば、「見ない自由」があるときに「表現の自由」を侵害することは許されません。


そうすると、「表現の不自由展」に抗議した人たちはなんだったのかということになります。
展覧会に関しては、誰にでも「見ない自由」があります。
少女像は日本人の誇りを傷つけるとか、昭和天皇の写真を燃やすのはけしからんとかいう人は、「見ない自由」を行使して展覧会に行かなければいいだけの話です。

それなのに彼らは威力業務妨害の電凸攻撃をし、テロ予告の脅迫までして展示中止を要求しました。
これは「表現の自由」の侵害であり、「見る権利」の侵害です。作品を創作した人も作品を見たい人たちも傷つけました。
自分たちの思想に反するものを排除し、表現や言論を統制しようとしているとしか思えません。

そもそもほとんどの人は、作品を鑑賞もせずに、断片的な伝聞だけで、「作品を見て傷ついた」などと騒いでいたのです。

今の日本国民には基本的に「見ない自由」があるということを念頭に置けば、「表現の自由」に関する議論の混乱はなくなるはずです。