ヤフーブログサービスが間もなく終了するため、ここライブドアブログに引っ越してきました。
まだ操作に慣れないのでまごついていますが、今後ともよろしくお願いします。


ブログの引越しを機会に、改めて私の基本的な考え方を説明しておきます。

動物は基本的に利己的な存在で、互いに生存闘争をしています。人間以外の動物は牙や角や爪を武器にしますが、人間は主に言葉を武器にします。言葉を武器にして戦ううちに言葉は次第に進化し、その中から道徳が生まれました。
つまり「道徳は人間の利己心から生まれた」のです。

実に単純なことですが、これまで誰も指摘しませんでした。
これまでの考え方は「道徳は利他心ないしは人間ならではの知性や理性や精神から生まれた」というものです。
それとまったく違うので、私は「道徳観のコペルニクス的転回」と呼んでいます。

道徳は基本的に「人に親切にするべきだ」とか「人に迷惑をかけてはいけない」というように利他的な行動を勧めるものなので、道徳が利己心から生まれたということと矛盾していると思う人がいるかもしれません。しかし、言葉は基本的に目の前の人間に対して発するものです。相手が利他的な行動をしてくれれば自分の利益になるのですから、少しも矛盾しません。逆に利他心から「人に親切にするべきだ」という言葉が発されたとすると、その言葉は目の前の相手のためではなく、そこにいない誰かのために発されたことになり、説明しようとすると、ひじょうにややこしいことになります(そのため倫理学はひじょうに難解でした)。

また、道徳は自分を律するためのものだと考える人も多いでしょう。少なくとも道徳を説く人は、相手が道徳で自分を律してくれることを望んでいるはずです。
しかし、人間は外界に対応するのに精一杯で、自分を省みることにあまり時間やエネルギーを費やしていられません。自分を省みるのは、寝る前の少しの時間か、なにか失敗をしてひどく落ち込んだときぐらいです。しかも、その内省の思考は言葉として表現されることはありません。例外は文学作品の中ぐらいです。
つまり「自律の道徳」はないわけではありませんが、世の中に流通するのは「他律の道徳」ばかりです。

ですから、道徳でよい社会をつくることはできませんし、道徳教育でよい人間をつくることもできません。
たとえば福祉政策の中に道徳を持ち込んで、生活保護の申請者を「働き者」と「怠け者」に分類するなどすれば、混乱するだけです。
国際政治の世界で「正義の戦争」などが唱えられると、ひどいことになります。
家庭の中にも道徳が持ち込まれ、夫婦が互いに道徳的に非難し合ったり、子どもを「よい子」にしようとしたりすると、決まって不幸な結果になります。


説明しているときりがないので、このへんでやめますが、現在、これを本にするべく執筆中です。
ただ、従来の倫理学を全否定しなければなりませんし、この説は進化倫理学の中に位置づけられますが、進化倫理学も否定しなければなりません。
これまでの進化倫理学はダーウィンの説をもとにしていましたが、ダーウィンの説が間違っていたのです(したがって、私の説を進化倫理学だというと誤解されるので、「科学的倫理学」という名前を使ったりしています)。
浅学菲才の身で大きなことを思いついてしまったので、そういう学問との関連づけに苦労しています。

それに、一般の人にどれだけ理解してもらえるかという懸念もあります。
なにしろこれは、従来の倫理学や道徳観が天動説だとすれば地動説みたいなものだからです。みんなが天動説を信じている中世において、いきなり「太陽が動いているのではない。地球が動いているのだ」と言ったら、狂人扱いされてしまいます。
今の世の中に宗教裁判はありませんが、否定されたり無視されたりしないようにしなければなりません。
どういう表現が説得力あるかということを確かめる目的もあって、このブログを書いています。
時事的な問題のとらえ方の背後に道徳観の違いがあることを見ていただければと思います(道徳観と関係のないことも書きますが)。


道徳はあなたの心を縛る透明な鎖です。道徳を正しくとらえれば、自由な生き方をすることができます。

「人間は道徳という棍棒を持ったサルである」というのは、一般にアピールするために考えたキャッチフレーズです。
スタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」の冒頭シーンからきています。