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                 Enrique MeseguerによるPixabayからの画像

なぜ人間社会に幼児虐待という悲惨なことがあるのでしょうか。

幼児虐待は世代連鎖するとされます。つまり子どもを虐待する親は、自分も子どものころ親から虐待されていたことが多いというのです。
そうすると、その親も子どものころ虐待されていたことになります。そして、その親もまた……とどんどんさかのぼっていくと、「人類最初の虐待親」にたどりつく理屈です。
もちろんそんな正確に連鎖するわけがありませんが、思考実験として「人類最初の虐待親はいかにして生まれたか」を考えるのもおもしろいでしょう。

反対に、いちばん最初から考えるという手もあります。
人類のいちばん最初のことは神話に書かれています。
もちろん神話は事実ではありませんが、なんらかの“真実”があるということもいえます。

旧約聖書の「創世記」に最初の人間であるアダムとイブのことが書かれています。アダムとイブは知恵の木から知恵の実を取って食べたためにエデンの園を追放された――と思っている人が多いのではないでしょうか。私も昔はそう思っていました。
しかし、実際は「知恵の木」でもなければ「知恵の実」でもありません。
この違いは重要です。

今はネットで簡単に聖書が読めます。次のふたつのサイトを参考に、要点をまとめてみました。

創世記(口語訳) - Wikisource

Laudate | はじめての旧約聖書 - 女子パウロ会


神は最初の人であるアダムをつくってエデンの園に住まわせた。エデンの園の中央に「命の木」と「善悪の知識の木」があった。神はアダムに「あなたは園のすべての木から満ち足りるまで食べてよい。 しかし、善悪の知識の木からは食べてはならない。必ず死ぬからである」と言った。神はさらにイブをつくって、二人は夫婦となった。二人とも裸だったが、恥かしくはなかった。生き物のうちでもっとも狡猾な蛇はイブに、善悪の知識の木について、「食べてもあなた方は決して死ぬようなことはありません。 その木から食べると、あなた方の目が開け、神のように善悪を知る者になることを神は知っているのです」と言った。イブはその実を取って食べ、アダムにも食べさせた。すると二人の目は開け、自分たちが裸でいることに気づいて恥ずかしくなり、イチジクの葉で腰を隠した。二人が善悪の知識の木から食べたことを知った神は「人はわれわれの一人のように善悪を知る者となった。彼は命の木からも取って食べ、永久に生きるものになるかもしれない」と言い、アダムとイブを楽園から追放し、以後、人間は苦しみに満ちた生活を強いられるようになった――。

つまり「知恵の木」ではなく、「善悪の知識の木」ないし「善悪を知る木」なのです。

「善悪の知識の木」はヘブライ語の「エツ・ハ=ダアト・トーヴ・ヴラ」の直訳です。
どうしてそれが「知恵の木」と訳されることが多いかというと、「善と悪」には「すべての」という意味もあるからだというのです。つまり「すべての知識の木」だから「知恵の木」というわけです。
しかし、それは間違った解釈でしょう。
「知恵の木」と訳すと、そのあとの「神のように善悪を知る者になる」という言葉とつながりません。

神が善悪の判断をする限りは問題ありません。正しく判断するか、正しくなくても人間は受け入れるしかないからです。
しかし、人間が善悪の判断をすると、自分に都合よく判断します。
みんなが自分に都合よく判断すると、対立と争いが激化します。


この物語は基本的に、幼児期は母親に守られて幸せだった人間が自立するときびしい現実の中で生きなければならないことのアナロジーになっています。そのため誰でも心の深いところで共鳴するものがあるはずです。

子どもが自立するのは、昔なら十二、三歳でしょう。
しかし、善悪の知識を得た人間においては、親は子どもを善悪で評価します。子どもが言葉を覚えたころからそれが始まるでしょう、親から「悪い子」と見なされた子どもは、怒られたり、叱られたり、体罰をされたりします。
つまり人間が善悪の知識を得たことから幼児虐待は始まったのです。

楽園追放の物語は、人間は善悪を知ることで不幸になったということを教えてくれます。