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戦後間もないころ、おばあさんが無邪気に遊んでいる小さな男の子たちを指差して「この子たちが大きくなったらまた戦争を始めるだろう」と言ったという話があります。
第一次世界大戦が終わってから21年後に第二次世界大戦が始まったのですから、そう思ってもむりはありません。

しかし、今年の8月15日で戦後75年がたち、曲りなりに日本は平和でした。
第二次世界大戦後、戦争の意味が大きく変わったからです。


松木武彦著「人はなぜ戦うのか――考古学から見た戦争」や佐原真著「戦争の考古学(佐原真の仕事4)」といった戦争考古学の本によると、人類が本格的に戦争をするようになったのは農耕社会になってからです。
その理由は、農耕社会では人口が増え不作のときの飢餓が深刻化したとか、土地争い、水争いが増えたとか、集団行動をするようになったとか、いろいろ説明されていますが、最大の理由は、食糧の備蓄量が大幅に増えたことでしょう。
狩猟採集社会では、食糧の備蓄といっても、せいぜい数日分から十数日分くらいです。
しかし、農耕社会では、収穫期には少なくとも半年間の労働の成果が蓄えられています。それを1日の戦争でごっそり奪うことができるなら、多少の危険を冒しても戦争しようという人間が出てきてもおかしくありません。
実際、農耕社会では外敵に備える環濠集落が広くつくられるようになります。
映画「七人の侍」では、収穫期になると野武士が村を襲いにくるのですが、ああいう感じだったのでしょう。

それからずっと戦争は利益のために行われてきました。
勝つと食糧、土地、財宝、女、奴隷を獲得することができます。

戦争するのは本能だと考えている人がいますが、それは間違いです。動物はなわばり争いをしますが、争い自体が不利益を生むので、それほど激しくは争いません。
人間の場合も、戦争をすると自分のほうもある程度損害が出るので、めったに戦争はしません。少ない損害で大きな利益が得られそうなときだけ合理的な判断で戦争をします。

文明が進んで富が蓄積されると、戦争の機会が増えていきます。
戦争の強い集団はどんどん戦争をして、ローマ帝国やらモンゴル帝国やらを築きました。

戦争でもっとも利益が得られたのは、近代国家が強力な軍隊を持って、近代化していない国を次々と植民地化していった植民地主義の時代です。
日本も遅まきながら植民地獲得の戦争をやりました。

このころに戦争はもうかるものだというイメージができて、それをいまだに引きずっているのではないでしょうか。
しかし、第二次世界大戦後は戦争の意味合いがまったく変わりました。

植民地主義の時代が終わり、戦争に勝っても領土や植民地を獲得することはできません。
それに、国連憲章で戦争は禁止されたので、賠償金を取ることもできませんし、国際社会から批判も受けます(実際は1928年に成立したパリ不戦条約から戦争は禁止されています)。

一方で、高度産業社会が実現し、各国の経済関係は緊密になり、そこから上がる利益が大きくなってくると、隣国と戦争するのは大損失になりました。


今ではまともに戦争ができるのはアメリカぐらいですが、やはり戦争には不利益しかありません。
湾岸戦争は、アメリカが多国籍軍を率いて勝利し、精神的満足があったかもしれませんが、アフガン戦争とイラク戦争は損失が巨大で、アメリカ国民もうんざりしています。


中国とインドは長い国境で接して、何度も国境紛争が起こり、戦死者も出ていますが、紛争が大きくなることはありません。
双方が戦争をするのは損だと認識しているからです。


日本に関していうと、今、尖閣諸島が日中間の緊張のもとになっています。
しかし、昔は「満蒙は日本の生命線」といったものですが、今「尖閣は日本の生命線」であるはずがなく、重みがぜんぜん違います。

北朝鮮は、拉致問題を起こすような頭のおかしい国だから、なにをするかわからないと思われていましたが、最近は北朝鮮なりに合理的な行動をしていることがわかってきて、脅威感が薄れてきました。


第二次大戦後の世界がどんどん平和になっていることは、国際連合広報センターの
「紛争と暴力の新時代」というサイトにも示されています。

世界的に見ると、戦死者の絶対数は1946年以来、減少を続けています。しかし同時にまた、紛争や暴力は現在、増加傾向にあり、大半の紛争は政治的民兵や犯罪集団、国際テロ集団など非国家主体の間で生じています。
   ※
現在では、武力紛争よりも犯罪が多くの人の命を奪っています。2017年には、全世界で50万人近くが殺人によって命を失っていますが、これは武力紛争による死者8万9,000人とテロ攻撃による死者1万9,000人を大きく上回る数字です。
   ※
テロは依然として幅広く見られるものの、その影響は近年、衰えてきています。全世界でテロ攻撃よるものと見られる死者の数は、2018年に3年連続で減少し、1万9,000人を下回っています。各国政府が暴力的過激主義を防止し、これに対処するため、テロ対策の取り組みや地域的、国際的な協調とプログラムを強化する中で、テロ攻撃による死者が減っているからです。2017年には、テロ攻撃の5分の1が失敗に終わっていますが、2014年の時点で、この割合は12%強にすぎませんでした。


戦争やテロの死亡者はへっていて、犯罪(殺人)による死亡者のほうがはるかに多いのです。

こうしたことはあまり知られていません。軍事・外交の専門家たちにとって不都合な真実だからです。

外務省の基本認識は、「わが国を取り巻く安全保障環境はいっそうきびしさを増している」というものです。
安倍首相も演説で決まって「わが国を取り巻く安全保障環境はいっそうきびしさを増している」と言うので、国民も耳にタコのはずです。

しかし、「わが国を取り巻く安全保障環境はいっそうおだやかさを増している」というのが正しい認識です。



日本人は第二次世界大戦の体験が強烈なので、いまだにそこにとらわれています。
戦争に負けて悔しいと思う者は、敗戦の象徴である憲法九条を改正して少しでも戦前の日本を取り戻そうと思っていますし、戦争が悲惨だったと思う者は、憲法九条の改正はなんとしても阻止したいと思っています。
どちらも過去にとらわれているので、現在の状況に適応することができません。


安倍首相は今年の全国戦没者追悼式の式辞で「積極的平和主義」という言葉を使いました。
かつては自衛隊を戦闘地域に派遣して、自衛隊に戦闘を経験させようとしていた節があります。
つまり日本を「戦争のできる国」にしようとしてきたようなのです。
しかし、それは実現していません。
世界が平和になってきているのを読み間違っているからです。

憲法九条改正に反対する人たちも、そのモチベーションをもっぱら戦争の悲惨さの記憶に頼っています。
しかし、記憶は風化していくので、こうした運動は若い人に理解されず、先細りが運命づけられています。
これからの平和運動は、経済合理性の追求にシフトしていくのが正しい道です。
戦争の損得を計算し、防衛費を費用対効果で算定するのが、いちばん有効な平和運動です。