杉田水脈
杉田水脈議員公式サイトより

政治家の暴言・失言は数々ありますが、この人はレベルが違います。

自民党の杉田水脈衆議院議員は9月25日の党の会議において、女性への暴力や性犯罪に関して「女性はいくらでもうそをつけますから」と発言したと共同通信社が報じました。
杉田議員は「そんなことは言っていない」と否定しましたが、共同通信社は複数の関係者から確認しているということで、「女性はいくらでもうそをつける」を身をもって示した格好になりました。

杉田議員の暴言でいちばん問題になったのは、LGBTについて「彼ら彼女らは子どもを作らない、つまり『生産性』がないのです」と言ったものでしょう。
この発言は大炎上しましたが、杉田議員は最後まで謝罪しませんでした。

伊藤詩織さんが元TBS記者の山口敬之氏から性暴力を受けたとして訴えている事件について、「明らかに女としての落ち度がありますよね」と発言するなど、再三にわたるセカンドレイプ発言もしています。
杉田議員は伊藤詩織さんへの誹謗中傷のツイートに多数の「いいね」を押したことで伊藤詩織さんから損害賠償を求めて訴えられてもいます。

杉田議員の問題発言はほかにもあります。
「世の中に『待機児童』なんて一人もいない。子どもはみんなお母さんといたいもの。保育所なんか待ってない。待機してるのは預けたい親でしょ」(本人Twitter、2018年1月)
「実際シングルマザーはそんなに苦しい境遇にあるのでしょうか?(中略)離別の場合、シングルマザーになるというのはある程度は自己責任であると思うのです。前述のようにDVなんて場合もあるかもしれませんが、厳しいことを言うと『そんな男性を選んだのはあなたでしょ!』ということに終始します」(『新潮45』2017年9月号「シングルマザーをウリにするな」)
「選択的夫婦別姓はまさしく夫婦解体につながる」(2014年10月15日、内閣委員会)
杉田議員はこれらの発言のたびに批判されていますが、謝罪や撤回はせず、少しもめげていないようです。その強さの秘密はなんでしょうか。

「性差別を積極的に肯定する女性」という珍獣は、性差別主義者の男性に重宝されます。
「LGBTは生産性がない」発言が批判されているとき、杉田議員は次のようにツイートしたことがあります(のちに削除)。
「自民党に入って良かったなぁと思うこと。『ネットで叩かれてるけど、大丈夫?』とか『間違ったこと言ってないんだから、胸張ってればいいよ』とか『杉田さんはそのままでいいからね』とか、大臣クラスの方を始め、先輩方が声をかけてくださること」
「LGBTの理解促進を担当している先輩議員が『雑誌の記事を全部読んだら、きちんと理解しているし、党の立場も配慮して言葉も選んで書いている。言葉足らずで誤解される所はあるかもしれないけど問題ないから』と、仰ってくれました。自民党の懐の深さを感じます」
https://news.nicovideo.jp/watch/nw3696000
このように周囲の性差別主義者の男性に支持されるだけでなく、本人も強い信念を持っています。
杉田議員は「男女平等は、絶対に実現し得ない反道徳の妄想です」と言ったことがあります。つまり自分の主張は道徳的だと思っているのです。

この発言はどういう文脈の中で出てきたのかを調べると、次のようなものでした。
「日本は、男女の役割分担をきちんとした上で女性が大切にされ、世界で一番女性が輝いていた国です。女性が輝けなくなったのは、冷戦後、男女共同参画の名のもと、伝統や慣習を破壊するナンセンスな男女平等を目指してきたことに起因します。男女平等は、絶対に実現し得ない、反道徳の妄想です。 男女共同参画基本法という悪法を廃止し、それに係る役職、部署を全廃することが、女性が輝く日本を取り戻す第一歩だと考えます」 (2014年10月31日、本会議)
https://www.businessinsider.jp/post-172378

男女共同参画基本法を廃止し、昔風の男女の役割分担に戻すべきだと主張しています。
昔風の男女の役割分担は、「良妻賢母」や「女性は男性を立てるべき」といった道徳でもあると杉田議員は考えているのでしょう。ですから、男女平等は反道徳だという理屈になります。

しかし、杉田議員の考える道徳は時代遅れです。

では、時代に合った道徳とはなにかというと、そんなものはありません。
道徳はつねに時代遅れなのです。
時代の変化に人の意識が追いつかないからです。
とりわけ近代になって時代の変化が速くなると、その傾向が強くなります。

このことを芥川龍之介は『侏儒の言葉』でこのように言っています。

我我を支配する道徳は資本主義に毒された封建時代の道徳である。我我は殆ど損害の外に、何の恩恵にも浴していない。

   *

道徳は常に古着である。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/158_15132.html


夏目漱石はとことん思想を深めて「個人主義」や「自分本位」というところに行き着きましたが、その過程で道徳を批判的に見るようになりました。
「文芸と道徳」と題した講演で次のように語っています。

昔の道徳すなわち忠とか孝とか貞とかいう字を吟味してみると、当時の社会制度にあって絶対の権利を有しておった片方にのみ非常に都合の好いような義務の負担に過ぎないのであります。親の勢が非常に強いとどうしても孝を強いられる。強いられるとは常人として無理をせずに自己本来の情愛だけでは堪えられない過重の分量を要求されるという意味であります。独り孝ばかりではない、忠でも貞でもまた同様の観があります。何しろ人間一生のうちで数えるほどしかない僅少の場合に道義の情火がパッと燃焼した刹那を捉えて、その熱烈純厚の気象を前後に長く引き延ばして、二六時中すべてあのごとくせよと命ずるのは事実上有り得べからざる事を無理に注文するのだから、冷静な科学的観察が進んでその偽りに気がつくと同時に、権威ある道徳律として存在できなくなるのはやむをえない上に、社会組織がだんだん変化して余儀なく個人主義が発展の歩武を進めてくるならばなおさら打撃を蒙るのは明かであります。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/756_14962.html


  

大杉栄は、「法律と道徳」と題した文章で、法律と対比させることで道徳を批判しています。
法律は随分女を侮蔑してもゐるが、それでも兎も角小供扱ひだけはして呉れる。道徳は女を奴隷扱にする。
法律は、少なくとも直接には、女の知識的発達を碍(さまた)げはしない。処が道徳は女を無知でゐるやうに、然らざればそう装うやうに無理強いする。
法律は父なし児を認める。道徳は父なし児を生んだ女を排斥し、罵詈し、讒訴する。
法律は折々圧制をやる。けれども道徳はのべつ幕なしだ。(「大杉栄全集」第二巻)

大正期の知識人がこのように古い道徳を批判しているのに、杉田議員はいまだにその古い道徳にしがみついているわけです。

いや、杉田議員だけではありません。
自民党全体が古い道徳にしがみついている政党です。
道徳の教科化を進めたり、教育勅語の復活を夢見たり、国民に「自助・共助」を説いたりすることだけではありません。
党の体質が古い道徳に冒されているため、若者と女性が活躍できず、老人が支配する党になっています。

私は、この自民党の体質が日本の元気を奪っているのではないかという気がしています。


ところで、杉田議員が「男女平等は反道徳の妄想です」と言ったときに、道徳についての考え違いを指摘する意見は見かけませんでした。
菅首相の「自助・共助・公助」も道徳の問題として批判できるのに、そういう意見も見ません。
現代日本の知識人には、大正期の知識人のように道徳批判ができないのでしょうか。