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いじめ防止のために「あだ名禁止」の学校がふえているそうです。
最初はツイッターで話題になったようですが、「グッとラック!」や「バイキングMORE」などのワイドショーで取り上げられ、賛否両論が巻き起こっています(ヤフーニュースの記事はこちら)。

確かにあだ名はいじめのひとつの手段として使われることがありますが、ひとつの手段を禁止しても大した意味はありません。ほかの手段が使われれば同じことです。

あだ名は親しみの表現としても使われます。
というか、本来はそういうものです。
「子どものころどんなあだ名で呼ばれてた?」と聞かれて、あだ名がなかったという人は、少なくとも人気者ではなかったんだなということになります。
あだ名がいじめと結びつけられるのは、今の学校によほどいじめが蔓延しているということでしょう。


同様にいじめ防止の理由で、一律に「さん付け」の呼び方をさせる学校もふえているということです。
こうなると行き過ぎが明白です。

男の子の場合、クラスの中で親しい友だちは呼び捨てないしあだ名で呼び、距離のある子には「君付け」、女の子には「さん付け」というのが一般的でしょう。
男同士でも、上の学年には「さん付け」になります。
つまり距離感と上下関係で呼び方が変わるわけです。
ですから、「君付け」で呼んでいた子と次第に親しくなると、あるときから呼び捨てやあだ名に変わることになりますが、いつ変えるかの判断がひじょうに微妙です。
しかし、こうした判断をすることが対人能力の向上に役立ちます。
誰に対しても「さん付け」では、距離感も上下関係も関係なくなり、人間関係の複雑さが学べません。

あだ名にしても、こんなあだ名で呼ぶと相手はいやがるという経験をして、相手の気持ちが読めるようになります。

「あだ名禁止」「一律さん付け」という規則は、子どもの対人能力の向上を妨げる愚策です。


今の学校教育は、授業で教えることばかりに価値を置いて、それ以外の価値を無視しているのではないでしょうか。
人間が生きていく上でたいせつなことのひとつに人間関係の能力がありますが、これは授業では学べません。
子ども同士が遊んだり雑談したりする中で身につけることです。


もっとも、昔はそんなことを意識する必要はありませんでした。
子どもは近所の子たちと十分に遊ぶ時間があったからです。
しかし、マイカーの普及で子どもの交通事故がふえ、習いごとや学習塾に行く時間もふえて、子ども同士で遊ぶ時間が少なくなりました。

最近は保育園などで子どもが喧嘩すると止めますが、それも問題です。
喧嘩して、仲直りすることで、人はどんなことでキレるかを知り、仲直りのノウハウも学べます。
SNSやオンラインゲームにはまることにも人づきあいの経験を積む意味があるので、一律に禁止するのは間違いです。


ともかく、最近の若い人は、人づきあいの経験を十分に積めず、そのため概して人づきあいが苦手で、表面的なつきあいしかしない傾向があります。
当然恋人もつくれません。これは少子化のひとつの原因でもあるでしょう。


学校教育では国語・数学・英語を主要三科目といったりしますが、人が生きていく上でそれ以上にたいせつなのが“人間関係科”です。
子どもは休み時間や部活、それに文化祭や修学旅行などの学校行事で“人間関係科”の勉強をします。
学校は子どもの学びを妨げてはなりません。