村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

カテゴリ: コロナ五輪

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東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会公式サイトより


東京パラリンピック大会開会式のテーマが「WE HAVE WINGS(私たちには翼がある)」だと知ったときは、いやな予感しかしませんでした。

翼あるいは空を飛ぶことをテーマにした曲は「翼をください」「この空を飛べたら」「翼の折れたエンジェル」など名曲ぞろいですが、どれも人間が空を飛べない哀しみを歌っています。
ところが、パラは「翼がある」です。大丈夫でしょうか。

パラリンピックの開会式はわりと好評でした。オリンピックの開会式と閉会式があまりにも悪評だったので、その反動もあったでしょう。関係者が「外野からの注文が少なかった」と言っていて、統一感があったこともプラスだったようです。


パラ開会式の中心にひとつの「物語」があります。
スタジアムのフィールドをパラ・エアポートという飛行場に見立て、各国選手団もそこに降り立つという設定です。
パラ・エアポートにはさまざまな飛行機が離着陸していますが、そこに「片翼の小さな飛行機」が登場します。NHKのナレーションによると、「翼がひとつしかありません。いつか空を飛ぶことを夢見ています」ということです。
片翼しかついていない車椅子に乗っているのは、公募で選ばれた13歳の和合由衣さんで、先天性の上肢下肢の機能障害があるということです。

少女の周りにはさまざまな個性ある飛行機が個性ある飛び方をしています。目の見えない飛行機は、テクノロジーと心の目で方向を定めて飛んでいるそうです。
「片翼の小さな飛行機にも飛びたい気持ちはあるものの、なかなか一歩を踏み出すことができません」というナレーションがあります。

少女はパラ・エアポートの外に出ます。そうすると、デコトラがやってきます。
「彼女は悩みを打ち明けます。トラックは悩みを笑い飛ばしました。彼女にぜひ紹介したい仲間がいるみたいですよ」というナレーションで、デコトラの中から布袋寅泰氏の率いるロックバンドが出てきて、演奏を始めます。バンドのメンバーは障害があって、障害があるなりの演奏の仕方をします。
それと同時にやはり障害のあるダンサーが出てきて、踊ります。
この演奏とダンスがたいへんすばらしく、「多様性」をよく表現しています。
感動したという人が多いのもうなずけます。

「物語」になっているのも成功しています。見ている人は結末はどうなるのだろうという興味で引き込まれます。

私もどういう結末かと考えました。
翼が片方しかなくては飛べません。腕のいい職人が“義翼”をつくってくれるのかもしれません。あるいは翼を半分切って、両翼にするという手もありそうです。誰か補助者が翼のない側をささえてくれていっしょに飛ぶのかもしれません。
あるいは、飛ぶことを諦めて、飛べない自分を受け入れるという結末もあるでしょう。

で、物語はどうなったかというと、仲間から勇気をもらった少女はパラ・エアポートに戻ってきて、仲間が照らしてくれる夜の滑走路で、仲間の手拍子に勇気づけられて走り出し、そして空を飛びます。

いったいどういう原理で空を飛んだのかわかりません。
ビデオを見返しましたが、やはりわかりません。
推理小説を読んで、読み終えても犯人がわからないみたいな気分です。

世の人々はあまり気にしていなくて、「勇気をもらって飛んだ」みたいな解釈で納得している人が多くいました。


調べてみると、東京オリパラ組織委の公式サイトの「パラリンピック開会式・閉会式」のページに説明が書いてありました。

パラリンピック開会式のテーマである「WE HAVE WINGS」に込めた思い。 人間は誰もが、自分の「翼」を持っていて、勇気を出してその「翼」を広げることで、思わぬ場所に到達できる。 その「翼」をテーマにした物語が始まります。 主人公は、「片翼の小さな飛行機」。 少女は、空を飛ぶことを夢見ています。ただ、翼が片方しかないということで、 空を飛ぶことをあきらめています。彼女は、自分にも本当は「翼」があることに気づいていません。

少女には最初から「翼」があったのです。
ただ、物理的(フィジカル)な翼ではなく、「心の翼」ということでしょう。
ということは、これは「精神力で身体の障害を克服できる」という精神主義の物語です。

ファンタジーの中だから奇跡が起こってもいいではないかという意見があるかもしれませんが、現実離れしたファンタジーにもメッセージがあって、それがわれわれの心に届いて感動が生まれます。
このファンタジーのメッセージはやはり「勇気で障害は克服できる」というものです。

パラリンピック大会という場で、障害者のミュージシャンやダンサーが多数出てきて、主人公の少女も障害者であるという状況で、「勇気で障害は克服できる」というとんでもないメッセージが発せられたのです。


障害者がみずからの努力で障害を克服してくれれば、周りの人間にとってこれほどありがたいことはないので、こういう物語は歓迎され、「感動ポルノ」と呼ばれます。
感動ポルノとは、「身体障害者が物事に取り組み奮闘する姿が健常者に感動をもたらすコンテンツとして消費されていることを批判的にとらえた言葉」と説明されます。

これは「片翼の小さな飛行機」の物語だけでなく、<東京2020パラリンピック競技大会開会式コンセプト>と題された次の文章にも感じられます。

WE HAVE WINGS

人生は追い風ばかりではありません。

前に進もうと思っても、なかなか進めない。

視界不良で、状況を掴めない。

ついにはその場で立ち止まり、うずくまる。

誰しもが、そんな逆風を何度となく経験します。

しかし、パラリンピックに出場するアスリートたちは知っています。

風がどの方向に吹いていようと、それを人生の力に変えられることを。

勇気を出して「翼」を広げることで、思わぬ場所に到達できるということを。

いよいよパラリンピックが始まります。

アスリートたちのパフォーマンスは、あなたにも「翼」があることを気づかせてくれるでしょう。

パラ・アスリートの活躍を「感動ポルノ」として消費することを宣言したような文章です。
パラリンピック大会運営の中心的な人たちがこうした考えなのでしょう。

障害は精神力では克服できません。
パラリンピック大会が間違ったメッセージを発するのは多くの障害者にとって迷惑です。
「片翼でも空を飛べるんだから、あなたも努力すればできる」と言われかねないからです。

「翼がある」はやはり根本的に間違っています。


ところで、「片翼の小さな飛行機」の物語は、飛べないで悩んでいた少女が、みんなの協力で“義翼”をつけてもらって、空を飛ぶ喜びを味わうという結末でよかったのではないでしょうか。
そのほうが感動的です。

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東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会公式サイトより

東京オリンピックが終わりました。

閉会式は開会式以上にひどいものでした。
開会式にはドローンの編隊飛行とかピクトグラムのパントマイムとか、少しは見どころがありましたが、閉会式にはなにもありません。
光の細かい粒が川のように流れて五輪マークをつくる場面があって、これはいったいどういう仕掛けだろうかと思ったら、ただのCGによる映像で、会場の人にはなにも見えていないのでした。

「ろくな内容がないので音楽の力に頼ろう」という意図からか、音楽が多用されました。
もっとも音楽の間、ダンスやパフォーマンスが繰り広げられるのですが、これが「にぎやかし」としか思えない無意味なものです(「東京の休日の昼下がりの公園」を再現し、東京観光ができなかった海外選手たちに東京体験の場をつくりだそうという意図だったそうです)。

「東京音頭」の盆踊り、アオイヤマダさんの鎮魂のダンス、大竹しのぶさんと子どもたちによる宮沢賢治作詞作曲の「星めぐりの歌」などもあるのですが、全体が無意味で退屈と、酷評の嵐です。


開会式がだめだった理由については、このブログで「東京五輪開会式はなにがだめか」という記事に書きました。
閉会式がだめなのも同じ理由です。安倍晋三前首相や森喜朗前東京五輪組織委会長が「ニッポンすごい」というナショナリズムの枠をはめていたからです。

閉会式でも国旗掲揚と「君が代」がありました。
開会式で国旗掲揚があったので(夜中に国旗掲揚はおかしいと思うのですが)、閉会式ではその国旗を降ろすのかと思ったら、また掲揚です。
大きな日の丸が日本人メダリストなど6人に運ばれて入場し、自衛官にバトンタッチされ、宝塚歌劇団の「君が代」斉唱とともに掲揚されるのですが、この一連の動作に5分間かかっています。
「君が代」斉唱は無意味ではありませんが、日の丸の入場行進は時間のむだで、こんなものを世界の人に見せようとする思想が間違っています。
日本の右翼の自己満足です。

安倍氏や森氏から制作チームに対して「日本の素晴らしさを表現しろ」という指示があったに違いありません。
そのため、各地の民謡の紹介や盆踊りや宮沢賢治の歌が盛り込まれました。
しかし、民謡というのは、日本人にもあまり人気がないからローカルな存在なので、世界の人が素晴らしいと思うわけがありません。
盆踊りは、踊っている人が楽しいので、人に見せるための踊りではありません。
宮沢賢治の詩は素晴らしいといっても日本語です。宮沢賢治の曲だけでは世界の人にはなにも伝わらないでしょう。

なお、宮沢賢治の歌を使ったことについて、開閉会式のエグゼクティブプロデューサーである日置貴之氏は、宮沢賢治が岩手県出身であることから、「東日本大震災からの復興の思いを込めた」と意図を説明しました。
しかし、それは世界の人に理解されませんし、日本人にもまず理解されません。

電通が編成した制作チームは(日置氏は博報堂出身)、日ごろからスポンサーの要望を受け入れることに長けているので、「国旗掲揚をやってくれ」「日本文化を入れてくれ」「復興も入れてくれ」と要望されると、すぐさまそれを実現したのでしょう。
そのため統一性がなく、意味不明になってしまいました。

ちなみに開会式で大工の棟梁のパフォーマンスと木遣り唄があったのは、週刊文春によると、都知事選で火消し団体の支援を受けた小池百合子都知事の強い要望があったからだということですし、聖火ランナーに長嶋茂雄氏と王貞治氏とともに松井秀喜氏が登場したのは、森氏が同郷(石川県)の松井氏を推したからだといわれています。

本来なら政治家など組織のトップは、才能あるクリエーターを選んだら、その人間が自由に仕事ができるようにささえるのが仕事ですが、今の政治家はやたら口を出すようです。
そのためまともなクリエーターは逃げ出して、政治家の口利きを受け入れるクリエーターばかりが残ります。


安倍氏と森氏は、税金を出す立場なのでスポンサーみたいなものです(安倍氏は今も東京五輪組織委の名誉最高顧問ですし、森氏を名誉最高顧問に復帰させる案があるとの報道が先月ありました)。
開閉会式は、基本的に安倍氏と森氏の望んだものになったはずです。
彼らは「大きな日の丸が会場に掲揚されるのを見て感激した」とか「日本文化を世界に発信できて誇らしかった」という反応を期待したのでしょう。
しかし、私はその手の反応をひとつも目にしませんでした。

これは考えてみれば当然のことで、開閉会式は世界の人が見るので、日本人も世界の人の視点で見たからです。
そうすると、国旗掲揚はただの時間のむだと思えますし、宮沢賢治の歌ではなにも伝わらないこともわかります。
安倍氏と森氏らの偏狭なナショナリズムは国際的イベントと相容れません。


多額の税金をつぎ込んだ開閉会式で、日本は世界に恥をさらしました。
そのために日置氏らの制作チームが批判されています。
確かに日置氏らにも責任はありますが、やはりいちばん責めを負うべきは安倍氏と森氏です。

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首相官邸ホームページより

東京五輪が始まってから、ニュース番組のオリンピック関係は「日本人選手がメダルを獲った」というものばかりです。

日本人選手以外のことはほとんど報道されません。
競泳でいくつも世界新記録が出ているので、「世界新記録が出ました」という報道もあっていいはずですが、私の目には止まりませんでした。

種目のことやプレーの内容も、少なくともニュース番組ではほとんど報道されません。
13歳の西谷椛選手がスケートボードで金メダルを獲ったときはかなり騒がれましたが、「スケートボード女子ストリート」という種目の内容がよくわかりませんし、西谷選手のプレーのどこがすごいのかもよくわかりません。ただ「金メダルを獲った」ということだけで騒いでいます。

アーチェリーやフェンシングのようなマイナースポーツは、メダル獲得を機会にスポーツの内容が紹介されてもいいはずですが、そういうこともありません。

こういう報道を見ていると、オリンピックがほかのスポーツ大会とまったく違うことがわかります。
スポーツの内容はどうでもよくて、日本人選手のメダル獲得にだけ関心があるのです。


なぜそうなるかというと、オリンピックは「国別対抗メダル獲得合戦」だからです。
メダル獲得数のいちばん多い国がその大会の優勝国となり、以下、メダル数に応じて各国の順位が決まります。
そのため、各国の国民は自国のメダル獲得を応援して盛り上がるわけです。ここが普通のスポーツ大会と根本的に違うところです。

もっとも、オリンピックは国別対抗メダル獲得合戦であるという規定などありません。
むしろオリンピック憲章には「オリンピック競技大会は、個人種目もしくは団体種目での競技者間の競争であり、国家間の競争ではない」という規定があります。
しかし、開会式では各国選手団は国旗を先頭に入場行進をし、各種目ごとに表彰式があって、そのつど金メダルには国歌演奏、金銀銅メダルには国旗掲揚が行われ、憲章とは逆に国家間の競争をあおる演出になっています(IOCは建前と実態がまったく違います。建前ではあらゆる差別を否定していますが、実態は白人男性至上主義、ヨーロッパ至上主義です)。

東京五輪組織委員会の公式ウェブサイトには「メダル順位」というページがあって、メダル獲得数の順番に国名が並んでいます。
マスコミもメダル獲得数による各国の順位を必ずといっていいほど報道しています。私が確認した範囲だけでも、ヤフー、読売、朝日、毎日のウェブサイトに各国のメダル順位が示されています。

こうしたことで各国国民のナショナリズムや愛国心が刺激され、それによってオリンピックは世界的大イベントになったわけです。


今のところ日本は好調で、メダル順位も中国、アメリカに次いで3位です。
日本のメダルラッシュで、東京五輪開催に否定的だった国民感情が変わり、菅内閣の支持率も上がるという説があります。
もともと「東京五輪を成功させて、それで内閣支持率を上げ、総選挙に勝利する」というのが菅政権の戦略でした。

しかし、日本人選手が好成績なのは、選手ががんばったからで、菅首相ががんばったからではありません。それで支持率が上がるでしょうか。
ただ、菅首相は日本のリーダーなので、日本人選手団とイメージとして結びつきやすいということはあります。
菅首相もそれをねらっているようです。

菅首相は7月25日、日本人選手で金メダル第1号となる柔道男子60キロ級の高藤直寿選手に官邸から電話し、祝福の言葉を述べました。
しかし、これは「人気取りが見え見えだ」とか「祝福の言葉もカンペを読んでいる」などと評判が悪かったので、それからは電話はやめてツイッターに切り替えたようです。

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東スポWebの『田崎史郎氏 菅首相 “五輪偏重SNS” に「スタッフのミス」「総理がやってるわけじゃない」』という記事によると、五輪開幕以降、1日正午までの時点で、菅首相のツイートは「オリンピック関係」が22回、「感染拡大への注意喚起」が3回となっているそうです。
オリンピックの政治利用の意図が見え見えです。


そもそも「東京五輪の成功で内閣支持率アップ」という考えには根本的な間違いがあります。
というのは、菅首相は東京五輪について「私は主催者ではない」とか「開催はIOCに権限がある」と言っていて、菅首相が開催を決断したわけではなく、“時間切れ開催”だったからです。

「東京五輪の成功で内閣支持率アップ」を目指すなら、菅首相は自分の責任で開催を決定するべきでした。
具体的には「五輪開催によって感染が拡大する可能性がないとはいえないが、五輪開催の意義はそれよりも大きい」と主張して、開催に反対する野党と論戦し、国民を説得するのです。
その時点では、菅首相への批判が強まり、支持率は下がったかもしれません。
しかし、五輪を開催して、日本人選手のメダルラッシュになり、感染はそれほど拡大しなければ、国民は「開催してよかった」と思い、支持率は爆上げしたでしょう。

もちろん日本人選手の成績がふるわなくて、感染が拡大するだけなら、開催を決定した菅首相はきびしく批判されます。
そういうリスクを冒してこそ支持率アップという成果も得られるわけです。


菅首相は五輪開催の責任は負わず、それでいて開催がうまくいったときの恩恵は受けようとしたのです。
なんとも虫のいいことを考えたものです。
菅首相だけでなく、政権全体がそれで動いていたのにはあきれます。
「やってる感」を演出することばかり考えていて、誰もが「責任を取る」ということを忘れてしまったのでしょう。

すでに新型コロナの感染者数が急増して、メダルラッシュによるお祭りムードに水を差しています。
これは天罰でもなんでもなくて、菅首相が感染対策をおろそかにしたせいで、自業自得です。

開会式
東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会公式サイトより

7月23日、東京オリンピックの開会式が行われましたが、「意味不明」「史上最低」などさんざんな評判です。

コロナのせいで人が密になる演出はできないという制約はありましたが、だったらその分、ドローンの編隊飛行や花火をもっと派手にすることはできたはずです(しなかったのはやはり“中抜き”のせい?)。

演出の中心人物が何度も変わったために統一感がなくなったということもあるかもしれません。
たとえば「君が代」と国旗掲揚のあとで「イマジン」があるのは、どう考えても矛盾しています(「イマジン」には「想像してごらん、国などないと」という歌詞があります)。

しかし、開会式がだめな根本的な理由は、制作チームの“思想”にあります。
この思想というのは、おそらく「渡辺直美ブタ演出」で辞任した佐々木宏氏、「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」で解任された小林賢太郎氏の思想であり、さらには安倍晋三前首相、森喜朗前組織委会長、菅義偉首相の思想でもあるでしょう。


開会式の最初に、ランニングマシンでトレーニングする女性が出てきます。さらにマシンで自転車こぎをする女性、ボートこぎをする男性が離れた場所に出て、プロジェクションマッピングで季節の変化が表現され、赤いロープを使ったパフォーマンスがあります。
これだけ見ていると、まったく理解できませんが、NHKのナレーションによると、「コロナ禍のアスリートたちの心の内を表現しているといいます。不安やあせり、悲しみ、葛藤、選手たちに襲いかかる、乗り越えるべきハードルを表しています」ということです。
そして、ランニングマシンからおりてしばらく悩んでいた女性が立ち上がり、再び走り出すと、「壁に直面しても何度も立ち上がり、挑み続けるアスリートの姿は人々の心を動かし、結びつけてきました。希望を持って前を向けば、離れていても心はつながることができる。そんなメッセージが込められています」というナレーションがあります。


コロナ禍で世界はたいへんなことになり、東京五輪も1年延期になったのですから、開会式の冒頭でコロナ禍に触れるのは当然のことです。
ところが、「コロナ禍におけるアスリートの苦悩」に焦点を当てたのが間違いです。
苦悩といえば、たとえば「飲食店店主の苦悩」が深刻です。もちろん肉親をコロナで亡くした人もたくさんいます。それらに比べたら「アスリートの苦悩」は小さなものです。そのため誰にも共感されず、「意味不明」になってしまったのです。

パンデミックによる世界の感染者数は約1億9000万人、死亡者数は約400万人です。開会式で表現するべきは、この悲惨な状況と、医療従事者の苦悩です。
400万人の死者をどう表現すればいいかというと、小林賢太郎氏は「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」のために紙を切り抜いた人形を大量につくったそうですが、皮肉なことにその手法が役に立つかもしれません。
肉親を亡くした人々の悲しみ、コロナと戦う医療従事者の苦悩を、ダンスやパフォーマンスやプロジェクションマッピングで表現することは、クリエーターとして大いにやりがいのある仕事です。
その表現がうまくできれば、世界の人々は開会式に引きつけられたでしょう。

アスリートの立場はどうなるのかというと、パンデミックの中でアスリートの出番はありません。医療従事者やワクチン開発者や、ロックダウンや自粛生活に協力する人たちのがんばりで、コロナに打ち勝つ希望の光が見えたときが、アスリートの出番です。
そうすると、開会式のどこかでアスリート代表が世界の人に向かって、オリンピックを開催できることへの感謝を述べることがあってもいいはずです(本来はバッハ会長が言うべきですが、言いそうもないので)。

スポーツは人々に夢や希望を与えるということがよく言われますが、よく考えると、夢や希望がある世の中でスポーツが楽しまれるので、スポーツに世の中を変える力を期待するのは違うのではないでしょうか。


ともかく、冒頭の部分は15分ほどですが、ここで失敗して、見ている人は誰もがうんざりしました。
差別的ブタ演出の佐々木宏氏やホロコーストギャグの小林賢太郎氏には、パンデミックに苦しむ世界の人たちへの思いがなかったのでしょうか。
あるいは、「人類がコロナに打ち勝った証」などと言う安倍前首相や菅首相に影響されすぎたのでしょうか。


冒頭の部分が失敗したので、全体が意味不明と評されていますが、よく見ると、制作チームがなにを目指したかはわかります。
それは「ニッポンすごい」です。

冒頭の15分が終わると、天皇陛下とバッハ会長の入場があり、国旗の入場、MISIAさんによる「君が代」独唱があります。これなどいかにも安倍前首相好みの展開です。

森山未來さんのパフォーマンスとか劇団ひとりさんのコメディとか、意味不明のものが多いのですが、意味のわかるものもあります。それは「ニッポンすごい」を表現しようとしたものです。
日本は“木の文化”だということからか大工の棟梁のパフォーマンスと木遣り唄があります。
50のピクトグラムを表現するパントマイムもあって、これは好評でしたが、ピクトグラムは日本発祥のものです。
歌舞伎の市川海老蔵さんも登場します。
各国選手の入場行進は、ドラクエなどの日本のゲーム音楽をバックにしています。

デヴィ夫人はこうしたことから、開会式を「日本文化の押し売り」と評しました。
制作チームは「ニッポンすごい」を表現しようとしたのですが、日本文化はたいしてすごくないので、「押し売り」と思われてしまったのです。

「ニッポンすごい」が通用するのは日本国内だけです。
それを世界に発信しようとした制作チームが間違っています。
また、それを発信することに注力したために、「復興」の要素が消えてしまいました。


1998年の長野冬季オリンピックの開会式も、「ニッポンすごい」を表現しようとして大失敗しました。
総合演出の浅利慶太氏は大相撲の土俵入りと長野県諏訪地方の祭りである御柱祭をスタジアムで実演させたのですが、ビジュアルだけではなにも伝わらず、ただ退屈なだけのものになりました。

もっとも、北京五輪は「中国すごい」を表現し、ロンドン五輪は「イギリスすごい」を表現して、大成功しました。
これは実際に中国やイギリスが世界史の中ですごかったからです。

ブラジルは中国やイギリスの真似をしてもだめだと理解して、リオ五輪はブラジルの歴史を紹介する一方で、アマゾンの熱帯雨林が地球環境にいかに貢献しているかというグローバルな視点を入れて、それなりに成功しました。


そこで今回の東京五輪ですが、長野冬季五輪からも学ばず、北京、ロンドン、リオという流れからも学ばず、グローバルな視点がないまま「ニッポンすごい」を目指して、失敗したわけです。
これは安倍前首相らの右翼思想の敗北でもあります。



ところで、今回は「君が代」独唱とともに国旗掲揚が行われましたが、夜中に国旗掲揚をするというのは世界の常識にありません。
日本の伝統的右翼はともかく、最近の右翼は国旗についての常識もないようで、幸い今のところはっきりとは指摘されていませんが、ひそかに世界からバカにされているのではないでしょうか。


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IOC公式サイトより

IOCのトーマス・バッハ会長は7月13日、橋本聖子東京五輪組織委会長を表敬訪問した際、あいさつの中で、「ジャパニーズ・ピープル」と言うべきところを「チャイニーズ・ピープル」と言い間違えました。
すぐさま言い直したものの、バッハ会長の中では日本人と中国人の区別などどうでもいいことのようです。

バッハ会長はまた、14日に菅義偉首相と面会した際、「新型コロナウイルスの感染状況が改善すれば、有観客も検討してほしい」と要請していたということです。
菅首相が無観客と決めた直後に「有観客も検討してほしい」と申し入れるとは、菅首相に対する侮辱です(それにしても、菅首相は「私は主催者ではない」と言っていたのに、無観客の決定はバッハ会長に諮らずに決めたわけで、だったら五輪中止の決定も独断でできたはずです)。

私はバッハ会長の言葉のはしばしに日本人に対する差別を感じてしまいます。
たとえばバッハ会長は13日の共同通信のインタビューにおいて、新型コロナウイルス感染拡大の懸念が強いことについて、「日本国民が恐れる必要はない。五輪関係者と日本人を明確に隔離する措置を講じており、大会の安全性に全幅の信頼を寄せていい」と述べたということですが、「日本国民が恐れる必要はない」とか「全幅の信頼を寄せていい」という言い方は、日本人の判断力を幼児並みと見なしているかのようです。
こういう感覚でかつての白人は植民地経営をしていたのかと思います。

バッハ会長の発言をさかのぼると、4月21日の記者会見で、東京都に緊急事態宣言が発令される見通しとなったことについて「東京五輪とは関係がない」と言って、日本人の神経を逆なでしました。
また、4月28日の五者協議の冒頭あいさつでは「粘り強さ、逆境にあってへこたれない精神を日本国民は示しています。逆境を乗り越えてきたことは歴史を通して証明されている。五輪も厳しい状況でも乗り越えることが可能になってくる」と語り、「日本人に苦難を押しつけるのか」と反発を買いました。


ただ、このような発言を批判するメディアもあれば批判しないメディアもあって、その色分けがはっきりしています。
たとえばバッハ会長が「ジャパニーズ・ピープル」と言うところを「チャイニーズ・ピープル」と言い間違えたというニュースを報じているのは、ほとんどがスポーツ新聞とテレビ局とネットのニュースサイトです。
いわゆる全国紙でこのニュースを報じたのは、私の見た範囲では東京新聞だけです。

また、バッハ会長が宿泊するのはホテル「オークラ東京」の1泊300万円のスイートルームだと言われますが、こういうことを書くのは週刊誌ばかりです。
もっとも、よく読むと、オークラ東京でいちばん高い部屋は300万円なので、バッハ会長はそこに泊まっているに違いないという推測の記事です。さすがに全国紙は書けないでしょう。

とはいえ、“ぼったくり男爵”に対する国民の反発は強いので、週刊誌、スポーツ新聞、ニュースサイトなどは、バッハ会長の言葉尻をとらえては批判的な記事を書いています。
ですから、完全にメディアが二分されている格好です。

どうして二分されているかというと、読売、朝日、毎日、日経、産経、北海道新聞が東京五輪のスポンサーになっていて、テレビ局はどこも五輪中継をするからです。
バッハ会長を批判するのは、そうしたメジャーなメディア以外のところばかりです。


しかし、日本のメディアが二分されているのは、そういう表面的な利権の問題だけではなく、もっと深い、日本の構造的な問題もあります。

明治維新以来、日本は欧米を真似て国づくりをしてきたので、明治政府の中枢にいたのはほとんどが洋行帰りです。
福沢諭吉、渋沢栄一、森鴎外、夏目漱石なども洋行帰りです。
その後、西洋の学問を学んだ帝国大学出身者が国の中枢を占めました。
つまり日本の支配層は、西洋の学問や価値観を学んだ者ばかりです。
日本は植民地にはなりませんでしたが、支配層が宗主国になり、庶民を植民地支配したようなものです。
武力によらない、文化による植民地化です。

フランスによって植民地化されたベトナムにおいては、一部のベトナム人は仏教からキリスト教に改宗し、フランスに留学するなどして、フランスの手先になって植民地支配に貢献しました。
フランスがベトナムから手を引くと、こうしたベトナム人が南ベトナムを建国しましたが、これは植民地支配の継続のようなものです。南ベトナムにおいては、支配層がキリスト教徒、被支配層が仏教徒というわかりやすい構図があり、独裁政権に対して仏教の僧侶が焼身自殺をするなどの抵抗運動をしました。

日本では、宗教による色分けはありませんが、支配層と被支配層の関係は南ベトナムのようなものです。
支配層の知識人は、「欧米人は自立しているが、日本人は自立していない」とか「日本人は集団主義で無責任だ」などと言って、欧米の価値観を後ろ盾に日本人の上に君臨してきました。
いわば日本人が日本人を差別してきたのです。
こういう知識人は、バッハ会長が日本人を見下したような発言をしても、まったく気にならないでしょう。
新聞社の論説委員などはほとんどそういう人ではないかと思われます。


欧米人と同じ立場から日本人差別をする日本人はよく見かけます。
たとえば、サッカーのフランス代表、ウスマン・デンベレ選手とアントワーヌ・グリーズマン選手が来日した際、ホテルの日本人スタッフを嘲笑する動画をアップし、日本人差別だと問題になったとき、2ちゃんねる創始者の「ひろゆき」こと西村博之氏が「悪口ではあるが差別の意図はない」と二選手を擁護して批判されました。
ひろゆき氏はフランス在住です。ツイッターで「フランス在住外国人のおいらは来週からファイザーかモデルナのワクチンが打てるようになります」と述べた上で、「希望者が全員ワクチンを打って、経済再開する欧米」「ワクチンが無いので、緊急事態宣言を続ける日本」「どちらの政府が良くやってますか?」と述べたこともあります。
日本人に対して上から目線です。

デヴィ夫人も「IOCバッハ会長に失礼な事をするのは日本人の恥」とツイートしています。

爆笑問題の太田光氏は、バッハ会長を擁護したあと、スポニチの記事によると、複雑な心境を述べています。
 「日本は植民地じゃねえぞって言うけど、それこそ植民地根性と言うか、被害者根性。我々は欧米人には敵わないんじゃないかってそういう意識があったけど、そういうことをやってると、若い子たちもそういうことを言い出しちゃうのは受け継ぎたくないなと言う気が凄くするんだけど」と力説。「何で菅さんは黙っているんだよ。あれは『だんまり男爵』だよ」と憤った。
https://news.yahoo.co.jp/articles/501c107a9ffd771935bb427fab6d6cd124d9269e


18日夜には赤坂の迎賓館でバッハ会長の歓迎バーティが行われ、菅義偉首相、小池百合子都知事、橋本聖子組織委会長、森喜朗組織委前会長など40人ほどが参加したということです。飲食を伴わない形式だそうですが、国民は自粛生活をしているのにけしからんという声が上がっています。

このパーティがホテルの宴会場でなく赤坂の迎賓館で行われたというのが象徴的です。鹿鳴館時代みたいです。

バッハ会長は“ぼったくり男爵”と言われますが、バッハ会長を巡る議論の中で、日本人の中にもいっしょになってぼったくる人の存在があぶり出されました。
さらに、利権とは関係なく、「日本人を差別する日本人」の存在もあぶり出されたのではないでしょうか。

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安倍晋三インスタグラムより

安倍晋三前首相は発売中の月刊誌「Hanada」で、東京五輪について「反日的な人たちが今回の開催に強く反対している」と述べて、物議をかもしています。

安倍前首相は、なんでも物事を反対に言う天才です。
IOCの会長や委員たちは「大会が可能になるのは日本人のユニークな粘り強さという精神、逆境に耐え抜く能力をもっているからだ」とか「かりに菅首相が大会中止を求めたとしても、それはあくまで個人的な意見にすぎない」とか「アルマゲドンにでも見舞われない限り、東京五輪は計画通りに開催される」のように、日本人を見下した暴言を吐き続けてきました。
それに反論ひとつせず、従い続けてきた開催賛成派こそ反日的です。


振り返ってみれば、五輪誘致活動のときに「復興五輪」と言ったのも安倍前首相です。

「復興五輪」とはなにかというと、復興庁のサイトを見ると、
「復興しつつある被災地の姿を世界に伝える」
「被災地の魅力を国内外の方々に知っていただく」
「競技開催や聖火リレーなどを身近に感じていただいて被災地の方々を勇気づける」
と書かれていますが、どれも精神論レベルで、具体的に被災地のためになることはありません。
被災地のためを考えるなら、たとえば「五輪の入場料収入の半分を復興費用に回します」などと宣言すればいいのです。そうすれば、被災地のためにも五輪を盛り上げようという機運が高まったでしょう。

「復興五輪」の理念のために、選手村では福島県産食材が提供されることになっていますが、これを韓国や中国のメディアが批判しています。
韓国や中国の批判はともかくとして、福島県産食材を使うことが各国選手団に歓迎されるかというと、そんなことはなく、中には不快に思う人もいるはずです。
これは「おもてなし」の精神にも反します。日本人の自己満足としか思われないでしょう。
安倍前首相は五輪誘致のために被災地を利用しただけです。


安倍前首相は昨年3月、IOCのバッハ会長と電話会談して五輪の1年延期を決めたとき、「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証として完全な形で東京大会を開催したい」と語りました。
感染症に打ち勝った証を東京五輪に求めるのは根本的な間違いです。証を求めたいなら、PCR検査などに頼るしかありません。広範囲にPCR検査をしてほとんど陰性であれば証となります。

安倍前首相の発想は、「病気が全快した証があれば試合に出場する」というのではなく、「試合に出場すれば病気が全快した証になる」というもので、論理が逆です。
この論理では病気の悪化を招きかねません。

安倍首相の論理は、精神を肉体の上に置く精神主義です。
精神主義でコロナと戦おうというのは間違っていて、実際、安倍前首相はコロナとの戦いに敗れて退陣しました。

安倍前首相は退陣しましたが、その論理は今も菅首相に受け継がれています。
麻生財務相は東京五輪を「呪われたオリンピック」と言いましたが、東京五輪を呪ったのは安倍前首相の精神主義で、その呪いは今も続いています。


菅首相は7月4日にラジオ番組に出演して、「世界全体がコロナ禍という困難に直面しているからこそ、人類の努力や英知を結集して乗り越えられるということを世界に発信したい」と述べました。
安倍前首相の論理と同じです。
五輪を開催して、そのために感染が大きく拡大すれば、日本人の愚かさを世界に発信することになってしまいます。

菅首相は安倍前首相の論理を乗り越えて、合理的に考えないといけません。
本来なら東京五輪を再延期して、「人類がコロナ禍を乗り越えた暁に東京五輪を開催して、人類みんなでスポーツの祭典を楽しみたい」と言いたいところです。
それができないなら、中止にするか、コロナ禍でもむりをして開催するかということになります。菅首相の考えは後者でしょう。

だったら菅首相は「日本は世界に対して五輪開催の責務を果たさなければならない。そのため感染が拡大するかもしれないが、国民には我慢をお願いしたい」と言うべきです。
そうすれば、賛同する国民もいるでしょう。
少なくとも非論理的な不快感がなくなって、すっきりするのは間違いありません。

もっとも、日本の政治はそういう論理的な世界から、はるか遠いところにきてしまったようです。

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菅義偉首相は6月10日、イギリスで開かれるG7サミットに向けて出発するに際して、「東京大会については感染対策を徹底し、安全安心の大会を実現する。こうしたことを説明をして理解を得たい」と語りました。
G7の首脳宣言に「開催への支持」を盛り込むべく調整が進められているそうです。

よく「スポーツに政治を持ち込むな」と言いますが、菅首相がやろうとしているのは「政治にスポーツを持ち込む」ことです。
東京大会が開催されるか否かは国際政治にとってどうでもいいことです。外国の支持を得て国内政治を有利にしようという菅首相のやり方は、各国にとって迷惑です(それに、菅首相は「東京五輪の開催はIOCに権限がある」「私は主催者ではない」と言いながら支持を求めるのは筋が通りません)。

菅首相がどうしても東京五輪を開催するつもりなら、G7で「日本は、コロナ禍で苦しむ世界の人々にオリンピックを楽しんでもらうために、感染拡大も覚悟の上で東京五輪を開催する」と表明するべきです。
そうすれば、その犠牲的精神が世界から称えられるでしょう。
あるいは、「クレージー」とか「カミカゼ・オリンピック」などと言われて、あきれられるかもしれませんが。


菅首相は9日の党首討論で、東洋の魔女、柔道のアントン・ヘーシンク選手、マラソンのアベベ選手などを挙げて、1964年の東京五輪の思い出を長々と語り、あきれられました。
菅首相としてはスポーツの素晴らしさを訴えたかったのでしょうが、菅首相は「運営」の立場なのですから、「スポーツ」について語っても無意味です。

東京五輪の運営は、最初は「コンパクト五輪」をうたっていたのに予算が膨張したこと、電通やパソナなどが巨額の中抜きをしているらしいこと、国立競技場建設を巡るトラブル、森喜朗前組織委会長の女性差別発言、開閉会式の演出を巡るトラブルなど、最低としか言いようがない事態が連続しています。


そして6月7日、JOCの経理部長である50代男性が東京都品川区の都営浅草線中延駅で電車に飛び込み、死亡しました。警視庁は自殺と見ています。

経理部長の自殺というと、いろいろなことを想像してしまいます。
JOCの竹田恒和前会長は、東京五輪招致を巡る贈賄容疑でフランス当局から捜査されたことで会長を辞任しました。経理部長はこの贈賄事件に関わっていたのでしょうか。あるいはほかに会計の不正があるのでしょうか。

一般のマスコミはこの自殺を小さく扱っただけですが、週刊文春は「JOC経理部長自殺“五輪裏金”と補助金不正」という2ページの記事で報じました。

JOCはこうした報道に神経をとがらせているようで、山下泰裕会長は週刊文春に抗議文を出すことを示唆しました。

実際、メディアに圧力を加えているのかもしれません。
次のような報道もありました。

「JOC幹部自殺のニュース差し替え」にネットで批判の声
6月7日午前9時20分ごろ、JOC(日本オリンピック委員会)の経理部長が東京都品川区の都営浅草線中延駅で電車にはねられた。男性がホームから1人で線路に飛び込む姿を駅員が目撃したという。男性は病院に搬送されたが、約2時間後に死亡が確認された。警視庁は飛び込み自殺と見て調べを進めている。

この件についてネット上など話題になったのが、KBC九州朝日放送「アサデス」の“ニュース差し替え報道”だ。

7日朝の同番組放送時、「東京オリンピック直前一体何があったのでしょうか。JOCの幹部が…」とアナウンサーがコメント中、なんと急遽ニュースが差し替えに。

「失礼しました。続いてのニュース、改めましてお伝えします…」と外国でゾウが車に突進するニュースに変更されたのだ。その後も、JOC経理部長自殺に関するニュースが報道されることはなかったという。

この差し替え報道に対して、「2ちゃんねる」の創設者であるひろゆき氏(44)は自身のTwitterで《JOC経理部長の自殺より、外国のゾウの衝突を優先するニュース番組。すごいね。漫画みたい。》と疑問を投げかけた。

さらにネット上では、《社会の闇をみた》《もはやコレが逆説的に『JOC幹部の自殺がヤバいこと』を証明したようなものだと思います》《公文書改竄を思い出す》《誰に忖度しているのか》……といった批判の声が相次いだ。
(後略)
https://news.yahoo.co.jp/articles/d270e279ed59d80e8736574702bca3a6213af800

JOCの圧力があったのではないかと、誰もが疑う状況です。

そして、山下会長が妙なことを言いました。

山下泰裕会長を直撃! 死去したJOC経理部長の“裏金”関与を完全否定「全くないです」
 謎は深まるばかりだ。日本オリンピック委員会(JOC)の経理部長男性(52)が電車にはねられて死亡した件で、遺族と面会した山下泰裕会長(64)は自殺ではなく事故死だったことを主張。警察の捜査に不信感を募らせるとともに、男性の死を五輪招致の“裏金”と結び付けた一部報道にも憤慨した。山下会長に真意を直撃した――。

 JOCを揺るがすショッキングな出来事から3日が経過しても、混乱は収まる気配がない。男性は7日午前9時20分ごろ、東京・品川区の都営浅草線中延駅で普通電車にはねられ、搬送先の病院で死亡。当初、男性がホームから線路に飛び込む姿の目撃証言もあり、警察は自殺とみて調べていた。

 しかし、遺族から詳しい話を聞いた山下会長は「ご遺族は警察が自殺と認定していることに納得していない。事故死ではないかと思われている」とした上で「(報道で)飛び込んだって書いていますけど、ちゃんと警察に確認してほしい。頭の側面にしか(車両が)当たっていない。飛び込んだっていうのと全然違う」と疑問を呈した。

 ホームに飛び込んだと証言した目撃者は先頭車両付近にいた駅員だったといい、山下会長は「(男性は)いつも後ろから2両目に乗っていた。一番前とはすごい距離がある。例えば(携帯)電話をしてフラッとして当たったことだってあり得る」と“自殺説”を完全否定した。

 警視庁は「電車事故があったことは事実。普通電車に轢過(れきか)され、原因については捜査中。ここから先の個別の対応はしていない」としているが、山下会長は「奥様も娘さん2人も自殺だと思っていない。ホームまで全部見られて、こういった理由で事故死だと思っている、と。どうしてそう(事故死と)思われているかも我々は聞いています」と話した。
(後略)
https://www.tokyo-sports.co.jp/sports/3284148/

山下会長のような社会的地位のある人が警察の見解を否定するというのは、私は初めて見ました。
しかも、山下会長の言い分はへんです。

事故は朝の9時20分ごろなので、酔っぱらってホームから転落したとは考えられません(「都営浅草線中延駅」で画像検索すると、中延駅にホームドアはありません)。
「頭の側面にしか当たっていない」と山下会長は言いますが、自殺する気なら、レールの上でひかれるのを別にすれば、頭から当たりにいくのは当然です。
飛び込む姿の目撃証言もあり、駅の防犯カメラの映像も警察は調べているはずです。
警察が自殺と判断したのなら、そうなのでしょう。疑う理由はありません。

山下会長ほどの立場の人が遺族の情にほだされてはいけません。
それとも、山下会長にはどうしても自殺説を否定したい事情があるのでしょうか。


会計の不正というと、1998年の冬季長野五輪大会で招致委員会の会計帳簿が焼却されたことが思い出されます。
帳簿焼却という露骨な証拠隠滅によって招致活動の不正が隠蔽されてしまいました。

このとき不正隠蔽が成功したために、東京五輪でも同様の不正な招致活動が行われたのではないでしょうか。


ともかく、この時期にJOCの経理部長が自殺し、山下会長が妙な理屈で自殺説を否定すると、裏になにか不正があるのではないかと疑われます。
しかし、警察や検察は五輪のような大きな問題にはどうも無力であるようです(長野県では2000年に田中康夫氏が知事に当選し、調査委員会をつくるなどして不正を追及しました)。
となると、マスコミの出番ですが、今のところ経理部長の自殺の背後を探るような報道をしたのは週刊文春くらいです。
一般のマスコミはJOCの圧力に屈しているのでしょうか。

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新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身茂会長は2日の衆院厚生労働委員会で、東京五輪について「今のパンデミックの状況でやるのは普通はないが、やるということなら、開催規模をできるだけ小さくし、管理体制をできるだけ強化するのが主催する人の義務だ」と述べました。

ずいぶん踏み込んだ発言かと思いましたが、これは開催を前提とした発言ですから、政府に反旗をひるがえしたものではありません。
開催のせいで感染が拡大したときに責任逃れをする布石でしょう。

しかし、そのあとに「こういう状況の中でいったい何のためにやるのか目的が明らかになっていない」「なぜやるのかが明確になって初めて市民はそれならこの特別な状況を乗り越えよう、協力しようという気になる。国がはっきりとしたビジョンと理由を述べることが重要だ」と言ったのはなかなかの正論でした。

五輪開催は感染リスクを高めるのですから、それなりの理由や意義が示されなければいけません。
しかし、今のところ「感動」や「希望」や「夢」や「絆」といった空虚な言葉ばかりです。
IOCのバッハ会長までが「五輪の夢を実現するために誰もがいくらかの犠牲を払わないといけない」と「夢」という言葉を口にしました。

菅義偉首相は2日夜、尾身会長の発言を受けて、五輪開催の意義について、「まさに平和の祭典。一流のアスリートが東京に集まり、スポーツの力で世界に発信していく」と語りました。
橋本聖子五輪組織委会長は3日、「コロナによって分断された世界で人々の繋がりや絆の再生に貢献し、再び世界を1つにすることが今の社会に必要な五輪・パラリンピックの価値であると確信しています」と語りました。
丸川珠代五輪担当相は4日、「我々はスポーツの持つ力を信じて今までやってきた」と語りました。
やはり空虚な言葉です。

つまり五輪開催の意義を誰も語れないのです。


本来、五輪開催国にはそれなりのメリットがあります。
オリンピックは「国別対抗メダル獲得合戦」という形態をとっているのが奏功して、どの国もナショナリズムが高揚するため、世界最大のお祭りとなっています。
お祭りは見ているより参加するほうが断然楽しいものですが、外国で開催されていると、現地に行ける人はごく少数で、ほとんどの人はテレビ観戦になります。
しかし、自国で開催されると、多くの人が生で観戦できますし、海外の選手や観光客と触れ合ったり、ボランティアで参加したりして、お祭りに参加する喜びを味わえます。
そのため、日本でも自国開催がけっこう支持されて、ボランティアにも多くの人が集まりました(莫大な開催費用に見合うかは疑問ですが)。

しかし、感染対策で無観客になれば、海外の選手との触れ合いもありませんし、騒いで盛り上がることもできません。テレビ観戦するだけになってしまえば、日本で開催している意味がありません。
つまり自国開催のメリットがほとんどなくなって、感染拡大のデメリットだけがあるというのが今の状況です。

このデメリットを上回るような意義が示されていないと尾身会長は言ったわけです。


しかし、「意義」はともかく「メリット」ならあります。
開催されると膨大な放映権料が入ってきて、これはメリットです。
さらに損害賠償請求などを回避できるというメリットもあります。
メリット、デメリットを天秤にかけて、開催という判断になることは十分にありえます。

ただ、放映権料が高いから、つまりカネのために開催するとは誰も言えません。露骨に利己的なのは誰もが嫌うからです。
ましてやこの場合、命とも関わってきます。
そのため誰もが空虚な言葉しか言えなくなっているのかもしれません。


しかし、ちゃんと考えれば、「意義」はあります。
莫大な放映権料が発生するということは、世界の多くの人々がオリンピックのテレビ観戦を楽しんでいるということです。
ですから、東京五輪を開催することは、世界の人々にオリンピック観戦の楽しみを提供することになります。
とくに現在は、コロナ禍でステイホームしている人が多いので、オリンピック観戦への期待はより大きいはずです。
「コロナ禍で苦しんでいる世界の人々にオリンピック観戦の喜びを届ける」というのは立派な意義です。

日本は感染拡大というデメリットを負うが、世界にはオリンピック観戦というメリットを与える――これは利他行動というものです。
人間には生まれながらに利他心が備わっているので、こうした利他行動をすることは喜びにもなります。
人に親切にするといい気持ちになるのと同じです。

利他行動がなぜ喜びになるかというと、「損して得取れ」という言葉があるように、利他行動はいずれ自分の利益になって返ってくることが多いからです(これを互恵的利他行動といい、ゲーム理論で説明されます)。

開催国が五輪を開催するのは当たり前のことで、義務でもあります。日本はたまたまコロナ禍と重なって貧乏くじとなりました。
感染拡大を恐れて開催をやめる選択肢もありますが、多少の感染拡大は受け入れて世界の人々のために開催するという選択肢もあります。
前者を選択しても、世界は許してくれるでしょうが、後者を選択すれば、世界は歓迎し、感謝してくれるでしょう。

もっとも、日本が世界から感謝されるには、日本が主体的に選択した場合に限ります。
現状では、日本はIOCに従うだけの存在に見えますから、開催しても、同情されることはあっても感謝されることはありません。

安倍前首相が「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証」と言ったのが間違いの始まりで、その後も菅首相らが空虚な言葉を並べ立てているうちに、日本は世界から感謝されるチャンスを逃してしまいました。


「コロナ禍で苦しんでいる世界の人々にオリンピック観戦の喜びを届ける」というのは立派な開催意義です。
政治家や五輪関係者が誰もこのように語らないのは不思議です。
彼らの心は利己心ばかりで、利他心がなくなっているのでしょうか。

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首相官邸ホームページより

東京五輪大会は、開催か中止かを決定する最終局面に入ってきました。
そのためささいな言葉が大きな波紋を呼びます。
高橋洋一内閣官房参与はツイッターで「さざ波」「屁みたいな」と発言したために辞任しました。
高橋氏は五輪開催に反対の声が強いことに危機感を持って、つい強い言葉を使ってしまったのでしょう。

高橋氏の言葉や去就はどうでもいいことですが、IOCのバッハ会長となるとそうはいきません。
バッハ会長は5月22日、「五輪の夢を実現するために誰もがいくらかの犠牲を払わないといけない」と発言し、「なぜ日本人が犠牲を払わないといけないのか」という強い反発を招きました。

「犠牲」発言も問題ですが、私は「五輪の夢」という言葉が引っ掛かりました。IOCの会長ともなれば、五輪の意義を大いに語るのかと思ったら、「五輪の夢」という意味不明の言葉だけです。これで日本国民を納得させるのはむりでしょう。

それよりももっと問題だと思うのは、バッハ会長の4月28日の発言です。
「歴史を通して、日本国民は不屈の精神を示してきました。逆境を乗り越えてきた能力が日本国民にあるからこそ、この難しい状況での五輪は可能になります」
https://www.huffingtonpost.jp/entry/ioc-bach_jp_608b8217e4b0c15313f23aec

この発言は日本人をリスペクトしているようですが、日本人に対して、日本人であることを理由に不利益を押しつけようとしているので、人種・民族差別です。
日本人をリスペクトしているのは、不利益を押しつけるための理由づけです。
菅首相がなにかのことに関して「アメリカ人は陽気で前向きだから、このきびしい状況も乗り越えることができるだろう」と言ったとしたら、アメリカ人を蔑視していると反発を買うでしょう。それと同じです。

ちなみに森喜朗氏が女性蔑視発言で組織委会長を辞任したとき、二階俊博自民党幹事長は「我々は男女平等で、ずっと子どもの頃から一貫して教育を受けてきた。女性だから、男性だからってありません。女性を心から尊敬をしております」と語りました。
女性にもいろいろな人がいて、尊敬できる人ばかりではありません。「女性を心から尊敬をしております」というのは、女性を十把ひとからげにしているので、女性差別です。


そして、IOCの最古参のディック・パウンド委員(79歳)は、週刊文春のインタビューに対して次のように語りました。
――日本の世論調査では今夏の開催に8割が否定的だ。

「昨年3月、延期は一度と日本が述べたのだから、延期の選択肢はテーブル上に存在しない。日本国民の多くが開催に否定的な意見であるのは、残念なこと。ゲームを開催しても追加のリスクはないという科学的な証拠があるのに、なぜ彼らはそれを無視して、科学的なことはどうでもいいと言うのか。『嫌だ』と言っているだけではないのか。開催したらきっと成功を喜ぶことだろう」
   ※   ※   ※
――日本の首相が中止を決めた場合はどうするか。 

「私が知っている限りでは、日本政府は非常に協力的だ。五輪の開催は、日本の当局、日本の公衆衛生当局、そしてオリンピック・ムーブメント(IOCなどの活動)が共有している決定だ。仮に菅首相が『中止』を求めたとしても、それはあくまで個人的な意見に過ぎない。大会は開催される」
https://news.yahoo.co.jp/articles/b6da971d6c93f9884a70bcef4929d1fe06955b34?page=2

このパウンド委員は英紙イブニング・スタンダードに対して、「(東京五輪は)予見できないアルマゲドンでもない限り実施できる」とも語っています。

また、ジョン・コーツ副会長は5月22日、「緊急事態宣言下であってもなくても開催できる」と発言し、緊急事態宣言下で自粛生活をしている日本人の神経を逆なでしました。

これら
IOC側の意見を聞いていると、日本人を見下して、日本人の意志を完全に無視していることがわかります。
菅首相の意志までも無視しています。これは国家主権の無視としか思えません。
国民から反発の声が上がったのは当然です。

ところが、政府関係者や組織委などから反発の声はほとんど上がりません。どうやら日本は
IOCに完全に牛耳られているようです。

菅首相は三度目の緊急事態宣言を発出するに当たっての4月23日の記者会見で「東京五輪の開催はIOCが権限を持っています」「IOCは開催することを決定しています」と語りました。
5月10日の参院予算委員会で蓮舫議員から「主催国の内閣総理大臣が延期や中止をいえる権限はないのか」と聞かれると、菅首相は「選手や大会関係者の感染対策をしっかり講じた上で、安心して参加できるようにするとともに、国民の命と健康を守っていくのが政府の基本的な考え方だ」と何度も繰り返しました。

首相に権限がないはずがありません。その気になれば、感染対策やテロ対策を理由に入国制限をするなどの方法で簡単に五輪開催をつぶすことができます。
いや、そんなことをしなくても、菅首相が公然と五輪中止を
IOCに要求すれば、IOCが開催を強行できるはずがありません。

日本はアメリカの属国だとよく言われますが、“I
OCの属国でもあったようです。
そのことは次の記事からもよくわかります。

東京五輪 大会関係者大幅削減も“五輪貴族”3000人は削れず「必要不可欠な人材」
 東京五輪・パラリンピック組織委員会は26日、都内で理事会を開催し、残り2カ月を切った大会開幕に向けて、準備状況などを報告した。

 延期前の18万人から7・8万人まで大幅に削減した来日大会関係者についての内訳を公表。ゲストやスタッフ、国際連盟や放送関係者、プレスの削減には成功したものの、オリンピックファミリー3000人、各国オリンピック委員会(NOC)1万4800人、パラリンピックファミリー2000人、各国パラリンピック委員会(NPC)5900人の人数は延期前の数字が維持されていた。

 “五輪貴族”とも呼ばれるIOC委員らの数が減らせなかったことについて、武藤事務総長は「もともとこれらの人達は大会運営のために必要不可欠な人材であることがほとんど。現時点では代えることができない」と、説明した。
https://news.livedoor.com/article/detail/20261353/

さらに週刊文春は、バッハ会長は天皇に会わせろと要求していたという記事を書いています。

「天皇に会わせろ」バッハよ、何様だ IOC委員は小誌に「菅が中止を求めても開催する」【全文公開】

これに対してIOCはGHQかという声が上がっています。
ということは、バッハ会長はマッカーサーです。

アメリカの属国であるのは、安全保障のためという理由づけができなくもありませんが、“IOCの属国”である理由は説明が困難です。
IOCは利権の元締めで、日本の五輪関係者は利権のおこぼれにあずかるという関係なのでしょうか。


自民党は“属国慣れ”しているので、“IOCの属国”としてふるまうのに大して抵抗がないようです。
しかし、東京五輪大会を開催すると、IOCは放映権料でもうかるでしょうが、日本は感染が拡大して人命が失われ、自粛生活が長引いて経済的損失が甚大です。
日本は、第二だか第三だかの敗戦にならないようにしなければなりません。

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丸川珠代五輪相は5月11日の記者会見で、五輪開催の意義について問われ、「コロナ禍で分断された人々の間に絆を取り戻す大きな意義がある」と述べたところ、「意味不明」「精神論はやめろ」などの批判が殺到しました。
そのため丸川五輪相は14日に「絆」の意味を補足して、「特別な努力をした人たちの輝きが勇気を与えてくれる。と同時に、私たちが勇気を持って一歩進み、社会の活動を進めていく具体的な後押しになるという思いです」と述べましたが、ますます意味不明と批判されました。

「安全安心な大会」などと言っていますが、実際はコロナ下で危険を冒して開催するのですから、それに匹敵する意義が必要です。

五輪招致の時点では「復興五輪」といって、東日本大震災から復興した日本の姿を見せるという意義が示されました。
新型コロナウイルスのために一年延期になった時点では、「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証」ということが言われました。

現在では、「新型コロナウイルスに打ち勝った証」とは言えないので、「努力したアスリートのために」とか「池江璃花子選手のために」などと各自が勝手なことを言っています。
丸川五輪相が「絆」と言ったのは、「自助・共助・公助、そして絆」が政治信条の菅首相にこびたのでしょうか。


東京五輪は別にして、オリンピックそのものには意義があります。
ただ、時代とともにそれは変遷してきました。

昔はオリンピックの理念というと、「より速く、より高く、より強く」ということが必ず言われたものですが、最近はまったく言われません。今もオリンピック憲章には書かれているのですが。
この言葉の背後にある進歩主義思想が今は評価されないからでしょう。

「オリンピックは参加することに意義がある」というクーベルタン男爵の言葉も最近はあまり言われません。
勝利至上主義を戒めた言葉と思われますが、最近は勝利至上主義、メダル至上主義が横行しているからでしょう。

アマチュアリズムも昔はオリンピックの重要な理念でしたが、1974年にオリンピック憲章からアマチュア規定が削除されました。
以来、商業主義がしだいに強まり、今ではオリンピックは巨額マネーの動く商業主義のイベントになりました。
日本が開催地に立候補したのも、要は利権のためです。


オリンピックは商業主義のイベントとして大成功しましたが、大成功したのは意義があったからです。
それはどんな意義かというと、案外認識されていないかもしれません。

ビッグなスポーツイベントは世界陸上、世界水泳、サッカーワールドカップ、アジア大会などいくつもありますが、オリンピックがそれらと違うのは、ほとんどすべての種目を網羅する総合スポーツ大会であることです。
そして、世界のほとんどの国が参加します。
そのために、各国の総合スポーツ力が順位づけられます。

国の総合スポーツ力というのは国力の有力なバロメーターです。
国力を見るにはGDPのほうが正確ですが、GDPは無味乾燥な数字です。
スポーツは闘争や競争であり、勝ち負けがあるので、人々は興奮します。
個々の勝ち負けがメダルになり、最終的にメダルの数の多さで国の優劣が決まります。

ですから、オリンピックほどナショナリズムや愛国心の高揚するイベントはほかにありません。
戦争はもっともナショナリズムの高揚するイベントですが、オリンピックはその次ぐらいの位置づけになります。

古代ギリシャでは、戦争をしていても、オリンピックが開催されるときは休戦する習わしでした。
そのために「平和の祭典」と呼ばれますが、古代オリンピックの種目は、短距離走、長距離走のほか、戦車競走、円盤投げ、やり投げ、レスリング、ボクシングなど、戦争に関わるものがほとんどなので、当時の人々は戦争もオリンピックも同じ感覚でやっていたのではないでしょうか。
そういう意味では、「平和の祭典」というより「疑似戦争」といったほうがいいかもしれません。

近代オリンピックも、表彰式には必ず国旗掲揚と国歌演奏を行い、各国のメダル獲得数を明示して、ナショナリズムを高揚させる演出になっています。
ほとんどの人は、自国の選手がメダルを獲得するか否かに関心があって、メダルを獲得すると熱狂しますが、スポーツの中身にはあまり関心がありません。


このように近代オリンピックは「疑似戦争」として各国の国民のナショナリズムを刺激することで商業主義的な成功を収めたわけです。


私は「疑似戦争」という言葉を使いましたが、これは決して悪い意味ではありません。「疑似戦争」では人も死にませんし、家も壊れません。「本物の戦争」とは天と地ほども違います。
ですから、「疑似戦争」を「平和の祭典」と呼んで楽しむのは悪くありません。
ナショナリズムの部分を嫌う人もいますが、多くの人はナショナリズムの高揚感が好きなものです(ナショナリズムは「拡張された利己主義」だからです)。


ともかく、オリンピックは多くの人が興奮できる楽しいお祭りなのですが、今回はコロナとの戦いの真っ最中です。
オリンピックを開催したからといって、コロナとの戦いは休戦になりません。

現在、スポーツ大会は無観客や観客制限で開催されつつありますが、各地のお祭りはほとんどが中止になっています。
コロナ下では、お祭りをやってもお祭り本来の楽しさがないからです。

オリンピックが純然たるスポーツ大会なら、厳密な感染防止対策のもとで開催する意味はありますが、実際のところは、オリンピックの意義は、ナショナリズムの高揚感を味わうお祭りだということにあります。

コロナ下でお祭りを強行開催するということはありえません。

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