村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

カテゴリ: 子どもの復権


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アメリカの社会病理はますます進行し、銃犯罪、麻薬汚染、人種差別などが深刻化しています。リベラルと保守の分断もとどまるところを知らず、内戦の危機までささやかれています。
こうした社会病理の根底にあるのは、人間関係のゆがみです。
そして、人間関係のゆがみの根底にあるのは、おとなと子どもの関係のゆがみです。

「子どもの権利条約」の締約国・地域の数は196で、国連加盟国で締約していないのはアメリカだけです。
つまりアメリカは国家の方針として子どもの人権を尊重しない世界で唯一の国です。
こういう重要なことがほとんど知られていないのは不思議なことです。
子どもの人権を尊重しないことがさまざまな問題を生んでいます。


幼児虐待で死ぬ子どもの数は、日本では多くても年間100人を越えることはありませんが、アメリカでは毎年1700人程度になります。
もちろん死亡する子どもの数は氷山の一角で、はるかに多数の子どもが虐待されています。
西洋の伝統的な考え方として、理性のない子どもは動物と同様と見なして、きびしくしつけするということがあります。子どもの人権という概念がないために、それが改まっていないと思われます。

日本では不登校の子どもをむりやり学校に行かせるのはよくないという考えが広まってきましたが、アメリカでは義務教育期間は子どもは学校に通う義務があり(日本では親に子どもに教育を受けさせる義務がある)、不登校は許されません。しかし、むりやり子どもを学校に行かせようとしてもうまくいかないものです。
そんなときどうするかというと、子どもを矯正キャンプに入れます。これは日本の戸塚ヨットスクールや引きこもりの「引き出し屋」みたいなものです。
『問題児に「苦痛」を与え更生せよ 「地獄のキャンプ」から見る非行更生プログラム 米』という記事にはこう書かれています。
アメリカの非行少年更正業界は、軍隊式訓練や治療センター、大自然プログラム、宗教系の学校で構成される1億ドル規模の市場だ――州法と連邦法が統一されていないがゆえに、規制が緩く、監視も行き届いていない。こうした施設の目的は単純明快だ。子どもが問題を抱えている? 夜更かし? ドラッグ? よからぬ連中との付き合い? 口答え? 引きこもり? だったら更正プログラムへどうぞ。規律の下で根性を叩き直します。たいていはまず子どもたちを夜中に自宅から連れ去って、好きなものから無理矢理引き離し、ありがたみを感じさせるまで怖がらせる。だが、組織的虐待の被害者救済を目的としたNPO「全米青少年の権利協会」によると、懲罰や体罰での行動矯正にもとづく規律訓練プログラムの場合、非行を繰り返す確率が8%も高いという。一方で、認可を受けたカウンセリングでは常習性が13%減少することが分かっている。
大金持ちのお騒がせ令嬢であるハリス・ヒルトンもキャンプに入れられたことがあり、議会でこのように証言しました。
「ユタ州プロヴォキャニオン・スクールでは、番号札のついたユニフォームを渡されました。もはや私は私ではなくなり、127番という番号でしかありませんでした。太陽の光も新鮮な空気もない屋内に、11カ月連続で閉じ込められました。それでもましな方でした」とヒルトンは証言した。「首を絞められ、顔を平手打ちされ、シャワーの時には男性職員から監視されました。侮蔑的な言葉を浴びせられたり、処方箋もないのに無理やり薬を与えられたり、適切な教育も受けられず、ひっかいた痕や血痕のしみだらけの部屋に監禁されたり。まだ他にもあります」
普通の学校はどうなっているかというと、「ゼロ・トレランス方式」といわれるものが広がっています。
これはクリントン政権が全米に導入を呼びかけ、連邦議会も各州に同方式の法案化を義務づけたものです。
細かく罰則を定め、小さな違反も見逃さず必ず罰を与えます。小さな違反を見逃すと、次の大きな違反につながるという考え方です。違反が三度続くと停学、さらに違反が続くと退学というように、生徒個人の事情を考慮せず機械的に罰則を当てはめるわけで、これでは教師と生徒の人間的な交流もなくなってしまいます。

これは私個人の考えですが、昔のアメリカ映画には高校生を主人公にした楽しい青春映画がいっぱいありましたが、最近そういう映画は少ない気がします。子どもにとって学校が楽しいところではなくなってきているからではないかと思います。

学校で銃乱射事件がよく起こるのも、学校への恨みが強いからではないでしょうか。


幼児虐待は身体的虐待、心理的虐待、性的虐待、ネグレクトの四つに分類されますが、中でも性的虐待は「魂の殺人」といわれるぐらい子どもにダメージを与えます。
アメリカでは1980年代に父親から子どものころに性的虐待を受けたとして娘が父親を裁判に訴える事例が相次ぎました。いかにも訴訟大国アメリカらしいことですが、昔の家庭内のことですから、当事者の証言くらいしか証拠がありません。
ある心理学者が成人の被験者に、5歳のころにショッピングセンターで迷子になって親切な老婦人に助けられたという虚偽の記憶を植えつける実験をしたところ、24人の被験者のうち6人に虚偽の記憶を植えつけることに成功しました。この実験結果をもとに、セラピストが患者に性的虐待をされたという虚偽の記憶をうえつけたのだという主張が法廷で展開され、それをあと押しするための財団が組織されて、金銭面と理論面で父親を援助しました。
この法廷闘争は父親対娘だけでなく、保守派対リベラルの闘争として大規模に展開されましたが、最終的に父親と保守派が勝利し、逆に父親が娘とセラピストに対して損害賠償請求の訴えを起こして、高額の賠償金を得るという例が相次ぎました。
この顛末を「記憶の戦争(メモリー・ウォー)」といいます。
結局、家庭内の性的虐待は隠蔽されてしまったのです。

アメリカでは#MeToo運動が起こって、性加害がきびしく糾弾されているイメージがありますが、あれはみな社会的なケースであって、もっとも深刻な家庭内の性的虐待はまったくスルーされています。


ADHDの子どもは本来2~3%だとされますが、アメリカではADHDと診断される子どもが急増して、15%にも達するといわれます。親が扱いにくい子どもに医師の診断を得て向精神薬を投与しており、製薬会社もそれを後押ししているからです。


アメリカにおいては、家庭内における親と子の関係、学校や社会におけるおとなと子どもの関係がゆがんでいて、子どもは暴力的なしつけや教育を受けることでメンタルがゆがんでしまいます。それが暴力、犯罪、麻薬などアメリカ社会の病理の大きな原因になるのです(犯罪は経済格差も大きな原因ですが)。
そして、その根本には子どもの権利が認められていないということがあるのですが、そのことがあまり認識されていません。

たとえば、こんなニュースがありました。
「ダビデ像はポルノ」で論争 保護者が苦情、校長辞職―米
2023年03月28日20時32分配信
 【ワシントン時事】米南部フロリダ州の学校で、教師がイタリア・ルネサンス期の巨匠ミケランジェロの彫刻作品「ダビデ像」の写真を生徒に見せたところ、保護者から「子供がポルノを見せられた」と苦情が寄せられ、校長が辞職を余儀なくされる事態となった。イタリアから「芸術とポルノを混同している」と批判の声が上がるなど、国際的な論争に発展している。

 地元メディアによると、この学校はタラハシー・クラシカル・スクール。主に11~12歳の生徒を対象とした美術史の授業で、ダビデ像のほかミケランジェロの「アダムの創造」、ボッティチェリの「ビーナスの誕生」を取り上げた。

 ところが、授業後に3人の保護者から「子供がポルノを見ることを強制された」などと苦情が入った。教育委員会は事前に授業内容を保護者に知らせなかったことを問題視。ホープ・カラスキヤ校長に辞職を迫ったという。

この決定はミケランジェロを生んだイタリアで反響を呼んだ。ダビデ像を展示するフィレンツェのアカデミア美術館のセシリエ・ホルベルグ館長は、AFP通信に「美術史に対する大いなる無知だ」と批判。フィレンツェのダリオ・ナルデラ市長もツイッターで「芸術をポルノと勘違いするのは、ばかげている以外の何物でもない」と非難し、「芸術を教える人は尊敬に値する」として、この学校の教師を招待する意向を示した。

 フロリダ州では保守的な価値観を重視する共和党のデサンティス知事の主導で、一定年齢以下の生徒が性的指向を話題とすることを禁止する州法を成立させるなどの教育改革が強行されている。今回の措置には、米作家のジョディ・ピコー氏が「これがフロリダの教育の惨状だ」と指摘するなど、米国内でも波紋が広がっている。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2023032800665&g=int
これは「芸術かポルノか」という問題のようですが、実は子どもの「見る権利」が侵害されているという問題です。「芸術かポルノか」ということをおとなが一方的に決めようとするからおかしなことになるのです。

アメリカではSNSが子どもにとって有害だという議論があって、1月末に米議会上院がSNS大手5社の最高経営責任者を招いて、つるし上げに近いような公聴会を行いました。
米保健福祉省は勧告書で子どものSNS利用は鬱や不安などの悪化リスクに相関性があるという研究結果を発表していて、そうしたことが根拠になっているようです。

しかし、SNS利用が「子どもに有害」だとすれば、「おとなに無害」ということはないはずです。程度は違ってもおとなにも有害であるはずです。
子どものSNS利用だけ規制する議論は不合理で、ここにも「子どもの権利」が認められていないことが影響しています。

アメリカの保守派とリベラルの分断は、おとなと子どもの分断からきていると理解することもできます。


文科省は2005年に「問題行動対策重点プログラム」にゼロ・トレランス方式を盛り込みました。
また、日本でも「子どもに有害」という観点からSNS利用規制が議論されています。
しかし、アメリカのやり方を真似るのは愚かなことです。
アメリカは唯一「子どもの人権」を認めないおかしな国だからです。


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レストラン「サイゼリヤ」で、子連れ客が店員から「子どもが騒いだら退店となります」と言われたということがXで話題となりました。

『サイゼリヤ店員、子どもグズって「騒いだら退店」と警告 広がる波紋に本社広報「個別案件、回答差し控える」』という記事が報じました。そこから一部を引用します。


 11月29日、J-CASTニュースの取材に応じた投稿者によると、東京都内のサイゼリヤで起きた出来事だ。Xに投稿して波紋が広がったのは隣の家族のエピソードだったが、この日の投稿者の家族も入店時に「騒いだら退店になります」と伝えられていた。子どもは未就学児2人で「子どもですので声は大人よりは大きかったかもしれませんが、騒いではおりませんでした」。店内は家族連れ、サラリーマンなどで満席だったとし、「わりと騒がしい状態」だったという。


 案内された席の隣で、2歳程の子どもを連れた3人家族が既に食事をしていた。20分程隣にいたが、子どもは椅子に座って食事をしており、走り回ったりはしていなかったという。にもかかわらず、隣の家族は「騒いだら退店となります」と注意された。当時の様子を次のように振り返った。


「子どもが途中でグズりだして泣いてしまったのですが、すぐにお母さまが抱き上げてあやしていたところ、(投稿者家族の)入店時に対応した店員が来て、『騒いだら退店になります』と伝えていました(即退店しろ、ではなく警告だと思います)。言われたお母様は本当に申し訳なさそうに何度も謝っていました」

J-CASTニュースがサイゼリヤ広報に本部の方針について問い合わせたところ、「個別の案件についての回答は差し控えさせて頂いております」と回答があったということです。
まるで政治家の回答です。


ファミリーレストランは、その名の通り家族連れでくるのが当たり前です。子どもの声が耐えられないという人はファミリーレストランにこないことです。

サイゼリヤには子ども用の椅子が用意されていて、とくに小さな子ども用にはテーブルにはめ込んで使うタイプのものもあります。
子どもがくるのを前提としながら、子どもが騒げば出ていけというのは矛盾しています。子どもは騒ぐのが当たり前で、想定内のはずです。

実際のところは、おとなもけっこう騒いでいるはずです。おとなが騒ぐのは許されて、子どもが騒ぐのは許されないというのはダブルスタンダードです。

投稿者は店員に「泣いただけで退店なのは本部の方針なのか?」と聞くと、店員は「そうです。他のお客様もいるので、その方たちを優先します」と言ったそうです。
これはこの店員だけの考えで、サイゼリヤの方針ではないでしょうが、今の日本の問題を端的に表現しています。
つまりおとなを優先して、子どもを隅に追いやっているのです。
こども家庭庁は「こどもまんなか社会」をスローガンにしているのですから、サイゼリヤのようなことがあれば、子ども家庭庁長官あたりが注意のコメントを出すべきでしょう。



飲食店が客を排除するということはマクドナルドでもありました。

相模原市内のマクドナルドの店舗が1月ごろ、近隣の中学校を名指しして、そこの生徒を「出入り禁止」にするという張り紙を出しました。その画像がツイッター(現X)で7月ごろに拡散して話題になり、朝日新聞も記事にしました。
中学生が店内で騒いで、店員が身の危険を感じるということもあったようで、中学校の職員が呼ばれたり、交番の警察官が対応したりした挙句の張り紙でした。
しかし、新聞に書かれるほどの騒ぎになると、さすがに張り紙はやめただろうと思っていたら、12月19日の『地元中学生を「出禁」にしたマックの今、1年後も"警告"続く…生徒の迷惑行為で警察沙汰、学校「他の飲食店からも通報あった」』という記事に、まだ張り紙が出ていると書かれていました。

もっとも、その張り紙には、中学校を名指しすることはなく、「出入り禁止」という言葉もなく、「他のお客様へご迷惑となる行為が見られました際は、従業員の判断により、警察へ通報する場合があります」と書かれているだけなので、比較的穏当なものです。

ただ、この記事には5000余りという異例に多いヤフーコメントが寄せられていて、人々の関心の高さがうかがえます。
そして、多くの人は問題がまったく理解できていません。

ヤフコメの筆頭には「エキスパート」として流通ジャーナリストの「客は多くの店から気に入ったり、必要に応じて店を選ぶことができる。店も客を選ぶ権利があり、好ましくない客を出禁にする権利がある」という意見が掲載されています。

これはその通りですが、マクドナルドの最初の張り紙はそれとは違います。特定の中学校を名指しで、その中学校の生徒全員を「出禁」にするとしていたのです。
店内で迷惑行為をした客を「出禁」にするのはありですが、ある中学の何人かの生徒が迷惑行為をしただけで、その中学の生徒全員を「出禁」にするのは、なんの罪もない多くの生徒の権利を侵害しています。
これは、マナーの悪い中国人客がいるからといって「中国人出入り禁止」の張り紙をするのと同じで、差別になります。国籍や所属中学という「属性」を理由に人間を不当に扱っているからです。

もっとも、この中学はかなり問題があるのかもしれません。マクドナルド以外の飲食店から2回ほど「生徒のマナーが悪くて困っている」という連絡があったそうです。
全国にマクドナルドの店舗は数多くあるといえども、特定の中学校の生徒を出禁にしているのはここだけではないでしょうか。
どんな教育をしている中学なのか気になります。


しかし、ヤフコメでいちばん人気のコメントは、教師がきびしく指導すると体罰といわれ、家族がきびしく叱ったら虐待といわれるので、誰もきびしい指導をしないからこんなことになるのだという意見です。
これが世の中の平均的な意見かもしれません。
しかし、私の意見はまったく逆です。学校や家庭できびしく指導されるので、学校でも家庭でもないマクドナルドではじけてしまうのです。

これは家庭のしつけの問題だから、学校に問題を持ち込むのはよくないという意見もあります。しかし、もし家庭の問題なら、全国のマクドナルドの店舗で同じような問題が起こっているはずです。

問題があるとすれば、やはりこの中学校でしょう。生徒は学校内であまりにもきびしく指導されているので、学校を出たとたんハメを外してしまうのです。

この中学がどんな教育をしているのかわかりませんが、生徒をたいせつに思う気持ちはあまりなさそうです。
取材に応じた副校長は「出禁にするのを決めるのはお店です。私たちがやめてと言える立場ではありません」と語っています。
本来なら「本校生徒に対する不当な扱いは即刻やめていただきたい」と言うべきところです。

なお、日本マクドナルド社は「学校との個別の案件となりますので回答は控えさせていただきます」とコメントしたということで、こちらも政治家答弁です。

ファミレスやファストフード店は子どもや中学生にとって居心地のいいところです。
子どもや中学生を排除する店があったら、親などが強く反発すると思いましたが、意外なことに、サイゼリヤもマクドナルドも謝罪もなにもせず、ほとんど同じ方針を続けています。
公園や電車内で子どもが騒ぐと問題になってきましたが、それがファミレスやファストフード店にまで広がってきたようです。


政府は12月22日に「こども大綱」を閣議決定し、年間5.3兆円の予算を投じて、
▼子どもの貧困対策
▼障害児などへの支援
▼学校での体罰と不適切な指導の防止
▼児童虐待や自殺を防ぐ取り組みの強化
などを進めるということです。
けっこうなことですが、具体的にどう進めるのか今のところよくわかりません。
そういう懸念に応えるためか、具体的な目標を設置しています。その目標のひとつに、今後5年程度で「子育てなどに温かい社会の実現に向かっていると思う人の割合を、今の28%から70%に上昇させる」というのがあります。

今は「子育てなどに温かい社会の実現に向かっていると思う人」が28%しかいないわけです。
それを70%に引き上げるというのは大胆な目標ですが、サイゼリヤやマクドナルドの店舗の例を見ても、むしろ逆行しているように思えます。
子どもの貧困対策をやっても、子どもに対する社会の目がきびしいのでは、子どもの幸福度も上がりません。


では、どうすればいいかというと、私はこれまで「子どもの人権」ということを強調してきました。
子どもの人権に対する配慮があれば、店から子どもを追い出すようなことはできないので、それである程度解決するはずです。
しかし、「人権」という言葉にはなじめない人もいます。

そこで、「子どもの発達」ということを強調したほうがいいのではないかと思い直しました。
子どもの発達に対する科学的研究がどんどん進んできたからです。

たとえば、昔は赤ん坊が泣くと、すぐ抱きあげるのは“抱きぐせ”がつくのでよくないとされていました。しかし、今はすぐ抱くのがよいとされています。“抱きぐせ”がつくことはなく、「基本的信頼感」が養えるとされるのです。
「基本的信頼感」というのは、自分に対する信頼と世界に対する信頼で、これは赤ん坊が親に受け入れられることで養われるとされます。

「叱るのがよいか、ほめるのがよいか」というのも昔から議論のあるところでしたが、今はほめるほうがパフォーマンスがよいと結論が出ています。スポーツの世界では「ほめて育てる」が主流になっています(選手を叱っている指導者は時代遅れです)。
当然子育てでもほめたほうがよいわけです。ただ、子育て本を見ると、ほめることを勧めつつも、「悪いことをしたときなど、ときに叱ることも必要です」と書かれていることがよくあります。これは古い考えに妥協した態度です。
私が思うに、子どもが悪いことをしたときは「それは悪いことだ」と教えればよく、叱る必要はありません。

子どもが動き回ったり、大声を出したりするのは、それが発達に必要なことだからです。
さまざまな動きをすることで筋肉と運動神経がまんべんなく鍛えられます。
子どもはしばしばマックスと思える大声を出すので、周りのおとなの顰蹙を買いますが、これは当然、声を出す能力を鍛えているのです。大声を出すのを禁じると、声を出す能力が発達せず、助けを求めるために大声を出さなければならないときに大声が出せないということにもなりかねません。もしかすると、歌をうたう才能を殺しているということもありえます。
中学生がバカなことや危ないことをするのも、経験値を上げるという意味があり、のちの人生に役立ちます。
おとなの価値観で子どもの行為をむりに抑えると、正常な発達がゆがめられます。
それに、おとなになれば自然とおとなしくなります。これは子犬や子猫を育てた人ならわかるでしょう。


泣いた赤ん坊をすぐに抱くと抱きぐせがついてよくないとされたのは、赤ん坊は基本的にわがままで、赤ん坊の要求に応えるとどんどん要求をエスカレートさせると考えられたからです。
つまり赤ん坊が泣いてもすぐに抱かないのは、赤ん坊に対する“しつけ”だったのです。
しかし、そんなしつけは無用でした。
ということは、子どもに対するしつけも無用ということになるはずです。


「きびしく育てるか、のびのび育てるか」というのも昔から議論されてきましたが、今は「のびのび育てる」に軍配が上がっています。
子どもの成長する力を信頼していれば、子どもが騒いでも温かく見守れます。

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教育の世界では、子どもの主体性が無視されています。
たとえば、子どもが強制されていやいや勉強しているのと、自分から積極的に勉強しているのとではまったく違いますが、それが区別されていません。
親や教師はつねに子どもに勉強を強制しているので、子どもが勉強しているか否かという表面しか見ていないからです。

「子どもにがまんさせることがたいせつ」ということもよく言われます。
しかし、がまんばかりさせられていると、元気も意欲もない子どもになってしまいます。

人生でがまんすることはたいせつですが、それはみずからするがまんです。人にさせられるがまんではありません。
ここでも子どもが「する」と「されられる」の区別がありません。

では、人はどんな場合にがまんするかというと、大きな欲望がある場合に小さな欲望を抑えるというときです。
たとえば若い女性がやせて男にもてたいという欲望を達成するために、ケーキを食べたいという欲望をがまんするというとき、それから、子どもがいい学校に入りたいためにゲームをしたいという欲望をがまんして勉強するというときなどです。
欲望のない人間はいませんから、人は欲望を達成するために自然とがまんすることを覚えます(もっとも、目先の欲望に負けて後悔するということを繰り返しながらですが)。
「子どもにがまんさせることがたいせつ」と言う人は、子どもに目的のないがまんをさせるのでしょう。


子どもの「する」と「させられる」の区別がないのは、「青少年健全育成」を名目にして、性的表現や暴力的表現の図書や映像を子どもに見せるのはよくないという議論のときも同じです。
この場合、「子どもに見せる」という表現ばかりです。
「子どもが見る」という表現を見たことがありません。
もちろんこの両者はまったく違います。

たとえば残酷シーンのあるホラー映画を、親が子どもに「さあ、見なさい」と言って見せるのはよくありません。子どもがその残酷シーンにショックを受けた場合、親が「見なさい」と言っているのですから、すぐ見るのをやめるわけにいかないでしょう。子どもはそのシーンにショックを受け、親からそれを見させられたということにも傷つきます。

子どもがいくつもある映画の中から自分でそのホラー映画を選んで見た場合はどうでしょうか。残酷シーンにショックを受けてもすぐに見るのをやめるので、たいして傷つきません。映画の選択を間違ったなと思うだけです。
もし残酷シーンがあっても最後まで見続けたとしたらどうでしょうか。この場合、本人の意志でそうしているのですから、傷つくことはないでしょう。もしどんどんホラー映画にはまっていったとしたら、それがその子どもの個性なのです。将来はホラー作家になるかもしれません。

残酷シーンにせよ暴力シーンにせよ、「子どもに見せる」という表現をすると、むりやり見せているイメージになるので、害があるかもしれないと思えます。
しかし、「子どもが見る」という表現にすれば、「本人が好きで見ているならいいじゃないか」ということになるでしょう。

今の不健全図書などの規制の議論は、すべて「子どもに見せる・見せない」という表現で行われています。
これを「子どもが見る・見ない」という表現にすれば、つまり子どもの主体性を認めれば、議論のあり方も変わってくるはずです。


なお、性的表現については問題が別です。

子どもが正常な性的発達を遂げると、12,3歳で身体的に性交可能となり、15,6歳でカップルとなり、子どもをつくる可能性が高くなります。子どもをつくったカップルは学校に行くのが困難となり、そういうカップルが増えると教育水準が下がってしまいます。それに、親はできるだけ長く子どもに親もとにいてほしいと思うものです。
そのため文明社会は子どもの性的発達を遅らせようとしてきました。性的表現を子どもに見せず、性欲はスポーツや芸術で“昇華”させることが奨励され、簡単に性交をする人間は見下されました。

今は性的表現を子どもに見せると有害だとされていますが、有害であるという根拠はまったくありません。
あくまで子どもの性的発達を遅らせるためにやっていることです。
子どもの性的発達を遅らせるというのは、文明社会では広く行われていることなので、不自然ではありますが、必然性があるのでしょう。
なお、性的表現の規制は「子どもの性的発達を遅らせる」ということが目的なのですから、その表現が健全が不健全かということは関係ありません。


「する」と「されられる」の区別がつかないというのは、子どもの主体性や意志というものを無視しているということです。
これは日本全体に蔓延していると思われます。

東近江市の小椋正清市長が「不登校になる責任の大半は親にある」「フリースクールは国家の根幹を崩しかねない」と発言し、批判されたために謝罪しましたが、発言の撤回はしませんでした。
謝罪したといっても、「フリースクールの関係者、保護者の皆さま」に謝罪しただけです。
不登校の子どもに対しては謝罪していません。
そして、そのことはまったく問題にされません。「子どもに対して謝罪しろ」という声は聞こえてきませんでした。


ともかく、子どもの行為については「する」と「されられる」、「している」と「させられている」の区別をすることがたいせつです。
子どもが社会奉仕活動のような立派なことをしていても、「されられている」のであれば、少なくとも子どもにとってはほとんど意味がありません。
たとえつまらないことでも、子どもがみずから「している」のであれば、それは子どもにとっては意味があります。
水泳やらピアノやらの習い事でも、子どもが「している」のと「させられている」のとでは大違いです。

親や教育者は「する」と「させられる」の区別をつけることが先決です。

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東近江市の小椋正清市長が「不登校になる責任の大半は親にある」「フリースクールは国家の根幹を崩しかねない」と発言し、波紋を広げています。

子どもが不登校になるのは、いじめが原因の場合もあるでしょうし、教師の態度が原因の場合もあるでしょう。そもそも学校がその子どもに合わないということもあります。
それなのに親にばかり責任を負わせる発言が反発を招くのは当然です。

では、「フリースクールは国家の根幹を崩しかねない」という発言はどうでしょうか。
これについては、本人がMBSNEWSのインタビューでこう説明しています。
(小椋市長)「大半の善良な市民は、本当に嫌がる子どもを無理して学校という枠組みの中に押し込んででも、学校教育に基づく、義務教育を受けさそうとしているんです。」

「無理して無理して学校に行っている子に対してですね、『じゃあフリースクールがあるならそっちの方に僕も行きたい』という雪崩現象が起こるんじゃないか。」

「フリースクールって、よかれと思ってやることが、本当にこの国家の根幹を崩してしまうことになりかねないと私は危機感を持っているんです。」

小椋市長は、学校とは無理して行くところだと思っているのです。ですから、学校以外の道ができれば、みんなそっちに行ってしまって、学校制度が崩壊し、ひいては国家の根幹が崩壊するというわけです。

極端な考え方です。
ひとついえるのは、フリースクールは有料なので(文科省の調査によると平均月3万3000円)、みんながそっちに行くということにはなりません。

「子どもは無理して学校に行っている」「大半の親は嫌がる子どもを無理して学校に行かせている」という認識はどうでしょうか。
嫌がらずに学校に行っている子どももいますから、正しい認識とはいえませんが、ある程度こういう現実があるということはいえるでしょう。

昔は子どもが不登校になったり登校をしぶったりすると、親はむりやりでも学校に行かせようとしました。
不登校は子どもの「わがまま」や「甘え」と見なされて、親は子どもを殴ってでも、引きずってでも学校に行かせるべきだと考えられていたのです。
小椋市長はその時代の考えのままです。不登校の子どもは親が甘やかしているからだと思っているので、「不登校になる責任の大半は親にある」という言葉が出てきます。

しかし、実際のところは、むりやり登校させようとしてもうまくいきません。泣き叫ぶ子どもをむりやり学校に連れていくことになり、次の日も同じことが繰り返されるので、実質的に不可能です。それに、これをやると親子の信頼関係が壊れて、自殺、家庭内暴力、引きこもりにつながるとされます。
ですから、子どもを強制的に登校させるのはよくないという認識が関係者の間で広まりました。

文科省はこの認識を受けて、それまでの「学校に戻す」という原則を捨てて、1992年からフリースクールですごした日数を小中学校の出席日数として算入可能とし、卒業要件にすることも可能としました(2009年からは高校も可能に)。
さらに文科省は、不登校は特定の子どもに特有の問題があることによって起こることではなく「誰にでも起こりうる」ことだとしました。

どうやら文科省は不登校を容認する方向に転じたようです。
なにしろ不登校は増え続けているので、そうせざるをえなかったのでしょう。

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2022年度の不登校は29万9048人と過去最多を更新し、この2年間は前年度からの増加幅が2割を超え、計約10万人の大幅増となりました。


不登校の子どもを放っておくわけにはいきません。
フリースクールといってもいろいろありますが、不登校の子どももフリースクールなら通える場合が多いのです。
あるいは、普通の学校は通えなくても通信制の学校なら通えるという場合もあって、そのために通信制高校が増えてきました(私立通信制高校は2000年度は44校でしたが2022年度は195校)。

つまり文科省は「学校がいやな子どもはフリースクールか通信制に行ってくれ」という方針のようなのです。


小椋市長はここにかみついたわけです。「僕は文科省がフリースクールの存在を認めてしまったということに、がく然としているんですよ」と語っています。
小椋市長は、学校とフリースクールは根本的に違うものだと見ていて、みんなが学校でなくフリースクールに行くようになると「国家の根幹を崩す」ことになると考えているわけです。

学校とフリースクールの違いとはなんでしょうか。そこに「国家の根幹を崩す」ようなものがあるのでしょうか。


フリースクールに通う子は学力が低いという根拠はありません。小椋市長も学力のことを言っているのではないと思われます。

むしろ逆のことも起こっています。
『「学校の授業は退屈…塾だけ行きたい」中学受験で“変わってしまった”息子 不登校は許していい?【お笑い芸人→教師経験者がアドバイス】』という記事にこんなことが書かれていました。

小学校3年生の息子が塾に通い始めたところ、担任の先生から「最近、息子さんは授業中ぼーっと外を見ていたり、集中力の低下が見られます」という指摘を受けます。息子に聞いてみると、「塾の先生の話はおもしろくて、わかりやすい。学校の授業はつまらない」と言います。ついには「学校に行かずに塾だけ行きたい」と言い出したので、親としてどうすればいいだろうという問題です。

塾の先生が優秀で、学校の先生が優秀でないなら、こういうこともありえます。学校で退屈な授業を受けるのは、時間のむだです。
最近は教育系のYouTubeで勉強したほうがいいということもあるようです。
学力に関しては学校の優位はほとんどありません。

学校に行くべきという人は、「集団生活に慣れることができる」とか「友だちができる」ということを学校の利点に挙げますが、そういうことはフリースクールや塾でもできます。
学校でしかできないとされることは、「規律を身につける」ということです。

「規律」は厄介な言葉です。たいていは「規則を守る・守らせられる」という意味で使われますが、「規範に従って自分を律する」という意味もあります。
つまり「他律」と「自律」のふたつの意味があるのです。
しかし、学校における「規律」はつねに「他律」の意味です。子どもは学校の規則を守らされるだけです。

戦前の学校では規律が重視されました。軍隊に入れば規則・命令は絶対だからで、学校からその準備をしていたわけです。
戦後の学校は当然変わらねばなりませんでしたが、実際はほとんど変わりませんでした。軍隊式の整列や行進が今も行われ、子どもは無意味な校則でがんじがらめになっています。
しかし、今の時代は規則や命令に従うだけの人間には価値がありません。ロボットやAIに置き換えられるだけです。
小椋市長が「国家の根幹」と言ったのは、戦前の価値観のままなのでしょう。


フリースクールは、一人一人に合わせた教育をするので、規律はありません。
ここが学校とフリースクールの決定的な違いです。

ということは、不登校の原因も見えてきます。
子どもたちは規律のある学校が嫌いなので、不登校になるのです。
他律はいくらやっても自律に転化することはありません。自律は自由の中からしか芽生えません。
他律ばかりの学校を子どもが本能的に拒否するのは当然です。
不登校が増えるのは、規律のある学校が時代に合わなくなっているからです。

学校はタダで幅広いことを教えてくれる便利な施設です。しかし、子どもが学校へ行くと、独禁法で禁じられている抱き合わせ販売のようにして、学校は「学習」といっしょに「規律」も押しつけてくるのです。
そのため子どもは自律心も自発性も創造性も失ってしまいます。

文科省はフリースクールを容認したのですから、フリースクールのよさを学校に取り入れる方向で教育改革をしなければなりません。

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いじめ防止対策推進法が施行されて9月28日で10周年となりました。
法律をつくった効果はあったのでしょうか。

2021年度の小中高におけるいじめの認知件数は61万5351件と過去最多となりました。
認知件数は、学校が隠蔽をやめてまじめに報告しても増えますが、自殺などの「重大事態」も705件と前回調査から37%増えています。
いじめ防止法の効果はほとんどなかったといえるでしょう。

いじめは複雑な問題です。
法律をつくったらいじめが解決した――なんていううまい話があるわけありません。

いじめ防止法で唯一評価できるのは、いじめの定義がされたことです。
「他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為」により「対象生徒が心身の苦痛を感じているもの」がいじめであるとされました。
つまりいじめ被害者の「苦痛を感じている」という主観でよくなったのです。
いじめる側の「これはいじめじゃなくてイジリだ」というような言い分は通用しなくなりました。

しかし、マイナスの面もあります。
いじめを児童生徒と児童生徒の間に起こることと狭く定義したのです。
つまり教師の行為は不問とされたのです。
実際は、教師が生徒に体罰をしたり暴言を吐いたりということが行われています。この行為はいじめと同じか、いじめよりも深刻です。教師の体罰・暴言を受けた生徒がストレス発散のためにほかの生徒をいじめるということもありえます。
教える力や指導力のない教師が、思い通りにならない生徒にいら立ちをぶつけてクラスの空気が悪くなり、それがいじめを生むということもありえます。

親から虐待されている生徒もいます。
いつも親から殴られている生徒がほかの生徒を殴るということもあるでしょう。
親から虐待されているために自己評価が低く、そのためほかの生徒からいじめられるということもあるでしょう。

つまりいじめというのは、学校や家庭のあり方が影響し、さらには社会のあり方も影響しますから、きわめて複雑なのです。
それをいじめ防止法は、生徒間の問題に限定してしまったわけで、これではいじめの原因も把握できないし、いじめ防止の方法もわかりません。
いじめ防止法ができてもいじめがへらないのは当然です。

どうしてこういう無意味な法律ができたのでしょうか。
それは、法律が制定された当時、社会がいじめに関して異常な心理状態にあったからです。


2011年10月、大津市で中学2年生の男子生徒が自宅マンションから飛び降り自殺をするという事件がありました。
学校は自殺原因究明のために全校生徒を対象にアンケートを行い、その中に「自殺の練習をさせられていた」という記述があったことがマスコミに報じられると、世の中は騒然としました。
「自殺の練習をさせられていた」というのは確かにショッキングです。そんないじめをされたら、自殺の原因になってもおかしくありません。

私はこのことをブログで取り上げよう思って、いくつかのニュースを詳しく読んでみました。すると、「自殺の練習をさせられていた」というのはあくまで無記名のアンケートに書かれていただけで、具体的な証言も証拠もありませんでした。
私はこんな不確実なことを書くわけにはいかないと思って、ブログで取り上げるのは見合わせました。
ところが、それからもどんどん報道は加熱して、いつの間にか「自殺の練習」はあったことにされ、いじめ加害者とされる中学生はネットで名前をさらされ、猛烈なバッシングを受けました。

私は「自殺の練習」を疑っていたこともあって、事態を冷静に眺めることができました。
そうすると、男子中学生の自殺の主な原因は、父親による虐待だったのではないかと思えました。

自殺した生徒は「家族にきびしく叱られる」などと担任に何度か相談していました。当時、母親は家を出て、生徒は父親と暮らしていました。ですから、担任は生徒の自殺の原因は父親との関係だろうと判断し、そのことは学校や教育委員会にも伝えられていました。
しかし、父親は自分が自殺の原因だとは思いたくないので、同級生のいじめが原因だと思い、いじめの被害届を警察に出しますが、3度にわたって警察に被害届の受け取りを拒否されます。
のちにこの警察の態度は非難されますが、警察はいじめはほとんどなかったと判断していたのでしょう。
学校や教育委員会の態度も、いじめの調査に積極的でないことから「いじめを隠蔽している」として非難されましたが、基本的に自殺の原因は父親にあると思っていたわけです。
大津市の越直美市長は「自殺少年は父親からDVを受けていた」と語りましたし、澤村憲次教育長は「学校からは亡くなったお子さんの家庭環境に問題があると聞いている」と語りました。
もっとも、こうした認識は世間から「責任逃れ」と受け止められ、よりいっそうの非難を招きました。

冷静に考えて、自殺の原因として、同級生のいじめと父親の虐待の両方があったでしょう。
問題はその割合がどれくらいだったかです。

結局、「自殺の練習」については、県警によって有力な目撃情報はなかったと結論づけられました。
また、自殺少年の親はいじめ加害者の少年3人に対して約3850万円の損害賠償請求の訴えを起こし、第一審では約3750万円の支払いが命じられましたが、控訴審では父親が自殺少年に暴力をふるうなどしていたことによる「過失相殺」を認めて、約400万円に減額し、最高裁で約400万円の判決が確定しました。
第一審は世間の熱狂に引きずられた判決でしたが、控訴審では冷静な判決になったと思われます。

判決で「過失相殺」という言葉が使われるぐらいですから、父親の虐待と同級生のいじめの両方が自殺の原因だったということでしょう。


中学生ぐらいの子どもは、家庭と学校が生活圏のほとんどすべてです。もし自殺すれば、家庭と学校の両面で原因を探さなければなりません。
家庭と学校とどちらが子どもにとって重要かといえば、もちろん家庭です。
もし学校でひどいいじめにあっていたとしても、家庭生活が幸せなら自殺しないでしょう。
それに、まともな親なら、子どもの様子から問題を察知して、子どもが自殺する前に対処するはずです。
ですから、もし子どもが自殺すれば、とりあえず家庭に問題があっただろうと想像できます。
自殺の原因は複合的なのが普通ですが、第一の原因は家庭にあって、学校でのいじめがあったとしても、それは第二の原因でしょう。


大津市で中学2年生の男子生徒が自殺したというときも、私は家庭環境はどうなっていたのだろうかと考えました。
ところが、「自殺の練習」ということもあって、報道はいじめのことばかりです。自殺生徒の家庭のことはまったく報道されないので、家族構成すらわかりません。父親は盛んにメディアに出てきますが、母親はまったく姿が見えないので、どうなっているのかと思っていました。両親は不仲で、母親は家を出ていたというのは、かなりあとになってからわかりました。

学校でのいじめのことばかり報道して、自殺少年の家庭環境のことはまったくといっていいほど報道しないというところに、社会のいちばん深い病理が表れています。
中学2年生の少年が自宅マンションから飛び降り自殺をしたら、家庭に問題があったのだろうと推測されます。親から虐待されていた可能性が大です。しかし、その問題はまったく追及されません。
しかし、少年が学校でいじめにあっていたかもしれないとなると、嵐のように報道されます。

これはどういうことかというと、いじめが原因で自殺したということになれば、家庭内で虐待はなかったということになります。
現に越直美市長の「自殺少年は父親からDVを受けていた」という言葉はかき消されてしまいました。

ほとんどの親は子どもをガミガミと叱り、勉強に追い立て、ときに体罰をしています。
子どもが自殺したというニュースに接すると、こうした親は不安になります。
しかし、自殺の原因が学校でいじめであったということになれば、安心できます。
つまり「幸せな家族」幻想が守られるわけです。

このときは、メディアだけでなくおとな社会全体が家庭内の虐待を隠蔽し、その代わりに学校でのいじめに自殺の責任を押しつけました。
しかも、それがきわめて熱狂的でした。
その熱狂が「いじめ防止法」をつくらせたのです。
酒鬼薔薇事件のときの熱狂が少年法改正を生んだのと同じです。

ですから、いじめ防止法は不純な動機でつくられました。
その隠れた目的は、家庭内の虐待の隠蔽です。
そのため、いじめは子どもの間の出来事とされ、いじめの加害者も被害者も家庭環境の影響を受けているという当然のことが無視されました。
こんな法律になんの効果もないのは当然です。
子どもは家庭で親から、学校で教師からの影響を受けるということを前提に、法律をつくり直さなければなりません。


なお、幼児虐待を隠蔽して、「幸せな家族」幻想を維持しようとすることは今も行われています。
そのため、子どもが死ぬか大ケガをする事態になってやっと幼児虐待が表面化するということが少なくありません。


大津市の中学2年生の自殺事件については、私は十本余りのブログ記事を書いて、「大津市イジメ事件」というカテゴリーにまとめています。
世の中の100%近い人がいじめと学校や教育委員会の対応を糾弾していたときに、少年の自殺の主な原因は家庭内のことにあると主張したので大炎上しましたが、結果的に私の主張が正しかったわけです。

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人間はみな生まれつき能力が違うのに、今の学校ではみな同じ教室に入れられ、一斉授業を受けさせられます。
どう考えても理不尽です。
しかし、「人間は生まれつき能力が違う」と言うことは(とりわけ教育界では)タブーになっているので、この理不尽はいっこうに改まりません。

しかし、「人間は生まれつき能力が違う」と言うのはタブーでも、「人間は年齢によって能力が違う」ということは誰もが認めるでしょう。
ところが、日本の学校は能力の年齢差にすら対処していません。

小学1年生の教室には、6歳児と7歳児がいます。この年齢での1年の違いは大きいものがあり、そのため早生まれ(1月から3月生まれ)は損だといわれます。しかし、その違いは年齢が上がっていくとともに小さくなっていくので、そんなに気にすることではないとされてきました。つまり6歳と7歳の違いは大きくても、15歳と16歳の違いはわずかだというわけです。
しかし、最近の研究で、入学時の差は年齢が上がってもあまり縮まらないということがわかってきました。

朝日新聞は7月に3回にわたって「早生まれは損?」という特集記事を掲載しました。そこからいくつか引用します。
 朝日新聞は、昨夏に開かれた第104回全国高校野球選手権(夏の甲子園)に出場した49校のベンチ入りしたメンバー882人の生まれ月を調べた(登録変更は含まない)。どんな傾向があるのか。

 4~6月生まれ37・8%
 7~9月生まれ29・6%
 10~12月生まれ18・0%
 1~3月生まれ14・6%
高校生になっても生まれ月の影響は歴然としています。

プロ野球の選手、さらにはプロサッカー選手についてはどうでしょうか。

子どもたちが新学年を迎えるこの時期、頭に浮かぶのは、生まれ月がスポーツに与える影響だ。

 ジュニア期における学年内の成長差、体力差の影響が、大人になっても続く。

 プロ野球でみると、2020年に12球団の日本出身の支配下登録選手を、3カ月ごとの生まれ月で分けたところ、4~6月は32%、7~9月は29%、10~12月は22%、そして、1~3月は18%と比率が下がっていた。

 同年のJ1・18クラブの登録選手も、33%→32%→19%→16%。いずれも、統計的には「圧倒的に有意な偏りあり」だった。
なぜこれほどの差が出るのかというと、早生まれの子はスポーツを始めるとほかの子よりできないことに気づいて、すぐにやめてしまうということがあるでしょう。つまり分母の数が違うのです。
では、長く続けると生まれ月の差は縮小していくかというと、必ずしもそうとはいえません。
最初に補欠になった子どもは、自分はこの程度の実力と思い、たまに試合に出ても緊張していい結果が出せません。最初にレギュラーになった子どもは、練習にもやる気が出ますし、試合経験を積んで、実力をつけていきます。最初の差がさらに開いていくということがありえます。


生まれ月の影響はスポーツだけにとどまりません。
3月生まれが入学した高校の偏差値は、同じ学年の4月生まれに比べて4・5低い――。3年前、東京大学大学院の山口慎太郎教授(労働経済学)らがそんな研究を発表し、話題を呼びました。
(中略)
今回の研究では、学力の差もさることながら、「感情をコントロールする力」や「他人と良い関係を築く力」といった非認知能力の差が、学年が上がっても縮まらないことがポイントでもありました。

「鶏口となるも牛後となるなかれ」といいますが、早生まれの子はいきなり「牛後」となって、自分はその程度の存在と思って、一生「牛後」の人生を歩む可能性が高いといえます。


最近では早生まれの不利なことが広く知られてきて、生まれる月を考慮して“妊活”をする夫婦もあるといいます。
インターナショナル・スクールでは、その子の成長の具合を見て、入学を1年遅らせる選択ができるところもあります。
オランダでは、入学の日が決まっていなくて、4歳の誕生日がすぎたらいつでも入学できます(一斉授業ではなく個別授業です)。

早生まれが不利になるような教育制度は、早急に改革しなければなりません。



生まれ月が違えば能力差があるのは当たり前ですが、では、同学年の同月生まれの子はみな同じ能力かというと、そんなことはありません。身体的能力も知的能力も個人差があります。
これは生まれつきの能力差ですから、どうしようもありません。
問題は、能力の違う子どもに一律の教育を行っていることです。
おそらく教師は、平均的な子どもの少し上のところに向かって授業をしているでしょう。中央のボリュームゾーンの子どもはなんとか理解できるかもしれませんが、能力の下の層は理解できなくても放置され、授業中ずっと退屈な時間をすごすことになります(能力のかなり上の層も退屈しているでしょう)。

つまりさまざまな能力の子どもに対して一斉授業をしているために“落ちこぼれ”が生まれて、それが非行、犯罪につながり、また福祉の負担にもなっているということを、前回の「もうひとつのシンギュラリティ」という記事で書きましたが、そのときは文明論の観点から教育制度を批判しました。
しかし、教育制度は急には変わりません。
そこで今回は、今の学校教育制度の中でサバイバルする方法について考えました。


今の教育は、頭のよい子も悪い子もいっしょにして一斉授業をしているという問題に加えて、あらゆることを網羅的に教えているという問題もあります。

読み書き計算は、誰にとっても必要なことです。しかし、今の学校は物理や化学から地理や歴史、美術や音楽まで教えていて、これは誰にとっても必要なことかというと、そんなことはありません。
たとえばフレミングの左手の法則とか元素の周期表とか稲作の伝来ルートとか『源氏物語』とかオーストラリアの首都はシドニーでなくキャンベラであるといったことを子どもは教わりますが、これらの知識は、クイズ以外にはめったに役に立ちません。
もちろん電気関係の道に進めばフレミングの左手の法則の知識が役に立つでしょうし、古典文学が好きな人にとっては『源氏物語』の授業は価値あるものでしょう。しかし、大多数の人にとってはほとんど価値がありません。


網羅的な知識を教える教育に適応していい成績をとる優秀な人間は、最終的に官僚や大企業の総合職になり、一部は学者になり、日本という国を担う人材になります。

それほど優秀でない人間は、この教育を受けると中途半端な人間になりますが、「汎用性のある労働者」として企業には歓迎されるかもしれません。
ただ、苦労して網羅的な知識を身につけた割には報われません。

ちなみに教育基本法の「教育の目的」はこうなっています。

第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

「国家及び社会の形成者」には網羅的な知識が必要と考えられているのかもしれません。

しかし、子どもは「国家及び社会の形成者」になりたいとは思っていませんし、親も子どもを「国家及び社会の形成者」にしたいとは思っていないでしょう。
では、国民は教育になにを求めているかというと、「子どもの幸せ」です。
つまり子どもが将来幸せな人生を送れるような教育をしてほしいと思っているのです。

ここに国家と国民の大きな齟齬があります。
国家は「国のため」の教育をしていて、国民は「子どものため」の教育を望んでいるのです。


人生の第一の目標は、職業人として成功して、ある程度の収入を得て、社会的尊敬を受けることです。
職業といってもいろいろありますが、職業人として成功するのに、たいていは網羅的な知識は必要としません。むしろ逆にひとつのことを深く掘り下げていくことが必要です。

網羅的な知識を得てゼネラリストになるには、そうとうに優秀でなければなりません。たいていの人間はそこを目指すよりも、ひとつのことを深く追究したほうがいいはずです。
ところが、子どもが学校に行くと網羅的な勉強をさせられます。読み書き計算以外のことはほとんど役に立ちそうもないことばかりです。
ですから、子どもに「なんのために勉強するの?」と聞かれた親は、まともに答えることができないので、適当にごまかすしかありません。

子どもが早くに人生の進路を決めれば、網羅的な勉強は必要なく、「選択と集中」をすればいいわけですし、学校に行かないという道もあります。
職業人として成功すれば、学歴などどうでもいいことです。
藤井聡太七冠は高校中退ですが、教養がないなどと批判されることはまったくありません。


ただ、早期に人生の進路を決めるのは容易なことではありません。
本人の資質と環境の組み合わせがうまくいくという偶然にも左右されます。

偶然に左右されるとはいえ、チャンスを拡大するやり方もあります。
私が思うのは、子どもはとにかく好きなことをすることで、親はそれを止めないということです。
子どもがゲームに夢中になると、たいてい親は時間を制限したり、やめさせたりしようとしますが、やりたいことがやれないという不完全燃焼はほかにも影響します。
やりたいだけゲームをやると、たいてい飽きてほかのことに関心が向かいますし、飽きなくても「いつまでもこんなことばっかりやっていてもしょうがない」と考えるようになります。もしいつまでも夢中でやり続けているなら、そこに道が開けるでしょう(ゲーム依存症が心配かもしれませんが、なにかの依存症になるおとなはPTSDが原因なので、子どもも同様のことが考えられます)。

子どもがいろいろなことをやっていれば、将来につながる道を発見するかもしれないので、親はそうした体験の機会を提供することがたいせつです。
習い事をいろいろやるのもいいことですが、子どもにやる気がなかったらすぐにやめることです。
「やりたくないことをやらされる」ということほど心の成長を阻害することはありません。

私はやりたい勉強だけやっていればいいのではないかと考えています。たとえば数学と理科ばかりやるとかです。
もっとも、今の学校制度では不可能ですが。


ところで、これまでの私の主張を「能力別クラス編成」のようなものと思う人がいるかもしれませんが、それはまったくの勘違いです。
能力別クラス編成は学校が子どもを選別するものですが、私が言っているのは、子どもが自分の能力に合った勉強をするということです。

もうひとつ言うと、これまで教育を論じてきたのは頭のいい人ばかりなので、頭の悪い子どものことは眼中になかったようです。
私自身はというと、教育を子どもの側から、さらには頭の悪い子どもの側から見ているわけです。


将来東大に入れそうなほど頭のいい子どもはどんどん勉強すればいいでしょう。
あまり成績がよくないとか、勉強嫌いの子は、「選択と集中」でなにかひとつの道を究めて、将来それで食べていくことを考えるべきです。
そういう道が見つからない子は、とりあえず決められた勉強をして「汎用性労働者」を目指すか、早く就職することです。
あまり頭がよくないのに親にむりやり勉強させられて、三流大学にしか入れなかったというのはいちばんの悲劇で、子どもは挫折感と劣等感を植えつけられ、親を怨むことになります。

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AIが人間の知能を超える瞬間を「シンギュラリティ」といって、それが2045年ごろにくるのではないかといわれています。
しかし、進化するのはAIだけではありません。社会のあらゆる領域が高度化、複雑化していて、人間の知能では対応できなくなりつつあります。

前回の『「究極の思想」の威力をお見せしよう』という記事で、「どんなに高度な文明社会でも、赤ん坊はすべてリセットされて原始人として生まれてくる」と書きました。
ですから、文明社会は赤ん坊を一人前の文明人に教育するシステムを必ず備えています。
文明が発達すると必然的に教育も強化されます。
昔は多くの人は中卒、高卒で働いていましたが、最近は専門学校卒、大卒、さらには大学院で学ぶことが求められるようになりました。

この傾向が限りなく進行していくと……ということはありえません。人間には寿命があるからです。


新しいパソコンを買うと、必要なアプリケーション・ソフトをインストールし、設定をし、必要なデータを入力するという作業をしなければなりませんが、データを古いパソコンから移すという手段が使えず、クラウドも利用していなくて、全部手作業で入力するとすれば、かなりの時間がかかります。すべての作業が終わり、いざ、これからそのパソコンで仕事をしようとしたときにはパソコンの耐用年数がわずかしか残っていないとなれば悲劇です。
人間の教育も、知識をまとめて子どもの頭に移行するということはできず、ひとつひとつ“手作業”で頭の中に入れていくわけですから、文明がさらに発達すると貴重な青春の時間だけでなく壮年の時間までも教育に費やすことになります。これでは文明の発達はむしろ人間にとってマイナスです。

車の自動運転技術のように、文明が進むことで人間が楽になるということもありますが、それはごく一部のことです。文明が発達するほど社会に適応するために学ぶべきことは増えます。

そのしわ寄せがとくに子どもと若者に表れて、不登校、いじめ、引きこもりなどが増加しています。
少子化が進むのも、多くの人は子どもを生んでも子どもは幸せな人生を送れないだろうと予想するからでしょう(日本に限らず先進国は一般的に少子化になります)。


ローマクラブは1972年に「成長の限界」と題するレポートを発表し、世界的な人口増加と経済成長が続いた場合、資源と環境の制約によりあと百年程度で成長は限界に達すると予想して、世界に衝撃を与えました。
それまで文明というのは限りなく発達していくものだと漠然と考えられていたのです。
このレポートの翌年に第一次オイルショックが起こり、レポートの信憑性がいよいよ高まりました。
しかし、このレポートは重要な事柄をもらしていました。それは「人間の能力」です。成長は「人間の能力」によっても制約されるのです。
資源と環境の問題は、リサイクルの徹底と再生可能エネルギーの利用などである程度対処が可能ですが、「人間の能力」については対処のしようがありません(いずれは遺伝子テクノロジーで人間の能力向上が可能かもしれませんが)。

シンギュラリティとは別の意味で、文明の発達が人間の能力を超える瞬間が近づいています。



「人間の能力には限りがある」というのは当たり前のことですが、これまではっきりとは認識されてきませんでした。
逆に「人間は脳の30%(20%)しか使っていない」などという俗説が流布されていました。

若者に対して「君たちには無限の可能性がある」ということもよく言われます。
これは「君たちの可能性は未知数だ」と言うべきところ、「未知数」を「無限」に取り違えたものです。

人間の能力は遺伝で決まるか環境で決まるか、氏か育ちかという議論もよく行われてきました。
つまりこんな基本的なこともわかっていなかったのです。

しかし、これは昔のことです。今はさすがに多くのことがわかっています。

遺伝か環境か、氏か育ちかという二者択一の議論は間違っていて、氏も育ちも、つまり人間は遺伝と環境のふたつの要素で決まります。
昔は環境の要素が強いと考えられていました。
ラテン語のタブラ・ラーサ(空白の石板)という言葉で表されますが、生まれたばかりの人間は白いカンバスと同じで、教育によってどんな絵でも描けるという説がありました。これは今でも教育界に根強くあります。
しかし、科学的研究によって遺伝の要素の大きいことが次第にわかってきました。
一卵性双生児で、生まれてすぐ引き離され別の環境で育った兄弟を調べることで、遺伝と環境の影響の割合がわかります。それによると、IQや学業達成は三分の二までが遺伝によって決まります。
また、神経質、外向性、協調性などの性格や気質もかなりの程度遺伝で決まります。

ただ、「遺伝で決まる」というと、子どもは親の能力や性質をそのまま受け継ぐのかと誤解する人がいます。
実際は、同じ親から生まれた兄弟でも、能力も性格も違いますし、顔にしても「言われてみれば似ている」程度のものです。親ともかなり違いますから、「トンビがタカを生む」ということもありえます。つまり遺伝の影響はあるにしても、個人差がひじょうに大きいのです。
ですから、私は「遺伝」ではなく「生得」という言葉を使ったほうがいいと思っています。
つまり「人間は遺伝で決まっている面が大きい」ではなく「人間は生まれつき決まっている面が大きい」というのです。
そうすれば個性を尊重することにもつながります。

親は、子どもが活発な性格の子だと、おとなしい子にしつけようとしがちですが、間違った考え方です。これはこの子の持って生まれた性格だと思って受け入れると、子育ては楽になります(持って生まれた性格は固定しているわけでなく、変わっていきますが、親が自分につごうよく変えようとしてもうまくいきません)。


子どもの外見や性格が親の遺伝の影響を受けることは誰でも認めます。
しかし、子どもの知能が親の遺伝の影響を受けると公言することはタブーとなっています。
「生まれつき頭のよい人と生まれつき頭の悪い人がいる」と言うこともタブーです。

なぜこんなタブーがあるかというと、「黒人は知能が低い」という言説があったように知能と人種差別が密接に結びついていて、さらに「生まれつき頭の悪い人がいる」と言うと優生思想を喚起しかねないという問題があるからです。

たとえばアメリカで1950年代に、スプートニク・ショックを機に国民の教育水準を高めるために巨額の連邦予算を投入して「ヘッドスタート計画」という早期教育プログラムが全国的に展開されました。有名な教育番組「セサミ・ストリート」もこのときの産物です。プログラムが開始されて約十年たったとき、心理学者のアーサー・ジェンセンがこのプログラムは失敗したと結論づける論文を発表しました。この早期教育の知能に与える効果は一時的なもので、プログラムを離れるともとに戻ってしまう、その理由は、知能の遺伝規定性が80%もの高さを持つからだとジェンセンは説明しました。さらに彼は、白人と黒人の知能の差について論じ、その原因も遺伝的であることを示唆したことでアメリカの世論に火をつけてしまいました。「ジェンセニズム」は人種差別主義の代名詞とされ、世間のバッシングの中、彼は文字通り外を一人で歩くことすら危険な状況であったといいます(参考文献『遺伝子の不都合な真実』安藤寿康著)。

その後も、「知能は遺伝する」と主張する人は出てきましたが、そういう人は決まって右派の科学者で、左派の科学者が「知能と遺伝を結びつけるな」と反論するということが繰り返されてきました。


今も「知能は遺伝する」と言うことはタブーですし、「生まれつき頭のいい人と悪い人がいる」と言うのもタブーです。


しかし、「生まれつき頭のいい人と悪い人がいる」というのは事実ですから、事実を認識しないと不都合が生じます。
たとえば教室には頭のいい子と悪い子がいるのに、教師は全員に向けて同じ授業をするので、頭の悪い子は授業についていけず、教師の話が頭に入ってこないということになります。頭が悪いといってもほんの少し悪いだけなのに、実質的に授業を受けていないことでさらに頭が悪くなります。つまり一人一人に合わせた授業をしていればみなそこそこの成績になるのに、一斉授業をするために“落ちこぼれ”となり、教室の“落ちこぼれ”はさらに社会の“落ちこぼれ”となるのです(最近“落ちこぼれ”という言葉はいわれなくなりましたが、一斉授業のもとで学習内容が高度化すれば“落ちこぼれ”は増えているはずです)。

ベストセラーとなった『ケーキの切れない非行少年たち』(宮口幸治著)には、少年院に入るような少年は知的障害とまではいかない境界知能の持ち主が多いと書かれています。学校でちゃんと対応していれば社会生活を営む程度の知能はあるのに、学校でずっと放置されてきたために、計算もできない、漢字も書けない、ケーキを三等分することもできないという状態となり、みずから犯罪に手を染めるか、犯罪組織に利用されたりして少年院に入ってくるのです。
ですから、こういう少年に反省させても無意味なことで、その子にあった教育(認知機能トレーニング)をすることだと著者は述べます。

『累犯障害者』(山本譲司著)には、刑務所にも知的障害者や境界知能の人が多く収容されていて、出所しても再犯してまた戻ってくるということが書かれています。
つまり「生まれつき頭のいい人と悪い人がいる」ということを認めないために、学校や社会が適切な対応をせず、犯罪を生み、刑務所や生活保護など福祉に負担をかける結果になっているのです。


今、シンギュラリティによって人類はAIに支配されるのではないかという議論がありますが、こうした懸念を表明しているのは科学者、大手IT企業経営者、欧米の政治家などです。
彼ら頭のいい人たちが世界の覇権を握っていたところに、AIが台頭してきて、覇権を奪われるかもしれないと思って、あわてているのです。
これは一般大衆にはどうでもいいことです。支配階級に支配されるのもAIに支配されるのも同じです。

一般大衆にとって興味があるのは「AIは人間の仕事を奪うか」ということでしょう。
世の中には雇う人と雇われる人がいて、雇う人は人間を雇うかAIを導入するか、コストの安いほうを選択します。AIのほうが人間よりコストが安ければ、人間は失業します(これは「AIが人間の仕事を奪った」というより「雇用者が人間の仕事を奪ってAIに与えた」というべきです)。
AIが仕事をしてくれれば、人間の労働時間がへってもよさそうなものですが、雇う人は利益を追求するので、そんなことにはなりません。


「生まれつき頭のいい人と悪い人がいる」と言うことがタブーなので、成功した人たちは努力を誇り、社会の底辺の人を努力しない人と見下します。
そのため福祉はないがしろにされます。

今のシンギュラリティの議論は、いわば天上界の覇権争いのことです。
私が述べてきたのは、社会の底辺のことです。
学校教育や福祉を改革せずにAIなどがどんどん進化していくと、社会に適応できない“落ちこぼれ”が増え続けます。

文明の発達は人類に恩恵をもたらしますが、一方で人類の負担も増やします。
頭のいい支配階級はどんどん文明を発達させますが、頭の悪い下層階級は「文明の負担」が「文明の恩恵」を上回るもうひとつのシンギュラリティに直面しつつあります。

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横浜市鶴見区で6月29日、18歳の女子大学生冨永紗菜さんが包丁で刺されて死亡し、自首してきた22歳の自称会社員伊藤龍稀容疑者が逮捕されました。

富永さんと伊藤容疑者は交際歴があり、交際期間中に4度も警察に通報がありました。富永さんは警察官に「別れ話で首を絞められた」とか「別れるなら殺すと言われた」と言ったということです。
しかし、富永さんは「仲直りしたから大丈夫」と言ったので、警察はストーカー規制法に基づく禁止命令を出すなどの対応はとりませんでした。

この事件は最初、「ストーカーに殺された」といった報道もありましたが、二人は最終的に交際していたようなのでストーカーではないとされ、ストーカー規制法を適用することはできません。
ストーカー事案でなければなにかというと、デートDV(恋人間暴力)です。

2001年に配偶者暴力防止法(DV防止法)が制定されましたが、この法律はあくまで夫婦関係に適用されるものですから、デートDVには適用されません。
これでは不十分だということで、2013年に法律が改正され、「同居中またはかつて同居していた交際相手」にも適用されることになりました。
しかし、富永さんと伊藤容疑者は同居していたことはないようですから、やはりDV防止法は適用されません。

せっかくストーカー規制法とDV防止法をつくったのに、穴が空いていました。
法律の制定に問題があります。

警察の対応も問題です。
首を絞められたとか馬乗りになって顔面を殴られたとかの暴力があり、「別れるなら殺す」という脅迫もありましたから、普通の刑法で対応できそうなものです。
とりわけ「別れるなら殺す」と脅されている人間が「仲直りした」と言った場合、それは脅しに屈したのではないかと疑うのが普通です。
警察は被害者よりもDV男寄りです。

警察だけでなく司法組織全体にその傾向があります。
日本では刑事事件の有罪率は99.9%などといわれますが、性暴力に限ってはよく無罪判決が出ます。
判決理由は「許容していると誤認した」とか「わかる形で抵抗していない」とか「拒絶不能と認めるには疑いが残る」といったものです。
つまりレイプを犯罪として処罰するには、被害者側が「同意していないこと」と「暴行や脅迫によって抵抗できない状態だったこと」を立証しなければならないのです。
現実には恐怖で抵抗できないことがよくあり、そういう場合は男が誤認したのもやむをえないということで無罪になってしまいます。
裁判所の論理はレイプ男の身勝手な理屈と同じです。

法律をつくる人間も警察司法組織の人間もほとんど男なので、こういうことになってしまいます。


それから、「自立した個人」神話ともいうべきものがあります。
人間は成人すれば誰でも自立するものだという考え方です。
これは男の論理とはいえませんが、強者の論理なので、似たようなものです。

自立した人間なら、自分より強い人間に暴力をふるわれた場合、逃げ出すなり警察に助けを求めるなりの、なんらかの対応をするはずです。もしなにもせずに暴力をふるわれていたら、それは暴力を受け入れているということです。
こういう理屈でDV(家庭内暴力)は容認されてきました。
これが「自立した個人」神話です。

実際には成人しても自立していない人はいっぱいいます。
ひとつは、自分の力では生活費を稼げない女性、つまり経済的に自立していない女性です。
そういう女性は夫から暴力をふるわれても受け入れるしかありません。
DV防止法が制定された背景には、経済的自立のできていない女性の存在が認識されてきたということがありました。

しかし、人間の自立は「経済的自立」ばかりではありません。
「心理的自立」もあります。
心理的自立ができていない人は、恋人に依存して、暴力をふるわれても逃げられないことがあります。
こうしたことの理解はまだまだです。
そのためデートDVが法律の網から抜け落ちてしまいました。


ただ、「心理的自立」というのは理解しにくいかもしれません。
それは「自立」を中心に考えるからです。「依存」を中心に考えればよくわかります。

生まれたばかりの赤ん坊は、親に全面的に依存しています。
成長するとともに依存の対象が友だちや幼稚園や学校などに広がっていきます。
就職して自分の生活費を稼げるようになると「経済的自立」を達成したとされ、親からも自立したと見なされますが、実際は会社という新しい依存先ができたわけです。

社会性動物の人間はつねに周りの人間に依存しています。どこまでいっても「自立」はしません。
ただ、同じ依存するにしても、よい依存のしかたと悪い依存のしかたがあります。
いちばん悪いのは、絶対的な依存先を持つことです。そうすると、そこからどんな仕打ちをされても受け入れるしかなくなります。
その会社をクビになると生活していけないという人は、上司からひどいパワハラをされても受け入れるしかありません。
これは夫からひどいDVをされても受け入れる妻と同じです。
その会社をクビになってもたいして困らないとか、配偶者と別れてもやっていけるという人は、つねに心に余裕がありますし、ひどい目にあわされることもありません。
依存先は多くあるほど有利です。

「自立」を人生の目標にしても、雲をつかむような話です。
「適切な依存先を持つ」を目標にすれば、具体的に進んでいけるのではないでしょうか。


ただ、ひとつ困ったことがあります。
幼児期は親に絶対的に依存しているので、親から虐待されても受け入れるしかないことです。
幼児虐待の体験はトラウマとなって、のちの人生に影響します。
虐待された人間は、親に十分に依存できなかったので、なにか代わるものに依存しがちです。アルコール依存、薬物依存、ギャンブル依存などです。
恋愛相手に依存することもあります。恋愛相手に依存すると、相手から暴力をふるわれてもなかなか別れられません。そうしてデートDVが起こります。


では、DV男はどういう心理でDVをするのでしょうか。
この理由は単純です。自分が幼児期に親から暴力をふるわれていたからです。
親から虐待された子どもは自分が親になると子どもを虐待することがあり、「虐待の連鎖」と呼ばれますが、自分の子どもだけでなく、恋人や配偶者にも暴力をふるうのです。
いわば「虐待の連鎖の寄り道」です。

親子関係は人間関係の基本なので、恋愛関係にも影響を与えるのは当然です。
愛する相手についついモラハラや束縛など相手のいやがることをしてしまうという人は、自分の親子関係を振り返るといいかもしれません。


「自立した個人」という幻想を捨てて、人間は誰もが依存して生きているということを認識すれば、幼児虐待、配偶者間DV、デートDVなどの厄介な問題もはっきりととらえられるようになります。

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去年1年間に自殺した人の数は2万1881人で、前の年から874人増え、2年ぶりに増加しました。
しかし、最多だった2003年の3万4427人からはかなり減少しています。
問題は小中高校生の自殺者数です。全体が減少傾向なのに小中高校生の自殺者数は増加傾向で、今年は512人となり、過去最多を記録しました。

自殺する子どもは氷山の一角で、水面下には死にたくなるほど不幸な子どもがたくさんいることでしょう。

ユニセフが2020年に発表した報告書によると、「子どもの幸福度」で日本は38か国中で総合順位20位でした。この総合順位は「精神的幸福度」「身体的健康」「スキル(読解力、数学力、社会的スキル)」の3分野を総合したものです。
日本は「身体的健康」は1位でしたが、「精神的幸福度」は37位と下から2番目でした(「スキル」は27位)。

つまり日本の子どもは世界的に見てもきわめて不幸で、しかもその不幸はどんどんひどくなっているようなのです。

子どもを生んでも不幸になるならと、出産をためらう親もいるでしょう。
「子どもの不幸」は少子化の隠れた原因かもしれません。


どうして日本の子どもは不幸なのでしょうか。
子どもの主な生活の場は家庭と学校です。学習塾や習い事の教室、SNSなどは割合としてはごくわずかです。
ですから、不幸の原因のほとんどは家庭と学校にあり、家庭と学校を改革すれば子どもの幸福度は向上するはずです。

学校では、ブラック校則をなくすだけでも効果があるはずです。
ところが、そういう議論はあまり起きません。
逆に「ルールに従うことはたいせつ」という声が多く、中には「社会に理不尽な規則はいっぱいあるので、ブラック校則に慣れておいたほうがいい」などという意見まであります(こういう意見の人は社会をよくしようという気持ちはまったくないのでしょう)。

ランドセルが重くてたいへんなので、引っ張って歩けるキャスターつきの「さんぽセル」という新製品を小学生が開発し、人気商品となっていますが、「筋力が鍛えられない」とか「手がふさがって危険」という反対意見があります。子どもが重いランドセルを背負うことは体の発育に悪影響があるはずですし、重いものを背負っていては機敏に動けなくて逆に危険です。

昔は子どもの負担をへらすために「ゆとり教育」が推進されましたが、どうやら今では「ゆとり教育」は間違いだったとされているようです。
そのせいか、学校教育全体が子どもに楽をさせるのではなく、子どもに負担をかける方向へといっています。

その結果かどうかはわかりませんが、学校でのいじめは増え続けています。
2021年度の小中高校などにおけるいじめの認知件数は61万5,351件と、やはり過去最多を記録しました。


では、家庭のほうはどうなっているのでしょうか。
子どもの自殺の背景には家庭での虐待があると推測されます。
幼児虐待というと、新聞記事になるような、子どもが死んだり大けがをしたりといった事件が連想されますが、それは氷山の一角で、水面下にはそれほど極端でない虐待が広がっています。

幼児虐待は身体的虐待、心理的虐待、性的虐待、ネグレクトに分類されます。
身体的虐待について、厚生労働省が2020年に全国五千人の親を対象に行った調査では、「過去6カ月以内にしつけとして子どもに体罰を与えたことがあるか」との質問に、1回でも「あった」と答えた人は33.5%、「体罰は場合により必要」などとする容認派が41.7%でした。

一昔前は体罰は当たり前に行われていましたから、身体的虐待は減少傾向だと思われますが、心理的虐待についてはもしかすると増加傾向かもしれません。

最近、「教育虐待」という言葉がよくいわれます。
「教育虐待」というのは、ウィキペディアによると「教育熱心過ぎる親や教師などが過度な期待を子どもに負わせ、思うとおりの結果が出ないと厳しく叱責してしまうこと」と説明されています。心理的虐待の一種です。
「教育熱心なのは子どもにとってよいこと」という考え方が一般的なために、教育虐待は増加しているかもしれません。

たとえば3月1日、埼玉県戸田市の中学校に17歳の少年が侵入し、男性教員にナイフで重傷を負わせるという事件がありました。逮捕された少年は「誰でもいいから人を殺したいと思った」と供述しているということです。また、近辺では猫の死骸が発見されるという事件が相次いでいて、少年はそれへの関与もほのめかしていて、酒鬼薔薇事件を連想させたことから、マスコミでもかなり騒がれました。

最近、通り魔事件などの犯人が「死刑になりたかった」とか「相手は誰でもよかった」と語るケースがよくあります。
これは「拡大自殺」といわれるものです。つまり他人を自分の自殺に巻き込む行為です。
戸田市の事件もそれだと思われます。

戸田市の17歳の少年について、デイリー新潮の『中学校襲撃の17歳「猫殺し」少年 叔母が涙ながらに明かす“暴走のきっかけ”「中学受験のプレッシャーで不登校に」』という記事から要点だけ紹介します。

少年の両親はともに東京都庁に勤める地方公務員で、有名私大に通う姉がいて、4人家族です。
少年の小学校時代の同級生は「ご両親がすごく教育熱心だったと聞いたことがあって、お姉さんがとても賢いって評判でした」と語りました。
少年は6年生のころから不登校の気が見られるようになり、地元の市立中学に入ってから本格的な不登校に陥りました。
少年の叔母は「小学6年生の時に中学受験のプレッシャーで学校に行くのが嫌になってしまったみたいで。その頃から不登校に……。自宅のトイレに『武蔵中学合格』と書かれた紙が貼られていたのを覚えています」と語りました。
少年は両親の思いを受けて、東京の名門男子進学校の武蔵中を目指しましたが、思うように学力が伸びず、やがて精神的に追い込まれ、不登校になってしまったということです。
叔母が「親から“学校に行け”と言われるのが嫌だったのか、6年生の時に、さいたま市にある私の両親(=少年の祖父母)の家まで逃げてきたこともありました」と語ったように、祖父母が少年の心のささえになっていたようです。
しかし、昨年5月には祖母が高齢者施設に入り、その家には誰もいなくなってしまいました。
なにかと酒鬼薔薇事件を連想させます。酒鬼薔薇事件の少年Aも、同居する祖母が心のよりどころでしたが、祖母が亡くなってからおかしくなったとされます。

親が教育熱心なあまり子どもに強いプレッシャーを加え、子どもがおかしくなってしまったのでしょう。
最近、こうした事件が多い気がします。

昨年の1月15日、大学入学共通テストが行われた日に、試験会場となった東京大学前の路上で2人の受験生と72歳の男性が刃物で切りつけられる傷害事件が起きました。殺人未遂容疑で逮捕されたのは高校2年の男子生徒(17歳)で、犯行時に「俺は東大を受験するんだ」などと叫びました。この生徒は愛知県の有名進学校の生徒で、 取り調べにおいて「医者になるため東大を目指していたが、1年くらい前から成績があがらず自信をなくした。人を殺して罪悪感を背負って切腹しようと思った」と供述しました。
週刊誌などの報道で、やはり教育熱心な親のいたことが明らかになっています。

子どもの自殺と拡大自殺の背後には、家庭におけるなんらかの虐待があります。
虐待をなくせば、子どもの自殺もへりますし、子どもの幸福度もアップすることは確実です。


ともかく、子どもの幸福度をアップさせようとすれば、家庭と学校を改革するしかありません。
ところが、学校を改革する議論はほとんどありませんし、家庭を改革する議論はそれよりもっとありません。
いや、むしろ逆行する動きがあります。
それは家庭教育支援法と青少年健全育成基本法の制定を目指す動きです。

安倍政権は両法案の成立を目指し、2014年に青少年健全育成基本法案を国会に提出しましたが、審議されないまま廃案となり、家庭教育支援法案は2017年に提出が断念されました。
しかし、いくつかの自治体で家庭教育支援条例が制定され、いくつかの地方議会で家庭教育支援法の制定を求める意見書が可決されています。
こうした動きの背後に日本会議、統一教会の存在のあることがわかっています。

両法案は成立していませんが、その法案の精神は自民党や文科省を通して日本の教育を方向づけているといえます。


家庭教育支援法と青少年健全育成基本法の問題点は、単純にいえば、子どもの権利や主体性を無視して、子どもを教育の客体と見なしていることです。

統一教会は勝共連合のホームページにおいて、子ども政策についてこのように書いています。
子供の成育における父母や家庭の役割を軽視する左翼系の活動家が、武器として用いるのが「子どもの権利条約」だ。活動家らは同条約によって子供が「保護される対象」から「権利の主体」に変わったと主張する。

実は、この条約には当初から拡大解釈を懸念する声が上がっていた。西独(当時)は批准議定書に「子どもを成人と同等の地位に置こうというものではない」と明記し、米国に至っては「自然法上の家族の権利を侵害するもの」として批准しなかった。

日本では、増え続ける虐待や子供の貧困をひきあいに「子どもの権利」を法律に書き込んでいないことが問題だと短絡的に考えられている。

しかし、虐待が起こるのは子供の権利が法律に書き込まれていないからではない。夫婦や三世代が一体となって子供を愛情で包み込む家庭や共同体が壊れているからだ。

 子供政策は、家庭再建とセットで考えるべきである。
https://www.ifvoc.org/news/sekaishiso202201/
完全に子どもの人権を無視している組織が政権の中枢に入り込み、教育行政に影響を与えていたかもしれないというのは恐ろしいことです。

「健全な子どもになりたい」とか「健全な子どもに教育してほしい」などと思う子どもはいません。
「子どもを健全にしたい」と思うおとながいるだけです。
そして、おとなの思う「健全」は子どもの望むものとは必ずしも一致しないので、「青少年健全育成」は子どもの自由や裁量を制限することになってしまいます。

家庭教育支援法も原理は同じです。親が子どもを思う通りの人間にしようとすることを支援するものですから、「教育虐待」がさらに進みかねません。

家庭教育支援法について、「家庭教育に国家が介入するのはよくない」として反対する意見がありますが、これでは子どもの教育権を巡って国家と家庭(親)が争っていることになり、子どもの主体性を無視していることではどちらも同じです。


これまでの日本では、子どもを「権利の主体」や「学習する主体」と見なすのではなく、「教育の客体」と見なしてきました。
それこそが子どもの幸福度が低い根本原因です。
家庭教育も学校教育も「子どもの人権」「子どもの主体性」を尊重するものに再編しなければなりません。

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1月16日に静岡県牧之原市で13歳(中学1年生)の少女が実の母を刃物で数か所刺して殺害するという事件が起きました。
文春オンラインの記事には「トラブルの発端は、スマホでのSNSの使い過ぎを母親から注意されたことだったようです。母親が激しく娘を叱責し口論になった後、娘は母親が寝ている時間帯に部屋に入り、犯行に及んだとみられています」と書かれています。

スマホやゲームについては、どこまで子どもに使わせていいのか悩んでいる親が少なくないでしょう。スマホのトラブルだけが事件の原因ととらえるのは単純すぎますが、この事件をきっかけに子どものスマホやゲームの使い方について議論が起こるかと思いました。

「スマホ脳」「ゲーム脳」という言葉があって、スマホやゲームのやりすぎはよくないという説がありますが、一方で、「テレビゲームで遊ぶ子供は認知能力が向上…長期的な影響は不明」という記事に示されているように、テレビゲームをよくする子どもはほとんどしない子どもより認知能力テストで高い成績を示したというデータもあります。
常識的に考えても、夢中でゲームをすれば脳は鍛えられるはずです。
将棋の藤井聡太五冠は5歳で将棋を覚え、それからずっと将棋漬けで“将棋脳”になっているはずですが、まともに育っているように見えます。
スマホについても、ITスキルは今後絶対必要になるので、小さいころから使いこなしていたほうが有利に決まっています。

私の考えでは、ドラッグやアルコールなど体に悪いものは別ですが、人間は基本的にやりたいことをやって悪いことにはなりません。ゲームかなにかに夢中になれば、いずれ飽きて関心はほかに移っていきますし、いつまでも夢中であるなら、それはそれで道が開けます。やりたいことを止められると、ほかのことにも集中できなくなります。

もちろんほかの考え方もあるでしょうから、議論すればいいことです。
ところが、そうした議論はほとんど起きていません。
ネットの書き込みなどには、「子育てに正解はない」「家庭ごとに違ったやり方があっていい」といったものがほとんどです。

つまり今は、教育に関しては親の裁量権が広く認められています。
では、その教育の結果の責任は誰が負うのでしょうか。


刑法の規定では14歳未満の子どもには刑事責任が問えないので、今回の13歳の少女も刑事罰が科されることはなく、今後は家庭裁判所が少女を少年院か児童自立支援施設に送致するか保護観察処分にすることになると思われます。
昔は16歳未満は刑事責任が問えないとなっていたのですが、1997年にいわゆる酒鬼薔薇事件が起きて厳罰化を求める世論が高まり、少年法改正によって14歳未満となりました。
しかし、13歳による殺人が起きたわけです。

少年に刑事罰を科さないのは、少年は更生しやすいので、罰よりも教育や保護のほうが効果的だということからです。
しかし、おとなは罰されるのに少年は罰されないのはおかしいと考える人もいます。それに、刑事責任年齢が14歳となっていることにも根拠がありません。
少年の刑事罰の問題は論理的にすっきりしません。
なぜすっきりしないかというと、たいせつなことがすっぽりと抜け落ちているからです。
それは「おとなの責任」です。

13歳、14歳の子どもといえば、親または親の代理人の完全な保護監督下に置かれ、教育・しつけを受けていて、さらに教師による教育も受けています。もしその子どもが犯罪やなにかの問題行動を起こしたら、親と教師に責任があると考えるのが普通です。
ですから、子どもの責任を問わない分、おとなの責任を問うことにすれば、論理的にすっきりします。
まともな親なら「この子に罪はない。代わりに私を罰してくれ」と言うものです。

ところが、今の世の中は「おとなの責任」は問わないことになっています。
13歳の少女の場合も、母親がスマホの使いすぎを注意したことの是非を論じると母親の責任を問うことになりそうですから、そういう議論自体が封じられています。

このケースは母親が亡くなっているので、母親の責任を問う意味がないともいえますが、亡くなっていないケースでも同じです。

酒鬼薔薇事件の場合は、少年Aは両親(とくに母親)にきびしくしつけされていましたが、マスコミは両親の責任をまったく追及しませんでした。両親が弁解を書き連ねた『「少年A」この子を生んで』という本を出版しても、それをそのまま受け入れました。

昨年1月15日、大学入学共通テストの日、試験会場となった東大前の路上で17歳の少年が刃物で3人に切りつけて負傷させるという事件がありました。少年は愛知県の名門高校に通う2年生で、犯行時に「東大」や「偏差値」という言葉を叫んでいました。親や学校が少年に受験のプレッシャーを過剰に与えていたのではないかと想像されますが、やはりそうしたことは追及されませんでした。

マスコミは「子どもは親と別人格」という論理を用いて、事件を起こした少年への批判が親に向かわないようにしています。
しかし、そういう論理が通用するのは社会の表面だけです。水面下では親のプライバシーをあばいて、人格攻撃する動きが活発に展開されます。

私が「おとなの責任」をいうのは、親への人格攻撃を勧めているのではありません。
親が子どもにどういう教育をしたかを明らかにして、ほかの親の参考になるようにすることを目指しています。


「おとなの責任」をないことにするのは、学校のいじめ問題にも表れています。

『「法律」でいじめを見ると…弁護士が小学生に出張授業 認識変わるきっかけに【鹿児島発】』という記事において、弁護士が小学生に対して『「いじめ」は、一つ一つの行動を取って見ると、実はそれを大人がやったら犯罪になる行為。たたいたり蹴ったりする行為は、「暴行罪」という犯罪になります』と言うと、小学生はいじめの重大性を認識して真剣な表情になったなどと書かれています。
しかし、弁護士なら「おとながしたら暴行罪という犯罪になる行為も、子どもがしたら犯罪になりません。なぜでしょうか。それは、おとながあなたたち子どもをたいせつにしたいと思うからです」とでも言うべきです。

そもそもは弁護士が子どもに対して出張授業をするのが間違っているのです。同じするなら親と教師に対してするべきです。
親や教師に向かって「おとながしたら暴行罪という犯罪になる行為も、子どもがしたら犯罪になりません。なぜでしょうか。それは、あなたたち親や教師に責任があるからです」と言えば、親や教師の意識が改善され、いじめ防止にもつながるかもしれません。
いじめというのは、学校という檻の中で起こるのですから、檻の設置及び管理をする文科省、教師、親に責任があります。


しかし、おとなは「おとなの責任」を認めたくないので、あの手この手でごまかしをします。
たとえばひろゆき氏は1月19日に次のようなツイートをしました。

人間だけでなくイルカやカラスなどの動物もイジメをします。大人でもイジメはあります。
「イジメを無くそう」という綺麗事は、イジメられてる子には無意味です。
綺麗事ではない現実的な解決策を大人は伝えるべきだと思うんですよね。

イルカやカラスのいじめがどういう状況のことをいっているのかよくわかりませんが、おとな社会のいじめと学校のいじめは数がまったく違います。
2021年度の小中高校などにおけるいじめの認知件数は61万5,351件と過去最多となりましたが、この数字もすべてとはいえません。一般社会でのいじめの件数の調査はありませんが、会社でのいじめが学校でのいじめより少ないのは明らかです。若いタレントさんがデビューまでのいきさつを語るのをテレビで見ていると、みな判で押したように学校でいじめられていたと言います(少なくとも8割ぐらいは言います。私個人の感想ですが)。また、同窓会に行くと自分をいじめた人と会うので行きたくないという声をけっこ聞きますが、こういう人は社会ではいじめにあっていないのでしょう。

ひろゆき氏はさらに次のようにツイートしました。

フランスは「イジメをする人に問題がある」と考え、加害者側がクラスを変えられたりします。
日本は被害者が学校を変える事を勧められたり、中学の校長が自殺した子に
「イジメはなかった。彼女の中には以前から死にたいって気持ちがあったんだと思います」と責任転嫁。


加害者がクラスを変えるのでは、新しいクラスでいじめをするだけではないかという疑問はさて置いて、ひろゆき氏は「イジメをする人に問題がある」というフランス式の考えに賛同して、いじめをする子どもに責任を負わせています。校長も批判していますが、これはいじめをする子どもに責任を負わせないことを批判しているのです。
いじめをする子どもに責任を負わせれば、「おとなの責任」はないことになります。

親や教師は「いじめはよくない」ということを教えているはずです。それでいじめが起これば、教え方が悪かったわけで、教えた者の責任が問われるべきです。

「特別の教科道徳」が小学校では2018年度から、中学校では2019年度から実施され、文科省の「小学校学習指導要領解説」に「今回の道徳教育の改善に関する議論の発端となったのは,いじめの問題への対応であり,児童がこうした現実の困難な問題に主体的に対処することのできる実効性ある力を育成していく上で,道徳教育も大きな役割を果たすことが強く求められた」と書かれているように、道徳教育の大きなねらいはいじめの防止でした。
ところが、いじめの認知件数は過去最高を更新したわけです。
明らかに道徳教育の失敗ですが、誰も責任を取ろうとしません。いや、責任を問う声すら上がりません。おとなはみな「おとなの責任」をないことにしたいのです。

いじめ発生の原因は明白です。
学校生活は、長時間の退屈な授業と無意味な規律の強制で檻の中で生活しているも同然です。
ニワトリは限度を越えた狭いケージで飼われると、ストレスから互いの体をつつき合って、弱い個体は全身の羽根を抜かれてしまいます。
学校のいじめもそれと同じです。どちらがいじめているかはたいした問題ではありません。

ですから、いじめ対策としては、一斉授業から個別授業へ、無意味な規則の廃止といったことが重要です。

家庭でのストレスも学校でのいじめの原因になります。
たとえばスマホやゲームを禁止されることもストレスです。
親が子どものスマホやゲームを禁止するなら、ちゃんと理由を示して子どもを納得させなければなりません。
今回の13歳の少女の事件については、そこが欠けていたかと思われます。


子どもが納得しないことを親が強制するのは、今は普通に行われていますが、いずれ親によるパワハラと認定されるでしょう。
昔は当たり前とされた親による体罰が今は虐待と認定されるのと同じことです。
これからは「おとなの責任」が問われる社会になるはずです。

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