村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

カテゴリ: 子どもの復権

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第26回参院選が6月22日に公示されました。

選挙において若者の投票率が低いので、「若者は投票に行くべきだ」とか「若者はもっと政治に関心を持つべきだ」という呼びかけが行われますが、こういう発想は根本的に間違っています。
若者の活字離れやテレビ離れに対して、「若者はもっと本を読むべきだ」とか「若者はもっとテレビを見るべきだ」と呼びかけるのと同じで、なんの解決にもなりません。

投票率を上げたいなら、政治をおもしろくすることです。
手っ取り早いのがエンターテインメントの要素を入れることです。

れいわ新選組はそのへんをうまくやっています。
「れいわ景気爆上げダンスパーティ」と称して、バンド演奏と、やぐらを組んだ上での盆踊りで駅前に人を集め、山本太郎候補も浴衣姿で演説しています。

自分の主張が正しいと思うなら、それを世に広めるために工夫をするのは当然のことです。
自由民権運動のときは、川上音二郎が「オッペケペー節」に乗せて自由民権の主張をしました。

NHK党も暴露系YouTuberを比例区に立候補させて、政見放送のときになにか暴露するのではないかという期待を集めていますし、黒川敦彦幹事長はNHKの「日曜討論」において、「安倍晋三元首相は統一教会の集会に参加していたし、高市早苗氏も統一教会に関与していた」「自民党はCIAから資金をもらっていた。これはアメリカの公文書ではっきりしている」と発言し、これはマスコミにはほとんど取り上げられませんでしたが、ネットでは盛り上がりました。


れいわ新選組もNHK党も新興政党で弱小政党です。こういう政党は有権者にアピールするのに必死です。
れいわ新選組の「消費税廃止」という公約は、疑問に思う人も多いでしょうが、エッジが立っていてアピールするのは確かです。
NHK党の「NHK受信料を払わない国民を守る」という主張は、親元を離れて一人暮らしを始めた若者にとってNHK受信料は切実な問題ですから、これも若者には大いにアピールしているのでしょう。

既成政党の旧態依然としたやり方が日本の政治を沈滞させて、若者の政治離れを招いているのです。


日本の政治を活性化させて、若者の関心を引くようにするには、れいわ新選組やNHK党みたいなベンチャー政党がどんどん出てくるようにすればいいのです。
ところが、日本では逆の方向に進んできました。
二大政党制を目指してきたのです。
中選挙区制を廃止し、ドイツ式の比例代表制を併用しつつも基本はアメリカやイギリスのような小選挙区制にしました。
「小選挙区制にすれば二大政党制になる」という理屈なのですが、そんなはずがありません。

アメリカやイギリスが二大政党制になるのは、おそらく一神教の二元論的な世界観が国民に根付いているからでしょう。
日本のような国が小選挙区制にすれば、みんなが「寄らば大樹の陰」と思うので、「一大政党制」になってしまいます。
いったんそうなれば、政権担当経験のない弱小野党に政権は任せられないので、「一大政党制」が「一党独裁」になってしまいます(今そうなりつつあります)。


今は「多様性(ダイバーシティ)」のたいせつさが言われる時代です。
日本は逆の方向に進んできたわけです。
日本人は米英を民主主義国のお手本と思っていて、真似すればいいと思ったのでしょう。
それと、ピラミッド型の中央集権国家を理想と思う人が多かったのでしょう。

中央集権国家か多様性のある国家か――というのは、大きな価値観の対立です。

これは現代思想ではドゥルーズとガタリが『千のプラトー』で述べたことですが、「ツリーかリゾームか」という言葉で知られてきました。
これまでの西欧の価値観は、中心のあるツリー型を理想としてきたが、これからは中心のないリゾーム(地下茎)型を目指すべきだというのがドゥルーズとガタリの思想です。
中央集権国家が有利なのは戦争のときぐらいです。多様性のある国家のほうが時代の変化に対応しやすく、経済力、文化力、科学技術力のどれにおいても有利なはずです。


ともかく、日本の政治は多様性を排除する方向に進んできました。
政党交付金の対象となる政党は、所属国会議員が5人以上で、全国の得票率が2%以上とされるので(政党要件)、小さな政党がだんだん大きくなっていくというのが困難です。
また、立候補の供託金が、1人当たり小選挙区で300万円、比例区で600万円と巨額で、得票数が少ないと没収されてしまうので、この点でも新興政党や新人候補はきわめて出にくくなっています。
公職選挙法による選挙運動の制約もきわめて複雑で、経験のある人に仕切ってもらわないで選挙運動をするのは困難です。

要するに既成政党と現職議員が新興政党と新人候補を排除するために選挙制度を変えてきたのです。
その結果、既成政党と現職議員が現状にあぐらをかいて(野党議員もそれなりに恵まれています)、日本の政治はつまらなくなったのです。
若い人が興味を持たないのは当然といえます。

若い人を啓蒙して政治に興味を持たせようというのは方向性が違っていて、選挙制度を変えるのが正しいやり方です。
しかし、現職議員たちは既得権益を守るために変えたがらないでしょうから、これはむずかしい問題です。

ただ、最近選挙権年齢が18歳以上に引き下げられました。これはよい変化です。
引き下げられたのは選挙権だけで、被選挙権はそのままで、衆議院25歳以上、参議院30歳以上です。これは中途半端な変え方です。
ここは被選挙権も18歳以上に引き下げるべきです。
18歳の候補者が選挙に出れば、若い世代のための政策が出てくるでしょうし、若者も政治に興味を持つようになるはずです。
世代間の考えの違いというのは意外と大きいので、若い世代が政治に参加すると議論が活発化するのは確実ですし、日本の政治もよい方向に変わるに違いありません。


なお、私の考えは、選挙権の年齢制限をなくし、0歳から選挙権も被選挙権も持てるようにするというものです。
そうすれば、ネットの有名人である少年革命家ゆたぼん(13歳)さんも選挙に出られますし、中学生が地方議会の議員になって、校則やら給食やらについて議論するということも起こりえます。若者はたいてい戦争反対ですから、安全保障政策も変わるはずです。

老人国家になった日本を若返らせるいちばんいい方法です。

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2023年度発足予定の「子ども家庭庁」は、当初「子ども庁」という名前になるはずでした。
「子ども家庭庁」という名前に変わったことに失望の声が上がっています。
「家庭」という言葉が入るとなぜいけないのでしょうか。
実は「家庭」という言葉によいイメージを持つ人と悪いイメージを持つ人がいて、そこで意見が対立します。
問題を整理してみました。


基本的な事実として、殺人事件の約半分は親族間で起きています。

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平成30年版 警察白書より


2016年に摘発された殺人事件の55%が親族間だというデータもあります。
殺人事件総数はへっているのに、親族間の殺人事件はへらないので、比率は高くなってきています。

また、殺人事件を起こすのは男性が多く、殺人犯の男女比はほぼ四対一です。しかし、配偶者間の殺人に限ると、夫が妻を殺したケースと妻が夫を殺したケースの比率はほぼ三対二と、それほど差がなくなります。これはどうしてかというと、ドメスティック・バイオレンスの被害者は圧倒的に女性が多く、力の弱い女性がDV被害から逃れるには加害者を殺すしかないからではないかと考えられます。

知人・友人関係の殺人も多く、殺人事件の多くは濃密な人間関係において起こります。

ところが、テレビのワイドショーが取り上げる殺人事件のほとんどは、通り魔殺人か強盗殺人、放火殺人など、赤の他人が被害者になるものです。
こうした事件の場合は、「なんの落ち度もない人間が殺された」という悲劇性が強調され、加害者への怒りの感情がかき立てられます。
もし親族殺人を取り上げたら、家庭内のどろどろした感情のもつれが出てくるので、視聴率が取れないということがあるのでしょう。
こうしたワイドショーばかり見ていると、殺人の半分は家庭内で起きているということがわからなくなります。

つまりマスコミは家庭内の憎しみや暴力などの不都合なことは取り上げないのです。
一方、家庭内の愛情のある話や美談は取り上げます。

NHKに「鶴瓶の家族に乾杯」という番組があって、番組ホームページには「ステキな家族を求めて日本中を巡る”ぶっつけ本番”の旅番組です」と書いてあります。
ほんとうに”ぶっつけ本番”であれば、DVの家庭とか、父親がギャンブル依存症で借金まみれの家庭とか、玄関開けるとゴミ屋敷とかあってもよさそうですが、そういうのはありません。

私はこのような偏った表現を「家庭愛情神話」と名づけています。
「原発安全神話」と同じで、家庭には愛情があって、家族はみな互いに愛し合っているものだという神話です。
神話に反する事実は否定されるか隠蔽されます。


たとえば1月15日に起きた東大前刺傷事件で逮捕された17歳の少年は、東大と医学部に異様にこだわっていたことから、親からそうとうなプレッシャーをかけられていたと想像されますが、そういうことを書いた記事は見かけません。
ただ、少年の母親は「佐藤ママ」に憧れていたという掲示板の書き込みがあったので検索してみると、『東大前刺傷事件17歳高2男子生徒の母親「佐藤ママに憧れて」』という記事があったので、そこから一部を引用します。

「長男が東海中学の受験に失敗して、憔悴したようすでした。」そう話すのは、男子生徒の母親とはママ友という女性。「(男子生徒名前)ママは、佐藤亮子ママに憧れていました。オンラインサロンにも入って子どもたちへの教育について、熱心にセミナーを聞いていましたよ。」(ママ友)

佐藤ママといえば、東大理Ⅲ(医学部)に自身の4人の兄弟を現役合格させた凄腕の教育ママ。中学受験をする子を持つ母親が知らない人はいないというほどの有名人です。

佐藤ママの子どもは4人とも偏差値72以上。「子どもに手伝いをさせるのは子どもに失礼」というほど家事をさせずに勉強に集中させる教育方法です。

「佐藤ママの出版してる本も全部買い集めて読んで、その教育方法を実践しているといっていた。」(ママ友)

佐藤ママの教育方法で、男子生徒が壊れて行ってしまったのか。

この記事が載っているニュースサイトは、元地方紙記者という人が個人でやっているサイトです。
少年の家庭の問題を書いているのはこの記事だけのようです。

メジャーなニュースサイトは逆に少年の家庭に問題はなかったという記事を書いています。
たとえば「デイリー新潮」の『「東大刺傷事件」犯行少年の素顔 母も困惑した「理III」への執着、学校行事での意外な一面』はヤフーニュースでも配信されました。


そんな少年に対して、母親は困惑を隠せなかったという。当時の様子をママ友の一人が明かす。

「彼のお父さんは地元の大学で職員をされていて、お母さんは専業主婦だったと思います。4人きょうだいの長男である彼は、中学校でも成績が抜群に良かった。マイペースな性格なので、お母さんも“うちの息子は変わってるんですよ”と話していました。両親は子どもの進学先にこだわりがないのに、彼は中学3年の頃から“絶対に東大に行きたい”“理IIIに合格したい”と口にするようになったそうです。お母さんは彼を応援しつつも“行きたいと言って行ける学校でもないと思いますけど……”とむしろ困惑した様子でした。深夜までブツブツとひとりごとを言いながら勉強し続けていたそうで、いつか体調を崩すんじゃないかと心配していました」


ここに描かれているのは、子ども思いの普通の母親です。
そうすると、少年が異様な犯行に走った理由が説明できません。
そこで、産経新聞は『「東大」「医学部」執着 刺傷事件の少年、自ら追い詰める』という記事で、少年は自ら追い詰めたのだという説明をしました。

少年は成績上位の理系クラスに所属。学校関係者は少年について「勉強熱心という印象だった」とし、少年を知る同校の生徒は「非常に真面目で、成績上位だった」と話す。少年自身も「勉強は趣味」「東大医学部を目指す」と公言し、自他ともに認める「勉強の虫」だった。

だが、約1年前から成績不振で悩んでいたとみられる。昨年9月の進路に関する三者面談で、担任の教師に対し「自分の目指すところに成績が追い付かない」などと話していた。

教師はそうした少年を励ましており、両親も「特別教育熱心なタイプではない」(関係者)という。少年は自らを追い詰めていった可能性がある。

少年一人が悪者にされてしまいました。
これが「家庭愛情神話」の怖いところです。
神話を守るために誰かが悪者にされるのです。
それはたいてい子どもです。


幼児虐待は増え続けています。
厚生労働省は昨年8月、令和2年度の児童相談所による児童虐待相談対応件数(速報値)を公表しましたが、それによると件数は20万5029件で、前年度より1万1249件(5.8%)増え、過去最多を更新しました。

統計上はこのように増え続けていますが、実際に増えているかは疑問です。
以前は幼児虐待というものがほとんど認識されていませんでした。それが報道などによりだんだんと認識されるようになり、それとともに通報される件数が増えてきただけとも考えられます。

昔は家庭でも学校でも子どもへの体罰は当たり前のことでした。子どもをたたくだけでなく、押し入れや納屋に閉じ込める、木に縛りつける、食事を与えない、「お前は橋の下で拾った子だ」などの暴言を浴びせることなどがよく行われていました。これらはすべて今では幼児虐待とされます。
ということは、昔は今よりも幼児虐待は広く行われていたと言えそうです。

しかし、それらの虐待行為は、「愛のムチ」とか「子どもを愛さない親はいない」という言葉によって、すべて愛の行為だとされていました。
つまり「家庭愛情神話」によって虐待は完全に隠蔽されていたのです。

最近、次第に幼児虐待が認識されるようになり、体罰はいけないことというコンセンサスもできました。
また、「毒親」という言葉も認知されてきました。
「家庭愛情神話」に風穴が開いたと言えます。

こうした状況を2月13日付朝日新聞の「(知は力なり)暴力の問題、知ることが生きる力に 公認心理師・臨床心理士、信田さよ子」という記事がうまく説明していたので、一部を引用します。


実は2000年代初めの虐待防止法・DV防止法の制定まで、公的には家族には暴力など存在しないと考えられていたのです。夫が妻に「手を上げ」たり、親が子に折檻するのは、される側に問題がある、なぜなら夫婦や親子は愛情で結ばれているのだからという認識が支配していたからです。
(中略)
日々、メディアをとおして、家族(中でも親)は愛情豊かなものとして伝えられます。それが「ふつうの家族」像を形成しています。DVや虐待の加害者像が特殊なもの、残虐なものと強調されてしまうと、ふつうの家族像は結果的に温存されてしまいます。親の借金返済のために働く息子(娘)がそれを虐待とは思わない、夫から蹴られて肋骨に何度もひびが入った妻がそれをDVとは認めない。そんな場面に何度も出会ってきました。それどころか「自分のほうに問題があった」「そうさせたのは自分だ」と自責感すら抱いているのです。被害者有責論(されるほうに問題があるという認識)は、家族の暴力では根深いものがあり、世間の常識もそれに加担しています。


「家庭愛情神話」がこのように強固に、広範囲に存在したのには、国策もありました。

1898年に施行された明治民法では、親権者は「監護及び教育に必要な範囲内でその子を懲戒することができる」とあり、親に懲戒権を認めていました。これが幼児虐待の口実になってきました(法制審議会は近く懲戒権を削除する答申を出す見込みです)。
そして、国定教科書には乃木希典大将の少年時代のエピソードとして、乃木少年が「寒い」と不平を口にすると父親が「よし。寒いなら暖かくなるようにしてやる」と言って少年を井戸端に連れていき冷水を浴びせたとか、乃木少年がニンジンを嫌いだと言うと母親が三食すべてにニンジンを出して好き嫌いを矯正したといったことが書かれていました(教科書にはニンジンとは特定されていませんでしたが)。両親がきびしく育てたためにひ弱だった乃木少年が立派な武人になったということで、国がこのような虐待ともいえる教育を推奨していたのです。

自民党はこうした国策を継承する政党です。
ずっと懲戒権の削除に反対してきましたし、親殺しを特別に重罪とする刑法の尊属殺人の規定が最高裁によって違憲とされても削除や改正に抵抗し、22年間も違憲のまま放置しました。
これらの法改正は日本人の家族観に悪影響があるというのが自民党の考えです。
これは夫婦別姓に反対する論理とも同じです。
自民党の古い家族観は「家庭愛情神話」によって支えられています。


「家庭愛情神話」をはぎ取ると、愛情に満ちた家庭は少なく、暴力、支配、差別に満ちた家庭が多いという現実が見えてきます。
こうした家庭で苦しむのは弱者である子どもと女性です。

現在は「家庭愛情神話」を守ろうという勢力と崩そうという勢力がせめぎ合っている状況です。
映画、小説の世界では「家庭愛情神話」はすっかり崩壊し、親から虐待された過去を持つ人物とか複雑な事情の家族などが描かれるのが当たり前になっています。
しかし、政治の世界ではまだ「家庭愛情神話」を守ろうとする勢力が強くて、そうした勢力が「子ども庁」の名前を「子ども家庭庁」に変更しました。
「家庭」の文字が入ることで「子ども」の主体性や人権が消えてしまいます。
「家庭」の文字に暴力、支配、差別を感じる人もいます。
そうしたことで「子ども家庭庁」か「子ども庁」かが問題になっているのです。


なお、「家庭愛情神話」を守ろうという勢力と崩そうという勢力がせめぎ合っているのは日本だけのことではありません。
アメリカでは1990年代、自分は子ども時代に親から虐待されていたとして成人してから慰謝料を求めて親を裁判に訴えるケースが多発しましたが、親を支援するための財団がつくられ、親に虐待されたという記憶はセラピストによってつくられた虚偽記憶であるという“理論”で対抗し、心理学上の面倒な議論が行われ、結果的に裁判では親の側、つまり「家庭愛情神話」を守ろうという勢力が勝利しました(詳しくはウィキペディアの「過誤記憶」で)。


「家庭愛情神話」を守ろうという勢力と崩そうという勢力のせめぎ合いは、思想の戦いでもあります。
フェミニズムはどうしても「男対女」という軸でとらえますが、これは「おとな対子ども」という軸でとらえたほうがうまくいきます。
私は倫理学、生物学、歴史学、文化人類学などとの関連で考察したことを「道徳観のコペルニクス的転回」に書いています。

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東大前3人刺傷事件で逮捕された少年が通っていた名古屋市の私立東海高校は、黒の詰襟学生服が制服です。
今どき黒の詰襟学生服とは驚きです。

私の場合、中学が黒の詰襟学生服でした。
プラスチックのカラーが窮屈で、まったく非人間的な服だと思っていました。
高校は服装が自由だったので、それだけで解放感があったものです。

昔の中学高校は、男子はたいてい坊主頭に詰襟の学生服で、女子はセーラー服でした。これはもちろん軍隊の真似をした戦前の名残りですから、時代とともになくなっていくだろうと思っていました。
しかし、坊主頭はさすがになくなりましたが、制服はブレザーに変わっただけで、なかなかなくなりません。最近はむしろふえているかもしれません。私の家の近くの都立高校は、以前は私服だったのに、数年前に男子はブレザー、女子はセーラー服の制服になりました。ダサいデザインで、生徒の評判もよくないようです。

坊主頭はなくなったものの、頭髪に関する規制はむしろきびしくなっています。
多くの学校は、髪染め禁止の校則がありますが、茶色っぽい地毛を黒く染めさせる学校があるというので問題になりました。要するに黒髪に統一したいのでしょうが、本末転倒です。

そこで、生徒に「地毛証明書」を提出させる学校が出てきました。
「地毛証明書」というのは、生徒の髪が黒以外の色だったりくせ毛だったりした場合、保護者がそれは地毛であると書いて署名、捺印するというものです。
地毛であることの証明として、生徒の幼少期の写真を提出させる学校もあります。
NHKニュースの『「地毛証明書」に「頭髪届」 都立高校の4割余りで提出求める』という記事によると、「全日制の都立高校177校のうち44.6%にあたる79校が地毛であることを証明する届け出を求めている」ということです。
この記事は専門家の「人権侵害にあたるのではないか」という意見も紹介していますが、改まる気配はありません。

「地毛証明書」の問題はロイター、BBC、英国ガーディアン、タイム誌などで報道され、世界の人たちを驚かせたようです。
日本の学校の人権状況は、北朝鮮か一部のイスラム教国家並みです。


学校はまず子どもに対して「子どもの人権」について教えなければなりません。

前に少し紹介しましたが、ブレイディみかこ著『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』には「英国の子どもたちは小学生のときから子どもの権利について繰り返し教わる」と書かれています。
シティズンシップ・エデュケーションという教科で、国連の子どもの権利条約が制定された歴史的経緯などを学び、期末試験では「子どもの権利を三つ挙げよ」というような問題が出るそうです(解答例として教育を受ける権利、保護される権利、声を聞いてもらう権利、遊ぶ権利、経済的に搾取されない権利が挙げられています)。

もっとも、日本人は「日本はイギリスより遅れている」と言われても、あまり気にしないかもしれません。
では、「日本は韓国より遅れている」と言われるとどうでしょうか。


韓国の学校教育は日本の学校教育ときわめて似ています。かつて日本に統治されていたのですから、当然です。
学生服なども日本と同じでした。
しかし、今はまったく違います。
伊東順子著『韓国 現地からの報告』にその経緯が書かれているので、紹介します。

2010年、ソウルの隣の京畿道で「学生人権条例」が採択され、実施されました。
それは光州市などほかの地方自治体にも波及し、2012年1月には首都ソウル特別市も同条例を公布するに至ります。当時の韓国国営放送(KBS)はこのように伝えました。
「条例には、児童・生徒に対する体罰の全面禁止、頭髪や服装の自由、校内集会の許容、持ち物検査や没収の禁止などの内容が盛り込まれており、ソウル地域の幼稚園と小中高校ではかなりの変化が起きることが予想されます」
政府与党は反対の立場から大法院に「条例無効確認訴訟」を起こし、同様に反対する教師や保護者も少なくありませんでしたが、生徒は賛成でした。
その理由はこのように説明されています。

以前の韓国では教師の体罰も日常的だった。殴る、蹴る、立たせる、座らせる、走らせる……。半ば公然化した体罰は、民主化した韓国社会には不似合いな前時代的なものとして、常に議論の対象になってきた。多くの自治体では教育委員会の方針として、各学校に体罰禁止を通達していたが、それが条例として文字通り明文化されたわけだ。
学校である以上は最低限のルールは必要であるとしつつ、生徒たちの自律的な意見を尊重する。たとえば、校則の制定にあたっても、以前のように学校が一方的に決めるのではなく、生徒の投票など「民主的な方法」が採用された。

「学生人権条例」によって韓国の中高生は茶髪も化粧もミニスカートもOKとなり、今の若者はそうした中で育ってきています。
伊東順子氏の今年の著書『韓国カルチャー 隣人の素顔と現在』にはこう書かれています。

数年前から、日韓の姉妹校交流などに参加するたびに、韓国の子たちの垢抜けた様子にびっくりすることが多かった。それと比べると、日本の中学生などはいまだにがんじがらめの規則の中にいる。寒くてもタイツやコートが禁止の学校もあると聞いた。不合理極まりなさに眩暈がする。日本には私自身が30年以上前に体験した悔しいことが今もそのまま残っていたり、また私の時代よりもさらに女の子をとりまく状況が悪化していると思えることもある。


私が思ったのは、日本と韓国のアイドル文化の差は「学生人権条例」からきていたのかということです。

世界で大人気の韓国のBTS(防弾少年団)は、黒人人権運動(BLM)に100万ドル寄付したり、アメリカでのアジア系住民に対するヘイトクライムに反対する声明を出したりして、人権問題に積極的に関わっています。また、BTS(防弾少年団)という名前は、「10代・20代に向けられる社会的偏見や抑圧を防ぎ、自分たちの音楽を守り抜く」という意味だそうですが、これらは「学生人権条例」によって自分の人権が守られてきた世代らしい発想と思えます。

ついでに言うと、韓国コスメは安くてかわいいというので世界で人気だそうですが、これは韓国の中高生という新しい市場ができたことで商品開発が進んだからでしょう。

日本のアイドルというと、AKB48などのAKBグループ、乃木坂46などの坂道グループが代表的なものですが、これらは高校の制服のようなものを着て、黒髪で、集団で学校の文化祭や部活のような活動をします。要するに日本の学校文化そのものです。
日本で日本に合ったアイドルが生まれるのは当然ですが、韓国のアイドルとは違って世界には通用しません(東南アジアの何か国かにはAKBグループが存在しますが)。

日本人はダサい制服を着て、おしゃれもせずに育つので、ファッションセンスも美的センスも磨かれません。最近の日本企業の製品に魅力がなくなったのは、そのせいでもあるでしょう。

日本の人権状況は世界から周回遅れとなって、韓国にも追い抜かれたのが現状です。



日本の小中高生は、本来持っている自分の権利についてなにも教えられず、理不尽な校則に縛られ、不満はいっさい聞き入れられず、無力感に打ちひしがれています。
その結果、世界的にも自己肯定感の低い若者が生み出されます。

内閣府の「子ども・若者白書」から「日本を含めた7カ国の満13~29歳の若者を対象とした意識調査」の結果の一部を紹介します。

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こうした調査結果はマスコミでも報道されますから、ご存じの方も多いはずです。

なぜ日本の若者の自己肯定感が低いかというと、どう考えても、日本の学校教育のせいです。学校が子どもの自己肯定感をなくすような教育をしているからです。


私は日本の若者に元気がなくなったのは自民党の教育のせいだということを「日本をだめにした自民党教育」という記事に書きました。
そこにおいて、若者を元気にするには学校に「自由、人権、民主主義」を行き渡らせることだと述べましたが、自民党が政権の座にある限り、これは困難なことです。

しかし、韓国の「学生人権条例」にならって、地方自治体で条例を制定すればいいわけです。
「学生」という言葉は日本では主に大学生を意味するので、「生徒人権条例」か「児童生徒人権条例」か「子ども人権条例」という名前にしたほうがいいでしょう。
条例の中身は、体罰の禁止や持ち物検査の禁止など生徒の人権の尊重、生徒中心の校則づくり、学校運営への生徒のオブザーバー参加、生徒への人権教育の充実などといったことです。
自民党政権はそのままでも、各自治体で条例づくりが進めば、日本の学校教育は変えられます。

地方議員の中から「生徒人権条例」づくりの運動が起こってほしいものです。

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学校が無責任なら、親も無責任、テレビのコメンテーターまでもが無責任と、無責任の三重奏です。
これでは容疑者の少年が救われません。

大学入学共通テストが行われた1月15日、試験会場となった東京大学前の路上で2人の受験生と72歳の男性が刃物で切りつけられる傷害事件が起きました。殺人未遂容疑で逮捕されたのは高校2年の男子生徒(17歳)で、犯行時に「俺は東大を受験するんだ」などと叫んだということです。
そして、 取り調べにおいて「医者になるため東大を目指していたが、1年くらい前から成績があがらず自信をなくした。人を殺して罪悪感を背負って切腹しようと思った」と供述したという報道がありました。

容疑者の少年も受験生だという報道が一時ありましたが、高校2年生なので受験生ではありません。
名古屋から上京して東大前で犯行に及んだということで、東大に強い執着があっただろうと想像されます。
親や学校はどういう教育をしていたのかが気になるところです。

すると、容疑者の少年の通っていた高校が事件の翌日にコメントを発表しました。

刺傷容疑の少年が通う高校が謝罪コメント 「コロナ禍で生徒が分断」
大学入学共通テストの受験生らが刺された事件で、殺人未遂容疑で逮捕された少年(17)が通う高校が16日、コメントを出した。全文は次の通り。

本校在籍生徒が事件に関わり、受験生の皆さん、保護者・学校関係者の皆さんにご心配をおかけしたことについて、学校としてお詫(わ)びします。

 本校は、もとより勉学だけが学校生活のすべてではないというメッセージを、授業の場のみならず、さまざまな自主活動を通じて、発信してきました。また本校の長い歴史のなかで、そのような校風を培ってきました。ところが、昨今のコロナ禍のなかで、学校行事の大部分が中止となったこともあり、学校からメッセージが届かず、正反対の受け止めをしている生徒がいることがわかりました。これは私たち教職員にとっても反省すべき点です。「密」をつくるなという社会風潮のなかで、個々の生徒が分断され、そのなかで孤立感を深めている生徒が存在しているのかもしれません。今回の事件も、事件に関わった本校生徒の身勝手な言動は、孤立感にさいなまれて自分しか見えていない状況のなかで引き起こされたものと思われます。今後の私たちの課題は、そのような生徒にどのように手を差し伸べていくかということであり、それが根本的な再発防止策であると考えます。
https://news.yahoo.co.jp/articles/c1767df2ba7df2cdd97fc6396e891b9dab54fa7f
コロナ禍の中で学校のメッセージが生徒に届かず、生徒が孤立感にさいなまれたことが事件の原因であるとしています。
これについては「コロナのせいにするのは無責任」という批判がありました。

内容も無責任ですが、このコメントの体裁も無責任です。
高校名が書いてないのです。誰が書いたかも書いてありません。
普通は「〇〇高校校長」などと文末にあるものです。
「全文」とあるので、省略はしていないでしょう。

この記事は朝日新聞デジタルの記事がヤフーニュースに載ったものです。
ほかのメディアの記事も調べてみましたが、やはり高校名や校長名はありません。
この高校はコメントは出したものの、高校名は隠すことにし、メディアもそのことを容認したものと思われます。
高校名を隠す高校も無責任ですが、そのまま記事にするメディアも無責任です。

もちろんそんなことは隠し通せるものではありません。
少年の通っていた高校は名古屋市の東海高校です。ここは私立の男子校で、中高一貫校ですが、高校から入学することもでき、少年は高校入学組だったようです。
有数の進学校で、2021年には東大に30名、京大に31名が入学し、文春の記事によると医学部進学実績がNo.1の高校だそうです。
文春の記事の中には「自由な校風」だと語る高校関係者が出てきますが、ウィキペディアによると、制服は黒の詰襟学生服だそうです。
私の中では「自由な校風」と「黒の詰襟学生服」は両立しません。私立男子校の進学校ということで、一流大学進学に価値を置くホモソーシャルな集団を想像します。

18日のFNNプライムオンラインのニュースにはこんなことも書かれていました。

少年は犯行時、「僕は来年東大を受けるんです」と叫んでいたが、新たに「偏差値73の高校から来た。実力はある」と騒いでいたことがわかった。 少年は調べに対し、「1年くらい前から成績が上がらず悩んでいた」と供述しているが、私服から高校の制服に着替えて、目標としていた東京大学で犯行に及んでいて、警視庁がくわしい動機を調べている。
https://news.yahoo.co.jp/articles/36c053fc97ae5f9df0ca9c5913419f6e8791ca88

わざわざ高校の制服に着替えて犯行に及んだのはどういう意味でしょうか。
高校へのいやがらせなのか、高校に誇りを持っていたのか、どちらも考えられます。
いずれにしても、少年が名門進学校の価値観にひどく影響されていたことはうかがえます。
その意味からも、東海高校は事件に対してもっと責任を感じたコメントを出すべきでした。


少年の父親は、東海高校のコメントから少し遅れましたが、同じく事件の翌日にコメントを出しました。

東大前3人刺傷 少年の父親が謝罪文「誠に申し訳ございません」
 大学入学共通テストの試験会場となった東京大(東京都文京区)近くの路上で受験生ら3人が刃物で刺された事件で、殺人未遂容疑で逮捕された私立高校2年の少年(17)=名古屋市=の父親が16日、少年の弁護人を通じてコメントを出した。全文は次の通り。

このたびは、世間をお騒がせしまして、誠に申し訳ございません。

 被害にあわれましたご本人様には、心より申し訳なくお詫(わ)び申し上げます。

 一日も早いご回復をお祈り申し上げますと共に、ご家族、ご関係者の方々にも併せてお詫び申し上げます。

 現在、警察による捜査段階で、私共がこの件に関して行動することを控えるよう言われておりますので、被害者様へのお詫びにもお伺いできず、心苦しい限りです。

 このたびは誠に申し訳ございませんでした。
https://news.yahoo.co.jp/articles/7868cfaeb866ce726aa91d84b9c3ed4edacd7288

父親の名前がありませんが、これはしかたありません。

「警察による捜査段階」を理由にして一切の説明を拒むとは、政治家や官僚がさんざんやってきた手口です。
この父親もそうした“上級国民”なのでしょうか(事件の翌日に弁護士がついているというのも早手回しです)。

親なら子どもを守ろうとするものですが、ここにあるのは自己保身だけです。
「私の教育が間違っていた。悪いのは私だから、息子を責めないでほしい」といったことが書かれていれば親心が感じられます。
そういう親心があれば、息子もこうした事件は起こさなかったでしょう。

少年が東大医学部に異様にこだわるようになったのは親の圧力のせいではないかと想像されますが、そのあたりを説明してほしいものです。


親や教師は、事件を起こした少年がすべて悪いということにしておけば自分たちは免責されますから、そういう方向に持っていこうとします。
テレビのコメンテーターは客観的に判断できるはずですが、やはり親と学校を免責する方向でコメントしています。

橋下徹氏 東大前刺傷事件の少年に「社会の責任にするというのは違うよと言っていかないと」
俳優の谷原章介がMCを務める「めざまし8」(フジテレビ系)で17日、東京大学前で大学入試共通テストの受験生ら3人が刺され、名古屋市の高校2年の少年(17)が逮捕された事件について、元大阪府知事の橋下徹弁護士が言及した。
(中略)
橋下氏は「少年事件ですから、刑事事件にならない限りは社会的な更生を目指していくのが第一目標になるんですが、ただあまりにも身勝手すぎ。今、自己責任というと批判される風潮があるんですけど、基本的には人生は自己責任が原則であり、ただ家庭の経済環境や親の虐待問題などあるから、社会がサポートしなきゃいけないけど、自分の人生を歩むうえでいろんな悩みがあるかわからないけど、社会の責任にするというのは違うよということを明確に言っていかなきゃいけないと思う。自己責任というと冷たい言い方だからといって自分の責任じゃないんだよという部分が強くなりすぎているという風潮を、危惧しています」と見解を語った。

 少年が通う高校はコメントを発表し「昨今のコロナ禍のなかで学校行事の大部分が中止になったこともあり、学校からメッセージが届かず、正反対の受け止めをしている生徒がいることがわかりました。密をつくるなという社会風潮のなかで、個々の生徒が分断され、そのなかで孤立感を深めている生徒が存在しているのかもしれません」とコロナ禍の状況が事件に影響した可能性を指摘。

 橋下氏はこれに「人生僕ら振り返ってみて目標、目的通りにすべてうまくいったことなんてないじゃないですか。いろんな選択肢があって、一つ目じゃなくても二つ目でも三つ目でもいいわけで、そういうことを子供たちに教育現場で教えていくことをしっかりやってもらいたい。悩みがある生徒を救ってあげるという基本的なところ。ただ原則として自己責任だよというところもしっかり教えなきゃいけないと思う」と分析した。https://news.yahoo.co.jp/articles/ce75b9aa19ba726c001a5b86ac842f9b88e406c7


橋下氏は「社会の責任にするというのは違うよ」と言っていますが、容疑者の少年の現場での叫びや取り調べでの供述が報道される中で、少年がそのようなことを言ったという報道はありません。
橋下氏が少年の心理を勝手に推測して、それを非難しているだけです。

「自己責任」という言葉についてはいろいろ批判されていますが、橋下氏はいちばん使ってはいけない場面で使いました。
「責任」というのは「自由」があってこそです。
高校2年生の少年にどれだけの自由があったでしょうか。

私は小学校のときから校長のスピーチなどで「自由の裏には責任」という言葉をいやというほど聞かされてきました。これは「お前たちには責任を取る能力がないから自由もないのだ」という意味でした。
生徒は自由のない生活をしているのに、なにか事件を起こしたとたんに「責任」を問われるのは理不尽です。

このケースでとくに問題なのは、少年が東大医学部を志望していたことです。
少年が自分で東大医学部という目標を立て、自分の実力がそれに及ばないことに気づいたとき自暴自棄になり、犯行に及んだというのなら、この少年が批判されて当然です。
しかし、自分で目標を立てたなら、自分で目標の修正もできるはずです。
東大医学部という目標を押しつけられ(おそらくは親に。高校の価値観もそれを後押し)、自分の実力がそれに及ばず、目標と現実に引き裂かれて自暴自棄になったとすれば、むりな目標を押しつけた者が批判されるべきです。

親と学校の管理下で生きてきた少年が事件を起こしたとたん、親も学校も責任をすべて少年に押しつけるというのが、今起きていることです。
テレビのコメンテーターもたいていは親の立場ですから(橋下氏は7人の子持ち)、親の責任逃れを手助けするわけです。

おとなたちがみなこうした無責任な態度でいる限り、同じような犯罪が繰り返されても不思議ではありません。



ところで、「職業選択の自由」は近代社会の基礎をなす重要な権利です。
医学部進学を押しつけるということは、医者になることを押しつけているので、明らかに職業選択の自由の侵害です。
今の世の中ではこういうことが平気で行われています。
親が子どもに多様な経験を積ませるためにピアノを習わせたり、少年野球チームに行かせたりするのはいいとしても、「子どもをピアニストしたい」とか「子どもをプロ野球選手にしたい」とか言いだすと、職業選択の自由の侵害です。これは子どもの人生を親が乗っ取るようなものです。

「子どもの人権」を尊重することから始めなければなりません。

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日本経済を停滞から救い出すためには、即効性のある方法としては、防衛費を大幅に削減してその分を文教科学振興費に回すしかなく、長期的な戦略としては、教育改革をして学校に自由、人権、民主主義をもたらすことだと述べてきました。
しかし、最善の方策をとっても、もはや日本はたいして経済成長しないかもしれませんし、地球環境のために日本のような先進国は経済成長するべきではないという考えもあります。
経済成長しなくても幸せになる方法も考えなければなりません。


私が子どものころ、「狭いながらも楽しい我が家」ということがよく言われました。
この言葉は、当時エノケンこと榎本健一が歌ってヒットした「私の青空」という歌の一節です。
大きな家に住む金持ちは、見かけは幸せそうでも、虚栄心が強くて愛情の少ない家庭かもしれない。貧しくても愛情豊かな家庭が幸せなのだということを、「狭いながらも楽しい我が家」という言葉を使って言ったのです。

金持ちでも愛情豊かという家庭もありますから、貧乏人の負け惜しみと言われてもしかたありません。
しかし、「貧しくとも愛情ある家庭があれば幸せ」というのは、そんなに間違っていないでしょう。
もちろんお金も愛情もあればいいわけですが、お金がなければ愛情だけでもほしいものです。

経済大国がだめなら「愛情大国」というわけです。

ブータンはGDPでなくGNH(国民総幸福量)を目指す国として注目されましたが、それと同じようなものです。

もっとも、愛情や愛というのは、小説、映画、音楽の中には氾濫していますが、政治や社会を論じるときに語られることはありません。
政治の世界で愛が語られたのは、鳩山由紀夫首相の「友愛」ぐらいではないでしょうか。

なぜ愛が語られないかというと、「愛のムチ」などという言葉があって、愛と暴力の区別もつかない人がいるからです。
「愛国心」という言葉もあります。愛国心というのは、外国への敵愾心をあおって国内の結束を固めるために使われる言葉で、愛とは無縁です。郷土愛や人類愛と比べると、愛国心が異質であることがわかります。
しかし、愛国心と愛の区別がつかない人がいるので、政治の世界で愛は語れませんでした。

しかし、今は孤独担当大臣が存在しています(イギリスのパクリですが)。孤独は愛情の欠如した状態と見ることもできるので、すでに政治は愛情に関わってきています。
ですから、孤独担当相を愛情担当相に変えればいいだけのことで、これはすぐにでもできます。


愛情は家庭の中で再生産されます。
仲のよい夫婦のもとで愛情を受けて育った子どもは、おとなになると仲のよい夫婦になり、愛情を持って子どもを育てます。つまり愛情の連鎖です。
DVの夫婦のもとで虐待されて育った子どもは、おとなになるとやはりDVの夫婦になり、子どもを虐待して育てます。つまり暴力の連鎖です。
ですから、暴力のある家庭を愛情のある家庭に変換していけばいいわけです。

どうすればいいかというと、とりあえず愛情も暴力も世代連鎖するという知識を世の中に広めることです。
それだけで自分がなぜ暴力をふるうかということがわかり、みずから改める人もいるでしょうし、相手の暴力の原因がわかり、適切に対処できるようになる人もいるでしょう。
カウンセリングを奨励し、その窓口をふやすことも必要です。

これに対して、「国家が家庭の中に介入するのか」という反対意見があるかもしれません。
しかし、厚労省はすでに子育てのやり方で家庭の中に介入しています。

厚労省は2017年から「愛の鞭ゼロ作戦」と称して、子どもへの体罰や暴言は脳の萎縮・変形を招くとして体罰や暴言を禁止するキャンペーンを展開しています。
厚労省が公式にキャンペーンをしている影響は大きくて、最近は体罰肯定論はまったく聞かなくなりました。また、私の印象ですが、以前はスーパーなどで子どもを大声で叱っている母親がよくいたものですが、最近はまったくといっていいほど見かけません。
ですから、同様に夫婦間の暴力・暴言の禁止キャンペーンをやれば、かなり効果があるはずです。

暴力・暴言がなくなったとしても、それだけで愛情のある家庭になるわけではありませんが、近づいたとはいえます。


今は愛情と暴力の世代連鎖について述べたわけですが、世代連鎖のほかに「社会連鎖」というのもあります。
「社会連鎖」というのは私の造語ですが、内容はありふれたことです。
たとえば、父親が会社で上司から理不尽な怒られ方をして、内心不満をかかえたまま帰宅したとき、その不満を解消するため、妻や子どもに向かって理不尽な怒りをぶつけるといったことです。
あるいは、母親がママ友からバカにされ、劣等感を味わったとき、家に帰って子どもをバカにして劣等感を味わわせるというのもあります。
つまり「当たる」とか「八つ当たり」という行為です。関係ない人間に当たるのはおかしいといっても、この心理は誰にでもあります。プロ野球の監督は選手が失策したときなどベンチやロッカーを蹴って当たっています。
強い者が弱い者をいじめ、弱い者はさらに弱い者をいじめるというのが「社会連鎖」です。

幼児虐待は、自分の子ども以外にいじめる者がいないという社会連鎖の最下層において発生しがちです。
そして、一度発生すると、世代連鎖し、夫婦間DVも派生します。
単純化して言いましたが、原理はそういうことです。


ですから、社会格差が拡大すると虐待も発生しやすくなります。

どんな家庭で虐待事件が起こるかということを「全国児童相談所における家庭支援への取り組み状況調査」が明らかにしています。

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「経済的な困難」「不安定な就労」「劣悪な住環境」はどれも貧困を意味するといってもいいでしょう。
つまり貧困家庭は虐待が起こりやすいのです。
世の中を騒がせた虐待事件を振り返ると、虐待した親のほとんどは無職か不安定な雇用形態です。

貧困も、今と昔ではとらえ方が違います。
昔の貧乏人は「狭いながらも楽しい我が家」といって自分を慰めていましたし、「金持ちはどうせあくどいことをやって儲けたんだろう。自分たちは清貧だ」といったプライドもありました。
しかし、今は新自由主義的価値観が広がって、「金持ちは勝ち組、貧乏人は負け組」ということになり、さらに「貧乏人は能力がないだけでなく、努力しない怠け者だ」という考え方も強まって、貧乏人にはまったく救いがありません。

さらに、こうした競争社会では、親は子どもを負け組にしないために教育に力を入れ、「勉強しなさい」などと圧力をかけることになりますが、これは愛情ある親子関係に亀裂を生じさせます。


このような虐待や暴力の発生と連鎖のメカニズムがわかれば、虐待や暴力をなくし、愛情ある家庭をつくる方法もわかります。
暴力禁止キャンペーン、カウンセリングの充実、貧困対策、競争社会の見直しなどによって「愛情大国」への道が開かれます。

根本的なことを言えば、親子や家族が愛情のあるつながりを持つのは本能的なものです。そのことは未開社会を見たり、哺乳類の親子や群れを見たりすればわかります。
家族関係がゆがむのは、競争社会のような文明のゆがみが家族に影響を与えるからで、そのような影響を排除すれば愛情ある家族が実現できます。
この原理さえわかっていれば、具体的な方策を見いだすのは簡単です。


こうしたことは当然、政治の課題です。
政府は2023年度に「子ども家庭庁」を創設することを閣議決定しているので、子ども家庭庁がその役割を担うことになるのでしょう。

ところで、「子ども家庭庁」は一時「子ども庁」という名前が予定されていましたが、最終的に「子ども家庭庁」という名前になりました。
これには自民党の右派議員の働きかけがあったとされます。そして、右派議員が拠りどころとするのが「親学」という思想です。

「親学」とはなにかというと、親学推進協会のホームページを見ると、「親が変われば、子どもも変わる」と大きく書かれています。
「親が変われば、子どもも変わる」というのは、たとえば子どもが反抗的で困っているという親に対しては有効なアドバイスになりえますが、そのような特定の親に対してではなく、すべての親に対して言っているようです。
つまり親も子も根こそぎ変えようというのが「親学」の考え方なのです。
どのように変えるかというと、要するに戦後の親子関係を否定して、戦前の親子関係に戻そうということです。

そもそも自民党は、夫婦別姓反対を見てもわかるように、家父長制を理想としています。「親学」も同じです。
家父長制は、男が女を支配し、おとなが子どもを支配するというのもので、暴力や虐待の温床です。
愛情ある家庭と真逆です。

日本が「愛情大国」になるには、家庭を巡る思想闘争を経なければなりません。

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「成長なくして分配なし」か「分配なくして成長なし」かという議論がありますが、ニワトリが先か卵が先かみたいにバカげています。
30年間ほとんど成長しなかった国ですから、どちらにしても成長するわけがありません。
成長したいなら、今までにない成長戦略が必要です。

私は、防衛費を大幅に削減して、その分を文教科学振興費に回すというやり方しか有効な成長戦略はないということを「防衛費という『聖域』」という記事に書きました。
辺野古埋め立てとか陸上イージスとかにお金をつぎ込んでいるから日本経済はだめになるのです。

ほかのやり方があるとすれば、外国人労働者を大量に入れることです。
しかし、このやり方は、経営者、株主には利益になりますが、日本人労働者には不利益になるので、その損得を見極めないといけません。

それにしても、一国の経済が30年も停滞するというのは尋常なことではなく、経済政策以外のことも考えないといけません。
藻谷浩介氏は『デフレの正体』において、少子化で労働力人口が減少していることが停滞の原因だと指摘して、説得力がありました。
私はそれ以外に、教育の問題も指摘したいと思います。


「デジタル敗戦」「デジタル後進国」という言葉があって、日本は行政も企業もデジタル化の波に乗り遅れているとされます。日本の行政はいまだにファックスを使っているというので世界中からあきれられました。
文科省は小中学校でプログラミング教育を始めましたが、デジタル強国になるには教育から変えていかねばという考えでしょう。

ところが、日本ではずっと文科省の方針として、小中学校ではスマホの学校への持ち込みが禁止されていました。
やっと2020年に中学校で条件付き持ち込み容認となり、小学校では「原則禁止とはするものの、条件によっては持ち込んでもよしとする」ということになりました。

スマホやPCを使いこなすITリテラシーは、幼いころからやったほうが身につくものです。
台湾のIT担当相であるオードリー・タン氏は幼いころからPCに興味を持ち、8歳から独学でプログラミングを学び始めたということです。
学校で禁止されても家庭で使うことはできますが、学校で禁止されていることを理由に親が子どもにスマホを持たせないというケースもあるでしょう。
文科省は子どものITリテラシーを阻害するようなことをしてきたのです。

文科省はプログラミング教育をする前に、子どもにスマホやタブレットの教室持ち込みを奨励するべきです。授業でわからないことやもっと詳しく知りたいことがあれば、スマホですぐに調べることができて、学力向上にも役立ちます(スマホを買えない家の子がかわいそうだという声がありそうですが、低いレベルで平等にするのは間違っています)。


香川県はネット・ゲーム依存症対策条例を制定し、18歳未満の子どもがゲームをすることを規制しています。
これは文科省の方針ではありませんが、子どもがゲームすることを規制している親は全国的にいっぱいいるでしょう。
「スマホ脳」「ゲーム脳」といった言葉に影響されているのかもしれません。

将棋の藤井聡太四冠は、5歳で将棋を覚えて、たちまちはまりました。おそらく“将棋脳”になっているはずですが、見たところ藤井四冠の人格に問題があるということはまったくありません。

夢中でゲームをやれば集中力が養われます。だらだら勉強していたのでは、集中力は身につきません。

ゲーム業界の市場規模は約2兆円で、高い成長率があります。
日本経済のためにもゲーム業界を担う人材を育てるべきなのに、逆行しています。

ちなみに音楽業界の市場規模は約2700億円です。
ゲームには物語、ビジュアル、音楽などの要素があって、今後クリエイティブな仕事をしたい人はゲーム業界を目指すのが現実的です。
ゲーム機は実質コンピュータなので、幼いころからゲーム機の操作に習熟すると、PCやスマホの操作にも役立ちます。
親は子どもの将来を考えたら、安易にゲームを禁止することはできないはずです。

日本がデジタル後進国になったのは、子どもにスマホやゲームを制限していることが大きな原因ではないかと思います。


若者の少なくなった日本が活気のない国になるのはある程度やむをえないことですが、現状はそれ以上に活気が失われています。つまり若者は数が少ないだけでなく、元気もないのです。

若者に元気がない理由はいろいろと考えられますが、教育の問題に限ると、たとえば「ブラック校則」が挙げられます。
理不尽な校則にがまんして耐えることが小学校から高校まで続くと、誰でも元気がなくなるのは当然です。
こういう経験は、ブラック企業に勤めたときには役立つかもしれませんが、それ以外になんのプラスもありません。

ブラック校則は昔からありましたが、昔の中学生や高校生は反抗的な態度をとることである程度発散することができました。
ところが、今は高校入試や大学入試で内申書が重視され、さらに推薦入学の枠が広がったので、子どもは教師に反抗的な態度をとることができません。
内申書も試験の点数だけで成績が決まるかというとそうではなく、教師の主観が入る余地があります。

12月18日付け朝日新聞の「声」という読者投書欄に「学校の息苦しさ『評価』が影響」(小学校教員41歳)という投書が載っていました。その一部を引用します。
教員になって10年以上が経ち、通知表の「評価」が息苦しさに与える影響力が大きいことを実感する。授業では教員が評価のために記録することが多い。子ども一人ひとりの気持ちや個性を受け止めたい気持ちとはなじまない。さらに最近は、知識だけではなく、意欲や主体性など内面的なことも評価するようになった。報道などによると、中学校では内申点を上げるために意欲があるように振る舞う子どももいて、ピリピリとした雰囲気になるという。
子どもは教師に反抗的な態度をとることなどまったく考えられません。
子どもは教師の目を気にして、教師の気持ちを忖度しながら学校生活を送っているわけです。
「ブラック校則を改正するよう生徒は学校に働きかけるべきだ」などと言う人がいますが、学校の実情がわかっていません。
生徒がみずから動いてブラック校則が改正されることはないでしょう。

私の学校時代は、内申書は中間試験や期末試験の成績が反映されたもので、教師の主観の入る要素はほとんどありませんでしたし、大学入試に内申書が考慮されることはないとされていました。

高石ともやの「受験生ブルース」(中川五郎作詞)には「大事な青春むだにして/紙切れ一枚に身をたくす/まるで河原の枯すすき」とありますが、「紙切れ一枚に身をたくす」というのは実際その通りだったのです。
いくら教師ににらまれても、入試の点数さえよければ希望の大学に入ることができました。ですから、ある意味気楽でした。

今の生徒は、入試の点数と教師受けと二正面作戦を強いられるのでたいへんです。


教師に受けることを考えていると、おとなの常識の枠を超える発想ができなくなります。
日本の科学技術の学術論文は、多く引用される重要論文の数はへり続けて世界10位にまで後退しました。
これは中学高校の教育のあり方にも原因があるのではないでしょうか。


ここ10年ほど日本の自殺者数はへり続けていますが、若者の自殺だけはへりません。2020年度の小中高生の自殺者数は499人で、1980年の統計開始以来最多となりました。

2020年度に不登校だった小中学生は19万6127人で、やはり過去最多となりました。

小中高校におけるいじめの認知件数は、2020年度は51万7163件で、前年度より15.6%減少しましたが、この減少はコロナ禍で子ども同士の接触がへったためと思われます。2019年度のいじめ件数は過去最多でした。

こうしたデータを見ると、日本の学校教育は明らかに失敗しています。
この失敗の原因はなにかというと、家父長制を理想とする自民党の思想にあります。

家父長制というのは、男性である家長が女性や子どもを支配する家族制度です。
自民党が夫婦別姓を認めようとしないのは家父長制を理想としているからです。
こうした自民党のあり方は、ジェンダー平等の観点から批判されています。

しかし、家父長制というのは「男が女を支配する」と「おとなが子どもを支配する」のふたつの要素から成り立っていて、今批判されているのは「男が女を支配する」の部分だけで、「おとなが子どもを支配する」の部分は批判されません。

自民党は昔から「権利を主張する若者」が大嫌いで、「おとなが子どもを支配する」ことを目指してきました。
そして、内申書重視や推薦入学制によって「教師が生徒を支配する」学校をつくりあげることに成功したのです。
しかし、これもまったくといっていいほど批判されません。
先ほど引用した朝日新聞の投書は珍しいケースです。

「教師が生徒を支配する」学校では、生徒は元気も創造性もなくしてしまいます。
日本経済がだめなのは、こうしたことから若者に元気と創造性がなくなったことも大きな原因ではないかと思います。


では、どうしたらいいかというと、処方箋は簡単です。
自民党は「自由、人権、民主主義」を重視する価値観外交というものを掲げています。
ところが、日本の学校には「自由、人権、民主主義」がまったくありません。
学校に「自由、人権、民主主義」を行き渡らせれば、問題は簡単に解決します。



私はこのたび新しいブログを始めたので、あわせてお読みください。
「道徳観のコペルニクス的転回」

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日本では、子どもを持つ母親は肩身の狭い思いをしなければなりません。
たとえば赤ちゃん連れで新幹線に乗ることもたいへんなようです。

5か月の子どもを育てている母親が夫の実家に産後初の帰省をするのに新幹線に乗るに際して、その悩みをネットで相談したということが『「赤ちゃん連れの新幹線、ギャン泣きしたらどうしようと不安です」母親の相談に注目集まる』という記事で紹介されました。
母親は車で帰るか新幹線で帰るか考えて、赤ちゃんの負担の少ない新幹線を選んだのですが、赤ちゃんは泣きだすと疲れるまで泣きやまないことも多く、「周りに迷惑をかけてしまうな、とか、うるさいって怒鳴られたらどうしようと不安で」と、経験者にアドバイスを求めました。

すると、「精神的なことを考えたら時間はかかっても車のほうが楽」とか「ピリピリしてる雰囲気があるから、私なら怖くて赤ちゃんを連れて電車移動できない」とか「本当にどうしようもなくなって、途中下車して30分待ったこともある。自由席切符だから出来ることだね」というように、赤ちゃん連れ新幹線乗車に否定的な声が多くありました。
新幹線に乗ることを応援する声もありますが、そういう声にもたいてい「子どもが泣いたり騒いでるのに放置とかあやそうともしない人はどうかと思うけどね」というただし書きがついています。

「泣いたらデッキに連れ出すべきだ」という声もありますが、「デッキは騒音が大きいので、かえって泣く」という反論もあります。

「泣いてる赤ちゃんを放置している母親はけしからん。ちゃんとあやすべきだ」という声が多いのですが、母親があやしたからといって必ずしも泣きやむわけではなく、そこに母親の悩みがあります。


新幹線と赤ちゃんで思い出すのは、6年前の松本人志氏のツイートです。

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これが話題になり、1万件のリツイート、1.9万件の「いいね」がつきました。

松本氏は、子どもに罪はないとする一方で、親に罪を押しつけています。少なくとも「おろおろしろ」と親に重荷を負わせています。
赤ん坊を泣きやます魔法はないので、親は誰もがおろおろしなければならないことになります。

松本氏のような考え方に多く「いいね」がつく世の中では、子ども連れの親は肩身の狭い思いをしなければなりません。
これも少子化が進む理由でしょう。


なお、「公共の場でみんなに迷惑をかけてはいけない」という理由から、泣く可能性のある赤ん坊を電車に乗せるなという意見もあります。
この意見は「公共」の意味がまったくわかっていません。
私的なパーティとかコンサート会場のような特殊な場所なら「赤ん坊を連れてくるな」ということも言えますが、公共の場はみんなに開かれているので、赤ん坊を排除することはできません。
赤ん坊が泣いたときには、眉をひそめたりしないのが公共の場におけるマナーです。
これは、のろのろ歩く老人や車椅子の人に眉をひそめたりしないのと同じです。
松本氏のような人は、公共の場におけるマナーができていません。


昔から「泣く子と地頭には勝てぬ」と言って、人々は泣く子はどうにもならないものとして受け入れてきました。
ところが、現代人は泣く子に勝とうとして、母親に圧力をかけているわけです。

「泣く子」だけではありません。
「騒ぐ子ども」や「遊ぶ子ども」も公共の場から排除され、親は子どもに「おとなしくしなさい」と圧力をかけ、学校では生徒はブラック校則に従わされています。
その結果、日本では年々若者に元気がなくなっています。
これは日本経済停滞の原因にもなっているはずです。

「泣く子」と共存することは日本を元気にする第一歩です。


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「親ガチャ」という言葉がはやっています。

「親ガチャ」とは、どういう親のもとに生まれてくるかで子どもの人生が決まってしまうという意味の言葉です。
「ガチャ」は課金ゲームの用語からきていますが、商店の店頭などによくあるガチャガチャと同じことです。どんなカプセルが出てくるかは運次第です。

金持ちの親のもとに生まれるか、貧乏な親のもとに生まれるかで、人生は大違いです。
愛情ある親のもとに生まれるか、子どもを虐待する親のもとに生まれるかでも同様です。
これらを一言でいえば「環境」要因となります。

そしてもうひとつ、「遺伝」要因もあります。親の知能が高ければ、子どもの知能も高いだろうということがある程度言えます。運動能力、性格、健康などもある程度遺伝で決まります。

つまり「人生は環境と遺伝で決まる」ということがいえます。
「親ガチャ」はこのことをわかりやすく表現した言葉で、当たり前の内容ですが、今、流行語になっているのにはいくつかの理由があります。


「人生は環境と遺伝で決まる」といっても、実際は環境重視派と遺伝重視派がいます。
環境重視派は、人間は生まれたときはみな同じようなもので、環境によって変わってくると考えます。ですから、貧乏な子には奨学金などを出し、虐待されている子には福祉を手厚くし、学校から落ちこぼれをなくせば、みんなが同じ人生のスタートラインに立てて、平等な社会になるだろうと考えます。
環境重視派は教育界の主流であり、左翼、リベラルに多くいます。

一方、遺伝重視派は、人間は生まれつき能力が違うので、学校は能力別クラス編成や飛び級によって子どもの能力を引き出すものにし、能力のない子どもを引き上げる努力をするのはむだだと考えます。
遺伝重視派は新自由主義とだいたい一致します。

以前は環境重視派と遺伝重視派がそれなりに拮抗していましたが、脳科学や認知科学や進化生物学が人間には遺伝的要素が大きいということを次々と明らかにして、最近は遺伝重視派が優勢になっています。
「人間の能力は遺伝でだいたい決まる」という認識が「親ガチャ」流行の背景にあると思われます。


それから、「環境」要因が変化しました。
トマ・ピケティは著書『21世紀の資本』において、資本主義社会では一般的に「資本収益率>経済成長率」という法則が成立すること、つまり資産家の収入の増加は労働者の収入の増加よりも大きいということを膨大なデータから明らかにしました。資産は子どもに相続されるので、大規模な戦争や革命がない限り、資産家階級と労働者階級の貧富の差は限りなく拡大していくことになります。この理論によって世界的に貧富の差が拡大している現実が可視化されました。
戦後間もないころの日本は、貧しい家に生まれても、成功して金持ちになる可能性がいくらかありましたが、今は社会階層が固定化して、労働者の親のもとに生まれるとたいていずっと労働者で、へたをすると親よりも賃金が下がります。

このことも「親ガチャ」という言葉が流行する背景です。


世の中には「親ガチャ」という言葉を嫌う人もいます。
ちょっとふざけた感じのする言葉だということだけでなく、自分の不幸を親のせいにしているということからです。

確かに「自分になんの才能もないのは親の遺伝のせいだ」と言う人は(それが事実だとしても)、「親ガチャ」という言葉を使って後ろ向きになっているだけです。
しかし、親に虐待されたような人は、それを正しく認識することが前を向いて歩きだすために必要ですから、「親ガチャ」という言葉が助けになるでしょう。

また、「親ガチャ」という言葉を嫌う人には、「人生は環境と遺伝だけで決まるわけではない。努力次第だ」という考えの人もいます。
これは、人間には環境や遺伝に左右されない「自由意志」があるという考え方です。

マルクス主義は唯物論ですから、人間も自然法則に従う存在と見なして、自由意志は否定します。
貧困は社会体制や福祉制度の問題ととらえます。

しかし、普通の人は、自分は自然法則に支配されているのではなく、素朴な実感として自分は自分の意志で行動していると思っています。つまり自由意志を肯定しています。
こういう人は当然、貧乏な人には努力しない人や怠け者が含まれているだろうと思います。
新自由主義もこうした考えを後押しします。
そのため生活保護の窓口などで、努力する人か努力しない人か、働き者か怠け者かを識別しようということが行われたりします。しかし、これには客観的な基準がないので、福祉の現場が混乱するだけです。

しかし、今では学問の世界では自由意志は非科学的だとして否定されています。文系の学者でも自由意志を肯定する人はいないはずです(竹中平蔵氏は「若者には貧しくなる自由がある」と発言したことがありますが)。
「親ガチャ」という言葉には、「人生は努力次第だ」というような非科学的な考え方への反発も込められていそうです。


ところで、「親ガチャ」という言葉がどこから出てきたのかよくわかりませんが、流行のきっかけはマイケル・サンデル著『実力も運のうち 能力主義は正義か?』と橘玲著『無理ゲー社会』の出版ではないかと思います。

『実力も運のうち 能力主義は正義か?』は、格差社会の原因を能力主義やリベラル、果てはオバマ元大統領にまで求めています。白人であるサンデル氏のオバマ氏への敵意でしょう。そもそもリベラルに格差社会をつくれるわけがありません。

『無理ゲー社会』は、おそらく『実力も運のうち 能力主義は正義か?』の骨格をパクったもので、格差社会の原因をリベラルに求めるのは同じです。そこに著者得意の「遺伝」を組み合わせています。
今の社会を若者や下層階級にとって無理ゲー社会ととらえるのはいいのですが、そういう社会のルールをつくれるのはリベラルであるはずがなく、支配階級しかありません。

この二冊は格差社会問題を改めて考えさせましたが、かえって混乱を深めています。


「親ガチャ」によって子どもの幸福が決まってしまう世の中は好ましくありません。
これをなんとかするには、「遺伝」はどうしようもないので、格差社会を解消することです。


あと、「子ガチャ」という言葉をいう人もいます。つまり親は子を選べないという意味で、「親ガチャ」に対抗する言葉です。
しかし、「子ガチャ」はありえません。
というのは、配偶者を選んで子どもを生むと決めた時点で、どんな子どもが生まれてくるかはある程度想定できるからです(障害のある子が生まれてくる可能性も考慮したはずです)。
「子ガチャ」を言うのは、自分と配偶者に唾する行為です。

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YouTuberの「少年革命家ゆたぼん」(12歳)さんが自身のYouTubeチャンネルで「いよいよ今年度から中学生になんねんな。でも俺は、中学校に行く気はありませーん!」と不登校を宣言。義務教育については「教育は学校に行くことだけじゃないから。おれみたいにホームスクーリングとかフリースクールでもええねん」と主張しました。
これがきっかけで、「なんのために学校へ行くのか」という議論が巻き起こっています。

格闘家でYouTuberのシバター氏は、「ゆたぼん君に学校の良さを伝えたい」のタイトルで動画をアップし、「学校に行くとほんとうの友だちができる。仕事が縁で知り合った人間は多少なりとも利己的な部分があるが、子どものときにできた友だちは、2人に経済的な格差ができても、その関係は変わらない」と主張しました。
これに対してゆたぼんさんは、動画の中で「パパとかシバターさんの中学時代はネットもスマホもなく、友だちを作る場所が、たぶん学校しかなかったから、そんなことを言ってるんやと思う」「中には、学校に行ったけど友だちが一人もできひんかったって人もおるわけやん」などと反論しました。

2ちゃんねるの創始者である「ひろゆき」こと西村博之氏はツイッターで、ゆたぼんさんの親を批判し、「子供を学校に通わせないで、身の回りの出来事を学ぶことで生きる力を云々という頭の悪い親がいますが、身の回り生活からどうやって虚数の概念を学べるのか聞いてみたいです」「『虚数なんて知る必要がない』と考える人は知識が足りない」と主張しました。
ゆたぼんさんの父親はひろゆき氏に反論して、ツイッター上でバトルを繰り広げました。

虚数の概念を学ぶことにどれだけの価値があるのかというのはむずかしい問題ですが、いずれにせよ、学校に行かなければ虚数を学べないということはないはずです。

昔は学校に行かないと学ぶ機会はまずありませんでした。
発明王のエジソンは学校をやめたあと、教師の経験のあった母親から学びましたが、これは例外です。

しかし、今はインターネットがありますし、フリースクールなどの代替学校もあります。

最近は不登校の子どもが増えているので、文科省も「不登校は誰にも起こりうる」という認識に立ち、代替学校へ通ったことを「出席扱い」とするなどの対応を進めています。



どこでも学べるようになると、「なんのために学校へ行くのか」という問いに対しては、シバター氏のように「学校に行くと友だちができる」といったことしか言えなくなります。

あと、「集団(団体)生活に慣れるため」という理由もよく挙げられます。
しかし、これはおとなの論理です。
「集団生活に慣れたい」と思っている子どもはいないので、子どもを説得するためには使えません。


しかし、考えてみれば、学校はほとんどタダで幅広い教科を教えてくれるのですから、これほどありがたいところはありません。
それでも不登校の子どもが増えるのはなぜでしょうか。
それは、学校教育の目的が根本的に間違っているからです。


学校教育について理解するために、江戸時代の寺子屋と比較してみます。

寺子屋の目的は「読み書き算盤」を教えることです。
読み書き算盤は子どもが生きていく上で必要なことですから、親は月謝を払い、子どもも納得して寺子屋に通いました。
一斉入学ではないので、指導はすべて個別指導です(商人の子、職人の子、百姓の子によって教材も違いました)。
先生がきびしく子どもを指導するということもありません。そんなことをすれば子どもはほかの寺子屋に行ってしまいます。
子どもにとって寺子屋の先生は生涯唯一の師匠なので、その絆は深く、先生が亡くなるとかつての生徒たちがお金を出し合って筆子塚というお墓をつくることがよくありました。寺子屋の記録というのはほとんどないので、今に残る筆子塚を調べて、昔の寺子屋の数が推定されました。
つまり寺子屋の教育は「子どものため」でした。

明治5年、学制が公布され、学校制度が始まりました。
「学制序文」の冒頭はこう記されています。



人々自ラ其身ヲ立テ其産ヲ治メ其業ヲ昌ニシテ以テ其生ヲ遂ル所以ノモノハ他ナシ


「人々が立身し、生計の道を立て、業を盛んにして、よい人生を送る」ということを目標に掲げ、そのためには学問をするしかなく、そのために学校を設けるのだと言っています。

これは福沢諭吉の『学問のすすめ』と基本的に同じ考え方です。
このときの学制はフランス式で、個人主義、実学主義でした。
つまり学校に行って勉強すれば、社会的地位が高く豊かな生活ができるようになるということで、学校教育は寺子屋と同じで「子どものため」でした。

しかし、帝国憲法と教育勅語によって、教育の目的はがらりと変わります。

教育勅語(文部省による現代語訳)にはこう書かれています。



汝臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦び合い、朋友互に信義を以って交わり、へりくだって気随気儘の振舞いをせず、人々に対して慈愛を及すようにし、学問を修め業務を習って知識才能を養い、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ。


「公共の利益」や「世のため」や「皇室国家の為」がうたわれ、「一身を捧げ」ることまで求められています。
つまり学校教育の目的は「富国強兵」になったのです。



敗戦により、国のあり方は大きく変わりました。
その中で教育基本法が1947年に制定され、2006年に改定されました。
教育基本法の「教育の目的」はこうなっています。




(教育の目的)

第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。


「人格の完成」というよくわからない言葉が入っています。
「人間は死ぬまで修養である」というのが日本人の考え方です。
しかし、「人格の完成」というのは、どこかに行き止まりがあるわけです。プラトンの「イデア」か、アリストテレスやカントの「最高善」から持ってきたのでしょうか。
いずれにせよ、「人格の完成を目指したい」という子どもなどいないので、子どもにとってはよけいなものです。

意味不明な「人格の完成」という言葉を無視すると、ここには「国家及び社会の形成者」と「心身ともに健康な国民」の育成がうたわれていて、子どもを社会や国家に役立つ人間にしようとしていることがわかります。
「平和」や「民主」という言葉で飾られていますが、その実態は国家主義のままなのです。
左翼やリベラルがここを批判しないのは不思議です。

教育基本法を制定するとき、寺子屋や福沢諭吉の時代にまで戻らなければなりませんでした。
たとえば、次のようにあるべきです。

(教育の目的)
第一条 教育は、子どもの現在と将来の幸せを期して行われなければならない。

子どもは一人一人能力も性格も違いますから、必然的に個別指導にならざるをえません(一斉授業というのは教える側の都合だけで行われています)。
そういう学校なら、ゆたぼんさんも登校拒否をしなくてもすんだかもしれません。

現在の教育を巡る混乱は、「国家社会のための教育」か「子どものための教育」かという視点で見ると明快になります。
理不尽な校則による人権侵害が平気で行われているのも、子どものための教育ではないからです。
教師は、自分は子どものために働いているのか、国家の手先になって子どもを隷属化させるために働いているのか、考え直さなければなりません。


子どもが不登校になると、親や世の中はなんとかして子どもを学校に行かせようとします。
しかし、これは服が体に合わないとき、体を服に合わせようとするのと同じです。
子どもの人間性や能力や性格は生まれ持ったものなので、変えることはできません。
学校を変えて子どもに合わせるのが正しいやり方です。

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セクハラやレイプ被害を告発する「#MeToo」運動が世界的に行われ、日本ではハイヒール強制に反対する「#KuToo」運動があり、そして、最近韓国では学生時代のいじめを告発する「#暴Too」運動が大きな社会問題になっています。

最初のきっかけは、CMなどにも出演する女子バレーボールのスター選手、イ・ジェヨンとダヨン姉妹が過去に壮絶ないじめをしていた事実が発覚したことです。2人は謝罪しましたが、代表選手の資格を剥奪されました。
それから、過去のいじめを告発するということが芸能界でも次々と起きて、ドラマやバラエティ番組がいくつも放送できなくなる事態になっています(詳しいことはこちらの記事で)。

日本では「いじめ」ですが、韓国では「学校暴力」と呼ばれて、法律で定義され、日本よりも犯罪という意識が強いようです。

しかし、小中高校時代のことを告発されても、被害者本人と級友の証言以外に証拠はないはずで、実際、告発された人物はたいていいじめの事実を否定するので、事態はこじれます。
ただ、有名人が告発されると、それだけで大きなイメージダウンになります。


日本でも似たことがありました。
週刊文春によると、眞子さまの婚約者である小室圭さんが中高時代に同級生の女性をいじめて、そのため女性は高校1年で退学し、2年ほど引きこもり生活をし、「人生を狂わされた」と言っているということです。
これなどまったく信ぴょう性がありません。マスコミはずっと小室圭さん批判をしてきて、この報道もその一環です。捏造したものではないかという疑念があります。

それに、学校時代にいじめられたという人はいっぱいいます。そういう人がみんな告発をするようになって、告発された人がなんらかの対応をしなければならないとなると、世の中は大きな難題を背負い込むことになります。
そんなことを考えさせられる文春の報道でした。


それから、私が思い出したのは、1980年代から90年代にかけてアメリカで、幼児期に親から虐待されたとして成人した子どもが損害賠償を求めて親を訴えるケースが頻発したことです。
これに対して、訴えられた親を支援する財団が設立され、心理学者が動員され、幼児虐待の記憶はセラピストによって捏造されたものだという反論がなされ、その結果、訴訟のほとんどは親側の勝利で終わりました(この経緯はウィキペディアの「虚偽記憶」の項目で読めます)。

幼児虐待は家庭という密室で行われ、少なくとも10年、20年も前のことなので決定的な証拠はほとんどなく、そうすると幼児虐待を隠ぺいする方向、つまり親に有利な方向になってしまいます。


韓国の「#暴Too」運動は、これらとはまったく異質です。

「#MeToo」運動が告発するセクハラやレイプは、男と女という強者と弱者の関係で起き、「#KuToo」運動が告発するハイヒール強制は、会社と女性社員という強者と弱者の関係で起き、幼児虐待はもちろん親と子という強者と弱者の関係で起きます。
ですから、こうした運動は社会改革の運動でもあります。

ところが、学校でのいじめは、基本的に同級生という対等の関係で起きます。
もちろん強い者が弱い者をいじめるのですが、強い弱いといってもわずかな差です。ときには立場が入れ替わることもあります。
いじめた者を裁いたところで、社会も変わりませんし、学校も変わりません。
それに、証拠がないので裁判に持ち込んでも勝てることはまずありません。
そうすると、有名人に対する個人攻撃、人格攻撃になるだけです。


さらに、根本的なことを言うと、「#暴Too」運動は告発する相手が違います。

「自由の裏に責任」とよく言われますが、子どもは義務教育や校則や教師の指導に縛られているので、自由がなく、責任の主体にはなりません。
学校でいじめが起きたとき、責任が問われるのは教師と学校です。
日本でいじめで子どもが自殺したとき、自殺した子どもの親が損害賠償請求の訴訟を起こすことがありますが、訴訟の相手はいじめた子どもではなく、たいていはいじめた子どもの親と、管理責任のある学校と教育委員会です。

いじめ防止基本法には、「児童等は、いじめを行ってはならない」とありますが、いじめを行った児童の責任を問う規定はなく、国、地方公共団体、学校設置者、学校及び教職員、保護者の責務の規定があるだけです。
ですから、いじめた子どもが成人になったとしても、その責任を問うことはできないでしょう。
責任を問うなら、当時の学校、教師、教育委員会、そしていじめっ子の保護者です。


韓国でも、自由のない子どもの責任を問うことができないのは同じはずです。
いじめられた人がいじめた相手を憎んで、告発したくなる気持ちはわかりますが、社会やマスコミは冷静に責任の所在を判断して対処する必要があります。
そうすれば「#暴Too」運動も沈静化するでしょう。

いじめっ子の責任を問うよりも学校の管理責任を問うほうがよほど建設的です。

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