村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

カテゴリ: 子どもの復権

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学校が無責任なら、親も無責任、テレビのコメンテーターまでもが無責任と、無責任の三重奏です。
これでは容疑者の少年が救われません。

大学入学共通テストが行われた1月15日、試験会場となった東京大学前の路上で2人の受験生と72歳の男性が刃物で切りつけられる傷害事件が起きました。殺人未遂容疑で逮捕されたのは高校2年の男子生徒(17歳)で、犯行時に「俺は東大を受験するんだ」などと叫んだということです。
そして、 取り調べにおいて「医者になるため東大を目指していたが、1年くらい前から成績があがらず自信をなくした。人を殺して罪悪感を背負って切腹しようと思った」と供述したという報道がありました。

容疑者の少年も受験生だという報道が一時ありましたが、高校2年生なので受験生ではありません。
名古屋から上京して東大前で犯行に及んだということで、東大に強い執着があっただろうと想像されます。
親や学校はどういう教育をしていたのかが気になるところです。

すると、容疑者の少年の通っていた高校が事件の翌日にコメントを発表しました。

刺傷容疑の少年が通う高校が謝罪コメント 「コロナ禍で生徒が分断」
大学入学共通テストの受験生らが刺された事件で、殺人未遂容疑で逮捕された少年(17)が通う高校が16日、コメントを出した。全文は次の通り。

本校在籍生徒が事件に関わり、受験生の皆さん、保護者・学校関係者の皆さんにご心配をおかけしたことについて、学校としてお詫(わ)びします。

 本校は、もとより勉学だけが学校生活のすべてではないというメッセージを、授業の場のみならず、さまざまな自主活動を通じて、発信してきました。また本校の長い歴史のなかで、そのような校風を培ってきました。ところが、昨今のコロナ禍のなかで、学校行事の大部分が中止となったこともあり、学校からメッセージが届かず、正反対の受け止めをしている生徒がいることがわかりました。これは私たち教職員にとっても反省すべき点です。「密」をつくるなという社会風潮のなかで、個々の生徒が分断され、そのなかで孤立感を深めている生徒が存在しているのかもしれません。今回の事件も、事件に関わった本校生徒の身勝手な言動は、孤立感にさいなまれて自分しか見えていない状況のなかで引き起こされたものと思われます。今後の私たちの課題は、そのような生徒にどのように手を差し伸べていくかということであり、それが根本的な再発防止策であると考えます。
https://news.yahoo.co.jp/articles/c1767df2ba7df2cdd97fc6396e891b9dab54fa7f
コロナ禍の中で学校のメッセージが生徒に届かず、生徒が孤立感にさいなまれたことが事件の原因であるとしています。
これについては「コロナのせいにするのは無責任」という批判がありました。

内容も無責任ですが、このコメントの体裁も無責任です。
高校名が書いてないのです。誰が書いたかも書いてありません。
普通は「〇〇高校校長」などと文末にあるものです。
「全文」とあるので、省略はしていないでしょう。

この記事は朝日新聞デジタルの記事がヤフーニュースに載ったものです。
ほかのメディアの記事も調べてみましたが、やはり高校名や校長名はありません。
この高校はコメントは出したものの、高校名は隠すことにし、メディアもそのことを容認したものと思われます。
高校名を隠す高校も無責任ですが、そのまま記事にするメディアも無責任です。

もちろんそんなことは隠し通せるものではありません。
少年の通っていた高校は名古屋市の東海高校です。ここは私立の男子校で、中高一貫校ですが、高校から入学することもでき、少年は高校入学組だったようです。
有数の進学校で、2021年には東大に30名、京大に31名が入学し、文春の記事によると医学部進学実績がNo.1の高校だそうです。
文春の記事の中には「自由な校風」だと語る高校関係者が出てきますが、ウィキペディアによると、制服は黒の詰襟学生服だそうです。
私の中では「自由な校風」と「黒の詰襟学生服」は両立しません。私立男子校の進学校ということで、一流大学進学に価値を置くホモソーシャルな集団を想像します。

18日のFNNプライムオンラインのニュースにはこんなことも書かれていました。

少年は犯行時、「僕は来年東大を受けるんです」と叫んでいたが、新たに「偏差値73の高校から来た。実力はある」と騒いでいたことがわかった。 少年は調べに対し、「1年くらい前から成績が上がらず悩んでいた」と供述しているが、私服から高校の制服に着替えて、目標としていた東京大学で犯行に及んでいて、警視庁がくわしい動機を調べている。
https://news.yahoo.co.jp/articles/36c053fc97ae5f9df0ca9c5913419f6e8791ca88

わざわざ高校の制服に着替えて犯行に及んだのはどういう意味でしょうか。
高校へのいやがらせなのか、高校に誇りを持っていたのか、どちらも考えられます。
いずれにしても、少年が名門進学校の価値観にひどく影響されていたことはうかがえます。
その意味からも、東海高校は事件に対してもっと責任を感じたコメントを出すべきでした。


少年の父親は、東海高校のコメントから少し遅れましたが、同じく事件の翌日にコメントを出しました。

東大前3人刺傷 少年の父親が謝罪文「誠に申し訳ございません」
 大学入学共通テストの試験会場となった東京大(東京都文京区)近くの路上で受験生ら3人が刃物で刺された事件で、殺人未遂容疑で逮捕された私立高校2年の少年(17)=名古屋市=の父親が16日、少年の弁護人を通じてコメントを出した。全文は次の通り。

このたびは、世間をお騒がせしまして、誠に申し訳ございません。

 被害にあわれましたご本人様には、心より申し訳なくお詫(わ)び申し上げます。

 一日も早いご回復をお祈り申し上げますと共に、ご家族、ご関係者の方々にも併せてお詫び申し上げます。

 現在、警察による捜査段階で、私共がこの件に関して行動することを控えるよう言われておりますので、被害者様へのお詫びにもお伺いできず、心苦しい限りです。

 このたびは誠に申し訳ございませんでした。
https://news.yahoo.co.jp/articles/7868cfaeb866ce726aa91d84b9c3ed4edacd7288

父親の名前がありませんが、これはしかたありません。

「警察による捜査段階」を理由にして一切の説明を拒むとは、政治家や官僚がさんざんやってきた手口です。
この父親もそうした“上級国民”なのでしょうか(事件の翌日に弁護士がついているというのも早手回しです)。

親なら子どもを守ろうとするものですが、ここにあるのは自己保身だけです。
「私の教育が間違っていた。悪いのは私だから、息子を責めないでほしい」といったことが書かれていれば親心が感じられます。
そういう親心があれば、息子もこうした事件は起こさなかったでしょう。

少年が東大医学部に異様にこだわるようになったのは親の圧力のせいではないかと想像されますが、そのあたりを説明してほしいものです。


親や教師は、事件を起こした少年がすべて悪いということにしておけば自分たちは免責されますから、そういう方向に持っていこうとします。
テレビのコメンテーターは客観的に判断できるはずですが、やはり親と学校を免責する方向でコメントしています。

橋下徹氏 東大前刺傷事件の少年に「社会の責任にするというのは違うよと言っていかないと」
俳優の谷原章介がMCを務める「めざまし8」(フジテレビ系)で17日、東京大学前で大学入試共通テストの受験生ら3人が刺され、名古屋市の高校2年の少年(17)が逮捕された事件について、元大阪府知事の橋下徹弁護士が言及した。
(中略)
橋下氏は「少年事件ですから、刑事事件にならない限りは社会的な更生を目指していくのが第一目標になるんですが、ただあまりにも身勝手すぎ。今、自己責任というと批判される風潮があるんですけど、基本的には人生は自己責任が原則であり、ただ家庭の経済環境や親の虐待問題などあるから、社会がサポートしなきゃいけないけど、自分の人生を歩むうえでいろんな悩みがあるかわからないけど、社会の責任にするというのは違うよということを明確に言っていかなきゃいけないと思う。自己責任というと冷たい言い方だからといって自分の責任じゃないんだよという部分が強くなりすぎているという風潮を、危惧しています」と見解を語った。

 少年が通う高校はコメントを発表し「昨今のコロナ禍のなかで学校行事の大部分が中止になったこともあり、学校からメッセージが届かず、正反対の受け止めをしている生徒がいることがわかりました。密をつくるなという社会風潮のなかで、個々の生徒が分断され、そのなかで孤立感を深めている生徒が存在しているのかもしれません」とコロナ禍の状況が事件に影響した可能性を指摘。

 橋下氏はこれに「人生僕ら振り返ってみて目標、目的通りにすべてうまくいったことなんてないじゃないですか。いろんな選択肢があって、一つ目じゃなくても二つ目でも三つ目でもいいわけで、そういうことを子供たちに教育現場で教えていくことをしっかりやってもらいたい。悩みがある生徒を救ってあげるという基本的なところ。ただ原則として自己責任だよというところもしっかり教えなきゃいけないと思う」と分析した。https://news.yahoo.co.jp/articles/ce75b9aa19ba726c001a5b86ac842f9b88e406c7


橋下氏は「社会の責任にするというのは違うよ」と言っていますが、容疑者の少年の現場での叫びや取り調べでの供述が報道される中で、少年がそのようなことを言ったという報道はありません。
橋下氏が少年の心理を勝手に推測して、それを非難しているだけです。

「自己責任」という言葉についてはいろいろ批判されていますが、橋下氏はいちばん使ってはいけない場面で使いました。
「責任」というのは「自由」があってこそです。
高校2年生の少年にどれだけの自由があったでしょうか。

私は小学校のときから校長のスピーチなどで「自由の裏には責任」という言葉をいやというほど聞かされてきました。これは「お前たちには責任を取る能力がないから自由もないのだ」という意味でした。
生徒は自由のない生活をしているのに、なにか事件を起こしたとたんに「責任」を問われるのは理不尽です。

このケースでとくに問題なのは、少年が東大医学部を志望していたことです。
少年が自分で東大医学部という目標を立て、自分の実力がそれに及ばないことに気づいたとき自暴自棄になり、犯行に及んだというのなら、この少年が批判されて当然です。
しかし、自分で目標を立てたなら、自分で目標の修正もできるはずです。
東大医学部という目標を押しつけられ(おそらくは親に。高校の価値観もそれを後押し)、自分の実力がそれに及ばず、目標と現実に引き裂かれて自暴自棄になったとすれば、むりな目標を押しつけた者が批判されるべきです。

親と学校の管理下で生きてきた少年が事件を起こしたとたん、親も学校も責任をすべて少年に押しつけるというのが、今起きていることです。
テレビのコメンテーターもたいていは親の立場ですから(橋下氏は7人の子持ち)、親の責任逃れを手助けするわけです。

おとなたちがみなこうした無責任な態度でいる限り、同じような犯罪が繰り返されても不思議ではありません。



ところで、「職業選択の自由」は近代社会の基礎をなす重要な権利です。
医学部進学を押しつけるということは、医者になることを押しつけているので、明らかに職業選択の自由の侵害です。
今の世の中ではこういうことが平気で行われています。
親が子どもに多様な経験を積ませるためにピアノを習わせたり、少年野球チームに行かせたりするのはいいとしても、「子どもをピアニストしたい」とか「子どもをプロ野球選手にしたい」とか言いだすと、職業選択の自由の侵害です。これは子どもの人生を親が乗っ取るようなものです。

「子どもの人権」を尊重することから始めなければなりません。

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日本経済を停滞から救い出すためには、即効性のある方法としては、防衛費を大幅に削減してその分を文教科学振興費に回すしかなく、長期的な戦略としては、教育改革をして学校に自由、人権、民主主義をもたらすことだと述べてきました。
しかし、最善の方策をとっても、もはや日本はたいして経済成長しないかもしれませんし、地球環境のために日本のような先進国は経済成長するべきではないという考えもあります。
経済成長しなくても幸せになる方法も考えなければなりません。


私が子どものころ、「狭いながらも楽しい我が家」ということがよく言われました。
この言葉は、当時エノケンこと榎本健一が歌ってヒットした「私の青空」という歌の一節です。
大きな家に住む金持ちは、見かけは幸せそうでも、虚栄心が強くて愛情の少ない家庭かもしれない。貧しくても愛情豊かな家庭が幸せなのだということを、「狭いながらも楽しい我が家」という言葉を使って言ったのです。

金持ちでも愛情豊かという家庭もありますから、貧乏人の負け惜しみと言われてもしかたありません。
しかし、「貧しくとも愛情ある家庭があれば幸せ」というのは、そんなに間違っていないでしょう。
もちろんお金も愛情もあればいいわけですが、お金がなければ愛情だけでもほしいものです。

経済大国がだめなら「愛情大国」というわけです。

ブータンはGDPでなくGNH(国民総幸福量)を目指す国として注目されましたが、それと同じようなものです。

もっとも、愛情や愛というのは、小説、映画、音楽の中には氾濫していますが、政治や社会を論じるときに語られることはありません。
政治の世界で愛が語られたのは、鳩山由紀夫首相の「友愛」ぐらいではないでしょうか。

なぜ愛が語られないかというと、「愛のムチ」などという言葉があって、愛と暴力の区別もつかない人がいるからです。
「愛国心」という言葉もあります。愛国心というのは、外国への敵愾心をあおって国内の結束を固めるために使われる言葉で、愛とは無縁です。郷土愛や人類愛と比べると、愛国心が異質であることがわかります。
しかし、愛国心と愛の区別がつかない人がいるので、政治の世界で愛は語れませんでした。

しかし、今は孤独担当大臣が存在しています(イギリスのパクリですが)。孤独は愛情の欠如した状態と見ることもできるので、すでに政治は愛情に関わってきています。
ですから、孤独担当相を愛情担当相に変えればいいだけのことで、これはすぐにでもできます。


愛情は家庭の中で再生産されます。
仲のよい夫婦のもとで愛情を受けて育った子どもは、おとなになると仲のよい夫婦になり、愛情を持って子どもを育てます。つまり愛情の連鎖です。
DVの夫婦のもとで虐待されて育った子どもは、おとなになるとやはりDVの夫婦になり、子どもを虐待して育てます。つまり暴力の連鎖です。
ですから、暴力のある家庭を愛情のある家庭に変換していけばいいわけです。

どうすればいいかというと、とりあえず愛情も暴力も世代連鎖するという知識を世の中に広めることです。
それだけで自分がなぜ暴力をふるうかということがわかり、みずから改める人もいるでしょうし、相手の暴力の原因がわかり、適切に対処できるようになる人もいるでしょう。
カウンセリングを奨励し、その窓口をふやすことも必要です。

これに対して、「国家が家庭の中に介入するのか」という反対意見があるかもしれません。
しかし、厚労省はすでに子育てのやり方で家庭の中に介入しています。

厚労省は2017年から「愛の鞭ゼロ作戦」と称して、子どもへの体罰や暴言は脳の萎縮・変形を招くとして体罰や暴言を禁止するキャンペーンを展開しています。
厚労省が公式にキャンペーンをしている影響は大きくて、最近は体罰肯定論はまったく聞かなくなりました。また、私の印象ですが、以前はスーパーなどで子どもを大声で叱っている母親がよくいたものですが、最近はまったくといっていいほど見かけません。
ですから、同様に夫婦間の暴力・暴言の禁止キャンペーンをやれば、かなり効果があるはずです。

暴力・暴言がなくなったとしても、それだけで愛情のある家庭になるわけではありませんが、近づいたとはいえます。


今は愛情と暴力の世代連鎖について述べたわけですが、世代連鎖のほかに「社会連鎖」というのもあります。
「社会連鎖」というのは私の造語ですが、内容はありふれたことです。
たとえば、父親が会社で上司から理不尽な怒られ方をして、内心不満をかかえたまま帰宅したとき、その不満を解消するため、妻や子どもに向かって理不尽な怒りをぶつけるといったことです。
あるいは、母親がママ友からバカにされ、劣等感を味わったとき、家に帰って子どもをバカにして劣等感を味わわせるというのもあります。
つまり「当たる」とか「八つ当たり」という行為です。関係ない人間に当たるのはおかしいといっても、この心理は誰にでもあります。プロ野球の監督は選手が失策したときなどベンチやロッカーを蹴って当たっています。
強い者が弱い者をいじめ、弱い者はさらに弱い者をいじめるというのが「社会連鎖」です。

幼児虐待は、自分の子ども以外にいじめる者がいないという社会連鎖の最下層において発生しがちです。
そして、一度発生すると、世代連鎖し、夫婦間DVも派生します。
単純化して言いましたが、原理はそういうことです。


ですから、社会格差が拡大すると虐待も発生しやすくなります。

どんな家庭で虐待事件が起こるかということを「全国児童相談所における家庭支援への取り組み状況調査」が明らかにしています。

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「経済的な困難」「不安定な就労」「劣悪な住環境」はどれも貧困を意味するといってもいいでしょう。
つまり貧困家庭は虐待が起こりやすいのです。
世の中を騒がせた虐待事件を振り返ると、虐待した親のほとんどは無職か不安定な雇用形態です。

貧困も、今と昔ではとらえ方が違います。
昔の貧乏人は「狭いながらも楽しい我が家」といって自分を慰めていましたし、「金持ちはどうせあくどいことをやって儲けたんだろう。自分たちは清貧だ」といったプライドもありました。
しかし、今は新自由主義的価値観が広がって、「金持ちは勝ち組、貧乏人は負け組」ということになり、さらに「貧乏人は能力がないだけでなく、努力しない怠け者だ」という考え方も強まって、貧乏人にはまったく救いがありません。

さらに、こうした競争社会では、親は子どもを負け組にしないために教育に力を入れ、「勉強しなさい」などと圧力をかけることになりますが、これは愛情ある親子関係に亀裂を生じさせます。


このような虐待や暴力の発生と連鎖のメカニズムがわかれば、虐待や暴力をなくし、愛情ある家庭をつくる方法もわかります。
暴力禁止キャンペーン、カウンセリングの充実、貧困対策、競争社会の見直しなどによって「愛情大国」への道が開かれます。

根本的なことを言えば、親子や家族が愛情のあるつながりを持つのは本能的なものです。そのことは未開社会を見たり、哺乳類の親子や群れを見たりすればわかります。
家族関係がゆがむのは、競争社会のような文明のゆがみが家族に影響を与えるからで、そのような影響を排除すれば愛情ある家族が実現できます。
この原理さえわかっていれば、具体的な方策を見いだすのは簡単です。


こうしたことは当然、政治の課題です。
政府は2023年度に「子ども家庭庁」を創設することを閣議決定しているので、子ども家庭庁がその役割を担うことになるのでしょう。

ところで、「子ども家庭庁」は一時「子ども庁」という名前が予定されていましたが、最終的に「子ども家庭庁」という名前になりました。
これには自民党の右派議員の働きかけがあったとされます。そして、右派議員が拠りどころとするのが「親学」という思想です。

「親学」とはなにかというと、親学推進協会のホームページを見ると、「親が変われば、子どもも変わる」と大きく書かれています。
「親が変われば、子どもも変わる」というのは、たとえば子どもが反抗的で困っているという親に対しては有効なアドバイスになりえますが、そのような特定の親に対してではなく、すべての親に対して言っているようです。
つまり親も子も根こそぎ変えようというのが「親学」の考え方なのです。
どのように変えるかというと、要するに戦後の親子関係を否定して、戦前の親子関係に戻そうということです。

そもそも自民党は、夫婦別姓反対を見てもわかるように、家父長制を理想としています。「親学」も同じです。
家父長制は、男が女を支配し、おとなが子どもを支配するというのもので、暴力や虐待の温床です。
愛情ある家庭と真逆です。

日本が「愛情大国」になるには、家庭を巡る思想闘争を経なければなりません。

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「成長なくして分配なし」か「分配なくして成長なし」かという議論がありますが、ニワトリが先か卵が先かみたいにバカげています。
30年間ほとんど成長しなかった国ですから、どちらにしても成長するわけがありません。
成長したいなら、今までにない成長戦略が必要です。

私は、防衛費を大幅に削減して、その分を文教科学振興費に回すというやり方しか有効な成長戦略はないということを「防衛費という『聖域』」という記事に書きました。
辺野古埋め立てとか陸上イージスとかにお金をつぎ込んでいるから日本経済はだめになるのです。

ほかのやり方があるとすれば、外国人労働者を大量に入れることです。
しかし、このやり方は、経営者、株主には利益になりますが、日本人労働者には不利益になるので、その損得を見極めないといけません。

それにしても、一国の経済が30年も停滞するというのは尋常なことではなく、経済政策以外のことも考えないといけません。
藻谷浩介氏は『デフレの正体』において、少子化で労働力人口が減少していることが停滞の原因だと指摘して、説得力がありました。
私はそれ以外に、教育の問題も指摘したいと思います。


「デジタル敗戦」「デジタル後進国」という言葉があって、日本は行政も企業もデジタル化の波に乗り遅れているとされます。日本の行政はいまだにファックスを使っているというので世界中からあきれられました。
文科省は小中学校でプログラミング教育を始めましたが、デジタル強国になるには教育から変えていかねばという考えでしょう。

ところが、日本ではずっと文科省の方針として、小中学校ではスマホの学校への持ち込みが禁止されていました。
やっと2020年に中学校で条件付き持ち込み容認となり、小学校では「原則禁止とはするものの、条件によっては持ち込んでもよしとする」ということになりました。

スマホやPCを使いこなすITリテラシーは、幼いころからやったほうが身につくものです。
台湾のIT担当相であるオードリー・タン氏は幼いころからPCに興味を持ち、8歳から独学でプログラミングを学び始めたということです。
学校で禁止されても家庭で使うことはできますが、学校で禁止されていることを理由に親が子どもにスマホを持たせないというケースもあるでしょう。
文科省は子どものITリテラシーを阻害するようなことをしてきたのです。

文科省はプログラミング教育をする前に、子どもにスマホやタブレットの教室持ち込みを奨励するべきです。授業でわからないことやもっと詳しく知りたいことがあれば、スマホですぐに調べることができて、学力向上にも役立ちます(スマホを買えない家の子がかわいそうだという声がありそうですが、低いレベルで平等にするのは間違っています)。


香川県はネット・ゲーム依存症対策条例を制定し、18歳未満の子どもがゲームをすることを規制しています。
これは文科省の方針ではありませんが、子どもがゲームすることを規制している親は全国的にいっぱいいるでしょう。
「スマホ脳」「ゲーム脳」といった言葉に影響されているのかもしれません。

将棋の藤井聡太四冠は、5歳で将棋を覚えて、たちまちはまりました。おそらく“将棋脳”になっているはずですが、見たところ藤井四冠の人格に問題があるということはまったくありません。

夢中でゲームをやれば集中力が養われます。だらだら勉強していたのでは、集中力は身につきません。

ゲーム業界の市場規模は約2兆円で、高い成長率があります。
日本経済のためにもゲーム業界を担う人材を育てるべきなのに、逆行しています。

ちなみに音楽業界の市場規模は約2700億円です。
ゲームには物語、ビジュアル、音楽などの要素があって、今後クリエイティブな仕事をしたい人はゲーム業界を目指すのが現実的です。
ゲーム機は実質コンピュータなので、幼いころからゲーム機の操作に習熟すると、PCやスマホの操作にも役立ちます。
親は子どもの将来を考えたら、安易にゲームを禁止することはできないはずです。

日本がデジタル後進国になったのは、子どもにスマホやゲームを制限していることが大きな原因ではないかと思います。


若者の少なくなった日本が活気のない国になるのはある程度やむをえないことですが、現状はそれ以上に活気が失われています。つまり若者は数が少ないだけでなく、元気もないのです。

若者に元気がない理由はいろいろと考えられますが、教育の問題に限ると、たとえば「ブラック校則」が挙げられます。
理不尽な校則にがまんして耐えることが小学校から高校まで続くと、誰でも元気がなくなるのは当然です。
こういう経験は、ブラック企業に勤めたときには役立つかもしれませんが、それ以外になんのプラスもありません。

ブラック校則は昔からありましたが、昔の中学生や高校生は反抗的な態度をとることである程度発散することができました。
ところが、今は高校入試や大学入試で内申書が重視され、さらに推薦入学の枠が広がったので、子どもは教師に反抗的な態度をとることができません。
内申書も試験の点数だけで成績が決まるかというとそうではなく、教師の主観が入る余地があります。

12月18日付け朝日新聞の「声」という読者投書欄に「学校の息苦しさ『評価』が影響」(小学校教員41歳)という投書が載っていました。その一部を引用します。
教員になって10年以上が経ち、通知表の「評価」が息苦しさに与える影響力が大きいことを実感する。授業では教員が評価のために記録することが多い。子ども一人ひとりの気持ちや個性を受け止めたい気持ちとはなじまない。さらに最近は、知識だけではなく、意欲や主体性など内面的なことも評価するようになった。報道などによると、中学校では内申点を上げるために意欲があるように振る舞う子どももいて、ピリピリとした雰囲気になるという。
子どもは教師に反抗的な態度をとることなどまったく考えられません。
子どもは教師の目を気にして、教師の気持ちを忖度しながら学校生活を送っているわけです。
「ブラック校則を改正するよう生徒は学校に働きかけるべきだ」などと言う人がいますが、学校の実情がわかっていません。
生徒がみずから動いてブラック校則が改正されることはないでしょう。

私の学校時代は、内申書は中間試験や期末試験の成績が反映されたもので、教師の主観の入る要素はほとんどありませんでしたし、大学入試に内申書が考慮されることはないとされていました。

高石ともやの「受験生ブルース」(中川五郎作詞)には「大事な青春むだにして/紙切れ一枚に身をたくす/まるで河原の枯すすき」とありますが、「紙切れ一枚に身をたくす」というのは実際その通りだったのです。
いくら教師ににらまれても、入試の点数さえよければ希望の大学に入ることができました。ですから、ある意味気楽でした。

今の生徒は、入試の点数と教師受けと二正面作戦を強いられるのでたいへんです。


教師に受けることを考えていると、おとなの常識の枠を超える発想ができなくなります。
日本の科学技術の学術論文は、多く引用される重要論文の数はへり続けて世界10位にまで後退しました。
これは中学高校の教育のあり方にも原因があるのではないでしょうか。


ここ10年ほど日本の自殺者数はへり続けていますが、若者の自殺だけはへりません。2020年度の小中高生の自殺者数は499人で、1980年の統計開始以来最多となりました。

2020年度に不登校だった小中学生は19万6127人で、やはり過去最多となりました。

小中高校におけるいじめの認知件数は、2020年度は51万7163件で、前年度より15.6%減少しましたが、この減少はコロナ禍で子ども同士の接触がへったためと思われます。2019年度のいじめ件数は過去最多でした。

こうしたデータを見ると、日本の学校教育は明らかに失敗しています。
この失敗の原因はなにかというと、家父長制を理想とする自民党の思想にあります。

家父長制というのは、男性である家長が女性や子どもを支配する家族制度です。
自民党が夫婦別姓を認めようとしないのは家父長制を理想としているからです。
こうした自民党のあり方は、ジェンダー平等の観点から批判されています。

しかし、家父長制というのは「男が女を支配する」と「おとなが子どもを支配する」のふたつの要素から成り立っていて、今批判されているのは「男が女を支配する」の部分だけで、「おとなが子どもを支配する」の部分は批判されません。

自民党は昔から「権利を主張する若者」が大嫌いで、「おとなが子どもを支配する」ことを目指してきました。
そして、内申書重視や推薦入学制によって「教師が生徒を支配する」学校をつくりあげることに成功したのです。
しかし、これもまったくといっていいほど批判されません。
先ほど引用した朝日新聞の投書は珍しいケースです。

「教師が生徒を支配する」学校では、生徒は元気も創造性もなくしてしまいます。
日本経済がだめなのは、こうしたことから若者に元気と創造性がなくなったことも大きな原因ではないかと思います。


では、どうしたらいいかというと、処方箋は簡単です。
自民党は「自由、人権、民主主義」を重視する価値観外交というものを掲げています。
ところが、日本の学校には「自由、人権、民主主義」がまったくありません。
学校に「自由、人権、民主主義」を行き渡らせれば、問題は簡単に解決します。



私はこのたび新しいブログを始めたので、あわせてお読みください。
「道徳観のコペルニクス的転回」

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日本では、子どもを持つ母親は肩身の狭い思いをしなければなりません。
たとえば赤ちゃん連れで新幹線に乗ることもたいへんなようです。

5か月の子どもを育てている母親が夫の実家に産後初の帰省をするのに新幹線に乗るに際して、その悩みをネットで相談したということが『「赤ちゃん連れの新幹線、ギャン泣きしたらどうしようと不安です」母親の相談に注目集まる』という記事で紹介されました。
母親は車で帰るか新幹線で帰るか考えて、赤ちゃんの負担の少ない新幹線を選んだのですが、赤ちゃんは泣きだすと疲れるまで泣きやまないことも多く、「周りに迷惑をかけてしまうな、とか、うるさいって怒鳴られたらどうしようと不安で」と、経験者にアドバイスを求めました。

すると、「精神的なことを考えたら時間はかかっても車のほうが楽」とか「ピリピリしてる雰囲気があるから、私なら怖くて赤ちゃんを連れて電車移動できない」とか「本当にどうしようもなくなって、途中下車して30分待ったこともある。自由席切符だから出来ることだね」というように、赤ちゃん連れ新幹線乗車に否定的な声が多くありました。
新幹線に乗ることを応援する声もありますが、そういう声にもたいてい「子どもが泣いたり騒いでるのに放置とかあやそうともしない人はどうかと思うけどね」というただし書きがついています。

「泣いたらデッキに連れ出すべきだ」という声もありますが、「デッキは騒音が大きいので、かえって泣く」という反論もあります。

「泣いてる赤ちゃんを放置している母親はけしからん。ちゃんとあやすべきだ」という声が多いのですが、母親があやしたからといって必ずしも泣きやむわけではなく、そこに母親の悩みがあります。


新幹線と赤ちゃんで思い出すのは、6年前の松本人志氏のツイートです。

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これが話題になり、1万件のリツイート、1.9万件の「いいね」がつきました。

松本氏は、子どもに罪はないとする一方で、親に罪を押しつけています。少なくとも「おろおろしろ」と親に重荷を負わせています。
赤ん坊を泣きやます魔法はないので、親は誰もがおろおろしなければならないことになります。

松本氏のような考え方に多く「いいね」がつく世の中では、子ども連れの親は肩身の狭い思いをしなければなりません。
これも少子化が進む理由でしょう。


なお、「公共の場でみんなに迷惑をかけてはいけない」という理由から、泣く可能性のある赤ん坊を電車に乗せるなという意見もあります。
この意見は「公共」の意味がまったくわかっていません。
私的なパーティとかコンサート会場のような特殊な場所なら「赤ん坊を連れてくるな」ということも言えますが、公共の場はみんなに開かれているので、赤ん坊を排除することはできません。
赤ん坊が泣いたときには、眉をひそめたりしないのが公共の場におけるマナーです。
これは、のろのろ歩く老人や車椅子の人に眉をひそめたりしないのと同じです。
松本氏のような人は、公共の場におけるマナーができていません。


昔から「泣く子と地頭には勝てぬ」と言って、人々は泣く子はどうにもならないものとして受け入れてきました。
ところが、現代人は泣く子に勝とうとして、母親に圧力をかけているわけです。

「泣く子」だけではありません。
「騒ぐ子ども」や「遊ぶ子ども」も公共の場から排除され、親は子どもに「おとなしくしなさい」と圧力をかけ、学校では生徒はブラック校則に従わされています。
その結果、日本では年々若者に元気がなくなっています。
これは日本経済停滞の原因にもなっているはずです。

「泣く子」と共存することは日本を元気にする第一歩です。


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「親ガチャ」という言葉がはやっています。

「親ガチャ」とは、どういう親のもとに生まれてくるかで子どもの人生が決まってしまうという意味の言葉です。
「ガチャ」は課金ゲームの用語からきていますが、商店の店頭などによくあるガチャガチャと同じことです。どんなカプセルが出てくるかは運次第です。

金持ちの親のもとに生まれるか、貧乏な親のもとに生まれるかで、人生は大違いです。
愛情ある親のもとに生まれるか、子どもを虐待する親のもとに生まれるかでも同様です。
これらを一言でいえば「環境」要因となります。

そしてもうひとつ、「遺伝」要因もあります。親の知能が高ければ、子どもの知能も高いだろうということがある程度言えます。運動能力、性格、健康などもある程度遺伝で決まります。

つまり「人生は環境と遺伝で決まる」ということがいえます。
「親ガチャ」はこのことをわかりやすく表現した言葉で、当たり前の内容ですが、今、流行語になっているのにはいくつかの理由があります。


「人生は環境と遺伝で決まる」といっても、実際は環境重視派と遺伝重視派がいます。
環境重視派は、人間は生まれたときはみな同じようなもので、環境によって変わってくると考えます。ですから、貧乏な子には奨学金などを出し、虐待されている子には福祉を手厚くし、学校から落ちこぼれをなくせば、みんなが同じ人生のスタートラインに立てて、平等な社会になるだろうと考えます。
環境重視派は教育界の主流であり、左翼、リベラルに多くいます。

一方、遺伝重視派は、人間は生まれつき能力が違うので、学校は能力別クラス編成や飛び級によって子どもの能力を引き出すものにし、能力のない子どもを引き上げる努力をするのはむだだと考えます。
遺伝重視派は新自由主義とだいたい一致します。

以前は環境重視派と遺伝重視派がそれなりに拮抗していましたが、脳科学や認知科学や進化生物学が人間には遺伝的要素が大きいということを次々と明らかにして、最近は遺伝重視派が優勢になっています。
「人間の能力は遺伝でだいたい決まる」という認識が「親ガチャ」流行の背景にあると思われます。


それから、「環境」要因が変化しました。
トマ・ピケティは著書『21世紀の資本』において、資本主義社会では一般的に「資本収益率>経済成長率」という法則が成立すること、つまり資産家の収入の増加は労働者の収入の増加よりも大きいということを膨大なデータから明らかにしました。資産は子どもに相続されるので、大規模な戦争や革命がない限り、資産家階級と労働者階級の貧富の差は限りなく拡大していくことになります。この理論によって世界的に貧富の差が拡大している現実が可視化されました。
戦後間もないころの日本は、貧しい家に生まれても、成功して金持ちになる可能性がいくらかありましたが、今は社会階層が固定化して、労働者の親のもとに生まれるとたいていずっと労働者で、へたをすると親よりも賃金が下がります。

このことも「親ガチャ」という言葉が流行する背景です。


世の中には「親ガチャ」という言葉を嫌う人もいます。
ちょっとふざけた感じのする言葉だということだけでなく、自分の不幸を親のせいにしているということからです。

確かに「自分になんの才能もないのは親の遺伝のせいだ」と言う人は(それが事実だとしても)、「親ガチャ」という言葉を使って後ろ向きになっているだけです。
しかし、親に虐待されたような人は、それを正しく認識することが前を向いて歩きだすために必要ですから、「親ガチャ」という言葉が助けになるでしょう。

また、「親ガチャ」という言葉を嫌う人には、「人生は環境と遺伝だけで決まるわけではない。努力次第だ」という考えの人もいます。
これは、人間には環境や遺伝に左右されない「自由意志」があるという考え方です。

マルクス主義は唯物論ですから、人間も自然法則に従う存在と見なして、自由意志は否定します。
貧困は社会体制や福祉制度の問題ととらえます。

しかし、普通の人は、自分は自然法則に支配されているのではなく、素朴な実感として自分は自分の意志で行動していると思っています。つまり自由意志を肯定しています。
こういう人は当然、貧乏な人には努力しない人や怠け者が含まれているだろうと思います。
新自由主義もこうした考えを後押しします。
そのため生活保護の窓口などで、努力する人か努力しない人か、働き者か怠け者かを識別しようということが行われたりします。しかし、これには客観的な基準がないので、福祉の現場が混乱するだけです。

しかし、今では学問の世界では自由意志は非科学的だとして否定されています。文系の学者でも自由意志を肯定する人はいないはずです(竹中平蔵氏は「若者には貧しくなる自由がある」と発言したことがありますが)。
「親ガチャ」という言葉には、「人生は努力次第だ」というような非科学的な考え方への反発も込められていそうです。


ところで、「親ガチャ」という言葉がどこから出てきたのかよくわかりませんが、流行のきっかけはマイケル・サンデル著『実力も運のうち 能力主義は正義か?』と橘玲著『無理ゲー社会』の出版ではないかと思います。

『実力も運のうち 能力主義は正義か?』は、格差社会の原因を能力主義やリベラル、果てはオバマ元大統領にまで求めています。白人であるサンデル氏のオバマ氏への敵意でしょう。そもそもリベラルに格差社会をつくれるわけがありません。

『無理ゲー社会』は、おそらく『実力も運のうち 能力主義は正義か?』の骨格をパクったもので、格差社会の原因をリベラルに求めるのは同じです。そこに著者得意の「遺伝」を組み合わせています。
今の社会を若者や下層階級にとって無理ゲー社会ととらえるのはいいのですが、そういう社会のルールをつくれるのはリベラルであるはずがなく、支配階級しかありません。

この二冊は格差社会問題を改めて考えさせましたが、かえって混乱を深めています。


「親ガチャ」によって子どもの幸福が決まってしまう世の中は好ましくありません。
これをなんとかするには、「遺伝」はどうしようもないので、格差社会を解消することです。


あと、「子ガチャ」という言葉をいう人もいます。つまり親は子を選べないという意味で、「親ガチャ」に対抗する言葉です。
しかし、「子ガチャ」はありえません。
というのは、配偶者を選んで子どもを生むと決めた時点で、どんな子どもが生まれてくるかはある程度想定できるからです(障害のある子が生まれてくる可能性も考慮したはずです)。
「子ガチャ」を言うのは、自分と配偶者に唾する行為です。

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YouTuberの「少年革命家ゆたぼん」(12歳)さんが自身のYouTubeチャンネルで「いよいよ今年度から中学生になんねんな。でも俺は、中学校に行く気はありませーん!」と不登校を宣言。義務教育については「教育は学校に行くことだけじゃないから。おれみたいにホームスクーリングとかフリースクールでもええねん」と主張しました。
これがきっかけで、「なんのために学校へ行くのか」という議論が巻き起こっています。

格闘家でYouTuberのシバター氏は、「ゆたぼん君に学校の良さを伝えたい」のタイトルで動画をアップし、「学校に行くとほんとうの友だちができる。仕事が縁で知り合った人間は多少なりとも利己的な部分があるが、子どものときにできた友だちは、2人に経済的な格差ができても、その関係は変わらない」と主張しました。
これに対してゆたぼんさんは、動画の中で「パパとかシバターさんの中学時代はネットもスマホもなく、友だちを作る場所が、たぶん学校しかなかったから、そんなことを言ってるんやと思う」「中には、学校に行ったけど友だちが一人もできひんかったって人もおるわけやん」などと反論しました。

2ちゃんねるの創始者である「ひろゆき」こと西村博之氏はツイッターで、ゆたぼんさんの親を批判し、「子供を学校に通わせないで、身の回りの出来事を学ぶことで生きる力を云々という頭の悪い親がいますが、身の回り生活からどうやって虚数の概念を学べるのか聞いてみたいです」「『虚数なんて知る必要がない』と考える人は知識が足りない」と主張しました。
ゆたぼんさんの父親はひろゆき氏に反論して、ツイッター上でバトルを繰り広げました。

虚数の概念を学ぶことにどれだけの価値があるのかというのはむずかしい問題ですが、いずれにせよ、学校に行かなければ虚数を学べないということはないはずです。

昔は学校に行かないと学ぶ機会はまずありませんでした。
発明王のエジソンは学校をやめたあと、教師の経験のあった母親から学びましたが、これは例外です。

しかし、今はインターネットがありますし、フリースクールなどの代替学校もあります。

最近は不登校の子どもが増えているので、文科省も「不登校は誰にも起こりうる」という認識に立ち、代替学校へ通ったことを「出席扱い」とするなどの対応を進めています。



どこでも学べるようになると、「なんのために学校へ行くのか」という問いに対しては、シバター氏のように「学校に行くと友だちができる」といったことしか言えなくなります。

あと、「集団(団体)生活に慣れるため」という理由もよく挙げられます。
しかし、これはおとなの論理です。
「集団生活に慣れたい」と思っている子どもはいないので、子どもを説得するためには使えません。


しかし、考えてみれば、学校はほとんどタダで幅広い教科を教えてくれるのですから、これほどありがたいところはありません。
それでも不登校の子どもが増えるのはなぜでしょうか。
それは、学校教育の目的が根本的に間違っているからです。


学校教育について理解するために、江戸時代の寺子屋と比較してみます。

寺子屋の目的は「読み書き算盤」を教えることです。
読み書き算盤は子どもが生きていく上で必要なことですから、親は月謝を払い、子どもも納得して寺子屋に通いました。
一斉入学ではないので、指導はすべて個別指導です(商人の子、職人の子、百姓の子によって教材も違いました)。
先生がきびしく子どもを指導するということもありません。そんなことをすれば子どもはほかの寺子屋に行ってしまいます。
子どもにとって寺子屋の先生は生涯唯一の師匠なので、その絆は深く、先生が亡くなるとかつての生徒たちがお金を出し合って筆子塚というお墓をつくることがよくありました。寺子屋の記録というのはほとんどないので、今に残る筆子塚を調べて、昔の寺子屋の数が推定されました。
つまり寺子屋の教育は「子どものため」でした。

明治5年、学制が公布され、学校制度が始まりました。
「学制序文」の冒頭はこう記されています。



人々自ラ其身ヲ立テ其産ヲ治メ其業ヲ昌ニシテ以テ其生ヲ遂ル所以ノモノハ他ナシ


「人々が立身し、生計の道を立て、業を盛んにして、よい人生を送る」ということを目標に掲げ、そのためには学問をするしかなく、そのために学校を設けるのだと言っています。

これは福沢諭吉の『学問のすすめ』と基本的に同じ考え方です。
このときの学制はフランス式で、個人主義、実学主義でした。
つまり学校に行って勉強すれば、社会的地位が高く豊かな生活ができるようになるということで、学校教育は寺子屋と同じで「子どものため」でした。

しかし、帝国憲法と教育勅語によって、教育の目的はがらりと変わります。

教育勅語(文部省による現代語訳)にはこう書かれています。



汝臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦び合い、朋友互に信義を以って交わり、へりくだって気随気儘の振舞いをせず、人々に対して慈愛を及すようにし、学問を修め業務を習って知識才能を養い、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ。


「公共の利益」や「世のため」や「皇室国家の為」がうたわれ、「一身を捧げ」ることまで求められています。
つまり学校教育の目的は「富国強兵」になったのです。



敗戦により、国のあり方は大きく変わりました。
その中で教育基本法が1947年に制定され、2006年に改定されました。
教育基本法の「教育の目的」はこうなっています。




(教育の目的)

第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。


「人格の完成」というよくわからない言葉が入っています。
「人間は死ぬまで修養である」というのが日本人の考え方です。
しかし、「人格の完成」というのは、どこかに行き止まりがあるわけです。プラトンの「イデア」か、アリストテレスやカントの「最高善」から持ってきたのでしょうか。
いずれにせよ、「人格の完成を目指したい」という子どもなどいないので、子どもにとってはよけいなものです。

意味不明な「人格の完成」という言葉を無視すると、ここには「国家及び社会の形成者」と「心身ともに健康な国民」の育成がうたわれていて、子どもを社会や国家に役立つ人間にしようとしていることがわかります。
「平和」や「民主」という言葉で飾られていますが、その実態は国家主義のままなのです。
左翼やリベラルがここを批判しないのは不思議です。

教育基本法を制定するとき、寺子屋や福沢諭吉の時代にまで戻らなければなりませんでした。
たとえば、次のようにあるべきです。

(教育の目的)
第一条 教育は、子どもの現在と将来の幸せを期して行われなければならない。

子どもは一人一人能力も性格も違いますから、必然的に個別指導にならざるをえません(一斉授業というのは教える側の都合だけで行われています)。
そういう学校なら、ゆたぼんさんも登校拒否をしなくてもすんだかもしれません。

現在の教育を巡る混乱は、「国家社会のための教育」か「子どものための教育」かという視点で見ると明快になります。
理不尽な校則による人権侵害が平気で行われているのも、子どものための教育ではないからです。
教師は、自分は子どものために働いているのか、国家の手先になって子どもを隷属化させるために働いているのか、考え直さなければなりません。


子どもが不登校になると、親や世の中はなんとかして子どもを学校に行かせようとします。
しかし、これは服が体に合わないとき、体を服に合わせようとするのと同じです。
子どもの人間性や能力や性格は生まれ持ったものなので、変えることはできません。
学校を変えて子どもに合わせるのが正しいやり方です。

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セクハラやレイプ被害を告発する「#MeToo」運動が世界的に行われ、日本ではハイヒール強制に反対する「#KuToo」運動があり、そして、最近韓国では学生時代のいじめを告発する「#暴Too」運動が大きな社会問題になっています。

最初のきっかけは、CMなどにも出演する女子バレーボールのスター選手、イ・ジェヨンとダヨン姉妹が過去に壮絶ないじめをしていた事実が発覚したことです。2人は謝罪しましたが、代表選手の資格を剥奪されました。
それから、過去のいじめを告発するということが芸能界でも次々と起きて、ドラマやバラエティ番組がいくつも放送できなくなる事態になっています(詳しいことはこちらの記事で)。

日本では「いじめ」ですが、韓国では「学校暴力」と呼ばれて、法律で定義され、日本よりも犯罪という意識が強いようです。

しかし、小中高校時代のことを告発されても、被害者本人と級友の証言以外に証拠はないはずで、実際、告発された人物はたいていいじめの事実を否定するので、事態はこじれます。
ただ、有名人が告発されると、それだけで大きなイメージダウンになります。


日本でも似たことがありました。
週刊文春によると、眞子さまの婚約者である小室圭さんが中高時代に同級生の女性をいじめて、そのため女性は高校1年で退学し、2年ほど引きこもり生活をし、「人生を狂わされた」と言っているということです。
これなどまったく信ぴょう性がありません。マスコミはずっと小室圭さん批判をしてきて、この報道もその一環です。捏造したものではないかという疑念があります。

それに、学校時代にいじめられたという人はいっぱいいます。そういう人がみんな告発をするようになって、告発された人がなんらかの対応をしなければならないとなると、世の中は大きな難題を背負い込むことになります。
そんなことを考えさせられる文春の報道でした。


それから、私が思い出したのは、1980年代から90年代にかけてアメリカで、幼児期に親から虐待されたとして成人した子どもが損害賠償を求めて親を訴えるケースが頻発したことです。
これに対して、訴えられた親を支援する財団が設立され、心理学者が動員され、幼児虐待の記憶はセラピストによって捏造されたものだという反論がなされ、その結果、訴訟のほとんどは親側の勝利で終わりました(この経緯はウィキペディアの「虚偽記憶」の項目で読めます)。

幼児虐待は家庭という密室で行われ、少なくとも10年、20年も前のことなので決定的な証拠はほとんどなく、そうすると幼児虐待を隠ぺいする方向、つまり親に有利な方向になってしまいます。


韓国の「#暴Too」運動は、これらとはまったく異質です。

「#MeToo」運動が告発するセクハラやレイプは、男と女という強者と弱者の関係で起き、「#KuToo」運動が告発するハイヒール強制は、会社と女性社員という強者と弱者の関係で起き、幼児虐待はもちろん親と子という強者と弱者の関係で起きます。
ですから、こうした運動は社会改革の運動でもあります。

ところが、学校でのいじめは、基本的に同級生という対等の関係で起きます。
もちろん強い者が弱い者をいじめるのですが、強い弱いといってもわずかな差です。ときには立場が入れ替わることもあります。
いじめた者を裁いたところで、社会も変わりませんし、学校も変わりません。
それに、証拠がないので裁判に持ち込んでも勝てることはまずありません。
そうすると、有名人に対する個人攻撃、人格攻撃になるだけです。


さらに、根本的なことを言うと、「#暴Too」運動は告発する相手が違います。

「自由の裏に責任」とよく言われますが、子どもは義務教育や校則や教師の指導に縛られているので、自由がなく、責任の主体にはなりません。
学校でいじめが起きたとき、責任が問われるのは教師と学校です。
日本でいじめで子どもが自殺したとき、自殺した子どもの親が損害賠償請求の訴訟を起こすことがありますが、訴訟の相手はいじめた子どもではなく、たいていはいじめた子どもの親と、管理責任のある学校と教育委員会です。

いじめ防止基本法には、「児童等は、いじめを行ってはならない」とありますが、いじめを行った児童の責任を問う規定はなく、国、地方公共団体、学校設置者、学校及び教職員、保護者の責務の規定があるだけです。
ですから、いじめた子どもが成人になったとしても、その責任を問うことはできないでしょう。
責任を問うなら、当時の学校、教師、教育委員会、そしていじめっ子の保護者です。


韓国でも、自由のない子どもの責任を問うことができないのは同じはずです。
いじめられた人がいじめた相手を憎んで、告発したくなる気持ちはわかりますが、社会やマスコミは冷静に責任の所在を判断して対処する必要があります。
そうすれば「#暴Too」運動も沈静化するでしょう。

いじめっ子の責任を問うよりも学校の管理責任を問うほうがよほど建設的です。

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ユニバーサル ミュージック「うっせぇわ」特設ページより

子どもの間で「うっせえ」という言葉が流行し、眉をひそめる親がふえているそうです。
Adoという18歳の女子高生の歌う「うっせぇわ」という歌がヒットして、その中の「うっせえ、うっせえ、うっせぇわ」というフレーズを子どもがよく口にするというわけです。

昔、志村けんさんが「8時だョ!全員集合」で「カラスなぜ鳴くのカラスの勝手でしょ」という替え歌を歌ったら、子どもたちがことあるごとに「カラスの勝手でしょ」と言うようになって親を困らせ、「8時だョ!全員集合」が「ワースト番組」としてやり玉に上がったことが思い出されます(「ワースト番組」というのはのちの「子どもに見せたくない番組」です)。
また、小島よしお氏の「そんなの関係ねえ!」というギャグが流行したときも、子どもが「そんなの関係ねえ!」とよく言うので、問題になりました。そのため小島よしお氏は、悪い言葉づかいと言われないように「そんなの関係ない!」と言うようにしたそうです。

「子どもに悪影響がある」と言ってテレビ番組や歌などを批判する人は昔からいますが、こういう人こそ世の中に悪影響を与えています。
子どもは好きな番組を見て、好きな歌を聞き、気に入った言葉を口にしているだけです。それをいけないと言うのは、子どもの人格の否定です。
こういう人はさらにテレビ番組を変えようとして、テレビ局にクレームをつけます。これは独裁国がメディアを操作して国民を支配しようとするのと同じやり方です。

「うっせえ」「カラスの勝手でしょ」「そんなの関係ねえ」はみな同じような言葉で、親が「勉強しなさい」「きちんとしなさい」「早くしなさい」などとうるさく言ってくるときに言い返す言葉です。
親は子どもに「うっせえ」と言われたら、歌のせいにするのではなく、自分がうるさいのではないかと反省するべきです。


そういうことで、「子どもに悪影響がある」と言って歌を批判するのは、昔からよくあることで、くだらないなと思っていましたが、「うっせぇわ」という歌をよく聞いてみると、いろいろなことを考えさせられました。



歌詞の全文は次のサイトで読めます。

Ado うっせぇわ 歌詞 - 歌ネット - UTA-NET


Adoはニコニコ動画などに歌を投稿するうちに歌唱力が評判になり、2020年10月に「うっせぇわ」でメジャーデビューした18歳の女子高生だということです。

「うっせぇわ」の作詞作曲はsyudouという人で、年齢不詳の男性アーチスト、音楽プロデューサーです。大卒後、会社勤めをし、2020年に会社を辞めて音楽専業になったということです。
歌手が18歳の女子高生だということが注目されますが、歌詞に「経済の動向も通勤時チェック/純情な精神で入社しワーク」とか「酒が空いたグラスあれば直ぐに注ぎなさい/皆がつまみ易いように串外しなさい」とあるように、これはサラリーマンの歌です。
ただ、Adoの個性に合わせて提供された楽曲だということはあるでしょう。


歌詞の最初のほうに「ちっちゃな頃から優等生」とあるので、これはチェッカーズの「ギザギザハートの子守唄」の「ちっちゃな頃から悪ガキで」を踏まえたものだと指摘されています。

ふたつの歌詞を比べてみました。
「ギザギザハートの子守唄」
ちっちゃな頃から悪ガキで
15で不良と呼ばれたよ
ナイフみたいにとがっては
触わるものみな傷つけた
「うっせぇわ」
ちっちゃな頃から優等生
気づいたら大人になっていた
ナイフの様な思考回路
持ち合わせる訳もなく

「ナイフ」という言葉も共通しているので、「うっせぇわ」が「ギザギザハートの子守唄」を意識していることは明らかです。
しかし、「不良」と「優等生」ですから、そこは真逆です。


ちっちゃな頃から優等生で、今はちゃんと就職して、経済の動向を通勤時にチェックするような生活をしていれば、十分に満足のいく人生ではないかと思われます。
ところが、この男(たぶん男)にはものすごい不満がたまっていて、周りに罵詈雑言をまき散らします。

「クソだりぃな」
「くせぇ口塞げや限界です」
「一切合切凡庸なあなたじゃ分からないかもね」
「もう見飽きたわ二番煎じの言い換えのパロディ」
「丸々と肉付いたその顔面にバツ」
「嗚呼つまらねぇ何回聞かせるんだそのメモリー」

そして、「うっせぇうっせぇうっせぇわ」が激しく繰り返されます。


なぜこんなに不満がたまっているのかというと、優等生の人生を歩んできたからでしょう。

先ほど冒頭部分の4行を引用しましたが、そのあとの3行も続けてみます。
ちっちゃな頃から優等生
気づいたら大人になっていた
ナイフの様な思考回路
持ち合わせる訳もなく

でも遊び足りない 何か足りない
困っちまうこれは誰かのせい
あてもなくただ混乱するエイデイ
「エイデイ」というのはエブリデイ、つまり日常という意味のようです。

ちっちゃな頃から優等生なら遊び足りないのは当然です。
遊びだけではありません。

「ギザギザハートの子守唄」にはこんな歌詞があります。
恋したあの娘と2人して
街を出ようと決めたのさ
駅のホームでつかまって
力まかせになぐられた
   *
仲間がバイクで死んだのさ
とってもいい奴だったのに
ガードレールに花そえて
青春アバヨと泣いたのさ
この不良は恋をして、喧嘩もして、バイクで暴走して、いい仲間もいました。
まさに「青春」をしていたわけです。

親や教師の望むように生きてきた優等生に「青春」はありません。
優等生は「うっせえ」と言いたいときもがまんするので、不満がどんどんたまっていきます(つまり子どもが「うっせえ」と言うのをやめさせようという親は子どもの心に不満をためています)。
その代わり高学歴を身につけて、高収入と高い社会的地位を得られれば引き合うかもしれませんが、そういう人は少数です。
そして、就職してしまえば「青春」を取り戻すことはできません。

「うっせぇわ」という歌は、優等生の“遅すぎた反抗”の歌です。


「ギザギザハートの子守唄」は1983年の歌です。
当時の若者は不良の歌に共感しましたが、今の若者は優等生の歌に共感するのでしょうか。

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いじめ防止のために「あだ名禁止」の学校がふえているそうです。
最初はツイッターで話題になったようですが、「グッとラック!」や「バイキングMORE」などのワイドショーで取り上げられ、賛否両論が巻き起こっています(ヤフーニュースの記事はこちら)。

確かにあだ名はいじめのひとつの手段として使われることがありますが、ひとつの手段を禁止しても大した意味はありません。ほかの手段が使われれば同じことです。

あだ名は親しみの表現としても使われます。
というか、本来はそういうものです。
「子どものころどんなあだ名で呼ばれてた?」と聞かれて、あだ名がなかったという人は、少なくとも人気者ではなかったんだなということになります。
あだ名がいじめと結びつけられるのは、今の学校によほどいじめが蔓延しているということでしょう。


同様にいじめ防止の理由で、一律に「さん付け」の呼び方をさせる学校もふえているということです。
こうなると行き過ぎが明白です。

男の子の場合、クラスの中で親しい友だちは呼び捨てないしあだ名で呼び、距離のある子には「君付け」、女の子には「さん付け」というのが一般的でしょう。
男同士でも、上の学年には「さん付け」になります。
つまり距離感と上下関係で呼び方が変わるわけです。
ですから、「君付け」で呼んでいた子と次第に親しくなると、あるときから呼び捨てやあだ名に変わることになりますが、いつ変えるかの判断がひじょうに微妙です。
しかし、こうした判断をすることが対人能力の向上に役立ちます。
誰に対しても「さん付け」では、距離感も上下関係も関係なくなり、人間関係の複雑さが学べません。

あだ名にしても、こんなあだ名で呼ぶと相手はいやがるという経験をして、相手の気持ちが読めるようになります。

「あだ名禁止」「一律さん付け」という規則は、子どもの対人能力の向上を妨げる愚策です。


今の学校教育は、授業で教えることばかりに価値を置いて、それ以外の価値を無視しているのではないでしょうか。
人間が生きていく上でたいせつなことのひとつに人間関係の能力がありますが、これは授業では学べません。
子ども同士が遊んだり雑談したりする中で身につけることです。


もっとも、昔はそんなことを意識する必要はありませんでした。
子どもは近所の子たちと十分に遊ぶ時間があったからです。
しかし、マイカーの普及で子どもの交通事故がふえ、習いごとや学習塾に行く時間もふえて、子ども同士で遊ぶ時間が少なくなりました。

最近は保育園などで子どもが喧嘩すると止めますが、それも問題です。
喧嘩して、仲直りすることで、人はどんなことでキレるかを知り、仲直りのノウハウも学べます。
SNSやオンラインゲームにはまることにも人づきあいの経験を積む意味があるので、一律に禁止するのは間違いです。


ともかく、最近の若い人は、人づきあいの経験を十分に積めず、そのため概して人づきあいが苦手で、表面的なつきあいしかしない傾向があります。
当然恋人もつくれません。これは少子化のひとつの原因でもあるでしょう。


学校教育では国語・数学・英語を主要三科目といったりしますが、人が生きていく上でそれ以上にたいせつなのが“人間関係科”です。
子どもは休み時間や部活、それに文化祭や修学旅行などの学校行事で“人間関係科”の勉強をします。
学校は子どもの学びを妨げてはなりません。

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世の中の変わる速度よりも教育の変わる速度は遅い――というのは私が考えた法則ですが、十分に成立すると思います。
したがって、教育の世界はどんどん世の中から取り残されていきます。

都立高校の83%に頭髪に関する規則があり、そのうちの約10%の高校には「ツーブロックを禁止する」という旨が明記されているそうです。
共産党の池川友一都議が都議会で、なぜツーブロック禁止なのかと質問したところ、藤田裕司教育長は「外見等が原因で事件や事故に遭うケースなどがございますため、生徒を守る趣旨から定めているものでございます」と回答し、池川都議がツイッターにその質疑の動画を投稿したところ、「意味不明の理由だ」などと反響を呼んで、ネットニュースになりました(その代表的なニュースはこちら)。

私はツーブロックという言葉を初めて知って、調べてみると、「ああ、あれか」と納得しました。よく見る髪型です。私の中では“部分刈り上げ”と認識していました。
オシャレに敏感な若い人がする髪型――ということは言えるかもしれません。

ツーブロックが禁止される理由は、要するにオシャレだからです。
昔から日本の学校は生徒のオシャレを目の敵にしてきました。

私が小中学生のころ、「華美な服装はいけない」ということを耳にタコができるほど聞かされました。
「華美」を文字通りに解釈すれば「華やかで美しいこと」ですから、むしろいい意味です。ですから私は頭の中で「過美」と変換していました。

中学で江戸時代の三大改革を学び、贅沢禁止令が繰り返し出されたことを知ると、「華美な服装はいけない」というのは江戸時代の改革を真似ているのかと思いました。
封建時代の道徳が学校の中に生き残っているのだと思ったのです。
根拠はありませんが、そうとでも考えなければ説明がつきません。

ついでに言えば、戦時中も「ぜいたくは敵だ」とか「パーマネントはやめましょう」というスローガンがありました。
学校は「ロストワールド」みたいに昔のものが生き残っているところです。


最近はさすがに見なくなりましたが、少し前まで坊主頭と詰襟の学生服を強制する学校が多くありました。
もちろんこれは軍国教育の名残りです。戦後は平和教育に転換したといっても、中身はなかなか変わりません(セーラー服も水兵の服です)。
校庭に生徒を整列させて、気をつけ、休め、前にならえなどをさせるのも軍国教育の名残りです。こんなことは社会に出たらなんの役にも立ちません(自衛隊や警察に就職すれば別ですが)。

校則に頭髪と服装に関する規制が多いのも、軍国教育の名残りと考えられます。

運動部で練習中に水飲みを禁止することが長らく行われてきたのも、軍隊で水の補給が少なくても対応できる体にするためです。
戦後にはもちろん意味がなく、科学的に水分補給がたいせつだということが言われるようになっても、なかなか改まりませんでした。

教科書の内容は時代に合わせて変わりますが、学校文化はなかなか変わりません。

オシャレ禁止には保護者の支持もあります。
子どもが華美な服装などのオシャレをすると金がかかり、親の負担になるからです。


ブラック校則などの学校文化がなかなか変わらないのは、インプリンティングとトラウマで説明できます。
幼児期に体験したことは強い思い込みとなって、なかなか訂正できません。つまりインプリンティングです。
そして、その体験に苦痛が伴うとトラウマとなり、トラウマは記憶の中に封印されるので、やはりなかなか訂正できません。

ブラック校則に従わされた生徒が教師になると、また同じようなブラック校則をつくって生徒を従わせます。いわば「ブラック校則の連鎖」です。
親から虐待された子どもが親になると自分の子どもを虐待するという「虐待の連鎖」と同じことです。


学校文化がこのように時代遅れであることは、学校内だけの問題ではなく、社会にも影響します
たとえば、ツーブロック禁止の校則について杉村太蔵氏はテレビでこのように語りました。

 「校則って確かに、大人から見ても『なんだこれ』っていうの結構ありますよ。僕は北海道出身で、マフラーの巻き方の校則もありました」と自身の経験を振り返り「校則はなぜ存在するのかというと、子供たちがルールを守る練習。世の中に出たときに『これ変なルールだな』と思うことがありながらも、ルールである以上それを守らなければいけない。それを守る訓練というのもどこか教育的にあるのかなと理解しています。世の中の法律でも納得できないものって結構あると思いますから」とあくまで教育に必要なものであると強調。

 「生徒が納得できないと」という意見に対しては「僕はそこが訓練だと思っている。世の中に出たときに、全てにおいて納得できないこともあるでしょう。納得できないことも受け入れるという訓練が未成年のときに必要なんじゃないかなと思う。こういう意味不明な校則もあっていいんじゃないかな」と持論を展開した。


杉村太蔵氏といえば、26歳で衆議院議員になり、「早く料亭に行ってみたい」などの型破りな発言で注目されただけに、柔軟な考えの持主かと思いましたが、こと校則に関しては完全に硬直した考えです。

この杉村氏の意見に対してはネットで批判の声が上がりました。

「不条理なルールに従い続ける社会ではなく、不条理なルールに声を上げて変える社会にしなければ」
「『ルールを守る練習』が必要なら、『ルールを変える練習』も必要。ルール従うだけでは、考える人は育たない」
「そんな無意味な練習は必要ない。子どもたちに納得出来る説明をするのが大人の仕事」

とはいえ、杉村氏のような考えの人は日本にたくさんいるでしょう。
こういう人は、自分自身の考えが硬直しているだけでなく、若い人の新しい考えも否定するので、社会の進歩を妨げます。

最近、日本から斬新で創造的な製品が生まれなくなって、日本経済がすっかり停滞してしまったのは、少子高齢化のせいだけではなく、ブラック校則などが蔓延する学校文化の影響が大きいのではないでしょうか。


ブラック校則をなくすには、当然ですが、校則づくりに生徒も参加することです。
そうすれば今の時代に合った校則になります。

そもそも自分たちが守るルールを自分たちでつくるのは民主主義の基本です。

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