村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

カテゴリ: 子どもの復権

22637009_m

「失われた30年」といわれる経済の停滞は、経済政策の誤りだけが原因とは思えません。
では、経済政策以外にどんな原因があるのかというと、教育政策です。教育がだめなために日本全体がだめになっているのです。

ブラック校則の問題はだいぶ前から指摘されてきましたが、少しも改まりません。
朝日新聞の「(教育の小径)校則見直し声上げたけど…中学生たちの落胆」という記事に最近の状況が書かれていました。有料記事なので、簡単に内容を紹介します。


記者は、学校を考える集会で出会った気になる中学生グループに話しかけ、話を聞きました。
昨年5月、その中学では全学級で校則のありかたを議論し、どの校則を変えたいかを問う全校アンケートをしました。回答率を上げるためにポスターで呼びかけもしました。夏休みには県内十数校の校則を調べ、「カーディガンの色は黒」「靴下は白」「ツーブロック禁止」の三つに絞って校長先生に見直しを求めました。
しかし、受け入れられたのは「靴下」だけ。しかも5か月後で、理由の説明もなし。「すごいエネルギーをかけて、結果は、これっぽっちでした」とメンバーの一人は語りました。
落胆しているのは彼らだけではありません。「日本若者協議会」の2020年のネットアンケートでは779人の小中高生らの68%が「児童生徒が声を上げて学校が変わるとは思わない」と答えました。
同協議会に寄せられた声には「変えたいという声は多くの生徒から上がっているが、態度が悪いから変えられないなど、難癖をつけられている状況」「『それはしょうがない。生徒なんだから』とまるで取り合ってもらえない」といったものがあります。
記者が先生や校長10人余りにたずねると、「学校を運営するのは教員」「生徒に責任を取らせるわけにはいかない」「未成年に決定権はない」といった答えで、子どもも同じ学校の構成員だという意見は聞けませんでした。


生徒はひどい状況におかれています。
私が気になったのは、生徒が校則見直しを申し入れたら、校長が返事したのは5か月後で、理由の説明もなかったというところです。完全に生徒を侮辱しています。こんな人間が教育者を名乗っているのかと思うと、暗澹とします。

最近、教師の働き方改革が問題になっています。過重労働の解消は必要ですが、そもそもその労働が子どものためになっているかが問題です。子どものためにならないのではやりがいもなく、そのため心を病む教師が増え、人気のない職業になっているのではないでしょうか。


ともかく、今の学校は生徒を管理の対象としか見ていなくて、生徒の意見を聞こうという気がまったくないようです。
ということは、文科省もそれを肯定しているわけです。
本来なら文科省は「校則の制定には必ず生徒の意見を反映させるように」という通達を出すべきところですが、どうやら文科省は逆に「子どもの人権」を無視する方針のようです。


そのため子どもは理不尽な校則に縛られて、自分ではなにもできないという無力感に打ちひしがれています。
そうして中高6年間をすごすと、社会に出ても社会をよくしようという意欲が出ないのは当然です。
いや、自分の人生をよくしようという意欲もなくしてしまうかもしれません。
ブラック企業に入っても、それがブラック企業と気づかないということもありそうです。

日本の若者の意欲の欠如は起業家精神の欠如に現れます。
世界45カ国、男女計50,861名を対象に実施した「アムウェイ・グローバル起業家精神調査レポート」によると、日本人の起業意識は前年に続き世界45カ国中、最下位という結果となりました。他国と比較すると日本人は若いうちから起業家精神が低く、また「野心」「向上心」「自信」「能力の理解」が大きく欠如していることが鮮明になったということです。
img_125692_1

若者に起業家精神がなければ新しい企業が生まれませんし、日本経済も活発化しません。

ただ、校則についていえば、昔はもっときびしかったといえます。私の若いころは男子は詰襟の学生服、女子はセーラー服が多く、男子は坊主頭の学校も少なくありませんでした。
しかし、戦前戦中はもっときびしかったわけで、それと比較すると解放されたといえます。


おとなはつねに若者を支配しています。
伝統的な社会ではそれで問題はありませんが、時代の変革期や世の中の変化が速くなるときには、若者のほうが時代に適応するので、世代間の対立が激化します。
幕末に尊王攘夷を叫んだ志士はほとんどが若者でした。
明治時代は、大学卒や留学経験のある若者が世の中をリードしました。
戦後、日本国憲法ができたときも大変革期でした。おとな世代は自分たちの価値観が否定されて自信を失い、その分若者が活躍しました。
そうした中からソニーやホンダが生まれて日本経済が急成長したわけです。

資本主義社会は世の中の変化が速いので、つねに世代対立が起きています。
若者が元気な社会は発展します。
たとえばアメリカでは若い起業家がGAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)を創業し、今ではGAFAはアメリカ経済を引っ張る存在になっています。
日本ではそうした若い起業家の活躍がなく、それが日本経済低迷のひとつの原因になっていることは確かです。

日本では、戦後の一時期を除いて、若者が活躍しない社会になっていきました。
なぜそうなったかというと、自民党の長期政権が続いたからです。
昔から「最近の若者は権利ばかり主張して義務を果たさない」と言っていた年寄りはいましたが、自民党はそういう年寄りの主張に合わせて学校教育をしてきました。

1960年代末に全共闘運動が盛り上がると、文部省は69年10月に「高等学校における政治的教養と政治的活動について」という通達を出します。
そこには「最近、一部の生徒がいわゆる沖縄返還、安保反対等の問題について特定の政党や政治的団体の行なう集会やデモ行進に参加するなどの政治的活動を行なつたり、また政治的な背景をもつて授業妨害や学校封鎖を行なうなど学園の秩序を乱すような活動を行なつたりする事例が発生している」とした上で、「学校の教育活動の場で生徒が政治的活動を行なうことを黙認することは、学校の政治的中立性について規定する教育基本法第八条第二項の趣旨に反することとなるから、これを禁止しなければならないことはいうまでもない」と書かれていました。
つまり高校生の学校での政治活動は完全に禁止されたのです。
この通達は選挙権年齢が18歳に引き下げられるのに伴い廃止されましたが、長年にわたって政治に無関心な若者をつくってきたことは間違いありません。

生徒会活動もきわめて範囲が限定されたので、若者は自分の主張を学校や社会に訴えるという経験がまったくできませんでした。
自民党の好む「権利を主張しない若者」がつくられてきたのです。


学校では管理教育が強化されました。
世の中の流れとしては自由な教育が求められていましたが、逆行したのです。
そのため70年代後半から「校内暴力」が吹き荒れました。
文部省は管理教育を転換するのではなく、むしろ強化する方向に行きました。
1985年ごろを境に校内暴力は沈静化しますが、体育教師を中心とした教師暴力によって校内暴力を制したのだともいわれます。

このころから「内申書重視」の流れが強まりました。大学や高校の入試で、それまでもっぱら入学試験の点数で決まっていたのが、内申書の評価が重視されるようになったのです。内申書を書くのは教師ですから、教師の生徒に対する権力が強まり、生徒が教師に反抗するということがほとんどなくなりました。
学校が生徒を完全に制圧したのです。

その後は、不登校といじめは増大の一途をたどっています。

ダウンロード


おとな対若者の対立において、日本は自民党長期政権のせいで、おとなが若者を制圧した国になりました。
今では赤ん坊の泣き声がうるさいという主張までまかり通っています。

少子高齢化で若者人口があまりにも少ないので、政治も若者を無視しています。
ブラック校則の問題を取り上げているのは共産党ぐらいです。
しかし、若者の元気がない国は衰退しますから、今のおとなにとっても無視できない問題です。
今後、教育改革が政治の最大の争点になるべきです。

22278043_m

ネットの子育て悩み相談でよく見かけるのが「子どもを叱ってばかりいる。こんなに叱って大丈夫だろうか」というものです。
最近、「ほめて育てる」ということが奨励されているので、悩みは深いようです。

「叱る」というのはどういうことでしょうか。
いきなり親が子どもを叱るということはありません。
最初に親は子どもになにかするように要求します。子どもが要求通りに動いてくれないと、親は命令します。それでも子どもが動かないと、親は叱るわけです。

昔は子どもが親の言うことを聞かないと親は体罰をしていました。
今は体罰は社会的に許されないので、もっぱら叱るわけです。
体罰は体に痛みを与えますが、叱ることは心に痛みを与えます。たいして変わりません。

厚労省は、子どもに対する体罰・暴言は脳の萎縮・変形を招くと明言し、「愛の鞭ゼロ作戦」というキャンペーンを行っています。
なにが暴言かというのは必ずしも明確ではありませんが、どんな叱り方をしても子どもの心は傷つくはずですから、叱ることはすべて暴言と見なしていいのではないでしょうか。


親が子どもに命令したり叱ったりするのは、親子が上下関係になっているからです。
軍隊や企業は厳密に上下関係が決められているので命令があり、命令違反には罰があります。
友人関係には上下がないので、友人に命令することはできません。命令すると友人関係が壊れます。
家族関係も基本的なところは友人関係と同じはずです。


親は子どもに対して命令する権限があると思っていますが、子どもはそうは思っていません。ですから、親に命令されても聞きませんし、叱られても聞きません。
そのため、「子どもを叱ってばかりいる。こんなに叱って大丈夫だろうか」という親の悩みが出てくるわけです。

もちろん叱るのはよくありませんが、それ以前に命令するのがよくありません。
命令するから、命令違反を叱ってしまうわけです。

命令がだめならどうすればいいかというと、頼めばいいわけです。
親が子どもになにかしてほしい場合は、頼むしかありません。

たとえば子どもが保育園に行くのをしぶったとします。
親がむりやり行かせようとし、それでも行かないと叱るというのが最悪のやり方です。子どもは傷つきますし、ますます保育園嫌いになる可能性があります。

子どもには保育園に行きたくない事情があるわけです。親と離れたくないとか、友だちにいじめられるとか、いやな保育士がいるとか。
親にも子どもに保育園に行ってほしい事情があります。
子どもの行きたくないという気持ちと、親の行ってほしいという気持ちをぶつけ合うと、気持ちの強いほうが勝って、気持ちの弱いほうは譲ることになります。
これが正しい妥協です。
譲ってもらったほうは借りができたので、いずれの機会に借りを返そうとします。
そうして互いに思いやりのある関係が築けます。
親が一方的に命令し、叱っていたのでは、まともな人間関係にはなりません。

夫婦も互いに気持ちをぶつけ合っていけば、正しい妥協ができて、仲良くやっていけるはずです。


家族関係に上下があるのは家父長制の家族です。夫が妻を力で支配し、親が子どもを力で支配するというのが家父長制です。

家父長制でない本来の親子関係はどんなものでしょうか。
文化人類学の古典とされるブロニスロウ・マリノウスキー著『未開人の性生活』にはこのような記述があります。

トロブリアンド島の子供は、自由と独立を享受している。子供達は早くから両親の監督保護から解放される。つまり正規のしつけという観念も、家庭的な強制という体罰もないのである。親子間の口論をみると、子供があれをしろ、これをしろといわれている。しかしいつの場合も、子供に骨折りを頼むという形でなされており、トロブリアンドの親子間には単なる命令というものは決してみられない。


日本でも江戸時代までは、庶民階級では子どもはたいせつにされ、少なくとも体罰はありませんでした。
明治時代になると武士階級の制度であった家父長制が民法によって国全体の制度となり、夫婦も親子も上下関係となりました。
戦後の日本もまだ家父長制を引きずっています。

愛情で結びついた家族には、上下関係はありませんし、命令も強制もありません。
つい子どもを叱ってしまうという親は、命令や強制で子どもを支配しているのです。


「子どもを叱りすぎてしまう」という悩み相談に対して、子育ての専門家はたいてい「子どもが納得いいくように話し合いをしましょう」とか「感情的に叱ってはいけません」などとアドバイスしますが、叱ることそのものを否定する人はめったにいません。
しかし、「叱らない教育」は平井信義(1919年―2006年)が1970年代から唱えていて、そんな特殊なものではありません。
子どもを尊重していれば命令、強制、叱責などはできないはずです。

hip-hop-2733138_1280

東京都千代田区立麹町中学校でダンス部がヒップホップダンスの発表をすることが禁じられ、波紋を呼んでいます。

麹町中ダンス部では春の体育祭と秋の文化祭でヒップホップダンスを発表するために週2回ヒップホップ専門のコーチから指導を受けてきましたが、4月からは活動内容を「創作ダンス」に変更することを学校側が決定、コーチも交代し、体育祭と文化祭でのヒップホップダンスの発表もなくなりました。
保護者らが学校に抗議したところ、1学期末の7月まで週1回だけヒップホップの自主練習をすることが認められましたが、ある保護者は「部員たちは学校側の一方的な変更で別の部に入れられたようなもの」と話しています(朝日新聞の『部活でヒップホップ、だめ? ダンス部、中学校が「創作ダンス」に』より)。

これは単に一中学校の部活の問題ではなく、日本の学校教育全体の問題でもあります。
重層的な問題でもあるので、ひとつずつ解きほぐしていきたいと思います。

まずこれを「ヒップホップ」の問題ととらえることができます。
ヒップホップは1970年代にアメリカで生まれた黒人の音楽、ダンス、ファッションの大衆文化です。
そのため、「不良の音楽」ととらえる向きもあります。ジャズやロックなどもみな昔は「不良の音楽」でした。
「ヒップホップ禁止は当然」とか「部活にヒップホップはふさわしくない」とか「ヒップホップをやりたければ学校外でやればよい」といった意見がありますが、これらはみなヒップホップに対する価値観に基づく意見です。

それから、学校と部活の関係という問題があります。
ダンスといってもいろいろあります。ダンス部という名前であればどんなダンスをやってもいいはずです。
どんなダンスをやるかは、ダンス部が決めることです。
ところが、麹町中では学校が決めたわけです。
しかも学校は部員たちの希望とは違うことを決めて、押しつけました。
部活動の破壊といわれてもしかたありません。

学校が部活に対してこうした理不尽なことをしてもいいのかと思いますが、文科省は容認しているようです。
生徒が理不尽なブラック校則に縛られていても、文科省はなんのアクションも起こさないですから、部活でも同じなのでしょう。


文科省は生徒を管理の対象としか見ていません。
2017年告示の学習指導要領総則には部活動に関して「生徒の自主的、自発的な参加により行われる部活動については、スポーツや文化、科学等に親しませ、学習意欲の向上や責任感、連帯感の涵養等、学校教育が目指す資質・能力の育成に資するものであり、学校教育の一環として、教育課程との関連が図られるよう留意すること」とあり、この中に「生徒の自主的、自発的な参加」という言葉があって注目されました。
それまでは生徒は最低ひとつの部に所属しなければならないという学校があり、部活が強制されていましたが、そういうことは否定されたわけです。
しかし、この「自主的、自発的」はあくまで「参加」にかかった言葉で、部活の内容について「自主的、自発的」を認めたわけではないと思われます。


ともかく、日本の学校は生徒の意志を平気で無視するというとんでもないところです。

ミュージシャンのGACKT氏はXにおいてヒップホップ禁止問題について「何でよくわからん偏った大人の尺度で子供たちを縛るのか?」「そもそもダンスは自分の表現のためのもの。表現することに縛りをつけるのが教育と呼べるのだろうか?それはまるで、絵を描きたい子に絵の具はダメだ!墨だけ使え!と言っているようなもの」「今の日本を象徴しているかのような歪んだ教育の末路とも言える」などと意見を述べました。

ゆたぼんのパパで心理カウンセラーの中村幸也氏もXにおいて「このようになんでもかんでも禁止することによって子どもたちは可能性を奪われて凡人化されていく。しかも『学校』の禁止令は人権侵害スレスレのものばかり」と述べました。


麹町中がヒップホップ禁止令を出した背景には、大きな教育観の対立がありました。

麹町中は公立中学ですが、昔から日比谷高校に多数の合格者を出し、越境入学者も多くいるという名門中学校です。
2014年に工藤勇一氏が校長に就任すると、生徒の自主、自律を尊重した学校改革に取り組み、宿題廃止、定期テスト廃止、固定担任制廃止、校則の自由化など大胆な方針を打ち出しました(定期テストは廃止しても成績をつけるための別の形式のテストはあります)。
これは評判となり、越境入学者はさらにふえ、工藤校長は「カンブリア宮殿」や「林先生の初耳学SP」に出演するなどし、何冊かの著書も出版しました。


こうした学校が可能で、評判もよいとなれば、日本の学校教育も変わっていくはずです。
麹町中はいわば希望の星です。
ただ、これは文科省の教育の否定です。
工藤氏は文科省関係の公職にもついているので、文科省との関係は悪くなさそうですが、文科省としては工藤氏の教育方針を認めるわけにはいかないはずです。

工藤氏は2020年3月に校長を退任しましたが、後任の校長が同じ路線を継承しました。
しかし、2023年4月に堀越勉氏が校長に就任すると、7月の保護者向け学校説明会で、定期試験の実施、学級担任制の導入、指定の制服・体操着の着用などの方針を表明、方針転換の理由としては生徒の学力向上、生活指導強化の必要性を挙げました。
要するに工藤校長の方針を全部くつがえして、「当たり前」の学校に戻すようです。
ヒップホップ禁止もその一環なのでしょう。
日本の教育を根本的に変革する可能性を堀越校長一人がつぶそうとしているわけです。

もっとも、堀越校長の背後に文科省あるいは千代田区がいるのかもしれません(樋口高顕千代田区長は都民ファーストの会推薦で当選)。
堀越校長には、個人の考えでやっているのか、文科省の後押しがあるのか、問いただしたいところです。

いずれにしても、麹町中のヒップホップ禁止令は、日本の学校教育の今後を左右する問題です。
文科省式の管理教育か、工藤校長式の自由教育かが問われています。
もちろんどちらがよいかは明らかです。
文科省式の管理教育では子どもの意欲も創造性も失われてしまいますし、それ以前に、子どもの自殺、いじめ、不登校が統計的に増加していることで破綻は明らかです。

教育といってもむずかしく考える必要はありません。
子どもが元気になる教育がよい教育です。

family-2610205_1280

3月17日放映のTBS系「ドーナツトーク」で女優の水野美紀さんが「夫婦円満の秘訣」として言った言葉が印象的でした。子どもが生まれたばかりの霜降り明星のせいやさんに対して言った言葉です。

「女の人は産んだから子どものことがわかるだろうって思いがちですよね。男の人は抱っこするのも怖いっていう人がいるんですけど、それはお母さんも同じなんですよ。こっちもほんとうにわからないし、すごい不安抱えながら必死でお世話していると、子どもをかわいいなって眺める瞬間ってないんですよ。唯一お母さんが肩の力を抜いて子どもをかわいいなって眺められる瞬間って、お父さんが抱っこしてるときなんですよ。だから、いっぱい抱っこしてあげてほしいです、赤ちゃんを」

この発言に周りから賛同の拍手が起こり、ヒコロヒーさんが「こういうのをネットニュースにしてほしいですよね」と言うと、水野さんが「ほんとにこういうのはならない。“ご意見番が怒ってる”みたいなのばっかり」と応じて、笑いにしました。


これは夫婦の育児分担の話になっていますが、私は母親も育児のことはわからないということが印象に残りました。
母親はまったく育児初心者のところから育児を始めなければならないのです。
父親が協力してくれたら助けになるとはいっても、父親もまた育児初心者です。
育児初心者二人ではあまり意味がなくて、できれば初心者とベテランの組み合わせでありたいところです。

新卒で会社に入ったら、先輩のやり方を見ながら少しずつ仕事を覚えていきます。いきなり大きな仕事を任されることはないはずです。
ところが、育児については、なんの経験もないのにいきなり“命”という大きなものを任されるのです。

こんなことになったのは、核家族化が進んだからです。
本来の人間社会ではこんなことはありませんでした。
「本来の人間社会」とはなにかというと、狩猟採集社会です。
人類の歴史は600万年とも700万年ともいいますが、農耕牧畜が始まったのは約1万年前です。
それまで人類はずっと狩猟採集生活をしてきて、それに適応するように進化してきました。

狩猟採集社会での子育ては、共同繁殖ないし共同養育といわれるものです。
もっとも、最近は「共同養育」という言葉はもっぱら「父母が離婚後も共同で子育てをすること」という意味で使われているようなので、「共同子育て」といったほうがいいかもしれません。

『「核家族は子育てに適していない」と狩猟採集社会を分析した研究者が主張』という記事から部分的に引用します。
ケンブリッジ大学考古学部で進化人類学を専門とするニキル・チョーダリー氏らは、コンゴ共和国に住む狩猟採集民のムベンジェレ族の文化を調査・分析した結果を発表しました。
(中略)
調査の結果として、ムベンジェレ族の乳児は最大15人の異なる養育者から1日約9時間、丁寧な世話と身体的接触を受けていることが判明しました。多数の擁護者がいることによって、子どもが泣きだした際の50%は10秒以内に誰かが対処し、25秒以上対応が遅れたケースは10%に満たなかったとのこと。また、「乳児の3メートル以内に誰もおらず、視線が合わない」という孤独な状況に乳児が置かれた時間は日中の12時間で平均して14.7分のみで、常に誰かの近くに置かれた状態にあったと分析されています。
(中略)
母親以外の複数の養育者が育児に積極的にかかわるスタイルは動物学で「アロマザリング」と呼ばれており、乳児や幼児の健全な心理学的発達をもたらす可能性が高いと考えられてきました。
(中略)
また、同様の子育てスタイルはムベンジェレ族だけではなく、中央アフリカのピグミー、ボツワナのブッシュマン、タンザニアのハヅァ族、ブラジルのヤノマミ族など、さまざまな地域の狩猟採集社会でも共通してみられるもので、乳児が日中の半分以上を母親以外に抱かれていたり、母親が狩りにでかける時間を親戚の家で集まったりと、集団的子育てが行われていることが過去の研究で示されています。

長谷川眞理子総合研究大学院大学学長はわが国の進化生物学界の第一人者でもありますが、「進化生物学から見た"子ども"と"思春期"」において、このように語っています。
また、人類進化の95%は狩猟採集民だったわけですけれども、その中で誰が子どもの世話をするかというと共同繁殖です。いろんな人がかかわって育てていて、親、特に母親が1人でケアするのが普通という社会は存在しません。それから、小さい子たちの周りには異年齢の集団、ちょっと上の子どもたちがたくさんいるし、血縁、非血縁を問わず、いろんな大人がいて、一緒に暮らしている。そういう人たちが入れ替わり立ち替わり子どもを見ているし、食料自体も、親がとってきたものだけでなく、みんながシェアをするので、みんなに支えられて子どもは育つというのが人間の原点です。そうでないとやっぱり無理なんです。脳が大きい、すごく時間をかけて育てなきゃいけない、でも、何もできない時期が何年も続くという存在を、血縁の一番濃い親だけが全部やるなんて無理で、単に食べて生き続けるということだけとっても、さまざまなサポート、ネットワークがあります。

去年出たProceedings of the Royal Society だったと思うのですが、その論文で、狩猟採集民の集団の構成を調べると、血縁者だけじゃなくて、非血縁者がいっぱいいるし、お母さんの友達とか、お父さんの友達とか、お父さんの弟とか、血縁を超えたいろんなソーシャルネットワークが常に流動的にあることがわかりました。お互いに食べ物をサポートし合う関係というのが、子どもをサポートし合う関係でもあり、みんなでリスクも責任も分散してヒトの子どもも育つということなのでしょう。だから、原点はこれなんだということをもう一回、社会福祉の制度の中に考え入れないとダメだと私は思います。
今は核家族の中で母親と父親が、ひどいときには母親が一人で子育てをしているので、母親が育児ノイローゼになるのはむしろ当然かもしれません。
祖父母が育児の手伝いをしてくれる場合は恵まれていますが、三世代同居世帯がいいかというと、そうとは限りません。祖父母がいると両親の独立や自由が制限されるからです。

核家族化の方向へ進んできた文明は針路を間違ったようです。これからは軌道修正をはからなければなりません。
ところが、今の国の政策はさらに間違った方向へ進もうとしています。


2006年9月に第一次安倍政権が発足し、同年12月に教育基本法が改正されました。
このときは「愛国心条項」が加わったことが批判されましたが、家庭教育に関する第十条も新設されました。
(家庭教育)
第十条 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。
2 国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない。

保護者に対しては、憲法で学校教育を受けさせる義務が規定されていましたが、ここで家庭教育の責任も規定されたのです。
「家庭教育を支援する」という言葉もありますが、これは親の負担を軽減するものではありません。むしろ負担を重くするものです。

たとえば文科省は改正教育基本法に基づき「早寝早起き朝ごはん」運動というものを展開し、全国協議会をつくって今もやっています。
朝ごはんを毎日食べている子どもはそうでない子どもより、学力調査の正答率や体力合計点が高いというデータを示し、“科学的”にも「早寝早起き朝ごはん」が子どもの健康によいと主張するのですが、では、朝ごはんは誰がつくるかというと各家庭であるわけです。
これでは親の負担が増えるだけです。

では、どうすればいいかというと、共同子育ての観点を取り入れることです。
たとえば朝ごはんが食べられる「子ども食堂」をつくるとか、各家庭に朝ごはんを配達するとか、学校給食で朝ごはんを提供するとかするのです。そうすれば親の負担は軽減されます。


2012年からは自治体で家庭教育支援条例を制定する動きが顕在化し、2023年4月時点で10県6市で制定されました。
こうした動きの背後にあるのは日本会議や統一教会などの宗教右派です。
こうした勢力は家父長制を理想としているので、子育ての責任を全部母親に押しつけます。
文科省の政策もそれと同一歩調をとってきました。


「家庭教育の責任」を規定する教育基本法は、いわば「自助」の子育てを求めています。
これからは「共助」と「公助」の子育てに転換するべきです。
子どもは親だけではなく、たくさんの人間に育てられるのが本来の姿です。
「共同子育て」という考え方を取り入れれば、子育ての負担も軽減されますし、少子化対策にもなります。


the-statue-of-liberty-2602636_1280

アメリカの社会病理はますます進行し、銃犯罪、麻薬汚染、人種差別などが深刻化しています。リベラルと保守の分断もとどまるところを知らず、内戦の危機までささやかれています。
こうした社会病理の根底にあるのは、人間関係のゆがみです。
そして、人間関係のゆがみの根底にあるのは、おとなと子どもの関係のゆがみです。

「子どもの権利条約」の締約国・地域の数は196で、国連加盟国で締約していないのはアメリカだけです。
つまりアメリカは国家の方針として子どもの人権を尊重しない世界で唯一の国です。
こういう重要なことがほとんど知られていないのは不思議なことです。
子どもの人権を尊重しないことがさまざまな問題を生んでいます。


幼児虐待で死ぬ子どもの数は、日本では多くても年間100人を越えることはありませんが、アメリカでは毎年1700人程度になります。
もちろん死亡する子どもの数は氷山の一角で、はるかに多数の子どもが虐待されています。
西洋の伝統的な考え方として、理性のない子どもは動物と同様と見なして、きびしくしつけするということがあります。子どもの人権という概念がないために、それが改まっていないと思われます。

日本では不登校の子どもをむりやり学校に行かせるのはよくないという考えが広まってきましたが、アメリカでは義務教育期間は子どもは学校に通う義務があり(日本では親に子どもに教育を受けさせる義務がある)、不登校は許されません。しかし、むりやり子どもを学校に行かせようとしてもうまくいかないものです。
そんなときどうするかというと、子どもを矯正キャンプに入れます。これは日本の戸塚ヨットスクールや引きこもりの「引き出し屋」みたいなものです。
『問題児に「苦痛」を与え更生せよ 「地獄のキャンプ」から見る非行更生プログラム 米』という記事にはこう書かれています。
アメリカの非行少年更正業界は、軍隊式訓練や治療センター、大自然プログラム、宗教系の学校で構成される1億ドル規模の市場だ――州法と連邦法が統一されていないがゆえに、規制が緩く、監視も行き届いていない。こうした施設の目的は単純明快だ。子どもが問題を抱えている? 夜更かし? ドラッグ? よからぬ連中との付き合い? 口答え? 引きこもり? だったら更正プログラムへどうぞ。規律の下で根性を叩き直します。たいていはまず子どもたちを夜中に自宅から連れ去って、好きなものから無理矢理引き離し、ありがたみを感じさせるまで怖がらせる。だが、組織的虐待の被害者救済を目的としたNPO「全米青少年の権利協会」によると、懲罰や体罰での行動矯正にもとづく規律訓練プログラムの場合、非行を繰り返す確率が8%も高いという。一方で、認可を受けたカウンセリングでは常習性が13%減少することが分かっている。
大金持ちのお騒がせ令嬢であるハリス・ヒルトンもキャンプに入れられたことがあり、議会でこのように証言しました。
「ユタ州プロヴォキャニオン・スクールでは、番号札のついたユニフォームを渡されました。もはや私は私ではなくなり、127番という番号でしかありませんでした。太陽の光も新鮮な空気もない屋内に、11カ月連続で閉じ込められました。それでもましな方でした」とヒルトンは証言した。「首を絞められ、顔を平手打ちされ、シャワーの時には男性職員から監視されました。侮蔑的な言葉を浴びせられたり、処方箋もないのに無理やり薬を与えられたり、適切な教育も受けられず、ひっかいた痕や血痕のしみだらけの部屋に監禁されたり。まだ他にもあります」
普通の学校はどうなっているかというと、「ゼロ・トレランス方式」といわれるものが広がっています。
これはクリントン政権が全米に導入を呼びかけ、連邦議会も各州に同方式の法案化を義務づけたものです。
細かく罰則を定め、小さな違反も見逃さず必ず罰を与えます。小さな違反を見逃すと、次の大きな違反につながるという考え方です。違反が三度続くと停学、さらに違反が続くと退学というように、生徒個人の事情を考慮せず機械的に罰則を当てはめるわけで、これでは教師と生徒の人間的な交流もなくなってしまいます。

これは私個人の考えですが、昔のアメリカ映画には高校生を主人公にした楽しい青春映画がいっぱいありましたが、最近そういう映画は少ない気がします。子どもにとって学校が楽しいところではなくなってきているからではないかと思います。

学校で銃乱射事件がよく起こるのも、学校への恨みが強いからではないでしょうか。


幼児虐待は身体的虐待、心理的虐待、性的虐待、ネグレクトの四つに分類されますが、中でも性的虐待は「魂の殺人」といわれるぐらい子どもにダメージを与えます。
アメリカでは1980年代に父親から子どものころに性的虐待を受けたとして娘が父親を裁判に訴える事例が相次ぎました。いかにも訴訟大国アメリカらしいことですが、昔の家庭内のことですから、当事者の証言くらいしか証拠がありません。
ある心理学者が成人の被験者に、5歳のころにショッピングセンターで迷子になって親切な老婦人に助けられたという虚偽の記憶を植えつける実験をしたところ、24人の被験者のうち6人に虚偽の記憶を植えつけることに成功しました。この実験結果をもとに、セラピストが患者に性的虐待をされたという虚偽の記憶をうえつけたのだという主張が法廷で展開され、それをあと押しするための財団が組織されて、金銭面と理論面で父親を援助しました。
この法廷闘争は父親対娘だけでなく、保守派対リベラルの闘争として大規模に展開されましたが、最終的に父親と保守派が勝利し、逆に父親が娘とセラピストに対して損害賠償請求の訴えを起こして、高額の賠償金を得るという例が相次ぎました。
この顛末を「記憶の戦争(メモリー・ウォー)」といいます。
結局、家庭内の性的虐待は隠蔽されてしまったのです。

アメリカでは#MeToo運動が起こって、性加害がきびしく糾弾されているイメージがありますが、あれはみな社会的なケースであって、もっとも深刻な家庭内の性的虐待はまったくスルーされています。


ADHDの子どもは本来2~3%だとされますが、アメリカではADHDと診断される子どもが急増して、15%にも達するといわれます。親が扱いにくい子どもに医師の診断を得て向精神薬を投与しており、製薬会社もそれを後押ししているからです。


アメリカにおいては、家庭内における親と子の関係、学校や社会におけるおとなと子どもの関係がゆがんでいて、子どもは暴力的なしつけや教育を受けることでメンタルがゆがんでしまいます。それが暴力、犯罪、麻薬などアメリカ社会の病理の大きな原因になるのです(犯罪は経済格差も大きな原因ですが)。
そして、その根本には子どもの権利が認められていないということがあるのですが、そのことがあまり認識されていません。

たとえば、こんなニュースがありました。
「ダビデ像はポルノ」で論争 保護者が苦情、校長辞職―米
2023年03月28日20時32分配信
 【ワシントン時事】米南部フロリダ州の学校で、教師がイタリア・ルネサンス期の巨匠ミケランジェロの彫刻作品「ダビデ像」の写真を生徒に見せたところ、保護者から「子供がポルノを見せられた」と苦情が寄せられ、校長が辞職を余儀なくされる事態となった。イタリアから「芸術とポルノを混同している」と批判の声が上がるなど、国際的な論争に発展している。

 地元メディアによると、この学校はタラハシー・クラシカル・スクール。主に11~12歳の生徒を対象とした美術史の授業で、ダビデ像のほかミケランジェロの「アダムの創造」、ボッティチェリの「ビーナスの誕生」を取り上げた。

 ところが、授業後に3人の保護者から「子供がポルノを見ることを強制された」などと苦情が入った。教育委員会は事前に授業内容を保護者に知らせなかったことを問題視。ホープ・カラスキヤ校長に辞職を迫ったという。

この決定はミケランジェロを生んだイタリアで反響を呼んだ。ダビデ像を展示するフィレンツェのアカデミア美術館のセシリエ・ホルベルグ館長は、AFP通信に「美術史に対する大いなる無知だ」と批判。フィレンツェのダリオ・ナルデラ市長もツイッターで「芸術をポルノと勘違いするのは、ばかげている以外の何物でもない」と非難し、「芸術を教える人は尊敬に値する」として、この学校の教師を招待する意向を示した。

 フロリダ州では保守的な価値観を重視する共和党のデサンティス知事の主導で、一定年齢以下の生徒が性的指向を話題とすることを禁止する州法を成立させるなどの教育改革が強行されている。今回の措置には、米作家のジョディ・ピコー氏が「これがフロリダの教育の惨状だ」と指摘するなど、米国内でも波紋が広がっている。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2023032800665&g=int
これは「芸術かポルノか」という問題のようですが、実は子どもの「見る権利」が侵害されているという問題です。「芸術かポルノか」ということをおとなが一方的に決めようとするからおかしなことになるのです。

アメリカではSNSが子どもにとって有害だという議論があって、1月末に米議会上院がSNS大手5社の最高経営責任者を招いて、つるし上げに近いような公聴会を行いました。
米保健福祉省は勧告書で子どものSNS利用は鬱や不安などの悪化リスクに相関性があるという研究結果を発表していて、そうしたことが根拠になっているようです。

しかし、SNS利用が「子どもに有害」だとすれば、「おとなに無害」ということはないはずです。程度は違ってもおとなにも有害であるはずです。
子どものSNS利用だけ規制する議論は不合理で、ここにも「子どもの権利」が認められていないことが影響しています。

アメリカの保守派とリベラルの分断は、おとなと子どもの分断からきていると理解することもできます。


文科省は2005年に「問題行動対策重点プログラム」にゼロ・トレランス方式を盛り込みました。
また、日本でも「子どもに有害」という観点からSNS利用規制が議論されています。
しかし、アメリカのやり方を真似るのは愚かなことです。
アメリカは唯一「子どもの人権」を認めないおかしな国だからです。


fast-food-4023905_1280
レストラン「サイゼリヤ」で、子連れ客が店員から「子どもが騒いだら退店となります」と言われたということがXで話題となりました。

『サイゼリヤ店員、子どもグズって「騒いだら退店」と警告 広がる波紋に本社広報「個別案件、回答差し控える」』という記事が報じました。そこから一部を引用します。


 11月29日、J-CASTニュースの取材に応じた投稿者によると、東京都内のサイゼリヤで起きた出来事だ。Xに投稿して波紋が広がったのは隣の家族のエピソードだったが、この日の投稿者の家族も入店時に「騒いだら退店になります」と伝えられていた。子どもは未就学児2人で「子どもですので声は大人よりは大きかったかもしれませんが、騒いではおりませんでした」。店内は家族連れ、サラリーマンなどで満席だったとし、「わりと騒がしい状態」だったという。


 案内された席の隣で、2歳程の子どもを連れた3人家族が既に食事をしていた。20分程隣にいたが、子どもは椅子に座って食事をしており、走り回ったりはしていなかったという。にもかかわらず、隣の家族は「騒いだら退店となります」と注意された。当時の様子を次のように振り返った。


「子どもが途中でグズりだして泣いてしまったのですが、すぐにお母さまが抱き上げてあやしていたところ、(投稿者家族の)入店時に対応した店員が来て、『騒いだら退店になります』と伝えていました(即退店しろ、ではなく警告だと思います)。言われたお母様は本当に申し訳なさそうに何度も謝っていました」

J-CASTニュースがサイゼリヤ広報に本部の方針について問い合わせたところ、「個別の案件についての回答は差し控えさせて頂いております」と回答があったということです。
まるで政治家の回答です。


ファミリーレストランは、その名の通り家族連れでくるのが当たり前です。子どもの声が耐えられないという人はファミリーレストランにこないことです。

サイゼリヤには子ども用の椅子が用意されていて、とくに小さな子ども用にはテーブルにはめ込んで使うタイプのものもあります。
子どもがくるのを前提としながら、子どもが騒げば出ていけというのは矛盾しています。子どもは騒ぐのが当たり前で、想定内のはずです。

実際のところは、おとなもけっこう騒いでいるはずです。おとなが騒ぐのは許されて、子どもが騒ぐのは許されないというのはダブルスタンダードです。

投稿者は店員に「泣いただけで退店なのは本部の方針なのか?」と聞くと、店員は「そうです。他のお客様もいるので、その方たちを優先します」と言ったそうです。
これはこの店員だけの考えで、サイゼリヤの方針ではないでしょうが、今の日本の問題を端的に表現しています。
つまりおとなを優先して、子どもを隅に追いやっているのです。
こども家庭庁は「こどもまんなか社会」をスローガンにしているのですから、サイゼリヤのようなことがあれば、子ども家庭庁長官あたりが注意のコメントを出すべきでしょう。



飲食店が客を排除するということはマクドナルドでもありました。

相模原市内のマクドナルドの店舗が1月ごろ、近隣の中学校を名指しして、そこの生徒を「出入り禁止」にするという張り紙を出しました。その画像がツイッター(現X)で7月ごろに拡散して話題になり、朝日新聞も記事にしました。
中学生が店内で騒いで、店員が身の危険を感じるということもあったようで、中学校の職員が呼ばれたり、交番の警察官が対応したりした挙句の張り紙でした。
しかし、新聞に書かれるほどの騒ぎになると、さすがに張り紙はやめただろうと思っていたら、12月19日の『地元中学生を「出禁」にしたマックの今、1年後も"警告"続く…生徒の迷惑行為で警察沙汰、学校「他の飲食店からも通報あった」』という記事に、まだ張り紙が出ていると書かれていました。

もっとも、その張り紙には、中学校を名指しすることはなく、「出入り禁止」という言葉もなく、「他のお客様へご迷惑となる行為が見られました際は、従業員の判断により、警察へ通報する場合があります」と書かれているだけなので、比較的穏当なものです。

ただ、この記事には5000余りという異例に多いヤフーコメントが寄せられていて、人々の関心の高さがうかがえます。
そして、多くの人は問題がまったく理解できていません。

ヤフコメの筆頭には「エキスパート」として流通ジャーナリストの「客は多くの店から気に入ったり、必要に応じて店を選ぶことができる。店も客を選ぶ権利があり、好ましくない客を出禁にする権利がある」という意見が掲載されています。

これはその通りですが、マクドナルドの最初の張り紙はそれとは違います。特定の中学校を名指しで、その中学校の生徒全員を「出禁」にするとしていたのです。
店内で迷惑行為をした客を「出禁」にするのはありですが、ある中学の何人かの生徒が迷惑行為をしただけで、その中学の生徒全員を「出禁」にするのは、なんの罪もない多くの生徒の権利を侵害しています。
これは、マナーの悪い中国人客がいるからといって「中国人出入り禁止」の張り紙をするのと同じで、差別になります。国籍や所属中学という「属性」を理由に人間を不当に扱っているからです。

もっとも、この中学はかなり問題があるのかもしれません。マクドナルド以外の飲食店から2回ほど「生徒のマナーが悪くて困っている」という連絡があったそうです。
全国にマクドナルドの店舗は数多くあるといえども、特定の中学校の生徒を出禁にしているのはここだけではないでしょうか。
どんな教育をしている中学なのか気になります。


しかし、ヤフコメでいちばん人気のコメントは、教師がきびしく指導すると体罰といわれ、家族がきびしく叱ったら虐待といわれるので、誰もきびしい指導をしないからこんなことになるのだという意見です。
これが世の中の平均的な意見かもしれません。
しかし、私の意見はまったく逆です。学校や家庭できびしく指導されるので、学校でも家庭でもないマクドナルドではじけてしまうのです。

これは家庭のしつけの問題だから、学校に問題を持ち込むのはよくないという意見もあります。しかし、もし家庭の問題なら、全国のマクドナルドの店舗で同じような問題が起こっているはずです。

問題があるとすれば、やはりこの中学校でしょう。生徒は学校内であまりにもきびしく指導されているので、学校を出たとたんハメを外してしまうのです。

この中学がどんな教育をしているのかわかりませんが、生徒をたいせつに思う気持ちはあまりなさそうです。
取材に応じた副校長は「出禁にするのを決めるのはお店です。私たちがやめてと言える立場ではありません」と語っています。
本来なら「本校生徒に対する不当な扱いは即刻やめていただきたい」と言うべきところです。

なお、日本マクドナルド社は「学校との個別の案件となりますので回答は控えさせていただきます」とコメントしたということで、こちらも政治家答弁です。

ファミレスやファストフード店は子どもや中学生にとって居心地のいいところです。
子どもや中学生を排除する店があったら、親などが強く反発すると思いましたが、意外なことに、サイゼリヤもマクドナルドも謝罪もなにもせず、ほとんど同じ方針を続けています。
公園や電車内で子どもが騒ぐと問題になってきましたが、それがファミレスやファストフード店にまで広がってきたようです。


政府は12月22日に「こども大綱」を閣議決定し、年間5.3兆円の予算を投じて、
▼子どもの貧困対策
▼障害児などへの支援
▼学校での体罰と不適切な指導の防止
▼児童虐待や自殺を防ぐ取り組みの強化
などを進めるということです。
けっこうなことですが、具体的にどう進めるのか今のところよくわかりません。
そういう懸念に応えるためか、具体的な目標を設置しています。その目標のひとつに、今後5年程度で「子育てなどに温かい社会の実現に向かっていると思う人の割合を、今の28%から70%に上昇させる」というのがあります。

今は「子育てなどに温かい社会の実現に向かっていると思う人」が28%しかいないわけです。
それを70%に引き上げるというのは大胆な目標ですが、サイゼリヤやマクドナルドの店舗の例を見ても、むしろ逆行しているように思えます。
子どもの貧困対策をやっても、子どもに対する社会の目がきびしいのでは、子どもの幸福度も上がりません。


では、どうすればいいかというと、私はこれまで「子どもの人権」ということを強調してきました。
子どもの人権に対する配慮があれば、店から子どもを追い出すようなことはできないので、それである程度解決するはずです。
しかし、「人権」という言葉にはなじめない人もいます。

そこで、「子どもの発達」ということを強調したほうがいいのではないかと思い直しました。
子どもの発達に対する科学的研究がどんどん進んできたからです。

たとえば、昔は赤ん坊が泣くと、すぐ抱きあげるのは“抱きぐせ”がつくのでよくないとされていました。しかし、今はすぐ抱くのがよいとされています。“抱きぐせ”がつくことはなく、「基本的信頼感」が養えるとされるのです。
「基本的信頼感」というのは、自分に対する信頼と世界に対する信頼で、これは赤ん坊が親に受け入れられることで養われるとされます。

「叱るのがよいか、ほめるのがよいか」というのも昔から議論のあるところでしたが、今はほめるほうがパフォーマンスがよいと結論が出ています。スポーツの世界では「ほめて育てる」が主流になっています(選手を叱っている指導者は時代遅れです)。
当然子育てでもほめたほうがよいわけです。ただ、子育て本を見ると、ほめることを勧めつつも、「悪いことをしたときなど、ときに叱ることも必要です」と書かれていることがよくあります。これは古い考えに妥協した態度です。
私が思うに、子どもが悪いことをしたときは「それは悪いことだ」と教えればよく、叱る必要はありません。

子どもが動き回ったり、大声を出したりするのは、それが発達に必要なことだからです。
さまざまな動きをすることで筋肉と運動神経がまんべんなく鍛えられます。
子どもはしばしばマックスと思える大声を出すので、周りのおとなの顰蹙を買いますが、これは当然、声を出す能力を鍛えているのです。大声を出すのを禁じると、声を出す能力が発達せず、助けを求めるために大声を出さなければならないときに大声が出せないということにもなりかねません。もしかすると、歌をうたう才能を殺しているということもありえます。
中学生がバカなことや危ないことをするのも、経験値を上げるという意味があり、のちの人生に役立ちます。
おとなの価値観で子どもの行為をむりに抑えると、正常な発達がゆがめられます。
それに、おとなになれば自然とおとなしくなります。これは子犬や子猫を育てた人ならわかるでしょう。


泣いた赤ん坊をすぐに抱くと抱きぐせがついてよくないとされたのは、赤ん坊は基本的にわがままで、赤ん坊の要求に応えるとどんどん要求をエスカレートさせると考えられたからです。
つまり赤ん坊が泣いてもすぐに抱かないのは、赤ん坊に対する“しつけ”だったのです。
しかし、そんなしつけは無用でした。
ということは、子どもに対するしつけも無用ということになるはずです。


「きびしく育てるか、のびのび育てるか」というのも昔から議論されてきましたが、今は「のびのび育てる」に軍配が上がっています。
子どもの成長する力を信頼していれば、子どもが騒いでも温かく見守れます。

boy-286240_1280

教育の世界では、子どもの主体性が無視されています。
たとえば、子どもが強制されていやいや勉強しているのと、自分から積極的に勉強しているのとではまったく違いますが、それが区別されていません。
親や教師はつねに子どもに勉強を強制しているので、子どもが勉強しているか否かという表面しか見ていないからです。

「子どもにがまんさせることがたいせつ」ということもよく言われます。
しかし、がまんばかりさせられていると、元気も意欲もない子どもになってしまいます。

人生でがまんすることはたいせつですが、それはみずからするがまんです。人にさせられるがまんではありません。
ここでも子どもが「する」と「されられる」の区別がありません。

では、人はどんな場合にがまんするかというと、大きな欲望がある場合に小さな欲望を抑えるというときです。
たとえば若い女性がやせて男にもてたいという欲望を達成するために、ケーキを食べたいという欲望をがまんするというとき、それから、子どもがいい学校に入りたいためにゲームをしたいという欲望をがまんして勉強するというときなどです。
欲望のない人間はいませんから、人は欲望を達成するために自然とがまんすることを覚えます(もっとも、目先の欲望に負けて後悔するということを繰り返しながらですが)。
「子どもにがまんさせることがたいせつ」と言う人は、子どもに目的のないがまんをさせるのでしょう。


子どもの「する」と「させられる」の区別がないのは、「青少年健全育成」を名目にして、性的表現や暴力的表現の図書や映像を子どもに見せるのはよくないという議論のときも同じです。
この場合、「子どもに見せる」という表現ばかりです。
「子どもが見る」という表現を見たことがありません。
もちろんこの両者はまったく違います。

たとえば残酷シーンのあるホラー映画を、親が子どもに「さあ、見なさい」と言って見せるのはよくありません。子どもがその残酷シーンにショックを受けた場合、親が「見なさい」と言っているのですから、すぐ見るのをやめるわけにいかないでしょう。子どもはそのシーンにショックを受け、親からそれを見させられたということにも傷つきます。

子どもがいくつもある映画の中から自分でそのホラー映画を選んで見た場合はどうでしょうか。残酷シーンにショックを受けてもすぐに見るのをやめるので、たいして傷つきません。映画の選択を間違ったなと思うだけです。
もし残酷シーンがあっても最後まで見続けたとしたらどうでしょうか。この場合、本人の意志でそうしているのですから、傷つくことはないでしょう。もしどんどんホラー映画にはまっていったとしたら、それがその子どもの個性なのです。将来はホラー作家になるかもしれません。

残酷シーンにせよ暴力シーンにせよ、「子どもに見せる」という表現をすると、むりやり見せているイメージになるので、害があるかもしれないと思えます。
しかし、「子どもが見る」という表現にすれば、「本人が好きで見ているならいいじゃないか」ということになるでしょう。

今の不健全図書などの規制の議論は、すべて「子どもに見せる・見せない」という表現で行われています。
これを「子どもが見る・見ない」という表現にすれば、つまり子どもの主体性を認めれば、議論のあり方も変わってくるはずです。


なお、性的表現については問題が別です。

子どもが正常な性的発達を遂げると、12,3歳で身体的に性交可能となり、15,6歳でカップルとなり、子どもをつくる可能性が高くなります。子どもをつくったカップルは学校に行くのが困難となり、そういうカップルが増えると教育水準が下がってしまいます。それに、親はできるだけ長く子どもに親もとにいてほしいと思うものです。
そのため文明社会は子どもの性的発達を遅らせようとしてきました。性的表現を子どもに見せず、性欲はスポーツや芸術で“昇華”させることが奨励され、簡単に性交をする人間は見下されました。

今は性的表現を子どもに見せると有害だとされていますが、有害であるという根拠はまったくありません。
あくまで子どもの性的発達を遅らせるためにやっていることです。
子どもの性的発達を遅らせるというのは、文明社会では広く行われていることなので、不自然ではありますが、必然性があるのでしょう。
なお、性的表現の規制は「子どもの性的発達を遅らせる」ということが目的なのですから、その表現が健全が不健全かということは関係ありません。


「する」と「されられる」の区別がつかないというのは、子どもの主体性や意志というものを無視しているということです。
これは日本全体に蔓延していると思われます。

東近江市の小椋正清市長が「不登校になる責任の大半は親にある」「フリースクールは国家の根幹を崩しかねない」と発言し、批判されたために謝罪しましたが、発言の撤回はしませんでした。
謝罪したといっても、「フリースクールの関係者、保護者の皆さま」に謝罪しただけです。
不登校の子どもに対しては謝罪していません。
そして、そのことはまったく問題にされません。「子どもに対して謝罪しろ」という声は聞こえてきませんでした。


ともかく、子どもの行為については「する」と「されられる」、「している」と「させられている」の区別をすることがたいせつです。
子どもが社会奉仕活動のような立派なことをしていても、「されられている」のであれば、少なくとも子どもにとってはほとんど意味がありません。
たとえつまらないことでも、子どもがみずから「している」のであれば、それは子どもにとっては意味があります。
水泳やらピアノやらの習い事でも、子どもが「している」のと「させられている」のとでは大違いです。

親や教育者は「する」と「させられる」の区別をつけることが先決です。

3289197_m

東近江市の小椋正清市長が「不登校になる責任の大半は親にある」「フリースクールは国家の根幹を崩しかねない」と発言し、波紋を広げています。

子どもが不登校になるのは、いじめが原因の場合もあるでしょうし、教師の態度が原因の場合もあるでしょう。そもそも学校がその子どもに合わないということもあります。
それなのに親にばかり責任を負わせる発言が反発を招くのは当然です。

では、「フリースクールは国家の根幹を崩しかねない」という発言はどうでしょうか。
これについては、本人がMBSNEWSのインタビューでこう説明しています。
(小椋市長)「大半の善良な市民は、本当に嫌がる子どもを無理して学校という枠組みの中に押し込んででも、学校教育に基づく、義務教育を受けさそうとしているんです。」

「無理して無理して学校に行っている子に対してですね、『じゃあフリースクールがあるならそっちの方に僕も行きたい』という雪崩現象が起こるんじゃないか。」

「フリースクールって、よかれと思ってやることが、本当にこの国家の根幹を崩してしまうことになりかねないと私は危機感を持っているんです。」

小椋市長は、学校とは無理して行くところだと思っているのです。ですから、学校以外の道ができれば、みんなそっちに行ってしまって、学校制度が崩壊し、ひいては国家の根幹が崩壊するというわけです。

極端な考え方です。
ひとついえるのは、フリースクールは有料なので(文科省の調査によると平均月3万3000円)、みんながそっちに行くということにはなりません。

「子どもは無理して学校に行っている」「大半の親は嫌がる子どもを無理して学校に行かせている」という認識はどうでしょうか。
嫌がらずに学校に行っている子どももいますから、正しい認識とはいえませんが、ある程度こういう現実があるということはいえるでしょう。

昔は子どもが不登校になったり登校をしぶったりすると、親はむりやりでも学校に行かせようとしました。
不登校は子どもの「わがまま」や「甘え」と見なされて、親は子どもを殴ってでも、引きずってでも学校に行かせるべきだと考えられていたのです。
小椋市長はその時代の考えのままです。不登校の子どもは親が甘やかしているからだと思っているので、「不登校になる責任の大半は親にある」という言葉が出てきます。

しかし、実際のところは、むりやり登校させようとしてもうまくいきません。泣き叫ぶ子どもをむりやり学校に連れていくことになり、次の日も同じことが繰り返されるので、実質的に不可能です。それに、これをやると親子の信頼関係が壊れて、自殺、家庭内暴力、引きこもりにつながるとされます。
ですから、子どもを強制的に登校させるのはよくないという認識が関係者の間で広まりました。

文科省はこの認識を受けて、それまでの「学校に戻す」という原則を捨てて、1992年からフリースクールですごした日数を小中学校の出席日数として算入可能とし、卒業要件にすることも可能としました(2009年からは高校も可能に)。
さらに文科省は、不登校は特定の子どもに特有の問題があることによって起こることではなく「誰にでも起こりうる」ことだとしました。

どうやら文科省は不登校を容認する方向に転じたようです。
なにしろ不登校は増え続けているので、そうせざるをえなかったのでしょう。

20221028-OYT1I50019-1


2022年度の不登校は29万9048人と過去最多を更新し、この2年間は前年度からの増加幅が2割を超え、計約10万人の大幅増となりました。


不登校の子どもを放っておくわけにはいきません。
フリースクールといってもいろいろありますが、不登校の子どももフリースクールなら通える場合が多いのです。
あるいは、普通の学校は通えなくても通信制の学校なら通えるという場合もあって、そのために通信制高校が増えてきました(私立通信制高校は2000年度は44校でしたが2022年度は195校)。

つまり文科省は「学校がいやな子どもはフリースクールか通信制に行ってくれ」という方針のようなのです。


小椋市長はここにかみついたわけです。「僕は文科省がフリースクールの存在を認めてしまったということに、がく然としているんですよ」と語っています。
小椋市長は、学校とフリースクールは根本的に違うものだと見ていて、みんなが学校でなくフリースクールに行くようになると「国家の根幹を崩す」ことになると考えているわけです。

学校とフリースクールの違いとはなんでしょうか。そこに「国家の根幹を崩す」ようなものがあるのでしょうか。


フリースクールに通う子は学力が低いという根拠はありません。小椋市長も学力のことを言っているのではないと思われます。

むしろ逆のことも起こっています。
『「学校の授業は退屈…塾だけ行きたい」中学受験で“変わってしまった”息子 不登校は許していい?【お笑い芸人→教師経験者がアドバイス】』という記事にこんなことが書かれていました。

小学校3年生の息子が塾に通い始めたところ、担任の先生から「最近、息子さんは授業中ぼーっと外を見ていたり、集中力の低下が見られます」という指摘を受けます。息子に聞いてみると、「塾の先生の話はおもしろくて、わかりやすい。学校の授業はつまらない」と言います。ついには「学校に行かずに塾だけ行きたい」と言い出したので、親としてどうすればいいだろうという問題です。

塾の先生が優秀で、学校の先生が優秀でないなら、こういうこともありえます。学校で退屈な授業を受けるのは、時間のむだです。
最近は教育系のYouTubeで勉強したほうがいいということもあるようです。
学力に関しては学校の優位はほとんどありません。

学校に行くべきという人は、「集団生活に慣れることができる」とか「友だちができる」ということを学校の利点に挙げますが、そういうことはフリースクールや塾でもできます。
学校でしかできないとされることは、「規律を身につける」ということです。

「規律」は厄介な言葉です。たいていは「規則を守る・守らせられる」という意味で使われますが、「規範に従って自分を律する」という意味もあります。
つまり「他律」と「自律」のふたつの意味があるのです。
しかし、学校における「規律」はつねに「他律」の意味です。子どもは学校の規則を守らされるだけです。

戦前の学校では規律が重視されました。軍隊に入れば規則・命令は絶対だからで、学校からその準備をしていたわけです。
戦後の学校は当然変わらねばなりませんでしたが、実際はほとんど変わりませんでした。軍隊式の整列や行進が今も行われ、子どもは無意味な校則でがんじがらめになっています。
しかし、今の時代は規則や命令に従うだけの人間には価値がありません。ロボットやAIに置き換えられるだけです。
小椋市長が「国家の根幹」と言ったのは、戦前の価値観のままなのでしょう。


フリースクールは、一人一人に合わせた教育をするので、規律はありません。
ここが学校とフリースクールの決定的な違いです。

ということは、不登校の原因も見えてきます。
子どもたちは規律のある学校が嫌いなので、不登校になるのです。
他律はいくらやっても自律に転化することはありません。自律は自由の中からしか芽生えません。
他律ばかりの学校を子どもが本能的に拒否するのは当然です。
不登校が増えるのは、規律のある学校が時代に合わなくなっているからです。

学校はタダで幅広いことを教えてくれる便利な施設です。しかし、子どもが学校へ行くと、独禁法で禁じられている抱き合わせ販売のようにして、学校は「学習」といっしょに「規律」も押しつけてくるのです。
そのため子どもは自律心も自発性も創造性も失ってしまいます。

文科省はフリースクールを容認したのですから、フリースクールのよさを学校に取り入れる方向で教育改革をしなければなりません。

14c72d19ad49ac6ab954843fcec77ae8_m

いじめ防止対策推進法が施行されて9月28日で10周年となりました。
法律をつくった効果はあったのでしょうか。

2021年度の小中高におけるいじめの認知件数は61万5351件と過去最多となりました。
認知件数は、学校が隠蔽をやめてまじめに報告しても増えますが、自殺などの「重大事態」も705件と前回調査から37%増えています。
いじめ防止法の効果はほとんどなかったといえるでしょう。

いじめは複雑な問題です。
法律をつくったらいじめが解決した――なんていううまい話があるわけありません。

いじめ防止法で唯一評価できるのは、いじめの定義がされたことです。
「他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為」により「対象生徒が心身の苦痛を感じているもの」がいじめであるとされました。
つまりいじめ被害者の「苦痛を感じている」という主観でよくなったのです。
いじめる側の「これはいじめじゃなくてイジリだ」というような言い分は通用しなくなりました。

しかし、マイナスの面もあります。
いじめを児童生徒と児童生徒の間に起こることと狭く定義したのです。
つまり教師の行為は不問とされたのです。
実際は、教師が生徒に体罰をしたり暴言を吐いたりということが行われています。この行為はいじめと同じか、いじめよりも深刻です。教師の体罰・暴言を受けた生徒がストレス発散のためにほかの生徒をいじめるということもありえます。
教える力や指導力のない教師が、思い通りにならない生徒にいら立ちをぶつけてクラスの空気が悪くなり、それがいじめを生むということもありえます。

親から虐待されている生徒もいます。
いつも親から殴られている生徒がほかの生徒を殴るということもあるでしょう。
親から虐待されているために自己評価が低く、そのためほかの生徒からいじめられるということもあるでしょう。

つまりいじめというのは、学校や家庭のあり方が影響し、さらには社会のあり方も影響しますから、きわめて複雑なのです。
それをいじめ防止法は、生徒間の問題に限定してしまったわけで、これではいじめの原因も把握できないし、いじめ防止の方法もわかりません。
いじめ防止法ができてもいじめがへらないのは当然です。

どうしてこういう無意味な法律ができたのでしょうか。
それは、法律が制定された当時、社会がいじめに関して異常な心理状態にあったからです。


2011年10月、大津市で中学2年生の男子生徒が自宅マンションから飛び降り自殺をするという事件がありました。
学校は自殺原因究明のために全校生徒を対象にアンケートを行い、その中に「自殺の練習をさせられていた」という記述があったことがマスコミに報じられると、世の中は騒然としました。
「自殺の練習をさせられていた」というのは確かにショッキングです。そんないじめをされたら、自殺の原因になってもおかしくありません。

私はこのことをブログで取り上げよう思って、いくつかのニュースを詳しく読んでみました。すると、「自殺の練習をさせられていた」というのはあくまで無記名のアンケートに書かれていただけで、具体的な証言も証拠もありませんでした。
私はこんな不確実なことを書くわけにはいかないと思って、ブログで取り上げるのは見合わせました。
ところが、それからもどんどん報道は加熱して、いつの間にか「自殺の練習」はあったことにされ、いじめ加害者とされる中学生はネットで名前をさらされ、猛烈なバッシングを受けました。

私は「自殺の練習」を疑っていたこともあって、事態を冷静に眺めることができました。
そうすると、男子中学生の自殺の主な原因は、父親による虐待だったのではないかと思えました。

自殺した生徒は「家族にきびしく叱られる」などと担任に何度か相談していました。当時、母親は家を出て、生徒は父親と暮らしていました。ですから、担任は生徒の自殺の原因は父親との関係だろうと判断し、そのことは学校や教育委員会にも伝えられていました。
しかし、父親は自分が自殺の原因だとは思いたくないので、同級生のいじめが原因だと思い、いじめの被害届を警察に出しますが、3度にわたって警察に被害届の受け取りを拒否されます。
のちにこの警察の態度は非難されますが、警察はいじめはほとんどなかったと判断していたのでしょう。
学校や教育委員会の態度も、いじめの調査に積極的でないことから「いじめを隠蔽している」として非難されましたが、基本的に自殺の原因は父親にあると思っていたわけです。
大津市の越直美市長は「自殺少年は父親からDVを受けていた」と語りましたし、澤村憲次教育長は「学校からは亡くなったお子さんの家庭環境に問題があると聞いている」と語りました。
もっとも、こうした認識は世間から「責任逃れ」と受け止められ、よりいっそうの非難を招きました。

冷静に考えて、自殺の原因として、同級生のいじめと父親の虐待の両方があったでしょう。
問題はその割合がどれくらいだったかです。

結局、「自殺の練習」については、県警によって有力な目撃情報はなかったと結論づけられました。
また、自殺少年の親はいじめ加害者の少年3人に対して約3850万円の損害賠償請求の訴えを起こし、第一審では約3750万円の支払いが命じられましたが、控訴審では父親が自殺少年に暴力をふるうなどしていたことによる「過失相殺」を認めて、約400万円に減額し、最高裁で約400万円の判決が確定しました。
第一審は世間の熱狂に引きずられた判決でしたが、控訴審では冷静な判決になったと思われます。

判決で「過失相殺」という言葉が使われるぐらいですから、父親の虐待と同級生のいじめの両方が自殺の原因だったということでしょう。


中学生ぐらいの子どもは、家庭と学校が生活圏のほとんどすべてです。もし自殺すれば、家庭と学校の両面で原因を探さなければなりません。
家庭と学校とどちらが子どもにとって重要かといえば、もちろん家庭です。
もし学校でひどいいじめにあっていたとしても、家庭生活が幸せなら自殺しないでしょう。
それに、まともな親なら、子どもの様子から問題を察知して、子どもが自殺する前に対処するはずです。
ですから、もし子どもが自殺すれば、とりあえず家庭に問題があっただろうと想像できます。
自殺の原因は複合的なのが普通ですが、第一の原因は家庭にあって、学校でのいじめがあったとしても、それは第二の原因でしょう。


大津市で中学2年生の男子生徒が自殺したというときも、私は家庭環境はどうなっていたのだろうかと考えました。
ところが、「自殺の練習」ということもあって、報道はいじめのことばかりです。自殺生徒の家庭のことはまったく報道されないので、家族構成すらわかりません。父親は盛んにメディアに出てきますが、母親はまったく姿が見えないので、どうなっているのかと思っていました。両親は不仲で、母親は家を出ていたというのは、かなりあとになってからわかりました。

学校でのいじめのことばかり報道して、自殺少年の家庭環境のことはまったくといっていいほど報道しないというところに、社会のいちばん深い病理が表れています。
中学2年生の少年が自宅マンションから飛び降り自殺をしたら、家庭に問題があったのだろうと推測されます。親から虐待されていた可能性が大です。しかし、その問題はまったく追及されません。
しかし、少年が学校でいじめにあっていたかもしれないとなると、嵐のように報道されます。

これはどういうことかというと、いじめが原因で自殺したということになれば、家庭内で虐待はなかったということになります。
現に越直美市長の「自殺少年は父親からDVを受けていた」という言葉はかき消されてしまいました。

ほとんどの親は子どもをガミガミと叱り、勉強に追い立て、ときに体罰をしています。
子どもが自殺したというニュースに接すると、こうした親は不安になります。
しかし、自殺の原因が学校でいじめであったということになれば、安心できます。
つまり「幸せな家族」幻想が守られるわけです。

このときは、メディアだけでなくおとな社会全体が家庭内の虐待を隠蔽し、その代わりに学校でのいじめに自殺の責任を押しつけました。
しかも、それがきわめて熱狂的でした。
その熱狂が「いじめ防止法」をつくらせたのです。
酒鬼薔薇事件のときの熱狂が少年法改正を生んだのと同じです。

ですから、いじめ防止法は不純な動機でつくられました。
その隠れた目的は、家庭内の虐待の隠蔽です。
そのため、いじめは子どもの間の出来事とされ、いじめの加害者も被害者も家庭環境の影響を受けているという当然のことが無視されました。
こんな法律になんの効果もないのは当然です。
子どもは家庭で親から、学校で教師からの影響を受けるということを前提に、法律をつくり直さなければなりません。


なお、幼児虐待を隠蔽して、「幸せな家族」幻想を維持しようとすることは今も行われています。
そのため、子どもが死ぬか大ケガをする事態になってやっと幼児虐待が表面化するということが少なくありません。


大津市の中学2年生の自殺事件については、私は十本余りのブログ記事を書いて、「大津市イジメ事件」というカテゴリーにまとめています。
世の中の100%近い人がいじめと学校や教育委員会の対応を糾弾していたときに、少年の自殺の主な原因は家庭内のことにあると主張したので大炎上しましたが、結果的に私の主張が正しかったわけです。

27340721_m

人間はみな生まれつき能力が違うのに、今の学校ではみな同じ教室に入れられ、一斉授業を受けさせられます。
どう考えても理不尽です。
しかし、「人間は生まれつき能力が違う」と言うことは(とりわけ教育界では)タブーになっているので、この理不尽はいっこうに改まりません。

しかし、「人間は生まれつき能力が違う」と言うのはタブーでも、「人間は年齢によって能力が違う」ということは誰もが認めるでしょう。
ところが、日本の学校は能力の年齢差にすら対処していません。

小学1年生の教室には、6歳児と7歳児がいます。この年齢での1年の違いは大きいものがあり、そのため早生まれ(1月から3月生まれ)は損だといわれます。しかし、その違いは年齢が上がっていくとともに小さくなっていくので、そんなに気にすることではないとされてきました。つまり6歳と7歳の違いは大きくても、15歳と16歳の違いはわずかだというわけです。
しかし、最近の研究で、入学時の差は年齢が上がってもあまり縮まらないということがわかってきました。

朝日新聞は7月に3回にわたって「早生まれは損?」という特集記事を掲載しました。そこからいくつか引用します。
 朝日新聞は、昨夏に開かれた第104回全国高校野球選手権(夏の甲子園)に出場した49校のベンチ入りしたメンバー882人の生まれ月を調べた(登録変更は含まない)。どんな傾向があるのか。

 4~6月生まれ37・8%
 7~9月生まれ29・6%
 10~12月生まれ18・0%
 1~3月生まれ14・6%
高校生になっても生まれ月の影響は歴然としています。

プロ野球の選手、さらにはプロサッカー選手についてはどうでしょうか。

子どもたちが新学年を迎えるこの時期、頭に浮かぶのは、生まれ月がスポーツに与える影響だ。

 ジュニア期における学年内の成長差、体力差の影響が、大人になっても続く。

 プロ野球でみると、2020年に12球団の日本出身の支配下登録選手を、3カ月ごとの生まれ月で分けたところ、4~6月は32%、7~9月は29%、10~12月は22%、そして、1~3月は18%と比率が下がっていた。

 同年のJ1・18クラブの登録選手も、33%→32%→19%→16%。いずれも、統計的には「圧倒的に有意な偏りあり」だった。
なぜこれほどの差が出るのかというと、早生まれの子はスポーツを始めるとほかの子よりできないことに気づいて、すぐにやめてしまうということがあるでしょう。つまり分母の数が違うのです。
では、長く続けると生まれ月の差は縮小していくかというと、必ずしもそうとはいえません。
最初に補欠になった子どもは、自分はこの程度の実力と思い、たまに試合に出ても緊張していい結果が出せません。最初にレギュラーになった子どもは、練習にもやる気が出ますし、試合経験を積んで、実力をつけていきます。最初の差がさらに開いていくということがありえます。


生まれ月の影響はスポーツだけにとどまりません。
3月生まれが入学した高校の偏差値は、同じ学年の4月生まれに比べて4・5低い――。3年前、東京大学大学院の山口慎太郎教授(労働経済学)らがそんな研究を発表し、話題を呼びました。
(中略)
今回の研究では、学力の差もさることながら、「感情をコントロールする力」や「他人と良い関係を築く力」といった非認知能力の差が、学年が上がっても縮まらないことがポイントでもありました。

「鶏口となるも牛後となるなかれ」といいますが、早生まれの子はいきなり「牛後」となって、自分はその程度の存在と思って、一生「牛後」の人生を歩む可能性が高いといえます。


最近では早生まれの不利なことが広く知られてきて、生まれる月を考慮して“妊活”をする夫婦もあるといいます。
インターナショナル・スクールでは、その子の成長の具合を見て、入学を1年遅らせる選択ができるところもあります。
オランダでは、入学の日が決まっていなくて、4歳の誕生日がすぎたらいつでも入学できます(一斉授業ではなく個別授業です)。

早生まれが不利になるような教育制度は、早急に改革しなければなりません。



生まれ月が違えば能力差があるのは当たり前ですが、では、同学年の同月生まれの子はみな同じ能力かというと、そんなことはありません。身体的能力も知的能力も個人差があります。
これは生まれつきの能力差ですから、どうしようもありません。
問題は、能力の違う子どもに一律の教育を行っていることです。
おそらく教師は、平均的な子どもの少し上のところに向かって授業をしているでしょう。中央のボリュームゾーンの子どもはなんとか理解できるかもしれませんが、能力の下の層は理解できなくても放置され、授業中ずっと退屈な時間をすごすことになります(能力のかなり上の層も退屈しているでしょう)。

つまりさまざまな能力の子どもに対して一斉授業をしているために“落ちこぼれ”が生まれて、それが非行、犯罪につながり、また福祉の負担にもなっているということを、前回の「もうひとつのシンギュラリティ」という記事で書きましたが、そのときは文明論の観点から教育制度を批判しました。
しかし、教育制度は急には変わりません。
そこで今回は、今の学校教育制度の中でサバイバルする方法について考えました。


今の教育は、頭のよい子も悪い子もいっしょにして一斉授業をしているという問題に加えて、あらゆることを網羅的に教えているという問題もあります。

読み書き計算は、誰にとっても必要なことです。しかし、今の学校は物理や化学から地理や歴史、美術や音楽まで教えていて、これは誰にとっても必要なことかというと、そんなことはありません。
たとえばフレミングの左手の法則とか元素の周期表とか稲作の伝来ルートとか『源氏物語』とかオーストラリアの首都はシドニーでなくキャンベラであるといったことを子どもは教わりますが、これらの知識は、クイズ以外にはめったに役に立ちません。
もちろん電気関係の道に進めばフレミングの左手の法則の知識が役に立つでしょうし、古典文学が好きな人にとっては『源氏物語』の授業は価値あるものでしょう。しかし、大多数の人にとってはほとんど価値がありません。


網羅的な知識を教える教育に適応していい成績をとる優秀な人間は、最終的に官僚や大企業の総合職になり、一部は学者になり、日本という国を担う人材になります。

それほど優秀でない人間は、この教育を受けると中途半端な人間になりますが、「汎用性のある労働者」として企業には歓迎されるかもしれません。
ただ、苦労して網羅的な知識を身につけた割には報われません。

ちなみに教育基本法の「教育の目的」はこうなっています。

第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

「国家及び社会の形成者」には網羅的な知識が必要と考えられているのかもしれません。

しかし、子どもは「国家及び社会の形成者」になりたいとは思っていませんし、親も子どもを「国家及び社会の形成者」にしたいとは思っていないでしょう。
では、国民は教育になにを求めているかというと、「子どもの幸せ」です。
つまり子どもが将来幸せな人生を送れるような教育をしてほしいと思っているのです。

ここに国家と国民の大きな齟齬があります。
国家は「国のため」の教育をしていて、国民は「子どものため」の教育を望んでいるのです。


人生の第一の目標は、職業人として成功して、ある程度の収入を得て、社会的尊敬を受けることです。
職業といってもいろいろありますが、職業人として成功するのに、たいていは網羅的な知識は必要としません。むしろ逆にひとつのことを深く掘り下げていくことが必要です。

網羅的な知識を得てゼネラリストになるには、そうとうに優秀でなければなりません。たいていの人間はそこを目指すよりも、ひとつのことを深く追究したほうがいいはずです。
ところが、子どもが学校に行くと網羅的な勉強をさせられます。読み書き計算以外のことはほとんど役に立ちそうもないことばかりです。
ですから、子どもに「なんのために勉強するの?」と聞かれた親は、まともに答えることができないので、適当にごまかすしかありません。

子どもが早くに人生の進路を決めれば、網羅的な勉強は必要なく、「選択と集中」をすればいいわけですし、学校に行かないという道もあります。
職業人として成功すれば、学歴などどうでもいいことです。
藤井聡太七冠は高校中退ですが、教養がないなどと批判されることはまったくありません。


ただ、早期に人生の進路を決めるのは容易なことではありません。
本人の資質と環境の組み合わせがうまくいくという偶然にも左右されます。

偶然に左右されるとはいえ、チャンスを拡大するやり方もあります。
私が思うのは、子どもはとにかく好きなことをすることで、親はそれを止めないということです。
子どもがゲームに夢中になると、たいてい親は時間を制限したり、やめさせたりしようとしますが、やりたいことがやれないという不完全燃焼はほかにも影響します。
やりたいだけゲームをやると、たいてい飽きてほかのことに関心が向かいますし、飽きなくても「いつまでもこんなことばっかりやっていてもしょうがない」と考えるようになります。もしいつまでも夢中でやり続けているなら、そこに道が開けるでしょう(ゲーム依存症が心配かもしれませんが、なにかの依存症になるおとなはPTSDが原因なので、子どもも同様のことが考えられます)。

子どもがいろいろなことをやっていれば、将来につながる道を発見するかもしれないので、親はそうした体験の機会を提供することがたいせつです。
習い事をいろいろやるのもいいことですが、子どもにやる気がなかったらすぐにやめることです。
「やりたくないことをやらされる」ということほど心の成長を阻害することはありません。

私はやりたい勉強だけやっていればいいのではないかと考えています。たとえば数学と理科ばかりやるとかです。
もっとも、今の学校制度では不可能ですが。


ところで、これまでの私の主張を「能力別クラス編成」のようなものと思う人がいるかもしれませんが、それはまったくの勘違いです。
能力別クラス編成は学校が子どもを選別するものですが、私が言っているのは、子どもが自分の能力に合った勉強をするということです。

もうひとつ言うと、これまで教育を論じてきたのは頭のいい人ばかりなので、頭の悪い子どものことは眼中になかったようです。
私自身はというと、教育を子どもの側から、さらには頭の悪い子どもの側から見ているわけです。


将来東大に入れそうなほど頭のいい子どもはどんどん勉強すればいいでしょう。
あまり成績がよくないとか、勉強嫌いの子は、「選択と集中」でなにかひとつの道を究めて、将来それで食べていくことを考えるべきです。
そういう道が見つからない子は、とりあえず決められた勉強をして「汎用性労働者」を目指すか、早く就職することです。
あまり頭がよくないのに親にむりやり勉強させられて、三流大学にしか入れなかったというのはいちばんの悲劇で、子どもは挫折感と劣等感を植えつけられ、親を怨むことになります。

このページのトップヘ