村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

カテゴリ: 子どもの復権

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1月16日に静岡県牧之原市で13歳(中学1年生)の少女が実の母を刃物で数か所刺して殺害するという事件が起きました。
文春オンラインの記事には「トラブルの発端は、スマホでのSNSの使い過ぎを母親から注意されたことだったようです。母親が激しく娘を叱責し口論になった後、娘は母親が寝ている時間帯に部屋に入り、犯行に及んだとみられています」と書かれています。

スマホやゲームについては、どこまで子どもに使わせていいのか悩んでいる親が少なくないでしょう。スマホのトラブルだけが事件の原因ととらえるのは単純すぎますが、この事件をきっかけに子どものスマホやゲームの使い方について議論が起こるかと思いました。

「スマホ脳」「ゲーム脳」という言葉があって、スマホやゲームのやりすぎはよくないという説がありますが、一方で、「テレビゲームで遊ぶ子供は認知能力が向上…長期的な影響は不明」という記事に示されているように、テレビゲームをよくする子どもはほとんどしない子どもより認知能力テストで高い成績を示したというデータもあります。
常識的に考えても、夢中でゲームをすれば脳は鍛えられるはずです。
将棋の藤井聡太五冠は5歳で将棋を覚え、それからずっと将棋漬けで“将棋脳”になっているはずですが、まともに育っているように見えます。
スマホについても、ITスキルは今後絶対必要になるので、小さいころから使いこなしていたほうが有利に決まっています。

私の考えでは、ドラッグやアルコールなど体に悪いものは別ですが、人間は基本的にやりたいことをやって悪いことにはなりません。ゲームかなにかに夢中になれば、いずれ飽きて関心はほかに移っていきますし、いつまでも夢中であるなら、それはそれで道が開けます。やりたいことを止められると、ほかのことにも集中できなくなります。

もちろんほかの考え方もあるでしょうから、議論すればいいことです。
ところが、そうした議論はほとんど起きていません。
ネットの書き込みなどには、「子育てに正解はない」「家庭ごとに違ったやり方があっていい」といったものがほとんどです。

つまり今は、教育に関しては親の裁量権が広く認められています。
では、その教育の結果の責任は誰が負うのでしょうか。


刑法の規定では14歳未満の子どもには刑事責任が問えないので、今回の13歳の少女も刑事罰が科されることはなく、今後は家庭裁判所が少女を少年院か児童自立支援施設に送致するか保護観察処分にすることになると思われます。
昔は16歳未満は刑事責任が問えないとなっていたのですが、1997年にいわゆる酒鬼薔薇事件が起きて厳罰化を求める世論が高まり、少年法改正によって14歳未満となりました。
しかし、13歳による殺人が起きたわけです。

少年に刑事罰を科さないのは、少年は更生しやすいので、罰よりも教育や保護のほうが効果的だということからです。
しかし、おとなは罰されるのに少年は罰されないのはおかしいと考える人もいます。それに、刑事責任年齢が14歳となっていることにも根拠がありません。
少年の刑事罰の問題は論理的にすっきりしません。
なぜすっきりしないかというと、たいせつなことがすっぽりと抜け落ちているからです。
それは「おとなの責任」です。

13歳、14歳の子どもといえば、親または親の代理人の完全な保護監督下に置かれ、教育・しつけを受けていて、さらに教師による教育も受けています。もしその子どもが犯罪やなにかの問題行動を起こしたら、親と教師に責任があると考えるのが普通です。
ですから、子どもの責任を問わない分、おとなの責任を問うことにすれば、論理的にすっきりします。
まともな親なら「この子に罪はない。代わりに私を罰してくれ」と言うものです。

ところが、今の世の中は「おとなの責任」は問わないことになっています。
13歳の少女の場合も、母親がスマホの使いすぎを注意したことの是非を論じると母親の責任を問うことになりそうですから、そういう議論自体が封じられています。

このケースは母親が亡くなっているので、母親の責任を問う意味がないともいえますが、亡くなっていないケースでも同じです。

酒鬼薔薇事件の場合は、少年Aは両親(とくに母親)にきびしくしつけされていましたが、マスコミは両親の責任をまったく追及しませんでした。両親が弁解を書き連ねた『「少年A」この子を生んで』という本を出版しても、それをそのまま受け入れました。

昨年1月15日、大学入学共通テストの日、試験会場となった東大前の路上で17歳の少年が刃物で3人に切りつけて負傷させるという事件がありました。少年は愛知県の名門高校に通う2年生で、犯行時に「東大」や「偏差値」という言葉を叫んでいました。親や学校が少年に受験のプレッシャーを過剰に与えていたのではないかと想像されますが、やはりそうしたことは追及されませんでした。

マスコミは「子どもは親と別人格」という論理を用いて、事件を起こした少年への批判が親に向かわないようにしています。
しかし、そういう論理が通用するのは社会の表面だけです。水面下では親のプライバシーをあばいて、人格攻撃する動きが活発に展開されます。

私が「おとなの責任」をいうのは、親への人格攻撃を勧めているのではありません。
親が子どもにどういう教育をしたかを明らかにして、ほかの親の参考になるようにすることを目指しています。


「おとなの責任」をないことにするのは、学校のいじめ問題にも表れています。

『「法律」でいじめを見ると…弁護士が小学生に出張授業 認識変わるきっかけに【鹿児島発】』という記事において、弁護士が小学生に対して『「いじめ」は、一つ一つの行動を取って見ると、実はそれを大人がやったら犯罪になる行為。たたいたり蹴ったりする行為は、「暴行罪」という犯罪になります』と言うと、小学生はいじめの重大性を認識して真剣な表情になったなどと書かれています。
しかし、弁護士なら「おとながしたら暴行罪という犯罪になる行為も、子どもがしたら犯罪になりません。なぜでしょうか。それは、おとながあなたたち子どもをたいせつにしたいと思うからです」とでも言うべきです。

そもそもは弁護士が子どもに対して出張授業をするのが間違っているのです。同じするなら親と教師に対してするべきです。
親や教師に向かって「おとながしたら暴行罪という犯罪になる行為も、子どもがしたら犯罪になりません。なぜでしょうか。それは、あなたたち親や教師に責任があるからです」と言えば、親や教師の意識が改善され、いじめ防止にもつながるかもしれません。
いじめというのは、学校という檻の中で起こるのですから、檻の設置及び管理をする文科省、教師、親に責任があります。


しかし、おとなは「おとなの責任」を認めたくないので、あの手この手でごまかしをします。
たとえばひろゆき氏は1月19日に次のようなツイートをしました。

人間だけでなくイルカやカラスなどの動物もイジメをします。大人でもイジメはあります。
「イジメを無くそう」という綺麗事は、イジメられてる子には無意味です。
綺麗事ではない現実的な解決策を大人は伝えるべきだと思うんですよね。

イルカやカラスのいじめがどういう状況のことをいっているのかよくわかりませんが、おとな社会のいじめと学校のいじめは数がまったく違います。
2021年度の小中高校などにおけるいじめの認知件数は61万5,351件と過去最多となりましたが、この数字もすべてとはいえません。一般社会でのいじめの件数の調査はありませんが、会社でのいじめが学校でのいじめより少ないのは明らかです。若いタレントさんがデビューまでのいきさつを語るのをテレビで見ていると、みな判で押したように学校でいじめられていたと言います(少なくとも8割ぐらいは言います。私個人の感想ですが)。また、同窓会に行くと自分をいじめた人と会うので行きたくないという声をけっこ聞きますが、こういう人は社会ではいじめにあっていないのでしょう。

ひろゆき氏はさらに次のようにツイートしました。

フランスは「イジメをする人に問題がある」と考え、加害者側がクラスを変えられたりします。
日本は被害者が学校を変える事を勧められたり、中学の校長が自殺した子に
「イジメはなかった。彼女の中には以前から死にたいって気持ちがあったんだと思います」と責任転嫁。


加害者がクラスを変えるのでは、新しいクラスでいじめをするだけではないかという疑問はさて置いて、ひろゆき氏は「イジメをする人に問題がある」というフランス式の考えに賛同して、いじめをする子どもに責任を負わせています。校長も批判していますが、これはいじめをする子どもに責任を負わせないことを批判しているのです。
いじめをする子どもに責任を負わせれば、「おとなの責任」はないことになります。

親や教師は「いじめはよくない」ということを教えているはずです。それでいじめが起これば、教え方が悪かったわけで、教えた者の責任が問われるべきです。

「特別の教科道徳」が小学校では2018年度から、中学校では2019年度から実施され、文科省の「小学校学習指導要領解説」に「今回の道徳教育の改善に関する議論の発端となったのは,いじめの問題への対応であり,児童がこうした現実の困難な問題に主体的に対処することのできる実効性ある力を育成していく上で,道徳教育も大きな役割を果たすことが強く求められた」と書かれているように、道徳教育の大きなねらいはいじめの防止でした。
ところが、いじめの認知件数は過去最高を更新したわけです。
明らかに道徳教育の失敗ですが、誰も責任を取ろうとしません。いや、責任を問う声すら上がりません。おとなはみな「おとなの責任」をないことにしたいのです。

いじめ発生の原因は明白です。
学校生活は、長時間の退屈な授業と無意味な規律の強制で檻の中で生活しているも同然です。
ニワトリは限度を越えた狭いケージで飼われると、ストレスから互いの体をつつき合って、弱い個体は全身の羽根を抜かれてしまいます。
学校のいじめもそれと同じです。どちらがいじめているかはたいした問題ではありません。

ですから、いじめ対策としては、一斉授業から個別授業へ、無意味な規則の廃止といったことが重要です。

家庭でのストレスも学校でのいじめの原因になります。
たとえばスマホやゲームを禁止されることもストレスです。
親が子どものスマホやゲームを禁止するなら、ちゃんと理由を示して子どもを納得させなければなりません。
今回の13歳の少女の事件については、そこが欠けていたかと思われます。


子どもが納得しないことを親が強制するのは、今は普通に行われていますが、いずれ親によるパワハラと認定されるでしょう。
昔は当たり前とされた親による体罰が今は虐待と認定されるのと同じことです。
これからは「おとなの責任」が問われる社会になるはずです。

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家庭で虐待された少女の支援活動をしている一般社団法人「Colabo」の会計に不適切なところがあると指摘されたことがきっかけで、ネット上で大きな騒ぎになっています。
都に住民監査請求をしてこの問題に火をつけた「暇空茜」を名乗る人物はインタビュー記事で「もはやこれはネット界における『大戦』です。ロシアとウクライナの戦争と同じで、話し合いなど通用しない」と言いました。

Colaboには東京都が21年度に2600万円の支援金を支出しているので、公金の問題であるのは事実です。しかし、上のインタビュー記事を見てもわかりますが、不適切な支出といってもそれほどのことではありませんし、そもそも一社団法人の問題です。それがなぜ大騒ぎになるのでしょうか。


家庭で虐待されて逃げ出した少女は、そのままだと犯罪の被害者になりかねません。Colaboはとりあえず少女を救う小規模なボランティア活動から始まりました。
ボランティア活動や慈善活動などをする人は、とりわけネットの世界では「偽善」とか「売名」とかの非難を浴びせられます。若いころから被災者援助や刑務所慰問などをしてきた杉良太郎氏などは、あまりにも非難されるので、自分から「偽善で売名ですよ」などと開き直っています。
ですから、もともとColaboを「偽善」だと非難したい人たちがいて、会計不正疑惑が生じたことで一気に表面化したということがあるでしょう。

それから、Colabo代表の仁藤夢乃氏はメディアに登場することも多く、フェミニスト活動家と見なされていて、Colaboを支援する人たちもフェミニストが多いようです。
それに、Colaboが援助の対象とするのは少女だけです。
こうしたことから男とすれば、フェミニストたちが勝手なことをやっているという印象になるのかもしれません。

しかし、救済するべき少年少女は多数いて、Colaboの力は限られていますから、救済の対象を限定するのはしかたないことです。
むしろ問題は、少年を救済するColaboのような組織がないことです。

フェミニズムというと、どうしても男対女ということになりますが、Colaboの活動は子どもを救済することですから、おとな対子どもととらえるべきです。
そして、おとな対子どもには大きな問題があります。


日本の自殺は全体として減少傾向ですが、子どもの自殺は増加傾向で、とりわけ2020年度の全国の小学校、中学校、高校の児童生徒の自殺は415人と、19年度の317人と比べて31%の大幅な増加となりました。
子どもの自殺というと、学校でのいじめが自殺の原因だというケースをマスコミは大きく取り上げますが、実際はいじめが原因の自殺はごく少数です。
自殺の原因の多くは家庭にあります。コロナ禍で休校やリモート授業が増えた中で自殺が増えていることからもそれがわかるでしょう。

家庭で虐待された子どもは家出やプチ家出をします。児童養護施設などはなかなか対応してくれませんし、子どももお役所的な対応を嫌います。
泊まるところのない少女は“神待ち”などをして犯罪被害にあい、少年は盛り場をうろついて不良グループに引き込まれ、犯罪者への道をたどるというのがありがちなことですし、中には自殺する子どももいます。
ですから、子どもの自殺を防ぐには、虐待されて家庭にいられない子どもの居場所をつくる必要があります。私は「子ども食堂」があるように「子ども宿泊所」がいたるところにあって、家で煮詰まった子どもが気軽に泊まれるようになっていればいいと考えました。そうすればとりあえず自殺は防げますし、深刻な状況の子どもを宿泊所を通して行政の福祉につなげることもできます。そういうことを、私は「子どもの自殺を防ぐ最善の方法」という記事で書きました。

そのとき調べたら、家出した子どもに居場所を提供する活動をしているのはColaboぐらいしかありませんでした。ほかにないこともないでしょうが、少なくともColaboは先駆者であり、圧倒的に存在感がありました。

ですから、Colaboみたいな組織がもっともっと必要なのです。
Colabo批判は方向が逆です。


ところが、「家庭で虐待された子どもを救済する」ということに反対し、足を引っ張ろうとする人がいます。
どんな人かというと、要するに家庭で子どもを虐待している親です。

幼児虐待というと、マスコミが取り上げるのは子どもが親に虐待されて死んだとか重傷を負ったといった事件だけです。
こうした事件は氷山の一角で、死亡や重傷に至らないような虐待は多数あります。
2020年度に全国の児童相談所が相談対応した件数は約20万5000件でした。しかし、この数字もまだまだ氷山の一角です。

博報堂生活総合研究所は子どもの変化を十年ごとに調査しており、2017年に発表された「こども二十年変化」によると、「お母さんにぶたれたことがある」が48.6%、「お父さんにぶたれたことがある」が38.4%でした(小学4年生から中学2年生の男女800人対象)。その十年前は、「お母さんにぶたれたことがある」が71.4%、「お父さんにぶたれたことがある」が58.8%で、さらにその十年前は「お母さんにぶたれたことがある」が79.5%、「お父さんにぶたれたことがある」が69.8%でした。つまり昔はほとんどの子どもが親から身体的虐待を受けていたのです。

最近は体罰批判が強まり、身体的虐待はへってきましたが、心理的虐待はどうでしょうか。
心理的虐待は客観的判断がむずかしいので、アンケートの数字で示すことはできません。
子育てのアドバイスでよくあるのは「叱るのではなく、ほめましょう」というものです。また、子育ての悩みでよくあるのが「毎日子どもを叱ってばかりいます。よくないと思うのですが、やめられません」というものです。
こうしたことから子どもを叱りすぎる親が多いと思われます。
きびしい叱責、日常的な叱責は心理的虐待です。

これまでは体罰もきびしい叱責も当たり前のこととされ、幼児虐待とは認識されませんでした。
ですから、家出した子どもは警察が家庭に連れ戻しましたし、盛り場をうろついている子どもは少年補導員がやはり家庭に連れ戻しました。
社会全体で虐待の手助けをしていたわけです。

そうしたところにColaboが登場し、虐待された子どもを虐待された子どもとして扱うようになりました。
これは画期的なことでした。
そして、虐待していた親にとっては不都合なことでした。
これまでは虐待した子どもが家から逃げ出してもすぐに連れ戻されて、なにごともなかったのに、今は逃げ出した子どもはどこかで保護され、子どもが逃げ出したのは家庭で虐待されからだとされるようになったからです。
ですから、虐待している親、虐待を虐待と思っていない人たちは前からColaboに批判的で、会計不正疑惑をきっかけにそういう人たちがいっせいに声を上げたというわけです。


虐待のある家庭を擁護する勢力の代表的なものは統一教会(現・世界平和統一家庭連合)です。
統一教会の信者の家庭の多くは崩壊状態で、子どもには信仰の強制という虐待が行われています。しかし、創始者の文鮮明が「家庭は、神が創造した最高の組織です」と言ったように「家庭をたいせつにする」ということが重要な教義になっていて、最近は家庭教育支援法の制定に力を入れています。
「家庭をたいせつにする」という点では自民党も同じで、安倍晋三元首相も家庭教育支援法の制定を目指していました。
統一教会や自民党にとっての「家庭」というのは、親と子が愛情の絆で結ばれている家庭ではなくて、親が子ども力で支配している家庭です。
これを「家父長制」といいます。

今、Colabo問題が大きな騒ぎになっているのは、家父長制を守ろうという勢力と、家父長制を解体して家族が愛情の絆で結ばれる家庭を再生しようという勢力がぶつかり合っているからです。
そういう意味ではまさに「大戦」です。
これは政治における最大の対立点でもあります。


なお、こうした問題をとらえるにはフェミニズムだけでは不十分です。
家父長制は男が女を支配する性差別と、おとなが子どもを支配する子ども差別というふたつの差別構造から成っています。
フェミニズムは性差別をなくして女性を解放しようという理論ですから、それに加えて、子ども差別をなくして子どもを解放しようという理論が必要です。
たとえば母親が男の子を虐待するというケースはフェミニズムではとらえられません。

幼児虐待、子育ての困難、学校でのいじめ、登校拒否などの問題も「子ども差別」という観点でとらえることができます。
そうした観点があれば、幼児虐待から子どもを救うColaboのような運動に男性も巻き込んでいくことができるはずです。

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長野市の青木島遊園地という公園が近隣から「子どもの声がうるさい」という苦情があったために来年3月に廃止されるという報道があると、さまざまな反応があって、大きな話題となりました。

子どもが公園で遊べばさまざまな声を出すのは当然です。昔から子どもはそうしてきました。家の近くの道路や空き地でも同じです。
「子どもの声がうるさい」という苦情がふえているのは、子どもの声は変わらないのですから、不寛容なおとながふえてきたということです。
ですから、問題を解決するには、不寛容なおとなを寛容なおとなに変えていくしかありません。
ところが、この公園廃止問題を追及することがさらに不寛容なおとなをふやす方向にいっています。


日刊スポーツの記事によると、お笑い芸人の千原せいじ氏は自身のインスタグラムにおいて、長野市の青木島遊園地が来年3月に廃止されるというネットニュースのスクリーンショットを載せ、『「変な街」とつづり、「#千原せいじ #変な街 #住みたくない街 #市議会議員どないしたんや #恥ずかしい」とタグを並べた』ということです。

行政や市会議員を批判するのはわかりますが、「変な街」とか「住みたくない街」という発想には驚きました。
私は日本人全体の傾向がたまたまこの街に強く出ただけと思いましたが、千原せいじ氏は街を悪者にしています。こういう発想が日本の分断を招くのだなと、ある意味感心しました。

やがて「子どもの声がうるさい」という苦情は一件だけだったという情報があり、行政の対応に批判が集まりましたが、さらにその一件は信州大学の名誉教授だという情報が出て、今度は名誉教授にも批判が集まりました。

ひろゆき氏は「子供の公園を許容出来ない人は名誉教授に相応しいですか?」とツイートするとともに、信州大学名誉教授称号授与規程として「第7条 名誉教授にふさわしくない行為を行った場合は,教育研究評議会の議を経て,名誉教授の称号を取り消すことができる」という文を引用しました。
名誉教授の称号を取り消せと言わんばかりです。
このように個人攻撃をあおるのは、いかにも2ちゃんねる創始者のひろゆき氏らしいやり方です。

「子どもの声がうるさい」と言うクレーマーに対して、「クレーマーの声がうるさい」と反応するのは「不寛容の連鎖」です。これでは事態はどんどん悪くなります。
クレーマーの心を解きほぐすような対応が必要です。

スポニチの記事によると、モデルでタレントのトリンドル玲奈さんは12月9日、コメンテーターを務めるTBS系「ひるおび!」において、クレーマーの名誉教授に対して「その人も子供の時代があったわけじゃないですか。きっと子供の時は声を上げて遊んでいただろうし、今の子供たちも声というのを騒音と捉えるのはちょっと違うんじゃないかなと思います」と発言しました。

「自分も子ども時代は声を上げて遊んでいただろう」とクレーマーに指摘することは、自分を見つめ直し、寛容な心を取り戻すきっかけになることがあります。
しかし、そうならないことのほうが多いでしょう。というのは、クレーマーは子ども時代に「うるさい」と親や周りのおとなから叱られていた可能性が大きいからです。つまり「不寛容の世代連鎖」があると想像できます。そういう人は子ども時代のことを回想しても効果はなく、逆効果になるかもしれません。


ところで、騒音問題というのは、音の大きさだけで決まるのではありません。
人間は風の音、川のせせらぎ、波の音、小鳥のさえずりなどの自然音は不快には感じません。むしろ癒されます。
子どもの遊ぶ声というのは小鳥のさえずりと同じ自然音ととらえてもいいはずです。
少なくとも昔の人間はそのような感覚だったのではないでしょうか。
文明社会は激しい競争社会なので、おとなに強いストレスがかかり、それがいちばん弱い子どもに向かって発散される傾向があります。

近所のピアノの音がうるさいという問題もありますが、これも決して音だけの問題ではなくて、ピアノを弾く人と聞く人の人間関係に左右されます。
ピアノを弾く人に好感を持っていれば、へたなピアノの音も不快に感じません。「前よりちょっとうまくなったな」などとほほえましく思ったりします。しかし、ピアノを弾く人を嫌っていると、かりにピアノがすごくうまくても、その音が不快に感じるものです。

ですから、「子どもの声がうるさい」というのも、決して音量の問題ではないのです。


現在の公園廃止の議論は、子どもを無視して行われています。
たとえばスポニチの記事によると、お笑いコンビ「ロザン」がYouTubeチャンネルにおいてこの問題を取り上げ、「“子供は宝、子供は天使”とみんなが思うってのは違う。全部許容すべきだという論調でいっても解決しない」「例えば、何曜日の何時から何時までは使っていいよ、とか、“グレー”を探したのかなと」「当事者同士でやってた時のような、中間を取った答えを出した方がいい。第三者が入ったら、“子供は禁止”か“子供は宝”のどっちかのジャッジしかなくなる」といった議論をしました。
つまり「子どもの声がうるさい」という人と「子どもを遊ばせたい」という人が話し合って、中間の結論を出すのがいいというわけです。

誰からも批判されない無難な意見のようですが、根本的な問題は、子どもが排除されているところです。おとなの意見を平均すると、その着地点は子どもからは遠いところになってしまいます。


日本は子どもの意見がまったく排除されているところが異常です。
意見だけでなく子どもの存在感もありません。

昔は地域社会のつながりがあって、おとなが近所の子どもを見ると、「山田さんちの下の子だ」といった認識があって、声をかけたりしていました。
そうするとおとなも自然と子どもに寛容になったはずです。
今は都会ではそうしたつながりはきわめて薄くなりました。

ここはメディアの出番です。
青木島遊園地の問題がこれだけ騒がれたのですから、テレビが近所の子どもたちにインタビューして、公園廃止についてどう思うかと聞けばいいのです。
「公園をなくさないでほしい」とか「遊ぶ場所がなくなって不便」といった切実な声が上がれば、「子どもの声がうるさい」という声を打ち消すことになるかもしれません。
もうすでに公園で遊ぶ子どもは少なくなっていたということですから、案外「公園なんかなくてもかまわない」という意見が多いかもしれませんが、それはそれでいいことです。
要は当事者である子どもの意見を聞くことがたいせつです。
子どもが顔を出して意見を言うことで、おとなも子どもの存在を意識して、配慮するようになるはずです。

ところが、「子どもが意見を言う」ということが日本では異常に嫌われます。
たとえば14歳のYouTuber「少年革命家」のゆたぼんさんは「不登校の自由」などを主張して年中炎上していますし、現在21歳の女優の春名風花さんは、9歳からツイッターを始めて政治社会の問題にも発言して数々の炎上を引き起こしましたし、現在19歳の環境活動家グレタ・トゥーンベリさんは、15歳のときに「気候のための学校ストライキ」を行い、国連で演説するなどして世界的な注目を浴びましたが、日本では「生意気」「親のあやつり人形」など非難の嵐でした。

子どもの意見表明権は子どもの権利条約でも認められています。
第12条
1.締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。

しかし、メディアだけでなく学校でも子どもの意見はまったく無視されています。
おそらく子どもの意見を聞くと、「なぜ勉強しなきゃいけないの」「なぜ学校に行かなきゃいけないの」などと面倒なことを言うのを恐れているのでしょうが、こういう意見に向き合うことでおとなも成長します。

なお、子どもの権利条約には子どもの「遊ぶ権利」も規定されています。
第31条
1.締約国は、休息及び余暇についての児童の権利並びに児童がその年齢に適した遊び及びレクリエーションの活動を行い並びに文化的な生活及び芸術に自由に参加する権利を認める。

代替措置もせずに子どもの遊び場を廃止することは、子どもの遊ぶ権利の侵害です。


考えてみれば、「子どもの声がうるさい」という不寛容なおとなを寛容なおとなに変えるのは、人間の内面の問題ですから、けっこうたいへんです。
それよりも「子どもの権利」を押し立てて社会を表面から変えていくほうが簡単かもしれません。

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自民党と統一教会は、昔は反共主義でつながっていましたが、今は家族観でつながっています。

では、自民党の家族観はどういうものかというと、少なくとも自民党保守派においては、要するに家父長制を理想とする家族観です。
家父長制というのは、家長が権力を持って家族を統率する制度とされますが、家庭内に身分制があると考えるとわかりやすいでしょう。夫が妻より上で、男の子が女の子より上で、同じ男の子でも年長者が上というように、まるで軍隊のように上下関係が定められた家族です。
ですから、父親は家の中でふんぞり返って、妻には一方的に命令し、子どもにはげんこつを食らわして、わがままのし放題でした。
実際、昔は今よりもDVが横行していました。

自民党の男たちは今でもそういう家父長制がいいと思っているのですが、「家父長制」という言葉は使わずに、「昔は家族の深い絆があった」というふうに言います。
しかし、だんだんと説得力がなくなってきました。

そこで登場したのが、科学的な装いで家父長制を正当化しようという「親学(おやがく)」です。


親学を創始したのは高橋史朗麗澤大学客員教授です。2001年に「親学会」を発足させました。
高橋氏は、オックスフォード大学のジェフェリー・トーマス学長が「学校でも大学でも教えていないのは、親になる方法だ」と発言したことに触発されたと言っています。
もっとも私は、トマス・ゴードン著『親業』という本に触発されたのではないかと疑っています。
この本が日本で1980年に出版されたときは、「親業(おやぎょう)」という言葉にひじょうなインパクトがありました。
「親業」というのは、子育てに悩む親のためのトレーニング法で、傾聴と受容というカウンセリングの技法を学ぶことで子どもとよいコミュニケーションをとれるようにしようというものです。
親業は親学とは真逆のものなので、混同してはいけません。

2006年には親学推進協会が設立され、2009年には一般財団法人として登記されます。講演会や研修会を通しての親学の普及、親学アドバイザーという資格の認定などの活動を行ってきました。

ところが、改めて親学推進協会のホームページを見ると、協会の解散が告知されていました。今年解散したということです。
告知には「当協会は、一般財団法人に関する法律に定めるところの財団法人維持の為の諸条件を満たすことが叶わず、解散手続きに入らざるを得なくなりました。これは理事会の力不足が招いたことと深く反省しております」とあります。
調べると、「2期連続で純資産の額が300万円未満となった一般財団法人は解散」という法的規定があるので、それが解散事由のようです。
講演活動などの収入のほかに協賛企業からの寄付などもあるはずなので、不可解なことではあります。
ただ、今後のことについては『一般財団法人としては解散を致しますが、新たにNPO法人を設立し、「親学」を推進する予定です』とあります。


親学関連本はいろいろありますが、おそらくもっとも重要なのは2004年出版の『親学のすすめ』(親学会編・高橋史朗監修)と思われるので、この本に基づいて親学について論じたいと思います。

この本は7人の筆者が分担執筆していますが、「まえがき」と最後の第8章、第9章は高橋氏が執筆していて、高橋氏がまとめ役であることがわかります。
高橋氏以外の執筆者の書くことは、子どもの発達の科学的研究についてや、子育てについてのアドバイスなどで、そこにはそんなにおかしなことは書かれていませんし、むしろ共感できることが多々ありました。
おそらくほかの親学関連本にもそうした評価すべき部分はあると思われます。
しかし、親学は高橋氏が中心になって推進する政治運動、社会運動なので、その中にいるとその色がついて見られるでしょう。まともな専門家、学者は親学に関わることを考え直したほうがいいと思われます。

では、高橋氏の思想はどういうものかというと、第8章の冒頭はこうなっています。
現在、「家庭教育はいかにあるべきか」という社会的なコンセンサスが失われており、家庭での教育力が著しく低下しています。
私は家庭教育の話をするときに、「しっかり抱いて、下に降ろして、歩かせろ」と必ず話すのですが、三十代以下の学校の先生も親も、その言葉自体を知らないのが現状です。
日本人には日本人独特の「文化の遺伝子」があり、それが綿々と受け継がれているはずです。その「文化の遺伝子」が現在はうまく継承されておらず、スウィッチ・オフの状態になっていることが子供たちの心の荒廃、アイデンティティーの危機の根因であり、家庭の教育力の低下、家族の機能不全の要因になっているのではないかと思っています。

現在は家庭の教育力が低下している――というのはよく言われることですが、根拠がなく、「昔はよかった」と同じです。
それから、日本人独特の文化について述べていますが、幼児の発達に国や民族の違いはありません。正しい子育ては万国共通のはずです。現にアメリカの『スポック博士の育児書』は日本でもベストセラーになりました。
高橋氏は保守思想の持ち主なので、日本独自の文化にこだわって、むりやり子育てにも持ち込もうとしているのです。

ともかく、高橋氏は自分の思想の正当性を主張したいがために、平気で論理をねじ曲げます。

「桃から生まれた桃子」(神奈川県・市町村女性行政連絡会発行)という話があるそうです。桃太郎の話を男女逆転させて、おじいさんは川へ洗濯に、おばあさんは山へ柴刈りに、という話です。もとの話を知っている子どもたちにこの話をして、感想を求めたところ、「おじいさんはずるい」と書いた子がいたそうです。その子どもになぜずるいと思うのかと聞くと、柴刈りは楽な仕事で、おじいさんはおばあさんに今までたいへんな洗濯ばかりやらせていたからだと答えたそうです。
高橋氏はこのことから「洗濯はいやな仕事で、柴刈りは楽な仕事だと思わせてしまう教育が存在するということが分かります」と書いています。
こうしたジェンダーフリーの教育はけしからんというのが高橋氏の主張です。

しかし、この部分をよく読むと、「おじいさんはずるい」と書いた子は一人だけのようです。
たった一人、ちょっと変わった感想を書いた子がいただけで、それを根拠にジェンダーフリー教育をすべて否定するという論法になっています。

高橋氏は性教育についても同じ論法を使用します。
例えば国立市の小学校一年生の三クラスでは、児童に両性具有の性器について教えましたが、子供は混乱しました。まず基礎を教えて、例外を教えるのが順序のはずですが、一年生がいきなり両性具有と聞いたら、なんのことであるのか分からないはずです。
(中略)いきなり特殊な例を教えるのはなぜかというと、男でもない女でもない人間がいるということを刷り込もうというねらいがあるわけです。男でもない女でもない存在を知らせることによって、男と女という固定的な役割分担意識を解消していこうというねらいです。急進的性教育とジェンダーフリー教育の目的はこの点で一致しているのです。
両性具有の性器について教えたり、性交人形で性交指導をすることが、どのような影響を与えるかを十分に検討することなく、いわば見切り発車してしまっているのです。子供に悪影響が出た場合にいったい誰が責任を取るつもりなのでしょうか。
実際、いくつかの県で小学校六年生の女の子が「性交ごっこ」で妊娠するという事件も起きています。四年生で妊娠したという例もあるのです。性交教育の授業が実践されて、妊娠という事態が起きてしまったのです。

児童に両性具有の性器について教えたといいますが、これも「国立市の小学校一年生の三クラス」だけのことです。
小学生が妊娠したのも数例のようです。それらの例と性教育との因果関係がわかっているのでしょうか。おそらくわかっていないはずです。今は性の情報があふれているので、そちらとの因果関係が否定できません。

高橋氏は自分の主張を押し通すために論理をねじ曲げますが、それだけではありません。「脳科学」を利用します。
高橋氏は「私の問題意識のポイントの一つは、『脳科学』から『親学』をどのようにとらえていくかということです」と書いています。
ところが、脳科学界の定説や最近の趨勢から親学を論じるのではなくて、脳科学者の説の都合のいい部分だけを利用します。

たとえばこんな具合です。

澤口俊之教授は、五百万年のヒト進化の歴史から「父親の役割」を研究すると、家庭の安定化を図り、子供に社会的規範を植え付けることであったと述べています。脳科学によって明らかにされた父親と母親の役割を否定するジェンダーフリーの主張はまったく根拠のないものです。

澤口俊之教授は「ホンマでっか!?TV」によく出演している脳科学者ですが、最近は教育についての本をよく書いていて、『発達障害を予防する子どもの育て方』という本は「発達障害は予防できるのか」と物議をかもしました。
この短い文章からはどうやって「父親の役割」を研究したのかわかりませんが、いずれにしても、一人の脳科学者の説を科学的真実と見なすという論法を使っています。

ほかにも「脳トレ」シリーズで有名な川島隆太教授や、『ゲーム脳の恐怖』という著書のある森昭雄教授の説などが引用されますが、自説の箔づけに使っているという感じです。

しかも、微妙に意味を変えています。とくに「母親」という言葉には注意が必要です。

「脳科学と教育研究」ワーキンググループの小泉英明氏((株)日立製作所)は、平成十四年七月十一日に開催された自民党文部科学専任部会において、「フランスとの共同研究では、胎児が母親のおなかの中で、言葉の学習を始めたり、生後五日以内の新生児も言葉を認識することが分かっている。教育は幼いころから始めることが重要である」と指摘しています。
   ※
ユニセフ(国連児童基金)の二〇〇一年『世界子供白書』には、次のように明記されています。
(中略)
母親が手のひらで隠していた顔を突然のぞかせたとき、強い期待をもって見つめていた赤ちゃんが喜びの声をあげるのを見たことがあるだろうか。この簡単に見える動作が繰り返されるとき、発達中の子どもの脳のなかの数千の細胞が数秒のうちにそれに反応して、大いに劇的に何かが起こる。脳細胞の一部が「興奮」し、細胞同士をつなぐ接合部が強化され、新たな接合が生まれる。
   ※
脳科学の専門家で、日本大学の森昭雄教授の『ゲーム脳の恐怖』(NHK出版)によれば、赤ちゃんの脳発達は母親の接し方によって非常に大きく左右され、三歳ごろまでにニューロン(神経細胞)の樹の枝のように伸びている樹状突起がさまざまなニューロンと連絡するようになり、脳内の神経細胞と神経細胞の接点(シナプス)がこの時期の母親からの刺激によって次から次へと形成されて、脳全体が急激に増殖し、八歳ごろまでに九〇%の成長を遂げるといいます。
胎児と母親の関係は変えるわけにはいきませんが、「いないいないばあ」をするのは母親でも父親でもいいはずですし、赤ちゃんの脳発達も母親と接するのでなければならないということはないはずです。

ところが、高橋氏はこれらのことから「つまり、脳科学の最新の研究成果から『三歳児神話』は決して根拠のない『神話』ではなく、母親による家庭保育の重要性は多くの科学的研究によって証明されているのです」と書きます。
「母親による家庭保育の重要性」と書くと、「父親による家庭保育」は重要でないということになるでしょう。
高橋氏の主張では、父親が母親に代わって子どもの世話をすると、脳の発達が遅れることになりそうです。

家父長制のもとでは、父親と母親の役割や立場は明確に区別されていたので、父性と母性の違いも明確でした。しかし、男女平等になり、父親の育児参加が行われるようになると、父性と母性の区別は無意味になりました。
しかし、高橋氏は家父長制の立場なので、どうしても父性と母性を区別しなければならず、むりやり脳科学に根拠を求めたのです。

家父長制では親と子も上下関係になります。子どもは一方的に親に従うだけです。
そうした考えも高橋氏は書いています。

私は家庭教育、例えば三歳児まではやはり親のしつけが絶対に必要だと思います。つまりそれは他律です。子供の興味関心に従ってしつけをするわけではありません。とりわけ三歳ぐらいまではいわば強制です。この他律や強制ということから家庭教育がスタートして、だんだん自律に導いていくのが教育です。

馬脚を現すとはこのことでしょうか。この考え方はそのまま幼児虐待につながります。
親学は子どもをたいせつにするものでもなんでもなく、おとなが勝手な主張を並べ立てるだけのものだったのです。
親学の運動に参加している人の多くは子どものためという気持ちがあるでしょうが、親学の内実はそうではないということを知らねばなりません。

親学といえば、「発達障害は予防できる」という主張で炎上したことがあります。脳科学を都合よく利用してきた報いです。

一方で、高橋氏は宗教も利用しています。
「神さまが男と女を創ったということは、『男』であること、『女』であることを含み込んだ個性に意味があるからなのです」などと書いています。
また、人間は膨大な数の遺伝子の調和によって生きており、その背後には人知を超えた「サムシング・グレート」があるとも言っています。「サムシング・グレート」というのは、アメリカの保守派が神の代わりに持ち出す「インテリジェント・デザイン」みたいなものです。

自民党の保守派、アメリカの保守派、統一教会、親学――みな家父長制、宗教、非科学でつながっています。

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乃木希典像と東郷平八郎像

明治時代になって学校制度が始まると、それまで寺子屋で伸び伸びと学習していた子どもたちは、規律ある学校に通わされるようになりました。
規律が重視されたのは兵士と産業労働者を育成するためなのに、今も同じ規律重視の学校教育が行われているのはまったく時代遅れだということを、前回の「“ゆたぼんアンチ”に伝えたいこと」という記事に書きました。
教育が時代遅れだと、時代遅れの人間が量産され、国全体が時代遅れになってしまいます。

明治政府は学校制度を始めただけでなく、家庭教育の改革も行いました。
明治政府が理想とした家庭教育はどんなものでしょうか。
それを知るには、国定教科書に載った乃木希典大将の子ども時代の話が参考になります。
乃木大将の話は修身の教科書と国語の教科書に載り、当時の日本人はみな知っていました。
この話はネット上には出ていないので、ここに全文を書き写します。

乃木大将の幼年時代
乃木大将は、幼少の時体が弱く、其の上臆病であつた。幼名を無人(なきと)といつたが、寒いと言つては泣き、暑いと言つては泣き、朝晩よく泣いたので、近所の人は、大将のことを、無人ではない泣人(なきと)だと言つたといふことである。
大将の父は、長府藩主に仕へて、江戸で若君のお守役をしていたが、自分の子供がかう弱虫の泣虫では、第一藩主に対しても申しわけがない、どうかして子供の体を丈夫にし、気を強くしなければならないと思つた。
そこで、大将が四五歳の時から、父はうす暗い中に大将を起して、往復四粁もある高輪の泉岳寺へよく連れて行つた。泉岳寺には、名高い四十七士の墓がある。父は、途々義士のことを大将に話して聞かせて、其の墓に参詣したのである。
或年の冬、大将が思わず「寒い。」と言つた。父は、
「よし。寒いなら、暖かくなるようにしてやる。」
と言つて、大将を井戸端へ連れて行き、着物をぬがせて、頭から冷水を浴びせかけた。大将は、これから後一生の間、「寒い。」とも「暑い。」とも言わなかつたといふことである。
母もまたえらい人であつた。大将が何かたべ物の中にきらひな物があると見れば、三度々々の食事に、必ず其のきらひな物ばかり出して、大将がなれるまで、うち中の者がそればかりたべるやうにした。其のため大将には、全くたべ物に好ききらひがないやうになつた。
大将が十歳の年、一家は郷里へ帰ることになつた。其の時大将は、江戸から大阪まで、馬やかごに乘らず、両親と共に歩いて行つた。当時、体がもうこれだけ丈夫になつて居たのである。
郷里の家は、六畳・三畳の二間と、せまい土間があるだけの、小さい粗末な家であつた。けれども、刀・槍・長刀など、武士の魂と呼ばれる物は、何時もきらきら光つて居た。
此の父母の下に、此の家にそだつた乃木大将が、一生を忠誠質素で押し通して、武人の手本と仰がれるやうになつたのは、まことにいわれのあることである。(『日本教科書体系 近代編 海後宗臣等編 第8巻 国語』)

乃木少年の嫌いな食べ物のことが出てきます。教科書には具体的には書かれていませんが、これがニンジンであることは全国民が知っていました。
ですから、子どもがニンジンを嫌いだというと、いや、ニンジンに限らずなにかを嫌いだというと、親はその嫌いなものをむりやり食べさせるということが全国の家庭で行われていたのです。
これは私の若いころも似たようなものでしたし、今でも子どもの好き嫌いは矯正しなければならないと考えている親がいます。

人間はなにかを食べたあとで体の調子が悪くなると、その食べ物を生理的に受けつけなくなることがあります。これは生体の防御反応なので、矯正することはできません。
食べ物を嫌いになる理由はいろいろありますが、基本的に放置しておくしかなく、たいていは何年かすれば食べられるようになります。

子どもに冬に冷水を浴びせかけるというのもひどい話です。
子どもにむりやり嫌いなニンジンを食べさせることも冷水を浴びせることも、今では幼児虐待と見なされるでしょう。
昔は国家が幼児虐待を奨励していたわけです。

こうした教育(虐待)の結果、乃木少年は親に向かって「暑い」も「寒い」も、「好き」も「嫌い」も言わなくなりました。
とてもまともな親子関係とは思えませんが、国定教科書はこれをよしとしていたのです。


普通、父親が子どもにきびしいと、母親がやさしいとしたものですが、乃木家では両親ともにきびしかったので、乃木少年は家を逃げ出すことになります。

乃木は16歳のとき、虚弱な体では武士に向かないと思い、学問で身を立てようと決心し、父親に許可を願い出ますが、拒否されます。そこで無断で家を出て、親戚の玉木文之進の家に世話になろうとします。玉木文之進は吉田松陰の叔父であり、松下村塾の創始者でもあります。
しかし、文之進からは、武士の家に生まれて武芸を好まないのであれば百姓をせよと一喝されてしまいます。乃木は失意のうちに文之進の家を出ますが、夫人が追いかけてきて、もう夜だから一泊して明日帰りなさいと言われたので、泊まることにします。その夜、夫人から、あなたが農業に従事するなら自分は夜に日本外史などを講義してあげましょうと言われ、玉木家で百姓をする決心をします。
農業と林業の仕事は虚弱な乃木にはきびしいものでしたが、次第に慣れてきます。

次は乃木が後年、学習院生徒に対して当時の様子を語った言葉です。

農耕の暇には畑中にて玉木翁より学問上の話も聞き、夜に入れば、夫人が糸を紡ぐ傍らにて日本外史などを読み習ひたり。此の如くすること一年に及びしに、余が体力は著しく発達し、全く前日の面影を一変するに至りぬ。余は是に於いて玉木翁の教育の効果の空しからざるを悟り、漸く武士としての修養を積まんと志すに至れり。

わずか1年で乃木は虚弱な体から頑健な体になったというのです。
乃木家にいたときも両親からきびしく体を鍛えられていましたが、それはまったく効果がありませんでした。
玉木家ではなにが違ったかというと、農作業をしていたこともありますが、玉木夫妻の愛情に恵まれたからではないでしょうか(あと、食事がまともなものになったということもありそうです)。
つまり乃木家で虐待されていた乃木少年は、玉木夫妻のもとで“育て直し”をされたのです。

このへんの事情を、大濱徹也著『乃木希典』はこのように解説しています。

少年無人にとり、このような養育は好ましいものではなかった。家庭にあって、父親のみならず母親までが、父親と同じように、厳格すぎる態度で無人にあたったことは、少年の心にある母性的な愛への憧憬がみたされないまま、少年に、常に愛の渇きを覚えさせた。
   ※
玉木家での生活は、まず農業をもととした身体づくりではあったが、辰子夫人の温かい庇護下、実家の父母のもとでは見出せない慰安とおちつきを無人にもたらした。彼は玉木夫妻により、世に立ちうる人間として心身ともにととのえられたのである。

理想の家庭教育がもしあるとすれば、玉木家のほうでしょう。
しかし、国定教科書は乃木家のほうだとしました。
戦争とは非人間的な行為ですから、軍国日本にとっては、愛情ある家庭より、虐待のある家庭のほうが好都合だったからです。

この軍国日本の時代遅れの家庭教育観は、いまだ一掃されていないのではないでしょうか。


乃木は、玉木家で愛情ある家庭に触れたとはいえ、16歳まで虐待の家庭で育ち、その経験が人格の中心を形成しました。
乃木は世の中から誠実、清廉、忠誠、質素、勇敢、無私な人間であると評されました。まるで修身の教科書から抜け出てきたような人間です。
しかし、司馬遼太郎は『殉死』の中で繰り返し乃木を「スタイリスト」と評しました。

乃木の部下として親しく交わり、のちに戦記文学で名をなした作家の桜井忠温は、乃木について次のように記しています。

「人間としての乃木さんは淋しい暗いものであった」
「暗いものが煙のやうに乃木さんの一生を蔽ふてゐた」



<参考文献>
『日本教科書体系 近代編 海後宗臣等編 第8巻 国語』
小田襄著『史蹟と人物:国定教科書準拠』
大濱徹也著『乃木希典』
桑原嶽・菅原一彪編『乃木希典の世界』
福田和也著『乃木希典』
司馬遼太郎『殉死』

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不登校の“少年革命家”ゆたぼんさんがなにかと話題になって、この10月だけでYahoo!ニュース上でゆたぼんさんに関する記事が80本も配信されたということです。

ゆたぼんアンチの人がいっぱいいることはヤフコメを見てもわかります。それに対してゆたぼんさんとゆたぼんのパパである中村幸也氏が激しい言葉で反論するので、つねに炎上状態になります。

私はとくにゆたぼんさんの肩を持つわけではありませんが、ゆたぼんアンチの人にはあきれます。13歳の少年を攻撃しても生産的なことはなにもありません。

ゆたぼんアンチの人の心理を推測すると「自分はがまんして義務教育を受けたのに、ゆたぼんは学校に行かずに好き勝手なことをやっているのはけしからん」というところでしょう。

親や教師から体罰を受けて育った人がおとなになると、子どもに体罰をするということがよくあります。
ゆたぼんアンチもそれと同じで、自分がいやいや学校に通わされたのだから、ほかの子どももむりやり学校に通わせたいと思うのでしょう。
しかし、こういう発想では不幸が再生産されるだけです。
「自分が苦労したから次の世代も同じ苦労をするべきだ」ではなく、「自分が苦労したから次の世代には苦労させたくない」と思う人が世の中を進歩させます。

日本人のほとんどはいやいや学校に通ってきました(だから、ゆたぼんアンチが大量に発生します)。
ですから、するべきことは学校の改革です。


学校のだめなところは、授業がよくわからなくて退屈だ、授業の内容をがんばって理解したところで、それが人生にどれだけ役に立つのかよくわからない、校則や生活指導などがうっとうしい、同級生にいじめられるなど、多々ありますが、子どもを学校嫌いにさせるもっと根本的な問題があります。
それは、小学1年生で1コマ45分の授業中ずっと椅子に同じ姿勢で座わっていなければならず、それが1日に5コマもあるということです。
この年齢の子どもが同じ姿勢を続けるのは苦痛以外のなにものでもなく、学校に行くのは毎日が拷問のようなものです。
おとなはそのころのことをほとんど忘れていますが(苦痛なことはとくに忘れやすい)、授業中に一人の子が先生の許可を得てトイレに行くと、われもわれもとトイレに行く子が出てくることがよくあったのは覚えているでしょう。トイレに行きたいわけではなく、じっとしているのが苦痛で、少しでも体を動かしたいからです。

保育園や幼稚園では、子どもは床の上で立ったり座ったり寝転んだりしていました。それが子どもの自然な姿です。
小学校に入学したとたんに椅子に座った姿勢を強要されるのは自然に反します。子どもの発達にも悪影響があるはずです。生理学者や心理学者が警告を発しないのは不思議です(おとなにとっても長時間椅子に座っていることは健康に悪影響があると最近指摘されています)。

これは「一斉授業」というやり方です。一斉授業が行われているのは、教える側にとって効率がいいからで、教えられる側のことはまったく考慮されていません。


日本人は一斉授業が当たり前と思っているので、それ以外のやり方がわからないかもしれません。
代替策の見本は意外と身近なところにあります。それは寺子屋です。
寺子屋は自然発生して、幕末には全国で1万5000以上もあったといわれます。

東京都立図書館ホームページの「『寺子屋』ってなに?」というサイトから、寺子屋の様子を描いた絵を紹介します。
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子どもはみな好き勝手な格好をしていて、遊んでいるとしか見えない子もいます。
寺子屋の絵はほかにもいっぱいありますが、みな同じようなものです。

同じサイトから寺子屋を解説した文章も引用します。

明治初年の事例になりますが、東京府が行った調査によると寺子屋の師匠(ししょう)の大半は江戸の町民でした。多くは男性でしたが、都市部、特に江戸においては女性の師匠もいました。師匠たちは、寺子屋に学びにやってくる子供たち一人ひとりの親の職業や本人の希望を考え、それぞれにあったカリキュラムを作る個別教育を行っていました。

個別教育で、しかもカリキュラムも個人に合わせて作成していたのです。
これは理想の教育ではないでしょうか。

もっとも、寺子屋は「読み書き算盤」という初歩的なことを教えるだけなので、現代の学校の参考にはならないと思われるかもしれません。
そこで外国を見てみます。

ユニセフは2020年に「先進国における子どもの幸福度調査」を発表。総合ランキングは1位オランダ、2位デンマーク、3位ノルウェーで、日本は38か国中20位でした。
1位のオランダの学校教育の方法は、たとえば次のサイトで読むことができます。

尾木ママ絶賛! “日本教育の3周先を行く“オランダの「イエナプラン教育」

「“入試・テストなし” “チャイムなし” “時間割自由”」といったことが書かれています。
オランダの憲法は「学校選択の自由」と「教育方法の自由」を保障しているそうです。

オランダでは入学の日が決まっていなくて、4歳の誕生日がすぎたらいつでも入学できます。
つまり子どもはバラバラに入学してくるので、必然的に一斉授業はできず、個別教育になります。

日本では小学1年生のクラスには6歳の子と7歳の子が同居しています。この年齢で1年の違いは大きく、同じ授業を受けるのはむりがあります。
これまでは年齢が上になればこの違いは解消されていくと考えられていましたが、今では成長しても早生まれの人は不利であることがわかっています。
つまり早生まれの人は最初にクラスにおける劣等生になるので、その自己認識はのちの生き方にも影響するのです(詳しくは『早生まれは高校入試にも影響!? 東大教授が説く「不利のはね返し方」』を参照)。
早生まれの子の保護者は、わが子が不利にならないような制度改革を要求する必要があります。


明治になって学制が施行され、義務教育が始まって、寺子屋は一掃されました。
ここに劇的な教育体制の転換が起きました。
寺子屋は子どもの側が金を出して、学びたいことを学んでいたのですが、義務教育制度では、国家の側が金を出して、教えたいことを教えるようになりました。
つまり「子どものため」の教育から、「国家のため」の教育へ転換したのです。

当時の国家の目的は「富国強兵」で、そのために国民を兵士と産業労働者に育成しようとしました。
そこで重視されたのは「規律」です。規律とは規則を守ることです。
会社や軍隊などの組織に適応するには規則を守らなければならないからです。

寺子屋と学校では、教える内容に大きな違いはありませんが、規律があるかないかが決定的に違います。


戦後になっても同じ規律重視の教育が行われています。
これがまったく時代遅れです。
教師がバカみたいなブラック校則を守らせようとするのは、なにも考えずに命令に従う兵士を育成するには有効かもしれませんが、今は兵士を育成するという目的はなくなり、命令や規則に従うだけの労働者は最低賃金レベルの収入しか得られません。
高収入を得ようとしたら、(学力のほかに)創造性やチャレンジ精神が必要ですが、それらは自由の中でしか培われません。
小学校低学年を椅子に縛りつけておくのも規律を重視するからです。

ですから、今の学校教育に必要なのは「規律から自由」への転換です。


小中学生の不登校は増え続けていて、昨年度は前年から25%増えたというニュースがありました。

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「小中学生の不登校 昨年度24万人で過去最多 コロナ禍が影響か」より

これは要するに規律重視の学校教育が時代に合わなくなって、子どもが不適応になっているということでしょう。

ゆたぼんさんも、学校で勉強したくないわけではなくて、規律を求める教師とトラブルになったのが不登校のきっかけでした。

保護者も、学校や子どもに規律を求めることを考え直す必要があります。

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東京都教育委員会は9月22日、2023年度の都立高入試で英語のスピーキングテストを導入すると正式決定しました。
もっとも、立憲民主党はスピーキングテストの結果を入試に反映させないようにする条例案を提出しているので、最終決定とはいえません。
スピーキングテストそのものは都内の公立中学の3年生全員を対象に11月27日に実施されることが決まっています。その結果が入試に反映されるかされないかがわからないという状況です。

そもそもスピーキングテストで「英語を話す力」が客観的に評価できるのかという疑問があります。
AIが採点するのではなく、人間が採点するのですから、採点者の主観が入る可能性が排除できません。
それに、これにはベネッセコーポレーションが東京都教育委員会と共同で開発した「ESAT-J(English Speaking Achievement Test for Junior High School Students)」というテストが使われるのですが、一民間企業が関係するということにも疑問を感じます。

文部科学省は英語の「読む・聞く・話す・書く」の技能の習得がたいせつだとして、大学入学共通テストに2020年度から英語民間試験を導入しようとしたことがありました。そのときは受験生の費用負担が大きくて、地域による不公平もあるということで反対論が高まり、そこに萩生田光一文科相が「身の丈に合わせてがんばって」と発言したことが炎上して、民間試験活用は見送られました。
東京都教育委員会は文科省が大学入試でやろうとして失敗したことの高校入試版をやるわけです。


どういうテストかと調べたら、東京都教育庁の「中学校英語スピーキングテスト(ESAT-J)」というサイトにテストの見本がありました。

テストのときは、テスト専用のタブレット端末・イヤホンマイク・防音用イヤーマフの3点が渡されます。受験生はタブレットに表示された問題を見て、答えを発声して録音し、その録音に基づいて採点が行われます。

テストはAからDまで四つのパートに分かれています。

パートAは、示された英文(4~5行ぐらい)を声に出して読むというものです。
英文を読むだけですから、発音が評価されることになりそうです。

日本人のほとんどは長年英語を勉強してきたのに英会話が苦手というコンプレックスを持っています。私は、スピーキングテストなどをすると、受験生が発音の正確さにこだわって、ますます会話が苦手になるのではないかと懸念していましたが、その懸念が的中したかと思いました。
しかし、それはパートAだけで、そのあとのパートは違いました。

パートBは、画面に出たイラストや文字を見て、それについての英語の質問に英語で答えるというものです(一部、こちらが英語で質問するというのもあります)。これは「聞く力」と「話す力」の両方が問われるものです。比較的やさしい問題ですが、ブロークンでも話さなければ点数にならないので、話す力はつくかもしれません。

パートCは、四コママンガを見て、その内容を英語で伝えるというものです。これはなかなかむずかしいと思いました。
その四コママンガを示しておきます。
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パートDは、比較的長い英文の質問を聞いて、自分の意見を述べ、そう考える理由も説明するというものです。
これは質問のキーワードが理解できないとまったく答えられないという悲惨なことになる場合があります。

名前は「スピーキングテスト」ですが、パートBとパートDは半分「ヒアリングテスト」でもあります。文科省の「読む・聞く・話す・書く」の習得がたいせつだとする方針に従ったもののようです。


このテストはそれなりに意味のあるものですが、受験生にとってはそうとうな負担になります。
たとえば、自分の発声がちゃんと録音されているか心配だとか(最初に録音されていることを確認する作業があるのですが)、しばらく考える時間があって、「ピッ」という合図があってからしゃべりだすのですが、あせるといきなりしゃべってしまうかもしれません。
ですから、受験者は過去問をやって準備しておくことが必須です。
それになによりも、採点者の主観が入ってしまうことの不安はぬぐえないでしょう。


そのためアンケート調査では反対の声が圧倒的です。
ある教育業界ニュースサイトが実施したアンケートでは、有効回答111ではありますが、保護者の9割が反対で、教員免許保有者でも8割が反対という結果が出ています。
反対理由には「採点基準が不明確」「導入の経緯が不透明」「教育現場を混乱させる」「採点内容が非公開のため学習にも生かせないし異議申し立ても出来ない」というものがあります。

なぜこのように反対が多いかというと、東京都教育委員会が保護者や受験生の意見をまったく聞かずにことを進めてきたからです。
とりわけ当事者である受験生の意見を聞くことは欠かせません。
東京都教育委員会も文科省も、生徒の意見を聞かずに受験制度改革や教育改革を進めてきたのは、生徒の人権(意見表明権)侵害です。

それから、今は翻訳ソフトが進歩して、専用の翻訳機もありますし、スマホの翻訳アプリもあります。
「話す・聞く」を重視する今のやり方は時代遅れかもしれません。
時代に合った英語力はなにかというのはむずかしい問題ですが、いちばん真剣に考えているのは若い人ですから、やはり若い人の意見を聞くことがたいせつです。


「英語を話す力」のような客観的評価のむずかしいことを入試に取り入れたのは、文科省や東京都教育委員会が生徒に「英語を話す力」を身につけさせたいからです(おそらく日本人の英会話コンプレックスからきています)。
入試で見るのは客観的評価のできる基礎学力だけにするべきです。
「話す・聞く」のような部分は各自の判断で身につけていけばいいことです。


教師が生徒に勉強させたいときに言う魔法の言葉は「ここテストに出るぞ」です。
これを言われると生徒はみな必死でノートをとります。

今の入試改革は、要するに「ここテストに出るぞ」です。
「入試にスピーキングテストがあるぞ」と言って、生徒にスピーキングの勉強をさせ、「英語を話す力」を身につけさせようというのです。
たぶんその効果はあって、生徒はある程度「英語を話す力」を身につけるでしょう。

しかし、勉強はテストのためにするものではありません。
今の日本は、国を挙げて勉強の目的を見失っています。

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9月1日は「子どもの自殺の特異日」だということで、子どもに対して自殺を思いとどまるように、親などに対して配慮するようにと、マスメディアやSNSなどで呼びかけが行われました。

夏休みの宿題ができていない子どもは、9月1日に登校するのはつらいでしょう。それが自殺の最後の引き金になるかもしれません。
いつも学校でいじめられている子どもも、9月1日に死にたくなるかもしれません。

しかし、「特異日」に合わせた呼びかけにどれほどの意味があるでしょうか。
そもそも子どもの自殺の原因は学校だけにあるのではありません。

文部科学省の調査によると、2020年度に全国の小学校、中学校、高校の児童生徒の自殺は415人と、19年度の317人と比べて31%の大幅な増加となりました。
コロナ禍で休校やリモート授業がふえて、子どもは学校から確実に解放されているはずですが、その結果自殺がふえたのです。

子どもの生活の場は、単純にいって家庭と学校のふたつです。
休校がふえたことで子どもの自殺がふえたということは、家庭には学校以上のストレスがあるということです。
いや、コロナ禍で生活不安や健康不安が増大したということもあるので、そう単純にはいえませんが、子どもにとって家庭と学校のどちらがたいせつかと考えれば、学校よりも家庭に決まっています。


2019年版『自殺対策白書』によると、10代の子どもの自殺の原因は次のようになっています。

自殺原因
「毎日新聞」2019年7月16日 夕刊より

一見すると、「家庭」より「学校」のほうが自殺原因として多いようですが、「学校」の内訳を見てみると、「学業不振」「進路の悩み」「入試の悩み」と成績に関する悩みの多いことがわかります。
子どもが成績が悪いだけのことで自殺するとは思えません。親からよい成績をとってよい学校に進学しろと強い圧力をかけられているのが自殺の原因でしょう。とすると、これは「家庭」に分類してもいいはずです。

つまり子どもにとっては、家庭には自殺にいたるような強いストレスがあるのです。
どんなストレスかというと、親に虐待されるストレスです。

子どもが親から虐待されることは自殺の大きな原因になりますが、子どもは自分が虐待されているとなかなか認識することができません。
暴力などの身体的虐待はまだ認識しやすいですが、心理的虐待はほとんど認識できず、自分がなにを悩んでいるのかすらわかりません。
ある程度年齢がいくと、「自分の親は毒親だった」という認識を持つことも可能になりますが、十代ではまずむりです。

ですから、子どもの自殺を防ぐには、「特異日」の呼びかけも無意味とはいいませんが、虐待されている子どもに届く言葉が必要です。


ところが、世の中やマスコミは普通の家庭で子どもが虐待されているという事実を認めようとしません。

たとえば8月20日、東京都渋谷区の路上で中学3年の少女(15歳)が53歳の母親と19歳の娘を包丁で刺し、重傷を負わせ、逮捕されるという事件がありました。
少女は最初、「死刑になりたくて、たまたま見つけた2人を刺した」と供述したということが伝えられ、さらに「自分の母親と弟を殺すための練習だった」とか「母親の性格に自分が似てきたのが嫌になり、母親を殺そうと思った。残される弟も可哀そうなので、一緒に殺そうと考えていた」などの供述も伝えられました。
少女は母親と弟の3人家族です。不登校気味で、学校に行っても保健室ですごしていましたが、塾には通っていたそうです。

以上のことから、なにが少女を凶行に駆り立てたかと考えると、母親から虐待されていたとしか考えられません。
そのことはマスコミもわかっているはずですが、それでも「家庭でトラブルがあったわけではない」とか「友人関係が犯行につながった可能性も否定できない」とか書いて、家庭内の虐待から目をそらそうとしています。

「死刑になりたかった」というのは自殺願望です。このケースは傷害事件を起こしたために世間の目にふれることになりましたが、親から虐待されて自殺して、世間の目にふれないというケースはいっぱいあるはずです。


そうした自殺を防ぐにはどうすればいいかというと、子どもの虐待をなくすことですが、家庭内のことだけに手の打ちようがないのが実情です。
ですから、虐待されている子どもはみずから家庭から逃げ出す必要があります。家庭内で煮詰まったときは、とりあえず家を出ることです。

家を出てどうするかというと、少女の場合は「神待ち」ということをします。
家出した少女がSNSなどで自分を泊めてくれる人物を探すことが「神待ち」です。
ただ単に泊めてくれる場合もありますが、性行為を要求される場合もあり、犯罪に巻き込まれる可能性もあります。
普通の家庭で虐待が行われているということを世の中が認めないために、こんな危険なことをするしかないのです。


DV被害にあっている女性のために“駆け込み寺”といわれるDVシェルターがあるように、子どものための“駆け込み寺”が必要です。

いや、そういうものがまったくないわけではありません。
一般社団法人Colabo(代表仁藤夢乃)という組織が十代の少女を救うための相談、食事提供、シェルターでの宿泊支援、シェアハウスの運営などの活動をしています。

ところが、私はColaboの活動を紹介する記事を何度か読んだことがありますが、ほとんどは「家出した少女が性被害などにあうのを防ぐ活動」というふうに紹介されています。
間違いではありませんが、活動の基本は「家庭で虐待されている少女の支援」です。
それはColaboのホームページの次の言葉を見てもわかります。

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要するに家庭で虐待された子どもが家を出てさまざまな被害にあうのですから、根底の問題は家庭内の虐待です。
ところが、マスコミや世間は根底の問題を認識しようとしないので、家出や性被害の報道はひじょうにわかりにくいものになります。

家出少女の問題はこのようにある程度可視化されていますが、家出少年のほうはどうでしょうか。
家出少年は不良グループに入って、犯罪への道を歩んでいく可能性が高いと思われます。


Colaboは組織だからいいのですが、個人で同じようなことをすると犯罪扱いされてしまいます。
たとえば、こんな事件がありました。

【驚き】“家出”女子高生を自宅に住まわせた夫婦を逮捕 容疑は「誘拐」現金3万円受け取る コレは「駆け込み寺」?
家出した女子高校生を自宅に住まわせた疑いで、30代の夫婦が逮捕された。家出少女の駆け込み寺のような存在だったのか。ただ、この夫婦の逮捕容疑は「誘拐」だった。

会社員の山口良太容疑者(34)と妻の明子容疑者(38)は、今月5日から11日にかけて、家出した17歳の女子高生を、東京・葛飾区亀有の自宅に住まわせたとされる。警視庁亀有署の発表によると、甘言を用いて誘惑し、誘拐した疑いが持たれている。要は「甘い言葉でだまして、自宅に連れ込んだ」ということだ。

この日、被害者の女子高生は、些細なことで母親とケンカをして、家を飛び出したそうだ。そして、友人A子に相談したところ、山口容疑者夫婦を紹介されたという。実は、A子も、かつて、家出をした際に、容疑者夫婦の自宅に泊めてもらったことがあったとのこと。

被害者の女子高生は、この日から7日間に渡って、容疑者夫婦宅で生活することになる。容疑者夫婦からは「親が悪いね」と声をかけられていたという。驚いたことに、女子高生は、交際相手の”彼氏”から工面してもらった現金およそ3万円を、生活費として、2人に渡していたそうだ。
8月11日になり、心配した母親が、亀有署管内の交番に届け出たことで、事件が発覚。亀有署が捜査を開始したところ、その日のうちに、A子にたどり着いた。A子が、容疑者夫婦を紹介したことを打ち明けたため、あっという間に、”誘拐”事件は解決へ。

明子容疑者が逮捕されたのは、11日午後11時すぎ。翌12日午前7時前には、良太容疑者も逮捕された。容疑は、未成年者誘拐だった。保護された女子高生は、ケガなどはしておらず、衰弱した様子もなかったという。

被害者の女子高生が、軟禁状態だったのか、連れ回されていたのかなど、7日間の生活実態については分かっていない。これまでの調べに対して、良太容疑者は「17歳の女の子を自宅にかくまって誘拐したことに間違いない」と容疑を認めている。
一方、明子容疑者は、「誘拐はしていない。女の子をかくまっていただけ」などと否認しているとのこと。A子の証言により、2人が、他の未成年者についても、同様に、自宅に住まわせていた可能性があることが判明。亀有署は、今後、余罪も捜査する方針だ。

容疑者夫婦宅は、家出少女の”駆け込み寺”のような存在だったのか。ところで「本人が望んで、容疑者夫婦宅に住んでいても、誘拐事件に当たるのか」などと疑問に思う人がいるかもしれない。

被害者は、小中学生ではなく、17歳の高校2年生だ。しかし、未成年者略取・誘拐罪では、保護者の監護権を侵害したことになるため、親が訴え出れば犯罪となる。親の同意なく、勝手に連れ出したり、連れ回したら、住まわせたら、それだけで「略取・誘拐」に当たるとされる。
近年、少年少女を、連れ回したり、自宅に住まわせるなどして事件となるケースが、増加している。警察庁によると、略取・誘拐事件(未成年以外も含む)の認知件数は、2011年に153件だったのに対して、去年は389件にのぼった。この10年で2倍以上も増えた。

SNSの普及により、悪意のある大人が、少女らに接触しやすい”環境”が整ったのが要因とされる。被害者がわいせつ事件に巻き込まれたり、長期間の監禁や殺人などに発展することもある。一方で、「誘拐」の自覚のないまま、家出を手助けしているケースも少なくない。”無責任な大人”の行動が、重大事件を引き起こす恐れもある。
https://www.fnn.jp/articles/-/403715

記事には「些細なことで母親とケンカをして」と書かれていますが、そんなことで長期の家出をするはずがなく、家庭内で虐待されていたと思われます。
ですから、もしどうしても誰かを逮捕するなら、女子高生の母親のほうです(父親のことは不明)。
女子高生を善意でかくまった夫婦が逮捕されたのは理不尽です。

これは「神待ち」に善意で対応する人がいるという例ですが、ただ、個人でやると犯罪と区別がつかなくなります。
ある程度組織化して、公的機関とも連携した形でやるべきでした。


「子ども食堂」というのがあって、貧困家庭の子どもや孤食を余儀なくされている子どもに食事を提供する活動が行われています。
これは単に栄養補給するだけでなく、子どもに愛情の補給をするという意味でも価値ある活動です。

同様のやり方で「子ども宿泊所」というのをつくって、子どもがいつでも泊まれる場を提供する活動ができないだろうかと思います。
そういう場があれば救われる子どもがいっぱいいますし、もちろん自殺防止にもなります。

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近ごろの若い人は元気がなく、人づきあいに消極的です。
もっとも、これは今に始まったことではありません。

1970年代半ば、私の実家では庭の一角にアパートを建て、アパート経営を始めました。すぐ近くに予備校があったので、予備校生(浪人生)専用のアパートにして、必ず一年で出ていってもらうことにしました。何年も居座る人がいてはアパートの雰囲気が悪くなると考えたからです。
つまり一年ごとに入居者(たいてい18,9歳)がすべて入れ替わるのです。
そのころ私は実家を出ていましたが、母親が「一年ごとに子どもたちが目に見えておとなしくなっていく」と言ったのが気になりました。
最初のころの入居者は、互いの部屋を行き来して友だちづきあいをし、ひとつの部屋に集まって話し込んだりして、騒がしかったが、年々みんなおとなしくなって、互いに交流せず、ずっと自分の部屋にこもるようになったというのです。

その変化が一年ごとにはっきり見えるというのが驚きでした。そんなにはっきりと変化していけば、十年、二十年たてば大きな変化になるはずです。


私は三十代半ば、日本ファンタジー大会(昔は日本SF大会以外にそういうのがあった)に出たのがきっかけで、SFやファンタジーのファンとつきあうようになり、あるとき食事会だか飲み会だかが行われました。私は酒を飲んだらみんな激しい文学論を戦わせるのだろうなと想像していたら、みんなあまり酒を飲みませんし、激しい議論もしないので、拍子抜けしました。
メンバーは平均的に私より十歳ぐらい若い感じでした。私は学生時代も会社員時代ももっぱら同年代とつきあっていたので、若い世代と飲み会をするのは初めてでした。“若者の酒離れ”は当時から言われていましたが、熱い議論をしないということに世代の差を痛感しました。

それから三十年余りたちました。若い世代はさらにおとなしくなり、人づきあいに消極的な傾向も強まっています。

「若い世代は元気がなく、人づきあいに消極的」というのは私個人の感想なので、客観的なデータで示したいところですが、これが意外とむずかしいことです。
暴走族の数がへり続け、今ではほとんど絶滅危惧種になっているというのが象徴的かもしれません。
博報堂生活総研が1998年から毎年実施している「生活定点」という調査があって、その中から「友人は多ければ多いほどよいと思う」と回答した人の割合の推移がグラフで見られます。
このグラフは、友人の数がへっていることを反映していそうです。

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6月に発表された2022年版の「男女共同参画白書」によると、20代男性のおよそ7割、女性のおよそ5割が「配偶者・恋人はいない」と回答し、「これまでデートした人数」を聞いた回答では20代独身男性のおよそ4割が「0人」と答え、“若者の恋愛離れ”として話題になりました。
これが話題になるということは、多くの人が「今の若者は人づきあいに消極的」という印象を持っていて、先行きを案じているからでしょう。


いつの時代も、生まれてくる赤ん坊は同じです。
「若い世代は前の世代よりも元気がなく、人づきあいに消極的」ということがもしあるならば、それは環境の変化にによって説明できなければなりません。

私たちの世代は、親が戦争を経験していて粗暴で、時代も戦後の混乱を引きずっていました。
ベビーブーマー世代でもあり、同世代での競争が激しく、狭い教室に多数が押し込められるというストレスもありました。この世代は、ベトナム戦争があったこともあって、世界的に“若者の反乱”を起こしました。
つまりベビーブーマー世代が元気(乱暴?)だったのには理由があります。

世の中が落ち着いてくると、若い世代も落ち着いてくるのは当然です。
「若い世代は元気がない」というのは、前の世代が過剰に元気だったのが正常化してきただけともいえます。
ただ、最近は元気のなさが行き過ぎて、人づきあいに関しても消極的が行き過ぎて、コミュニケーション障害という言葉が使われるようになっています。

もっとも、これも時代の大きな変化がもたらしたものです。
たとえば少子化が進んで一人っ子が多くなり、子どもの遊び場も少なくなったので、若い世代のコミュニケーション能力が発達しないのは当然です。
インターネットの普及、コンビニ、スーパーマーケット、ファストフード店など会話の少ない店舗が増えたことなど、さまざまな要素も関係しているはずです。
ですから、そう簡単に改善できることではありません。

ただ、子育ての間違いに原因のあることもあります。それはすぐにでも改善できます。


近ごろは赤ん坊の泣き声がうるさいとか、幼稚園の子どもの声が近所迷惑だとか、公園で子どもの遊ぶ声がうるさいといった苦情が多いので、子どもはつねに親や保育士や教師などから「静かにしなさい」とか「おとなしくしなさい」とか「行儀よくしなさい」などと言われています。そんな育てられ方をしたら、おとなしい子、つまり元気のない子になるのは当然です。
だいたい赤ん坊が泣いたり子どもが騒いだりするのは自然なことです。
「公共の場で子どもが騒ぐのはよくない」と言う人がいますが、公共の場というのは子どもも年寄りもいられる場です。子どもが騒いだときに排除していいのは、公共の場ではなくプライベートな場です。

昔は「子どもは元気がいちばん」と言ったものですが、最近は聞きません。
子どもが元気であれば、なにも問題はありません。元気でないなら、体調が悪いか、いじめなどの悩みがあるかですから、そのときに対処すればいいのです。

なお、「おとなしい」というのは、漢字で「大人しい」と書くように、大人のようであることを意味します。子どもに「おとなしくしなさい」と言うのは、子どもの正常な発達を妨げる行為です。


コミュ障が増えるのも、子育ての間違いに原因がある場合があります。

たとえば次の記事がわかりやすい例です。
ママ友の子が”大暴れ”!?ママ友に連絡すると→「衝撃の返信」に絶句!その後現れた姿に激怒した…
皆さんの周りに、ちょっと厄介なママ友さんはいませんか? ママ友付き合いは必要不可欠なので大変ですよね…。 今回は、そんな皆さんから集めたママ友エピソードをご紹介します。
(中略)

子どもが幼稚園児の頃、同じ幼稚園に通う、やんちゃで有名な兄弟が公園に遊びに来ていました。 兄弟げんか始まると、だんだんエスカレートして他の子の自転車やおもちゃを投げつけ合ってけんかするなど手に負えなくなってきました。 兄弟のママに電話をして状況を伝え、公園に来て欲しいと話したところ「いつものことだから放っておいて」と言われて絶句。 周囲の子も巻き込まれてしまいそうで危なかったので、その場にいたママ達で何とか収めました。 兄弟のママは、けんかが収まってしばらくしてからのんびり登場し、こちらへの謝罪やお礼も一切なく「何てことなかったじゃない」という表情ですぐ家に帰ってしまいました。 (54歳/主婦)

こんなママ友だと距離を取って接したいですよね…。 狭いコミュニティだからこそ、付き合う人は選びたいと思えるママ友体験談でした。 ※こちらは実際に募集したエピソードをもとに記事化しています。
https://trilltrill.jp/articles/2733049

昔から「子どもの喧嘩に親が出る」という言葉があって、子どもの喧嘩に親が出るのは愚かな行為とされています。
しかし、最近この言葉は死語と化しているようです。この記事も、子どもの喧嘩に親が出るのを当たり前のことと見なしています。

子どもが喧嘩するのは自然なことです。というか、夫婦喧嘩や戦争があるように、おとなになっても喧嘩をします。ですから、たいせつなのは喧嘩に対処する能力を身につけることです。
親が喧嘩に介入しては、その能力が身につきません。

親は子どもの喧嘩をずっと見ていて、ケガをしそうになったときだけ介入すればいいのです。
このやんちゃな兄弟も、放っておけばいずれ喧嘩はやめます(よく喧嘩しているようなので、家庭にストレスの原因があるのかもしれません)。

何度も喧嘩をすれば、「ここまでやると相手は怒り出す」という加減がわかってきますし、どんな喧嘩でも収まるということもわかります。
しかし、今は公園の遊び場や保育園などでおとなが喧嘩を止めているので、子どもはあまり喧嘩の経験がありません。人と深くつきあうと喧嘩になる可能性も増えるので、喧嘩を回避するために表面的なつきあいをする傾向が強まったのではないでしょうか。

若者のコミュ障は、おとなや社会がつくりだしたものです。

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統一教会は1994年に名称を「世界平和統一家庭連合」に変えました。
この名称変更自体にも問題がありますが、それは置いておいて、「家庭」をたいせつにするという意味がこの名称には込められているでしょう。
ところが、統一教会は信者に多額の献金を強要して、そのため山上徹也容疑者の家庭は崩壊してしまったのですから、皮肉なものです。

自民党も家庭や家族をたいせつにする政党です。
夫婦別姓に反対する理由として、「家族の絆が弱まる」とか「家庭の一体感が失われる」ということを挙げるので、家族の絆や家庭の一体感をたいせつにしているはずです。
自民党の日本国憲法改正草案にも「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」とあります。
来年4月に新設される予定の「こども家庭庁」も、一時は「子ども庁」という名称になるはずでしたが、「家庭」の文字が加えられました。

「子ども庁」を「こども家庭庁」にするべきだということは統一教会も主張していました。そして、国際勝共連合ホームページで『心有る議員・有識者の尽力によって、子ども政策を一元化するために新しく作る組織の名称が「こども庁」から「こども家庭庁」になりました』と、自分たちのロビー活動の成果であるかのように書いています。

安倍晋三元首相は昨年9月に天宙平和連合(UPF)のイベントにビデオメッセージを送り、それを見た山上徹也容疑者が銃撃事件を起こすきっかけになったとされますが、そのビデオメッセージでは統一教会教祖の韓鶴子総裁に「敬意を表します」と述べただけではなく、「UPFの平和ビジョンにおいて家庭の価値を強調する点を高く評価いたします」とも述べています。

つまり統一教会も自民党も「家庭・家族をたいせつに」と主張して、そこが共通点となっています。
昔は「反共」という点で統一教会と自民党は結びついていたのですが、今は「反共」ということはあまり意味がなくなりました(もっとも、勝共連合のホームページでは今でも大々的に反共を主張しています。国民民主党や維新の会が共産党との共闘を拒否したことと関係あるでしょうか)。


「家庭・家族をたいせつに」と言われて反対する人はあまりいません。
しかし、家庭にも「よい家庭」と「悪い家庭」があります。それを区別しないと混乱します。

統一教会が理想とする家庭はどんなものでしょうか。
統一教会といえば合同結婚式が有名です。
最近の若い人は合同結婚式のことを知らないかもしれないので説明すると、単に合同で結婚式をするということではありません。教祖が結婚相手を決めて、結婚式参加者は教祖の決めた、一度も会ったことのない相手と結婚するのです。教祖はすべてを見抜いて、最善の相手を選ぶのだとされます。

自分が決めたのでない相手と結婚するということに驚く人もいるかもしれませんが、昔はむしろ普通のことでした。親が息子娘の結婚相手を決めて、息子娘は一度も会ったことのない相手と結婚することがよくありました。
統一教会では教祖が親に当たるのでしょう。

帝国憲法下では、結婚には戸主の同意が必要で、さらに男は30歳、女は25歳になるまでは親の同意も必要でした。ですから、好き合った相手と結婚できるのは、理解のある戸主や親に恵まれた場合だけです。そのため駆け落ちがしばしば行われ、心中という悲劇もありました。
妻は法的には無能力者の扱いで、財産権もなく、重要な法律行為をするときはつねに夫の同意が必要でした。

戦後憲法になってなにが変わったかというと、国民主権や戦争放棄や象徴天皇制もそうですが、国民生活にとっていちばん大きかったのは家族制度の変化でしょう。親の許可なしに「両性の合意」のみで結婚できるようになり、「駆け落ち」は死語となりましたし、妻も夫と同等の権利を有するようになりました。

しかし、家族についての認識というのは、憲法や法律が変わったからといって急に変わるものではありません。そのため、現在にいたっても、親が子どもの結婚を妨害したり、親の望む相手と結婚させようとしたりすることはよくあります。
夫婦の関係もまだまだ対等とはいえません。
ですから、古い家族観と新しい家族観が葛藤しているのが今の状況です。

帝国憲法の古い家族制度を「家父長制」といいます。
自民党や統一教会が理想としているのも家父長制です。
自民党は「家族の絆を守る」という言葉で家父長制を守ろうとしています。


古い家族観は家父長制ですが、では、新しい家族観はなんというかというと、名前がありません。
大家族、核家族、三世代家族、単身家族、同性カップルなどという言葉はすべて家族の(外見の)形態をいったものです。
家父長制というのは、外見ではなく、目に見えない権力関係のことです。

これまで家父長制を論理的に批判してきたのはフェミニズムです。フェミニズムは男性が女性を支配する家族として家父長制を批判してきました。
しかし、家父長制は男性が女性を支配しているだけではありません。親が子を支配している面もあります。
親は子どもを一方的にしつけ・教育をし、進学、就職、結婚にまで口を出すということが行われています。

民法第822条には、親権者は子どもを懲戒することができるという「懲戒権」の規定があり、これが幼児虐待の原因になっていると批判されてきましたが、自民党はずっと懲戒権の削除に反対してきました(ようやく今年秋以降に削除される見込み)。
親殺しを特別に重罪とする刑法第200条の「尊属殺人」の規定は、1973年に最高裁によって違憲とされましたが、自民党は規定を削除することを拒み続け、ようやく1995年の刑法大改正のときに削除されました。
つまり自民党は家父長制が夫が妻を支配するだけでなく、親が子を支配する制度であることを理解して、それを守ろうとしてきたのです。

したがって、家父長制を批判するときは、女性の人権と子どもの人権の両面から批判する必要がありますが、これまでは女性の人権からの批判しかなく、そのため批判があまり有効に機能していませんでした。
たとえば自民党の家族政策の理論的ささえになっているのが「親学」ですが、親学を批判するにも子どもの人権という視点が欠かせません。


統一教会は「子どもの人権」がキーワードになることを理解していて、あらかじめ防御線も引いています。
国際勝共連合のホームページの「【こども家庭庁】家庭再建を軸にした子供政策を」という記事は、「子ども庁」という名称を批判して、このように書いています。

象徴的なのが「子ども庁」という名称それ自体だ。当初は「子ども家庭庁」という名称だったが、被虐待児にとって家庭は安全な場所ではないという理由で「家庭」の文字が削除されてしまった。

この論法は明らかにおかしい。

 被虐待児にとって忌避されるべきは、虐待を生み出した歪な家庭環境であって、「家庭」そのものではない。

 むしろ、彼らにとって必要なのは、親代わりとなって自らを愛情で包んでくれる新しい「家庭」だ。

子供の成育における父母や家庭の役割を軽視する左翼系の活動家が、武器として用いるのが「子どもの権利条約」だ。活動家らは同条約によって子供が「保護される対象」から「権利の主体」に変わったと主張する。

実は、この条約には当初から拡大解釈を懸念する声が上がっていた。西独(当時)は批准議定書に「子どもを成人と同等の地位に置こうというものではない」と明記し、米国に至っては「自然法上の家族の権利を侵害するもの」として批准しなかった。

日本では、増え続ける虐待や子供の貧困をひきあいに「子どもの権利」を法律に書き込んでいないことが問題だと短絡的に考えられている。

しかし、虐待が起こるのは子供の権利が法律に書き込まれていないからではない。夫婦や三世代が一体となって子供を愛情で包み込む家庭や共同体が壊れているからだ。

 子供政策は、家庭再建とセットで考えるべきである。

 当然、憲法改正においても、家族保護条項の追加は欠かせない。
 
(「世界思想」1月号より )

家父長制の復活が幼児虐待を防ぐようなことを言っていますが、実際は逆で、家父長制のもとで幼児虐待が生じます。
そもそも教祖の命じる通りに結婚しろと教え、多くの家庭を崩壊させている教団の言うことがまともであるはずがありません。

なお、「自然法上の家族の権利」という言葉が出てきますが、未開社会の家族には上下関係がありません。
家父長制は家庭内に上下の序列がある制度で、文明的なものです。こうした中でDVや幼児虐待が起きます。


「こども家庭庁」という名称になったときには、俳優の高知東生氏が「すでに家庭が崩壊していたり、機能する見込みもなく、安全性が確保できない家庭の『こども』を『家庭』という檻から助けて欲しいだけ」とツイートして共感を呼びました。


統一教会や自民党が理想とする家庭は家父長制の家庭です。
家父長制では、すべての家族に上下の序列がつけられ、支配・被支配の関係となります。
すべての家族が対等になり、愛情で結ばれるのが本来の家庭です。

家父長制の家庭か、愛情で結ばれた家庭かということが、今の政治の最大の争点です。

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