村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

カテゴリ: 日記

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白血病で長期療養していた競泳の池江璃花子選手が東京五輪代表選手に内定し、“奇跡の復活”としてもてはやされています。

池江選手は2019年2月、白血病と診断され、造血幹細胞移植を受けるなどの闘病生活を送りました。
そして、2020年8月、東京都特別水泳大会に出場して選手活動を再開しましたが、体が細くなって、前よりかなり筋肉が落ちているのが見た目にもわかりました。
しかし、4月4日、日本選手権の女子100メートルバタフライで優勝し、400メートルメドレーリレーの東京五輪代表入りを決め、さらに8日には女子100メートル自由形でも優勝し、400メートルリレーでも代表入りを決めました。
“奇跡の復活”と言われたのは当然です。

とくに4日の池江選手の涙のインタビューに心を動かされた人が多かったようです。


そして、そうした感動を利用しようという人もいます。
池江選手の復活劇を東京五輪開催に結びつけて、「東京五輪を中止しろと言っている人は池江選手の前でも言えるのか」と主張しているのです。
こうして五輪開催反対の声を封じようというのです。

池江選手は、東京五輪が中止になったら、せっかく手に入れた五輪の切符が無意味になって、がっかりするでしょう。
しかし、五輪大会は誰か個人のために開催するものではありません。
「中止になるはずだったのを池江選手のために開催した」ということになると、池江選手にたいへんな責任がかかってきます。

どんな感染対策をしても、開催すれば開催しないよりも確実に新型コロナ感染者が増えます。そうすると、感染者が増えたのは池江選手のせいだとして批判する人も出てくるでしょう。
いずれにせよ、五輪開催という重大事を個人と結びつけてはいけません。


それから、池江選手の努力や精神力に感動したという人がいるのですが、こういう人にも困ったものです。
私は池江選手の復活をすごいと思いましたが、なにをすごいと思ったかというと「体の回復」です。

白血病は大病ですから、治ったといっても、体が百パーセントもとに戻ることはないか、戻ってもかなり時間がかかるのではないかと思っていました。
今はまだ百パーセントもとに戻ったかどうかわかりませんが、それに近いところまで戻ったわけで、そのことがなによりの驚きです。
これは医学のおかげで、それに加えて池江選手の身体能力がもともと高かったからです。

それから、衰えていた体をもとに戻すのに適切なトレーニングが行われたに違いなく、そのことにも感心しました。
もちろんそれは本人とコーチの力によるのですが、これも努力や精神力ではなく技術の問題です。

つまり池江選手の“奇跡の復活”は、本人の生まれ持った身体能力と医学と科学的トレーニングのおかけで、努力や精神力のおかげではありません。
ここは重要なところです。

身体の問題を精神で解決できるというのは「精神主義」です。
日本では軍国主義の時代に精神主義が広がり、いまだに残っています。

スポーツの世界では、優れた能力を持ったアスリートが病気や体の故障で無念の思いで競技の世界を去っていくということが山ほどあり、精神主義の無意味なことがわかります。


ところが、世の中には精神主義がはびこっているので、ものごとを身体の問題ではなく精神の問題ととらえがちです。
池江選手自身もインタビューで「努力は必ず報われるんだなと思いました」と語ったために、ややこしいことになりました(もちろん努力しても必ず報われるとは限りません)。

マスコミは、この復活劇を感動話にするために、よりいっそう池江選手の精神面に注目します。
そのため、白血病はどんな病気で、どのように治癒するのかとか、体力の回復のためにどんなトレーニングをしたのかといった価値のある情報がまったく伝わってきません。


精神主義と似ていますが、道徳の問題としてとらえる人もいます。
「東スポ」によると、5日朝のフジテレビ系ワイドショー「めざまし8」でコメンテーターの橋下徹氏は、この話をぜひ道徳の教科書に載せてほしいと主張したそうです。
 ショッキングな白血病告白から2年2か月、これほど早い五輪代表復帰と、直後の涙のインタビューは日本中、いや世界中を感動の渦に叩き込んだ。

 この大偉業にコメンテーターの橋下氏も興奮。「ぜひ道徳の教科書に、絶対に載せてほしい! このストーリーは子供たちに伝えたいし、家庭内の食事中にもこの話をしてほしい」と熱弁した。
https://news.yahoo.co.jp/articles/553ac35d88a1482693ee958ba63cee5b9e1d29a6

私の考えでは、もしこの話を教科書に載せるなら、道徳ではなく保健体育の教科書です。
白血病の知識と、リハビリテーションやトレーニングの方法を学ぶ材料になります。
道徳の教科書に載せたら、子どもたちは白血病は努力で克服できるのかと誤解しかねません。


自民党は道徳教育を強化しているので、ほんとうにそんな道徳の教科書ができるかもしれないなと思っていたら、現実はその先を行っていました。

朝日新聞が「福島で被災の雑種が災害救助犬に 挑戦11回、葛藤の末」という記事で、「じゃがいも」という犬が災害救助犬になったという話が小学校の教科書に載ったと書いています。
この記事の冒頭だけ引用します。

 福島第一原発事故で全村避難した福島県飯舘村の住民から引き取られ、災害救助犬になった雑種犬がいる。認定試験に何度落ちても挑戦し、11回目でようやく合格した。頑張るその姿は、小学校の道徳の教科書に採用された。救助犬としての期間は残りわずかだが、いつでも出動できるように訓練を重ねる。

試験に10回落ち、11回目で合格したことを記事は「頑張る」と表現していますが、犬がみずから試験を受けたわけではなく、犬の世話をしているNPO法人「日本動物介護センター」の人が受けさせたわけです。
この話から子どもに「諦めない心」を学ばせようというのはむりがあります。
そんなことより災害救助のノウハウを教えたほうがよほど有益です。


災害救助犬をつくるには、素質のある犬を選び、適切な訓練をしなければなりません。犬の「頑張り」は関係ありません。
池江選手の復活も、本人の身体能力と医学の力と適切なトレーニングがあってこそです。それがなければ、いくら池江選手ががんばってもどうにもなりません。

精神主義的な感動話ばかりの報道はいい加減にしてほしいものです。

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テレビ朝日ホームページより

テレビ朝日「報道ステーション」の番組宣伝CMが女性蔑視であるとして炎上しました。
愚かな政治家が愚かな発言をするのと違って、テレビ局の報道番組に関することですから、問題は深刻です。

テレビ朝日はCM動画を削除して謝罪しましたが、今のところそのCM動画はYouTubeで見られるはずです。



動画が見られなくなるかもしれないので、あるサイトから内容を文章化したものを引用しておきます。

テロップ「これは報道ステーションのCMです」

(場面)女性の自室らしい。そこへ女性が帰宅した。24~5歳くらいの女性が画面にフレームインして喋りだす。動画のオンラインで友達と話をしているのだ。女性は極めてリラックスしていて、話している相手が恋人だと思う人がいても良いくらいのイメージで撮ること。女性は全編通して溢れる笑顔である。

女性「ただいまー。なんか、リモートに慣れちゃったらさ。久々に会社行ったらなんか変な感じしちゃった」「会社の先輩、産休あけて赤ちゃん連れてきてたんだけど、もうすっごいかわいくって。どっかの政治家が『ジェンダー平等』とかって今、スローガン的に掲げてる時点で、何それ、時代遅れって感じ」「化粧水買っちゃったの。もうすっごいいいやつ。それにしても消費税高くなったよね。国の借金って減ってないよね?」「あっ9時54分。ちょっとニュース見ていい?」

テロップ「こいつ、報ステ見てるな」
https://news.yahoo.co.jp/articles/a07c8b849df6f038e1b9f763ab9ea77df5708985

いちばん炎上したのは「どっかの政治家が『ジェンダー平等』とかってスローガン的に掲げているのが時代遅れ」という部分です。
ジェンダー平等は国連「2030アジェンダ」に明記されていて、時代遅れどころか2030年までの実現を目指す国際目標です。しかも日本はジェンダー平等については後進国ですから、目標達成ははるか未来です。

それから、最後に「こいつ」という言葉が出てきて、男が女性を上から視線で見ていることがわかります。
女性蔑視CMだとして炎上したのは当然です。


ただ、こんな女性蔑視CMでも擁護する人がいました。
「消費税高くなったよね」という言葉があるので、これは未来社会のことだから、ジェンダー平等のスローガンが時代遅れになっているのだというのです。

「消費税高くなったよね」という言葉に、私も「あれ? いつのことだろう」と思いました。
ただ、未来のことだとは断定できません。未来と過去の両方の場合があります。

それに、もうひとつ別の可能性もあります。
4月1日から小売店で消費税込み価格の表示が義務づけられているので、現在、小売店で税抜きだった価格表示が税込みに変わりつつあります。それを見て、消費税が上がったと勘違いしているのかもしれません。
つまりこの女性はおバカなのです。
男性目線のCMですから、「美人で、明るくて、おバカ」という男にとって都合のよいキャラに設定されている可能性があります。



このCMに対する批判は、もっぱら女性蔑視、女性差別だからけしからんという観点からですが、私は別の観点から批判したいと思います。

今、ジェンダー平等を叫んでいる政治家の多くは野党議員で、女性差別だと批判される政治家の多くは自民党議員です。
この若い女性は、会社の同僚や化粧品など身近なことにばかり関心があるようですが、突然「ジェンダー平等を叫ぶ政治家は時代遅れ」と政治家に対して強烈なパンチを見舞います。
笑顔を浮かべながらのパンチですから、より効果的です。
蓮舫議員や福島瑞穂議員はさぞかしアタマにきたでしょう。

そのあと「消費税高くなったよね。国の借金って減ってないよね」と言うのですが、それに対する感想や意見はありません。
普通なら「消費税上げたのに国の借金がへらないっておかしくない?」などと言うところです。
この若い女性は終始笑顔なので、増税も国の借金も笑顔で受け入れているようです(「消費税高くなったよね。国の借金って減ってないよね」と言うときは笑顔は消えるのですが、すぐまた笑顔になります)。

この女性は、野党議員には的外れなパンチを放ち、財政赤字増大という政権が生み出した重大問題はスルーするのです。
これが報道ステーションのCMだということは、報道ステーションは政権寄りの番組だと宣言しているようなものです。

テレ朝の上層部も、テレビ局は「政治的に公平」であるべきだということは理解しているはずですが、それでも政治的偏向を露呈するとは、骨の髄まで偏向しているのでしょう。


今、テレビ局は、視聴率調査が世帯視聴率から個人視聴率に変化していることもあって、若い女性の視聴者を増やしたいようです。このCMもその狙いでつくられたのでしょう。
若い女性の視聴者を増やしたいなら、報道ステーションのスタッフに若い女性を増やして、「報道ステーションには多くの女性スタッフがいて、女性向けの情報発信を行っています」というCMをすればいいのです。
しかし、テレビ局は既得権益にあぐらをかいているので、そういう自己変革はできず、小手先の対応をするので、このようなおかしなCMができてしまうのです。

既得権益にあぐらをかいている点では、テレビ局も自民党も同じ穴のムジナです。



テレ朝はCM動画を削除するときに声明文を発表しましたが、そこには「ジェンダーの問題については、世界的に見ても立ち遅れが指摘される中、議論を超えて実践していく時代にあるという考えをお伝えしようとしたものでしたが、その意図をきちんとお伝えすることができませんでした」とあり、伝え方が悪かっただけで、意図は正しかったという態度です。
テレビ局のかかえる問題はかなり根が深いといえます。

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東京五輪開閉会式の演出の責任者であるCMクリエーターの佐々木宏氏が、タレントの渡辺直美さんにブタを演じさせるプランをスタッフにLINEで提示し、スタッフの反対にあって撤回していたと週刊文春が報じました。
渡辺直美さんは宇宙人家族に飼われているブタという設定で、その名も“オリンピッグ”というのだそうです。
女性をブタにたとえる侮辱とダジャレのくだらなさなどもあって非難が集中し、佐々木氏は開閉会式演出の「総合統括」を辞任しました。
開会式まであと4か月というときに演出の中心人物が辞めてしまったわけです。

ただ、このプランが提示されたのは昨年3月のことで、アイデアの原型みたいなものを仲間内に提示しただけで、すぐに撤回しています。辞任するほどのことかという声もあります。
しかし、文春の記事を読むと、「渡辺直美ブタ演出」は記事の“つかみ”の部分です。記事の中心は開閉会式演出チームの主導権争いという構造的な問題を扱っています。
文春の記事から主導権争いの部分を簡単に紹介します。


五輪開閉会式演出チームは最初8人でした。
肩書を書くのが面倒なので、ある記事から引用します。
2018年に発表した演出企画チームは、チーフエグゼクティブクリエイティブディレクターを狂言師の野村萬斎が担当。歌手の椎名林檎や振付師のMIKIKO、映画プロデューサーで小説家の川村元気、クリエイティブプロデューサーの栗栖良依、クリエイティブディレクターの佐々木宏と菅野薫、映画監督の山崎貴ら計8人のメンバーで構成される。
https://www.fashionsnap.com/article/2020-12-23/tokyo2020-hiroshisasaki/

最初は映画監督の山崎貴氏が中心となって企画を考えたもののうまくいかず、次に野村萬斎氏が責任者に選ばれたもののこれもうまくいかなかったということです。
文春の記事にはこう書かれています。

「野村氏は伝統芸能の人だからか、提案も観念的。森氏もプレゼンのたびに、野村氏に『意味が分からん』『具現化しろ』と批判し続けていた。最後は森氏主導で、野村氏は責任者を降ろされます」(同前)

 開幕まで残り1年に迫った段階で、企画案は白紙状態。組織委は19年6月3日、野村氏を肩書きはそのままに、管理側に“棚上げ”に踏み切る。〈演出チーム〉の一員だったMIKIKO氏(43)を“3人目の責任者”として、五輪開閉会式演出の「執行責任者」に起用するのだ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/7199b3bd0d68c0253397dc43ac4aa4534ef4e4bd

MIKIKO氏はPerfumeや「恋ダンス」を手掛けてきた振付師で、MIKIKO氏のまとめ上げた企画案はIOCからも絶賛されたということで、方針が固まったかに見えました。
しかし、そこに森喜朗前会長の後ろ盾のある佐々木宏氏が加わります。
佐々木氏は電通の出身で、電通代表取締役社長補佐・髙田佳夫氏の後ろ盾もあります。
佐々木氏は五輪が1年延期になったことをきっかけに“クーデター”を起こして主導権を奪い、栗栖良依氏、椎名林檎氏ら女性スタッフを排除し、最終的にMIKIKO氏も辞任に追い込みます。
そして、佐々木氏は「一人で式典をイチから決めたい」と言って、MIKIKO氏の案を反故にして自分の案を出しますが、佐々木氏の企画はIOCに不評で、結局MIKIKO氏の企画を切り貼りしたものを使うことになったそうです。

 MIKIKO氏、栗栖氏、椎名氏。自らの考えを主張する女性たちを“排除”し、森氏や髙田氏を味方に五輪開会式の“乗っ取り”に成功した佐々木氏。彼は今、どんな式典を思い描いているのか。今年2月時点の案を見たスタッフが明かす。

「問題なのは、顔写真入りで紹介されている主要スタッフの殆どが男性ということ。ヘアメイクや衣装も軒並み男性。キャストもブッキング済みなのは主に男性で、申し訳程度に『アクトレス』の枠が設けられ、配役は未定。こうしたバランスが世界にどう映るか。不安を覚える人は少なくない。ただ、佐々木氏の後ろ盾である森氏や髙田氏らの意向に、誰も逆らえなかったのが現実です」
森氏・佐々木氏・高田氏(電通)という女性差別勢力が開会式の企画を乗っ取り、その中から出てきたのが「ブタ演出」だというわけです。

しかし、マスコミは「ブタ演出」のところにだけ食いついて、その背後にある問題にはほとんど触れません。
これは“電通タブー”のせいであるようです(森氏のことも批判しにくいのかもしれません)。



ただ、問題は開会式がよいものになるかどうかです。佐々木氏がよい企画を出しているのであれば、たかが「ブタ演出」のために辞任に追いやったのは間違いということになります。
ただ、これについては渡辺直美さん自身が企画の評価を語っています。

「採用されてたら断る」 渡辺直美さん、演出問題語る
東京五輪・パラリンピックの開閉会式の演出を統括していた佐々木宏氏が、お笑い芸人の渡辺直美さんの容姿を侮辱するようなメッセージを演出チーム内に送っていた問題について、渡辺さんは19日夜に行ったYouTubeのライブ配信で言及した。
 開会式への出演依頼を受け、振付師・演出家のMIKIKO氏らが手がける開会式の演出案を聞いたときは「最高の演出だった。それに参加できるのはうれしかった」と振り返り、「(周囲からの助言で佐々木氏の案が却下されたのは)一つの救い」「もしもその演出プランが採用されて私の所に来た場合は、私は絶対断ってますし、その演出を批判すると思う。芸人だったらやるか、って言ったら違う」「これが日本の全てと思われたくない。(元々の演出案を)皆に見てもらいたかったし、私も頑張ってやりたかった。その悔しさが大きい」などと語った。

 また他人の容姿を揶揄(やゆ)する言動について「自分の髪色、着たい服、体のことは自分で決めたい。決めるのは自分自身」などと呼びかけ、「これ以上これが報道されないことを祈る。これを見て傷つく人がいるから」と語った。
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14839674.html?_requesturl=articles%2FDA3S14839674.html&pn=2

渡辺直美さんはMIKIKO氏の案を高く評価して、佐々木氏の案はそうでもありません。
おそらく渡辺さんだけではなく、多くの人がそう思っていて、だからLINEの流出も起きて、佐々木氏は辞任に追い込まれたのでしょう。
つまり最大の問題は、「ブタ演出」問題ではなくて、よい案が採用されず、悪い案が採用されたことです。
「ブタ演出」を前面に押し立てて佐々木氏を辞任に追い込んだのはうまいやり方だったかもしれません。



ここまでは文春の記事に乗っかっただけなので、私の考えもつけ加えておきます。

文春は、森氏の女性差別がすべての元凶であるかのような書き方をしていますが、私はそこは違うのではないかと思います。
安倍前首相の名前は文春の記事に一か所しか出てきませんが、安倍前首相こそが黒幕です。

最初に責任者になった映画監督の山崎貴氏は、「永遠の0」と「海賊とよばれた男」を撮っていますが、どちらの原作も百田尚樹氏です。百田氏は安倍前首相のお友だちで、「日本国紀」という「日本すごい」本を書いています。
安倍前首相は「美しい国」や「新しい国」と称して「日本すごい」を主張しています(森氏も「神の国」発言をしています)。
つまり安倍前首相と森氏は「日本すごい」という開会式の演出を望んでいて、それで山崎監督に託したものと思われます。

実はこれが間違いです。
自国優越思想を打ち出したのでは感動的にはなりませんし、そもそも日本はそれほどすごい国ではありません。

具体的には1998年の長野冬季五輪の開会式の演出で「日本すごい」を打ち出したものの、大失敗しました。
開会式の総合演出を担当した劇団四季の浅利慶太氏は、日本文化のすばらしさをアピールしようとして、大相撲の土俵入りと長野県諏訪地方で行われる御柱祭を会場内で実演させました。
大相撲は世界にアピールできるコンテンツだと思いますが、土俵入り自体は見ていておもしろいものではありません。
御柱祭は宗教的行事としての意味がありますが、世界の観客にはなにもわかりません。
結局、世界の観客はわけのわからない退屈なものを延々と見せつけられたのです。

「日本すごい」と思っているのは日本人だけです。「日本国紀」も読まれるのは日本だけで、海外には翻訳されません。

もっとも、北京五輪の開会式では「中国すごい」を打ち出して大成功し、ロンドン五輪の開会式では「イギリスすごい」を打ち出して大成功しました。これは実際に中国とイギリスの歴史が人類史に大きな貢献をしていて、それをビジュアルで表現する演出がみごとだったからです。
北京とロンドンがあまりにもすばらしかったので、そのあとはなにをやっても見劣りしてしまいます。

ところが、安倍前首相と森前会長は、そのむりなことをやろうとしたのです。
山崎監督は期待に応えることができず、野村萬斎氏は伝統芸能の立場から「日本すごい」を打ち出せると期待されたのでしょうが、やはり期待に応えることができませんでした。
3人目のMIKIKO氏は、女性だということもあって「日本すごい」にこだわらない案を出して、IOCから高く評価されました。
案の内容は公表されませんが、佐々木氏のLINEからその一端がうかがえます。

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文春オンラインの記事より

どうやらMIKIKO氏の案は「オリンピックすごい」ないし「スポーツすごい」という内容のようです。
オリンピックが苦難の道を歩みながら発展してきて、多くの人がスポーツを楽しむ世の中を実現するのに貢献してきたという歴史は感動的なものになりえます。

世界の人を感動させるには、「日本すごい」ではなく、なんらかの普遍的な価値観が必要です。
リオデジャネイロ大会は、ブラジルの歴史を描く中でアマゾンの森林資源と地球環境の問題を打ち出して、成功していました。
長野冬季五輪では、パラリンピックの開会式は作曲家の久石譲氏が総合演出をし、自然と文明の共生というテーマがあったようですが、愛と勇気の物語になっていて、すばらしく感動的でした。

しかし、安倍前首相と森氏の頭には「日本すごい」しかなく、それが混乱を招いた元凶でしょう。


佐々木氏が辞任して、そもそも東京五輪が行われるかどうかもわかりませんし、開会式がどんな規模になるかもわかりませんが、もし行われるなら、世界の人を感動させる開会式になってほしいものです。

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セクハラやレイプ被害を告発する「#MeToo」運動が世界的に行われ、日本ではハイヒール強制に反対する「#KuToo」運動があり、そして、最近韓国では学生時代のいじめを告発する「#暴Too」運動が大きな社会問題になっています。

最初のきっかけは、CMなどにも出演する女子バレーボールのスター選手、イ・ジェヨンとダヨン姉妹が過去に壮絶ないじめをしていた事実が発覚したことです。2人は謝罪しましたが、代表選手の資格を剥奪されました。
それから、過去のいじめを告発するということが芸能界でも次々と起きて、ドラマやバラエティ番組がいくつも放送できなくなる事態になっています(詳しいことはこちらの記事で)。

日本では「いじめ」ですが、韓国では「学校暴力」と呼ばれて、法律で定義され、日本よりも犯罪という意識が強いようです。

しかし、小中高校時代のことを告発されても、被害者本人と級友の証言以外に証拠はないはずで、実際、告発された人物はたいていいじめの事実を否定するので、事態はこじれます。
ただ、有名人が告発されると、それだけで大きなイメージダウンになります。


日本でも似たことがありました。
週刊文春によると、眞子さまの婚約者である小室圭さんが中高時代に同級生の女性をいじめて、そのため女性は高校1年で退学し、2年ほど引きこもり生活をし、「人生を狂わされた」と言っているということです。
これなどまったく信ぴょう性がありません。マスコミはずっと小室圭さん批判をしてきて、この報道もその一環です。捏造したものではないかという疑念があります。

それに、学校時代にいじめられたという人はいっぱいいます。そういう人がみんな告発をするようになって、告発された人がなんらかの対応をしなければならないとなると、世の中は大きな難題を背負い込むことになります。
そんなことを考えさせられる文春の報道でした。


それから、私が思い出したのは、1980年代から90年代にかけてアメリカで、幼児期に親から虐待されたとして成人した子どもが損害賠償を求めて親を訴えるケースが頻発したことです。
これに対して、訴えられた親を支援する財団が設立され、心理学者が動員され、幼児虐待の記憶はセラピストによって捏造されたものだという反論がなされ、その結果、訴訟のほとんどは親側の勝利で終わりました(この経緯はウィキペディアの「虚偽記憶」の項目で読めます)。

幼児虐待は家庭という密室で行われ、少なくとも10年、20年も前のことなので決定的な証拠はほとんどなく、そうすると幼児虐待を隠ぺいする方向、つまり親に有利な方向になってしまいます。


韓国の「#暴Too」運動は、これらとはまったく異質です。

「#MeToo」運動が告発するセクハラやレイプは、男と女という強者と弱者の関係で起き、「#KuToo」運動が告発するハイヒール強制は、会社と女性社員という強者と弱者の関係で起き、幼児虐待はもちろん親と子という強者と弱者の関係で起きます。
ですから、こうした運動は社会改革の運動でもあります。

ところが、学校でのいじめは、基本的に同級生という対等の関係で起きます。
もちろん強い者が弱い者をいじめるのですが、強い弱いといってもわずかな差です。ときには立場が入れ替わることもあります。
いじめた者を裁いたところで、社会も変わりませんし、学校も変わりません。
それに、証拠がないので裁判に持ち込んでも勝てることはまずありません。
そうすると、有名人に対する個人攻撃、人格攻撃になるだけです。


さらに、根本的なことを言うと、「#暴Too」運動は告発する相手が違います。

「自由の裏に責任」とよく言われますが、子どもは義務教育や校則や教師の指導に縛られているので、自由がなく、責任の主体にはなりません。
学校でいじめが起きたとき、責任が問われるのは教師と学校です。
日本でいじめで子どもが自殺したとき、自殺した子どもの親が損害賠償請求の訴訟を起こすことがありますが、訴訟の相手はいじめた子どもではなく、たいていはいじめた子どもの親と、管理責任のある学校と教育委員会です。

いじめ防止基本法には、「児童等は、いじめを行ってはならない」とありますが、いじめを行った児童の責任を問う規定はなく、国、地方公共団体、学校設置者、学校及び教職員、保護者の責務の規定があるだけです。
ですから、いじめた子どもが成人になったとしても、その責任を問うことはできないでしょう。
責任を問うなら、当時の学校、教師、教育委員会、そしていじめっ子の保護者です。


韓国でも、自由のない子どもの責任を問うことができないのは同じはずです。
いじめられた人がいじめた相手を憎んで、告発したくなる気持ちはわかりますが、社会やマスコミは冷静に責任の所在を判断して対処する必要があります。
そうすれば「#暴Too」運動も沈静化するでしょう。

いじめっ子の責任を問うよりも学校の管理責任を問うほうがよほど建設的です。

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ユニバーサル ミュージック「うっせぇわ」特設ページより

子どもの間で「うっせえ」という言葉が流行し、眉をひそめる親がふえているそうです。
Adoという18歳の女子高生の歌う「うっせぇわ」という歌がヒットして、その中の「うっせえ、うっせえ、うっせぇわ」というフレーズを子どもがよく口にするというわけです。

昔、志村けんさんが「8時だョ!全員集合」で「カラスなぜ鳴くのカラスの勝手でしょ」という替え歌を歌ったら、子どもたちがことあるごとに「カラスの勝手でしょ」と言うようになって親を困らせ、「8時だョ!全員集合」が「ワースト番組」としてやり玉に上がったことが思い出されます(「ワースト番組」というのはのちの「子どもに見せたくない番組」です)。
また、小島よしお氏の「そんなの関係ねえ!」というギャグが流行したときも、子どもが「そんなの関係ねえ!」とよく言うので、問題になりました。そのため小島よしお氏は、悪い言葉づかいと言われないように「そんなの関係ない!」と言うようにしたそうです。

「子どもに悪影響がある」と言ってテレビ番組や歌などを批判する人は昔からいますが、こういう人こそ世の中に悪影響を与えています。
子どもは好きな番組を見て、好きな歌を聞き、気に入った言葉を口にしているだけです。それをいけないと言うのは、子どもの人格の否定です。
こういう人はさらにテレビ番組を変えようとして、テレビ局にクレームをつけます。これは独裁国がメディアを操作して国民を支配しようとするのと同じやり方です。

「うっせえ」「カラスの勝手でしょ」「そんなの関係ねえ」はみな同じような言葉で、親が「勉強しなさい」「きちんとしなさい」「早くしなさい」などとうるさく言ってくるときに言い返す言葉です。
親は子どもに「うっせえ」と言われたら、歌のせいにするのではなく、自分がうるさいのではないかと反省するべきです。


そういうことで、「子どもに悪影響がある」と言って歌を批判するのは、昔からよくあることで、くだらないなと思っていましたが、「うっせぇわ」という歌をよく聞いてみると、いろいろなことを考えさせられました。



歌詞の全文は次のサイトで読めます。

Ado うっせぇわ 歌詞 - 歌ネット - UTA-NET


Adoはニコニコ動画などに歌を投稿するうちに歌唱力が評判になり、2020年10月に「うっせぇわ」でメジャーデビューした18歳の女子高生だということです。

「うっせぇわ」の作詞作曲はsyudouという人で、年齢不詳の男性アーチスト、音楽プロデューサーです。大卒後、会社勤めをし、2020年に会社を辞めて音楽専業になったということです。
歌手が18歳の女子高生だということが注目されますが、歌詞に「経済の動向も通勤時チェック/純情な精神で入社しワーク」とか「酒が空いたグラスあれば直ぐに注ぎなさい/皆がつまみ易いように串外しなさい」とあるように、これはサラリーマンの歌です。
ただ、Adoの個性に合わせて提供された楽曲だということはあるでしょう。


歌詞の最初のほうに「ちっちゃな頃から優等生」とあるので、これはチェッカーズの「ギザギザハートの子守唄」の「ちっちゃな頃から悪ガキで」を踏まえたものだと指摘されています。

ふたつの歌詞を比べてみました。
「ギザギザハートの子守唄」
ちっちゃな頃から悪ガキで
15で不良と呼ばれたよ
ナイフみたいにとがっては
触わるものみな傷つけた
「うっせぇわ」
ちっちゃな頃から優等生
気づいたら大人になっていた
ナイフの様な思考回路
持ち合わせる訳もなく

「ナイフ」という言葉も共通しているので、「うっせぇわ」が「ギザギザハートの子守唄」を意識していることは明らかです。
しかし、「不良」と「優等生」ですから、そこは真逆です。


ちっちゃな頃から優等生で、今はちゃんと就職して、経済の動向を通勤時にチェックするような生活をしていれば、十分に満足のいく人生ではないかと思われます。
ところが、この男(たぶん男)にはものすごい不満がたまっていて、周りに罵詈雑言をまき散らします。

「クソだりぃな」
「くせぇ口塞げや限界です」
「一切合切凡庸なあなたじゃ分からないかもね」
「もう見飽きたわ二番煎じの言い換えのパロディ」
「丸々と肉付いたその顔面にバツ」
「嗚呼つまらねぇ何回聞かせるんだそのメモリー」

そして、「うっせぇうっせぇうっせぇわ」が激しく繰り返されます。


なぜこんなに不満がたまっているのかというと、優等生の人生を歩んできたからでしょう。

先ほど冒頭部分の4行を引用しましたが、そのあとの3行も続けてみます。
ちっちゃな頃から優等生
気づいたら大人になっていた
ナイフの様な思考回路
持ち合わせる訳もなく

でも遊び足りない 何か足りない
困っちまうこれは誰かのせい
あてもなくただ混乱するエイデイ
「エイデイ」というのはエブリデイ、つまり日常という意味のようです。

ちっちゃな頃から優等生なら遊び足りないのは当然です。
遊びだけではありません。

「ギザギザハートの子守唄」にはこんな歌詞があります。
恋したあの娘と2人して
街を出ようと決めたのさ
駅のホームでつかまって
力まかせになぐられた
   *
仲間がバイクで死んだのさ
とってもいい奴だったのに
ガードレールに花そえて
青春アバヨと泣いたのさ
この不良は恋をして、喧嘩もして、バイクで暴走して、いい仲間もいました。
まさに「青春」をしていたわけです。

親や教師の望むように生きてきた優等生に「青春」はありません。
優等生は「うっせえ」と言いたいときもがまんするので、不満がどんどんたまっていきます(つまり子どもが「うっせえ」と言うのをやめさせようという親は子どもの心に不満をためています)。
その代わり高学歴を身につけて、高収入と高い社会的地位を得られれば引き合うかもしれませんが、そういう人は少数です。
そして、就職してしまえば「青春」を取り戻すことはできません。

「うっせぇわ」という歌は、優等生の“遅すぎた反抗”の歌です。


「ギザギザハートの子守唄」は1983年の歌です。
当時の若者は不良の歌に共感しましたが、今の若者は優等生の歌に共感するのでしょうか。

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3月25日に聖火リレーを始めると、橋本聖子東京五輪組織委会長が表明しました。

聖火リレーは47都道府県を回り、約1万人のランナーが参加する大規模なものです。当然、費用もかかります。聖火リレーの中止検討を表明した島根県の丸山達也知事は警備費などで7200万円の予算を計上しているということです。

組織委は感染対策を次のように行うとしています。
聖火リレーでの主なコロナ対策
<観覧客向け>
インターネットライブ中継での視聴を推奨
沿道観覧は居住地付近でするよう求める
沿道ではマスクを着用し、大声を出さず拍手による応援や配布グッズなど活用の応援を要請
過度な密集が生じた場合はリレー中断も
https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2021-02-25/QP22LDDWX2PS01

ここまでして聖火リレーをする意味がわかりません。
人が集まりすぎると中断するということで、有名人のランナーが相次いで辞退しているのも当然です。

橋本会長は「コンセプトである『希望の道をつなごう』に沿って日本全国に希望をつなげる聖火リレーにしたい」と語りました。

組織委の決めた聖火リレーのコンセプトというのがあって、「Hope Lights Our Way(英語) / 希望の道を、つなごう。(日本語)」というもので、IOCの承認も得ているということです。

英語を直訳すると「希望はわれらの道を照らす」となって、なかなかよい言葉と思えますが、「希望の道を、つなごう」という日本語はほとんど意味不明です。


そもそも論をいえば、「聖火」というものは存在しません。
オリンピア遺跡で採火した火も、百円ライターでつけた火も、同じ火です。
ですから、聖火リレーも無意味なことです。
聖火台の火には見世物としての価値があるので、一人のランナーが国立競技場の聖火台に火をつけるパフォーマンスをすれば十分です。
「聖火」をありがたがるのは科学的精神に反しますし、子どもの教育にもよくありません。

3月2日のTBS系「ひるおび!」で、元JOC職員でスポーツコンサルタントの春日良一氏は「古代ギリシャでは4年に1度休戦するのがオリンピックだった。武器を置いてオリンピアに集まれということを各ポリスに伝えるメッセンジャーの役割をデフォルメしたのが聖火リレーだ」と言って、平和のメッセージの意義を強調していました。
しかし、聖火リレーをやったからといって世界が平和になるものではありません。
聖火は古代オリンピックで開催期間中にともされていて、1928年のアムステルダム大会で復活しましたが、聖火リレーは1936年のベルリン大会でナチスドイツが始めたものです。
聖火リレーにはナチスのオカルト趣味が入っているともいえます。

ただ、いきなり大会を始めるのではなく、聖火リレーをやりながらだんだんとオリンピック気分を盛り上げていくというのはうまいやり方です。
しかし、コロナ禍では盛り上がって人が集まってはいけないわけです。
「盛り上げるためにやるのに、盛り上がって人が集まるといけない」というジレンマに陥ります。
不要不急の聖火リレーは中止が当然です。

では、なぜ聖火リレーをやろうとするのでしょうか。
私が思うに、もし聖火リレーを中止すれば、ただでさえ大会開催に否定的な世論がさらに否定に傾いて、大会中止に追い込まれるのではないかという懸念があるからでしょう。
それぐらいしかやる理由が見当たりません。



では、コロナ禍でオリンピック大会をやる理由はなんでしょうか。

菅義偉首相は繰り返し「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証として開催する」と言っています。
この表現は安倍前首相が言い出したものですが、言い出した当時は、今年7月ごろにはコロナに打ち勝っている可能性が少しはありました。
しかし、現時点では、7月に打ち勝っているということはまったく考えられません。
なにも考えずに昔の言葉を繰り返している菅首相にも困ったものです。

ということは現在、オリンピックを開催するまともな理由が示されていないのです。
「安全・安心を確保して開催する」などと言いますが、これは言葉の遊びで、開催すれば必然的に感染リスクは増大します。
世論調査で中止・延期が8割近くになるのも当然です。

では、中止すればいいかというと、そう単純ではありません。
開催したほうがいい理由もあります。
それは「お金」です。
開催中止になれば大きな損失が発生します。

ただ、その金額がどれぐらいになるのかがよくわかりません。
「東京オリンピック中止の経済損失」で検索すると、3兆4000億円、4兆5000億円、8兆円、29兆円などといろんな数字が出てきます。
これは要するに「経済波及効果」の数字で、もともと大きめに算出してあるのです。

単純に考えて、開催中止になればテレビ放映権料と入場料が入ってきませんし、スポンサー企業からの金も大幅に減額されるでしょう。
一方で開催にともなう出費はなくなるので、それを引いた額が純然たる経済損失です。
それを全部日本が負担するはずはなくて、IOCとの分担になります。

それがいくらになるかを組織委がちゃんと計算して、その数字をもとに菅首相が「中止すればこんなに損をする。だから開催するべきだ」と国民に訴えれば、説得力があります。
というか、これ以外に国民を説得することはできません。


ただ、ここで困ったことがあります。
人間は誰でも利己的で、利己的にふるまいますが、あからさまに利己的にふるまうと、周りの反発を買って、目的とする利益が得られません。
ですから、人間は「利他的に見せかけながら利己的にふるまう」という複雑なことをします。
たとえば、企業は営利が目的ですが、「顧客のため」とか「社会に貢献」とか「地球環境にやさしい」といった言葉で利他的なイメージをふりまきます。
商人は「赤字覚悟の出血サービス」と言いながら利益を得て、政治家は「国家国民のために身命を賭す」と言いながら利権を追求します。
つまり本音と建て前の使い分けをしているのですが、やっているうちに自分でも本音と建て前の区別ができなくなって、誰もが自分を利他的な人間だと勘違いしているのが実情です。

こうした考え方が進化倫理学の基本です。


ともかく、今の世の中、誰もが利己的に見られないように注意し、そして、あからさまに利己的にふるまう人間を見ると非難します。
ですから、菅首相が「中止すればこんなに損をする。だから開催するべきだ」と国民に訴えれば、国民は「お金のことしか考えないのか」「オリンピックに対する冒涜だ」などと言って、菅首相を非難するでしょう。
つまりお金のことはたいせつですが、あからさまに言ってはいけないのです。
大義名分が必要です。

「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証」というのも大義名分ですが、できが悪すぎます。

では、どんな大義名分がいいかというと、「世のため人のため」という利他的な意味のものが最善です。
具体的には「世界中のオリンピックファンとアスリートのために開催しよう」というのがいいでしょう。
実際、世界にはオリンピックを見たいと思っている人がたくさんいますし、アスリートはもちろん出場して活躍したいわけですから、単なる大義名分ではなく実質も伴っています。

中止になるとどれだけ経済損失があるかということを国民に周知しておき、「世界中のオリンピックファンとアスリートのために」ということを大義名分にして国民を鼓舞するのが、オリンピック開催を実現する最善の方法です。

それで国民が鼓舞されなければ、開催は諦めるしかありません。


それにしても、中止の場合の損失も明示されないし、まともな大義名分も掲げられないのでは、開催を目指す人たちが愚かすぎるというしかありません。
利権のことしか考えていないのでしょうか。

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東京五輪組織委員会の森喜朗会長の辞任が取り沙汰されているとき、「組織委の会長は五輪の顔としてふさわしい人物でないといけない」ということが言われました。
組織委の会長は、大会の開会式と閉会式でスピーチをし、IOCの役員らともつきあうので、そういう「五輪の顔」の役割があるということのようです。

結局、橋本聖子五輪担当相が後任会長に選ばれましたが、橋本会長は「五輪の顔」としてふさわしいのでしょうか。

橋本会長は国際的な有名人とまではいえなくても、冬季五輪4回、夏季五輪3回の出場経験があり、国会議員と五輪担当相になったという経歴を聞けば、誰でも「へえ」という反応をするでしょう。
しかし、「強制キス」疑惑も海外でかなり報道されているようなので、「顔」としての役割だけ考えるなら、ふさわしいかどうか微妙です。

では、森氏は「五輪の顔」としてふさわしかったのでしょうか。

森氏は一年間首相を務めましたが、世界でそのことを知っている人はほとんどいないでしょう。
しかも、首相だったときは内閣支持率ヒトケタという最低記録を出す不人気ぶりでした。
高校、大学でラグビーをやっていましたが、選手としての実績はありません。
森氏が開会式と閉会式でスピーチをすると、世界中の人が「なんでこの人が?」と思うでしょう。
IOCの役員らとつきあう上でも、森氏には知性も教養も語学力もありません。
性差別発言がなかったとしても、これほど「五輪の顔」に不向きな人はいないと言っていいぐらいです。


ところが、森氏でなければ「五輪の顔」は務まらないと主張する人がけっこういました。
そもそも「組織委の会長は五輪の顔としてふさわしい人物でないといけない」というのは、森会長を辞任させるなという意味で言われていました。
彼らは森氏は「五輪の顔」に最適だと考えているのです。
「五輪の顔」についての認識がまるで違います。

これはどういうことかと考えているうちに答えがわかりました。
森氏の「厚顔」が「五輪の顔」にふさわしいということなのです。
「厚顔」はすなわち「厚顔無恥」でもあります。単に「面の皮が厚い」といってもかまいませんし、「鉄面皮」という言葉でも同じです。

森氏は数々の失言をして批判されても、謝罪らしい謝罪もせず、平然としています。
首相時代、支持率ヒトケタになれば、普通の人なら自分から辞めるでしょうが、森氏は周りの“森おろし”によってようやく辞任しました。
今回も、女性差別発言をいくら批判されても、本人はまったく反省していないようです。
「厚顔」そのものです。

トランプ前大統領も似たところがあります(体型も似ています)。
トランプ氏も、山ほど嘘をついて、嘘を指摘されても平然としています。そうすると、嘘が嘘でないように思えてきます。
こうした「厚顔」は一種の才能かもしれません。

「厚顔」であることがどうして「五輪の顔」に向いているのかというと、日本人の欧米コンプレックスが関わってきます。


オリンピックは単なるスポーツ大会ではありません。オリンピズムという思想に基づいています。
オリンピック憲章の「オリンピズムの根本原則」にこう書かれています。
1.オリンピズムは肉体と意志と精神のすべての資質を高め、 バランスよく結合させる生き方の哲学である。 オリンピズムはスポーツを文化、 教育と融合させ、 生き方の創造を探求するものである。 その生き方は努力する喜び、 良い模範であることの教育的価値、 社会的な責任、さらに普遍的で根本的な倫理規範の尊重を基盤とする。
2.オリンピズムの目的は、人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すために、人類の調和のとれた発展にスポーツを役立てることである。

これは古代ギリシャに発するヨーロッパ文化の精華を示したものです。
オリンピックはヨーロッパ文化と切っても切り離せません。

ところが、日本人は欧米コンプレックスがあるので、このようなヨーロッパ文化にうまく向き合うことができません。
IOCの役員も高尚なヨーロッパ文化を身につけた人ばかりに違いないと、コンプレックスがある日本人は考えてしまうので、ついつい卑屈になります。

その点、森氏は「厚顔」なので、自分に知性や教養がないことなどまったく気にしません。
IOCの役員に対しても対等な顔をしてふるまいそうです。
それゆえ「五輪の顔」は森氏でなければと考える人がいたのでしょう。
すべては日本人の欧米コンプレックスがなせるわざです。

しかし、会議の長いのが嫌いで、密室談合が得意な森氏にIOCとまともな交渉ができたでしょうか。
森氏を評価する人はいますが、IOCとの分担金交渉を日本有利にまとめたというような具体的な功績を挙げる人はいません。

安倍前首相も森氏と同じような役割を演じていた面があります。
安倍前首相はトランプ大統領やプーチン大統領など欧米の指導者と親しげな関係を演出し、「外交の安倍」などと言われていましたが、外交の成果といえるものはほとんどありません。
親しくもないのに親しげな態度ができるという「厚顔」だけの外交だったわけですが、欧米コンプレックスの強い日本人には支持されました。


オリンピズムといってもそれほど素晴らしいものではありません。
たとえばかつてアマチュアリズムはオリンピズムの重要な柱でした。
そのためにプロとアマを区別しなければならず、さまざまなトラブルがありましたが、方針転換してプロの参加を認めればなんの問題もなく、今ではアマチュアリズムにこだわっていた昔がバカみたいです。
オリンピズムというのは単なる美辞麗句で、今ではオリンピックは商業主義そのものです。


ヨーロッパ文化には優れた面もありますが、古代ギリシャ・ローマは市民よりも奴隷の数が多かったといわれる奴隷制社会で、差別主義もその文化には刻まれています。
具体的にはヨーロッパ文化至上主義があります。これは中華思想のヨーロッパ版です。

オリンピック大会の運営にはヨーロッパ文化至上主義がいまだに残っています。

たとえば開会式の入場行進は、毎回ギリシャ選手団が先頭です。
近代オリンピック大会の最初のうちは、参加国はヨーロッパばかりなので、それでよかったかもしれませんが、今ではオリンピック大会は完全に世界規模になりました。
世界規模の大会でギリシャが先頭だと、古代ギリシャに発するヨーロッパ文化は特別だという意味になります。
日本はヨーロッパ文化至上主義に反対し、各国を平等に扱うように要求するべきです。
また、聖火の採火式もギリシャのオリンピア遺跡で行われますが、東京大会ならば、富士山頂とか高天原で行うようにするべきです。


ともかく、オリンピックはヨーロッパ文化と深く結びついており、欧米コンプレックスの日本人はIOCとつきあうときにどうしても気後れを感じてしまいます。
だからといって、森氏の「厚顔」に頼るのは、みっともないことこの上ありません。

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東京五輪組織委員会の森喜朗会長が辞任するまでのドタバタ劇によって、日本の“不都合な真実”が世界に発信されてしまいました。
森氏が性差別発言をしても居座ったことで日本が性差別に許容的なことがバレましたし、辞任するときに83歳の森氏が84歳の川淵三郎氏を後継指名したことで日本が老人支配の国であることもバレました。

「老害」という言葉がありますが、これは「老人=害」と理解される恐れがあります。問題は社会のあり方なので、「老人支配社会」や「老人優位社会」という言葉が適切です(「老人支配社会」の害を「老害」と表現するのはありです)。

日本は「男性支配社会」かつ「老人支配社会」です。
男性の老人がのさばって、女性や若者の活躍を妨げて、そのため社会全体の活力が失われています。

こうした社会を変えるにはマスメディアの役割が重要ですが、日本はマスメディアも男性支配と老人支配を追認しています。
このことも今回のドタバタ劇で浮かび上がりました。


森氏が「女性がたくさん入っている会議は時間がかかる」という性差別発言をしたのが2月3日で、その翌日には記者会見を開いて、発言を撤回して、反省とお詫びを表明しました。
素早い対応で、常識的にはこれで問題は沈静化するはずでした。
ところが、この謝罪会見がむしろ逆効果になりました。

森氏は紙を読みながら反省とお詫びを表明しました。
そのあと質疑応答になりましたが、このときの森会長の態度が最悪でした。
これは実際の映像を見ないとわかりません。



これは「逆ギレ会見」と言われますが、キレる以前から記者を見下したような傲慢な態度です。謝罪する人間の態度ではありません。
最初の記者に対して「僕はね、マスクをされてると、どうも言葉がよくとれないんだよ」と不満を示しますが、あとのほうでは「ちょっと悪い。(マスクを)取ってくれ。聞こえないんだよ」とマスクを取ることを要求します。
密な会場ですから、普通だとこれだけで炎上して当然です。

森氏がこのような傲慢な態度を取るのは、普段から森氏と記者の関係がこういうものなのかなと想像してしまいます。
麻生太郎財務相が記者をバカにしたようなしゃべり方をする映像がときどきニュース番組で流れますが、あれと同じです。
菅義偉首相が官房長官時代、東京新聞の望月衣塑子記者とやり合っていたことも連想します。
現在の菅首相の記者会見も、記者の質問はすべて事前通告されたもので、菅首相は答えを読むだけです(最後の質問だけ事前通告なしのことがあるようです)。
第二次安倍政権以来、権力によって記者会見がほとんどコントロールされています。

この会見も、森氏の傲慢な態度に威圧されていた記者が多かったような気がしますが、「組織委員会の会長であるのは適任なのか」と骨のある質問をする記者がいて、森氏の「おもしろおかしくしたいから聞いているんだろ」という発言を引き出して、「逆ギレ会見」とされました。


ともかく、この会見の冒頭において、森氏が問題発言の撤回と、反省とお詫びを表明したのは事実です。
その部分に注目する人は、この問題は終わったとして、森氏を擁護しました。
しかし、後半の質疑応答を見た人は、森氏はぜんぜん反省していないとして、森氏を批判しました。
このことで議論が混乱したということがありそうです。


2月12日、東京五輪組織委員会の理事会と評議員会の合同懇談会の冒頭で森氏は会長を辞任することを表明し、15分ほどしゃべりましたが、ここでも差別発言についての反省はうかがえませんでした。
懇談会後の記者会見は武藤敏郎事務総長が行い、森氏は出てきませんでした。もし出てきて質疑応答をしていたら、また問題発言を連発したでしょう。


一部に骨のある記者はいますが、マスメディアは森氏の差別発言を本気で追及しようとはしません。
たとえば「森喜朗 発言」でグーグル検索すると、上位にずらりと出てくるのは「女性蔑視発言」とするものばかりです。「女性蔑視ともとれる発言」というのもあります。「問題発言」「不適切発言」もありますが、「女性差別発言」とするのはほとんど執筆者の名前のある記事です。
つまりマスメディアは、森氏の発言を「女性差別発言」とはしていないのです。

五輪憲章では「男女平等の原則の完全実施」が掲げられ、IOCは9日の公式声明で森氏の発言を「完全に不適切」としました。
ただ、森氏の発言を「女性差別発言」とはしていないともいえます。
つまりマスメディアは、なにかの公的な権威の裏付けがないと、森氏の発言を「女性差別発言」とする勇気はないのです。

マスメディアがこういう態度なので、森氏の辞任が遅れ、最後はドタバタ劇になりました。

新聞社、テレビ局の上層部に女性はごく少数で、もちろんみな高齢です。
日本社会の男性支配と老人支配の構造をささえているのはマスメディアだともいえます。

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ヘイトスピーチ、誹謗中傷、自粛警察、感染者差別など、社会から寛容さが失われていると感じる人は多いでしょう。
では、寛容さを取り戻すにはどうすればいいかというと、誰もその方法を示すことができません。

ヘイトスピーチをする人に対して、「マイノリティに対して寛容になるべきだ」と主張すると、「その主張はヘイトスピーチをする人に対して寛容ではない」という反論がしばしばなされます。
これは「寛容のパラドックス」と言い、カール・ポパーが名づけました。
ポパーは「寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容に不寛容であらねばならない」という結論に達しましたが、見た目が矛盾しているので、この論理で社会を寛容にするのは困難です。

しょっちゅう夫婦喧嘩をしている人は寛容さが足りないといえるでしょう。
本人が寛容さが足りないことを自覚して、寛容になろうとしても、具体的にどうやればいいかわからないので、なかなか夫婦喧嘩も止められません。

「寛容」を国語辞典で引くと、「心が広くて、よく人の言動を受け入れること。他の罪や欠点などをきびしく責めないこと」とありますが、漠然としています。

ウィキペディアによると、「寛容」という概念は、ヨーロッパで宗教改革が起きて宗教対立が激化したために重要視されるようになったということです。
その後、宗教対立以外にも広く寛容のたいせつさが説かれるようになり、宗教的寛容と道徳的寛容として区別する考え方もあります。
日本では宗教対立はそれほど深刻でなかったので、もっぱら道徳的寛容という意味で「寛容」という言葉が用いられていることになります。


道徳的寛容の典型的な物語は「レ・ミゼラブル」(ヴィクトル・ユーゴー著)です。
主人公のジャン・ヴァルジャンはたった1個のパンを盗んだために19年間も服役し、すっかり心がすさんでいました。あるとき泊まった教会の司教は彼を暖かく迎えてくれましたが、彼は教会の銀の食器を盗んで逃げ出し、憲兵に捕まります。しかし、司教は「食器は私が与えた」と言って彼をかばい、さらに2本の銀の燭台も与えます。司教の寛容さに触れたジャン・ヴァルジャンは回心し、ここから長い物語が始まります。これは寛容の連鎖の物語です。

身近なことでよくあるのは、学生のカンニングが発覚して、規定によると単位取り消しで留年になるが、その学生は就職も内定していて、留年させても誰も得しないという場合、担当の教授がカンニングを不問にするというようなことです。
あるいは、商店で万引きした子どもが常習でもなさそうな場合、警察に通報しないで許してやるということもよくあります。

これらが典型的な寛容の例ですが、その特徴を一言でいうと「悪を許す」ということになります。
これは道徳や法律に反するので、社会的に許されません。

教授が学生のカンニングを見逃したことが公になれば、教授も学生もバッシングを受けます。誰も損していないといっても、カンニングをしないまじめな学生に対して不公平だということはあります。
万引きの子どもを見逃したことが知られると、「盗みはいけないことだとわからせるべきだ」といった批判が起きます。

つまり寛容というのは道徳と正面衝突するのです。
「寛容の美徳」という言葉があるので、寛容は道徳の一部と理解されているかもしれませんが、それは誤解です。

道徳というより勧善懲悪と言ったほうがいいかもしれませんが、どちらでもたいした違いはありません。

勧善懲悪は一般に物語の中の原理として理解されています。
有効に機能するのは物語の中だけだからです(もちろん有効に機能するように物語がつくられているのです)。

司法も勧善懲悪を採用しています。悪に対する対症療法として一時的には有効だからです。

マスコミも勧善懲悪を採用しています。読者や視聴者を満足させるからです。

しかし、対症療法だけでは病気が進行してしまうかもしれません。
根本療法(原因療法)が必要ですが、それに当たるのが寛容です。

寛容は心理カウンセリングに似ています。
悪から立ち直るのは本人の力によるという考え方です。
このやり方は、時間はかかっても事態を改善させます。
勧善懲悪は力でその人間を変えようとすることで、目先はうまくいっても、事態をさらに悪化させる可能性があります。

現在、少年法改正による厳罰化が進められようとしていますが、一方で少年の更生に厳罰化はよくないという声もあります。
これは勧善懲悪対寛容の構図と見なすと、よくわかるでしょう。


現在は勧善懲悪の原理が社会をおおっています。
寛容もたいせつなこととされますが、具体的に悪を許すことをすると、社会から非難されます。つまり総論賛成各論反対なのです。
ですから、カンニングや万引きを見逃すといったことは、あくまで隠れて行われています。

最近はマスコミやネットの議論が勧善懲悪の傾向を強めていて、寛容の実行がますます困難になっています。
寛容の復権を目指す人は、ポパーの「寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容に不寛容であらねばならない」というようなおかしな理屈は無視して、勧善懲悪の原理を敵と見なして戦うべきです。

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眞子さまと小室圭さんの結婚問題がマスコミと世間に奔弄されています。

眞子さまの結婚には一時金として1億何千万円だかの税金が支払われるので、国民に口出しする権利があるという認識があるのかもしれません。
しかし、税金というのは全国民のもので、自分の言い分を通すための口実にするのは“税金の私物化”です。

そもそも他人の結婚に口出しするものではありません。
一般人が私的な場で言う分にはなにを言ってもかいませんが、有名人がメディアで結婚を左右するようなことを発言しているのにはあきれます。
しかも、その論理がでたらめです。

「現代ビジネス」にさまざまな有名人の主張を紹介する記事がありました。

「小室圭さんとは破談にするしかない」有識者が厳しく断言する理由

この記事をもとに、その主張について私なりの感想を述べてみたいと思います。



作家の山本一力氏は強硬な結婚反対派です。
小室圭さんの母・佳代さんには元婚約者との間に約400万円の借金トラブルがあって、これが結婚の障害になっていましたが、元婚約者は週刊誌で返金は求めないと表明しました。しかし、山本氏はそれでも問題は解決しないと主張します。
「返済を求めないというのは、貸した側が根負けしてしまったということでしょう。相手が諦めるまで『もらったもの』と言い続ければいい――そんなことがまかり通れば、世の中の規範はひっくり返ってしまいます。

ところが、私と同世代の人間まで、まるで結婚への障害がなくなったとばかりに『おめでとうございます』などと言っている。極めて理解し難いことです。

ここで『なにがご成婚ですか』と眉をひそめ、叱りつけるのが、年長者の務めではないでしょうか。とにかく強制的に破談にするしかないと思います」
借金は、返してもらう側が請求するのが当然です。いつまでも請求しなければ持効により借金は消滅します。これが世の中の規範で、山本氏の言っていることは真逆です。

「強制的に破談にするしかない」というのは無茶苦茶な言葉です。一般人に対してそんなことは許されませんが、皇族に対してはなおさらではないでしょうか。
「現代ビジネス」もこんな主張を載せると見識が問われます。

借金を返すべきだと言う人がほかにもいます。

評論家で歴史作家の八幡和郎氏が話す。

「相手が『返さなくていい』といったからといって済む問題ではないでしょう。借金の踏み倒しをしているようなもので、道義的な問題は消えません。

小室さんが眞子さまとの結婚を望むなら、多くの人から祝福してもらえるように努力すべきでしょう。たとえば、結婚するのであれば、働いて借金を返してからにすべきだと思います」
皇室ジャーナリストの渡邉みどり氏が語る。

「おカネのことはきちんとしなくてはいけません。結婚後も、二人で少しずつ返していけばいいのではないでしょうか。皇籍を離脱しても、眞子さまも一定以上の収入を得ることは可能です。

'05年に結婚された、天皇陛下の妹の黒田清子さまも、現在は伊勢神宮の祭主を務め、報酬を受け取られています。そうして二人で少しずつ返していくべきなのではないでしょうか」

こういう人は、結婚に反対する理由に借金問題を持ち出しているだけの気がします。

そもそも借金問題というのは、小室圭さんの母親と元婚約者の間の問題で、借用書もなく、法的に訴えるほどの根拠もなく、元婚約者が一方的に婚約破棄をして慰謝料も払っていないという関係で、元婚約者が週刊誌上で返済を求めたというものです。

宮内庁の西村泰彦長官も会見で借金問題について「小室さんや小室さんの弁護士が説明責任を果たしていくことが極めて重要」と発言しました。
「返金すべき」と言えないので、「説明責任」を持ち出したのでしょうが、私人である小室圭さんにプライバシーについての「説明責任」があるのか疑問です。
というか、週刊誌などの報道で十分に説明されているのではないでしょうか。

記事は「彼女の幸せを考え、男のほうから身を引く――。小室さんはそうした選択肢も考えるべきなのではないだろうか」と主張しています。
こうした意見はよく目にします。

しかし、眞子さまは11月に文書で「お気持ち」を発表して、その中で「結婚は、私たちにとって自分たちの心を大切に守りながら生きていくために必要な選択です」と結婚への意志を明白にしておられます。
小室さんが身を引いたら、眞子さまへの裏切りになります。
小室さんに身を引けという人は、小室さんの気持ちも眞子さまの気持ちも踏みにじって平気なようです。

2017年の婚約内定のあと、結婚延期が発表されてしばらくの間は、二人の結婚への意志がはっきりしない状況が続きました。しかし、今は二人とも結婚の意志が固いとわかったわけです。
こうなると、皇族であろうとなかろうと、結婚に反対する理由はありません。

しかし、結婚に反対する人がたくさんいます。そういう人が考えていることはわかります。
それは「家柄が違う」です。
皇室は日本最高の家柄で、一方、小室家のことはよく知りませんが、あまり豊かでない母子家庭であるようです。小室圭さんの学歴、職歴もそれほどたいしたことはありません。
究極の「格差婚」です。

ちなみに高円宮家の三女・絢子さまは2018年10月、守谷慧さんと結婚されましたが、この婚約や結婚について世の中から批判の声が上がるということはまったくありませんでした。
守谷慧さんは慶応大学文学部卒、オックスフォード大学でも学び、現在は日本郵船勤務です。日本郵船はもとは国策会社で、三菱グループの中核企業です。父親は東大経済学部卒の通産省のキャリア官僚でした。
これぐらいだと「家柄が違う」という批判はないわけです。


ただ、今の世の中、「家柄が違う」と言って結婚に反対するわけにはいきません。
その代わりに「金目当てだ」などの人格攻撃がされています。

八幡和郎氏は、借金を返すために働くべきだと主張します。
「小室さんは、仕事をして、収入が入る目途をつけたうえで、この借金をどれぐらいの期間で返済していくかということを示すべきでしょう。

弁護士でなくてもいいと思います。公的な団体の職員でも、普通のサラリーマンでもまったく構わないので、堅実に働き始め、身の丈に合った生活をすれば、国民も応援すると思います」

「身の丈」という言葉に、小室さんの人格や能力を低く見ていることがわかります。
ちなみに八幡和郎氏は東大法学部卒、通産省のキャリア官僚を経て、現在は徳島文理大学教授、歴史作家です。
小室さんが“上級国民”の仲間入りしてくることが気に食わないのかもしれません。

このように小室さんの人格や能力を低く見て結婚に反対する人がいるので、結婚に賛成する人は逆に小室さんの人格や能力を持ち上げることになります。

二人の結婚に賛成の立場である漫画家の小林よしのり氏は、その理由をこのように語ります。
「小室さんには、周囲の声にとらわれず、眞子さまとの結婚に邁進してほしい。私はそう考えています。

前提として、小室さんが非常に優秀な男だということがあります。英語が堪能で、留学先では立派な論文(米国におけるクラウドファンディングの法制度について)まで発表している。

第一、ここ数年、あれだけのバッシングを受けながら、ものともせずに、留学し、学業に打ち込んでいる。普通の人間であれば、勉強どころか、食事も喉を通らないでしょう。

眞子さまがいまだに小室さんとの結婚を望み続けているのも、よくわかる。小室さんには、とにかく眞子さまを幸せにしてほしいと思います」

小林よしのり氏は果して小室さんの人格や能力を正確に評価できるのかという問題があります。
それに、小室さんの人格や能力が低い場合は結婚に反対するのかという問題もあります。
人間が人間を評価するのは危ういことです。


根本的には、眞子さまと小室さんの結婚に「賛成」したり「反対」したりするのが間違っています。
結婚については「当事者の意志を尊重する」というのが正しい態度です。



世の中が眞子さまと小室さんの結婚をもてあそんでいると、皇室の存続がいよいよ危うくなります。
というのは、佳子さまや愛子さまの周りの男たちは、佳子さまや愛子さまを恋愛や結婚の対象にしなくなるからです。
もし婚約発表などしたら、その男の若気の至りの数々がSNSの記録や友人の証言などからあばきだされ、週刊誌に書き立てられ、小室さんの二の舞になる可能性が大です。そんなリスクを冒す男はなかなかいません。
とすると、結婚は見合いに限られてしまいます。

悠仁さまの結婚についても同じことが言えそうです。


芸能人が婚約や結婚を発表しても、誰も「賛成」だの「反対」だのは言いません。
眞子さまと小室さんの結婚については平気で「賛成」だの「反対」だのと言っているのはおかしなことです。
あまつさえ結婚を阻止するかのような動きがあるのは、異常というしかありません。

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