村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

カテゴリ: 日記

poster_361c55d5

「哀れなるものたち」(ヨルゴス・ランティモス監督)を観ました。

ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、ゴールデングローブ賞でも複数の受賞を果たし、アカデミー賞では、作品賞、監督賞、主演女優賞を含む11部門にノミネートされるという作品です。R18+指定。

スコットランドの作家アラスター・グレイの小説が原作ですが、物語の骨格がひじょうによくできています。

ビクトリア朝のロンドンで、天才外科医のゴドウィン・バクスター博士は自殺した若い女性の死体に胎児の脳を移植して蘇生させることに成功します。つまり成人女性の体に幼児の心があるという人間をつくりだしたのです。
『フランケンシュタイン』が連想されます。博士の特殊メイクはユニバーサル映画でフランケンシュタインの怪物を演じたボリス・カーロフそっくりです。博士はゴッドの愛称で呼ばれていて、マッドサイエンティストです。実は博士の父親もマッドサイエンティストで、息子の体を使って数々の人体実験をしていました。

ベラと呼ばれる幼児の心を持った女性は予測しがたい奔放なふるまいをします。ベラの心は急速に成長しますが、性的な欲望の制御ができません。遊び人の弁護士ダンカンに誘惑され、ベラも世界を見たくなって、二人でヨーロッパ各国を旅行します。

美術がひじょうに凝っていて、ビクトリア朝の雰囲気がよく出ていますが、ヨーロッパの都市には飛行船が浮かび、ロープウェイの乗り物が動いています。つまりリアルではなく、ファンタジーの要素がかなり入っています。ダークファンタジーともいわれますし、スチームパンクと評する人もいました。ゴールデングローブ賞ではミュージカル・コメディ部門で作品賞を受賞しています。実際、かなり笑える映画です。ウィキペディアには「SFラブコメ映画」と書かれています。


いろんな観方のできる映画ですが、やはり一本の軸となるのはフェミニズムです。
未熟な女性を男が育てるということでは、バーナード・ショーの『ピグマリオン』が連想されます。
最初は未熟だった女性がやがて性的に成熟して男を振り回すということでは、谷崎潤一郎の『痴人の愛』が似ています。
しかし、このふたつの作品は最後まで男の視点です。
この「哀れなるものたち」は、最初は男の視点でベラが描かれますが、やがてベラの視点で物語が展開するようになります。
ベラは性を通じて自立し、社会主義運動に関わって社会問題にも目覚めます。

このあたりで物語の三分の二ぐらいになります。しかし、ベラの身体になった自殺した女性は誰なのか、なぜ自殺したのか、脳を移植された胎児はどこの子なのかといった疑問がそのままなので、ずっともやもやした気分です。
しかし、ここから疾風怒濤の展開になります。説明するわけにはいきませんが、私は「パラサイト半地下の家族」の後半に似ているなと思いました。格差や差別は、下には下があります。
最後に“究極の差別男”とでもいうべき人間が登場します。偏見で凝り固まっていて、人間らしさがまったくない男です。この男と比べれば、ダンカンなど十分に人間らしく思えます。
こういう男とは戦って勝つしかありません。


ベラはやたら性に解放的です。「性の解放」が人間の解放につながるというメッセージがありそうです。

「クリトリス切除」という話が出てきます。これは「女子割礼」ともいわれ、アフリカを中心に広く行われているということは知っていましたが、私にとってはまるで実感のない話でした。
しかし、この映画の中で出てきたことで、急に実感できました。クリトリス切除は人間性の根源的な部分の剥奪です。

「纏足」も似ています。女性の身体を改変して、男性が支配しやすくするわけです。
マッドサイエンティストが登場する以前から人体改変は行われていました。


この映画は「エログロ」の映画でもあります。
観て感動するには、エログロ耐性が必要かもしれません。

グロテスクなものについての耐性は政治的立場と密接に関係しているという科学的研究があります。
「グロ画像を見た時の脳の反応で政治的傾向が右なのか左なのかがわかる?(米研究)」という記事によると、ウジ虫やバラバラ死体、キッチンの流しのヌメっとした汚れやツブツブが密集したものなどのグロ画像を見たときの反応を脳スキャンすると、右寄りの人のほうが強く反応したということです。右寄りの人と左寄りの人の脳スキャンは、あまりにも違っていたため、わずか1枚のグロ画像に対する脳の反応を見るだけで、95%の確率でその人の政治的傾向を言い当てることができたそうです。

中沢啓治のマンガ『はだしのゲン』は、政治的思想以上にグロい絵の印象が強く、右寄りの人はこの絵で拒絶反応を起こしているに違いありません。

エロについても政治的立場が強く関係しています。
昔から国家権力はわいせつなどのエロを取り締まろうとし、それに抵抗してきたのはつねに左翼でした。
保守派は学校での性教育が過激化しているとして騒ぎ立て、そのために日本の性教育はひどく後退してしまいました。

右寄りの人は当然フェミニズムが嫌いですが、それ以前にエログロという点でこの映画を嫌うでしょう。
しかし、エログロは現実に必ず存在するものですから、それを嫌っていたのでは認知がゆがんでしまいます。
右寄りの人は思想的なことよりもまずエログロ耐性を身につけるべきでしょう。


主演のエマ・ストーンはプロデューサーの一員としてもこの映画に参加していて、それだけ気合が入っているのでしょう。ひじょうにむずかしい役を演じ切りました。
奇妙な設定の、カルト映画になりそうな物語を、メジャーな映画に仕上げて、多くの映画賞を獲得したのに感心します。

ちょっと疑問に思ったのは、「性の解放」といっても、女性は妊娠の可能性があるのでそう簡単にはいかないということです(ベラは娼館で働いたりします)。
今の時代はピルなどの避妊法が開発されて、「性の解放」が可能になりました。
避妊法だけでなく妊娠中絶の権利もたいせつです。
今アメリカで保守派が中絶禁止を強く主張しているのは、女性の自己決定権の問題だからでしょう。

この映画は世界的にヒットしていますが、日本では公開第一週の興行成績は9位でした。
ジェンダーギャップ指数125位の国だからでしょうか。

GDXoiR_aQAAoes8
(「週刊文春」1月18日号より)

1月8日、吉本興業は松本人志氏の芸能活動休止を発表しました。
あくまで「活動休止」であって、「活動自粛」でも「謹慎」でもありません。つまり悪いことはしていないというスタンスです。

吉本興業としては、松本氏へのスポンサーや国民の風当たりが強いので、松本氏に謝罪の言葉を述べさせてしばらく謹慎させたかったでしょう。そうすれば半年ぐらいで復帰できるかもしれません。
しかし、松本氏は「謝罪しない人」です(杉田水脈議員もそうです)。これまで謝罪するべき場面でも笑いを混ぜてごまかしてきました。
今回は「自分は悪くない」という態度を貫いていて、活動休止発表と同じ日にXへ「事実無根なので闘いまーす。それも含めてワイドナショー出まーす」と投稿しました。

吉本興業は松本氏の意向を尊重して、「裁判に注力するため」という理由をつけて「活動休止」としました。
裁判といっても実務は全部弁護士がやるので、松本氏は裁判しながら芸能活動をすることは十分に可能です。「裁判に注力するため」というのはあくまで口実です。

週刊文春編集部もその日のうちに「一連の報道には十分に自信を持っており、現在も小誌には情報提供が多数寄せられています。今後も報じるべき事柄があれば、慎重に取材を尽くしたうえで報じてまいります」というコメントを発表しています。
そして、次号に掲載される記事の見出しが明らかになりました。それがこの冒頭に掲げたものです。
それによると、新たに3人の被害女性が証言しています。

これから起きる裁判は、松本氏が名誉棄損で週刊文春を訴えるものになると思われますが、被害女性の証言の信憑性が問題になります。写真や録音の証拠がないのが弱みでしたが、何人もの証言がだいたい一致していれば、それが信憑性を保証することになります。
裁判はどう考えても松本氏が不利です。


松本氏は世の中の変化がまるで見えていなくて、ドン・キホーテのように世の中に向かって突進しています。
Xへの「事実無根なので闘いまーす。それも含めてワイドナショー出まーす」という投稿にも、世間の風は完全に逆風です。「ワイドナショーで後輩芸人相手にしゃべっても意味はない。記者会見をしろ」「フジテレビは公共の電波を一人の男の弁解のために使わせるつもりか」などの声が上がっています。
「事実無根なら記者会見で説明しろ」という声はもっともなもので、松本氏の欺瞞を浮き彫りにしています。

なお、松本氏はXを更新して、「ワイドナショー出演は休業前のファンの皆さん(いないかもしれんが💦)へのご挨拶のため。顔見せ程度ですよ」とトーンダウンしました。
「事実無根」であることをテレビで説明できないのであれば、裁判闘争もまともにできるとは思えません。


松本氏はまた、1月5日にXに「とうとう出たね。。。」というコメントとともにあるLINEの画像を貼り付けました。
その画像は「週刊女性PRIM」が報じたもので、被害女性A子さんが小沢一敬氏に宛てたものとされます。文面は「小沢さん、今日は幻みたいに稀少な会をありがとうございました。会えて嬉しかったです。松本さんも本当に本当に素敵で、●●さんも最後までとても優しくて小沢さんから頂けたご縁に感謝します。もう皆それぞれ帰宅しました ありがとうございました」というものです。
性加害にあった女性がこんなLINEをするはずがないと松本氏は主張したいのでしょう。
しかし、レイプされた被害者が加害者に迎合するのはよくあることです。

伊藤詩織さんが山口敬之氏にレイプされた事件において、伊藤さんはレイプされた日の3日後に山口氏にあてて「山口さん、お疲れ様です。無事ワシントンへ戻られましたでしょうか?VISAのことについてどのような対応を検討していただいているのか案を教えていただけると幸いです」というメールを送っていました。
山口氏はこれを性行為に合意があった証拠だとし、山口氏の応援団もこぞって、「レイプされた人間がこんなメールを送るはずがない。伊藤詩織はうそつきだ」と言い立てました。
しかし、人間の心理として、あまりにも衝撃的な出来事があって、心がそれを受け止められないとき、あたかもそれがなかったかのようにふるまうということがあるものです。これがひどくなると、解離性障害といって、記憶が飛んだり、人格が変わったりします。
東京地裁は2019年12月の判決で、このメールに関して「同意のない性交渉をされた者が、その事実をにわかに受け入れられず、それ以前の日常生活と変わらない振る舞いをすることは十分にあり得る」「メールも、被告と性交渉を行ったという事実を受け入れられず、従前の就職活動に係るやり取りの延長として送られたものとみて不自然ではない」と明快に判断しました。
私はこの判決を見て、ほっとしたのを覚えています。当時の常識からは、このメールがレイプのなかった証拠とされることもありそうだったからです。

当時は伊藤詩織さんへの誹謗中傷が激しく、伊藤さんは日本を脱出してイギリスに移住せざるをえませんでした。
しかし、伊藤さんの奮闘のあと、#MeToo運動が起こり、自衛官の五ノ井里奈さんの告発があり、ジャニー喜多川氏の性加害の被害者が声を上げて、世の中の価値観が変わってきました。
ところが、松本氏はこうした世の中の変化を理解していなかったようです。
松本氏から性加害を受けたという女性が次々と出てきたのは誤算だったでしょう。


松本氏は時代が読めないドン・キホーテであるだけではありません。

松本氏の周りの芸人たちは、この問題に関してほとんどコメントしていません。
12月29日の「ワイドナショー」で、東野幸治氏は「ちょっとびっくりしましたけど」と言い、今田耕司氏は「僕が知ってる松本さん、小沢君がとても言うとは思えないです、記事に書かれているようなコメントを。合コンとかしたこと、何度もありますけど」と言い、あと、ほんこん氏は自分のYouTubeチャンネルで「俺の子を産めとか言うかな?」「俺は相当、(松本氏は)自信があるのではないかなと思いますけどね」と言いましたが、3人とも松本氏と直接話はしていないわけです。
親しい関係なら「文春の記事、ほんまでっか?」と聞いて、その返事をみんなに伝えます。
おそらく松本氏は周りの芸人からも超越的な存在なので、おそれ多くて誰もなにも聞けないのでしょう。


吉本興業の経営陣も同じです。
活動休止を発表した前日、日本テレビ「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!」の放映があり、冒頭でダークスーツ姿の藤原寛吉本興業副社長が「番組を始める前にわたくしのほうから謝罪とお知らせをさせていただきたいと思います」と切り出し、「2023年、弊社所属芸人が皆様に多大なご迷惑、ご心配をおかけしまして、本当に申し訳ございませんでした」と頭を下げましたが、なにについて謝罪しているのかは言いません。
隣の松本氏が「誰のことやねん。いっぱいいるからわからへん」などと突っ込んでいました。

松本氏の性加害問題を笑いにしてごまかすのかと驚きましたが、どうやらこの番組が収録されたのは文春が性加害を報道する以前のことだったようです。ですから、謝罪の対象は“当て逃げ”の藤本敏史氏のことだったと思われます(ほかに浜田雅功氏の“パパ活”などもありました)。
しかし、冒頭場面をカットするか撮り直しすることもできたはずです。そのまま放映したのは、吉本興業はやはり松本氏の性加害問題を笑いでごまかしたかったのでしょう。

吉本興業の岡本昭彦社長も藤原寛副社長も、今は万博催事検討会議共同座長をやっている大崎洋前会長も、みんなダウンタウンのマネージャーだった人です。つまりダウンタウンのマネージャーをやることで出世して経営の中枢に上り詰めたのです。
経営陣と松本氏は一体です。
経営陣も「事実無根」という主張は無理筋だと思っていても、松本氏にはなにも言えないのでしょう。

松本氏はお笑い芸人として圧倒的権威となり、吉本興業においても稼ぎ頭となったことから、誰も意見できない「裸の王様」になりました。


裸の王様はいずれ恥をかくことになりますが、このままでは吉本興業もいっしょに恥をかいてしまいます。
裁判のゆくえ以前に、吉本興業と松本氏の関係に注目です。

2854872_m

ジャニーズ事務所は10月2日、性加害問題への対応について2回目の記者会見を行いましたが、NG記者リストの存在が明らかとなって、事態は反転しました。

記者会見直後は、指名されないことに不満を言う記者や、指名されないのに発言する記者がいるなど記者のマナーの悪さが指摘され、井ノ原快彦副社長が「落ち着きましょうよ。子どもたちも見ています」などと言って記者たちをいさめたときには会場から拍手が起きるなど、「一部の記者が悪、ジャニーズ事務所が正義」みたいな図式でした。
ところが、NG記者リストがあるとなると、指名されなくて不満を言った記者のほうが正義ということになり、オセロゲームのようにすべてがひっくり返りました。
さらに、ジャニーズ事務所は指名OKの記者リストをつくっていたことも判明しました。
つまりジャニーズ事務所に批判的な記者は指名しない一方、ジャニーズ事務所に都合のいいことを言いそうな記者を指名して、記者会見をしゃんしゃん大会ならぬ“しゃんしゃん記者会見”にするつもりだったようなのです。

おそらく官房長官や首相の記者会見で指名される記者も質問内容も最初から決まっているのを見て、真似したのでしょう。


私は念のためにYouTubeで約2時間の記者会見をすべて見てみました。

司会者は記者を指名するとき、決まって20秒から30秒ぐらい時間をかけます。勢いよく手を挙げた、いちばん目立つ記者を指名すれば時間はかからないはずです。NGリストとOKリストの顔写真と、手を挙げている記者の顔を脳内で照合しているから、指名するのに時間がかかるのでしょう。

それから、井ノ原副社長が「落ち着きましょうよ。子どもも見ています」と言った場面をニュース番組で見て、会場が騒然としたから、それを収めるために井ノ原副社長がそう言ったのかと思っていましたが、実際は多少騒然としたときがあって、それが収まったタイミングで言っていました。
つまり必ずしも言う必要はない場面でした。
実は井ノ原副社長は質疑応答が始まって25分ほどしたところでも、「落ち着きましょう。落ち着きましょう」と言っていました。
どうやら井ノ原副社長はそういう役回りをすると最初から決まっていたようです。

最初はNG記者を指名しないことでしゃんしゃん会見にするつもりだったかもしれませんが、指名されない記者が騒ぐに違いないと思い直して、「騒ぐ記者対冷静なジャニーズ経営陣」という図式を描く作戦にしたのでしょう。

NG記者リストに入っていた鈴木エイト氏がX(旧ツイッター)に次のような投稿をして、その手口の一端をあばいています。

鈴木エイト ジャーナリスト/作家
ジャニーズ事務所会見当日、私が抱いた最も大きな違和感は”客席”上手側の後ろの方に座っていた男性の存在とその言動だ。大柄なこの男性は質疑応答の際も手を挙げることなく、NGリストの記者が質問者指名選別に異論を唱えていた時、被せるように「捌けよ、司会がぁ!」「司会がちゃんと回せよ!」などと罵声を浴びせていた。私の直感だが、この男性はメディア関係者ではない。各報道において「指名されない記者からの不満の声が~」「加熱する記者に~」というイントロダクションでこの怒号が流れるのは当日の会見場で起こっていたこととは反する。本日の日本テレビの報道では『ジャニーズがコンサル会社に相談「会見が荒れないように手立てを考えて」』とあった。敢えて主催者側が場を荒れさせ、それを“回収”していた疑惑も浮上する。この男性の人物特定が“謎”解明のポイントになるのではないか

ジャニーズ事務所は「騒ぐ記者」まで仕込んでいたようです。
これはかなり悪質です。
これが事実と認定されれば、ジャニーズ事務所の名誉回復は困難です。


ジャニーズ事務所がちゃんと反省していれば、記者会見でなにを質問されても対応できるはずです。
NG記者リストをつくるのは、なにかやましいところがあるからです。

記者会見を聞いていると、いろいろお粗末なところがありました。たとえば被害者への補償のやり方が具体的にはまったく決まっていないようでした。質問したのがきびしい記者でなくて幸いでした。
しかし、その程度のことなら、批判されても低姿勢で切り抜けられるでしょう。

ジャニーズ事務所がいちばん追及されたくないことはなにかと考えると、ジャニー喜多川氏の性加害を東山紀之社長以下の新しい経営陣が知らなかったはずはないだろうということです。このことはこれまで一応否定されてきましたが、あいまいでした。

ジャニーズ事務所の「外部専門家による再発防止特別チーム」の調査報告書によると、「ジャニー氏の性加害は、1950年代から2010年代半ばまでの間にほぼ万遍なく認められた」とされ、その間の被害者の数は「少なく見積もっても数百人がいるという複数の証言が得られた」ということです。

被害者が多数であれば、そのことは隠しようがないはずです。
文春オンラインの記事がその状況を描いています。

 ジュニア時代は豊川誕やJOHNNY'S ジュニア・スペシャルなどのバックダンサーを務めていたという杉浦氏。朝早い番組収録がある日には、麻布十番にあったジャニー氏の自宅兼合宿所のマンション「ドミ麻布」に泊まりに行っていた。150平米ほどの広さで、デビューしたタレントの部屋に加えて、大勢のジュニアが雑魚寝する部屋があった。

 杉浦氏はそこで被害に遭った。

「(雑魚寝部屋で寝ていると)大好きな麻雀を終えたジャニーさんが夜中に帰ってくる。そしてみんなが寝ている場所にやってくる。まず真ん中に入ってきて、そこから右に行くか、左に行くかはわからない。真ん中は基本的に(何も知らない)新しい奴。俺は(被害に遭わないように)端っこで壁にへばりついていました。それでも普通に(パンツの中に)手をいれてくる」(杉浦氏)
(中略)
「『トイレ行ってきます』と言って、朝まで出てこない奴もいました。ジャニーさんがいるから怖くて戻って来られない。そいつはその後すぐ辞めていました」(同前)

 ジュニアたちは皆、ジャニー氏の性加害を怖れていた。しかし、我慢してやり過ごしていたという。

「ジャニーさんに嫌われたら、その先がない。そう考えたら、もうそれしかないわけです。ジャニーさんのやりたいようにやらせるしかない。だって、みんなデビューして名を馳せたいんです。だから逆らえない。一切逆らえない。実力社会じゃなく、やっぱりそこはおかしいよね」(同前)

ジュニアのほとんどは性被害にあっていたようです。

このあたりのことは東京新聞がいくつもの記事を「【ジャニーズ性加害問題まとめ】元Jr.ら、次々と勇気ある告白…社名変更、廃業へ」というサイトでまとめています。

性被害にあわなかった人でも、仲間が性被害にあっていたことはわからないはずはありません。
そうすると、今活躍しているジャニーズ事務所のほとんどのタレントは、ジャニー氏による性加害の被害者か、そうでなくてもジャニー氏による性加害が事務所内で広く行われていたことを知っている人です。

もちろん東山社長や井ノ原副社長も例外ではありません。
そのことをはっきりさせなければ再出発もないはずです。

記者会見でそのことをずばり質問した記者がいました。
NG記者リストに入っていた佐藤章氏です。どうやら司会者が間違って指名してしまったようです。
佐藤氏は、東山社長はジャニー氏の性加害を知っていたのではないか、カウアン・オカモト氏が当時合宿所にいた100人から200人のほぼ全員が被害にあったと証言しているので知らないはずはない、知っていて防止策を講じなかったなら児童福祉法違反の共犯や幇助犯になるのではないかと追及しました。
東山社長は知らなかったと言いましたが、「当時は16,7歳だったので、性加害について理解するのがむずかしかった」とも言ったので、かなり微妙です。
なお、木目田裕弁護士は、東山社長が性加害をかりに知っていたとしても共犯や幇助犯にはならないと言いました。

こういう本質をつく質問をする記者がいるので、ジャニーズ事務所はNG記者リストをつくったのでしょう。


東山社長は社長という立場なのでこのような追及を受けましたが、本来は被害者なので(被害を受けていればですが)、同情されていいはずです。
問題は、経営には関わらない多数の所属タレントたちです。
再発防止特別チームの報告書や被害者の証言からすると、タレントのほとんどは性被害を受けているはずです(本人は被害を受けていなくても、DVを身近に目撃するだけで面前DVとされるように、身近な人間が性被害を受けているのを知っただけで被害者と見なすことができます)。

つまり東山社長以下、多数の所属タレントが性加害の被害者であるにもかかわらずそのことをごまかしていることこそ、ジャニーズ事務所がかかえる最大の問題です。


おそらくファンたちも、自分の“推し”が被害者かもしれないと思って、もやもやした気持ちをかかえているはずです。
日本全国で大量のタレントとファンの関係がおかしなことになっているのです。
この関係を正常化することが、被害者補償の次になされるべきことです。

まず東山社長、井ノ原副社長が自分自身の性被害を告白するべきです。もし自分が被害にあっていなければ、周りの人たちの被害について語るべきです。
それから元SMAPのメンバーあたりが告白すれば、若い人たちも告白しやすくなるでしょう(森且行氏がSMAPを抜けたのもジャニー氏の性加害が関係しているに違いありません)。
芸能活動を続けるにはジャニー氏の性加害を受け入れるしかなかったので、そのことは決して批判されることではありません。
告白すればトラウマの解消にも役立ちます。


みんなが告白すれば、ジャニー氏がとんでもない異常性癖を持った人間だということが明らかになり、ジャニーズ事務所についての見方も変わるでしょう。
ジャニーズ帝国が解体して消滅すれば、それは好ましいことです。

27224930_m

ジャニーズ事務所の名前を変えるべきか否かが議論になっています。
この名前のままではジャニー喜多川氏による性加害が想起され、被害者が傷つくというのです。
しかし、ジャニーズ事務所はジャニー氏がつくったもので、所属タレントもほとんどはジャニー氏が採用して育成したわけですから、全体がジャニー氏の色に染まっています。名前だけ変えてもたいした意味はありません。

世の中には、ツイッター(現X)で「#ジャニーズ事務所を応援します」というハッシュタグが一時トレンド入りするなど、ジャニーズ事務所やその所属タレントを応援する人がたくさんいます。
一方、ジャニー氏の性加害を告発した被害者を誹謗中傷する人もいて、応援する人との区別がつきにくくなっています。
ジャニー氏のしたことをすべて否定するから、こうした混乱が生じるのです。
ジャニー氏のしたことを、よいことと悪いことに区別しないといけません。

ジャニー氏の性加害はもちろん悪いことです。芸能事務所の社長という圧倒的な権力を背景に、12,3歳という若い子も含まれる少年たちを自身の欲望の犠牲にしたわけで、少年の心に深い傷を残したのは確実です。
しかし、その一方で多数の男性アイドルを育てて、「ジャニーズ帝国」と言われるほどの一大勢力を築き上げました。
このように多数の男性アイドルを育てたのはジャニー氏の功績として評価するべきでしょう。

ジャニー氏が巧みだったのは、フォーリーブスを皮切りに、シブがき隊、少年隊などのようにグループとして売り出したことです。
このグループ戦略は、モーニング娘。やAKB48、さらには韓国アイドルにも広がりました。
おそらく芸能界を一人で生き抜いているアイドルは、若いファンには身近に思えないのでしょう。グループ活動をしているアイドルなら、中学生や高校生にとって親しみがあります。

それから、歌と踊りだけでなく、しゃべりの技術を向上させて、バラエティ番組に進出させたのも成功しました。今ではバラエティ番組はジャニーズのタレントだらけです。

そのような売り出し方もだいじですが、やはりいちばんだいじなのはそのアイドル自身の魅力です。
ほとんどはジャニー氏が選んだのでしょうから、その目利きがすごいといえます。

ジャニーズのアイドルはそれぞれ個性的で、多様な人間が集まっていますが、全体として一定の傾向があります。
学校のクラスでいえば、優等生タイプはいません。あまりイケメンでない、ひょうきん者はいます。不良っぽいのもいますが、ほんとうの不良みたいなのはいません。
そしてなによりも、体の大きい筋肉質の男、つまりマッチョはいません。これがなによりの特徴です。
つまり「男くさい」のはいなくて、全員が「少年っぽい」のです。
これはEXILEと比べてみれば歴然とします。EXILEは全員マッチョで、「男くさい」のがそろっています。ジャニーズと好対照です。
なお、不思議なことにジャニーズのアイドルは何歳になっても「少年っぽい」ままで、「貫禄」がつきません。

こうした特徴は、おそらくジャニー氏の好みによるのでしょう。
ジャニー氏は、好みの少年を事務所に入れて、ハーレムを形成しました。ハーレムからその日の気分に合わせて少年を選び出して、夜の相手をさせていたわけです。
ジャニー氏の性癖は、同性愛でかつ小児性愛ということになるでしょう。
同性愛自体は問題ではありませんが、小児性愛は、その欲望を実行に移すと犯罪になってしまいますから、めったに満たされることはありません。
ところが、ジャニー氏は自由にその欲望を満たしていたわけです。
世界広しといえども、現代にこのように欲望を満たしていた人間はほかにいなかったのではないでしょうか。


ジャニーズ事務所のアイドルが芸能界を席巻したことで、世の中の価値観が変わりました。
ジャニーズのアイドルのような「少年っぽい」男がいい男、もてる男ということになりました。
「男くさい」男、マッチョな男は人気がなくなりました。
若い男性は女性にもてるために、ジャニーズのアイドルのような男を目指したので、日本の若い男性全体がジャニー氏のハーレムの方向にシフトしたことになります。

ジャニーズ事務所の社名を変えるより前に、日本はジャニー氏によって変えられていたのです。

もっとも、「男くさい」男から「少年っぽい」男へのシフトは、平和な時代が長く続いたことが主な原因です。ただ、ジャニー氏がその変化を加速したということはいえるでしょう。
この変化がよいか悪いかといえば、私自身はよいと思っています。軟弱な男が増えたということで、それだけ戦争しにくくなるからです。


なお、秋元康氏プロデュースのAKBグループ、坂道グループのアイドルにも一定の傾向があります。
学校のクラスでいえば、不良、ギャル、ヤンキーっぽいのはまったくいなくて、優等生っぽいのばかりです。
おそらくこれは秋元氏の好みなのでしょう。
日本のアイドル文化は、2人の男の個人的な好みによって決定されているのです。

そして、このアイドル文化は日本社会のあり方にも影響を与えているに違いありません。


domestic-violence-7669890_1280

ジャニー喜多川氏の性加害問題に関する「外部専門家による再発防止特別チーム」が8月29日、調査報告書を公表し、ジャニー氏の性加害について「長期間にわたって広範に未成年者に対して性加害を繰り返していた事実が認められた」としてかなり具体的に記述し、さらに藤島ジュリー社長の辞任を求めました。
この「特別チーム」はジャニーズ事務所が設置したものなので、ジャニーズ事務所に対して甘い内容の報告書になるのではないかと見られていましたが、意外なきびしさでした。

ジャニー氏の性加害問題は、1999年に「週刊文春」が本格的に追及し、ジャニーズ事務所が「週刊文春」を名誉棄損で訴えますが、「その重要な部分について真実」とする判決が2004年に確定しました。
ところが、新聞もテレビ局もこの問題をほとんど報じず、ジャニーズファンや国民も関心を示さないので、まるで問題がないようなことになっていました。
ジャニーズ事務所の力が圧倒的に強いのでテレビ局は批判などできず、ファンもアイドルのイメージを傷つけたくなかったのでしょう。

ところが今回、イギリスのBBCの報道をきっかけに少しずつ日本のメディアも報道するようになり、さらに国連人権理事会の調査チームが来日して国際問題化し、世論も関心を高めていました。
そうした流れがあったので、「特別チーム」の報告書もきびしいものになったのでしょう。

こうした流れを形成するのに力があったのは、ジャニー氏による性加害の被害者が次々と顔出しして被害を訴えたことです。
こうなるとニュース番組も報道しないではいられません。
ジャニーズ事務所としては「性加害はなかった」あるいは「性加害のことはわからない」としたいところでしたが、被害者が出てきたのではそうもいきません。


セクハラ被害者が顔出しして被害を訴えたということでは、自衛隊員の五ノ井里奈さんがそうでした。
五ノ井さんは訓練中に男性隊員からセクハラ被害にあったことを自衛隊に訴えますが、黙殺されたので、やむなく顔と実名を出してマスコミに訴えました。たった一人で自衛隊を相手に戦ったのですが、昨年12月に加害者の隊員5人が懲戒免職になるなどの処分が発表され、戦った成果がありました。

こうしたことの元祖は、ジャーナリストの山口敬之氏にレイプされたと訴えた伊藤詩織さんです。
伊藤さんは就活中の学生時代に山口氏にレイプされましたが、山口氏は安倍首相のお友だちであったため警察が逮捕状を執行せず、顔出しして被害を訴えました。警察と検察を動かすことはできませんでしたが、民事訴訟では最高裁まで行ってほぼ完勝に近い結果でした。


今の時代、「被害者の感情」というものがひじょうに重視されます。

もともと悪を罰するのは「正義」の論理によっていました。
ところが、今は「正義」の価値がはなはだしく下落しています。なにかを主張するとき「正義」を名目にすると、絶対反論されるはずです。
法務省が死刑制度を正当化するときも、アンケートで死刑賛成が多数であるという「国民感情」を理由にします。
なにか凶悪な殺人事件が起こったときも、決まって被害者遺族がテレビのインタビューで「死刑を望みます」と語る場面が流されます。
テレビのコメンテーターなども、事件や迷惑行為や不倫などについてなにか主張するときは最終的に「被害者の感情」に結びつけます。

今や「被害者(遺族)の感情」が「正義」に代わって社会を動かす原理になっています。

「被害者の感情」を世の中に訴える場合、被害者の顔が見えるのと見えないのとでは大違いです。
それに、被害者本人がいると、間違った主張にすぐに反論できます。

韓国の人気女性DJであるDJ SODAさんが8月13日、大阪の音楽フェスティバルで複数の人間から胸を触られるという痴漢被害にあい、X(旧ツイッター)で公表しました。
その中に「公演中にこんなことをされたことは人生で初めてです」とあり、これは日本人批判だということで反発が強まりました。
そして、海外の公演で体に触られている動画とともに「海外でも痴漢にあっている。DJ SODAは嘘つきだ」という主張が拡散しました。しかし、これにはDJ SODAさんがすぐに「その触っている人物は私のボディガードです」と反論して、収まりました。
また、「露出の多い服装をしているから痴漢にあうのだ」という批判も山ほど発生しましたが、DJ SODAさんは「服装と性犯罪の被害は絶対に関係がない」「原因はセクシーな服装ではなく、加害者」と反論しました。


伊藤詩織さん、五ノ井里奈さん、ジャニー氏の性加害の被害者たちが勇気ある告発をしたことで、世の中の空気も変わってきましたが、これらの人たちは猛烈な誹謗中傷にさらされました。
伊藤さんは日本にいられずイギリスに移住しましたし、五ノ井さんはあまりの誹謗中傷に昨年10月、ツイッターに「人を中傷する人生なんて何が楽しいのか分からない。誰かの悪い所10個探すより人の良いところを10個探した方が楽しい。早く笑って過ごしたい。もう耐えるのも疲れてきた」と心情を吐露したことがあります。
ジャニー氏の性加害の被害者たちも「売名行為だ」「カネ目的だ」と批判され、「『死ね』っていうメールが毎日来た」(橋田康氏)というぐあいです。


顔を出してセクハラなどを告発する人間がなぜこれほどに誹謗中傷にさらされるのでしょうか。
それはセクハラなどの被害者が顔を出して告発することがきわめて効果的だからです。
しかも、これまでの告発は性的な問題にとどまらず、安倍政権、自衛隊、大手芸能事務所という権力構造を標的にするものでした(実は権力構造がセクハラの温床だったわけです)。
ですから、保守的な人たちは「小娘や若僧が権力の根幹を揺るがしている」といういら立ち覚えて、誹謗中傷を浴びせているのでしょう。

今後も勇気ある告発をした被害者は、こうした誹謗中傷にさらされるでしょうが、セクハラ、性加害、レイプが悪いという認識の広がりを止められるはずがありません。

23088112_m

オリエンタルラジオの中田敦彦氏がYouTubeで松本人志氏を批判したことが波紋を広げています。
その広がり方が尋常でなく、しかも、みんなの言っていることが明らかに的外れです。
お笑い界の人間はみんな松本氏にこびているから的外れなことしか言えないのだろうと推測しましたが、推測していても始まらないので、問題の発端である「中田敦彦のYouTube大学」の〈【松本人志氏への提言】審査員という権力〉という動画を見てみました。



まず思ったのは、中田氏の松本氏批判は想像以上に辛辣だということです。
今の世の中、名前を挙げてここまで直球に人を批判するのはめったに見られません。
そのために波紋が尋常でない広がりを見せているのでしょう。

ただ、43分もある動画です。内容をわかりやすく文章でまとめたものがあればいいのですが、探しても見当たらないので、自分で書くことにしました。

私自身はというと、かなりお笑いが好きで、バラエティ番組をよく見ています。松本氏はキャラクターとしては好きではありませんが、お笑いの才能は高く評価しています。


中田氏の話は、「THE SECOND」という漫才大会のことから始まります。
「M-1グランプリ」という漫才大会は出場資格が結成15年以内の漫才師となっていますが、「THE SECOND」は結成16年以上の漫才師を対象として今年から始まりました。これによってすべてのキャリアの漫才師が賞レースに参加できることになったわけです。
昔から関西のお笑い界では賞の出る大会がいくつもあって、吉本興業は受賞した芸人のギャラを高くするなどして、受賞歴が高く評価されていましたが、東京にそうした大会はなかったそうです。
そこにM-1が始まって、優勝者や準優勝者が売れるようになると、東京にも賞レース至上主義、漫才至上主義のようなものが広がります。
それまでは「ボキャブラ天国」とか「エンタの神様」のような、テレビのバラエティ向きの笑いがいくつもあり、漫才はその中のひとつでしたが、今は漫才の格式が高くなっているということです。

このようにお笑い界における賞レースの位置づけが語られます。これはお笑いに興味のない人にはどうでもいいことですが、これは重要な前振りです。

中田氏が言うには、M-1は審査員に特別に光が当たる大会です。とろサーモンの久保田氏が審査員の上沼恵美子氏と起こした騒動もありましたが、昔は島田紳助氏の言葉が注目され、最近は松本氏の言葉が注目されます。松本氏が「もっと点数入ってもよかったと思いますけどね」と言うと、言われた漫才師はすごくフィーチャーされます。
そして、中田氏は「松本さんがあらゆる大会にいるんですよ」と言います。
ここからはできるだけ中田氏の言葉で伝えることにします。

「松本さんはなんだかんだで若手を審査する仕事がめっちゃ多い。第一人者だから、カリスマだからという意見もあるかもしれませんが、カリスマ的芸人でもたけしさんやさんまさんはそんなに審査員はいっぱいやらない。ここが松本さんの特筆すべきところで、松本さんはあらゆる大会を主催して、あらゆる大会の顔役になっていったんです」
「審査員って権力なんです。この権力が分散していたらまだいいんですけど、集中してるんですね。松本さんは漫才(M-1)にもいて、コント(キングオブコント)にもいて、大喜利(IPPONグランプリ)にもいて、漫談(すべらない話)にもいる。全部のジャンルの審査委員長が松本人志さんというとんでもない状況なんです」
「これでどうなるかというと、松本さんが『おもしろい』と言うか言わないかで、新人のキャリアが変わるんです」
「この権力集中っていうことは、松本さんがそれだけ偉大な人だから求められているんだともいえるけど、求められていることと実際にやるのは違うことなんです。求められたとしても、実際にやることがその業界のためになるかというと、僕の意見としてはあまりためにならないと思う。なんでかっていうと、その人の理解できないお笑いっていうのは全部こぼれ落ちるから」
「だから、新しい大会で新しい審査委員長が出てくればいいけど、新しく始まったTHE SECONDのアンバサダーという役割は松本さんだった」

ここまでは松本氏が審査員をやりすぎていることに対する批判です。
ここから松本氏個人に対する批判になります。

「お笑いって芸術じゃなくて、徹底的に大衆演芸で、受けたほうが勝ち、より多くの笑いを取ったほうが勝ちなんですよ。ところが、松本さんって価値観に介入する人なんです。M-1の審査のときでも、『もっと受けてもよかったな』とか『もっと点数入ってもよかったな』とか言う。大衆の反応よりも審査員の好みとか思想が優先されるんですよ。テツandトモはリズムネタですごい受けたけど、『あれは漫才じゃない』という理由で落とされてしまう」
「松本さんが『あれおもしろいな』って言うのはいいと思うんです。しかし、『あれおもしろくないな』って言うのは業界全体にとって悲劇なんですよ。受けてない人は世に出てこないから、ほっとくじゃないですか。松本さんが『あれおもしろくないな』ってことさら言うときって、売れてる者に対して言うわけですよ。その最初が『遺書』っていうすごい売れた本で、めちゃくちゃ売れてるナインティナインさんをめちゃくちゃこき下ろしてるんですよ。それって必要ないことじゃないですか。そういう『あれおもしろくないな』を何度かやるんですよ」

「松本さんに対してなにもものが言えない空気ってすごくあるんですよ。ジャニー喜多川さんの件にしても、ジャニーさんが生きてる間に言いなよっていう意見があったりするけど、生きてる間に言えなかったんだろ。それがいちばんの問題なんじゃねえの」
「松本さんの映画がおもしろいかおもしろくないかって、芸人が誰も言わないんだよ。観てないはずがないのに。みんな『松本さん、審査員ちょっとやりすぎじゃないですか』ってどっかで思ってるけど、言えないんだよ」
「みんなの代わりに言っちゃおうかなって。松本さんは審査員をやりすぎちゃってる。何個か辞めてもらえないですか。M-1だけに絞られるのがよろしいんじゃないですか」


中田氏はずっと松本氏からディスられてきて、今は吉本興業を辞めて、登録者数500万人のユーチューバーになったので、松本氏に言いたいことが言える立場になったということです。

中田氏の主張で、いまだに松本氏を超える芸人が出てこないのは今までの審査体制がよくないからだというのがありますが、これについては必ずしも賛同できません。松本氏を超える才能が存在していなかっただけかもしれません。

ただ、松本氏が審査員をやりすぎているのはよくないという主張には全面的に賛同します。
なにごとであれ、権力が集中するのはよくありません。そのために独占禁止法があり、三権分立があり、民主主義があるのです。
松本氏が実力と人格を兼ね備えた人であっても、長く権力の座にいると次第にわがままで傲慢になっていきます。
「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する」という言葉の通りです。
松本氏が「もっと点数入ってもよかった」と言うのは、松本氏が“審査員の審査員”という立場にあることを意味し、すでに独裁化しているといえます。


松本氏が審査員をやりすぎているために日本のお笑いが広がりを欠いているかどうかはむずかしい問題ですが、たとえば、とにかく明るい安村氏はイギリスのオーディション番組「ブリテンズ・ゴッド・タレント」で決勝進出という快挙を成し遂げました。こういうお笑いは漫才至上主義から出てこないことは確かです。
また、「有吉の壁」はショートコント中心の番組で、斬新な発想に満ちていて感心しますが、こういうのも松本氏の発想の外かもしれません。


中田氏の提言に対して、松本氏はツイッターで名前は挙げずに「テレビとかYouTubeとか関係なく2人だけで話せばいいじゃん。連絡待ってる!」と投稿しました。
公開での提言に対して「2人だけで話せばいいじゃん」と返すのはどうなのでしょう。自分なりの答えを示してほしいものです。

オリラジの相方の藤森慎吾氏はYouTubeで「やってくれたなという言葉に尽きますね」と言い、松本氏が審査員を多く務めていることについても「松本さんって方がいらっしゃるからこそ、大会の価値もものすごい上がっていると思う」と中田氏と立場の違いを示しました。

明石家さんま氏は週刊誌記者に聞かれて「松ちゃんがいっぱい審査員してるのどうってか?『ええなあ仕事あって』と思ってるよ」と答えました。この問題には関わらないつもりのようです。

お笑い界の人は基本的に松本擁護、中田批判です。
「実力があるから審査員をやっている」「松本さんに審査されたいし、ほめられたい」といった芸人の声は、一応中田氏の提言を受け止めていますが、わけのわからない返しをする人もいます。
ほんこん氏は「松本さんが審査員全部辞めるわってなったら、どないすんの?」と言い、上沼恵美子氏は「松本さんご本人は責任を果たしてるだけやと私は思う。いっぺんやってみ、審査員。大変やで」と言い、トミーズ雅氏は「土俵がちゃうねん。日本背負っている人と、500万人のYouTube背負ってる人やろ。一緒な訳ないやないかい」と言いました。
理屈になっていないのは、松本氏の圧倒的な力にひれ伏しているからでしょう。

吉本興業の大崎洋会長と岡本昭彦社長はともにダウンタウンのマネージャ―だったところから出世した人で、おそらく松本氏は会長や社長とも対等に口が利けるのでしょう(大崎会長は近く退社して大阪万博組織のトップに就任する予定)。
松本氏の権威と権力が日本のお笑い界を重苦しくしていると感じられてなりません。

25356980_m

長野市の青木島遊園地という公園が近隣から「子どもの声がうるさい」という苦情があったために来年3月に廃止されるという報道があると、さまざまな反応があって、大きな話題となりました。

子どもが公園で遊べばさまざまな声を出すのは当然です。昔から子どもはそうしてきました。家の近くの道路や空き地でも同じです。
「子どもの声がうるさい」という苦情がふえているのは、子どもの声は変わらないのですから、不寛容なおとながふえてきたということです。
ですから、問題を解決するには、不寛容なおとなを寛容なおとなに変えていくしかありません。
ところが、この公園廃止問題を追及することがさらに不寛容なおとなをふやす方向にいっています。


日刊スポーツの記事によると、お笑い芸人の千原せいじ氏は自身のインスタグラムにおいて、長野市の青木島遊園地が来年3月に廃止されるというネットニュースのスクリーンショットを載せ、『「変な街」とつづり、「#千原せいじ #変な街 #住みたくない街 #市議会議員どないしたんや #恥ずかしい」とタグを並べた』ということです。

行政や市会議員を批判するのはわかりますが、「変な街」とか「住みたくない街」という発想には驚きました。
私は日本人全体の傾向がたまたまこの街に強く出ただけと思いましたが、千原せいじ氏は街を悪者にしています。こういう発想が日本の分断を招くのだなと、ある意味感心しました。

やがて「子どもの声がうるさい」という苦情は一件だけだったという情報があり、行政の対応に批判が集まりましたが、さらにその一件は信州大学の名誉教授だという情報が出て、今度は名誉教授にも批判が集まりました。

ひろゆき氏は「子供の公園を許容出来ない人は名誉教授に相応しいですか?」とツイートするとともに、信州大学名誉教授称号授与規程として「第7条 名誉教授にふさわしくない行為を行った場合は,教育研究評議会の議を経て,名誉教授の称号を取り消すことができる」という文を引用しました。
名誉教授の称号を取り消せと言わんばかりです。
このように個人攻撃をあおるのは、いかにも2ちゃんねる創始者のひろゆき氏らしいやり方です。

「子どもの声がうるさい」と言うクレーマーに対して、「クレーマーの声がうるさい」と反応するのは「不寛容の連鎖」です。これでは事態はどんどん悪くなります。
クレーマーの心を解きほぐすような対応が必要です。

スポニチの記事によると、モデルでタレントのトリンドル玲奈さんは12月9日、コメンテーターを務めるTBS系「ひるおび!」において、クレーマーの名誉教授に対して「その人も子供の時代があったわけじゃないですか。きっと子供の時は声を上げて遊んでいただろうし、今の子供たちも声というのを騒音と捉えるのはちょっと違うんじゃないかなと思います」と発言しました。

「自分も子ども時代は声を上げて遊んでいただろう」とクレーマーに指摘することは、自分を見つめ直し、寛容な心を取り戻すきっかけになることがあります。
しかし、そうならないことのほうが多いでしょう。というのは、クレーマーは子ども時代に「うるさい」と親や周りのおとなから叱られていた可能性が大きいからです。つまり「不寛容の世代連鎖」があると想像できます。そういう人は子ども時代のことを回想しても効果はなく、逆効果になるかもしれません。


ところで、騒音問題というのは、音の大きさだけで決まるのではありません。
人間は風の音、川のせせらぎ、波の音、小鳥のさえずりなどの自然音は不快には感じません。むしろ癒されます。
子どもの遊ぶ声というのは小鳥のさえずりと同じ自然音ととらえてもいいはずです。
少なくとも昔の人間はそのような感覚だったのではないでしょうか。
文明社会は激しい競争社会なので、おとなに強いストレスがかかり、それがいちばん弱い子どもに向かって発散される傾向があります。

近所のピアノの音がうるさいという問題もありますが、これも決して音だけの問題ではなくて、ピアノを弾く人と聞く人の人間関係に左右されます。
ピアノを弾く人に好感を持っていれば、へたなピアノの音も不快に感じません。「前よりちょっとうまくなったな」などとほほえましく思ったりします。しかし、ピアノを弾く人を嫌っていると、かりにピアノがすごくうまくても、その音が不快に感じるものです。

ですから、「子どもの声がうるさい」というのも、決して音量の問題ではないのです。


現在の公園廃止の議論は、子どもを無視して行われています。
たとえばスポニチの記事によると、お笑いコンビ「ロザン」がYouTubeチャンネルにおいてこの問題を取り上げ、「“子供は宝、子供は天使”とみんなが思うってのは違う。全部許容すべきだという論調でいっても解決しない」「例えば、何曜日の何時から何時までは使っていいよ、とか、“グレー”を探したのかなと」「当事者同士でやってた時のような、中間を取った答えを出した方がいい。第三者が入ったら、“子供は禁止”か“子供は宝”のどっちかのジャッジしかなくなる」といった議論をしました。
つまり「子どもの声がうるさい」という人と「子どもを遊ばせたい」という人が話し合って、中間の結論を出すのがいいというわけです。

誰からも批判されない無難な意見のようですが、根本的な問題は、子どもが排除されているところです。おとなの意見を平均すると、その着地点は子どもからは遠いところになってしまいます。


日本は子どもの意見がまったく排除されているところが異常です。
意見だけでなく子どもの存在感もありません。

昔は地域社会のつながりがあって、おとなが近所の子どもを見ると、「山田さんちの下の子だ」といった認識があって、声をかけたりしていました。
そうするとおとなも自然と子どもに寛容になったはずです。
今は都会ではそうしたつながりはきわめて薄くなりました。

ここはメディアの出番です。
青木島遊園地の問題がこれだけ騒がれたのですから、テレビが近所の子どもたちにインタビューして、公園廃止についてどう思うかと聞けばいいのです。
「公園をなくさないでほしい」とか「遊ぶ場所がなくなって不便」といった切実な声が上がれば、「子どもの声がうるさい」という声を打ち消すことになるかもしれません。
もうすでに公園で遊ぶ子どもは少なくなっていたということですから、案外「公園なんかなくてもかまわない」という意見が多いかもしれませんが、それはそれでいいことです。
要は当事者である子どもの意見を聞くことがたいせつです。
子どもが顔を出して意見を言うことで、おとなも子どもの存在を意識して、配慮するようになるはずです。

ところが、「子どもが意見を言う」ということが日本では異常に嫌われます。
たとえば14歳のYouTuber「少年革命家」のゆたぼんさんは「不登校の自由」などを主張して年中炎上していますし、現在21歳の女優の春名風花さんは、9歳からツイッターを始めて政治社会の問題にも発言して数々の炎上を引き起こしましたし、現在19歳の環境活動家グレタ・トゥーンベリさんは、15歳のときに「気候のための学校ストライキ」を行い、国連で演説するなどして世界的な注目を浴びましたが、日本では「生意気」「親のあやつり人形」など非難の嵐でした。

子どもの意見表明権は子どもの権利条約でも認められています。
第12条
1.締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。

しかし、メディアだけでなく学校でも子どもの意見はまったく無視されています。
おそらく子どもの意見を聞くと、「なぜ勉強しなきゃいけないの」「なぜ学校に行かなきゃいけないの」などと面倒なことを言うのを恐れているのでしょうが、こういう意見に向き合うことでおとなも成長します。

なお、子どもの権利条約には子どもの「遊ぶ権利」も規定されています。
第31条
1.締約国は、休息及び余暇についての児童の権利並びに児童がその年齢に適した遊び及びレクリエーションの活動を行い並びに文化的な生活及び芸術に自由に参加する権利を認める。

代替措置もせずに子どもの遊び場を廃止することは、子どもの遊ぶ権利の侵害です。


考えてみれば、「子どもの声がうるさい」という不寛容なおとなを寛容なおとなに変えるのは、人間の内面の問題ですから、けっこうたいへんです。
それよりも「子どもの権利」を押し立てて社会を表面から変えていくほうが簡単かもしれません。

3564330_m


私が昔出版した小説がこのたび4冊同時に電子書籍になりました。
アマゾンのサイトを紹介します。












私は最近小説を書いていないので、小説家と名乗るのもためらいますが、一時期は、自分で言うのもなんですが将来を嘱望された小説家だったのです。


『恐怖の日常』は、私の最初の短編集で、オーソドックスなホラーばかりを集めました。ホラーファンなら誰にでも勧められます。

『不潔革命』は、ホラー以外の短編を集めたもので、だいたいはSFですが、ジャンル分けのしにくいものもあります。
表題作は、不潔であることがトレンディでかっこいいとされるようになった世の中を描いています。「性教育の時間」は、子どもに性教育をするのが当たり前になったときの教室の様子を描いています。「最後の戦争」は、人類が戦争のバカバカしさに目覚めて戦争が起こらなくなった未来社会を描きました。このように既成の価値観をひっくり返すのが私の得意とするところです。

『愛の衝撃』は、第二のホラー短編集です。自分の中で力を出しきれていない感じがあり、『恐怖の日常』のようには自信を持って勧められないのが残念です。

なぜ力を出しきれていないのかというと、『フェミニズムの帝国』出版のときのいきさつがあったからです。



『フェミニズムの帝国』は私の最初の、そして唯一の長編小説です。
それまで雑誌にぽつりぽつりと短編を発表していた私が満を持して書き上げたものです。

当時、マルクス主義が思想として力を失い、現代思想にもあまり可能性が感じられなかった中、唯一勢いのあった思想がフェミニズムでした。私は男性ながらけっこうフェミニズムの本を読んでいました。
そうしたとき、ある理由で女性が男性よりも強くなるというアイデアを思いつきました。最初はこれで一本短編が書けるなと思いましたが、強くなった女性が男性を支配する社会全体を描くとおもしろいと考え、長編を構想しました。
大林信彦監督の「転校生」(原作・山中恒)は、個人の男と女が入れ替わる物語ですが、私の構想は、社会全体で男と女の役割が入れ替わるというものです。それには社会の構造や価値観を全部つくらねばなりませんが、そのときにフェミニズム理論、ジェンダー論が役に立ちました。

物語は、近未来の女性優位社会において、男性はおしとやかで従順であることが求められ、女性によって痴漢被害にあったりレイプされたりしているのですが、ほとんどの人はそれを当然のこととして受け入れています。主人公の平凡な男性は、過激な男性解放運動に巻き込まれ、この世界の成り立ちの秘密を探っていくというものです。読者は、女性優位社会のおかしな価値観を笑っているうちに、では、今の男性優位社会の価値観はおかしくないのかと考えざるをえないという仕組みになっています。

ほとんどの男はフェミニズムに反感を持っていますが、私はそういう男でも読める小説を目指しました。おもしろおかしく読んでいくうちに、むずかしいフェミニズム理論がおのずと理解できるというお得な小説です。

『フェミニズムの帝国』が出版されたのは1988年です。その2年前に男女雇用機会均等法が施行され、それまで女性会社員は“職場の花”などと言われ、結婚すれば退職するのが当たり前でしたが、そうした慣習が否定されて、人々は価値観の激変にとまどっているときでした。
そうした中に『フェミニズムの帝国』を出版すれば話題になるのは確実で、私はこれをベストセラーにして世の中の価値観を変えてやろうという意気込みでした。

ところが、担当編集者(男性)はこの小説のことをまったく理解していませんでした。『家畜人ヤプー』みたいなマゾヒズムの小説と理解して、世紀末の退廃的な絵を表紙にした異端文学として出版したのです。
このいきさつについてはこのブログでも書いたことがありますし、今回の『フェミニズムの帝国』の「電子版あとがき」にも書きましたので、省略します。


ともかく、編集者にまったく理解してもらえなかったことがトラウマとなり、「私の書くことは理解されない」という思いが脳に深く刻み込まれて、執筆の妨げになり、だんだんと小説が書けなくなり、今にいたっています。


私はいくつかベストセラー小説を書き、ひとかどの作家として認められたら、次にマルクス主義もフェミニズムも超えた「究極の思想」の本を書くつもりでした。
しかし、「私の書くことは理解されない」という思いがあったのでは、小説よりもさらに思想の本は書けません。
そうして30年余りがたちました。
さすがにトラウマも癒えてきて、なんとか「究極の思想」の核心部分はすでに書き上げました。

「道徳観のコペルニクス的転回」というブログをお読みください。

今の知の枠組みを根底からくつがえす思想であることを理解してくれる出版社があれば出版したいと思います。


今回4冊が電子書籍化されましたが、2015年に KADOKAWA より電子書籍化された『夢魔の通り道』というホラー短編集もあるので、お知らせしておきます。




drink-2736560_1920

コラムニストの小田嶋隆氏が亡くなりました。65歳でした。

私は氏の「日経ビジネスオンライン」の連載「ア・ピース・オブ・警句」を愛読していました。
「日経ビジネスオンライン」の会員登録をすると、有料記事が月3本まで無料で読めるので、3本とも小田嶋氏のコラムに当てていました。

「日経ビジネスオンライン」は小田嶋氏追悼のために1本のコラムを無料公開しています。
「小田嶋隆さん、お疲れ様でした。そしてありがとう。」


小田嶋氏と私は関心領域が似ているので、このブログを書く上でも参考になりました。
もっとも、氏と私では書き方がまったく違います。私は結論へ向かって最短距離で進んでいくという書き方ですが、氏は注釈に注釈を重ね、次々と脱線していくという書き方で、そこに人柄と見識がにじみ出るおもしろさがありました。

ここ1、2年は軽い脳梗塞を患うなどして病気で休載することがしばしばあり、今年の4月初めからも休載していたので、病状を案じていましたが、とうとう6月24日に亡くなられたということです。
65歳は早すぎますが、小田嶋氏は30代でアルコール依存症になり、39歳から断酒をして立ち直りました。しかし、一時期アルコール漬け生活を送ったことによる身体のダメージは大きかったのでしょう。

小田嶋氏の文章は肩の力が抜けた感じなので、私は勝手に“脱力系”と名づけています。
もちろんこれは力を抜いて書いているわけではなく、書き手の人柄とか人間性とか生き方がそう感じさせるのです。
読んでいると癒されます。


私が思う“脱力系”の書き手の代表格は中島らも氏です。

私は中島らも氏のことを「ぴあ」に載っていた「啓蒙かまぼこ新聞」で初めて知りました。一応かねてつ食品の広告ページなのにぜんぜん広告になっていなくて、わけがわからないのですが、不思議なおもしろさがありました。
それから、らも氏のエッセイをよく読むようになりました。
そして、実体験を書いた小説『今夜、すべてのバーで』で、らも氏がアルコール依存症であることを知りました。
酒浸りで肝臓を悪くしながら、あのおもしろエッセイは書かれていたのです。

一度アルコール依存症になると、節度ある飲酒をするということはできず、完全な断酒をしなければなりません。少しでも酒を口にするともとの依存症に戻ってしまいます。
『今夜、すべてのバーで』という小説は、断酒の苦しみから逃れるため、飲酒の代償行為として書かれたもののようです。
長編小説『ガダラの豚』は、読んでいると作者の「酒を飲みたい」という思いがひしひしと伝わってきて、結末あたりではその思いがかなり高まってきます(もっとも、そう感じるにはそれなりの文章に対する感受性が必要です)。
『永遠(とわ)も半ばを過ぎて』になると、「酒を飲みたい」という思いが極限まで高まって、結晶のようになっています。
私はこれを読んで、断酒は続かないだろうと思いました。
実際、らも氏はそのころから飲酒を始めたようです。
しかし、仕事も続けていました。
おそらくドラッグを併用することで飲酒量をセーブしていたのかもしれません。

らも氏のエッセイにはありとあらゆるドラッグの話が出てきます。私は咳止めシロップに麻薬作用があって依存症になる人がいるということを初めて知りました。
らも氏は2003年に大麻所持などで逮捕され、執行猶予つきの有罪判決を受けました。

らも氏は2004年、階段から転落したのが直接の原因で、52歳で亡くなりました。おそらく酒とドラッグで体はボロボロで、亡くなるのは時間の問題だったでしょう。
自分は悲惨な人生を生きながら、人の心を軽くするような文章を書いていたのが不思議です。


マンガ家の吾妻ひでお氏は不条理なギャグマンガや美少女マンガで人気になりましたが、しだいに描けなくなって苦しんでいたようです。
あるとき仕事も家族も捨てて失踪してホームレス生活をするようになり、ガスの配管工事の会社に拾われてそこで働くようになります。そのいきさつを描いた『失踪日記』が高く評価され、日本漫画家協会賞大賞、手塚治虫文化賞マンガ大賞など多数の賞を受賞しました。
私も読んでみると、野外で寝てゴミ箱をあさるという悲惨きわまるホームレス生活を、そんなに悲惨でないように描くというのが絶妙で、深い感動を覚えました。
そして、『失踪日記2 アル中病棟』が出版されて、吾妻ひでお氏もまたアルコール依存症であることがわかりました。

私はアル中の人の作品に引かれる傾向があるのかもしれないと思い、アルコール依存症で入退院を繰り返した戦場カメラマン鴨志田穣氏の『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』を読んでみたら、やはり引かれるものがありました。

そして、小田嶋氏も2018年に『上を向いてアルコール―「元アル中」コラムニストの告白』を出版し、それで小田嶋氏も元アル中であることがわかったわけです。


なぜ私はアル中の人の作品に引かれるのかということを考えてみました。

ひとつには自分も酒飲みなので、酒飲みにシンパシーを感じるということがありますし、アル中の入院や治療の話は他人事とは思えないということもあります。

それから私の考えでは、酒を飲む人と飲まない人では性格とかパーソナリティが微妙に違います。
私の友人は酒を飲む人ばかりです。酒を飲まない人と友だちづきあいができません。もし私が酒を飲めなかったら交友関係がまったく違って、歩む人生も違っていたかもしれません。
ですから、私は酒を飲まない人を表面的にしか知らないのですが、会社勤めをしていたときに酒を飲まない人を何人か見ています。それらの人は、酒を飲む人に比べて、神経質というか、細かいことにこだわる傾向があって、つきあいにくい感じがしました。
もちろんこれは“個人の感想”ですが、酒を飲まない人はストレスの解消がしにくいので、ストレスをため込んでいるのではないかと思っていました。
それから、酒を飲む人は、酔っぱらってしばしば失敗をしたり醜態をさらしたりします。ですから、人の失敗にも寛容になりますが、酒を飲まない人にはそういうところがないはずです。

以上は普通の酒飲みのことですが、アル中で入院する人になるとまた違ってきます。
アルコール依存症に限らず一般的に依存症は「否認の病」と言われます。つまりどう見てもアルコール依存症という状態になっても、本人は「この程度ではアル中とはいえない」とか「いつでもやめられる」と思って、自分がアルコール依存症であることを否認するのです(家族も巻き込むので家族関係の病とも言われます)。

しかし、どうにもならなくなって自分から入院することも強制入院になることもありますが、入院するとさすがに否認するわけにいきません。
つまりこのときに心のバリアが壊れて、ほんとうの自分と向き合うわけです。
そういうことから、アル中を自覚した人の文章には人間味が出てくるということがあると思います。

さらにいうと、アルコール依存や薬物依存の人は世の中から「意志が弱い」ともっとも非難される立場ですから、いわば社会の最底辺です。
そういう立場を自覚すれば、おのずと人に寛容になるはずです。
そうしたところにも私は引かれるのかもしれません。

小田嶋氏はリベラルの立場から安倍政権をよく批判していましたが、上から目線で舌鋒鋭く批判するという感じではなくて、どことなくゆるい感じの批判でした。ですから、安倍支持の立場の人にもけっこう読まれていたのではないでしょうか。

もしかして「人はアル中になることで人にやさしくなれる」ということが言えるかもしれません。
もっとも、「だからアル中になるのは悪くない」などとは言えません。確実に体には悪いからです。
吾妻ひでお氏は食道がんで69歳で亡くなり、鴨志田穣氏は腎臓がんで42歳で亡くなっています。


今回、小田嶋隆氏の文章を真似てみようかと思って書き出したのですが、結局まったく似ても似つかない文章になりました。

2021-10-26


10月26日、小室圭氏と眞子さんが結婚し、記者会見を行いましたが、全国民が注視する中、若い二人がしっかりした口調で自分の考えを述べたのに感心しました(なにしろこの国には原稿が糊付けされて読めないという政治家もいるので)。
圭氏については、4年前に婚約内定の記者会見をしたころは、「ちょっとチャラい感じの男だなあ」という印象を持ちましたが、今回の会見では引き締まった顔つきになって、精悍さが感じられました。誹謗中傷の嵐の中で人間的に成長したのでしょう。

誹謗中傷にさらされてめげてしまう人もいますが、この二人は「好きな人と結婚する」という明快な目標を持ってお互い支え合ったので、誹謗中傷の嵐を乗り越えられたのでしょう。


これまで「パラリーガルでは給料が低く、眞子さまのお相手にふさわしくない」「将来生活していけるのか」などと圭氏の能力を見下す声が数多くありました。
しかし、圭氏は留学先の大学を卒業して、一流の弁護士事務所に就職し、さらにニューヨーク州弁護士会が主催する学生対象の論文コンテストに優勝(前年は2位)する優秀さを示しました。
圭氏をバカにしていた人たちは全員、圭氏に謝罪するべきでしょう。

圭氏の母親と元婚約者との金銭トラブルもずいぶん騒がれました。
そもそも借金問題というのは、お金を要求する側が動いて解決するべきで、お金を要求された側は自分から動く必要はありません。
それに、これは母親の問題ですから、圭氏の結婚とは関係ありません。

ところが、2018年11月、秋篠宮さまは「多くの人がそのことを納得し喜んでくれる状況にならなければ、 私たちは、いわゆる婚約に当たる納采の儀というのを行うことはできません」と発言して、金銭トラブルの解決を要求しました。

今思うと、この発言が誹謗中傷の火に油を注ぎました。
それまでは「金銭トラブルは母親の問題で、圭氏の結婚とは関係ない」と主張することができましたが、このときから金銭トラブルと結婚が結びつきました。
それに、秋篠宮さまは小室親子に金銭トラブルの解決を求めました。
先ほども言ったように、解決するべきは元婚約者の側です。小室親子に解決を求めたために、解決は不可能になりました。

元婚約者がまともな判断のできる人間なら解決は可能ですが、週刊誌にしゃべるだけで自分から解決に動かない人間にまともな判断ができるとは思えません。
この会見でも圭氏は「本年4月に解決金をお渡しすることによる解決をご提案したところ、母と会うことが重要であるというお返事をいただきました。しかし、母は精神的な不調を抱えており、元婚約者の方と会うことにはドクターストップがかかっています」と語りました。
弁護士を代理人に立てて交渉し、解決金を払うと言っているのに、母親に会うことを要求してくるとは、解決の意志がなく、わざと問題を引き延ばそうとしているとしか思えません。

この会見については、圭氏一人が残ってもいいので、金銭トラブルについて質疑応答をするべきだという声がありました。
これは圭氏をつるし上げようということでしょう。
なにかの進展を求めるのなら、元婚約者の同席を求めて、両者に質疑応答をするべきです。

元婚約者はいまだに名前も顔も出していません。
元婚約者は法的権利がないことは自覚しているので、「お金を返すのが人として正しいことだ」と主張しているのでしょう。だったら、自分も顔を出して主張するべきです。

ともかく、小室氏側にだけ解決を求めるマスコミは、金銭トラブルを利用して小室氏側をたたきたいだけです。


日本雑誌協会の文書による質問に、圭氏が米フォーダム大学に入学できたり、学費全額免除の奨学金を受給できたりしたのは、眞子さまのフィアンセという立場を利用した、つまり“皇室利用”をしたからではないかというのがありました。
これも金銭トラブルと同じ論理になっています。
入学や奨学金受給を決めるのは大学ですから、大学に聞かなければなりません。
圭氏に聞いても否定するだけですし、何度も聞くのは、いやがらせかつるし上げです(そもそも“皇室利用”をしてはいけないのかという問題もあります)。


ネットを検索すると、圭氏に関わる“疑惑”がいっぱい出てきます。
週刊文春は次のことを報じています。

経歴詐称疑惑①電通アメリカのインターンが嘘?
経歴詐称疑惑②日本メガバンク時代の表彰歴が嘘?
経歴詐称疑惑③大手事務所へのインターンは本当?
経歴詐称疑惑④ジョン・F・ケネディ・プロファイル・イン・カレッジ賞の受賞歴が本当?

ほかに「フォーダム大学のウェブ上の卒業名簿から小室圭の名前が消された。ほんとうに卒業したのか?」というのもありました。
経歴詐称以外にも悪い評判はいくらでもあります。

どれもいい加減な情報に基づく“疑惑”です。こうした報道に踊らされた人がいっぱいいました。
というか、みずから踊っていたのでしょうか。


私はこうした人たちを見て、どういう心理から小室圭氏と眞子さまの結婚を妨害しようとするのかをいろいろ考え、究極の格差婚であることや、“最上級国民”である皇族へのやっかみなどを指摘してきましたが、今日はもっと根本的なことを指摘したいと思います。
それは、「好き合った者同士が結ばれて幸せになってほしい」という素朴な感情がないことです。

こう言うと、「二人に幸せになってほしいから金銭トラブルの解決を求めているのだ」と反論する人がいそうですが、二人に幸せになってほしいなら、元婚約者に対して「法的手段を取らないなら手を引くべきだ」と言うはずです。


「世界人助け指数」というのがあります。「この1ヶ月の間に、見知らぬ人、あるいは、助けを必要としている見知らぬ人を助けたか」、「この1ヶ月の間に寄付をしたか」、「この1ヶ月の間にボランティアをしたか」という3つの項目について、世界の国々を調査したものですが、2020年の調査では、総合順位で日本は最下位の114位でした。それも、113位のポルトガルとは大差の最下位で、2018年の調査よりもポイントが低下しています(「人助けランキング、日本は大差で世界最下位 アメリカは首位陥落、中国は順位上昇 トップは?」より)。

どうやら日本人には人に対する温かい気持ちがないようです。
とくに税金で生活している皇族に対してはないのかもしれません。


眞子さんは会見で「圭さんの留学については、圭さんが将来計画していた留学を前倒しして、海外に拠点を作って欲しいと私がお願いしました」と語り、これには多くの人が驚きました。
眞子さんは早い段階から、日本脱出を計画していたのです。
確かに圭氏と眞子さんの夫婦は日本に住むことはできないでしょうから、適切な判断です。

小室夫婦は日本を見捨てたわけです。

今後、日本人は今回のことを反省しないと、佳子さまや愛子さまも日本を見捨てることになるでしょうし、悠仁さまも皇位を継承するとは限りません。
そうなると天皇制の自然消滅です。
「皇族も人の子」ということを考えないといけません。

このページのトップヘ