村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

カテゴリ: 日記

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ユニバーサル ミュージック「うっせぇわ」特設ページより

子どもの間で「うっせえ」という言葉が流行し、眉をひそめる親がふえているそうです。
Adoという18歳の女子高生の歌う「うっせぇわ」という歌がヒットして、その中の「うっせえ、うっせえ、うっせぇわ」というフレーズを子どもがよく口にするというわけです。

昔、志村けんさんが「8時だョ!全員集合」で「カラスなぜ鳴くのカラスの勝手でしょ」という替え歌を歌ったら、子どもたちがことあるごとに「カラスの勝手でしょ」と言うようになって親を困らせ、「8時だョ!全員集合」が「ワースト番組」としてやり玉に上がったことが思い出されます(「ワースト番組」というのはのちの「子どもに見せたくない番組」です)。
また、小島よしお氏の「そんなの関係ねえ!」というギャグが流行したときも、子どもが「そんなの関係ねえ!」とよく言うので、問題になりました。そのため小島よしお氏は、悪い言葉づかいと言われないように「そんなの関係ない!」と言うようにしたそうです。

「子どもに悪影響がある」と言ってテレビ番組や歌などを批判する人は昔からいますが、こういう人こそ世の中に悪影響を与えています。
子どもは好きな番組を見て、好きな歌を聞き、気に入った言葉を口にしているだけです。それをいけないと言うのは、子どもの人格の否定です。
こういう人はさらにテレビ番組を変えようとして、テレビ局にクレームをつけます。これは独裁国がメディアを操作して国民を支配しようとするのと同じやり方です。

「うっせえ」「カラスの勝手でしょ」「そんなの関係ねえ」はみな同じような言葉で、親が「勉強しなさい」「きちんとしなさい」「早くしなさい」などとうるさく言ってくるときに言い返す言葉です。
親は子どもに「うっせえ」と言われたら、歌のせいにするのではなく、自分がうるさいのではないかと反省するべきです。


そういうことで、「子どもに悪影響がある」と言って歌を批判するのは、昔からよくあることで、くだらないなと思っていましたが、「うっせぇわ」という歌をよく聞いてみると、いろいろなことを考えさせられました。



歌詞の全文は次のサイトで読めます。

Ado うっせぇわ 歌詞 - 歌ネット - UTA-NET


Adoはニコニコ動画などに歌を投稿するうちに歌唱力が評判になり、2020年10月に「うっせぇわ」でメジャーデビューした18歳の女子高生だということです。

「うっせぇわ」の作詞作曲はsyudouという人で、年齢不詳の男性アーチスト、音楽プロデューサーです。大卒後、会社勤めをし、2020年に会社を辞めて音楽専業になったということです。
歌手が18歳の女子高生だということが注目されますが、歌詞に「経済の動向も通勤時チェック/純情な精神で入社しワーク」とか「酒が空いたグラスあれば直ぐに注ぎなさい/皆がつまみ易いように串外しなさい」とあるように、これはサラリーマンの歌です。
ただ、Adoの個性に合わせて提供された楽曲だということはあるでしょう。


歌詞の最初のほうに「ちっちゃな頃から優等生」とあるので、これはチェッカーズの「ギザギザハートの子守唄」の「ちっちゃな頃から悪ガキで」を踏まえたものだと指摘されています。

ふたつの歌詞を比べてみました。
「ギザギザハートの子守唄」
ちっちゃな頃から悪ガキで
15で不良と呼ばれたよ
ナイフみたいにとがっては
触わるものみな傷つけた
「うっせぇわ」
ちっちゃな頃から優等生
気づいたら大人になっていた
ナイフの様な思考回路
持ち合わせる訳もなく

「ナイフ」という言葉も共通しているので、「うっせぇわ」が「ギザギザハートの子守唄」を意識していることは明らかです。
しかし、「不良」と「優等生」ですから、そこは真逆です。


ちっちゃな頃から優等生で、今はちゃんと就職して、経済の動向を通勤時にチェックするような生活をしていれば、十分に満足のいく人生ではないかと思われます。
ところが、この男(たぶん男)にはものすごい不満がたまっていて、周りに罵詈雑言をまき散らします。

「クソだりぃな」
「くせぇ口塞げや限界です」
「一切合切凡庸なあなたじゃ分からないかもね」
「もう見飽きたわ二番煎じの言い換えのパロディ」
「丸々と肉付いたその顔面にバツ」
「嗚呼つまらねぇ何回聞かせるんだそのメモリー」

そして、「うっせぇうっせぇうっせぇわ」が激しく繰り返されます。


なぜこんなに不満がたまっているのかというと、優等生の人生を歩んできたからでしょう。

先ほど冒頭部分の4行を引用しましたが、そのあとの3行も続けてみます。
ちっちゃな頃から優等生
気づいたら大人になっていた
ナイフの様な思考回路
持ち合わせる訳もなく

でも遊び足りない 何か足りない
困っちまうこれは誰かのせい
あてもなくただ混乱するエイデイ
「エイデイ」というのはエブリデイ、つまり日常という意味のようです。

ちっちゃな頃から優等生なら遊び足りないのは当然です。
遊びだけではありません。

「ギザギザハートの子守唄」にはこんな歌詞があります。
恋したあの娘と2人して
街を出ようと決めたのさ
駅のホームでつかまって
力まかせになぐられた
   *
仲間がバイクで死んだのさ
とってもいい奴だったのに
ガードレールに花そえて
青春アバヨと泣いたのさ
この不良は恋をして、喧嘩もして、バイクで暴走して、いい仲間もいました。
まさに「青春」をしていたわけです。

親や教師の望むように生きてきた優等生に「青春」はありません。
優等生は「うっせえ」と言いたいときもがまんするので、不満がどんどんたまっていきます(つまり子どもが「うっせえ」と言うのをやめさせようという親は子どもの心に不満をためています)。
その代わり高学歴を身につけて、高収入と高い社会的地位を得られれば引き合うかもしれませんが、そういう人は少数です。
そして、就職してしまえば「青春」を取り戻すことはできません。

「うっせぇわ」という歌は、優等生の“遅すぎた反抗”の歌です。


「ギザギザハートの子守唄」は1983年の歌です。
当時の若者は不良の歌に共感しましたが、今の若者は優等生の歌に共感するのでしょうか。

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東京五輪組織委員会の森喜朗会長の辞任が取り沙汰されているとき、「組織委の会長は五輪の顔としてふさわしい人物でないといけない」ということが言われました。
組織委の会長は、大会の開会式と閉会式でスピーチをし、IOCの役員らともつきあうので、そういう「五輪の顔」の役割があるということのようです。

結局、橋本聖子五輪担当相が後任会長に選ばれましたが、橋本会長は「五輪の顔」としてふさわしいのでしょうか。

橋本会長は国際的な有名人とまではいえなくても、冬季五輪4回、夏季五輪3回の出場経験があり、国会議員と五輪担当相になったという経歴を聞けば、誰でも「へえ」という反応をするでしょう。
しかし、「強制キス」疑惑も海外でかなり報道されているようなので、「顔」としての役割だけ考えるなら、ふさわしいかどうか微妙です。

では、森氏は「五輪の顔」としてふさわしかったのでしょうか。

森氏は一年間首相を務めましたが、世界でそのことを知っている人はほとんどいないでしょう。
しかも、首相だったときは内閣支持率ヒトケタという最低記録を出す不人気ぶりでした。
高校、大学でラグビーをやっていましたが、選手としての実績はありません。
森氏が開会式と閉会式でスピーチをすると、世界中の人が「なんでこの人が?」と思うでしょう。
IOCの役員らとつきあう上でも、森氏には知性も教養も語学力もありません。
性差別発言がなかったとしても、これほど「五輪の顔」に不向きな人はいないと言っていいぐらいです。


ところが、森氏でなければ「五輪の顔」は務まらないと主張する人がけっこういました。
そもそも「組織委の会長は五輪の顔としてふさわしい人物でないといけない」というのは、森会長を辞任させるなという意味で言われていました。
彼らは森氏は「五輪の顔」に最適だと考えているのです。
「五輪の顔」についての認識がまるで違います。

これはどういうことかと考えているうちに答えがわかりました。
森氏の「厚顔」が「五輪の顔」にふさわしいということなのです。
「厚顔」はすなわち「厚顔無恥」でもあります。単に「面の皮が厚い」といってもかまいませんし、「鉄面皮」という言葉でも同じです。

森氏は数々の失言をして批判されても、謝罪らしい謝罪もせず、平然としています。
首相時代、支持率ヒトケタになれば、普通の人なら自分から辞めるでしょうが、森氏は周りの“森おろし”によってようやく辞任しました。
今回も、女性差別発言をいくら批判されても、本人はまったく反省していないようです。
「厚顔」そのものです。

トランプ前大統領も似たところがあります(体型も似ています)。
トランプ氏も、山ほど嘘をついて、嘘を指摘されても平然としています。そうすると、嘘が嘘でないように思えてきます。
こうした「厚顔」は一種の才能かもしれません。

「厚顔」であることがどうして「五輪の顔」に向いているのかというと、日本人の欧米コンプレックスが関わってきます。


オリンピックは単なるスポーツ大会ではありません。オリンピズムという思想に基づいています。
オリンピック憲章の「オリンピズムの根本原則」にこう書かれています。
1.オリンピズムは肉体と意志と精神のすべての資質を高め、 バランスよく結合させる生き方の哲学である。 オリンピズムはスポーツを文化、 教育と融合させ、 生き方の創造を探求するものである。 その生き方は努力する喜び、 良い模範であることの教育的価値、 社会的な責任、さらに普遍的で根本的な倫理規範の尊重を基盤とする。
2.オリンピズムの目的は、人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すために、人類の調和のとれた発展にスポーツを役立てることである。

これは古代ギリシャに発するヨーロッパ文化の精華を示したものです。
オリンピックはヨーロッパ文化と切っても切り離せません。

ところが、日本人は欧米コンプレックスがあるので、このようなヨーロッパ文化にうまく向き合うことができません。
IOCの役員も高尚なヨーロッパ文化を身につけた人ばかりに違いないと、コンプレックスがある日本人は考えてしまうので、ついつい卑屈になります。

その点、森氏は「厚顔」なので、自分に知性や教養がないことなどまったく気にしません。
IOCの役員に対しても対等な顔をしてふるまいそうです。
それゆえ「五輪の顔」は森氏でなければと考える人がいたのでしょう。
すべては日本人の欧米コンプレックスがなせるわざです。

しかし、会議の長いのが嫌いで、密室談合が得意な森氏にIOCとまともな交渉ができたでしょうか。
森氏を評価する人はいますが、IOCとの分担金交渉を日本有利にまとめたというような具体的な功績を挙げる人はいません。

安倍前首相も森氏と同じような役割を演じていた面があります。
安倍前首相はトランプ大統領やプーチン大統領など欧米の指導者と親しげな関係を演出し、「外交の安倍」などと言われていましたが、外交の成果といえるものはほとんどありません。
親しくもないのに親しげな態度ができるという「厚顔」だけの外交だったわけですが、欧米コンプレックスの強い日本人には支持されました。


オリンピズムといってもそれほど素晴らしいものではありません。
たとえばかつてアマチュアリズムはオリンピズムの重要な柱でした。
そのためにプロとアマを区別しなければならず、さまざまなトラブルがありましたが、方針転換してプロの参加を認めればなんの問題もなく、今ではアマチュアリズムにこだわっていた昔がバカみたいです。
オリンピズムというのは単なる美辞麗句で、今ではオリンピックは商業主義そのものです。


ヨーロッパ文化には優れた面もありますが、古代ギリシャ・ローマは市民よりも奴隷の数が多かったといわれる奴隷制社会で、差別主義もその文化には刻まれています。
具体的にはヨーロッパ文化至上主義があります。これは中華思想のヨーロッパ版です。

オリンピック大会の運営にはヨーロッパ文化至上主義がいまだに残っています。

たとえば開会式の入場行進は、毎回ギリシャ選手団が先頭です。
近代オリンピック大会の最初のうちは、参加国はヨーロッパばかりなので、それでよかったかもしれませんが、今ではオリンピック大会は完全に世界規模になりました。
世界規模の大会でギリシャが先頭だと、古代ギリシャに発するヨーロッパ文化は特別だという意味になります。
日本はヨーロッパ文化至上主義に反対し、各国を平等に扱うように要求するべきです。
また、聖火の採火式もギリシャのオリンピア遺跡で行われますが、東京大会ならば、富士山頂とか高天原で行うようにするべきです。


ともかく、オリンピックはヨーロッパ文化と深く結びついており、欧米コンプレックスの日本人はIOCとつきあうときにどうしても気後れを感じてしまいます。
だからといって、森氏の「厚顔」に頼るのは、みっともないことこの上ありません。

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東京五輪組織委員会の森喜朗会長が辞任するまでのドタバタ劇によって、日本の“不都合な真実”が世界に発信されてしまいました。
森氏が性差別発言をしても居座ったことで日本が性差別に許容的なことがバレましたし、辞任するときに83歳の森氏が84歳の川淵三郎氏を後継指名したことで日本が老人支配の国であることもバレました。

「老害」という言葉がありますが、これは「老人=害」と理解される恐れがあります。問題は社会のあり方なので、「老人支配社会」や「老人優位社会」という言葉が適切です(「老人支配社会」の害を「老害」と表現するのはありです)。

日本は「男性支配社会」かつ「老人支配社会」です。
男性の老人がのさばって、女性や若者の活躍を妨げて、そのため社会全体の活力が失われています。

こうした社会を変えるにはマスメディアの役割が重要ですが、日本はマスメディアも男性支配と老人支配を追認しています。
このことも今回のドタバタ劇で浮かび上がりました。


森氏が「女性がたくさん入っている会議は時間がかかる」という性差別発言をしたのが2月3日で、その翌日には記者会見を開いて、発言を撤回して、反省とお詫びを表明しました。
素早い対応で、常識的にはこれで問題は沈静化するはずでした。
ところが、この謝罪会見がむしろ逆効果になりました。

森氏は紙を読みながら反省とお詫びを表明しました。
そのあと質疑応答になりましたが、このときの森会長の態度が最悪でした。
これは実際の映像を見ないとわかりません。



これは「逆ギレ会見」と言われますが、キレる以前から記者を見下したような傲慢な態度です。謝罪する人間の態度ではありません。
最初の記者に対して「僕はね、マスクをされてると、どうも言葉がよくとれないんだよ」と不満を示しますが、あとのほうでは「ちょっと悪い。(マスクを)取ってくれ。聞こえないんだよ」とマスクを取ることを要求します。
密な会場ですから、普通だとこれだけで炎上して当然です。

森氏がこのような傲慢な態度を取るのは、普段から森氏と記者の関係がこういうものなのかなと想像してしまいます。
麻生太郎財務相が記者をバカにしたようなしゃべり方をする映像がときどきニュース番組で流れますが、あれと同じです。
菅義偉首相が官房長官時代、東京新聞の望月衣塑子記者とやり合っていたことも連想します。
現在の菅首相の記者会見も、記者の質問はすべて事前通告されたもので、菅首相は答えを読むだけです(最後の質問だけ事前通告なしのことがあるようです)。
第二次安倍政権以来、権力によって記者会見がほとんどコントロールされています。

この会見も、森氏の傲慢な態度に威圧されていた記者が多かったような気がしますが、「組織委員会の会長であるのは適任なのか」と骨のある質問をする記者がいて、森氏の「おもしろおかしくしたいから聞いているんだろ」という発言を引き出して、「逆ギレ会見」とされました。


ともかく、この会見の冒頭において、森氏が問題発言の撤回と、反省とお詫びを表明したのは事実です。
その部分に注目する人は、この問題は終わったとして、森氏を擁護しました。
しかし、後半の質疑応答を見た人は、森氏はぜんぜん反省していないとして、森氏を批判しました。
このことで議論が混乱したということがありそうです。


2月12日、東京五輪組織委員会の理事会と評議員会の合同懇談会の冒頭で森氏は会長を辞任することを表明し、15分ほどしゃべりましたが、ここでも差別発言についての反省はうかがえませんでした。
懇談会後の記者会見は武藤敏郎事務総長が行い、森氏は出てきませんでした。もし出てきて質疑応答をしていたら、また問題発言を連発したでしょう。


一部に骨のある記者はいますが、マスメディアは森氏の差別発言を本気で追及しようとはしません。
たとえば「森喜朗 発言」でグーグル検索すると、上位にずらりと出てくるのは「女性蔑視発言」とするものばかりです。「女性蔑視ともとれる発言」というのもあります。「問題発言」「不適切発言」もありますが、「女性差別発言」とするのはほとんど執筆者の名前のある記事です。
つまりマスメディアは、森氏の発言を「女性差別発言」とはしていないのです。

五輪憲章では「男女平等の原則の完全実施」が掲げられ、IOCは9日の公式声明で森氏の発言を「完全に不適切」としました。
ただ、森氏の発言を「女性差別発言」とはしていないともいえます。
つまりマスメディアは、なにかの公的な権威の裏付けがないと、森氏の発言を「女性差別発言」とする勇気はないのです。

マスメディアがこういう態度なので、森氏の辞任が遅れ、最後はドタバタ劇になりました。

新聞社、テレビ局の上層部に女性はごく少数で、もちろんみな高齢です。
日本社会の男性支配と老人支配の構造をささえているのはマスメディアだともいえます。

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ヘイトスピーチ、誹謗中傷、自粛警察、感染者差別など、社会から寛容さが失われていると感じる人は多いでしょう。
では、寛容さを取り戻すにはどうすればいいかというと、誰もその方法を示すことができません。

ヘイトスピーチをする人に対して、「マイノリティに対して寛容になるべきだ」と主張すると、「その主張はヘイトスピーチをする人に対して寛容ではない」という反論がしばしばなされます。
これは「寛容のパラドックス」と言い、カール・ポパーが名づけました。
ポパーは「寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容に不寛容であらねばならない」という結論に達しましたが、見た目が矛盾しているので、この論理で社会を寛容にするのは困難です。

しょっちゅう夫婦喧嘩をしている人は寛容さが足りないといえるでしょう。
本人が寛容さが足りないことを自覚して、寛容になろうとしても、具体的にどうやればいいかわからないので、なかなか夫婦喧嘩も止められません。

「寛容」を国語辞典で引くと、「心が広くて、よく人の言動を受け入れること。他の罪や欠点などをきびしく責めないこと」とありますが、漠然としています。

ウィキペディアによると、「寛容」という概念は、ヨーロッパで宗教改革が起きて宗教対立が激化したために重要視されるようになったということです。
その後、宗教対立以外にも広く寛容のたいせつさが説かれるようになり、宗教的寛容と道徳的寛容として区別する考え方もあります。
日本では宗教対立はそれほど深刻でなかったので、もっぱら道徳的寛容という意味で「寛容」という言葉が用いられていることになります。


道徳的寛容の典型的な物語は「レ・ミゼラブル」(ヴィクトル・ユーゴー著)です。
主人公のジャン・ヴァルジャンはたった1個のパンを盗んだために19年間も服役し、すっかり心がすさんでいました。あるとき泊まった教会の司教は彼を暖かく迎えてくれましたが、彼は教会の銀の食器を盗んで逃げ出し、憲兵に捕まります。しかし、司教は「食器は私が与えた」と言って彼をかばい、さらに2本の銀の燭台も与えます。司教の寛容さに触れたジャン・ヴァルジャンは回心し、ここから長い物語が始まります。これは寛容の連鎖の物語です。

身近なことでよくあるのは、学生のカンニングが発覚して、規定によると単位取り消しで留年になるが、その学生は就職も内定していて、留年させても誰も得しないという場合、担当の教授がカンニングを不問にするというようなことです。
あるいは、商店で万引きした子どもが常習でもなさそうな場合、警察に通報しないで許してやるということもよくあります。

これらが典型的な寛容の例ですが、その特徴を一言でいうと「悪を許す」ということになります。
これは道徳や法律に反するので、社会的に許されません。

教授が学生のカンニングを見逃したことが公になれば、教授も学生もバッシングを受けます。誰も損していないといっても、カンニングをしないまじめな学生に対して不公平だということはあります。
万引きの子どもを見逃したことが知られると、「盗みはいけないことだとわからせるべきだ」といった批判が起きます。

つまり寛容というのは道徳と正面衝突するのです。
「寛容の美徳」という言葉があるので、寛容は道徳の一部と理解されているかもしれませんが、それは誤解です。

道徳というより勧善懲悪と言ったほうがいいかもしれませんが、どちらでもたいした違いはありません。

勧善懲悪は一般に物語の中の原理として理解されています。
有効に機能するのは物語の中だけだからです(もちろん有効に機能するように物語がつくられているのです)。

司法も勧善懲悪を採用しています。悪に対する対症療法として一時的には有効だからです。

マスコミも勧善懲悪を採用しています。読者や視聴者を満足させるからです。

しかし、対症療法だけでは病気が進行してしまうかもしれません。
根本療法(原因療法)が必要ですが、それに当たるのが寛容です。

寛容は心理カウンセリングに似ています。
悪から立ち直るのは本人の力によるという考え方です。
このやり方は、時間はかかっても事態を改善させます。
勧善懲悪は力でその人間を変えようとすることで、目先はうまくいっても、事態をさらに悪化させる可能性があります。

現在、少年法改正による厳罰化が進められようとしていますが、一方で少年の更生に厳罰化はよくないという声もあります。
これは勧善懲悪対寛容の構図と見なすと、よくわかるでしょう。


現在は勧善懲悪の原理が社会をおおっています。
寛容もたいせつなこととされますが、具体的に悪を許すことをすると、社会から非難されます。つまり総論賛成各論反対なのです。
ですから、カンニングや万引きを見逃すといったことは、あくまで隠れて行われています。

最近はマスコミやネットの議論が勧善懲悪の傾向を強めていて、寛容の実行がますます困難になっています。
寛容の復権を目指す人は、ポパーの「寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容に不寛容であらねばならない」というようなおかしな理屈は無視して、勧善懲悪の原理を敵と見なして戦うべきです。

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眞子さまと小室圭さんの結婚問題がマスコミと世間に奔弄されています。

眞子さまの結婚には一時金として1億何千万円だかの税金が支払われるので、国民に口出しする権利があるという認識があるのかもしれません。
しかし、税金というのは全国民のもので、自分の言い分を通すための口実にするのは“税金の私物化”です。

そもそも他人の結婚に口出しするものではありません。
一般人が私的な場で言う分にはなにを言ってもかいませんが、有名人がメディアで結婚を左右するようなことを発言しているのにはあきれます。
しかも、その論理がでたらめです。

「現代ビジネス」にさまざまな有名人の主張を紹介する記事がありました。

「小室圭さんとは破談にするしかない」有識者が厳しく断言する理由

この記事をもとに、その主張について私なりの感想を述べてみたいと思います。



作家の山本一力氏は強硬な結婚反対派です。
小室圭さんの母・佳代さんには元婚約者との間に約400万円の借金トラブルがあって、これが結婚の障害になっていましたが、元婚約者は週刊誌で返金は求めないと表明しました。しかし、山本氏はそれでも問題は解決しないと主張します。
「返済を求めないというのは、貸した側が根負けしてしまったということでしょう。相手が諦めるまで『もらったもの』と言い続ければいい――そんなことがまかり通れば、世の中の規範はひっくり返ってしまいます。

ところが、私と同世代の人間まで、まるで結婚への障害がなくなったとばかりに『おめでとうございます』などと言っている。極めて理解し難いことです。

ここで『なにがご成婚ですか』と眉をひそめ、叱りつけるのが、年長者の務めではないでしょうか。とにかく強制的に破談にするしかないと思います」
借金は、返してもらう側が請求するのが当然です。いつまでも請求しなければ持効により借金は消滅します。これが世の中の規範で、山本氏の言っていることは真逆です。

「強制的に破談にするしかない」というのは無茶苦茶な言葉です。一般人に対してそんなことは許されませんが、皇族に対してはなおさらではないでしょうか。
「現代ビジネス」もこんな主張を載せると見識が問われます。

借金を返すべきだと言う人がほかにもいます。

評論家で歴史作家の八幡和郎氏が話す。

「相手が『返さなくていい』といったからといって済む問題ではないでしょう。借金の踏み倒しをしているようなもので、道義的な問題は消えません。

小室さんが眞子さまとの結婚を望むなら、多くの人から祝福してもらえるように努力すべきでしょう。たとえば、結婚するのであれば、働いて借金を返してからにすべきだと思います」
皇室ジャーナリストの渡邉みどり氏が語る。

「おカネのことはきちんとしなくてはいけません。結婚後も、二人で少しずつ返していけばいいのではないでしょうか。皇籍を離脱しても、眞子さまも一定以上の収入を得ることは可能です。

'05年に結婚された、天皇陛下の妹の黒田清子さまも、現在は伊勢神宮の祭主を務め、報酬を受け取られています。そうして二人で少しずつ返していくべきなのではないでしょうか」

こういう人は、結婚に反対する理由に借金問題を持ち出しているだけの気がします。

そもそも借金問題というのは、小室圭さんの母親と元婚約者の間の問題で、借用書もなく、法的に訴えるほどの根拠もなく、元婚約者が一方的に婚約破棄をして慰謝料も払っていないという関係で、元婚約者が週刊誌上で返済を求めたというものです。

宮内庁の西村泰彦長官も会見で借金問題について「小室さんや小室さんの弁護士が説明責任を果たしていくことが極めて重要」と発言しました。
「返金すべき」と言えないので、「説明責任」を持ち出したのでしょうが、私人である小室圭さんにプライバシーについての「説明責任」があるのか疑問です。
というか、週刊誌などの報道で十分に説明されているのではないでしょうか。

記事は「彼女の幸せを考え、男のほうから身を引く――。小室さんはそうした選択肢も考えるべきなのではないだろうか」と主張しています。
こうした意見はよく目にします。

しかし、眞子さまは11月に文書で「お気持ち」を発表して、その中で「結婚は、私たちにとって自分たちの心を大切に守りながら生きていくために必要な選択です」と結婚への意志を明白にしておられます。
小室さんが身を引いたら、眞子さまへの裏切りになります。
小室さんに身を引けという人は、小室さんの気持ちも眞子さまの気持ちも踏みにじって平気なようです。

2017年の婚約内定のあと、結婚延期が発表されてしばらくの間は、二人の結婚への意志がはっきりしない状況が続きました。しかし、今は二人とも結婚の意志が固いとわかったわけです。
こうなると、皇族であろうとなかろうと、結婚に反対する理由はありません。

しかし、結婚に反対する人がたくさんいます。そういう人が考えていることはわかります。
それは「家柄が違う」です。
皇室は日本最高の家柄で、一方、小室家のことはよく知りませんが、あまり豊かでない母子家庭であるようです。小室圭さんの学歴、職歴もそれほどたいしたことはありません。
究極の「格差婚」です。

ちなみに高円宮家の三女・絢子さまは2018年10月、守谷慧さんと結婚されましたが、この婚約や結婚について世の中から批判の声が上がるということはまったくありませんでした。
守谷慧さんは慶応大学文学部卒、オックスフォード大学でも学び、現在は日本郵船勤務です。日本郵船はもとは国策会社で、三菱グループの中核企業です。父親は東大経済学部卒の通産省のキャリア官僚でした。
これぐらいだと「家柄が違う」という批判はないわけです。


ただ、今の世の中、「家柄が違う」と言って結婚に反対するわけにはいきません。
その代わりに「金目当てだ」などの人格攻撃がされています。

八幡和郎氏は、借金を返すために働くべきだと主張します。
「小室さんは、仕事をして、収入が入る目途をつけたうえで、この借金をどれぐらいの期間で返済していくかということを示すべきでしょう。

弁護士でなくてもいいと思います。公的な団体の職員でも、普通のサラリーマンでもまったく構わないので、堅実に働き始め、身の丈に合った生活をすれば、国民も応援すると思います」

「身の丈」という言葉に、小室さんの人格や能力を低く見ていることがわかります。
ちなみに八幡和郎氏は東大法学部卒、通産省のキャリア官僚を経て、現在は徳島文理大学教授、歴史作家です。
小室さんが“上級国民”の仲間入りしてくることが気に食わないのかもしれません。

このように小室さんの人格や能力を低く見て結婚に反対する人がいるので、結婚に賛成する人は逆に小室さんの人格や能力を持ち上げることになります。

二人の結婚に賛成の立場である漫画家の小林よしのり氏は、その理由をこのように語ります。
「小室さんには、周囲の声にとらわれず、眞子さまとの結婚に邁進してほしい。私はそう考えています。

前提として、小室さんが非常に優秀な男だということがあります。英語が堪能で、留学先では立派な論文(米国におけるクラウドファンディングの法制度について)まで発表している。

第一、ここ数年、あれだけのバッシングを受けながら、ものともせずに、留学し、学業に打ち込んでいる。普通の人間であれば、勉強どころか、食事も喉を通らないでしょう。

眞子さまがいまだに小室さんとの結婚を望み続けているのも、よくわかる。小室さんには、とにかく眞子さまを幸せにしてほしいと思います」

小林よしのり氏は果して小室さんの人格や能力を正確に評価できるのかという問題があります。
それに、小室さんの人格や能力が低い場合は結婚に反対するのかという問題もあります。
人間が人間を評価するのは危ういことです。


根本的には、眞子さまと小室さんの結婚に「賛成」したり「反対」したりするのが間違っています。
結婚については「当事者の意志を尊重する」というのが正しい態度です。



世の中が眞子さまと小室さんの結婚をもてあそんでいると、皇室の存続がいよいよ危うくなります。
というのは、佳子さまや愛子さまの周りの男たちは、佳子さまや愛子さまを恋愛や結婚の対象にしなくなるからです。
もし婚約発表などしたら、その男の若気の至りの数々がSNSの記録や友人の証言などからあばきだされ、週刊誌に書き立てられ、小室さんの二の舞になる可能性が大です。そんなリスクを冒す男はなかなかいません。
とすると、結婚は見合いに限られてしまいます。

悠仁さまの結婚についても同じことが言えそうです。


芸能人が婚約や結婚を発表しても、誰も「賛成」だの「反対」だのは言いません。
眞子さまと小室さんの結婚については平気で「賛成」だの「反対」だのと言っているのはおかしなことです。
あまつさえ結婚を阻止するかのような動きがあるのは、異常というしかありません。

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アンジャッシュの渡部建氏が12月3日、謝罪の記者会見を開きましたが、記者の質問に終始苦しい表情でした。

ビートたけし氏は「芸能人にとってインタビューはひとつのショーだと思わないといけない。お笑いだったら笑いにもっていって、大爆笑で終わって『すいません』なんだ」と苦言を呈しました。
しかし、私がYouTubeで記者会見を見たところ、けっこう笑えました。もっとも、笑えたのは記者の質問のほうですが。



渡部氏は女性を六本木ヒルズ地下駐車場の多目的トイレに呼び出して、そこで性行為に及んだということですが、これについて記者からさまざまな質問が飛びました。
「多目的トイレは渡部さんにとってどういう場所なんですか」
「どうしてホテルに行かなかったんですか」
「性癖ですか」

渡部氏が正直に答えると、「短時間使用するのに都合のいい場所だったからです」ということになるでしょうが、そんなことを言えばまた炎上するのが目に見えていますから、ひたすら言葉を濁さざるをえません。

渡部氏は女性と密会するたびに1万円を渡していたということですが、これについても、
「なぜ1万円お渡しになっているんですか」
「どういう1万円になるんですか」
という質問が飛んでいました。

「安すぎてすみません」と言えばいいのでしょうか。
「女性が納得しているんだからいいじゃないですか」と言えば、またしても炎上です。



私はこの件に関して、6月に週刊文春の記事を読んで『渡部建不倫問題は「セフレがいただけ」だった』という記事を書きました。

渡部氏は多目的トイレを使用して性行為を行ったのは謝罪しなければなりませんが、それ以外に謝罪するべきことはありません。
奥さんの佐々木希さんに対して謝罪すればいいだけです。

文春の記事によると、渡部氏は少なくとも3人の女性とつきあっていて、どうやら短時間会ってセックスするだけの関係だったようです。
「女性を性のはけ口にしている」ということは言えますが、女性がそれで納得していれば、問題ありません。
女性は渡部氏という人気芸能人とつきあっていることに満足を見いだしていたのでしょう。1万円という“価格”もそういう関係で決定されたわけです。

世間を騒がせたりスポンサーに損害を与えたりということはありますが、それは文春がプライバシーを書いたせいです。

ですから、この会見で記者もそれほど追及することがありません。
渡部氏が「ガキの使いやあらへんで」年末特番の収録をすませたという情報があって、記者は繰り返しそのことを聞きますが、渡部氏は言えない事情があるらしく、なにも答えません。
ある記者が「われわれもガキの使いで来ているんじゃないんだから」とギャグを飛ばしましたが、笑えません。
芸能記者なら答えられない事情はわかるはずで、執拗に質問する態度は異様です。

それから渡部氏は、奥さんの佐々木希さんに関する質問にもほとんど答えませんでした。
離婚話など聞こえてこないことから、希さんは渡部氏を許しているに違いありません。しかし、そう言ってしまうと希さんが世間から批判される可能性があるために、言わなかったのでしょう。

渡部氏にはつねに複数のセックスフレンドがいたようです。
渡部氏はグルメ芸人で、食事はほとんど外食でした。女性についても“外食”をしていたわけです。
希さんは文春の記事の前から渡部氏の女性関係を知っていた節があります。
そういう夫婦がいてもなんの問題もありません。

不倫が責められるのは、配偶者を傷つけたり不倫相手(既婚者の場合はその配偶者も)を傷つけたりするからですが、このケースは誰も傷ついていない感じがします。


とはいえ、渡部氏を責めたくなる感情が広く存在しているのも理解できます。
昔、避妊法がなく処女崇拝があった時代に、多数の独身女性とセックスする男は“社会の敵”でしたし、女性は“ふしだら”ということで、どちらも非難されました。今も当時の道徳が尾を引いています。

それから、渡部氏は希さんという天下の美女と結婚し、さらに若い複数の女性とセックスしていたわけで、多くの男のねたみを買いました。

それに、渡部氏は軽薄で、お調子者というキャラで、しかも、このところ仕事は絶好調でした。どれも批判されやすい要素です。

そうしたことから、世論は圧倒的に渡部批判に傾きました。
しかし、冷静に考えると、多目的トイレを使用したこと以外に非難される要素はないのです。
ですから、記者会見でも記者たちは、「ガキ使」収録問題とか、もっと早く会見するべきだったのではとか、これは謝罪会見なのか復帰会見なのかとか、くだらないことばかり追及していました。


そして、なにも悪いことをしていない希さんが非難されるという奇妙なことが起きました。
希さんが杏さんらと対談する様子をインスタグラムにアップしたところ、希さんを批判するコメントが殺到したのです。
『渡部建“謝罪会見”が飛び火! 佐々木希のインスタ大荒れ「恥ずかしくないの?」』という記事から、批判のコメントを引用します。
《渡部テレビに出すな! ガキ使に出たいからって、今さら会見しても遅いよ》
《誰も渡部の復帰を望んでないと思うし、需要なし》
《会見には奥様も同席していただけますよね?》
《妻として恥ずかしくないの? テレビ収録決まって謝罪会見なんて最低》
《世の中が、あなたの旦那の不始末で完全に嫌な思いをさせられてるのに、笑顔でインスタ更新を続ける不気味さが信じられない》
《杏さんの旦那は酷かったけど会見したのに、貴方の旦那は1万円連れ込み行為したの今日まで会見もしないでダメですね》
《サレ妻が2人も… 色々凄いメンツ… けど大好き》
《渡部が気持ち悪いんです。 本当に気持ち悪いんです》
なぜこんなことが起きたのでしょうか。
世間は希さんに対して「夫の不倫に傷つく妻」という役割を期待していました。
希さんがその役割を果たせば、世間は渡部氏を「妻を傷つけた悪い夫」として遠慮なく非難できます。
ところが、希さんは「夫の不倫を気にしない妻」という感じなので、世間は渡部氏をあまり非難できません。その不満が希さんに向かったのでしょう。

男の不倫を非難するときは、「奥さんを傷つけた」というのが決まり文句で、ということは奥さんを思いやっているようですが、実際は男を非難するために奥さんを持ち出しているだけだということが、今回のことでよくわかりました。


そもそも不倫というのは夫婦のプライバシーの問題ですが、芸能人の場合は人気稼業という弱みもあって、マスコミがプライバシーに踏み込むのが当たり前になっています。
“自粛警察”という言葉にならっていえば、マスコミは“不倫警察”です。
しかし、今回は「奥さんを傷つけた」という大義名分がないため、“不倫警察”のみにくさが浮き彫りになったというわけです。

企業の広告がジェンダーの観点から炎上するということがよくあります。

東洋水産のインスタントラーメン「マルちゃん正麺」の公式ツイッターが公開したプロモーション漫画に、夫と子どもが食べたあとの食器を妻が洗うシーンがあって、「ほのぼのした漫画が最後のシーンで台無しだ」などの批判が殺到し、炎上しました。
しかし、「こんなささいなことでたたくのは行き過ぎ」と擁護する声もあります。

実際の漫画がこれです。

まるちゃん1
まるちゃん2
まるちゃん3
まるちゃん4
まるちゃん5
まるちゃん6
まるちゃん7
まるちゃん8
マルちゃん正麺公式ツイッターより


この漫画の炎上を伝えるのが次の記事です(タイトルに「カップ麺」とありますが、正しくは袋麺です)。

「最後の場面で台無し」「妻にやらせるな」カップ麺のPR漫画に批判
東洋水産の人気インスタントラーメン「マルちゃん正麺」の公式ツイッターが公開したプロモーション漫画が、物議を醸している。

 問題となっているのは、11日に公式ツイッター上にアップされた全8ページの漫画。(中略)「親子正麺」というタイトルがつけられている。漫画の中では、父が幼い子どもの昼食のためにマルちゃん正麺を作って食べており、子どもが「とんこつラーメン」を「ぽんこつらーめん」と言い間違えるという可愛らしい場面もあった。

夜になって母が帰宅すると、子どもと父はそれぞれ「しろいちゅるちゅるめんめんたべた」「ぽんこつらーめん」と報告し、母は一瞬疑問に思うものの、台所に置かれたマルちゃん正麺の袋を見て、「ああ ぽんこつラーメンね」と納得。最後のコマでは、母が台所に置かれたままだった昼食の器と鍋を洗い、その隣で夫がお皿を拭いているという場面が描かれていた。

 しかし、この漫画についてマルちゃん正麺の公式ツイッターには、「途中まではほっこり読めたのに最後の場面で台無しになった」「食べてもないものの片付けを妻にやらせるなよ…」「ご飯作って“くれた”、子どもにご飯食べさせて“くれた”っていうやつ?」といった批判が集まってしまっていた。

 批判の一方では、「フィクションに怒らなくても…」「夫も一緒にお皿拭いてるし問題ない」という擁護も集まっていたものの、男性が家事をすることが当たり前になっている今、帰宅した妻に後片付けをやらせる夫の描写に残念がるネットユーザーが多くいたようだった。
https://www.excite.co.jp/news/article/Real_Live_200071136/?es=true

私の感想を言えば、お昼に使った食器を洗わずに流し台に放置していた夫は批判されて当然です。
リモートワークをやっていた様子もないので、洗う時間は十分にあったはずです。
妻といっしょに食器を拭いているからいいというものではありません。

こんなささいなことを批判するべきではないという意見もあります。
確かにこれ一件はささいなことですが、こういうことが日常的に繰り返されると、ちりも積もれば山となります。

ただ、この漫画は続きものの一編でした。
この夫婦が主人公の「夫婦正麺」という漫画が12話あって、「子どもができました」という会話で終わります。
そして、その夫婦に子どもが加わった「親子正麺」という新シリーズが始まって、これがその第1話なのです。
ですから、シリーズの全体を知った上で評価しなければなりません。

「夫婦正麺」12話はすべてこちらで読めます。

そのページに『「夫婦正麺」並びに「親子正麺」の原作は弊社責任の元に制作し、作画のみ作画者の方に依頼しております』と記載されています。

この夫婦はそんなに仲がいいとは言えません。
第3話には、夫の浮気を疑わせるような会話が出てきます。
妻「マルちゃん正麺ができる3分の間に聞きたいんだけど、みゆきって誰?」
夫「それは3分では説明できないな~」
夫「お、1分たった。ひっくり返さないと」
(この日の3分間は永遠のように感じられた)
第5話では、「妻とケンカした」という言葉が出てきて、夫婦ともに顔を腫らしているので、暴力沙汰があったと想像されます。

第6話では、「世の中には二種類の夫婦しかいない。仮面夫婦と正麺夫婦だ」という言葉が出てきます。
この夫婦は、マルちゃん正麺がなければ仮面夫婦になっていそうです。


つまりこの夫婦は、仮面夫婦になりかねない、ちょっと問題のある夫婦です。
しかし、だからといって、「旦那が浮気しているのはけしからん」とか「顔を殴り合うケンカをするような夫婦なんか出すな」とかの批判が殺到して炎上したということはなかったわけです。
おそらく「夫婦に問題があるのは当たり前」といった認識が世の中にあるからでしょう。

この原作者は、理想的な夫婦よりもちょっと問題のある夫婦を描いたほうがリアルで、共感してもらえると思ったのでしょう。
実際、狙い通りになっていたと思います。


しかし、この夫婦に子どもができて、親子3人を描く漫画になったとたんに炎上しました。

夫は子どもの世話をちゃんとやっていて、問題はありません。
夫が食器を洗わなかったために妻が洗うというシーンはありましたが、もともとこういうことのありそうな夫婦でした。

世の中の価値観として、夫婦に問題があるのは許せても、子どものいる夫婦に問題があるのは許せないということがあるのでしょう。
確かに夫婦二人のときの浮気と、子どもができてからの浮気では、深刻さが違います。

つまり「正麺夫婦」は夫婦漫画、「正麺親子」は家族漫画で、形態が進化したのです(厳密には夫婦も家族ですが)。
家族漫画というと「サザエさん」みたいにほのぼのしたものという固定観念があるため、それに外れるこの漫画は炎上したのかなと思います。

それから、これは新シリーズの第1話なので、前のシリーズを知らない人が多かったことと、最初はツイッターで公開されて拡散しやすかったことも影響したでしょう。


もともと問題のある夫婦だったのですから、子どもができたとたんに仲良し夫婦になるのもおかしなことです。
企業のPR漫画だからといって、理想的な家族を描かなければならないということはありません。
第2話以降に、「なんで私ばっかりがお茶碗を洗ってるの?」ということから夫婦ゲンカが始まって、そこに子どもが起きてきたことでピタッとケンカをやめて、親子3人で仲良くマルちゃん正麺を食べる、というような話があってもいいわけです。


結論を言うと、東洋水産がこの漫画を理想の家族のつもりで出したのなら炎上もしかたありませんが、ちょっと問題のある、ありがちな家族として出したのなら批判されるべきではなく、いずれ問題を回収してくれることを期待したい、というところです。



東洋水産は今のところこの漫画を削除していませんし、マルちゃん正麺公式ツイッターで次のような発表をしています。

スクリーンショット 2020-11-16 143320

ちょっと問題のある家族を描く漫画として継続していってほしいと思います。

スクリーンショット 2020-11-07 173741
AP通信写真家のエヴァン・ヴッチの写真――Elizabeth May (on semi-hiatus)のツイートより

アメリカ大統領選挙はバイデン候補の当選で決着しました。
もっとも、トランプ大統領は「選挙は私が大差で勝った!」とツイートし、さらに「月曜日から選挙に関わる法律がきちんと執行され本当の勝者が決まるように裁判を通じて求めていく」との声明を出したので、裁判闘争が続くのかもしれません。
しかし、選挙不正の証拠も示されないので、裁判の帰趨は明らかです。


この4年間、世界はトランプ大統領の毒気にあてられてきました。
これから毒気を抜いて健康を回復しなければなりません。
それにはトランプ大統領をよく理解することです。

頭を冷やして振り返ると、トランプ大統領にもいいところはありました。
なによりも新しい戦争をしませんでした。
継続中の戦争も縮小の方向でした。
トランプ政権は軍事費を増大させたので、私はトランプ大統領は好戦的な人間で、どこかで戦争を始めるだろうと思っていましたが、それは私の見込み違いでした。

それから、よくも悪くも実行力があったのは事実です。
たとえば、金正恩委員長との会談は、ホワイトハウスで賛成するのは誰もいないような状況でしたが、実現させました。
もっとも、会談は実現しましたが、そのあとはとくに進展がありません。トランプ大統領は戦争を防いだと自慢していますが。


私が考えるに、トランプ大統領はアメリカファースト以前に自分ファーストの人間で、つねに自分が中心にいて注目されたいのです。
戦争が始まってしまうと、戦況や司令官に注目が集まります。そういう事態は避けたのでしょう。

軍事費を増大させたのも、強大な軍事力を持つ大統領として世界から仰ぎ見られたかったからでしょう。

金正恩委員長と会談したのも、その会談が世界でもっとも注目される会談だったからです。
同盟国の首脳といくら会談しても大して注目されません。
会談で注目されれば満足なので、会談が終わればそれきりです。

なお、トランプ大統領はASEAN首脳会議に一度も出席したことがありません。サミットには出席しますが、あまり楽しそうではありません。ワンオブゼムの立場がいやなのでしょう。


トランプ大統領は実際にブロレスのリングにのぼったことがありますし、バラエティ番組の司会で「お前はクビだ!」の決め台詞で人気を博しました。
そのままの感覚で大統領になって、同じことをやっているのです。

ですから、私たちもプロレスを見物する感覚でトランプ大統領を見ることができれば楽しいのですが、このプロレスラーは核のボタンを持っているので、この見物は精神衛生によくありません。

“トランプレスラー”の得意技は言葉を使っての攻撃です。
トランプ大統領は特殊な言語能力を持っています。
言葉の攻撃力を持っていることも戦争しなかった原因かもしれません。

たとえばバイデン候補とのテレビ討論会で、暴力的極右団体プラウド・ボーイズに対してなにか言わないのかと司会者に問われると、トランプ大統領は「プラウド・ボーイズ、下がって待機せよ」と言いました。
これは行動への準備を命じたようなものだと批判されましたが、「行動するな」という意味でもあり、実に巧妙な言い方です。とっさにこういう言葉の出てくるところにトランプ大統領の優れた言語能力があります。

トランプ大統領はツイッターに毎日のように多数の投稿をしていますが、世界最高の権力者が思いつくままに発言して通用しているのも驚くべきことです。


トランプ大統領は今回の選挙について「彼らは選挙を盗もうとしている」とツイートして、ツイッター社に警告をつけられました。

「選挙を盗む(steal the election)」とは不思議な言葉です。ファンタジー小説に出てきそうな言葉で、巨大な悪を想像させます。
「投票用紙を盗む」とか「投票箱を盗む」ならわかりますし、「そんな事実はない」と反論もできますが、「選挙を盗む」と言われると、どう反論していいのか困ります。

トランプ大統領はほかにも「郵便投票は腐敗した制度だ」とか「合法的な集計をすれば、我々は楽勝だ」とか「不正はやめろ」とかいろいろ言っていますが、「選挙を盗む」という言葉の威力で、証拠もなしに不正選挙のイメージづくりにある程度成功しました。


しかし、トランプ大統領の言葉の攻撃力もウイルスには通用しませんでした。
新型コロナウイルスの蔓延を防げなかったことでトランプ大統領の支持率は低下ししました。
もし新型コロナがなかったら、トランプ大統領は楽勝していたでしょう。



トランプ信者は日本にも多くいます。
ヤフーニュースのコメント欄には、選挙の不正を主張する意見がいっぱいあります。
こういう人たちは菅首相にまで文句をつけています。

菅首相「バイデン祝福」にかみつく人たち 「まだ決まってない」「裁判を見極めて」などと主張が
菅義偉首相が2020年11月8日、米大統領選で「勝利宣言」したジョー・バイデン氏への祝意をツイートしたところ、リプライ欄に反発の声が少なからず書き込まれる事態となった。

「まだ決まってない」「まだトランプ大統領は争っています」「1月に正式に決まった時点で祝辞を送った方が賢明」「不正による当選した方に祝辞を送るな」「裁判を見極めて!! 」

■各国のリーダーも同様に声明

 こうしたリプライが相次いで寄せられているのは、菅氏が8日早朝、ツイッターに書き込んだ下記の投稿だ。

「ジョー・バイデン氏及びカマラ・ハリス氏に心よりお祝い申し上げます。日米同盟をさらに強固なものとするために、また、インド太平洋地域及び世界の平和,自由及び繁栄を確保するために、ともに取り組んでいくことを楽しみにしております」

(中略)

日本でも拡散した「不正選挙」言説
 投稿から約7時間、13時過ぎの時点で、ツイートには1700件を超えるリプライ(返信)が寄せられている。しかし、目立つのは上記のように、祝意に反発する投稿だ。

 あるアカウントは、「菅さん、社交辞令はわかりますが、時期そうそうですよ!」(原文ママ)と主張。この投稿には700件を超える「いいね」が寄せられている。ほかの「まだ、決まってませんよ」とするリプライにも1000件以上のいいねが。

 もちろん、「他の国が祝辞出してるから」と理解を示すツイートもあるが、リプライ欄の上位に掲載された投稿の中では少数派だ。

 現職のドナルド・トランプ氏は、選挙で不正が行われた可能性を繰り返し示唆し、法廷闘争に持ち込む姿勢を崩していない。支持者の間では不正の「証拠」とされる画像や動画などが、日々拡散され続けている。こうした情報は日本にも広まり、注目を集めているが、これらの言説はすでにメディアなどの調査で否定、あるいは疑義が示されているものが少なくない。
https://news.yahoo.co.jp/articles/cfa04a5895e0a7070e33efe359919354b18d219c

外国の大統領の主張を信じて、日本の首相の判断に文句をつけるとは、まさに「売国」というしかありません。
まあ、菅首相のカリスマ性がトランプ大統領のそれに遠く及ばないだけのことかもしれませんが。

トランプ信者はトランプ大統領の毒気にあてられているのですから、早く解毒しなければなりません。

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大阪都構想の賛否を問う住民投票は、反対多数で否決されました。

私は京都出身ですが、東京在住が長いので、都構想については詳しくありません。しかし、外から見てろくなものではないだろうと見当はつきます。都構想がそんなにすばらしいものなら、京都府や愛知県や神奈川県でも同様の議論が起きてもいいはずだからです。

敗北が決まってからの維新関係者のコメントを聞いても、そのことがわかります。
松井一郎大阪市長は、任期満了後の政界引退を表明するとともに、「これだけ大きな問題提起ができたことは政治家冥利に尽きる」「やることをやった。全く後悔はないしこれ以上できない。心が晴れている気持ちだ」などと語りました。
吉村洋文大阪府知事は「大阪都構想は間違っていたのだろう。僕は政治家を続ける中で、都構想に挑戦することはもうないと思う。本当にやりきったという思いだ」と語りました。

いさぎよく敗北を受け入れるのはいいのですが、コメントがあまりにも自己中心的です。
「二重行政のむだ」を訴えてきたのですから、「これからも二重行政のむだが続いていくと思うと残念だ」ぐらいのことは言うべきです。
言わないのは、やはり「大阪都構想は間違っていたのだろう」ということなのでしょう。

松井市長が政界引退を表明したのも不可解です(吉村知事も引退をほのめかすようなことを言いました)。
大阪をよくするために政治家になったのなら、都構想はだめになっても、大阪に尽くすことはできます。
政界は自分を目立たせるための舞台だったのでしょうか。


国政というのは、外交安保、憲法改正など大きな問題を扱い、右翼と左翼、保守とリベラルなど大きな対立がありますが、地方政治は、税金を正しく使って住民サービスを向上させることが中心で、地味なものです。

「大阪維新の会」は地域政党ですから、そういう地道なことをするのが本来の姿です。
ところが、松井市長や吉村知事、橋下徹氏などは目立ちたがりで、大きなことをやろうとします。
都構想というのは、地方政治でできるいちばん大きなことかもしれません。
要するに大風呂敷を広げることが目的で、風呂敷の中身は最初からどうでもよかったのです。

かつて「道州制」というのがかなり議論されたことがありましたが、今はすっかり忘れられています。それと同じで、要するに地方政治で「やってる感」を出すためのアイテムです。


また、松井市長や吉村知事、橋下徹氏らは、いかにも大阪らしい人ですが、どうも“大阪愛”が感じられません。
たとえば「都構想」というのは、東京コンプレックスからくる発想ではないでしょうか。
京都人なら都構想なんていうことは絶対に考えません。

大阪の地域政党なら、大阪らしさを追求して、大阪人が誇りを持てる大坂をつくるべきですが、これまでの大阪維新がやってきたことは、統合型リゾート(IR)誘致とか万博誘致とかで国から金を引っ張ってくることです。これなら与党である自民党と変わりません。


もともと大阪人は東京に対抗意識を持っていました。
東京が政治の中心地なら、大阪は経済の中心地だというような意識です。
「王将」にうたわれる坂田三吉が大阪人に愛されるのは、実力名人を名乗って東京の将棋界に対抗したからでもあります。
1970年の大阪万博を中心になって企画した小松左京も大阪を強く意識していた作家で、「物体O」という短編は、ある超常現象で関西が隔離され、大阪を首都とする国を関西に築いていくという物語ですし、長編の「日本アパッチ族」は、再び全体主義化した戦後日本において、大阪の屑鉄泥棒たちが鉄を食う“食鉄人種”に変身して国に対抗するという物語です。

そういう東京への対抗意識が大阪を元気にするのではないかと思うのですが、都構想は大阪をミニ東京にしようというものですから、それと真逆です。
それに、松井市長らは安倍首相や菅首相とのつながりを利用してきました。これでは地域政党の意味がありません。

意味がない政党なので、松井市長にしても簡単に引退できるのでしょう。



ただ、松井市長は政界引退を表明しましたが、これはほんとうかという問題があります。
松井市長は現在56歳です。2年半後の任期満了ののち、おとなしく消え去るとは思えません。
橋下氏は府知事選出馬について「2万%ない」と言いながら出馬しましたし、府知事を辞めたあと「政治家はやりません」と言いながら、政治家と変わらない動きをしています。
そして、橋下氏の引退とともに都構想も終わったはずなのに、5年後にまた住民投票になりました。

そもそも政治的信念がなく、自分が目立ちたい人たちなので、なにか目立つことをやってくるのは確実です。
森嬉朗元首相が政界引退後も東京オリンピックを牛耳る立場になっているので、松井市長は大阪万博を牛耳る立場になるのでしょうか。


住民投票のためにコストもエネルギーも費やされました。
信念のない政治家は困ったものです。

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ヨーロッパに発した近代文明は、世界中に人種差別と植民地支配と奴隷制と戦争による悲惨をもたらしましたが、ヨーロッパ自身は植民地支配と奴隷制によって潤いました。
その後、ヨーロッパは植民地支配と奴隷制を放棄しましたが、いまだに反省も謝罪もしていません。植民地支配によって野蛮人を文明化してやったという認識でしょう(日本が韓国や中国と歴史認識でもめるのは、ここに根本原因があります)。


フランスの風刺新聞「シャルリー・エブド」がムハンマドの風刺画を載せたことで2015年にイスラム過激派に本社が襲撃され、12人が殺害されるという悲惨な事件がありました。

そして、今年の10月2日付の「シャルリー・エブド」がムハンマドの風刺画を再掲載し、議論を呼びました。これについてマクロン大統領は「フランスには冒涜する自由がある」と言って風刺画掲載を擁護しました。

10月16日には、表現の自由を教える題材としてムハンマドの風刺画を生徒に見せて授業をした中学教員サミュエル・パティ氏が、パリ近郊で首を切断されて殺害されるという事件が起きました。犯人はロシア国籍で18歳のチェチェン系難民の男性で、その場で警官に射殺されました。

教員殺害もシャルリー・エブド本社襲撃も絶対に許されないことです。
ムハンマドの風刺画を載せるのは「表現の自由」の範疇ではありますし、パティ氏は生徒にムハンマドの風刺画を見せることを予告して、見ない選択肢も与えたそうです。

18日にはフランス全土でパティ氏殺害に対する抗議デモが行われ、表現の自由とテロ反対を訴えました。
21日にはパティ氏の国葬が行われ、参列したマクロン大統領は「あなたが生徒たちに教えた自由をこれからも守り、政教分離を貫く。風刺画を見せる自由も諦めない」と述べました。


マクロン大統領の認識は根本的に間違っています。

これは「表現の自由」の問題ではありません。
たとえば日本にも一応「表現の自由」はありますが、誰もムハンマドを風刺しません。
シャルリー・エブドがムハンマド風刺画を掲載したのは、「表現の自由」があるからではなく、反イスラム主義の思想があるからです。
ムハンマドを風刺するのは、イスラム教徒を風刺するのとはレベルが違って、イスラムそのものへの冒涜です。

マクロン大統領としては、シャルリー・エブドの編集方針に口を出すことはできませんが、「イスラムを冒涜するのはフランス人の総意ではない」と言って、イスラム教徒の怒りをなだめることもできました。
しかし、マクロン大統領自身に反イスラム感情があるために「フランスには冒涜する自由がある」と言って、火に油を注いでしまったのです。
反イスラム感情は多くのフランス人に共通で、さらにはヨーロッパ人にも共通です。


この問題が「表現の自由」の問題でないことは、次の記事を読めばわかるでしょう。

動画拡散のモスク閉鎖へ 仏、過激派対策を強化 教員殺害テロ
フランス・パリ近郊で中学校教員サミュエル・パティさん(47)が殺害されたテロ事件を受けて、仏政府は21日、イスラム過激派対策の一環として、パリ郊外セーヌサンドニ県にあるモスクを閉鎖させる。モスクの責任者がパティさんを非難する動画をSNSで拡散させたことが理由だとしている。
仏メディアによると、モスク責任者が拡散させたのは、パティさんの中学校に通う生徒の保護者男性(48)が投稿した動画。動画では、パティさんが授業でイスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を題材にしたことを問題視し、パティさんの辞職を求める運動に加わるよう呼びかけ、連絡先として保護者男性の携帯電話番号を公表していた。

 仏紙パリジャンによると、警官に射殺されたアブドゥラフ・アンゾロフ容疑者(18)は事件前、保護者男性と携帯電話でメッセージをやりとりしたという。検察は21日の会見で、動画と事件には「因果関係」があると指摘し、保護者男性を拘束して調べている。

 治安を担当するダルマナン内相は20日、テレビ番組で「問題は(フランスで)今後テロが起きるかではなくて、いつ起きるかだ」と訴え、治安維持のための規制強化に国民の理解を求めていた。

 ただし、動画では暴力の行使は呼びかけておらず、AFP通信によると、モスク責任者はモスク閉鎖について「政府が強い姿勢を示して国民の動揺をやわらげる必要があるのだろう」と皮肉った。

 また、マクロン大統領は20日、イスラム過激派対策を話し合う会議に出席し、「国民は行動を求めている。(過激派対策の)行動を強化する」と強調。仏政府が今回の事件をあおったと認定する団体を解散させることを明らかにした。

 解散させる団体は、仏政府がイスラム過激派と判断するアブデラキム・セフリウィ氏(61)が代表を務める。セフリウィ氏は、パティさんがムハンマドの風刺画を題材にした授業をした後、パティさんを「悪党」と非難する動画をSNSに投稿し、殺害事件後、仏当局に拘束された。(パリ=疋田多揚)
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14666871.html?pn=2

パティ氏への抗議を呼びかける動画をある保護者男性が「表現」したら、その男性は警察に拘束され、動画を拡散した人が責任者を務めるモスクは閉鎖されました。
また、パティ氏を「悪党」と非難する動画を「表現」した人物も警察に拘束され、その人物が代表を務める団体は解散させられます。

「表現の自由」がまったくダブルスタンダードになっています。
「反イスラム主義」が優先されているからです。


フランスでは公立学校や公共行事で宗教上の帰属を明示的に示す標章や服装を禁じる宗教シンボル着用禁止法が2004年に成立しました。
この法律は、公立学校にスカーフをしてくるイスラム教徒の女子生徒がかねてから問題になっていたことから制定されたもので、スカーフ禁止法ともいわれます。
そして、2010年には公立学校に限らず人目につく場所で顔をおおうスカーフや服を禁止するブルカ禁止法が成立しました。
スカーフ禁止法は十字架なども禁止するものでしたが、ブルカ禁止法はイスラム教徒を対象にしたものとしか考えられません。

フランスはファッションの本場で、ファッションショーには奇抜な服装や肌を大きく露出した服装がいっぱい出てくるのに、顔をおおうファッションを禁止するのは理屈に合いません。
イスラム教徒への憎悪が生んだ法律です。

フランス人は自分の反イスラム主義を「表現の自由」や「政教分離」を掲げて正当化しているので悪質です。


日本では、この問題でフランスを批判する人をほとんど見かけません。
日本の知識人はもっぱらヨーロッパの文化を受け売りすることで商売してきたからでしょう。

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