村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

カテゴリ: 科学的倫理学入門

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イオンシネマが車椅子ユーザーに対して不適切な対応があったとして謝罪したところ、ヤフコメやXには逆に車椅子ユーザーを非難する投稿があふれました。
私は漫然とそれを見ていて、車椅子ユーザーにも非難されるところがあったのかなと思っていましたが、「車椅子専用席を使うべきだ」とか「映画館のスタッフは介助が仕事ではない」とか「人の善意に甘えるな」といった書き込みを読んでいるうちに、疑問がふくれ上がってきました。それらの書き込みには同情や思いやりがまったく感じられないからです。
そこで詳しく調べてみました。


中嶋涼子という車椅子インフルエンサーの人がXに投稿したのがきっかけでした。その一部を引用します(全文はこちら)。
今日は映画「#52ヘルツのクジラたち」を見てきたんだけど、トランスジェンダーの人が生きづらさを抱え差別を受ける話で辛すぎて発作起きるくらい泣ける映画だったんだけど、その後更に泣ける事があった。

ちょうどいい時間の映画がイオンシネマのグランシアターっていうちょっとお値段張るけどリクライニングできて足があげられるプレミアムシートがある豪華な劇場で4段の段差がある席しかないところで見たんだけど、今まで何度もその劇場に一人で見に行って映画館の人が手伝ってくれてたのに、今日は見終わった後急に支配人みたいな人が来て急に「この劇場はご覧の通り段差があって危なくて、お手伝いできるスタッフもそこまで時間があるわけではないので、今後はこの劇場以外で見てもらえるとお互いいい気分でいられると思うのですがいいでしょうか。」って言われてすごい悲しかった。。

「え、でも今まで手伝って頂いて3回以上ここで見てるんですが?」って言ったら、他の係員に聞いたところそう言った経験はないとおっしゃっていまして、ごめんなさいって謝られて、なんかすごく悔しくて悲しくてトイレで泣いた。

この投稿が少しバズったからでしょうか、イオンシネマを運営するイオンエンターテイメントは「弊社従業員がご移動のお手伝いをさせていただく際、お客さまに対し、不適切な発言をしたことが判明いたしました」「弊社の従業員への指導不足によるものと猛省しております」といった謝罪文をXに発表しました。
そして、そのことが『イオンシネマ、移動の手伝いで「従業員が不適切な発言」と謝罪。車椅子ユーザーの介助巡り議論に』という記事になってヤフーニュースに載ったというわけです。


イオンシネマが謝罪したのですから、イオンシネマに非があることは明らかです。
にもかかわらず車椅子ユーザーに対する非難があふれたのはどうしてでしょうか。
そこにはいくつかの誤解がありました。

多くの人は、中嶋さんは車椅子専用席があるにもかかわらず一般席に座ることを要求してトラブルになったと思い込んでいます。
しかし、この「グランシアタ―」には車椅子専用席はなく、36席すべてが足を伸ばせるゆったりしたリクライニングシートになっていて、料金も3000円(ワンドリンク付き)という豪華なシアターです。
このシアターは「サービス料金適用外」となっているので、障害者割引は使えないはずです。

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中嶋さんは以前に3回以上このシアターを使ったことがあるということです(そのときの写真をアップしているので、少なくとも1回は使っています)。
今回に限って次回からの利用を断られたということで、納得いかないのは当然です。

“活動家”が車椅子の行動範囲を広げるためにあえて映画館に無理難題を要求しているというのも誤解です。中嶋さんはそのシアターが気に入って何回も使っているだけです。

車椅子専用席のあるシアターで観ればいいという意見もありますが、車椅子専用席はたいてい最前列にありますし、同伴者といっしょになれないということもあります。
高い料金を払っていい席で観たいと思うのはおかしくありません。


今年の4月1日から改正障害者差別解消法が施行され、行政機関及び民間事業者において障害者に対する「合理的配慮」が法的義務となります。
「合理的配慮」とはなにかということですが、「実施に伴う負担が過重でないとき」という条件がついているので、事業者が「負担が過重である」と判断して、その判断が客観的に見て合理的であれば、障害者の要求を断ることができます。

「映画館での車椅子の利用」が過重な負担になるかどうかは、その映画館の構造やスタッフの配置によっても違ってくるので、一概にはいえません。

問題は車椅子を人ごと持ち上げるときの負担にありそうです。
中嶋さんはこんなことをXにポストしていました。

過去3回グランシアターで見た時には、女性のスタッフさんが二人で階段を持ち上げてくれて、映画鑑賞後に「せっかくこんな豪華なところで見れたので写真とか撮ってもいいですか?」って言ったら快く写真まで撮ってくれたりしていた状況から、急に4人がかりのスタッフで上映後に入場拒否をされた事が理不尽でした。

調べると、車椅子を人ごと持ち上げる場合は4人以上が推奨されています。
イオンシネマが2人から4人に方針転換したのかもしれません。そのために「過重な負担」になったということはありえます。
ただ、このときは4人いて対応できています。多くのスタッフがいるシネコンで4人の人手が集められないということがあるのでしょうか。

イオンシネマの判断が妥当かどうかというのは私には判断がつきません。
私だけではなく一般の人には誰にも判断がつかないはずです。


ただ、「支配人みたいな人」の対応に問題があったのは確かです。

今後の利用を断るなら、「当方の方針が変わりました」などとその理由を説明するべきです。なんの理由も示さずに断られるとショックを受けるのは当然です。

それよりももっと問題なのは、そのときの言い方です。
「今後はこの劇場以外で見てもらえるとお互いいい気分でいられると思うのですがいいでしょうか」と言ったというのですが、これはひどい言い方です。
通常は「たいへん申し訳ありませんが、次からはご利用を控えていただけないでしょうか」と低姿勢で言うところです。
この言い方は、「あなたがいい気分になるように私が判断してあげます」ということで、相手の判断力を無視した上から目線の言い方です。
これは「強者が弱者に『あなたのため』と言いながら本人の意志を無視して介入・干渉すること」というパターナリズムの典型です。
相手が身障者だということで見下し、さらに若い女性だということで見下したのでしょう。
こんな言い方をされれば、普通ならぶち切れてもおかしくありませんが、弱い立場だとそうもいきません。

イオンシネマが「不適切な発言」を認め、「従業員への指導不足」を猛省したのは当然です。


ところが、世の中にはこの「支配人みたいな人」がいっぱいいて、車椅子ユーザーを誹謗中傷する声があふれました。
今の時代は匿名で誹謗中傷しても、発信元を突き止められて損害賠償請求をされることがありますから、人を批判するときは確かな事実に基づかないといけません。
ところが、差別心から発信する人は、自分の差別心を正当化するためにデマを信じたり、自分で勝手に捏造したりします。
「車椅子専用席があるのに一般席に座ることを要求した」というのがその典型です。
「電動車椅子を持ち上げさせた」というのもありました。
「車椅子が通路をふさいでいざというとき避難できない」というのもありましたが、車椅子はたためますし、グランシアタ―はスペースがゆったりです。

その次は道徳的批判です。
たとえばXや5ちゃんねるにあったこんな書き込みです。
障害の有る無しに関わらず、助けてもらう、配慮してもらう事に当たり前に慣れすぎて感謝をしなくなった人は批判されて当然なのよ
今回の炎上も同じ
車椅子ユーザーが批判されてんじゃないの
あの人の傲慢な精神が批判されてんの
障がいをお持ちの方々が健常者と同じように社会生活を過ごしたいと思うのは自然なこと。
でも「障がいを持つ私をもっと大事に扱いなさい」の姿勢はただの傲慢です。
ご迷惑をおかけしますが…の姿勢が大事。
障がい者も健常者も、それは同じですからね。
もう、車椅子ユーザーとか障害者様とか関係なく「わがままで傲慢な奴は助けない」が答えになっちゃってる。 
たとえ障害者差別解消法が新しくなっても合理的配慮が義務化されても、企業はともかく一般の人は助けないと思う。
しょうがないよね、そういう方向に持っていった障害者様がいるんだから。
「障害者差別」と「道徳」が完全に一体化しています。


好きな席で映画を観たいという車椅子ユーザーにはなんの問題もありません。
問題はすべてイオンシネマの側にあります。途中で対応を変え、変えた理由を説明せず、車椅子ユーザーを見下した言い方をしました。

シネコンで車椅子ごと人を運ぶのが「過重な負担」か否かというのは誰にも容易に判断できないのに、シネコンよりも車椅子ユーザーを非難する人があふれたのは、この国の身障者差別状況をよく表しています。

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AIが進歩して人間の知能を超えると、人類を支配したり人類を滅ぼしたりするのではないかという議論があります。

チェスでは1997年にAIが人間の最強プレーヤーに勝利しました。
将棋では2013年にAIがプロ棋士に初勝利し、2015年に名人に勝利しました。
囲碁では2016年にAIが当時世界トップクラスとされていた韓国人棋士に勝利しました。
AIが人間を超えたこれらの世界はどうなっているのでしょうか。

私は囲碁が趣味で、大学時代は囲碁部に属して全国大会でベスト8になったこともあります。
最近は人と囲碁を打つことはありませんが、テレビ対局のNHK杯戦と竜星戦を録画して見て、新聞の囲碁欄を読み、囲碁関係のニュースはだいたいチェックしています。

今では囲碁のAIは圧倒的に強くなり、トッププロでもハンデがなければ勝負にならないとされます。
NHK杯戦では対局者が次の手を考慮中に、AIの推奨手が画面にA、B、Cで表示されます。
AIが意外な手を推奨して、解説者が「こんな手がありますかねえ」と首をひねることがあります。
そんなときに対局者がAIの推奨手を打つと、解説者や聞き手の女流プロ棋士が「さすがですね」と感嘆の声を上げます。人間がAI並みになると賞賛されるのです。

人間がAIを超える手を打つこともあります。
テレビ対局ではAIが判定した形成判断が勝率のパーセントとしてつねに表示されています。対局者が悪い手を打つと勝率が低下します。よい手を打っても通常は勝率は上がりません。それはAIの想定内だからです。
ときたま対局者が一手打つと勝率が上がることがあります。それはAIを超えた手ということです。しかし、そういうことはめったにありません。一局のうちに一度もないことのほうが多いでしょう。
つまりほとんどの場合、AIの手のほうが人間の考えた手よりよいのです。
AIのほうが人間より強いのですから、当然です。


今のプロ棋士は、一部の年配の棋士を除いて、みなパソコンでAIを使って研究しています。
AIは、その手がいい手か悪い手か、すぐさま勝率の数字で示します。
今までの常識にない手、自分の感覚に合わない手をAIがよしとすることもあります。AIはなんの説明もしないので、自分で判断するしかありませんが、自分よりAIのほうが強いのですから、誰でもAIの手を選ぶことになります。

囲碁では序盤の決まった打ち方を「定石」といい、定石を覚えることが上達の王道とされてきました。
ところが、AIはまったく定石外れの打ち方をし、それを「AI定石」といいます。
今はプロ棋士もみなAI定石を打ち、アマチュアも真似をしますから、昔の定石はほとんど打たれなくなりました。
私なども、せっかく勉強して覚えたことがほんどむだになったわけです(定石のもとにある考え方は役に立ちますが)。

その結果、どういうことになったかというと、棋士の個性がなくなりました。みんな同じAI定石を打つからです。
一昔前は、たとえば武宮正樹九段は“宇宙流”と呼ばれる独特の布石をして、序盤の盤面を見るだけでそれが武宮九段の碁だということがわかりました。
また、ちょっと古くなりますが、木谷実九段は石が低いところにいく独特の打ち方をして、“木谷定石”といわれるものがいくつもありました。ほかの棋士は木谷定石を打つことがめったになかったので、盤面に木谷定石が現れれば、それは木谷九段の碁だと判断してほぼ間違いありませんでした。

つまり昔は多様な打ち方があって、そこに棋士の個性が出ていました。
しかし、今はみんなが“偉大な師匠”であるAIの真似をするので、みんな同じ打ち方になっているのです。
これははっきりいって、つまらないことです。
中盤の打ち方も、AIの真似をするので似ています。
私は対局の録画を見ていて、前に見た録画をまた見ているのではないかと思ったことが何度もあります。


こんな小話があります。
「二人の神様が碁を打つことにした。一人の神様が第一手を打つと、もう一人の神様は少し考えて『なるほど。それでわしの負けじゃな』と言って投了した」という話です。

運の要素がなく、すべてが論理で割り切れるゲームは、いずれ最終的な結論、必勝法ないしは必然的に引き分けになる方法にたどりつくはずです。つまりそのゲームは“クリア”されるわけです。

AIが人間よりも強くなると、将棋や囲碁の人気がなくなるのではないかという説がありましたが、今のところそういうことはなさそうです。日本の囲碁人気は低下していますが、世界的に人気は上向いています。将棋は藤井聡太八冠のおかげで人気があります。チェスはもっとも早くAIが人間よりも強くなりましたが、チェスの人気が衰えることはなく、Netflixのドラマ「クイーンズ・ギャンビット」の影響もあって、現在は空前のチェス人気だそうです。
しかし、必勝法が解明されると、さすがに人気はなくなるかもしれません。


将棋は囲碁よりも必勝法の発見は早いはずです。
私は将棋の実力はぜんぜんたいしたことはありませんが、たまに将棋のNHK杯戦を見ることがあります。そうすると、序盤を両対局者がすごい早さで指しているのにびっくりします。
今はAIによって序盤の指し方の研究が進んで、最初に戦法が決まれば、そのあとの変化の余地がほとんどないのです。
まだ研究が確定していない中盤になって、やっと考えながら指していくことになります。
どんどん研究が進めば、最終的に玉を詰ますところまでいく理屈です。


現在、若手棋士はAIの示す手を積極的に取り入れていますが、年配の棋士は心理的な抵抗からあまり積極的ではありません。
その結果、若手棋士が活躍し、年配の棋士は片隅に追いやられています。

今やほとんどの棋士がAIに盲目的に従っています。
「盲目的に」というのは、AIはなにも説明しないので、わけもわからず従っているからです。
これは神を信仰するのに似ているかもしれません。

人間は人工知能をどうしても擬人化して理解しようとします。
そうすると、人間の知能を超えた人工知能を神にたとえるのは自然なことです。


『創世記』における神は人間に残酷です。
神は自分の言いつけにそむいて善悪の知識の実を食べたということでアダムとイブを楽園から追放します。罰する神で、許す神ではありません。
神はアベルの供物は受け取りますが、カインの供物は受け取らず、兄弟の一方をひいきします。
神は人間が堕落したといって大洪水を起こし、ノアの一家以外の人間をみな殺しにします。

ですから、キリスト教圏の人々は神に潜在的な恐怖を抱いています。
AIが人間の知能を超えると人類を支配したり滅ぼしたりするのではないかという声はもっぱら欧米から聞こえてきます。日本人はそんなことは考えません。


AIに意志はないので、人類を支配したり滅ぼしたりしようとするはずがありません。
AIが悪用されることは警戒しなければなりませんが、それはAIの問題ではなく人間の問題です。

AIは人間にとって、今のところ使用人であり、人間の知能を超えたときには、支配者ではなく師匠になるはずです。

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松本人志氏の性加害に関する文春砲の第二弾は、「三人の女性が新証言」「恐怖のスイートルームは大阪、福岡でも」という見出しで、C子さん、D子さん、E子さんの3人がそれぞれに体験したことを語りました。
3人とも松本氏の後輩芸人に誘われ、飲み会に行ったりしたあと、最終的に高級ホテルの一室に誘われました。すると、そこに松本氏がいます。
C子さんは自分が松本氏とセックスをします。
D子さんは松本氏と二人きりになるのを拒み、D子さんの友人が部屋に残りました。
E子さんも松本氏と二人になるのを拒み、結局友人が松本氏に“献上”され、エッチをしたとあとで友人から聞きました。

3人の女性が松本氏とセックスをしたと見られますが、どれも「合意」の上のことですから、文春砲第二弾は拍子抜けです。

ですから、今のところ松本氏にとって問題なのは、文春砲第一弾のA子さんとB子さんのケースだけです。これは性行為の「強要」があったとされるので、深刻です。
とはいえ、刑事事件にはなりそうにないので、松本氏がすぐに反省の態度を示して謝罪すれば、大きな問題にはならなかったでしょう。
ところが、松本氏は「事実無根」と言ったために、A子さんは怒って「今後、裁判になったとしたら証言台で自分の身に起きたことをきちんと説明したいと考えています」と今回の文春の記事の中で言っています。
今後の裁判というのは、性行為の「強要」があったか、それとも「合意」があったかということが争点になると思われるので、A子さんが毅然とした態度で証言すると松本氏は苦しくなります。


ただ、謝罪会見というのはむずかしいものです。
これまで企業や個人が数々の謝罪会見を行ってきましたが、謝罪のしかたによってはかえって炎上します。
松本氏の場合、性格的に「真摯に謝罪する」ということができません。これまでそんな場面を一度も見たことがありませんし、真摯になるべき場面でも必ず笑いを入れてごまかしてきました。

しかも、この場合は女性に対して謝罪するわけです。
松本氏は女性を見下してきた人ですから(とくに性的な場面で)、「女性に対して真摯に謝罪する」というのは、松本氏においては不可能の上に不可能を積み重ねた行為です。

本来なら吉本興業が松本氏に謝罪会見をさせるところですが、吉本興業と謝罪会見というと、闇営業問題で宮迫博之氏と田村亮氏が真摯な会見をしたことが思い出されます。
そして、吉本の岡本明彦社長はなんと5時間半にも及ぶグダグダの会見をして、世の中をあきれさせました。
ただ、そのときに岡本社長は宮迫氏と田村氏の処分を撤回すると発表しましたが、宮迫氏はいまだにテレビに出られず、田村氏もほとんど“干された”状態になっています。
真摯な謝罪会見をした宮迫氏と田村氏が日陰に追いやられ、グダグダの会見をした岡本社長は今も芸能界の支配的立場にあります。

吉本興業がテレビ局に対して圧倒的な力を持っているのは旧ジャニーズ事務所と同じです。
これを機会に吉本興業のあり方も正常化してほしいものです。


今後行われる裁判で松本氏が勝訴しても、松本氏が今まで通り活躍できるようになるかというと、そうはいかないでしょう。
文春のふたつの記事は新たな問題をあぶり出しました。

文春の記事によると、松本氏はしょっちゅう女性との飲み会をして、その中から一人の女性を選んでセックスをしていることになります。
既婚者の身でそういうことをしているのを不愉快に思う人が多いでしょう。
そして、毎回違う女性を選んでいるのも不愉快に思う人が多いでしょう。
浮気や不倫は多少なりとも恋愛の要素がありますが、松本氏の場合は女性を性の対象としてしか見ていません。

それから、飲み会に女性を集めるのを後輩芸人にやらせ、セックスの対象に選んだ女性を口説くのも後輩芸人にやらせています。
文春が「SEX上納システム」と書いたのはそういうことです。
女性を集め、口説くといういちばんむずかしいところを後輩にやらせ、自分はおいしいところだけいただくというやり方です。
まるで大奥で女性を選んだ将軍です。


「SEX上納システム」は後輩芸人の働きによって成り立っています。
今回の記事には、福岡ではパンクブーブーの黒瀬純氏とその後輩芸人、大阪ではクロスバー直撃の渡邊センス氏とたむらけんじ氏がその役割をしていたと書かれています。前回の記事では小沢一敬氏でした。
ほかにもいっぱいいそうです。というのは、「人志松本のすべらない話」に出演した博多大吉氏も、女性を集めて松本氏を接待したという話をしているのです。
YouTubeからその話を要約して紹介します。

「ぼくら福岡で先輩芸人がこられたときにおいしいお店に連れていったり、女性をセッティングしたりというのを15年ぐらいやってたんです。十何年前、松本さんが初めて福岡にこられたとき、今田さんらと5人ぐらいでくると。で、わかってるかと、ちゃんと女の子を用意するようにと。正直言って、人気のない先輩だと女の子はあんまり集まらないんですけど、松本さんなら余裕で集まると思ってたんです。しかし、女の子に声をかけると、松本軍団が全国を飲み歩いているというのがへんな感じで伝わっていて、みんな飲み会は行きたくないと。なぜならなにされるかわからないと。いただける笑いよりも、のちに与えられる暴力のほうが上回るだろうと。前日か前々日に、飲み会に行ってもいいよという女の子は一人だったんです」

このあと、多方面に声をかけまくったら50人の女の子が集まって、飲み会の費用が33万6000円になり、松本氏の顔が青くなったというオチになります。
この話には「SEX上納」は出てきませんが、「いただける笑いよりも、のちに与えられる暴力のほうが上回る」という言葉は重いものがあります。

たむらけんじ氏は飲み会のあったことは認めていますし、LINEが流出したことで小沢氏の飲み会があったことも確かです。「SEX上納」の部分については女性の証言だけですが、松本氏の過去の行状などからもあったことは間違いないでしょう。

後輩芸人は、松本氏のために女性を集め、松本氏とセックスするかどうかまで確かめているわけで、こんなことはしたくないに決まっています。
松本氏が権力を持っているから、後輩はしかたなくしているのです。後輩にすればパワハラです。
いずれ後輩からパワハラを告発する声が上がっても不思議ではありません。


私は性加害の問題が発覚する以前から、松本氏の人間性を嫌っていました。

松本氏は体罰賛成論者で、テレビで何度も体罰賛成論を述べていました。
橋下徹氏も昔は体罰賛成論を盛んに主張していましたが、時代の流れを読んで、あるときから体罰否定論に転換しました。
しかし、松本氏は2017年にトランペット奏者の日野皓正氏が男子中学生にビンタするという事件があったときも体罰賛成論を言っていたので、おそらくテレビで最後まで体罰賛成論を言った人間です。

また、松本氏は赤ん坊や母親にもきびしいことを言ってきました。
かつてツイッターに「新幹線で子供がうるさい。。。子供に罪はなし。親のおろおろ感なしに罪あり。。。」と投稿したことがあります。つまり泣いた赤ん坊の親を責めたのです。
また、やはり新幹線の車中で、母親が1歳未満の赤ん坊に話しかけているのがよほど気にさわったらしく、「2時間半もずーっとしゃべってんねん、まだしゃべれん子に」と言い、それで赤ん坊が言葉を覚えると指摘されると、「家でやったらええやん。新幹線はそういう場所じゃないやん」と主張を曲げませんでした。

子どもや赤ん坊や母親にきびしいということは、要するに弱い者にきびしいということです。
松本氏の笑いは弱者をバカにしていて、学校でのいじめにつながっているという批判が前からありましたが、もっともなことです。

女性をとっかえひっかえして性欲のはけ口にし、後輩芸人を女性調達係として使い倒すというのは、人として許されません。
松本氏がそんな人間だとわかったら、裁判がどうなろうと、もう笑えないのではないでしょうか。

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学校教育の現場で、素手でトイレ掃除をする運動があることは知っていましたが、なんとそれが国会の中でも行われていました。
しかも、大物国会議員まで参加していたのです。

立憲民主・太栄志議員、国会内トイレ清掃も… 素手で便器触る写真に「汚い」「握手やめて」有権者ら不快感
立憲民主党の太(ふとり)栄志衆議院議員が14日、自身のX(旧ツイッター)に、野田佳彦元首相と一緒に国会内のトイレを清掃する写真を公開した。しかし、素手で便器に触っていることに「汚い」「握手はやめてくださいね」など不快感を示す声が殺到している。

 太議員は「『国会掃除に学ぶ会』の設立総会に参加。総会の後には、野田佳彦元内閣総理大臣や参加者の皆さんと国会内のトイレを清掃しました。改めて掃除の意義と深さを学ぶ機会になり、これからも実践していきます」と投稿した。写真にはゴム手袋などを着けず、素手で便器に手をかけてスポンジで便器の側面をこすっている様子が写っている。

 しかし、これが不衛生だと指摘する声が殺到。「汚い、普通にゴム手すりゃ良いだけなのに」「えっ、そのスポンジ上に置くの?やめてー」「素手でトイレ掃除をするのは不衛生で不合理なだけで、そこに『意義と深さ』などありません」などの声が寄せられている。

 また、自民党の裏金問題で国政が揺れている中、パフォーマンスのような行為にあきれた反応もある。「トイレ掃除は家でして、国会では議員の仕事をしてください。意味がありません」「政権支持率17%でもまったく政権交代の気配が感じられない理由がよくわかりました」「今、国民がやってほしい事は国の政治を綺麗にする事でしょう」など、炎上状態となっている。https://news.yahoo.co.jp/articles/4beee4bf2e3b9d6465face601516708866321098

「掃除に学ぶ会」というのは、認定NPO法人「日本を美しくする会」の組織です。
「日本を美しくする会」の理念は「掃除を通して心の荒みをなくし、世の中を良くすること」というもので、『特に人の嫌がるトイレをきれいに磨くと、心もきれいになります。トイレ掃除は「自分を磨くための」一番の近道で確実な方法です』とホームページに書かれています。
教師による「便教会」という組織もあって、それが学校でトイレ掃除をやっています。
子どもだけにやらせているのではなく、教師もやっているということで、そこはまだましです。

いずれにしても、「トイレをきれいにすると心もきれいになる」ということにはなんの根拠もありません。
逆に、顔を便器に突っ込むようにして素手で掃除すると、その不快感があとを引くに違いありません。どうせトイレ掃除をするなら効率的に短時間でやりたいものです。
スポンジやタワシを使うとはいえ、素手で掃除するのは衛生上も問題です。ノロウイルスなどは主に排せつ物を介して感染します。

「日本を美しくする会」のホームページには「特定の組織や団体に属しません」と書かれていますが、『東日本大震災の避難所で配られたおにぎりを、何のためらいもなく、まずお年寄りや子どもたちに渡す姿。そこには、日本人の日本人たる美徳がありました。自分よりまず、「人様のためにできる幸せ」という精神を、 私たち日本人は代々受け継いできました』などという文章を見ると、日本会議に連なる組織と同じ感じがします。


そういった組織と立憲民主党の国会議員がつながっているというのが意外でしたが、さらに意外なのは野田佳彦議員まで加わっていたことです。
野田議員といえば現実主義的な人というイメージでしたから、精神主義の権化のようなトイレ掃除の運動とは結びつきませんでした。

ほかに「日本を美しくする会」とつながっている政治家はいないかとネットで調べてみると、門川大作京都市長がいました。京都市では小中学生に「素手でトイレ掃除」をやらせているそうです。
門川市長が初当選した2008年の市長選では自民党・民主党・公明党・社民党の支持を受けていました。
門川市長は任期満了に伴い引退して、来年2月投票の選挙には後継候補として松井孝治氏が立候補する予定です。松井氏はもともと民主党の参議院議員で、鳩山内閣のときに官房副長官をしていました。この松井氏も12月9日に素手でトイレ掃除をしている写真をXに投稿しました。

もしかすると立憲民主党と「日本を美しくする会」は近いのかと思っていると、なんと泉健太代表も昨年11月に「国会掃除に学ぶ会」の活動に参加したということがわかりました。「日本を美しくする会」のウェブマガジンのページに参加者の名前と写真が載っています。

国会掃除に学ぶ会
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https://www.souji.jp/webmagazine/2023/06/09/%e7%89%b9%e3%80%80%e9%9b%86-6/

党の代表が参加しているとなると、立憲民主党は「日本を美しくする会」の思想を肯定していると思われてもしかたありません。


町中の汚い公衆トイレをきれいにしようという活動があれば、誰もが称賛するでしょうが、「日本を美しくする会」はそういうことはしません。「心をきれいにする」ことが目的で、あくまでトイレをきれいにすることは手段です。
国会のトイレは決して汚くはないでしょう。それを掃除するのはパフォーマンスと見られてもしかたありません。

日本会議には宗教団体が多く参加していますが、「日本を美しくする会」は宗教団体とはいえません。人間の道徳的向上を目的とした団体で、戦前は「教化団体」や「道徳団体」と呼ばれていたものです。
宗教団体やカルトでないならいいかというと、そんなことはありません。むしろ宗教以上に危険かもしれません。

特定の宗教を国民に押しつけることはできません。さすがに国民も反対します。
しかし、道徳を押しつけることはどうでしょうか。
すでに日本人は自民党の道徳教育によって道徳を上から教えられることに慣れています。
「日本人の心をきれいにする」と言われたとき、きちんと反論できる人はどれだけいるでしょう。
学校で「素手でトイレ掃除」をやっているところがあり、国会議員も「素手でトイレ掃除」をやっているのですから、いずれ日本人全員で「素手でトイレ掃除」をやることになっても不思議ではありません。

宗教や道徳と親和性が高いのが自民党の特徴です。
野党はそこで差別化をはからねばならないのに、泉代表はなにもわかっていません。
心をきれいにすることより現実のトイレをきれいにすることが政治の役割です。

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ジャレド・ダイアモンド著『銃・病原菌・鉄』やユヴァル・ノア・ハラリ 著『サピエンス全史』など、新しい視点で書かれた人類史の本が評価されていますが、そこに新たな一冊が加わりました。ルトガー・ブレグマン著『Humankind 希望の歴史』(上下巻)です。

著者のブレグマンはオランダ出身、歴史家であると同時にジャーナリストでもあるという強みがあって、本書でもどんどん現場に取材に行って、具体的に記述しているので、ノンフィクションを読んでいるようなおもしろさがあります。

ブレグマンは西洋思想には根深い性悪説があるといいます。人間の道徳性は薄いベニヤ板みたいなもので、なにか非常事態が起こると人間はパニックになり、攻撃的で利己的な本性をむき出しにするという思想です。そして、こうした偏見に合わない情報は排除され、偏見に合わせてゆがめられた情報で歴史的“事実”が構成されてきたというのです。
ブレグマンは有名な歴史的“事実”とされていることを次々とくつがえしていきます。すべて具体的な話なので読みやすく、目からうろこのことがいっぱいあります。
その具体的な話の中からいくつかを紹介します。


ノーベル文学賞作家のウイリアム・ゴールディングの代表作である『蠅の王』は、二度も映画化された有名な小説です。飛行機事故により少年たちだけが生き残り、漂着した無人島で生活することになります。最初はルールをつくって仲良く暮らしていた少年たちですが、次第に争うようになり、まるで野蛮人のようなふるまいをし、最後は殺し合いまでするという物語です。人間、とくに子どもには“悪”があるということを描いています。
これは無人島で少年たちが助け合って生き抜くジュール・ヴェルヌ著『十五少年漂流記』のアンチとして書かれたものではないかと思います。『十五少年漂流記』は完全に子ども向きの物語となって、まったく顧みられませんが、対照的に『蠅の王』は文学作品として高く評価されています。これも西洋の性悪説思想の表れでしょう。

ブレグマンは『蠅の王』について、最近の科学的研究からこういうことはありえないだろうという記事を書きました。しかし、その科学的研究というのは、家にいる子ども、学校にいる子ども、サマーキャンプに参加している子どもに関するものでした。子どもたちだけが無人島に取り残された場合は違うのではないかと、その記事は批判されました。
そこでブレグマンは、実際に『蠅の王』のようなことがあったのではないかと探し始めました。すると、ある無名の人のブログに「1977年のある日、6人の少年がトンガから釣り旅行に出かけたが、大きな嵐にあい、船が難破して、少年たちは無人島にたどりついた」と書かれていたのを見つけます。調べると、あるイタリアの政治家が国際的な委員会かなにかに提出する報告書に書かれていた話だということがわかります。しかし、その話が事実かどうかはわかりません。その政治家はすでに亡くなっていました。
もしこれが事実なら、1977年の新聞記事に載っているだろうと探してみましたが、なにも見つかりません。ある日、新聞のアーカイブを調べていて年代の数字を間違えて打ち込み、1960年代に迷い込みました。そうすると、そこに探していたものがあったのです。1977年というのはタイプミスだったのです。
1966年10月6日付のオーストラリアの新聞に「トンガの漂流者に関する日曜番組」という見出しの記事がありました。無人島で1年以上孤立していた6人の少年がオーストラリア人のピーター・ワーナー船長に助けられたということの再現番組がつくられたという記事です。
ブレグマンは船長の名前を頼りにオーストラリアまで会いに行き、元少年の1人にも会います。さらに、ある映画製作者が少年たちの物語はもっと注目されるべきだと考えてドキュメンタリーを制作していました。それは放送されなかったのですが、映画製作者は未編集のインタビューフィルムを見せてくれ、さらに彼はオーストラリアのテレビ局が制作した番組のコピーも持っていたので、それも見せてくれました。
ブレグマンの執念の取材でリアル『蠅の王』の実際が明らかになりました。

少年たちは16歳から13歳までの、厳格なカトリックの寄宿学校の生徒でした。
少年たちが発見されたのは船が難破してから1年3か月後でした。
ワーナー船長は回顧録にこう書いています。
「わたしたちが上陸した時、少年たちは小さなコミュニティを作っていた。そこには菜園と、雨水をためるための、くりぬいた木の幹と、変わったダンベルのあるジムと、バドミントンのコートと、鶏舎があり、いつも火がたかれていた。すべて古いナイフを使って手作業で作ったもので、強い決意の賜物だった」
少年たちは2チームに分かれて働くことにし、庭仕事、食事のしたく、見張りのための当番表をつくっていました。ときには喧嘩も起きましたが、時間を置くことで解決しました。
彼らの1日は歌と祈りで始まり、歌と祈りで終わりました。一人の少年が流木と半分に割ったココナッツの殻と、壊れた自分たちの船から取ってきた6本の鋼線を使ってギターをつくり、それを弾いて仲間を励ましました。
救出後、医師が彼らを診察すると、健康状態はこれ以上ないほどよいものでした。

ワーナー船長は、少年たちの物語はハリウッド的な映画に最適だと思い、手始めに地元のテレビ局に売り込みました。しかし、30分のテレビ番組はつくられましたが、それ以上には進みませんでした。
結果、少年たちが無人島で助け合って生き延びた物語は忘れられ、少年たちが互いに争って野蛮人のようになってしまうという物語(フィクションですが)は広く知られるようになったのです。


1971年、アメリカのスタンフォード大学において、監獄に見立てた地下室で普通の学生が囚人役と看守役を演じる心理学実験が行われました。「スタンフォード監獄実験」と呼ばれるものです。
実験開始から2日目、囚人たちは反乱を企て、看守たちは鎮圧しました。それから数日間、看守たちは囚人を服従させるためのあらゆる戦術を考案しました。夜中に2回点呼を行って囚人たちを睡眠不足にさせ、裸で立たせたり、腕立て伏せをさせたり、懲罰房に入れたりしました。囚人たちから離脱者が相次ぎ、残った者も異常な心理状態にあったので、2週間予定されていた実験期間は6日で打ち切りとなりました。

実験の主宰者であるフィリップ・ジンバルド教授は、看守役になにも指示していない、彼らは自発的にサディストになったのだと繰り返し主張しました。「『看守』の制服を着たことの『当然の』結果」とも書いてます。
つまり看守役の学生がサディストになったのは、彼らの性質が悪かったからではなく、悪い状況に置かれたからだというのです。

この実験は評判になり、マスコミに繰り返し取り上げられ、心理学の教科書にも載り、ジンバルドはアメリカ心理学会の会長にもなりました。

しかし、実験の実際は違っていました。
ジンバルドは看守役にさまざまな指示を与えていました。というのは、実験の本来の目的は、囚人役にストレスを与えたときどういう反応をするかを明らかにすることだったからです。
ジンバルドは実験が始まる前から、自分と看守がひとつのチームであるかのように「われわれ」と呼び、囚人を「彼ら」と呼んでいました。そして、自分は看守長の役割を演じ、囚人をもっときびしく扱うように看守に圧力をかけ、きびしさの足りない看守を叱責していたのです。

2001年、BBC(英国放送協会)は2人の心理学者の協力を得て、同じような実験を行いました。ただし、看守と囚人にとくに指示は与えませんでした。
これは4時間の番組として放送され、多くの人がテレビの前に釘付けになりましたが、そこではほとんどなにも起こりませんでした。ブレグマンは「最後まで見るのはたいへんだった。なぜなら、見たこともないほど退屈でつまらなかったからだ」と書いています。
囚人と看守が食堂でタバコを吸ってくつろいでいる場面が多くなりました。数人の看守がもとの体制に戻るように説得しましたが、説得は功を奏しませんでした。

しかし、このBBCの監獄実験は忘れられ、スタンフォード監獄実験は今でもあちこちで引用されています。


「ミルグラムの電気ショック実験」も有名です。これは「アイヒマン実験」ともいわれます。
1961年、イエール大学の助教だったスタンレー・ミルグラムは、さまざまな職業の一般人を集めて心理学実験を行いました。被験者は2人1組となり、1人は先生役、1人は生徒役になります。先生は電気ショック発生装置の前に座らされ、生徒は隣の部屋で椅子に縛られており、声だけが先生に聞こえるようになっています。記憶テストが始まり、生徒が間違えると、スタッフが先生に電気ショックを与えるように命じます。電気ショックは15ボルトという弱い電圧から始まりますが、生徒が間違えるたびにスタッフは電圧を上げるように命じます。
実は電気ショック発生装置は少しもショックを与えないもので、生徒役は研究チームのメンバーで、演技をしているのでした。
隣室の生徒が金切り声の悲鳴を上げても、スタッフは電圧を上げるように命令し、先生はスイッチの表示が「危険――苛烈な衝撃」と書かれた域に達しても電圧を上げ続け、最高の450ボルトまで上げる者もいました。
結果、被験者の65%が最高の 450ボルトまで上げました。感電死させてもかまわないと思ったのです。

この実験結果は衝撃的でした。ブレグマンは「若き心理学者ミルグラムは、たちまち有名人になった。新聞とラジオとテレビのほぼすべてが、彼の実験を取り上げた」と書いています。
ニューヨーク・タイムズ紙は「何百万という人々をガス室に送ることができるのは、いったいどんな人間だろう。ミルグラムの実験結果から判断すると答えは明らかだ。わたしたち全員である」と書きました。

ブレグマンはこの実験結果を疑い、調べました。
そうすると、被験者全員へのアンケートで「この状況をどれだけ信じられると思いましたか?」という質問があって、生徒がほんとうに苦しんでいると思っていたのは被験者の56%にすぎないことがわかりました。さらに、あるスタッフの分析によると、電気ショックを本物と思った人の大半はスイッチを押すのをやめていたのです。
つまり実験結果はかなり誇張されたものでした。
もっとも、それでも最後までスイッチを押し続けた人も少なからずいました。
ブレグマンはそれについても権威にしたがったのか、命令に従ったのかなど考察しています。

ともかく、「科学的」とされることでも性悪説方向にバイアスがかかっているのです。


本書は歴史書でもあるので、歴史のこともいろいろ書かれています。
戦争の歴史などは今の時代とくに興味深く読めるでしょう。
また、イースタ島についても書かれています。イースタ島の今の住民は、モアイ像にまったく興味を持っていません。つまりモアイ像をつくった文明はほろびてしまったようなのです。
これについてはいろいろな説がありますが、有力なのは、モアイ像を運ぶには木の幹が必要で、そのため島の木を切りすぎて土壌が荒れ、農業生産が減少し、飢えた人々は互いに殺し合って、文明から野蛮に後退してしまったという説です。つまりここでも『蠅の王』みたいなことが起こったというわけです。
ブレグマンはこれにも疑問を持ち、徹底的に調べて、別の結論を導きます。


ノルウェーの、鉄格子も監房もない、看守の姿も見えないリゾートホテルのような刑務所が紹介されます。
オランダの、教室もクラス分けもない、宿題も成績もない学校が紹介されます(生徒は自分で学習計画を立てます)。
この学校にはいじめがないそうです。

子どもにいじめはつきものと考えられていますが、そうではないとブレグマンはいいます。
社会学ではいじめの蔓延する場所を「トータル・インスティテューション(全制的施設)」といい、その特徴は次のようなものです。

・全員が同じ場所に住み、ただ一つの権威の支配下にある。
・すべての活動が共同で行われ、全員が同じタスクに取り組む。
・活動のスケジュールは、多くの場合、一時間ごとに厳格に決められている。
・権威者に課される、明確で形式張ったルールのシステムがある。

この典型は刑務所です。そこではいじめがはびこっています。
学校も全制的施設です。
日本でのいじめ防止の議論は、まったく的外れといわねばなりません。

ブレグマンは徹底的に性悪説を否定し、性善説を肯定します。ここまで振り切っているのはみごとです。




私はブレグマンの考え方に8割方賛成です。
全面的に賛成するわけにはいきません。性善説だけでは社会は維持できないと思うからです。

性善説か性悪説かという問題のとらえ方が間違っているのです。
人間には利己心と利他心があります。これは動物にも共通するものです。
利他心が前面に出れば人はよいことをし、利己心が前面に出れば人は悪いことをします。
つまり善と悪ではなく、利他と利己としてとらえるとうまくいきます。
このことは近く書きたいと思います。

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京アニ放火殺人の青葉真司被告は、京アニに自分の小説を盗用されたということを理由に京アニに放火しました。
「京アニに盗用された」というのは妄想というしかありません。
ということは、青葉被告は自分と無関係な、なんの罪もない人間を殺したことになり、通り魔事件と同じようなものです。

青葉被告もそのことは意識していました。
というのは、青葉被告は9月14日の被告人質問において、秋葉原通り魔事件の加藤智大(死刑執行ずみ)について「そういう事件を起こしたことについて、共感というか、類似点じゃないが、他人事には思えなかった」と語ったからです。また、加藤智大が包丁6本を持っていたことを参考に自分も包丁6本を購入して準備したということです。

秋葉原通り魔事件にしても京アニ放火殺人事件にしても、なんの落ち度もない人間が殺されたわけで、被害者遺族が加害者に対して憤りを覚えるのは当然です。

では、殺される側に落ち度のある殺人だったらどうなのでしょうか。
強者が弱者を一方的に虐待し続けて、弱者がついに怒りを爆発させて立ち上がり強者を倒す――というのはエンターテインメントの物語の定番です。
昔は任侠映画で高倉健が最後に悪いヤクザのところに斬り込むシーンでは、観客が拍手喝采したものですし、今でも半沢直樹が「やられたらやり返す。倍返しだ!」と叫ぶシーンでは、視聴者は心の中で拍手喝采しているはずです。

もちろん今は、悪いやつに個人で復讐することは禁じられていて、法の裁きに任せることになっていますが、法が裁いてくれるとは限りません。


今年3月、佐賀県鳥栖市で19歳の大学生が両親を殺害するという事件があり、9月15日、佐賀地裁は19歳の大学生に懲役24年の判決を言い渡しました。
2人殺して懲役24年なら、量刑としては普通か、むしろ軽いと思われるかもしれませんが、必ずしもそうとはいえません。
というのは、このような親族間の殺人は、長年しいたげられていた者ががまんの限界に達し、「正義の怒り」が爆発して犯行に及ぶというケースが多いからです。

この事件はどういうものだったのか、朝日新聞の『両親殺害の背景にあった「教育虐待」 大学進学後も暴力、正座、罵倒』という記事からまとめてみます。

殺された両親の長男である被告は、小学校のころから成績が悪いと父親に胸ぐらをつかまれ、蹴られてアザができたこともあります。1時間以上、正座をさせられ、説教され、「失敗作」や「人間として下の下」などとののしられ、長男は「心が壊れそうになった」と公判で述べました。
父親が決めた中学受験の勉強が始まると、さらに暴言や暴力はエスカレートしたといいます。高校は佐賀県トップの公立進学校に入り、大学は九州大学に入りましたが、それでも虐待はやみませんでした。
父親自身は大学受験に失敗し、自分の学歴を「九州大学を中退した」と周りの人に偽っていました。
出廷した心理学の専門家は、父親の行為を「教育虐待」であるとし、父親に学歴コンプレックスがあったと証言しました。
岡崎忠之裁判長は「父親による身体的、心理的、教育虐待と、それらによる精神的支配のもとで育った」と指摘し、「心理的、身体的虐待を受けるなどしたことが、殺害を決意したことに大きく影響している」と犯行の背景事情を認定しました。

ところが、判決は懲役24年でした。
これは裁判員裁判だったので、裁判長よりも裁判員の意向が大きかったのかもしれません。

被告は父親に虐待されたのに母親も殺したことについて、読売新聞の『元九州大生の19歳は「養育環境に問題あり」…鳥栖市の両親殺害事件公判で専門家』という記事によると、父親を刺したとき母親が止めに入ったために排除するために刺したと説明し、「味方でいてくれたのに、恩を仇で返すことになって申し訳ない」と述べたということです。

母親を殺した説明は説得力がありませんが、父親を殺したことについてはかなり同情できます。
長男は公判において「父親にいつか仕返ししてやると思うようになり、高校生になって殺してやると考えました」「仕返しをすることをずっと支えに生きてきて、それを放棄すれば、これまで生きてきた意味がなくなるので、放棄はできませんでした」などと語りました。
長年の虐待で思考がゆがんでいることがわかりますが、その思考のゆがみは長男のせいではなく父親のせいです。

冷静に判断しても、父親が長男を虐待した罪と、長男が父親を殺した罪は、かなり相殺されるはずです。

1968年、29歳の女性が父親を絞殺するという事件がありました。この女性は14歳のころに父親に犯され、それからずっと関係を持って、父親との子どもを5人出産しました。この関係は周囲の人間はみな知っていましたが、誰もなにもできませんでした。女性に好きな男性ができ、結婚の約束をすると、父親は激怒します。そして、女性は父親が眠っている間に首を絞めたのです。
当時は尊属殺人は特別に重罪にする規定がありましたが、最高裁は尊属殺の規定は違憲であるとし、女性に執行猶予つきの判決を下しました。

こういう例があるのですから、性的虐待と教育虐待の違いはありますが、この事件についても、もし父親殺しだけなら執行猶予つきの判決になってもおかしくありません。

それに、殺人事件の場合は被害者遺族の感情が重視され、それが重罰の根拠とされますが、この事件の場合は、加害者が被害者遺族でもあるわけです。
いや、ほかにも親族はいます。その親族は弁護士を通して書面で判決について「到底受け入れられるような内容ではなかった。長年父親からの虐待に苦しんだ末の思い詰めた結果だということを、もっと重視してもらいたかった」と述べました。


京アニ放火殺人事件の青葉真司被告や秋葉原通り魔事件の加藤智大も親からひどい虐待を受けていましたが、犯行の矛先は親ではなく罪のない他人に向けられました。
しかし、この事件は正しく親に向けられたわけで、「やられたらやり返す」を地でいく犯行でした。

おそらく控訴審があるでしょうから、そのときは虐待した父親の罪を正しく評価した判決を期待したいものです。

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福島第一原発の処理水の海洋放出に中国が反発し、日本産水産物の全面輸入禁止を打ち出しましたが、野村哲郎農水相は「たいへん驚いた。まったく想定していなかった」と述べました。
農水相だけでなく、政府全体でも想定していなかったようです。
確かに中国の反応は明らかに過剰反応なので、別の意図がありそうです。

ただ、日本政府も「科学的に安全」と繰り返すばかりで、まったく能がありません。
日本政府のこのやり方が問題を大きくしました。

そもそも「処理水」という言葉がごまかしです。
トリチウムは確実に含まれているのですから、少なくとも「トリチウム汚染水」というべきです。
それに、ALPS(多核種除去設備)でトリチウム以外の放射性物質は除去できることになっていますが、実際はすべてが除去できているわけではありません。
『またも岸田首相の詭弁?「処理水」海洋放出の不都合な事実を環境NGOが暴露』という記事によると、『「処理水」とされているもののうち、その7割弱で、ヨウ素129や、ストロンチウム90、セシウム137、プルトニウム239等の、トリチウム以外の放射性物質も基準を超えた量を含んでいる』「放射性物質によっては基準の2万倍近くという濃度で含まれている」ということです。
つまりトリチウム以外の放射性物質も含まれているのですから、やはり「汚染水」が正しい表現です。
「処理水」などというごまかしの言葉を使うので、ほかのことも信用されなくなります。

なお、今回の海洋放出に際しては、改めてALPSで処理を行うことになっていますが、どこまで処理できるかわかりません。

ところで、汚染水は海洋放出のほかに大気放出という手段もありました。
私はなぜ大気放出をしないのか不思議に思っていました。
やり方は簡単です。タンクの上部を切り取って、雨除けの屋根をつければ、蒸発して自然と水量はへっていきます。タンクを黒く塗って太陽熱を吸収しやすくすれば、より早くへります。
なぜ大気放出をやらないのかについて、まともな説明を聞いたことがありません。
私が想像するに、タンクにたまっているのはかなりの汚染水なので、福島周辺の大気汚染がひどくなるからできなかったのでしょう。

それから、東電が金さえ出せば、周辺の土地を買い、タンクを増設して、海洋放出をしないという選択肢もありました。時間がたてば汚染水の線量は下がるので、時間が問題を解決してくれます。
東電はこれまでずっと黒字でしたが、23年3月期で赤字を出して、そのタイミングで海洋放出の決定をしました。
東電が金を出さないために日本と世界が迷惑をこうむっているのです。


私自身は、政府の説明はあまり信じませんし、ある程度海洋が汚染されるだろうと思っていますが、ただ、汚染といってもそれほどのものではないので、日本近海の水産物も普通に食べるつもりです。


汚染水放出の影響があったとしても福島県周辺だけのことですから、中国の日本産水産物の全面輸入禁止は明らかにやりすぎです。
これは中国政府の最近の日本外交に対する不満の表明と思われます。

トランプ政権も反中国の方針を打ち出していましたが、バイデン政権は昨年10月に発表した「国家安全保障戦略」において中国を「唯一の競争相手」と位置づけ、反中国の姿勢をより明確にしました。
日本政府は当然アメリカに追随しますが、岸田政権はとくに追随ぶりが露骨です。
今月18日にはバイデン大統領の別荘キャンプデービッドに岸田首相と韓国の尹錫悦大統領が招かれ、三か国首脳会談が開催され、日米韓三か国の連携を確認しましたが、合意文書においては「中国」を名指しして南シナ海における海洋権益に関する行動を批判しました。

日本がこういう外交姿勢ですから、中国がずっと不満を募らせて、汚染水海洋放出を機に不満を爆発させたと見るべきでしょう。

周辺国の反応は日本の外交姿勢と完全に関係しています。
中国、ロシア、北朝鮮は強硬に海洋放出に反対しています。
韓国政府は海洋放出を容認しています。ただ、野党や世論は反対です。

ですから、日本政府が今回の中国の反応を想定外だとしているのはおかしなことです。

日本も中国に対してやり返せと勇ましいことを言う人もいますが、無責任な意見です。
中国のGDPは日本の3倍以上です。
2022年において、日本にとっての中国は輸出先として18.5%、輸入先として21.0%のシェアを占めていますが、中国にとっての日本は輸出先として6.1%、輸入先として9.0%のシェアです。
日本にとって中国は巨大ですが、中国にとって日本はそれほどでもありません。

ASEANなどアジアの国々は、アメリカが接近してきても、中国に配慮して適当に距離をとっています。
日本の対米追随外交の欠陥が今回露呈した格好です。


汚染水海洋放出に周辺国の反発が強かったのは、日本の偏った外交方針のほかに、「マナー」の問題もありました。

たとえ話をすれば、日本はゴミを家の中に溜めて、周りの家に迷惑がかからないようにしていました。それを今回、家の前の道路に捨てることにしたのです。ゴミはそんなに危険なものではなく、しばらくすれば風で飛んでいくか、地中に吸収されるので、「科学的に安全」だと主張しました。
しかし、周りの家にしてみれば不愉快です。自分の家のすぐ近くにゴミを捨てられるのですから。

これは必ずしも合理的な感情とはいえませんが、不合理な感情に動かされるのが人間です。
たとえば、回転寿司のスシローで醤油差しや湯飲みをペロペロとなめた少年がいて、大バッシングを受けました。あの行為自体は、衛生上の問題は大したことはなく、ある一店舗での出来事でしたが、人間の不合理な感情があの大バッシングを生んだわけです。

ですから、日本という家はどうすればいいかというと、ご近所づきあいのマナーとして、周りの家に手土産のひとつも持って「ゴミを放出してご迷惑をおかけします」と言って謝って回るべきでした。
ところが、日本という家はそういうことをしないで(少しはしたかもしれませんが)、「科学的に安全」という言葉を繰り返すだけなので、周りの家の反発をよけい買ってしまったわけです。


日本のこうした姿勢は、外交姿勢ともつながっています。日本は昔から欧米を崇拝し、近隣のアジア諸国を見下してきました。
周辺国の感情に配慮せず、「科学的に安全」と繰り返すのは、周辺国を見下しているからです。

EUやアメリカが汚染水海洋放出を容認しているのは、距離が遠いからです。
日本はこれを機会に、アメリカの覇権主義に協力するばかりでなく、「アジアの中の日本」ということを自覚して、外交姿勢から改める必要があります。

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AIが人間の知能を超える瞬間を「シンギュラリティ」といって、それが2045年ごろにくるのではないかといわれています。
しかし、進化するのはAIだけではありません。社会のあらゆる領域が高度化、複雑化していて、人間の知能では対応できなくなりつつあります。

前回の『「究極の思想」の威力をお見せしよう』という記事で、「どんなに高度な文明社会でも、赤ん坊はすべてリセットされて原始人として生まれてくる」と書きました。
ですから、文明社会は赤ん坊を一人前の文明人に教育するシステムを必ず備えています。
文明が発達すると必然的に教育も強化されます。
昔は多くの人は中卒、高卒で働いていましたが、最近は専門学校卒、大卒、さらには大学院で学ぶことが求められるようになりました。

この傾向が限りなく進行していくと……ということはありえません。人間には寿命があるからです。


新しいパソコンを買うと、必要なアプリケーション・ソフトをインストールし、設定をし、必要なデータを入力するという作業をしなければなりませんが、データを古いパソコンから移すという手段が使えず、クラウドも利用していなくて、全部手作業で入力するとすれば、かなりの時間がかかります。すべての作業が終わり、いざ、これからそのパソコンで仕事をしようとしたときにはパソコンの耐用年数がわずかしか残っていないとなれば悲劇です。
人間の教育も、知識をまとめて子どもの頭に移行するということはできず、ひとつひとつ“手作業”で頭の中に入れていくわけですから、文明がさらに発達すると貴重な青春の時間だけでなく壮年の時間までも教育に費やすことになります。これでは文明の発達はむしろ人間にとってマイナスです。

車の自動運転技術のように、文明が進むことで人間が楽になるということもありますが、それはごく一部のことです。文明が発達するほど社会に適応するために学ぶべきことは増えます。

そのしわ寄せがとくに子どもと若者に表れて、不登校、いじめ、引きこもりなどが増加しています。
少子化が進むのも、多くの人は子どもを生んでも子どもは幸せな人生を送れないだろうと予想するからでしょう(日本に限らず先進国は一般的に少子化になります)。


ローマクラブは1972年に「成長の限界」と題するレポートを発表し、世界的な人口増加と経済成長が続いた場合、資源と環境の制約によりあと百年程度で成長は限界に達すると予想して、世界に衝撃を与えました。
それまで文明というのは限りなく発達していくものだと漠然と考えられていたのです。
このレポートの翌年に第一次オイルショックが起こり、レポートの信憑性がいよいよ高まりました。
しかし、このレポートは重要な事柄をもらしていました。それは「人間の能力」です。成長は「人間の能力」によっても制約されるのです。
資源と環境の問題は、リサイクルの徹底と再生可能エネルギーの利用などである程度対処が可能ですが、「人間の能力」については対処のしようがありません(いずれは遺伝子テクノロジーで人間の能力向上が可能かもしれませんが)。

シンギュラリティとは別の意味で、文明の発達が人間の能力を超える瞬間が近づいています。



「人間の能力には限りがある」というのは当たり前のことですが、これまではっきりとは認識されてきませんでした。
逆に「人間は脳の30%(20%)しか使っていない」などという俗説が流布されていました。

若者に対して「君たちには無限の可能性がある」ということもよく言われます。
これは「君たちの可能性は未知数だ」と言うべきところ、「未知数」を「無限」に取り違えたものです。

人間の能力は遺伝で決まるか環境で決まるか、氏か育ちかという議論もよく行われてきました。
つまりこんな基本的なこともわかっていなかったのです。

しかし、これは昔のことです。今はさすがに多くのことがわかっています。

遺伝か環境か、氏か育ちかという二者択一の議論は間違っていて、氏も育ちも、つまり人間は遺伝と環境のふたつの要素で決まります。
昔は環境の要素が強いと考えられていました。
ラテン語のタブラ・ラーサ(空白の石板)という言葉で表されますが、生まれたばかりの人間は白いカンバスと同じで、教育によってどんな絵でも描けるという説がありました。これは今でも教育界に根強くあります。
しかし、科学的研究によって遺伝の要素の大きいことが次第にわかってきました。
一卵性双生児で、生まれてすぐ引き離され別の環境で育った兄弟を調べることで、遺伝と環境の影響の割合がわかります。それによると、IQや学業達成は三分の二までが遺伝によって決まります。
また、神経質、外向性、協調性などの性格や気質もかなりの程度遺伝で決まります。

ただ、「遺伝で決まる」というと、子どもは親の能力や性質をそのまま受け継ぐのかと誤解する人がいます。
実際は、同じ親から生まれた兄弟でも、能力も性格も違いますし、顔にしても「言われてみれば似ている」程度のものです。親ともかなり違いますから、「トンビがタカを生む」ということもありえます。つまり遺伝の影響はあるにしても、個人差がひじょうに大きいのです。
ですから、私は「遺伝」ではなく「生得」という言葉を使ったほうがいいと思っています。
つまり「人間は遺伝で決まっている面が大きい」ではなく「人間は生まれつき決まっている面が大きい」というのです。
そうすれば個性を尊重することにもつながります。

親は、子どもが活発な性格の子だと、おとなしい子にしつけようとしがちですが、間違った考え方です。これはこの子の持って生まれた性格だと思って受け入れると、子育ては楽になります(持って生まれた性格は固定しているわけでなく、変わっていきますが、親が自分につごうよく変えようとしてもうまくいきません)。


子どもの外見や性格が親の遺伝の影響を受けることは誰でも認めます。
しかし、子どもの知能が親の遺伝の影響を受けると公言することはタブーとなっています。
「生まれつき頭のよい人と生まれつき頭の悪い人がいる」と言うこともタブーです。

なぜこんなタブーがあるかというと、「黒人は知能が低い」という言説があったように知能と人種差別が密接に結びついていて、さらに「生まれつき頭の悪い人がいる」と言うと優生思想を喚起しかねないという問題があるからです。

たとえばアメリカで1950年代に、スプートニク・ショックを機に国民の教育水準を高めるために巨額の連邦予算を投入して「ヘッドスタート計画」という早期教育プログラムが全国的に展開されました。有名な教育番組「セサミ・ストリート」もこのときの産物です。プログラムが開始されて約十年たったとき、心理学者のアーサー・ジェンセンがこのプログラムは失敗したと結論づける論文を発表しました。この早期教育の知能に与える効果は一時的なもので、プログラムを離れるともとに戻ってしまう、その理由は、知能の遺伝規定性が80%もの高さを持つからだとジェンセンは説明しました。さらに彼は、白人と黒人の知能の差について論じ、その原因も遺伝的であることを示唆したことでアメリカの世論に火をつけてしまいました。「ジェンセニズム」は人種差別主義の代名詞とされ、世間のバッシングの中、彼は文字通り外を一人で歩くことすら危険な状況であったといいます(参考文献『遺伝子の不都合な真実』安藤寿康著)。

その後も、「知能は遺伝する」と主張する人は出てきましたが、そういう人は決まって右派の科学者で、左派の科学者が「知能と遺伝を結びつけるな」と反論するということが繰り返されてきました。


今も「知能は遺伝する」と言うことはタブーですし、「生まれつき頭のいい人と悪い人がいる」と言うのもタブーです。


しかし、「生まれつき頭のいい人と悪い人がいる」というのは事実ですから、事実を認識しないと不都合が生じます。
たとえば教室には頭のいい子と悪い子がいるのに、教師は全員に向けて同じ授業をするので、頭の悪い子は授業についていけず、教師の話が頭に入ってこないということになります。頭が悪いといってもほんの少し悪いだけなのに、実質的に授業を受けていないことでさらに頭が悪くなります。つまり一人一人に合わせた授業をしていればみなそこそこの成績になるのに、一斉授業をするために“落ちこぼれ”となり、教室の“落ちこぼれ”はさらに社会の“落ちこぼれ”となるのです(最近“落ちこぼれ”という言葉はいわれなくなりましたが、一斉授業のもとで学習内容が高度化すれば“落ちこぼれ”は増えているはずです)。

ベストセラーとなった『ケーキの切れない非行少年たち』(宮口幸治著)には、少年院に入るような少年は知的障害とまではいかない境界知能の持ち主が多いと書かれています。学校でちゃんと対応していれば社会生活を営む程度の知能はあるのに、学校でずっと放置されてきたために、計算もできない、漢字も書けない、ケーキを三等分することもできないという状態となり、みずから犯罪に手を染めるか、犯罪組織に利用されたりして少年院に入ってくるのです。
ですから、こういう少年に反省させても無意味なことで、その子にあった教育(認知機能トレーニング)をすることだと著者は述べます。

『累犯障害者』(山本譲司著)には、刑務所にも知的障害者や境界知能の人が多く収容されていて、出所しても再犯してまた戻ってくるということが書かれています。
つまり「生まれつき頭のいい人と悪い人がいる」ということを認めないために、学校や社会が適切な対応をせず、犯罪を生み、刑務所や生活保護など福祉に負担をかける結果になっているのです。


今、シンギュラリティによって人類はAIに支配されるのではないかという議論がありますが、こうした懸念を表明しているのは科学者、大手IT企業経営者、欧米の政治家などです。
彼ら頭のいい人たちが世界の覇権を握っていたところに、AIが台頭してきて、覇権を奪われるかもしれないと思って、あわてているのです。
これは一般大衆にはどうでもいいことです。支配階級に支配されるのもAIに支配されるのも同じです。

一般大衆にとって興味があるのは「AIは人間の仕事を奪うか」ということでしょう。
世の中には雇う人と雇われる人がいて、雇う人は人間を雇うかAIを導入するか、コストの安いほうを選択します。AIのほうが人間よりコストが安ければ、人間は失業します(これは「AIが人間の仕事を奪った」というより「雇用者が人間の仕事を奪ってAIに与えた」というべきです)。
AIが仕事をしてくれれば、人間の労働時間がへってもよさそうなものですが、雇う人は利益を追求するので、そんなことにはなりません。


「生まれつき頭のいい人と悪い人がいる」と言うことがタブーなので、成功した人たちは努力を誇り、社会の底辺の人を努力しない人と見下します。
そのため福祉はないがしろにされます。

今のシンギュラリティの議論は、いわば天上界の覇権争いのことです。
私が述べてきたのは、社会の底辺のことです。
学校教育や福祉を改革せずにAIなどがどんどん進化していくと、社会に適応できない“落ちこぼれ”が増え続けます。

文明の発達は人類に恩恵をもたらしますが、一方で人類の負担も増やします。
頭のいい支配階級はどんどん文明を発達させますが、頭の悪い下層階級は「文明の負担」が「文明の恩恵」を上回るもうひとつのシンギュラリティに直面しつつあります。

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私はコペルニクスの地動説に匹敵するような画期的な理論を発見し、別ブログの「道徳観のコペルニクス的転回」において紹介しています。
「コペルニクスの地動説に匹敵する」とは大げさだと思われるかもしれませんが、実際そうなのだからしようがありません(私は「究極の思想」とも呼んでいます)。

これまでは「天動説的倫理学」から「地動説的倫理学」への転換について書いていたので、ちょっとむずかしかったかもしれませんが、これからはわかりやすくなります。

コペルニクスの地動説は、太陽の周りを地球や金星や火星が回っている図を見るだけで理解できますし、金星や火星の動きはニュートン力学で明快に説明できます。
コペルニクス以前のプトレマイオスの天動説の天文学でも、金星や火星の動きを説明する理論が一応あったのですが、複雑で難解でした。
思想や哲学というと難解なものと決まっていますが、それはプトレマイオスの天動説と同じで、根本的に間違っているからです。


「道徳観のコペルニクス的転回」は第4章の5「とりあえずのまとめ」まで書いて、しばらく休止していましたが、今回公開分はその続きになります。
以前のものを読まなくても、これだけで十分に理解できますが、「道徳観のコペルニクス的転回」について簡単な説明だけしておきます。

動物は牙や爪や角を武器にして生存闘争をしますが、人間は主に言葉を武器にして互いに生存闘争をします。言葉を武器にして争う中から道徳が生まれました。「よいことをせよ。悪いことをするな」と主張して相手を自分に有利に動かそうとするのが道徳ですが、この善悪の基準は各人の利己心から生まれたので、人間は道徳をつくったことでより利己的になり、より激しく生存闘争をするようになりました。
一方、争いを回避する文化も発達しました。道徳ではなく法律や規則などで社会の秩序を維持することで、これを法治主義や法の支配といいます。文明が発達してきたのは、道徳の支配のおかげではなく法の支配のおかげです(あと、経済活動も道徳と無関係に行われています)。
しかし、法の支配が及ばない領域があります。ひとつは国際政治の世界で、もうひとつは家庭内です。このふたつはまだ道徳と暴力の支配する世界です。

家庭内には夫婦の問題もありますが、ここでは親子の問題だけ取り上げています。
「究極の思想」の威力がわかるでしょう。



第5章の1「教育・子育て」
「道徳観のコペルニクス的転回」を理解すると、世界の見え方が変わってくる。
これまでは誰もが文明から未開や原始を見、おとなから子どもを見ていた。これでは物事の関係性がわからない。進化の系統樹は、バクテリアやアメーバを起点とするから描けるのだ。人間を起点として進化の系統樹が描けるかどうかを考えてみればわかる。地球を中心にして太陽系の図を描けるかというのも同じだ。

子どもが自然のままに行動をしていると、あるとき親が「その行動は悪い」とか「お前は悪い子だ」と言い出した。子どもにとっては青天の霹靂である。そして、親の言動は文明の発達とともにエスカレートし、子どもは自由を奪われ、しつけをされ、「行儀よくしなさい」「道路に飛び出してはいけません」「勉強しなさい」などと言われるようになった。それまで子どもは、年の近い子どもが集団をつくって、もっぱら小動物を追いかけたり木の実を採ったりという狩猟採集のまねごとをして遊んでいたのだ。
『旧約聖書』では、アダムとイブは善悪の知識の木から実を食べたことでエデンの園を追放されるが、この話は不思議なほど人類が道徳を考え出したことと符合している。人類は道徳を考え出したばかりに、「幸福な子ども時代」という楽園を失ってしまったのだ。
親は子どもを「よい子」と「悪い子」に分け、「よい子」は愛するが、「悪い子」は叱ったり罰したり無視したりする。子どもは愛されるためには「よい子」になるしかないが、そうして得られた愛は限定された愛であり、本物の愛ではない。本物の愛というのは、「なにをしても愛される」という安心感と自己肯定感を与えてくれるものである。
今の世の中、どんな子どもでも「悪いこと」をしたときは、怒られ、叱られ、罰される。親としては、子どもが「悪いこと」をしたのだから叱るのは当然だと思っているのだが、「悪いこと」の判断のもとになる道徳はおとなが考え出したものである。親が道徳を用いると、親は一方的に利己的にふるまうことになる。それに対して子どもが反抗するのは当然であるが、反抗的な態度の子どもを叱らないと、子どもは限りなくわがままになるという考え方が一般的なので、親はさらに叱ることになる。こうして悲惨な幼児虐待事件が起こる。
人間の親子はあらゆる動物の中でもっとも不幸である。最近は哺乳類の親子の様子を映した動画がいくらでもあって、それらを見ると、親は子どもの安全にだけ気を配って、子どもは自由にふるまっていることがわかる。子どもが親にぶつかったり親を踏んづけたりしても、親は決して怒らない。しつけのようなこともしない。動物の子どもはしつけをされなくてもわがままになることはない。未開社会の子どももしつけも教育もされず、子ども同士で遊んでいるだけだが、それでちゃんと一人前のおとなに育つ。動物の子どもや未開人の子どもを見ると、文明人の親が子どものしつけにあくせくしていることの無意味なことがわかる。

どんなに高度な文明社会でも、赤ん坊はすべてリセットされて原始人として生まれてくる。赤ん坊を文明化しなければ、その文明はたちまち衰亡してしまう。したがって、どんな文明でも子どもを教育するシステムを備えている。文明が高度化するほど子どもには負荷がかかる(親と教師にもかかる)。人間は誰でも好奇心があり学習意欲があるのだが、教育システムつまり学校は社会の要請に応えて、子どもの学習意欲とは無関係に教育を行う。つまり少し待てば食欲が出てくるのに、食欲のない子どもの口にむりやり食べ物を押し込むような教育をしている。
こうした教育が行われているのは、文明がきびしい競争の上に成り立っているからでもある。戦争に負けると、殺され、財産を奪われ、奴隷化されるので、戦争に負けない国家をつくらなければならない。古代ギリシャで“スパルタ教育”が行われたのは強い戦士をつくるためであったし、近代日本でも植民地化されないために、他国を植民地化するために“富国強兵”の教育が行われた。
個人レベルの競争もある。スポーツや音楽などは幼いころに始めると有利な傾向があるので、親はまだなにもわからない子どもに学ばせようとするし、よい学歴をつけるためにむりやり勉強させようとする。
いわば親は“心を鬼にして”教育・しつけを行うので、そうして育てられた子どもは、親とは鬼のようなものだと学習して、自分は最初から鬼のような親になる。そうすると、生まれてきた赤ん坊を見てもかわいいと思えないし、愛情も湧いてこないということがある。これも虐待の原因である。
子どもにむりやり勉強させて、かりによい学歴が得られたとしても、むりやり勉強されられた子ども時代が不幸なことは間違いない。最大多数の最大幸福という功利主義の観点からも、子どもの不幸は無視できない。今後文明は、子どもが「教育される客体」から「学習する主体」になる方向へと進んでいかなければならないだろう。

最近、発達障害が話題になることが多いが、発達障害もまた多分に文明がつくりだしたものである。
たとえば学習障害(LD)は読み書き計算の学習が困難な障害だが、こんな障害はもちろん狩猟採集社会には存在しなかった。注意欠如・多動性障害(ADHD)は集中力がなく落ち着きがない障害だが、これは長時間教室の椅子に座って教師の話を聞くことを求められる時代になって初めて「発見」されたものである。自閉症スペクトラムは対人関係が苦手な障害だが、これも文明社会で高度なコミュニケーション能力が求められるようになって「発見」されたものだろう。
つまりもともとさまざまな個性の子どもがいて、なにも問題はなかったのであるが、文明が進むとある種の個性の子どもは文明生活に適応しにくくなった。個性は生まれつきのもので、変えようがないので、親や学校や社会の側が子どもに合わせるしかないのであるが、不適応を子どもの“心”の問題と見なし、子どもをほめたり叱ったりすることで子どもを文明生活に適応させようとした。実際には叱ってばかりいることになり、その個性の上に被虐待児症候群が積み重なった。おとな本位の文明がこうした子どもの不幸をつくりだしたのである。
したがって、発達障害という診断名がつくようになったのは、当人にとっては幸いなことである。虐待のリスクが少なくなるからである。

現在、子どものしつけや、習い事、進学などで悩んでいる親にとって、「道徳観のコペルニクス的転回」を知ることは大いに意味があるだろう。おとな本位の考え方を脱して、子どもの立場から考えられるようになるからである。
「問題児」という言葉があるが、存在するのは問題児でなくて「問題親」である。つまりさまざまな問題は、子どもではなくおとなや文明の側にあるのである。

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自転車に乗った女性が前を歩いていた歩行者にベルを鳴らしたところ、歩行者の男性が激怒し、女性と言い争いになりました。
女性がその様子を動画に撮ってツイッターにアップすると、どちらが悪いかと大論争になりました。

出来事のいきさつを「SNSで論争 中高年男性がブチ切れ!自転車ベル問題 精神科医がトラブル回避策指南」という記事から引用します。

SNSで拡散されている動画の内容はこうだ。女性が自転車で2歳の子供を病院に連れていく路上で、注意喚起のため歩行者の中高年とみられる男性にベルを鳴らした。すると、男性は自転車を止めさせ、「通りますって言えばいいじゃん。声出して! 違うんか、おいー」と怒鳴り、自転車のカゴにつかみかかり、子供が号泣してしまったのだ。
 女性は「通りますよってことで(ベルを1度)鳴らしただけじゃないですか」と言い、男性はさらに激怒。女性は「(子供が)泣いちゃったじゃないですか」と言い返し、男性は「警察呼べよ」と大声で叫ぶなど修羅場となっていた。

 この動画にツイッターユーザーは「ベルを鳴らすのはよくない」「男性の顔をさらすのはよくない」「子供を守るなら、受け流して去った方がいい」などの意見もある。

ツイッターの動画は削除されていますが、YouTubeにアップされたものはあります。



男性は自転車のカゴをつかんで動けないようにして、女性をどなりつけています。
それに対して女性は「恫喝ですか。脅しですよね」「どうしてくれるんですか。(子どもが)泣いちゃったじゃないですか」と激しく言い返しています。


まずひとついえるのは、歩行者に対してベルを鳴らしてはいけないということです。道路交通法第54条の「警音器の使用」にも、そのような鳴らし方は認められていません。

自転車と歩行者では歩行者優先ですから、歩行者が自転車の通行の妨げになっても、自転車は歩行者のあとをついていき、機会を見て追い越すしかありません。
「すみません」と歩行者に声をかけて追い越せばいいという意見もありますが、これも歩行者優先に反するので、好ましくありません。

ということで、ベルを鳴らした女性が悪いということがいえます。
しかし、鳴らされた男性の態度もよくありません。自転車のカゴをつかんで動けないようにして怒鳴るのは、かなり悪質です。普通の女性なら恐怖で身がすくむでしょう。

そういうことから、「どちらも悪い」ということもいえますが、双方の悪さはレベルが違います。

ベルを鳴らしたことが原因だから「女性のほうが悪い」という意見もありますが、歩行者にベルを鳴らしたのは交通ルールや交通マナーを知らないからです。そこに悪意はありません(30年ぐらい前は自転車がベルを鳴らしながら歩行者を押しのけて走るのは普通の光景でした)。
一方、男性が怒鳴るのは、女性を傷つけてやろうという悪意があります。
男性は女性の交通ルール違反をとがめるという「正義」を名目にしているので、これはモラハラということになります。
もしこの男性が会社の上司で、その立場を利用していればパワハラということになります。
こういうモラハラ男、パワハラ男が自分の家庭や会社にいればどうかと考えてみればわかります。


モラハラ、パワハラというのは、強者と弱者の関係で成立します。
弱者は抵抗できません。
しかし、この女性は腕力では勝てないので、モラハラの証拠を撮って、SNSに上げるという手段に出ました。
弱者の対抗手段としては、これしかないというやり方です。
会社でパワハラにあったときも、弱者はその場では反撃できませんから、会話を録音するなどして証拠を残しておくことがたいせつです。
モラハラ、パワハラを退治するには、客観的な証拠を公にさらすというやり方いちばんです。
男性の顔をさらしたのはよくないという声がありますが、男性は正義の主張をしているつもりですから、顔をさらされても文句はないはずです。


ところが、モラハラの客観的な証拠があるにも関わらず、女性のほうに非難が集中しました。
これは日本ならではの現象というしかありません。

世界経済フォーラムが発表した2023年版のジェンダーギャップ指数において、日本は146カ国中125位でした。
ジェンダーギャップ後進国の日本では、男性が女性にモラハラをするというのは日常ですが、「女性が男性に反撃する」というのはめったにないことです。
このような反撃が次々に起こると男性優位が崩れますから、男性は集中的にこの女性を攻撃して反撃の芽をつんだわけです。
その結果、女性はツイッターのアカウントを消して“逃亡”しました。

もしこの女性が弱くて、怒鳴られて泣き出していたら、女性に同情が集まり、男性に非難が集中するという展開がありえたでしょう。
しかし、それでは世の中は変わりません。
男性と対等にやり合う女性が世の中を変えるのです。


交通ルールを知らなくてベルを鳴らしたことと、自転車を動けなくして女性を大声でどなり続けるモラハラ行為と、どちらが悪いかは明白です。

中には女性に対して「子どもに危害が及ぶかもしれないから、こういう場合は早く謝って逃げたほうがいい」と助言する人もいますが、これは女性に痴漢対策を助言するのと同じです。
こうした助言では痴漢もモラハラ男も野放しです。
モラハラ男とは戦わねばなりません。

女性がSNSにモラハラの証拠動画を上げたのに、女性が負けてモラハラ男が勝ったのでは「石が流れて木の葉が沈む」と同じです。
これが前例になってはいけません。

モラハラ、パワハラを退治するために、証拠の動画や音声をSNSに上げるというやり方がどんどん行われるべきです。

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