村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

カテゴリ: 科学的倫理学入門

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日本維新の会が参院選向けの公約を発表した中に「0歳児から投票権」というのがありました。
維新も思い切った政策を出すなあと感心したら、私が思ったのとはぜんぜん違っていました。

今の日本の選挙制度は「普通選挙」といわれていますが、正しくありません。18歳未満には選挙権がないので、「制限選挙」です。
1925年、加藤高明内閣は「普通選挙法」を制定しましたが、実際のところは選挙権は男性のみで、女性には選挙権がない「制限選挙」でした。それと同じごまかしを今もやっているのです。

18歳未満でも政治に関心があって投票したい若者はいます。
では、何歳まで下げたらいいかというと、簡単には決められません。小学生でも投票したい子はいるでしょう。
何歳と決められないなら、年齢制限そのものをなくせばいいというのが私の考えです。
0歳から選挙権があることにして、投票したくなればいつでもできるようにすればいいのです。
これがほんとうの「普通選挙」です。

認知症や知的障害の人だからといって選挙権が制限されることはありません。年が若いからといって制限されるのは不当です。

もちろんこれは子どもの意志で投票するのが前提です。
親が子どもの投票を左右するようなことがあってはなりません。


維新の会の「0歳児から投票権」というのは、私の考えたものとは違って、「ドメイン投票制度」というものでした。

維新の会の藤田文武幹事長はインタビュー記事の中でこう語っています。


藤田:(略)ドメイン投票制度は何かというと「0歳から未成年の人にも投票権を与えましょう」というものです。ただし、たとえば0歳児は意思表示ができないので、保護者の方に一票を代行する権利があります。
そうすると、(政治家の)景色が結構変わって、子育て世代や若い人の声をもっと聞いたらいいんじゃないかというインセンティブが自然に働きますよね。子育て世代や若い人の票の強さを制度として高めるのは、僕は今の時代に合っていると思います。

能條:ふと一つ気になったのが、子どもの一票を保護者である両親が代行するとなったとき、父親と母親のどちらが投票するのでしょうか。

藤田:それは喧嘩になりますよね。家庭の事なのでじゃんけんで決めてもらいましょう。

能條:私の周りのカップルで、政党に関する意見が合わないというのは結構聞くんですよ。なので、どういう議論をされているのかなと思って。

藤田:そこまで議論を細かく詰めてはいないですね。https://www.huffingtonpost.jp/entry/ishin_jp_62a69bdfe4b06169ca8d32d1


要するに子育て中の親の投票数を増やす制度で、それによって政治が子育て世帯への支援を強化することが期待できるというわけです。

私の「0歳児投票権」の考えは、政治に子どもや若者の意見が反映させようというものですが、これは政治に親の意見をより反映させようというもので、まったく違います。

さらにいうと、この制度の根本的な問題は、子どもを独立した人格と見なしていないことです。
インタビュアーは夫婦喧嘩が起こることを心配していますが、子どもが自分の意志で投票したくなったとき、親子喧嘩も起こりそうです。
親と子が別人格であることを無視するような制度ですから、子どもの私物化や幼児虐待にもつながりかねません。

ウイキペディアによると、「ドメイン投票制度」というのはアメリカの人口統計学者のポール・ドメインが発案したものですが、まだどの国でも採用されたことがありません。
維新の会は目新しさと子育て支援になりそうなところに引かれて飛びついたのでしょうが、実際は「子どもの人権」をまったく無視する制度です。
維新の会の人権感覚が知られます。



「子どもの人権」を無視するといえば、アメリカの政治はもっと深刻です。

TBS NEWSの「バイデン政権失速の裏で・・・ 急拡大する母親団体に迫る」というニュースによると、去年1月にフロリダ州で3人の母親によって結成された「MOMS for LIBERTY」という団体が今では全米33州に拡大し、会員が7万人を超えたということです。

この団体は「母親の自由(権利)」を掲げて、地元の教育委員会などに「パフォーマンスの悪い教師はクビにするべきだ」「肌の色だけで弾圧者と被害者を決めつける教育には反対」「若い人たちにアメリカの価値観をきちんと学ばせるのがだいじ」などと要求する活動を行っています。
創立者の1人は、「アメリカでは親の権利が踏みにじられているんです。それを変えるのがこの団体の目的です」と語り、支持者である共和党議員は「学校のすばらしさを取り戻す」と語りました。

トランプ元大統領の言い分と似ていることからわかるように、これは保守系の団体です。
「子どものため」ということを大義名分にしていますが、実際のところは「母親の自由」や「母親の権利」を主張するほど「子どもの自由」や「子どもの権利」が失われるという関係になっています。


実はアメリカには「子どもの権利」という概念がありません(ドメイン投票制度の発案者もアメリカ人です)。
子どもの権利条約を締約(批准・加入・継承)している国・地域は世界に196あり、未締約国は1か国ですが、その1か国がアメリカです。
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ユニセフHPより


さらにいうと、女性差別撤廃条約を締約している国・地域は189で、未締約国は数か国ですが、アメリカも未締約国のひとつです。

なぜそうなるかというと、要するにアメリカは家父長制が根強い国だからです。父親が母親と子どもを強権的に支配していて、女性の権利も子どもの権利もないがしろにされています。
このような家庭が保守派の支持基盤になっています。

アメリカでは女性差別と子ども差別が家庭の中で再生産され続けているので、人種差別などもなくすことができず、ポリティカル・コレクトネスという言葉狩りをするしかないのが現状です。


アメリカは子どもの権利条約も女性差別撤廃条約も締約していないという事実はほとんど知られていないのではないでしょうか。
アメリカは奴隷制を廃止したのが世界でいちばん遅く、黒人に選挙権が認められたのも1965年ですから、世界に冠たる差別主義国家です。
その国がウイグル族の人権問題で中国を非難するなど、人権で世界をリードするようなふりをしているのは滑稽なことです(ウイグル族の人権問題はもちろん重要です)。


子どもは社会の最弱者です。
「子どもの人権」さえ理解すれば、強者と弱者の関係で成り立っている社会の仕組みが全部見えてきます。
ポイントは、親すらも「子どもの人権」を踏みにじることがあるということです。

日本は子どもの権利条約締約国なのに、まるでアメリカと同じように「子どもの権利」がほとんど無視されているのはおかしなことです。

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アメリカ・テキサス州の小学校で5月26日、銃乱射事件が起き、21人が死亡し、犯人の18歳の少年は射殺されました。

アメリカでは銃乱射事件が起きるたびに銃規制をするべきだという議論が起きますが、結局うまくいきません。
銃規制反対派の力が強いからです。

銃規制に反対する論理のひとつは、「身を守るために銃は必要だ」というものです。
しかし、護身用なら小さな拳銃で十分です。アメリカでは突撃銃のような殺傷力の強い銃が容易に手に入ります。

「銃は人を殺さない。人が人を殺すのだ」という論理もあります。
しかし、銃がなければ、つまりナイフなどではそれほど人を殺せません。銃規制をすれば殺される人の数がへるのは明らかです。

銃規制のないアメリカと銃規制のある国々を比べてみれば、銃規制のある国のほうが銃による死者数が少ないのは明らかです。

もっとも、そういう数字とは関係ない論理もあります。
5月27日、全米ライフル協会の総会がテキサス州で開かれ、トランプ前大統領が出席して、「銃を持った悪人を止める唯一の方法は銃を持った善人である」と語りました。
この論理は前から言われているものです。
これは善悪の問題ですから、銃による死者数では説得できません。「悪人をはびこらせていいのか」という反論があるからです。

このような善悪や正義の問題になると誰もが思考停止に陥ってしまいます。
しかし、私は進化倫理学ないし科学的倫理学を標榜しているので、その立場から説明することができます。


まずひとつ言えるのは、「銃を持った善人」は必ずしも「銃を持った悪人」を止めることはできないということです。
人間と人間が戦えば、善悪は関係なく強いほうが勝ちます。
ハリウッド映画では最後には悪人が必ず負けますが、それは映画だからそうなるので、現実は違います。
ということは、「銃を持った悪人」を止めるには、その悪人より強力な銃を持った人間が必要だということです。

ですから、銃規制反対派は強力な銃を容認するのです。


つまりトランプ前大統領の言う「銃を持った悪人を止める唯一の方法は銃を持った善人である」というのは、実は力の論理にほかなりません。

この力の論理はアメリカの歴史を貫いてきました。
独立戦争、先住民との戦い、黒人奴隷の支配のために、白人は銃を手離せませんでした。
銃規制反対派はアメリカの歴史を背負っているので、それだけ強力です。


このような銃規制反対派の力の論理はアメリカ全体をおおって、アメリカの外交安保政策も力の論理になっています。
「正義のアメリカが悪の国を止める」というのが基本なので、アメリカはどこよりも強力な軍事力を持っています。
アメリカも名目は「安全保障」と言っていますが、安全保障なら自国を守るだけの(護身用の銃みたいな)軍事力でいいはずなのに、実際は安全保障を超えた(突撃銃のような)軍事力を持って、世界中に展開できる体制になっています。

日本もアメリカの論理に巻き込まれて、防衛力と言いながら他国を攻撃する能力を持とうとしています。


たいていの人間は、自分を悪人ではなく善人だと思っています。
この観点から「銃を持った悪人を止める唯一の方法は銃を持った善人である」という論理を批判することもできます。
ヘイトクライムで銃を乱射する犯人は、自分は悪人を止める善人だと思っているに違いありません。

善悪や正義を持ち出すと、客観的な基準がないので、結局力の論理になってしまいます。
人類は長年の経験からそのことを理解して、「法の支配」をつくりだしました。
法は明文化されているので、客観的な基準になります。「法の支配」によって人間社会は安定しました。

アメリカはもちろん「法の支配」の国ですから、トランプ前大統領は「銃を持った悪人を止める唯一の方法は銃を持った警官である」と言えばよかったのです。
警官なら訓練されて数も多いので、銃を持った悪人を確実に止められます。
「銃を持った善人」はなにをするかわかりません。
アメリカは「銃を持った善人」が野放しになっているのです。


アメリカの銃規制反対派が「法の支配」に目覚め、警察に治安をゆだねれば、アメリカの治安は大いに改善されます。
そして、アメリカの外交安保政策も変わるでしょう。
アメリカが世界に「法の支配」を行き渡らせれば、世界は大いに平和になります。

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今年は日本共産党結成100周年です。
ソ連東欧圏の崩壊とともに共産主義も思想として破綻したと見なされていますが、日本共産党はずっと「共産党」を名乗って、綱領には「科学的社会主義」が掲げられています。
「科学的社会主義」とはなんでしょうか。

志位和夫委員長は4月14日の記者会見で、ウクライナ侵略に反対することと「科学的社会主義」の関係について問われ、「マルクス、エンゲルスはその生涯を通じて、19世紀の二つの覇権主義――帝政ロシアの膨張主義およびイギリス資本主義の植民地主義に対してたたかいを続けてきた」とし、「日本共産党はマルクス、エンゲルスの立場を引き継ぐものだ」と述べました。
どうやら「科学的社会主義」はマルクス主義のことのようです(レーニンは排除されたようです)。
綱領には「現在、日本社会が必要としている変革は、社会主義革命ではなく(中略)民主主義革命である」とありますが、そのあと「日本の社会発展の次の段階では、資本主義を乗り越え、社会主義・共産主義の社会への前進をはかる社会主義的変革が、課題となる」として、「生産手段の社会化」をうたっています。

国民民主党や連合の芳野友子会長が野党共闘から共産党を排除するよう立憲民主党に要求しているのは、共産党がマルクス主義政党だからということでしょう。

しかし、社会主義経済や計画経済は、格差社会問題や地球環境問題の観点から世界的に見直されています。
単純な反共主義も時代遅れです。

とはいえ、ソ連東欧圏が政治的にも経済的にも行き詰まって崩壊したのは事実です。
マルクス主義はどこが間違っていたのでしょうか。
思想的な観点から解明したいと思います。


そもそもマルクス主義はなぜ「科学的社会主義」を名乗っているのでしょうか。
これにはダーウィンの進化論の影響があります。
ダーウィンとマルクスはほとんど同時代人です(ダーウィンは1809年生まれ、マルクスは1818年生まれ)。
マルクスは『種の起源』を読んで感銘を受け、『資本論』の第一巻をダーウィンに献本しています。原始共産制、奴隷制、封建制、資本制、共産制へと社会が進化するという唯物史観は進化論の影響でしょう。
革命家は体制側に立つキリスト教会とも戦わねばなりませんでしたが、聖書の創造説を否定する進化論の登場は革命家にとって強力な援軍になりました。
マルクス主義は「宗教はアヘンだ」としてキリスト教と全面対決しましたが、それを可能にしたのは進化論の援軍でした。

マルクス主義は進化論を土台にしたので「科学的社会主義」を名乗ったのです。

幸徳秋水は『平民主義』において、「社会主義が自由競争を禁止しようとするのは、進化論の生存競争の法則と矛盾するのではないか」という疑問に答える形で、進化論とマルクス主義の関係について次のように書いています。
ダーウィン氏の進化説は、千古不滅の真理である。けれども、彼はただ、生物自然の進化する根本の理由を説示するにとどまった。
だから、どうしてこれを人類社会に応用すればいいか、という問題になってくると、あの、いわゆるダーウィニアンの徒が、まちまちの議論にわかれ、なかにはひどい謬見におちこんでいる者がある。
そして、ダーウィンが生物自然の領域でなしとげたのと同じような創見を確立して、じかに人類社会の領域にもちこんで貢献したのが、近代社会主義の開祖マルクスである。
マルクスもまた、すべて従来の独断・迷信を排除し、人類社会の史的発展過程を研究して、社会進化の法則が、かならず社会主義に帰着しなくてはならない必然の筋道をあきらかにした。マルクスの『資本論』は、まことにダーウィンの『種原論』(『種の起原』)とならんで種子をおろした十九世紀の大作である。
だから、ダーウィンの進化説は、ほんとうにマルクスの資本論によって、はじめて大成されたものである。いったい、社会主義をさして進化説と矛盾する、というような論者は、まだ社会主義がわからないばかりでなく、また進化説もわからない者である。(幸徳秋水著『平民主義』中公クラシックス)

マルクス主義と進化論は一時期、このように幸福な関係にありました。
しかし、ダーウィンはジェントルマン階級の人間で、しかもイギリスでもっとも格式の高い社交クラブに属するような“最上級国民”でした。その階級的立場ゆえに、ダーウィンは進化論を人間に適用するときに間違いを犯したのです。
ダーウィンは『種の起源』の12年後に著した『人間の由来』で進化論から見た人間を論じ、そこにおいて社会ダーウィン主義と優生思想を肯定し、人種差別を助長する考えを示しました。これ以降、社会ダーウィン主義と優生思想が社会を席巻し、ナチスによるホロコーストの悲劇も生まれました。
現在でも進化論によって人間を論じると、人種差別、社会ダーウィン主義、優生思想を肯定する間違いを犯す者が少なくありません(たとえば橘玲や竹内久美子など)。

ともかく、ダーウィンが進化論の人間への適用を間違ったので、マルクス主義と進化論はたもとを分かちました。
今ではマルクス主義と進化論に密接な関係があったことはほとんど忘れられているので、なぜマルクス主義が「科学的社会主義」を名乗っているのかわからない人も多いかもしれません。


ダーウィンが進化論の人間への適用を間違ったのは、あくまでダーウィンの間違いで、マルクス主義とは無関係です(ダーウィンの間違いについては「道徳観のコペルニクス的転回」で詳しく述べています)。
それとは別に、マルクス主義そのものに間違いがあります。


マルクス主義など社会主義思想は、経済体制の変革を目指すものですが、その根底には「人間解放」ということがあります。
人間解放の思想の源流は、ジャン=ジャック・ルソーの『人間不平等起源論』にあります。
『人間不平等起源論』の有名な一節を引用します。

ある土地に囲いをして「これはおれのものだ」と言うことを思いつき、それを信ずるほど単純な人たちを見いだした最初の人が、文明社会の真の創立者であった。

このときから人間社会の不平等が始まって、それ以前の自然状態では平等だったというわけです。
マルクス主義が人間社会の最初の状態を原始共産制と見なしたのと同じです。

ルソーは、土地に囲いをすることを思いついた賢い人間と、それを信じた愚かな人間との間で不平等が生じたとしています。しかし、そんな自分に損になることを単純に信じる人間はいません。実際は土地の囲いを巡って争いがあったはずです。そして、強者が弱者に対して自分の言い分を通したのです。
つまり自然状態でも生物学的な強者と弱者がいました。ただ、その差はわずかでした。しかし、その差をもとにした社会制度ができると、社会的な強者と弱者が生まれ、その差はしだいに拡大してきたというわけです。

ともかく、不平等や支配は個人と個人の関係から生じるので、社会から不平等や支配をなくそうとすれば、個人と個人の関係から正していかなければなりません。

ところが、マルクス主義が問題にしたのは、奴隷と市民、地主と小作人、資本家と労働者という、生産関係における階級支配でした。
資本主義社会では、労働者階級が資本家階級を打ち倒せば人間解放という目的は達成されると考えたのです。
これがマルクス主義の根本的な間違いでした。
労働者階級が資本家階級の支配から解放されたとしても、さまざまな支配のひとつから解放されたにすぎません。

たとえばソ連においては、女性が職場や軍隊にも進出し、男女平等に近づいたようでしたが、党や国家の上層部は男性ばかりで、家庭内の性別役割分業も昔とほとんどかわりませんでした。
つまり女性は男性支配から解放されていなかったのです(フェミニズムがそれを明らかにしました)。


さらに、もうひとつの問題があります。
それは知識階級支配という問題です。
複雑化した現代社会では知識階級の力が大きくなりました。
社会主義運動も、労働者が主体であるというよりも、実質的には知識人が主導して行われていました。
とりわけマルクスやエンゲルスの書く文章はむずかしいので、知識人でないとなかなか理解できません。そのため労働者は読書会や学習会で知識人から学びました。
マルクス主義は「科学的社会主義」という“真理”なので、知識人はより“真理”に近い人ということになりました。
つまりマルクス主義には“知識階級独裁”という罠が隠されていたのです(これを“プロレタリアート独裁”という言葉でごまかしていました)。

革命が成功してソ連が成立すると、党や国家の上層部は知識階級によって占められました。
これはどんな国家でも同じですが、マルクス主義では知識階級支配に対して無警戒なので、ソ連は独裁国家になり、党幹部や国家官僚は特権階級化しました。
これがマルクス主義のもたらした最大の問題です。


マルクス主義は労働者階級が解放されればすべての問題が解決すると考えたのですが、実際には男性が女性を支配しているという問題があり、さらに、知識階級が非知識階級を支配しているという問題もありました。

つまりルソーが想像したように、強者と弱者が出会ったときに支配が生じるので、支配はいたるところにあります。
しかし、今のところ人間解放の思想としては、マルクス主義など社会主義思想とフェミニズム思想しかありません。
このふたつでは不十分です。
いちばん肝心なことが抜けています。

人間が生まれて最初に体験する支配は、親からの支配です。
親は子どもに対して圧倒的な強者です。
親は自分の子どもを思い通りにしようと教育・しつけを行い、「やさしい子になってほしい」とか「たくましい子になってほしい」とか「医者にしたい」とか「ピアニストにしたい」とか考えますが、こうした考えはすべて子どもの人生を支配しようとするものです。
そうしたことがまかり通っているので、悲惨な幼児虐待も起こります。

親子関係は人間関係の原点なので、親子関係に支配があることを理解すれば、あらゆる人間関係の支配が理解できるようになります。
人間社会の不平等や支配を解決するには、親子関係の改善から始めなければなりません。


このようにマルクス主義は、人間解放の思想としては、階級支配しか視野になくて、性差別も子ども差別も無視していたので、まったく不十分でした。

日本共産党の綱領には、フェミニズムが取り入れられて「ジェンダー平等」がうたわれています。
しかし、「子どもの人権」や「子どもの主体性」という言葉はなく、子どもは「教育の対象」ととらえられています。
また、「民主集中制」という言葉もあって、ソ連の独裁政治に対する反省も不十分です。


あと、社会主義経済はうまく機能するのかという問題もあります。
これは大きな問題なので、簡単には答えられませんが、中国もベトナムも市場経済を取り入れることで経済発展をしています。
市場経済を前提に貧富の差の解消をはかるというのが正しい道ではないかと思います。

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戦争考古学という分野があります。
発掘された遺跡や人骨、道具などから古代の戦争について研究する学問で、書籍としては松木武彦著『人はなぜ戦うのか――考古学から見た戦争』や佐原真著『戦争の考古学(佐原真の仕事4)』などがあります。

戦争考古学によると、人類が戦争と呼べるような規模の戦いをするようになったのは農耕社会になってからです。
なぜ農耕社会で戦争が行われるようになったかというと、人口が増えて不作のときの飢餓が深刻化したとか、土地争い、水争いが行われるようになったとか、社会が組織化されたとかの理由も挙げられますが、いちばんの理由は食糧の備蓄が増えたことです。
狩猟採集社会では、食糧の備蓄はせいぜい数日分か十数日分だったでしょうが、農耕社会では収穫期には大量の食糧が蓄えられます。一日戦うだけで半年分の労働の成果をごっそりと奪うことができれば、危険を冒しても戦おうという判断があっても不思議ではありません。
そのため外敵に備える環濠集落がつくられるようになります。
そして、武器が進歩し、砦などがつくられ、戦争の規模も大きくなります。
つまり文明と戦争はともに発達してきました。

よく人類が戦争をするのは闘争本能があるからだと言いますが、それは間違いだということになります。
動物行動学者のコンラート・ローレンツも『ソロモンの指輪』において、同じ種の動物同士は争っても殺すところまではいかないと述べています。
つまり同じ種同士ではむしろ殺さない本能があるのです。


戦争は文明の産物だ――ということで私は自分の思想を組み立てていたのですが、そこにスティーブン・ピンカー著『暴力の人類史』という本が2015年に出版されました。
これが戦争考古学の知見とはまったく逆だったので、驚きました。

『暴力の人類史』によると、先史時代から戦争、殺人、レイプなどの暴力は行われていて、古代遺跡から見つかる暴力による死と見なせるものの割合は15%、今も狩猟採集生活をする部族における暴力死の割合は14%だということです。そして、文明が進むとともに暴力死はへってきて、二度の世界大戦があった20世紀でも暴力死は3%です。つまり文明の進歩によって戦争などの暴力は克服されてきたというのです。

日本の戦争考古学は縄文時代や弥生時代を対象にしているので、日本の古代史だけ人類史からかけ離れているのかと思いましたが、そんなことがあるはずありません。
『暴力の人類史』はインチキ本かとも思いましたが、ピンカーは認知心理学者として高く評価され、“知の巨人”とも言われている人です。それに『暴力の人類史』は上下巻で合計1400ページもあり、膨大なデータが盛り込まれています。
私はとりあえず『暴力の人類史』に疑問符をつけたままにしておくことにしました。


そうしたところルトガー・ブレグマン著『希望の歴史』が2021年に出版され、疑問が氷解しました。

ブレグマンは西洋にはふたつの思想潮流があると言います。ひとつはジャン=ジャック・ルソーに代表される、自然状態の人間は互いに助け合って仲良く暮らしていたという性善説です。もうひとつは、トマス・ホッブスに代表される、自然状態の人間は「万人の万人に対する闘争」をしていたという性悪説です。
そして、西洋ではホッブス流の性悪説が優勢だというのです。
実証的な研究も性悪説のバイアスがかかり、マスコミはそうした性悪説的学説をもてはやします。
たとえば古代人は残忍で、互いに殺し合いをしていたという説を学者が発表すると、マスコミはそれに飛びつきますが、古代人は平和に暮らしていたという説を発表すると、マスコミは無視します。
ですから、考古学の研究にもバイアスがかかっているのです。

ブレグマンは『暴力の人類史』におけるデータを具体的に検証し、バイアスがかかっていることや、専門家がピンカーの説を否定していることなどを次々と明らかにしました。
やはり『暴力の人類史』はトンデモ本の類でした。

結論としては、日本の戦争考古学が正しかったのです。
日本人には性悪説のバイアスがなかったのがよかったようです。


狩猟採集社会にはほぼ戦争はなかったのですが、農耕社会では戦争が始まり、文明が進むとともに戦争の規模も拡大してきました。
もちろん武器の進歩ということもありますが、農耕社会の初期段階ではせいぜい穀物しか奪うものがなかったのに、文明が進むと金銀財宝など奪うものの価値が増大したということもあります。

そして、私の考えですが、「奴隷制」の発明も大きかったでしょう。
戦争に勝って奴隷を獲得すると、奴隷が利益を生んでくれます。
古代ギリシャ・ローマでは、市民よりも奴隷の数のほうが上回っていました。

「植民地」の発明も同様です。
植民地を獲得すると大きな利益が得られるので、植民地獲得の戦争が激化しました。

宗教が理由の戦争も一部にありますが、戦争は基本的に土地、財産、奴隷、植民地、賠償金などの利益を得るために行われるものです。

クラウゼヴィッツは『戦争論』において、「戦争は別の手段による政治の継続である」と述べましたが、では、政治の目的はなにかということは述べていません。
人間が利益のために戦争をするということは軍人として認めたくなかったのかもしれません。


戦争に負けると、殺されたり奴隷にされたりするので、誰もが否応なしに戦争に備え、戦争に強くならなければなりません。
そうして人類の歴史は戦争の歴史でもあったわけですが、一方で人間には人間を殺さないという本能があります。
つまり戦争というのは本能に反した行為です。


デーヴ・グロスマン著『戦争における「人殺し」の心理学』によると、米陸軍公認の戦史家として従軍していたサミュエル・マーシャル大佐は、太平洋のマキン島の戦いに参加し、日本軍の夜襲を受けて苦戦した米軍を目撃します。マーシャルは翌日に兵士全員を集めて、グループに分け、上官の批判も含めて自由に話すことを求めました。すると、昨晩ほとんどの兵士は一度も発砲していなかったという事実が明らかになります。
マーシャルはその後、太平洋戦線とヨーロッパ戦線で兵士たちのグループ・インタビューを繰り返し、戦場で銃を撃ったことのある兵士は15~25%しかいないと結論づけます。
マーシャルは1946年の著書において「平均的で健全な個人は人を殺すことに抵抗があり、自分の意志で人を殺そうとしない」と述べました。
米軍はこの研究成果を取り入れて、射撃訓練の標的を人型にするなどの対策を行い、兵士の発砲率を上げたとされます。

ところが、マーシャルが亡くなると、いくつかのマスコミが「マーシャルの書籍に虚偽の疑い」とか「兵士へのグループ・インタビューは一度も行われていない」などと攻撃しました。

これについてもブレグマンが『希望の歴史』で反論を述べています。
グループ・インタビューは実際に行われて、マーシャルはライフル銃を撃ったかどうかを兵士たちにたずねていました。
マーシャルの説は性善説なので、攻撃されたのです。

『希望の歴史』は戦場におけるさまざまなデータも挙げています。
第二次世界大戦の退役軍人への聞き取り調査によると、半数以上が敵を一人も殺していないということです。殺された敵の大半は、ごく少数の兵士が何人も殺したことによるものです。
アメリカ空軍でも、敵機撃墜のおよそ40%は、パイロットの1%未満によるものでした。

こうした発見に後押しされて、過去の戦争についても再調査されました。
南北戦争のゲティスバーグの戦いにおいて、のちに戦場から回収された2万7547丁のマスケット銃を調べると、約1万2000丁の銃には複数個の弾が装填され、およそ半分には弾が3個以上装填されていました。中には23発も装填された銃までありました。
要するに兵士は敵に向かって撃ちたくなかったので、装填する動作を繰り返していたのです(先込め式の銃なので装填にかなり時間がかかる)。

敵を銃撃することよりさらにむずかしいのは人を刺し殺すことです。ワーテルローの戦い(1815年)とソンムの戦い(1916年)で負傷した兵士のうち、銃剣による負傷者は1%以下でした。

では、戦争で死んだ多数の兵士はどのようにして死んだのでしょうか。
第二次世界大戦で死んだイギリス人兵士の法医学的な検査による死因はこのようになっていました。

迫撃砲、手榴弾、空爆、砲弾 75%
銃弾、対戦車地雷原 10%
地雷、ブービートラップ(罠)  10%
爆風、圧死 2%
化学攻撃 2%

要するに砲爆撃、地雷のように、死を直接目撃しなくていい方法でほとんどの兵士は殺されているのです。
戦争映画では敵味方が銃撃し合いますが、そういう場面で死ぬ兵士はきわめて少ないことになります。


戦争は本能に反する行為ですが、勝つと大きな利益が得られるので、これまで行われてきました。
しかし、第二次世界大戦後は、戦争によって領土、植民地、賠償金を得ることができなくなりました。
高度産業社会になって戦争による貿易や投資の中断がもたらす不利益も大きくなっています。
そうすると、戦争をする意味がほとんどありません(例外はイスラエルです。戦争に国の存亡がかかっていますし、戦争で領土も広げています)。

イラク戦争のとき、この戦争はアメリカにとってなんの利益があるのかという議論があり、イラクの原油を売れば戦費はまかなえるだろうなどと言われていました。しかし、そんなことはありませんでした。もし原油を売った利益をアメリカが持っていったら、イラク国民は怒ったに決まっています。

アメリカは戦争がもうからない時代になったことを理解していなかったのです。
ウクライナに侵攻したロシアも同じです。
ロシアの思惑通りに戦争に勝利して、かいらい政権を樹立できたとしても、ロシアに利益はないでしょう。

人類は利益のために本能に反する戦争をしてきたということを理解すれば、戦争を克服する道も見えてくるはずです。

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ウクライナのゼレンスキー大統領が3月23日、日本の国会でオンライン形式で演説をしました。
アメリカ議会での演説では真珠湾攻撃を取り上げたので、日本の国会ではヒロシマ、ナガサキや東京大空襲などに言及するのではないかという予想があり、私自身は、ソ連が日ソ中立条約を破ったことや日本兵捕虜のシベリア抑留などに言及するのではないかと予想しましたが、そういうのはありませんでした。
きわめて穏当な内容でした。
ゼレンスキー大統領にとって日本は「復興資金を出してくれるATM」というところかもしれません。

2014年、クリミア半島をロシアが併合しそうになっているとき、オランダのハーグでウクライナを支援するためカナダ、フランス、ドイツ、イタリア、日本、イギリス、アメリカの7か国による会議が行われ、安倍首相は約1500億円の経済支援を表明しました。
NATOとロシアが角突き合わせているとき、NATO以外で唯一日本が参加して金を出すとは、日本外交の愚かさを見せつけられた気分でした。
ですから、ウクライナにとって日本はATMという認識であっておかしくありません。


ゼレンスキー大統領は演説の中で「ウクライナへの残忍な侵略のツナミ」という言葉を使いました。
ほかに「世界のほかの潜在的な侵略者」「地球上のすべての侵略者たち」とも言っています。
「侵略」がキーワードです。

ロシアがやっているのは「侵略戦争」で、ウクライナがやっているのは「防衛戦争」です。
これほどわかりやすいことはありません。ですから、世界からロシア非難とウクライナ支援の声が上がっています。

しかし、国際政治の世界では「侵略」と「防衛」というわかりやすい区分がありません。「集団的自衛権」があるからです。
プーチン大統領は今回の戦争を、ウクライナ東部にある「ドネツク人民共和国」「ルガンスク人民共和国」をウクライナの攻撃から守るための集団的自衛権の行使だと主張しています(「ネオナチとの戦い」だとも言っています)。

バイデン大統領はプーチン大統領のことを「侵略者」だけでなく「残忍な独裁者」や「戦争犯罪者」とも呼んで、問題をわかりにくくしています。
「侵略」と「防衛」というわかりやすい区分を使うと、アメリカにとって不都合なことがいっぱいあるからです。
安倍首相も「侵略の定義は定まっていない」と発言したことがあります。日本の戦争を侵略と認めたくなかったからです(安倍氏にロシアの行為は侵略ですかと聞いてみたいものです)。


今のところウクライナ軍は善戦しているようですが、その主な理由は、ウクライナにとっては防衛戦争で、ロシアにとっては侵略戦争だからです。
防衛戦争をする兵士は士気が上がりますが、侵略戦争をする兵士は士気が下がります。
これは動物の本能によって説明できます。

なわばりを持つ動物は、基本的には互いのなわばりを尊重して争わないようにしていますが、ときどき食料や異性を探して、ほかのなわばりに侵入することがあります。
そのとき、なわばり主が侵入者を発見すると、侵入者に猛然と襲いかかります。侵入者は自分のほうが強い場合でも、ほとんど闘わずに逃げ出します。

このときの動物の“心理”のメカニズムを、日高敏隆著『日高敏隆選集Ⅱ 動物にとって社会とはなにか』は次のように説明しています。

「他人の」なわばりに入りこんでいるな、と感じた個体(むしろ、ここは自分のなわばりでないなと感じている個体)は、あえて擬人化すればそのやましさのゆえに、なわばり所有者から攻撃されるとすぐ引きさがってしまう。そこではけっして組んずほぐれつの闘いなどおこらない。だが問題はこれですむほど単純ではない。なわばりの所有者は引きさがっていく侵入者を追いかけてゆく。しかし深追いは動物においても危険である。なぜなら、追跡が進む間に、両者の心理状態が刻々と変化していってしまうからだ。
動物の「闘志」は、なわばりの中心すなわち巣からの距離に反比例する。なわばりの境界近くまで侵入者を追いかけていった所有者には、もはや攻撃のはじめほどの闘志はわいてこない。闘志と同じくらい逃避の衝動が強くなっているのである。
この比例関係は、自分のなわばりに逃げこんだ動物についてもあてはまる。そこでこちらのほうは、自分の巣に近づくにつれて、闘志がみなぎってくるのである。
深追いしすぎて相手のなわばりに侵入した追跡者は、相手ががぜん反攻に転じると急いで後退して自分のなわばりへ逃げこむ。もし相手がそこまで深追いしてくると、事情が逆転する。こうしてしばしば一対の動物は、ふりこのようにふれながら、ついになわばりの境界線でとまることがある。

人間は集団で狩りをするサルで、集団でなわばりを持ちます。そのなわばりが拡大したものが国家です。
ですから、ウクライナのなわばりに侵入したロシア兵はあまり闘志がなく、深く侵入するほど闘志がなくなります。
反対にウクライナ兵は、なわばりを守るために最初から闘志が盛んで、ロシア軍に押し込まれればますます闘志が高まります。

闘志があるのは兵士だけではありません。非戦闘員である国民も同じです。
つまり防衛戦争というのは、兵士と国民が一体となって戦われるものです。


ここが従来の戦争の常識と違うところです。
従来の戦争は戦闘員と非戦闘員が明確に区別されるものでした。制服や徽章などで外見からも区別されなければなりません。
これがはっきりと変わったのがベトナム戦争です。
南ベトナム解放民族戦線は農民と同じ服装でゲリラ戦をしました。
兵士と農民の区別がむずかしいからといって米軍が無差別に攻撃すると、民衆の反発が高まり、国際社会からも非難されます。
結局、ベトナム戦争は泥沼化して、アメリカ軍は敗退しました。

解放戦線と北ベトナムにはソ連や中国の支援もありましたが、世界最強のアメリカ軍が敗れたのは、アメリカがしたのは侵略戦争で、ベトナムがしたのは防衛戦争だったからです。

ベトナムからアメリカ軍が撤退した6年後、ソ連はアフガニスタンに侵攻しましたが、これも泥沼化し、10年後にソ連は敗退しました。
ソ連がアメリカと同じ失敗を繰り返したのは不思議です。

そして、9.11テロをきっかけに今度はアメリカがアフガニスタンに侵攻し、これは20年にわたって戦いを続けましたが、結局敗退しました。
今度はアメリカがソ連と同じ失敗を繰り返したわけです。

イラク戦争も、実質的にアメリカ軍の敗退です。

アフガニスタンでもイラクでも、武装勢力と民衆の区別が、銃を持っているか否かぐらいでしかつきません。銃を持たない自爆テロ犯の見分けはきわめて困難です。
侵略者の目には民衆すべてが敵に見え、しばしば無差別攻撃をして民衆の反感をさらに高めるということの繰り返しで自滅しました。


ウクライナ戦争においても、ウクライナ軍と民衆は一体化しています。
民衆は火炎瓶をつくって、実際にロシア軍の車両に投げつけている映像もありました。
ゼレンスキー大統領は、市民に銃を取って戦うように呼びかけました。

そして、「民間人が武器を使ってロシア兵を殺害しても罪に問わない」とする法案が可決されたというニュースがありました。

ウクライナのジャーナリストであるIllia Ponomarenko氏は3月10日、「新しい法案は、ウクライナに配備されたロシアの軍人を民間人が殺害することを公式に完全合法化します」というキャプション付きで、ウォロディミル・ゼレンスキー大統領が署名した法案のスクリーンショットを投稿しました。文書の日付は2022年3月3日となっており、Newsweekは法令の発効が「公布の翌日から」となっていると述べています。
法令の内容は、ウクライナに対して武力侵攻を行っている者に対して、ウクライナの民間人や滞在中の外国人が銃器を使用して排除したとしても、その刑事責任を問わないというもの。法令が有効なのは戒厳令が出されている間であり、その間は民間人も銃器の使用が許可されるものの、戒厳令が終了したら当局に銃器を引き渡す必要があるとのこと。
https://gigazine.net/news/20220311-ukraine-bill-legal-kill-russian-soldiers/

このように市民の武装を公然と認めると、今度はロシア軍に市民を攻撃する口実を与えることになります。
とはいえ、ロシア軍が無差別に市民を攻撃すると、やはりロシア軍が非難されるので、ロシア軍は苦しいところです。


ロシア側は、ウクライナは“人間の盾”を使っていると非難しています。

人間の盾というのは、「戦争や紛争において、敵が攻撃目標とする施設の内部や周囲に民間人を配置するなどして、攻撃を牽制すること」と説明されます。
だいたいは捕虜や人質を盾にするというイメージでしょう。
そういうことは行われていないはずです。

しかし、ウクライナ軍は都市を防衛拠点としていて、そこに住民がいます。
その住民は、ロシア軍から見れば人間の盾になります。都市を攻撃すれば住民に被害が出るのは確実だからです。
今のところロシア軍は主要都市を占領していません。
意図せざる人間の盾があるからかもしれません。

ウクライナ側のやり方に対しては、住民のいる都市を防衛拠点にするなという批判もあります。
あらかじめすべての住民を避難させるべきで、それができないならその都市に関して「無防備都市宣言」をするべきだというのです(ハーグ陸戦条約やジュネーブ条約に規定があります)。
つまり戦わずしてその都市を敵に明け渡すわけです。
第二次世界大戦のとき、ドイツ軍の侵攻を受けたフランス政府はパリに関して無防備都市宣言を行い、パリを戦火から守りました。

しかし、都市というのは防衛拠点に最適です。
独ソ戦においてはソ連軍はスターリングラードやレニングラードを防衛拠点にし、ドイツ軍は攻めきれなくて、結局ここが戦局の転換点になりました。
ただし、住民のいる都市での市街戦は悲惨です。

ロシアはウクライナ東南部の港湾都市マリウポリに対して降伏するように勧告しましたが、ウクライナ側は拒否しました。
どうやら徹底抗戦するようです。

そうするとロシア側の判断もむずかしくなります。本格的に攻撃すれば、スターリングラードやレニングラードの悲劇を逆の立場から演じることになり、国際的な非難を浴びます。


ともかく、ウクライナでは軍と市民が一体となって戦っています。
戦闘員と非戦闘員を厳密に区別するべきという戦時国際法は、騎士や傭兵だけが戦争を担った伝統の上に、列強が植民地獲得戦争をするときに現地の武装勢力と民衆の区別がつかなくて困るという必要性から生まれたものです。
国民国家が総力戦をする時代には合わなくなっています。


ロシア軍の総兵力は約90万人、ウクライナ軍は約26万人です。
軍事費については、ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)によると、2020年のロシアは約617億ドル(約7兆970億円)で、約59億ドル(約6780億円)のウクライナとは10倍以上の差があります。

それでもロシア軍が苦戦し、ウクライナ軍が善戦しているのは、侵略戦争と防衛戦争の違いからです。

これはある意味、天下分け目の戦いです。
ウクライナが勝利すれば、今後ロシアやアメリカのような侵略戦争をしようという国はまず出てこないでしょうから、世界は平和になります。



近代兵器を使った大規模な戦争も、所詮は動物のなわばり争いが発展したものです。
高度な文明も、人間の動物としての本能を土台として築かれています。
文明と本能の関係については「道徳観のコペルニクス的転回」で論じています。

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戦争に“大本営発表”はつきものです。

ウクライナのゼレンスキー大統領は3月3日の動画において、ロシア兵9000人近くを殺害したと主張しました。
一方、ロシア国防省は2日、ロシア軍で498人の死者が出ていると発表しました。
極端な数字の違いがあるのは、双方が“大本営発表”をしているからです。
中立的な情報を探してみましたが、見当たりません。
ただ、次の記事が参考になるかもしれません。

429対156…侵攻7日目「ロシアの被害がウクライナより多い」
開戦7日目を迎えるウクライナ・ロシア戦争でロシアの被害がはるかに多いという集計結果が出てきた。

民間軍事専門サイトのオリックスによると、2日現在の武器・車両・装備などロシア軍の物的被害は429台と集計された。一方、ウクライナ軍は156台だった。

オリックスはソーシャルメディアなどに出てきた写真を集計してこのような数値を出した。破壊の程度で破壊と損傷に分け、装備を遺棄したか敵が奪い取ったかも区別した。
(後略)
https://news.yahoo.co.jp/articles/87d367a0af587e5c61473e028baf254d68e4c7e7

ロシア軍の損害が多いといってもウクライナ軍の3倍ぐらいです。
ゼレンスキー大統領の言うロシア兵9000人殺害は、どう見ても過大です。


ウクライナ非常事態庁は、ロシアの攻撃により民間人2000人以上が死亡したと発表しています。
日本のテレビも、市街地や政府庁舎にミサイルが着弾するシーンや破壊された建物を繰り返し映して、民間の被害を強調しています。
ブリンケン米国務長官も6日、CNNの番組において、ロシア軍がウクライナの民間人を意図的に攻撃しているとの「極めて信頼できる報告」を米国が確認していると述べました。

ところが、国連人権高等弁務官事務所が3月2日に発表したところによると、情報収集が遅れているので実数はこれより多いという但し書きつきですが、ロシアがウクライナに侵攻を開始した2月24日から今月1日までに子ども15人を含む民間人227人が死亡、525人が負傷したということです。
その2日前の国連のグリフィス人道問題担当事務次長・緊急援助調整官の発表では、民間人の死傷者406人、うち死者は106人だったということです。

国連の発表が実態に近いのではないでしょうか。

ウクライナもロシアも“大本営発表”をしていますが、日本のメディアは中立ではなく、ウクライナ側に立って報道しています。
ゼレンスキー大統領を「英雄」のように持ち上げる報道も目立ちます。
戦争が始まるまでウクライナの世論調査で彼の支持率は20%程度だったのですが。


この戦争はロシアのウクライナに対する一方的な侵攻で始まったので、ロシアが悪いことは明らかです。
「ロシア=悪玉」となると、そこから自動的に「ウクライナ=善玉」というふうに考える人がいます。
さらに、冷戦時代の思考を引きずって、最初からアメリカやNATO側に立って考える人もいます。日本のメディアは完全にそうです。

そういうことから、「ウクライナ=善玉、ロシア=悪玉」の報道一色になっています。

これは愚かなやり方です。
戦争当事者の一方に肩入れすると、戦争の火に油を注ぐことになりかねません。



「善悪ではなく戦争反対の立場からロシアを非難しているのだ」という人もいるでしょう。
「戦争反対」の声を上げるのは正しいことです。
しかし、「戦争反対」の声を上げるべきはウクライナ問題だけではありません。

テレビがウクライナの都市にミサイルが着弾して爆発するシーンを映しているのを見ると、私はイラク戦争のときのバクダッドの光景を思い出します。
当時、CNNなどの取材陣がバクダッドのホテルにいて、アメリカの巡航ミサイルや空爆によるすさまじい爆発シーンをテレビは映し出していました。
当時のラムズフェルド国防長官はこれを「衝撃と恐怖作戦」と得意げに名づけていました。

アメリカはイラクにかいらい政権を樹立し、サダム・フセイン大統領をとらえて死刑にしました。
当時の小泉純一郎首相はいち早く「アメリカ支持」を表明しました。そして、のちにイラクのサマワに自衛隊を派遣しました。
日本人にはアメリカに反対する人もいましたが、日本全体としてはアメリカ支持と見なされてもしかたありませんでした。
世界の多くの国もそういう感じでした。

イラク戦争は、国連による根拠なしにアメリカが単独で始めた戦争です。今回のロシアによるウクライナ侵攻と基本的に同じです。
アメリカはイラクが大量破壊兵器を隠し持っているということを理由に戦争を始めましたが、結局大量破壊兵器はありませんでした。アメリカは開戦の理由にするために情報を捏造していたことが明らかになりました。

トランプ前大統領は、中国は新型コロナウイルスで世界に損害を与えたとして巨額の損害賠償を要求すると息巻いていましたが、ウイルスは自然界のものです。
アメリカがイラクに損害を与えたのは人為で、しかも故意ですから、こちらは巨額の損害賠償を要求されて当然です。
しかし、アメリカは損害賠償はもちろん、とくに謝罪もしていません。

アフガニスタン戦争もアメリカが単独で始めて、かいらい政権を樹立したということではイラク戦争と同じです。
NATO諸国の多くはイラクとアフガニスタンに軍を派遣して、アメリカの占領に協力しました。


プーチン大統領はイラク戦争とアフガニスタン戦争と同じことをしただけです。
アメリカが許されているなら自分も許されると考えたのでしょう。
ロシアのメディアはウクライナがひそかに核兵器開発をしているとか、放射性物質を拡散するいわゆる「汚い爆弾」を製造していると主張していますが、開戦理由を捏造するのも真似しているのかもしれません。

それから、プーチン大統領はNATOがどんどん東方に拡大してくるのを見て、自分もサダム・フセインと同じ運命をたどるのではないかという恐怖を感じて、それもウクライナ侵攻の動機になったかもしれません。

今、ロシアを非難している人たちが、アフガン戦争とイラク戦争のときも同じくらいの熱量でアメリカ非難をしていれば、今回のロシアによるウクライナ侵攻はなかったかもしれません。

「ロシアの戦争には反対し、アメリカの戦争には賛成か容認をする」というダブルスタンダードが世界を不安定にし、戦争の原因をつくっているのです。



今後のベストシナリオを想定すると、ウクライナの抵抗で戦争が長引き、ロシアは人的、経済的な痛手をこうむり、国民の反戦、反プーチンの声が高まり、プーチンの側近が離反し、ロシア軍兵士が第一次世界大戦のときのように反乱を起こし、ロシア軍が撤退して戦争が終わるというものです。
こうなれば世界の人たちは戦争が不利益しか生まないということを理解して、今後戦争をしなくなるに違いありません(ほんとうはアメリカがアフガンとイラクで失敗したのを見てそうなるはずでしたが、プーチンだけは理解していなかったのです)。

しかし、今は間違った動きもあります。国際パラリンピック委員会や国際スケート連盟がロシア人選手の出場禁止を決めました。これに対してロシアのパラリンピック選手が「ロシア敵視だ」と反発し、フィギュアスケート金メダリストであるエフゲニー・プルシェンコ氏は「人種差別をやめろ」と主張しました。
悪いのはプーチン氏であってロシア国民ではありません。
こんなやり方ではロシア国民がプーチン氏のもとで結束してしまいます。

ロシア国民に対しては、ともに戦争反対に立ち上がるように呼びかけるのが正しいやり方です。

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2023年度発足予定の「子ども家庭庁」は、当初「子ども庁」という名前になるはずでした。
「子ども家庭庁」という名前に変わったことに失望の声が上がっています。
「家庭」という言葉が入るとなぜいけないのでしょうか。
実は「家庭」という言葉によいイメージを持つ人と悪いイメージを持つ人がいて、そこで意見が対立します。
問題を整理してみました。


基本的な事実として、殺人事件の約半分は親族間で起きています。

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平成30年版 警察白書より


2016年に摘発された殺人事件の55%が親族間だというデータもあります。
殺人事件総数はへっているのに、親族間の殺人事件はへらないので、比率は高くなってきています。

また、殺人事件を起こすのは男性が多く、殺人犯の男女比はほぼ四対一です。しかし、配偶者間の殺人に限ると、夫が妻を殺したケースと妻が夫を殺したケースの比率はほぼ三対二と、それほど差がなくなります。これはどうしてかというと、ドメスティック・バイオレンスの被害者は圧倒的に女性が多く、力の弱い女性がDV被害から逃れるには加害者を殺すしかないからではないかと考えられます。

知人・友人関係の殺人も多く、殺人事件の多くは濃密な人間関係において起こります。

ところが、テレビのワイドショーが取り上げる殺人事件のほとんどは、通り魔殺人か強盗殺人、放火殺人など、赤の他人が被害者になるものです。
こうした事件の場合は、「なんの落ち度もない人間が殺された」という悲劇性が強調され、加害者への怒りの感情がかき立てられます。
もし親族殺人を取り上げたら、家庭内のどろどろした感情のもつれが出てくるので、視聴率が取れないということがあるのでしょう。
こうしたワイドショーばかり見ていると、殺人の半分は家庭内で起きているということがわからなくなります。

つまりマスコミは家庭内の憎しみや暴力などの不都合なことは取り上げないのです。
一方、家庭内の愛情のある話や美談は取り上げます。

NHKに「鶴瓶の家族に乾杯」という番組があって、番組ホームページには「ステキな家族を求めて日本中を巡る”ぶっつけ本番”の旅番組です」と書いてあります。
ほんとうに”ぶっつけ本番”であれば、DVの家庭とか、父親がギャンブル依存症で借金まみれの家庭とか、玄関開けるとゴミ屋敷とかあってもよさそうですが、そういうのはありません。

私はこのような偏った表現を「家庭愛情神話」と名づけています。
「原発安全神話」と同じで、家庭には愛情があって、家族はみな互いに愛し合っているものだという神話です。
神話に反する事実は否定されるか隠蔽されます。


たとえば1月15日に起きた東大前刺傷事件で逮捕された17歳の少年は、東大と医学部に異様にこだわっていたことから、親からそうとうなプレッシャーをかけられていたと想像されますが、そういうことを書いた記事は見かけません。
ただ、少年の母親は「佐藤ママ」に憧れていたという掲示板の書き込みがあったので検索してみると、『東大前刺傷事件17歳高2男子生徒の母親「佐藤ママに憧れて」』という記事があったので、そこから一部を引用します。

「長男が東海中学の受験に失敗して、憔悴したようすでした。」そう話すのは、男子生徒の母親とはママ友という女性。「(男子生徒名前)ママは、佐藤亮子ママに憧れていました。オンラインサロンにも入って子どもたちへの教育について、熱心にセミナーを聞いていましたよ。」(ママ友)

佐藤ママといえば、東大理Ⅲ(医学部)に自身の4人の兄弟を現役合格させた凄腕の教育ママ。中学受験をする子を持つ母親が知らない人はいないというほどの有名人です。

佐藤ママの子どもは4人とも偏差値72以上。「子どもに手伝いをさせるのは子どもに失礼」というほど家事をさせずに勉強に集中させる教育方法です。

「佐藤ママの出版してる本も全部買い集めて読んで、その教育方法を実践しているといっていた。」(ママ友)

佐藤ママの教育方法で、男子生徒が壊れて行ってしまったのか。

この記事が載っているニュースサイトは、元地方紙記者という人が個人でやっているサイトです。
少年の家庭の問題を書いているのはこの記事だけのようです。

メジャーなニュースサイトは逆に少年の家庭に問題はなかったという記事を書いています。
たとえば「デイリー新潮」の『「東大刺傷事件」犯行少年の素顔 母も困惑した「理III」への執着、学校行事での意外な一面』はヤフーニュースでも配信されました。


そんな少年に対して、母親は困惑を隠せなかったという。当時の様子をママ友の一人が明かす。

「彼のお父さんは地元の大学で職員をされていて、お母さんは専業主婦だったと思います。4人きょうだいの長男である彼は、中学校でも成績が抜群に良かった。マイペースな性格なので、お母さんも“うちの息子は変わってるんですよ”と話していました。両親は子どもの進学先にこだわりがないのに、彼は中学3年の頃から“絶対に東大に行きたい”“理IIIに合格したい”と口にするようになったそうです。お母さんは彼を応援しつつも“行きたいと言って行ける学校でもないと思いますけど……”とむしろ困惑した様子でした。深夜までブツブツとひとりごとを言いながら勉強し続けていたそうで、いつか体調を崩すんじゃないかと心配していました」


ここに描かれているのは、子ども思いの普通の母親です。
そうすると、少年が異様な犯行に走った理由が説明できません。
そこで、産経新聞は『「東大」「医学部」執着 刺傷事件の少年、自ら追い詰める』という記事で、少年は自ら追い詰めたのだという説明をしました。

少年は成績上位の理系クラスに所属。学校関係者は少年について「勉強熱心という印象だった」とし、少年を知る同校の生徒は「非常に真面目で、成績上位だった」と話す。少年自身も「勉強は趣味」「東大医学部を目指す」と公言し、自他ともに認める「勉強の虫」だった。

だが、約1年前から成績不振で悩んでいたとみられる。昨年9月の進路に関する三者面談で、担任の教師に対し「自分の目指すところに成績が追い付かない」などと話していた。

教師はそうした少年を励ましており、両親も「特別教育熱心なタイプではない」(関係者)という。少年は自らを追い詰めていった可能性がある。

少年一人が悪者にされてしまいました。
これが「家庭愛情神話」の怖いところです。
神話を守るために誰かが悪者にされるのです。
それはたいてい子どもです。


幼児虐待は増え続けています。
厚生労働省は昨年8月、令和2年度の児童相談所による児童虐待相談対応件数(速報値)を公表しましたが、それによると件数は20万5029件で、前年度より1万1249件(5.8%)増え、過去最多を更新しました。

統計上はこのように増え続けていますが、実際に増えているかは疑問です。
以前は幼児虐待というものがほとんど認識されていませんでした。それが報道などによりだんだんと認識されるようになり、それとともに通報される件数が増えてきただけとも考えられます。

昔は家庭でも学校でも子どもへの体罰は当たり前のことでした。子どもをたたくだけでなく、押し入れや納屋に閉じ込める、木に縛りつける、食事を与えない、「お前は橋の下で拾った子だ」などの暴言を浴びせることなどがよく行われていました。これらはすべて今では幼児虐待とされます。
ということは、昔は今よりも幼児虐待は広く行われていたと言えそうです。

しかし、それらの虐待行為は、「愛のムチ」とか「子どもを愛さない親はいない」という言葉によって、すべて愛の行為だとされていました。
つまり「家庭愛情神話」によって虐待は完全に隠蔽されていたのです。

最近、次第に幼児虐待が認識されるようになり、体罰はいけないことというコンセンサスもできました。
また、「毒親」という言葉も認知されてきました。
「家庭愛情神話」に風穴が開いたと言えます。

こうした状況を2月13日付朝日新聞の「(知は力なり)暴力の問題、知ることが生きる力に 公認心理師・臨床心理士、信田さよ子」という記事がうまく説明していたので、一部を引用します。


実は2000年代初めの虐待防止法・DV防止法の制定まで、公的には家族には暴力など存在しないと考えられていたのです。夫が妻に「手を上げ」たり、親が子に折檻するのは、される側に問題がある、なぜなら夫婦や親子は愛情で結ばれているのだからという認識が支配していたからです。
(中略)
日々、メディアをとおして、家族(中でも親)は愛情豊かなものとして伝えられます。それが「ふつうの家族」像を形成しています。DVや虐待の加害者像が特殊なもの、残虐なものと強調されてしまうと、ふつうの家族像は結果的に温存されてしまいます。親の借金返済のために働く息子(娘)がそれを虐待とは思わない、夫から蹴られて肋骨に何度もひびが入った妻がそれをDVとは認めない。そんな場面に何度も出会ってきました。それどころか「自分のほうに問題があった」「そうさせたのは自分だ」と自責感すら抱いているのです。被害者有責論(されるほうに問題があるという認識)は、家族の暴力では根深いものがあり、世間の常識もそれに加担しています。


「家庭愛情神話」がこのように強固に、広範囲に存在したのには、国策もありました。

1898年に施行された明治民法では、親権者は「監護及び教育に必要な範囲内でその子を懲戒することができる」とあり、親に懲戒権を認めていました。これが幼児虐待の口実になってきました(法制審議会は近く懲戒権を削除する答申を出す見込みです)。
そして、国定教科書には乃木希典大将の少年時代のエピソードとして、乃木少年が「寒い」と不平を口にすると父親が「よし。寒いなら暖かくなるようにしてやる」と言って少年を井戸端に連れていき冷水を浴びせたとか、乃木少年がニンジンを嫌いだと言うと母親が三食すべてにニンジンを出して好き嫌いを矯正したといったことが書かれていました(教科書にはニンジンとは特定されていませんでしたが)。両親がきびしく育てたためにひ弱だった乃木少年が立派な武人になったということで、国がこのような虐待ともいえる教育を推奨していたのです。

自民党はこうした国策を継承する政党です。
ずっと懲戒権の削除に反対してきましたし、親殺しを特別に重罪とする刑法の尊属殺人の規定が最高裁によって違憲とされても削除や改正に抵抗し、22年間も違憲のまま放置しました。
これらの法改正は日本人の家族観に悪影響があるというのが自民党の考えです。
これは夫婦別姓に反対する論理とも同じです。
自民党の古い家族観は「家庭愛情神話」によって支えられています。


「家庭愛情神話」をはぎ取ると、愛情に満ちた家庭は少なく、暴力、支配、差別に満ちた家庭が多いという現実が見えてきます。
こうした家庭で苦しむのは弱者である子どもと女性です。

現在は「家庭愛情神話」を守ろうという勢力と崩そうという勢力がせめぎ合っている状況です。
映画、小説の世界では「家庭愛情神話」はすっかり崩壊し、親から虐待された過去を持つ人物とか複雑な事情の家族などが描かれるのが当たり前になっています。
しかし、政治の世界ではまだ「家庭愛情神話」を守ろうとする勢力が強くて、そうした勢力が「子ども庁」の名前を「子ども家庭庁」に変更しました。
「家庭」の文字が入ることで「子ども」の主体性や人権が消えてしまいます。
「家庭」の文字に暴力、支配、差別を感じる人もいます。
そうしたことで「子ども家庭庁」か「子ども庁」かが問題になっているのです。


なお、「家庭愛情神話」を守ろうという勢力と崩そうという勢力がせめぎ合っているのは日本だけのことではありません。
アメリカでは1990年代、自分は子ども時代に親から虐待されていたとして成人してから慰謝料を求めて親を裁判に訴えるケースが多発しましたが、親を支援するための財団がつくられ、親に虐待されたという記憶はセラピストによってつくられた虚偽記憶であるという“理論”で対抗し、心理学上の面倒な議論が行われ、結果的に裁判では親の側、つまり「家庭愛情神話」を守ろうという勢力が勝利しました(詳しくはウィキペディアの「過誤記憶」で)。


「家庭愛情神話」を守ろうという勢力と崩そうという勢力のせめぎ合いは、思想の戦いでもあります。
フェミニズムはどうしても「男対女」という軸でとらえますが、これは「おとな対子ども」という軸でとらえたほうがうまくいきます。
私は倫理学、生物学、歴史学、文化人類学などとの関連で考察したことを「道徳観のコペルニクス的転回」に書いています。

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新しいブログを開設したのでお知らせします。

このブログはもっぱら時事問題について書いていますが、新しいブログは私の思想について書いたものです。
次の行をクリックすると飛びます。

「道徳観のコペルニクス的転回」


私の思想がどういうものかは、新しいブログを読んでもらえばわかるわけですが、ここで簡単に説明しておきます。


私は若いころに「どうして世の中から悪をなくすことができないのだろう」ということを考えました。もし悪をなくす方法がわかれば、人類の幸福に大いに貢献することができます。
こんな大問題に思想家たちがまったく取り組んでいないように見えるのは実に不思議でした。

私は、悪をなくすことができないのは、道徳に欠陥があるからではないかと思いました。
理不尽なブラック校則のある学校では校則違反が多発するように、“ブラック道徳”があるので悪が多発するのではないかと思ったのです。
「嘘をついてはいけない」という道徳がありますが、嘘をつかない人間はいないので、行き過ぎた道徳です。「人に迷惑をかけてはいけない」という道徳もおかしなもので、人間は互いに迷惑をかけあっている存在です。
つまり道徳が人間性に合っていないのです。
道徳を人間性に合わせれば、悪の発生は、ゼロとはいかなくてもかなり減少させられるはずです。

倫理学の考え方はそれとは逆です。道徳は人間性を高めるものとされます。悪が存在するのは、道徳に背く人間の意志のせいです。したがって、みんなが自分の意志を正しくすれば悪はなくなるはずです。アリストテレスやカントは、人間は最高善を目指すべきだと説きました。

私は、人間性は変えられないので道徳を変えるしかないという考えです。
とはいえ、漠然と考えているだけでした。

そうして私は、道徳とはなにか、善とはなにか、悪とはなにかということを愚直に考え続けました。すると、あるとき答えがひらめいたのです。その瞬間、思わず「エウレカ!」と叫んで走り出しそうになったのを覚えています。
ひらめいた答えは、コペルニクスによる地動説の発見に似ているので「道徳観のコペルニクス的転回」と名づけました。
これは人類史上画期的な発見と思えました。

ただ、この答えは世の中の常識と正反対です。不用意に表現したのでは、天動説が信じられている世の中で「太陽が動いているのではない。地球が動いているのだ」と叫ぶみたいなもので、今の時代は宗教裁判こそありませんが、狂人扱いされるか無視されてしまいそうです。

そこで、とりあえずこのブログを始めました。「道徳観のコペルニクス的転回」をベースにして時事問題を論じるというものです。
ときどき「道徳観のコペルニクス的転回」にも直接言及して、反応を見ましたが、常識とまったく違うことですから、やはり理解されないようです。
つまり小出しにしては常識に負けてしまいます。常識と正面から戦って、打ち勝たないといけないのです。

というわけで、「道徳観のコペルニクス的転回」をまとまった形で表現したのが新しいブログというわけです。
ほぼ一冊分の本の内容が最初から入っています。


なお、最初に「私の思想」と言いましたが、ほんとうは「思想」ではなく「科学上の理論」といいたいところです。

思想は無力なものです。ミシェル・フーコーは『監獄の誕生』において、監獄と学校をどちらも一望監視システムによって管理されていると論じましたが、この説が教育界に影響を与えた節はみじんもありません。
「道徳観のコペルニクス的転回」も思想として提出したのでは無視されるので、科学上の理論として認定されるように工夫しました。
これが科学として認定されれば、水戸黄門が悪人たちに葵の御紋の印籠を掲げるように、ヴァン・ヘルシング博士がドラキュラに十字架を突きつけるように、私は反対する人たちに対して、「これは科学だ」と主張するだけで黙らせることができます。
もちろん私一人が「これは科学だ」と主張しても意味がないので、進化生物学者を中心とする科学者の参加を待ちたいところです。

わかりやすく書いたので、ぜひ「道徳観のコペルニクス的転回」をお読みください。


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「親ガチャ」という言葉がはやっています。

「親ガチャ」とは、どういう親のもとに生まれてくるかで子どもの人生が決まってしまうという意味の言葉です。
「ガチャ」は課金ゲームの用語からきていますが、商店の店頭などによくあるガチャガチャと同じことです。どんなカプセルが出てくるかは運次第です。

金持ちの親のもとに生まれるか、貧乏な親のもとに生まれるかで、人生は大違いです。
愛情ある親のもとに生まれるか、子どもを虐待する親のもとに生まれるかでも同様です。
これらを一言でいえば「環境」要因となります。

そしてもうひとつ、「遺伝」要因もあります。親の知能が高ければ、子どもの知能も高いだろうということがある程度言えます。運動能力、性格、健康などもある程度遺伝で決まります。

つまり「人生は環境と遺伝で決まる」ということがいえます。
「親ガチャ」はこのことをわかりやすく表現した言葉で、当たり前の内容ですが、今、流行語になっているのにはいくつかの理由があります。


「人生は環境と遺伝で決まる」といっても、実際は環境重視派と遺伝重視派がいます。
環境重視派は、人間は生まれたときはみな同じようなもので、環境によって変わってくると考えます。ですから、貧乏な子には奨学金などを出し、虐待されている子には福祉を手厚くし、学校から落ちこぼれをなくせば、みんなが同じ人生のスタートラインに立てて、平等な社会になるだろうと考えます。
環境重視派は教育界の主流であり、左翼、リベラルに多くいます。

一方、遺伝重視派は、人間は生まれつき能力が違うので、学校は能力別クラス編成や飛び級によって子どもの能力を引き出すものにし、能力のない子どもを引き上げる努力をするのはむだだと考えます。
遺伝重視派は新自由主義とだいたい一致します。

以前は環境重視派と遺伝重視派がそれなりに拮抗していましたが、脳科学や認知科学や進化生物学が人間には遺伝的要素が大きいということを次々と明らかにして、最近は遺伝重視派が優勢になっています。
「人間の能力は遺伝でだいたい決まる」という認識が「親ガチャ」流行の背景にあると思われます。


それから、「環境」要因が変化しました。
トマ・ピケティは著書『21世紀の資本』において、資本主義社会では一般的に「資本収益率>経済成長率」という法則が成立すること、つまり資産家の収入の増加は労働者の収入の増加よりも大きいということを膨大なデータから明らかにしました。資産は子どもに相続されるので、大規模な戦争や革命がない限り、資産家階級と労働者階級の貧富の差は限りなく拡大していくことになります。この理論によって世界的に貧富の差が拡大している現実が可視化されました。
戦後間もないころの日本は、貧しい家に生まれても、成功して金持ちになる可能性がいくらかありましたが、今は社会階層が固定化して、労働者の親のもとに生まれるとたいていずっと労働者で、へたをすると親よりも賃金が下がります。

このことも「親ガチャ」という言葉が流行する背景です。


世の中には「親ガチャ」という言葉を嫌う人もいます。
ちょっとふざけた感じのする言葉だということだけでなく、自分の不幸を親のせいにしているということからです。

確かに「自分になんの才能もないのは親の遺伝のせいだ」と言う人は(それが事実だとしても)、「親ガチャ」という言葉を使って後ろ向きになっているだけです。
しかし、親に虐待されたような人は、それを正しく認識することが前を向いて歩きだすために必要ですから、「親ガチャ」という言葉が助けになるでしょう。

また、「親ガチャ」という言葉を嫌う人には、「人生は環境と遺伝だけで決まるわけではない。努力次第だ」という考えの人もいます。
これは、人間には環境や遺伝に左右されない「自由意志」があるという考え方です。

マルクス主義は唯物論ですから、人間も自然法則に従う存在と見なして、自由意志は否定します。
貧困は社会体制や福祉制度の問題ととらえます。

しかし、普通の人は、自分は自然法則に支配されているのではなく、素朴な実感として自分は自分の意志で行動していると思っています。つまり自由意志を肯定しています。
こういう人は当然、貧乏な人には努力しない人や怠け者が含まれているだろうと思います。
新自由主義もこうした考えを後押しします。
そのため生活保護の窓口などで、努力する人か努力しない人か、働き者か怠け者かを識別しようということが行われたりします。しかし、これには客観的な基準がないので、福祉の現場が混乱するだけです。

しかし、今では学問の世界では自由意志は非科学的だとして否定されています。文系の学者でも自由意志を肯定する人はいないはずです(竹中平蔵氏は「若者には貧しくなる自由がある」と発言したことがありますが)。
「親ガチャ」という言葉には、「人生は努力次第だ」というような非科学的な考え方への反発も込められていそうです。


ところで、「親ガチャ」という言葉がどこから出てきたのかよくわかりませんが、流行のきっかけはマイケル・サンデル著『実力も運のうち 能力主義は正義か?』と橘玲著『無理ゲー社会』の出版ではないかと思います。

『実力も運のうち 能力主義は正義か?』は、格差社会の原因を能力主義やリベラル、果てはオバマ元大統領にまで求めています。白人であるサンデル氏のオバマ氏への敵意でしょう。そもそもリベラルに格差社会をつくれるわけがありません。

『無理ゲー社会』は、おそらく『実力も運のうち 能力主義は正義か?』の骨格をパクったもので、格差社会の原因をリベラルに求めるのは同じです。そこに著者得意の「遺伝」を組み合わせています。
今の社会を若者や下層階級にとって無理ゲー社会ととらえるのはいいのですが、そういう社会のルールをつくれるのはリベラルであるはずがなく、支配階級しかありません。

この二冊は格差社会問題を改めて考えさせましたが、かえって混乱を深めています。


「親ガチャ」によって子どもの幸福が決まってしまう世の中は好ましくありません。
これをなんとかするには、「遺伝」はどうしようもないので、格差社会を解消することです。


あと、「子ガチャ」という言葉をいう人もいます。つまり親は子を選べないという意味で、「親ガチャ」に対抗する言葉です。
しかし、「子ガチャ」はありえません。
というのは、配偶者を選んで子どもを生むと決めた時点で、どんな子どもが生まれてくるかはある程度想定できるからです(障害のある子が生まれてくる可能性も考慮したはずです)。
「子ガチャ」を言うのは、自分と配偶者に唾する行為です。

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ヘイトスピーチ、誹謗中傷、自粛警察、感染者差別など、社会から寛容さが失われていると感じる人は多いでしょう。
では、寛容さを取り戻すにはどうすればいいかというと、誰もその方法を示すことができません。

ヘイトスピーチをする人に対して、「マイノリティに対して寛容になるべきだ」と主張すると、「その主張はヘイトスピーチをする人に対して寛容ではない」という反論がしばしばなされます。
これは「寛容のパラドックス」と言い、カール・ポパーが名づけました。
ポパーは「寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容に不寛容であらねばならない」という結論に達しましたが、見た目が矛盾しているので、この論理で社会を寛容にするのは困難です。

しょっちゅう夫婦喧嘩をしている人は寛容さが足りないといえるでしょう。
本人が寛容さが足りないことを自覚して、寛容になろうとしても、具体的にどうやればいいかわからないので、なかなか夫婦喧嘩も止められません。

「寛容」を国語辞典で引くと、「心が広くて、よく人の言動を受け入れること。他の罪や欠点などをきびしく責めないこと」とありますが、漠然としています。

ウィキペディアによると、「寛容」という概念は、ヨーロッパで宗教改革が起きて宗教対立が激化したために重要視されるようになったということです。
その後、宗教対立以外にも広く寛容のたいせつさが説かれるようになり、宗教的寛容と道徳的寛容として区別する考え方もあります。
日本では宗教対立はそれほど深刻でなかったので、もっぱら道徳的寛容という意味で「寛容」という言葉が用いられていることになります。


道徳的寛容の典型的な物語は「レ・ミゼラブル」(ヴィクトル・ユーゴー著)です。
主人公のジャン・ヴァルジャンはたった1個のパンを盗んだために19年間も服役し、すっかり心がすさんでいました。あるとき泊まった教会の司教は彼を暖かく迎えてくれましたが、彼は教会の銀の食器を盗んで逃げ出し、憲兵に捕まります。しかし、司教は「食器は私が与えた」と言って彼をかばい、さらに2本の銀の燭台も与えます。司教の寛容さに触れたジャン・ヴァルジャンは回心し、ここから長い物語が始まります。これは寛容の連鎖の物語です。

身近なことでよくあるのは、学生のカンニングが発覚して、規定によると単位取り消しで留年になるが、その学生は就職も内定していて、留年させても誰も得しないという場合、担当の教授がカンニングを不問にするというようなことです。
あるいは、商店で万引きした子どもが常習でもなさそうな場合、警察に通報しないで許してやるということもよくあります。

これらが典型的な寛容の例ですが、その特徴を一言でいうと「悪を許す」ということになります。
これは道徳や法律に反するので、社会的に許されません。

教授が学生のカンニングを見逃したことが公になれば、教授も学生もバッシングを受けます。誰も損していないといっても、カンニングをしないまじめな学生に対して不公平だということはあります。
万引きの子どもを見逃したことが知られると、「盗みはいけないことだとわからせるべきだ」といった批判が起きます。

つまり寛容というのは道徳と正面衝突するのです。
「寛容の美徳」という言葉があるので、寛容は道徳の一部と理解されているかもしれませんが、それは誤解です。

道徳というより勧善懲悪と言ったほうがいいかもしれませんが、どちらでもたいした違いはありません。

勧善懲悪は一般に物語の中の原理として理解されています。
有効に機能するのは物語の中だけだからです(もちろん有効に機能するように物語がつくられているのです)。

司法も勧善懲悪を採用しています。悪に対する対症療法として一時的には有効だからです。

マスコミも勧善懲悪を採用しています。読者や視聴者を満足させるからです。

しかし、対症療法だけでは病気が進行してしまうかもしれません。
根本療法(原因療法)が必要ですが、それに当たるのが寛容です。

寛容は心理カウンセリングに似ています。
悪から立ち直るのは本人の力によるという考え方です。
このやり方は、時間はかかっても事態を改善させます。
勧善懲悪は力でその人間を変えようとすることで、目先はうまくいっても、事態をさらに悪化させる可能性があります。

現在、少年法改正による厳罰化が進められようとしていますが、一方で少年の更生に厳罰化はよくないという声もあります。
これは勧善懲悪対寛容の構図と見なすと、よくわかるでしょう。


現在は勧善懲悪の原理が社会をおおっています。
寛容もたいせつなこととされますが、具体的に悪を許すことをすると、社会から非難されます。つまり総論賛成各論反対なのです。
ですから、カンニングや万引きを見逃すといったことは、あくまで隠れて行われています。

最近はマスコミやネットの議論が勧善懲悪の傾向を強めていて、寛容の実行がますます困難になっています。
寛容の復権を目指す人は、ポパーの「寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容に不寛容であらねばならない」というようなおかしな理屈は無視して、勧善懲悪の原理を敵と見なして戦うべきです。

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