村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

カテゴリ: 科学的倫理学入門

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子どもがよく嘘をつく。どうしつけたらよいか――というのは、子育てでよくある悩みです。
ネットで調べてみると、簡単にいくつも見つかります。
【相談内容】子供の嘘がどんどんエスカレート
『最近、小学3年生の息子がすぐに嘘をつきます。昔に比べて嘘の内容がどんどん巧妙になってきており、性格に問題があるのではないかと心配です。宿題をやったか、ゲーム時間や門限を守ったのか聞いても嘘ばかり。それを叱ると屁理屈ばかり言ってプチ逆切れの状態になり、ほとほと困ってしまいます。

ワーキングマザーのため、放課後は子供と一緒にいてあげることが出来ません。それが悪影響なのでしょうか? また、嘘をついた場合、厳しく叱ったり罰したりしたほうがいいのでしょうか?』
(相談者:神奈川県 40代 NANA)
https://allabout.co.jp/gm/gc/462867/
嘘をつく子供へのしつけ
2018/04/12 13:58
4年生の娘がいます。
嘘、隠し事が多すぎて困っています。
これまでも優しく諭してみたり、がっかりしたことを伝えてみたり、キツくしかってみたり、罰を与えてみたりといろいろ試しましたが、その場は反省したように見えても、結局治っていません。癖になってしまっているようです。
嘘の内容は家のルールを破ったことを隠す程度で、誰かを傷つけるようなものではないと思ってますが…
真顔で嘘をつき、隠し事にも後ろめたさがないような感じで、とても心配です。
バレなければルールは破ってもいいと認識してしまっているようにも見えます。
こう育てたのは親の責任でもあると重々承知なのですが…一度根本的なところを諭したい、ルールを破るより嘘をつく方がいけない事だと理解させたいです。口では何度か伝えましたが変わらず…いいアイデアはないでしょうか?また、みなさんはどうしますか?
https://okwave.jp/qa/q9487766.html


「嘘をついてはいけない」というのは、もっとも基本的な道徳だと思われているかもしれません。
しかし、それは間違いです。

ちなみに「嘘をついてはいけない」という法律はありません。
偽証罪があるではないかと思われるかもしれませんが、偽証罪というのは法廷や国会の証人喚問において宣誓した証人が嘘をついた場合にのみ適用されるものです。
詐欺罪はありますが、これは相手をだまして財物や財産上の利益を得た場合に適用され、単に相手をだましただけでは罪になりません。

逆に法律では「ほんとうのことでも言わなくていい」という規定があります。
日本国憲法第三十八条には「何人も、自己に不利益な供述を強要されない」とありますし、刑事訴訟法第311条1項には「被告人は、終始沈黙し、又は個々の質問に対し、供述を拒むことができる」とあります。
つまり黙秘権です。

しかし、黙秘権が認められない状況もあります。
たとえば、フランスのレジスタンスがナチスのゲシュタポに捕まって、「仲間の居場所を知っているだろう。白状しろ」と迫られ、黙秘すると拷問されるとします。
そんな場合、「知らない」と言ったり、虚偽の居場所を教えたりするのは嘘ですが、道徳的に許される嘘です。


日常生活では、「黙秘します」と言うと、それが答えになることがあります。

妻「浮気したでしょう」
夫「黙秘します」

芸能記者「彼氏はいますか」
アイドル「黙秘します」

こんな場合は、黙秘する代わりに「浮気はしていない」「彼氏はいません」と嘘をつくしかありません。
つまり日常生活では、自己に不利な供述を拒むためには、黙秘権だけではなく、嘘をつく権利も必要なのです。

基本的人権として、黙秘権がある以上、嘘をつく権利もあるということを理解しなければいけません。



子どもが嘘をつくことで悩んでいる親は、子どもには嘘をつく権利があると思えば、そんなに悩まなくなるでしょう。
そして、自分がゲシュタポ化しているのではないかという反省も生まれるはずです。

悩み相談には子どもがどんな状況で嘘をつくのかは具体的に書いてありませんが、容易に想像はつきます。

「宿題やった?」
「やってない」
「だめじゃない! 何回言ったらわかるの。ゲームばっかりやってないで、早くやりなさい」

子どもがほんとうのことを言うと叱られるということが繰り返されると、子どもは嘘をついて、叱られることを回避しようとします。
嘘はいずれバレるとしても、とりあえず叱られる苦痛から逃げることができます。
嘘をついてはいけないと叱っても同じです。子どもはより巧妙な嘘をつこうとして、逆効果になります。

子どもが嘘をつくというとき、親は自分が取調官のようになっているのではないか、叱りすぎる親になっているのではないかと反省する必要があります。


アメリカ初代大統領のジョージ・ワシントンが子どものころ、父親がたいせつにしていた桜の木を誤って切ってしまい、父親に「この木を切ったのは誰か」と聞かれたとき、正直に「僕が切りました」と答えたところ、父親は叱らずにその正直さをほめたという話があります(これは史実ではないとされています)。
この話は、子どもに正直のたいせつさを教える話としてもっぱら利用されています。正直になると将来ワシントンのような偉大な人物になるかもしれないということです。
しかし、この話はむしろ親に対して、正直な子どもに育てるにはどうすればいいかを教える話として利用するのが正しい利用法です。
世の親がみんなジョージ・ワシントンの父親のようになれば、嘘をつく子どもはほとんどいなくなります。




嘘には大別して、利他的な嘘と利己的な嘘があります。

利他的な嘘というのは、相手を傷つけないための嘘です。
たとえば、昔は医者が患者にガンを発見したとき、とりあえず嘘をつくのが一般的でした。
「いくつに見えますか」と聞かれたとき、思った年齢より若く言うとか、最近趣味で始めたという油絵を見せられたとき、「下手ですね」と言わないようにするとか、相手を傷つけないための嘘は日常的に存在して、これらは肯定される嘘です。
ですから、「嘘をついてはいけない」というのは根本的に間違っています。

ただ、利他的な嘘というのは少なくて、ほとんどの嘘は利己的な嘘です。
利己的な嘘というのは、相手をだまして利益を得るための嘘です。
悪質なものは詐欺ということになりますが、ハッタリの嘘、虚栄の嘘、自慢の嘘など、利己的な嘘はあらゆる場面にあります。
よいことと悪いことがあるとき、よいことだけを言うというのも、広い意味での嘘かもしれません。
就活や婚活のとき、誰でも嘘を駆使して自分をよく見せようとします。

人間の生活は嘘まみれです。
そのことを理解すれば、子どもに対して「嘘をついてはいけない」などと言わなくなり、寛容な親になれるはずです。

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自民党広報がつくった四コマ漫画が、進化論を根拠にして改憲を訴えたために物議をかもしています。

これは「教えて!もやウィン」というタイトルの四コマ漫画のシリーズで、現在、第1話「進化論」3編、第2話「憲法とは」3編が公開されています。
登場人物は「ケント」「ノリカ」「もやウィン」の3人で、ダーウィンを模した「もやウィン」があとの2人に憲法について講義するという形式です。

進化論を根拠にして社会問題を論じるのは、基本的に全部だめですが、この漫画はそれ以前の間違いを犯しています。

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ここには三つの問題が指摘できます。

第一に、ダーウィンは「唯一生き残ることが出来るのは変化できる者である」などとは言っていません。
ケンブリッジ大などによる研究班「ダーウィン・コレスポンデンス・プロジェクト」によると、この言葉は有名な六つの誤用例のひとつで、米ルイジアナ州立大の教授が1963年、ダーウィンの著作「種の起源」から誤って引用したのが始まりということです。

ダーウィンの発言でない
https://www.darwinproject.ac.uk/people/about-darwin/six-things-darwin-never-said#quote1

第二に、ダーウィンがこの言葉を言おうが言うまいが、内容が間違っています。
変化することで生き残る場合もありますが、変化する方向が違えば生き残れない場合もあり、変化しないことで生き残る場合もあります。

第三に、進化論は進化のメカニズムを説明するだけで、それを根拠に社会のあり方や人間の生き方を論じるのは間違っています(これはあとで説明します)。


こうした批判に対する自民党の対応はというと、朝日新聞の記事によると、『自民党の広報本部は「憲法改正について、国民の皆様にわかりやすくご理解していただくために、表現させていただきました」と回答した』ということで、どうやら訂正などは行わないようです。

自民党の二階俊博幹事長は6月23日の記者会見で「何を言っても、そういうご意見が出るところが民主主義の世の中であって、この国の良さだ。おおらかに受け止めていったらいいんじゃないか」「学識のあるところを披瀝したのではないか。ダーウィンも喜んでいるでしょう」と言って、やはり批判には対応しない態度です。

進化論についてはいろいろな考え方があるかもしれませんが、ダーウィンがその言葉を言ったか否かは事実に関することですから、間違いは認めて訂正しなければいけません。
公文書改ざん、虚偽答弁、記録廃棄を続けてきて、自民党は平気で事実を軽視する体質になったようです。


もっとも、自民党が訂正しない理由がわからないでもありません。
この漫画シリーズは、ダーウィンを模した「もやウィン」が講師役となって改憲の必要性を講義するもので、第1話が「進化論」となっていますから、そこの間違いを認めてしまうと、シリーズの根幹が成り立たなくなってしまいます。

ということは、自民党はこのシリーズそのものをやめるしかないのではないでしょうか。


科学を軽視するのは自民党の体質かもしれません。
麻生財務相は、日本では新型コロナウイルスによる死亡率が低いとした上で、外国首脳とのやりとりについて、「『お前らだけ薬持っているのか』とよく電話かかってきたもんですけども、『おたくとは、うちの国とは国民の民度のレベルが違うんだ』っていつも言って、言ってやるとみんな絶句して黙るんですけど、そうすると後の質問が来なくなるんで、それが一番簡単な答えだと思って」と語りました。
相手は死亡率が低い科学的な理由を知りたがっているのに、「国民の民度が違う」と答えて得意になっているところに科学軽視が現れています。

安倍首相も緊急事態宣言解除をするときの記者会見で、「日本モデルの力を示した」と語りましたが、これも同じです。「日本モデル」はどういうものかを具体的に示し、外国で応用する方法を示すぐらいでないといけません。

首相や国会議員が靖国神社に参拝したり、森元首相が「日本は神の国」と発言したり、教育勅語をありがたがったりと、自民党には科学的、合理的とは言えない傾向が昔からあります。



進化論やダーウィンの権威を利用するのは、自民党に限らず社会ダーウィン主義者や優生思想の持主がよくやることです。
もっとも、これについてはダーウィンの側に多くの責任があります。

「優生学」という言葉をつくったフランシス・ゴルトンは、ダーウィンのいとこにあたります。ダーウィンは著作の中で何度もゴルトンの説に言及しているので、優生思想に共鳴していたと見なしても間違いではないでしょうし、社会ダーウィン主義とほぼ同じ考えも有していました。
それはダーウィンの次の文章からも明らかです。

人類の福祉をどのように向上させるかは、最も複雑な問題である。自分の子どもたちが卑しい貧困状態に陥ることを避けられない人々は、結婚するべきではない。なぜなら、貧困は大きな邪悪であるばかりか、向こう見ずな結婚に導くことで、それ自体を増加させる傾向があるからである。一方、ゴールトン氏(引用者注・フランシス・ゴルトンのこと)が述べているように、慎み深い人々が結婚を控え、向こう見ずな人々が結婚したならば、社会のよくないメンバーが、よりよいメンバーを凌駕することになるだろう。人間も他の動物と同様に、その速い増殖率からくる存続のための争いを通じて、現在の高い地位に上ったことは疑いない。そして、もしも人間がさらなる高みへと進むべきなのであれば、厳しい競争にさらされ続けていなければならない。そうでなければ、人間はすぐに怠惰に陥り、より高度な才能に恵まれた個人が、そうでない個人よりも、存続のための争いで勝ち残るということはなくなってしまうだろう。(ダーウィン著「人間の由来/下」講談社学術文庫490ページ)



ダーウィンにおいては、進化論も優生思想も社会ダーウィン主義もいっしょでした。
そのため進化論が社会に広がるとともに優生思想と社会ダーウィン主義も広がっていったわけですが、弱肉強食、弱者切り捨ての社会はよくないという反省が起き、進化論から優生思想と社会ダーウィン主義を切り離そうという動きが起きました。

そこで利用されたのが「ヒュームの法則」です。
ウィキペディアにはこう説明されています。

ヒュームの法則(ヒュームのほうそく、Hume's law)、またはヒュームのギロチン(Hume's guillotine)とは、「~である」(is)という命題からは推論によって「~すべき」(ought)という命題は導き出せないという原理である。


進化論のような科学が明らかにするのは「ある」という事実であって、そこから「べき」という価値観や思想を導くことはできないということです。

この説は18世紀半ばのものですが、G.E.ムーアは20世紀初めに同様の説を唱え、「ある」から「べき」を導くことを「自然主義の誤謬」と名づけました。

「ヒュームの法則」と「自然主義の誤謬」は一体となって使われます。
たとえば、「生物は生存闘争をする」ということを根拠に「人間は生存闘争をするべきである」と主張すると、それは「ヒュームの法則」に反するとされ、「自然主義の誤謬」と呼ばれて葬り去られます。
脳科学の知見をもとに社会のあり方を論じたりするのも、たいてい「自然主義の誤謬」だとされます。

このやり方はたいへん有効なので、「ヒュームのギロチン」と呼ばれるようにもなりました。


ところで、デイビッド・ヒュームは、「法則」と呼べるほどこのことを強く主張したわけではありません。おそらく本人は軽い気持ちで書いただけでしょう。
その部分を引用します。


どの道徳体系ででも私はいつも気がついていたのだが、その著者は、しばらくは通常の仕方で論究を進め、それから神の存在を立証し、人間に関する事がらについて所見を述べる。ところが、このときに突然、である、ではないという普通の連辞で命題を結ぶのではなく、出会うどの命題も、べきである、べきでないで結ばれていないものはないことに気づいて私は驚くのである。この変化は目につきにくいが、きわめて重要である。なぜなら、このべきである、べきでないというのは、ある新しい関係、断言を表わすのだから、これを注視して解明し、同時に、この新しい関係が全然異なる他の関係からいかにして導出されうるのか、まったく考えも及ばぬように思える限り、その理由を与えることが必要だからである。(ヒューム著「人性論」中公クラシックス188-189ページ)


要するに、「である」と「べきである」を区別しない著者がいるのを見て驚いたと述べているだけです。
ただ、「ある」と「べき」を対比するというやり方はおそらく初めてであり、いい発想だったとは言えます。

ムーアはこの古い説を引っ張り出し、「倫理学原理」という著作で「自然主義の誤謬」という言葉をつけて世の中に出したところ、世の中のニーズに合って、つまり進化論から優生思想や社会ダーウィン主義を切り離したいという人が多くいたために、「ギロチン」と言われるまでになったと思われます。


現在、進化論をもとに社会問題を論じると「自然主義の誤謬」だとされるので、そういうことはほとんどなくなりました。

進化論をもとに優生思想を主張するのも「自然主義の誤謬」として否定されます。
ただ、進化論と無関係に優生思想を主張するのは、人権思想で否定するしかありません。人権思想の強度が試されることになります。


ダーウィンは社会ダーウィン主義者で優生思想の持主であっただけでなく、人種差別主義者でもありました。
それは次の文章からも明らかでしょう。

未開人は女性の意見を尊重しないので、たいていの場合、妻は奴隷と同じように扱われている。ほとんどの未開人は、赤の他人の苦難にはまったく無頓着で、むしろそれを見るのを喜ぶ。北アメリカのインディアンでは、敵を拷問するのに女子どもも手伝ったということはよく知られている。未開人のなかには、動物を残酷に扱うことに恐ろしい喜びを感じるものがあり、彼らの間では、慈悲などという美徳はまったく存在しない。(「人間の由来/上」124ページ)



現在、アメリカでは奴隷の所有者であったなどの理由で歴史上の偉人の像が引き倒されていますが、ダーウィンの像が引き倒されても少しも不思議ではありません。

自民党広報の「教えて!もやウィン」は、ダーウィンの言ってもいない発言を持ち出し、進化論を曲解していますが、それ以前に、ダーウィンを模した「もやウィン」から改憲のような社会問題について講義を受けるという設定自体が間違っています。

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アメリカの民主党の大統領予備選挙で、ウォール街への課税や公立大学の無償化などを掲げるバーニー・サンダース候補が善戦しています。
アメリカのアカデミー賞では、韓国の格差社会を描いた「パラサイト 半地下の家族」が作品賞を受賞し、ニューヨークを模したゴッサムシティの格差社会を描いた「ジョーカー」も過去最多の16部門でノミネートされ、主演男優賞などを受賞しました。
どうやらアメリカでは格差社会問題が大きなトレンドになっているようです。

格差社会問題とはなんでしょうか。


昔、社会主義思想にまだ力があったころは、よく「富める者はますます富み、貧しき者はますます貧しくなる」と言ったものです。
この言葉は、新約聖書のマタイによる福音書に「持っている者は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない者は、持っているものまで取り上げられるであろう」と書かれていることからきているので、「マタイの法則」とも呼ばれます。
しかし、この言葉は誇張だったようです。

トマ・ピケティは2013年に著した「21世紀の資本」において、資本主義社会では一般的に「資本収益率>経済成長率」という法則が成立すること、つまり資産家の収入の増加は労働者の収入の増加よりも大きいということを膨大なデータから明らかにしました。つまり、「富める者はますます富み、貧しき者は少ししか富まない」というのが正しいということです。
この法則が成立すると、大規模な戦争や革命がない限り、富める者と貧しき者との差はどこまでも拡大していくことになります(ですから、「貧しき者はますます貧しくなる」は実感としては正しいかもしれません)。

この法則のもとでは、親から多くの資産を受け継ぐ者は少なく受け継ぐ者よりも豊かになるので、生まれによって社会階層が決まる傾向が強まり、階級社会化が進むことになります。

「21世紀の資本」は世界的なベストセラーになり、とくに否定や反論はされていません。
「資本収益率>経済成長率」の法則は、格差社会の実態を可視化しました。
最近、格差社会問題が注目されるようになったひとつの原因です。


多くの人は、格差がどんどん拡大していくことは好ましくないと思うでしょう。
ピケティも富裕層への課税強化を国際的に連携して行うべきだと提言しています。

しかし、格差社会を肯定したい人もいます。
これまで格差社会を肯定したい人は、「貧富の差は能力の差である」という説に依拠してきました。「能力のある者が多くの収入を得るのは当然だ」という主張には、それなりの説得力があります。しかし、人間の能力というのは基本的に一定なので、貧富の差が年々拡大していくことは、能力の差によっては説明できません。

そこで最近は、「貧富の差は努力の差である」という説が採用されています。「努力した者が多くの収入を得るのは当然だ」ということです。裏を返せば、「貧困層は努力しない者だ」ということです。
努力やそれに類する概念は、誰もが日常会話の中で、「お前は努力が足りない」とか「もっとがんばれ」とか「やる気を出せ」というように使っているので、「貧富の差は努力の差である」という説は、賛成反対は別にして、誰でも理解できます。そのため、「貧富の差は努力の差である」という説は、世の中に一定の広がりを見せています。とりわけ福祉制度を攻撃する際に、「怠け者に税金を使うな」という形でこの説が利用されています。

この説によれば、世の中には努力する人間と努力しない人間がいることになります。
その違いはどこからくるのかというと、「自由意志」によるとされます。

自由意志とはなんでしょうか。
自由意志のひとつの意味は、「人為による強制・支配・拘束を受けない状況での意志決定のあり方」をいいますが、このことは問題ではありません。
もうひとつの意味は、「自然法則や自然界の因果律の影響を受けない状況での意志決定のあり方」をいい、このような意志決定が可能かどうかについては、昔から哲学上の問題として議論されてきました。

ですから、「お前が貧乏なのは努力しないせいだ」とか「怠け者に税金を使うな」と主張する人に反論しようとすると、哲学論議をしなければなりません。
しかし、哲学論議というのは、いくらやっても結論が出ないので、余裕のある人が暇つぶしでするものです。格差社会をどうするかという切実な問題に直面しているときにやっていられません。

そのため、「お前が貧乏なのは努力しないからだ」とか「怠け者に税金を使うな」という主張に対しては誰も正面から反論せず、その主張が通った格好になります。
その結果、自由意志を前提とした主張が世の中を支配しています。

たとえば、「アメリカンドリーム」というのは、恵まれない環境にいる人間でも努力すれば夢がかなえられるというものです。したがって、いつまでも貧しい人間は、努力しない者だということになります。

竹中平蔵教授は、貧乏になるのも自由意志だと主張しました。

私が、若い人に1つだけ言いたいのは、「みなさんには貧しくなる自由がある」ということだ。「何もしたくないなら、何もしなくて大いに結構。その代わりに貧しくなるので、貧しさをエンジョイしたらいい。ただ1つだけ、そのときに頑張って成功した人の足を引っ張るな」と。
以前、BS朝日のテレビ番組に出演して、堺屋太一さんや鳥越俊太郎さんと一緒に、「もっと若い人たちにリスクを取ってほしい」という話をしたら、若者から文句が出てきたので、そのときにも「君たちには貧しくなる自由がある」という話をした。
https://toyokeizai.net/articles/-/11927?page=2

経済学は経済人や合理的経済人という人間観をもとにした学問なので、みずから貧しくなる人間というのは想定されません。経済学者とは思えない発言です。
しかし、こんな暴論でも、議論して言い負かすことはむずかしいので、なんとなく通ってしまいます。

ちなみに「自己責任」というのも、自由意志を前提としています。最善の判断をすることができたのに、悪い判断をして悪い結果を招いたのだから、その結果は全部自分で負えということです。

刑事司法の世界も自由意志を前提としています。
「犯意」は基本的に自由意志と見なされ、自由意志によらない部分については情状酌量が認められますが、その部分はわずかです。中世の人は、水たまりや汚物などからボウフラやウジ虫が文字通り“わく”と信じていたといいますが、犯意も外部と無関係にその人間の心の中から“わく”とされるので、それと同じです。刑事司法の世界はいまだに中世段階です。
脳科学の進歩により、凶悪犯の脳に異常があることが多いという事実がどんどん明らかになっていますが(たえばジョナサン・H. ピンカス著「脳が殺す―連続殺人犯:前頭葉の“秘密” 」など)、そうした科学の成果が裁判に取り入られることはありません。

ちなみに昔の社会主義者は、社会の矛盾が犯罪を生むので、貧困をなくし福祉を充実させれば犯罪をへらすことができると考えていました。

マルクス主義は唯物論ですから、人間の意志決定は脳という物質の働きによるとされ、社会も自然法則に従って変化するとされます。当然、自由意志などは認めません。「存在が意識を規定する」という言葉が端的にそれを表現しています。


仏教思想も、人間を自然法則に従う存在と見なします。
仏教思想の核心は次の三行で表現されます。

諸行無常
諸法無我
涅槃寂静

これを私なりに現代語にすると、次のようになります。

すべてのものは変化する。
変化の法則を人間が左右することはできない(人間もまた法則に従い変化する)。
そのことを理解すれば静かな安らぎの境地に至れる。

こんな理解で静かな安らぎの境地に至れるとは思えないので、この理解は浅すぎるのでしょう。あくまで自然法則と人間の関係について私なりに解釈したということです。


このような議論はすべて哲学上のものです。
すでに述べたように、これはいくら議論しても結論が出ません。
ですから、ここは“科学”の観点を導入する必要があります。

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人間を科学の視点で見ることは、ダーウィンが進化論を発表したときから始まりました。これは「ダーウィン革命」とか「第二の科学革命」と言われます。

ダーウィン革命がどのようなものであったかは、次の文章がわかりやすく示しています。


ダーウィニズムはたんに神を殺害しただけではなく、「神の死」以後の西欧の新しい価値観を再創造するうえでも、これまたけっして小さくない役割を果たすことになる。
すなわち十九世紀後半の西欧の歴史観、世界(自然)観、人間観、道徳観は、そのすべてがいったんキリスト教的基盤をうしなったのちに、進化論的基盤のうえにおきなおされるのである。終末論的歴史観から進化主義的歴史観へ、超自然的世界観から自然主義的世界観へ、アダムに由来する人間というキリスト教的人間観から類人猿に由来する人間という進化論的人間観へ、キリスト教道徳から進化論的道徳へ――ふつう「ダーウィン革命」と呼ばれる思想的革命は、そのような意味において十九世紀末にニーチェが告知した「あらゆる価値の価値転換」の重要な一部分と見なされなければならないであろう。(丹治愛著「神を殺した男」)

ダーウィン自身はまったく革命的な人間ではありませんでした。宗教に関しても、若いころは神学校に進んで将来は牧師になろうと思ったくらいで、普通程度の信仰心を持っていました。しかし、進化論を思いついたことで唯物論へと向かうことになります。

このような、彼が言うところの「心的暴動」は、自然界に霊的または神的な力は存在せず、ただ物質があるのみとする哲学的教養である物質主義の道へ、彼を導いていった。もしもすべてのものの創造を否定するならば、人間はどこに位置し、救済の望みはどこへ行くのだろう? われわれの思考は、単に脳の分泌物ではないか、と彼は断言した。「ああ、なんという物質主義者!」と彼は叫んだ、半ば自分自身の大胆さに感激しながら。(ジャネット・ブラウン著「ダーウィンの『種の起源』」)


ダーウィンが「種の起源」を発表すると、古い体制と古い価値観を打ち壊そうとしていた革命家はこぞって歓迎しました。

カール・マルクスはダーウィンとほぼ同時代人です(ダーウィンは1809年生まれ、マルクスは1818年生まれ)。マルクスは「種の起源」を読んで感銘を受け、「資本論」の第一巻をダーウィンに献本しています。原始共産制、奴隷制、封建制、資本制、共産制へと社会が進化していくという唯物史観は、明らかに進化論の影響でしょう。
無政府主義者のピョートル・クロポトキン(1842年生まれ)はダーウィンの進化論の強い影響を受けましたが、進化論が生存闘争の原理を強調することに疑問を抱き、相互扶助の原理の重要性を説いて、「相互扶助論」を著しました。
日本でも、無政府主義者の大杉栄は、「種の起源」の翻訳をしています。

社会主義者の幸徳秋水は、「生存競争と社会主義」という文章で、このように述べています。
ダーウィン氏の生物進化の学説が、ひとたび発表されて、旧来の科学とたたかい、哲学とたたかい、宗教とたたかいはじめると、向かうところをなぎたおし、すべての独断をうちこわし、もろもろの迷信をうちやぶるありさまは、くさった木をくだき、かれた木をひきさくようないきおいで、世界の思想・学術は、そのために面目を一新した。
 いまや、生命進化の法則は、人間の知能のおよぶかぎりにおいて、うたがうことのできない一大真理として、なにの学、なにの説、なにの研究、なにの弁証であることに関係なく、あらゆる学問の領域にわたって、すべてがこれを基礎・根底にしなくてはならないようになってきた。
 そして、われわれ社会主義者もまた、心からよろこんで、ダーウィンの一信者であることを明示せずにはおられないのである。(幸徳秋水「生存競争と社会主義」)
革命思想とダーウィンの進化論はほとんど一体のものとして理解されていました。少なくとも革命家の側はそう思っていました。

もっとも、それは体制側も同じでした。進化論の社会への影響力はきわめて大きかったので、体制側も進化論を利用しようとしました。いわば革命側と体制側が進化論を巡って綱引きをしたわけです。

そして、ダーウィンは体制側を選択しました。
それはダーウィンの出身階級からすれば当然のことではありました。

ダーウィンは裕福な医者の家系に生まれ、父方の祖父は詩人で、初期の進化論者でもあり、母方の祖父は大手陶磁器製造会社ウエッジウッドの創業者でした。五年間のビーグル号の航海中、ダーウィンは無給でしたが、父親が経済的援助をしてくれました。ビーグル号の航海を終えたダーウィンはロンドンに住みましたが、松永俊男著「チャールズ・ダーウィンの生涯」はその生活をこのように描いています。


独身の若者ダーウィンが、研究と学会活動だけで満足しているはずがない。イギリスのジェントルマンの生活に欠かせないのがクラブである。その一つ、アシニアム・クラブは、現在でも当時のまま、クラブの建物が並ぶペル・メル街の一角にある。イギリスの最も格式の高いクラブで、各界のトップクラスの人々が会員に選出される。ダーウィンは立候補もしていなかったのに、一八三八年六月二一日に会員に選出された。これはダーウィン本人にとっても驚くべきことだった。独身時代は殺風景な住居からのがれて息抜きする場所だったが、結婚後も利用し、政治家や実業家たちとも親しく交際した。クラブの雑誌や図書は科学以外の分野に知見を広げるのに役立った。


ジェントルマンの生活に欠かせないことの一つが夜会だったが、ダーウィンはライエル邸の夜会のほか、有名なバベジの夜会の常連でもあった。バベジはケンブリッジの数学教授だったが、講義をせず、ロンドンに住んだままであった。土曜に開かれるバベジ邸の夜会は、学者だけでなく、各界の著名人が呼ばれ、女性も参加していた。


研究の息抜きには、航海中のミルトン『失楽園』に代わって、コールリッジとワーズワースの詩を愛読していた。兄エラズマスと近くのパブでおしゃべりするのも楽しかった。独身二九歳のダーウィンは、世界都市ロンドンで、研究、学会活動、そして余暇に充実した生活を送っていた。(松永俊男著「チャールズ・ダーウィンの生涯」)


当時のイギリスは、十八世紀後半からの産業革命でいち早く工業化を達成し、多くの植民地を獲得して、経済的繁栄を誇っていましたが、国内では矛盾も拡大し、長時間労働、児童労働、農村から都市への人口流入による住環境の悪化、社会保障の欠如などで民衆の不満は高まっていました。1832年に第一回選挙法改正が行われ、産業資本家が選挙権を得ましたが、労働者には選挙権は与えられなかったので、選挙権を求めるチャーチスト運動が起き、暴動によって死者が出ることもありました。
ダーウィンとマルクスは同時期にイギリスに住んでいたことがありますが、ダーウィンの見ていたイギリスと、マルクスの見ていたイギリスはまったく違ったかもしれません。

それに加えて、ダーウィンは人種差別主義者であり、「優生学」という言葉をつくったフランシス・ゴルトンはダーウィンの従兄弟で、思想的にも互いに影響し合っていました(ダーウィンの人種差別思想と優生思想については、このブログで「優生学の起源」として書いたことがあります)。


ダーウィンは「種の起源」の12年後に「人間の由来」を著し、進化論から見た人間について論じました。
本来ならそこで、階級対立や奴隷制や人種差別や戦争などが生存闘争の一環としてとらえられるはずでした。しかし、ダーウィンはそうした人間社会の負の面にはまったくといっていいほど言及せず、人間社会を協調的な社会としてとらえたのです。
動物は生存闘争をする一方で、子どもの世話をしたり、仲間を助けたりという利他行動もしますから、ダーウィンの人間観や社会観もそれなりに進化論的に見えました。
しかし、生物は生存闘争によって進化すると主張しながら、人間については利他性や協調性のことばかり述べるのは、やはり矛盾しています。

ダーウィンは体制側の人間として、“体制翼賛”をし、みずからダーウィン革命の幕引きをしたのです。

その結果、進化論を根拠に強者の支配を正当化する社会ダーウィン主義と、やはり進化論を根拠に弱者の排除を正当化する優生思想が社会の支配的な思想になっていきました。一方、マルクス主義は科学的社会主義を標榜しましたが、進化論と切り離されることでしだいに力を失い、ソ連・東欧圏の崩壊によって完全に破産した思想と見なされるにいたりました。

現在、進化論を根拠にして社会のあり方を論じるのは「自然主義の誤謬」であるとして批判されるので、社会思想と進化論が結びつけられることはめったにありませんが、言語化されない底流では結びついています。新自由主義も社会ダーウィン主義の流れをくむものです。優生思想もことあるごとに表面化します。


ダーウィンが体制側を選択したために、ダーウィン革命は失速し、挫折しました。
現代のわれわれは、ダーウィン革命と言われてもピンとこないのではないでしょうか。人間は神によって創造されたと信じていた人にとっては進化論は革命的だったかもしれませんが、それ以外の人にとっては人間観が変わることはなく、別段革命的ではありません。

ダーウィン革命が挫折して、科学的人間観が確立されなかったので、人間の心にはボウフラのように自由意志がわくとされます。
人間が貧乏になるのも自由意志のせいだという理屈で、支配層はさらに利益を追求して、われわれは格差社会の問題に直面しているというわけです。

したがって、格差社会問題を解決するには、挫折したダーウィン革命を救出し、革命を完遂させ、科学的人間観、科学的社会観の確立を目指さなければなりません。
人間が互いに生存闘争をする中で、強者が弱者を支配して奴隷制、階級社会、人種差別、性差別などが生みだされたというのが科学的人間観、科学的社会観です。


なお、生物学界はダーウィンの間違いを意識的に隠ぺいしているかのようです。
ダーウィンの著作はむずかしいし、時代遅れでもあるので、進化論を学ぼうとする人は、進化論の解説書を読むことになります。そうすると、そこにはダーウィンがいかに家族思いの人格者であったかということが必ず書かれています。人種差別主義者であったことも書かれていますが、それを打ち消すように奴隷制廃止論者であったことも必ず書かれています。相対性理論や古典力学の解説書を読んでも、アインシュタインやニュートンの人柄についてはそれほど書かれていません。科学の理論と、それを発見した人の人格とは関係ないからです(ニュートンはかなり偏屈な人だったようですが、だからといってニュートン力学の値打ちが下がることはありません)。

ダーウィンの人格のよい面ばかり書くのは、ダーウィンの失敗を隠ぺいする意図ではないかと疑われます。
もしダーウィンの人格を書くなら、その出身階級のことと人種差別のことをもっと書くべきです。そうすれば、ダーウィンの失敗が見えてくるでしょう。

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長男を殺害して懲役6年の実刑判決を受けた元農水省事務次官の熊沢英昭被告が保釈されました。
殺人事件で実刑判決の下った被告が保釈されるとは聞いたことがありません。

熊沢被告は昨年12月16日に実刑判決を受け、弁護人の保釈請求を東京地裁は18日に却下しましたが、東京高裁は20日、保釈を認めました。
保釈された熊沢被告は自宅に戻らず、奥さんと都内の高級ホテルに宿泊したということです。

保釈を認めた裁判官は熊沢被告とは顔見知りだったと「NEWSポストセブン」が報じています。

異例の保釈決定の裏には「奇しきめぐりあわせ」が影響した可能性があったかもしれないという。大手紙の司法記者が話す。

「熊沢被告に異例の保釈を認めた東京高裁裁判長の青柳氏は、かつて被告の同僚として同じ職場で働いていたんです。青柳裁判長は、入所7年目だった1987年に裁判官に与えられている『外部経験制度』によって農林水産省食品流通局に2年間の研修に出ています。その時、同局にいたのが入省21年目だった熊沢被告です」

両者が1987年からの2年間、同じ食品流通局に在籍していたことは、当時の「農林水産省職員録」(協同組合通信社)および2010年刊の「全裁判官経歴総覧」(公人社)確認することができる。

 さらに、元農水省職員で、同局に出入りすることも多かったという男性からも証言を得ることができた。

「熊沢被告は砂糖類課長、青柳氏は企画課長補佐というポジションだったので、直属の上司部下ではありません。しかし、同じ食品流通局の同僚だったことには変わりない。当時、同じ部屋で机を並べ、毎日顔を合わせる関係だったと記憶しています」(元農水省職員の男性)

 一方で、熊沢被告の保釈審査を、かつての“同僚”が担当することは、公正が求められる司法のプロセスとして適切だったのか。東京高裁広報係に質すと「事件の配転(※裁判官の配置転換)は事務分配規定に基づいて行われるとしか申し上げられません」との回答。熊沢被告と青柳氏の縁故を把握していたかどうかについては「法解釈に関する事項なのでお答えできません」とのことだった。
https://www.news-postseven.com/archives/20191231_1519996.html/2

熊沢被告の弁護人は12月25日、一審判決を不服として控訴しました。
控訴審の判決も不服なら、さらに上告するでしょう。
熊沢被告は76歳ですから、刑務所に入らないで人生を全うするということもありそうです。

“上級国民”はなんとも恵まれたものです。
世の中も犯罪者にはつねに厳罰を求めるものですが、熊沢被告の保釈についてはそれほどきびしい声は上がりませんでした。

もっとも、厳罰にすればいいというものではありません。問題は被告が反省しているか否かです。


「弁護士ドットコム」に裁判の傍聴記が載っていました。
熊沢被告は長男英一郎さんに対して過保護過干渉でしたが、その実態が改めて明らかになりました。

主治医の尋問直後に行われた熊沢被告人の被告人質問では、英一郎さんの進路から就職、住居や老後のことまで、熊沢被告人が様々に気を配っていたことが明かされる。この年代の男性としては珍しいほど、子どもの世話をしていたようだ。過保護といっていいほどだが、家庭内暴力やうつに苦しむ妻には任せられない事情もあったのだろう。

高校卒業後、日本大学に進学した英一郎さんが「製図の授業に拒否感があった」ため、代々木アニメーション学院へ進学させた。卒業後、日本大学を退学、別の大学に編入させたのち、再度の代々木アニメーション学院への入学。

卒業のタイミングが就職氷河期のため「すぐに仕事が見つからない。何か後で役に立つかも、技術を身につけたら、とパン学校に通わせた」。

卒業後は先述の病院会長が経営する関連施設に就職させたが、熊沢被告人がチェコ大使を退任する頃、退職した。
https://www.bengo4.com/c_1009/n_10606/

「代々木アニメーション学院へ進学させた」
「別の大学に編入させた」
「パン学校に通わせた」
「関連施設に就職させた」
と、すべて「使役」の助動詞で語られています。
それに、ここでは「退職した」と書かれていますが、これも実は「退職させた」のです(このことは私の以前の記事で書きました)。

英一郎さんは自分の人生を生きていたのではなく、熊沢被告の決めた人生を生きていたのです。

熊沢被告は自分のやったことを反省したのかというと、この記事の最後にこう書かれています。

前日に証人出廷した妻は「アスペルガーに生んで申し訳ない」と語った。熊沢被告人は涙を流しながら言った。

「毎日毎日、反省と後悔と悔悟の毎日を送っております。精神的な病を持って生まれてきた息子に、私としては寄り添って生きてきたつもりでしたが、大変つらい人生を送らせてしまって、かわいそうに思っています。

もう少し息子に才能があれば、アニメの世界に進めたと思います……」

限界を迎えた中での犯行。英一郎さんの体には30箇所以上もの刺し傷があった。成人した息子を甲斐甲斐しく世話をし続けながらも、社会に適応できない長男について「才能のなさと、精神疾患が原因である」と判断し、誰にも相談しなかった。生前の英一郎さんは、どんな思いを抱えて、泣いていたのだろうか。

熊沢被告は「反省」と言っていますが、言葉だけです。
自分が英一郎さんをアニメ学校に行かせておいて、結果がうまくいかないと、英一郎さんの才能のせいにしています。
「相手が悪い、自分は悪くない」という論理です。

熊沢被告は「相手が悪い、自分は悪くない」という論理でライバルを打ち負かして出世したのかもしれません。
トランプ大統領も「相手が悪い、自分は悪くない」のパワーバージョン版です。


「アスペルガーに生んで申し訳ない」と語った奥さんも、産み分ける能力などないのですから、反省していません。アスペルガーのせいにしています。

夫婦そろって「子どもが悪い、自分は悪くない」という態度で子育てしていたら、子どもは追い詰められます。
その挙句の家庭内暴力であり、引きこもりであったのでしょう。

わが子を殺して反省のない夫婦と、それを批判しないマスコミ。
これが今の世の中です。



私は前からこの事件を追いかけていて、以下の記事を書いています。

「元事務次官の子殺しは幼児虐待と同じ」

「熊沢英昭被告はいかにして長男の自立の芽をつんだか」

「“毒親”を理解しない残念な判決」

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障害者施設で19人が殺害された「やまゆり園事件」の裁判が1月8日から始まりました。
この事件は、植松聖被告が「重度の障害者たちを生かすために莫大な費用がかかっている。安楽死させるべきだ」などと語り、その優生思想とも言える考え方に注目が集まっていました。
判決は3月16日が予定され、26回の公判が行われるということです。

裁判でも被害者の名前は公表されていません。
京アニ事件でも被害者の名前はなかなか公表されませんでしたから、最近の傾向ではありますが、やはり障害者への差別があるからでしょう。

そうした中で、殺害された女性(19歳)の母親が被害者の「美帆」という下の名前を公表しました。
公表したのは「裁判の時に『甲さん』『乙さん』と呼ばれるのは嫌だったから」「美帆の名を覚えていてほしい」という思いからだそうです。
母親は美帆さんの4枚の写真とともに手記を公表しました。

【美帆さんの母の手記】
大好きだった娘に会えなくなって3年が経ちました。時間が経つほどに会いたい思いは強くなるばかりです。会いたくて会いたくて仕方ありません。
 本当に笑顔が素敵でかわいくてしかたがない自慢の娘でした。アンパンマン、トーマス、ミッフィー、ピングー等(など)のキャラクターが大好きでした。
 音楽も好きでよく「いきものがかり」を聞いていました。特に「じょいふる」が好きでポッキーのCMで流れるとリビングの決まった場所でノリノリで踊っていたのが今でも目に浮かびます。
 電車が好きで電車の絵本を持ってきては、指さして「名前を言って」という要求をしていました。よく指さしていたのは、特急スペーシアと京浜東北線でした。
 ジブリのビデオを見るのも好きでした。特にお気に入りは、「魔女の宅急便」と「天空の城ラピュタ」。他のビデオも並べて、順番に見ていました。
 自閉症の人は社会性がないといいますが、娘はきちんと外と家の区別をしていて、大きな音が苦手でしたが、学校ではお姉さん顔をしてがんばっていたようでした。
 外では、大人のお姉さん風でしたが、家では甘ったれの末娘でした。児童寮に入っていた時、一時帰宅すると最初のうちは「帰らない、家にいる」と帰るのを拒否していました。
 写真を見せて「寮に帰るよ」と声かけすると、一応車に乗り寮の駐車場に着くものの車からは出てきません。
 「帰らない」と強く態度で表していました。パニックをおこして大変だったけれどうれしい気持ちもありました。2年くらいは続いていましたが、それ以降は自分で寮で生活するということがわかってきたようで、リュックをしょって泣かずに帰っていくようになりました。親としてはさびしい気持ちもありましたが、お姉さんになったなあといつも思っていました。
 月1くらいで会いに行き、コンビニでおやつと飲み物を買い一緒にお庭で食べるのですが、食べおわると部屋にもどることがわかっていて、食べている間中「歌をうたって」のお願いをされ、よくアンパンマンの「ゆうきりんりん」とちびまる子ちゃんのうた、犬のおまわりさん等、うたっていました。私のうたをBGMにしておやつをおいしそうに食べていました。
 自分の部屋にもどる時も「またね」と手を振ると自分の腰あたりでバイバイと手を振ってくれていました。
 泣きもせず、後おいもせず部屋に戻っていく後ろ姿を見ているとずいぶん大人になったなと思っていました。
 美帆はこうして私がいなくなっても寮でこんなふうに生きていくんだなと思っていました。
 人と仲よくなるのが上手で、人に頼ることも上手でしたので職員さんたちに見守られながら生きていくのだなと思っていました。
(後略)
https://www.huffingtonpost.jp/entry/news_jp_5e156ecbc5b66361cb5c9f65


愛情の感じられる文章です。
美帆さんは、たぶん“生産性”がなく、社会には役に立たない人間でしょう。
植松被告に言わせると、生きる価値のない人間です。
しかし、母親にとっては価値のある人間です。


優生思想の問題は、人間の価値はなにかという問題でもあります。
売り上げの多いセールスマンは、売り上げの少ないセールスマンより価値があり、早く走る陸上選手は遅く走る陸上選手より価値があり、勉強のできる生徒は勉強のできない生徒よりも価値があるというように、人間はさまざまなモノサシで測られます。
美帆さんは、そういう社会で用いられるモノサシで測ると、なにも価値がないということになるかもしれません。
しかし、母親にとっては価値ある存在です。
母親は「愛」というモノサシで測っているからです。

また、配偶者や恋人が余命3カ月と診断され、ベッドから起き上がれなくなったら、植松被告の思想では、価値のない人間なので、さっさと捨てたほうがいいということになるでしょうが、現実にそんな判断はありえません。配偶者や恋人への愛があるからです。

そういう意味では、愛は人間の価値を測る最後のモノサシです。


人間には「人権」という価値があります。これは誰にも等しくあるとされるので、人間の究極の価値と言えます。
しかし、人権は近代になってからできた概念で、抽象的で、理解しにくい面があります。
これは愛と結びつけると理解しやすくなります。
たとえば、ナチス支配下でユダヤ人を助けた人は、「ユダヤ人にも人権があるから」と思って助けたわけではないでしょう。「あの人がかわいそうだ」という愛情、共感、思いやりなどの感情から助けたはずです。

優生思想は人権思想によって否定されますが、人権思想は愛の裏付けがあって初めて力を持ちます。
「仏つくって魂入れず」という言葉にならって言うと、「人権つくって愛を入れず」になってはいけません。


しかし、今の時代、親の愛も平等にあるわけではありません。親から虐待されて死ぬ子どももいます。
やまゆり園で被害にあった人たちも、誰もが美帆さんのように親から愛されていたとは限らないでしょう。

そうすると、植松被告はどうでしょうか。
社会の役に立たない人間は生きている価値がないという思想を身につけたのは、自分が社会のモノサシでばかり測られて、一度も愛のモノサシで測られたことがなかったからではないでしょうか。

植松被告の父親は小学校の教師で、母親は一時ホラーマンガを描いていたという情報はありますが、それ以外のことはなにもわかりません。

美帆さんの母親は姿を見せましたが、植松被告の両親はまったく姿を見せないところに、この事件のいちばんの闇があります。

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農水省元事務次官の熊沢英昭被告(76歳)が長男英一郎さん(当時44歳)を殺害した事件で、判決が下されました。
そもそも懲役8年という求刑が甘かったのですが、判決が懲役6年とさらに甘くなりました。
どうして甘くなったのでしょうか。

この事件で特別に悪質なのは、熊沢被告は川崎市20人殺傷事件を引き合いに出して、長男が同じような事件を起こすのを防ぐために殺したと、いわば“予防殺人”の理屈を主張したことです。
こんな理屈で殺人が正当化されたら、いくらでも殺人事件が起こります。
弁護側はさすがに裁判ではこの理屈は持ち出さずに、被告は長男に殺されるという恐怖を覚えて身を守るために殺したと主張しました。
問題は検察側です。本来なら「身勝手な理屈で犯行を正当化しようとした」ときびしく糾弾するところですが、報道を見る限り、そうした主張はしていないようです。

この事件に対する検察側の甘さは際立っています。
「長男殺害の元農水事務次官・熊沢英昭被告に懲役6年の実刑判決…検察側が見せた珍しい対応とは?」という記事にはこう書かれています。

松木麻記者:熊沢被告は、入廷後から判決理由が読み終わるまで、証言台の前に姿勢よく座って話を聞いていました。熊沢被告はいつも、閉廷の際には丁寧に裁判所と弁護側、そして検察側に一礼をして退廷していくんですが、16日もそのように丁寧にお辞儀をして退廷しました。その際に検察官1人から「体に気をつけてください」と声をかけられて小さくうなずくという珍しい場面が見られました。
 
安藤優子:松木さん、このように声をかけるのは異例のことなのでしょうか。

松木麻記者:そうですね、私がこれまで見てきた刑事裁判の中で、そのような場面は一度もありませんでした。それだけ検察側としても、ただ単に求刑通りの刑を得ればいいという問題ではなく、複雑な心境があったのかなと推測しています。
検察官は司法試験に受かったエリート役人なので、高級官僚の熊沢被告と仲間意識があるのでしょう。


裁判員の判断も甘くなりました。
裁判員裁判は裁判官が判断するよりもきびしい判決になりがちですが、今回は逆です。
その理由は、一般の人たちにある差別意識でしょう。
ここには三つの差別意識が関わっています。

ひとつは、社会的地位に対する差別です。
一方は元事務次官という最上級の“上級国民”で、もう一方は無職の引きこもりです。「人の命」についての裁判なのに、そうした肩書や社会的地位に影響されたのではないかと考えられます。

ふたつ目は、この事件は親が子を殺したという、昔の表現で言えば「卑属殺人」であることです。「子どもは親の所有物」という価値観がいまだに残っている可能性があります。

三つ目は、被害者はアスペルガー症候群とされ、ほかに統合失調症と診断されたこともあり、発達障害や精神病に対する差別意識が裁判員にあったのではないかということです。

検察官や裁判官は元事務次官の熊沢被告に仲間意識を持って甘くなりがちですが、裁判員の差別意識がそれに輪をかけたかもしれません。


2014年に殺人事件なのに執行猶予つきの判決が出るという珍しいケースがあり、このブログで「珍しい温情判決は実は差別判決だった」として取り上げたことがあります。
このケースも、父親が息子を殺した「卑属殺人」で、父親は監査法人に勤める会社員、息子はフリーターと社会的地位に差があり、息子は「精神の障害」という診断を受けていて、やはり三つの差別が重なっていました。


私は前回の「熊沢英昭被告はいかにして長男の自立の芽をつんだか」という記事で、長男が引きこもりになったのは熊沢被告の過保護・過干渉が原因ではないかということを書きました。
それだけではなく、熊沢被告の妻にも問題があったでしょう。

16日放送のフジテレビ系「 直撃LIVE グッディ! 」によると、近隣住民の話では、事件のおよそ2週間後、家の郵便受けに熊沢被告の妻が書いたとみられる直筆の手紙が入れられ、「このたびはたいへんご迷惑をおかけし、おさわがせを致しまして、誠に申し訳ございませんでした。心よりおわびを申し上げます」などと書かれていたそうです。
そして、その手紙には一万円札が同封されていたそうです。
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その感覚は普通ではありません。なんでもお金で片が付くと思っているのでしょうか。
妻の実家は、親族の多くが医者である金持ちの家であるようです。
長男の家庭内暴力は中学2年生から大学1年生まで続き、もっぱら母親に向けられていました。
親の愛情を求める長男と、お金や学歴や世間体のことばかり考える両親という構図が見えてきます。

要するに熊沢被告とその妻は、長男にとっては“毒親”でした。
“毒親”に育てられたために長男は自立できず、引きこもりになりました。
今回の裁判の裁判員や裁判官は、“毒親”というものを理解しなかったようです。

そのため、結果的に「人の命」が軽視される残念な判決になりました。

新川優愛

女優の新川優愛(25歳)さんは8月11日に記者会見し、結婚したことを発表しましたが、相手が9歳上のロケバスの運転手であることに世の中は驚きました。

美人女優の結婚相手といえば、IT社長かプロスポーツ選手か同業のイケメン俳優というのが相場です。
ロケバスの運転手なら普通の給料でしょう。
しかも新川さんは、ロケバスの中に忘れ物をしたと嘘をついて自分から彼にアプローチしたということです。
普通の給料の男たちに夢と希望を与える結婚でした。

それにしても、どうして新川さんはロケバスの運転手が好きになったのでしょうか。



記者会見を見てみると、好きになったきっかけについて、このように答えています。
「私に対する対応よりも、私けっこう、自分以外の人への対応を見ることが多くて、それは女性も男性もなんですけど、いろんな人に対しての接し方が素敵な人だなと思ったのがきっかけですかね」
調べてみると、『新川優愛、夫はアプローチに詐欺疑う「SNSが乗っ取られてると…」』という記事にもう少し詳しいことが書かれていました。
番組では新川が出会いから結婚までを初告白。初めての出会いは8年前、新川が17歳のときで、当時は恋愛感情は全くなかったそうだが、2016年、新川が22歳になったとき、荷物を率先して運んだり、どんな立場の人にも分け隔てなく接する仕事現場での彼の姿に惹かれていったという。
https://www.excite.co.jp/news/article/Mdpr_news1869442/
普通は、彼は熱心に私を誘ってくれたとか、私に親切にしてくれたというように、自分と彼との関係で彼を好きになるものです。
しかし、自分に親切にしてくれる人は、下心があるからしているだけで、ほんとうは親切な人ではないかもしれません。
新川さんのように、彼と第三者との関係を見ていれば、彼の人柄が正しく判断できるはずです。

これができるのは、職場恋愛のいいところです。職場で観察していれば、裏表のある人とか、上にこびて下に横柄な人とかもわかります。
お見合いだの合コンだのでは、なかなか相手の人柄はわかりません。デートしたら、彼がレストランの店員に横柄な態度をとって幻滅したなどということも起こります。


新川さんのすごいところは、恋愛や結婚の相手を探すとき、彼の人柄を第一にして、彼の収入や社会的地位にほとんど重きを置かなかったところです。
これは新川さんの自信からきているのでしょう。収入も社会的地位も自分で獲得するものだと思っていれば、男に頼るという気持ちになりません。

そして、愛されたいという願望があまり強くないのでしょう。

「愛されるよりも愛しなさい」とはよく言われる言葉ですが、実際はなかなかできないものです。
たいていの人は、「愛したい」と「愛されたい」を天秤にかけると、「愛されたい」のほうがうんと重くなります。
とくに若くて恋愛経験がないと、相手から愛されているか否かがひじょうに気になり、たとえばデートで行ったのが安いレストランだったとか、支払いのときに彼がクーポンを使ったとかのささいなことで、自分は安く見られたと即断して、彼を振ったりします。
こういうことで相手を選んでいると、ろくな相手をゲットできません。

なぜ「愛されたい」が重くなりすぎるかというと、子どものときに十分に親に愛されなかったからです。
親から受け取った愛が少ないと、その分を恋愛関係で得ようとします。
新川さんは親から十分に愛されて育ち(美人なのでたぶん男からも愛され)、もう愛に満ち足りているので、「愛されたい」よりももっぱら「愛したい」という目的で相手を探したのでしょう。


ですから、新川さんは愛に恵まれた家庭で育ったと推測されます。
新川さんの家庭環境がどういうものだったかはなかなかわかりませんが、ウィキペディアの「新川優愛」の項目にはこう書かれていました。

幼い頃からテレビが好きで、「自分も出演したい」と思い続けていた。小学校6年時、父に「芸能界に入りたい」と話したところ「いいんじゃない」の一言であっさりと快諾してもらったという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%B7%9D%E5%84%AA%E6%84%9B
普通のことではありますが、父親は子どもの意志を尊重する人だということは言えます。

結婚報告記者会見を見てみると、「実家」に言及していたので、その部分を書き起こしてみます。
結婚願望は……そうですね、ちっちゃいときからお嫁さんになりたいみたいなことは言ってたみたいなので。うち、実家がすごいあったかい、実家がすごい仲がいいので、結婚願望はありましたね。
彼の「実家」についても言及していました。
(彼の)素敵なところはたくさんあるんですけど、あったかい人だなと、気持ちがすごいあったかい方だなと思いましたし、それはご実家に行ったときにも感じたんですけど。
これを聞いただけでも、新川さんがあったかい家庭で育ったことがわかります。
そして、こういう人はたいていあったかい家庭をつくることができるものです。


ところで、私がこのブログで新川さんのことを取り上げたのは、前々回に「坂口杏里さんの不可解な人生」という記事で取り上げた坂口杏里さんとあまりにも対照的だなと思ったからです。

人生というのは、かなりの部分が生まれ育った家庭環境によって決まります。
金持ちの家庭で育つのと、貧乏な家庭で育つのとでは、大きな違いがあります。
同様に、愛情に恵まれた家庭で育つのと、愛情の少ない家庭で育つのとでも、大きな違いがあります。
世の中には経済格差があるのと同様に愛情格差もあるわけです。

私は経済格差と愛情格差を勝手に「社会の二大格差」と呼んでいます。
世の中のほとんどの問題はこの二大格差からきています。たとえば幼児虐待は愛情格差がもたらす問題の最たるものです。

ところが、経済格差は認識されていますが、愛情格差のほうはあまり認識されていないので、坂口杏里さんは不幸な人生を(今のところですが)歩み、新川優愛さんは幸福な人生を歩んでいることの違いがどこからきているのかが理解されません。
そのため、坂口杏里さんがバッシングされたりします。

親から十分に愛されなかった人は、自分には愛される価値がないのだと思いがちです(坂口さんもそうではないでしょうか)。
しかし、世の中には愛情格差があり、愛のある家庭と愛の少ない家庭があるのだと認識すれば、自分には愛される価値がないという思いを払しょくして、前向きに歩んでいけるはずです。

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最近、食物アレルギーやアトピー性皮膚炎の子どもがふえていますが、行きすぎた清潔志向がアレルギー発症の原因になることがわかってきました。

アレルギーは、卵や牛乳のたんばく質、花粉など特定の物質(アレルゲン)に体の免疫が過剰に反応する病気です。
ですから、免疫の遺伝子などに異常があるのではないかと考えられましたが、いくら調べてもなかなかわかりませんでした。

初めてアレルギーの発病との関連が確かめられたのは、意外にも皮膚のたんばく質「フィラグリン」をつくる遺伝子の変異だった。アトピー性皮膚炎の患者の2、3割でフィラグリンの遺伝子の異常が見られる。
国立成育医療研究センター研究所の斎藤博久副所長は「発症率は遺伝子が正常な人の3、4倍、ぜんそくの合併も2、3倍になる」という。フィラグリンの遺伝子に変異がない患者でも、フィラグリンをつくる機能が落ちていることがあった。
フィラグリンは皮膚の表面でつくられ、皮膚を守るバリアーとして働いている。さらに、分解されると天然の保湿成分になり、これが皮膚を覆うことで守りを固めている。
皮膚のバリアー機能との関連が疑われるアレルギーは皮膚炎だけではない。
天谷雅行慶応大医学部教授は「英国の乳児でピーナツバターのアレルギーが起きた。調べると、皮膚に塗るベビーオイルにピーナツオイルが含まれていた」という。
(中略)
国内でも、せっけんに含まれていた小麦のたんばく質が元でアレルギーになり、小麦のたんばく質を含む食品を食べてアナフィラキシーショックを起こす事件があった。
新説では、まず、皮膚のバリアー機能の欠陥が先にあって、初めは皮膚からアレルゲンが侵入して免疫を刺激。その後にアレルゲンが鼻に入ると鼻炎や花粉症、のどに入るとぜんそくになるというわけだ。免疫の異常は原因ではなく結果だということになる。
(中略)
バリアーを守るにはどうしたらいいか。天谷さんは「ごしごし体を洗いすぎるのをやめ、首から下はわきの下と股だけせっけんを使えばいい」と勧める。天谷さんの研究では人間の皮膚は軽く水で流すだけで汚れが落ちるようにできているという。
http://sugimoto-clinic.or.jp/健康・医療のヒント/iryounogenjou/allergy_new_theory/

アレルギー発症の予防にもうひとつたいせつなのは、家畜の糞だということもわかってきました。

アメリカにアーミッシュという自給自足の生活をする人々がいますが、アーミッシュにはアレルギーの人がほとんどいないとされます。また、モンゴル人にもアレルギーがほとんどないということです。彼らは幼いころから家畜と触れ合う生活をしています。
「NHK特集」がそのことを取り上げました。

NHK特集
病の起源  第6集 アレルギー ~2億年目の免疫異変~
花粉症・ぜんそくなどのアレルギー。20世紀後半、先進国で激増。花粉症だけで3800万人もの日本人が患う病となった。急増の原因は花粉・ダニの増加、大気汚染と考えられてきたが、意外な原因があることがわかってきた。
南ドイツで、農家と非農家の子供の家のホコリを集め、「エンドトキシン」と呼ばれる細菌成分の量を調べたところ、それが多い農家の子ほど花粉症とぜんそくを発症していなかった。エンドトキシンは乳幼児期に曝露が少ないと、免疫システムが成熟できず、アレルギー体質になる。農家のエンドトキシンの最大の発生源は家畜の糞。糞に触れることのない清潔な社会がアレルギーを生んだとも言える。
http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20081123

犬や猫でも同じような効果があるだろうと推測されています。

私は前から、子どものアレルギーに悩む母親には神経質な人が多い気がしていましたが、案外正しかったかもしれません。潔癖症の母親は、子どもの体を洗いすぎたり、部屋を極端に清潔にしたりして、それがアレルギー発症につながっていた可能性があります。

不潔な環境は感染症の原因になるので、子どもを清潔な環境で育てたいというのは当然のことですが、なにごとにも適正水準というものがあります。今はもしかして行きすぎているのかもしれません。


行きすぎた清潔志向は、身体面だけでなく精神面にもマイナスがあります。
つまり愛情行動ができなくなるのです。

たとえば、セックスは互いの体を接触させ、粘膜も接触させます。性器と排泄器はきわめて近い位置にあるか、まったく一致しています。潔癖な人はセックスができないはずです。
実際、セックスによって性病などが移ることがあります。
しかし、人間は愛情を感じると、清潔志向のハードルが下がるというか、不潔の許容力が高まるので、セックスができます。

母親が子どもの世話をするときも、排泄物の始末をしなければなりませんし、子どもが食べ物をこぼしたり物を散らかしたりすることも受け入れなければなりません。
潔癖な人ではできないはずですが、母親になればできるようになるものです。

しかし、世の中全体の清潔志向が強まると、セックスできない人や子どもの世話ができない親がふえる理屈です。
実際、若い人は恋愛やセックスをしなくなり、子どもをつくらない夫婦もふえています。

もちろん若者の恋愛離れや少子化にはさまざまな理由がありますが、過度な清潔志向もその理由のひとつに違いありません。

すでに清潔志向が行きすぎているなら、これからは愛と健康を回復するために、不潔志向というか、不潔許容度を高める方向に行かなければなりません。

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マイクロソフトのマージャンAI(人工知能)「スーパーフェニックス」が、プロを含む33万人が参加する日本のオンラインマージャン対戦プラットフォーム「天鳳」において、トッププレーヤーに匹敵する成績を達成したというニュースがありました。
すでにチェス、将棋、囲碁でAIは人間よりも圧倒的に強くなっていますから、今さら驚きません。

囲碁では2016年にAIが世界のトップ棋士を負かし、その後ネットの世界で60連勝した、100連勝したという話題があり、今ではトッププロでもハンデをもらわないと勝負にならないといわれています。
AIが打ち出した常識にない手は「AI定石」と言われ、若手プロはみな真似をしています。しかし、なぜその手がいいかをAIは説明しません。わけもわからずAIの真似をしている人間の姿になにか危ういものを感じるのも事実です。


AIがどんどん進化して産業界で利用されるようになると、人間は仕事を奪われるという説があります。
その一方で、AIが人間の代わりに仕事をしてくれるので、人間は楽をして豊かな生活が送れるようになるという説もあります。
いったいどちらが正しいのでしょうか。

AIの話題のときは、「AI対人間」というとらえ方が多いようです。囲碁、将棋、マージャンなどのゲームでは必然的にそうなります。
しかし、社会の中にAIが入ってくるときは、事情が違います。社会の中ではもともと「人間対人間」の争いがあるからです。
もちろん人間は互いに協力し、助け合いもしますが、根底は利己的な存在として、互いに生存闘争をしています。

たとえば人を雇用する側は、少しでも安く人を雇って利益を上げようとし、雇用される側は、少しでも高い給料をもらおうとします。
そこに労働者の代わりになるAIが登場したとします。
雇用する側は、人を雇うかAIを使うかを比較して、AIが安くつくと思えば人をクビにして(あるいは新たに雇うのをやめて)、AIを導入します。
これが経済合理的な選択です。
雇われる側は、クビになるか、AI導入並みの安い給料でがまんしなければなりません。

雇われる側にとっては、世の中にAIが導入されてサービス価格が安くなったりするメリットはありますが、自分の雇用が奪われたり給料が安くなったりするのでは、デメリットのほうが大きいといえます。

ですから、労働者の代わりをするAIの登場は、雇う側には有利ですが、雇われる側には不利です。

これは外国人労働者を増やす政策に似ています。
雇う側は、外国人労働者と日本人労働者を比較して、安いほうを雇えるので得をします。
日本人労働者は損をするだけです。

こうしたことは、雇う側と雇われる側の対立としてとらえると、簡単にわかります。
しかし、日本では冷戦終結以降、社会主義思想は破産したと見なされ、同時に階級対立もないことにされました。
そのため、雇われる側の不利益はないことにされ、雇う側の利益が日本全体の利益と見なされ、外国人労働者やAIの導入が進められています。

今は、「AIが雇用を奪う」というように、「AI対労働者」という図式でとらえることが多いようです。
これは19世紀初頭にイギリスで産業の機械化が進み、機械に仕事を奪われると思った労働者が機械を打ち壊したラッダイト運動に似ています。
このときは社会主義思想が未成熟だったのですが、一周回って同じことになっています。


AIといえば、AIが人類の知能を超える「シンギュラリティ」が2045年にも到来するということが問題になっています。
シンギュラリティによって人類は豊かな生活を得られるという説もありますが、ホーキング博士などは、AIが人類をほろぼす危険性があると警告していました。
私はAIの専門家ではありませんが、この問題も、社会には「人間対人間」の争いがあるということを認識しないと危ういことになる可能性があると思っています。

たとえば、労働者の労働意欲を高める労務管理AIが効果を発揮するようになったとします。そうすると、それを経営者にも使ったらいいのではという発想が出てくるかもしれません。
労務管理AIは、「経営者のため」のものですから、本来そんな発想は出てきません。しかし、タテマエとして「労働者のため」とか「人間として必要なもの」などと言っているはずで、間違ってタテマエを信じてしまったり、タテマエを押し通さざるをえなくなったりしないとも限りません。

あるいは、子どもの勉強意欲を高めるAIができると、勉強は何歳になっても必要なことだからと、おとなにも適用しようということにもなるでしょう。

道徳教育を効果的にするAIもできるかもしれません。
私は道徳教育で道徳的な人間ができるとは思いませんが、アメとムチで人間に道徳的な行動をさせることは可能ですし、そこに「国のため」とか「人類のため」とか「人格向上のため」という名目をつけることでより効果的にすることはできると思います。
そうすると、その道徳教育AIを全国民に適用して、「道徳国家建設」をしようという主張が出てきてもおかしくありません。


人間社会には、雇う側と雇われる側だけでなく、富裕層と貧困層、おとなと子ども、男と女、知識階級と一般大衆、健常者と障碍者など、あらゆる場面に対立と支配の関係があります。
社会主義思想は資本家と労働者の関係を諸悪の根源と見なし、それさえ解決すれば万事うまくいくと考えたのですが、それは間違いでした。あらゆる対立と支配の関係を解決しなければうまくいきません。
今はそうした対立と支配の関係がないことにされ、人間はみな自立して、対等の関係を結んでいるという嘘が社会をおおっています。

この嘘を嘘と認識していればまだいいのですが、嘘に自分がだまされると危険です。
人を支配するためにつくったAIに自分が支配されるという悲喜劇が起こりかねないからです。

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              Daniela DimitrovaによるPixabayからの画像 

人間が生きて成長していくためにはさまざまな栄養素が必要で、ビタミンCが欠乏すると壊血病になり、ビタミンB1が欠乏すると脚気になり、カルシウムが不足すると骨が弱くなるということは栄養学によって明らかになっています。同様に、人間の心が成長するためには愛情という栄養素が必要で、愛情が不足すると愛情欠乏症になります。しかし、愛情はビタミンやミネラルのような物質ではないので、このメカニズムは科学としてはいまだ明らかになっていません。

第二次大戦後、大量の孤児が発生し、孤児院などの施設に収容されましたが、衣食住が十分な環境であっても、孤児の死亡率が高いという現象が見られました。原因を探ったところ、母親的な存在との情緒的なつながりの不足と考えられ、子ども一人ずつに担当の看護婦を決めて世話をすることで改善しました。
以来、施設において愛情不足により、幼児の死亡率の高さ、身体の成長や言語の発達の遅れが生じることを
「ホスピタリズム(施設病)」というようになりました。
しかし、ホスピタリズムという言葉だと、施設特有の現象と誤解されるかもしれません。そのためかどうか、最近はほとんど使われなくなりました。

「愛情遮断症候群」という言葉もありますが、この言葉だと第三者が愛情を遮断したような誤解を生みます。
精神科医の岡田尊司氏は「愛着障害」という言葉を使っていて、これは割と広がっていますが、この言葉だと愛着するほうに問題があるようにも理解できます。

そこで、私は「愛情欠乏症」ないし「愛情欠乏症候群」という言葉を使っています。この
言葉がいちばん意味が明快ではないでしょうか。


最近、幼児虐待が社会問題化して、愛情不足の問題が否応なく認識されてきました。
わが子を殺したりケガさせたりする親は極端な例ですが、それ以外の親はみんな十分な愛情を子に与えているかというと、そんなことはありません。むしろどんな親も完全な愛情を与えられないというべきで、その不足の度合いによってさまざまな問題が生じてきます。

たとえば依存症が愛情欠乏のひとつの症状です。子ども時代に親に十分に依存できなかったために、なにかに極端に依存してしまうのです。
たとえば恋愛関係になると、恋人に極端に依存するので、「重い」と言われたりします。DVを受けても逃げられないのも、相手に極端に依存しているからです。振られてもその事実を受け入れることができずにストーカーになる人も同じだと思われます。
アルコール依存症、薬物依存症、ギャンブル依存症、買物依存症などは有名ですが、セックス依存症や仕事依存症、もっとほかにもあるはずです。

リストカットや摂食障害も愛情欠乏症です。これらはカウンセリングにかかることが多いと思われますが、カウンセラーもピンからキリまであるので、愛情不足に原因があると把握してくれる場合とそうでない場合とで、治り方がぜんぜん違ってきます。

私は以前、リストカットを繰り返す若い女性が出てくるドキュメンタリー番組を見たことがあります。その女性の手首には二十か三十くらいの傷がびっしりとついていて、私は見た瞬間、耐えがたいほどの痛々しい思いがしました。その女性の母親は、「死ぬのだけはやめてね」と言っていて、一見、娘の命をたいせつに思っているようですが、「私に迷惑をかけるのだけはやめてね」という意味としか思えません。娘は母親の愛情を得ようとしてリストカットを繰り返しているのでしょう。

不登校、引きこもり、家庭内暴力なども、原因はいろいろあるにせよ、愛情という心の栄養不足が根底にあります。 

人生になんの意味があるのだろうと悩む若者もいます。こういう悩みは哲学的だとしてほめる人もいますが、私の考えでは、これも愛情欠乏症の一種です。若いのに前向きに生きていけないのは、たいていは愛情不足が原因です。

 
これらをまとめて愛情欠乏症候群ということになりますが、愛情は客観的に測定できないこともあって、この病気に対する理解はまだまだです。

それに、親に向かって「あなたは子どもへの愛情不足です」と言うのは、最大級の人格否定になるので、なかなか言えません。
また、それを言うと子どもも傷つきます。親の愛情が足りないのは自分自身に愛される価値がないからだと思うからです。

しかし、「虐待の世代連鎖」という言葉があるように、親の愛情不足は多くの場合、その親自身が親から十分に愛されてこなかったことが原因です。また、夫婦仲が悪いとか低収入で生活が苦しいということも子どもへの愛情不足につながります。
いずれにせよ、子どもが栄養失調になるのは子どものせいでないように、子どもが愛情欠乏症になるのは子どものせいではありません。


愛情不足の親のあり方はさまざまです。暴力をふるったりネグレクトしたりするのはわかりやすいケースです。教育熱心は愛情の表れとされますが、愛情のない教育熱心はいくらでもあります。巧妙に子どもを支配する親は「毒親」と言われます。

愛情不足の親に対する子どもの反応はふたつに分かれます。
活動的で気の強い子どもは、親に反抗し、喧嘩し、家出したり、仲間といっしょに盛り場をうろついたりします。私はこれを「行動化する不良」と呼んでいます。若くして結婚して親元を離れることも多くあります。
活動的でなく気の弱い子どもは、争いを避けるために親に合わせるので「よい子」と思われたりしますが、心を病んで、不登校、引きこもり、家庭内暴力という方向に行きます。これを私は「行動化しない不良」と呼んでいます。

こうしたことはすべて親の愛情不足が原因ですが、世の中にはまだはっきりと認識されていません。しかし、いずれ脳科学や生理学や認知科学などが愛情を客観的に測定することを可能にし、そのときには栄養学と同様に愛情学が生まれ、世の中から愛情欠乏症候群は一掃されるでしょう。

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