村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

カテゴリ: 科学的倫理学入門

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最近、なにかとカスタマーハラスメント(カスハラ)が話題です。

厚生労働省は「職場におけるハラスメント対策」という資料をホームページ上に公開しましたが、その中に「威張りちらす行為」をする人として「社会的地位の高い人、高かった人、定年退職したシニア層などに傾向が見られる」との記述がありました。
そうすると、「これは高齢者差別ではないか」「『社会的地位の高かった人』や『シニア層』などと特定の人たちだけを名指しすることは誤解を招く」「どんな人でもそういうことは起きる」などと抗議がありました。

カスハラをする人に高齢者が多いというのはちゃんと根拠のあることです。
労働組合「UAゼンセン」は流通・小売業・飲食・医療・サービス業などで働く組合員3万3000人を対象にアンケート調査を実施し、こういうことがわかりました。
迷惑行為をしていた客の性別と推定年齢については、2020年調査では「主に40~70代の男性がカスハラをする」と結論づけられていた。今回の調査でも40代以上の客が9割以上を占めたが、特に70代以上の割合が大きく増えた。
〈20年:11.5%(1750人)→24年:19.1%(2955人)〉

「社会的地位が高い」ということについては推測が入っているようですが、年齢については数字で示されています。
ところが、厚労省は抗議されると、カスハラをするのは高齢者が多いという記述を削除しました。

そうすると、それがまた問題になりました。
「その抗議自体がカスハラだ。カスハラ対策を訴える厚労省がカスハラに屈するとはなんのコントだよ」などの声が上がり、専門家もこういう対応はカスハラを助長しかねないと懸念をしました。

カスハラをする人に高齢者が多いというのは顕著な傾向です。
ですから、厚労省がそれを指摘したのは当然ですが、問題は指摘しっぱなしで終わっていることです。「傾向と対策」を論じなければいけません。
中途半端な指摘をするので抗議されたのでしょう。
誰もが感じていることでしょう。

UAゼンセンのカスハラ調査については、注目するべきことがもうひとつありました。

UAゼンセンは、2017年、2018年、2020年に続き、2024年も小売・サービス業で働く組合員を対象に、カスタマーハラスメント(顧客等による過剰な要求や迷惑行為)の実態についてアンケート調査を実施した。
直近2年以内で迷惑行為被害に遭ったと答えた割合は46.8%(1万5508人)で、前回2020年結果での56.7%(1万5256人)から約10ポイント減少した。


カスハラというと、どんどんひどくなって、接客業の従業員がつらい思いをしているというイメージがありますが、実際は減少しているのです。
マスコミはつねに危機感をあおるような報道をするので、誤解してしまいます。
犯罪件数も、2002年をピークに減少を続け、現在は3分の1以下になっていますが、テレビのワイドショーなどはつねに「犯罪は深刻化している」というスタンスで報道していました。

ほかのハラスメントはどうなのかと調べてみると、「令和2年度 厚生労働省委託事業 職場のハラスメントに関する実態調査」にはこう書かれています。
○過去3年間のハラスメント相談件数の推移については、パワハラ、顧客等からの著しい迷惑行為、妊娠・出産・育児休業等ハラスメント、介護休業等ハラスメント、就活等セクハラでは「件数は変わらない」の割合が最も高く、セクハラのみ「減少している」の割合が最も高かった。
○過去3年間のハラスメント該当件数の推移については、顧客等からの著しい迷惑行為については「件数が増加している」の方が「件数は減少している」よりも多いが、それ以外のハラスメントについては、「件数は減少している」のほうが「件数は増加している」より多かった。

やはりハラスメントは全般に減少しているのです。
「顧客等からの著しい迷惑行為」だけは増えていますが、これは要するにカスハラのことでしょう。
この調査は令和2年と古いので、最新のUAゼンセンの調査ではカスハラは減少しています。

ハラスメントが減少してるのはいいことですが、喜んでばかりはいられません。日本人が元気をなくしている現れかもしれないからです。
それから、ハラスメントに対する耐性がなくなってきている可能性もあります。
たとえば、コンビニ店員が客から怒鳴られたとします。昔の人ならそれほど気にしなかったのに、今の若い人は傷ついてしまって、それでカスハラが問題になっているのかもしれません。

今の若い人は打たれ弱いということはよくいわれます。会社で若い部下をちょっと叱ると、すぐ会社を辞めてしまうとか、パワハラだといわれるとか。
昔は学校でも部活でも体罰とかきびしい指導が当たり前で、親もよく体罰をしていましたから、そういうことはありそうです。

かといって、子どものときからきびしく育てるべきだという意見には賛成できません。きびしく育てられた人間がパワハラやカスハラをするようになるからです。
部活で上級生からきびしく指導された1年生は、2年生になると1年生をきびしく指導するようになり、親から体罰を受けた子どもは自分が親になるとたいてい子どもに体罰をするようになります。
カスハラをするのは高齢者が多いというのは、そういう育てられ方をしたからでしょう。

これは戦争までさかのぼることができます。昔の男はみな兵隊になるように育てられ、しかも実際に戦争に行った者が多いので、みな暴力的でした。戦後になっても映画「仁義なき戦い」に近いものがありましたし、私の世代も戦中派の親に育てられたので、暴力的な影響を受けています。
しかし、平和な世の中が長く続いて、若い世代はとりわけ軟弱になり、暴力的な高齢者からパワハラやカスハラを受けているというのが現状です。
ですから、パワハラやカスハラは高齢者世代対若者世代の戦いともいえます。

平和が長く続けば人間が平和的になるのは自然の摂理です。
ただ、そのためにパワハラやカスハラに弱くなるとすれば困ったことです。
しかし、打たれた経験がないから打たれ弱くなるのではありません。
問題は自己評価です。
自己評価が低い人間は、打たれるとめげてしまいます。
自己評価が高い人間は、不当な仕打ちをされたときは反撃しますし、反撃しないときもそんなにめげません。


日本人は他国民に比べて自己評価が低いとされています。

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しかも、年齢がいくと自己肯定感が低下する傾向があるというデータがあります。

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ワコール「10歳キラキラ白書」2018年度版より


なぜそうなるのでしょうか。
単純に考えると、学校でブラック校則や細かい生活指導に縛られ、家庭ではテストの点数が悪い、行儀が悪いなどのダメ出しをされ、社会でも子どもの遊ぶ声がうるさいなどと抑圧された結果ではないかと思われます。
もっとも、ここ数年は自己肯定感が向上する傾向が現れています。「体罰禁止」や「ほめて育てる」などの考え方が奏功しているのでしょうか。

若者は自己評価が低いので、カスハラ、パワハラに弱いといえます。
最近の若者は会社を辞めるとき、退職代行サービスを利用することがあるといいます。とくにブラック企業を辞めるときに利用しているようです。
しかし、ブラック企業であっても、いったん会社を辞めると決心したら、なにを言われても平気なはずです。働いた分の給料はもらわねばなりませんが。
退職代行サービスがはやっているということは、今の若者はよほどパワハラに耐性がないのでしょう。


自己評価の低さは急には改まりません。
では、パワハラ、カスハラにどう対処すればいいかですが、パワハラというのは会社の権力に関わってきてむずかしいので、ここではとりあえず、店員対客といった単純なカスハラについて考えます。
たいせつなのは、まず怒りの感情について知ることです。というのはカスハラはつねに怒りの感情から生じるからです。

怒りの制御のしかたを教えるアンガーマネジメントでは、怒りは動物が縄張りの侵入者を威嚇して戦闘準備状態にあるときの感情と同じで、生体の防御反応だとされます。
怒りは攻撃反応と思われがちですが、実は防御反応なのです。この違いは重要です。
カスハラする人というのは、攻撃されていないのに攻撃されていると勘違いする人です。自分と他人の境界線がずれていて、なんでもないことでも自分が攻撃されたと勘違いするのでしょう。

怒っている人は、そこに自己の生存がかかっていると思って必死なので、まず譲歩するということがありません。
ですから、反論せず、説得せず、時間がたって怒りの感情が収まるのを待つということになります。


カスハラする人と戦う方法もあります。

怒っている人と怒っていない人は対等ではありません。怒っていない人は、怒っている人から物理的に攻撃されるのではないかという恐怖心を持つからです。
しかし、もし相手が手を出せば警察を呼んで相手を暴行罪か傷害罪にすることができ、こちらの勝利となります。
一発殴られる覚悟さえあれば、「相手が手を出せばこちらの勝ち」と思って余裕ができ、怒っている相手と対等になれます。
対等になれば、あとは言葉による戦いです。


モラルハラスメント(モラハラ)という言葉があります。本来はモラルに反するハラスメントという意味で、セクハラやパワハラなどすべてのハラスメントを指す言葉でしたが、今はモラルによって相手を攻撃するハラスメントという意味で使われます。
たとえば夫が妻に対して、「だらしない」「怠けている」「妻としての務めを果たしていない」といったふうに道徳的に非難することがモラハラです。
パワハラやカスハラも、「お前が悪い」「お前は務めを果たしていない」と言って相手を攻撃するので、広い意味ではモラハラです。

道徳には根拠がありません。
最近では、河村たかし名古屋市長が「祖国のために命を捨てるのは高度な道徳的行為だ」と発言し、イスラエルのネタニヤフ首相は「われわれの軍隊はもっとも道徳的な軍隊だ」と言いました。
要するに道徳は言ったもん勝ちです。

カスハラする客は店員に対して「お前は店員としての務めを果たしていない。態度が悪い。私は被害を受けた。責任を取れ」みたいなことを主張します。これに対して弁明したのでは守勢ですから、相手はこたえません。
別角度から相手を攻撃するのが有効です。
「客だからなにをしてもいいわけではない。客にも礼儀が必要だ」「さっきから大声を出されてほかの客が不愉快な思いをしている。営業妨害だ」「あなたに対応しているために仕事ができない」「暴言を吐かれて傷ついた」といった具合です。
モラハラ夫が妻を攻撃するのと同じ要領です。
こうすれば対等の戦いになり、客よりも多くの言葉を使って攻撃すれば勝つことができます。


人間は言葉を武器にして互いに生存闘争をしています。
相手を攻撃するもっとも強力な武器が「道徳」です。
ライバルを蹴落とすとき、取引先に値下げを迫るとき、政治家を非難するときなど、道徳を使うのが効果的です。

道徳の正体を知ると、うまく生きていけます。
パワハラする上司の言い分も基本は道徳なので、言われても気にならなくなります。
道徳をありがたいものだと思っていると、誰か他人の思う壺になってしまうので、注意してください。


こうした道徳のとらえ方については、別ブログの「道徳観のコペルニクス的転回」で説明しています。

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名古屋市長で日本保守党共同代表である河村たかし氏は4月22日、「なごや平和の日」に関して「祖国のために命を捨てるのは高度な道徳的行為だ」と語り、各方面から批判を浴びました。
自民党市議団からも批判され、擁護や賛同の声はほとんどありませんでした。
しかし、河村氏は発言を撤回せず、4月30日の記者会見で「道徳的」の意味は「感謝される対象、徳がある」などと説明し、「祖国のために死んでいったことは一つの道徳的行為だった」と改めて語りました。

圧倒的に批判されても河村氏が発言を撤回しないのはどうしてでしょうか。
それは「道徳的」という言葉を使ったからです。
「道徳的」ないし「道徳」という言葉を使った人は決して反省しません。


杉田水脈議員は衆院本会議場で「男女平等は、絶対に実現し得ない反道徳の妄想です」と発言したことがあります。
男女平等を否定する発言にはさすがに批判一色でした。
しかし、杉田議員は発言の撤回も謝罪もしませんでした。衆院本会議場の発言はそのままになっています。
「道徳」という言葉を使ったからです。

広島市の松井一実市長が職員への講話で教育勅語の一部を引用し、新規採用職員の研修用資料にも教育勅語の一部が引用されていることが批判されてきました。
教育勅語については戦後の国会で排除・失効が決議されており、平和都市広島にふさわしくないということなどが主な批判の理由ですが、松井市長は今年3月の記者会見でも「新年度以降もちゃんと説明しながら使いたい」と語り、批判には取り合わない態度です。
松井市長は「道徳」という言葉は使わなかったかもしれませんが、教育勅語が道徳そのものです。

戦後、政治家が教育勅語を肯定する発言をすると、そのたびに批判されますが、それでもこの手の発言は繰り返されてきました。
教育勅語が道徳なので、反省しないのです。

政治の世界ばかりではありません。
最近のネットニュースにあったのですが、大阪のアメリカ村にあるたこ焼き店「しばいたろか!!」はレジのところに《タメ口での注文は料金を1.5倍にさせていただきます。スタッフは奴隷でもなければ友達でもありません》と書かれた紙を張り出していて、これがXに投稿されると炎上しました。
たこ焼き店の社長は取材に対して「決してお客様に対して喧嘩を売ってるわけではありません。ただ、人として普通のことを言ってるだけなんです」と、やはり反省の態度は示しませんでした。自分の行為は道徳的だと思っているからでしょう。


こうしたことは海外でも見られます。
国連は、世界各地の武力紛争がもたらす子どもへの影響を調査し、子どもの権利を著しく侵害した国をリストにして公表していますが、このたび新たにイスラエルをリストに加えたと6月7日に発表しました。
これにイスラエルは猛反発し、ネタニヤフ首相は声明で「国連は殺人者であるハマスを支持しみずからを歴史のブラックリストに加えた。イスラエル軍は世界で最も道徳的な軍隊だ」と述べました。
「道徳的」という言葉を使ったので、イスラエルは絶対反省しないでしょう。


「道徳」を持ち出すと、誰もが思考停止になってしまいます。
これは批判する側も同じです。批判するほうも思考停止して決め手を欠くので、批判される側はぜんぜんこたえません。

そもそも道徳とはなにかということがよくわかっていないのです。
国語辞典では「人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体」などと説明されていますが、これではなんのことかわかりません。

道徳はわけがわからないものなので、当然役にも立ちません。そのことを河村たかし名古屋市長の「祖国のために命を捨てるのは高度な道徳的行為だ」という言葉を例に示してみます。

戦争に行って祖国のために命を捨てるというのは、国家にとっては道徳的行為かもしれませんが、親にとっては「親に先立つ不孝」というきわめて不道徳な行為です。河村市長は実は親不孝という不道徳な行為を勧めていることになります。
それに、「戦争に行く=命を捨てる」というのはおかしな発想で、太平洋戦争でボロ負けした日本特有のものでしょう。
戦争に行く本来の目的は、自分たちが生き延びるために敵を殺すことです。敵兵を殺すのは果たして道徳的行為でしょうか。

つまり道徳には普遍性がないので、見る角度によっては真逆になってしまいます。
教育勅語は「汝臣民」に向けたものなので、あくまで「日本国民の生き方」であって、決して「普遍的な人間の生き方」を示したものではありません。
教育勅語には「万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ」(文部省現代語訳)とあります。河村市長も「一身を捧げて」という言葉を受けて「祖国のために命を捨てる」と言ったのでしょう。
しかし、これを外国から見れば「偏狭なナショナリスト」や「狂信的なテロリスト」育成の教えとしか思えません(実際、自爆攻撃につながりました)。

「人のものを盗んではいけない」というのは普遍的な教えのように見えます。しかし、盗まれるものをなにも持たない貧乏人にも大金持ちにも等しく適用されるので、実は金持ちに有利な教えです。
「人に迷惑をかけてはいけない」というのもよくいわれますが、これは身体障害者や病人の存在を無視した考え方です。身体障害者や病人が人に迷惑をかけるといけないみたいです。また、自分が人に助けを求めることもしにくくなります。
日本では「人に迷惑をかけてはいけない」というのは道徳の筆頭に上げられますが、外国ではほとんどいわれることがないそうです。日本人に助け合いの心が少ないことの表れかもしれません。


道徳には根拠もありません。そのため、宗教と結びつく形で存在しています。
欧米では道徳はキリスト教と結びついていて、日曜学校で教えられるのが道徳です。
日本でも教育勅語は現人神である天皇と結びついています。
道徳は宗教の中に閉じ込めておくか、倫理学者の難解な本の中に閉じ込めておくのが賢明です。
道徳を世の中に持ち出すとろくなことになりません。


ところが、保守派はやたらと道徳を公の場に持ち出します。
アメリカの保守派が主張する中絶禁止や同性婚禁止は要するにキリスト教道徳です。
日本でも、保守派が主張する夫婦別姓反対は「家族は同じ姓のもとにまとまるべき」という道徳です。
日本のジェンダーギャップ指数が低位なのも保守派の道徳のせいです。

こういう道徳はみな時代遅れです。
というか、そもそも道徳は時代遅れなものです。
芥川龍之介は『侏儒の言葉』において「道徳は常に古着である」といっています。
さらに「我我を支配する道徳は資本主義に毒された封建時代の道徳である。我我は殆ど損害の外に、何の恩恵にも浴していない」ともいっています。

芥川龍之介はちゃんと道徳を否定しています。
しかし、今の世の中は、河村市長の発言や水田議員の発言や教育勅語などを表面的に批判するだけで、道徳そのものを批判しないので、中途半端です。そのために保守派の持ち出す道徳で世の中の進歩が妨げられています。

道徳そのものを批判する視点を持っていたのはマルクス主義です。
マルクス主義では、生産関係である下部構造が上部構造を規定するとされ、道徳も上部構造であるイデオロギーのひとつです。ですから、道徳は資本家階級が労働者階級を支配するのに都合よくつくられているとされます。
しかし、どんなに過激なマルクス主義者でも「人を殺してはいけない」とか「人に親切にするべきだ」とかの道徳までは否定しないでしょう。その意味では中途半端です。

フェミニズムは「男尊女卑」や「良妻賢母」などの男女関係の道徳を否定しましたが、道徳全般を否定しているわけではないので、やはり中途半端です。


道徳全般を否定する新たな視点が必要です。
道徳、善悪、価値観などをすべて否定すると、つまり「道徳メガネ」や「価値観メガネ」を外すと、現実がありのままに見えるようになります。
私はそういう視点からこの文章を書きました。

道徳全般を否定する視点を身につけるには別ブログの「道徳観のコペルニクス的転回」を読んでください。

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保守とリベラルの対立は世界的に大きな問題になっていますが、教育や子育てに関しても保守とリベラルは対立しています。
たとえばブラック校則を問題にするのはもっぱらリベラルで、保守派はまったく無関心です。
保守派は管理教育賛成で、リベラルは管理教育反対です。
昔、体罰賛成か反対かで世論が割れていたころ、保守派はほとんどが体罰賛成でした。戸塚ヨットスクールが問題になったとき、戸塚ヨットスクール支援者として名を連ねたのは保守派ばかりでした。
性教育に反対しているのはもっぱら保守派です。
家庭で虐待された少女を救う活動をしているColaboをバッシングしたのは保守派で、Colaboを支援したのはリベラルでした。

子育てや教育については科学的な研究が進んでいます。
ですから、保守とリベラルの対立についても科学が結論を出す日も近いでしょう。
すでに「しつけ」については科学的な結論が出ています。


これまで社会は親に対して、子どもをしつけるようにと強く要請してきました。
たとえばレストランなどで子どもが騒いでいると、「親が子どもを静かにさせるべきだ」ということと同時に「親が子どもをちゃんとしつけるべきだ」という声が上がります。
子どもをしつけることは親の義務とされているのです。

親が子どもを虐待して死亡させるような事件が起こると、逮捕された親は決まって「しつけのためにやった」と言います。
それに対してコメンテーターなどがなにか言うのを聞いたことがありません。
「しつけ」はよいこととされているので、言いようがないのです。
あえて言うとすれば、「しつけをするのはいいが、やりすぎはよくない」ということでしょうか。しかし、これでは「しつけは殺さない程度にやりなさい」と言っているみたいです。
「あれはしつけではない」と言うのはありそうです。しかし、そう言うと、「では、ほんとうのしつけはどこが違うのか」というふうに話が発展して、これに答えるのは困難です。


「しつけ」というのはもともと武士階級で子どもに礼儀作法などを教えることをいいました。
「躾」というのは日本でつくられた漢字です。この漢字をもとにして「躾というのは身を美しくすることだ」ということもよくいわれます。
「身を美しくする」ということは、逆にいえば心を美しくすることではないわけで、うわべだけということです。

子どもが騒がずに静かにしていれば「しつけができている」とされます。
しかし、子どもが騒いだり動き回ったりするのは自然なことで、発達に必要なことです。子どもをむりに静かにさせると、心身の発達に悪影響があります。
つまりしつけというのは、子どもの発達を無視して、うわべだけおとなの都合のいいようにすることです。

よく公共の場で子どもが騒いではいけないといわれますが、公共の場には子どもも老人も身体障害者もいる権利があり、肩身の狭い思いをする必要はありません。公共の場で子どもに騒ぐなと要求するおとなは、共生社会も子どもの発達も理解しない、ただのわがままなおとなです。子どものいない静かな環境はプライベートの場で求めるべきで、公共の場で求めるべきではありません。


ともかく、親は社会の要請に応えて子どもをしつけようとしますが、子どもの発達に反したことをしようとしているのですからうまくいきません。うまくいかないと親は子どもを叱ります。
そのため、親の子育ての悩み相談でよく見かけるのは「子どもが言うことを聞かない」という悩みと「毎日子どもを叱ってばかりいる。こんなに子どもを叱っていいのだろうか」という悩みです。

「子どもをしつけるべき」という社会の要請が親子関係を破壊していることがよくわかります。


「子どもをしつけるべき」という考え方のもとには、しつけしないと子どもは悪い人間になってしまうという認識があります。つまり「子ども性悪説」です。
性善説と性悪説とどちらが正しいかについて定説がないために、私たちは都合よく性善説と性悪説を使い分けているという話を前にしましたが、子どもに関しては性悪説を使っているわけです。
「子ども性悪説」ということは「おとな性善説」かということになりますが、誰もそんな論理的なことは考えません。その場限りで自分(おとな)にとって都合よく考えているだけです。

「子ども性悪説」は少なくとも西洋近代には一般的でした。
イマヌエル・カントは『教育学講義』において「人間は教育によってはじめて人間となることができる」と書いています。
ということは、人間は教育されないと人間にならないということです。では、なにになるのかというと、カントはおそらく「動物」と言いたいのでしょう。それは、「訓練、あるいは訓育は動物性を人間性に変えて行くものです」とか「人間は訓練されねばなりません。訓練とは、個人の場合にしろ社会人の場合にしろ、動物性が人間性に害を与えることを防ぐように努力することをいいます」と述べていることからもわかります。つまり人間は生まれたときは動物であり、教育によって人間になっていくというのです。
この場合の人間と動物の関係は、進化論以前なので、人間は神に似せてつくられた特別な存在であるというキリスト教的な考え方です。つまり理性的な存在であるおとなが動物的な存在である子どもを導いて人間にしていくのが教育だということです。

ジョン・ロックは自由主義や人権思想の基礎をつくったとされますが、『教育に関する考察』において子どもを動物にたとえています。
彼は、しつけは小さいときからするのがたいせつであるといい、小さいときに甘やかした子どもが大きくなってから束縛しようとしてもうまくいかないとして、こう書いています。


今や一人前になり、以前よりは力も強く、頭も働くようになって、なぜ、今突然に、彼は束縛を受け、拘束されねばならぬのでしょうか。七歳、十四歳、二十歳になって、いままで両親が甘やかして、大幅に許されていた特権を、なぜ彼は失わねばならぬのでしょうか。同じことを犬や、馬やあるいは他の動物にやってみて、その動物が若い間に習った、悪い、手に負えぬ癖が、引き締めたからといって、容易に改められるかご覧なさい。


ジグムント・フロイトの患者にシュレーバーという者がいましたが、その父親は何冊もの本を書いた高名な教育学者でした。シュレーバーの父親は子どもの教育はできるだけ早く、生後五か月には始めなければならないと主張していました。言葉もわからない子どもにどう教育するかというと、たとえば泣きわめいている赤ん坊をよく観察し、窮屈だとか痛い思いをしているわけではなく、病気でもないとなったら、泣きわめいているのは「わがままの最初の現れ」であることがはっきりするといいます。


「こうなったらもはやはじめのようにじっと待っていたりしてはならないので、なんらかの積極的な行動に出る必要がある。速やかに子どもの気を別のものに向けさせたり、厳しく言ってきかせたり、身振りで脅したり、ベッドを叩いたりして……、そういうことでは効き目がない場合には――もちろんそれほど強いことはできないにしても、赤ん坊が泣くのをやめるかもしくは眠り込むまで繰り返し、休むことなく、身体に感ずる形で警告を発し続けるのがよい……」(アリス・ミラー著『魂の殺人』より引用)


これはどう見ても幼児虐待の勧めです。フロイトの時代に神経症患者の研究が進んだのにはこうした背景があったからかもしれません。
ともかく、赤ん坊に「わがまま」があるという考えは「子ども性悪説」そのものです。

なお、中世には「教育」というのは金持ちが家庭教師を雇ってすることで、庶民には無縁のことでした。
「子ども」という概念もなく、子どもは「小さなおとな」と見なされていたとされます。
近代になって庶民も教育やしつけをするようになって、ロックやカントの教育論が出てきたのです。

日本でも江戸時代にしつけをしていたのは武士階級だけです。
幕末から明治の初めに欧米から日本にきた人たちはみな、日本では子どもがたいせつにされていることに驚きました。
しかし、明治政府は富国強兵のために欧米式のしつけを日本に広めました(たとえば国定教科書に乃木希典大将の幼年時代のエピソードを掲載したことなどです。詳しくはこちら)。

西洋式のしつけは、子どもを動物のように調教するというもので、体罰を使うのは当たり前です。
もっとも、日本では子どもを動物と見なすような考え方はないので、しつけをする親はつねに葛藤していたと思われます。

このような時代の流れによって、「しつけのためにやった」と言う幼児虐待の加害者が出現するようになったのです。


しかし、「科学」がこうした子育てのあり方を変えました。
その具体的な始まりは1946年出版のベンジャミン・スポック著『スポック博士の育児書』だったでしょう。この本は世界的ベストセラーになって、1997年版の「編集後記」によると、39か国に翻訳され、世界で4000万部発行されたということです。聖書の次に売れた本という説もあります。

この本の基本的な姿勢を示す部分を引用します。

過去五十年のあいだ、教育者、精神分析学者、小児精神科医、児童心理学者、小児科医などが、いろいろとこどもの心理について研究してきました。その結果が、新聞や雑誌に発表されるたびに、世の親たちは熱心にそれを読んだものです。こうして私たちは、だんだんにいろいろなことを学んできました。

たとえば、こどもは、親の愛情を、なによりも必要とするということ、また、けっこう自分から、大人のように責任をもって、ものごとをしようと努力するものだということ、よく問題をおこす子は、罰が足りないのではなくて、愛情が足りないのが原因だということ、また、年齢に応じた教材を、理解のある先生に教えられさえすれば、すすんで勉強するものだということ、自分の兄弟姉妹に対して、多少やきもちをやいたり、たまには親に腹をたてたりするのも、ごく自然な感情であって、これをいちいちとがめだてする必要はどこにもないということ、生命の真実を知ろうと、こどもなりに興味を持ち、性への関心が出てくるのは、ごく自然なことだということ、闘争心とか、性への興味を、あまり強くおさえつけると、こどもをノイローゼにしてしまうこともあるということ、親がしらずしらずにやっていることも、こどもにとっては、親がそうしようと思ってやっていることとおなじように大きい影響を与えるものだということ、こどもは、めいめい独立した人間だから、そのように扱ってやらなければならないということ、などです。

こういった考え方は、今でこそ、もうあたり前のことになっていますが、発表された当時は、驚くべきことだったのです。というのは、それまで何百年ものあいだ、みんなが考えていたこととは、まるで正反対だったからで、そのために、こどもの本性はどういうものか、とかこどもにはどんなことをしてやらなければならないか、ということで、頭の切りかえができず、とまどってしまった親もたくさんありました。

これは「子ども性悪説」の否定であり、子どもをおとなと同じ人間と見ています。
日本では小児科医で児童心理学者の平井信義(1919年―2006年)が「しつけ無用論」と「叱らない教育」を提唱し、中でも『「心の基地」はおかあさん』という本は140万部のベストセラーになりました。

このような科学的な子育て論によって大きく変わったのが「抱きぐせ」についての考え方です。
昔は、赤ん坊が泣いたからといってすぐ抱きあげると抱きぐせがつくのでよくないとされていました(もっと昔は親子は川の字で寝て、母親や上の子がずっと赤ん坊をおぶっていたので、そんな考え方はありませんでした)。
赤ん坊の要求にすぐ応えると、赤ん坊はどんどん要求をエスカレートさせると考えられていたのです。赤ん坊を敵対的な交渉相手と見なして、駆け引きをしているようなものです。
騒ぐ子どもを静かにさせろというおとなも、そうしないと子どもはどんどんわがままになると考えているのでしょう。実際は、子どもが騒ぐのは今だけで、少し成長すれば騒がなくなります。
今は百八十度考え方が変わって、赤ん坊が泣けばすぐ抱くのがよいとされます。そうすることで赤ん坊は「基本的信頼感」を身につけることができるというのです。基本的信頼感があると、赤ん坊はよく探索行動をし、好奇心を発揮して、次第に親から自立していきます。
基本的信頼感がないと、赤ん坊はいつまでも親に依存し、自立が遅れることになります。

基本的信頼感のもとには、幸せホルモンとも呼ばれるオキシトシンの分泌があります。赤ん坊は授乳のときや母親と見つめ合うときや触れ合うときにオキシトシンの分泌が盛んになります。
こうしたことから、泣くとすぐ抱くと抱きぐせがつくのでよくないという説は“科学的”に否定されたといえます。
今ではこの“抱きぐせ”説を言うのは、子育てに口出しする祖父母の世代くらいではないでしょうか。


科学的に否定されたといえば、体罰肯定論もそうです。
厚生労働省は2017年から「愛の鞭ゼロ作戦」というキャンペーンを行っていて、そこにおいて「厳しい体罰により、前頭前野(社会生活に極めて重要な脳部位)の容積が19.1%減少」「言葉の暴力により、聴覚野(声や音を知覚する脳部位)が変形」といった科学的研究を示し、「体罰・暴言は子どもの脳の発達に深刻な影響を及ぼします」と明言しています。
これによって少なくとも社会の表面から体罰肯定論はなくなりました。

ここでは体罰とともに暴言も挙がっていますから、当然子どもをきびしく叱ることも脳にダメージを与えます。
「叱らない教育」への転換が求められます。


しつけ、体罰、叱責は子育てから排除されなければなりません。
そうすると家族のあり方も変わります。
保守派は家父長制、つまり父親が威厳をもって家族を支配するという家族を理想としていますが、父親の威厳はしつけ、体罰、叱責と不可分です。
父親が妻や子どもと対等の人間になれば保守思想は崩壊するといっても過言ではありません。


なお、「子どもを愛すること」と「子どもを甘やかすこと」の違いとか、子どもが悪いことをしたときに叱らなくていいのかといった疑問については「道徳観のコペルニクス的転回」を読んでください。

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結婚式のスピーチにはいくつかの定番ネタがあります。
たとえば「三つの袋」という話は、結婚したら月給袋、堪忍袋、お袋という「三つの袋」をたいせつにしなさいというものです。かなり時代遅れ感が強いですが、いまだに使われているようです。
「愛する─―それは互いに見つめあうことではなく、一緒に同じ方向を見つめることである」というサン・テグジュペリの言葉もよく使われ、味わい深いものがあります。

私がいちばん役に立つのではないかと思うのが「結婚前には両目を大きく開いて見よ。結婚してからは片目を閉じよ」という言葉です。
これは トーマス・フラーというイギリスの歴史家・聖職者の言葉であるそうです。
結婚前は相手をよく見きわめ、結婚したあとは相手の欠点に目をつむれという意味でしょう。

これを実践することができれば、かなり夫婦円満が期待できます。
しかし、実践する人は少ないでしょう。
片目を閉じろということは、自分で自分の判断力を信用するなということです。
たいていの人は自分を疑うということはしないものです。


人間は決して完全な存在ではありません。
私はそのことをここ2回連続で書いてきました。

「『性善説対性悪説』を終わらせる」
「アダム・スミスの倫理学と経済学」

人間性には善と悪の両面があり、人間は場面によって善人モードと悪人モードを使い分けています。
別の言葉でいえば、利他心モードと利己心モード、あるいは協調モードと闘争(競争)モードを使い分けているということです。

親族や共同体の親しい人間に対しては、人間は善人モードや協調モードで対応して仲良く暮らしています。
しかし、文明が発達し、遠くの人との交流が増え、扱う富が増えると、悪人モードになることが多くなり、不正をしてでも利益を得ようとします。
そうして文明社会では争いや不正が絶えないわけです。

ビジネスの世界では、ライバルに対して優位に立つために、機会あるごとにライバルの欠点や失敗を指摘し、また自分の実力を大きく見せて優位に立とうという闘争モードになっています。
家庭内では協調モードでなければなりませんが、多くの人はモードの切り替えができず、結婚生活に闘争モードを持ち込みます。


結婚して二人がいっしょに暮らすようになると、どうでもいい細かいことが気になるものです。
スルーすればいいのに、つい口にしてしまいます。
「電気消し忘れてたよ」
「ドア開けっ放しじゃないか」
失敗ともいえない“うっかりミス”といった程度のことです。
こうしたうっかりミスは、指摘されたからといって直ることはまずありません。
ですから、たいてい指摘してもむだなことに気づいて、そのうち指摘しなくなります。
しかし、中には指摘し続けて、「何度言ったらわかるんだ。電気代がもったいないじゃないか。地球環境のことも考えろ」のようにエスカレートしていく人もいます。そうすると当然、夫婦仲が悪くなります。
そうしたことを避けるために「結婚してからは片目を閉じよ」というアドバイスはきわめて有効です。


食事中や洗い物をしているときに食器が割れることがあります。高価な食器やたいせつにしていた食器だと、つい割った人間を非難してしまいます。
「また割ったのか。いい加減にしろよ」
足を踏まれて痛いと、腹が立ちます。
「痛ッ。謝りなさいよ」
故意に食器を割るわけではありませんし、わざと足を踏むわけでもありません。
ですから、相手を非難しても改善されるわけではありません。

カントは、行為は結果ではなく動機で評価するべきだといっています。つまり高価な食器が割れたという結果で評価してはいけないというのです。
しかし、世の中では、まったく悪気はないのに過失によって重大な結果が生じると、罪に問われたり損害賠償を求められたりします。つまりカントの教えに反して、動機ではなく結果で評価するということが社会のルールになっています。
そのため、家庭内にもそのルールを持ち込んでしまうのでしょう。
しかし、そうすると、悪意のない相手を非難することになり、非難されたほうは納得がいかないので、そこから夫婦喧嘩に発展することもあります。
ここでも「結婚してからは片目を閉じよ」というアドバイスが有効です。


ここで気づくべきは、社会のルールと家庭のルールは違うということです。

社会では、うっかりミスや悪意のない失敗を非難することが普通に行われています。
会社の部下が失敗したとき、上司は部下を非難することで自分の優位を確認します。部下も失敗した引け目があるので、非難されても受け入れるしかありません。
取引先の失敗や不備も、見つけたらすかさず指摘します。そうすれば取引を有利に運ぶことができます。
ビジネスの世界では、うわべはビジネスマナーなどを駆使して友好的に見せかけていますが、水面下では激しい闘争が行われているわけです。
このやり方が当たり前だと思うと、家庭内でも同じことをやって、夫婦関係を壊してしまいます。

「こんなことも知らないのか」「こんなこともできないのか」と言って、相手の能力がないことを非難することもよく行われます。
そうする一方で、自分の知識や能力を誇示します。
これも相手をおとしめて自分が優位に立とうとする闘争モードです。
家庭内でこれをやるのはたいてい男です。夫婦間に上下関係をつくろうとするのです。
これはモラハラ、パワハラにつながって、かなり悪質ですが、もとをたどれば社会のルールと家庭のルールが違うことを理解していないだけかもしれません。

なお、「男は敷居をまたげば七人の敵あり」という言葉があります。
これも競争社会の苛酷さをいっているようですが、この言葉が使われるのは「男は外で苦労しているのだから、家庭ではわがままにふるまっても許されるべきだ」という意味の場合がほとんどなので、社会の闘争原理を家庭内に持ち込んでいるのと変わりません。


社会の闘争原理を家庭に持ち込んでしまうのは、そこに道徳がからんでいるからでもあります。
つまり相手を非難するのは道徳的行為だという粉飾がなされているのです。
道徳的行為なら家庭内でもやっていいということになります。

こういう道徳のとらえ方は常識と逆なので、とまどう人が多いかもしれません。
道徳は「人のよい生き方を示す指針」というのが普通のとらえ方です。
しかし、道徳の実際の使われ方は「お前はよい生き方の指針に反する悪いやつだ」というように人を攻撃する道具として使われます。道徳の規準に反すると「だらしない」「怠けている」「無責任だ」「自分勝手だ」など攻撃されます。
インターネット空間にはこうした人を攻撃する言葉があふれています。それらの言葉は道徳が生み出しているのです。

人を道徳で攻撃してもなかなか世の中はよくなりません。むしろ悪くなります。
ただ、道徳は便利な道具ではあるので、手離すことはできません。警察や検察が手を出さない悪徳政治家を攻撃するときは道徳や倫理を使うしかありません。

私たちは人を道徳的に評価することに慣れているので、つい配偶者も道徳的に評価してしまいがちです。
道徳的評価というのは、よいところと悪いところを分けるわけです。
よいも悪いもなく相手のすべてを受け入れるのが愛です。愛と道徳は根本的に違います。
相手が失敗してもバカなことをしても、すべて許して、むしろ笑いのネタにしていれば、結婚生活は幸せです。


ところで、私は熱いものは熱々で食べたいタイプです。
ところが、妻は猫舌ということもあって、結婚当初、熱い料理を出す気があまりないようでした。私がその料理はすぐに食べるべきだと言ってもあまり取り合ってくれません。料理ができてからまな板を洗ったりして、料理が冷めることに平気です。
妻の実家に行ったとき、妻が母(私の義母)といっしょに料理をして、大量の天ぷらを揚げました(家族が多いので)。当然最初のほうに揚げた天ぷらは冷めていて、全部が大皿で出てきます。「こちらが揚げたてですよ」ということもありません。
要するに熱い料理を出すということにこだわりのない家なのでした(義母も猫舌です)。
私は自分の要求が無視されることに不満を持っていましたが、妻は生家のやり方を踏襲しているだけだったのです。
ちなみに私の生家では、父が晩酌することもあって、料理ができたらすぐ持ってこいと母に要求していました。私はそれに影響されていたようです。

また、私は妻の言葉づかいに気になることがありました。その言葉を聞くと、なにかバカにされているような気がするのです。ただ、妻に私をバカにする様子はまったくないので、気にしないようにしていましたが、その言葉を聞くたびにもやもやしていました。
妻の実家に行くと、義父がまったく同じ言葉づかいをしていました。妻は義父の真似をしていただけで、私に対してなにか思っていたわけではないのでした。
ほかにも妻の言動の理解しがたいところが、妻の実家を観察することで理解できるということが多々ありました。

人間のかなりの部分は生まれた家庭環境によって決定され、それはすぐには変わりません(時間がたてば変わります。妻も今では熱い料理を出します)。
配偶者の言動に納得いかないところがあり、それがなかなか変わらないと、自分に対するいやがらせではないかと邪推しがちですが、そうした納得いかないところは配偶者の実家に行くとかなりの程度解明されます。
結婚してから閉じた片目は、配偶者の実家を観察するのに見開いて使うのが賢明です。

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経済学は自己の利益の最大化を目指す「合理的経済人」という人間観を土台にした学問だとされます。
私はそのことを知ったとき、「『人はパンのみにて生くるにあらず』というのに、パンのことだけか」と思ったのを覚えています。
パン以外の、幸福とか生きがいとかは眼中にないのかと思いましたし、なによりも利益追求は人間性の一部でしかないだろうと思いました。

このことには経済学者も引け目を感じているようで、利益以外の面、具体的には倫理や道徳をなんとかして経済学と結びつけようとしてきました。
その代表的なものがマックス・ウェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』です。プロテスタントの禁欲的精神が勤勉や貯蓄となって資本主義の発展につながったという逆説的なことを述べた本で、まさに経済と倫理を直結させています。

渋沢栄一は『論語と算盤』という本を書いていて、新一万円札の顔になるということから、改めて注目されています。『論語』の精神を経営に生かすということを述べているので経営学の本というべきですが、「道徳と経済の合一説」ということも主張しています。

ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センの『経済学と倫理学』という本も、タイトルそのままに経済学と倫理学の関連を論じています。

しかし、このような経済学に倫理学を結びつけようとする試みはうまくいっていません。
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にしても、プロテスタントの国でなくても経済発展する国はいくらでもあることがわかって、最近はあまり評価されていません。


そこで、最近注目されているのがアダム・スミスです。
アダム・スミスは最初に『道徳感情論』という倫理学の本を書いて高く評価され、その次に『国富論』という経済学の本を書きました。
今ではアダム・スミスといえば『国富論』で知られ、“経済学の父”とされますが、『道徳感情論』のほうはすっかり忘れられています。

スミスは生涯にこの二冊しか本を書いていません。どちらの本もスミスは死ぬまでに何度も改訂していました。
スミスの中で経済学と倫理学は結合していたはずです。





スミスは『道徳感情論』で、道徳の根拠として人間の感情を挙げました。
人間には他者に共感する性質があり、他者の喜び、悲しみ、怒りなどの感情を自分のことのように感じることができるといいます。しかし、人間はすべての感情に共感するわけではありません。ささいなことで激しく怒っている人を見れば、共感することはありません。つまり他人の感情に是か非かという評価を下しています。
ということは、自分もまた他人から評価されているわけです。人間は誰でも他人からよく評価されたいので、そのようにふるまおうとします。しかし、こちらの人によく評価されると、あちらの人から悪く評価されるということもあります。そのような経験を積むうちに、自分と他人を公平に判断する裁判官のような第三者を胸中につくることができるとスミスは言います。この「公平な観察者」によって人間は公平な判断が下せるというわけです。
つまり人間は公平な判断ができ、それによって公平な法律をつくり、秩序ある社会をつくってきたということです。


スミスの思想はイギリス経験論に分類されます。
スミスと同じスコットランド出身のデイヴィッド・ヒュームは、人間の本性(human nature)に道徳の根拠があるとしました。
スミスはより具体的に人間の感情(sentiments)に道徳の根拠があるとし、しかもかなり論理的に説明したので、これが世の中から評価されました(この説はチャールズ・ダーウィンにも影響を与えました。感情は人間と動物に共通しているので、進化論にとって好都合だったからです)。



スミスは次に『国富論』を書きましたが、このときもまったく同じ人間観でした。つまり公平な判断ができる人間を前提としています。
同じ人間観なのに、『国富論』は歴史的名著となり、『道徳感情論』はほとんど忘れられてしまったのはどうしてでしょうか。

まずひとつ言えることは、「公平な人間」観は間違っていたということです。
たとえば日本は韓国と竹島の領有権を巡って争い、中国とは尖閣諸島の領有権を巡って争っています。これらにおいて、日本人はつねに日本に有利な主張をし、韓国人も中国人も自国に有利な主張をしています。誰も「公平な判断」はしません。
人類は数えきれないほど戦争をしてきましたし、愛し合って結婚した夫婦も数えきれないほど夫婦喧嘩をします。「公平な判断」ができないからです。

人間は利己的です。しばしば公平の基準を越えて不当に利己的にふるまい、争いを引き起こします。
スミスは人間性を買いかぶりました。
もっとも、それはスミスだけではありません。西洋の倫理学はすべてそうです。
プラトンは「善のイデア」ということをいい、アリストテレスは「最高善」ということをいい、ソクラテスは「徳」をいいました。カントも「最高善」といっています。
人間は努力して「最高善」を目指すべきであるというのが倫理学の基本です。
しかし今、倫理学は見向きもされない学問です。図書館や大型書店の倫理学の棚の前にはいつも人けがありません。
ですから、『道徳感情論』が忘れられてしまったのは当然です。

むしろ問題は、間違った人間観をもとにしている『国富論』がなぜ成功したかです。
これは対象を経済活動に限定したことに理由があります。

人間は不当に利己的にふるまう傾向があるといっても、公平の客観的な基準がある場合は別です。不公平なふるまいをすれば周りから非難されます。
経済活動はだいたい客観的な基準に基づいて行われます。物々交換の時代にも、物の個数や重さを互いに確認して取引したはずです。貨幣ができてからは、物だけでなくサービスの価値も客観化できるようになりました。
そして、株式市場や競り市のような公開の場で取引が行われれば、公平にふるまわざるをえません。

スミスは、人間が公平にふるまうので「見えざる手」がうまく機能すると考えていました。
しかし、株式市場のような場でも、人間は隙あらばインサイダー取引や不正な相場操縦行為をしようとしますし、あらゆる経済活動の場で詐欺や不正が行われる可能性があります。
そのため警察、証券取引等監視委員会、国民生活センターなどの「見える手」がつねに不正を排除することで経済を回しているのが現実です。

スミスの説は「夜警国家論」ともいわれます。
しかし、現実には社会にはさまざまな問題が生じて、警察だけでなく行政も肥大化しています。人間は公平でないからです。

ただ、ルールが決まっていて、衆人環視のもとで経済活動が行われれば、人間は公平にふるまいます。
そして、公平な市場において価格が決定されれば、価格メカニズムにより商品、資本、労働、土地が適切に配置されます。
この価格メカニズムについての理論がすばらしかったので、人間観が間違っていたにも関わらず『国富論』は高く評価されたのです。


ただ、スミスの「公平な人間」観は間違いだと言い切ってしまうのも違うかもしれません。
前回の「『性善説対性悪説』を終わらせる」という記事に書いたことですが、人間には善人の面と悪人の面の両面があります。
人間は血縁者と親しい人間には利他行動をします。したがって、共同体の中では公平な人間としてふるまうといえます。
ですから、親密な人間を相手にして単価の安い商品を扱うなら、性善説を前提としたビジネスが可能です。
しかし、今の資本主義社会では、ビジネスで扱う金額が大きく、広範囲な人間を取引相手とするので、不正をする可能性がきわめて高くなります。
人間を公平にふるまわせるには監視と罰則が必要です。


これまでのことをまとめます。
従来の倫理学はまったく価値のないものです(私は「天動説的倫理学」と呼んでいます)。
スミスの『道徳感情論』もそれと同じで、「公平な人間」というありえない人間観を提起したので、今ではほとんど忘れ去られました。
『国富論』も同じ人間観ですが、経済活動は監視しやすいために人間観の間違いはあまり問題にならず、価格メカニズムに関する経済理論が優れていたために歴史的名著となりました。

なお、経済学と倫理学を結びつけようという試みがすべてうまくいかないのは、倫理学が根本的に間違っているからです。
これまで経済学が人文・社会科学の中で比較的成功した学問であったのは、倫理学を完全に切り離していたからです。
経済学と倫理学を結合したければ、倫理学を根本的に変革しなければなりません。

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世の中に性善説と性悪説があることは、孟子と荀子の説として中学か高校で習いましたが、こんな単純なことがわからないのかと思ったのを覚えています。
このことがわからないために、さまざまな混乱が生じています。

たとえば新型コロナに対する緊急経済対策として持続化給付金制度が実施されましたが、給付のスピードを優先して簡単に申請できる仕組みにしたことで不正が横行し、2022年6月1日時点で持続化給付金詐欺事件で摘発されたのは3655人、被害総額約31億8000万円となっています。ほかにも新型コロナワクチン接種事業における過大請求や無料PCR検査事業における検査数の水増しなども発覚しています。
こうしたことから「性善説を前提とした制度はだめだ」という声が高まりました。
しかし、性悪説に立って厳密な審査を行うと給付が遅くなります。単純に性悪説がよいとはいえません。世の中はある程度人を信用することで回っています。

現実には、人はみな場面によって性善説と性悪説を使い分けています。
ひろゆき氏はYouTubeで「個人は性善説、組織は性悪説」という説を述べていました(たぶん思いつきです)。
私が見るところ、多くの人は「他人は性悪説、自分は性善説」という説を採用して、自分のことを棚に上げて他人を批判しています。
要するに性善説か性悪説かという問題には、正解がないのをいいことにみんな適当なことを言っているのです。


このように混乱するのは、善か悪か、白か黒かという二分法に陥っているからです。
人間性に完全な善や完全な悪があるわけありません。その中間のはずです。
問題はどの程度善で、どの程度悪かです。
私の考えでは、人間性はおおむね善で、少し悪が入っているというところです。かなり白に近い灰色というイメージです。
別の言い方をすれば、人間性の根底は善で、表層に悪があります。
これは客観的に観察することができます。


私は20代の終わりごろ、東京都練馬区に引っ越しました。
周りにはけっこう畑があり、無人野菜販売所もありました。
私はそのとき初めて無人野菜販売所を見たので、衝撃を受けました。
何種類かの野菜が置かれていて、100円か150円かを箱に入れて好きな野菜を持っていくというシステムです。お金を入れなくても野菜を持っていくことができます。人の目はありませんし、監視カメラもありません。
私は自分が試されている気がしました。お金を入れずに野菜を持っていくのが“合理的”かもしれません。少なくともお金を入れる理由を考えなければなりませんでした(私はそのころから道徳を疑っていたので、道徳は行動の基準にしませんでした)。

私は「自分が信頼されている」と感じました。そうすると「信頼に応えなければ」という思いが生じました。
厳密には無人販売所の設置者は私という人間を信頼しているわけではありませんが、人を信頼することで成り立つ業態であるのは確かです。

それから私が考えたのは、私がお金を払わずに野菜を持っていって、ほかにも同じことをする人間が何人もいたら、この販売所はつぶれるだろうということです。
ここの野菜は、明らかに新鮮で、割安です。タダで少しの野菜を手にいれても、この販売所がなくなったのでは、トータルで自分の損になるだろうと判断し、お金を払うことにしました。

ともかく、無人販売所が成り立っているのは、多くの人が誰も見ていないのにちゃんとお金を払っているからです。そういう意味では性善説が正しそうです。
ただし、全員が払っているわけではありません。「無人野菜販売所 盗み」で検索すると、そういう事例が多数あることもわかります。
最近はコインを入れると野菜が取り出せるシステムになっているところもよく見かけますから、やはりある程度盗まれているのです。
このことからも「人間性はおおむね善で、少し悪が入っている」ということがいえると思います。


善と悪の比率については、『ヤバい経済学』(スティーヴン・D・レヴィットとスティーヴン・J・ダブナーの共著)に出てくるベーグル売りの話が参考になります。

ワシントンでアメリカ海軍のために兵器購入費を分析する職についていたポール・フェルドマンは、ベーグルをつくるのが得意で、いい成績を上げた部下に自家製のベーグルをプレゼントしていました。すると、噂を聞きつけたほかの部署の社員もベーグルをくれとやってきたので、彼が持ってくるベーグルは週に15ダースにもなりました。コストを回収するために、代金入れのカゴと希望価格を書いた札を置きました。回収率は95%くらいでした。
研究所の経営陣が変わったのを機に、フェルドマンは退職してベーグルを売って暮らすことにしました。オフィス街を車で売り込みに回りました。彼のビジネスシステムは、彼が朝早くベーグルと代金入れを会社のカフェテリアに届け、ランチタイムの前にまたやってきて代金と売れ残りを回収するというものです。それがうまくいって、数年で配達するベーグルは週に8400個、客は140社になり、勤めていたとき以上の収入を得るようになりました。
フェルドマンは最初から商売の詳しいデータをとっていたので、どんな会社でどんな人間がどれぐらいベーグルを盗んでいるのかが明らかになりました。
彼が勤めていたときの職場での回収率は95%でしたが、これはみな顔見知りの人間だったからのようです。だいたいの会社は回収率が80%から90%でした。90%以上の会社は「正直者の会社」だと思いました。いつも80%を下回っているような会社には警告文のメモを張りました。
全体の回収率は87%でしたが、9.11テロが起こると2%はね上がりました。
小規模のオフィスのほうが大規模なオフィスよりも正直な傾向がありました。これは都会よりも田舎のほうが人口当たりの犯罪件数が少ないのと似ています。
会社で地位の高い人のほうが低い人よりもごまかす傾向がありました。フロアが三つあって、いちばん上が役員のフロア、下二つが営業、サービス、管理などに携わる従業員のフロアとなっている会社では、上のフロアのほうが盗みが多かったのです。
金持ちや権力者ほど悪いことをする傾向は、ほかの科学的研究でも明らかになっていて、「お金持ちほど人をだます傾向あり、米研究」という記事にも書かれています。

つまり性善説を前提にしたビジネスが成り立ったのです。
もっとも、これはワシントンのオフィス街のまともな会社が舞台です。
そのへんのストリートの一角にベーグルと代金入れを置いたら、たちまちベーグルもお金も盗まれてしまうに違いありません。

なお、フェルドマンは最初、カゴに代金を入れるようにしていましたが、代金を盗まれることがけっこうありました。そこで木箱の上に細い穴を空けたものを代金入れとしました。そうすると木箱が盗まれるのは年間一個ぐらいでした。カゴからお金は盗めても、木箱まるごとは盗みにくいようです。

もっとも、木箱の中に大金が入っていれば別です。
ベーグルも野菜も単価が安いので成り立つ商売です。宝石の無人販売所はありえません。


それから、フェルドマンはベーグルの配達と代金の回収と一日に二回会社を訪問していますから、そこの会社の人間ともある程度関係ができているでしょう。顔を合わさなくとも「ベーグルを持ってくる人」と認識されているはずです。
人間は親しい関係の人間に損を与えるのは心理的抵抗があります。いわゆる“良心の呵責”です。

これは進化生物学で説明がつきます。
血縁者への利他行動は包括適応度として、血縁のない者への利他行動は互恵的利他行動として理論化されています。
血縁者へ利他行動をするのは当たり前ですが、互恵的利他行動というのは、そのときは損でも、相手がお返しをしてくれることで双方が得をするような行動です。
ただし、互恵的利他行動が成り立つのは、ある程度持続的な関係のある場合です。行きずりの関係では「旅の恥はかき捨て」のようなことになります(もっとも行きずりの他人でも人間的な親しみを感じると無償の利他行動をすることもあります)。

無人野菜販売所も狭いコミュニティの中で存在しています。多くの人が通るようなところではできないでしょう。
スーパーマーケットではよく万引きが起きます。万引きしても被害者の顔が想像できないので、良心の呵責がほとんどないからです。
個人経営の商店から万引きするのは、被害者の顔がわかっているので、良心の呵責があります。

脱税は立派な犯罪ですが、これも被害者の顔が見えない犯罪なので、良心の呵責はほぼありません。もし税務署に絶対見つからない脱税方法があるとすれば、脱税の誘惑から逃れられる人はほとんどいないでしょう。


狩猟採集生活をしていたころの人類は、多くて150人程度の集団で暮らしていたと思われます。つまりみんな親族か親密な仲間で、完全な共同体です。
そういう社会では性善説が通用していました。
しかし、経済が発達し、扱う富が増え、人との交流も増えると、不正をして利益を得たくなる機会も多くなります。
今でも田舎では昼間家に鍵をかけないことが多いのではないでしょうか。都会では怪しいセールスや宗教の勧誘などが多いのでほとんどの家は鍵をかけています。
つまり親密な人間関係の中では人間は善人として生きていけるので、性善説が通用しますが、文明化と都市化が進むとともに性悪説を採用せざるをえなくなります。


そういうことを考えると、持続化給付金制度は中小企業に200万円、個人事業主には100万円を給付するという制度で、金額が大きく、しかも不正給付を受けたときの被害者は国なので、良心の呵責もないので、不正したくなる条件がそろっています。
ですから、この制度を始めるときに、給付のスピードを重視して審査を甘くしたのはいいとしても、不正が起きやすいことを見越して、「のちほど厳密な審査をして不正は必ず発見して厳罰に処する」という広報もするべきでした。そうすればある程度不正は防げたでしょう。


ここまで「性善説対性悪説」というテーマを論じてきましたが、実は論じてきたのはもっぱら損か得かでした。
善か悪かというのは、どうやっても論理的に論じることはできません。
ですから、善か悪かは、損か得か、利他か利己かに置き換えて論じるのが賢明なやり方です。
損か得かなら、話し合いで解決できますし、第三者の視点を入れるということもできます。
善か悪かとしてしまうと、話し合いで解決することはできないので、最終的に戦争になったり夫婦喧嘩になったりします。


「善と悪」は「損と得」とつながっていて、関係式で結ばれています。
このことは「究極の思想」であるところの「道徳観のコペルニクス的転回」を理解すればわかります。

別ブログの「道徳観のコペルニクス的転回」をお読みください。

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イオンシネマが車椅子ユーザーに対して不適切な対応があったとして謝罪したところ、ヤフコメやXには逆に車椅子ユーザーを非難する投稿があふれました。
私は漫然とそれを見ていて、車椅子ユーザーにも非難されるところがあったのかなと思っていましたが、「車椅子専用席を使うべきだ」とか「映画館のスタッフは介助が仕事ではない」とか「人の善意に甘えるな」といった書き込みを読んでいるうちに、疑問がふくれ上がってきました。それらの書き込みには同情や思いやりがまったく感じられないからです。
そこで詳しく調べてみました。


中嶋涼子という車椅子インフルエンサーの人がXに投稿したのがきっかけでした。その一部を引用します(全文はこちら)。
今日は映画「#52ヘルツのクジラたち」を見てきたんだけど、トランスジェンダーの人が生きづらさを抱え差別を受ける話で辛すぎて発作起きるくらい泣ける映画だったんだけど、その後更に泣ける事があった。

ちょうどいい時間の映画がイオンシネマのグランシアターっていうちょっとお値段張るけどリクライニングできて足があげられるプレミアムシートがある豪華な劇場で4段の段差がある席しかないところで見たんだけど、今まで何度もその劇場に一人で見に行って映画館の人が手伝ってくれてたのに、今日は見終わった後急に支配人みたいな人が来て急に「この劇場はご覧の通り段差があって危なくて、お手伝いできるスタッフもそこまで時間があるわけではないので、今後はこの劇場以外で見てもらえるとお互いいい気分でいられると思うのですがいいでしょうか。」って言われてすごい悲しかった。。

「え、でも今まで手伝って頂いて3回以上ここで見てるんですが?」って言ったら、他の係員に聞いたところそう言った経験はないとおっしゃっていまして、ごめんなさいって謝られて、なんかすごく悔しくて悲しくてトイレで泣いた。

この投稿が少しバズったからでしょうか、イオンシネマを運営するイオンエンターテイメントは「弊社従業員がご移動のお手伝いをさせていただく際、お客さまに対し、不適切な発言をしたことが判明いたしました」「弊社の従業員への指導不足によるものと猛省しております」といった謝罪文をXに発表しました。
そして、そのことが『イオンシネマ、移動の手伝いで「従業員が不適切な発言」と謝罪。車椅子ユーザーの介助巡り議論に』という記事になってヤフーニュースに載ったというわけです。


イオンシネマが謝罪したのですから、イオンシネマに非があることは明らかです。
にもかかわらず車椅子ユーザーに対する非難があふれたのはどうしてでしょうか。
そこにはいくつかの誤解がありました。

多くの人は、中嶋さんは車椅子専用席があるにもかかわらず一般席に座ることを要求してトラブルになったと思い込んでいます。
しかし、この「グランシアタ―」には車椅子専用席はなく、36席すべてが足を伸ばせるゆったりしたリクライニングシートになっていて、料金も3000円(ワンドリンク付き)という豪華なシアターです。
このシアターは「サービス料金適用外」となっているので、障害者割引は使えないはずです。

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中嶋さんは以前に3回以上このシアターを使ったことがあるということです(そのときの写真をアップしているので、少なくとも1回は使っています)。
今回に限って次回からの利用を断られたということで、納得いかないのは当然です。

“活動家”が車椅子の行動範囲を広げるためにあえて映画館に無理難題を要求しているというのも誤解です。中嶋さんはそのシアターが気に入って何回も使っているだけです。

車椅子専用席のあるシアターで観ればいいという意見もありますが、車椅子専用席はたいてい最前列にありますし、同伴者といっしょになれないということもあります。
高い料金を払っていい席で観たいと思うのはおかしくありません。


今年の4月1日から改正障害者差別解消法が施行され、行政機関及び民間事業者において障害者に対する「合理的配慮」が法的義務となります。
「合理的配慮」とはなにかということですが、「実施に伴う負担が過重でないとき」という条件がついているので、事業者が「負担が過重である」と判断して、その判断が客観的に見て合理的であれば、障害者の要求を断ることができます。

「映画館での車椅子の利用」が過重な負担になるかどうかは、その映画館の構造やスタッフの配置によっても違ってくるので、一概にはいえません。

問題は車椅子を人ごと持ち上げるときの負担にありそうです。
中嶋さんはこんなことをXにポストしていました。

過去3回グランシアターで見た時には、女性のスタッフさんが二人で階段を持ち上げてくれて、映画鑑賞後に「せっかくこんな豪華なところで見れたので写真とか撮ってもいいですか?」って言ったら快く写真まで撮ってくれたりしていた状況から、急に4人がかりのスタッフで上映後に入場拒否をされた事が理不尽でした。

調べると、車椅子を人ごと持ち上げる場合は4人以上が推奨されています。
イオンシネマが2人から4人に方針転換したのかもしれません。そのために「過重な負担」になったということはありえます。
ただ、このときは4人いて対応できています。多くのスタッフがいるシネコンで4人の人手が集められないということがあるのでしょうか。

イオンシネマの判断が妥当かどうかというのは私には判断がつきません。
私だけではなく一般の人には誰にも判断がつかないはずです。


ただ、「支配人みたいな人」の対応に問題があったのは確かです。

今後の利用を断るなら、「当方の方針が変わりました」などとその理由を説明するべきです。なんの理由も示さずに断られるとショックを受けるのは当然です。

それよりももっと問題なのは、そのときの言い方です。
「今後はこの劇場以外で見てもらえるとお互いいい気分でいられると思うのですがいいでしょうか」と言ったというのですが、これはひどい言い方です。
通常は「たいへん申し訳ありませんが、次からはご利用を控えていただけないでしょうか」と低姿勢で言うところです。
この言い方は、「あなたがいい気分になるように私が判断してあげます」ということで、相手の判断力を無視した上から目線の言い方です。
これは「強者が弱者に『あなたのため』と言いながら本人の意志を無視して介入・干渉すること」というパターナリズムの典型です。
相手が身障者だということで見下し、さらに若い女性だということで見下したのでしょう。
こんな言い方をされれば、普通ならぶち切れてもおかしくありませんが、弱い立場だとそうもいきません。

イオンシネマが「不適切な発言」を認め、「従業員への指導不足」を猛省したのは当然です。


ところが、世の中にはこの「支配人みたいな人」がいっぱいいて、車椅子ユーザーを誹謗中傷する声があふれました。
今の時代は匿名で誹謗中傷しても、発信元を突き止められて損害賠償請求をされることがありますから、人を批判するときは確かな事実に基づかないといけません。
ところが、差別心から発信する人は、自分の差別心を正当化するためにデマを信じたり、自分で勝手に捏造したりします。
「車椅子専用席があるのに一般席に座ることを要求した」というのがその典型です。
「電動車椅子を持ち上げさせた」というのもありました。
「車椅子が通路をふさいでいざというとき避難できない」というのもありましたが、車椅子はたためますし、グランシアタ―はスペースがゆったりです。

その次は道徳的批判です。
たとえばXや5ちゃんねるにあったこんな書き込みです。
障害の有る無しに関わらず、助けてもらう、配慮してもらう事に当たり前に慣れすぎて感謝をしなくなった人は批判されて当然なのよ
今回の炎上も同じ
車椅子ユーザーが批判されてんじゃないの
あの人の傲慢な精神が批判されてんの
障がいをお持ちの方々が健常者と同じように社会生活を過ごしたいと思うのは自然なこと。
でも「障がいを持つ私をもっと大事に扱いなさい」の姿勢はただの傲慢です。
ご迷惑をおかけしますが…の姿勢が大事。
障がい者も健常者も、それは同じですからね。
もう、車椅子ユーザーとか障害者様とか関係なく「わがままで傲慢な奴は助けない」が答えになっちゃってる。 
たとえ障害者差別解消法が新しくなっても合理的配慮が義務化されても、企業はともかく一般の人は助けないと思う。
しょうがないよね、そういう方向に持っていった障害者様がいるんだから。
「障害者差別」と「道徳」が完全に一体化しています。


好きな席で映画を観たいという車椅子ユーザーにはなんの問題もありません。
問題はすべてイオンシネマの側にあります。途中で対応を変え、変えた理由を説明せず、車椅子ユーザーを見下した言い方をしました。

シネコンで車椅子ごと人を運ぶのが「過重な負担」か否かというのは誰にも容易に判断できないのに、シネコンよりも車椅子ユーザーを非難する人があふれたのは、この国の身障者差別状況をよく表しています。

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AIが進歩して人間の知能を超えると、人類を支配したり人類を滅ぼしたりするのではないかという議論があります。

チェスでは1997年にAIが人間の最強プレーヤーに勝利しました。
将棋では2013年にAIがプロ棋士に初勝利し、2015年に名人に勝利しました。
囲碁では2016年にAIが当時世界トップクラスとされていた韓国人棋士に勝利しました。
AIが人間を超えたこれらの世界はどうなっているのでしょうか。

私は囲碁が趣味で、大学時代は囲碁部に属して全国大会でベスト8になったこともあります。
最近は人と囲碁を打つことはありませんが、テレビ対局のNHK杯戦と竜星戦を録画して見て、新聞の囲碁欄を読み、囲碁関係のニュースはだいたいチェックしています。

今では囲碁のAIは圧倒的に強くなり、トッププロでもハンデがなければ勝負にならないとされます。
NHK杯戦では対局者が次の手を考慮中に、AIの推奨手が画面にA、B、Cで表示されます。
AIが意外な手を推奨して、解説者が「こんな手がありますかねえ」と首をひねることがあります。
そんなときに対局者がAIの推奨手を打つと、解説者や聞き手の女流プロ棋士が「さすがですね」と感嘆の声を上げます。人間がAI並みになると賞賛されるのです。

人間がAIを超える手を打つこともあります。
テレビ対局ではAIが判定した形成判断が勝率のパーセントとしてつねに表示されています。対局者が悪い手を打つと勝率が低下します。よい手を打っても通常は勝率は上がりません。それはAIの想定内だからです。
ときたま対局者が一手打つと勝率が上がることがあります。それはAIを超えた手ということです。しかし、そういうことはめったにありません。一局のうちに一度もないことのほうが多いでしょう。
つまりほとんどの場合、AIの手のほうが人間の考えた手よりよいのです。
AIのほうが人間より強いのですから、当然です。


今のプロ棋士は、一部の年配の棋士を除いて、みなパソコンでAIを使って研究しています。
AIは、その手がいい手か悪い手か、すぐさま勝率の数字で示します。
今までの常識にない手、自分の感覚に合わない手をAIがよしとすることもあります。AIはなんの説明もしないので、自分で判断するしかありませんが、自分よりAIのほうが強いのですから、誰でもAIの手を選ぶことになります。

囲碁では序盤の決まった打ち方を「定石」といい、定石を覚えることが上達の王道とされてきました。
ところが、AIはまったく定石外れの打ち方をし、それを「AI定石」といいます。
今はプロ棋士もみなAI定石を打ち、アマチュアも真似をしますから、昔の定石はほとんど打たれなくなりました。
私なども、せっかく勉強して覚えたことがほんどむだになったわけです(定石のもとにある考え方は役に立ちますが)。

その結果、どういうことになったかというと、棋士の個性がなくなりました。みんな同じAI定石を打つからです。
一昔前は、たとえば武宮正樹九段は“宇宙流”と呼ばれる独特の布石をして、序盤の盤面を見るだけでそれが武宮九段の碁だということがわかりました。
また、ちょっと古くなりますが、木谷実九段は石が低いところにいく独特の打ち方をして、“木谷定石”といわれるものがいくつもありました。ほかの棋士は木谷定石を打つことがめったになかったので、盤面に木谷定石が現れれば、それは木谷九段の碁だと判断してほぼ間違いありませんでした。

つまり昔は多様な打ち方があって、そこに棋士の個性が出ていました。
しかし、今はみんなが“偉大な師匠”であるAIの真似をするので、みんな同じ打ち方になっているのです。
これははっきりいって、つまらないことです。
中盤の打ち方も、AIの真似をするので似ています。
私は対局の録画を見ていて、前に見た録画をまた見ているのではないかと思ったことが何度もあります。


こんな小話があります。
「二人の神様が碁を打つことにした。一人の神様が第一手を打つと、もう一人の神様は少し考えて『なるほど。それでわしの負けじゃな』と言って投了した」という話です。

運の要素がなく、すべてが論理で割り切れるゲームは、いずれ最終的な結論、必勝法ないしは必然的に引き分けになる方法にたどりつくはずです。つまりそのゲームは“クリア”されるわけです。

AIが人間よりも強くなると、将棋や囲碁の人気がなくなるのではないかという説がありましたが、今のところそういうことはなさそうです。日本の囲碁人気は低下していますが、世界的に人気は上向いています。将棋は藤井聡太八冠のおかげで人気があります。チェスはもっとも早くAIが人間よりも強くなりましたが、チェスの人気が衰えることはなく、Netflixのドラマ「クイーンズ・ギャンビット」の影響もあって、現在は空前のチェス人気だそうです。
しかし、必勝法が解明されると、さすがに人気はなくなるかもしれません。


将棋は囲碁よりも必勝法の発見は早いはずです。
私は将棋の実力はぜんぜんたいしたことはありませんが、たまに将棋のNHK杯戦を見ることがあります。そうすると、序盤を両対局者がすごい早さで指しているのにびっくりします。
今はAIによって序盤の指し方の研究が進んで、最初に戦法が決まれば、そのあとの変化の余地がほとんどないのです。
まだ研究が確定していない中盤になって、やっと考えながら指していくことになります。
どんどん研究が進めば、最終的に玉を詰ますところまでいく理屈です。


現在、若手棋士はAIの示す手を積極的に取り入れていますが、年配の棋士は心理的な抵抗からあまり積極的ではありません。
その結果、若手棋士が活躍し、年配の棋士は片隅に追いやられています。

今やほとんどの棋士がAIに盲目的に従っています。
「盲目的に」というのは、AIはなにも説明しないので、わけもわからず従っているからです。
これは神を信仰するのに似ているかもしれません。

人間は人工知能をどうしても擬人化して理解しようとします。
そうすると、人間の知能を超えた人工知能を神にたとえるのは自然なことです。


『創世記』における神は人間に残酷です。
神は自分の言いつけにそむいて善悪の知識の実を食べたということでアダムとイブを楽園から追放します。罰する神で、許す神ではありません。
神はアベルの供物は受け取りますが、カインの供物は受け取らず、兄弟の一方をひいきします。
神は人間が堕落したといって大洪水を起こし、ノアの一家以外の人間をみな殺しにします。

ですから、キリスト教圏の人々は神に潜在的な恐怖を抱いています。
AIが人間の知能を超えると人類を支配したり滅ぼしたりするのではないかという声はもっぱら欧米から聞こえてきます。日本人はそんなことは考えません。


AIに意志はないので、人類を支配したり滅ぼしたりしようとするはずがありません。
AIが悪用されることは警戒しなければなりませんが、それはAIの問題ではなく人間の問題です。

AIは人間にとって、今のところ使用人であり、人間の知能を超えたときには、支配者ではなく師匠になるはずです。

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松本人志氏の性加害に関する文春砲の第二弾は、「三人の女性が新証言」「恐怖のスイートルームは大阪、福岡でも」という見出しで、C子さん、D子さん、E子さんの3人がそれぞれに体験したことを語りました。
3人とも松本氏の後輩芸人に誘われ、飲み会に行ったりしたあと、最終的に高級ホテルの一室に誘われました。すると、そこに松本氏がいます。
C子さんは自分が松本氏とセックスをします。
D子さんは松本氏と二人きりになるのを拒み、D子さんの友人が部屋に残りました。
E子さんも松本氏と二人になるのを拒み、結局友人が松本氏に“献上”され、エッチをしたとあとで友人から聞きました。

3人の女性が松本氏とセックスをしたと見られますが、どれも「合意」の上のことですから、文春砲第二弾は拍子抜けです。

ですから、今のところ松本氏にとって問題なのは、文春砲第一弾のA子さんとB子さんのケースだけです。これは性行為の「強要」があったとされるので、深刻です。
とはいえ、刑事事件にはなりそうにないので、松本氏がすぐに反省の態度を示して謝罪すれば、大きな問題にはならなかったでしょう。
ところが、松本氏は「事実無根」と言ったために、A子さんは怒って「今後、裁判になったとしたら証言台で自分の身に起きたことをきちんと説明したいと考えています」と今回の文春の記事の中で言っています。
今後の裁判というのは、性行為の「強要」があったか、それとも「合意」があったかということが争点になると思われるので、A子さんが毅然とした態度で証言すると松本氏は苦しくなります。


ただ、謝罪会見というのはむずかしいものです。
これまで企業や個人が数々の謝罪会見を行ってきましたが、謝罪のしかたによってはかえって炎上します。
松本氏の場合、性格的に「真摯に謝罪する」ということができません。これまでそんな場面を一度も見たことがありませんし、真摯になるべき場面でも必ず笑いを入れてごまかしてきました。

しかも、この場合は女性に対して謝罪するわけです。
松本氏は女性を見下してきた人ですから(とくに性的な場面で)、「女性に対して真摯に謝罪する」というのは、松本氏においては不可能の上に不可能を積み重ねた行為です。

本来なら吉本興業が松本氏に謝罪会見をさせるところですが、吉本興業と謝罪会見というと、闇営業問題で宮迫博之氏と田村亮氏が真摯な会見をしたことが思い出されます。
そして、吉本の岡本明彦社長はなんと5時間半にも及ぶグダグダの会見をして、世の中をあきれさせました。
ただ、そのときに岡本社長は宮迫氏と田村氏の処分を撤回すると発表しましたが、宮迫氏はいまだにテレビに出られず、田村氏もほとんど“干された”状態になっています。
真摯な謝罪会見をした宮迫氏と田村氏が日陰に追いやられ、グダグダの会見をした岡本社長は今も芸能界の支配的立場にあります。

吉本興業がテレビ局に対して圧倒的な力を持っているのは旧ジャニーズ事務所と同じです。
これを機会に吉本興業のあり方も正常化してほしいものです。


今後行われる裁判で松本氏が勝訴しても、松本氏が今まで通り活躍できるようになるかというと、そうはいかないでしょう。
文春のふたつの記事は新たな問題をあぶり出しました。

文春の記事によると、松本氏はしょっちゅう女性との飲み会をして、その中から一人の女性を選んでセックスをしていることになります。
既婚者の身でそういうことをしているのを不愉快に思う人が多いでしょう。
そして、毎回違う女性を選んでいるのも不愉快に思う人が多いでしょう。
浮気や不倫は多少なりとも恋愛の要素がありますが、松本氏の場合は女性を性の対象としてしか見ていません。

それから、飲み会に女性を集めるのを後輩芸人にやらせ、セックスの対象に選んだ女性を口説くのも後輩芸人にやらせています。
文春が「SEX上納システム」と書いたのはそういうことです。
女性を集め、口説くといういちばんむずかしいところを後輩にやらせ、自分はおいしいところだけいただくというやり方です。
まるで大奥で女性を選んだ将軍です。


「SEX上納システム」は後輩芸人の働きによって成り立っています。
今回の記事には、福岡ではパンクブーブーの黒瀬純氏とその後輩芸人、大阪ではクロスバー直撃の渡邊センス氏とたむらけんじ氏がその役割をしていたと書かれています。前回の記事では小沢一敬氏でした。
ほかにもいっぱいいそうです。というのは、「人志松本のすべらない話」に出演した博多大吉氏も、女性を集めて松本氏を接待したという話をしているのです。
YouTubeからその話を要約して紹介します。

「ぼくら福岡で先輩芸人がこられたときにおいしいお店に連れていったり、女性をセッティングしたりというのを15年ぐらいやってたんです。十何年前、松本さんが初めて福岡にこられたとき、今田さんらと5人ぐらいでくると。で、わかってるかと、ちゃんと女の子を用意するようにと。正直言って、人気のない先輩だと女の子はあんまり集まらないんですけど、松本さんなら余裕で集まると思ってたんです。しかし、女の子に声をかけると、松本軍団が全国を飲み歩いているというのがへんな感じで伝わっていて、みんな飲み会は行きたくないと。なぜならなにされるかわからないと。いただける笑いよりも、のちに与えられる暴力のほうが上回るだろうと。前日か前々日に、飲み会に行ってもいいよという女の子は一人だったんです」

このあと、多方面に声をかけまくったら50人の女の子が集まって、飲み会の費用が33万6000円になり、松本氏の顔が青くなったというオチになります。
この話には「SEX上納」は出てきませんが、「いただける笑いよりも、のちに与えられる暴力のほうが上回る」という言葉は重いものがあります。

たむらけんじ氏は飲み会のあったことは認めていますし、LINEが流出したことで小沢氏の飲み会があったことも確かです。「SEX上納」の部分については女性の証言だけですが、松本氏の過去の行状などからもあったことは間違いないでしょう。

後輩芸人は、松本氏のために女性を集め、松本氏とセックスするかどうかまで確かめているわけで、こんなことはしたくないに決まっています。
松本氏が権力を持っているから、後輩はしかたなくしているのです。後輩にすればパワハラです。
いずれ後輩からパワハラを告発する声が上がっても不思議ではありません。


私は性加害の問題が発覚する以前から、松本氏の人間性を嫌っていました。

松本氏は体罰賛成論者で、テレビで何度も体罰賛成論を述べていました。
橋下徹氏も昔は体罰賛成論を盛んに主張していましたが、時代の流れを読んで、あるときから体罰否定論に転換しました。
しかし、松本氏は2017年にトランペット奏者の日野皓正氏が男子中学生にビンタするという事件があったときも体罰賛成論を言っていたので、おそらくテレビで最後まで体罰賛成論を言った人間です。

また、松本氏は赤ん坊や母親にもきびしいことを言ってきました。
かつてツイッターに「新幹線で子供がうるさい。。。子供に罪はなし。親のおろおろ感なしに罪あり。。。」と投稿したことがあります。つまり泣いた赤ん坊の親を責めたのです。
また、やはり新幹線の車中で、母親が1歳未満の赤ん坊に話しかけているのがよほど気にさわったらしく、「2時間半もずーっとしゃべってんねん、まだしゃべれん子に」と言い、それで赤ん坊が言葉を覚えると指摘されると、「家でやったらええやん。新幹線はそういう場所じゃないやん」と主張を曲げませんでした。

子どもや赤ん坊や母親にきびしいということは、要するに弱い者にきびしいということです。
松本氏の笑いは弱者をバカにしていて、学校でのいじめにつながっているという批判が前からありましたが、もっともなことです。

女性をとっかえひっかえして性欲のはけ口にし、後輩芸人を女性調達係として使い倒すというのは、人として許されません。
松本氏がそんな人間だとわかったら、裁判がどうなろうと、もう笑えないのではないでしょうか。

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学校教育の現場で、素手でトイレ掃除をする運動があることは知っていましたが、なんとそれが国会の中でも行われていました。
しかも、大物国会議員まで参加していたのです。

立憲民主・太栄志議員、国会内トイレ清掃も… 素手で便器触る写真に「汚い」「握手やめて」有権者ら不快感
立憲民主党の太(ふとり)栄志衆議院議員が14日、自身のX(旧ツイッター)に、野田佳彦元首相と一緒に国会内のトイレを清掃する写真を公開した。しかし、素手で便器に触っていることに「汚い」「握手はやめてくださいね」など不快感を示す声が殺到している。

 太議員は「『国会掃除に学ぶ会』の設立総会に参加。総会の後には、野田佳彦元内閣総理大臣や参加者の皆さんと国会内のトイレを清掃しました。改めて掃除の意義と深さを学ぶ機会になり、これからも実践していきます」と投稿した。写真にはゴム手袋などを着けず、素手で便器に手をかけてスポンジで便器の側面をこすっている様子が写っている。

 しかし、これが不衛生だと指摘する声が殺到。「汚い、普通にゴム手すりゃ良いだけなのに」「えっ、そのスポンジ上に置くの?やめてー」「素手でトイレ掃除をするのは不衛生で不合理なだけで、そこに『意義と深さ』などありません」などの声が寄せられている。

 また、自民党の裏金問題で国政が揺れている中、パフォーマンスのような行為にあきれた反応もある。「トイレ掃除は家でして、国会では議員の仕事をしてください。意味がありません」「政権支持率17%でもまったく政権交代の気配が感じられない理由がよくわかりました」「今、国民がやってほしい事は国の政治を綺麗にする事でしょう」など、炎上状態となっている。https://news.yahoo.co.jp/articles/4beee4bf2e3b9d6465face601516708866321098

「掃除に学ぶ会」というのは、認定NPO法人「日本を美しくする会」の組織です。
「日本を美しくする会」の理念は「掃除を通して心の荒みをなくし、世の中を良くすること」というもので、『特に人の嫌がるトイレをきれいに磨くと、心もきれいになります。トイレ掃除は「自分を磨くための」一番の近道で確実な方法です』とホームページに書かれています。
教師による「便教会」という組織もあって、それが学校でトイレ掃除をやっています。
子どもだけにやらせているのではなく、教師もやっているということで、そこはまだましです。

いずれにしても、「トイレをきれいにすると心もきれいになる」ということにはなんの根拠もありません。
逆に、顔を便器に突っ込むようにして素手で掃除すると、その不快感があとを引くに違いありません。どうせトイレ掃除をするなら効率的に短時間でやりたいものです。
スポンジやタワシを使うとはいえ、素手で掃除するのは衛生上も問題です。ノロウイルスなどは主に排せつ物を介して感染します。

「日本を美しくする会」のホームページには「特定の組織や団体に属しません」と書かれていますが、『東日本大震災の避難所で配られたおにぎりを、何のためらいもなく、まずお年寄りや子どもたちに渡す姿。そこには、日本人の日本人たる美徳がありました。自分よりまず、「人様のためにできる幸せ」という精神を、 私たち日本人は代々受け継いできました』などという文章を見ると、日本会議に連なる組織と同じ感じがします。


そういった組織と立憲民主党の国会議員がつながっているというのが意外でしたが、さらに意外なのは野田佳彦議員まで加わっていたことです。
野田議員といえば現実主義的な人というイメージでしたから、精神主義の権化のようなトイレ掃除の運動とは結びつきませんでした。

ほかに「日本を美しくする会」とつながっている政治家はいないかとネットで調べてみると、門川大作京都市長がいました。京都市では小中学生に「素手でトイレ掃除」をやらせているそうです。
門川市長が初当選した2008年の市長選では自民党・民主党・公明党・社民党の支持を受けていました。
門川市長は任期満了に伴い引退して、来年2月投票の選挙には後継候補として松井孝治氏が立候補する予定です。松井氏はもともと民主党の参議院議員で、鳩山内閣のときに官房副長官をしていました。この松井氏も12月9日に素手でトイレ掃除をしている写真をXに投稿しました。

もしかすると立憲民主党と「日本を美しくする会」は近いのかと思っていると、なんと泉健太代表も昨年11月に「国会掃除に学ぶ会」の活動に参加したということがわかりました。「日本を美しくする会」のウェブマガジンのページに参加者の名前と写真が載っています。

国会掃除に学ぶ会
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https://www.souji.jp/webmagazine/2023/06/09/%e7%89%b9%e3%80%80%e9%9b%86-6/

党の代表が参加しているとなると、立憲民主党は「日本を美しくする会」の思想を肯定していると思われてもしかたありません。


町中の汚い公衆トイレをきれいにしようという活動があれば、誰もが称賛するでしょうが、「日本を美しくする会」はそういうことはしません。「心をきれいにする」ことが目的で、あくまでトイレをきれいにすることは手段です。
国会のトイレは決して汚くはないでしょう。それを掃除するのはパフォーマンスと見られてもしかたありません。

日本会議には宗教団体が多く参加していますが、「日本を美しくする会」は宗教団体とはいえません。人間の道徳的向上を目的とした団体で、戦前は「教化団体」や「道徳団体」と呼ばれていたものです。
宗教団体やカルトでないならいいかというと、そんなことはありません。むしろ宗教以上に危険かもしれません。

特定の宗教を国民に押しつけることはできません。さすがに国民も反対します。
しかし、道徳を押しつけることはどうでしょうか。
すでに日本人は自民党の道徳教育によって道徳を上から教えられることに慣れています。
「日本人の心をきれいにする」と言われたとき、きちんと反論できる人はどれだけいるでしょう。
学校で「素手でトイレ掃除」をやっているところがあり、国会議員も「素手でトイレ掃除」をやっているのですから、いずれ日本人全員で「素手でトイレ掃除」をやることになっても不思議ではありません。

宗教や道徳と親和性が高いのが自民党の特徴です。
野党はそこで差別化をはからねばならないのに、泉代表はなにもわかっていません。
心をきれいにすることより現実のトイレをきれいにすることが政治の役割です。

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