村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

カテゴリ: 科学的倫理学入門

新川優愛

女優の新川優愛(25歳)さんは8月11日に記者会見し、結婚したことを発表しましたが、相手が9歳上のロケバスの運転手であることに世の中は驚きました。

美人女優の結婚相手といえば、IT社長かプロスポーツ選手か同業のイケメン俳優というのが相場です。
ロケバスの運転手なら普通の給料でしょう。
しかも新川さんは、ロケバスの中に忘れ物をしたと嘘をついて自分から彼にアプローチしたということです。
普通の給料の男たちに夢と希望を与える結婚でした。

それにしても、どうして新川さんはロケバスの運転手が好きになったのでしょうか。



記者会見を見てみると、好きになったきっかけについて、このように答えています。
「私に対する対応よりも、私けっこう、自分以外の人への対応を見ることが多くて、それは女性も男性もなんですけど、いろんな人に対しての接し方が素敵な人だなと思ったのがきっかけですかね」
調べてみると、『新川優愛、夫はアプローチに詐欺疑う「SNSが乗っ取られてると…」』という記事にもう少し詳しいことが書かれていました。
番組では新川が出会いから結婚までを初告白。初めての出会いは8年前、新川が17歳のときで、当時は恋愛感情は全くなかったそうだが、2016年、新川が22歳になったとき、荷物を率先して運んだり、どんな立場の人にも分け隔てなく接する仕事現場での彼の姿に惹かれていったという。
https://www.excite.co.jp/news/article/Mdpr_news1869442/
普通は、彼は熱心に私を誘ってくれたとか、私に親切にしてくれたというように、自分と彼との関係で彼を好きになるものです。
しかし、自分に親切にしてくれる人は、下心があるからしているだけで、ほんとうは親切な人ではないかもしれません。
新川さんのように、彼と第三者との関係を見ていれば、彼の人柄が正しく判断できるはずです。

これができるのは、職場恋愛のいいところです。職場で観察していれば、裏表のある人とか、上にこびて下に横柄な人とかもわかります。
お見合いだの合コンだのでは、なかなか相手の人柄はわかりません。デートしたら、彼がレストランの店員に横柄な態度をとって幻滅したなどということも起こります。


新川さんのすごいところは、恋愛や結婚の相手を探すとき、彼の人柄を第一にして、彼の収入や社会的地位にほとんど重きを置かなかったところです。
これは新川さんの自信からきているのでしょう。収入も社会的地位も自分で獲得するものだと思っていれば、男に頼るという気持ちになりません。

そして、愛されたいという願望があまり強くないのでしょう。

「愛されるよりも愛しなさい」とはよく言われる言葉ですが、実際はなかなかできないものです。
たいていの人は、「愛したい」と「愛されたい」を天秤にかけると、「愛されたい」のほうがうんと重くなります。
とくに若くて恋愛経験がないと、相手から愛されているか否かがひじょうに気になり、たとえばデートで行ったのが安いレストランだったとか、支払いのときに彼がクーポンを使ったとかのささいなことで、自分は安く見られたと即断して、彼を振ったりします。
こういうことで相手を選んでいると、ろくな相手をゲットできません。

なぜ「愛されたい」が重くなりすぎるかというと、子どものときに十分に親に愛されなかったからです。
親から受け取った愛が少ないと、その分を恋愛関係で得ようとします。
新川さんは親から十分に愛されて育ち(美人なのでたぶん男からも愛され)、もう愛に満ち足りているので、「愛されたい」よりももっぱら「愛したい」という目的で相手を探したのでしょう。


ですから、新川さんは愛に恵まれた家庭で育ったと推測されます。
新川さんの家庭環境がどういうものだったかはなかなかわかりませんが、ウィキペディアの「新川優愛」の項目にはこう書かれていました。

幼い頃からテレビが好きで、「自分も出演したい」と思い続けていた。小学校6年時、父に「芸能界に入りたい」と話したところ「いいんじゃない」の一言であっさりと快諾してもらったという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%B7%9D%E5%84%AA%E6%84%9B
普通のことではありますが、父親は子どもの意志を尊重する人だということは言えます。

結婚報告記者会見を見てみると、「実家」に言及していたので、その部分を書き起こしてみます。
結婚願望は……そうですね、ちっちゃいときからお嫁さんになりたいみたいなことは言ってたみたいなので。うち、実家がすごいあったかい、実家がすごい仲がいいので、結婚願望はありましたね。
彼の「実家」についても言及していました。
(彼の)素敵なところはたくさんあるんですけど、あったかい人だなと、気持ちがすごいあったかい方だなと思いましたし、それはご実家に行ったときにも感じたんですけど。
これを聞いただけでも、新川さんがあったかい家庭で育ったことがわかります。
そして、こういう人はたいていあったかい家庭をつくることができるものです。


ところで、私がこのブログで新川さんのことを取り上げたのは、前々回に「坂口杏里さんの不可解な人生」という記事で取り上げた坂口杏里さんとあまりにも対照的だなと思ったからです。

人生というのは、かなりの部分が生まれ育った家庭環境によって決まります。
金持ちの家庭で育つのと、貧乏な家庭で育つのとでは、大きな違いがあります。
同様に、愛情に恵まれた家庭で育つのと、愛情の少ない家庭で育つのとでも、大きな違いがあります。
世の中には経済格差があるのと同様に愛情格差もあるわけです。

私は経済格差と愛情格差を勝手に「社会の二大格差」と呼んでいます。
世の中のほとんどの問題はこの二大格差からきています。たとえば幼児虐待は愛情格差がもたらす問題の最たるものです。

ところが、経済格差は認識されていますが、愛情格差のほうはあまり認識されていないので、坂口杏里さんは不幸な人生を(今のところですが)歩み、新川優愛さんは幸福な人生を歩んでいることの違いがどこからきているのかが理解されません。
そのため、坂口杏里さんがバッシングされたりします。

親から十分に愛されなかった人は、自分には愛される価値がないのだと思いがちです(坂口さんもそうではないでしょうか)。
しかし、世の中には愛情格差があり、愛のある家庭と愛の少ない家庭があるのだと認識すれば、自分には愛される価値がないという思いを払しょくして、前向きに歩んでいけるはずです。

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最近、食物アレルギーやアトピー性皮膚炎の子どもがふえていますが、行きすぎた清潔志向がアレルギー発症の原因になることがわかってきました。

アレルギーは、卵や牛乳のたんばく質、花粉など特定の物質(アレルゲン)に体の免疫が過剰に反応する病気です。
ですから、免疫の遺伝子などに異常があるのではないかと考えられましたが、いくら調べてもなかなかわかりませんでした。

初めてアレルギーの発病との関連が確かめられたのは、意外にも皮膚のたんばく質「フィラグリン」をつくる遺伝子の変異だった。アトピー性皮膚炎の患者の2、3割でフィラグリンの遺伝子の異常が見られる。
国立成育医療研究センター研究所の斎藤博久副所長は「発症率は遺伝子が正常な人の3、4倍、ぜんそくの合併も2、3倍になる」という。フィラグリンの遺伝子に変異がない患者でも、フィラグリンをつくる機能が落ちていることがあった。
フィラグリンは皮膚の表面でつくられ、皮膚を守るバリアーとして働いている。さらに、分解されると天然の保湿成分になり、これが皮膚を覆うことで守りを固めている。
皮膚のバリアー機能との関連が疑われるアレルギーは皮膚炎だけではない。
天谷雅行慶応大医学部教授は「英国の乳児でピーナツバターのアレルギーが起きた。調べると、皮膚に塗るベビーオイルにピーナツオイルが含まれていた」という。
(中略)
国内でも、せっけんに含まれていた小麦のたんばく質が元でアレルギーになり、小麦のたんばく質を含む食品を食べてアナフィラキシーショックを起こす事件があった。
新説では、まず、皮膚のバリアー機能の欠陥が先にあって、初めは皮膚からアレルゲンが侵入して免疫を刺激。その後にアレルゲンが鼻に入ると鼻炎や花粉症、のどに入るとぜんそくになるというわけだ。免疫の異常は原因ではなく結果だということになる。
(中略)
バリアーを守るにはどうしたらいいか。天谷さんは「ごしごし体を洗いすぎるのをやめ、首から下はわきの下と股だけせっけんを使えばいい」と勧める。天谷さんの研究では人間の皮膚は軽く水で流すだけで汚れが落ちるようにできているという。
http://sugimoto-clinic.or.jp/健康・医療のヒント/iryounogenjou/allergy_new_theory/

アレルギー発症の予防にもうひとつたいせつなのは、家畜の糞だということもわかってきました。

アメリカにアーミッシュという自給自足の生活をする人々がいますが、アーミッシュにはアレルギーの人がほとんどいないとされます。また、モンゴル人にもアレルギーがほとんどないということです。彼らは幼いころから家畜と触れ合う生活をしています。
「NHK特集」がそのことを取り上げました。

NHK特集
病の起源  第6集 アレルギー ~2億年目の免疫異変~
花粉症・ぜんそくなどのアレルギー。20世紀後半、先進国で激増。花粉症だけで3800万人もの日本人が患う病となった。急増の原因は花粉・ダニの増加、大気汚染と考えられてきたが、意外な原因があることがわかってきた。
南ドイツで、農家と非農家の子供の家のホコリを集め、「エンドトキシン」と呼ばれる細菌成分の量を調べたところ、それが多い農家の子ほど花粉症とぜんそくを発症していなかった。エンドトキシンは乳幼児期に曝露が少ないと、免疫システムが成熟できず、アレルギー体質になる。農家のエンドトキシンの最大の発生源は家畜の糞。糞に触れることのない清潔な社会がアレルギーを生んだとも言える。
http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20081123

犬や猫でも同じような効果があるだろうと推測されています。

私は前から、子どものアレルギーに悩む母親には神経質な人が多い気がしていましたが、案外正しかったかもしれません。潔癖症の母親は、子どもの体を洗いすぎたり、部屋を極端に清潔にしたりして、それがアレルギー発症につながっていた可能性があります。

不潔な環境は感染症の原因になるので、子どもを清潔な環境で育てたいというのは当然のことですが、なにごとにも適正水準というものがあります。今はもしかして行きすぎているのかもしれません。


行きすぎた清潔志向は、身体面だけでなく精神面にもマイナスがあります。
つまり愛情行動ができなくなるのです。

たとえば、セックスは互いの体を接触させ、粘膜も接触させます。性器と排泄器はきわめて近い位置にあるか、まったく一致しています。潔癖な人はセックスができないはずです。
実際、セックスによって性病などが移ることがあります。
しかし、人間は愛情を感じると、清潔志向のハードルが下がるというか、不潔の許容力が高まるので、セックスができます。

母親が子どもの世話をするときも、排泄物の始末をしなければなりませんし、子どもが食べ物をこぼしたり物を散らかしたりすることも受け入れなければなりません。
潔癖な人ではできないはずですが、母親になればできるようになるものです。

しかし、世の中全体の清潔志向が強まると、セックスできない人や子どもの世話ができない親がふえる理屈です。
実際、若い人は恋愛やセックスをしなくなり、子どもをつくらない夫婦もふえています。

もちろん若者の恋愛離れや少子化にはさまざまな理由がありますが、過度な清潔志向もその理由のひとつに違いありません。

すでに清潔志向が行きすぎているなら、これからは愛と健康を回復するために、不潔志向というか、不潔許容度を高める方向に行かなければなりません。

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マイクロソフトのマージャンAI(人工知能)「スーパーフェニックス」が、プロを含む33万人が参加する日本のオンラインマージャン対戦プラットフォーム「天鳳」において、トッププレーヤーに匹敵する成績を達成したというニュースがありました。
すでにチェス、将棋、囲碁でAIは人間よりも圧倒的に強くなっていますから、今さら驚きません。

囲碁では2016年にAIが世界のトップ棋士を負かし、その後ネットの世界で60連勝した、100連勝したという話題があり、今ではトッププロでもハンデをもらわないと勝負にならないといわれています。
AIが打ち出した常識にない手は「AI定石」と言われ、若手プロはみな真似をしています。しかし、なぜその手がいいかをAIは説明しません。わけもわからずAIの真似をしている人間の姿になにか危ういものを感じるのも事実です。


AIがどんどん進化して産業界で利用されるようになると、人間は仕事を奪われるという説があります。
その一方で、AIが人間の代わりに仕事をしてくれるので、人間は楽をして豊かな生活が送れるようになるという説もあります。
いったいどちらが正しいのでしょうか。

AIの話題のときは、「AI対人間」というとらえ方が多いようです。囲碁、将棋、マージャンなどのゲームでは必然的にそうなります。
しかし、社会の中にAIが入ってくるときは、事情が違います。社会の中ではもともと「人間対人間」の争いがあるからです。
もちろん人間は互いに協力し、助け合いもしますが、根底は利己的な存在として、互いに生存闘争をしています。

たとえば人を雇用する側は、少しでも安く人を雇って利益を上げようとし、雇用される側は、少しでも高い給料をもらおうとします。
そこに労働者の代わりになるAIが登場したとします。
雇用する側は、人を雇うかAIを使うかを比較して、AIが安くつくと思えば人をクビにして(あるいは新たに雇うのをやめて)、AIを導入します。
これが経済合理的な選択です。
雇われる側は、クビになるか、AI導入並みの安い給料でがまんしなければなりません。

雇われる側にとっては、世の中にAIが導入されてサービス価格が安くなったりするメリットはありますが、自分の雇用が奪われたり給料が安くなったりするのでは、デメリットのほうが大きいといえます。

ですから、労働者の代わりをするAIの登場は、雇う側には有利ですが、雇われる側には不利です。

これは外国人労働者を増やす政策に似ています。
雇う側は、外国人労働者と日本人労働者を比較して、安いほうを雇えるので得をします。
日本人労働者は損をするだけです。

こうしたことは、雇う側と雇われる側の対立としてとらえると、簡単にわかります。
しかし、日本では冷戦終結以降、社会主義思想は破産したと見なされ、同時に階級対立もないことにされました。
そのため、雇われる側の不利益はないことにされ、雇う側の利益が日本全体の利益と見なされ、外国人労働者やAIの導入が進められています。

今は、「AIが雇用を奪う」というように、「AI対労働者」という図式でとらえることが多いようです。
これは19世紀初頭にイギリスで産業の機械化が進み、機械に仕事を奪われると思った労働者が機械を打ち壊したラッダイト運動に似ています。
このときは社会主義思想が未成熟だったのですが、一周回って同じことになっています。


AIといえば、AIが人類の知能を超える「シンギュラリティ」が2045年にも到来するということが問題になっています。
シンギュラリティによって人類は豊かな生活を得られるという説もありますが、ホーキング博士などは、AIが人類をほろぼす危険性があると警告していました。
私はAIの専門家ではありませんが、この問題も、社会には「人間対人間」の争いがあるということを認識しないと危ういことになる可能性があると思っています。

たとえば、労働者の労働意欲を高める労務管理AIが効果を発揮するようになったとします。そうすると、それを経営者にも使ったらいいのではという発想が出てくるかもしれません。
労務管理AIは、「経営者のため」のものですから、本来そんな発想は出てきません。しかし、タテマエとして「労働者のため」とか「人間として必要なもの」などと言っているはずで、間違ってタテマエを信じてしまったり、タテマエを押し通さざるをえなくなったりしないとも限りません。

あるいは、子どもの勉強意欲を高めるAIができると、勉強は何歳になっても必要なことだからと、おとなにも適用しようということにもなるでしょう。

道徳教育を効果的にするAIもできるかもしれません。
私は道徳教育で道徳的な人間ができるとは思いませんが、アメとムチで人間に道徳的な行動をさせることは可能ですし、そこに「国のため」とか「人類のため」とか「人格向上のため」という名目をつけることでより効果的にすることはできると思います。
そうすると、その道徳教育AIを全国民に適用して、「道徳国家建設」をしようという主張が出てきてもおかしくありません。


人間社会には、雇う側と雇われる側だけでなく、富裕層と貧困層、おとなと子ども、男と女、知識階級と一般大衆、健常者と障碍者など、あらゆる場面に対立と支配の関係があります。
社会主義思想は資本家と労働者の関係を諸悪の根源と見なし、それさえ解決すれば万事うまくいくと考えたのですが、それは間違いでした。あらゆる対立と支配の関係を解決しなければうまくいきません。
今はそうした対立と支配の関係がないことにされ、人間はみな自立して、対等の関係を結んでいるという嘘が社会をおおっています。

この嘘を嘘と認識していればまだいいのですが、嘘に自分がだまされると危険です。
人を支配するためにつくったAIに自分が支配されるという悲喜劇が起こりかねないからです。

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              Daniela DimitrovaによるPixabayからの画像 

人間が生きて成長していくためにはさまざまな栄養素が必要で、ビタミンCが欠乏すると壊血病になり、ビタミンB1が欠乏すると脚気になり、カルシウムが不足すると骨が弱くなるということは栄養学によって明らかになっています。同様に、人間の心が成長するためには愛情という栄養素が必要で、愛情が不足すると愛情欠乏症になります。しかし、愛情はビタミンやミネラルのような物質ではないので、このメカニズムは科学としてはいまだ明らかになっていません。

第二次大戦後、大量の孤児が発生し、孤児院などの施設に収容されましたが、衣食住が十分な環境であっても、孤児の死亡率が高いという現象が見られました。原因を探ったところ、母親的な存在との情緒的なつながりの不足と考えられ、子ども一人ずつに担当の看護婦を決めて世話をすることで改善しました。
以来、施設において愛情不足により、幼児の死亡率の高さ、身体の成長や言語の発達の遅れが生じることを
「ホスピタリズム(施設病)」というようになりました。
しかし、ホスピタリズムという言葉だと、施設特有の現象と誤解されるかもしれません。そのためかどうか、最近はほとんど使われなくなりました。

「愛情遮断症候群」という言葉もありますが、この言葉だと第三者が愛情を遮断したような誤解を生みます。
精神科医の岡田尊司氏は「愛着障害」という言葉を使っていて、これは割と広がっていますが、この言葉だと愛着するほうに問題があるようにも理解できます。

そこで、私は「愛情欠乏症」ないし「愛情欠乏症候群」という言葉を使っています。この
言葉がいちばん意味が明快ではないでしょうか。


最近、幼児虐待が社会問題化して、愛情不足の問題が否応なく認識されてきました。
わが子を殺したりケガさせたりする親は極端な例ですが、それ以外の親はみんな十分な愛情を子に与えているかというと、そんなことはありません。むしろどんな親も完全な愛情を与えられないというべきで、その不足の度合いによってさまざまな問題が生じてきます。

たとえば依存症が愛情欠乏のひとつの症状です。子ども時代に親に十分に依存できなかったために、なにかに極端に依存してしまうのです。
たとえば恋愛関係になると、恋人に極端に依存するので、「重い」と言われたりします。DVを受けても逃げられないのも、相手に極端に依存しているからです。振られてもその事実を受け入れることができずにストーカーになる人も同じだと思われます。
アルコール依存症、薬物依存症、ギャンブル依存症、買物依存症などは有名ですが、セックス依存症や仕事依存症、もっとほかにもあるはずです。

リストカットや摂食障害も愛情欠乏症です。これらはカウンセリングにかかることが多いと思われますが、カウンセラーもピンからキリまであるので、愛情不足に原因があると把握してくれる場合とそうでない場合とで、治り方がぜんぜん違ってきます。

私は以前、リストカットを繰り返す若い女性が出てくるドキュメンタリー番組を見たことがあります。その女性の手首には二十か三十くらいの傷がびっしりとついていて、私は見た瞬間、耐えがたいほどの痛々しい思いがしました。その女性の母親は、「死ぬのだけはやめてね」と言っていて、一見、娘の命をたいせつに思っているようですが、「私に迷惑をかけるのだけはやめてね」という意味としか思えません。娘は母親の愛情を得ようとしてリストカットを繰り返しているのでしょう。

不登校、引きこもり、家庭内暴力なども、原因はいろいろあるにせよ、愛情という心の栄養不足が根底にあります。 

人生になんの意味があるのだろうと悩む若者もいます。こういう悩みは哲学的だとしてほめる人もいますが、私の考えでは、これも愛情欠乏症の一種です。若いのに前向きに生きていけないのは、たいていは愛情不足が原因です。

 
これらをまとめて愛情欠乏症候群ということになりますが、愛情は客観的に測定できないこともあって、この病気に対する理解はまだまだです。

それに、親に向かって「あなたは子どもへの愛情不足です」と言うのは、最大級の人格否定になるので、なかなか言えません。
また、それを言うと子どもも傷つきます。親の愛情が足りないのは自分自身に愛される価値がないからだと思うからです。

しかし、「虐待の世代連鎖」という言葉があるように、親の愛情不足は多くの場合、その親自身が親から十分に愛されてこなかったことが原因です。また、夫婦仲が悪いとか低収入で生活が苦しいということも子どもへの愛情不足につながります。
いずれにせよ、子どもが栄養失調になるのは子どものせいでないように、子どもが愛情欠乏症になるのは子どものせいではありません。


愛情不足の親のあり方はさまざまです。暴力をふるったりネグレクトしたりするのはわかりやすいケースです。教育熱心は愛情の表れとされますが、愛情のない教育熱心はいくらでもあります。巧妙に子どもを支配する親は「毒親」と言われます。

愛情不足の親に対する子どもの反応はふたつに分かれます。
活動的で気の強い子どもは、親に反抗し、喧嘩し、家出したり、仲間といっしょに盛り場をうろついたりします。私はこれを「行動化する不良」と呼んでいます。若くして結婚して親元を離れることも多くあります。
活動的でなく気の弱い子どもは、争いを避けるために親に合わせるので「よい子」と思われたりしますが、心を病んで、不登校、引きこもり、家庭内暴力という方向に行きます。これを私は「行動化しない不良」と呼んでいます。

こうしたことはすべて親の愛情不足が原因ですが、世の中にはまだはっきりと認識されていません。しかし、いずれ脳科学や生理学や認知科学などが愛情を客観的に測定することを可能にし、そのときには栄養学と同様に愛情学が生まれ、世の中から愛情欠乏症候群は一掃されるでしょう。

ヤフーブログサービスが間もなく終了するため、ここライブドアブログに引っ越してきました。
まだ操作に慣れないのでまごついていますが、今後ともよろしくお願いします。


ブログの引越しを機会に、改めて私の基本的な考え方を説明しておきます。

動物は基本的に利己的な存在で、互いに生存闘争をしています。人間以外の動物は牙や角や爪を武器にしますが、人間は主に言葉を武器にします。言葉を武器にして戦ううちに言葉は次第に進化し、その中から道徳が生まれました。
つまり「道徳は人間の利己心から生まれた」のです。

実に単純なことですが、これまで誰も指摘しませんでした。
これまでの考え方は「道徳は利他心ないしは人間ならではの知性や理性や精神から生まれた」というものです。
それとまったく違うので、私は「道徳観のコペルニクス的転回」と呼んでいます。

道徳は基本的に「人に親切にするべきだ」とか「人に迷惑をかけてはいけない」というように利他的な行動を勧めるものなので、道徳が利己心から生まれたということと矛盾していると思う人がいるかもしれません。しかし、言葉は基本的に目の前の人間に対して発するものです。相手が利他的な行動をしてくれれば自分の利益になるのですから、少しも矛盾しません。逆に利他心から「人に親切にするべきだ」という言葉が発されたとすると、その言葉は目の前の相手のためではなく、そこにいない誰かのために発されたことになり、説明しようとすると、ひじょうにややこしいことになります(そのため倫理学はひじょうに難解でした)。

また、道徳は自分を律するためのものだと考える人も多いでしょう。少なくとも道徳を説く人は、相手が道徳で自分を律してくれることを望んでいるはずです。
しかし、人間は外界に対応するのに精一杯で、自分を省みることにあまり時間やエネルギーを費やしていられません。自分を省みるのは、寝る前の少しの時間か、なにか失敗をしてひどく落ち込んだときぐらいです。しかも、その内省の思考は言葉として表現されることはありません。例外は文学作品の中ぐらいです。
つまり「自律の道徳」はないわけではありませんが、世の中に流通するのは「他律の道徳」ばかりです。

ですから、道徳でよい社会をつくることはできませんし、道徳教育でよい人間をつくることもできません。
たとえば福祉政策の中に道徳を持ち込んで、生活保護の申請者を「働き者」と「怠け者」に分類するなどすれば、混乱するだけです。
国際政治の世界で「正義の戦争」などが唱えられると、ひどいことになります。
家庭の中にも道徳が持ち込まれ、夫婦が互いに道徳的に非難し合ったり、子どもを「よい子」にしようとしたりすると、決まって不幸な結果になります。


説明しているときりがないので、このへんでやめますが、現在、これを本にするべく執筆中です。
ただ、従来の倫理学を全否定しなければなりませんし、この説は進化倫理学の中に位置づけられますが、進化倫理学も否定しなければなりません。
これまでの進化倫理学はダーウィンの説をもとにしていましたが、ダーウィンの説が間違っていたのです(したがって、私の説を進化倫理学だというと誤解されるので、「科学的倫理学」という名前を使ったりしています)。
浅学菲才の身で大きなことを思いついてしまったので、そういう学問との関連づけに苦労しています。

それに、一般の人にどれだけ理解してもらえるかという懸念もあります。
なにしろこれは、従来の倫理学や道徳観が天動説だとすれば地動説みたいなものだからです。みんなが天動説を信じている中世において、いきなり「太陽が動いているのではない。地球が動いているのだ」と言ったら、狂人扱いされてしまいます。
今の世の中に宗教裁判はありませんが、否定されたり無視されたりしないようにしなければなりません。
どういう表現が説得力あるかということを確かめる目的もあって、このブログを書いています。
時事的な問題のとらえ方の背後に道徳観の違いがあることを見ていただければと思います(道徳観と関係のないことも書きますが)。


道徳はあなたの心を縛る透明な鎖です。道徳を正しくとらえれば、自由な生き方をすることができます。

「人間は道徳という棍棒を持ったサルである」というのは、一般にアピールするために考えたキャッチフレーズです。
スタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」の冒頭シーンからきています。

善と悪の定義もないのに道徳科が成立するわけがないということを、前回の「なぜ道徳教育は不可能なのか」という記事で書きました。
善と悪の定義がなくてもたいした問題はないという意見があるかもしれませんが、そんなことはありません。たとえば夫婦喧嘩はたいてい「お前が悪い」という認識から始まりますが、これについてはいくら議論しても解決しないので、どんどん問題がこじれていくのです。
 
なぜ善と悪の定義がないかというと、善と悪について根本的な認識の間違いがあるからです。それはさまざまな逆説的状況として表れているので、列記してみます。
 
 
「悪人」「悪党」「悪漢」「悪女」などの言葉にはどこか魅力的な響きがあるが、「善人」「善良な人」などの言葉にはあまり魅力的な響きがない。
 
若いころは不良だったと自慢する人はいるが、若いころはよい子だったと自慢する人はいない。
 
非行、登校拒否、家庭内暴力などの問題行動を起こす子どもは、小さいころよい子とされていたケースが多く、そのため最近は「よい子」とカギカッコつきで表記されることが多い。
 
ヤクザ、マフィア、ギャング、殺し屋、詐欺師、悪徳警官などを主人公にした小説や映画が多数存在し、読者や観客は主人公に感情移入している。
 
親鸞が言ったとされる「善人なおもて往生す、いわんや悪人においてをや」という言葉に深い感銘を受ける人が多い。
 
性善説と性悪説とどちらが正しいのかわからない。
 
「必要悪」という言葉がある。
 
 
善と悪は、人間がつくりだした概念で、人間に適用するものです。自然界に立脚していないので、人間の都合だけでどんなふうにもつくれます。そのためこんなおかしなことになっているのです。
 
善悪や道徳には根拠がないので、つねに暴走しがちです。
ですから、社会では道徳を制限するということが行われてきました。
 
たとえば、悪いことをしたことがない人はいないので、誰でも悪人と認定される可能性があります。それは困るので、あらかじめ法律を決めておき、法律に違反した場合だけ悪人と認定される制度になっています。法の支配とか法治主義といわれるものです。
マスコミも、逮捕されるまでは悪人扱いしないという不文律を守っています。
ただ、逮捕されるとマスコミは悪人として徹底的に非難し、容疑者に厳罰を与えるべきだと主張します。つまり道徳の暴走です。
ただ、これについても法律は、「懲役〇年以下」とか「罰金〇万円以下」というように刑罰に上限を決めています。
もしこうした法律がなく、道徳だけで裁かれるようになれば、恐ろしいことになるに違いありません。
 
道徳は人間を働き者と怠け者に分けます(これは善人と悪人のバリエーションです)
生活保護のような福祉の窓口で、担当者が来訪者を働き者か怠け者かを判定するようになると、福祉の業務が混乱することは必至です。働き者か怠け者かということに客観的な根拠はないからです。
 
政治の世界でも、レーガン大統領が「悪の帝国」と言い、ブッシュ(息子)大統領が「悪の枢軸」と言ったことがありますが、国際政治の世界に道徳を持ち込むのは危険なこととして批判されました。
トランプ大統領は平気で「悪いやつ」といった言葉を使っていますが、危険なことです。
 
学校教育に道徳を持ち込むのも、同様に危険なことです。
生活保護の担当者が受給希望者を働き者か怠け者かを判定するように、教師が子どもをよい子か悪い子かを判定するようになれば、教室が混乱するだけです。
教師はむしろ善悪のメガネを外して、ありのままの子どもを見つめることがたいせつです。

今年度から小学校で道徳科(特別の教科道徳)の授業が始まりましたが、教師はどのように成績をつけているのでしょうか。
常識的にはこういう五段階評価になるはずです。
 
よい子
ややよい子
普通の子
やや悪い子
悪い子
 
「欽ドン!」の「良い子・悪い子・普通の子」のようですが、子どもを道徳的に評価すればこうなるしかありません。
 
しかし、文科省は「数値による評価ではなく、記述式とすること」としています。
そして、なにを基準に評価するかというと、「一面的な見方から多面的・多角的な見方へと発展しているか」と「道徳的価値の理解を自分自身との関わりの中で深めているか」ということを挙げています。
 
「多面的・多角的な見方」はたいせつなことですが、それは道徳科で学ぶというより、歴史や社会や国語を学ぶ中で身につけていくことではないかという気がします。
「道徳的価値」にいたっては、文科省だって理解していないはずです。
成績をつけるのに苦労している教師が多いというのももっともです。
 
 
そもそも道徳を教えるということはまったく不可能なことです。
というのは、道徳の中心概念である善と悪についての定義がないからです。
善とはなにか、悪とはなにかという問いに誰も答えられないのですから、教えられるわけがありません。
 
「善」を国語辞典で引くと、「よいこと」とか「道義にかなっていること」などとありますが、これは言い換えているだけです。
 
百科事典ではどうかということで、「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」の「善」の項目を見てみました。
 
一行目に「意志を満足させるゆえに積極的価値をもつと判断されるものすべて」と書かれています。
わかりにくい文章ですし、「意志」という、これも定義の定かでない言葉を前提としています。ヒトラーの意志でもいいのかと突っ込みたくなります。
二行目以降はこうなっています。
 
ソクラテスは善を美や有用性と同一視し,善はキュレネ派では快であり,キュニコス派では苦の欠如である。プラトンでは善は存在の根拠,美や真の原理。アリストテレスは人間における善を幸福とし,すべて現実的なものは善であり,善はまず個物に存在するが,一般にはそのものの類的本質の実現にあるとした。彼はまたそれ自体善であるものと,それとの関係で善であるものとを区別した。スコラ哲学は存在と善を等置し,個物の善はそのものが神の意志したとおりのものであること,すなわちそのものの完全性にあるとされた。 T.ホッブズでは善は努力の目標となるもの,功利主義者にとっては幸福は最大の快,最小の苦であり,J.ベンサムは快楽計算を試み,B.スピノザもまた善の相対性,主観性を強調した。 I.カントはそれ自体善である倫理的善を,手段としての善である有用性とはっきり区別した。プラグマティズムは功利主義的相対論を継承し,G.ムーアらの分析哲学派も善か否かは判断される対象がおかれている場に依存することを強調している。
(後略)
 
つまり善についての考え方は人それぞれなのです(しかも、どれもわかりにくい)
 
岩波書店の「哲学・思想事典」で「善」を引いてみると、三ページ余りにわたって「西洋」「インド・仏教」「中国」「日本」の四項目に分けて説明がされています。ということは、これもばらばらだということです。
 
悪は善の対立概念とされるので、善がわからない以上悪もわかりません。
 
哲学者ジョージ・E・ムーアはこのような状況を踏まえて、「倫理学原理」という著作で善を定義することは不可能だと述べました(善は直観で理解するものだというのがムーアの立場です)。定義が不可能だということには異論がありますが、善に定義がないということは、これによって広く認められました。
 
それまで倫理学は、人間の善い生き方を探究する学問とされていましたが、善の定義がないということで、善とはなにか、道徳とはなにかということを探究しなければならなくなりました。その分野は「メタ倫理学」と呼ばれます。
従来の人間の善い生き方を探究する倫理学は「規範倫理学」と呼ばれます。
そして、生命科学の進歩によって生まれた生命倫理学、地球環境問題が生じたことによって生まれた環境倫理学などの新しい分野は「応用倫理学」と名づけられました。
つまり現代倫理学にはメタ倫理学、規範倫理学、応用倫理学という三つの分野があるわけです。
 
しかし、少し考えればわかることですが、メタ倫理学が善とはなにか、道徳とはなにかを解明しないと、規範倫理学も応用倫理学も成立しませんし、倫理学そのものも成立しません。
 
ということで、今は倫理学という言葉はありますが、倫理学の実体はないも同然です。
ですから、「道徳的価値」なるものは誰にもわかりません。
「良い子・悪い子・普通の子」もギャグにしかなりません。
こんな状況で道徳科をつくっても、教えることはなにもないし、教えた結果を評価できないのも当然です。
 
どうしても道徳を教えたければ、宗教と一体でやるしかありません。
欧米では、道徳教育をする場合はキリスト教倫理に基づきます。
戦前の日本の修身は、現人神である天皇からくだされた教育勅語を根拠としていました。
ですから、教育勅語を復活させたいという動きがあるのはわからないではありませんが、もはや天皇は現人神ではなく、教育勅語の中身も時代に合わないので、無意味なことです
 
道徳科をつくるという間違った政策のために、道徳を教え、評価するという不可能なことをさせられている教師が気の毒です。

インターネットで炎上しやすい事案のひとつに、「公共の場で子どもが騒いだり赤ん坊が泣いたりしているのに親がなにもしない」というのがあります。
「親はちゃんと子どもを叱れ」とか「親は泣いてる赤ん坊をその場から連れ出せ」という怒りの声がある一方、「子どもが騒いだり赤ん坊が泣いたりするのは当たり前。怒るおとながおかしい」という声もあります。
 
こうした議論が起こるのは、「公共の場」についてのとらえ方に根本的な問題があるからと思われます。
 
コンサート会場のような特殊な場とか、私的な会合の場とかなら、子どもや赤ん坊を連れた親は出ていけと言われてもしかたありません。
 
では、飲食店はどうでしょうか。公共の場とはいえませんが、誰でも利用できる場だけに、それに近いところもあります。
高級レストランで子どもが騒いだり赤ん坊が泣いたりすると顰蹙を買うでしょう。
では、ファミレスではどうでしょうか。ファミリーレストランというぐらいですから、ファミリーで利用するのが前提で、ファミリーには子どもも赤ん坊もいます。子どもが騒いだり赤ん坊が泣いたりするのがいやだという人はファミレスを利用するべきではないでしょう。
 
ちなみに居酒屋では大声で騒ぐグループ客がよくいます。おそらく子どもが騒ぐ声よりも物理的に大きい声を出しているはずですが、誰も文句を言いません。居酒屋で騒ぐのは当たり前という認識があるからです。
ファミレスで子どもが騒いだり赤ん坊が泣いたりするのは当たり前という認識があれば、問題はなくなるはずです。
 
いや、居酒屋の客の多くは男ですが、ファミレスの親子連れはたいてい母親と子どもです。母親と子どもという弱者だから文句を言うということもありそうです。
 
あと、赤ん坊に泣くなというのはさすがに理不尽ですから、誰もいいません。代わりに、母親を責めるということがよく行われます。たとえば松本人志氏は、「新幹線で子供がうるさい」「子供に罪はなし。親のおろおろ感なしに罪あり」とツイートしたことがあり、多くの賛同の声があったということです。しかし、こういう考え方が親を追い詰めるのは確かなことで、少子化の原因でもあるでしょう。
 
 
「公共の場」というのは、公道とか公園とか駅とか公共交通機関とか、誰でも利用できるところです。当然、子どもも赤ん坊もいます。子どもが騒いだり赤ん坊が泣いたりするのは自然なことです。
 
公共の場には老人も身体障碍者もいます。
のろのろ歩く老人は、急いで歩いている人のじゃまになることがありますが、だからといって、公共の場では速く歩けとか、速く歩けない老人は公共の場から出ていけなどという人はいません。もしいたら、それこそ炎上騒ぎです。
車椅子の人も周りのじゃまになることがありますが、だからといって公共の場に車椅子で来るなという人はいません。
 
ところが、子どもや赤ん坊については、騒ぐなとか泣いたら連れ出せなどという人がいます。
子どもに騒ぐなというのは、老人に速く歩けというのと同じです。
泣いた赤ん坊を連れ出せというのは、公共の場に赤ん坊はいるべきでないといっているのと同じです。
 
どうやら世の中には、公共の場はおとなのものだと思っている人がいるようなのです。
そういう人は、子どもや赤ん坊は公共の場ではおとなのようにふるまうべきであり、それができないなら出ていくべきだと思って、そう主張するのでしょう。
 
しかし、公共の場はおとなだけのものではなく、おとなと同様に子どもや赤ん坊も利用する権利があります。
そのことを理解すれば、「公共の場で子どもが騒いだり赤ん坊が泣いたりするのは許せない」という考え方もなくなり、おとなと子どもの共生が進むのではないでしょうか。

杉田水脈議員については、「LGBTは生産性がない」という発言ばかりが注目されていますが、ほかにもトンデモ発言をしています。
201410月の衆院本会議場で「男女平等は、絶対に実現し得ない反道徳の妄想です」と言ったのです。
男女平等を否定しているのです。
 
正確な発言はこうです。
 
「日本は、男女の役割分担をきちんとした上で女性が大切にされ、世界で一番女性が輝いていた国です。女性が輝けなくなったのは、冷戦後、男女共同参画の名のもと、伝統や慣習を破壊するナンセンスな男女平等を目指してきたことに起因します。男女平等は、絶対に実現し得ない、反道徳の妄想です。男女共同参画基本法という悪法を廃止し、それに係る役職、部署を全廃することが、女性が輝く日本を取り戻す第一歩だと考えます」 (20141031日、本会議)
 
要するに「良妻賢母」とか「男を立て、男に従う女性」が「輝いている女性」だということです。
本会議場での発言ですから、安倍首相も聞いています。安倍首相は杉田議員をひいきしていましたから、安倍首相のいう「女性が輝く社会」がどういうものかもわかります。
 
杉田議員の発言のキーワードは「反道徳」です。
「道徳」とか「道徳的」という言葉は普通よい意味で使われます。自民党は道徳教育を推進してきましたから、とくに道徳をよいものと思っているでしょう。
しかし、差別について考えるときは、道徳はいい意味ばかりではありません。杉田議員も自民党もそのことを理解していないようです。
 
ということで、道徳と差別の関係をここで整理しておきたいと思います。
 
 
人類の祖先が道徳をつくりだしたのは文明の黎明期であったと思われます。そして、文明とともに差別も生まれました。
古代ギリシャ・ローマでは、周辺民族をバルバロイとかバーバリアンと呼んでさげすんでいました。古代中国では、やはり周辺民族を東夷、西戎、北狄、南蛮などと呼んでさげすんでいました。
ということは、道徳と差別は一体のものであったと考えられます。

奴隷制社会には奴隷制社会の道徳があって、奴隷を奴隷として扱うのが道徳的なことです。そんな扱いをしたらかわいそうだとか、奴隷を解放するべきだとか主張すると、不道徳的だとか反道徳だとか非難されます。
 
1964年の公民権法成立以前のアメリカ南部において、白人が黒人の友人を連れてレストランに入ってくれば、その白人は不道徳なふるまいをしたとしてひどく非難されます。レストランから黒人を追い出すのが道徳的なふるまいです。
 
時代の変化とともに黒人の地位が変わって、そうすると道徳も変わります。昔の道徳のままに黒人を扱うと、それは差別だとされます。
 
つまり「差別とは、今は否定されたひと昔前の道徳」です。
 
ですから、差別主義者とは昔気質の人でもあります。アメリカでいえば、親が黒人を差別しているのを見て育ち、自分も同じようにしていると、あるときからそれは差別だと批判されるわけです。批判する人たちは、時代の変化に敏感な知識人などです。昔気質の人は自分こそが道徳的だと思っているので、なかなか差別をやめません。
 
 
道徳が差別に変わるきっかけは、公民権法の成立などもありますが、根本的には科学や学問の世界における人間観の変化です。
黒人は昔は人間よりも動物に近いと思われていました。ダーウィンも人種の違いを重要なものと考えていましたが、生物学の進歩で人種はほとんど無意味な概念だとなって、黒人に対する昔の道徳的な扱いは人種差別とされるようになりました。
男と女の違いも、昔は本質的なものとされていましたが、文化人類学や生物学などによりたいした違いではないとされ、昔の道徳は性差別とされるようになりました。
同性愛も昔はよく理解されていませんでしたが、だんだんと解明されてきて、少なくとも趣味や嗜好の問題ではないとされ、同性愛嫌悪は差別だとされるようになりました。
 
杉田議員はそうした人間観の変化を理解せず、性差別やLGBT差別をいまだに道徳だと思っているのです。
 
 
差別を克服するには、正しい人間観を持つことが第一ですが、同時に道徳と差別の関係を知っておくことも必要です。

「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いにどう答えるかという問題があります。今回はそれについて考えてみます。
 
この問いが問題になったのは、1997年、いわゆる酒鬼薔薇事件が起こって少年犯罪が注目され、「子どもたちに『「人を殺してはいけない』ということを教えるべきだ」という声が高まっていたころのことです。あるテレビ番組で一人の高校生が「なぜ人を殺してはいけないのか」と発言し、居合わせた識者が誰も答えられないという出来事がありました。このことは多くの人にとってショックだったらしく、その後、私の知るところではふたつの雑誌が「『なぜ人を殺してはいけないのか』という問いにどう答えるか」という特集を組み、多くの識者が答えを寄せましたが、その答えはみごとにばらばらでした。
ということは、誰もまともに答えられなかったのです。
 
近代以前には、こうしたことはありえませんでした。道徳は宗教に根拠を持っていたからです。「なぜ人を殺してはいけないのか」と問う者がいれば、「それは神の教えだから」とか「そんなことをすれば地獄に落ちるから」と答えればよかったのです。
近代社会では、宗教に代わる根拠が求められることになりました。その役割を担うのは倫理学ということになりますが、今の倫理学は残念ながらまったく役に立ちません。
 
ただ、私は科学的倫理学=進化倫理学という立場を標榜しているので、その立場から答えてみます。
 
 
まず今の世の中に「人を殺してはいけない」という道徳はありません。私たちは正当防衛で人を殺し、死刑制度で人を殺し、戦争で人を殺すことを容認しているからです。ハリウッド映画の正義のヒーローが大量殺人を犯すシーンでは拍手喝采しています。
ですから、正しくは「罪のない人を殺してはいけない」というべきです。
 
「罪」というのも面倒くさい概念なので、もっと単純に「悪くない人を殺してはいけない」ということにします。
つまり今の世の中は、「悪くない人を殺してはいけないが、悪い人、とくに極悪人なら殺してもかまわない」というのが主流の道徳になっています。
 
しかし、こういう議論になると、善と悪とはなにかという問題になり、倫理学不在の状況では誰も答えられません。
 
 
科学的倫理学=進化倫理学の立場からは、そもそも人に向って「人を殺してはいけない」と言うのが愚かなことです。
というのは、人間は誰でも人を殺したくないという本能を持っているからです。
自分がナイフか拳銃を持って人を殺す場面を想像すればわかるはずです。
「戦争における『人殺し』の心理学」(デーヴ・グロスマン著)という本によると、人間には同類を殺すことには強烈な抵抗感があって、訓練された兵士ですら戦場でなかなか敵兵を殺せないということです。

とはいえ現実に殺人事件はあって、なにも悪いことをしていない人間が殺されることがあります。
こういう場合、たいてい犯人には長期間にわたる強烈なストレスがかかって、人間性がゆがんでしまっているものです(酒鬼薔薇少年もそうでした)。
しかし、そういう人間に「人を殺してはいけない」と言っても効果はないでしょう。
 
人に向って「人を殺してはいけない」と言うことは、「お前はもしかして人を殺すのではないか」という不信感を表明しているのと同じです。
さらには「私は人を殺してはいけないことがわかっているが、お前はわかっていないだろう」と、相手を見下していることにもなります。
酒鬼薔薇事件のときはおとながパニックになって、見境なく若者に「人を殺してはいけない」と言ったので、不愉快になった1人の若者が「なぜ人を殺してはいけないのか」と反撃したのです。
 
ですから、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対しては、「人を殺してはいけないなどと言ってすみませんでした」と謝るのが正しい答えです。

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