村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

カテゴリ: 科学的倫理学入門

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岐阜県銃乱射の18歳自衛官候補生、長野県立てこもり4人殺害の青木政憲容疑者、安倍元首相暗殺の山上徹也被告、この3人をつなぐ一本の糸は「自衛隊入隊経験」です。

現役の自衛隊員が射撃訓練中に小銃を乱射するというのはショッキングな出来事ですが、それにしても、テレビのコメンテーターが「自衛隊は人の命を救う仕事なのにこんなことが起こって残念」と言っていたのにはあきれました。
自衛隊は災害時などに人命救助活動をしますが、これは“副業”です。“本業”はあくまで戦争で人を殺すことです。
まともな人間はなんの恨みもない人間を殺すことはできません。ですから、軍隊の訓練は兵隊をまともでない人間にすることです。
そのためどこの国の軍隊も、新兵訓練にはパワハラ、暴力が横行するものです。自衛隊が例外であるはずはありません。

自衛隊の非人間的な訓練が18歳自衛官候補生に銃乱射事件を起こさせた――というのはわかりやすい説明ですが、実際には今年の4月に入隊してわずか2か月ほどしか訓練を受けていないので、この説明にはむりがあります。

長野県立てこもり4人射殺事件の青木政憲容疑者は、大学中退後、父親に半ばむりやり自衛隊に入隊させられたようです。しかし、2、3か月後に除隊しているので、これも自衛隊の訓練の影響はほとんどなさそうです。

安倍元首相暗殺の山上徹也被告は1999年に高校卒業後、専門学校に入学するも中退、2002年に海上自衛隊に入隊し、3年間勤務します。
二十歳そこそこの若者にとって3年間勤務の影響は小さくないと思われますが、事件を起こすのは20年近くたってからですから、やはり自衛隊勤務と事件を結びつけるのはむりがあります。
ただ、自衛隊で銃器を扱った経験が手製銃づくりを思いつかせたということはあるでしょう。


これらの事件と自衛隊入隊は直接結びつきません。
しかし、自衛隊に入隊しようとした動機と事件は関係あるかもしれません。

長野県の青木政憲容疑者は父親から半ばむりやり自衛隊に入隊させられたというので、本人に入隊の動機はないことになりますが、安倍元首相暗殺の山上徹也被告の動機はかなり明白です。
山上被告の母親は統一教会に入信して多額の寄付を行ったことで家庭崩壊し、父親と兄は自殺しています。
山上被告は崩壊家庭から逃げ出すために自衛隊に入ったのです。

近所の会社に就職したのでは家庭から逃げ出したことになりませんが、自衛隊員になれば一般社会から切り離されます。
それに、自衛隊員の生活は駐屯地の隊舎や艦内などでの共同生活なので、山上被告はそこに家庭の代わりを求めたのかもしれません。

銃乱射の18歳自衛官は、幼くして児童養護施設に預けられ、幼稚園と小学校は施設から通いました。その後、親元で生活するようになりますが、中学の後半は児童心理養育施設に入ります。高校に進学してからは、複数の里親のもとを転々としたということです。
つまり彼は親からネグレクトされて、まともな家庭生活というものをほとんど知らないのです。
高校卒業後、すぐに自衛隊に入ったのも、そこに家庭の代わりを求めたのではないでしょうか。


私がこうしたことを考えるようになったきっかけは、池田小事件の宅間守元死刑囚(死刑執行ずみ)の生い立ちを知ったことです。
宅間守は父親からひどい虐待を受け、母親は家事、育児が苦手で、ほとんどネグレクトされ、母親は結果的に精神を病んで長く精神病院で暮らし、兄は40代後半のころに自殺しています。
宅間守は小学生のころから自衛隊に強い関心を持っていて、「将来は自衛隊入るぞ~」と大声で叫んだり、一人で軍歌を大声で歌っていたこともあり、高校生になると同級生に「俺は自衛隊に入るからお前らとはあと少しの付き合いや」と発言していたこともあったそうです。
そして高校退学後、18歳で航空自衛隊に入隊しますが、1年余りで除隊させられます。「家出した少女を下宿させ、性交渉した」ために懲罰を受けたということです。
宅間守の場合、自衛隊は明らかに崩壊家庭からの脱出先です。
自衛隊で自分を鍛えて強くなりたいという思いもあったでしょう。
池田小事件を起こしたのは47歳のときなので、30年近くも前の自衛隊入隊の経歴は誰も問題にしませんでしたが、私は崩壊家庭からの脱出先に自衛隊が選ばれるケースがあるということで印象に残りました。

山上徹也被告の経歴を見たとき、宅間守と同じだと思いました。
銃乱射の18歳自衛官候補生もまったく同じです。

自衛隊入隊と凶悪犯罪が結びつくわけではありません。
家庭崩壊と凶悪犯罪が結びつき、その間に自衛隊入隊がはさまる場合があるということです。

崩壊家庭で育ったからといって凶悪犯罪をするわけではありませんが、凶悪犯罪をする人間はほとんどの場合、崩壊家庭で育って、親から虐待されています。
とりわけ動機不明の犯罪、不可解な動機の犯罪はすべて崩壊家庭とつながっているといっても過言ではありません。


崩壊家庭の子どもは家庭から逃げ出して、不良になったり、援助交際をしたりします。
最近話題の「トー横キッズ」もそうした子どもたちです(名古屋には「ドン横キッズ」、大阪には「グリ下キッズ」がいます)。
こうした子どもたちについては、犯罪をしたり犯罪に巻き込まれたりということばかりが話題になりますが、そのもとに崩壊家庭があるということはまったく無視されています。

凶悪犯罪についても同じです。
根本的な原因は崩壊家庭、幼児虐待にあります。


崩壊家庭の問題が認識されるのは、子どもが虐待されて死ぬか大けがをした場合だけです。
その前に子どもを助けなければならないのですが、誰もが見て見ぬふりをするので、なかなか助けられません。

崩壊家庭を本来の健全な家庭にすることは最大の社会改革です。

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「弱きを助け、強きをくじく」という言葉があります。
正義のヒーローのキャッチフレーズとして昔はよく使われていましたが、最近はあまり耳にしません。
国語辞典には「弱い者を救い、横暴な者をこらしめる。任侠の気風をいう」とあり、任侠に由来する言葉なので、使いにくいのでしょうか。

「強きをくじく」と言っておきながら正義のヒーローがいちばん強いわけで、そこに矛盾があります。任侠という特殊な立場だから成立する言葉かもしれません。

「弱きを助け、強きをくじく」という言葉を批判する立場もあります。
モラロジー道徳教育財団の「道徳の授業:親切・思いやり」というページにこう書かれています。
「弱きを助け、強きをくじく」というと、一見カッコよく、道徳的に聞こえますが、弱者をすべて善人、強者をすべて悪人と見るのも、はなはだあわてた結論でしょう。

 また、弱い者を偏愛することになり、そのため、やたらと強い者を憎み、これに刃向かう気風をつくってしまうという一面があります。

 同情や親切は大切な道徳ですが、深い理性と真に人を愛する心が伴ってこそ、質のよい価値ある道徳といえましょう。

モラロジー道徳教育財団というのは、ウィキペディアによると『廣池千九郎が1926年に説いた「道徳科学」(moral+-logy)を基に始まった修養・道徳団体。教育再生、道徳教育による「日本人の心の再生」を主張し、その出発点を家庭に置く』となっていますが、私の印象としてはひじょうに宗教に近い感じがしますし、道徳教育を重視する点で自民党とも近い感じがします。

強者をすべて悪人、弱者をすべて善人と見なすことに疑問を呈していますが、これはモラロジーが強者の側に立っているからでしょう。


弱者がすべて善人であるかどうかわかりませんが、強者がすべて悪人であるというのはかなり正しいかもしれません。
それを肯定する言葉があります。

それは「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する」という言葉です。

19世紀末のイギリスの歴史家で政治家のジョン・アクトンが述べた言葉ですが、アクトンはフランス革命の歴史や自由主義を研究した人なので、単なる思いつきの言葉ではありません。

この言葉の正しさは、現実を見てみればわかります。
長い歴史において、善政を敷いた権力者はいないではありませんが、ごく少数です。しかも、その善政の期間は短いものです。
政権が長期化すると、どんな権力者も独裁者と化していきます。独裁者が民衆のための政治をするわけがありません。
最近の政治を見ても、ウラジミール・プーチン、習近平、安倍晋三と、長期政権は独裁化していきます。

企業経営者も同じです。
最初は優秀な経営者でも、長期化するといつしか周りをイエスマンで固め、ワンマン経営者といわれ、独善的な経営をするようになります。

例外がないとはいえませんが、「権力は腐敗する」というのはかなりの程度真実です。

「権力は人を酔わせる。酒に酔った者はいつかさめるが、権力に酔った者は、さめることを知らない」という言葉もあります。
これはアメリカの政治家のジェームズ・バーンズの言葉です。

ともかく、権力は腐敗し、横暴になり、弱者をいじめるので、「弱きを助け、強きをくじく」という原理で行動すれば、ほとんどの場合間違いありません。

決して名言だけを根拠にして主張しているわけではありません。
ちゃんと“科学的”な根拠もあります。
次の実験は、金持ちと貧しい人についてのものですが、現代社会で金を持っていることは権力を持っていることと同じようなものでしょう。
お金持ちほど人をだます傾向あり、米研究
2012年2月29日 14:49 発信地:ワシントンD.C./米国 [ 北米 米国 ]

【2月29日 AFP】社会的地位の高いお金持ちはそれ以外の人々よりも、交通ルールを守らず、子供のキャンディーを横取りし、金銭的利益のためにうそをつく傾向があるとする研究結果が、27日の米科学アカデミー紀要(Proceedings of the National Academy of Sciences、PNAS)に発表された。

 米カリフォルニア大学バークレー校(University of California at Berkeley)とカナダ・トロント大(University of Toronto)の心理学者チームは、米国で行った人間行動に関する7つの実験を分析した。

 ある実験では、メルセデス・ベンツ(Mercedes-Benz)やBMW、トヨタ(Toyota)のプリウス(Prius)などの高級車のドライバーは、カムリ(Camry)やカローラ(Corolla)などの大衆車のドライバーに比べて、交差点での交通ルールを守らない傾向があることが分かった。高級車ドライバーはまた、大衆車ドライバーよりも、道路を横断しようとする歩行者を優先しない傾向があった。

 サイコロを使った別の実験では、サイの目が大きいと50ドル(約4000円)の賞金をもらえるというゲームを行ったところ、社会経済的な地位が高いと自己申告した人では、実際の目よりも大きい数を言う頻度が高かった。「50ドルなど大した金ではない階級の人々がうそをつく頻度は(低所得者層の)3倍だった」と、論文の主執筆者であるカリフォルニア大バークレー校のポール・ピフ(Paul Piff)氏は言う。

 また、自分を雇用者と仮定し、近く廃止する部署であると知りながらもその部署を希望する求職者と面談するという設定では、高い地位の人ほど事実を隠す傾向があった。

 別の実験では、キャンディーが詰まったポットを「近くの研究所の子供たち用」だと言って渡し、「好きならいくつかとっても構わない」と言い添えた場合、お金持ちほど多くのキャンディーをとる傾向があった。平均して、お金持ちがとったキャンディーの量は(お金持ちではない人の)2倍だった。富裕層の施しの量が貧しい人よりも少ない傾向があることを見出しつつあるピフ氏も、お金持ちが子供のお菓子を横取りするというこの事実には驚きを禁じ得ないと言う。

 さらに、自分の社会的地位が高いと思い込ませる実験では、社会的地位が他の人より高いという認識が、貪欲さを増し、例えば、実際より多くのおつりをもらっても黙ってとっておくなど、倫理的な行動規範も薄れる可能性があることも明らかになった。

■富と自立が他人への感受性弱める

 以上の実験結果は「上流階級の個人の間で文化的に共有されているいくつかの規範」を浮き彫りにした、と、論文は述べる。

 例えば、富裕層は貧しい人よりも自立し、財産も多いため、「他人が自分をどう思うか」が貧しい人よりも気にならないかもしれないという。

 ピフ氏によれば、お金を持っている人ほど、貪欲さを肯定的にとらえ、ピンチの時には家族や友人を頼らない傾向がある。こうした「気高さ」が自身を社会から切り離した存在にしているという。「日常生活の極めて異なるレベルでの特権が自立性を生み、自分の行為が他人の幸福へ及ぼす影響への感受性を弱めると同時に自己の利益を最優先させる結果を生んでいる」(ピフ氏)

 だが、論文は、慈善活動を行っている億万長者、ビル・ゲイツ(Bill Gates)氏やウォーレン・バフェット(Warren Buffett)氏などの例外が存在することも指摘する。また、貧困と凶悪犯罪の関連性を示した以前の研究は、貧しい人が必ずしもお金持ちより倫理観が高いわけではないことを示している。

 ただし論文は、「私利私欲は社会のエリート層のより根本的な動機であり、富の蓄積と地位の向上に関連したもっと欲しいという欲求は不正行為を助長しかねない」と指摘する。

 なお、実験はそれぞれ100~200人の米国人を対象に行われたが、「結果は米国外の社会にも当てはまるだろう」とピフ氏は言う。これらのパターンは、特に、格差の大きい社会で顕著に表れることが予想されるという。(c)AFP/Kerry Sheridan
https://www.afpbb.com/articles/-/2861397
要するに金持ちほど悪いことをするという内容です。

私はこれを読んだとき、正直者がバカを見る世の中だから、悪い人間が金持ちになったのではないかと思いました。
しかし、人を押しのけて生きていくような人間が出世することもありますが、周りから信頼される人間が出世する場合もあります。
この論文は、金持ちになったから人の目を気にしなくなり、悪いことをするのではないかと見なしています。
出世して金と権力を手にした人間は、次第に傲慢になり、平気で利己的なふるまいをするようになるということです。
これは「権力は腐敗する」ということに合致します。


前回の「『人間は利己的である』ということ」という記事で、人間は基本的に利己的であるということを述べました。今回の記事はその続編になります。
人間は誰もが利己的ですが、周りに人間がいるのでそんなに利己的なふるまいはできません。弱い立場の者はなおさらです。
しかし、権力を手にすると、利己的なふるまいができるようになり、どんどんエスカレートしていきます。

ですから世の中は、権力者や金持ちや地位の高い者などの強者は利己的にふるまって不当に利益を得て、弱者は不当に利益を奪われています。
しかも、強者は社会制度を自分たちに有利なようにつくっています。
民主主義によって弱者の意志も社会制度に反映されることになっていますが、上が下を支配する力は網の目のように社会に張り巡らされているのに対して、下から上への声を吸い上げる民主主義のパイプは細くて目詰まりしているので、まったく不十分です。

これが世の中の基本の仕組みですから、世直しの原理は「弱きを助け、強きをくじく」ということになるわけです。


つけ加えると、保守派や右翼やネトウヨの原理は「強きを助け、弱きをくじく」です。
したがって、リベラルと保守派の対立というのは、「弱きを助け、強きをくじく」と「強きを助け、弱きをくじく」の対立ととらえることができます。

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戦争から夫婦喧嘩、親子喧嘩まで、人類は延々と争いを続けてきました。
どうして人類は争いを克服することができないのでしょうか。

人間性についての科学的研究は、認知科学、進化心理学、行動経済学、人工知能研究などの分野で急速に進展しています。「汝自身を知れ」というデルフォイの神託が現実のものとなる日も近そうです。
しかし、今のところ肝心なことが認識されていません。
それは「人間は利己的である」ということです。

今話題のマイクロソフトのBingチャットを使って、「人間は利己的ですか」と聞いてみました。

人間は利己的ですかというのは、難しい質問ですね。人間の本性や倫理観に関する哲学的な議論がありますが、一概には答えられません。

一般的には、人間は自分の利益を重視し、他者の善行を軽視、無視する考え方を利己主義と呼びます。 利己主義の対義語は利他主義で、他者の利益や幸福を優先する考え方です。

利己主義には、心理的利己主義と倫理的利己主義の二種類があります。(以下略)

つまり「人間は利己的ですか」にはっきりした答えはないのです(AIチャットはネット上の多様な議論を要約してくれるものとしては有用かと思います)。

これには「利己的」という言葉の意味がはっきりしないということも関係しています。

経済学では「合理的経済人」として、自己の利益の最大化をはかる人間が想定されています。こうした自分の利益を追求する行動も「利己的」ということになりますが、これは悪い意味ではありません。市場経済はみんなが利己的に行動することで成り立っています。
しかし、日常生活で「あの人は利己的だ」とか「それは利己的なふるまいだ」というとき、「利己的」は悪い意味になります。

英語では「利己的」に当たる言葉が「egoistic」と「selfish」とふたつあります。「egoistic」は悪い意味ですが、「selfish」は中立的な意味とされます。
ただ、「selfish」も完全に中立的な意味ではないようです。英和辞典によると、〈侮蔑的〉として「自分のことしか考えない、自分勝手な、自己中心的な、わがままな」という訳語が並んでいます。


問題を整理します。
自分の利益を追求するのは悪いことではありません。基本的人権の「幸福追求権」に含まれると考えるべきです。
しかし、自分が利益を追求する以上、他人が同じように利益追求することを認めなければなりません。他人の利益追求を妨げて自分の利益追求をするのは不当です。このような不当な利益追求は「利己的」として批判されることになります。

しかし、ここでやっかいな問題があります。
今の世の中、正当に利益追求をしていても「利己的」と批判される傾向があるのです。
株式投資でもうけた人や遺産相続をした人が嫉妬されるのはまだ理解できますが、普通に商売でもうけた人でも嫉妬されて批判されることがあります。
そのため、商売する人は、もうけていてももうけたとは口にせず(「もうかりまっか」「ぼちぼちです」)、逆に「出血サービスをしています」「お客様に奉仕しています」などと言います。
金メダルを取ったアスリートは「努力が報われました」などとは言わず、「コーチや応援してくださったみなさまのおかげです」と言います。
つまり誰もが「利己的」と批判されることを避けるために、実際以上に自分を「利他的」に見せかけているのです。
そのため、正当な利益追求と不当な利益追求の境界線がわかりにくくなっています。


ここで「公平」という概念を持ち出してみます。

「公平」を国語辞典で引くと、「すべてのものを同じように扱うこと」と説明されています。この説明には「自分」が対象になっていません。たとえばA、B、Cという人間を同じように扱うことは可能でしょう(身びいきや偏見ということもありますが)。では、自分と相手(他人)を同じように扱うことは可能でしょうか。
自分と相手を公平に見るには、“神の視点”ないしは第三者の視点が必要ですが、この場合は利益がからんできます。
自分は第三者の視点を持ったつもりでも、無意識のうちに自分が有利になるように見ている可能性があります。

私が子どものころ、よく近所の子どもと空き地で野球をしましたが、人数が少ないので、審判は攻撃側のチームが出すことになっていました。その審判は公平な判断をしたのでトラブルになるようなことはありませんでした。要は野球を楽しくやりたいだけで、どちらのチームが勝とうがどうでもよかったからです。もし勝ち負けが重要な試合であれば、一方のチームが審判を出すなどということは相手チームが許しません。
サッカーの国際試合は、審判は第三国の人間が務めるに決まっています。
法律上の調停を行うときも、裁定するのは必ず双方と利害関係のない第三者です。

人間は自分の利益がからむと公平な判断ができません。
「お手盛り」という言葉があるように、自分に有利になるようにしてしまいます。
国語辞典も「自分と他人を公平に扱う」ということは最初から不可能なことがわかっているので、説明から除外しているのでしょう。
戦時中の配給制度のもとでは、配給品は商店を通して各世帯に配られました。たとえば米屋であれば、自分の世帯の取り分を多めにして、その米を闇市で売ります。ですから、サラリーマン家庭はどこも苦しい生活でしたが、商売人の家庭は余裕のある生活でした。

人間は自分の利益がからむと平気で不当なことをします。つまり人間は利己的であるということになります。


利己的であるのは動物も同じです。
なわばりを持つ動物は、自分のなわばりを他の個体にわからせるために、糞尿を残す、体の匂いをつける、爪痕をつけるなどのマーキングをし、鳥類はテリトリーソングといわれるさえずりをします。そして、普段はむだな争いを避けるために互いのなわばりを尊重して平和に暮らしています。
しかし、なわばりの境界線が正確に認識できるわけではありません。そうすると、双方ともに境界線を自分に有利に解釈して、“国境紛争”ともいうべき争いがしばしば起きます。
さらに、双方ないし片方がなわばりを拡張しようとしても争いは起きます。
ということで、なわばり争いはしょっちゅう起きるのですが、争いが深刻化すると自分にとっても不利益ですから、それほど深刻化しません。

人間の場合は本能の制御が弱いので、争いが深刻化し、大規模な戦争も起きます。
戦争に勝つと土地、財産、女、奴隷を獲得して、大きな利益が得られるからです(これは昔のことですが)。
動物は一個体が必要とするなわばりの広さは限られていますが、人間の場合は限りなくなわばりを併合して“帝国”を築くことがあります。


以上のことから「人間は利己的である」というのは明らかです。

しかし、AIが「一概には答えられません」と言うように、このことは一般には認められていません。
その理由は、「利己的」という言葉の意味が明確でないことに加え、利己的であることは道徳的に非難されるので、誰もが自分は利己的だと思いたくないからです。
自分は利己的だと思いたくない以上、「人間は利己的である」とも思いたくありません。

それに加えて、多くの進化生物学者が「人間は利己的である」ということを否定しているということもあります。
リチャード・ドーキンス著『利己的な遺伝子』という本もあるぐらいですから、進化生物学では動物は利己的なものとされていそうなものですが、実際はそうではありません。
社会性動物には、子どもの世話をしたり仲間を助けたりという利他的性質があります。ダーウィンはこの利他的性質を重視しましたが、進化論では仲間を助ける性質のあることがうまく説明できませんでした。しかしその後、遺伝子とゲーム理論から説明できるようになり、それによって進化生物学者は人間の利他的性質を過大評価するようになったのです(このあたりのことは簡単に説明できないので、「道徳観のコペルニクス的転回」を参照してください)。
もし進化生物学者が「人間は利己的である」と結論づけていたら、世の中は大きく変わっているでしょう。


利己的な人間は本能の制御を超えて争い、その結果、強者が弱者を支配する社会をつくりました。階級制、身分制、奴隷制、農奴制などです。雇う人間と雇われる人間がいる資本制もその延長線上です。
争いが激化すると不利益を生むので、人間は争いを抑える文化も発達させてきました。法律、規則、掟などで社会の秩序を維持するやり方です。それでも争いが起こると、裁判官や長老などの第三者が裁定して争いを収めます。秩序を逸脱する者は警察が取り締まります。
これを「法の支配」または「法治主義」といいます。

「法の支配」によって争いは抑制されていますが、「法の支配」の及ばない領域があります。
それは国際社会と家庭内です。

国際社会には一応国際法がありますが、警察に当たるものがないので、実質的に無法状態です。戦争が起こるのを止められません。
世界を平和にするには、警察に当たる国連軍をつくって、国際法を執行する体制にしなければなりません。
しかし、アメリカは世界の軍事費の約4割を占める軍事大国なので、アメリカを抑えるような国連軍はつくれません。
ロシアや中国が平和の敵であるかのような言説があふれていますが、実際はアメリカが世界を平和にしようと思わない限り世界は平和になりません。

家庭内にも「法の支配」はないので、暴力が横行しています。
家族は本来愛情によって結びついているものですが、文明社会では夫が妻を力で支配し、親が子どもを力で支配するという、権力で結びついた家族になっています。
夫の暴力から逃げ出した妻、家出して盛り場をうろついたり“神待ち”をしたりする少年少女は氷山の一角で、日本には荒廃した家庭がいっぱいです。
ちなみに日本の殺人事件の54.3%は親族間の殺人です(2020年版警察白書)。日本の社会の中でもっとも荒廃しているのが家庭です。
しかし、家庭内に「法の支配」を持ち込むのは、対症療法にはなっても、家庭に愛情を取り戻すことにはなりません。
では、どうすればいいかというと、要するに「自然に帰れ」で、未開社会の家族や動物(哺乳類)の家族を見て、学ぶのがいいでしょう。

もっとも、それは長期的な話です。
短期的には、「人間は利己的である」と認識するだけで、家族関係は変わってきます。
どんなに愛し合って結婚した夫婦でも、自分と相手の関係を公平に判断することができないので、「相手は利己的にふるまって、自分は損している」という認識を双方が持つことになり、その不満がどんどん蓄積されて喧嘩が頻発し、最後には離婚に至るか仮面夫婦になるというのがほとんどの夫婦ですが、そうした悲劇はある程度回避できるはずです。

日本は尖閣諸島、北方領土、竹島という領土問題を抱えていて、ほとんどの日本人は「日本の主張は正しい。中国、ロシア、韓国の主張は間違っている」と考えていますが、これも公平な判断とは限りません。相手国も同じことを(つまり逆のことを)考えています。
こうした認識が戦争につながるので、注意が必要です(国際機関など第三者に判断してもらうしかありません)。


「人間は自分と相手の関係を公平ではなく自分に有利に判断してしまう」というのは認知バイアスの一種です。
名づければ「利己主義バイアス」となるでしょう。
実に単純なことですが、こうした認知バイアスの存在は認識されていません。「人間は利己的である」ということが認識されていないのだから、当然かもしれません。

「人間は利己的である」と認識するだけで、多くの争いは回避できます。

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私はこの「村田基の逆転日記」というブログのほかに「道徳観のコペルニクス的転回」というブログもやっています。
「村田基の逆転日記」では時事的なことを書き、「道徳観のコペルニクス的転回」では思想的なことを書くという分担になっています。
「村田基の逆転日記」は週1回程度更新していますが、「道徳観のコペルニクス的転回」は最初から本1冊分を丸ごと公開したので、更新するということはありません。

「道徳観のコペルニクス的転回」を開設するときにこのブログで告知し、その後もたまにここで「道徳観のコペルニクス的転回」というブログがあることに触れてきましたが、最近アクセスが低調です。
「道徳観のコペルニクス的転回」はひじょうに重要な内容なのですが、本1冊分の文章を読むのが面倒だという人も多いでしょう。“タイパ”が重視され、映画も10分程度のファスト映画を見て済ましてしまう時代です。

そこで、「道徳観のコペルニクス的転回」の冒頭の「初めにお読みください」という部分を全面的に書き改め、「このブログはこんなにすごい内容なんだよ」ということを書きました。
推理小説でいえばネタバレになるようなことなので、本来は書きたくなかったのですが、ともかく重要な内容であることを知ってもらわないと話になりません。

その書き直した部分は、このブログの基本的思想でもあるために、ここに掲載することにします(つまりふたつのブログに同じ文章が載ることになり、こちらでも読めます)。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
道徳観のコペルニクス的転回

「初めにお読みください」
このブログは、一冊の本になるように書いたものなので、「第1章の1」から順番に読んでください。


どういう内容かというと、もちろん読んでもらえばわかるわけですが、ここでごく簡単に説明しておきます。

私は若いころから「どうして世の中から悪をなくすことができないのだろう」ということを考えていました。世の中のほとんどの人は悪をなくしたいと思っているはずなのに悪がなくならないのは不思議なことです。戦争、暴力、犯罪、圧政、差別など、人が人を不幸にすることはすべて悪の範疇でしょう。悪を完全になくすことはできないとしても、十分に少なくすることができれば、人類の幸福に大いに貢献することができます。しかし、思想家や哲学者が「悪をなくす」という課題に取り組んだ形跡はほとんどありません。これもまた不思議なことです。
ちなみに倫理学では善の定義は存在しません。ジョージ・E・ムーアは二十世紀初めに『倫理学原理』において善を定義することは不可能だと主張し、それに対して誰も善の定義を示すことができなかったので、善の定義はないとされています。当然、悪の定義もありません。倫理学で善と悪の定義がないのは、数学で「1+1」の答えがわからないみたいなものです。ですから、倫理学はまったく役に立たない学問です。試しに倫理学の本をどれでも一冊読んでみてください。わけがわからなくてうんざりすること必定です。哲学書、思想書はどれも難解ですが、おそらくその根底には倫理学の機能不全があるに違いありません。

私は「どうして世の中から悪をなくすことができないのだろう」ということを愚直に考え続けました。そうするとあるとき、答えがひらめいたのです。その瞬間のことは今も鮮明に覚えています。頭の中がぐるりと回転しました。「アウレカ!」と叫んで走り出しそうになりました。私は人類史上画期的な発見をしたことを確信しました。
これまでの倫理学は天動説のようなものでした。私は地動説的倫理学に思い至ったのです。したがって、この発見を「道徳観のコペルニクス的転回」と名づけました。
地動説的倫理学だと善と悪の定義ができますし、道徳(倫理)に関するさまざまなことが論理的に説明できます。これだけで地動説的倫理学の正しいことがわかります。

「道徳観のコペルニクス的転回」と名づけたのは、比喩としてこれ以上ないほど適切だからですし、コペルニクスによる地動説の発見に匹敵するほどの歴史上の大発見でもあるからです。こういうと、話が大きすぎて信じられないという人がいるでしょう(私はSF作家でもあるのでSFのネタとも思われそうです)。そこで、これが実際に歴史上の大発見であると納得してもらえるように説明したいと思います。


地動説的倫理学は、人類の祖先がどのようにして道徳をつくりだしたかという仮説に基づいています。道徳が神から与えられたものでない以上、人間がつくりだしたと見るのは当然です。
実は道徳起源の仮説はもうひとつあります。それはチャールズ・ダーウィンの説です。ダーウィンは『種の起源』の12年後に『人間の由来』を著し、進化論から見た人間を論じましたが、そこにおいて人類の祖先がいかにして道徳をつくりだしたかの仮説を述べているのです。ダーウィンの道徳起源説は私の道徳起源説とまったく違います。
ダーウィンの道徳起源説が正しいか否かは、その後の展開を見ればわかります。
『人間の由来』以降、社会における弱肉強食の原理を肯定する社会ダーウィン主義と、遺伝によって人間を選別することを肯定する優生思想が猛威をふるい、とりわけ優生思想はナチスに利用されて悲劇を生みました。また、ダーウィンは『人間の由来』において人種の違いの重要性を主張したので、人種差別も激化しました。
『人間の由来』が社会ダーウィン主義と優生思想と人種差別を激化させて、社会に混乱と悲劇を生んだために、やがて人間に進化論を適用して人間性や社会を論じることはタブーとなりました。『人間の由来』は、ダーウィンが進化論を人間に適用して論じるというきわめて興味深い本なのに、進化生物学界の黒歴史となり、進化論の解説書などにもほとんど取り上げられません。

とはいえ、人間に進化論を適用することがタブーであるというのはおかしなことで、なによりも非科学的です。そのため人間に進化論を適用することはつねに試みられてきました。たとえば、血縁淘汰説とゲーム理論によって動物の利他行動が理論的に説明できるようになったことを背景に、昆虫学者のエドワード・O・ウィルソンは『社会生物学』において、人文・社会科学は生物学によって統合されるだろうと主張し、これをきっかけに生物学界だけでなく社会学、心理学、政治学、文化人類学などを巻き込んだ「社会生物学論争」と呼ばれる大論争が起きました。なぜそのような大論争になったかというと、政治的な右派対左派の論争でもあったからです(ウィルソンなどは右派)。そして、この論争の結論は、やはり人間に進化論を適用するのは人種差別や性差別を助長するのでよくないというものでした。もっとも、その結論は科学的なものではなく、声の大きいほうが判定勝ちしたといったものでした。

なぜこんなおかしなことになるかというと、すべてダーウィンの道徳起源説に原因があります。
進化論は生存闘争をする生物の姿を明らかにし、人間も例外であるはずがありません。ところがダーウィンは、人間は神に似せてつくられ、エデンの園で善悪の知識の実を食べたというキリスト教的人間観を捨てきれなかったのです。
ダーウィンは進化論と道徳を結合しました。その道徳は天動説的倫理学の道徳でした。社会ダーウィン主義は「社会進化のために人間は生存闘争をする“べき”である」というものなので、進化論と道徳の結合体であることがわかります。同様に優生思想は「人間進化のために劣等な人間は子孫を残す“べき”でない」というものなので、やはり進化論と道徳の結合体です。進化論という科学と結合したことで道徳が暴走したのです。
ところが、誰もこの間違いに気づきませんでした。天動説的倫理学は世の中の共通のフォーマットだからです。

もともと天動説的倫理学と科学は相容れませんでした。それは「ヒュームの法則」という言葉で表されます。科学が明らかにするのはあくまで「ある」という事実命題であって、「ある」をいくら積み重ねても「べき」という道徳命題を導き出すことはできないというのがヒュームの法則です。デイヴィッド・ヒュームが1739年の『人間本性論』において、「ある」と「べき」を区別しない論者が多いことに驚くと述べたことからいわれるようになりました。「ある」から「べき」を導くと、それは「自然主義的誤謬」であるとして批判されます。ヒュームの法則はきわめて有効なので、「ヒュームのギロチン」ともいわれ、自然科学と人文・社会科学のつながりを断ち切ってきました。ダーウィンは「ある」と「べき」を進化論によってつなごうとしたのですが、失敗しました。

進化論は聖書の創造説が信じられていた西洋キリスト教社会に衝撃を与え、それは「ダーウィン革命」と呼ばれました。ダーウィン革命によって科学的人間観が確立されるはずでした。しかし、ダーウィンが道徳起源説を間違えたために、ダーウィン革命は挫折しました。
それから150年ほどたって、たまたま私が正しい道徳起源説を思いつき、ダーウィン革命を完成させる役回りを担うことになったというわけです。
以上が「道徳観のコペルニクス的転回」が歴史上の大発見であるということの説明です。

もっとも、「三流作家のお前の説よりも、偉大なダーウィンの説のほうが正しいに決まっている」と思う人もいるでしょう。どちらの説が正しいかは本文を読んで判断してください。
なお、ダーウィン説と私の説は正反対で、表裏がひっくり返ったようなものです。したがって、第三の説はないでしょうから、判断するのは簡単です。
最終的には進化生物学の専門家が決めればはっきりします。私としては、とりあえず進化生物学界の重鎮である長谷川眞理子・寿一夫妻(長谷川眞理子氏は『人間の由来』の翻訳者でもある)や、進化論と人間について大胆な説を展開してきた進化学者の佐倉統氏などに認めてもらうことを期待しています。


「道徳観のコペルニクス的転回」を信じてもらうために、その効用を少し述べておきます。

日本でもアメリカでも保守対リベラルの分断が深刻化していますが、これは社会生物学論争における右派対左派の対立と同じ構図です。社会生物学論争が科学的に解決しなかったので、今に持ち越されているのです。したがって、この対立は地動説的倫理学によって解消されるはずです。
保守対リベラルの対立のもとには人種差別、性差別、家族制度の問題があります。性差別と戦ってきたフェミニズムは、セックス(生物学的性差)とジェンダー(社会的性差)を区別し、セックスは肯定しますが、ジェンダーは否定します。しかし、なぜ肯定的なものから否定的なものが生じたのかは説明されません。これは「ある」と「べき」の関係がわからないのと同じです。地動説的倫理学は「ある」と「べき」の関係をはっきりさせるので、セックスとジェンダーの関係もはっきりします。これによってフェミニズム理論はわかりやすくなるでしょう。

さらに「子ども差別」というものがあることを指摘したいと思います。人種差別や性差別は、差別する側と差別される側が固定されて一生変わることがありませんが、子ども差別の場合は、おとなが子どもを差別し、子どもがおとなになると子どもを差別するというように、世代が変わるごとに差別する側と差別される側が入れ替わっていきます。そのためあまり認識されていませんが、子ども差別こそ文明における最大の問題です。

人間の能力は原始時代からほとんど変化していないので、文明が高度に発達するほど人間の負担が重くなります。とくに負担がかかるのは子どもです。人間は学ぶことを喜びとする性質があるのに、文明社会では子どもは学びたいと思う以上のことを強制的に学ばされています。また、「道路に飛び出してはいけません」とか「行儀よくしなさい」とか言われて、子どもらしいふるまいが抑圧されています。文明が進むほど子どもは不幸になります。子ども時代が不幸でもおとなになってからそれ以上に幸福になればいいというのが子どもを教育するおとなの理屈ですが、子ども時代の不幸はおとなになっても尾を引きます。
「子どもの不幸」を最初に発見したのはジグムント・フロイトです。しかし、これはおとなにとって不都合な真実ですから、フロイトはおとな社会の圧力に負けてすぐに隠蔽してしまい、代わりにエディプス・コンプレックスを中心とする複雑怪奇な理論を構築しました。その後も心理学者は発見と隠蔽を繰り返し、いまだ十分に認識されているとはいえません。幼児虐待も、子どもが殺されたりケガしたりするようなものが表面化するだけで、子どもが親による虐待に耐えかねて家出しても、警察などに発見されるとすぐに家に戻されてしまいます。最近は「毒親」や「アダルトチルドレン」や「サバイバー」という言葉もできて、自分の子ども時代の不幸を認識するおとながふえてきましたが、社会全体の理解はまだまだです。

これまで文明を論じるのは高度な知性を持ったおとなばかりでした。そのため文明は子どもの犠牲の上に築かれているという事実が認識されませんでした。地動説的倫理学によって初めて文明の全体像が認識できるようになったのです。これからはおとなと子どもがともに幸福であるような社会を目指さなければなりません。

家父長制という言葉があります。これはひとつの家庭に子ども差別と性差別がある家族制度だと見なすとよく理解できます。家族が愛情で結ばれているのではなく、夫が妻を力で支配し、親が子どもを力で支配していて、子ども同士でも男と女、年上と年下で上下関係がある家族です。このような家族を維持するか、愛情ある家族を回復するかという対立が、保守対リベラルの対立の根底にあります。

最近、進化心理学など進化生物学を土台にした「進化〇〇学」と称する学問がいくつもできていますが、ヒュームの法則という枠がはめられているので、発展にも限界があります。しかし、地動説的倫理学に転換すればヒュームの法則を無力化することができ、人間の行動や心理に対する科学的研究が一気に進展します。
これは「ダーウィン革命の再開」であり、「第二の科学革命の始まり」です。

ぜひとも「道徳観のコペルニクス的転回」を理解していただきたいと思います。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



上の文章とその続きは次で読んでください。
「道徳観のコペルニクス的転回」


それにしても、私のような平凡な人間が「地動説に匹敵する歴史上の大発見」とか「第二の科学革命」とか言うのはひじょうに大きな心理的抵抗があります。その葛藤があるためこれまでよく伝えられなかったきらいがありました(それに加えてトラウマもありました。これについては「作家デビューのときのトラウマ」を参照)。
ようやく最近吹っ切れてきたので、この「初めにお読みください」を書き直すことができました。


「道徳観のコペルニクス的転回」とか「地動説的倫理学」といった比喩は決していい加減なものではありません。
私は善と悪の関係について考えました。私は「この人は善人。あの人は悪人」と判断していますが、私自身も他人から善人ないし悪人と判断されているわけです。もし自分が悪人であったら、私の判断はどうなるのでしょう。善人を悪人、悪人を善人と判断しているかもしれません。
自分が善人でなければ自分の判断は正しいということができません。
私は自分が善人である根拠はどこにあるだろうかと考えました。これはデカルトの方法的懐疑と同じですが、デカルトは「存在」を懐疑し、私は「判断」を懐疑したわけです。
私は「善人、悪人、自分」の関係はどうなっているのだろうと考えました。
コペルニクスは金星や火星の動きを明快に理論化できないかと考えているうちに、地球も金星や火星と同様に動いているのではないかと思いつき、「金星、火星、地球」の関係を考えているうちに太陽中心説を思いついたわけです。
私も同じようにして、あるものを中心とすることで理論化できたのです。
「あるもの」というのは、人間でなく動物、文明人でなく原始人、おとなでなく子どもです。
これまでは人間、文明人、おとなという自己中心の発想だったので、まともな倫理学が存在しませんでした。
ですから、「天動説的倫理学から地動説的倫理学へ」という比喩は実に適切です。


おとなが子どもを「よい子」や「悪い子」と判断し、「悪い子」を「よい子」にしようとすることが普通に行われています。
しかし、「よい赤ん坊」や「悪い赤ん坊」はいません。
いるのは「よいおとな」と「悪いおとな」です。
子どもと触れ合うことで人間の真の姿を知り、自分自身を見直すのが「よいおとな」です。
「悪いおとな」は子どもを「よい子」にしようとして、幼児虐待へと突き進みます。

幼児虐待は文明社会で広く行われています。
幼児虐待はDVの連鎖を生むだけでなく、自殺、自傷行為、さまざまな依存症、自己中心的な人間、冷酷な人間、猟奇犯罪者を生む原因でもあります。
「道徳観のコペルニクス的転回」が早く世の中に受け入れられることを願っています。


2015年、文科省は大学の文系学部を廃止する方向で改革するという報道があり、大きな騒ぎになりました。
この報道は少し行き過ぎていたようであり、文科省も反対の大きさに軌道修正したようでもあり、騒ぎは落ち着きました。
しかし、こうした騒ぎが起きるのは、多くの人が文系学問、とりわけ人文学系学問の価値に疑問を抱いているからでしょう。
人文学の中心にあるのは倫理学ですが、すでに述べたように倫理学はまったく機能していません。
機能していないことが逆に幸いして、倫理学は自然科学の侵入を防ぐ防壁になっていました。
しかし、防壁は今や壊れようとしているわけです。
人文学系学問はみずから脱皮しなければなりません。若い研究者の奮起が期待されます。

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最近、ひろゆきこと西村博之氏が人気です。
「女性自身」が2月に実施した「好きな“ネットご意見番”」のアンケート調査で、ひろゆき氏が1位となりました(2位は中田敦彦氏、3位は古市憲寿氏)。
2022年の小学生の流行語ランキングの1位にひろゆき氏の「それってあなたの感想ですよね」がランクインしています。子どもにはとくに人気があるようです。

ひろゆき氏の評価は世代によって違います。
私などから見ると、ひろゆき氏は「2ちゃんねる」の管理人として日本のインターネット文化を決定づけた人です。
どういう文化かというと、ヘイトスピーチに代表される、匿名で人の悪口を言いまくるという文化です。
とりわけ2ちゃんねるにはボランティア、チャリティなどを冷笑したり攻撃したりする傾向がありました。子どもの高額な手術費を集めるために両親が募金活動をしているといったケースなどはよく炎上しました。PCの前に座ってなにもしない人間が、人のためになる活動をしている人間を冷笑するというのが典型的な2ちゃんねるの文化です。

インターネットの論調がそのようになるのは当たり前のことで、ひろゆき氏とは関係ないと思われるかもしれませんが、そうではありません。

掲示板の管理人というと、全体の管理だけをやっているイメージですが、掲示板へのアクセスが増えると収益も増えるので、ひろゆき氏はみずから書き込んで、あちこちで論争を仕掛けて、炎上や“祭り”を演出していたに違いありません。ですから、2ちゃんねるはひろゆき的なのです。
ひろゆき氏はこうした経験で論争のスキルを向上させて、現在の「論破王」の称号を得ることにつながったのでしょう。

現在のひろゆき氏の言論活動に、かつての2ちゃんねるの雰囲気が感じられます。たとえば沖縄の辺野古移設反対運動を揶揄したり、家出少女を救済する活動をしている一般社団法人「Colabo」を攻撃したりといったことです。かつてはアグネス・チャンさんが子どものための募金を日本ユニセフ協会に対して行うよう呼びかけているのに対して公開質問状を出したこともあります(日本ユニセフ協会は募金の一部を活動費に当てているが、ユニセフ親善大使の黒柳徹子さんの口座に募金すれば100%ユニセフ本部に送られるという主張です)。

ひろゆき氏は現在、アメリカの「4chan」という、2ちゃんねると同じような匿名掲示板の管理人をやっていますが、「4chan」は陰謀論の巣窟だそうです。陰謀論は手っ取り早くアクセス数が稼げるからでしょう。

2ちゃんねるではヘイトスピーチや名誉棄損の書き込みに対する規制がほぼありませんでした。そうしたことから、ヘイトスピーチと誹謗中傷が吹き荒れる日本のインターネット文化が形成されたのです。外国でも似た傾向がありますが、日本は程度が違います。ひろゆき氏の責任は重大です。

ひろゆき氏は名誉棄損の書き込みの削除要請に応じなかったために多くの訴訟を起こされ、次々と敗訴し、多額の損害賠償を支払うよう裁判所から命じられましたが、財産をすべて海外に移して支払いを免れるというとんでもない手段に出ました。現在に至るも支払っていないとされています。
こうした人間をテレビ局がコメンテーターとして使っているのは信じられないことです。


2ちゃんねるの歴史を知っている人間からすると、ひろゆき氏は倫理観がすっぽりと抜け落ちた人間です。こういう人間が一般の人に人気になるのは理解できません。若い人は昔のことを知らないからだろうと思っていました。
しかし、ひろゆき人気はどんどん高まって、とりわけ小学生に人気が高いといいます。
小さい子どもというのは“本物”を見分ける感性を持っているものです。これは私の認識が間違っているのかもしれないと思い直しました。

そこで、ひろゆき氏の本でいちばん売れているらしい『1%の努力』を読んでみました。
ほかの何冊かの本にも、アマゾンで目次とレビューに目を通しました。
そうしたことからひろゆき人気の理由を考えました。


ひろゆき氏は、先ほどいったように倫理観がすっぽりと抜け落ちた人間です。それがいいほうに出ているのです。

ひろゆき氏は『1%の努力』で「人生に意味などない。だから、幸せの総量をふやせばいい」と言います。
『ひろゆきのシン・未来予測』という本も基本は同じです。「日本の未来がよくなることはほぼ不可能である」という見通しを示し、その中で“自分だけ”幸せになる方法を伝授します。
それから、人生の目標を「金持ちになる」とか「ビジネスで成功する」とかに置いていなくて、「楽して生きる」といったところに置いています。

普通の人生の指南書は「社会に必要とされる人間になれ」とか「周りの人に尽くせば、周りの人があなたを助けてくれる」などと説いていますが、それとはまったく違います。
つまり道徳や倫理がなくて、「自分の幸せ」に焦点が絞られています。
そのため論旨がひじょうに明快です。

道徳にとらわれないと自由な生き方ができます。私もそれを勧めています。
道徳は誰か他人があなたの頭に植えつけたものですから、道徳に支配される人は、ひろゆき流に言えば「頭の悪い人」です。

ちなみに自民党の進める道徳教育は、国民を従順な羊にしようというものです。それがうまくいきすぎて、日本衰退の原因になっています。
道徳教育にうんざりしている子どもたちにひろゆき氏の言葉が刺さっているということもあるでしょう(私は道徳教育批判を『「かぼちゃのつる」の正しい指導法』という記事に書いています)。

ひろゆき氏の本に主に書かれているのは幸せになるためのノウハウです。
これが役に立つか否かは人によって違うでしょうから、それについての評価は控えます。


私は『1%の努力』を読んでいて、部分的に共感するところも納得しないところもありましたが、全体的になにかが違うという感じがぬぐえませんでした。
それはなにかと考えていたら、『「頭の悪い人」に理解されないこと・ベスト1』という記事に答えが書いてありました。その部分を引用します。
「本当は他の学校に行きたかったけど、親に言われたから今の学校に行っています」
「本当は他の仕事をしたかったけど、友達に反対されたから今の仕事をしています」

 そんな悩みを抱えている人がいます。

 僕がそれを聞いて思うことはひとつです。

「でも、最終的に決めたのはあなたですよね?」

 結局、どんな決断であっても、誰が何を言おうと、決めたのは「自分自身」なんですよね。

 それを棚に上げて、「だから嫌だったんだよ」と後から言い出すのは、かなり頭の悪い考えなんじゃないかと思うんです。

 でも、これ、あまり理解されないんですけどね。不思議です。
不思議もなにも、ひろゆき氏の考えのほうがよほど不思議です。
ひろゆき氏は「心の絆(愛着)」ということをまったく理解していないのです。
驚くべき頭の悪さです。

親と子は心の深いところで結びついています。ですから、親を亡くした人は深い悲しみと喪失感に襲われます。子を亡くした親はもっと深い悲しみと喪失感に襲われるでしょう。
肉親を亡くして悲しんでいる人に「死んだ人は生き返らないんだから、早く忘れてしまいなさい」と言うのは愚かですが、ひろゆき氏なら言いかねません。

親と子は深く結びついているので、親から望まない進路を強要された子どもはなかなか断れません。そのために不幸になってしまうことがあります。
つまりこれは“毒親”の問題です。
「あなたの親は毒親だから、早く家を出て自立しなさい」などと言うのもやはり頭の悪い人です。
親子の絆というのは、毒親であってもそう簡単に切れません。
毒親の子どもが自立するには、よいカウンセラーに巡り合うか、よい恋人やよい親代わりの人に巡り合うか、過去を回想しながら自己分析を重ねるしかありませんが、いずれにしても時間がかかります。

宗教二世の問題も同じです。
「あんなおかしな教義の宗教を信じている親なんか無視して、あなたは自分の人生を歩みなさい」と言っても、やはり親子は深い絆で結ばれているので、そうはいきません。
しかし、ひろゆき氏に言わせれば、宗教二世として悩んでいる人はただの頭の悪い人です。


ひろゆき氏はまた、「ひろゆき日記@オープンSNS。」というブログにこんなことを書いていました。
んで、おいらは恋愛映画が時間の無駄だと思ってる派です。。
二股になってどっちが好きになりましたがとか、根拠が「主人公がそう思ったから」とかなので、ストーリーの流れとかで推測してもしょうがないし、主人公がどっちが好きとかどうでもいいんですよね。。。それを知ったことで、人生に役立つことはないので、、、
んで、レビューで恋愛映画が面白いと思ってる人達の評価してる映画をお勧めされても無意味なんですよね。
この文章を読むと、恋愛映画だけでなく恋愛そのものにも興味がなさそうです。

つまりひろゆき氏は、親子関係にしろ恋愛関係にしろ、人間にとって愛着がたいせつであることを認識できないのです。
ひろゆき氏は倫理観がすっぽり抜け落ちた人だと言いましたが、そのもとには人間関係の認識の欠落がありました。

2ちゃんねるの書き込みで名誉を棄損され傷ついた人に対しても、ひろゆき氏はなにも思わないのでしょう。ですから、平気で損害賠償金を踏み倒すことができます。
一方、愛着によって思考が乱されないので、ディベートのときには強みになります。


私はかつてひろゆき氏の顔を見て、あまりにも無表情なので、爬虫類みたいな人だなと思ったことがあります(個人の感想です)。
しかし、最近のひろゆき氏は表情が豊かになって、結婚して夫婦関係もよさそうです。
パソコンを児童養護施設に寄付するという活動もしています(その金は損害賠償金の支払いに当てるべきだと言いたいですが)。
つまりだんだんと“真人間”になってきているのです。
ひろゆき氏の変化を見守りたいと思います。


余談ですが、成田悠輔氏の顔にもひろゆき氏と同じテイストを感じます。
こういう人が活躍する世の中でいいのだろうかと思います。

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回転寿司のスシローで少年が食べ物や湯飲みなどに唾をつける動画に批判が集中すると、似たような動画が次々と“発掘”されました。
はま寿司や吉野家では、共用のガリを客が自分の箸で食べる動画が、「いきなり!ステーキ」ではソースの容器を直接口にくわえて吸う動画が、東京のもんじゃ店「おかめひょっとこ」では、口に含んだ水を鉄板の上に吐き出すという動画がそれぞれ拡散しました。

私は前回の「“客テロ”騒動を分析する」という記事で、迷惑行為をする客よりも、その動画を拡散させて批判する人間のほうがもっと悪いということを書きました。
迷惑行為自体の影響はごく小さいものですが、動画が拡散することで飲食店は大損害をこうむっているので、どちらが悪いかは明白でしょう。
迷惑行為をしているのはただの一般人です。政治家や大企業を非難するなら世の中がよくなるかもしれませんが、ほんの数人の一般人を非難しても世の中はよくなりません。

プロレスラーの木村花さんがネット上の誹謗中傷で自殺するという事件がありましたが、一般人への“ネットリンチ”はそれに近いものがあります。
今後、「個人の小さな行為を大勢で激しく非難する」ということを規制したほうがいいかもしれません。


それにしても、飲食店での迷惑行為への非難があまりにもひどいので、非難する人の心理はどうなっているのかを考えてみました。

ひとつ思ったのは、これは日本社会の子ども嫌い、若者嫌いの表れだということです。
最近の日本人が子ども嫌いなのは否定しようのない事実です。
公共の場で赤ん坊が泣いていると、その母親は周囲から冷たい視線にさらされますし、ベビーカーで電車に乗っても迷惑がられます。
幼稚園や保育園が子どもの声がうるさいということで迷惑施設扱いをされますし、公園が閉鎖されるということもありました。
それから、成人式で若者が奇抜な服装をして暴れると必ずニュースになり(マスコミも狙っています)、当然のように非難されます。
渋谷でハロウィンやワールドカップのときに若者が騒ぐのも非難され、最近はかなり行動が規制されるようになりました。
コンビニの前で若者数人がたむろしているだけで非難されることもあります。

昔はそんなことはありませんでした。
赤ん坊が泣くのは当たり前ですし、若者がバカなことをしてもある程度は大目に見るものでした。
しかし、酒鬼薔薇事件をきっかけにして2000年に少年法が改正され、少年にも成人と同様の罰を与えるべきだという考えがほとんど国民的合意になりました。

飲食店で迷惑行為をするのはほとんどが若い男です(“バイトテロ”もほとんどが若い男でした)。
ですから、迷惑行為をする者を非難すると結果的に若者を非難することになり、世代間の溝を深めます。
“おやじ狩り”という言葉がありますが、これはネット上の“若者狩り”です。


それから、不潔に対する嫌悪感が異常であると感じます。

少年が湯飲みや醤油容器をなめたスシローの店舗では、すべての湯飲みを洗浄し、すべての醤油容器を入れ替えたそうです。動画に映っている場面では、少年は一個の湯飲みと一個の醤油容器をなめただけなのですが。

共用のガリを直箸で食べる動画が拡散した吉野家では、ネット記事によると「2月5日に該当店舗を一時閉店。紅しょうがの廃棄・交換、カウンターに常設している什器・調味料入れを含む備品の消毒・洗浄を実施した」ということです。
一個のガリ容器だけの問題なのですから、一時閉店もすべての備品の消毒・洗浄も過剰反応です。

口に含んだ水を鉄板の上に吐き出す動画が拡散したもんじゃ店「おかめひょっとこ」では、ネット記事によると、店のオーナーが「今回の騒動を受けて、店舗の鉄板をすべて取り替えることに決めました。(中略)これから来店されるお客様に気持ちよく利用して頂くためにも必要な対応だと思っています」と語りました。なお、鉄板は特注品のため数百万円かかるそうです。
鉄板は洗えばすむことですし、加熱すれば消毒もできます。まったく非合理的な対応です。
店のオーナーもそのことはわかっているはずですが、国民感情を考えての判断なのでしょう。

つまり国民感情は極端に清潔を求める方向に行っています。
清潔を求めるのは感染症を防ぐためにも必要なことですが、手をきれいにしようとして何時間も手を洗い続けるとなると、これは潔癖症です。潔癖症は心ないし脳の病気です。
日本人全体が潔癖症になってきているようです。

アレルギーの患者が年々増え続けています。この原因としては、花粉や化学物質などアレルゲンが増えているということもあるようですが、子どものアトピー性皮膚炎についてはいくつか原因がわかっています。
イギリスで一時、幼児にピーナツバターアレルギーが発症するということがありました。調べると、皮膚に塗るベビーオイルにピーナツオイルが含まれていたのです。
国内でも石鹸に小麦のたんぱく質が含まれたものがあり、それが原因で小麦たんぱく質の食品を食べた子どもにアナフィラキシーショックが起きるということがありました。
皮膚にはバリアー機能がありますが、バリアーが破られると細胞に直接異物が侵入します。そうすると免疫システムはその異物に反応してアレルギーが起きるというわけです。
ですから、清潔にしようと体をごしごし洗っていると、アレルギーになりやすいのです。

「NHK特集」は2008年に次のような内容を放送しました。
病の起源  第6集 アレルギー ~2億年目の免疫異変~
花粉症・ぜんそくなどのアレルギー。20世紀後半、先進国で激増。花粉症だけで3800万人もの日本人が患う病となった。急増の原因は花粉・ダニの増加、大気汚染と考えられてきたが、意外な原因があることがわかってきた。
南ドイツで、農家と非農家の子供の家のホコリを集め、「エンドトキシン」と呼ばれる細菌成分の量を調べたところ、それが多い農家の子ほど花粉症とぜんそくを発症していなかった。エンドトキシンは乳幼児期に曝露が少ないと、免疫システムが成熟できず、アレルギー体質になる。農家のエンドトキシンの最大の発生源は家畜の糞。糞に触れることのない清潔な社会がアレルギーを生んだとも言える。
https://www.nhk.or.jp/special/detail/20081123.html
モンゴル人にはほとんどアレルギーがないということですから、それも証拠になるでしょう。

つまり清潔な環境は感染症を防ぐには効果がありますが、アレルギーには逆効果なのです。
無菌状態だと細菌に対する免疫もできませんから、過度に清潔な環境は感染症に対する抵抗力も弱めるかもしれません。

それから、「他人の唾」に対する嫌悪感は本能的なものですが、普通は恋愛状態になるとこの嫌悪感は消えてしまって、キスもセックスもできるようになります。親も赤ん坊の排せつ物にほとんど嫌悪は感じません。だからこそ人類は存続してきたわけです。
しかし、潔癖症の人は恋愛するのが人よりも困難です。
日本の少子化の原因のひとつに、世の中の過度な清潔志向もあるかもしれません。


なんでも清潔であればいいわけではなく、ある程度「不潔」を受け入れることがたいせつです。
それと同様、「バカなことをする若者」もある程度受け入れることがたいせつです。
社会の枠からはみ出たものをバリのように削り取ってきれいにしても、やがてまたはみ出てきますから、どんどん削り取っていくと、社会がどんどんやせ細っていきます。
それは多様性や共生社会とは逆方向です。

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はま寿司で他人が注文した寿司を横取りして食べる動画が拡散したことがきっかけでした。
次に、スシローで少年がレーンを流れている寿司に唾をつけたり、置いてある湯呑みをなめてもとに戻したり、醤油の注ぎ口をなめたりする動画が拡散し、それから、流れている寿司にわさびをつけたり、流れているポテトチップをつまみ食いしたり、うどん店で天かすを共用のスプーンで食べたりする動画が次々と拡散しました。

かつてバイト店員の悪ふざけ動画が拡散し、“バイトテロ”と呼ばれたことがありました。
それにならっていうと、今度は客が悪ふざけをしているので“客テロ”です。


他人が食べ物に触ったり、唾をつけたりする行為を見ると不愉快になるのは、感染症を防ぐための本能的な反応なので、こうした動画を見た人が不愉快になるのは当然です。
しかし、動画に映っている行為は過去のものです。唾がついた寿司や湯飲みや醤油差しなどはすでに片付けられるか洗われるかしていますし、迷惑行為をした人と店の間で話し合いが行われて解決している場合もあります。
ところが、動画が引き起こす本能的感情がひじょうに強いので、人々は現在の問題と思ってしまうようです。
「もう回転寿司に行けない」などと言っている人もいます。

こうした行為が「マナーが悪い」とか「常識に欠ける」と非難されるのは当然です。
しかし、日本には一億二千万人もいるのですから、中にはおかしな人もいます。
動画の迷惑行為をする人の中には、発達障害の人がいる可能性がありますし、ポテトチップをつまみ食いしたのは高齢の女性ですから、認知症かもしれません。
宮口幸治著『ケーキの切れない非行少年たち』に書かれたように、世の中には知的障害とはされない軽度の知的障害(境界知能)の人もいます。
もちろん知的障害の人もいます。
そうした可能性があるので、動画で迷惑行為をしている人を見て安易に非難するべきではありません。
ところが、やはり本能的感情が強烈なので、そうした判断のできない人が多いようです。

迷惑行為をしているのはたいてい若い人です。バイトテロが騒がれたのは10年近く前のことですから、そのころのことを知らない可能性があります。また、SNSやインターネットの影響力についてもまだよく理解していません。SNSを仲間内で盛り上がるためのツールととらえている可能性があります。
「こんな動画を上げれば騒ぎになるに決まっている。知らなかったではすまされない」などと言う人がいますが、自分が知っているから他人も知っているだろうと思うのは愚かです。

迷惑行為の動画が拡散して店は大きな損害をこうむりました。迷惑行為は過去のことなので、この損害は、動画を発掘して拡散させた人たちのせいです。迷惑行為をした人間は、その場にいた数人に被害を与えただけです。

私はこれを“炎上テロ”と名づけました。
つまり迷惑行為をやった人間がテロをしたのではなく、迷惑行為の動画を発掘・拡散して炎上させた人間がテロをしたのです。

“炎上テロ”は社会に損失を生みます。
回転寿司店は被害を防ぐためにAI搭載監視カメラを設置したり、回転寿司のレーンを改良したりすることを検討しています。実行することになれば、そのコストは客が負担することになります。

2月4日には、とんかつチェーンの「松のや」において少年が箸立ての箸を二十膳ほど両手でつかみ、先端を口の中に含んだあと、箸立てに戻し箸を混ぜるという動画が拡散しました。しかし、松のやによると、問題の動画が撮影されたのは2020年9月で、当時警察に被害届を提出し、すでに解決済みです。しかし、今回の拡散で、個別包装の箸に変更することを検討しているということです。
この例を見れば、迷惑行為をした人の悪は社会の片隅の小さな悪ですが、動画を発掘・拡散して炎上させた人たちの悪は社会を害する巨悪だということがわかります。


ネットで炎上させる人間は「正義の快感」に酔いしれているのでしょう。
スシローで唾をつけた少年は企業から損害賠償請求をされる可能性があり、その金額は最大100億円などといわれ、しかもそれは自己破産してもなくならない「非免責債権」であるといった報道がありました。
こうした報道を見て喜んでいる人がたくさんいました。
こうなると「正義の快感」というより「いじめの快感」です。
学校で子どもが自分より弱い子どもをいじめて喜んでいるのと同じです(いじめっ子にもそれなりの“正義”の理屈があるものです)。

学校ではいじめが増え続けています。
いじめが社会全体に広がってきたようです。

なお、損害賠償金については、唾をつけた少年の負担は少額で十分です。そして、動画を拡散させて騒いだ人も同じぐらいの額を負担するべきです。そうすれば合計して巨額の賠償金になります(現実にこのやり方は困難でしょうが、これが正しい責任の分担です)。


社会にはさまざまな人がいて、中にはおかしな人もいます。
おかしな人をなくすことはできません。
むりしてなくそうとすると、「角を矯めて牛を殺す」という言葉のように社会全体をおかしくします。


今の騒ぎは、本能的感情が暴走して引き起こされています。
本能的感情はもともと生存に必要なものでしたが、今は明らかに社会的損失を生んでいます。
ここは冷静になって、自分の感情はこれでいいのかと考えなければいけません。
これは「認知を認知する」という意味で「メタ認知」といわれます。
「メタ認知」のできる人が真に知性のある人です。

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法務省が「うんこ人権ドリル」を作成しました。
これは法務省人権擁護局が子どもに大人気の「うんこ漢字ドリル」とコラボして、子どもに人権をわかりやすく教えようという企画です。

批判が殺到したためか、今は法務省のホームページからはダウンロードできなくなっているようですが、『法務省作成「うんこ人権ドリル」は入管職員に配って下さい 』というページからダウンロードできます。

どういう点が批判されているかというと、まず「人権をうんこで語るのは不謹慎」ということがあります。
私自身は、うんこを用いてもいいのではないかと思いましたが、「『うんこ自民党ドリル』とか『うんこUSAドリル』とかを役人が作るだろうか」という指摘にはうなずけました。
法務省は人権を軽視しているのかもしれません。

それから、「うんこねこがおなかをかかえて苦しそうにしているよ。こんなとき、キミならどうする?」という問題があるのですが、これがスリランカ人のウィシュマ・サンダマリさんが名古屋入管に収容されているとき体調不良を訴え続けたにも関わらず適切な治療受けられずに死亡した事件を想起させ、法務省は反省してないのではないかという指摘もありました。

それから、決定的な批判は「これは人権ではなくて道徳だ」というものです。
うんこ先生が「みんなでなかよくしたいのう!」とか「やさしくされたら、うれしいのう!」と、うんこいぬとうんこねこに教えるのですが、これは確かに人権ではなく道徳です。
「そのじょうほうは本当かのう?」といって、「インターネットの悪口の書きこみを見ても、だれかをきずつけてしまわないように行動することが大切じゃぞい」というのも道徳です。


「うんこ人権ドリル」の基本的な考えは「『人権』という言葉を聞いたことがあるかのう? 人権とは、「幸せに生きる権利」のこと。キミにも、幸せに楽しく生きる権利があるし、お友だちにも、幸せに楽しく生きる権利があるのじゃ。相手への思いやりを持って、もう一度考えてみることじゃ」という言葉に示されています。
人権を「幸せに生きる権利」と限定するのはどうかと思いますが、子どもの理解力に合わせたということでいいとして、そのあと、お友だちの権利に配慮しようというところに持っていくのは、これもやはり道徳です。

友だち同士というのは基本的に対等ですから、人権侵害など起こりようがありません。
子どもの人権侵害は、力のある親や教師やその他のおとなによってもたらされる場合がほとんどですから、その対処法を教えるのが人権教育の肝心なところです。


もともと人権というのは、国家権力による不当な支配に対抗するために考え出されたものですから、人権と権力を切り離して考えることはできません。
権力というのは、国家権力ばかりでなく、社会のすみずみに網の目のように張り巡らされています。
男と女、多数派と少数派、健常者と障害者などさまざまな関係に権力が作用して、人権侵害や差別が生みだされます。


日本は先進国では珍しい死刑のある国です。それに、世界経済フォーラム(WEF)は7月13日、各国のジェンダー不平等状況を分析した「世界ジェンダー・ギャップ報告書」を発表し、日本はジェンダー格差については世界146か国中116位でした(ちなみに韓国99位、中国102位)。
はっきりいって日本は人権後進国です。
その原因のかなりの部分は法務省にあると思われます。なにしろ「うんこ人権ドリル」を見ると、人権と道徳を混同しています。法務省がこれでは日本全体がおかしくなって当然です。


人権と道徳は真逆のものです。
道徳はつねに強者が弱者に説くものなので、強者に有利にできています。つまり既存の社会秩序を補強するものが道徳です。
一方、人権は万人に等しくあるので、弱者にとっては有利に働き、既存の社会秩序を変革するための武器になります。

このことは、自民党の杉田水脈議員の「男女平等は絶対に実現し得ない反道徳の妄想です」との発言に典型的に表れています。
「良妻賢母」や「妻は夫に従うべき」という道徳は男女平等と真逆のものです。
そういう意味では、杉田議員の発言は道徳の本質を表現しています。

「目上の人を敬うべき」とか「子どもは親の言うことを聞くべき」とかの道徳を見ても、道徳は既成の社会秩序を補強するものだということがわかります。
したがって、道徳はつねに時代遅れです。

芥川龍之介も『侏儒の言葉』において「我我を支配する道徳は資本主義に毒された封建時代の道徳である。我我はほとんど損害の外に、何の恩恵にも浴していない」と言っています。
芥川の時代の代表的な道徳といえば「教育勅語」なので、芥川はそれを念頭に言ったかもしれません。


ともかく、道徳と人権は真逆のものなのに、法務省は混同しています。
そこには自民党の影響もあるでしょう。
自民党はずっと道徳教育にこだわってきて、とうとう小中学校で教科化を実現しましたし、党内には教育勅語を積極的に評価する者も少なくありません。
自民党の改憲案には「家族は、互いに助け合わなければならない」という道徳の規定もあります。

先進国では、学校で道徳を教えている国も一部にありますが、ほとんどは道徳は日曜学校で学ぶものという位置づけです。

一方、イスラム教の国はかなり違います。
たとえばアフガニスタンのタリバン政権は2021年9月に勧善懲悪省を復活させ、宗教警察がイスラム教の教義に反する行為を取り締まるようになりました。
宗教警察はほかにサウジアラビア、イラン、インドネシアなどにもあります。
イランの場合は道徳警察と呼ばれていますが、ヒジャブの着用をめぐる反政府デモの高まりの中で司法長官が12月4日、道徳警察の廃止を宣言しました。

「道徳の支配」から「法の支配」へ、「徳治主義」から「法治主義」へというのが歴史の流れであり、社会の進歩です。
ところが、自民党は「道徳の支配」や「徳治主義」への回帰を目指しています。
法務省もそれに協力して、自民党のねらいは着実に実現しつつあります。

たとえばコロナ対策の持続化給付金の対象から性風俗業界が法的根拠もなく除外されるということがありました。これに対する違憲訴訟に東京地裁は6月30日、合憲の判決を下し、その理由として「客から対価を得て性的好奇心を満たすようなサービスを提供するという性風俗業の特徴は、大多数の国民の道徳意識に反するもので、異なる取り扱いをすることには合理的な根拠がある」としました。まさに法律より道徳を優先すると言っているのです。

道徳の教科化が実施された小中学校ではいじめが増加しています。子どもに道徳を説くことが子どもへの抑圧になっていることも原因に違いありません。
また、道徳は男女平等に反するので、「道徳の支配」への回帰がジェンダーギャップ指数の低下を招いています。


道徳について肯定的な考えを持っている人も少なくないでしょう。
そういう人は「うんこ人権ドリル」を見ても、どこが間違っているのか指摘できません。
道徳は権力者がつくった色メガネです。この色メガネをかけていると、権力者のつごうのいいようにふるまってしまいます。
道徳という色メガネを外すと、現実をありのままに見られるようになり、物事を正しく判断できるようになります。

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最近、「アンガーマネジメント」がメディアで取り上げられるのをよく目にします。
アンガーマネジメントというのは怒りを制御する心理トレーニング法です。パワハラやDVへの風当たりが強くなった世相の反映でしょう。

岩波文庫に古代ローマの哲学者セネカが書いた『怒りについて他一篇』というのがあって、若いころの私は「怒り」が哲学の対象になって、しかも一冊の本になるのかと、ちょっと驚いたのを覚えています(岩波文庫にはベルクソン著『笑い』という哲学書もあります)。
『怒りについて他一篇』を読んでも、怒りについてとくに認識が深まったということはありませんでしたが、古代ローマ人も怒りの感情に振り回されていたということは、次の文章などからもよくわかりました。
この感情だけは全く激烈であって、憎しみの衝動に駆られて、武器や流血や拷問という最も非人間的な欲望に猛り狂い、他人に害を加えている間に自分を見失い、相手の剣にさえも飛びかかり、復讐者を引きずり回して、是が非でも復讐を遂げさせようとする。
   ※
怒りは自らを抑えることもできず、品位も汚し、親しい間柄を忘れ、怒り出せば執念深くて一途に熱中し、道理にも忠告にも耳を閉ざし、つまらない問題にも興奮し、公正真実を見分ける力はなく、言わば、自らが押し潰したものの上に砕けて散る破滅に似ているのである。

昔から人間は怒りを制御することができず、逆に怒りに支配されていたようです。
そうすると、アンガーマネジメントの登場は画期的なことといえます。
ただ、そんなにうまく怒りをコントロールできるのかという疑問もあります。
進化倫理学の観点からアンガーマネジメントを検証してみました。


アンガーマネジメントは1970年代にアメリカで生まれました。最初は犯罪者のための矯正プログラムとして利用され、裁判所が犯罪者を収監する代わりにアンガーマネジメントを受講するよう命令するということがよくありました。現在ではさまざまな分野で、とくに企業におけるパワハラ防止教育などとしても利用されています。

アンガーマネジメントによる怒りについての考え方は、さすがにセネカのころより格段に進歩しています。
怒りの感情は、動物が縄張りの侵入者を威嚇して戦闘準備状態にあるときの感情と同じで、生体の防御反応だとされます。
ここは重要なところです。怒りというのは攻撃反応のように見えますが、実は防御反応なのです。

縄張りをもつ動物は、むだな争いを避けるために互いの縄張りを尊重して暮らしていますが、それでもときどきほかの縄張りに侵入することがあります。侵入するほうはおどおどした様子で警戒しながら侵入していきますが、縄張り主は侵入者を発見すると、猛然と襲いかかります。この襲いかかるもとにあるのが怒りの感情です。ですから、怒りは防御反応だということになります。
この戦いは、縄張り主が弱い場合でも決まって縄張り主が勝利します。そして、縄張り主が侵入者を追いかけて侵入者の縄張りに入り込むと、今度は攻守ところを替えて、追いかけてきたほうが撃退されることになります。動物の世界の戦いはきわめて限定的です。

コンラート・ローレンツは著書『攻撃』において、動物が縄張りを守る行動を「攻撃」と見なして論じました。そして、人間の「攻撃本能」はなくすことができないと主張したので、混乱が生じました。このため政治学の世界では人間を動物と見なして論じるということがまったくなされていません。


ともかく、怒りというのは生存のために必要な感情です。ただ、人間の場合は必要以上に怒る傾向があるので、そこにアンガーマネジメントの出番があります。
ですから、アンガーマネジメントはすべての怒りをなくそうというものではありません。
日本アンガーマネジメント協会のホームページにも「怒らないことを目的とするのではなく、怒る必要のあることは上手に怒り、怒る必要のないことは怒らなくて済むようになることを目標としています」と書かれています。

では、必要な怒りと必要でない怒りをどうやって区別するのかということになりますが、「区別するポイントは、後悔するかどうか」だということです。
怒って後悔するときは怒る必要がなかったということですし、怒って後悔しないときや、怒らないで後悔するときは怒る必要があったということです。
しかし、「後悔」という個人的な感情がどこまで正しいのかという疑問があります。


この疑問はひとまず置いておいて、必要でない怒りに対処する方法はアンガーマネジメントならではのもので、ここにアンガーマネジメントのよさがあるといえます。

怒りが生じた最初のイラッとした瞬間に対処することで、怒りの増大を防げるといいます。
どう対処するかというと、「6秒」を意識するのがいいといいます。
怒りの感情はイラッとしてから6秒間がピークで、そこからだんだん下がっていくそうです。ですから、6秒間をなんとかやりすごすと、怒りに任せた反射的な行動が防げるというわけです。

そのために怒りの対象から意識をそらせるというやり方をします。たとえば「魔法の呪文」といって、気持ちが落ち着く言葉を自分で自分にかけます。「たいしたことない」「大丈夫、大丈夫」「今、なにができるだろう」といった言葉をあらかじめ用意しておいて、怒りが生じたときに自分につぶやいて、6秒間をやりすごすのです。

それから、怒りの尺度を10段階で評価するというやり方もあります。これもあらかじめ10段階を決めておきます。たとえば「怒り爆発」「爆発寸前」……「イライラする」「イラッとする」といった具合です。そして、怒ったときに、今の怒りは10段階のどの段階に当たるかを考えます。これが時間稼ぎになりますし、自分の怒りを正しく相手に伝える方法を考えることもできます。

具体的な方法が示されているので、怒りをコントロールする上では有効な感じがします。


それから、怒りの性質に関して重要な指摘があります。
それは、「怒りは、力のある上の立場から、力の弱い下の立場の人へと流れる」ということです。
怒りは上司から部下、教師から生徒、親から子どもへと流れます。つまり既存の社会秩序の枠内で怒りは存在しています。
昔は親や教師が子どもに体罰をするのは当たり前でした。
上司が若い社員を激しく叱責して、若い社員が自殺するということは、昔もあったはずですが、まったく問題になりませんでした。
しかし、今は上司の激しい叱責はパワハラとされ、叱られた社員が自殺でもすると会社の責任が問われます。
アンガーマネジメントが求められる背景には、社会秩序の根底が変化しているということがあります。


結局、必要な怒りと必要でない怒りの区別ははっきりしません。
ただ、重要な指摘もあります。
それは「人は『べき』が裏切られたときに怒る」ということです。

私たちは「人間はこうあるべきだ」「子どもはこうあるべきだ」「社員はこうあるべきだ」という考えを持っていて、相手がその考えを裏切る行動をしたときに怒るのです。
そして、こうした「べき」は人それぞれで違います。
たとえば「子どもは親の言うことを聞くべきだ」という考えを持っている親は、もちろん子どもは親が理不尽なことを言うと聞きませんから、しょっちゅう子どもを叱ることになります(「叱る」も「怒る」も同じようなものです)。
「妻は家事をきちんとするべきだ」という考えを持っている夫は、年中妻を怒ることになるでしょう。
また、「時間は守るべき」という考えは誰もが持っていますが、相手が待ち合わせに5分遅れても怒る人もいれば、15分遅れても許す人もいます。
ですから、アンガーマネジメントは「べき」の基準を緩めて、許容範囲を広くするべきだと教えます。そうすれば怒ることも少なくなるはずです。

これはもっともなことですが、では、「べき」の適正な基準はどんなものかというと、誰にもわかりません。
ですから、各自が自分勝手な「べき」を信じ込んでいるわけです。

「べき」の適正な基準を知るには、「べき」がどのようにしてできたかを知らねばなりません。
「べき」あるいは「善悪」あるいは「道徳」は、動物の世界にはなく、人間だけが有しています。
もちろん神さまから与えられたものではなく、人間がつくりだしたものです。

怒りが力のある上の立場から力のない下の立場へ流れるのと同じで、道徳は力のある上の立場から力のない下の立場へ流れます。
つまり道徳は上の立場の者がつくり、下の立場の者に説くものです。
ですから、道徳は上の立場の者が利益を得るようにつくられています。
「子どもは親の言うことを聞くべき」「女は男を立てるべき」「社員は不平を言わずに働くべき」という道徳を見れば明らかです。
「汝盗むなかれ」という道徳は、富裕層が貧困層に説くものです。
「汝殺すなかれ」という道徳は、暴虐な支配をする支配層が被支配層に説くものです(動物は同種の間で殺し合うことはないので、こうした道徳は必要ありません)。

下の立場の者が道徳に従わないと上の立場の者が怒ります。
「正義の怒り」という慣用句があることで、道徳と怒りが一体のものであることがわかります。
セネカも「善き人ならば、悪人に腹を立てないことはできない」という言葉を引用しています。

必要な怒りと必要でない怒りを区別したければ、「べき」や「善悪」や「道徳」を頭の中から消去すればいいのです。
そうすれば動物の世界と同じく防御反応としての怒りしかなくなります。それが必要な怒りです。
「正義の怒り」を名目にして悪をなすこともなくなるでしょう。


アンガーマネジメントは怒りを防御反応ととらえたところが正しく、「べき」と怒りが結びついていることを明らかにしたのも評価できます。
ただ、「べき」すなわち道徳を捨て切っていないところが中途半端です。

進化倫理学の観点から見ると、怒りと道徳の関係がはっきりします。

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「そんなことしてるとお巡りさんに捕まるよ」などと親が子どもに言うことがよくあります。
子どもを脅すのはよくありませんし、日本人の“お上”意識もうかがえますが、警察は悪いやつをつかまえるものだという常識がありました。
しかし、最近はその常識が通用しないようです。


安倍晋三元首相銃撃事件は、明らかに警察の失態で、当然防がなければならない事件でした。
中村格警察庁長官が事件の責任をとって辞任しましたが、中村氏は安倍政権、菅政権のもとで出世して警察庁長官になった人で、自分を引き上げてくれた安倍元首相を守れなかったのですから皮肉なものです。
中村氏は民主党政権時代に仙谷由人官房長官の秘書官となり、政権交代ののちは菅義偉官房長官の秘書官となり、長く重用されました。現場経験が少ないために警備体制の不備に気づかなかったのではという声もあります。

中村氏といえば警視庁刑事部長時代に、伊藤詩織さんをレイプした容疑の山口敬之氏に逮捕状が発行されたとき、直前に逮捕を止めたことで有名です。山口氏は『総理』という安倍首相ヨイショ本を書き、連日のようにテレビ出演して安倍政権を擁護するコメントをしていました。そういう人間を逮捕しようとしたのですから、現場の捜査員もかなりの覚悟を持っていたと思われます。この逮捕を止めたことで中村氏は安倍首相に評価され、警察庁長官に出世したと見られています。
結果的に山口氏は民事訴訟において最高裁でレイプが認定されましたから、現場の捜査員の判断は正しかったわけで、逮捕を止めた中村氏の判断は責められるべきです。

上に媚びて部下の努力を踏みにじる人間が出世したことで、警察庁全体の士気が低下したということもあるはずです。

なお、安倍元首相が演説しているとき、背後の警備が手薄であったことが、銃撃を許した大きな原因でした。
札幌市で選挙応援演説中の安倍首相にヤジを飛ばした人を警官が取り囲み排除するという出来事があったように、警察は聴衆のヤジやプラカードを排除することに力を入れていて、その分背後の警備が手薄になったのではないでしょうか。

警察は、安倍首相のお友だちの山口氏を逮捕しなかっただけではありません。
モリカケ桜でも誰も逮捕しませんでした。
これは警察というより検察の領分がもしれませんが、たとえば森友問題で国有地の不当払い下げとか公文書改ざんとかで強制捜査して、誰かを逮捕していれば、安倍首相は辞任していたかもしれません。そうなれば、安倍氏の政界での立場もまったく変わっていて、山上徹也容疑者の銃撃の対象にはならなかった可能性があります。

警察は、統一教会についても、一時は霊感商法を取り締まっていましたが、あるときからぱったりと追及をやめました。もし警察が霊感商法からさらには高額献金問題まで手を広げて追及していれば、山上容疑者の家庭も崩壊することはなく、山上容疑者が誰かを殺そうなどと考えることもなかったでしょう。

つまり警察の失策、怠慢、政治家への忖度が積み重なった上に起きたのが安倍元首相銃撃事件です。
その中のひとつでも欠けていれば、安倍元首相の命が失われることはなかったはずです。


山上容疑者の銃撃事件をきっかけに世の中の論調が大きく変わりました。
それに、山上容疑者の境遇に同情する声が意外とあって、ネット上で「減刑」を求める署名運動が起きたり、映画の「ジョーカー」のように英雄視する声があったり、山上容疑者はイケメンだとしてファンになる“山上ガールズ”が出現しているというネット記事があったりしました。

こうした山上人気に対して有識者は「これではテロを肯定することになる。テロはいけないということを繰り返し言うべきだ」と主張しています。

「テロはいけない」というのは絶対的な真理のように主張されていますが、これは完全な思考停止です。状況によってはテロも正しくなります。
たとえば憲法が停止されたナチス独裁下のドイツで、ヒトラー暗殺の企てに対しても「テロはいけない」と言って止めなければならないのでしょうか。
あるいはよくあるアメリカ映画のストーリーで、主人公は町の有力者に商売を台無しにされ、家族をレイプされたり殺されたりするが、その有力者は保安官とつるんでいるので、我が物顔で町を歩き回っている。主人公は正義の怒りを爆発させて町の有力者と保安官を射殺する。観客は喝采を送るところですが、有識者はこれもいけないというのでしょうか。

「テロはいけない」ということが言えるのは、民主主義が機能していて、警察がちゃんと役割を果たしている場合だけです。

日本の警察は、それほどひどくありません。だいたい役割を果たしているといえます。
しかし、統一教会と安倍元首相には手を出さずに、好き放題にさせてきました(おそらくは政治家への忖度からです)。
そのいちばんの被害者が山上容疑者です。
映画なら山上容疑者の銃撃の瞬間に観客が喝采するところです。
山上容疑者に同情が集まるのは当然です。


それから日本の場合、マスコミが完全に警察と検察に従属しているという問題があります。
記者は警察と検察から情報をもらって記事を書くので、警察と検察を批判するようなことはほとんど書きません。
一般人を批判する記事も、民事訴訟を恐れるのか書きません。その一般人が犯罪をしている疑いが濃厚であってもです。
警察が逮捕か家宅捜索に動くと、各マスコミが一斉に記事にします。


警察や検察が政権に忖度して一体化しているのが今の問題です。
警察や検察と政権を分離するには、人事権の問題もありますが、警察や検察が国民を忖度するようになればいいわけです。
国民世論が「なぜあんな悪いやつを捕まえないのだ」と怒れば、警察や検察も政権ばかり忖度していられません。
そして、世論の形成にはマスコミの役割が重要です。


法律が善悪や正義を規定するのではありません。
法律は善悪や正義に基づいてつくられるのです。
善悪や正義の判断においては、警察や検察とマスコミ、ジャーナリズムは対等です。
警察や検察が善悪や正義にもとるとき、マスコミ、ジャーナリズムは自信を持ってきびしく批判するべきです。

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