村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

カテゴリ: 科学的倫理学入門

ヤフーブログサービスが間もなく終了するため、ここライブドアブログに引っ越してきました。
まだ操作に慣れないのでまごついていますが、今後ともよろしくお願いします。


ブログの引越しを機会に、改めて私の基本的な考え方を説明しておきます。

動物は基本的に利己的な存在で、互いに生存闘争をしています。人間以外の動物は牙や角や爪を武器にしますが、人間は主に言葉を武器にします。言葉を武器にして戦ううちに言葉は次第に進化し、その中から道徳が生まれました。
つまり「道徳は人間の利己心から生まれた」のです。

実に単純なことですが、これまで誰も指摘しませんでした。
これまでの考え方は「道徳は利他心ないしは人間ならではの知性や理性や精神から生まれた」というものです。
それとまったく違うので、私は「道徳観のコペルニクス的転回」と呼んでいます。

道徳は基本的に「人に親切にするべきだ」とか「人に迷惑をかけてはいけない」というように利他的な行動を勧めるものなので、道徳が利己心から生まれたということと矛盾していると思う人がいるかもしれません。しかし、言葉は基本的に目の前の人間に対して発するものです。相手が利他的な行動をしてくれれば自分の利益になるのですから、少しも矛盾しません。逆に利他心から「人に親切にするべきだ」という言葉が発されたとすると、その言葉は目の前の相手のためではなく、そこにいない誰かのために発されたことになり、説明しようとすると、ひじょうにややこしいことになります(そのため倫理学はひじょうに難解でした)。

また、道徳は自分を律するためのものだと考える人も多いでしょう。少なくとも道徳を説く人は、相手が道徳で自分を律してくれることを望んでいるはずです。
しかし、人間は外界に対応するのに精一杯で、自分を省みることにあまり時間やエネルギーを費やしていられません。自分を省みるのは、寝る前の少しの時間か、なにか失敗をしてひどく落ち込んだときぐらいです。しかも、その内省の思考は言葉として表現されることはありません。例外は文学作品の中ぐらいです。
つまり「自律の道徳」はないわけではありませんが、世の中に流通するのは「他律の道徳」ばかりです。

ですから、道徳でよい社会をつくることはできませんし、道徳教育でよい人間をつくることもできません。
たとえば福祉政策の中に道徳を持ち込んで、生活保護の申請者を「働き者」と「怠け者」に分類するなどすれば、混乱するだけです。
国際政治の世界で「正義の戦争」などが唱えられると、ひどいことになります。
家庭の中にも道徳が持ち込まれ、夫婦が互いに道徳的に非難し合ったり、子どもを「よい子」にしようとしたりすると、決まって不幸な結果になります。


説明しているときりがないので、このへんでやめますが、現在、これを本にするべく執筆中です。
ただ、従来の倫理学を全否定しなければなりませんし、この説は進化倫理学の中に位置づけられますが、進化倫理学も否定しなければなりません。
これまでの進化倫理学はダーウィンの説をもとにしていましたが、ダーウィンの説が間違っていたのです(したがって、私の説を進化倫理学だというと誤解されるので、「科学的倫理学」という名前を使ったりしています)。
浅学菲才の身で大きなことを思いついてしまったので、そういう学問との関連づけに苦労しています。

それに、一般の人にどれだけ理解してもらえるかという懸念もあります。
なにしろこれは、従来の倫理学や道徳観が天動説だとすれば地動説みたいなものだからです。みんなが天動説を信じている中世において、いきなり「太陽が動いているのではない。地球が動いているのだ」と言ったら、狂人扱いされてしまいます。
今の世の中に宗教裁判はありませんが、否定されたり無視されたりしないようにしなければなりません。
どういう表現が説得力あるかということを確かめる目的もあって、このブログを書いています。
時事的な問題のとらえ方の背後に道徳観の違いがあることを見ていただければと思います(道徳観と関係のないことも書きますが)。


道徳はあなたの心を縛る透明な鎖です。道徳を正しくとらえれば、自由な生き方をすることができます。

「人間は道徳という棍棒を持ったサルである」というのは、一般にアピールするために考えたキャッチフレーズです。
スタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」の冒頭シーンからきています。

善と悪の定義もないのに道徳科が成立するわけがないということを、前回の「なぜ道徳教育は不可能なのか」という記事で書きました。
善と悪の定義がなくてもたいした問題はないという意見があるかもしれませんが、そんなことはありません。たとえば夫婦喧嘩はたいてい「お前が悪い」という認識から始まりますが、これについてはいくら議論しても解決しないので、どんどん問題がこじれていくのです。
 
なぜ善と悪の定義がないかというと、善と悪について根本的な認識の間違いがあるからです。それはさまざまな逆説的状況として表れているので、列記してみます。
 
 
「悪人」「悪党」「悪漢」「悪女」などの言葉にはどこか魅力的な響きがあるが、「善人」「善良な人」などの言葉にはあまり魅力的な響きがない。
 
若いころは不良だったと自慢する人はいるが、若いころはよい子だったと自慢する人はいない。
 
非行、登校拒否、家庭内暴力などの問題行動を起こす子どもは、小さいころよい子とされていたケースが多く、そのため最近は「よい子」とカギカッコつきで表記されることが多い。
 
ヤクザ、マフィア、ギャング、殺し屋、詐欺師、悪徳警官などを主人公にした小説や映画が多数存在し、読者や観客は主人公に感情移入している。
 
親鸞が言ったとされる「善人なおもて往生す、いわんや悪人においてをや」という言葉に深い感銘を受ける人が多い。
 
性善説と性悪説とどちらが正しいのかわからない。
 
「必要悪」という言葉がある。
 
 
善と悪は、人間がつくりだした概念で、人間に適用するものです。自然界に立脚していないので、人間の都合だけでどんなふうにもつくれます。そのためこんなおかしなことになっているのです。
 
善悪や道徳には根拠がないので、つねに暴走しがちです。
ですから、社会では道徳を制限するということが行われてきました。
 
たとえば、悪いことをしたことがない人はいないので、誰でも悪人と認定される可能性があります。それは困るので、あらかじめ法律を決めておき、法律に違反した場合だけ悪人と認定される制度になっています。法の支配とか法治主義といわれるものです。
マスコミも、逮捕されるまでは悪人扱いしないという不文律を守っています。
ただ、逮捕されるとマスコミは悪人として徹底的に非難し、容疑者に厳罰を与えるべきだと主張します。つまり道徳の暴走です。
ただ、これについても法律は、「懲役〇年以下」とか「罰金〇万円以下」というように刑罰に上限を決めています。
もしこうした法律がなく、道徳だけで裁かれるようになれば、恐ろしいことになるに違いありません。
 
道徳は人間を働き者と怠け者に分けます(これは善人と悪人のバリエーションです)
生活保護のような福祉の窓口で、担当者が来訪者を働き者か怠け者かを判定するようになると、福祉の業務が混乱することは必至です。働き者か怠け者かということに客観的な根拠はないからです。
 
政治の世界でも、レーガン大統領が「悪の帝国」と言い、ブッシュ(息子)大統領が「悪の枢軸」と言ったことがありますが、国際政治の世界に道徳を持ち込むのは危険なこととして批判されました。
トランプ大統領は平気で「悪いやつ」といった言葉を使っていますが、危険なことです。
 
学校教育に道徳を持ち込むのも、同様に危険なことです。
生活保護の担当者が受給希望者を働き者か怠け者かを判定するように、教師が子どもをよい子か悪い子かを判定するようになれば、教室が混乱するだけです。
教師はむしろ善悪のメガネを外して、ありのままの子どもを見つめることがたいせつです。

今年度から小学校で道徳科(特別の教科道徳)の授業が始まりましたが、教師はどのように成績をつけているのでしょうか。
常識的にはこういう五段階評価になるはずです。
 
よい子
ややよい子
普通の子
やや悪い子
悪い子
 
「欽ドン!」の「良い子・悪い子・普通の子」のようですが、子どもを道徳的に評価すればこうなるしかありません。
 
しかし、文科省は「数値による評価ではなく、記述式とすること」としています。
そして、なにを基準に評価するかというと、「一面的な見方から多面的・多角的な見方へと発展しているか」と「道徳的価値の理解を自分自身との関わりの中で深めているか」ということを挙げています。
 
「多面的・多角的な見方」はたいせつなことですが、それは道徳科で学ぶというより、歴史や社会や国語を学ぶ中で身につけていくことではないかという気がします。
「道徳的価値」にいたっては、文科省だって理解していないはずです。
成績をつけるのに苦労している教師が多いというのももっともです。
 
 
そもそも道徳を教えるということはまったく不可能なことです。
というのは、道徳の中心概念である善と悪についての定義がないからです。
善とはなにか、悪とはなにかという問いに誰も答えられないのですから、教えられるわけがありません。
 
「善」を国語辞典で引くと、「よいこと」とか「道義にかなっていること」などとありますが、これは言い換えているだけです。
 
百科事典ではどうかということで、「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」の「善」の項目を見てみました。
 
一行目に「意志を満足させるゆえに積極的価値をもつと判断されるものすべて」と書かれています。
わかりにくい文章ですし、「意志」という、これも定義の定かでない言葉を前提としています。ヒトラーの意志でもいいのかと突っ込みたくなります。
二行目以降はこうなっています。
 
ソクラテスは善を美や有用性と同一視し,善はキュレネ派では快であり,キュニコス派では苦の欠如である。プラトンでは善は存在の根拠,美や真の原理。アリストテレスは人間における善を幸福とし,すべて現実的なものは善であり,善はまず個物に存在するが,一般にはそのものの類的本質の実現にあるとした。彼はまたそれ自体善であるものと,それとの関係で善であるものとを区別した。スコラ哲学は存在と善を等置し,個物の善はそのものが神の意志したとおりのものであること,すなわちそのものの完全性にあるとされた。 T.ホッブズでは善は努力の目標となるもの,功利主義者にとっては幸福は最大の快,最小の苦であり,J.ベンサムは快楽計算を試み,B.スピノザもまた善の相対性,主観性を強調した。 I.カントはそれ自体善である倫理的善を,手段としての善である有用性とはっきり区別した。プラグマティズムは功利主義的相対論を継承し,G.ムーアらの分析哲学派も善か否かは判断される対象がおかれている場に依存することを強調している。
(後略)
 
つまり善についての考え方は人それぞれなのです(しかも、どれもわかりにくい)
 
岩波書店の「哲学・思想事典」で「善」を引いてみると、三ページ余りにわたって「西洋」「インド・仏教」「中国」「日本」の四項目に分けて説明がされています。ということは、これもばらばらだということです。
 
悪は善の対立概念とされるので、善がわからない以上悪もわかりません。
 
哲学者ジョージ・E・ムーアはこのような状況を踏まえて、「倫理学原理」という著作で善を定義することは不可能だと述べました(善は直観で理解するものだというのがムーアの立場です)。定義が不可能だということには異論がありますが、善に定義がないということは、これによって広く認められました。
 
それまで倫理学は、人間の善い生き方を探究する学問とされていましたが、善の定義がないということで、善とはなにか、道徳とはなにかということを探究しなければならなくなりました。その分野は「メタ倫理学」と呼ばれます。
従来の人間の善い生き方を探究する倫理学は「規範倫理学」と呼ばれます。
そして、生命科学の進歩によって生まれた生命倫理学、地球環境問題が生じたことによって生まれた環境倫理学などの新しい分野は「応用倫理学」と名づけられました。
つまり現代倫理学にはメタ倫理学、規範倫理学、応用倫理学という三つの分野があるわけです。
 
しかし、少し考えればわかることですが、メタ倫理学が善とはなにか、道徳とはなにかを解明しないと、規範倫理学も応用倫理学も成立しませんし、倫理学そのものも成立しません。
 
ということで、今は倫理学という言葉はありますが、倫理学の実体はないも同然です。
ですから、「道徳的価値」なるものは誰にもわかりません。
「良い子・悪い子・普通の子」もギャグにしかなりません。
こんな状況で道徳科をつくっても、教えることはなにもないし、教えた結果を評価できないのも当然です。
 
どうしても道徳を教えたければ、宗教と一体でやるしかありません。
欧米では、道徳教育をする場合はキリスト教倫理に基づきます。
戦前の日本の修身は、現人神である天皇からくだされた教育勅語を根拠としていました。
ですから、教育勅語を復活させたいという動きがあるのはわからないではありませんが、もはや天皇は現人神ではなく、教育勅語の中身も時代に合わないので、無意味なことです
 
道徳科をつくるという間違った政策のために、道徳を教え、評価するという不可能なことをさせられている教師が気の毒です。

インターネットで炎上しやすい事案のひとつに、「公共の場で子どもが騒いだり赤ん坊が泣いたりしているのに親がなにもしない」というのがあります。
「親はちゃんと子どもを叱れ」とか「親は泣いてる赤ん坊をその場から連れ出せ」という怒りの声がある一方、「子どもが騒いだり赤ん坊が泣いたりするのは当たり前。怒るおとながおかしい」という声もあります。
 
こうした議論が起こるのは、「公共の場」についてのとらえ方に根本的な問題があるからと思われます。
 
コンサート会場のような特殊な場とか、私的な会合の場とかなら、子どもや赤ん坊を連れた親は出ていけと言われてもしかたありません。
 
では、飲食店はどうでしょうか。公共の場とはいえませんが、誰でも利用できる場だけに、それに近いところもあります。
高級レストランで子どもが騒いだり赤ん坊が泣いたりすると顰蹙を買うでしょう。
では、ファミレスではどうでしょうか。ファミリーレストランというぐらいですから、ファミリーで利用するのが前提で、ファミリーには子どもも赤ん坊もいます。子どもが騒いだり赤ん坊が泣いたりするのがいやだという人はファミレスを利用するべきではないでしょう。
 
ちなみに居酒屋では大声で騒ぐグループ客がよくいます。おそらく子どもが騒ぐ声よりも物理的に大きい声を出しているはずですが、誰も文句を言いません。居酒屋で騒ぐのは当たり前という認識があるからです。
ファミレスで子どもが騒いだり赤ん坊が泣いたりするのは当たり前という認識があれば、問題はなくなるはずです。
 
いや、居酒屋の客の多くは男ですが、ファミレスの親子連れはたいてい母親と子どもです。母親と子どもという弱者だから文句を言うということもありそうです。
 
あと、赤ん坊に泣くなというのはさすがに理不尽ですから、誰もいいません。代わりに、母親を責めるということがよく行われます。たとえば松本人志氏は、「新幹線で子供がうるさい」「子供に罪はなし。親のおろおろ感なしに罪あり」とツイートしたことがあり、多くの賛同の声があったということです。しかし、こういう考え方が親を追い詰めるのは確かなことで、少子化の原因でもあるでしょう。
 
 
「公共の場」というのは、公道とか公園とか駅とか公共交通機関とか、誰でも利用できるところです。当然、子どもも赤ん坊もいます。子どもが騒いだり赤ん坊が泣いたりするのは自然なことです。
 
公共の場には老人も身体障碍者もいます。
のろのろ歩く老人は、急いで歩いている人のじゃまになることがありますが、だからといって、公共の場では速く歩けとか、速く歩けない老人は公共の場から出ていけなどという人はいません。もしいたら、それこそ炎上騒ぎです。
車椅子の人も周りのじゃまになることがありますが、だからといって公共の場に車椅子で来るなという人はいません。
 
ところが、子どもや赤ん坊については、騒ぐなとか泣いたら連れ出せなどという人がいます。
子どもに騒ぐなというのは、老人に速く歩けというのと同じです。
泣いた赤ん坊を連れ出せというのは、公共の場に赤ん坊はいるべきでないといっているのと同じです。
 
どうやら世の中には、公共の場はおとなのものだと思っている人がいるようなのです。
そういう人は、子どもや赤ん坊は公共の場ではおとなのようにふるまうべきであり、それができないなら出ていくべきだと思って、そう主張するのでしょう。
 
しかし、公共の場はおとなだけのものではなく、おとなと同様に子どもや赤ん坊も利用する権利があります。
そのことを理解すれば、「公共の場で子どもが騒いだり赤ん坊が泣いたりするのは許せない」という考え方もなくなり、おとなと子どもの共生が進むのではないでしょうか。

杉田水脈議員については、「LGBTは生産性がない」という発言ばかりが注目されていますが、ほかにもトンデモ発言をしています。
201410月の衆院本会議場で「男女平等は、絶対に実現し得ない反道徳の妄想です」と言ったのです。
男女平等を否定しているのです。
 
正確な発言はこうです。
 
「日本は、男女の役割分担をきちんとした上で女性が大切にされ、世界で一番女性が輝いていた国です。女性が輝けなくなったのは、冷戦後、男女共同参画の名のもと、伝統や慣習を破壊するナンセンスな男女平等を目指してきたことに起因します。男女平等は、絶対に実現し得ない、反道徳の妄想です。男女共同参画基本法という悪法を廃止し、それに係る役職、部署を全廃することが、女性が輝く日本を取り戻す第一歩だと考えます」 (20141031日、本会議)
 
要するに「良妻賢母」とか「男を立て、男に従う女性」が「輝いている女性」だということです。
本会議場での発言ですから、安倍首相も聞いています。安倍首相は杉田議員をひいきしていましたから、安倍首相のいう「女性が輝く社会」がどういうものかもわかります。
 
杉田議員の発言のキーワードは「反道徳」です。
「道徳」とか「道徳的」という言葉は普通よい意味で使われます。自民党は道徳教育を推進してきましたから、とくに道徳をよいものと思っているでしょう。
しかし、差別について考えるときは、道徳はいい意味ばかりではありません。杉田議員も自民党もそのことを理解していないようです。
 
ということで、道徳と差別の関係をここで整理しておきたいと思います。
 
 
人類の祖先が道徳をつくりだしたのは文明の黎明期であったと思われます。そして、文明とともに差別も生まれました。
古代ギリシャ・ローマでは、周辺民族をバルバロイとかバーバリアンと呼んでさげすんでいました。古代中国では、やはり周辺民族を東夷、西戎、北狄、南蛮などと呼んでさげすんでいました。
ということは、道徳と差別は一体のものであったと考えられます。

奴隷制社会には奴隷制社会の道徳があって、奴隷を奴隷として扱うのが道徳的なことです。そんな扱いをしたらかわいそうだとか、奴隷を解放するべきだとか主張すると、不道徳的だとか反道徳だとか非難されます。
 
1964年の公民権法成立以前のアメリカ南部において、白人が黒人の友人を連れてレストランに入ってくれば、その白人は不道徳なふるまいをしたとしてひどく非難されます。レストランから黒人を追い出すのが道徳的なふるまいです。
 
時代の変化とともに黒人の地位が変わって、そうすると道徳も変わります。昔の道徳のままに黒人を扱うと、それは差別だとされます。
 
つまり「差別とは、今は否定されたひと昔前の道徳」です。
 
ですから、差別主義者とは昔気質の人でもあります。アメリカでいえば、親が黒人を差別しているのを見て育ち、自分も同じようにしていると、あるときからそれは差別だと批判されるわけです。批判する人たちは、時代の変化に敏感な知識人などです。昔気質の人は自分こそが道徳的だと思っているので、なかなか差別をやめません。
 
 
道徳が差別に変わるきっかけは、公民権法の成立などもありますが、根本的には科学や学問の世界における人間観の変化です。
黒人は昔は人間よりも動物に近いと思われていました。ダーウィンも人種の違いを重要なものと考えていましたが、生物学の進歩で人種はほとんど無意味な概念だとなって、黒人に対する昔の道徳的な扱いは人種差別とされるようになりました。
男と女の違いも、昔は本質的なものとされていましたが、文化人類学や生物学などによりたいした違いではないとされ、昔の道徳は性差別とされるようになりました。
同性愛も昔はよく理解されていませんでしたが、だんだんと解明されてきて、少なくとも趣味や嗜好の問題ではないとされ、同性愛嫌悪は差別だとされるようになりました。
 
杉田議員はそうした人間観の変化を理解せず、性差別やLGBT差別をいまだに道徳だと思っているのです。
 
 
差別を克服するには、正しい人間観を持つことが第一ですが、同時に道徳と差別の関係を知っておくことも必要です。

「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いにどう答えるかという問題があります。今回はそれについて考えてみます。
 
この問いが問題になったのは、1997年、いわゆる酒鬼薔薇事件が起こって少年犯罪が注目され、「子どもたちに『「人を殺してはいけない』ということを教えるべきだ」という声が高まっていたころのことです。あるテレビ番組で一人の高校生が「なぜ人を殺してはいけないのか」と発言し、居合わせた識者が誰も答えられないという出来事がありました。このことは多くの人にとってショックだったらしく、その後、私の知るところではふたつの雑誌が「『なぜ人を殺してはいけないのか』という問いにどう答えるか」という特集を組み、多くの識者が答えを寄せましたが、その答えはみごとにばらばらでした。
ということは、誰もまともに答えられなかったのです。
 
近代以前には、こうしたことはありえませんでした。道徳は宗教に根拠を持っていたからです。「なぜ人を殺してはいけないのか」と問う者がいれば、「それは神の教えだから」とか「そんなことをすれば地獄に落ちるから」と答えればよかったのです。
近代社会では、宗教に代わる根拠が求められることになりました。その役割を担うのは倫理学ということになりますが、今の倫理学は残念ながらまったく役に立ちません。
 
ただ、私は科学的倫理学=進化倫理学という立場を標榜しているので、その立場から答えてみます。
 
 
まず今の世の中に「人を殺してはいけない」という道徳はありません。私たちは正当防衛で人を殺し、死刑制度で人を殺し、戦争で人を殺すことを容認しているからです。ハリウッド映画の正義のヒーローが大量殺人を犯すシーンでは拍手喝采しています。
ですから、正しくは「罪のない人を殺してはいけない」というべきです。
 
「罪」というのも面倒くさい概念なので、もっと単純に「悪くない人を殺してはいけない」ということにします。
つまり今の世の中は、「悪くない人を殺してはいけないが、悪い人、とくに極悪人なら殺してもかまわない」というのが主流の道徳になっています。
 
しかし、こういう議論になると、善と悪とはなにかという問題になり、倫理学不在の状況では誰も答えられません。
 
 
科学的倫理学=進化倫理学の立場からは、そもそも人に向って「人を殺してはいけない」と言うのが愚かなことです。
というのは、人間は誰でも人を殺したくないという本能を持っているからです。
自分がナイフか拳銃を持って人を殺す場面を想像すればわかるはずです。
「戦争における『人殺し』の心理学」(デーヴ・グロスマン著)という本によると、人間には同類を殺すことには強烈な抵抗感があって、訓練された兵士ですら戦場でなかなか敵兵を殺せないということです。

とはいえ現実に殺人事件はあって、なにも悪いことをしていない人間が殺されることがあります。
こういう場合、たいてい犯人には長期間にわたる強烈なストレスがかかって、人間性がゆがんでしまっているものです(酒鬼薔薇少年もそうでした)。
しかし、そういう人間に「人を殺してはいけない」と言っても効果はないでしょう。
 
人に向って「人を殺してはいけない」と言うことは、「お前はもしかして人を殺すのではないか」という不信感を表明しているのと同じです。
さらには「私は人を殺してはいけないことがわかっているが、お前はわかっていないだろう」と、相手を見下していることにもなります。
酒鬼薔薇事件のときはおとながパニックになって、見境なく若者に「人を殺してはいけない」と言ったので、不愉快になった1人の若者が「なぜ人を殺してはいけないのか」と反撃したのです。
 
ですから、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対しては、「人を殺してはいけないなどと言ってすみませんでした」と謝るのが正しい答えです。

小学校で2018年度から始まる道徳教育の検定教科書が出そろいましたが、すべての教科書に採用されているのが「かぼちゃのつる」という話です。
「ウサギとカメ」とか「アリとキリギリス」とかは知っていますが、「かぼちゃのつる」は聞いたことがないので調べてみたら、こんな話でした。


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「第1学年道徳指導学習案」より



ウサギやカメを擬人化するのはまだわかりますが、かぼちゃのつるを擬人化したのでは、そこに感情移入するのはそうとうむずかしいのではないでしょうか。
 
話そのものも、まったくおもしろくありません。ただ教訓を引き出すためにつくられた話です。
 
で、どういう教訓が引き出されるかというと、文渓堂という教科書会社のサイトでは、次のことを勧めています。
 
 
「かぼちゃのつる」を読んで話し合う。
〇ぐんぐん伸びてきているとき、かぼちゃは心の中でどんなことを思っていたでしょう。
・どんどん伸ばすぞ。
・大きくなるぞ。
〇ミツバチやスイカ、子犬に注意されたかぼちゃはどんな気持ちだったでしょう。
・うるさいな。
・もっと伸ばしたいのに。
 
◎車のタイヤにつるを切られてしまったとき、かぼちゃはどんな気持ちだったでしょう。
・みんなの言うことを聞いていればよかったな。ごめんなさい。
・もう、わがままはやめよう。
 
 
「かぼちゃのつる」を教材とする指導法を書いたサイトはいっぱいありますが、どれも基本的にこれと同じです。
 
で、最終的には「今までの自分を振り返って、わがままな行いについて考える」というところに持っていくわけです。
 
 
これは指導法がまったく間違っています。
かぼちゃがつるを伸ばすのは当たり前のことで、かぼちゃは悪くありません。
むしろどんどん伸びていく元気なつるはよい実をつけるはずです。
子どもに考えさせるのは次のことです。
 
〇車が通る道路の近くにかぼちゃを植えた人はどういう気持ちだったでしょう。
・かぼちゃをたくさん植えて儲けるぞ。
・かぼちゃが痛い目にあってもかまわない。
 
〇つるをひいた車を運転していた人はどんな気持ちだったでしょう。
・つるをよけて運転するのはめんどうだ
・つるを切っても植えたやつが損するだけだ。
・かぼちゃが痛い目にあってもかまわない。
  
教科書に「かぼちゃのつる」を載せた人はどういう気持ちだったでしょうか。
・子どもがわがままになるのを防ぎたい。
・かぼちゃを植えた人や車を運転していた人のわがままには気づかせたくない。


道徳教育から見えてくるのは、道徳教育をするおとなのわがままです。

明けましておめでとうございます。今年もこのブログをよろしくお願いします。
 
年が改まったのを機会に、このブログの基本的立場を説明しておきます。
 
人間性について性善説と性悪説とふたつの考え方があって、どちらが正しいか結論が出ていません。
なぜこんな単純なことがわからないのかというと、実は性悪説が正しいのですが、人間は自分が悪い人間だとは認めたくないからです。
 
世の中には性悪説を唱える人もいますが、そういう人は自分のことを棚上げにして主張するので、論理性がなく、説得力もありません。
また、性善説を唱える人もいますが、性善説は現実となかなか合致しません。
ですから、たいていの人は、そのときの状況に合わせて性善説を唱えたり性悪説を唱えたりしているのが実情です。
 
性悪説が正しいといっても、人間性は全面的に悪だというわけではありません。ほんのちょっと悪いだけです。
 
「ちょっと悪い」というのは、利己性と利他性の差から生じます
人間を含めた動物は、自己の生存を優先するという利己的性質を持っています。一方で、子どもの世話をしたり仲間を助けたりする利他的性質も持っています。利己的性質と利他的性質を比べると、利己的性質のほうがちょっと強いというわけです。
 
たとえば、なわばりを持つ動物は、ほかの個体のなわばりを尊重する性質を持っていて、それによってむだな争いを回避しています。しかし、自他のなわばりを完全に公平に判断できるわけではありません。少し自分に有利なように判断するので、多少のなわばり争いが生じます。
 
それは人間も同じです。完全に公平であるよりは少し自分に有利に判断する性質を持っています。
たとえば、買い物をして釣銭が少なかった場合、ほとんどの人はすかさず指摘しますが、釣銭が多かった場合は、そんなにすかさず指摘しませんし、中には黙っている人もいます。
 
ただ、動物の場合は同じレベルでとどまっていますが、人間の場合は文化が進化していきますから、悪も進化していきます。そのため人間社会には動物社会にはない悪があふれることになりました。
 
もっとも、それも自然の摂理として肯定すればいいという考え方もあるでしょう。ただ、戦争は肯定するわけにいきません。
国と国が領土問題で争うのは、動物のなわばり争いと同じです。しかし、人間の場合は、戦争のやり方と兵器がものすごく進化したので、戦争による不利益はたいへんなものです。ここは知恵を出して戦争を回避しなければなりません。
 
それから、親が子どもに対してしつけ・教育をするのは人間だけです。これも親の利己的行動の進化したものではないかと想像されます。
どんな人間になるかは子ども自身が決めることです。しつけ・教育は子どもの自己決定権の侵害ですから、しつけ・教育についても見直していかなければなりません。
 
人間性悪説の立場に立ち、自分は生まれつき利己的だと思っていれば、夫婦喧嘩も回避できて、離婚という不幸に至ることも少なくなるはずです。
 
 
日めくりカレンダーに書いてあった名言に「他人の罪はとがめるが、自分の罪は気づかない」というのがありました。
これは自分のことを棚上げにする「偽の性悪説」をうまく表現しています。
「真の性悪説」は他人の罪も自分の罪も同等に認めるものです。
この立場に立てば、すべて論理的に明快になり、争いも避けられ、なにより家庭が平和になります。
 
そういう「真の性悪説」を完成させ、普及させるのがこのブログの目的です。

アンパンマンは、空腹の者に自分の顔を食べさせるという、正義のヒーローとしてはちょっと変わった存在です。作者のやなせたかし氏は正義についてどう考えていたのでしょうか。その一端が朝日新聞の「折々のことば」に出ていました。
 
 
連載:折々のことば 570 
正義って、普通の人が行うものなんです。偉い人や強い人だけが行うものではないのね。
やなせたかし
 
 目の前に溺れかけている子どもがいたら誰もが迷わず飛び込むだろう。正義とはそういうものだと、「アンパンマン」の作者である漫画家は言う。
(以下は有料ページにつき)
矢崎泰久編「永六輔の伝言」から。(鷲田清一)
 
 
あれ、これは正義ではなくて善のことではありませんか。
孟子は、性善説の根拠として、井戸に落ちそうになっている子どもを見れば誰でも助けようとするということを挙げました。それと同じです。
 
正義と善はまったく違う概念です。
科学的倫理学に立脚すれば、どう違うかは簡単に説明できます。
 
たとえば電車の中で、老人や妊婦に席を譲る人は善人です。
老人や妊婦が立っているのに席を譲らない人は悪人です。
そして、悪人に向かって注意する人は正義の人です。
 
善人に力はいりません(電車の中で立っていられるぐらいの体力は必要ですが)
しかし、悪人に注意すると反撃してくるかもしれないので、正義の人には力が必要です。
言い換えると、悪人と戦うだけの力がないと正義は行えません。
 
勧善懲悪の物語のパターンは決まっています。
善人が悪人に苦しめられています。善人は力がないので、自力ではどうしようもありません。そこに正義のヒーローが現れて、悪人をやっつけることで善人を救います。
 
力関係を示すとこうなります。
 
正義>悪>善
 
つまり正義は最強なのです。
正義のヒーローには誰も逆らえません。
 
そうなると、堕落するのが人間の常です。
いや、そもそも正義のヒーローというのは、最初から最強の悪人が正義を自称しているだけかもしれません。
つまり「正義の力」か「暴力」か容易に区別がつかないのです。
 
今はそういう認識が広がってきて、正義というのはあまり信用されなくなりました。
凶悪犯を死刑にしろという主張も、「正義のため」ではなく「被害者遺族の感情のため」ということが理由にされます。
 
やなせたかし氏も、そういう認識のもとに、正義を説明するのに善を持ち出したのかもしれません。
 
おそらくやなせたかし氏の頭の中にあったアンパンマンの正義のイメージは、難民救済のようなことだったでしょう。
しかし、難民救済活動を正義とは言いません。人道、博愛、慈善と言います(難民を生み出す元凶をやっつけることが正義です。ただ、正義が難民を生み出しているのかもしれません)。
やなせたかし氏も混乱していたと思われます。
 
 
「折々のことば」を執筆しているのは哲学者の鷲田清一氏です。
鷲田氏が正義と善を取り違えた説をそのまま紹介しているのはいただけません。

バングラデシュ・ダッカのテロ事件で日本人7人も亡くなり、安倍首相は「この卑劣なテロに対して強い憤りを覚える」「世界の国々と共有している価値に対する挑戦であり、断固非難する」などと語りました。
テロに対して無為無策であると言っているのと同じです。
もっとも、それは安倍首相だけでなく、世界各国の首脳も同じことです。
 
世界はテロに対して無策です。
テロだけではなく犯罪に対しても同じです。
要するに人類は悪に対して無策なのです。
 
この機会に改めて、悪について哲学者、思想家はどう考えてきたのか調べてみました。
 
ウィキペディアで「倫理学」の項目を引いてみると、ソクラテスは問答法を通して徳の探求をし、プラトンは善のイデアを探求し、アリストテレスは最高善を究極目標にして善を探求したということです。
古代ギリシャ哲学ではもっぱら徳や善を探求して、悪についてはあまり考察していないようです。
 
ちょっと古い倫理学事典や思想事典で「悪」の項目を引くと、たいてい「悪とは善の欠如である」と定義されています。これは中世の神学者トマス・アクィナスによる「神学大全」に書かれていることです。この定義は広く西洋社会に受け入れられました。
 
悪が善の欠如であるなら、善の実現をはかれば悪は消滅する理屈です。
そういうことで西洋哲学は善や徳ばかりを探求し、悪を軽視してきたのでしょうか。
 
もっともその一方で、マルキ・ド・サドの、悪を肯定する「悪の哲学」という極端なものが生まれたりもしました。
 
非西洋では、儒教における性善説と性悪説、親鸞の悪人正機説などがあり、むしろ悪を正面から受け止めてきたかもしれません。
 
西洋哲学が悪を軽視してきたのは、宗教の影響もありそうです。
ユダヤ・キリスト教では最後の審判、ハルマゲドンなどによって悪が裁かれます。ですから、悪の問題は神に任せておけばいいということになります。
 
裁判官は黒い法服を着ますが、あれは明らかに宗教家を連想させるものです。また、裁判の象徴として剣と天秤を持つ正義の女神が使われますが、これはギリシャ神話に由来します。
つまり悪を裁くことは、いまだに宗教や神話の権威を利用して行われているのです。
 
 
進化論の登場は悪について考え直すチャンスでした。
人間はなぜ戦争をするのかとか、なぜ限りなくなわばりを広げて帝国を築くのかとか、考えるべきことはいっぱいあります。
ところが、ダーウィンは悪についてではなくもっぱら善や徳について考えました。道徳性を持っているのは人間だけではない、動物も子どもの世話をしたり仲間を助けたりする道徳性がある、それが進化して、そこから道徳が生まれた、という具合です。
これが進化倫理学と呼ばれるものになりました。
 
ダーウィンがもっぱら善や徳について考えたのは、古代ギリシャ哲学からの伝統だったかもしれません。
 
その結果、進化倫理学は悪についてなんの説明もできません。
そこをねらったように社会ダーウィン主義や優生学が猛威をふるったりしました。
 
 
ともかく、西洋哲学では悪を人間の営みとしてとらえ、思想的に解決しようという視点がほとんどありません。
そのため、イスラム過激派のテロリストに対して、アメリカなども実は宗教で対峙していて、宗教戦争状態になっています。
悪を軽視してきた西洋哲学の弱点が表れた格好です。
 

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