村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

カテゴリ: 反日右翼と亡国左翼

イギリスへ旅行していたので、しばらくブログの更新を休んでいました。
エジンバラ4泊、ロンドン2泊の旅です。ロンドンは2度目なので、エジンバラがメインになっています。
 
私が旅行している間に、予想通り安倍内閣は集団的自衛権行使容認を閣議決定しましたが、日本を離れていると客観的に見られるような気がしました。
 
ヒースロー空港とエジンバラ空港では、ゲートを通るときに、「一歩下がって(実はそこに立ち位置を示す足型が描いてある)、この明かりを見ろ」と言われます。いわゆる虹彩認証というやつです。
日本人は比較的スムーズにゲートを通れますが、靴を脱がされている人もけっこういます。
たぶんアメリカ、イスラエル、イギリスは空港のテロ対策が世界でもっともきびしいでしょう。
 
ホテルのテレビで主にBBCを見ていたら、爆弾テロリストのニュースをずいぶんやっていました。アルカイダのテロリストが空港の検査で発見しにくい爆弾を開発したということでした。帰国してからニュースサイトで確かめると、爆弾は外科的な手術で体に埋め込まれて、金属探知機や化学物質探知機でも発見しにくいということです。
 
「人体内に爆弾」の恐怖、アルカイダの爆弾専門家に各国が警戒
 
今、世界で行われているのは「テロとの戦い」です。
ところが、安倍首相の頭の中にはそのことがまったくなさそうです。日本が輸入する石油の8割は中東からだから機雷の掃海をしないわけにはいかない、という話をしていましたが、今後、アメリカと戦争する国が機雷を敷設するという状況があるとは思えません。アフガン戦争とイラク戦争を見て、正規軍でアメリカと戦うことの無意味さは誰の目にも明らかになり、反米勢力の戦い方はゲリラとテロにシフトしているからです。
 
日本が「テロとの戦い」に巻き込まれると、テロ攻撃の対象になります。そのため、空港の検査をきびしくするなどの不利益が生じます(ヒースロー空港の入国審査の前は大行列で、30分以上待たされました)
いや、空港だけの問題ではありません。日本でいちばんテロ攻撃に対して脆弱なのは新幹線です。大きなスーツケースに爆弾を詰めて新幹線に乗り、自分だけ降りて最高速度に達したときに爆発させれば自爆することもなく大きな被害を与えられます。これを防ぐにはすべての乗客に対して空港並みの持ち物検査をしなければなりませんが、そんな面倒なことは考えたくもありません。
日本でのテロというと原発テロが警戒されますが、簡単にできて大きな効果があるという点で新幹線テロのほうがより可能性があります。
 
また、タンカー輸送を軍事力で守るという安倍首相の発想は、第二次大戦においてイギリスの輸送船団をドイツ軍の攻撃から守った戦いを連想しているのかもしれませんが、あのときは輸送船も命懸けで航海していたわけで、今果たして命懸けでタンカーを運行する船会社や乗組員がいるのか疑問ですし、そもそも日本は5カ月余り分の石油備蓄量を持っているのですから、そんな長期にわたってタンカー運行ができなくなる状況も考えにくいことです。
 
要するに安倍首相の頭の中は、湾岸戦争当時と第二次大戦当時のことばかり詰まっていて、今の状況にはまったく適応できていないのです。
 
 
なぜそうなるかというと、ひとつには湾岸戦争のときの外務省のトラウマがあるからでしょう。今回の解釈改憲を主導したのは外務省だとされています。
そして、もうひとつは、日本の右翼の戦前回帰志向があるからだと思います。
 
明治以降の日本は、日清、日露戦争の勝利、満州国の建設など、日本軍の働きによって発展してきた面が多々あったわけで、軍は圧倒的に国民の支持を得ていました。五・一五事件や二・二六事件のときも、国民は犯人の軍人に対してきわめて同情的でした。しかし、その軍に引きずられて日本は悲惨な敗戦を味わったわけです。
しかし、敗戦は一度だけです。それなのに憲法を変えられ、「国の形」を根本から変えられてしまったわけで、これを屈辱と感じて、「国の形」を元に戻したいと考える人もいます。
一方、敗戦の悲惨さが身にしみて、元には戻りたくないという人もいます。
敗戦後の日本は、戦前に回帰したい右翼勢力と、戦前に回帰したくない左翼勢力がずっと角を突き合わせてきたわけです。
 
雄のシカは互いに角を突き合わせて戦いますが、ときに角がからまって抜けなくなることがあり、場合によっては抜けないために死んでしまうこともあるそうです。
今の日本は、そんなシカを連想させるような状況です。
 
ということは、安倍首相ら右翼勢力も時代錯誤なら、それに反対する左翼勢力も時代錯誤です。
 
たとえば、7月2日の朝日新聞朝刊に『「強兵」への道許されない』という解説記事が載っています。
 
「強兵」への道 許されない 編集委員・三浦俊章
 
この主張もなんかへんです。安倍内閣は防衛費を増額しましたが、ごくわずかな額ですし、そもそも1000兆円の借金のある国が「強兵」への道を歩めるわけがありません。せいぜい安倍内閣のやっていることは「強兵ごっこ」というところです。
しかし、「強兵ごっこ」を「強兵」と高く評価するので(安倍首相にとっては高く評価されたことになります)、安倍首相はますますやる気になるかもしれません。
安倍首相を支持する人たちも、「強兵」をよいことだと思っているわけですから、この記事はそういう人たちにはなんの説得力もありません。
 
つまり戦前回帰に反対する人たちはこれまで、「教え子を戦場に送るな」「逆コース」「きなくさい」「軍靴の響きがする」などという紋切り型の表現しかなく、なぜそれがだめなのかを説明してきませんでした。
「憲法9条を守れ」というのも同じです。なぜ憲法9条を守るべきなのかを説明しなければ、若い人を説得できません。
 
安倍内閣が時代錯誤の暴走をするのは、それを批判する側も同じように時代錯誤だからです。
 
そして、結局のところ、安倍内閣の時代錯誤はたいしたことにはつながらないでしょう。日本だけの“一国時代錯誤”は不可能だからです。

民主党はどうすれば再生できるのでしょうか。
それには民主党政権の失敗について分析することが先決ですが、私の見るところ、まともな議論は行われていません。
民主党なんかどうでもいいという人もいるでしょうが、日本維新の会やみんなの党や共産党に期待するにしても、民主党政権の失敗の理由を理解しておくことは必要です。
 
なぜ民主党政権の失敗の分析が行われないかというと、鳩山由紀夫氏や菅直人議員の個人の言動についての議論が現在進行形で行われていて、それがじゃましているからです。こうした議論ももしかして誰かに操作されているのかもしれません。
 
たとえば、鳩山由紀夫氏が中国で尖閣諸島について「盗んだものは返すのが当然」と発言したような報道がありましたが、これについては「日本報道検証機構Gohoo」が「注意報」を出しています。
 
鳩山氏「盗んだものは返すのが当然」見出し要注意
《注意報1》 2013/7/7 07:30
時事通信は、627日付で「尖閣『盗んだものは返すのが当然』=鳩山元首相、中国でも発言」の見出しをつけ、鳩山由紀夫元首相が27日、中国の清華大学主催のフォーラムに出席した際の尖閣諸島に関する発言を報じました。この見出しだけを見ると、「盗んだものは返す」という表現がカイロ宣言の引用であることが伝わらない上、あたかも鳩山氏が尖閣諸島を中国に返すべきとの自らの考えを表明したかのように認識される可能性があります。しかし、記事本文で引用された鳩山氏の発言内容や各紙の報道も踏まえると、鳩山氏は「日中それぞれに言い分がある」と言及し、中国側の立場にも一定の理解を示してはいるものの、中国に返還すべきとの考えを表明したわけではないとみられます。
(中略)
なお、当機構が調査したところ、時事通信が見出しにつけた「盗んだものは返すのが当然」というフレーズは、インターネット上で一人歩きして拡散し、主要紙のニュースサイトでも「尖閣について『中国から盗んだものは返さねばならない』と発言した鳩山由紀夫元総理」と書かれた外部執筆者の記事を確認(MSN産経ニュース76日付記事)。時事通信の見出しがきっかけで、日本の元首相が尖閣諸島を中国に返還すべきとの考えを表明したという誤った事実認識が内外に広まる可能性があります。
 
「日本報道検証機構Gohoo」はかなり信頼性のあるサイトではないかと思いますが、この「注意報」が出たあとも、鳩山氏への非難はやみません。
そういうことに影響されないようにして、冷静に民主党政権を振り返ってみましょう。
 
鳩山内閣は普天間基地問題で、辺野古に新滑走路を建設するという「日米合意」ではなく、「国外県外」への移設を目指しましたが、結局うまくいきませんでした。このつまずきで民主党政権は大幅に支持を失ってしまいました。このことをまず検証しなければなりません。
 
「国外県外」を目指したことは間違っていません。「日米合意」は、沖縄県民の圧倒的反対があるので、いまだに辺野古の測量すらできず、ほとんど実現は不可能な状況です。
 
とはいえ、「国外県外」が失敗に終わったのは事実です。
なぜ失敗に終わったかというと、その半分の原因はアメリカにあります。アメリカがグアムなど海外移設を受け入れれば解決した問題だからです。
そして、もう半分の原因は、日本の外務省、防衛省、マスコミ、国民にあります。外務省、防衛省の官僚ががんばってアメリカと交渉し、マスコミと国民がアメリカはけしからんと声を上げれば、アメリカは譲歩したでしょう。
もちろんそうならなかった責任は最終的に鳩山内閣にあります。要するに鳩山内閣の力不足です。アメリカを動かし、官僚を動かし、マスコミを操作し、国民世論を喚起する力がなかったのです。
 
そして、菅内閣は原発事故対策の不手際を責められました。これも民主党政権が支持を失った大きな理由です。
 
しかし、考えてみれば、大きな津波で全電源が喪失してしまうような原発をつくってそのままにしていたのは自民党政権ですし、事故が起こったときにまず対策に当たる専門家は東電であり原子力安全・保安院であり原子力安全委員会であり通産省です。それらがまともに機能しませんでした。
 
『検証東電テレビ会議』(朝日新聞出版、共同執筆)と『ルポ 東京電力 原発危機1カ月』(朝日新書)を執筆した朝日新聞の奥山俊宏記者が「SYNODOS」というサイトのインタビューで、大震災直後の状況についてインタビュアーとこういうやりとりをしています。
 
原発事故と調査報道を考える
奥山俊宏(朝日新聞記者)×藍原寛子
―― 東電のテレビ会議の映像は、当時の菅首相や民主党の議員に対する論評、官邸内の動きなどが緊張感なく話し合われている312日夜の場面から始まります。12日午後1112分には、都内の本店の対策本部は一部の社員を残して「解散」してしまっています。炉の内と外、福島と東京、東電の本店と原発サイトでは、あまりにも温度差があり過ぎると思います。被災者からすると本当にやりきれない思いですが……。『検証 東電テレビ会議』でもこのあたりは書かれていますが、なぜ、312日夜、東電社内はあんな空気だったのでしょうか。
 
12日夜に武黒一郎フェローが画面の前でずっと話をしている場面ですよね。1号機の原子炉建屋の爆発の7時間ほど後の場面です。原子炉に水が入り始めて峠を越えたといったような、あののんびりした雰囲気は、東電の危機感のなさが感じられて確かにショックで、残念です。
 
あの時間帯は、3号機の原子炉が制御不能に陥ろうとしていたころです。2号機はまだ冷却ができていて、4号機も無事だったころです。やるべきことがもっとあったのではないか、もっといい対応をすれば、抑え込むことができたのではないか、ましな結末があったのではないかと痛切に感じます。少なくとも2号機、3号機、4号機は救えていたはずです。
 
東電の本店がいかに無能で無策であったかというのがこれを読めばわかります。
 
原子力安全・保安院や原子力安全委員会の無能ぶりも今さらいうまでもないでしょう。
 
その中で孤軍奮闘したのが菅首相です。専門家たちが無能であることをすぐに見抜き、自分の個人的な人脈から専門家を探し、現地へヘリコプターで飛んで視察し、東電本店に乗り込んで撤退を阻止しました。ハリウッド映画ならヒーローの大活躍として描くところです。
また、菅首相は浜岡原発の運転停止を要請して運転を止めました。浜岡原発は東海地震の予想震源域にあり、もし事故が起これば東海道が分断されてしまいます。そのリスクを考えれば運転停止は当然です。
 
つまり、菅首相の原発事故対応はたいへんすばらしいものでした。
ヘリコプターの視察によってベントが遅れたとか、海水注入を止めようとしたとか批判されていますが、それはどちらも推測に基づく批判です。
かりにその批判が正しいとしても、小さな問題です。菅首相を批判する人たちは、より大きな問題を引き起こした東電を批判しないために菅首相を批判しているのです。
 
ただ、そうした批判に対処する能力に欠けていたとはいえます。これは鳩山首相も同じです。橋下徹氏の十分の一でもいいので反論能力があればよかったのですが。
 
以上のことを踏まえると、民主党再生の方向は明らかでしょう。
よりパワーアップした鳩山、菅を生み出すことです。
普天間基地問題は解決しなければなりませんし、原発も停止しなければなりません。その実行力のある政治家が必要です。
 
今、民主党再生を議論している人たちは、民主党を箸にも棒にもかからない、どうでもいい政党にしようとしているように思われます。
そんな政党にしても国民が支持するはずありません。
 
よりパワーアップした第二、第三の鳩山、菅を生み出すことしか民主党の再生はありません。

最近、自民党の改憲案における人権感覚がおかしいのではないかとか、安倍首相が高名な憲法学者の芦部信喜氏の名前を知らずに改憲を論じているのはどうなのかといったことが話題になっています。
自民党に限らず右翼の人権感覚がおかしいのは今に限ったことではありません。「人権よりも国権」というのが右翼思想の本質だからです。
また、権力者や既得権益者にとっては、一般国民の人権などないほうが都合がよいわけです。とくに自民党は長年権力の座にあって、権力者的思考法がしみついていますから、人権感覚がおかしいのも当然でしょう。
 
そこで、自民党の「憲法改革草案」がどんなものかと思って調べてみると、草案の中の「前文」を読んであきれてしまいました。人権問題はほかの人に任せて、私はこの「前文」を取り上げてみたいと思います。
 
文章を批判するとき、よく「悪文」という言葉が用いられますが、悪文には個性や特徴があり、しばしば思いあまって悪文になっているとしたものです。この「前文」には特徴もないし思いもありません。「駄文」という言葉が適切でしょう。
 
自民党の「日本国憲法改正草案」
(前文)
日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。
我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。
日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。
我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。
日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。
 
 
これは草案だから、これから推敲するのだというかもしれませんが、推敲でよくなるレベルではありません。「仏つくって魂入れず」といいますが、魂がないのです(仏もない?)
 
想像するに、自民党の部会で議論したことを寄せ集めて、党の職員が文章にまとめたというところでしょう。
 
たとえば冒頭、「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち」とありますが、これを読んだ人はなんの感想も持てないでしょう。どんな国でも、ある長さの歴史があり、固有の文化を持っていますから、文章そのものに意味がありません。
それに続いて「国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって」とありますが、これも天皇()の特徴やよさを述べていません。しかも、多分にトートロジーのきらいがあります。
 
この段落は本来、日本のすばらしさを謳い上げて、日本人が自国に誇りを持てるような文章になっていなければいけません。たとえば、「日本は中国や欧米の文化を取り入れつつ、和を尊重し、自然と調和する独自の文化をつくりあげた」みたいなことです。哲学者の梅原猛氏ぐらいの方に書いていただかないといけません。
天皇制にしても、神話の時代から一貫して続いている、今や世界でも希なものだと自慢しなければいけません(南北朝の問題があるので「制度として一貫している」などとレトリックに工夫して)
 
「我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており」というのも、事実をそのまま述べているだけで、「それがどうした」と言いたくなります。また、「世界の平和と繁栄に貢献する」というのも、ありえない表現です。「世界の平和と繁栄に貢献する決意である」とか「世界の平和と繁栄に貢献することを誓う」などとなっていなければなりません。
 
また、「平和主義」を言った次の段落で「国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り」とあるところが、この「前文」というか改憲草案のキモでしょう。平和主義と武力保持を両立させるレトリックが必要ですが、ここにはなんの工夫もありません。
たとえば、「我が国は世界の恒久平和を希求するものであるが、国際社会の現状はいまだその理想から遠く、やむなく我が国は云々」みたいなくだりが必要でしょう。
 
それから、この「前文」にはなぜ以前の「前文」を全面的に書き換えたのかを説明ないし示唆するものがありません。これではどう連続しているのか(連続していないのか)がわかりません。
「我が国は敗戦と占領によって奪われた国家の誇りを取り戻すために」などの表現が必要でしょう。
 
要するにこの「前文」は、なんの思いもこもっていない、箸にも棒にもかからない駄文です。
なぜそんな駄文になってしまったのでしょう。それは本音を書いていないからです。
「わが国はほかの国とはぜんぜん違う優れた国だ」
「他国にあなどられないために堂々と武力を持ちたい」
「占領時代に植え付けられた自虐的心性を一掃したい」
こういった本音を隠しているので、うわべをとりつくろっただけの文章になってしまうのです。
また、いろんな考え方の人に配慮したために、当たり障りのない文章になってしまったのでしょう。いろんな人に配慮して案をまとめるというのは自民党の得意芸ですが、それでは訴求力のある文章にはなりませんし、憲法前文にふさわしい格調も出てきません。
憲法を変えるよりも、自民党のそういう政治体質を変えるほうが先決でしょう。
 
参考のために現在の憲法前文も張っておきます。
改めて読んでみると、たとえば「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである」というくだりなどに、世界に向けてこの憲法を発信していこうという気迫がみなぎっています。
ふたつの前文を読み比べてみると、戦後六十余年が経過して、日本人の精神はここまで弛緩してしまったのかということがよくわかります。
 
 
日本国憲法前文
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

中国大使を退任した丹羽宇一郎氏が1221日の朝日新聞朝刊のインタビュー記事に出ていました。
丹羽氏は民主党政権による政治任用で2010年に中国大使となりましたが、石原慎太郎都知事が尖閣諸島購入を表明したことに対し、「仮に石原知事が言うようなことをやろうとすれば、日中関係は重大な危機に直面するだろう」と発言し、これに対して自民党が国益を損なうとして更迭を要求し、退任の流れがつくられました。しかし、あとになってみると、丹羽氏の発言はきわめて適切だったことがわかります。
それでも退任の流れは変わりませんでした。大使のポストは外務官僚にとっては金と名誉が伴うおいしいものであって、決して民間人に渡したくないからです。つまりこれも官僚の巻き返しです。
その丹羽氏は朝日新聞のインタビューでこう語りました。
 
「石原さんは、地方政府のトップでした。知事が国益にかかわる発言や行動をしたとき、どうして一国の首相が『君、黙りなさい。これは中央政府の仕事だ』と言えなかったのか。そういう声をたくさん聞きました。ほかの知事たちも東京と同じような行動をとろうとしたら、日本の統治体制はどうなるのか。世界の信を失いかねない深刻な事態です」
 
私はかつてこのブログで、東京都の尖閣購入計画をきっかけに日中関係がこじれてしまったことについて、「中国は中央集権の国だから地方自治についての理解が少なく、政府が東京都に一方的に命令する立場にないということを理解していないのではないか」というふうに書きました。
しかし、考えてみると、領土問題や外交問題は政府の管轄であって、地方自治体が介入してくるというのはあってはいけないことです。丹羽氏が言うように、野田首相が石原知事を叱りつけるべきです。石原知事は「政府に吠え面かかせてやる」とも発言しており、ここまで言われて、言われっぱなしというのは情けない限りです。
 
とはいえ、私も石原知事を批判したものの、石原知事の行動を止めるという発想はありませんでした。丹羽氏に指摘されて初めて気づきました。
 
人間の祖先は集団で狩りをするサルで、集団には序列があります。これはイヌやオオカミに似ています。今の人間もこうした本能的な序列意識を持っていることには違いがありません。
石原知事の尊大な態度に、ついついこちらの序列が下のような意識になってしまっていたようです。
 
そして、民主党政権の「失敗の本質」もそこにあると思います。
 
政治は権力をめぐる戦いです。どちらが序列の上に立つかという戦いでもあります。大臣は事務次官よりも上と決められていますが、そう単純なものではありません。与党対野党、政治家対マスコミなども戦っています。
イヌは上下関係をマウンティングという動作で示します。人間の場合は格闘技のマウントポジションという言葉を使ったほうがわかりやすいと思いますが、政治の世界でもどちらがマウントポジションを取るかという戦いをやっているのです。
 
鳩山由紀夫首相は普天間基地の国外県外移設を打ち出しましたが、外務・防衛官僚やマスコミなどの総反撃を受けました。鳩山首相は友愛の人ですから、まったく戦う姿勢を見せず、一方的に押し切られてしまいました。また、前原誠司国交大臣は八ツ場ダム建設中止を打ち出しましたが、これもまた総反撃を受け、あまり有効な反撃ができませんでした。
 
こうした中、戦う姿勢を見せたのは小沢一郎幹事長だけです。民主党が急遽天皇陛下と習近平国家副主席との会見を設定したことについて、羽毛田信吾宮内庁長官が記者会見して「二度とこういうことがあってはならない」と発言しましたが、小沢幹事長は「辞表を出してから言え」と反撃しました。ここで小沢幹事長が反撃しなかったら、鳩山政権はもっと早く崩壊していたでしょう。
 
とはいえ、民主党政権は官僚・野党・マスコミとの戦いで完全に遅れをとってしまいました。
たとえば、尖閣諸島で中国漁船と巡視船が衝突したとき、そのビデオを公表しないことで大バッシングを受け、そのビデオを流出させた海上保安庁職員が英雄扱いされることまで許してしまいました。
石原知事が尖閣諸島購入計画を発表したのはその流れの中にあります。尖閣問題で民主党政権を批判する者は愛国者のようなポジションになってしまったのです。そのため野田政権は正面から対決できず、横から島を購入するという姑息な手段に出ました。
 
つまり民主党政権は石原知事など反民主党勢力にマウントポジションを取られていたのです。中国からはそうしたことが見えなかったために「茶番」ととらえてしまい、日本への態度を硬化させました。
 
ちなみに反民主党勢力が民主党攻撃のもっとも有効な武器として利用したのが領土問題でした。したがって、自民党政権になれば領土問題は沈静化することでしょう。
 
ともかく、民主党は“負け犬”のイメージになってしまい、それが総選挙で大敗した最大の原因だと思います。
 
橋下徹日本維新の会共同代表などは、政治は戦いであり、国民はその勝ち負けを見ているということをよく理解しており、たとえば組合代表が橋下氏に頭を下げる場面を写真に撮らせるなど、きわめて巧みです。
 
有識者やマスコミは民主党がマニフェストを達成できなかったことを問題にしますが、まったく本質から外れています。子ども手当が十分に出せなかったのは、要するに「ない袖は振れない」ということですから、国民はそんなことは問題にしていないと思います。
 
民主党はもっと戦い方を習得するべきだというのがとりあえずの結論ですが、これはあくまでとりあえずのことです。戦い方がうまくなって得られるのは目先の利益だけで、戦いが激化することによる損失はどんどん拡大していくことになります。
国際政治であれ国内政治であれ、動物的な争いの世界を脱し、たとえば鳩山由紀夫氏のような友愛政治家が活躍できるような世の中にすることが真に目指すべき方向です。

9月25日から北京で日中政府の外務次官級協議が始まりましたが、どう決着するかまだ見えません。日中関係が悪化したままだと、日本経済への悪影響も心配されます。
 
そもそも尖閣問題がこれほどこじれてしまった発端は、石原慎太郎都知事が都による尖閣購入計画を発表したことにあります。
購入計画の発表自体が中国側の反発を招きましたが、石原知事は購入後は船着場や灯台などを建設し人を常駐させて実効支配を強化するもくろみで、もしこれが実現したら、さらなる中国側の反発を招くことは必至です。
そこで日本政府は都に代わって尖閣を購入することにしました。政府は石原知事が要求した船だまりの建設などは拒否したので、あくまで土地を買い上げるだけで、現状変更をするつもりはなさそうです。
そして、そのことを中国に説明すれば、中国は理解してくれると日本政府は判断したのでしょう。
しかし、中国は態度を硬化させ、習近平氏は「国有化は茶番」と批判しました。
 
なぜ中国は日本政府のやり方に反発したのでしょうか。
日本では土地の売買は自由で、土地を個人が買っても都が買っても国が買ってもそれほど違いはないのですが、中国では土地はすべて国有ですから、「日本政府が国有化した」ということが特別なことに感じられたのだという説があります。
また、中国は中央主権の国ですから、地方自治についての理解が少なく、日本では政府が都に一方的に命令する立場にないということが理解されていないということもありそうです。
 
ともかく、日本政府としては国有化を中国にとってもよいことなのだと理解してもらうしかありません。
 
さて、問題の火付け役となった石原知事は、責任を感じて謹慎しているかというと、そんなことはありません。中国の海洋監視船が尖閣諸島の領海を侵犯したときには、「追っ払えばいい。まさに気が狂っているのではないか」とか「『寄らば切るぞ』といったらいい」などと言い、反日デモが暴動化したことについては「酷い。これはテロ。民度が低い」と暴言を連発しました。
 
さらに、9月21日の記者会見では、記者から『知事はしきりに「シナ」と言うが、相手が嫌がる呼称を使うべきでない』と言われたのに対し、「嫌がる理由はないじゃないか」「ナンセンスだね」と言って、これからも「シナ」を使い続ける意志を示しました。
(石原語録:知事会見から 毎日新聞 20120922日 地方版)
 
日中が対立状況にあるときに、まさに火に油を注ぐ発言です。私はあまりにも思慮が足りないのではないかと腹を立てていましたが、あるときふと思い至りました。
石原知事はみずから憎まれ役を演じることで日本を救おうとしているのではないかと。
 
今、日本政府は「都が尖閣を購入すると、反中国の石原知事は必ず中国のいやがることをする。それを阻止するために国が購入する必要があったのだ」ということを必死で説得しているはずですが、石原知事が中国人の神経を逆なでする発言をすればするほどその説得に信憑性が出てくるわけです。
さすが石原閣下です。私のような小さな人間には容易に推し量れない大きな考えを持って行動しておられるのです。
「勧進帳」で弁慶が義経を打擲するような気持ちで反中国発言をしておられるに違いありません。
 
しかし、石原知事の発言は中国にあまり報道されていないと思われます。今は国と国の対立になっているからです。
 
となると、石原知事は次の手を考えておられるでしょう。
私のような小さな人間に石原知事の考えを推し量るのは容易なことではありませんが、乏しい想像力を総動員して考えてみました。
 
石原知事は自分の命を惜しむような人ではありません。特攻隊を賛美する映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」をプロデュースしたくらいです。
また、尖閣購入のための寄付を募り14億円余りを集めましたが、使い道がなくなり、返すこともできないという状況です。そのお金に込められた志を思うとき、石原知事は慙愧に堪えないに違いありません。
となると、ここで国のためになるなら自分の命を捨てようという思いが湧いてきても不思議ではありません。
 
つまりハラキリをすることを考えておられるのではないでしょうか。首相官邸前で、「都が尖閣を購入して、さんざん中国にいやがらせをしようとしたのに、国に阻止された。無念でならない。国に抗議するために切腹する」という文書を残してハラキリをすれば、それは全世界を驚かせるニュースになり、当然中国にも伝わり、日本政府は石原を抑えるために尖閣を国有化したのかと、すべての中国人が納得するに違いありません。
 
そのとき石原知事は、できれば桜吹雪の中で死にたいでしょうが、季節が違うのでそうはいきません。そこで、返還不能の寄付金を1万円札にして、大型扇風機でお札の紙吹雪を舞わせて、その中でハラキリをするという演出が考えられます。そうすればお札が通行人に拾われるという形で国民に返還することもできます。
 
三島由紀夫がハラキリしたのですから、作家である石原慎太郎氏が同じことをしても不思議ではありません。
そんなことはありえないと思っているあなたは、石原氏の大きな心がわからない小さな人間です。
 
もちろん私自身は、石原氏にそんなことはしてほしくないと願っています。

中国で反日デモが燃えさかっています。長く続いた東アジアの平和が終わる予感がします。
 
反日デモの直接のきっかけは、日本政府が尖閣諸島を国有化したことですが、日本政府としては石原知事の東京都が買い取るよりは穏便に処理するので、そのことを中国に説明すれば理解してもらえるという考えだったのでしょう。しかし、中国政府からは日本政府と東京都の出来レースに見えるのかもしれません。
私としては、今回の事態については、最初に火をつけた石原知事が責めを負うべきだと考えますが、世の中にこういう声はそうとう少ないでしょう。
 
そもそもナショナリズムというのは「国家規模の利己主義」のことですから、ナショナリズムとナショナリズムは必ず衝突します。これは夫婦の双方が我を張れば必ず夫婦喧嘩になるのと同じです。
 
戦後の日本人はそのことが体験的にわかっていましたから、ずっと日本のナショナリズムを抑制してきましたし、日本のアジア外交も抑制的でした。
しかし、冷戦が終わってから、日本は右傾化し、ナショナリズムが台頭してきました。
ナショナリズムが台頭するのは、人間が利己的に生まれついている以上、ある程度必然のことといえます。
 
今回の中国における反日デモは尖閣諸島の領土問題がきっかけで、最近韓国と日本の関係が悪化しているのも、竹島の領土問題がきっかけです。しかし、それはあくまできっかけで、より大きな問題として「歴史認識」の問題があると思います。
たとえば、中国はフィリピンとも領土問題でもめていますが、中国で激しい反フィリピンデモが起こったという話は聞きません。また、中国はロシアとも領土問題をかかえていましたが、これは2004年に解決しました。
中国とロシアの領土問題が解決したというのは、たまたま昨日の新聞で読みました。〈風〉中国の領土問題 愛国主義と実利外交のはざま■坂尻信義(中国総局長、ウラジオストクから)という記事から一部を引用します。
 
9月初旬にアジア太平洋経済協力会議(APEC)が開かれた「ウラジオストク」という地名は、ロシア語で「東方を支配せよ」という意味だと、この港町に常駐する同僚から教えられた。ただ、中国では「海参●(●は山かんむりに威)という呼び名が定着している。「ナマコの入り江」という意味だ。
 
 清朝と列強が結んだ北京条約で、ロシア帝国は極東の沿海地方を割譲させ、太平洋への足場となる不凍港を手中に収めた。しかし、この不平等条約で奪われたはずの土地の領有権を主張する声は、ナショナリズムが渦巻く中国でも、あまり聞かない。
 
 胡錦濤(フーチンタオ)国家主席は2004年、ロシアのプーチン大統領(当時)を北京に迎え、両国の国境問題の決着を宣言。ロシアが大ウスリー島(中国名・黒瞎子島)の半分を中国に渡すことなどで、約4300キロの国境を画定させた。
 
 この決定は島を実効支配していたロシアでも、さらなる果実への期待があった中国でも批判された。それでも2人の指導者は、行き着くところ軍事衝突しかない「ゼロサムゲーム」に終止符を打った。中ロ貿易は胡錦濤体制の10年間で、約8倍に伸びた。両氏は7日、固く握手した。(朝日新聞デジタル20129170300)
 
領土問題も、双方が感情的にならなければ、経済合理性によって解決できるといういい例です。
しかし、日中、日韓はなかなかこうはいかないでしょう。それはやはり「歴史認識」の問題があるからです。
 
戦後、日本は中国、韓国と国交を回復してから、侵略戦争や植民地支配について基本的にはきちんと謝罪しています。
ウィキペディアの「日本の戦争謝罪発言一覧」という項目から引用します。
 
1972929 - 田中角栄総理大臣。「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」
 
1990524 - 今上天皇。 「我が国によってもたらされたこの不幸な時期に、貴国の人々が味わわれた苦しみを思い、私は痛惜の念を禁じえません。」
 
1992117 - 宮澤喜一首相。「我が国と貴国との関係で忘れてはならないのは、数千年にわたる交流のなかで、歴史上の一時期に,我が国が加害者であり、貴国がその被害者だったという事実であります。私は、この間、朝鮮半島の方々が我が国の行為により耐え難い苦しみと悲しみを体験されたことについて、ここに改めて、心からの反省の意とお詫びの気持ちを表明いたします。最近、いわゆる従軍慰安婦の問題が取り上げられていますが,私は、このようなことは実に心の痛むことであり,誠に申し訳なく思っております。」
 
1993823 - 細川護煕首相。「()我々はこの機会に世界に向かって過去の歴史への反省と新たな決意を明確にすることが肝要であると考えます。まずはこの場をかりて、過去の我が国の侵略行為や植民地支配などが多くの人々に耐えがたい苦しみと悲しみをもたらしたことに改めて深い反省とおわびの気持ちを申し述べる」
 
しかし、その一方で、植民地支配や侵略戦争を正当化しようとする有力政治家の発言が繰り返され、日本の謝罪はどこまで本気なのかという疑念を中韓両国で生んできました。
とくに最近は右傾化が進んだために、その手の発言がふえてきました。ただ、発言の内容は昔と変化しています。昔は、「あの戦争は侵略戦争ではなかった」とか、「日韓併合は植民地支配ではなかった」というのが主でしたが、最近はもっぱら「慰安婦の強制連行はなかった」とか「南京虐殺はなかった」というふうにスケールダウンしています。
 
慰安婦問題についてはこのブログで取り上げ、「軍や官憲による強制連行の証拠はないから河野談話を見直せ」という主張は国際社会ではまったく通用しない愚論であることを指摘しています。
 
「南京虐殺はなかった」という主張は、30万人虐殺という数字が過大であるということから始まったものですが、かりに3万人であれ、0人であれ、日本軍が中国各地で略奪、強姦、虐殺を行ったことが否定できるわけではないので、いったいなんのために「南京虐殺はなかった」と主張するのか意味がわかりません(これは「アウシュビッツにガス室はなかった」という主張と同じです。ガス室があってもなくても、ユダヤ人がナチスにひどい目にあわされたことは変わりません)
 
つまり「強制連行はなかった」とか「南京虐殺はなかった」とかは、重箱の隅をつつくような議論になっていて、日本の右翼の劣化を示しています。こういう主張をする人には、「植民地支配は謝罪しないんですか」とか「侵略戦争は謝罪しないんですか」と聞いてみたいものです。
 
とはいえ、重箱の隅をつつくような議論をしてまで謝罪したくないという心理にも、一分の理はあります。
それは「欧米列強は謝罪していないのになぜ日本だけが謝罪しなければならないのか」という理屈です。
たとえば、「日本軍は確かに略奪や強姦や虐殺をしたかもしれないが、どこの国の軍隊もそういうことは大なり小なりしているもので、ソ連軍なんか日本軍よりもっとひどいのに謝罪していないではないか」といったものです。
 
この理屈にはもっともなところがあります。ですから、これをどんどん追究していけばいいと思うのですが、残念ながら日本の右翼は、この理屈を日本が謝罪しないための方便にしか使っていません。
日本の右翼はまた、「日本はあの戦争によってアジア諸国を欧米の植民地支配から解放した」と戦争の正当化をはかる一方で、「日本が半島や大陸を植民地支配したのは当時の価値観では正当だった」と矛盾した主張をしますが、この矛盾が放置されているのも同じことです。
 
つまり日本の右翼は、日本の植民地支配や侵略戦争を日本とアジア諸国の関係だけでとらえていて、グローバルにとらえていないのです。
 
日本が植民地支配や侵略戦争を謝罪したなら欧米もまた同じように謝罪しなければなりません。当然の理屈です。
日本は一応謝罪したのですから、次は欧米に対して「君たちも謝罪するべきだ」と主張する権利を持つことになります。これは国際政治において有力なカードです。
 
そもそもアメリカ合衆国は先住民虐殺の上に成立した国であることを謝罪していませんし、白人は黒人を奴隷化したことを謝罪していませんし、もちろん欧米は植民地支配したことを謝罪していません。
これは欧米白人が傲慢であるからですが、日本の知識人は欧米式の教育を受けているために、こうした認識がほとんどありません。
 
日本は日露戦争に勝利したことで、欧米列強にしいたげられていた有色人種から希望の星と見なされる時代がありました。日本の右翼はその栄光の時代を忘れたのか、欧米にはほとんど物が言えず、中国や韓国にばかり物を言う存在に成り下がりました(石原知事などその典型です)
 
日本のナショナリストも中国のナショナリストも韓国のナショナリストも同様に愚かですが、日本のナショナリストが最初にその愚かさから抜け出さなければなにも始まりません。
 

いわゆる従軍慰安婦問題がこじれてしまうのは、自分中心の発想を抜けられない人が多いからです。
たとえば、河野談話を見直すべきという人たちの主張を国際社会から見るとどうなるかというと、
「加害者側の資料がないから被害者に謝罪しないと加害者側が言っている」
ということになります(詳しくは前回の「利己主義スパライル」及び「レイプ・イジメ・慰安婦」を参照)
ですから、韓国はもとより国際社会からもまともに相手にされる主張ではないのです。
 
「加害者側の資料がないから被害者に謝罪しないと加害者側が言っている」という記述は、被害者側でも加害者側でもない第三者から見たものです。第三者的立場に立つと、自分の主張のおかしさにすぐ気づくはずなのです。
 
もっとも、河野談話を受け入れている人がみんな第三者的立場に立っているかというと、そういうことではありません。日本人であっても、いろんな立場があるからです。
 
たとえば、軍国主義時代の日本を、軍部が暴走して無謀な戦争を行い、国民に塗炭の苦しみを味わわせた時代と認識している人がいます。こういう人は軍国日本は本来の日本とは別だと考えていますから、当時の朝鮮で慰安婦が強引な手法で集められたと聞いても、そんなことは当然あっただろうと思うだけです。
つまり、軍国日本が非難されても自分が非難されているという意識はなく、むしろ自分もいっしょになって非難しているぐらいの意識なのです。
ですから、これを“自虐”というのは当たっていません。本人としては“他虐”のつもりだからです。
 
一方、軍国日本に自己を同一化している人がいます。日露戦争時代の日本でもいいし、大正デモクラシーの日本でもいいのに、なぜ軍国日本かと思いますが、おそらく戦後日本の平和主義的な行き方を否定したい思いが強い人なのではないかと私は想像しています。
こういう人にとっては、軍国日本が非難されるのは自分が非難されるのと同じなので、なんとかして軍国日本の行いを肯定しようとします。慰安婦問題にしても、一部の民間業者が勝手にやったことだとか、当時は売春や人買いは当たり前だったとか、証言は信用できないとか、強制連行を命令・指示する資料はないとかです(「強制連行」などという言葉を使うわけがありません。食糧の「現地調達」といって「現地略奪」と言わないのと同じです)。
 
ですから、謝罪するのは当然だとする者と、謝罪するべきでないとする者は、左翼と右翼だというのがこれまでの認識でした。
しかし、今では左翼と右翼という政治的立場にはほとんど意味がない時代になっています。左翼にしても、社会主義革命をやろうと思っている人はほとんどいませんし、左翼と自認している人も少ないのではないかと思われます。
 
私は左翼と右翼という対立軸に代わる新しい対立軸を提唱しています。
 
 
   体罰肯定  体罰否定
管理教育主義  自由放任主義
   厳罰主義  寛容主義
   死刑賛成  死刑反対
   軍拡賛成  軍縮賛成 
国家主義賛成  国家主義反対
  高福祉反対  高福祉賛成
   格差容認  格差反対
    性悪説  性善説
 
 
この対立軸は、「人間を肯定的にとらえるか否か」によって決まってくるというのが従来の私の考えでした。しかし、「私は人間を否定的にとらえている」という人はあんまりいそうにないので、この表現は不適切かもしれません。
そこで、「人の立場に立って考えることができるか否か」という表現に変えることにしました。
たとえば、子どもの立場に立って考えることができる人は当然体罰否定派になりますし、犯罪者の立場に立って考えることのできる人は寛容主義で、死刑反対派になりますし、貧しい人の立場に立って考えることのできる人は高福祉賛成、格差反対の考えになります。
 
慰安婦問題に当てはめると、朝鮮人慰安婦の立場に立って考えることができる人は、謝罪することで少しでも心の傷を癒してあげたいと考えますし、できない人は謝罪しても日本の立場を不利にするだけだと考えます。
また、国際社会の立場に立って考えることができる人は、謝罪しないという主張が決して受け入れられるものでないことがわかります。
 
「人の立場に立って考える」ということはあらゆる場面で有効で、これができると自分自身の利益にもなります。ビジネスにおいては顧客の立場に立って考えることになりますし、夫婦においても相手の立場に立って考えれば夫婦喧嘩もほとんど起こらないはずです。
 
領土問題も、相手の立場に立って考えることができないから生じている面が多分にあります。尖閣諸島や竹島は、相手の立場に立って考えると、当面解決することはできず、棚上げするしかないという結論になるはずです。北方領土については、ロシアが経済的に困窮しているときには、鈴木宗男氏が主導した経済的見返りを条件に二島返還ということも可能だったと思われますが、今となってはよほど大きな経済的見返りが必要です。
 
ともかく、河野談話の見直しを主張している人たちには、「元慰安婦や一般の韓国人の立場に立って考えなさい」と言いたいと思います。そうすれば、日本の国益のためにもどうすればいいかがわかってくるはずです。

いわゆる従軍慰安婦問題がまだ波紋を広げています。今までは思想的に偏った人が言っているだけだと思っていましたが、読売新聞の社説までが河野談話の見直しを主張しました。
 
河野談話 「負の遺産」の見直しは当然だ(829日付・読売社説)
 
しかし、読んでみてもぜんぜん説得力がありません。書いている本人が無理筋を言っていることがわかっているからでしょう。慰安婦問題の火をつけたのは朝日新聞なので、朝日新聞に対するいやがらせが主眼なのでしょうか。
 
慰安婦問題というのは歴史上の事実がもとになっているので、事実そのものを探求しなければ論じられないかと思っていましたが、少し調べてみると、実際の議論はそういうこととは別に行われていることがわかりました。要するに謝罪するかしないかという問題なのです。これは歴史の事実とはまた違って(もちろん歴史の事実を踏まえていなければならないのですが)、むしろ法学や倫理学、さらには心理学やフェミニズムの問題です。
 
事実を前にしたとき、私たちは必ずしもそれをありのままに見るわけではありません。自分に都合の悪い事実には目をふさぎ、自分に都合のよい“あやしい事実”に飛びついたりします。たとえばあまりにも欲の皮が突っ張った人間は「半年で元金が2倍になりますよ」という絶対にありえない話を信じて、詐欺に引っかかります。
慰安婦問題でも、どうしても謝罪したくない人は、不都合な事実にいろいろと難癖をつけ、好都合な事実にはいっさい検証なしに飛びついてしまい、その結果偏った“事実”が頭に入ってしまい、判断も間違ってしまうことになります。
 
たとえば、韓国では元慰安婦という人が多数名乗り出て証言しました。河野談話も元慰安婦16人からの聞き取りを踏まえています。
最初に実名で名乗り出たのが金学順という人です。この人の証言について、いろいろな間違いがあるという指摘があります。それによって金学順の証言は信用ならないとし、さらにはほかの人の証言にもおかしなところがあるとし、それで証言のすべてが信用ならないという論法で「強制連行はなかった」と主張する人たちがいます。
 
しかし、その人たちは一方で、たとえば済州島で女性を強制連行したという吉田清二の告白に対して、「済州島新聞」の許栄善記者が否定的な記事を書き、郷土史家の金奉玉が事実でないことを報告したということですが、そのことは検証なしに受け入れています。許栄善記者の記事や郷土史家の金奉玉の報告はそんなに信用できるものでしょうか。いや、そもそもこうしたことを日本に伝えたのは日本人ジャーナリストと思われますが、この日本人ジャーナリストは信用できるのでしょうか。右翼ジャーナリストが右翼メディアに発表したものでしょうから、むしろ限りなくあやしい話だと思われます(あと、秦郁彦氏も吉田証言を否定する文章を「正論」に発表していますが、秦郁彦氏は南京事件の死者数をきわめて少なく数える人です)
 
つまり、あっちの証言はいろいろ難癖をつけて信用しないが、こっちの証言は無条件で信用するということで、まったくのダブルスタンダードなのです。
 
ダブルスタンダードになる理由は単純です。日本人は当然ながら、日本人が悪いことをしたとは思いたくないのです。そのため「日本人が悪いことをした」という情報はいろいろ難癖をつけて否定し、「日本人が悪いことをしたというのは間違いだ」という情報には飛びついてしまうというわけです。
 
これはつまり、ごまかしてでも自分をよく見せたいという利己主義です。
普通はあまりこういうことをすると、周りから否定されてしまいます。しかし、慰安婦問題を日本人同士が論じると、これを否定する人がほとんどいないので、議論がどんどん利己的な方向に行ってしまいます。つまりデフレ・スパイラルならぬ利己主義スパイラルに陥ってしまうのです。
また、慰安婦問題を論じる人のほとんどは男性です。男性同士が論じると、ここでもやはり利己主義スパイラルに陥ってしまいます。
 
つまり日本人と男性という利己主義の二階建てで利己主義スパイラルに陥っているので、これを客観的に見ると、聞くに耐えない議論になってしまっています。
 
読売新聞の社説を読んでもわかるように、軍や官憲による強制連行を示す日本側の資料がないから、慰安婦に謝罪した河野談話を見直せという主張が現在(日本側で)行われているわけです。
これを国際社会から見ると、「加害者側の資料がないから被害者に謝罪しないと加害者側が言っている」ということになります。
つけ加えると、日本では軍や官憲と民間業者を区別する議論が行われていますが、これも国際社会から見たら、まったく意味のない議論です。慰安所を運営する業者は軍の指示を受け、かつ官憲の監視下で業務を行なっていたからです。
 
慰安婦問題は、右翼と左翼が対立している問題ではありません。
利己主義と非利己主義が対立している問題なのです。

石原慎太郎都知事がアメリカでの講演で、都は尖閣諸島を購入する交渉を進めていると述べたことが波紋を呼び、ネットの掲示板やブログなどでは賛同の声が相次いでいます。日本の右翼のレベルの低さには、つくづく情けなくなります。
 
都が購入してなにをするのかということがわかりませんが、それは措くとして、まず領土問題のプライオリティーが間違っています。プライオリティーなんて石原知事みたいにカタカナ語を使ってしまいましたが、要するに優先順位です。これは日本の右翼だけでなく世界各国どこの右翼も同じだと思いますが。
 
帝国主義の時代には領土の多寡は国力に直結していました。「満蒙は日本の生命線」なんていう言葉もありました。しかし、それははるか過去の話です。今、各国は金融、物流、通信の緊密なネットワークで結びついていて、シンガポールのような小国でも経済的、政治的に重きをなすことができます。日本にしても資源の少ない小国です。
尖閣だの竹島だの北方領土だのは棚上げにしておいて、たいした不都合はありません。
こういうことは一般の人々は直観的に理解しています。理解していないのは右翼だけです。
 
石原知事は、中国が尖閣の領有権を主張することを「半分宣戦布告みたいなものだ」と述べましたが、「宣戦布告」なんて今や死語です。右翼そのものが時代遅れになっています。
 
しかし、時代遅れになっても、右翼にはそれなりの勢いがあります。なぜ勢いがあるかというと、右翼思想というのは、なわばりを守ろうとする動物的本能に基づいているからです。
領土争いがなわばり本能と直結していることは明らかでしょう。人種差別、外国人差別、在日差別、移民排斥など右翼の主張はみな同じです。ですから、本能によるパワーがあるのです。
思想不在の時代に、動物的本能へ回帰する流れが右翼を勢いづけているともいえます。
 
しかし、やはりこうしたなわばり本能は、今のグローバル経済の時代に合いません。
動物的本能と経済合理性を天秤にかけ、理性によって正しく判断しなければいけません。
 
 
ところで、石原知事は16日に、報道陣に「面白い話だろ。これで政府にほえづらかかせてやろう。何もしなかったんだから、連中」と語ったということです。
 
これはアメリカでの発言です。わざわざアメリカまで行って、日本政府と東京都のみにくい対立を見せているわけです。こういうのは「国辱」といいます。
右翼というのは普通、こういう国辱には敏感なものですが、日本の右翼は違うようです。
 
それにしても、石原知事はなぜ訪米中に尖閣購入の発表を行ったのでしょうか。これは多くの人が疑問に思っているはずです。
 
そして、もうひとつの疑問は、なぜ今発表したのかということです。
というのは、地権者と購入金額で合意したわけではないのです。予想される土地の価格についてはいろいろな報道があります。金額が決まらないのでは、この話はどうなるかわかりません。また、国と地権者との賃借契約が来年3月末まであるので、実際の購入は来年4月以降のことになります。
つまり、どう考えてもこのタイミングで発表することではないはずなのです。
 
では、石原知事はなぜアメリカで、なぜこのタイミングで発表したのでしょうか。
私の考えでは、それは石原知事における対米コンプレックスに理由があります。
 
今回の石原知事の訪米はなにが目的だったのかはっきりわかりませんが、アメリカへ行った以上は、日本とアメリカに関わる問題について発言するのが当然です。
たとえば今の時期なら、北朝鮮がミサイルを発射したのはアメリカ外交の不手際ではないかとか、イランの核問題で原油価格が高騰しているのは日本にとって迷惑だとか、普天間基地問題とか、東京都の横田基地の軍民共用化とか、あるいはアメリカは中国より同盟国である日本をもっと重視するべきだとか、もちろん石原知事の考えは違うかもしれませんが、たとえばそういうことを発言するべきです。
なにか発言はしたのかもしれませんが、報道はありません。少なくとも報道に値する発言はなかったということでしょう。
 
石原知事はかつてソニーの盛田昭夫氏と共著で『「NO」と言える日本』という本を出版しましたが、これは反米的な内容だということで日米双方で大バッシングを受け、そのため石原知事は国政において力を失ってしまいました。それが石原知事のトラウマになり、以降、石原知事はアメリカにものが言えなくなってしまったのです。
 
今回の訪米でも、石原知事はアメリカにものが言えないという国士らしからぬ自分に直面することになりました。そして、それから逃れるために、中国にものを言う自分を打ち出したのです。
つまりこれは、心理学でいう防衛機制の「代償」に当たります。
 
こう考えれば、日中間の問題をアメリカで発表したこともわかりますし、まだ発表するタイミングでないのに発表してしまい、果たして購入が可能なのかもわからないし、金額はいくらなのかもわからないし、購入後になにをするのかもわからないという妙なことになってしまったのもわかります。
 
石原知事は福島の原発事故が起きたとき、自分は原発を推進してきた張本人なのですが、「津波は我欲の張った日本人への天罰」などと発言し、自分のことを日本人にすり替えてしまいました。これは心理学でいう「置換」です。石原知事はこうした心理学的操作が得意なようです。
 
アメリカにものが言えないので代わりに中国にものを言う“国士”と、それを持ち上げる日本の右翼。
日本のだめさを象徴する光景です。

北朝鮮のいわゆるミサイル発射騒動がいまだに尾を引いて、政府発表が遅れたのは政府の対応がまずかったからではないかといった議論が続いています。
私は北朝鮮のミサイル問題には最初からほとんど興味がなかったので、現在行われている議論にも興味が持てません。なぜ興味がないかというと、もちろんたいした問題ではないと思うからです。
 
国民が飢えているのにミサイルの開発をする北朝鮮はまったく愚かですが、日本にとってのとりあえずの問題は、ミサイルが弾道をそれて日本に落下して被害が生じるのではないかということでした。
もちろんこのいわゆるミサイルには、人工衛星が積まれているはずです。核弾頭や通常弾頭や生物化学兵器が搭載されているかもしれないと主張する人はいませんでした。
一応打ち上げは海上コースです。方向がそれる可能性はありますが、人がいるところに落ちる可能性は相当低いでしょう。2009年にやはりテポドン発射騒動というのがあり、日本は東京に迎撃ミサイルを配備したりしましたが、このときは日本上空を通るコースでしたから、事情が違います。
2011年にドイツの人工衛星が落下するというので少し騒ぎになったことがありましたが、それに近いでしょう(今回のミサイルのほうが大きいですし、燃料を積んでいるという違いはありますが)。つまり、沖縄の誰かの頭上に落ちてくる可能性はあっても、その確率は圧倒的に低いので、誰も対応なんかしていられないというのが実際でした。
 
ところが、日本政府は沖縄一帯と首都圏にPAC-3を配備し、イージス艦3隻を出動させました。万全を期すということでしょうが、弾道をそれたミサイルを撃ち落とせる可能性は低いですし、撃ち落としても破片が落ちてくると被害がかえって大きくなる可能性もあります。
日本の大騒ぎは韓国からも奇異の目で見られるほどでした。
 
マスコミは大げさな迎撃体制を批判しろと言いたいところですが、私がこうして書いているのも、なんの被害もないことがわかってからです。「こんな大げさな迎撃体制は税金のむだ使いだ。責任者出てこい」などと勢いよく批判して、万一、落下してきたミサイルで人が死んだりすると、逆にこちらが批判されることになるかもしれないと思って、今まで書かなかったわけです。ですから、マスコミが批判しにくい事情もわかります。
 
そこで、代わって右翼、保守派、タカ派を批判したいと思います。彼らの対応がこの大騒ぎを生みだしたからです。
 
戦争嫌いの人、軍事的知識のない人がミサイルが落ちてくるかもしれないと思って大騒ぎするのはある意味しかたがありません。しかし、日本では多少は軍事的知識のあるはずの右翼やタカ派が大騒ぎしているのです。むしろ一般国民のほうが冷静でした。
 
もちろんミサイルが落下して被害が生じる可能性はあります。しかし、そんなささいなことは気にするなと国民をなだめるのがタカ派の果たすべき役割です。
なぜなら、この程度のことで大騒ぎしていては、実際の戦争になって何百発のミサイルが日本の都市を狙っているということになれば、大パニックになって戦争などおぼつかないからです。
「皮を切らせて肉を切る。肉を切らせて骨を断つ」というのが戦いの要諦です。自分は無傷でいようとすると、戦いはできません。
 
もっとも、日本人は昔から同じ間違いを犯してきました。
真珠湾攻撃後、日本軍が優勢に展開しているさ中の1942418日、ドゥリットル中佐率いる爆撃隊が東京、名古屋、神戸など日本の主要都市を爆撃しました。その被害は大したものではありませんでしたが、日本人はパニックを起こし、2度と爆撃されないためにとミッドウェー作戦を行い、さらにソロモン諸島の戦いに航空兵力を注ぎ込み、敗勢に陥ってしまったのです。
 
日本は日清、日露から支那事変にいたるまで、本土を攻撃されたことがありません。そのこともあってパニックになってしまったのです。
いや、国民はそれほどのことはありませんでしたが、軍の上層部は2度と爆撃されることがあってはいけないと考えたのです。そのためにのちに絶対国防圏なるものも策定しています。
しかし、ほんとうに戦争に勝とうと思えば、むしろ敵を深く引き込んで、有利な態勢で戦わなければならないはずです。
当時、ソ連にしても中国にしても、国土の主要部分を占領されても戦い続け、結局勝利しています。
 
日本の右翼は、あの戦争を正当化することにやけに熱心で、そのためかほとんど戦争の反省をしてきませんでした。そのツケがこんなところに出てきています。
 
「日本を狙っているわけでもないミサイルなんかでガタガタ騒ぐな」という右翼を見てみたいものです。

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