村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

カテゴリ: 反日右翼と亡国左翼

最近の政治の動きを見ていると、結局のところ政治を動かしているのは官僚とマスコミだということがよくわかります。現在の政治の焦点は消費税増税ですが、財務省とマスコミが主導しているので、粛々と進んでいきます。世論調査では増税反対のほうが多いのですが、マスコミはほとんどそういう声を伝えません。
その中で小沢一郎氏のグループが抵抗しています。官僚とマスコミの連合体に正面から戦えるのは小沢氏ぐらいのものです。これが小沢氏が検察とマスコミからたたかれる理由でしょう。
 
増税しても、そのお金が正しく使われるなら、国民にとって損にはなりません。しかし、成立した今年度の予算案を見ても、高速道路や整備新幹線の建設など、従来型の公共工事が大幅に復活しているということです。公務員の給与は7.8%引き下げられますが、なぜか2年間の限定です。
ですから、増税よりもむだな支出を削るのが先決だという主張は誠にもっともなことです。しかし、小沢グループの民主党議員が言うのには首をかしげてしまいます。民主党はむだな支出を削ることができなかったからです。増税をやめたら、むだな支出はそのままで税収は増えないということになってしまいます。これではもちろん財政危機が拡大するだけです。
 
なぜむだな支出が削れないかというと、政権は代わっても官僚主導はそのままだからです。ですから、また自民党政権に戻っても、もちろん同じことです。ということで、今は「大阪維新の会」に期待するしかないという人が多くなっていますが、「大阪維新の会」が自民党や民主党よりもうまくやれるという保証はありません。
 
それにしても、「民主党に裏切られた」という声がけっこうあります。「裏切り」という道徳的評価を含む言葉を使うと、そこで思考停止になってしまいますから、政治はいつまでたってもよくなりません。
私は「家庭に道徳を持ち込むな」ということを主張していますが、実は政治の世界にも道徳を持ち込むのはよくありません。道徳は批判や破壊に役立ちますが、建設的なことには役立ちません。
 
たとえば今、多くの人が「なでしこジャパン」はロンドンオリンピックで金メダルを取ってくれるのではないかと期待しています。もし取れなかった場合、たぶんいないとは思いますが、「なでしこジャパンに裏切られた」と考える人が出てくるかもしれません。そういう人は、もっぱら裏切られた怒りや不満をぶちまけます。
本当ならそのとき、「なでしこジャパン」はなぜ負けたのか、なにが足りなかったのか、どうすればそれを克服して次に金メダルを取ることができるかということを考えなければならないのですが、「裏切られた」と考える人は、そういう思考ができません。
 
政治の世界で、「民主党に裏切られた」と考える人も同じです。民主党に対する怒りや不満をぶちまけるだけで、次にどうすればいいかということが出てきません。
 
考えてみれば、革新勢力は長年、「政府自民党はけしからん」といって非難してきましたが、怒りや不満をぶちまけるだけで、なぜ自民党政権は続いているのか、どうすれば政権交代ができるのかというふうに思考することができませんでした。
政権交代があった今もその惰性が続いているようです。政権を非難するだけで、どうすればいいかという思考ができません。
 
こういう状態に陥っているのは、マスコミに大いに責任があると思います。マスコミは官僚主導の実態を覆い隠しているからです。問題は官僚の側にあるのです。
 
ロデオ大会で、自民党の乗り手が何人も荒馬に振り落とされました。そして、次に民主党の乗り手が荒馬に乗りましたが、もうすでに2人振り落とされ、今は3人目になっています。観客は、乗り手がへたくそだと言って非難したり笑ったりしています。しかし、考えてみると、次の乗り手がいません。大阪に若い、勢いのあるやつがいるから、そいつを引っ張ってこようかという話になっていますが、なんの実績もないので、あやうい話です。
こうなると、乗り手をなんとかするのではなく、馬をなんとかすることを考えなければなりません。当たり前のことです。
どうしてこの馬はこんなになってしまったのか、どうすれば乗りこなせるのか、馬の弱点はどこかなどを研究しなければなりません。
もちろん観客の態度もたいせつです。今まで馬が荒い動きをしたとき、観客は翻弄される乗り手を笑ったり批判したりしてきましたが、これからは馬にブーイングを浴びせなければなりません。
 
国民が問題は乗り手ではなく馬にあるのだと気づかないと、これからも外国から「回転ドア」と嘲笑されるような首相の交代劇が続いていくことになります。

当時30歳すぎの人気男性ミュージシャンの悩みを聞いて、世の中にはそういう悩みもあるのかと感心した覚えがあります。そのミュージシャンは、政治に関心がなくて困っているというのです。これではいけないと新聞などを読むのですが、政治のことというのは過去の積み重ねで成り立っているので、今のニュースを読んでもわからないそうです。確かに普天間基地問題などは、長い歴史がありますから、それを知らないとわけがわからないでしょう。
そのミュージシャンは作詞作曲もする人ですから、政治についても理解しないといけないと思ったのでしょう。一般の人とは事情が違います。
一般の人で政治に関心がないという人は、悩むこともなく生きています。むしろ政治に関心のある人よりも幸せに生きていると思います。
 
私は中学生のころから新聞を隅々まで読むようになり、政治にも関心がありました。しかし、政治に関心があってよかったかというと、あまりそんな気もしません。政治に関心がないと人にバカにされる恐れがありますから、そういう事態を回避できたことくらいでしょうか。
ちなみに長年新聞を読んでよかったと思うのは、科学欄と家庭欄です。ここで得た知識は蓄積されていきます。政治面と社会面とスポーツ面は、いくら読んでも同じようなことが繰り返されているだけで、果たして時間をかけて読んできた意味があるのか疑問です。
 
そういうことを考えるようになってきて、今では政治に冷静に対することができるようになりました。
昔は左翼でしたから、当然右翼的なものには反対です。反対というのはネガティブな感情ですから、そういう感情を持つだけで不幸です。ずっと自民党政権下で生きてきましたから、ずっと不幸でした。
これは右翼の人も同じでしょう。左翼や中国や韓国に対してネガティブな感情を抱き、その感情に振り回されているわけです。
早くそういう状態から脱出してほしいものです。
 
今、私は自分の政治的立場を、
右でも左でも中道でもない「上」
と称しています。
 
「上」という立場になれば、右翼だ左翼だ、ウヨだサヨだとやり合っている人々を冷静に見ることができますし、なにか政治的な主張をするときも冷静に、論理的にできますから、論争に巻き込まれることもありません。
 
では、どうすれば右や左を脱して「上」という立場に立てるのでしょうか。
それは、自分の親子関係を分析することです。親子関係というのは権力的な関係ですから、親に対するネガティブな感情があり、かつそれを自覚できないでいると、そのネガティブな感情が政治の世界に出てくるわけです。
 
このブログでは政治のこともよく書きますが、親子関係のこともそれと同じくらい書いていると思います。私の中ではこのふたつは同じようなものなのです。
 
もし世界中の人々が自分自身の親子関係の問題を自覚することができれば、世界中の政治的な対立はなくなり、世界は平和になるはずです。
 

なんとなく今年一年を振り返りながら書いているのですが、政治の状況はまったく変わり映えしません。野田内閣の支持率はどんどん下がっています。このままではまた首相を替えなければなりません。
自民党に期待して野田内閣不支持を言っているのならいいのですが、自民党に期待する人はあまりいないでしょう。ただ目の前の内閣が気に入らないから替わってほしいというのでは、また回転ドアと外国から揶揄されることになってしまいます。
 
菅内閣の末期にも同じようなことをこのブログに書いていました。日本の政治状況はまったく進歩がありません。
 
確かに野田内閣は問題です。マニフェストはほとんど守れず、予算案はバラマキ型になって、しかも増税をいうのですから、わけがわかりません。
問題は、ここからです。
なぜこんなことになるのかという原因を解明し、対策を立てなければなりませ。それがいちばんだいじなところです。
ところが、マスコミはそうしたことはいっさいしません。ただ、民主党政権や野田内閣を批判するだけです。
あまりにも低レベルです。
 
なぜマスコミは政権を批判するだけで終始しているのでしょうか。それはマスコミが官僚と一体化しているからです。
ジャーナリストの上杉隆さんもこう指摘しています。
 
 
相場:日本のマスコミは、ものすごく官僚的ですね。
上杉:そうですね。マスコミと思うからダメで、むしろ彼らのことを「官僚」だと思えばいい。
 相場:なるほど。分かりやすいですね。
 窪田:日本のメディアはジャーナリストではなく、「役人」であれば腹が立たない……ということですね。
 
 
マスコミは官僚と一体化しているので、当然官僚批判は行いません。そのためマスコミだけ見ていると、日本の政治はわけがわからないことになるのです。
 
たとえば、八ツ場ダムの建設が再開されることになりましたが、なぜそうなったかがわかりません。ただ、建設再開がマニフェスト違反であることや、財政赤字をさらに悪化させることが批判されているだけです。
民主党や野田内閣も、建設再開がマニフェスト違反であることや、財政赤字をさらに悪化させることは百も承知です。それでも建設再開を「苦渋の決断」(野田首相)で決めたわけです。なぜ決めたかをマスコミは書くべきですが、書かないのです。
 
政治とは権力を巡る争いであって、その争いもまた力関係によって決まってきます。
八ツ場ダム建設賛成派は、国交省であり、周辺自治体であり、建設会社などです。それらの力が民主党内の建設反対派の力を上回ったために、建設再開が決定されたわけです。そのふたつの力のぶつかり合いをマスコミが実況中継してくれれば、たいへんよくわかるわけです。
しかし、マスコミは官僚の動きというのをいっさい報道しませんから、民主党は1人相撲を取って、1人で転んだように見えるわけです。
となると、国民も民主党はなんてバカなんだと思って、内閣支持率も政党支持率も下がり続けることになります。
 
もちろん、力負けする民主党に問題はあるわけですが、今のマスコミだけ見ていると、そういう問題があることすらわかりません。
このままでは自民党に政権が移っても同じことが繰り返されるだけです。
 
橋下徹大阪市長の「大阪維新の会」に期待する人もいるでしょうが、もうすでにマスコミは反橋下の立場をはっきりさせています。本格的に国政進出となると、官僚とマスコミが一体となった橋下バッシングが行われるでしょう。
 
日本の政治をよくするには、マスコミの問題点を正しく把握することから始めなければなりません。

野田首相と李大統領の日韓首脳会談で従軍慰安婦問題に多くの時間が割かれたということで、従軍慰安婦問題についての議論がまた起こっています。
私はこの問題にはあんまり詳しくないのですが、当時首相だった安倍晋三氏が「狭義の強制性を裏付ける証拠はなかった」と述べたのにはあきれました。強制性を狭義と広義に分類するというのは詭弁そのものです。こんなことをいっていたのでは国際社会では理解されません。
 
これぐらいのことは語れますが、この程度のことを語ってもたいした意味はありません。
では、ちゃんと勉強して語ればいいではないかということになりますが、日本にいてはちゃんとした勉強ができるかどうか疑問です。日本においては、日本に都合のよい情報ばかりが流通し、日本に都合の悪い情報はカットされてしまっている可能性があるからです。
 
尖閣諸島、竹島、北方領土の帰属問題も同じです。日本では「日本固有の領土だ」ということになっていますが、中国、韓国、ロシアではまったく違う論議がされているに違いありません。正確なことを知るには、日本の主張と相手国の主張と両方を知る必要がありますが、日本にいては相手国の主張を知ることは困難です。
 
夫婦喧嘩の仲裁をするときは、両方の言い分を聞くのが常識です。片方の言い分だけ聞いて裁定するのは愚かなことです。ところが、日本と他国との紛争に関しては、両方の言い分を平等に聞くのはほとんど不可能です。
ですから、日本にいてはまともな勉強ができないに違いないと思って、今のところやっていないのです。
 
両方の言い分を聞いて判断するというのは、あらゆることにおいて原則としなければいけません。
私は一応、なにかについて発言するときは、あくまで両方の言い分を聞くか、少なくとも両方の言い分がわかったと思ったときだけ発言するように心がけています。
たとえば、暴力団対策については、暴力団にはこのような言い分があるだろうと理解してから発言しますし、凶悪犯罪については、凶悪犯にはこのような事情があっただろうと理解してから発言します。
 
しかし、たとえば警察は暴力団のことをまったく理解せずに暴力団対策を行っているようですし、マスコミも暴力団のことを理解せずに警察に同調しているようです。また、なにか凶悪犯罪が起こると、識者は凶悪犯の心理は“心の闇”といって理解していないのに、厳罰を下すべきだと主張します。
 
日本と他国の紛争を日本の言い分しか知らずに判断するのはまったく愚かなことですが、日本ではほとんどの人が愚かなことをしているので、誰もそれをとがめる人がいません(日本だけのことではありませんが)
世の中では、相手の言い分を聞かずに自分の主張ばっかりを言う人は、周りから自分勝手だといって批判されます。しかし、これが国家レベルのことになると、国内では誰からも自分勝手だと批判されることがありません。
たとえば、最初に挙げた、安倍当時首相の「狭義の強制性を裏付ける証拠はなかった」という発言ですが、これはたとえば暴力男が「狭義の暴力性はなかった」とか、犯罪者が「狭義の犯罪性はなかった」とかいって自己正当化をはかろうとしているのと同じことです。しかし、しかし、安倍発言は日本国内ではそれほど批判されませんでした。
 
私たちはみな利己的です。しかし、個人の利己的な言動は周りから批判されますから、自然と抑制されます。
しかし、国家についての利己的な言動は、国内ではほとんど批判されないばかりか、互いに称賛し合ってどんどん増幅されていく傾向があります。
従軍慰安婦問題や領土問題を論議するときは、そうしたことを念頭においてしなければなりません。

私が日本の政治を見るときのキーワードは「官僚独裁」です。この言葉に出会ってから、政治の見方ががらりと変わりました。
「官僚独裁」という言葉は、俳優で元参議院議員の中村敦夫さんの「この国の八百長を見つけたり」(光文社)という本にありました。この本は1999年の出版ですが、私はその当時に読んだので、それからの政治の世界の変化がよくわかりました。
「官僚独裁」という言葉が出てくるところを引用してみます。
 
 
  日本では、はっきり言って首相は誰でもいいのです。ここだけを見ても、政治家が権力を持っていないことが簡単にわかる。誰が首相になろうと、何党が政権与党になろうと、日本の政治は粛々とあすもあさっても変わりなく執り行なわれます。
  では、いったい誰がこの国の本当の権力者であるのか。言わずと知れたことですが、官僚たちがこの国を動かしているのです。つまり主権在民ではなくて、「主権在官」で、この国は運営されているのです。官僚たちの天国であるということは、それは社会主義体制の国家システムとほとんどおなじであるということになります。
  私たちの国がそういうシステム、民主主義とは別のシステム、主権在民ではなくて主権在官のシステムで動いているという自覚がないと、すべての問題の糸口が見つからないということになります。
  それを多くの国民が自覚すれば、日本が病理的に抱える問題や課題の本質が理解でき、解決に向かう道筋が見えるわけです。
  この国の病根は官僚独裁システムであるということが明確になるからです。国会議員となった私は、そういうシステムに寄りかかり、あたかも自分が権力者であるかのように振る舞っている政治家を相手に、奮闘しているということになります。まずは、彼らの分厚い面の皮を容赦なく剥いで、国民の前に見えるようにしていきたい。そうすることで、その裏にある官僚との腐れ縁もくっきりと見えてくると思います。
 
 
無所属で参院選に当選した中村さんは法務委員会に所属します。
この本によると、日本は裁判官の数が足りなくて、1人年間約150件もかかえているので、過労や手抜きが起こっているというのですが、にもかかわらず、厚生省や運輸省などの他省庁に出向している裁判官も多数いるそうです。出向先でなにをしているかというと、専門知識を生かして訴訟対策をやっているのです。各省庁に対する行政訴訟が急増しているのに、その省庁で裁判官が訴訟対策をやっていたのでは、裁判の中立・公正が保てるわけがありません。
中村さんは法務委員会で、これは三権分立に反するから憲法違反だと追及すると、委員会の空気は氷のように固まり、みんなショックを受けていたそうです。つまりこれは長い間タブーだったことなのです。
裁判官が行政側に入り込んでいるのですから、住民が官庁や自治体を訴えてもほとんど負けてしまいます。下級審ではけっこう住民側が勝訴することもあるのですが、上に行くほどくつがえり、最高裁での住民側の勝訴率はわずか1%だそうです。
 
この本にはこうしたことがいろいろ書いてあります。そして、政治家はこうした官僚組織に乗っかっているだけで、官僚たちは大臣を「鏡餅のお飾りミカン」といってバカにしているそうです。
 
ここ数年の政治の世界の大きなテーマは「政治主導」でした。これは「官僚独裁」の実態を知っていれば、自然と理解できることです。とくに小沢一郎さんは事務次官会議廃止、内閣法制局長官の国会答弁禁止など「政治主導」を強力に主張してきました(だから検察に攻撃されるわけです)
民主党は政権を取った最初は「政治主導」を実現しようとしましたが、今はほとんどその看板をおろしてしまいました。「官僚独裁」の壁を崩すことはできなかったのです。
 
 
ここで問題になるのはマスコミの役割です。
中村さんは議員時代、「公共事業チェック議員の会」の会長となり、ダム工事視察などをして、公共事業のむだを追及する活動もしていました。普通、マスコミはこうしたことにすぐ食いつくものです。「紋次郎、公共事業のムダを斬る」などといった見出しがすぐに思い浮かびます。
しかし、マスコミは中村議員の活動をほとんど報道しませんでした。そのこともあって、中村さんは次の選挙で落選してしまいました。
 
このとき私は、マスコミは官僚の側にいるのだなと思いました。
マスコミは官僚からの情報に依存して仕事をしていますし、学歴エリートとしての仲間意識もあります。
ですから、「官僚独裁」というより「官僚とマスコミの独裁」といったほうがいいかもしれません。
「政治主導」に関しても、マスコミは「政治家は官僚を使いこなせ」と書きますが、「官僚は政治家に従え」とは決して書きません。
マスコミにおいては、政治家と官僚の関係がうまくいかなかったから、それはすべて官僚を使いこなせない政治家のせいなのです。
 
マスコミは「官僚独裁」の実態を書かないのはもちろん、官僚の動きすら書きません。事務次官会議が復活し、毎週金曜日に開かれているそうですが、そのことも、そこでなにが議論されたのかも報道されません。官僚が国を動かしているのに、官僚の姿が見えないのです。
そのため国民はもっぱら政治家を批判し、そのため次々に首相の首がすげ替えられていきます。
 
私はつねに「『官僚独裁』とそれを補佐するマスコミ」ということを念頭に置いて、政治を見ることにしています。

昔、「噂の真相」という雑誌を愛読していました。「噂の真相」のなにがよかったかというと、たとえば検察の内情も書いていたからです。今も昔も、大手メディアは検察内部のことをいっさい書きません。フロッピーディスク改ざん事件は報じられましたが、そのあとは誰に報告したとか、認識があったとか、そんな細かいことばかりで、検察がどういう組織なのかさっぱりわかりません。
 
「噂の真相」がなくなってからは、「選択」を購読しています。これは検察を含む官僚組織についても報道する珍しい雑誌です。
大手メディアだけ見ていると、官僚組織の動きがブラックボックスになっていて、全体のつながりがわかりません。
たとえば最近、警察はピストバイクを取り締まったり、自転車の歩道走行を車道走行に変えさせようとしたりしています。しかし、道路事情は千差万別なのですから、車道か歩道かは個々に判断するしかなく、現在のやり方が適正なものになっているはずです。むりに変えようとするのはへんです。これはたぶん、警察庁の偉い人が「これからは自転車を取り締まれ」と号令をかけたからに違いありません。そのへんを報道してくれるとこちらも事情がわかってすっきりするのですが。
また、皇室では雅子さまがほとんど公務に出られない状態が続いています。これは皇室内の人間関係や学校のことだけでなく、宮内庁にも問題があるに違いないのですが、それについてはいっさい報道がないので、結局なにもわからないことになってしまっています。
 
 
「選択」には「罪深きはこの官僚」という連載があり、12月号には「TPP論議混乱の火付け役」として宗像直子通産省通商機構部長のことが取り上げられています。
TPP交渉参加表明において、野田首相の言ったこととアメリカ側の発表が異なっているとしてちょっとしたトラブルがありましたが、それは宗像部長に原因があるのだと書かれています。その部分を抜粋します。
 
 しかも宗像は、首相会見を受けた政府方針の修正を反映させた改訂版を作成するという当たり前の作業さえ怠った。間の悪いことに、その結果、枝野経産大臣のファイルに収められた方針変更前の文書(発言要旨)が、現地で密着取材をしていたテレビの報道カメラにたまたま映り込んでしまった。当然、“宗像文書”が枝野大臣を介して米国に伝わり、日本の見解として米側のHPにも公表されたと誰の目にも見える。自民党議員から国会でこの不手際に対する追及を受けるなど、TPP慎重派に恰好の追及材料を与えることになった。
 
 さらに十一月十七、十八日の両日、慎重派国会議員による勉強会では複数の文書を作成した」と弁解した宗像だが、他の文書を提出できず、一種類の文書しか用意していなかったことが判明するという「おまけ」までついた。
 
こう書かれると、あの日米間のトラブルのことがよくわかります。大手メディアは官僚のことを書かないので、それだけ見ているとなにがなんだかわかりません。
この問題についての詳しいサイトはこちら。
 
 
「選択」12月号には、一川保夫防衛相がブータン国王夫妻を歓迎する宮中晩餐会を欠席して別のパーティに出ていた問題についても、おもしろいことが書かれています。
 
実は政府・民主党はしっかりと自民党の麻生政権時代の宮中行事への閣僚の出席率を調べていたのだ。それによると、閣僚の半分程度しか出席していなかったことが判明。(中略)下手に追及の手を強めれば、「返り血」を浴びることになりかねなかったのだ。
 
そのため自民党はこの問題について矛を収めたのだということです。
考えてみれば、晩餐会というのは形式的な行事で、末席の人間がいなかったからといって、たいしたことではありません。このことで大騒ぎしていた人たちのセンスに問題がありそうです(一川防衛相がほかのパーティに出ている映像があったので追及しやすかったわけですが)
そもそもブータン国王夫妻の歓迎晩餐会を、政敵を攻撃する材料に使ったこと自体が非礼なことです。

民主党政権は最初、官僚主導から政治主導への転換を目指していましたが、今はもう政治主導は諦めてしまったようです。しかし、今政治の世界で起こっているさまざまな問題は、結局官僚主導からきているものが多いと思われます。
たとえば、再生エネ法に基づく委員会人事に問題があるとの声が上がっています。
 
 
再生エネ法:委員会人事に議員ら異議 消極的な人が過半数
 再生可能エネルギー固定価格買い取り法(再生エネ法)に基づき、電力の買い取り価格を検討する「調達価格等算定委員会」の政府人事案について、与野党の国会議員らでつくるエネルギーシフト勉強会は30日、「再生エネ法に消極的な人が過半数を占め、問題だ」との異議を提起した。
  価格の設定は、再生可能エネルギーの普及を左右する。勉強会は、算定委員の候補者5人のうち進藤孝生・新日鉄副社長ら3人が再生エネ法に反対したり、消極的な主張をしてきた経緯を問題視。「適切な制度運用ができるとは思えない人選だ」と見直しを求めた。
  委員の任命は国会同意が必要で、枝野幸男経済産業相が11月17日に人事案を国会へ提案し、今国会での同意を目指している。【永山悦子】毎日新聞 20111130日 2009
 
 
経産省はもともと原発推進の立場ですから、そういう意向で人事を決めたのでしょう。枝野大臣はどちらかというと反原発の立場ではないかと思われますが、細かいところまで気が回らなかったか、あるいは「この人物はだめだ」と言っても、官僚は今度はもっとひどい人物を推してくるかもしれず、代わりに枝野大臣が人選をするというようなことになると、ほかの仕事をしていられません。
今の官僚は、大臣の意向を汲んで動くということをせず、もっぱら自分たちの都合で動いているのです。
 
また、朝霞の公務員宿舎建設の問題も、官僚主導のひどさがもろに出た例です。
朝霞宿舎は2009年の事業仕分けで建設は「凍結」とされたのですが、野田首相が財務相だった昨年末に着工を指示し、9月1日から工事が始まりました。しかし、建設反対の声が高くなったことから首相が「凍結」を指示、最終的には「中止」となりました。
 
「野田首相が財務相だった昨年末に着工を指示し」というのはある新聞社のニュースサイトからそのまま書き写したものですが、野田首相が自ら積極的に指示したわけはなく、官僚がお膳立てして持ってきたので、許可を出したということでしょう。
いったん着工したものを中止したことで違約金が発生することになり、これは民主党が払えという声も上がりました。確かに民主党あるいは野田首相の姿勢がブレたのは事実です。しかし、官僚の意向を無視して「凍結」を貫くと、官僚はどんないやがらせをしてくるかわかりません。野田首相としては公務員宿舎というあめ玉をしゃぶらせるぐらいはしかたがないと判断したのでしょう。
 
そもそも震災のあとに自分たちの宿舎を建設しようという財務官僚の発想が恐るべきものです。国のためや国民のためよりも自分たちのためを優先させているのです。
 
しかし、マスコミはこうした官僚の動きをまったく報道しません。ですから、政治家を動かしている官僚が黒子になってしまって、国民にはなにが起こっているのかよくわからないのです。
 
もっとも、沖縄防衛局の田中聡前局長が「これから犯す前に犯すと言いますか」と言ったと報じられたことで、珍しく黒子の官僚にスポットライトが当たりました(きっかけをつくったのは本土のマスコミではなく「琉球新報」でしたが)。これで官僚のみにくい姿があらわになりました。
これによって新しい流れが生じるかと思ったら、そんなことはありませんでした。田中聡前局長は更迭されたあと、どうしているのかいっさい報道がありません。沖縄県民の心を傷つけたことに対してなにもしなくていいのでしょうか(更迭されたといっても、またすぐしかるべきポストにつくはずです)
また、後任の局長に関する報道はありませんし、検索してもなにも出てこないので、まだ空きポストになっているか、誰かが臨時代理をやっているということでしょうが、後任の局長が決まったら、その人間は沖縄に対してどのような考えを持っているか、ぜひとも報道してほしいものです。
 
結局、田中聡前局長が更迭されたあとは、また官僚は黒子に戻ってしまいました。
そして、一川防衛相が辞めるか辞めないかが焦点になっていますが、辞めてしまえば官僚組織はそのままです。
 
民主党政権には橋下徹大阪市長のような突破力がないので、官僚主導を崩すことができません(橋下氏も国政で同じことができるとは限りません)。自民党なども同じです。となれば、マスコミが官僚主導の実態を正しく報道することがたいせつになってきます。
しかし、今のマスコミはむしろ官僚の味方です。これでは官僚主導が永遠に続いてしまいます。

昨日のエントリーに関連して2ちゃんねるを見ていると、相変わらず体罰を肯定する人が多いですね。体罰を肯定する人というのはトラウマをかかえている人ですから、トラウマが解消されないと、なかなか考え方も変わりません。
体罰を肯定する人というのは、当然自分が子どもに対した場合、体罰を行うことになります。度がすぎると幼児虐待ということで事件になります。幼児虐待で逮捕された親が決まって言うのが「しつけのためにやった」です。「食べ物をこぼしたから」「言いつけを守らなかったから」などと言って、自分の行為を正当化します。逮捕されてもなお考えを変えることができないのです。おそらく裁判で有罪判決を受けてもまだ反省できないでしょう。
 
「体罰」という言葉を使うのも問題です。親の体罰は「ドメスティック・バイオレンス」、教師の体罰は「教師暴力」というべきです。
 
ただ、ここでは習慣に従って「体罰」という言葉を使いますが、体罰肯定派と体罰否定派が議論しても、お互いに考えを変えるということがありません。さっきもいったようにトラウマの問題があるからです。
しかし、肯定派と否定派が議論してもお互いに考えを変えることがないという問題は、政治的な問題を含めて世の中に山ほどあります。ということは、これらの問題にもトラウマがかかわっているのではないでしょうか。
たとえば、石原慎太郎都知事は右翼でタカ派の政治家ですが、かつてスパルタ教育論の本を書き、戸塚ヨットスクールの支援者でもありました。つまり、彼の中で体罰肯定論とタカ派的政治思想は明らかにつながっていると想像されます。
 
現在、政治の世界で右翼と左翼という対立軸は、明らかに時代遅れになっています。かといって、それに代わる対立軸はなかなか提示されません。
しかし、体罰肯定派対体罰否定派を中心にして考えていくと、ひとつの明快な対立軸が見えてきます。
 
 
体罰肯定  体罰否定
管理教育主義  自由放任主義
厳罰主義  寛容主義
死刑賛成  死刑反対
軍拡賛成  軍縮賛成
      国家主義賛成  国家主義反対
高福祉反対  高福祉賛成
格差容認  格差反対
性悪説  性善説
 
 
体罰肯定派はだいたい左側の項目に共感するはずで、体罰否定派はだいたい右側の項目に共感するはずです。
もちろん、体罰肯定だが死刑には反対だとか、体罰否定だが高福祉には反対だとか、人によって細かな違いはあるでしょう。
あるいは、体罰は否定だが、そのあとの項目は全部左側だという人もいるかもしれませんが、そういう人は体罰についての考えだけがちょっと変わっているわけです。
 
この対立軸は結局、人間は信じるに足るものであるか否かということが軸になっています。
人間は信じるに足るものであると考える人は、親から愛され、体罰もほとんど受けずに育ってきた人です。
人間は信じるに足りないと考える人は、親からあまり愛されず、代わりに力で支配され、当然体罰も受けてきた人です。
しかし、人間は親からあまり愛されなかったという事実はなかなか受け入れられないので、「愛するから殴るのだ」とか、いろいろとややこしい理屈を考え出します。また、国際政治は力の論理が支配するところですから、国際政治のあり方に共感します。
 
ということは、この対立軸を解消するには、体罰肯定派がみんな自分のトラウマを解決するか、すべての家庭が体罰のない、愛情のある家庭にならなければならないということです。気の長い話のようですが、そこに向かって進んでいくと着実に世の中がよくなっていきます。
 

野田総理は103日、「ぶら下がり取材」を受けない意向を明らかにしました。これに対してマスコミは前から、「自分の都合のいいときだけ発信するのか」と批判しています。果たしてこの批判は正当でしょうか。
 
都合の悪いときに発信したくないのは誰でも同じですし、発信してもろくなことにはなりません。ですから、普通は批判されるようなことではありません。しかし、「都合の悪いときに発信しないのはずるい」と言える場合がふたつあります。
ひとつは、自分が都合の悪いときにも発信している人の場合です。「自分がやっているのにお前がやらないのはずるい」というのは正当な主張です。
しかし、野田総理とマスコミは立場が違い、マスコミはそもそも自分のことは発信しないものなので、この場合には当たりません。
もうひとつは、「ほかのみんながやっているのにお前だけやらないのはずるい」と言える場合です。つまり、歴代総理がやっているのに野田総理だけやらなかったら、批判されてもしかたがないということになります。
 
しかし、歴代首相がみんなぶら下がり取材を受けていたわけではありません。これを始めたのは小泉総理だからです。
小泉、安倍、福田、麻生、鳩山とやってきて、菅さんは後半はやりませんでした。5人半がやっただけですから、「歴代総理がみんなやってきた」というのは言いすぎです。
しかも、小泉さんはうまくやりましたが、それ以降の人はかえってぶら下がり取材での発言で支持率を下げたのは明らかです。ですから、野田総理が「小泉さんの真似はしません。どじょうだもの」と言っても、文句はないはずです。
 
私は外国のことはあまり知りませんが、少なくともアメリカ大統領はぶら下がり取材など受けていませんし、会見も一方的な発表が多く、記者と質疑応答をすることはごく少ないと思います。
 
そもそも小泉総理がぶら下がり取材を始めたのは、党内基盤が弱く、どうしても世論を味方につける必要があったからです。小泉総理はメルマガも総理として最初に始めました。
つまり、小泉総理がぶら下がり取材での発信を始めたのは、国民のためとかマスコミのためとかではなく、自分の都合からなのです。
 
そして、マスコミが野田総理にぶら下がり取材を要求するのは、やはり自分の都合からです。ぶら下がり取材で問題発言を引き出せば、読者、視聴者を引きつけられます。今、国内政治で問題になっているのは、増税が何兆とか、圧縮できるのが何兆とか、そんな話ばかりです。やはりマスコミは「死の町」とか「放射能つけちゃうぞ」といった言葉をめぐる報道がしたいのです。
 
もちろん野田総理がぶら下がり取材を拒否するのも自分の都合からです。
つまりマスコミも利己的で、野田総理も利己的で、そのためぶつかり合っているというわけです。
 
ただ、ここで問題なのは、マスコミは「ずるい」という言葉こそ使いませんが、野田総理がぶら下がり取材を受けないのは自己保身のために国民を無視しているのだというように道徳的な批判をすることです。
これを真に受けると問題が見えなくなって混乱します。
道徳的な批判の裏には利己的な主張があるということを知っていれば、問題が正しく見えてきます。

読売新聞が憲法改正についての世論調査(3~4日実施、面接方式)を行い、それによると、憲法を「改正する方がよい」と答えた人は43%で、「改正しない方がよい」39%をやや上回った、ということです。
 
といって、ここで改憲について論じるわけではありません。言葉づかいについてちょっと意見を言ってみます。
 
この手の世論調査でいつも思うのですが、「改正」という言葉を使って世論調査するのは問題があります。
昔、社会党、共産党、総評などは憲法九条に関して、「憲法改正反対」と主張していました。しかし、「改正」というのは正しく改めることですから、それに反対するのはへんだということで、「憲法改悪反対」と言うようになりました。確かに反対派からすれば「憲法改悪」というのが正しい言葉づかいでしょう(もしかして「改悪」という言葉はこのとき造語されたものかもしれません)
もちろん賛成派は「憲法改正」という言葉を使い続けています。
 
問題は中立であるべきマスコミです。マスコミが「憲法改悪」という言葉を使うのは明らかにへんでしょう。それは反対派の言葉づかいです。
ということで、マスコミは「憲法改正」という言葉を使い続けています。もともとそう言っていたわけですし、私たちの日常生活でも「改正」という言葉はよく使いますが、「改悪」なんていう言葉は使いません。
とくに読売新聞は憲法九条に限らず憲法改正に熱心ですから、「憲法改正」というのは当然でしょう。
ただ、世論調査で「憲法改正」という言葉を使うと、明らかに答えを誘導してしまうことになります。別の言葉にするべきです。
「改憲」という言葉を使えばいいという意見もあるでしょう。これなら「改正」「改悪」の中間のようです。
しかし、「改める」という言葉にも、よいほうに変えるという意味があります。「改憲」も完全に中立な言葉ではありません。
 
では、どうすればいいのでしょうか。
私にはいい答えがあります。なぜマスコミがこの言葉を使わないのか不思議でなりません。
それは、
「憲法変更」
という言葉です。
「変更」という言葉は、「予定変更」や「進路変更」のように、いい意味も悪い意味もない、中立の言葉です。
「あなたは憲法九条を変更することに賛成ですか・反対ですか」というアンケートなら完璧でしょう。
 
マスコミは憲法九条のように賛否が分かれる問題については、「憲法変更」という言葉を使うべきです。

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