教育の世界では、子どもの主体性が無視されています。
たとえば、子どもが強制されていやいや勉強しているのと、自分から積極的に勉強しているのとではまったく違いますが、それが区別されていません。
親や教師はつねに子どもに勉強を強制しているので、子どもが勉強しているか否かという表面しか見ていないからです。
「子どもにがまんさせることがたいせつ」ということもよく言われます。
しかし、がまんばかりさせられていると、元気も意欲もない子どもになってしまいます。
人生でがまんすることはたいせつですが、それはみずからするがまんです。人にさせられるがまんではありません。
ここでも子どもが「する」と「されられる」の区別がありません。
では、人はどんな場合にがまんするかというと、大きな欲望がある場合に小さな欲望を抑えるというときです。
たとえば若い女性がやせて男にもてたいという欲望を達成するために、ケーキを食べたいという欲望をがまんするというとき、それから、子どもがいい学校に入りたいためにゲームをしたいという欲望をがまんして勉強するというときなどです。
欲望のない人間はいませんから、人は欲望を達成するために自然とがまんすることを覚えます(もっとも、目先の欲望に負けて後悔するということを繰り返しながらですが)。
「子どもにがまんさせることがたいせつ」と言う人は、子どもに目的のないがまんをさせるのでしょう。
子どもの「する」と「させられる」の区別がないのは、「青少年健全育成」を名目にして、性的表現や暴力的表現の図書や映像を子どもに見せるのはよくないという議論のときも同じです。
この場合、「子どもに見せる」という表現ばかりです。
「子どもが見る」という表現を見たことがありません。
もちろんこの両者はまったく違います。
たとえば残酷シーンのあるホラー映画を、親が子どもに「さあ、見なさい」と言って見せるのはよくありません。子どもがその残酷シーンにショックを受けた場合、親が「見なさい」と言っているのですから、すぐ見るのをやめるわけにいかないでしょう。子どもはそのシーンにショックを受け、親からそれを見させられたということにも傷つきます。
子どもがいくつもある映画の中から自分でそのホラー映画を選んで見た場合はどうでしょうか。残酷シーンにショックを受けてもすぐに見るのをやめるので、たいして傷つきません。映画の選択を間違ったなと思うだけです。
もし残酷シーンがあっても最後まで見続けたとしたらどうでしょうか。この場合、本人の意志でそうしているのですから、傷つくことはないでしょう。もしどんどんホラー映画にはまっていったとしたら、それがその子どもの個性なのです。将来はホラー作家になるかもしれません。
残酷シーンにせよ暴力シーンにせよ、「子どもに見せる」という表現をすると、むりやり見せているイメージになるので、害があるかもしれないと思えます。
しかし、「子どもが見る」という表現にすれば、「本人が好きで見ているならいいじゃないか」ということになるでしょう。
今の不健全図書などの規制の議論は、すべて「子どもに見せる・見せない」という表現で行われています。
これを「子どもが見る・見ない」という表現にすれば、つまり子どもの主体性を認めれば、議論のあり方も変わってくるはずです。
なお、性的表現については問題が別です。
子どもが正常な性的発達を遂げると、12,3歳で身体的に性交可能となり、15,6歳でカップルとなり、子どもをつくる可能性が高くなります。子どもをつくったカップルは学校に行くのが困難となり、そういうカップルが増えると教育水準が下がってしまいます。それに、親はできるだけ長く子どもに親もとにいてほしいと思うものです。
そのため文明社会は子どもの性的発達を遅らせようとしてきました。性的表現を子どもに見せず、性欲はスポーツや芸術で“昇華”させることが奨励され、簡単に性交をする人間は見下されました。
今は性的表現を子どもに見せると有害だとされていますが、有害であるという根拠はまったくありません。
あくまで子どもの性的発達を遅らせるためにやっていることです。
子どもの性的発達を遅らせるというのは、文明社会では広く行われていることなので、不自然ではありますが、必然性があるのでしょう。
なお、性的表現の規制は「子どもの性的発達を遅らせる」ということが目的なのですから、その表現が健全が不健全かということは関係ありません。
「する」と「されられる」の区別がつかないというのは、子どもの主体性や意志というものを無視しているということです。
これは日本全体に蔓延していると思われます。
東近江市の小椋正清市長が「不登校になる責任の大半は親にある」「フリースクールは国家の根幹を崩しかねない」と発言し、批判されたために謝罪しましたが、発言の撤回はしませんでした。
謝罪したといっても、「フリースクールの関係者、保護者の皆さま」に謝罪しただけです。
不登校の子どもに対しては謝罪していません。
そして、そのことはまったく問題にされません。「子どもに対して謝罪しろ」という声は聞こえてきませんでした。
ともかく、子どもの行為については「する」と「されられる」、「している」と「させられている」の区別をすることがたいせつです。
子どもが社会奉仕活動のような立派なことをしていても、「されられている」のであれば、少なくとも子どもにとってはほとんど意味がありません。
たとえつまらないことでも、子どもがみずから「している」のであれば、それは子どもにとっては意味があります。
水泳やらピアノやらの習い事でも、子どもが「している」のと「させられている」のとでは大違いです。
親や教育者は「する」と「させられる」の区別をつけることが先決です。