村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

カテゴリ: 教育から学習へ

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読書感想文は必要か――という国語教師らしい人物の問いかけをきっかけに、ツイッター上で必要派と不要派が議論を繰り広げたそうです。

この問いは、学校は必要か、教育は必要かという大きな問いにつながっているので、簡単には答えられませんが、読書感想文のあり方を改革するという答えなら簡単に示せます。

とりあえずどういう議論があったかの記事を示しておきます。


「読書感想文は必要か?」国語教師の問いかけが議論呼ぶ…「強制がよくない」「自分の意見を持つ訓練になる」 
読書感想文は必要か——国語の教員だという人物からの問いかけを発端にTwitterで議論が交わされている。

学生時代、夏休みの宿題やコンクールへの応募のために提出が求められた読書感想文。その必要性に疑問を投げかけている投稿者は、本来、読書は「知りたいから」「自分が好きだから」読むもので、強制されるものではないとしている。そして、感想文を書かされることで「読書が憂鬱になる」「日本人の読書嫌いと作文嫌いを助長している」と語っている。さらに、「原稿用紙はこう使いなさい」「作文はこう書きなさい」という形式的指導のせいで「メッチャ堅苦しい、つまらないものになっている」とも述べている。

この投稿がきっかけとなり、読書感想文は不要か必要かの議論に。読書感想文が嫌いになった子どもの頃の体験や、大人になってどう役立つのかの解説など、様々な意見が寄せられていている。

■不要派

「頑張って書いた読書感想文を授業参観の日に『ただのあらすじで感想文になってない』と担任に言われてから文章書くのが暫く嫌いになりました」

「そもそも読ませる相手が明確になってないから、小中学生にとっては超絶難しい作文」

「強制でやらせるものではないですね。本嫌いの一因になっている」

■必要派

「読んだだけで終わりになることの方が勿体無い。読んで、様々な角度から感想を考えてみることで逆に楽しみ方が増える」

「自分の意見を持つ訓練になるから必ず将来に役立ちます」

「自分の気持ちを明確に理解し他者へ可能な限り正確に伝えるという、人間として大事なコミュニケーション能力を鍛える大事なもの」

「医師として思うのは、『問題点を集約せよ』『それに対しどう思ったか』の能力は大変重要で、出来ない人間の相手は困難を極めます。重要」


議論は、「不要」「必要」に留まらず展開。「内容を誉めなきゃいけないようで大嫌いでしたが、あるとき酷評したら愉しかった」「ちゃんと授業として少なくとも1時間は『読書感想文の書き方』を指導して欲しい」「教師の指導力と人員を割けるかの問題」といったコメントも寄せられている。
https://news.biglobe.ne.jp/trend/0629/blnews_200629_9132066413.html


読書感想文を書くことには当然意味があって、とりあえず一冊の本を読んでなにがしかの知識が得られますし、感想文を書くことで文章力も鍛えられます。
教師もそれを狙って読書感想文を書かせるのでしょう。

しかし、「感想」を書くことに意味があるのかというと、これがよくわかりません。
普通の人はありきたりの「感想」しか書けません。当然、教師にいい評価をされるとは思えません。それがわかっているので、読書感想文を書くのがいやになるのです。

そこで、改革案を考えました。
「感想抜きの読書感想文」にすればいいのです。


一冊の本を読んで、その内容を要約した文章を、たとえば原稿用紙三枚で書きなさいといった課題にします。小説であれば、そのあらすじを書きます。
その本を読んでいない人に、どういう内容の本であるかを理解させる文章を目指します。

内容を要約するには、その内容をよく理解しなければいけないので、自然と読解力が鍛えられます。
もちろん文章力も鍛えられます。
頭の筋トレみたいなものです。
10冊ぐらい書けば、かなり鍛えられるでしょう。

読解力と文章力が鍛えられたら、国語教育の目的はほとんど達成できたも同然です。


現在の国語教育は「文学」に寄りすぎていると思います。
作文教育は、「枕草子」や「徒然草」みたいな文章を書くことが理想になっているのではないでしょうか。
読書感想文で「感想」を書かせるのも、それに近いものがあると思います。

しかし、子どもが書いた「感想」を教師は評価できるでしょうか。
「こんな普通の感想じゃだめだ。もっと独自の考え方を示しなさい」と言われても、子どもは対処しようがありませんし、傷つくだけです。

「文学」を教えるのは、教師の個人的な力量に依存する要素が大きいので、全国一律にすることではないと思います。
学校では「文学についての知識」だけ教えればよく、これならテストで評価できます。



とはいえ、当面読書感想文を書かせるという今のやり方が続いていくことになりますから、それにどう対処するかを考えなければなりません。

読書感想文を評価するのは担任の教師だとします。
その場合、「担任の教師に評価される感想文」を目標にします。
そのためには、担任の教師の趣味嗜好、思想傾向を知り、それに合わせて書かなければなりません。
これはむずかしいことですが、このスキルは必ず役に立ちます。
「読者を念頭に置いて、読者に理解される文章を書く」というのは文章の基本だからです。
これは「国語の成績を上げる」ということに直結するので、モチベーションアップにもなります。


今回、「読書感想文の書き方」で検索してみると、いろいろなアドバイスがありますが、「教師に合わせて書く」というアドバイスは見当たりません。
教師目線で子どもにアドバイスするものばかりです。

「その本のどこに心を動かされたかを書こう」というアドバイスがあって、教師はこういうことを求めているのだなと思いました。
しかし、こうした内面を表現するには教師と子どもに信頼関係がなければいけません。
たいていそういう信頼関係はないので、子どもは困惑するばかりです(そもそもなぜ教師は子どもの内面をのぞきたがるのかという問題もあります)。

教師も子どもも、読書感想文を読解力と文章力を鍛えるための手段ととらえると、すっきりします。

ピンクシャツデー


2月26日はピンクシャツデーです。

ピンクシャツデーというのは、ピンクのシャツやピンク色のものを身につけることで「いじめ反対」の意思表示をする日で、毎年2月の最終水曜日に行われます。
カナダから始まり、今は世界数十か国に広がっているそうです。

ある実際の出来事がきっかけとなってこの運動は始まりました。どんな出来事だったのか、「日本ピンクシャツデー公式サイト」から引用します。


舞台は2007年、カナダ・ノバスコシア州のハイスクールです。9年生(中学3年生)の男子生徒がピンク色のポロシャツを着て登校したことをきっかけに、ホモセクシャルだとからかわれ暴行を受け、たえきれずに帰宅してしまいました。その出来事を聞いた上級生のデイヴィッド氏とトラヴィス氏。12年生(高校3年生)の彼らにとっては、その学校で過ごす最後の年でした。

「いじめなんて、もう、うんざりだ!」「アクションを起こそう!」

そう思ったふたりは、その日の放課後、ディスカウントストアへ行き75枚(∗)のピンク色のシャツやタンクトップを買いこみました。そしてその夜、学校のBBS掲示板やメール等を通じてクラスメートたちに呼びかけました。

「明日、一緒に学校でピンクシャツを着よう」と。

翌朝、ふたりはピンク色のシャツやタンクトップを入れたビニール袋を手に登校しました。学校について校門で配りはじめようとしたふたりの目に映った光景・・・

それはピンクシャツを着た生徒たちが次々と登校してくる姿でした。ピンクシャツが用意できなかった生徒たちは、リストバンドやリボンなど、ピンク色の小物を身につけて登校してきました。頭から爪先まで、全身にピンク色をまとった生徒もいました。

ふたりの意思は一夜のうちに広まっていたのです。

ふたりが呼びかけた人数より遥か多く、数百人もの生徒たちがピンクシャツやピンク色のものを身につけ登校してきたことで、その日、学校中がピンク色に染まりました。いじめられた生徒は、ピンク色を身につけた生徒たちであふれる学校の様子を見て、肩の荷がおりたような安堵の表情を浮かべていたそうです。以来、その学校でいじめを聞くことはなくなりました。

このことが地元メディアで取り上げられると、またたくまにカナダ全土に広がり、さらに世界に広がったというわけです。

いい話です。ちょっと感動的です。

しかし、疑問も感じます。
ピンク色のポロシャツを着た男子生徒をいじめた生徒たちはどうなったのでしょうか。なにも書いてありません。
いじめっ子へのケアがなければ、いじめ防止は成功しないのではないかと思います(あるいは罰するとか排除するとかいう考え方もあるでしょう)。

それから思ったのは、学校でのいじめは日本だけでなく世界的な問題なのだなということです。
ということは、教育制度や学校制度と深く結びついているわけです。
ピンクシャツデーのようなことで防止できるとは思えません。


日本で学校のいじめが問題になるとよく「いじめは社会のどこにでもある」という声が出ます。
確かにいじめは社会のどこにでもあるでしょうが、学校のいじめと社会のいじめでは件数や深刻さがまったく違います。

学校でのいじめ件数は調査されてわかりますが(2018年度の小中高のいじめ件数は約54万件)、社会でのいじめ件数は調査しようがないので、比較はできません。
しかし、学校を卒業して何年もたっているのにいまだにいじめられたことがトラウマになっているとか、同窓会に行くと昔のいじめっ子と会うので行きたくないとかいう人がよくいます。こういう人は、社会ではいじめにあっていないでしょう。
テレビで若いタレントが自分のことを語るとき、学校でいじめにあっていたと語る人もひじょうに多いです。芸能人になるぐらいだから個性的な人が多いということを割り引いても、今の学校にいかにいじめが蔓延しているかがわかります。
つまり学校といじめは切っても切り離せないのです。

これはもう、学校の構造的な問題と見るしかありません。
日本では6歳の子と7歳の子を同じ教室に入れて教えますが、この年での1年の違いは大きく、ここからすでにむりがあります。
また、椅子にじっと座って先生の話を聞くというのも、小さい子どもにとっては拷問みたいなものです。
子どもには好奇心があり、学びたい意欲がありますが、学校はおとなの都合で教えるので、お腹の空いていない子どもにむりやり食べさせるような教え方をしています。
学ぶというのは本来楽しいことですが、学校での勉強は苦行です。

学校教育が子どもにとってはいじめみたいなものなので、子ども同士がいじめをするのは当然です。
学校制度はどの国も同じようなものなので、世界中の学校でいじめが発生することになります。

いじめは子どもの問題ではなく学校の問題ととらえなければなりません。
いじめ防止をしたいなら、「子どもが楽しく通える学校」をつくるしかありません。
それ以外のやり方はすべて対症療法です。

ピンクシャツデーは、対症療法の効果すらなさそうです。
ピンクシャツデーに参加する人は善意からでしょうが、自己満足と言われてもしかたありません。
ピンクシャツデーをするなら、単なるデモンストレーションに終わらせるのではなく、いじめの根本原因を考える日にするべきです。

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トランプ大統領をにらみつけるグレタ・トゥーンベリさん


「ヒステリー」という言葉を久しぶりに目にしました。

ヒステリーは神経症の一種ですが、ギリシャ語で「子宮」を意味する言葉が語源で、女性特有の神経症とされてきました。女性がちょっと興奮すると「ヒスを起こした」と揶揄され、性差別と結びついた言葉です。
ですから、すっかり死語になっていたのですが、突然死語が復活したのは、国連の気候行動サミットでスピーチした16歳の環境活動家グレタ・トゥーンべリさんを人格攻撃するためです。
「環境ヒステリー」という言葉までつくられました。

トゥーンべリさんは自分がアスペルガー症候群であることを公表していますが、テレビでキャスターや政治評論家までが「精神異常」や「精神障害」という言葉でトゥーンベリさんを攻撃して、問題になりました。
発達障害の人を発達障害を理由に攻撃するというのは、通常はありえないことです。

「父親の操り人形だ」とか「環境活動家に利用されている」という批判もありましたが、これもトゥーンベリさんの人格を認めていないわけで、一種の人格攻撃です。


トゥーンベリさんが訴えたのは、地球温暖化対策が不十分だということですから、反論するならそのことについて反論するべきです。
人格攻撃になってしまったのは、温暖化対策に反対する人たちがまともな論理を持っていないからでしょう。

それに加えて、トゥーンベリさんが16歳の子どもだということもあります。
「子どもはおとなに従うべき」という価値観を持っていると、自分の意志で行動している子どもが許せません。
今回、トゥーンベリさんが激しい人格攻撃を受けたのは、そういうおとなが多かったからでしょう。

トゥーンベリさんに怒りを向けるおとなを揶揄する動画を、オーストラリアABCテレビがつくって話題になっています。

グレタ・トゥーンベリさんにお怒りの皆様に“コールセンター“が誕生。オトナの「赤ちゃん返り」を描き話題に

トゥーンベリさんに怒りを向けるおとなを「赤ちゃん返り」と見なしているわけです。
これは実際にありうることです。子ども時代に自分の意志を踏みにじられたことがトラウマになっているおとなは、トゥーンベリさんのように自分の意志で行動する子どもを見ると、子ども時代の怒りがよみがえってくるのです。
この心理は、子どもを虐待する親の心理とも共通します。

トゥーンベリさんは「親の操り人形」と攻撃されましたが、親の操り人形ということで言えば、現在、学校に行ったり習いごとをしたりしている子どもはすべて親の操り人形です。
親の操り人形はまったく問題にされなくて、自分の意志で行動する子どもは問題にされるのは、今の世の中の価値観が根本的に間違っているからです。

トゥーンベリさんを巡る今回の騒動でわかったのは、地球温暖化も問題ですが、自分の意志で行動する子どもを攻撃する世の中も大いに問題だということです。

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2020年度から実施される「大学入学共通テスト」は問題がありすぎると、反対の声が上がっています。

なにが問題かというと、英語の試験に英検やTOEFL、ケンブリッジ英検といった民間試験が活用されるのですが、異なる試験の成績を公平に比べられるのかとか、受験料が高くつくとか、試験会場が都市部に偏っているとか、替え玉受験などの対策は十分かといった疑問点や難点があるのです(なお、TOEFLは7月に「責任をもって対応することが困難」として不参加を表明)。

また、入試問題に記述式問題が用いられます。2020年度にまず国語と数学で導入され、2024年度以降は地理歴史・公民や理科分野にも広げる予定となっています。ただ、数学の記述式問題は初年度は見送り、文章ではなく数式だけ書かせる方式に変更すると7月に発表されました。
文章力を見るのなら国語の問題ですればいいことで、数学でするのは意味がわかりません。
それに、記述式問題は人が採点する必要があり、学生バイトにも採点をさせるということです。採点の基準は、キーワードが含まれるか否かということなら明快ですが、たとえば文法の間違いはどれだけ減点するかなどは主観が入りそうです。


反対や実施延期を求める声が上がっていますが、そうした声を上げるのは受験生と保護者と高校教師などが中心です。一般の人はあまり関心がありません。
正直、私もそれほど真剣に考えているわけではありません。入試に記述式問題を使うというのは愚かなことだと思いますが、英語の民間試験を使うことの問題点は、当事者ではないだけにピンときません。

一般の人の関心があまり高くないのをいいことに、柴山昌彦前文科相は8月16日、ツイッターで「サイレントマジョリティは賛成です」と主張しました。

そのあとのことを日刊ゲンダイが「柴山文科相に批判の嵐 英語民間試験に異議の学生を即排除」という記事で書いています。

 そこで、聞く耳を持たない大臣にシビレを切らした慶大生が24日、埼玉県知事選の応援に来た柴山氏の演説中、大宮駅前西口で、「若者の声を聞け」などと記したプラカードを掲げ「柴山辞めろ」「入試改革を白紙撤回しろ」と発言した。すると、スーツ姿の警察官に3人がかりで引っ張られ、排除された。ベルトがちぎれたという。
 警官が学生を強引に排除するだけでも大問題だが、柴山文科相はこの強制排除に対して、〈少なくともわめき散らす声は鮮明にその場にいた誰の耳にも届きましたけどね〉(26日付)とまるで騒音扱い。怒った高校生が、ツイッターで公開されている文科省の電話番号を記し、抗議を呼びかけると、柴山氏は高校生相手に〈業務妨害罪にならないよう気をつけて下さいね〉(26日付)と半ば脅す始末だ。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/260896/2

さらに、柴山前文科相は9月8日、高校生の「昼食の時間に政治の話をする」などのツイートに「こうした行為は適切でしょうか?」と返信し、非難の声が上がるということもありました。

どうやら柴山前文科相は、若者が意見を言うことが許せないようです。
これは柴山前文科相だけのことではなく、文科省とか教育行政における根本的な問題です。

日本も批准している子どもの権利条約の第12条は、「締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する」と規定しています。
ですから、受験生は受験制度について意見を言う権利があり、文科省はその権利を確保しなければなりません。
ところが、文科省は受験生が意見を言う機会をまったく封じています。
とりわけ若者の意見を封じようとする柴山前文科相の行動など、明らかに子どもの権利条約違反です。

文科省は昔からそういう体質です。中教審やら教育再生会議やらが何度も教育改革案を出してきましたが、生徒にアンケート調査をしたことは一度もありません(確か保護者にアンケート調査をしたことが一度あるだけです)。


そうした中で、朝日新聞と河合塾が共同で英語の民間試験を活用することについて調査を行いました。

大学6割、高校9割が「問題ある」 入試の英語民間試験
 2020年度から始まる大学入学共通テストで英語の民間試験を活用することについて、「問題がある」と考える大学が3分の2近くにのぼることが、朝日新聞と河合塾の共同調査「ひらく 日本の大学」でわかった。昨年の調査よりも2割近く増えた。同時に実施した高校への調査でも、9割近くが「問題がある」と回答。仕組みが複雑なことや、指摘される課題が解決される道筋が見えないため、大学・高校ともに不安が高まっているようだ。
調査は今年6~7月、大学は761校、高校は全日制課程がある国公私立高校4686校を対象に実施した。大学は90%に当たる683校が回答し、高校は20%に当たる959校が回答した。
(後略)
https://www.asahi.com/articles/ASM984GQQM98UTIL009.html?iref=pc_ss_date

大学と高校を対象に調査しただけで、高校生は対象になっていません。河合塾は現役高校生向けの講座もやっていますから、高校生に調査することは容易だったはずです。
朝日新聞は進歩派とされますが、このように子どもの権利を平気で無視するので、エセ進歩派とか偽善と言われます。

朝日新聞は、大学入試に採用される新聞記事の中で朝日新聞が圧倒的に多いということがよりどころらしく、購読勧誘にもこのことを大いに利用しています。
そのため、入試をするほうに顔が向いていて、入試を受けるほうはどうでもいいのかもしれません。

入試制度や学校のあり方について子どもが意見を言うようになると、パンドラの箱を開けたみたいになることをおとなたちは恐れているのでしょう。

しかし、当事者の切実な声というのは世の中を動かす力があるものです。
たとえば、幼児虐待で死亡した子どもがノートに「おねがいゆるして」などと書き残していたという事実が報道されると、世論は大きく動きました。
入試制度問題をいちばん真剣に考えている受験生の声がどんどん報道されるようになれば、世論も動いて、前文科相のように「サイレントマジョリティは賛成」などと言っていられなくなるはずです。

文科省もマスコミも子どもの権利条約に従って、子どもの意見を尊重するという当たり前のことをしなければなりません。
それによってパンドラの箱が開いたら、おおいにけっこうなことです。「希望」も飛び出てくるからです。

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「教育虐待」という言葉があります。
ウィキペディアによると「教育熱心過ぎる親が、過度な期待を子どもに背負わせてしまい、思うとおりの結果が出ないと厳しく叱責してしまうこと」とされます。2011年に日本子ども虐待防止学会で初めて発表され、最近広まった言葉です。

「指導死」という言葉もあります。
これは「学校において教師の指導により肉体的、精神的に追い詰められた生徒が自殺に追い込まれること」とされます。
「大貫隆志による造語」となっていて、大貫隆志著「指導死」という本が2013年に出ているので、やはり最近広まった言葉です。

「学校ハラスメント」という言葉もあります。
これはウィキペディアの項目にないので、まだそんなに広まっていないかもしれません。学校での巨大組体操の危険性などを指摘してきた教育社会学者の内田良氏に『学校ハラスメント 暴力・セクハラ・部活動ーなぜ教育は「行き過ぎる」か』という著作があり、それ由来のようです。

こうした言葉が使われるようになってきたのは、教育のマイナス面に目が向いてきたからでしょう。
私もこれまでこのブログで教育のマイナス面を訴えてきましたが、教育のマイナス面を一言で表すのが困難でした。私は「過剰教育」という言葉を使ってきましたが、あまり意味がはっきりせず、インパクトもありません。「教育虐待」や「指導死」という言葉はインパクトがあります。

このブログで人気の記事も、たいてい教育のマイナス面について書いたものです。
しかし、このブログは、ヤフーブログから6月初めにここライブドアブログに引っ越してきたのですが、引っ越したためにグーグル検索にほとんど引っかからなくなりました。ヤフーブログには12月まで記事が残ることになっていますが、こちらも検索に引っかかりにくくなっているようです。
このまま埋もれてしまうのはもったいないので、検索の順位を上げるためにも、これまでアクセス数が多かった人気記事を紹介したいと思います。



「かぼちゃのつる」の正しい指導法

小学校のすべての道徳教科書に載っているのが「かぼちゃのつる」という話です。どんな話かという紹介と、教師の指導方法への批判を書きました。このブログのいちばん人気の記事かもしれません。おそらく小学校の教師が教える参考にと検索して見にくるのだと思われます。果たして私の批判を受け止めてくれているでしょうか。



今井メロさんが書いた「泣いて、病んで、でも笑って」というタレント本の紹介です。
今井メロさんというのは、昔は成田夢露という名前で、スノボー選手としてトリノオリンピックにも出場した美人アスリートです。この父親というのがものすごい人で、むちゃくちゃなスパルタ教育をしました。おかげで兄の成田童夢さんとともに有名なスノボー選手となりますが、スパルタ教育を受けたためにさまざまな不幸に見舞われます。
父親や成田童夢さんがメディアに出るたびにこの記事のアクセス数がふえます。



1999年に起きた光市母子殺害事件の犯人である大月(旧姓福田)孝行死刑囚について、主に「殺人者はいかに誕生したか」(長谷川博一著)に基いて書いた記事です。凶悪犯といえども私たちと同じ人間だということがわかるはずです。



乃木希典将軍も不幸な少年時代を送った人です。乃木少年はニンジンが嫌いだったために、母親は毎日ニンジンを出して食べさせました。これは今では虐待ですが、この話が国定教科書に載ったために、日本の親はみな子どもの好き嫌いを直さなければならないと思いました。しかし、食べ物の好き嫌いを直す方法はありません。



寺子屋は子どものために読み書きソロバンを教えました。
近代学校は「富国強兵」のために子どもを教育するので、目的が百八十度違います。


戦後になってもまだ「富国強兵」の教育を引きずっているので、「教育虐待」や「指導死」が生じるのです。

幼児虐待事件も絶えることがありませんが、犯人は判で押したように「しつけのためにやった」と言います。
しつけはよいこととされているので、こう言われると誰も反論できません。
教育にマイナス面があるように、しつけにもマイナス面があると認識する必要があります。

そのために「教育虐待」に習って「しつけ虐待」という言葉をつくって広めていけばいいのではないかと思います。

5月5日の「子どもの日」の朝日新聞に、学力テストに関する中学生の投書が載っていて、考えさせられました。
  
(声)若い世代 こどもの日特集 全国学力調査、何のため?
 中学生(神奈川県 14)
 先日、中学校で全国学力調査が行われた。3年生を対象に実施されたが、私はこの調査に疑問を抱いた。
 試験問題のどこにも調査目的や調査結果の使用方法などが明記されていなかった。授業を1日潰してテストをやらされ、その結果が何に使われるかわからない。それが私にとっては、すごく怖かった。
 新聞によると、この調査に毎年50億~60億円ものお金がかかっているらしい。自治体や学校現場に「点数を上げなければ」という圧力がかかるうえ、毎年問題が異なるため過去と正答率を比較することもできない。過剰なテスト対策が行われたり、今年度は教諭が漢字問題の正解を前日に板書したりした問題も発覚した。これでは、何のための調査かわからない。
 私は、目的をはっきり示さないような調査はする必要はないと考える。調査のために授業を1日削るより、授業をした方が学びが広がる。その費用で学校施設や教育制度をもっと充実させてほしい。
 
 
全国学力テスト(全国学力・学習状況調査)については、いろんな人がいろんなことを言ってきましたが、テストを受ける子どもの意見を聞いたのは初めてです(この投書は周りのおとなの意見に影響されたようなところもないではありませんが)
ということは、メディアがフィルターをかけて子どもの意見を遮断してきたのでしょう。
 
なんのためのテストかわからないままテストを受けさせられるのは、子どもにとってはむなしいことです。
テスト用紙に目的は書かれていなくても、教師によっては子どもに説明しているかもしれません。しかし、説明したところで、「学力テストの目的は、学校がテストの成績を元に教育の成果を検証して指導の改善に役立てることです」ということですから、子どもにとってはどうでもいいことです。
 
テストの結果は通知されるので、自分の学力を全国平均と比較したりはできます。しかし、それがわかったところで無意味だということも言えます。
 
受験目的の模擬試験なら、合格率などを教えてもらえます。
学校の期末テストなどなら成績に反映され、その成績はさまざまなことに影響します。
 
文部科学省は、どうしても学力テストを行いたいのなら、それが子どもにとっても意味のあることだとちゃんと説明する必要があります。
 
 
全国学力テストに限らず、子どもの意見を聞けば見えてくることがあります。
たとえば学校でのイジメに関して、事実関係について子どもにアンケート調査が行われることはありますが、子どもの意見が聞かれることはまったくありません。「イジメはなぜ起こると思いますか」とか「どうすればイジメはなくなると思いますか」とか聞けば、有意義な意見が出てくるはずです。
教育改革とか、小学校での英語授業とかも、子どもの意見をまったく聞かずに行われています。
森友学園問題で教育勅語暗唱について議論が起きましたが、すべておとなたちの議論です。
 
ちなみに「子どもの権利条約」には、子どもの意見表明権が明記されています。

 第13条
1.児童は、表現の自由についての権利を有する。この権利には、口頭、手書き若しくは印刷、芸術の形態又は自ら選択する他の方法により、国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む。
 
文部科学省は子どもの意見表明権をまったく無視して一方的に教育政策を進めており、「主体としての子ども」ではなく「客体としての子ども」という認識のようです。その点ではメディアも同罪です。
 
子どもの意見に耳を傾けるだけで世の中の風通しはうんとよくなるはずです。

教育のやり方を決めるのはすべておとなです。そうすると、そのやり方はおとなにとって都合のいいものになりがちです。
ただ、おとなはそういうことには気づかないものです。
 
スクール水着というと、セーラー服、ブルマーと並んで、AVではスケベ男の妄想をかき立てるアイテムですが、それにニュータイプのものがお目見えしたということです。
 
 
スクール水着、中学生と開発 「肌の露出イヤ」の声反映
 水泳用品メーカーのフットマーク(東京)は、中学生4人と共同開発したスクール水着「イデアルスイミング」を24日に売り出す。「素早く着替えたい」「肌が見えるのはイヤ」など、4人の意見や中学生360人へのアンケートで集めた声を盛り込んだ。
 
 開発に加わったのは、東京都立両国高校付属中3年の薄井美佳さん、太田梨々香さん、北畠和哉さん、齊藤昌弘さん。昨年11月、職場体験でフットマークを訪れたのがきっかけだ。デザイナーが要望を聞き、試作を繰り返した。
 
 女子からは「短い休憩時間で素早く着替えたい」「肌が見えないワンピース型がいい」という相反する願いが多かったため、脱ぎ着しやすく上下に分けた水着を腰のボタンで留める形に。上着の後ろ側を長くして、体育座りでも背中が露出しない工夫もした。
朝日新聞デジタル 417()2326分配信
 
 
この記事はリンク切れになっています。水着の写真は、次のメーカーのサイトで見ることができます。
 
スーパー中学生ものづくりプロジェクト
 
この女子用水着は、太ももまで覆う形で、上下が別れています。太ももの露出がなくて、上下に別れているので着替えるときも肌の露出が避けられるというわけです。
 
スクール水着というのは、もっともセクシーさを排したデザインになっていると思っていましたが、考えてみると、太ももは露出しますし、シンプルなデザインだけに体型も際立ちます。
男が妄想をかき立てるだけのことはあります。
 
ブルマーもそうでした。あれも太ももを露出します。
しかし、本来のブルマーはそういうものではなかったということです。
 
ニコニコ大百科 単語記事:ブルマー
ブルマーとは、下半身に着用する女性用の衣類の一種である。ブルマとも呼ぶ。
 
起源は諸説あるが、最も有力な説とされているのが19世紀アメリカの女性解放運動家のアメリア・ジェンクス・ブルーマーが発案したという説である。当時の女性の衣服にはヨーロッパ式のコルセットで無理に肉体を絞めつけたりするスカートやズボンが多く、そうした衣服の発想から転換した衣服として画期的なものであった。なお写真や画像で見る限り、丈は膝あたりまであるだぶつきのある物であった。
 
ブルマーは日本でも女子の体操着として導入されたが、導入初期はプリーツがつけられていてだぶつきのある形状のものが多く、その形状から「ちょうちんブルマー」という俗称もつけられた。
 
昭和中期頃にだぶつきが無い物に変更、太もも部を露出し体型にフィットした「ショーツ型」とも称されるタイプの動きやすいブルマーが一般的となり普及した。色は濃紺が多かったが、えんじ色や緑色をはじめ様々なカラーバリエーションも存在した。
 
こうして多くの学校で使用されていたブルマーだったが、太もも部を露出し、かつ殆ど下着と変わらない事や激しく動くとパンツがはみ出るなど抵抗を感じる人も多かった。また、ジェンダーフリーの視点からも体操着が男女別である必要は無いという意見が出された。更には運動会での盗撮行為や写真集の販売といった、ブルマーを性的好奇心の対象として見るケースが広く知れ渡り、廃止運動に拍車をかけた。その結果、19972001年あたりまでに殆どの小中高の学校で女子の体操着はクォーターパンツ等に切り替わり、体操着としてのブルマーは終焉を迎えた。
 
あのような太ももを露出するブルマーを考案して普及させたのは、どうやら日本の教育関係者であるようです。
 
スクール水着も、ブルマーと同じ運命をたどってもおかしくありません。
 
なお、中学校の健康診断でも、昔は女子は上半身裸を強制されることが普通でした。若い男性の医者は、学校の健康診断というと競って行きたがったという話を聞いたことがあります。
 
要するにスケベ男の考えが学校の常識となっていたのです。
 
ところで、新しいスクール水着は中学生の意見を取り入れてつくられたものです。
中学生が意見表明することで、これまでの常識が打ち壊されました。
 
これまで教育改革についてさまざまな議論が行われてきましたが、驚くことに、教育される側の小学生、中学生、高校生にアンケート調査が行われたことは1度もありません。教育改革はすべておとなの考えで行われているのです。
 
教育の世界には、ブルマーやスクール水着みたいなことがいっぱいあるはずです。

インターネットは集団で個人を攻撃するときに威力を発揮するツールのようです。
「ネットのバカ」(中川淳一郎著)という本を読んでいたら、中国の「時計兄貴」の話が書いてありました。交通事故の現場でニヤニヤと笑っていた役人が妙に立派な時計をたくさん持っていると指摘する声が出て、ネットユーザーがみんなでこの役人が登場する写真を確認していくと、毎回高級な腕時計をしていることがわかり、そのため「時計兄貴」というあだ名がつき、12億円もの不正蓄財をしていることもわかって、その役人は更迭されたそうです。
「交通事故現場で不謹慎な笑顔」「高級な腕時計」というネットユーザーが食いつきやすいアイテムがあったからでもありますが、ネットが「社会正義」を実現した一例ということです。
 
しかし、こうした例はまれでしょう。とくに日本では集団で弱者を攻撃するという場合がほとんどのように思われます。
 
お笑い芸人の母親が生活保護を受給していた問題では、税金のむだ使いを追及するという点で多少は「正義」の要素がありましたが、最近のバイト店員炎上事件では、追及するほうに「正義」の要素はほとんどありません。
多くの人は、フェイスブックやツイッターを仲間内でやりとりするツールとして使っているはずです。そういうところに入り込んで、仲間に受けようとした写真を勝手に多数の人の目にさらすのは、むしろネットマナー違反、ネチケット違反ではないでしょうか。
 
ただのバイト店員を個人攻撃しても世の中がよくなるものでもなく、これは学校にあるイジメと同じようなものです。
 
とはいえ、こうしたことを多くの人が行っているのは事実です。なぜこうなるのかという理由はいくつもあると思いますが、そのひとつに学校教育の問題があるはずです。
学校ではどうでもいい細かい校則で子どもを縛りつけています。そうした中で育った人間は、他人が常識やルールから逸脱するのを見ると攻撃したくなります。
 
学校は昔から子どもを縛りつけてきたのではないかと思われるかもしれませんが、そうではありません。いや、学校や教師は子どもを縛りつけようとしてきたのですが、子どもの側が違いました。
 
たとえば、夏目漱石の「坊っちゃん」を見てみましょう。「坊っちゃん」は漱石自身が若いころ旧制松山中学に赴任した経験に基づく小説とされていますから、ここには当時の中学校の実態がかなり反映されているはずです。
 
「坊っちゃん」に出てくる中学生(今の中学1年生から高校2年生までに当たる)は、今の中学生、高校生とかなり違います。
 
坊っちゃんが赴任して最初の授業の日のことです。2時間目の最後に、一人の生徒が「ちょっとこの問題を解釈をしておくれんかな、もし」と、できそうもない幾何の問題を持って迫ってきたので(坊っちゃんは数学の教師)、「この次教えてやる」と急いで引き揚げたら、生徒たちは「わあ」とはやし立て、「出来ん出来ん」という声が聞こえてきます。
 
ある日、そば屋で天ぷらそばを食べ、翌日教室に入ると、黒板いっぱいの大きな字で「天麩羅先生」と書いてあり、みんな坊っちゃんの顔を見て「わあ」と笑います。「天麩羅を食っちゃ可笑しいか」と言うと、生徒の一人が「しかし四杯は過ぎるぞな、もし」と言うので、「四杯食おうが五杯食おうがおれの銭でおれが食うのに文句があるもんか」と言い返します。そして、次の教室に行くと、黒板に今度は「一つ天麩羅四杯なり。但し笑うべからず」と書いてあるので、「こんないたずらが面白いか、卑怯な冗談だ」と言うと、「自分がした事を笑われて怒るのが卑怯じゃろうがな、もし」と言い返す生徒がいます。そして、次の教室に行くと、「天麩羅を食うと減らず口が利きたくなるものなり」と書いてあります。
 
それから4日後に、団子屋で団子を食うと、黒板に「団子二皿七銭」と書いてあります。また、人のいない温泉で泳いでいると、温泉場に「湯の中で泳ぐべからず」と張り紙をされ、教室に行くと、例のごとく黒板に「湯の中で泳ぐべからず」と書いてあります。
つまり生徒たちは坊っちゃんに関する情報をインターネットさながらに素早く共有して、ことあるごとに坊っちゃんをからかってくるのです。
 
そして、宿直の日に布団の中に五、六十匹のイナゴを入れられ、大騒動になります。
夜中に寄宿生を集めて、「なんでバッタなんか、おれの床の中へ入れた」と言うと、「そりゃ、イナゴぞな、もし」とやり込められます。
そのあとのやり取りはこんな具合です。
 
「イナゴでもバッタでも、何でおれの床の中へ入れたんだ。おれがいつ、バッタを入れてくれと頼んだ」
 「誰も入れやせんがな」
 「入れないものが、どうして床の中に居るんだ」
 「イナゴは温い所が好きじゃけれ、大方一人でおはいりたのじゃあろ」
 「馬鹿あ云え。バッタが一人でおはいりになるなんて――バッタにおはいりになられてたまるもんか。――さあなぜこんないたずらをしたか、云え」
 「云えてて、入れんものを説明しようがないがな」
 
(引用は「青空文庫」の「坊っちゃん」から)
 
生徒を相手にむきになる坊っちゃんのキャラクターもおもしろいのですが、生徒も相手が教師だからといってぜんぜん負けていません。
 
明治時代の学校というと、教師は威厳をもってきびしく生徒を指導し、生徒も教師を敬っていたというイメージがあるかもしれませんが、実際はぜんぜん違います。
そもそも江戸時代の寺子屋は、先生にとって子どもは月謝を払ってくれるお客さんですから、きびしい指導なんかできるはずがなく、子どもたちは遊びながら学んでいたのです。
明治になって近代学校ができたからといって、そんなに急に変わるはずがありません。
 
「『学歴エリート』は暴走する」(安富歩著)という本によると、学校で教師がきびしく生徒を指導するようになったのは、軍国主義の影響です。それまでの普通の体操が「兵式体操」中心に転換し、1925(大正14)の「陸軍現役将校学校配属令」によって教育現場に軍人が入ってきて、学校の雰囲気が変わるのです(現在の「竹刀を持った体育教師」のイメージは当時学校に入ってきた下士官からきているそうです)
 
こうした軍国主義的学校は、戦後民主主義の時代でかなり変わったはずです。石坂洋次郎の小説「青い山脈」などがその時代の雰囲気を伝えています。
 
しかし、それからの長い自民党政権によって、また軍国主義的学校に戻ってきたというのが私の考えです。
とくに内申書重視と推薦入学制度の普及で、生徒が教師に反抗できなくなったのが決定的だと思います。
 
今の学校で、生徒が先生の布団にイナゴを入れるような「悪ふざけ」ができるとは思えません。もしやったら生徒はひどくつらい立場に立たされてしまうでしょう。
そして、そういう学校で育った者たちが、バイト店員が冷蔵庫に入るなどの「悪ふざけ」を見つけては炎上させているというわけです。
 
教師が生徒を上から指導しようとするのは、今も昔も同じです。しかし、昔の生徒は教師をバカにして、心の中でその指導をはね返していたのです。そのため、生徒は自尊心や自己肯定感を維持することができました。
今の生徒は教師の指導に押しつぶされています。
 
「坊っちゃん」の学校では、生徒たちは坊っちゃんをからかうことでストレス解消ができていたので、生徒同士のイジメもほとんどなかったのではないでしょうか。
 
イヴァン・イリイチという思想家は、学校の価値観で社会がおおわれることを「学校化社会」と名づけました。
たまには「坊っちゃん」を読み返して、今の社会がいかに異常な「学校化社会」になっているかを考えてみるのもいいかもしれません。

英才教育とか早期教育というと音楽と切っても切り離せません。モーツァルト神話というのがあって、モーツァルトは父親から早期教育を受けて才能を開花させた、だから、早期教育をするとモーツァルトみたいになれる――という非論理的なことが信じられているようです。
 
私は幼少期にバイオリンを習っていました。私は1950年生まれですが、この世代では周りにバイオリンだのピアノだのを習う子どもはほとんどいませんでした。
私は小さいころ、夜店で買ったラッパなど音の出るもので遊ぶのが好きだったらしく、両親はこの子は音楽の才能があるに違いないと思って、バイオリンを習わせたわけです。最初に行ったバイオリン教室では、先生は私が小さすぎて教えるのはむりだと思ったようで(4歳ぐらいだった?)、聞いているだけでよいというやり方でした。
その後、個人レッスンを受けるようになり、小学生5年生ごろまで続けていましたが、結局まったくものになりませんでした。自分で練習しないのでうまくなるわけがありません。本人にやる気がないと、なにを習わせてもだめだというよい例です。
 
両親は教育熱心で、ほかにも水泳教室、柔道教室に通わされました。習いごととは違いますが、ボーイスカウトにも入っていました。
当時、家の近くには学習塾はありませんでした。私が中学になったころに、かなり離れたところにようやくできました。もし近くに学習塾があったら、それも通わされていたかもしれません(当時、子どもの習いごとはソロバンか書道ぐらいで、学習塾というのはなかったのです)
 
あとで調べたのですが、私が子どものころすでにバイオリンの早期教育法である「スズキ・メソード」がかなり普及していました。両親もその考え方に影響を受けたのでしょう。
 
しかし、私はバイオリンの早期教育を受けた結果、バイオリンがものにならなかっただけでなく、クラシック嫌いになってしまいました。いや、音楽もあまり好きではないかもしれません。
 
私の1歳上の兄はきわめて音楽が好きで、ジャズとロックのレコードをいっぱい集めていました。私は兄がいたおかげでアメリカンポップスやビートルズを人並みに聞いていました。
私には音楽の才能はなかったでしょうが、もしバイオリンを習っていなければ、もっと音楽を楽しむ人生を送れていたような気がします。
 
私の数年あとの世代にはピアノなどを習っていた人がいっぱいいます。もっともピアノを習ったからといって、それが人生に役立っているという人はあまりいないようです。日本の家庭にはたくさんの高価なピアノがむだなスペースを占拠しています。
 
ピアノだのバイオリンだのを習っても、それを職業にできる人はわずかしかいません。“情操教育”という言葉がありますが、音楽を習った人の“情操”がどうなるのかわかっていないのではないでしょうか。
私の考えでは、小さい子どもには、童謡や子ども向けアニメの主題歌や「おかあさんといっしょ」で歌われるような、つまり子ども自身が好きな歌が合っているのです。クラシック音楽というのはもっとも子どもに合わない音楽です。子どもにクラシック音楽を学ばせるのは、子どもに足し算引き算ではなくいきなり高等数学を教えるようなものです。
 
とはいえ、クラシック音楽の世界では早期教育を受けた者しかやっていけません。これはもうクラシック音楽の世界が間違っているとしかいいようがありません。つまり間違った早期教育によって間違った音楽が成立しているのです。
いや、オーケストラの採算が取れないことを考えると、もはや成立しているとはいえないかもしれません。
今ではクラシック音楽よりロックなどのマーケットのほうがうんと大きくなっています。
親が子どもの将来を考えるなら、クラシックではなくロックの早期教育をするべきではないかとイヤミを言いたくなります。
 
ともかく、私は自分の経験から、子どもが学ぼうとする前に教える早期教育はよくないことだと考えるようになりました。
そして、普通の学校など教育のほとんどは、子どもが学ぼうとする前に教えており、これもよくないことに違いないと考えるようになりました。
 
「教育された自分はほんとうの自分ではない」というのが私の考えです。

朝日新聞とベネッセが共同で行った小中学校保護者意識調査によると、土曜日も授業をする「週6日制」に賛成の回答が80.7%にのぼりました(「完全週5日制」に賛成は17.9)
こういう調査結果を見ると、「親は子の幸せを願っている」という常識がもはや通用しないと思わざるをえません。
 
学校週6日制、8割賛成 公立小中の親、教育格差6割容認 朝日新聞社・ベネッセ調査
 
もっとも、授業時間をふやすことが子どもの将来の幸せになるのだという理屈で親は自分を正当化するのでしょう。
しかし、労働と余暇もそうですが、勉強と遊びにもバランスがあります。勉強時間をふやせばいいというものではありません。
学校を週6日制に戻すなら、労働環境も週6日労働制に戻してもいい理屈です。長く働けば日本経済のためになりますし、本人も経済的に潤うはずです。
しかし、本人はいやだと言うでしょう。
子どもも同じことです。学校週6日制はいやだと言うでしょう。
 
ここには自分のことは自分で決めるという原則がありません。
親も教師も文部科学省も子どものためを考えてやっていると言うでしょうが、子どもの意志を尊重するのがほんとうの子どものためです。
 
ところで、朝日新聞とベネッセの共同調査はなぜ保護者だけを対象にして子どもを対象にしなかったのでしょうか。
いや、これは朝日とベネッセだけのことではありません。これまで文部科学省、中央教育審議会、臨時教育審議会、教育再生国民会議などが教育改革について論議してきましたが、その議論に役立てるために保護者や教員を対象にアンケートが行われたことはあっても、小学生や中学生や高校生を対象にアンケートが行われたことは一度もないはずです。
 
子どもにアンケートしても回答が信用できないからという理屈はありません。というのは、イジメや体罰などの事実関係を把握するためのアンケートは行われ、その結果は信用されているからです。
つまり、事実関係については子どもの声を聞くが、子どもの意見や要望は聞かないというのがこれまでの大人のやり方です。
 
これは明らかにおかしなことです。日本も批准している「子どもの権利条約」は「子どもの意見表明権」を規定しているからです。国を挙げて子どもの意見を無視しているのは条約違反です。
 
 
ところで、朝日新聞とベネッセの共同調査の結果が発表されたのと同じ日の朝日新聞教育欄に、ちょうど参考になる記事が載っていました。高校生に政治や社会の問題について意見を言わせるという授業が行われているという記事で、そこから大阪府立緑風冠高校の教諭佐藤功(52)の授業の部分だけ引用します。
 
(教育あしたへ 先生の挑戦:4)改憲・竹島、直球で議論 考える主権者育てる
 佐藤には定番の手法がある。新聞記事やビデオで説明し、意見を書かせる。自分の考えは述べない。生徒の声のいくつかを選び、賛否に分かれて紙上討論を重ねる。
 橋下徹が大阪府知事時代に主導した府教育基本条例案を取り上げた一昨年秋の授業でも、この手法を使った。当時の条例案は学力テストの学校別の結果公表や、保護者による校長、教員の評価を盛り込んでいた。生徒は書いた。
 「他国との競争に勝たないといけない。学力向上は必要」「『格差を受け入れてでも秀でた者を育てる必要がある』というのはおかしい」
 多くの生徒の賛意を集めた意見は「一番影響を受ける高校生に話もせずに条例案を通そうとするのが、一番意味不明」だった。
 「では、実際に条例を作った人に聞いてみよう」と佐藤が昨年企画したのが、大阪維新の会の府議と条例の内容を懸念する教師とのシンポジウムだ。高校生からも意見が出た。「学校評価を僕らがやっちゃダメなんですか?」
 
大人よりも子どものほうがよほどわかっています。
 
大人だけで教育改革を議論していても、これまでがそうだったように絶対にうまくいきません。
女性の生き方を男性だけで議論して決めようとしても絶対うまくいかないのと同じです。
 
いや、これは奴隷制にたとえたほうがいいかもしれません。
奴隷農場の農園主は奴隷の待遇について頭を悩ましたでしょう。あまりに悪い待遇では奴隷の働きが悪くなりますし、よい待遇にすると利益が少なくなります。そんなとき、農園主同士で話し合うことはしたでしょうが、奴隷に要望を聞くことはしなかったでしょう。一度要望を聞くと、奴隷がどんどん要望をエスカレートさせてくるかもしれないからです。
 
今、子どもに教育についての要望を聞かないのも、今の教育制度は子ども奴隷制みたいなものだからです。
 
教育改革を議論するなら、まず子どもの意見表明権を尊重して、さらに子どもを人間として尊重する制度にしていかなければなりません。

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