村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

カテゴリ: 教育から学習へ

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教育の世界では、子どもの主体性が無視されています。
たとえば、子どもが強制されていやいや勉強しているのと、自分から積極的に勉強しているのとではまったく違いますが、それが区別されていません。
親や教師はつねに子どもに勉強を強制しているので、子どもが勉強しているか否かという表面しか見ていないからです。

「子どもにがまんさせることがたいせつ」ということもよく言われます。
しかし、がまんばかりさせられていると、元気も意欲もない子どもになってしまいます。

人生でがまんすることはたいせつですが、それはみずからするがまんです。人にさせられるがまんではありません。
ここでも子どもが「する」と「されられる」の区別がありません。

では、人はどんな場合にがまんするかというと、大きな欲望がある場合に小さな欲望を抑えるというときです。
たとえば若い女性がやせて男にもてたいという欲望を達成するために、ケーキを食べたいという欲望をがまんするというとき、それから、子どもがいい学校に入りたいためにゲームをしたいという欲望をがまんして勉強するというときなどです。
欲望のない人間はいませんから、人は欲望を達成するために自然とがまんすることを覚えます(もっとも、目先の欲望に負けて後悔するということを繰り返しながらですが)。
「子どもにがまんさせることがたいせつ」と言う人は、子どもに目的のないがまんをさせるのでしょう。


子どもの「する」と「させられる」の区別がないのは、「青少年健全育成」を名目にして、性的表現や暴力的表現の図書や映像を子どもに見せるのはよくないという議論のときも同じです。
この場合、「子どもに見せる」という表現ばかりです。
「子どもが見る」という表現を見たことがありません。
もちろんこの両者はまったく違います。

たとえば残酷シーンのあるホラー映画を、親が子どもに「さあ、見なさい」と言って見せるのはよくありません。子どもがその残酷シーンにショックを受けた場合、親が「見なさい」と言っているのですから、すぐ見るのをやめるわけにいかないでしょう。子どもはそのシーンにショックを受け、親からそれを見させられたということにも傷つきます。

子どもがいくつもある映画の中から自分でそのホラー映画を選んで見た場合はどうでしょうか。残酷シーンにショックを受けてもすぐに見るのをやめるので、たいして傷つきません。映画の選択を間違ったなと思うだけです。
もし残酷シーンがあっても最後まで見続けたとしたらどうでしょうか。この場合、本人の意志でそうしているのですから、傷つくことはないでしょう。もしどんどんホラー映画にはまっていったとしたら、それがその子どもの個性なのです。将来はホラー作家になるかもしれません。

残酷シーンにせよ暴力シーンにせよ、「子どもに見せる」という表現をすると、むりやり見せているイメージになるので、害があるかもしれないと思えます。
しかし、「子どもが見る」という表現にすれば、「本人が好きで見ているならいいじゃないか」ということになるでしょう。

今の不健全図書などの規制の議論は、すべて「子どもに見せる・見せない」という表現で行われています。
これを「子どもが見る・見ない」という表現にすれば、つまり子どもの主体性を認めれば、議論のあり方も変わってくるはずです。


なお、性的表現については問題が別です。

子どもが正常な性的発達を遂げると、12,3歳で身体的に性交可能となり、15,6歳でカップルとなり、子どもをつくる可能性が高くなります。子どもをつくったカップルは学校に行くのが困難となり、そういうカップルが増えると教育水準が下がってしまいます。それに、親はできるだけ長く子どもに親もとにいてほしいと思うものです。
そのため文明社会は子どもの性的発達を遅らせようとしてきました。性的表現を子どもに見せず、性欲はスポーツや芸術で“昇華”させることが奨励され、簡単に性交をする人間は見下されました。

今は性的表現を子どもに見せると有害だとされていますが、有害であるという根拠はまったくありません。
あくまで子どもの性的発達を遅らせるためにやっていることです。
子どもの性的発達を遅らせるというのは、文明社会では広く行われていることなので、不自然ではありますが、必然性があるのでしょう。
なお、性的表現の規制は「子どもの性的発達を遅らせる」ということが目的なのですから、その表現が健全が不健全かということは関係ありません。


「する」と「されられる」の区別がつかないというのは、子どもの主体性や意志というものを無視しているということです。
これは日本全体に蔓延していると思われます。

東近江市の小椋正清市長が「不登校になる責任の大半は親にある」「フリースクールは国家の根幹を崩しかねない」と発言し、批判されたために謝罪しましたが、発言の撤回はしませんでした。
謝罪したといっても、「フリースクールの関係者、保護者の皆さま」に謝罪しただけです。
不登校の子どもに対しては謝罪していません。
そして、そのことはまったく問題にされません。「子どもに対して謝罪しろ」という声は聞こえてきませんでした。


ともかく、子どもの行為については「する」と「されられる」、「している」と「させられている」の区別をすることがたいせつです。
子どもが社会奉仕活動のような立派なことをしていても、「されられている」のであれば、少なくとも子どもにとってはほとんど意味がありません。
たとえつまらないことでも、子どもがみずから「している」のであれば、それは子どもにとっては意味があります。
水泳やらピアノやらの習い事でも、子どもが「している」のと「させられている」のとでは大違いです。

親や教育者は「する」と「させられる」の区別をつけることが先決です。

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東近江市の小椋正清市長が「不登校になる責任の大半は親にある」「フリースクールは国家の根幹を崩しかねない」と発言し、波紋を広げています。

子どもが不登校になるのは、いじめが原因の場合もあるでしょうし、教師の態度が原因の場合もあるでしょう。そもそも学校がその子どもに合わないということもあります。
それなのに親にばかり責任を負わせる発言が反発を招くのは当然です。

では、「フリースクールは国家の根幹を崩しかねない」という発言はどうでしょうか。
これについては、本人がMBSNEWSのインタビューでこう説明しています。
(小椋市長)「大半の善良な市民は、本当に嫌がる子どもを無理して学校という枠組みの中に押し込んででも、学校教育に基づく、義務教育を受けさそうとしているんです。」

「無理して無理して学校に行っている子に対してですね、『じゃあフリースクールがあるならそっちの方に僕も行きたい』という雪崩現象が起こるんじゃないか。」

「フリースクールって、よかれと思ってやることが、本当にこの国家の根幹を崩してしまうことになりかねないと私は危機感を持っているんです。」

小椋市長は、学校とは無理して行くところだと思っているのです。ですから、学校以外の道ができれば、みんなそっちに行ってしまって、学校制度が崩壊し、ひいては国家の根幹が崩壊するというわけです。

極端な考え方です。
ひとついえるのは、フリースクールは有料なので(文科省の調査によると平均月3万3000円)、みんながそっちに行くということにはなりません。

「子どもは無理して学校に行っている」「大半の親は嫌がる子どもを無理して学校に行かせている」という認識はどうでしょうか。
嫌がらずに学校に行っている子どももいますから、正しい認識とはいえませんが、ある程度こういう現実があるということはいえるでしょう。

昔は子どもが不登校になったり登校をしぶったりすると、親はむりやりでも学校に行かせようとしました。
不登校は子どもの「わがまま」や「甘え」と見なされて、親は子どもを殴ってでも、引きずってでも学校に行かせるべきだと考えられていたのです。
小椋市長はその時代の考えのままです。不登校の子どもは親が甘やかしているからだと思っているので、「不登校になる責任の大半は親にある」という言葉が出てきます。

しかし、実際のところは、むりやり登校させようとしてもうまくいきません。泣き叫ぶ子どもをむりやり学校に連れていくことになり、次の日も同じことが繰り返されるので、実質的に不可能です。それに、これをやると親子の信頼関係が壊れて、自殺、家庭内暴力、引きこもりにつながるとされます。
ですから、子どもを強制的に登校させるのはよくないという認識が関係者の間で広まりました。

文科省はこの認識を受けて、それまでの「学校に戻す」という原則を捨てて、1992年からフリースクールですごした日数を小中学校の出席日数として算入可能とし、卒業要件にすることも可能としました(2009年からは高校も可能に)。
さらに文科省は、不登校は特定の子どもに特有の問題があることによって起こることではなく「誰にでも起こりうる」ことだとしました。

どうやら文科省は不登校を容認する方向に転じたようです。
なにしろ不登校は増え続けているので、そうせざるをえなかったのでしょう。

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2022年度の不登校は29万9048人と過去最多を更新し、この2年間は前年度からの増加幅が2割を超え、計約10万人の大幅増となりました。


不登校の子どもを放っておくわけにはいきません。
フリースクールといってもいろいろありますが、不登校の子どももフリースクールなら通える場合が多いのです。
あるいは、普通の学校は通えなくても通信制の学校なら通えるという場合もあって、そのために通信制高校が増えてきました(私立通信制高校は2000年度は44校でしたが2022年度は195校)。

つまり文科省は「学校がいやな子どもはフリースクールか通信制に行ってくれ」という方針のようなのです。


小椋市長はここにかみついたわけです。「僕は文科省がフリースクールの存在を認めてしまったということに、がく然としているんですよ」と語っています。
小椋市長は、学校とフリースクールは根本的に違うものだと見ていて、みんなが学校でなくフリースクールに行くようになると「国家の根幹を崩す」ことになると考えているわけです。

学校とフリースクールの違いとはなんでしょうか。そこに「国家の根幹を崩す」ようなものがあるのでしょうか。


フリースクールに通う子は学力が低いという根拠はありません。小椋市長も学力のことを言っているのではないと思われます。

むしろ逆のことも起こっています。
『「学校の授業は退屈…塾だけ行きたい」中学受験で“変わってしまった”息子 不登校は許していい?【お笑い芸人→教師経験者がアドバイス】』という記事にこんなことが書かれていました。

小学校3年生の息子が塾に通い始めたところ、担任の先生から「最近、息子さんは授業中ぼーっと外を見ていたり、集中力の低下が見られます」という指摘を受けます。息子に聞いてみると、「塾の先生の話はおもしろくて、わかりやすい。学校の授業はつまらない」と言います。ついには「学校に行かずに塾だけ行きたい」と言い出したので、親としてどうすればいいだろうという問題です。

塾の先生が優秀で、学校の先生が優秀でないなら、こういうこともありえます。学校で退屈な授業を受けるのは、時間のむだです。
最近は教育系のYouTubeで勉強したほうがいいということもあるようです。
学力に関しては学校の優位はほとんどありません。

学校に行くべきという人は、「集団生活に慣れることができる」とか「友だちができる」ということを学校の利点に挙げますが、そういうことはフリースクールや塾でもできます。
学校でしかできないとされることは、「規律を身につける」ということです。

「規律」は厄介な言葉です。たいていは「規則を守る・守らせられる」という意味で使われますが、「規範に従って自分を律する」という意味もあります。
つまり「他律」と「自律」のふたつの意味があるのです。
しかし、学校における「規律」はつねに「他律」の意味です。子どもは学校の規則を守らされるだけです。

戦前の学校では規律が重視されました。軍隊に入れば規則・命令は絶対だからで、学校からその準備をしていたわけです。
戦後の学校は当然変わらねばなりませんでしたが、実際はほとんど変わりませんでした。軍隊式の整列や行進が今も行われ、子どもは無意味な校則でがんじがらめになっています。
しかし、今の時代は規則や命令に従うだけの人間には価値がありません。ロボットやAIに置き換えられるだけです。
小椋市長が「国家の根幹」と言ったのは、戦前の価値観のままなのでしょう。


フリースクールは、一人一人に合わせた教育をするので、規律はありません。
ここが学校とフリースクールの決定的な違いです。

ということは、不登校の原因も見えてきます。
子どもたちは規律のある学校が嫌いなので、不登校になるのです。
他律はいくらやっても自律に転化することはありません。自律は自由の中からしか芽生えません。
他律ばかりの学校を子どもが本能的に拒否するのは当然です。
不登校が増えるのは、規律のある学校が時代に合わなくなっているからです。

学校はタダで幅広いことを教えてくれる便利な施設です。しかし、子どもが学校へ行くと、独禁法で禁じられている抱き合わせ販売のようにして、学校は「学習」といっしょに「規律」も押しつけてくるのです。
そのため子どもは自律心も自発性も創造性も失ってしまいます。

文科省はフリースクールを容認したのですから、フリースクールのよさを学校に取り入れる方向で教育改革をしなければなりません。

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人間はみな生まれつき能力が違うのに、今の学校ではみな同じ教室に入れられ、一斉授業を受けさせられます。
どう考えても理不尽です。
しかし、「人間は生まれつき能力が違う」と言うことは(とりわけ教育界では)タブーになっているので、この理不尽はいっこうに改まりません。

しかし、「人間は生まれつき能力が違う」と言うのはタブーでも、「人間は年齢によって能力が違う」ということは誰もが認めるでしょう。
ところが、日本の学校は能力の年齢差にすら対処していません。

小学1年生の教室には、6歳児と7歳児がいます。この年齢での1年の違いは大きいものがあり、そのため早生まれ(1月から3月生まれ)は損だといわれます。しかし、その違いは年齢が上がっていくとともに小さくなっていくので、そんなに気にすることではないとされてきました。つまり6歳と7歳の違いは大きくても、15歳と16歳の違いはわずかだというわけです。
しかし、最近の研究で、入学時の差は年齢が上がってもあまり縮まらないということがわかってきました。

朝日新聞は7月に3回にわたって「早生まれは損?」という特集記事を掲載しました。そこからいくつか引用します。
 朝日新聞は、昨夏に開かれた第104回全国高校野球選手権(夏の甲子園)に出場した49校のベンチ入りしたメンバー882人の生まれ月を調べた(登録変更は含まない)。どんな傾向があるのか。

 4~6月生まれ37・8%
 7~9月生まれ29・6%
 10~12月生まれ18・0%
 1~3月生まれ14・6%
高校生になっても生まれ月の影響は歴然としています。

プロ野球の選手、さらにはプロサッカー選手についてはどうでしょうか。

子どもたちが新学年を迎えるこの時期、頭に浮かぶのは、生まれ月がスポーツに与える影響だ。

 ジュニア期における学年内の成長差、体力差の影響が、大人になっても続く。

 プロ野球でみると、2020年に12球団の日本出身の支配下登録選手を、3カ月ごとの生まれ月で分けたところ、4~6月は32%、7~9月は29%、10~12月は22%、そして、1~3月は18%と比率が下がっていた。

 同年のJ1・18クラブの登録選手も、33%→32%→19%→16%。いずれも、統計的には「圧倒的に有意な偏りあり」だった。
なぜこれほどの差が出るのかというと、早生まれの子はスポーツを始めるとほかの子よりできないことに気づいて、すぐにやめてしまうということがあるでしょう。つまり分母の数が違うのです。
では、長く続けると生まれ月の差は縮小していくかというと、必ずしもそうとはいえません。
最初に補欠になった子どもは、自分はこの程度の実力と思い、たまに試合に出ても緊張していい結果が出せません。最初にレギュラーになった子どもは、練習にもやる気が出ますし、試合経験を積んで、実力をつけていきます。最初の差がさらに開いていくということがありえます。


生まれ月の影響はスポーツだけにとどまりません。
3月生まれが入学した高校の偏差値は、同じ学年の4月生まれに比べて4・5低い――。3年前、東京大学大学院の山口慎太郎教授(労働経済学)らがそんな研究を発表し、話題を呼びました。
(中略)
今回の研究では、学力の差もさることながら、「感情をコントロールする力」や「他人と良い関係を築く力」といった非認知能力の差が、学年が上がっても縮まらないことがポイントでもありました。

「鶏口となるも牛後となるなかれ」といいますが、早生まれの子はいきなり「牛後」となって、自分はその程度の存在と思って、一生「牛後」の人生を歩む可能性が高いといえます。


最近では早生まれの不利なことが広く知られてきて、生まれる月を考慮して“妊活”をする夫婦もあるといいます。
インターナショナル・スクールでは、その子の成長の具合を見て、入学を1年遅らせる選択ができるところもあります。
オランダでは、入学の日が決まっていなくて、4歳の誕生日がすぎたらいつでも入学できます(一斉授業ではなく個別授業です)。

早生まれが不利になるような教育制度は、早急に改革しなければなりません。



生まれ月が違えば能力差があるのは当たり前ですが、では、同学年の同月生まれの子はみな同じ能力かというと、そんなことはありません。身体的能力も知的能力も個人差があります。
これは生まれつきの能力差ですから、どうしようもありません。
問題は、能力の違う子どもに一律の教育を行っていることです。
おそらく教師は、平均的な子どもの少し上のところに向かって授業をしているでしょう。中央のボリュームゾーンの子どもはなんとか理解できるかもしれませんが、能力の下の層は理解できなくても放置され、授業中ずっと退屈な時間をすごすことになります(能力のかなり上の層も退屈しているでしょう)。

つまりさまざまな能力の子どもに対して一斉授業をしているために“落ちこぼれ”が生まれて、それが非行、犯罪につながり、また福祉の負担にもなっているということを、前回の「もうひとつのシンギュラリティ」という記事で書きましたが、そのときは文明論の観点から教育制度を批判しました。
しかし、教育制度は急には変わりません。
そこで今回は、今の学校教育制度の中でサバイバルする方法について考えました。


今の教育は、頭のよい子も悪い子もいっしょにして一斉授業をしているという問題に加えて、あらゆることを網羅的に教えているという問題もあります。

読み書き計算は、誰にとっても必要なことです。しかし、今の学校は物理や化学から地理や歴史、美術や音楽まで教えていて、これは誰にとっても必要なことかというと、そんなことはありません。
たとえばフレミングの左手の法則とか元素の周期表とか稲作の伝来ルートとか『源氏物語』とかオーストラリアの首都はシドニーでなくキャンベラであるといったことを子どもは教わりますが、これらの知識は、クイズ以外にはめったに役に立ちません。
もちろん電気関係の道に進めばフレミングの左手の法則の知識が役に立つでしょうし、古典文学が好きな人にとっては『源氏物語』の授業は価値あるものでしょう。しかし、大多数の人にとってはほとんど価値がありません。


網羅的な知識を教える教育に適応していい成績をとる優秀な人間は、最終的に官僚や大企業の総合職になり、一部は学者になり、日本という国を担う人材になります。

それほど優秀でない人間は、この教育を受けると中途半端な人間になりますが、「汎用性のある労働者」として企業には歓迎されるかもしれません。
ただ、苦労して網羅的な知識を身につけた割には報われません。

ちなみに教育基本法の「教育の目的」はこうなっています。

第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

「国家及び社会の形成者」には網羅的な知識が必要と考えられているのかもしれません。

しかし、子どもは「国家及び社会の形成者」になりたいとは思っていませんし、親も子どもを「国家及び社会の形成者」にしたいとは思っていないでしょう。
では、国民は教育になにを求めているかというと、「子どもの幸せ」です。
つまり子どもが将来幸せな人生を送れるような教育をしてほしいと思っているのです。

ここに国家と国民の大きな齟齬があります。
国家は「国のため」の教育をしていて、国民は「子どものため」の教育を望んでいるのです。


人生の第一の目標は、職業人として成功して、ある程度の収入を得て、社会的尊敬を受けることです。
職業といってもいろいろありますが、職業人として成功するのに、たいていは網羅的な知識は必要としません。むしろ逆にひとつのことを深く掘り下げていくことが必要です。

網羅的な知識を得てゼネラリストになるには、そうとうに優秀でなければなりません。たいていの人間はそこを目指すよりも、ひとつのことを深く追究したほうがいいはずです。
ところが、子どもが学校に行くと網羅的な勉強をさせられます。読み書き計算以外のことはほとんど役に立ちそうもないことばかりです。
ですから、子どもに「なんのために勉強するの?」と聞かれた親は、まともに答えることができないので、適当にごまかすしかありません。

子どもが早くに人生の進路を決めれば、網羅的な勉強は必要なく、「選択と集中」をすればいいわけですし、学校に行かないという道もあります。
職業人として成功すれば、学歴などどうでもいいことです。
藤井聡太七冠は高校中退ですが、教養がないなどと批判されることはまったくありません。


ただ、早期に人生の進路を決めるのは容易なことではありません。
本人の資質と環境の組み合わせがうまくいくという偶然にも左右されます。

偶然に左右されるとはいえ、チャンスを拡大するやり方もあります。
私が思うのは、子どもはとにかく好きなことをすることで、親はそれを止めないということです。
子どもがゲームに夢中になると、たいてい親は時間を制限したり、やめさせたりしようとしますが、やりたいことがやれないという不完全燃焼はほかにも影響します。
やりたいだけゲームをやると、たいてい飽きてほかのことに関心が向かいますし、飽きなくても「いつまでもこんなことばっかりやっていてもしょうがない」と考えるようになります。もしいつまでも夢中でやり続けているなら、そこに道が開けるでしょう(ゲーム依存症が心配かもしれませんが、なにかの依存症になるおとなはPTSDが原因なので、子どもも同様のことが考えられます)。

子どもがいろいろなことをやっていれば、将来につながる道を発見するかもしれないので、親はそうした体験の機会を提供することがたいせつです。
習い事をいろいろやるのもいいことですが、子どもにやる気がなかったらすぐにやめることです。
「やりたくないことをやらされる」ということほど心の成長を阻害することはありません。

私はやりたい勉強だけやっていればいいのではないかと考えています。たとえば数学と理科ばかりやるとかです。
もっとも、今の学校制度では不可能ですが。


ところで、これまでの私の主張を「能力別クラス編成」のようなものと思う人がいるかもしれませんが、それはまったくの勘違いです。
能力別クラス編成は学校が子どもを選別するものですが、私が言っているのは、子どもが自分の能力に合った勉強をするということです。

もうひとつ言うと、これまで教育を論じてきたのは頭のいい人ばかりなので、頭の悪い子どものことは眼中になかったようです。
私自身はというと、教育を子どもの側から、さらには頭の悪い子どもの側から見ているわけです。


将来東大に入れそうなほど頭のいい子どもはどんどん勉強すればいいでしょう。
あまり成績がよくないとか、勉強嫌いの子は、「選択と集中」でなにかひとつの道を究めて、将来それで食べていくことを考えるべきです。
そういう道が見つからない子は、とりあえず決められた勉強をして「汎用性労働者」を目指すか、早く就職することです。
あまり頭がよくないのに親にむりやり勉強させられて、三流大学にしか入れなかったというのはいちばんの悲劇で、子どもは挫折感と劣等感を植えつけられ、親を怨むことになります。

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私はコペルニクスの地動説に匹敵するような画期的な理論を発見し、別ブログの「道徳観のコペルニクス的転回」において紹介しています。
「コペルニクスの地動説に匹敵する」とは大げさだと思われるかもしれませんが、実際そうなのだからしようがありません(私は「究極の思想」とも呼んでいます)。

これまでは「天動説的倫理学」から「地動説的倫理学」への転換について書いていたので、ちょっとむずかしかったかもしれませんが、これからはわかりやすくなります。

コペルニクスの地動説は、太陽の周りを地球や金星や火星が回っている図を見るだけで理解できますし、金星や火星の動きはニュートン力学で明快に説明できます。
コペルニクス以前のプトレマイオスの天動説の天文学でも、金星や火星の動きを説明する理論が一応あったのですが、複雑で難解でした。
思想や哲学というと難解なものと決まっていますが、それはプトレマイオスの天動説と同じで、根本的に間違っているからです。


「道徳観のコペルニクス的転回」は第4章の5「とりあえずのまとめ」まで書いて、しばらく休止していましたが、今回公開分はその続きになります。
以前のものを読まなくても、これだけで十分に理解できますが、「道徳観のコペルニクス的転回」について簡単な説明だけしておきます。

動物は牙や爪や角を武器にして生存闘争をしますが、人間は主に言葉を武器にして互いに生存闘争をします。言葉を武器にして争う中から道徳が生まれました。「よいことをせよ。悪いことをするな」と主張して相手を自分に有利に動かそうとするのが道徳ですが、この善悪の基準は各人の利己心から生まれたので、人間は道徳をつくったことでより利己的になり、より激しく生存闘争をするようになりました。
一方、争いを回避する文化も発達しました。道徳ではなく法律や規則などで社会の秩序を維持することで、これを法治主義や法の支配といいます。文明が発達してきたのは、道徳の支配のおかげではなく法の支配のおかげです(あと、経済活動も道徳と無関係に行われています)。
しかし、法の支配が及ばない領域があります。ひとつは国際政治の世界で、もうひとつは家庭内です。このふたつはまだ道徳と暴力の支配する世界です。

家庭内には夫婦の問題もありますが、ここでは親子の問題だけ取り上げています。
「究極の思想」の威力がわかるでしょう。



第5章の1「教育・子育て」
「道徳観のコペルニクス的転回」を理解すると、世界の見え方が変わってくる。
これまでは誰もが文明から未開や原始を見、おとなから子どもを見ていた。これでは物事の関係性がわからない。進化の系統樹は、バクテリアやアメーバを起点とするから描けるのだ。人間を起点として進化の系統樹が描けるかどうかを考えてみればわかる。地球を中心にして太陽系の図を描けるかというのも同じだ。

子どもが自然のままに行動をしていると、あるとき親が「その行動は悪い」とか「お前は悪い子だ」と言い出した。子どもにとっては青天の霹靂である。そして、親の言動は文明の発達とともにエスカレートし、子どもは自由を奪われ、しつけをされ、「行儀よくしなさい」「道路に飛び出してはいけません」「勉強しなさい」などと言われるようになった。それまで子どもは、年の近い子どもが集団をつくって、もっぱら小動物を追いかけたり木の実を採ったりという狩猟採集のまねごとをして遊んでいたのだ。
『旧約聖書』では、アダムとイブは善悪の知識の木から実を食べたことでエデンの園を追放されるが、この話は不思議なほど人類が道徳を考え出したことと符合している。人類は道徳を考え出したばかりに、「幸福な子ども時代」という楽園を失ってしまったのだ。
親は子どもを「よい子」と「悪い子」に分け、「よい子」は愛するが、「悪い子」は叱ったり罰したり無視したりする。子どもは愛されるためには「よい子」になるしかないが、そうして得られた愛は限定された愛であり、本物の愛ではない。本物の愛というのは、「なにをしても愛される」という安心感と自己肯定感を与えてくれるものである。
今の世の中、どんな子どもでも「悪いこと」をしたときは、怒られ、叱られ、罰される。親としては、子どもが「悪いこと」をしたのだから叱るのは当然だと思っているのだが、「悪いこと」の判断のもとになる道徳はおとなが考え出したものである。親が道徳を用いると、親は一方的に利己的にふるまうことになる。それに対して子どもが反抗するのは当然であるが、反抗的な態度の子どもを叱らないと、子どもは限りなくわがままになるという考え方が一般的なので、親はさらに叱ることになる。こうして悲惨な幼児虐待事件が起こる。
人間の親子はあらゆる動物の中でもっとも不幸である。最近は哺乳類の親子の様子を映した動画がいくらでもあって、それらを見ると、親は子どもの安全にだけ気を配って、子どもは自由にふるまっていることがわかる。子どもが親にぶつかったり親を踏んづけたりしても、親は決して怒らない。しつけのようなこともしない。動物の子どもはしつけをされなくてもわがままになることはない。未開社会の子どももしつけも教育もされず、子ども同士で遊んでいるだけだが、それでちゃんと一人前のおとなに育つ。動物の子どもや未開人の子どもを見ると、文明人の親が子どものしつけにあくせくしていることの無意味なことがわかる。

どんなに高度な文明社会でも、赤ん坊はすべてリセットされて原始人として生まれてくる。赤ん坊を文明化しなければ、その文明はたちまち衰亡してしまう。したがって、どんな文明でも子どもを教育するシステムを備えている。文明が高度化するほど子どもには負荷がかかる(親と教師にもかかる)。人間は誰でも好奇心があり学習意欲があるのだが、教育システムつまり学校は社会の要請に応えて、子どもの学習意欲とは無関係に教育を行う。つまり少し待てば食欲が出てくるのに、食欲のない子どもの口にむりやり食べ物を押し込むような教育をしている。
こうした教育が行われているのは、文明がきびしい競争の上に成り立っているからでもある。戦争に負けると、殺され、財産を奪われ、奴隷化されるので、戦争に負けない国家をつくらなければならない。古代ギリシャで“スパルタ教育”が行われたのは強い戦士をつくるためであったし、近代日本でも植民地化されないために、他国を植民地化するために“富国強兵”の教育が行われた。
個人レベルの競争もある。スポーツや音楽などは幼いころに始めると有利な傾向があるので、親はまだなにもわからない子どもに学ばせようとするし、よい学歴をつけるためにむりやり勉強させようとする。
いわば親は“心を鬼にして”教育・しつけを行うので、そうして育てられた子どもは、親とは鬼のようなものだと学習して、自分は最初から鬼のような親になる。そうすると、生まれてきた赤ん坊を見てもかわいいと思えないし、愛情も湧いてこないということがある。これも虐待の原因である。
子どもにむりやり勉強させて、かりによい学歴が得られたとしても、むりやり勉強されられた子ども時代が不幸なことは間違いない。最大多数の最大幸福という功利主義の観点からも、子どもの不幸は無視できない。今後文明は、子どもが「教育される客体」から「学習する主体」になる方向へと進んでいかなければならないだろう。

最近、発達障害が話題になることが多いが、発達障害もまた多分に文明がつくりだしたものである。
たとえば学習障害(LD)は読み書き計算の学習が困難な障害だが、こんな障害はもちろん狩猟採集社会には存在しなかった。注意欠如・多動性障害(ADHD)は集中力がなく落ち着きがない障害だが、これは長時間教室の椅子に座って教師の話を聞くことを求められる時代になって初めて「発見」されたものである。自閉症スペクトラムは対人関係が苦手な障害だが、これも文明社会で高度なコミュニケーション能力が求められるようになって「発見」されたものだろう。
つまりもともとさまざまな個性の子どもがいて、なにも問題はなかったのであるが、文明が進むとある種の個性の子どもは文明生活に適応しにくくなった。個性は生まれつきのもので、変えようがないので、親や学校や社会の側が子どもに合わせるしかないのであるが、不適応を子どもの“心”の問題と見なし、子どもをほめたり叱ったりすることで子どもを文明生活に適応させようとした。実際には叱ってばかりいることになり、その個性の上に被虐待児症候群が積み重なった。おとな本位の文明がこうした子どもの不幸をつくりだしたのである。
したがって、発達障害という診断名がつくようになったのは、当人にとっては幸いなことである。虐待のリスクが少なくなるからである。

現在、子どものしつけや、習い事、進学などで悩んでいる親にとって、「道徳観のコペルニクス的転回」を知ることは大いに意味があるだろう。おとな本位の考え方を脱して、子どもの立場から考えられるようになるからである。
「問題児」という言葉があるが、存在するのは問題児でなくて「問題親」である。つまりさまざまな問題は、子どもではなくおとなや文明の側にあるのである。

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去年1年間に自殺した人の数は2万1881人で、前の年から874人増え、2年ぶりに増加しました。
しかし、最多だった2003年の3万4427人からはかなり減少しています。
問題は小中高校生の自殺者数です。全体が減少傾向なのに小中高校生の自殺者数は増加傾向で、今年は512人となり、過去最多を記録しました。

自殺する子どもは氷山の一角で、水面下には死にたくなるほど不幸な子どもがたくさんいることでしょう。

ユニセフが2020年に発表した報告書によると、「子どもの幸福度」で日本は38か国中で総合順位20位でした。この総合順位は「精神的幸福度」「身体的健康」「スキル(読解力、数学力、社会的スキル)」の3分野を総合したものです。
日本は「身体的健康」は1位でしたが、「精神的幸福度」は37位と下から2番目でした(「スキル」は27位)。

つまり日本の子どもは世界的に見てもきわめて不幸で、しかもその不幸はどんどんひどくなっているようなのです。

子どもを生んでも不幸になるならと、出産をためらう親もいるでしょう。
「子どもの不幸」は少子化の隠れた原因かもしれません。


どうして日本の子どもは不幸なのでしょうか。
子どもの主な生活の場は家庭と学校です。学習塾や習い事の教室、SNSなどは割合としてはごくわずかです。
ですから、不幸の原因のほとんどは家庭と学校にあり、家庭と学校を改革すれば子どもの幸福度は向上するはずです。

学校では、ブラック校則をなくすだけでも効果があるはずです。
ところが、そういう議論はあまり起きません。
逆に「ルールに従うことはたいせつ」という声が多く、中には「社会に理不尽な規則はいっぱいあるので、ブラック校則に慣れておいたほうがいい」などという意見まであります(こういう意見の人は社会をよくしようという気持ちはまったくないのでしょう)。

ランドセルが重くてたいへんなので、引っ張って歩けるキャスターつきの「さんぽセル」という新製品を小学生が開発し、人気商品となっていますが、「筋力が鍛えられない」とか「手がふさがって危険」という反対意見があります。子どもが重いランドセルを背負うことは体の発育に悪影響があるはずですし、重いものを背負っていては機敏に動けなくて逆に危険です。

昔は子どもの負担をへらすために「ゆとり教育」が推進されましたが、どうやら今では「ゆとり教育」は間違いだったとされているようです。
そのせいか、学校教育全体が子どもに楽をさせるのではなく、子どもに負担をかける方向へといっています。

その結果かどうかはわかりませんが、学校でのいじめは増え続けています。
2021年度の小中高校などにおけるいじめの認知件数は61万5,351件と、やはり過去最多を記録しました。


では、家庭のほうはどうなっているのでしょうか。
子どもの自殺の背景には家庭での虐待があると推測されます。
幼児虐待というと、新聞記事になるような、子どもが死んだり大けがをしたりといった事件が連想されますが、それは氷山の一角で、水面下にはそれほど極端でない虐待が広がっています。

幼児虐待は身体的虐待、心理的虐待、性的虐待、ネグレクトに分類されます。
身体的虐待について、厚生労働省が2020年に全国五千人の親を対象に行った調査では、「過去6カ月以内にしつけとして子どもに体罰を与えたことがあるか」との質問に、1回でも「あった」と答えた人は33.5%、「体罰は場合により必要」などとする容認派が41.7%でした。

一昔前は体罰は当たり前に行われていましたから、身体的虐待は減少傾向だと思われますが、心理的虐待についてはもしかすると増加傾向かもしれません。

最近、「教育虐待」という言葉がよくいわれます。
「教育虐待」というのは、ウィキペディアによると「教育熱心過ぎる親や教師などが過度な期待を子どもに負わせ、思うとおりの結果が出ないと厳しく叱責してしまうこと」と説明されています。心理的虐待の一種です。
「教育熱心なのは子どもにとってよいこと」という考え方が一般的なために、教育虐待は増加しているかもしれません。

たとえば3月1日、埼玉県戸田市の中学校に17歳の少年が侵入し、男性教員にナイフで重傷を負わせるという事件がありました。逮捕された少年は「誰でもいいから人を殺したいと思った」と供述しているということです。また、近辺では猫の死骸が発見されるという事件が相次いでいて、少年はそれへの関与もほのめかしていて、酒鬼薔薇事件を連想させたことから、マスコミでもかなり騒がれました。

最近、通り魔事件などの犯人が「死刑になりたかった」とか「相手は誰でもよかった」と語るケースがよくあります。
これは「拡大自殺」といわれるものです。つまり他人を自分の自殺に巻き込む行為です。
戸田市の事件もそれだと思われます。

戸田市の17歳の少年について、デイリー新潮の『中学校襲撃の17歳「猫殺し」少年 叔母が涙ながらに明かす“暴走のきっかけ”「中学受験のプレッシャーで不登校に」』という記事から要点だけ紹介します。

少年の両親はともに東京都庁に勤める地方公務員で、有名私大に通う姉がいて、4人家族です。
少年の小学校時代の同級生は「ご両親がすごく教育熱心だったと聞いたことがあって、お姉さんがとても賢いって評判でした」と語りました。
少年は6年生のころから不登校の気が見られるようになり、地元の市立中学に入ってから本格的な不登校に陥りました。
少年の叔母は「小学6年生の時に中学受験のプレッシャーで学校に行くのが嫌になってしまったみたいで。その頃から不登校に……。自宅のトイレに『武蔵中学合格』と書かれた紙が貼られていたのを覚えています」と語りました。
少年は両親の思いを受けて、東京の名門男子進学校の武蔵中を目指しましたが、思うように学力が伸びず、やがて精神的に追い込まれ、不登校になってしまったということです。
叔母が「親から“学校に行け”と言われるのが嫌だったのか、6年生の時に、さいたま市にある私の両親(=少年の祖父母)の家まで逃げてきたこともありました」と語ったように、祖父母が少年の心のささえになっていたようです。
しかし、昨年5月には祖母が高齢者施設に入り、その家には誰もいなくなってしまいました。
なにかと酒鬼薔薇事件を連想させます。酒鬼薔薇事件の少年Aも、同居する祖母が心のよりどころでしたが、祖母が亡くなってからおかしくなったとされます。

親が教育熱心なあまり子どもに強いプレッシャーを加え、子どもがおかしくなってしまったのでしょう。
最近、こうした事件が多い気がします。

昨年の1月15日、大学入学共通テストが行われた日に、試験会場となった東京大学前の路上で2人の受験生と72歳の男性が刃物で切りつけられる傷害事件が起きました。殺人未遂容疑で逮捕されたのは高校2年の男子生徒(17歳)で、犯行時に「俺は東大を受験するんだ」などと叫びました。この生徒は愛知県の有名進学校の生徒で、 取り調べにおいて「医者になるため東大を目指していたが、1年くらい前から成績があがらず自信をなくした。人を殺して罪悪感を背負って切腹しようと思った」と供述しました。
週刊誌などの報道で、やはり教育熱心な親のいたことが明らかになっています。

子どもの自殺と拡大自殺の背後には、家庭におけるなんらかの虐待があります。
虐待をなくせば、子どもの自殺もへりますし、子どもの幸福度もアップすることは確実です。


ともかく、子どもの幸福度をアップさせようとすれば、家庭と学校を改革するしかありません。
ところが、学校を改革する議論はほとんどありませんし、家庭を改革する議論はそれよりもっとありません。
いや、むしろ逆行する動きがあります。
それは家庭教育支援法と青少年健全育成基本法の制定を目指す動きです。

安倍政権は両法案の成立を目指し、2014年に青少年健全育成基本法案を国会に提出しましたが、審議されないまま廃案となり、家庭教育支援法案は2017年に提出が断念されました。
しかし、いくつかの自治体で家庭教育支援条例が制定され、いくつかの地方議会で家庭教育支援法の制定を求める意見書が可決されています。
こうした動きの背後に日本会議、統一教会の存在のあることがわかっています。

両法案は成立していませんが、その法案の精神は自民党や文科省を通して日本の教育を方向づけているといえます。


家庭教育支援法と青少年健全育成基本法の問題点は、単純にいえば、子どもの権利や主体性を無視して、子どもを教育の客体と見なしていることです。

統一教会は勝共連合のホームページにおいて、子ども政策についてこのように書いています。
子供の成育における父母や家庭の役割を軽視する左翼系の活動家が、武器として用いるのが「子どもの権利条約」だ。活動家らは同条約によって子供が「保護される対象」から「権利の主体」に変わったと主張する。

実は、この条約には当初から拡大解釈を懸念する声が上がっていた。西独(当時)は批准議定書に「子どもを成人と同等の地位に置こうというものではない」と明記し、米国に至っては「自然法上の家族の権利を侵害するもの」として批准しなかった。

日本では、増え続ける虐待や子供の貧困をひきあいに「子どもの権利」を法律に書き込んでいないことが問題だと短絡的に考えられている。

しかし、虐待が起こるのは子供の権利が法律に書き込まれていないからではない。夫婦や三世代が一体となって子供を愛情で包み込む家庭や共同体が壊れているからだ。

 子供政策は、家庭再建とセットで考えるべきである。
https://www.ifvoc.org/news/sekaishiso202201/
完全に子どもの人権を無視している組織が政権の中枢に入り込み、教育行政に影響を与えていたかもしれないというのは恐ろしいことです。

「健全な子どもになりたい」とか「健全な子どもに教育してほしい」などと思う子どもはいません。
「子どもを健全にしたい」と思うおとながいるだけです。
そして、おとなの思う「健全」は子どもの望むものとは必ずしも一致しないので、「青少年健全育成」は子どもの自由や裁量を制限することになってしまいます。

家庭教育支援法も原理は同じです。親が子どもを思う通りの人間にしようとすることを支援するものですから、「教育虐待」がさらに進みかねません。

家庭教育支援法について、「家庭教育に国家が介入するのはよくない」として反対する意見がありますが、これでは子どもの教育権を巡って国家と家庭(親)が争っていることになり、子どもの主体性を無視していることではどちらも同じです。


これまでの日本では、子どもを「権利の主体」や「学習する主体」と見なすのではなく、「教育の客体」と見なしてきました。
それこそが子どもの幸福度が低い根本原因です。
家庭教育も学校教育も「子どもの人権」「子どもの主体性」を尊重するものに再編しなければなりません。

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不登校の“少年革命家”ゆたぼんさんがなにかと話題になって、この10月だけでYahoo!ニュース上でゆたぼんさんに関する記事が80本も配信されたということです。

ゆたぼんアンチの人がいっぱいいることはヤフコメを見てもわかります。それに対してゆたぼんさんとゆたぼんのパパである中村幸也氏が激しい言葉で反論するので、つねに炎上状態になります。

私はとくにゆたぼんさんの肩を持つわけではありませんが、ゆたぼんアンチの人にはあきれます。13歳の少年を攻撃しても生産的なことはなにもありません。

ゆたぼんアンチの人の心理を推測すると「自分はがまんして義務教育を受けたのに、ゆたぼんは学校に行かずに好き勝手なことをやっているのはけしからん」というところでしょう。

親や教師から体罰を受けて育った人がおとなになると、子どもに体罰をするということがよくあります。
ゆたぼんアンチもそれと同じで、自分がいやいや学校に通わされたのだから、ほかの子どももむりやり学校に通わせたいと思うのでしょう。
しかし、こういう発想では不幸が再生産されるだけです。
「自分が苦労したから次の世代も同じ苦労をするべきだ」ではなく、「自分が苦労したから次の世代には苦労させたくない」と思う人が世の中を進歩させます。

日本人のほとんどはいやいや学校に通ってきました(だから、ゆたぼんアンチが大量に発生します)。
ですから、するべきことは学校の改革です。


学校のだめなところは、授業がよくわからなくて退屈だ、授業の内容をがんばって理解したところで、それが人生にどれだけ役に立つのかよくわからない、校則や生活指導などがうっとうしい、同級生にいじめられるなど、多々ありますが、子どもを学校嫌いにさせるもっと根本的な問題があります。
それは、小学1年生で1コマ45分の授業中ずっと椅子に同じ姿勢で座わっていなければならず、それが1日に5コマもあるということです。
この年齢の子どもが同じ姿勢を続けるのは苦痛以外のなにものでもなく、学校に行くのは毎日が拷問のようなものです。
おとなはそのころのことをほとんど忘れていますが(苦痛なことはとくに忘れやすい)、授業中に一人の子が先生の許可を得てトイレに行くと、われもわれもとトイレに行く子が出てくることがよくあったのは覚えているでしょう。トイレに行きたいわけではなく、じっとしているのが苦痛で、少しでも体を動かしたいからです。

保育園や幼稚園では、子どもは床の上で立ったり座ったり寝転んだりしていました。それが子どもの自然な姿です。
小学校に入学したとたんに椅子に座った姿勢を強要されるのは自然に反します。子どもの発達にも悪影響があるはずです。生理学者や心理学者が警告を発しないのは不思議です(おとなにとっても長時間椅子に座っていることは健康に悪影響があると最近指摘されています)。

これは「一斉授業」というやり方です。一斉授業が行われているのは、教える側にとって効率がいいからで、教えられる側のことはまったく考慮されていません。


日本人は一斉授業が当たり前と思っているので、それ以外のやり方がわからないかもしれません。
代替策の見本は意外と身近なところにあります。それは寺子屋です。
寺子屋は自然発生して、幕末には全国で1万5000以上もあったといわれます。

東京都立図書館ホームページの「『寺子屋』ってなに?」というサイトから、寺子屋の様子を描いた絵を紹介します。
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子どもはみな好き勝手な格好をしていて、遊んでいるとしか見えない子もいます。
寺子屋の絵はほかにもいっぱいありますが、みな同じようなものです。

同じサイトから寺子屋を解説した文章も引用します。

明治初年の事例になりますが、東京府が行った調査によると寺子屋の師匠(ししょう)の大半は江戸の町民でした。多くは男性でしたが、都市部、特に江戸においては女性の師匠もいました。師匠たちは、寺子屋に学びにやってくる子供たち一人ひとりの親の職業や本人の希望を考え、それぞれにあったカリキュラムを作る個別教育を行っていました。

個別教育で、しかもカリキュラムも個人に合わせて作成していたのです。
これは理想の教育ではないでしょうか。

もっとも、寺子屋は「読み書き算盤」という初歩的なことを教えるだけなので、現代の学校の参考にはならないと思われるかもしれません。
そこで外国を見てみます。

ユニセフは2020年に「先進国における子どもの幸福度調査」を発表。総合ランキングは1位オランダ、2位デンマーク、3位ノルウェーで、日本は38か国中20位でした。
1位のオランダの学校教育の方法は、たとえば次のサイトで読むことができます。

尾木ママ絶賛! “日本教育の3周先を行く“オランダの「イエナプラン教育」

「“入試・テストなし” “チャイムなし” “時間割自由”」といったことが書かれています。
オランダの憲法は「学校選択の自由」と「教育方法の自由」を保障しているそうです。

オランダでは入学の日が決まっていなくて、4歳の誕生日がすぎたらいつでも入学できます。
つまり子どもはバラバラに入学してくるので、必然的に一斉授業はできず、個別教育になります。

日本では小学1年生のクラスには6歳の子と7歳の子が同居しています。この年齢で1年の違いは大きく、同じ授業を受けるのはむりがあります。
これまでは年齢が上になればこの違いは解消されていくと考えられていましたが、今では成長しても早生まれの人は不利であることがわかっています。
つまり早生まれの人は最初にクラスにおける劣等生になるので、その自己認識はのちの生き方にも影響するのです(詳しくは『早生まれは高校入試にも影響!? 東大教授が説く「不利のはね返し方」』を参照)。
早生まれの子の保護者は、わが子が不利にならないような制度改革を要求する必要があります。


明治になって学制が施行され、義務教育が始まって、寺子屋は一掃されました。
ここに劇的な教育体制の転換が起きました。
寺子屋は子どもの側が金を出して、学びたいことを学んでいたのですが、義務教育制度では、国家の側が金を出して、教えたいことを教えるようになりました。
つまり「子どものため」の教育から、「国家のため」の教育へ転換したのです。

当時の国家の目的は「富国強兵」で、そのために国民を兵士と産業労働者に育成しようとしました。
そこで重視されたのは「規律」です。規律とは規則を守ることです。
会社や軍隊などの組織に適応するには規則を守らなければならないからです。

寺子屋と学校では、教える内容に大きな違いはありませんが、規律があるかないかが決定的に違います。


戦後になっても同じ規律重視の教育が行われています。
これがまったく時代遅れです。
教師がバカみたいなブラック校則を守らせようとするのは、なにも考えずに命令に従う兵士を育成するには有効かもしれませんが、今は兵士を育成するという目的はなくなり、命令や規則に従うだけの労働者は最低賃金レベルの収入しか得られません。
高収入を得ようとしたら、(学力のほかに)創造性やチャレンジ精神が必要ですが、それらは自由の中でしか培われません。
小学校低学年を椅子に縛りつけておくのも規律を重視するからです。

ですから、今の学校教育に必要なのは「規律から自由」への転換です。


小中学生の不登校は増え続けていて、昨年度は前年から25%増えたというニュースがありました。

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「小中学生の不登校 昨年度24万人で過去最多 コロナ禍が影響か」より

これは要するに規律重視の学校教育が時代に合わなくなって、子どもが不適応になっているということでしょう。

ゆたぼんさんも、学校で勉強したくないわけではなくて、規律を求める教師とトラブルになったのが不登校のきっかけでした。

保護者も、学校や子どもに規律を求めることを考え直す必要があります。

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いじめ防止対策推進法が2013年に成立したのに、学校でのいじめは少しも解決せず、自殺につながるような深刻ないじめもあとをたちません。
それも当然で、いじめ防止法は学校のいじめ防止体制の整備やいじめが起きたときの対処法を主に規定するもので、いじめの発生を防止する規定はほとんどありません。
あえて探すと、次のようなことだけです。

第四条 児童等は、いじめを行ってはならない。
   ※
第九条 保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、その保護する児童等がいじめを行うことのないよう、当該児童等に対し、規範意識を養うための指導その他の必要な指導を行うよう努めるものとする。
   ※
第十五条 学校の設置者及びその設置する学校は、児童等の豊かな情操と道徳心を培い、心の通う対人交流の能力の素地を養うことがいじめの防止に資することを踏まえ、全ての教育活動を通じた道徳教育及び体験活動等の充実を図らなければならない。

文科省のホームページにある「いじめ防止対策推進法(概要)」も、学校のするべき基本的施策は「道徳教育等の充実」であるとしています。

道徳教育の好きな自民党らしい法律です。
しかし、道徳教育でいじめがなくなるわけがありません。
道徳で社会がよくなったり、道徳教育でよい人間がつくれたりするなら、とっくに理想社会が実現しています。
道徳を当てにする法律をつくったのが失敗でした。


そのため、いじめをする子どもを厳罰にしろという声が高まっています。
罰を抑止力にしていじめをなくそうというわけです。
これは刑法の基本的な思想でもあります。
しかし、一般社会でも厳罰化で犯罪はなくならないのですから、学校でも厳罰化でいじめはなくならないでしょう。
それに、こうしたやり方は、監視の目がないと悪いことをする人間をつくりそうです。

さらにいうと、いじめている子どもはたいてい自分はいじめをしているという自覚がありません。相手をからかっているだけ、いじっているだけ、いっしょに遊んでいるだけといった認識です(いじめられている子もたいていはっきりと「いや」という意志表示をしないものです)。
ですから、「いじめはよくない」とか「いじめた者は罰する」と言ってもあまり効果がないのです。


「いじめている側はいじめとは思っていない」ということがよくわかるニュースがありました。
“背の順”の整列に異議 小学校教員・松尾英明さんが訴え「いじめのひとつと考えてもいいんじゃないか」
 小学校で当たり前のように行われている“背の順”による整列。背の順に異議を唱える声が上がり、波紋を広げている。

 公立小学校教員・松尾英明氏は「背の低い順に並ばせるのは差別である」と自らの著書で訴えている。さらに「子どもたち同士の中でも背の高い、低いというのは気にするようになるんです。コンプレックスを抱くということがありますので傷つく人がいるということを考えると、これはいじめのひとつと考えてもいいんじゃないかと思っています」と主張している。

 “背の順”について、並ぶことが嫌とか思ったことあるか聞かれた街の子どもは「(男児)あまりない」「(女児)ない~」と答え、親は「考えたこともなかったです。すごく現代ならではだなと思いました」と気にしない意見が上がった一方、「背の順はイヤ。前の方もイヤです。目立ったりするし、(後ろでも)横から見ればいける。バラバラでもいいと思う」といった反対の声も上がっている。

 松尾さんは、背の順ではなく名簿順を勧めていて「名簿順であれば序列意識がなくなり、成長によって起きる“順序の変動”といった混乱も避けることができる」と指摘している。また、声をあげた理由について「全体の数%の子たちがすごく嫌な思いをしている。その声が全体の中の少数派であったとしても、少数派の人たちに目を向けるということ自体がものすごく大事なことだと思うので、私はすごく意味があることだと思っています」と心境を明かしている。(『ABEMAヒルズ』より)
https://news.yahoo.co.jp/articles/03a789e2c45a296eb91677997e6df5b183aee259
私も“背の順”による整列は当たり前と思っていたので、この記事には意表をつかれました。

私自身は背の高いほうだったので、小学校、中学校で校庭に整列するときはかなり後ろでした。そのときは背が高くてよかったと思いましたし、いつも前のほうにいる子はいやだろうなとも思いました。
男の子の世界では、背が高いことは価値があります。背が低いと、それだけで体力的に不利ですし、しばしば「チビ」と言われてバカにされます(「チビ」と呼ぶのはいじめであるとして、最近はないかもしれません)。
背の順に整列すると、背の低い子はそのことが誰の目にも歴然となります。当然いやに違いありません。
これは、体重の順に整列することを考えてみればわかるでしょう。あるいはテストの点数順の整列とかでも同じです。

もっとも、この記事についてのヤフコメを見ると、「背の順の整列は前を見やすくするための合理的なものなのでいじめではない」という意見が圧倒的です。

しかし、私自身の体験を振り返ってみると、小学校と中学校では校庭で背の順に整列していましたが、高校では整列ということをしたことがありません。朝礼というものがなかったし、全校集会とかなにかのイベントのときは整列せずに雑然と集まっていました。それでなんの問題もありませんでした。
校庭に整列するというのは軍国教育の名残です。整列する経験が役立つのは自衛隊か警察などに就職した場合だけで、一般社会では無意味です。
ですから、校庭や体育館に集合したとき、整列せずに雑然と集まっていればいいのです。そうすれば背の低さも気になりません。

なお、運動会で全員にかけっこをさせるのも、足の遅い子にとっては屈辱以外のなにものでもありません。こういうことをさせると自己肯定感が低くなり、競争嫌いの子どもになりかねません。競争は自分の得意な分野でするべきです。

背の順の整列にせよかけっこにせよ、させるほうは認識していませんが、一部の子どもにとってはいじめそのものです。

もっとも、いじめ防止法では、こうしたケースはいじめとは見なされません。いじめの定義が「児童生徒が他の児童生徒に行う行為」となっているからです。
教師や親が子どもをいじめても、いじめにはならないのです。
これもいじめ防止法の欠陥です。

社会にもいじめはありますが、それほど多くはありません。しかし、学校におけるいじめは圧倒的に多くあります(社会におけるいじめの数の統計はないので、比較できませんが)。
これは学校をつくってきた文科省や教育委員会や教師に責任があり、さらには親にも責任があります。


道徳教育も厳罰化もいじめ防止には役立ちません。
では、どうすればいいかというと、私の知る範囲ではシュタイナー教育の考え方がいいと思います。

日本におけるルドルフ・シュタイナー思想研究の第一人者である高橋巌の著書『シュタイナー教育の方法』から引用します。

そこで、そういう子どもの「いじめ」が中学一年生のクラスに起こった時に、現在の時点でどういう態度をとることができるかと言うと、先生はその暴力を引き起こしている子ども、いじめられっ子ではなく、いじめっ子の方とできるだけ親しくなる、ということが必要です。
まず先生は、暴力を引き起こしている「いじめっ子をかばう」という姿勢をとる必要があります。いじめっ子をかばうということは、いじめっ子がいちばんかわいそうな存在だからです。人をいじめるということでしか自分を表現できないのですから、どんなにその子の内面は苦しんでいるかわかりません。ですからまず先生はその子と仲好しになって、その子どもとだけでいろんな約束をするのです。たとえば「君はきっと今度の秋の運動会では百メートル競走の代表選手になるはずだから、一緒に今から練習してくれないか」とか、あるいは「このクラスのこの子はとてもからだが悪いので、君、ぜひ面倒をみてくれ」とか、「先生の代わりに、今入院している誰それのお見舞いに行ってくれ。その時に悪いけどこのお金でお花を買ってくれ」とか、そういうような形でその子どもと個人的に関っていく、というところから始めるのです。その子どもが他の子どもをいじめる必要がなくなるところまで面倒をみるということが第一です。
それから第二に、もちろんいじめられる子どもに対しても、同じようにできるだけ細かく配慮して、そしてその子がどうしていじめられるのか、そのいじめられる原因を見つけ出して、それを皆にわからない仕方で、解消するように配慮するのです。そういう筋道を先生が辿って行かないかぎり、問題は解決できません。

いじめっ子にいじめをやめさせる方法としては、これが王道であると思えます。

高橋は、先生は親のような立場に立てと説いています。
たとえば、子どもが犯罪を起こして親が警察に行ったときは、親は「自分の責任だ」と感じて、警察の側ではなく子どもの側に立つはずです。
「そういう形で子どもの側に立てれば、まともな先生なのです。ところが、裁判官であったり警察官であったりする態度をとって何とも思わない先生でしたら、それは教師でも何でもない、ということになります」と高橋は書いています。

今の世の中は、教師だけではなく親も警察官や裁判官の立場に立っている感があります。

シュタイナーの思想は神智学といい、神秘思想でもあり、かなり宗教的なものです。
宗教といってもいろいろありますが、深い宗教思想は善悪を超越します。
親鸞の「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」というのもそうです。
キリストの「汝の敵を愛せよ」というのもそうでしょう。

一般には「いじめっ子は悪、いじめられっ子は善」と考えられていますが、ひとつのクラスに善と悪があるのもおかしなことです。
善悪を超越した目を持つことがたいせつです。

シュタイナーの思想は「宗教的寛容」と名づけることができるかもしれません。


いじめは進化倫理学の立場から考察することもできます。

生物としての人間に基づいて倫理を考えるのが進化倫理学です。
哺乳類の場合、子どもは親に守られ、親に世話をされて、つまり親の愛情を受けて育ちます。
しかし、人間の場合、親は高度に文明化していますが、赤ん坊は原始時代と変わらない状態で生まれてくるので、親と子のあり方が大きく乖離しています。親は子どもの気持ちが理解しにくく、「なぜこんなことがわからないのか」といった理不尽な感情を抱きがちです。また、文明化された生活様式の中で子どもは物を壊したり汚したりするので、それも親にはがまんできません。そうしたことが親の愛情不足につながり、さらには虐待につながります。

また、文明社会に適応するには多くのことを学習しなければならないので、学校では子どもの好奇心や学習意欲以上のことを教えます。空腹になればおいしく食べられるのに、その前にむりやり食べさせるみたいなことをしているのです。

文明が発達すればするほど親と子が乖離し、学校での子どもの負担が増えます。こうしたストレスがいじめにつながっているのです。
ですから、いじめをなくすには家庭と学校のあり方から見直していかなければなりません。
いじめ防止法にはこうした発想がまったくなく、そのため効果がないのです。


いじめ対策としては、道徳教育も厳罰化もうまくいきません。これらはおとな本位の発想だからです。
宗教的寛容や進化倫理学によって、子どもの立場から考えることが必要です。

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東京都教育委員会は9月22日、2023年度の都立高入試で英語のスピーキングテストを導入すると正式決定しました。
もっとも、立憲民主党はスピーキングテストの結果を入試に反映させないようにする条例案を提出しているので、最終決定とはいえません。
スピーキングテストそのものは都内の公立中学の3年生全員を対象に11月27日に実施されることが決まっています。その結果が入試に反映されるかされないかがわからないという状況です。

そもそもスピーキングテストで「英語を話す力」が客観的に評価できるのかという疑問があります。
AIが採点するのではなく、人間が採点するのですから、採点者の主観が入る可能性が排除できません。
それに、これにはベネッセコーポレーションが東京都教育委員会と共同で開発した「ESAT-J(English Speaking Achievement Test for Junior High School Students)」というテストが使われるのですが、一民間企業が関係するということにも疑問を感じます。

文部科学省は英語の「読む・聞く・話す・書く」の技能の習得がたいせつだとして、大学入学共通テストに2020年度から英語民間試験を導入しようとしたことがありました。そのときは受験生の費用負担が大きくて、地域による不公平もあるということで反対論が高まり、そこに萩生田光一文科相が「身の丈に合わせてがんばって」と発言したことが炎上して、民間試験活用は見送られました。
東京都教育委員会は文科省が大学入試でやろうとして失敗したことの高校入試版をやるわけです。


どういうテストかと調べたら、東京都教育庁の「中学校英語スピーキングテスト(ESAT-J)」というサイトにテストの見本がありました。

テストのときは、テスト専用のタブレット端末・イヤホンマイク・防音用イヤーマフの3点が渡されます。受験生はタブレットに表示された問題を見て、答えを発声して録音し、その録音に基づいて採点が行われます。

テストはAからDまで四つのパートに分かれています。

パートAは、示された英文(4~5行ぐらい)を声に出して読むというものです。
英文を読むだけですから、発音が評価されることになりそうです。

日本人のほとんどは長年英語を勉強してきたのに英会話が苦手というコンプレックスを持っています。私は、スピーキングテストなどをすると、受験生が発音の正確さにこだわって、ますます会話が苦手になるのではないかと懸念していましたが、その懸念が的中したかと思いました。
しかし、それはパートAだけで、そのあとのパートは違いました。

パートBは、画面に出たイラストや文字を見て、それについての英語の質問に英語で答えるというものです(一部、こちらが英語で質問するというのもあります)。これは「聞く力」と「話す力」の両方が問われるものです。比較的やさしい問題ですが、ブロークンでも話さなければ点数にならないので、話す力はつくかもしれません。

パートCは、四コママンガを見て、その内容を英語で伝えるというものです。これはなかなかむずかしいと思いました。
その四コママンガを示しておきます。
スクリーンショット 2022-09-25 223300

パートDは、比較的長い英文の質問を聞いて、自分の意見を述べ、そう考える理由も説明するというものです。
これは質問のキーワードが理解できないとまったく答えられないという悲惨なことになる場合があります。

名前は「スピーキングテスト」ですが、パートBとパートDは半分「ヒアリングテスト」でもあります。文科省の「読む・聞く・話す・書く」の習得がたいせつだとする方針に従ったもののようです。


このテストはそれなりに意味のあるものですが、受験生にとってはそうとうな負担になります。
たとえば、自分の発声がちゃんと録音されているか心配だとか(最初に録音されていることを確認する作業があるのですが)、しばらく考える時間があって、「ピッ」という合図があってからしゃべりだすのですが、あせるといきなりしゃべってしまうかもしれません。
ですから、受験者は過去問をやって準備しておくことが必須です。
それになによりも、採点者の主観が入ってしまうことの不安はぬぐえないでしょう。


そのためアンケート調査では反対の声が圧倒的です。
ある教育業界ニュースサイトが実施したアンケートでは、有効回答111ではありますが、保護者の9割が反対で、教員免許保有者でも8割が反対という結果が出ています。
反対理由には「採点基準が不明確」「導入の経緯が不透明」「教育現場を混乱させる」「採点内容が非公開のため学習にも生かせないし異議申し立ても出来ない」というものがあります。

なぜこのように反対が多いかというと、東京都教育委員会が保護者や受験生の意見をまったく聞かずにことを進めてきたからです。
とりわけ当事者である受験生の意見を聞くことは欠かせません。
東京都教育委員会も文科省も、生徒の意見を聞かずに受験制度改革や教育改革を進めてきたのは、生徒の人権(意見表明権)侵害です。

それから、今は翻訳ソフトが進歩して、専用の翻訳機もありますし、スマホの翻訳アプリもあります。
「話す・聞く」を重視する今のやり方は時代遅れかもしれません。
時代に合った英語力はなにかというのはむずかしい問題ですが、いちばん真剣に考えているのは若い人ですから、やはり若い人の意見を聞くことがたいせつです。


「英語を話す力」のような客観的評価のむずかしいことを入試に取り入れたのは、文科省や東京都教育委員会が生徒に「英語を話す力」を身につけさせたいからです(おそらく日本人の英会話コンプレックスからきています)。
入試で見るのは客観的評価のできる基礎学力だけにするべきです。
「話す・聞く」のような部分は各自の判断で身につけていけばいいことです。


教師が生徒に勉強させたいときに言う魔法の言葉は「ここテストに出るぞ」です。
これを言われると生徒はみな必死でノートをとります。

今の入試改革は、要するに「ここテストに出るぞ」です。
「入試にスピーキングテストがあるぞ」と言って、生徒にスピーキングの勉強をさせ、「英語を話す力」を身につけさせようというのです。
たぶんその効果はあって、生徒はある程度「英語を話す力」を身につけるでしょう。

しかし、勉強はテストのためにするものではありません。
今の日本は、国を挙げて勉強の目的を見失っています。

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近ごろの若い人は元気がなく、人づきあいに消極的です。
もっとも、これは今に始まったことではありません。

1970年代半ば、私の実家では庭の一角にアパートを建て、アパート経営を始めました。すぐ近くに予備校があったので、予備校生(浪人生)専用のアパートにして、必ず一年で出ていってもらうことにしました。何年も居座る人がいてはアパートの雰囲気が悪くなると考えたからです。
つまり一年ごとに入居者(たいてい18,9歳)がすべて入れ替わるのです。
そのころ私は実家を出ていましたが、母親が「一年ごとに子どもたちが目に見えておとなしくなっていく」と言ったのが気になりました。
最初のころの入居者は、互いの部屋を行き来して友だちづきあいをし、ひとつの部屋に集まって話し込んだりして、騒がしかったが、年々みんなおとなしくなって、互いに交流せず、ずっと自分の部屋にこもるようになったというのです。

その変化が一年ごとにはっきり見えるというのが驚きでした。そんなにはっきりと変化していけば、十年、二十年たてば大きな変化になるはずです。


私は三十代半ば、日本ファンタジー大会(昔は日本SF大会以外にそういうのがあった)に出たのがきっかけで、SFやファンタジーのファンとつきあうようになり、あるとき食事会だか飲み会だかが行われました。私は酒を飲んだらみんな激しい文学論を戦わせるのだろうなと想像していたら、みんなあまり酒を飲みませんし、激しい議論もしないので、拍子抜けしました。
メンバーは平均的に私より十歳ぐらい若い感じでした。私は学生時代も会社員時代ももっぱら同年代とつきあっていたので、若い世代と飲み会をするのは初めてでした。“若者の酒離れ”は当時から言われていましたが、熱い議論をしないということに世代の差を痛感しました。

それから三十年余りたちました。若い世代はさらにおとなしくなり、人づきあいに消極的な傾向も強まっています。

「若い世代は元気がなく、人づきあいに消極的」というのは私個人の感想なので、客観的なデータで示したいところですが、これが意外とむずかしいことです。
暴走族の数がへり続け、今ではほとんど絶滅危惧種になっているというのが象徴的かもしれません。
博報堂生活総研が1998年から毎年実施している「生活定点」という調査があって、その中から「友人は多ければ多いほどよいと思う」と回答した人の割合の推移がグラフで見られます。
このグラフは、友人の数がへっていることを反映していそうです。

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6月に発表された2022年版の「男女共同参画白書」によると、20代男性のおよそ7割、女性のおよそ5割が「配偶者・恋人はいない」と回答し、「これまでデートした人数」を聞いた回答では20代独身男性のおよそ4割が「0人」と答え、“若者の恋愛離れ”として話題になりました。
これが話題になるということは、多くの人が「今の若者は人づきあいに消極的」という印象を持っていて、先行きを案じているからでしょう。


いつの時代も、生まれてくる赤ん坊は同じです。
「若い世代は前の世代よりも元気がなく、人づきあいに消極的」ということがもしあるならば、それは環境の変化にによって説明できなければなりません。

私たちの世代は、親が戦争を経験していて粗暴で、時代も戦後の混乱を引きずっていました。
ベビーブーマー世代でもあり、同世代での競争が激しく、狭い教室に多数が押し込められるというストレスもありました。この世代は、ベトナム戦争があったこともあって、世界的に“若者の反乱”を起こしました。
つまりベビーブーマー世代が元気(乱暴?)だったのには理由があります。

世の中が落ち着いてくると、若い世代も落ち着いてくるのは当然です。
「若い世代は元気がない」というのは、前の世代が過剰に元気だったのが正常化してきただけともいえます。
ただ、最近は元気のなさが行き過ぎて、人づきあいに関しても消極的が行き過ぎて、コミュニケーション障害という言葉が使われるようになっています。

もっとも、これも時代の大きな変化がもたらしたものです。
たとえば少子化が進んで一人っ子が多くなり、子どもの遊び場も少なくなったので、若い世代のコミュニケーション能力が発達しないのは当然です。
インターネットの普及、コンビニ、スーパーマーケット、ファストフード店など会話の少ない店舗が増えたことなど、さまざまな要素も関係しているはずです。
ですから、そう簡単に改善できることではありません。

ただ、子育ての間違いに原因のあることもあります。それはすぐにでも改善できます。


近ごろは赤ん坊の泣き声がうるさいとか、幼稚園の子どもの声が近所迷惑だとか、公園で子どもの遊ぶ声がうるさいといった苦情が多いので、子どもはつねに親や保育士や教師などから「静かにしなさい」とか「おとなしくしなさい」とか「行儀よくしなさい」などと言われています。そんな育てられ方をしたら、おとなしい子、つまり元気のない子になるのは当然です。
だいたい赤ん坊が泣いたり子どもが騒いだりするのは自然なことです。
「公共の場で子どもが騒ぐのはよくない」と言う人がいますが、公共の場というのは子どもも年寄りもいられる場です。子どもが騒いだときに排除していいのは、公共の場ではなくプライベートな場です。

昔は「子どもは元気がいちばん」と言ったものですが、最近は聞きません。
子どもが元気であれば、なにも問題はありません。元気でないなら、体調が悪いか、いじめなどの悩みがあるかですから、そのときに対処すればいいのです。

なお、「おとなしい」というのは、漢字で「大人しい」と書くように、大人のようであることを意味します。子どもに「おとなしくしなさい」と言うのは、子どもの正常な発達を妨げる行為です。


コミュ障が増えるのも、子育ての間違いに原因がある場合があります。

たとえば次の記事がわかりやすい例です。
ママ友の子が”大暴れ”!?ママ友に連絡すると→「衝撃の返信」に絶句!その後現れた姿に激怒した…
皆さんの周りに、ちょっと厄介なママ友さんはいませんか? ママ友付き合いは必要不可欠なので大変ですよね…。 今回は、そんな皆さんから集めたママ友エピソードをご紹介します。
(中略)

子どもが幼稚園児の頃、同じ幼稚園に通う、やんちゃで有名な兄弟が公園に遊びに来ていました。 兄弟げんか始まると、だんだんエスカレートして他の子の自転車やおもちゃを投げつけ合ってけんかするなど手に負えなくなってきました。 兄弟のママに電話をして状況を伝え、公園に来て欲しいと話したところ「いつものことだから放っておいて」と言われて絶句。 周囲の子も巻き込まれてしまいそうで危なかったので、その場にいたママ達で何とか収めました。 兄弟のママは、けんかが収まってしばらくしてからのんびり登場し、こちらへの謝罪やお礼も一切なく「何てことなかったじゃない」という表情ですぐ家に帰ってしまいました。 (54歳/主婦)

こんなママ友だと距離を取って接したいですよね…。 狭いコミュニティだからこそ、付き合う人は選びたいと思えるママ友体験談でした。 ※こちらは実際に募集したエピソードをもとに記事化しています。
https://trilltrill.jp/articles/2733049

昔から「子どもの喧嘩に親が出る」という言葉があって、子どもの喧嘩に親が出るのは愚かな行為とされています。
しかし、最近この言葉は死語と化しているようです。この記事も、子どもの喧嘩に親が出るのを当たり前のことと見なしています。

子どもが喧嘩するのは自然なことです。というか、夫婦喧嘩や戦争があるように、おとなになっても喧嘩をします。ですから、たいせつなのは喧嘩に対処する能力を身につけることです。
親が喧嘩に介入しては、その能力が身につきません。

親は子どもの喧嘩をずっと見ていて、ケガをしそうになったときだけ介入すればいいのです。
このやんちゃな兄弟も、放っておけばいずれ喧嘩はやめます(よく喧嘩しているようなので、家庭にストレスの原因があるのかもしれません)。

何度も喧嘩をすれば、「ここまでやると相手は怒り出す」という加減がわかってきますし、どんな喧嘩でも収まるということもわかります。
しかし、今は公園の遊び場や保育園などでおとなが喧嘩を止めているので、子どもはあまり喧嘩の経験がありません。人と深くつきあうと喧嘩になる可能性も増えるので、喧嘩を回避するために表面的なつきあいをする傾向が強まったのではないでしょうか。

若者のコミュ障は、おとなや社会がつくりだしたものです。

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学校が無責任なら、親も無責任、テレビのコメンテーターまでもが無責任と、無責任の三重奏です。
これでは容疑者の少年が救われません。

大学入学共通テストが行われた1月15日、試験会場となった東京大学前の路上で2人の受験生と72歳の男性が刃物で切りつけられる傷害事件が起きました。殺人未遂容疑で逮捕されたのは高校2年の男子生徒(17歳)で、犯行時に「俺は東大を受験するんだ」などと叫んだということです。
そして、 取り調べにおいて「医者になるため東大を目指していたが、1年くらい前から成績があがらず自信をなくした。人を殺して罪悪感を背負って切腹しようと思った」と供述したという報道がありました。

容疑者の少年も受験生だという報道が一時ありましたが、高校2年生なので受験生ではありません。
名古屋から上京して東大前で犯行に及んだということで、東大に強い執着があっただろうと想像されます。
親や学校はどういう教育をしていたのかが気になるところです。

すると、容疑者の少年の通っていた高校が事件の翌日にコメントを発表しました。

刺傷容疑の少年が通う高校が謝罪コメント 「コロナ禍で生徒が分断」
大学入学共通テストの受験生らが刺された事件で、殺人未遂容疑で逮捕された少年(17)が通う高校が16日、コメントを出した。全文は次の通り。

本校在籍生徒が事件に関わり、受験生の皆さん、保護者・学校関係者の皆さんにご心配をおかけしたことについて、学校としてお詫(わ)びします。

 本校は、もとより勉学だけが学校生活のすべてではないというメッセージを、授業の場のみならず、さまざまな自主活動を通じて、発信してきました。また本校の長い歴史のなかで、そのような校風を培ってきました。ところが、昨今のコロナ禍のなかで、学校行事の大部分が中止となったこともあり、学校からメッセージが届かず、正反対の受け止めをしている生徒がいることがわかりました。これは私たち教職員にとっても反省すべき点です。「密」をつくるなという社会風潮のなかで、個々の生徒が分断され、そのなかで孤立感を深めている生徒が存在しているのかもしれません。今回の事件も、事件に関わった本校生徒の身勝手な言動は、孤立感にさいなまれて自分しか見えていない状況のなかで引き起こされたものと思われます。今後の私たちの課題は、そのような生徒にどのように手を差し伸べていくかということであり、それが根本的な再発防止策であると考えます。
https://news.yahoo.co.jp/articles/c1767df2ba7df2cdd97fc6396e891b9dab54fa7f
コロナ禍の中で学校のメッセージが生徒に届かず、生徒が孤立感にさいなまれたことが事件の原因であるとしています。
これについては「コロナのせいにするのは無責任」という批判がありました。

内容も無責任ですが、このコメントの体裁も無責任です。
高校名が書いてないのです。誰が書いたかも書いてありません。
普通は「〇〇高校校長」などと文末にあるものです。
「全文」とあるので、省略はしていないでしょう。

この記事は朝日新聞デジタルの記事がヤフーニュースに載ったものです。
ほかのメディアの記事も調べてみましたが、やはり高校名や校長名はありません。
この高校はコメントは出したものの、高校名は隠すことにし、メディアもそのことを容認したものと思われます。
高校名を隠す高校も無責任ですが、そのまま記事にするメディアも無責任です。

もちろんそんなことは隠し通せるものではありません。
少年の通っていた高校は名古屋市の東海高校です。ここは私立の男子校で、中高一貫校ですが、高校から入学することもでき、少年は高校入学組だったようです。
有数の進学校で、2021年には東大に30名、京大に31名が入学し、文春の記事によると医学部進学実績がNo.1の高校だそうです。
文春の記事の中には「自由な校風」だと語る高校関係者が出てきますが、ウィキペディアによると、制服は黒の詰襟学生服だそうです。
私の中では「自由な校風」と「黒の詰襟学生服」は両立しません。私立男子校の進学校ということで、一流大学進学に価値を置くホモソーシャルな集団を想像します。

18日のFNNプライムオンラインのニュースにはこんなことも書かれていました。

少年は犯行時、「僕は来年東大を受けるんです」と叫んでいたが、新たに「偏差値73の高校から来た。実力はある」と騒いでいたことがわかった。 少年は調べに対し、「1年くらい前から成績が上がらず悩んでいた」と供述しているが、私服から高校の制服に着替えて、目標としていた東京大学で犯行に及んでいて、警視庁がくわしい動機を調べている。
https://news.yahoo.co.jp/articles/36c053fc97ae5f9df0ca9c5913419f6e8791ca88

わざわざ高校の制服に着替えて犯行に及んだのはどういう意味でしょうか。
高校へのいやがらせなのか、高校に誇りを持っていたのか、どちらも考えられます。
いずれにしても、少年が名門進学校の価値観にひどく影響されていたことはうかがえます。
その意味からも、東海高校は事件に対してもっと責任を感じたコメントを出すべきでした。


少年の父親は、東海高校のコメントから少し遅れましたが、同じく事件の翌日にコメントを出しました。

東大前3人刺傷 少年の父親が謝罪文「誠に申し訳ございません」
 大学入学共通テストの試験会場となった東京大(東京都文京区)近くの路上で受験生ら3人が刃物で刺された事件で、殺人未遂容疑で逮捕された私立高校2年の少年(17)=名古屋市=の父親が16日、少年の弁護人を通じてコメントを出した。全文は次の通り。

このたびは、世間をお騒がせしまして、誠に申し訳ございません。

 被害にあわれましたご本人様には、心より申し訳なくお詫(わ)び申し上げます。

 一日も早いご回復をお祈り申し上げますと共に、ご家族、ご関係者の方々にも併せてお詫び申し上げます。

 現在、警察による捜査段階で、私共がこの件に関して行動することを控えるよう言われておりますので、被害者様へのお詫びにもお伺いできず、心苦しい限りです。

 このたびは誠に申し訳ございませんでした。
https://news.yahoo.co.jp/articles/7868cfaeb866ce726aa91d84b9c3ed4edacd7288

父親の名前がありませんが、これはしかたありません。

「警察による捜査段階」を理由にして一切の説明を拒むとは、政治家や官僚がさんざんやってきた手口です。
この父親もそうした“上級国民”なのでしょうか(事件の翌日に弁護士がついているというのも早手回しです)。

親なら子どもを守ろうとするものですが、ここにあるのは自己保身だけです。
「私の教育が間違っていた。悪いのは私だから、息子を責めないでほしい」といったことが書かれていれば親心が感じられます。
そういう親心があれば、息子もこうした事件は起こさなかったでしょう。

少年が東大医学部に異様にこだわるようになったのは親の圧力のせいではないかと想像されますが、そのあたりを説明してほしいものです。


親や教師は、事件を起こした少年がすべて悪いということにしておけば自分たちは免責されますから、そういう方向に持っていこうとします。
テレビのコメンテーターは客観的に判断できるはずですが、やはり親と学校を免責する方向でコメントしています。

橋下徹氏 東大前刺傷事件の少年に「社会の責任にするというのは違うよと言っていかないと」
俳優の谷原章介がMCを務める「めざまし8」(フジテレビ系)で17日、東京大学前で大学入試共通テストの受験生ら3人が刺され、名古屋市の高校2年の少年(17)が逮捕された事件について、元大阪府知事の橋下徹弁護士が言及した。
(中略)
橋下氏は「少年事件ですから、刑事事件にならない限りは社会的な更生を目指していくのが第一目標になるんですが、ただあまりにも身勝手すぎ。今、自己責任というと批判される風潮があるんですけど、基本的には人生は自己責任が原則であり、ただ家庭の経済環境や親の虐待問題などあるから、社会がサポートしなきゃいけないけど、自分の人生を歩むうえでいろんな悩みがあるかわからないけど、社会の責任にするというのは違うよということを明確に言っていかなきゃいけないと思う。自己責任というと冷たい言い方だからといって自分の責任じゃないんだよという部分が強くなりすぎているという風潮を、危惧しています」と見解を語った。

 少年が通う高校はコメントを発表し「昨今のコロナ禍のなかで学校行事の大部分が中止になったこともあり、学校からメッセージが届かず、正反対の受け止めをしている生徒がいることがわかりました。密をつくるなという社会風潮のなかで、個々の生徒が分断され、そのなかで孤立感を深めている生徒が存在しているのかもしれません」とコロナ禍の状況が事件に影響した可能性を指摘。

 橋下氏はこれに「人生僕ら振り返ってみて目標、目的通りにすべてうまくいったことなんてないじゃないですか。いろんな選択肢があって、一つ目じゃなくても二つ目でも三つ目でもいいわけで、そういうことを子供たちに教育現場で教えていくことをしっかりやってもらいたい。悩みがある生徒を救ってあげるという基本的なところ。ただ原則として自己責任だよというところもしっかり教えなきゃいけないと思う」と分析した。https://news.yahoo.co.jp/articles/ce75b9aa19ba726c001a5b86ac842f9b88e406c7


橋下氏は「社会の責任にするというのは違うよ」と言っていますが、容疑者の少年の現場での叫びや取り調べでの供述が報道される中で、少年がそのようなことを言ったという報道はありません。
橋下氏が少年の心理を勝手に推測して、それを非難しているだけです。

「自己責任」という言葉についてはいろいろ批判されていますが、橋下氏はいちばん使ってはいけない場面で使いました。
「責任」というのは「自由」があってこそです。
高校2年生の少年にどれだけの自由があったでしょうか。

私は小学校のときから校長のスピーチなどで「自由の裏には責任」という言葉をいやというほど聞かされてきました。これは「お前たちには責任を取る能力がないから自由もないのだ」という意味でした。
生徒は自由のない生活をしているのに、なにか事件を起こしたとたんに「責任」を問われるのは理不尽です。

このケースでとくに問題なのは、少年が東大医学部を志望していたことです。
少年が自分で東大医学部という目標を立て、自分の実力がそれに及ばないことに気づいたとき自暴自棄になり、犯行に及んだというのなら、この少年が批判されて当然です。
しかし、自分で目標を立てたなら、自分で目標の修正もできるはずです。
東大医学部という目標を押しつけられ(おそらくは親に。高校の価値観もそれを後押し)、自分の実力がそれに及ばず、目標と現実に引き裂かれて自暴自棄になったとすれば、むりな目標を押しつけた者が批判されるべきです。

親と学校の管理下で生きてきた少年が事件を起こしたとたん、親も学校も責任をすべて少年に押しつけるというのが、今起きていることです。
テレビのコメンテーターもたいていは親の立場ですから(橋下氏は7人の子持ち)、親の責任逃れを手助けするわけです。

おとなたちがみなこうした無責任な態度でいる限り、同じような犯罪が繰り返されても不思議ではありません。



ところで、「職業選択の自由」は近代社会の基礎をなす重要な権利です。
医学部進学を押しつけるということは、医者になることを押しつけているので、明らかに職業選択の自由の侵害です。
今の世の中ではこういうことが平気で行われています。
親が子どもに多様な経験を積ませるためにピアノを習わせたり、少年野球チームに行かせたりするのはいいとしても、「子どもをピアニストしたい」とか「子どもをプロ野球選手にしたい」とか言いだすと、職業選択の自由の侵害です。これは子どもの人生を親が乗っ取るようなものです。

「子どもの人権」を尊重することから始めなければなりません。

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