村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

カテゴリ: 教育から学習へ

英才教育とか早期教育というと音楽と切っても切り離せません。モーツァルト神話というのがあって、モーツァルトは父親から早期教育を受けて才能を開花させた、だから、早期教育をするとモーツァルトみたいになれる――という非論理的なことが信じられているようです。
 
私は幼少期にバイオリンを習っていました。私は1950年生まれですが、この世代では周りにバイオリンだのピアノだのを習う子どもはほとんどいませんでした。
私は小さいころ、夜店で買ったラッパなど音の出るもので遊ぶのが好きだったらしく、両親はこの子は音楽の才能があるに違いないと思って、バイオリンを習わせたわけです。最初に行ったバイオリン教室では、先生は私が小さすぎて教えるのはむりだと思ったようで(4歳ぐらいだった?)、聞いているだけでよいというやり方でした。
その後、個人レッスンを受けるようになり、小学生5年生ごろまで続けていましたが、結局まったくものになりませんでした。自分で練習しないのでうまくなるわけがありません。本人にやる気がないと、なにを習わせてもだめだというよい例です。
 
両親は教育熱心で、ほかにも水泳教室、柔道教室に通わされました。習いごととは違いますが、ボーイスカウトにも入っていました。
当時、家の近くには学習塾はありませんでした。私が中学になったころに、かなり離れたところにようやくできました。もし近くに学習塾があったら、それも通わされていたかもしれません(当時、子どもの習いごとはソロバンか書道ぐらいで、学習塾というのはなかったのです)
 
あとで調べたのですが、私が子どものころすでにバイオリンの早期教育法である「スズキ・メソード」がかなり普及していました。両親もその考え方に影響を受けたのでしょう。
 
しかし、私はバイオリンの早期教育を受けた結果、バイオリンがものにならなかっただけでなく、クラシック嫌いになってしまいました。いや、音楽もあまり好きではないかもしれません。
 
私の1歳上の兄はきわめて音楽が好きで、ジャズとロックのレコードをいっぱい集めていました。私は兄がいたおかげでアメリカンポップスやビートルズを人並みに聞いていました。
私には音楽の才能はなかったでしょうが、もしバイオリンを習っていなければ、もっと音楽を楽しむ人生を送れていたような気がします。
 
私の数年あとの世代にはピアノなどを習っていた人がいっぱいいます。もっともピアノを習ったからといって、それが人生に役立っているという人はあまりいないようです。日本の家庭にはたくさんの高価なピアノがむだなスペースを占拠しています。
 
ピアノだのバイオリンだのを習っても、それを職業にできる人はわずかしかいません。“情操教育”という言葉がありますが、音楽を習った人の“情操”がどうなるのかわかっていないのではないでしょうか。
私の考えでは、小さい子どもには、童謡や子ども向けアニメの主題歌や「おかあさんといっしょ」で歌われるような、つまり子ども自身が好きな歌が合っているのです。クラシック音楽というのはもっとも子どもに合わない音楽です。子どもにクラシック音楽を学ばせるのは、子どもに足し算引き算ではなくいきなり高等数学を教えるようなものです。
 
とはいえ、クラシック音楽の世界では早期教育を受けた者しかやっていけません。これはもうクラシック音楽の世界が間違っているとしかいいようがありません。つまり間違った早期教育によって間違った音楽が成立しているのです。
いや、オーケストラの採算が取れないことを考えると、もはや成立しているとはいえないかもしれません。
今ではクラシック音楽よりロックなどのマーケットのほうがうんと大きくなっています。
親が子どもの将来を考えるなら、クラシックではなくロックの早期教育をするべきではないかとイヤミを言いたくなります。
 
ともかく、私は自分の経験から、子どもが学ぼうとする前に教える早期教育はよくないことだと考えるようになりました。
そして、普通の学校など教育のほとんどは、子どもが学ぼうとする前に教えており、これもよくないことに違いないと考えるようになりました。
 
「教育された自分はほんとうの自分ではない」というのが私の考えです。

朝日新聞とベネッセが共同で行った小中学校保護者意識調査によると、土曜日も授業をする「週6日制」に賛成の回答が80.7%にのぼりました(「完全週5日制」に賛成は17.9)
こういう調査結果を見ると、「親は子の幸せを願っている」という常識がもはや通用しないと思わざるをえません。
 
学校週6日制、8割賛成 公立小中の親、教育格差6割容認 朝日新聞社・ベネッセ調査
 
もっとも、授業時間をふやすことが子どもの将来の幸せになるのだという理屈で親は自分を正当化するのでしょう。
しかし、労働と余暇もそうですが、勉強と遊びにもバランスがあります。勉強時間をふやせばいいというものではありません。
学校を週6日制に戻すなら、労働環境も週6日労働制に戻してもいい理屈です。長く働けば日本経済のためになりますし、本人も経済的に潤うはずです。
しかし、本人はいやだと言うでしょう。
子どもも同じことです。学校週6日制はいやだと言うでしょう。
 
ここには自分のことは自分で決めるという原則がありません。
親も教師も文部科学省も子どものためを考えてやっていると言うでしょうが、子どもの意志を尊重するのがほんとうの子どものためです。
 
ところで、朝日新聞とベネッセの共同調査はなぜ保護者だけを対象にして子どもを対象にしなかったのでしょうか。
いや、これは朝日とベネッセだけのことではありません。これまで文部科学省、中央教育審議会、臨時教育審議会、教育再生国民会議などが教育改革について論議してきましたが、その議論に役立てるために保護者や教員を対象にアンケートが行われたことはあっても、小学生や中学生や高校生を対象にアンケートが行われたことは一度もないはずです。
 
子どもにアンケートしても回答が信用できないからという理屈はありません。というのは、イジメや体罰などの事実関係を把握するためのアンケートは行われ、その結果は信用されているからです。
つまり、事実関係については子どもの声を聞くが、子どもの意見や要望は聞かないというのがこれまでの大人のやり方です。
 
これは明らかにおかしなことです。日本も批准している「子どもの権利条約」は「子どもの意見表明権」を規定しているからです。国を挙げて子どもの意見を無視しているのは条約違反です。
 
 
ところで、朝日新聞とベネッセの共同調査の結果が発表されたのと同じ日の朝日新聞教育欄に、ちょうど参考になる記事が載っていました。高校生に政治や社会の問題について意見を言わせるという授業が行われているという記事で、そこから大阪府立緑風冠高校の教諭佐藤功(52)の授業の部分だけ引用します。
 
(教育あしたへ 先生の挑戦:4)改憲・竹島、直球で議論 考える主権者育てる
 佐藤には定番の手法がある。新聞記事やビデオで説明し、意見を書かせる。自分の考えは述べない。生徒の声のいくつかを選び、賛否に分かれて紙上討論を重ねる。
 橋下徹が大阪府知事時代に主導した府教育基本条例案を取り上げた一昨年秋の授業でも、この手法を使った。当時の条例案は学力テストの学校別の結果公表や、保護者による校長、教員の評価を盛り込んでいた。生徒は書いた。
 「他国との競争に勝たないといけない。学力向上は必要」「『格差を受け入れてでも秀でた者を育てる必要がある』というのはおかしい」
 多くの生徒の賛意を集めた意見は「一番影響を受ける高校生に話もせずに条例案を通そうとするのが、一番意味不明」だった。
 「では、実際に条例を作った人に聞いてみよう」と佐藤が昨年企画したのが、大阪維新の会の府議と条例の内容を懸念する教師とのシンポジウムだ。高校生からも意見が出た。「学校評価を僕らがやっちゃダメなんですか?」
 
大人よりも子どものほうがよほどわかっています。
 
大人だけで教育改革を議論していても、これまでがそうだったように絶対にうまくいきません。
女性の生き方を男性だけで議論して決めようとしても絶対うまくいかないのと同じです。
 
いや、これは奴隷制にたとえたほうがいいかもしれません。
奴隷農場の農園主は奴隷の待遇について頭を悩ましたでしょう。あまりに悪い待遇では奴隷の働きが悪くなりますし、よい待遇にすると利益が少なくなります。そんなとき、農園主同士で話し合うことはしたでしょうが、奴隷に要望を聞くことはしなかったでしょう。一度要望を聞くと、奴隷がどんどん要望をエスカレートさせてくるかもしれないからです。
 
今、子どもに教育についての要望を聞かないのも、今の教育制度は子ども奴隷制みたいなものだからです。
 
教育改革を議論するなら、まず子どもの意見表明権を尊重して、さらに子どもを人間として尊重する制度にしていかなければなりません。

東大が推薦入試制度を導入することを決めました。「教育改革は、すればするほど悪くなる」というのが私の持論ですが、この改革はどうなのでしょうか。
 
数時間の面接も…東大推薦入試「多様な人材を」
東京大は15日、2016年度入試から推薦入試を導入すると発表した。2次試験の後期日程は廃止する。
 
 現在の東大には、受験学力は高くても学ぶ意欲が乏しい学生が目立つため、視野の広い意欲的な学生を獲得したいという。推薦入試は国立大82校のうち、13年度入試では76校が導入済みで、東大は最後発となる。
 
 定員は100人程度。受験生は11月に、高校までの活動実績を書いた願書や高校の調査書、学校長の推薦状などを提出する。各高校が推薦できるのは1~2人。1次選考を通った受験生は12月頃に面接を受ける。1月の大学入試センター試験で一定の水準を満たせば、2月に合格となる。推薦入学者には、大学院の授業の聴講が許可されるなどの特典がある。
 
 東大は各学部で求める学生の基準を公表し、それぞれの教員が面接する。「授業の内外で、幅広く学び、問題意識や深い洞察力を真剣に獲得しようとする人」が大原則。ボランティアなど体験活動の成果も、入学後にやりたい学問や研究との関連性を問うという。
 
 受験生の資質を吟味するため、面接は数時間に及ぶことも想定している。
 
 記者会見した佐藤慎一副学長は「従来のテストで把握できない資質や、優れた人材を発掘し、多様な人材を採りたい」とした。
 2013316  読売新聞)
 
前に東大が国際化のために9月入試を打ち出したときは、かなり激しい賛否両論がありました。しかし、今回の推薦入試制度導入については、あまり議論がないように思います。推薦入試制はすでに国立大も含めて多くの大学で実施されていますから、当たり前のことという感覚なのでしょう。
 
しかし、高校推薦というのは高校の先生の価値観が入りますし、大学での面接では面接官の価値観が入ります。つまり、よくも悪くも高校や大学の先生の価値観で入学者を選ぶというのが推薦入試制度です。
防衛大学校とか神学校とか、一定の価値観で選ばざるをえない学校もありますし、一般の私立学校にしてもそれぞれの価値観があるでしょう。
しかし、東大の場合、この記事を読むと、「視野の広い意欲的な学生」「授業の内外で、幅広く学び、問題意識や深い洞察力を真剣に獲得しようとする人」を選ぶのが目的のようです。
「視野の広い意欲的な学生」「授業の内外で、幅広く学び、問題意識や深い洞察力を真剣に獲得しようとする人」というのは、誰もがそういう人を求めますし、誰もがそうありたいと思いますから、価値観としては当たり前のものです。
国立の総合大学ですから、そんな変わった価値観があるはずもありません。
 
そうすると、面接官の“眼力”でたとえば「意欲的な学生」を選ぶことになりますが、入学希望者のほうも「意欲的な学生」を演じますから、これもけっこうたいへんなことになります。
 
さらに問題なのは、面接官の価値観で選ぶことになりますから、「多様な人材」と逆に、同じような人材ばかりが選ばれることになりかねないことです。
これは就職活動をする学生がみんな「リクルートスーツ」を着ているのを見ればわかります。面接官の価値観に合わせて服装を選ぶと、ああなってしまうのです(個性的な服装をすれば受かりやすいとなれば、みんな個性的な服装をするはずです)
面接官は、自分は広い視野を持った人間だと思っているかもしれませんが、実際はそうではないということです。そして、没個性の人間ばかりを採用する日本の企業は、あまり創造的な事業展開ができていません。
大学の面接においても、同じことが起こる可能性が大です。
 
高校での推薦や内申書についても同じようなことがいえます。高校の教師に評価されるような生徒はみんな優等生タイプでしょう。
 
これは大学や高校の教師や企業の面接担当者がよくないということではありません。人間が人間を評価すると、どうしてもそうなってしまうのです。
 
ですから、ほんとうに「多様な人材」を採ろうとすれば、ペーパーテストだけで選ぶのがベストです。そうすれば選ぶ人間の価値観は関係なくなります(ペーパーテストも限定された「学力」しか測れないという問題がありますが、それでも人間が人間を評価するよりはましです)
その代わり「へんな人間」や「困った人間」も大学に入ってくることになりますが、そうした人間を排除しようとすると、結局「多様な人材」を集めることはできなくなってしまうのです。
 
私の考えでは、高校入試や大学入試で内申書重視が行われるようになってから、中学や高校で教師の力が強くなり、校内暴力などの問題はなくなりましたが、生徒は抑圧され、イジメが増加しました。
教師の目を気にしていると、生徒はのびのびとすることができませんし、意欲や創造性もなくなってしまいます。
これこそが今の学校教育の最大の問題ではないかと私は思います。
 
ちなみに私の高校時代は、大学入試に内申書はほとんど評価されませんでしたから、教師にどう見られても入試の本番で力を発揮すればいいのだということで、気楽な学園生活が送れました。
 
東大までが推薦入試制度を取り入れると、ますます高校生活が抑圧的なものになってしまいます。
また、東大の評価も下がってしまうことが予想されます。これまで東大生といえば、少なくとも試験でいい点を取る頭のよさがあると見なされていました。しかし、推薦入試で入った学生もいるとなると、世間の人の東大生に対する尊敬の念が薄れてしまうと思います。
 
東大の推薦入試制度導入も、「教育改革は、すればするほど悪くなる」という一例です。

文部科学省は現在行われている公立学校の「週5日制」を廃止し、土曜日も授業をする「週6日制」導入の検討を始めるということです。ようやく「週5日制」が実現できたかと思ったら、また前に戻そうというわけです。
もちろんこれは「ゆとり教育」から「脱ゆとり教育」へ転換したことに関連しているわけですが、いったいそれはどういう理念に基づいているのでしょうか。「週5日制」から「週6日制」への移行が正しいことなら、次は「週6日制」から「週7日制」へ移行することになるかもしれません。
 
「脱ゆとり」というのはつまり「学力重視」ということですが、今の日本の若者を見たとき、学力の問題がそれほど重要でしょうか。
私の考えでは、今の若者にいちばん足りないのは人間関係能力、対人能力です。草食系男子というのも、要は女性とつきあう能力が欠けているわけです。非婚化・晩婚化も、経済問題ももちろん関わってきますが、根底には対人能力不足があると思います。オタクというのも、二人称に「お宅」という言葉を使う若者が奇異に見えたことからつけられた名称です。引きこもりは究極の対人能力不足です。
 
なぜ対人能力不足になるかというと、勉強や習い事に時間を取られて、子ども同士で遊ぶ時間が少なくなっているからです。授業時間をふやせば、ますます遊ぶ時間がなくなります。
 
とはいえ、保護者の多数は「週6日制」に賛成のようです。
 
東京都小学校PTA協議会が10年に実施した調査では、土曜授業について保護者の86%と教員の38%が「必要」、保護者の7%と教員の52%が「反対」だった。下村博文文科相は「徹底して土曜授業を導入したい。国民的な理解を得るなど省内で課題をクリアしたい」と話している。
 
保護者の考えが必ずしも子どものためを思ってのものとは限りません。今の親の多くは、競馬の馬主のように、子どもを人生レースに出走させて好成績を挙げたいと思っています。この場合の「好成績」というのは、どうしても一流学校とか一流企業といった世間の基準によるものになってしまい、子ども本人の希望は無視されます。
 
今の世の中、親でさえも子どもに対して利己的にふるまうケースが多くなっています。
親でない場合はなおさらです。つまり、多くのおとなの考える教育とは、子どものためのものではなくおとなのためのものです。
 
たとえば、自民党は公約の中に「道徳教育の充実、高校で新科目『公共』設置」をうたっていますが、道徳教育の中身というのはたとえば、「権利を主張する前に義務を果たせ」みたいなことです。
いうまでもないことですが、「権利を主張する前に義務を果たせ」という人は、他人が権利を主張せずに義務ばかり果たしてくれればいいと考えている自分勝手な人です。
 
おとなの考える教育が子どものためのものではなくおとなのためのものであるとすれば、私が考える教育も同じということになります。少なくとも私が考える教育が子どものためになるかどうかわかりません。
いや、誰が考えた教育であろうと、それが子どものためになるかどうかわかりません。
 
では、どうすればいいのかというと、子どもがみずから選べるようにすればいいのです。
自分が受ける授業の数が選べるようになっていれば、土曜日に授業をするか否かは問題ではありません。
また、道徳の授業と英語の授業と数学の授業と、どれでも好きなものが選べるようになっていれば、「道徳教育の充実」を実現したい人は、子どもが選択したくなるような道徳の授業をすればいいわけですし、これから英語力がたいせつだと思う人は、子どもが選びたくなるような英語の授業をすればいいわけです。
 
そんなやり方だと、子どもがどんな授業も受けず、遊びほうけてしまうではないかと思う人もいるでしょう。そうなったとすれば、それは自己責任ですから、しょうがありません。
子どもにそうなってほしくなければ、子どもが受けたくなるような魅力的な授業をいっぱい用意して、その授業がいかにすばらしくて子どものためになるかということを説得すればいいわけです。
そうすれば勉強と遊びのバランスも自然ととれます。
 
今のおとなのやり方は、子どもに強制的に授業を受けさせているので、授業内容がつまらないものになるのはもちろん、その授業がどれだけ子どものためになるかの検証もろくにされていません。遊びの不足という問題も生じています。
 
今私が言ったのは究極の教育改革ですから、すぐには実現できません。しかし、教育改革の方向性は明らかでしょう。
子どもが受けたくなるような授業をするということです。
 
消費社会では、企業は消費者が買いたくなるような商品を提供します。消費者のわがままに応えることで商品は向上し、消費者は豊かな生活ができるようになりました。
学校も同じことです。子どもが受けたくなるような授業を提供すればいいのです。子どものわがままに応えることで授業内容は向上し、子どもは豊かな知識を身につけることができるようになります。

世界の小中学生の理科と算数の学力の比較が発表されました。日本の小学4年生の得点が過去最高だったということで、文部科学省は「脱ゆとり」の成果が現れたと見ているそうです。
 
小4の理数学力改善、脱ゆとり効果か 国際テスト
2012/12/12 0:10
  国際教育到達度評価学会(IEA、本部オランダ)は11日、小学4年と中学2年が対象の国際学力テスト「国際数学・理科教育動向調査(TIMSS)」の2011年の結果を発表した。日本は全科目で平均点が上昇または横ばいとなり、小4は過去最高になった。国際順位は全科目で5位以内に入った。
 小4の成績が明確に上向いたのは1995年以降で初めて。文部科学省は「子どもの学力は改善傾向にある」と指摘。「脱ゆとり教育」路線を鮮明にした新学習指導要領の成果とみている。
 過去の調査と比較できるよう95年の国際平均点を500点とし、今回の得点を統計処理した。日本の平均点は小4の算数が前回より17点上昇、理科も11点上昇した。中2は数学が横ばい、理科も4点上昇だった。順位は小4の算数が5位、理科が4位。中2の数学が5位、理科が4位だった。
 調査は4年に1度。03年は順位下落が目立ち、学力低下論争が起きた。今回は小学校は50カ国・地域、中学校は42カ国・地域が参加した。経済協力開発機構(OECD)の学習到達度調査(PISA)で全科目トップだった上海は参加していない。日本は約8800人の小中学生が受けた。
 
ベスト5の国は以下のようになっています。
 
小4算数
1位 シンガポール
2位 韓国
3位 香港
4位 台湾
5位 日本
 
小4理科
1位 韓国
2位 シンガポール
3位 フィンランド
4位 日本
5位 ロシア
 
中2数学
1位 韓国
2位 シンガポール
3位 台湾
4位 香港
5位 日本
 
中2理科
1位 シンガポール
2位 台湾
3位 韓国
4位 日本
5位 フィンランド
 
 
要するに日本、韓国、台湾、香港、シンガポールという儒教圏の国が上位になっているのです。これは昔からそうです。
日本、韓国、台湾はハイテク産業の盛んな国です。学力の高さがそういう形で生きているのかもしれません。
しかし、ノーベル賞受賞者の数で見てみると、文学賞、平和賞を別にすると、韓国、シンガポール、台湾、香港はゼロです。日本にしても、いち早く先進国の仲間入りをしたことを考えると、決して多いとはいえません。
つまり学力はあってもあまり創造性はないということがいえるのではないでしょうか。
学力があるからいいというものでもありません。
 
儒教圏以外の国はフィンランドとロシアしかありません。しかし、朝日新聞には同じ調査の過去3回の結果が掲載されており、中学2年の場合は6位までの国が出ています。そうすると儒教圏以外の国がいくつも出てきます。それらの国は、ベルギー、イングランド、カザフスタン、エストニア、ハンガリー、スロベニアです。
これらの国の特徴はなにかと考えると、北のほうの寒い国と、ヨーロッパでもアジア寄りの国だということです。あと、ロシアを別にすると概して小さい国です。
 
私の勝手な想像では、寒い国では子どもは外で遊べないので家で勉強するのではないでしょうか。アジア寄りの国は儒教圏の影響を受けているということが考えられます。
 
小さい国が多いということも考えさせられます。アメリカ、中国、インドという国はどうなっているのでしょうか。
 
一般に競争が学力を上げるように言われています。全国規模の学力テストをやって競わせるのが最高の競争のようにも思われています。しかし、小さな国の学力が高いことを考えると、大規模な競争はむしろマイナスで、競争ではなくともに学ぶというやり方のほうがいいのかもしれません。
 
ともかく、「詰め込み教育」への反省から「ゆとり教育」が生まれたのですが、その結果もろくに見ないうちに「脱ゆとり教育」に変わっています。
日本の教育の変化は、子どものテストの成績が悪かったからといってあわてて子どもを塾に通わせる母親に似ています。
 
今回はちょっとテストの成績がよくなったわけですが、そんなことで喜んでいてよいのでしょうか。

一般に「教育」というのはよいこととされていますが、それは大いなる誤解です。人間は生まれつき学習意欲や好奇心が備わっており、それ以上に教育すると害が出ます。
学習環境が劣悪な途上国で学校をつくるのはもちろんよいことで、こういう場合は教育もよいことになりますが、今の日本ではもうすでに教育が過剰になっていますから、これ以上教育しようとすると害が拡大するだけです。
 
「しつけ」についても同じようなことが言えます。子どもが発達とともに身につけていくべきことを、親が発達よりも早くしつけようとすると当然害が生じます。
 
 
過剰教育や過剰しつけの害はいたるところに見られます。たとえば、次に紹介するのは、掲示板「発言小町」にあったもので、若い女性が婚約中の男性についての愚痴を書いたものです。
 
関白宣言…な彼に…(愚痴)   ナスカ 2012118 12:15
 一年後に結婚予定のナスカと申します。
彼は5歳年上。
大人の魅力に溢れた素敵な人でした。
 
ところが、結婚が決まった瞬間から、関白宣言さながらの俺様ぶり。
何か意見など言おうものなら、「はいって言えばいいんだ」…と怒涛の如く怒鳴り「これまで甘やかしてきたのがいけなかった、俺の責任でもある」などと言い私を教育してます。
 
先日は怒られ中に辟易してしまい、どこか遠いところを眺めてしまっていたのですが…「聞きたくないなら、それで構わない。今すぐここから出ていきなさい」「聞けるようになったら、来なさい」などと言われてしまいました。
 
近頃は反抗し、休みの日に会わずにいたりしていますが、「浮気をしたら別れる。お前がその気にならない限りそういう間違いは起きないのだから」と持論を展開。
 
結婚前にこんな関白宣言。予定外でした。
彼は、どこらへんまで突っ走るんだろうか…。
と…不安です。
 
長~い愚痴に付き合っていただきましてありがとうございました。
 
この書き込みに対するレスは圧倒的に「別れなさい」と助言するものです。そのうちDVに変わるだろうという意見も多くあります。
 
それにしても、結婚が決まったとたんに豹変するというのも困ったものです。私は、ある女性が2年ほど同棲して結婚したら男がDV男に豹変したという話を聞いたことがあります。結婚する前に相手をよく見きわめなさいといっても、そうなるとどうしようもありません。
 
この男性は、婚約するまでは礼儀ということを心がけていたのでしょう。婚約したとたんに、もう身内だから礼儀はいらないとなって、ほんとうの姿が出てしまったわけです。
 
ともかく、「私を教育してます」という言葉があるように、本来対等であるべき男女関係に「教育」が入り込んでしまったので、この男女関係は誰が見てもだめなものになってしまいました(もちろんこういう関係からみずから抜け出そうとしない女性のほうにも大いに問題があります)。
 
 
これは男女関係に「教育」が入り込むとだめになるといういい例だと思いますが、では、親子関係ではどうでしょうか。
同じ「発言小町」の掲示板に、子どもを教育・しつけしようとして悩む親の書き込みがありました。
 
何度同じことを注意させるのか。疲労コンパニオンの母です  あおざかな 2012924 9:07
 小学2年生の息子です。親がどんなに注意しても、いっこうに直そうとしません。見てて思うに、とにかく、テキトーな性格&物事を感覚でこなしてしまい、人の話を聞いてないといった感じで、注意しても、我流を通してしまいます。生活面では挨拶です。とにかく、挨拶をしません。いったい何万回「挨拶をしないさい」といったことか。。言うと、頑なに挨拶をしなくなってしまったので、今は、ひたすら、親の私が、挨拶をする姿を見せています。いつか、子供が「挨拶は大事なコミニケーションの一つなんだ」と気が付いてくれるのをひたすら待つしかないと思っています。
勉強についても、たとえば、漢字の書き順。。注意した、その瞬間から、間違った書き順を書き始めます。楽器の習い事をしていますが、先生からも注意をされています。「なぜ、この練習をしているか考えながらやりなさい。何を注意されたの?」っと。。。家では、先生に注意されたことを本人の口で説明させてから、練習させます。ゆっくり練習させて、何度も音階を練習し、さて、曲をやらせると・・・。はぁ・・・。まったく、直ってません。。(超脱力です)いつも、この繰り返し。。主人に言わせると、「注意されたことをすぐにできる子供なんていない。やろうとしてる気持ちはあってもできないんだよ。あれぐらいの年齢の男なんて何も考えてないんだから。」といいます。いったいどうしたらいいのかわかりません。習い事も勉強も、こっちが放り投げ当てしまえば、どれだけ親子喧嘩が減ることか。親は細かいことをイチイチ言わず、子供にまかせて、それがたとえ我流を通す事になっても、将来的に自己肯定感に結びつき、自信をもって人生を歩んでいけることになるのでしょうか?今朝はあまりに同じことの繰り返しで、頭をひっぱたいてしまいました。
なんで、直そうしないんだろう・・何も考えないんだろう。。。
 
この書き込みに対するレスは、ほとんどがもっと肩の力を抜いてとか、息子さんのだめなところばかり見ずいいところを見てあげてくださいといったものですが、うちも同じだというものもあります。
 
とにかく、これが過剰教育・過剰しつけの典型的な例だと思います。子どもの発達よりも親の期待が先に行きすぎてしまっているのです。
言い換えれば、この親は子どもに合わせるということができなくて、子どもを自分に合わせようとしているのです。
こうしたことは広く行われていると思います。
 
 
ところで、掲示板のふたつの書き込みを並べて紹介したのは、このようにして教育・しつけされた男の子が将来、婚約者に対して強圧的な態度で教育するような男性になるのではないかということを示したかったからです。
 
「疲労コンパニオン」の母親は、息子に必死であいさつをさせようとしていますが、あいさつや礼儀ができるようになってもよい人間になるわけではありません。そもそもあいさつや礼儀は他人とのつきあいに有効なだけで、恋愛関係や夫婦関係をうまくやっていくにはあまり役に立ちません。いや、逆にあいさつを強要するようなやり方が恋愛関係や夫婦関係に出てきてしまって、マイナスになります。
つまり子どもへの過剰教育が、婚約者を教育するような人間をつくるというわけです。
 
いい親子關係が築ければ、その子は将来いろんな人といい関係を築けるようになるはずです。
教育・しつけが親子関係を阻害しているのでは、本末転倒もいいところです。

9月1日の深夜、たまたまNHKEテレにチャンネルを合わせたら、ビル・ゲイツの講演をやっていて、これがおもしろいのでつい見てしまいました。
ビル・ゲイツは仕事を引退後、財団を設立して社会貢献活動をしています。彼が目指すのは、自然解決することのない問題にお金や英知をつぎ込むことで解決しようというもので、この講演ではマラリア対策とアメリカの公教育の改革について語っています。
ちなみにこの講演はTEDという組織が開催するもので、インターネット上に無料で公開されています。
 
ビル・ゲイツの現在の活動
 
彼の話によると、マラリアは1930年代には世界で年間500万人が死亡する病気で、ヨーロッパやアメリカ合衆国にも広がっていたそうですが、DDTとキニーネが開発されたことで先進国では撲滅され、今では貧困国の病となりました。そのためにマラリア対策に投じられる資金は薄毛治療薬の開発のための資金よりも少なくなっています。貧困国の問題解決よりも金持ちの男性の悩み解消が優先されるからです。こうしたことを踏まえて本来必要なところに資金をつぎ込み、殺虫剤と蚊帳を普及させるなどすれば事態は改善されると彼は言います。
 
彼の話はデータに基づいているので説得力があります。講演のあとの解説で、彼はなにかの問題に取り組むときは、その分野のすべての本をアマゾンで買い集めて読むということです。簡単なようでなかなかできることではありません。
ビル・ゲイツはもちろんIT業界で成功した偉大な人間ですが、この講演を聞くと、偉大な人間はなにをやっても偉大なのだなという気にさせられます。
 
講演の後半は、アメリカの公教育についてです。
アメリカの高校での中退率は3割にもなるそうです。白人以外については中退率5割で、低所得層では大学修了するよりも刑務所に入る率のほうが高いということです。
で、教育をどう改革するかということですが、教える能力の高い教師をふやすことがたいせつだと彼は言います(彼のいう教育改革とは学力向上だけのことで、人間教育とかイジメ対策とかは眼中にないようです)。しかし、教師の能力が伸びるのは最初の3年間だけで、そのあとは何年やっても教え方の質は変わらないという話には納得する人が多いでしょう(ほとんどの教師は毎年同じことをしていますから)
彼は、KIPPという指導要領によらない公立学校を成功した例として紹介します。そして、教師の能力向上は可能だとして、その方策を語ります。
それはつまり、生徒の学力をテストし、テストの結果によってその生徒を教えた教師の教え方を評価する(あるいはその教師に反省させる)というやり方です。単純にフィードバックといってもいいでしょうか。現在、アメリカでもこうしたやり方はほとんど行われていないそうです。
 
現在の学校のテストは、生徒の学力を評価するだけのものですが、Aのクラスの学力とBのクラスの学力を比較することで、Aのクラスの担任とBのクラスの担任の教える能力が比較でき、それを手がかりに教師は能力を伸ばしていけるというわけです(この説明はビル・ゲイツの言葉ではなく、私の理解したところです)
 
私はこのやり方には基本的に賛成です。橋下徹大阪市長は学力テストの結果を公表するよう主張し、議論を呼んだことがありましたが、橋下市長の狙いは上から学校や地域の教育委員会を評価しようということと思われ、これにはあまり意味がありません。しかし、個々の教師が自分の教え方を反省する材料に使うなら意味のあることです。
 
 
しかし、私はビル・ゲイツの教育改革論にある程度は賛成しますが、大きなものが抜けていると思います。
それは、「生徒の意志」です。
テストではかれるのは学力だけで、生徒がその教師をどう思っているか、その教科の内容をどう思っているかということははかれません。しかし、いちばんたいせつなのはそこなのです。
 
私は生徒に教師を選ばせればいいと思います。
自分のクラスに生徒が集まらなければ、教師は反省して向上しようとするでしょう。それは単に教え方にとどまらず、生徒に好かれる人間、信頼される人間になるということも含まれますから、自然と人間教育にもつながっていくわけです(とりあえず生徒が教師を人間として教育するわけですが、その教師がまた生徒を人間として教育するという相互的な教育になります)
 
そして、教科の内容も生徒に選ばせればいいと思います。
今は、学校の教科で確実に役に立つのは読み書き計算ぐらいで、そのほかのものは全部あやしいと言っても過言ではありません。
もちろん知識はないよりはあったほうがいいのですが、今の学校ではくだらない知識、偏った知識を注入されている可能性がたぶんにあります。
生徒に好きな教科内容を選ばせれば、教科内容は自然に進化していきます(もちろん教師はなにを教えてもいいという制度です)
 
ビル・ゲイツはウインドウズというすばらしい基本ソフトをつくりあげましたが、これは決して彼や彼の部下たちの努力だけによるものではありません。コンピュータ・ユーザーが自由によいものを選ぶ権利を持っていたからこそ、彼らの努力が報われ、さらなる努力へとつながったのです。
現在、日本のラーメンはきわめて進化した食べ物となっていますが、これは誰かがラーメン屋を教育したからではありません。客が好きな店を選んできた結果です。
日本の自動車会社がすばらしい車をつくれるようになったのも、ユーザーのわがままにひたすら応えてきた結果です。
 
教育内容を進化させるには、生徒が好きな教科を選ぶことができ、教師は生徒のわがままな要求に応えてなにを教えてもよいという制度にすればいいのです。
その結果、どういうことになるかというと、生徒はまず金持ちになりたいと思うので、「いかにしてお金を儲けるか」という教科が人気になるでしょう(ビル・ゲイツもそういう講演をしてほしいものです)。それから、「こうすれば異性にもてる」という教科も人気になるでしょう。あと、「健康で長生きする方法」ということで、医学や栄養学やスポーツ科学が学べることになるはずです。
英語や数学は、金持ちになる手段として学べばやる気をもって学べます。オシャレの方法だの喧嘩に勝つ方法だの労働者の権利だのも学校で学べるようになるでしょう。
 
ビル・ゲイツはユーザーから選ばれることで事業を成功させることができたのに、教育については生徒が選べる制度を提唱しないのは不思議なことです。
私は偉大なビル・ゲイツと比べるとまったく凡庸な人間ですが、少くとも教育については、ビル・ゲイツよりも一歩先を考えていると思います。

尾木ママこと教育評論家の尾木直樹氏が4月13日の日本テレビの「アナザースカイ」に出演し、オランダの小学校を視察したときのことを紹介しておられました。
オランダの教育のキーワードは「個別教育」です。オランダの小学校には時間割がありません。学年もありません。11人が別々のことをしているからです。なにをするかは子どもが選びます。
 
入学も日本のように4月に一斉にというのではありません。義務教育は5歳からで、5歳の誕生日の次の月から登校すると決まっていますが、実際は4歳から学校に通うことができます。つまり入学がバラバラなので、そもそも一斉の授業というのは不可能です。
 
オランダでは、子どもを200人集めることができれば学校が自由に設立できます。ですから、学校によって教育方針や教育内容がぜんぜん違います。100の学校があれば100の教育が行われているということです。
日本の場合は、学習指導要領によってこと細かく規定されていますから、実はどの学校を選んでも中身は同じです。ですから、中高一貫か中高別かぐらいしか選択の余地がありません。先生のレベルもほとんど同じですから、日本の学校の違いは、実際は生徒の違いによって決まります。
 
オランダの教育は日本とあまりにも違いすぎて、とても参考にならないと考える人がいるかもしれませんが、そんなことはありません。私は、オランダの教育はむしろ日本の伝統的な教育のやり方、つまり寺子屋と同じだと思いました。
寺子屋は、入学の時期はバラバラですし、1人1人教材が違うので、まさに「個別教育」が行われていたのです。
寺子屋については次のエントリーでも書きました。
 
「呉智英につける薬その2」
 
一斉教育、つまり子どもがみな同じ姿勢で先生のほうを向いて話を聞くというのは、ただ教える側にとって効率がよいだけで、子どもの生理に反します。また、4月に一斉入学というのも、6歳になったばかりの子とすでに7歳になった子を同じに扱うわけで、これも教える側の都合だけでやっているわけです。
近代学校というのは、兵隊と単純労働の労働者を効率よくつくるためのものです(少数の優秀な者だけがエリートになります)。
 
寺子屋というと、子どもは先生の前で正座して背筋を伸ばし、「論語」などを素読しているようなイメージを持たれるかもしれませんが、これはまったくの誤解です。子どもはそれぞれ好きな格好をして、半分遊びながら勉強していたのです。
寺子屋はあくまで読み書き算盤を教えるところで、行儀などは教えません。
「寺子屋」で画像検索して、いくつかの絵を貼っておきます。
 
 
 
イメージ 1
 
 
イメージ 2
 
 
 
イメージ 3
 
 
イメージ 4
 
 
イメージ 5
 
 
 
寺子屋は民間で個々につくられていたので、寺子屋についての記録というのはひじょうに少ないのです。しかし、寺子屋の師匠が亡くなると、教え子たちがお金を出し合ってお墓をつくることがよくありました。これを筆子塚といいます。寺子屋の研究者は全国の筆子塚を調べて、寺子屋が普及していく過程や寺子屋の数を研究しました。
教え子が師匠のお墓をつくるということから、師匠と教え子の関係が推測できます。今の学校にそうした関係があるでしょうか。
 
江戸時代後期の日本は、寺子屋のおかげで世界でもトップクラスの識字率であったといいます。
今の日本では、学習塾が寺子屋の伝統を継いでいると思います。学習塾では「個別指導」が行われていることが多いですし、学力をつけるには学校よりも学習塾のほうが明らかに優れているでしょう。
 
私は、今の画一的な学校はなくして、学習塾を学校に格上げすれば、今よりもうんといい教育ができるのではないかと考えています。
 

また成人式の時期となりました。成人式というと、マサイ族の男子は1人でライオンを仕留めないと成人になれないという話を思い出します。私はテレビでもこれを見たことがあります。
こんなサイトにも載っています。
 
マサイ族の若者はだいたい14,5歳になると1人でサバンナに出かけます。そしてライオンを仕留めると立派な成人と認められ、大事な部落の会議へも参加を許されます。尻込みしてライオン狩りへと出かけられない若者は、いつまで経っても成人と認められず、会議への参加はおろか結婚もできないといいます。
 
 
しかし、どこかあやしい感じがします。1人でライオンを仕留めるというのはハードルが高すぎる気がするのです。
そこでもう少し調べてみると、間違いだと主張するサイトがありました。
  
マサイ族の成人の儀式は「割礼」です。
男性だけでなく女性も行います。
ライオン狩りは行いません。
ライオンに立ち向かう勇気は必要とされますが、積極的に倒しには行きませんし、今は動物保護区になっているので、禁止されています。
 
 
調べてみましたがライオン狩りが現在は行われていないというのはどうやら本当のようです。
以下のような明確な記述がありました。
 
『ケニヤに26年滞在し、アフリカで最も多くの野生動物を殺した1人にあげられる J.A. ハンターはマサイ族のライオン狩りは既に1920年代には見られなくなったと書いている。
 グッギィスベルクは50年代にもまだ行われていたという。
バートラム(1978)は現在ではこの種のライオン狩りは禁じられているので、めったに行われないと言っている。
小原秀雄氏(1990)は最近やめになったとしている。
ライオンを狩ることは英雄になるための通過儀礼だったが、ライオンが少なくなったため、この儀式にこだわっていては戦士がもう生まれないからだという。
マサイ族のライオン狩 olamayio はもはや行われていないことになっている。ケニヤ、タンザニア両政府によって禁じられているからだ(bluegecko.org)。
 しかしマサイ族が家畜を殺された時には、禁令に反していまだにライオン狩りを行っているともいわれる(forests.org)。』
 
 
ちなみにウィキペディアの「マサイ族」の項目には、成人の儀式として割礼のことは書かれていますが、ライオン狩りのことは書かれていません。
もっとも、テレビでやっていたぐらいですから、多少それに似たことはあったのでしょう。
 
 
マサイ男子は1213歳ころになると割礼を受け、その後戦士の時代に入る。戦士だけの集落を作り、長老から立派な大人になるための修行を受ける。野生の中で家畜や家族を守るための知恵を学び、体を鍛える。そんな修行も十分だと長老たちが判断した頃、戦士の卒業式「エウノト」が行われ、彼らは大人になる。
 
 
おそらくこうした修行の中にライオン狩りもあったということでしょう。成人になる男子全員がライオン狩りで一匹ずつ仕留めていたら、その地域のライオンはいなくなってしまうはずです(ウィキペディアによるとマサイ族の人口は推定20万から30万人)
 
マサイ族はアフリカでもっとも勇猛な部族とされています。そういう部族の一部で行われていたらしいことを全体で行われていたことにして、それが未開社会における成人儀式の代表例のようにいうのは、大きな間違いです。
 
また、南太平洋のバヌアツ共和国では、足首に木のツルを巻いて高いやぐらから飛び降りるという、バンジージャンプの原型とされる成人の儀式がありますが、これなども世界でもっとも特殊な成人の儀式でしょう。これを成人の儀式の代表例のようにいうのも誤解を招くことです。
 
なぜ私たち文明人は、こうした特殊な成人の儀式を好んで取り上げるのかというと、未開社会も私たち文明社会と基本的に同じだと思いたいからでしょう。
 
実際のところは、文明社会と未開社会は大きく違いますし、中でもいちばん違うのは成人のあり方です。
未開社会では成人になるのにあまり苦労はありません。狩猟採集社会では、木の実などを取ってこられて、(ライオンでなく)シカなどを狩れるようになれば1人前ですし、農耕社会では、ある程度畑が耕せるようになれば1人前です(種まきの時期など技術的なことは経験ある人の真似をしていればいいのです)。しかし、今の文明社会で1人前になるのはたいへんです。長い期間教育を受け、人間関係のスキルも学び、規則正しい生活ができるようになり、それでちゃんとした職業につくか、つくことが可能な状態になって初めて1人前とされます。
文明が高度化するに従って成人になることの困難は増していきます。
もちろんこれは儀式の問題ではありません。儀式とは入学式に出席するようなことで、問題は入学試験に受かることであるわけです。
 
現在の日本では、若者は社会に適応するのにアップアップして、ちょっとしたつまずきで不登校や引きこもりやニートになってしまいます。
また、親も子どもを1人前にすることにたいへんな負担を感じていて、それも少子化の一因になっていると思われます。
 
文明はどこまでも進歩するものではありません。資源や環境の制約があるからです。
それにプラスして、人間の能力も制約になります。
未開社会の赤ん坊も文明社会の赤ん坊も、生まれたときの能力は同じです。ですから、文明が進歩するに従って1人前になるまでに時間がかかります。
人間はスペックの決まったコンピュータのようなものです。たくさんのソフトをハードディスクにインストールし、やっと仕事に使おうと思ったら、作業が複雑でメモリーが足りず、もうコンピュータの寿命が迫っているというのが今の文明人です。
 
「人間の能力は無限だ」みたいな考え方は幻想でしかありません。
能力の限界は教育で対応しようというのが文明社会の基本戦略ですが、それも限界に近づいています。
つまり、これ以上教育できない状態になっているのです。
そのため教育改革は「ゆとり」と「学力」の間を行ったり来たりしています。
 
これからは教育を改革するのではなく、少ない教育でも適応できるような社会にすることを目指すべきです。
 
人間は生まれつき能力が決まっているということを認識すれば、文明の進む方向もおのずと決まってきます。
人間観と文明観を転換する時期です。

私は京都生まれで、今では東京に住んでいる期間のほうが長くなりましたが、それでも自分は京都人だという意識があります。
京都人からすれば、天皇が東京に移ってからの日本というのは本来の姿ではありません。少なくとも、明治以降のものを日本の伝統だと思ってありがたがっている人を見ると、それは違うだろうという気になります。
京都人の意識が正しいとは限りませんが、少なくとも京都人は日本の歴史を長いスパンで見ていることは間違いありません。
もちろん京都人がみな同じようなことを考えているわけではありませんし、とりわけ私の発想は特殊かもしれませんが、その発想の根底に京都人的なものがあるのは確かです。
 
明治維新以降、近代化したことによるよさはいっぱいあります。たとえば、衛生思想の普及と医学の進歩によって乳幼児の死亡率が大幅に低下したことひとつとってもすばらしいことです。しかし、近代社会が人間的な社会かといえば、そうではありません。むしろ近代以前の社会のほうが人間にとっては生きやすい社会ではなかったかと思われます。
 
一例をあげると、おとなと子どもの関係があります。学校制度や近代教育思想がなかったころの日本において、おとなと子どもの関係はきわめて幸福なものでした。
中江和恵著「江戸の子育て」(文春新書)という本の「序にかえて」から引用してみます。
 
明治初期に来日し、東京から北海道まで旅行したイギリス婦人、イサベラ・バードは、日光からの手紙で、「私は、これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない」と書いている。常に子どもを抱いたり背負ったりしていて、歩く時には手を引いてやる。子どもの遊んでいる様子をじっと見守り、時に一緒に遊んでやったりもする。いつも何かしら新しい玩具を与え、遠足やお祭りに連れて行き、子どもがいない時は、さみしそうにしている――。
(中略)
あるいはまた秋田県白沢からの手紙では、仕事から帰宅した人々は子どもを見て楽しみ、背に負って歩きまわったり、子どもが遊ぶのを見ている、いかに家は貧しくとも、彼らは自分の家庭生活を楽しんでいる、少なくとも子どもが彼らをひきつけている、と記している。
 (中略)
一方、やはり明治初期に来日し、大森貝塚を発見したアメリカ人モースは次のように記す。
祭りには、大人はいつも子どもと一緒に遊ぶ。提灯や紙人形で飾った山車を、子どもたちが太鼓を叩きながら引っ張って歩くと、大人もその列につき従う。それを真似て、小さな子も小さな車を引いて回る。日本は確かに子どもの天国である――。
(中略)
一方、幕末にイギリスの初代駐日公使として来日したオールコックは、赤ん坊はいつも母親の背中に負ぶわれているが、父親が子どもを抱いて江戸の町や店内を歩いているのもごくありふれた光景だ、と記してその様子を写生し、「ここには捨て子の養育院は必要でないように思われるし、嬰児殺しもなさそうだ」と書いた。
このように幕末・明治初期に来日した欧米人は、日本人の子育てを驚きの目で見、盛んに賞賛したが、彼らの来日の半世紀近く前、文政三年から十二年(一八二〇~二九)まで長崎・出島のオランダ商館に勤務していたフィッセルは、次のような文章を残している。
「私は子供と親の愛こそは、日本人の特質の中に輝く二つの基本的な徳目であるといつも考えている。このことは、日本人が、生まれてからずっと、両親がすべてを子供たちに任せてしまう年齢にいたるまで、子供のために捧げ続ける思いやりの程を見るとはっきりわかるのである」
(日本人は)子供たちの無邪気な行為に関しては寛大すぎるほど寛大であり、手で打つことなどとてもできることではないくらいである」
 
 
子どもをたいせつにする文化、子どもが遊んでいることに共感する文化が昔からあったことは、平安時代末期の「梁塵秘抄」の歌を見てもわかるでしょう。
 
「遊びをせんとや 生まれけむ 戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子どもの声聞けば 我が身さえこそ揺がるれ」
 
『梁塵秘抄』の中でも大変有名な歌です。遊ぶために生まれてきたのか、戯れるために生まれてきたのか、遊んでいる子供の声を聞くと、体じゅうがいとおしさで震えがくる。これは乱世の中、庶民の家庭で母が子を思う歌です。
 
 
もっとも、武士階級の子育てはかなり違っていて、子どもをきびしく教育したようです。長州藩士の子どもであった乃木希典大将が幼児虐待ともいえる育てられ方をしたことは「乃木将軍とニンジン」というエントリーで書きました。
 
 
明治政府は、欧米列強に対抗するには、子どもをたいせつにする文化よりも子どもをきびしく育てる文化が必要だと考え、それを奨励しました。
その考え方は今にいたるも受け継がれ、その結果、幼児虐待が横行するようになり、公園で子どもが遊んでいると、その遊ぶ声がうるさいという苦情が寄せられたりします。
 
しかし、子どもや子どもの遊びをたいせつにする文化は今も日本文化の基底にあり、それが日本のマンガ・アニメの隆盛にもつながっていると思われます。
 
今後、日本が進むべき道は、子どもをたいせつにする文化を復活させる方向でしょう。

このページのトップヘ