村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

カテゴリ: 教育から学習へ

また成人式の時期となりました。成人式というと、マサイ族の男子は1人でライオンを仕留めないと成人になれないという話を思い出します。私はテレビでもこれを見たことがあります。
こんなサイトにも載っています。
 
マサイ族の若者はだいたい14,5歳になると1人でサバンナに出かけます。そしてライオンを仕留めると立派な成人と認められ、大事な部落の会議へも参加を許されます。尻込みしてライオン狩りへと出かけられない若者は、いつまで経っても成人と認められず、会議への参加はおろか結婚もできないといいます。
 
 
しかし、どこかあやしい感じがします。1人でライオンを仕留めるというのはハードルが高すぎる気がするのです。
そこでもう少し調べてみると、間違いだと主張するサイトがありました。
  
マサイ族の成人の儀式は「割礼」です。
男性だけでなく女性も行います。
ライオン狩りは行いません。
ライオンに立ち向かう勇気は必要とされますが、積極的に倒しには行きませんし、今は動物保護区になっているので、禁止されています。
 
 
調べてみましたがライオン狩りが現在は行われていないというのはどうやら本当のようです。
以下のような明確な記述がありました。
 
『ケニヤに26年滞在し、アフリカで最も多くの野生動物を殺した1人にあげられる J.A. ハンターはマサイ族のライオン狩りは既に1920年代には見られなくなったと書いている。
 グッギィスベルクは50年代にもまだ行われていたという。
バートラム(1978)は現在ではこの種のライオン狩りは禁じられているので、めったに行われないと言っている。
小原秀雄氏(1990)は最近やめになったとしている。
ライオンを狩ることは英雄になるための通過儀礼だったが、ライオンが少なくなったため、この儀式にこだわっていては戦士がもう生まれないからだという。
マサイ族のライオン狩 olamayio はもはや行われていないことになっている。ケニヤ、タンザニア両政府によって禁じられているからだ(bluegecko.org)。
 しかしマサイ族が家畜を殺された時には、禁令に反していまだにライオン狩りを行っているともいわれる(forests.org)。』
 
 
ちなみにウィキペディアの「マサイ族」の項目には、成人の儀式として割礼のことは書かれていますが、ライオン狩りのことは書かれていません。
もっとも、テレビでやっていたぐらいですから、多少それに似たことはあったのでしょう。
 
 
マサイ男子は1213歳ころになると割礼を受け、その後戦士の時代に入る。戦士だけの集落を作り、長老から立派な大人になるための修行を受ける。野生の中で家畜や家族を守るための知恵を学び、体を鍛える。そんな修行も十分だと長老たちが判断した頃、戦士の卒業式「エウノト」が行われ、彼らは大人になる。
 
 
おそらくこうした修行の中にライオン狩りもあったということでしょう。成人になる男子全員がライオン狩りで一匹ずつ仕留めていたら、その地域のライオンはいなくなってしまうはずです(ウィキペディアによるとマサイ族の人口は推定20万から30万人)
 
マサイ族はアフリカでもっとも勇猛な部族とされています。そういう部族の一部で行われていたらしいことを全体で行われていたことにして、それが未開社会における成人儀式の代表例のようにいうのは、大きな間違いです。
 
また、南太平洋のバヌアツ共和国では、足首に木のツルを巻いて高いやぐらから飛び降りるという、バンジージャンプの原型とされる成人の儀式がありますが、これなども世界でもっとも特殊な成人の儀式でしょう。これを成人の儀式の代表例のようにいうのも誤解を招くことです。
 
なぜ私たち文明人は、こうした特殊な成人の儀式を好んで取り上げるのかというと、未開社会も私たち文明社会と基本的に同じだと思いたいからでしょう。
 
実際のところは、文明社会と未開社会は大きく違いますし、中でもいちばん違うのは成人のあり方です。
未開社会では成人になるのにあまり苦労はありません。狩猟採集社会では、木の実などを取ってこられて、(ライオンでなく)シカなどを狩れるようになれば1人前ですし、農耕社会では、ある程度畑が耕せるようになれば1人前です(種まきの時期など技術的なことは経験ある人の真似をしていればいいのです)。しかし、今の文明社会で1人前になるのはたいへんです。長い期間教育を受け、人間関係のスキルも学び、規則正しい生活ができるようになり、それでちゃんとした職業につくか、つくことが可能な状態になって初めて1人前とされます。
文明が高度化するに従って成人になることの困難は増していきます。
もちろんこれは儀式の問題ではありません。儀式とは入学式に出席するようなことで、問題は入学試験に受かることであるわけです。
 
現在の日本では、若者は社会に適応するのにアップアップして、ちょっとしたつまずきで不登校や引きこもりやニートになってしまいます。
また、親も子どもを1人前にすることにたいへんな負担を感じていて、それも少子化の一因になっていると思われます。
 
文明はどこまでも進歩するものではありません。資源や環境の制約があるからです。
それにプラスして、人間の能力も制約になります。
未開社会の赤ん坊も文明社会の赤ん坊も、生まれたときの能力は同じです。ですから、文明が進歩するに従って1人前になるまでに時間がかかります。
人間はスペックの決まったコンピュータのようなものです。たくさんのソフトをハードディスクにインストールし、やっと仕事に使おうと思ったら、作業が複雑でメモリーが足りず、もうコンピュータの寿命が迫っているというのが今の文明人です。
 
「人間の能力は無限だ」みたいな考え方は幻想でしかありません。
能力の限界は教育で対応しようというのが文明社会の基本戦略ですが、それも限界に近づいています。
つまり、これ以上教育できない状態になっているのです。
そのため教育改革は「ゆとり」と「学力」の間を行ったり来たりしています。
 
これからは教育を改革するのではなく、少ない教育でも適応できるような社会にすることを目指すべきです。
 
人間は生まれつき能力が決まっているということを認識すれば、文明の進む方向もおのずと決まってきます。
人間観と文明観を転換する時期です。

私は京都生まれで、今では東京に住んでいる期間のほうが長くなりましたが、それでも自分は京都人だという意識があります。
京都人からすれば、天皇が東京に移ってからの日本というのは本来の姿ではありません。少なくとも、明治以降のものを日本の伝統だと思ってありがたがっている人を見ると、それは違うだろうという気になります。
京都人の意識が正しいとは限りませんが、少なくとも京都人は日本の歴史を長いスパンで見ていることは間違いありません。
もちろん京都人がみな同じようなことを考えているわけではありませんし、とりわけ私の発想は特殊かもしれませんが、その発想の根底に京都人的なものがあるのは確かです。
 
明治維新以降、近代化したことによるよさはいっぱいあります。たとえば、衛生思想の普及と医学の進歩によって乳幼児の死亡率が大幅に低下したことひとつとってもすばらしいことです。しかし、近代社会が人間的な社会かといえば、そうではありません。むしろ近代以前の社会のほうが人間にとっては生きやすい社会ではなかったかと思われます。
 
一例をあげると、おとなと子どもの関係があります。学校制度や近代教育思想がなかったころの日本において、おとなと子どもの関係はきわめて幸福なものでした。
中江和恵著「江戸の子育て」(文春新書)という本の「序にかえて」から引用してみます。
 
明治初期に来日し、東京から北海道まで旅行したイギリス婦人、イサベラ・バードは、日光からの手紙で、「私は、これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない」と書いている。常に子どもを抱いたり背負ったりしていて、歩く時には手を引いてやる。子どもの遊んでいる様子をじっと見守り、時に一緒に遊んでやったりもする。いつも何かしら新しい玩具を与え、遠足やお祭りに連れて行き、子どもがいない時は、さみしそうにしている――。
(中略)
あるいはまた秋田県白沢からの手紙では、仕事から帰宅した人々は子どもを見て楽しみ、背に負って歩きまわったり、子どもが遊ぶのを見ている、いかに家は貧しくとも、彼らは自分の家庭生活を楽しんでいる、少なくとも子どもが彼らをひきつけている、と記している。
 (中略)
一方、やはり明治初期に来日し、大森貝塚を発見したアメリカ人モースは次のように記す。
祭りには、大人はいつも子どもと一緒に遊ぶ。提灯や紙人形で飾った山車を、子どもたちが太鼓を叩きながら引っ張って歩くと、大人もその列につき従う。それを真似て、小さな子も小さな車を引いて回る。日本は確かに子どもの天国である――。
(中略)
一方、幕末にイギリスの初代駐日公使として来日したオールコックは、赤ん坊はいつも母親の背中に負ぶわれているが、父親が子どもを抱いて江戸の町や店内を歩いているのもごくありふれた光景だ、と記してその様子を写生し、「ここには捨て子の養育院は必要でないように思われるし、嬰児殺しもなさそうだ」と書いた。
このように幕末・明治初期に来日した欧米人は、日本人の子育てを驚きの目で見、盛んに賞賛したが、彼らの来日の半世紀近く前、文政三年から十二年(一八二〇~二九)まで長崎・出島のオランダ商館に勤務していたフィッセルは、次のような文章を残している。
「私は子供と親の愛こそは、日本人の特質の中に輝く二つの基本的な徳目であるといつも考えている。このことは、日本人が、生まれてからずっと、両親がすべてを子供たちに任せてしまう年齢にいたるまで、子供のために捧げ続ける思いやりの程を見るとはっきりわかるのである」
(日本人は)子供たちの無邪気な行為に関しては寛大すぎるほど寛大であり、手で打つことなどとてもできることではないくらいである」
 
 
子どもをたいせつにする文化、子どもが遊んでいることに共感する文化が昔からあったことは、平安時代末期の「梁塵秘抄」の歌を見てもわかるでしょう。
 
「遊びをせんとや 生まれけむ 戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子どもの声聞けば 我が身さえこそ揺がるれ」
 
『梁塵秘抄』の中でも大変有名な歌です。遊ぶために生まれてきたのか、戯れるために生まれてきたのか、遊んでいる子供の声を聞くと、体じゅうがいとおしさで震えがくる。これは乱世の中、庶民の家庭で母が子を思う歌です。
 
 
もっとも、武士階級の子育てはかなり違っていて、子どもをきびしく教育したようです。長州藩士の子どもであった乃木希典大将が幼児虐待ともいえる育てられ方をしたことは「乃木将軍とニンジン」というエントリーで書きました。
 
 
明治政府は、欧米列強に対抗するには、子どもをたいせつにする文化よりも子どもをきびしく育てる文化が必要だと考え、それを奨励しました。
その考え方は今にいたるも受け継がれ、その結果、幼児虐待が横行するようになり、公園で子どもが遊んでいると、その遊ぶ声がうるさいという苦情が寄せられたりします。
 
しかし、子どもや子どもの遊びをたいせつにする文化は今も日本文化の基底にあり、それが日本のマンガ・アニメの隆盛にもつながっていると思われます。
 
今後、日本が進むべき道は、子どもをたいせつにする文化を復活させる方向でしょう。

121日から大学3年生の就活がスタートしました。就活生はさぞやたいへんなことでしょう。自分をアピールするというのは、日本の文化にはほとんどないものですから。
また、「志望動機」なんていうのは結局捏造するわけですから、これも精神衛生に悪いでしょう。「私はこの業界の主な企業は全部受けています。御社は業界第3位だから選んだだけです」と本音を言っていいことにしてほしいものです。
 
私は大学中退ですから、就活といえば、新聞の求人広告を見て、面接を受けに行ったことぐらいです。最初、広告代理店を受けて落ち、次に出版社を受けて入社しました。
その出版社の求人広告のコピーを今でも覚えています。
「マスコミになろう!」
日本語のおかしな出版社を受けていいものかずいぶん悩みましたが、結局そこには9年勤めて、いろいろなことを学びました。
 
就活生といえばリクルートスーツです。あれを見て、没個性で気持ちが悪いという人がいます。確かにその通りです。しかし、あれは就職するために、面接担当者の価値観に合わせて着ているわけです。個性的な服のほうが合格率が高いということになれば、みんな個性的な服を着るようになるはずです。ですから、みんなが同じようなリクルートスーツを着るというのは、今の企業文化の反映と考えるべきです。
 
ということになると、今の企業は若い社員に対して、個性的であることよりも、企業に順応的であることを求めているのでしょう。花嫁衣装の白無垢は嫁ぎ先の家の色に染まりますという意味だそうですが、リクルートスーツもそれと同じようなものです。
 
こうした企業文化は、均質で安定した物づくりには適しているかもしれませんが、独創的なものを生みだす上ではマイナスでしょう。
 
こうした企業文化は、島国という日本の特性からもきているのでしょうが、それにプラスして学校教育の影響もあると思います。
日本のほんどの学校では、制服が決められ、その着方についても細かい規則があります。また、髪型や髪の毛の色についても規則があります。服装や髪形についてはつねに細かくチェックされ、違反が見つかると叱責や罰が加えられます。
 
多くの人はこうした学校のあり方をバカバカしく思っているでしょうが、それほど実害があるとも思っていないでしょう。しかし、教育の影響を甘く見てはいけません。
2010年のバンクーバー冬季オリンピックにおいてスノーボード代表の国母和宏選手が制服を“腰パン”にしていたということで大バッシングを受けました。これから国を代表して戦いに臨もうという若者を後ろから撃つ日本人がいっぱいいたのです。これは外国人にはまったく理解されませんでしたし、日本人自身もうまく説明できませんでした。
もちろんこれは学校教育の悪影響がもろに出た例です。国母選手を後ろから撃った人たちは、自分がされてきたことをしただけです。
 
就活生がリクルートスーツ一色に染められた光景も、中学高校の生徒たちの光景と同じです。
日本が今後、創造的な国家として生きていこうとするなら、教育から変えていかなければなりません。

国会に設置された原発事故調査委員会のメンバーに、サラリーマンでノーベル賞を受けたことで話題になった田中耕一さんが選ばれました。田中耕一さんの専門と原発事故の関わりはよくわかりませんが、元国連大使や元検事長もメンバーに入っている委員会なので、それは問題ないのでしょう。
やはりノーベル賞受賞者というのは権威がありますから、マスコミもほかのメンバーのことは差し置いて、もっぱら田中さんのことを話題にしています。
 
ノーベル賞受賞者が政府系の組織(厳密には小渕首相の私的諮問機関)に選ばれて話題になったというと、ノーベル物理学賞を受賞した江崎玲於奈さんのことが思い出されます。江崎さんは2000年、教育改革国民会議の座長に就任し、教育改革の中心的な存在になりました。
しかし、江崎さんが教育についてどれほどの見識を持った方であるのかは、その経歴を見てもわかりません。理系の研究生活一筋の人です。ただ、1992年に筑波大学学長に就任しています。しかし、大学学長の経験というのは、大学運営については詳しくなるでしょうが、小中学校などの教育について見識を深めることとは関係ないのではないでしょうか。
 
江崎さんが教えた弟子や後輩から優秀な人が輩出したという話もありません。
 
つまり、江崎さんに教育改革の重要ポストへの適性があるとはぜんぜん思えないのです。
 
もちろん江崎さんはノーベル賞を取るぐらいですから学者としてきわめて優秀な人です。ということは、江崎さんを教育した人がすばらしかったということになります。江崎さんを教えた教師の中でもっとも影響力のあった人を探し出して、その人に教育についての考えを聞き出すというのは大いに意味のあることですし、その人に教育改革の重要ポストについてもらうというのも一定の合理性があります。
つまり、江崎さんを教育改革国民会議の座長に選んだのは、明らかに教育者と被教育者を取り違えたミスキャストです。
 
また、2006年に教育再生会議というのが安倍内閣によって設置され、その座長にはノーベル化学賞を受賞した野依良治さんが就任します。これもまた教育者と被教育者を取り違えたミスキャストです。
 
実にバカバカしい間違いです。教育界というのはこの程度のものです。当然、このような会議がまともな教育改革の提言をできるわけがありません。
 
そして、江崎さんは有名な「優生学発言」をします。
 
 「人間の遺伝情報が解析され、持って生まれた能力がわかる時代になってきました。これからの教育では、そのことを認めるかどうかが大切になってくる。僕はアクセプト(受容)せざるを得ないと思う。
 ある種の能力の備わっていない者が、いくらやってもねえ。いずれは就学時に遺伝子検査を行い、それぞれの遺伝情報に見合った教育をしていく形になっていきますよ」 江崎座長は、そして「優生学」を口にした。
 「遺伝的な資質と、生まれた後の環境や教育とでは、人間にとってどちらが重要か。優生学者はネイチャー(天性)だと言い、社会学者はノーチャー(育成)を重視したがる。共産主義者も後者で、だから戦後の学校は平等というコンセプトを追い求めてきたわけだけれど、僕は遺伝だと思っています」
 
江崎「優生学発言」についてのYahoo!知恵袋
  
(私も人間は生まれつきの要素が大きいと思っていますが、江崎さんとは立場がまったく違います)
 
 
江崎さんのような人が教育改革について極端な意見を持つのはある意味当然です。
江崎さんはめちゃくちゃ頭がいいに決まっています。こういう人にとって、学校の授業はわかりすぎて退屈です。劣等生にとっては学校の授業はわからなくて退屈なのですが、江崎さんは逆です。
江崎さんは、授業が退屈なのはほかの生徒のレベルに合わせているからだと思ったでしょう。その結果、劣等生を切り捨てるような発想が出てくるわけです。
 
こういう極端に頭のいい人に教育改革の提言をさせてはいけません。
ノーベル賞を取れる頭のよさと、教育に対する見識はまったく別です。

「脱ゆとり教育」が本年度から小学校で始まりました(中学校では2012年度から、高校では2013年度から)。国の教育方針の大きな転換です。
いうまでもなく国あるいは文部科学省は「ゆとり教育」は間違っていたという認識のもとにこの転換を行ったはずです。となれば、これまでの教育が間違っていたと謝罪しなければなりません。
しかし、そんな謝罪は誰も行っていません。
うやむやのうちに転換してしまおうという了見のようです。
 
私のような世代にとっては、ある意味どうでもいいことですが、いわゆる「ゆとり世代」の人にとっては切実なはずです。自分たちの受けた教育が間違っていたとされているのですから。
そのため「ゆとり世代」という言葉は明らかに蔑称となっています。
もちろんつねに若い世代は上の世代からバカにされてきたわけですが、それは根拠なくバカにされてきたわけです。しかし、「ゆとり世代」に関しては、バカにされる根拠があることになります。
「ゆとり世代」は学力がないということになっているからです(これは必ずしも明確な根拠があることではないようですが、少なくとも文部科学省は学力がないと判断して「ゆとり教育」から転換したはずです)
「ゆとり世代」は、自分たちがバカにされるのは文部科学省のせいだとして抗議するべきです。文部科学省がそれを無視するなら、賠償金や慰謝料を求めて訴訟するべきです。
薬害被害者は厚生労働省を訴えています。「ゆとり教育」被害者も文部科学省を訴える資格があるはずですから、教育被害者の会を結成して訴えるべきです。
 
教育はもちろんたいせつなことです。それは教育が人間のあり方を決め、国のあり方を決めるからです。
文部科学省が勝手に教育方針をくるくる変えて(詰め込み教育→ゆとり教育→脱ゆとり教育)、その結果に責任を取らないでいいということになると、これからもいい加減な教育が行われることになります。それを阻止するためにも、「ゆとり世代」は文部科学省に抗議しなければなりません。
あるいは、今教育を受けている世代が「脱ゆとり教育」よりも「ゆとり教育」を受けたいといって抗議するのも当然ありでしょう。
 
現在、いい加減な教育が行われているのは、どうやら文部科学省の権威にひれ伏している人が多いからではないかと思われます。たとえば、日教組に抗議する人はけっこういますが、日教組の組織率はとっくに30%以下になっていますし、日教組が教育を支配しているわけではありません。日教組よりも文部科学省に抗議するべきでしょう。
現在、大阪で行われている大阪府知事選と大阪市長選のダブル選挙で大阪府の教育基本条例が争点のひとつになっていますが、この基本条例も文部科学省の方針の枠内のものですから、教育改革といってもたかが知れています。
 
文部科学省に教育に対する責任感を持たせるためにも、これまで教育を受けてきた人や現在教育を受けている人は、どんどん文部科学省の責任を追及していくべきです。

文部科学省が「復興教育」に取り組む方針だそうです。
「復興教育」ってなんだと思いますが、記事を読んでもよくわかりません。だいたい今の子どもがおとなになるころには復興も終わっているはずですし。
『非常時にも自ら判断し行動できる「生き抜く力」を育むこと』というくだりがあります。やはりこれがだいじなことでしょう。とすると、「防災教育」あるいは「災害対応教育」に主眼があるのだと解釈しておきます。
 
『一人ひとりが迷わず高台に逃げる「津波てんでんこ」の教えをもとに防災教育に取り組んでいた学校は、助かった子が多かった』という指摘があります。
これはだいじな指摘です。逆にいうと、「津波てんでんこ」の教えをもとに防災教育に取り組んでいなかった学校では、助からなかった子が多かったわけです。
つまり文部科学省の防災教育の不備が津波の犠牲を大きくしたということになります。
今回の大震災では、原発事故を起こした経産省、東電の責任が大きく問われましたが、防災教育をおろそかにしていた文部科学省の責任も当然問われるべきです。
 
もっとも、ほとんどの人にとって、「津波てんでんこ」ということを知ったのは震災後のことでしょう。これは民間伝承で、ほとんど忘れられていたからです。
自分の命を救うためのノウハウがほとんど忘れられてしまうということは、今の世の中のあり方に根本的な間違いがあることを示唆しています。
 
「津波てんでんこ」ということは、とりあえず自分が助かりなさい、そうしたほうが結果的に多くの人が助かる、ということでしょう。切迫した状況で人を助けようとしてはいけないということでもあります。
いわば利己的行動の勧めです。
 
今の世の中、利己的行動を勧める人はほとんどいません。逆に利他的行動や自己犠牲を勧める人はいっぱいいます。
それはみんなが利己的だからです。みんなは他人が利他的行動や自己犠牲をしてくれれば自分の利益になると考えているので、他人に利他的行動や自己犠牲を勧めるのです。
文部科学省が進めてきた道徳教育も同じです。ですから、「津波てんでんこ」の教えが道徳教育に取り入れられることもなかったのです。
 
しかし、これからの文部科学省は防災教育に力を入れるそうなので、「津波てんでんこ」も取り入れることでしょう。そうでなければ困ります。
 
ところで、話は変わるようですが、津波がくるとき、宮城県南三陸町の防災放送担当の24歳の女性が最後まで庁舎に残って住民に避難を呼び掛け、自身が犠牲になるという出来事がありました。この女性は秋に結婚式を控えていたそうで、よけい人々の涙を誘いました。
 
従来の道徳の副読本では、この手の話が好まれました。しかし、この話は防災教育には役立ちません。防災放送担当という特殊な立場の人の話だからです。一般の人はなにも考えずに逃げなければいけません。
 
文部科学省は防災教育において、こうした自己犠牲の話を取り入れたい欲望にかられるでしょう。しかし、それをすると災害時に犠牲をふやすことになります。
文部科学省は、これまでの道徳教育の間違いを認め、利己的行動を勧める方向に転換しなければなりません。

子犬や子猫を飼った人ならわかるでしょうが、彼ら彼女らはとても遊び好きです。
子猫は、猫じゃらしのように細かく動くものが大好きです(おとなの猫も同じですが)。細かく動くものというのは、ネズミのような小動物に似ているからでしょう。子猫は猫じゃらしに飛びつくことで狩りの練習をしているわけです。複数の猫がいると、愛猫家が「夜の大運動会」といったりする、家中を走り回る遊びをします。走り回って、取っ組み合いをし、また走り回ります。これは知らないと喧嘩をしているように見えるのですが、よく見ると、追いかけたり追いかけられたりと、役割を交代しながらやっているので、遊びだとわかります。つまり、追っかけて、格闘して、組み伏せるという遊びも、狩りの練習になっているわけです。
ちなみに、私の生家の庭にはイタチがときどき姿を現して、あるときやはり追っかけっこの遊びをしているのを見ました。そのうちやめるかと思ったら、飽きずに延々と続けています。そのとき私は、「イタチごっこ」の語源はこれかと思いました。
 
犬の場合は、細かく動くものをつかまえるよりも、たとえば投げられたボールを追いかけるような、大きな動きの遊びが好きです。猫は森で狩りをしますが、犬の祖先であるオオカミは平原で狩りをします。走って追いかけることが狩りの練習になるわけです。
また、子犬はやたら物をよくかみます。油断していると、すぐ靴やスリッパなどをだめにされてしまいます。犬は猫ほど前足は器用ではなく、獲物はかみついて倒し、とどめをさすのもかむ力によってです。かむ力は生まれつきある程度備わっていますが、もちろん鍛えることもたいせつです。子犬にとって物をかむことは楽しい遊びなのですが、結果的にかむ力が鍛えられます。
 
つまり、犬や猫において、遊びの多くは狩りの練習であり、生存に直結した行為であるわけです。
 
人間においても、基本的には同じです。サルは森で採集生活をするものですが、人間だけは平原で集団で狩りをするサルです。昔から子どもの遊びでよくあるのは、鬼ごっこ、隠れんぼ、缶けりなどですが、これらの遊びには探索、追跡、捕獲という狩りの基本が入っています。
ビジネスの基本も探索、追跡、捕獲です。もうかるネタを探索して、発見すると追跡して、捕獲してもうけを手にします。つまりビジネスというのは狩りの発展形といってもいいでしょう。
 
しかし、人間の子どもは遊んでばかりいてはだめで、勉強をしなければなりません。勉強とはいったいなんでしょうか。
人間社会は複雑ですから、子どもも複雑なことを学ばなければなりません。それが勉強というわけでしょう。
しかし、それが生きるために必要なことであれば、あくまで遊びの延長上にあって、遊びと一体となっていていいはずです。
しかし今、遊びと勉強は相反するものになっています。
なぜ勉強は遊びから分離し、さらには遊びを抑圧するものになったのでしょうか。
 
私はこれを文明の病理ととらえ、その病理を「子ども差別」と呼んでいます。
 
それはともかく、子どもに勉強をさせたいと思うのであれば、勉強を正しく位置づけないといけません。
まず、勉強を遊びという土台の上に置くことです。学習ゲームなどですでに現実のものになっています。
また、その勉強が将来社会に出たときに役に立つのだと子どもを説得することです。しかし、今の学校でやっていることは、ほとんどが役に立たないことなので、この説得は不可能です。説得を可能にするには、教える内容を根本的に変えないといけません。

学校における子どもの成績のつけ方に、相対評価と絶対評価というふたつのやり方があります。相対評価というのは、クラスで成績のいい者から順に正規分布の理論で5段階の評価をつけるというものです。絶対評価というは、たとえば九九を全部覚えたら「5」、半分覚えたら「3」、ほとんど覚えなかったら「1」というように、その到達度で評価をつけるものです。絶対評価だと全員に「5」がつくということもありますし、教師の主観も入りやすくなります。
戦後の教育は、公平だということでもっぱら相対評価が行われていましたが、だんだん絶対評価の要素が取り入れられ、今では全面的に絶対評価になっています。やり方がまったく変わるというところに、教育の世界のいい加減さが現れています。
 
では、相対評価と絶対評価のどちらがいいのでしょうか。これは子どもの立場から考えてみればよくわかります。
 
子どもにとっては相対評価というのはどうでもいいことです。
たとえば、あなたが英会話教室に行ったとします。そこで、自分の成績がクラスで何番目だという評価をされたらどうでしょうか。そんなことどうでもいいと思うでしょう。英会話能力を身につけるために行っているのですから、今のレベルなら海外旅行で不自由のない会話ができるとか、もう少しやればビジネスの会話もできるとか、そういうことが知りたいはずです。つまり絶対評価のほうがいいのです。
相対評価だと、クラスの順位を上げることを目標に勉強することになってしまいかねません。勉強の目的はそういうことではないはずです。
 
では、今の学校のやり方がいいのかというと、そうとも言えません。
ほんとうにだいじなことは、自分で自分の評価ができるということなのです。
たとえばなにか楽器をやりたいと思って、ギターを始めるとします。人に習わなくても、教則本を買って1人で学ぶことができます。最初は遅々として進歩しないので、いらつくかもしれません。しかし、昨日よりも今日、今日よりも明日というように進歩が実感できるようになれば、やりがいが出てきます。
また、今やっている仕事のスキルを向上させて、その分野で一流の人間になりたいとします。その場合も、自分で自分を評価しながら、一歩ずつ自分を向上させていくしかありません。
自分で自分を評価することができれば、目標に到達する過程にやりがいを感じることができます。努力家とはそういう人のことでしょう。
 
自分で自分を評価するとき、人が自分をどう評価しているかということは参考になります。しかし、今の学校のあり方は、教師の評価の力が強すぎて、逆に自分で自分を評価することを妨げている可能性が大です。
 
たとえば、音楽の授業でリコーダーが使われますが、リコーダーの習得を通じて、日々進歩していく喜びを感じた人はどれだけいるでしょう。ほとんど皆無ではないでしょうか。そのため、授業で使わなくなると、どの家でもリコーダーは打ち捨てられてしまいます。リコーダーに教育の姿を見ることができます。

運動会の季節になりました。最近の運動会は、子どもが傷つかないようにかけっこの順位づけをしないという話があります。ゴール前で手をつないで一斉にゴールするという話もあります。こうしたことには圧倒的に反対の意見が多いようです。実社会には競争があって、負ければ傷つくのだから、学校でもそうするべきだというわけです。
しかし、私の考えは違います。実社会の競争と運動会の競走はまったく別ですから、運動会の競走にはなんの意味もないばかりか、むしろマイナスになるという考えです。
 
確かに世の中にはきびしい競争がいっぱいあります。たとえば司法試験に受かろうと思えば、めちゃめちゃ勉強しないといけません。私は小説雑誌の新人賞をきっかけに作家としてデビューしましたが、小説雑誌の新人賞はどこも千倍ぐらいの競争率です。タレントオーディションもきびしくて、国民的美少女コンテストには十万人の応募があるそうです。
しかし、このような実社会の競争は、敗者がさらしものになることはありません。小説雑誌の新人賞は一次選考通過者、二次選考通過者と名前が誌上に発表されますが、落選者の名前は発表されませんから、黙って応募していれば恥をかくことはありません。美少女コンテストも履歴書と写真で多くは落とされますが、そのことは誰にもわかりません。司法試験も、不合格者の名前と点数が発表されるということはありません。
つまりきびしい競争というのは、競争そのものがきびしいのであって、敗者がさらしものになるというきびしさは普通はありません。
運動会のかけっこは、順位づけしないといっても、遅い子の姿は誰の目にもさらされます。つまり、競争そのもののきびしさというより、敗者がさらしものになるきびしさがあるのです。
 
それに、実社会の競争には自分の意志でエントリーするわけですから、当然自分の得意な分野を選びます。勉強嫌いで、記憶力の悪い人が司法試験を目指すことはありません。競争に負ければ傷つきますが、自分が選んだことだからと、自分を納得させることができます。
運動会のかけっこは、走るのが得意な子にはいいですが、得意でない子にとっては、いやいや走らされて、恥をかかされるわけですから、大いに傷つきます。
ですから、運動会のかけっこやその他の競争は、むしろ競争嫌いの子をつくってしまう可能性があるわけです。
 
対策としては、順位づけしないことではなく、自分の得意な競技にだけ参加できるようにして、どれも得意でないという子はどれも参加しなくていいようにすることでしょう。

おとなはみな大なり小なり変態であるというのが私の考えです。人間は、生まれたときは正常ですが、成長する過程で、しつけや教育やその他さまざまな力が加えられ、ゆがんでいきます。性的嗜好のゆがみがいわゆる変態性欲です。
もっとも、フロイトは変態についてまったく逆の考え方をしています。人間の赤ん坊は多形倒錯といって、あらゆる変態性を持っていて、それがしつけや教育によって型をはめられ、正常化するという説です。これは反論する気にもならないほどバカバカしい説です(チンパンジーや犬の赤ん坊も多形倒錯なのでしょうか)
 
女性に聞いてみると、干していた下着を盗まれたとか、露出狂に会ったとかいう人が驚くほどたくさんいて、変態の多さを実感させられます。もしかして、1人の下着フェチが何百枚も盗み、1人の露出狂が数百人の女性に見せているということも考えられますが。
人が変態になるのは幼児期に原因があり、しかも本人はそのことを認識できていない場合がほとんどですから、変態を治療するのはきわめて困難です。ほとんど不可能といっていいかもしれません。
ですから、世の中は変態を受け入れるしかありません。変態を迫害して、変態がストレスをためたり、欲望をためたりすると、かえってよくない結果を招きます。
そもそも、たいていの変態は無害です。SM趣味の人がお互いに楽しんでいるのはもちろん問題ありませんし、ロリコンも二次元で楽しんでいる限り問題ありません。
 
ただ、ロリコンが学校教師になると問題かもしれません。猫にマタタビというか、羊の群れに狼というか、現実にロリコン教師の犯罪はしばしば新聞紙上をにぎわせます。
そこで、私の考えですが、教員採用試験のときに、性的嗜好も検査することにすればいいのです。たとえばいろいろな画像を見せて、脳の反応を調べれば、どんな画像に興奮したかがわかるはずです。
 
こんなことをいうと、性的嗜好は個人の秘密で、そんなことを調べるのは許されないという反論があるでしょう。確かに今の世の中では許されません。なぜ許されないのかというと、変態が差別され、迫害される社会だからです。そんな社会で変態性を調査すると、差別・迫害を助長することになってしまいます。
しかし、私はそもそも変態を差別するのはよくないと主張しているのです。この主張が社会に広く認められ、変態を世の中にさらしても普通に生きていける社会になっていれば、変態性の調査はなんの問題もありません。たとえば、視力が弱くてはパイロットになれないように、「君は小さい子どもの裸に反応したから、教師はむりだよ」と普通にいえるはずです。
 
ということは、どういうことかわかるでしょうか。ロリコンなど変態を差別する社会だから、ロリコンの犯罪が防ぎにくくなっているのです。ロリコンを差別・迫害する人たちは、自分たちは子どもを守ろうとしているのだと思っているのでしょうが、実際は逆の結果を招いているのです。
 
こんなことになるのは、現在の倫理学や道徳観が根本的に間違っているからです。私はこれを天動説的倫理学と呼んで、地動説的つまり科学的倫理学への転換を主張しています。
 
教師の役割はひじょう重要です。なぜなら子どもはまだ変態になっていない存在だからです。
これまでの教師は、自分の変態を棚に上げて子どもを教育してきたので、結果的に変態の拡大再生産をしてきました。
これからの教師は、学校では自分の変態性を記した教員証を必ず胸につけることにすればいいと思います。そうすれば、変態が変態でない子どもを教育することのバカバカしさに気づき、謙虚な気持ちで子どもと接することができるようになるでしょう。

このページのトップヘ