村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

カテゴリ: 躾か虐待か

penguins-429128_1920

幼児虐待の原因のひとつに、家庭が密室化していることが挙げられます。
大家族や地域社会の中で子どもが見守られていれば、虐待はそんなに起こりません。
ですから、各人が近所の子どもの様子を気にかけて、声かけしたりするのもたいせつです。

しかし、「子育ては親の専権事項」とでもいうのか、外部の口出しを嫌う親も多いようです。
確かに無責任な口出しは困りますが、口出しを拒否する親も問題です。

次はたまたま見かけた記事で、子育てへの他人の口出しを親が拒否するのですが、親の理屈がそうとうへんです。にもかかわらず、親に賛同する声が多いというので首をかしげてしまいます。


スーパーで「お菓子欲しい」とごねる息子すると知らないオジさんから『衝撃の言葉が』ネット民「素晴らしい考えと返し」
Twitterでこんなツイートが話題です。

「スーパーでお菓子欲しいとごねる3歳息子をたしなめてたら、知らんおっちゃんから「お菓子の一つくらい買ったらすぐ終わるだろうに」と言われ、買った方が楽なことくらい百も承知じゃクソが!!の代わりに「約束の練習中なんです、うるさくしてすみません」と笑顔で返したので5億ほしい。」

すんなりと子どもの言うことを聞けば静かになるとはわかっていても、甘やかしてばかりでは子どものためになりませんよね。なかなか難しい場面です。投稿者さんは「約束の練習中なんです、うるさくしてすみません」と笑顔で返したそうです。


他のユーザーからは↓
・素晴らしい考えと返しと子育てですね
・働いてる側はわかってますよ。お母さん達、頑張ってる!
・約束の練習!良い響き!頂きます。

世のお母さん達は頑張っています、見かけた場合は優しく見守りましょう!
いまトピが伝えています。


「いまトピ」のもっと詳しい記事はこちらで読めます。

母親の事情もわからないのに口出ししてくるおっちゃんも問題ですが、母親が「約束の練習中なんです」と返した言葉は、明らかに嘘でしょう。嘘を言ってはいけません。

しかも、「約束の練習中」という言葉もへんです。
「約束」は国語辞典によると「当事者間で取り決めること」などとなっています。基本的に対等の関係でなされるものでしょう。
子どもと親の間の約束があるとすれば、「今お菓子をがまんすれば、あとでオモチャを買ってあげるね」といったものです。
しかし、現実には親が子どもより優位の関係にあるので、親が一方的に子どもに約束をさせていることが多いでしょう。こういうのは命令と同じです。
この母親が言う「約束の練習中」は、「親の命令に従う練習中」という意味です。

この母親は自分なりのルールをつくっているのでしょう。
しかし、子どもが守るルールを親がつくると一方的になり、ブラック校則ならぬ“ブラック家則”になりがちです(「家則」という言葉はないようです。「家法」ならあります)。

ちゃんとしたルールがあるなら、嘘をつく必要はなく、たとえば「さっきからお菓子を食べすぎていて、ご飯が食べられなくなりますから」とか「この子はアレルギーなので」とか言えるはずです。

ともかく、世の中にはこういう母親もいるとして、問題はツイッター上で、「そんな嘘をつくのはよくない」という意見はほとんどなくて、「うまい言い方ですね。真似します」みたいな意見ばかりだったことです。
こんな親が多くては、「地域で子育て」などとうていむりですし、家庭の密室化が進んで、幼児虐待がますます増加しそうです。



こうした問題が生じるのは、子育てのあり方が過渡期にあるせいかもしれません。
これまでは、子どもを甘やかすのはよくない、きびしく育てるべきだという考え方が主流でした。
しかし最近は、体罰がいけないのはもちろん、叱るよりもほめることが推奨され、子どもが幼いうちは十分に親に甘えさせるべきだという考え方が強まっています。

この母親は、子どもは甘やかすべきではないという古い考えですが、自分の考えに自信が持てなくなって、「約束の練習中」などという言葉でごまかしたのかもしれません(反対に、子どもを叱らない子育てをしている親が世間の目の前に肩身の狭い思いをしている場合もあるでしょう)。

子どもにはきびしくするべきだという考え方は、「子どもを甘やかすと子どもは限りなくわがままになって、最終的にわがままなモンスターになる」という考え方に基づいています。
しかし、この考え方は間違いです。それは動物の子育ての様子を見ればわかります。
動物の親は、子どもに食べさせることと子どもの安全に気を配るだけで、あとはすべて子どもの自由にさせています。それでも子どもはモンスターにならず、普通に育ちます。人間も同じはずです。

親が自分の子どもを信じられないというのは人間特有の不幸です。
そういう親は、動物の子育ての映像などを見て学ぶのがいいと思います。

子どもを自由にさせていると、スーパーなどで子どもが周りの人に迷惑をかけて、文句を言われることもあるでしょう。
そんなときは子どもを守るのが親の役割です。
子どものすることはすべて子どもの発達に必要なことです。

親と子がよい関係である社会は、平和で健全な社会です。

なぜ子育て中の親が肩身の狭い思いをして嘘をついたりしなければいけないのか、考え直してみてはどうでしょうか。

steve-douglas-kJ-u9HWJJbw-unsplash

朝日新聞の第一面にこんな記事が載るようでは、幼児虐待がなくなる日はまだまだ遠いと思いました。

朝日新聞の「折々のことば」は、短い言葉を紹介する毎日の連載です。多様な言葉を紹介しようとするのはわかりますが、こういう言葉はアウトでしょう。

折々のことば:1845 鷲田清一
2020年6月13日 5時00分

 親になるとは、許されることを学ぶことなのだ。

 (三砂〈みさご〉ちづる)
     ◇
 親はよくまちがう。よかれと思ってしたことが子どもを傷つけた、痛めつけていたと悔やむことが本当によくある。だから欠点だらけの「私」を許してほしいと祈るような思いでいると、保健学者は言う。子どもから許しを得ることで、自分の親も「まちがいだらけで欠点だらけのただの男と女だった」と許せるようになると。『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』から。https://digital.asahi.com/articles/DA3S14511849.html?_requesturl=articles%2FDA3S14511849.html&pn=4


子どもを傷つけたり痛めつけたりするのは虐待です。
「よかれと思ってした」というのも、虐待する親がよく言う言葉です。

子どもから許してほしければ謝るしかありませんが、この親は「祈るような思いでいる」だけで、謝りはしないようです。
謝りもしないで、子どもから許してもらうこと期待するとは、あまりにも虫のいい考えです。

この子どもにとっては、傷つけられたり痛めつけられたりした上、さらに「許し」を求められるわけです。
子ども自身の救いや癒しはどこにもありません。

ここには「許し」という倫理的なことが書かれているようですが、実際に書かれているのは「虐待の肯定」です。
これでは虐待の連鎖がさらに続いていくことになります。



三砂ちづるというのはどういう人かと思って調べると、2004年出版の「オニババ化する女たち~女性の身体性を取り戻す」という本で物議をかもした人でした。
この本はアンチフェミニズムだということでバッシングを受けましたが、三砂氏本人はアンチフェミニズムという自覚はないようです。
私はこの本は読んでいませんが、今回の「折々のことば」を読む限りでは、親子関係が正しくとらえられていないので、男女関係も正しくとらえていないのかなと想像します。

三砂氏について知るには、次のインタビュー記事が詳しいかと思います。

「018 疫学者・作家 三砂ちづるさん Interview」



ところで、私は「親になるとは、許されることを学ぶことなのだ」という見出しを見たとき、「親になるとは、許すことを学ぶことなのだ」とまったく逆に誤読してしまいました。
「親になるとは、許すことを学ぶことなのだ」ということなら、私にもすんなりと理解できます。

親は子どもに対して、おとなしく、行儀よく、聞き分けのいい子であることを期待し、そうなるように教育・しつけをしますが、これはすなわち虐待への道です。
しかし、たいていの親は、子どもは自分の思うようにならないことに気づいて、子どものいたずらや行儀悪さや聞き分けのなさを許すようになり、まともな親になります。

三砂氏は、「子どもを許す親になる」というまともなことを言うのではなく、「子どもから許される親になる」という論理のアクロバットを展開しました。
そして、鷲田清一氏はそのアクロバットにだまされて、「折々のことば」に採用してしまったようです。

朝日新聞の第一面に、虐待や暴力を肯定する言葉が載っていて、びっくりしました。

bd1adc7f41ab2353d087f70111c69946_m
前橋刑務所(syujiさんによる写真ACからの写真 )

無期懲役の判決を言い渡された被告が法廷で万歳三唱をしたというのは前代未聞でしょう。

昨年6月、小島一朗被告(当時22歳)は新幹線車内で女性2人にナタで切り付けて負傷させ、止めに入った男性会社員をナタとナイフで殺害するという事件を起こし、裁判の中で「無期懲役囚になりたい。3人殺せば死刑になるので、2人までにしておこうと思った」と語りました。
ですから、期待通りの判決を得て万歳三唱をしたというわけです。

最近、「死刑になりたい」という動機で通り魔のような事件を起こす例がよくあります。「死刑になりたい」で検索すると、そういう事件がずらずらと出てきます。
小島被告の場合は、死刑にはなりたくないわけです。「保釈されたらまた人を殺す」とも言っていて、無期懲役でずっと刑務所の中にいるのが望みです。
なぜこんなおかしな考えを持つようになったのでしょうか。


こういう異常な犯罪が起こると、マスコミは“心の闇”という言葉でごまかしてきましたが、最近は異常な犯罪者は異常な家庭環境で育ったということがわかってきて、犯罪者の家庭環境について突っ込んだ報道がされるようになりました。
小島被告についても週刊誌などが報道し、私はそれらをもとにこのブログでふたつの記事を書きました。


小島被告の父親は「男は子どもを谷底に突き落として育てるもんだ」という教育方針できびしく育て、小島被告の世話をしていた祖母は「姉のご飯は作ったるけど、一朗のは作らん」と言って、実質的に育児放棄していました。小島被告が事件を起こして逮捕されたとき、父親はマスコミの前で「私は生物学上のお父さん」と名乗り、小島被告のことを赤の他人のように「一朗君」と呼び、ゆがんだ家族関係があらわになりました。


今回、判決に合わせて週刊新潮12月26日号が「『小島一朗』独占手記 私が法廷でも明かさなかった動機」という記事を掲載しました。これを読むと、小島被告が刑務所にこだわった理由が見えてきます。

IMG_20191220_012525


この記事によると、小島被告はホームレス生活をしていて、家族に迷惑をかけないために餓死しようとしますが、祖母との最後の電話で「養子縁組を解消する」「小島家の墓に入れない」と言われ、もう家族に迷惑がかかるということはどうでもよくなって、事件を起こして刑務所に入ろうとします。
彼は手記で「刑務所に入るのは子供の頃からの夢である。これを叶えずにどうして死ねようか」と書いています。

小島被告と接見を重ね手記を託されたノンフィクションライターのインベカヲリ★氏は、小島被告の生い立ちを詳しく書いているので、その部分を引用します。


小島被告は愛知県生まれ。犯行当時は22歳、元の名は鈴木一朗だ。同県出身の野球選手イチローにちなんだ同姓同名である。小島姓なのは、事件の前年に母方の祖母と養子縁組をしたからである。
一朗が生まれると母方の祖父は、岡崎市にある自宅の敷地内の一角に「一朗が生まれた記念」の家(以下、「岡崎の家」)を建てた。共働きの両親の都合で、一朗は3歳までをそこで過ごした。一方、年子の姉は、生まれたときから一宮市にある父方の実家で育った。
母親は両家を行き来していたが、一朗が3歳になると転居し、一家全員が一宮の家に揃う。しかしそれを快く思わなかったのが、同居する父方の祖母だった。「お前は岡崎の子だ、岡崎に帰れ」「お前は私に3年も顔を見せなかった」、それら祖母からの言葉が一朗にとって物心ついてからの最初の記憶だ。
母親はホームレス支援の仕事で夜遅く帰宅するため、祖母が食事をつくり、一朗は「嫁いびり」のように躾けられたという。中学生になり反抗するようになると、祖母は包丁を振り回し、一朗の食事や入浴を禁じた。これに関し母親は調書で、「食事を与えないということはない。虐待はしていない」と供述しており、意見が食い違っている。
しかしこの頃、父親にトンカチを投げ包丁を向ける事件を起こしており、その目的は「ご飯が食べられないから国に食わせてもらう」、つまりは少年院に入るためだった。これを機に父と離れ、母親の勤め先である“貧困者シェルター”へ入所するのだ。
その後、定時制高校を卒業し、県外で就職したものの、出血性大腸炎で入院し10か月で退社。「岡崎の家」に住むことになったが、同じ敷地内の別宅に住む伯父が猛反対し、暴力によってわずか10日で追い出されたという。
以降、家出してのホームレス生活と精神病院への入退院を繰り返してきた。
彼にはすでに中学時代、家庭よりは「少年院」という発想があった。
「刑務所の素晴らしいところは、衣食住と仕事があって、人権が法律で守られているところ」
と、彼は心底思っている。しかも、「(刑務所からは)出ていけとはいわれない」とも語る。彼は閉ざされた空間で、決まりきった日常を送ることが苦痛ではない。模範囚として真面目に働くことを望んでいる。拘置所に何冊も本を差し入れたが、彼はたぶん読書ができればいのではないかと思う。
やりとりを重ねてわかったのは、彼が幼い頃より「岡崎の家」を「私が生まれたときに建てられた、私が育つはずだった家」と考え、それに強い執着を見せていることだ。刑務所は「岡崎」の代償で「家庭を求めている」と彼は言う。


小島被告が刑務所に入りたがった理由がわかります。
彼は家族の誰とも“絆”というものを感じることができなくて、どの家にいてもいつ「出ていけ」と言われるかわからないという不安があったのでしょう。無期懲役で入った刑務所ならその不安がありません。
それに、彼はかなり意図的にホームレス生活をしていますが、母親はホームレス支援の仕事で帰宅が遅かったということで、彼はホームレスになることで母親に近づけた気がしていたのかもしれません。

もちろん刑務所に入るために人を殺すなどということは許されません。
しかし、自分がたいせつにされた経験がない人間に、人をたいせつしろと求めるのも不条理なことです。
彼には犯罪をして世間を騒がせることで家族に対して復讐している気分もあるでしょう。

私たちは、こうした犯罪をする人間は異常者だと決めつけがちですが、その人間のことをよく知れば、私たちと同じ人間であることがわかります。
その認識を出発点に犯罪対策を立てなければいけません。

スクリーンショット (7)
6月に逮捕されたときの熊沢英昭被告


12月11日から13日にかけて農水省元事務次官の熊沢英昭被告が長男英一郎を殺した事件の公判が行われ、事件の内容がかなり明らかになりました。

この事件は、犯人が元事務次官という“上級国民”であったことと、ちょうど川崎市20人殺傷事件の直後で、熊沢被告が「長男が川崎のような事件を起こしてはいけないと思った」と自身の犯行を正当化したことと、長男が引きこもりや家庭内暴力や発達障害などであったことから、犯人に同情する声が多くありました。橋下徹氏などは「僕が熊沢氏と同じ立場だったら同じ選択をしたかもしれない」とまで言いました。

しかし、子どもが悪かったとしても、そのように育てたのは親です。
このケースでは、両親はどのように長男を育てたのでしょうか。
フジテレビ系「 直撃LIVE グッディ! 」で報じられたことから、親子関係の問題点を見ていきたいと思います。


公判によって、いくつかの新事実が明らかになりました。
長男の家庭内理暴力というのは中学2年生から大学1年生までで、しかもそれはすべて母親に向けられたものでした。
事件の1週間前に長男は実家に戻って両親と同居を始めますが、そのときに初めて父親に暴力をふるいました。父親は殺されるという恐怖を感じて、それが犯行につながったようです。

熊沢被告の妻は義理の弟の心療内科に相談し、長男は統合失調症と診断され、数十年にわたって投薬治療をしていたということです。
長男が統合失調症だったということは初めて明らかになりました。

IMG_20191214_135103


長男には妹がいて、自殺していました。母親は「兄の関係で、縁談があっても全部消えた。それで絶望して自殺しました」と自殺の理由を語りました。
兄が統合失調症だということが破談の原因だということでしょう。精神病に対する世の中の偏見は根強いので、ありえないことではありません。
ただ、縁談を断られて自殺したというのは、あくまで母親の言い分です。それだけのことで自殺するとは思えません。家族関係により大きな原因があったと見るのが普通でしょう。
母親もうつ病になり、自殺未遂をしたということです。

長男が統合失調症だったということには疑問が残ります。
長男は4年前にアスペルガー症候群だと診断されたということです。
統合失調症という診断がついているのに、その上にアスペルガー症候群の診断をするというのは不可解です。

アスペルガー症候群の診断をした主治医は、日本テレビ系(NNN)の記事によると法廷で次のように証言していますが、統合失調症についてはまったく触れていません。
12日は証人尋問が行われ、殺害された長男・英一郎さんの主治医が出廷した。弁護側の質問に対して、主治医は、英一郎さんを自閉症の一種であるアスペルガー症候群と診断していたと証言し、「英一郎さんは思い通りにならないとパニックを起こし、暴力をふるう症状があった」と述べた。

また、「英一郎さんがなかなか通院しなかったので、お父さんが代わり通院して薬を取りに来ていた。お父さんからの情報で英一郎さんの状況を判断していた」と証言。

さらに「経済的支援を行い、通院も1回も欠かさなかった。ツイッターを通して英一郎さんの情報を知り、知らせてくれていた。ほかの家族と比べても大変よく面倒をみていて、大変敬意を持って支援のあり方を見守っていた」と述べ、熊沢被告の支援には頭が下がる思いだったと証言した。
https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20191212-00000262-nnn-soci


弁護側は、「熊沢被告は長年にわたって息子の生活を支え、献身的に尽くしてきていて、事件の経緯や動機には同情の余地が大きい」として、執行猶予つきの判決を求めました。

弁護側は「献身」と言い、主治医は「支援」と言いますが、その実態は「過保護・過干渉」です。
「 直撃LIVE グッディ! 」は、そこをわりと詳しく伝えています。

ツイッターのDMでも過干渉ぶりが出ています。

IMG_20191214_023931


4年前に長男が「アスペルガー症候群」と診断されたときにも、都内に持ち家を与えたということです。
熊沢被告は「基本的に月に2回は行っていた。月1回は薬を届けに、1回は食べ物で使ったものの領収書を取っておけ、その分食費は渡すからと食費を渡していた。一緒にファミレスで食事をするなどしてコミュニケーションを図りました」と語りました。
普通は「生活費」としてまとめて渡すもので、いちいち食費の領収書を求めるのは、長男の生活能力を信じていないことになります。
IMG_20191214_141446

IMG_20191214_140852

このような細かい“生活指導”が長男の自立を妨げていたと考えられます。

長男はマンガ・アニメが好きで、最初に入った大学を休学してアニメの専門学校に行きますが、就職に失敗、その後、複数の大学に編入し、大学院にも行き、熊沢被告はその都度援助していたということです。

熊沢被告はまた、「息子に生きがいを持ってほしいと思いました。コミックマーケットに出品したらどうかと勧めました。私は売り子として手伝いをしました。朝から晩までスペースに座って小雑誌を売りました」と語りました。

コミケ参加者に父親が同伴して手伝っているという話は聞いたことがありません。
オタクというのは特殊な趣味を共有する閉鎖的なサークルをつくるもので、その世界にまで父親が介入してきたら、長男は自分の世界が持てなかったのではないでしょうか。

そして、最大の問題は、長男が就職したときの熊沢被告の態度だったのではないかと思います。
FNNプライムの裁判の記事にはこう書かれています。

熊沢被告は、英一郎さんが大学を中退すると就職先探しに奔走したという。

熊沢英昭被告:時期が就職氷河期で。本人はアニメ系がいいといくつか受けましたが、ダメでした。

最終的に義理の兄が勤める病院に就職させたというが…

熊沢英昭被告:残念ながら勤務状況が悪いと感じました。ブログで上司の悪口を書いていました。迷惑をかけると心を痛めていました。お礼を言って引き取りますと言わざるを得なかったんです。

しかし、英一郎さんは退職に納得がいかず、ある行動に出たという。

熊沢英昭被告:医師から連絡がありました。「英一郎さんが『明日、社会的事件を起こす。上司を包丁で刺す』と言っている」と。おさめなきゃと思ってアパートまで駆けつけました。時間をかけて説得しました。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191212-00010009-fnnprimev-soci
就職先をクビになったのではなく、父親に辞めさせられていたのです。
長男としては、クビになっていれば、なにが悪かったのかと反省し、次につなげることもできたでしょう。
世の中には子どもの就職の世話をする親はよくいますが、子どもの辞職の判断までする親はいません。
このときに長男は、自分は働けない人間なのかと絶望したのでしょう。

5月25日、熊沢被告は一人暮らししていた長男を実家に迎え入れました。
最初の日は、被告の妻が「父と息子の関係は良好だった」と証言しました。
次の日、熊沢被告が外出しているとき、長男は泣き出して、「お父さんは東大出て、なんでも自由になっていいね。私の44年の人生は何だった」と言ったということです。
そして、その日、被告が長男に「ゴミもたまっているから掃除しなきゃ」と、それまで住んでいた家の掃除を提案すると、長男は激高して、被告に「殺すぞ」などと言って激しい暴力をふるったということです。
その1週間後、熊沢被告は長男を殺しました。

熊沢被告の過保護・過干渉が長男の自立の芽をつんだことがすべての元凶だと感じます。

663786

来春、改正児童虐待防止法が施行されるにあたり、厚生労働省はどんな行為が禁止される体罰に当たるかを示すガイドラインを作成しました。

朝日新聞の「たたく、正座、食事抜き…しつけでなく体罰 厚労省案」という記事によると、「しつけのためだと親が思っても、身体に苦痛または不快感を引き起こす行為(罰)は、どんなに軽いものであっても体罰に該当し、法律で禁止される」ということで、その記事の図解を示しておきます。

体罰の線引き


体罰や暴力はどんな軽いものであってもだめと、基準が明快です。

ところが、やはりというか、これに反対する人もいます。
さすがに有識者などで公然と反対する人はいないようですが、ネットではいまだに体罰肯定論が盛んです。

『尻をたたく、正座もダメ。厚労省「体罰ガイドライン」に批判殺到』という記事から、個人のツイートの部分だけ引用します。


もんきー@Z900RS卍 なまらめんこい🐾
@momochyan415
体罰禁止法って2020年4月かららしいのだが、
親は「児童のしつけに際して体罰を加えてはならない」となるらしい。
何か違う方向に行っていませんか??


だいこん
@MouseChrome
何度注意しても人を殴る、物を盗むとかの犯罪に直結するものを更生する為には体罰は仕方ないと思うけどね。
それ以外なら、子供の将来を台無しにする為に虞犯少年として少年院に打ち込む?

一瞬の体罰か生涯経歴に苦しむかの二択かと思うけど

冷たい世の中だな#児童虐待


一 一
@ninomae_haji_me
わざわざガイドラインを作らないといけないことじたいが問題だろ

理想論ばかりの体罰禁止ガイドラインやなぁ#体罰


暗黒世界から現世へと舞い戻った復活のW@絶対フィード取れないマン
@Allegro1018
親の体罰禁止ガイドラインとかクソみたいなもの作ることよりやることあるだろ。道を逸れる前にしつけするのが親の仕事だろ。国家が家庭事情に干渉するな。


オールドボーイ@コミケ2〜4日
@oldboy1899
体罰禁止ガイドライン案のお尻ぺんぺんや聞かないからビンタ、他の子殴ったから自分の子を殴ったが禁止!?殴りたくて殴ってる保護者なんてほとんどいないと思うてけど、より保護者に難題を求められるようになるな。


「体罰」という言葉を使うので、こういう意見も成立しているかのようですが、「体罰」を「暴力」や「虐待」という言葉に言い換えると、実態が見えます。
幼児虐待事件で逮捕された親がよく「しつけのためにやった」と言いますが、それと同じです。
こういうツイートをした人は、幼児虐待の予備軍です。
いや、もしかして今もわが子を虐待しているかもしれません。
そういう意味で、こういう意見を放置しておくわけにいきません。


体罰肯定論者の主張は共通していて、「子どもが悪いことをしたら罰するべきだ。罰しないと子どもはどんどん悪くなる」ということです。
子どもは悪なので、自分の暴力は正義だということになります。
「しつけのためにやった」と言う人は、自分が正義だと思っているので、逮捕されたことが不満です。
こういうことを考える人は、頭の中に道徳がいっぱいあって、その分愛情が足りません。

また、子どもの発達について無知ということもあります。まだ所有の観念のない子どもの行為を「物を盗んだ」と見なすなどがそれです。
子どもの喧嘩を「暴力」と見なすのも同じです。子どもは喧嘩しながら人間関係を学んでいくもので、昔から「子どもの喧嘩に親が出る」ことは戒められています。

「自分は正しい人間だが、自分の育てている子どもは悪い」というのは論理的に成り立ちがたく、これは少し考えればわかるはずです。


もっとも、キリスト教には原罪というものがあって、子どもには生まれながらの悪があるとされます。そのため、西洋キリスト教社会では「鞭を惜しめば子どもがだめになる」ということわざがあるように、体罰が当たり前のこととして行われていました。
日本では、「七歳までは神のうち」という言葉もあって、子どもはたいせつにされていましたが、明治政府は、列強と対抗するために西洋の父権主義とともに体罰を輸入し、広めたのです。
もっとも、今は時代が変わって、ヨーロッパでは体罰禁止がかなり進んでいるようで、逆に日本のほうが体罰が盛んかもしれません。


以上は、倫理学的な面から体罰について述べましたが、今は科学的研究が進んで、こうした議論はほとんど無意味になっています。

体罰・暴言は子どもの脳の萎縮・変形を招くことが科学的に明らかになっていて、厚生労働省も「愛の鞭ゼロ作戦」と名づけたキャンペーンをやっています。
今回のガイドラインが明快なのも、そうした科学的裏づけがあるからでしょう。

なお、厚生労働省は10月21日に職場におけるパワハラの定義や基準を定めたガイドラインの素案を示しましたが、これはむしろパワハラを正当化するものだという批判が巻き起こっています。パワハラには「脳の萎縮・変形」のような科学的な基準がないので、経団連などの意向に寄せてしまったのです。

今は体罰肯定論をぶっている人も、「そんなことをしたら子どもの脳が萎縮・変形しますよ」と言われると、それ以上主張できないでしょうから、体罰肯定論もここ1、2年で消滅するに違いありません。

girl-535251_1920
Rudy and Peter SkitteriansによるPixabayからの画像 

悲惨な幼児虐待事件が起こると、「児童相談所や学校や警察はなにをしていたのか」という怒りの声が上がります。
確かに多くの幼児虐待事件では、子どもの体にアザがあるとか、家から叫び声がするとか、学校に出てこないとかの徴候があるもので、関係機関が連絡を密にして対応していれば防げたのにと感じられることが多いものです。
しかし、人間はいざ幼児虐待のような悲惨なことに直面すると、現実を認めたくないという心理に陥りがちです。というか、人類の歴史において、人間はずっとそうして否認してきました。
ですから私は、「児童相談所や学校や警察はなにをしていたのか」と怒る人もいざ自分がそうした場に直面するとうまく対応できないのではないかと疑っています。

次の記事を読んだとき、改めて私の疑いは間違っていなかったと思いました。

懲りない坂口杏里…何がしたいのか? “母親エピソード”で大炎上
 元カレのホストの自宅マンション内に侵入したとして、住居侵入容疑で逮捕(不起訴処分)された元タレントの坂口杏里(28)。現在はYouTubeで赤裸々告白の投稿を続けているが、ネット上で批判が絶えないのだ。
 今月に入って、YouTubeに「坂口杏里チャンネル」を開設した杏里。7日には2013年に死去した母、坂口良子さんの思い出を語ったのだが「あまりの内容に、“お母さんがかわいそう”などの批判の書き込みが相次ぎました」と芸能サイト編集者。
 幼いころ、机の中に隠していた0点のテストが良子さんに見つかり、こっぴどく叱られたというエピソードを明かした杏里。本来なら、そこからお母さんの優しさに触れるはずが、「柔軟剤をボトルごと、頭にブワーってかけられて」「頭ギトギトのまま、学校に一緒に行って謝罪をした」と一転“ホラー”な話題となったのだ。
 さすがにこれには「ただの悪口」「坂口良子さんのこと悪く言うな」「お母様の名前を出すのはやめましょう」などと書き込みが相次ぐことに。その後も遺産の話などを投稿したが、批判は後を絶たず。チャンネルを閉鎖し、新たに「ANRIちゃんねる」を立ち上げた。
 「ユーチューバーへの転身を宣言しましたが、芸能界復帰への足がかりにしようと思っているならマイナス効果しかない」と先の芸能サイト編集者。
https://www.zakzak.co.jp/ent/news/190914/enn1909140009-n1.html?ownedref=not%20set_main_newsTop

柔軟剤を頭からかけられたというのは、十分に虐待といえます。
これは嘘ではないでしょう。嘘を書く理由がありません。
非難する人も嘘だとして非難しているのではありません。

では、なにを非難しているかというと、事実そのもの、あるいは事実を表現したことを非難しているのです。
つまり幼児虐待の否認です。

この記事を書いた人も、「本来なら、そこからお母さんの優しさに触れるはずが」と、自分自身の虐待否認の考えを杏里さんに押しつけています。

こういう心理があるので、児童相談所の職員などでも幼児虐待に適切に対応できなかったりします。
これは職員を一方的に非難しても解決できるものではありません。



私は、この記事を読んで杏里さんの人生が迷走する理由がわかった気がしました。

坂口杏里さんは母親の坂口良子さんといっしょにテレビのバラエティ番組に出るなどして人気になりましたが、良子さんは2013年に死去。杏里さんは2016年ごろに芸能活動をほとんどやめて、キャバクラ嬢になり、AV出演やヘアヌード写真集を出し、デリヘル嬢にもなりました。ホストクラブ通いでできた借金を返すためだと言われていますが、本人は借金のことは否定しています。

ウィキペディアの「坂口杏里」の項目によると、2017年4月に知人のホスト男性から現金3万円を脅しとろうとしたとして恐喝未遂容疑で逮捕され(不起訴)、今年8月には同じ男性の自宅マンション内に侵入したとして逮捕されました。

もともと人気あるタレントだったのに、キャバ嬢、AV嬢、風俗嬢、二度の逮捕とみずから“転落”していったのが不可解でしたが、母親から虐待されていたとすれば納得がいきます。
AV嬢には親から虐待されていた女性が多いとされます。自己評価が低いために社会的評価の低い職業に抵抗がないことと、親のいやがることをして親に復讐する心理があるからです。
AV嬢からタレントになった飯島愛さんは「プラトニック・セックス」という自伝で父親から虐待されて家出したことを書いています。
スノーボード選手としてトリノ・オリンピックに出た今井メロ(成田夢露)さんも「泣いて、病んで、でも笑って」という本で、父親から虐待といえる壮絶なスパルタ教育を受けたことを書いていますが、キャバ嬢、風俗嬢、AV嬢になっています(私はこのブログで今井メロさんのことを「スパルタ教育を受ける不幸」という記事で書いたことがあります)。

杏里さんがテレビタレントをやめたのも、それは母親が敷いたレールだったからかもしれません。

母親の坂口良子さんはすばらしい女優でしたが、そのことと母親としてのあり方とはまったく別です。

ほとんどの人は迷走する杏里さんに批判的ですが、そういう人は同時に虐待の事実も否認します(引用した記事もそのスタンスで書かれています)。
虐待の事実を受け入れれば、迷走する杏里さんが理解でき、同情心もわいてくるはずです。

2歳の長男をプラスチック製の衣装ケースに閉じ込めて殺害したとして、4月11日、父親の井上祐介容疑者が逮捕されました。
ケースは幅約80センチ、奥行き約40センチ、深さ約30センチで、そこに長男と3歳の長女を入れて蓋をし、約30分放置したということです。
井上容疑者は「しつけのためにやったが殺すつもりはなかった」と容疑を否認し、また閉じ込めについては「十数回やった」と供述しているということです。
 
幼児虐待をする人間の決まり文句が「しつけのためにやった」です。
 
で、これに対する反論を私は聞いたことがありません。
ワイドショーのコメンテーターなどは日ごろ、「親は子どもにちゃんとしつけをするべきだ」と主張しています。そういう主張と整合性が取れなくなるからでしょうか。
 
考えられる反論としては、「しつけするのはいいが、殺したりケガさせたりするのはやりすぎだ」というものでしょう。
しかし、こう主張すると、「じゃあケガさせない程度にやればいいのか」ということになって、虐待を正当化しているみたいです。
 
あるべき反論は、しつけと虐待の線引きをした上で、「それはしつけではなくて虐待だ」というものでしょう。
しかし、しつけと虐待、あるいはよいしつけと悪いしつけの線引きというのは誰にもできません。
というのは、もともと「よいしつけ」というのは存在しないからです。
 
しつけや教育をするのは人間だけです。
犬や猫やその他の動物の子育てを見ていると、親は子どもの安全と飢えさせないことだけに気をつかい、子どもは親の周りで自由に遊んでいます。親は子どもに指図したりしません。
それでいて子どもがわがままになるということはありません。
 
とすれば、人間の場合も、親がしつけをしなくても子どもがわがままになるということはないはずです。
人間がしつけをするのは、基本的に親のためです。家を汚されると困る、うるさいのは迷惑だ、親の言うことはなんでも聞いてほしい、などの理由でしつけをするわけです。
 
ただ、文明社会にはたとえば自動車があって、子どもを自由に遊ばせておくことができません。しかし、これはもともとおとなの都合で子どもの生活圏にまで自動車を入れてしまったことで生じた問題です。ですから、子どもの行動を制限するのは、やむをえずすることで、おとなとしてはむしろ後ろめたい行為です。「子どもが悪いことをするから罰する」というようなことではありません。
 
「自動車の通るところでは遊ばない」というのはもちろん子ども自身のためです。ということは、成長すればおのずとわかることです。むりやりわからせることではありません。
 
虐待を「しつけのためにやった」と主張する人は、しつけは子どものためだと思っているのです。そのため、やればやるほどいいと思って、歯止めがなくなります。
 
しつけはおとなのためだと思っていれば、必要最小限にとどめようとしますし、しつけのために暴力をふるうこともありません。
 
ですから、「しつけのためにやった」と主張する人に反論するとすれば、「しつけは子どものためではなく自分のための行為ですよ」ということになります。
みんながこのことを理解していれば、虐待もなくなるはずです。

2011年に書いた『「試し行動」って知ってた?』という記事に今でもけっこうアクセスがあります。「試し行動」について詳しく書いたサイトがほかにあまりないようです。
 
 
「試し行動」は里子に見られるだけではなく、実の親子関係でも男女の恋愛関係でも見られるものですが、「試し行動」についての知識がないと、それが「悪意の行動」に見えて、人間関係がこじれてしまいます。ですから、ぜひとも知っておきたい重要な概念です。
 
そうしたところ、朝日新聞に専門家が「試し行動」について詳しく語るインタビューが載っていました。
私の記事よりもはるかにためになると思われるので、全文引用を避けるために一部だけ省略して、以下に紹介します。
 
 
 
「自分は愛されているのか」 親の覚悟を試す子ども
 
■家庭養護促進協会大阪事務所理事 岩﨑美枝子さんに聞く
 
 多くの人にとって最も大切で、かつ面倒くさい人間関係のひとつが「親子」ではないだろうか。親子関係の本質とは何か。複雑に絡んだ関係の糸をどうほぐせばよいのか。実の親が育てられない子の育て親を新聞を通じて募集し、血縁のない人同士が「親子になる」ことを50年近く支援してきた岩﨑美枝子さんに聞いた。
 
 ――実の親子でも悩みの種は尽きません。血縁のない人同士が親子になるには、並々ならぬ苦労があるのでは。
 
 「確かに、実の親子なら小さなトラブルで済むようなことが、大ごとになる場合もある。だけど、意識的に親子になろうとする分、逆に親子関係の本質が見えてくる面もあります」
 
 ――どういうことですか。
 
 「だいたい1歳半以降の子どもたちが、施設から育て親の家庭に移った際に、共通して見られる行動パターンがあります。引き取って1週間ぐらいはみな聞き分けのよいお利口さんで、私たちは『見せかけの時期』と呼んでいます。だけど、その後は豹変(ひょうへん)する。赤ちゃん返りをしたり何かを激しく求めたり、様々な形がありますが、親が嫌がったり困ったりすることを執拗(しつよう)に繰り返すのが特徴です」
 
 「例えば、お母さんが女の子を引き取るのでじゅうたんを新調したのに、子どもがその上でお漏らしをしてしまった。その時に『せっかく買ったのに』と顔をしかめたらそれを見て、おしっこをする時に必ず同じじゅうたんの上に行って『おしっこ出る出る、出たあ』とやるんです」
 
 「スナック菓子しか口にせず、食べ残しを床いっぱいにばらまく子。色とりどりのビーズをひもに通すよう親に求め、それができると、バラバラにしてはまたひもに通させる、ということを延々と続ける子。私たちはそれらを『試し行動』と呼んでいます。個人差はありますが、平均すると半年ぐらいはそれが続きます」
 
 ――言葉もまだ十分にしゃべれない子どもたちが、大人を「試す」のですか。
 
 「どこまで意識してやっているのか分かりませんが、弱点を見抜き、そこを的確に攻め込んでくる。親の嫌がる雰囲気は子どもに確実に伝わっていると思います。その上で『嫌がることを繰り返す私を、あなたはどれだけちゃんと受け止めてくれるのか』を確かめようとしている。子どもたちの中には、『そこまでやらないと大人を信じられない』という何かがあるのではないか」
 
 ――それは、子どもたち自身の経験が影響しているのですか。
 
 「そうだと思います。大多数の赤ちゃんは、生まれてまもなく親に抱きとめられ、母親の胎内で感じていたであろう安心感がそのまま引き継がれる。だけど、何らかの事情で生まれてすぐに親から引き離された子は、自分が守られるべき世界が突然なくなった恐怖を感じたはずです」
 
 「乳児院で育てられても、何人もの保育士が赤ちゃんをケアするから、特定の大人と信頼関係を取り結ぶことはなかなか難しい。そんな中で、子どもたちは『誰かに心の底から受け入れられたい』という欲求をあきらめてしまう。育て親になろうという人が現れ、『この人なら受け入れてもらえるかも』という思いが芽生えた時、受け入れへの欲求が再び目覚め、試し行動が始まるのでしょう」
 
 ――たとえ血がつながっていても、心の底から親に受け入れられることを、あきらめてしまった子どもも多いのでしょうね。
 
 「確かに、うちで世話する子どもたちは、関係が固まってしまった実の親子よりも、試し行動という形で育て親に素直に欲求を出しやすいとも言えます」
 
 「試し行動をやめさせようとすると、かえってひどくなる。最近のケースでも、2歳の女の子が『いやや、いやや!』と泣きわめくばかりで、おしめも換えられないし、お風呂にも入れられない。親御さんは『そんなにつらいことがいっぱいあるねんな。ごめんな、何もできなくて。あなたがどれだけ泣いても付き合うわ』と話しかけ、待ち続けた。その対応がよかったのか、泣き続けるのは3日ほどで終わりました」
 
 「泣きやまずに近所から虐待を疑われたり、施設に戻されたりするケースもあります。逆に片時も親から離れようとせず、トイレに行く時までくっついて、親を疲れ果てさせる子も多いです」
 
 ――試し行動を受け入れ、終わりを待つしかないのですか。
 
 「待ち方にも色々ある。いくら泣きわめこうと『私はあなたの親になるつもりで付き合っているねんから、それを分かってよ』というくらいの覚悟が親にあると、子どもはその覚悟を読みます」
 
 「高い所に立って『こっから落ちて死んでやる!』と言った5歳の男の子に、『あんたが死んだらお母ちゃんも死ぬ!』と叫んだ親がいる。そしたら『お母ちゃんは死んだらあかんから、僕も死なない』と。そういうことをとっさに言えるのが覚悟の表れでしょう」
 
 ――頭で考えた生半可な言葉では子どもは納得しない、と。
 
 「誰にもなつかない子、神経質で難しい子ほど、本当は育てがいがある。ひとたび心を開けば表情が柔らかくなり、ほおずりをしたり、顔を見つめて何度でも『かあちゃん』と呼んでくれたり。かつては試し行動に疲れ果てていた育て親が『抱きしめると、ふわーっと体にもたれかかってきて、本当にかわいいんですう』と報告しに来たりもします」
 
 ――一方で、思春期に育て親との関係がこじれてしまう子も少なくないと聞きます。
 
 「血のつながりがあってもなくても、思春期は『第二の試し』の時期です。『私はそれなりに親に愛されてきたから、自信をもって世の中に出ていける』ということを確信するため、親にもう一度揺さぶりをかける。それまでの子育てで手抜きがあると、親子関係が壊れてしまうこともあります」
 
 ――家庭養護促進協会編の「親子になろう!」という本には、3歳の時に引き取った中学2年の娘に対する、母親の嘆きが紹介されていますね。「自己確立がなく、周囲とのトラブルが際限なく起こります。1歳なら1歳、2歳なら2歳の時に刷り込んでおかないといけないことは、後年になってどんなに努力しても、その子自身の血や肉にはならない」と。
 
 「生まれてからの3年分を取り戻すのは大変です。このケースでは、子どもが試し行動として赤ちゃん返りを起こしましたが、母親が十分応えられなかった。子どもは『この人なら自分を受け入れてくれるかも』という期待を裏切られた。思春期になり、その揺り返しが出たという見方もできます」
 
 ――親自身も、自分の親から受け入れられて育ったとは限らない。親に厳しすぎませんか。
 
 「確かに100%の親はいません。逆に『親のどこが悪かったんやろう』と私たちが首をひねるケースもあります。親が逃げようとしたり、自分を正当化したりすれば、子どもはますます反抗する」
 
 「子どもに『こうあって欲しい』と望み過ぎる親や、子どもが本当は何を求めているのか理解できない親は、子どもにとってしんどい。『お母さんは自分の中の弱さを認めてくれなかった。それがすごくつらかった』と、大人になってから話してくれた子もいました。だけどたいていの子どもたちは、親が子を見捨てさえしなければ、いつか親のところに戻ってくる。そう信じさせてくれる子どもたちを見てきました」
 
 ――なぜ、しんどい仕事を50年近くも続けているのですか。
 
(中略)
 
 「周囲に対して、バリアーを張っている強情な子がいる。そういう子がちらりと見せる笑顔や、ちょっとした時の目つきに、しびれるぐらいの魅力を感じます。その子の奥に何があるのか、私は見たい。人間が好きだし、人間がおもしろいからです」(聞き手・太田啓之)
 
     ◇
 
《家庭養護促進協会》 児童相談所と協力し、新しい家庭が必要な子どもに育て親を探し、縁組する「愛の手運動」を1962年から行う公益社団法人。縁組後の支援もする。大阪と神戸に事務所があり、大阪は毎日新聞、神戸は神戸新聞とラジオ関西で子どものプロフィルを紹介し、育て親のなり手を募集している。

春の叙勲を伝えるニュースの中に、紫綬褒章受賞者として萩尾望都さんの名前がありました。少女マンガ家も叙勲される時代になり、またその年齢になったということで、ちょっとした感慨がありました。
 
私が若いころは、断言してもいいのですが、男が少女マンガを読むということはまったくありませんでした。当時、男性にとって少女マンガというのはまったくの異文化で、主人公の大きな瞳に星が光る絵柄が合いませんし、ストーリー運びの“文法”みたいなものも理解できないからです。しかし、1975年ごろだったと思うのですが、「SFマガジン」に萩尾望都さんのマンガを絶賛するエッセイが載っていたので、ためしに萩尾さんの「ポーの一族」を読んでみました。萩尾さんの絵はそんなに少女マンガっぽくなく、男にも抵抗感がないので、読めました。もちろん「ポーの一族」は大傑作ですから、感動しました。
 
私は萩尾さんを読むことで少女マンガを読むコツみたいなものが身につき、それからどんどん少女マンガを読むようになりました。当時は少年マンガや青年マンガ以上に少女マンガを読んでいました。
少女マンガは繊細で、内面的です。社会人になって間もないころの私には、現実に傷ついた心を癒す効果があったのでしょう。
 
私がよく読んだのは、萩尾さんのほかは樹村みのり、ささやななえ、山岸涼子、竹宮恵子といったところです。当時、よく行く喫茶店に「別冊少女コミック」が置いてあって、それを手がかりに読んでいったということもあります。
そして、私がよく読んでいたマンガ家はみな昭和24年生まれで、「花の24年組」といわれている人たちでした。「花の24年組」だから読んだわけではありません。自分なりに選んでいった結果がそうなったのです。それだけ「花の24年組」には才能ある人がそろっていたということでしょう。
 
「花の24年組」や個々のマンガ家についてはすでにいろいろ論じられていて、今さら私がつけ加えられることはそんなにありませんが、ひとつ、このことは誰も指摘していないのではないかと思われることがあるので、ここで書いておきます。
 
樹村みのりに「悪い子」(1981年刊行)という短編集があり、私は久しぶりに樹村みのりの新刊が出たと思って買い求めましたが、その表題作の「悪い子」(「プチコミック」19808月号掲載)を読んで驚きました。幼児虐待、つまり親にいじめられる子ども、あるいは親に愛されない子どもがテーマとなっていたからです。
親から「悪い子」と言われている子どもが描かれ、子どもが子どもを屋上から突き落とすという(たぶん当時現実にあったのと近い)事件との関連が示唆され、最後に、その「悪い子」を観察していた主人公は「この子供はわたしだ」と思います。つまり幼児虐待と犯罪の関連性を指摘し、また幼児虐待を自分自身の心理的問題ととらえ、さらには「悪」とはなにかについての答えも示唆しているのです(子どもを「悪い子」と認識するおとなの側に真の「悪」があります)
 
当時、私も手探りでまったく同じことを考えていたので、私とはまったく別の人生を歩んでいる樹木みのりさんが同じ考えに到達していたということに驚いたのです。
ちなみに心理学から幼児虐待の問題を正面から扱った画期的な本である「魂の殺人」(アリス・ミラー著)が出版されたのは1983年ですから、その3年ほど前です。
今でこそ幼児虐待を扱う本はいっぱいありますが、当時はほかにほとんどありませんから、樹村みのりさんも発表するには勇気がいったのではないでしょうか。
 
ちなみに昔は、子ども向きの「まま子いじめ」の物語が山ほどありました。ただ、この物語の読者は、自分は愛情のある実の親に育てられてよかったと思いながら読むわけです(とはいえ、心のどこかにまま母にいじめられる子どもと自分を重ね合わせる部分もあったと思いますが)
しかし、「まま子いじめ」の物語はいつのまにか消えてしまいました。おそらく親がそうした本を子どもに与えたがらなかったからでしょう。
そうした中、樹村みのりさんの「悪い子」は画期的でした。幼児虐待の物語をおとなである自分自身の問題として復活させたからです。
 
「花の24年組」はおそらく相互に影響し合っていたでしょう。とくにささやななえさんは樹村みのりさんと親密な交際があり、そのこともあってか幼児虐待の原作つきドキュメンタリー「凍りついた瞳」「続・凍りついた瞳」を書き、評判となりました。
萩尾望都さんの母と娘の問題を描く「イグアナの娘」はテレビドラマ化もされました。
山岸涼子さんはもともと家族関係の問題を物語性豊かなホラー短編にしていました。
 
今、小説でもドラマでも映画でも、幼児虐待を扱うことは普通になりました。たとえば小説では田口ランディ、天童荒太、湊かなえなどがいますし、異常な犯罪者が登場する映画では決まってその犯罪者の生い立ちが描かれます。
 
団塊の世代というのは、若い世代にはうっとうしい存在かもしれませんが、いろいろ画期的なことをしてきたのも事実です。たとえば、自分で作詞作曲をして歌を歌うというのは団塊の世代から始まったことです。それまで作曲というのは音楽大学で専門の教育を受けた人しかしてはいけないものと思われていたのです。
おとながマンガを読むことも、男が少女マンガを読むことも、団塊の世代から始まったことです。
 
そして、幼児虐待を自分自身の問題としてとらえることも「花の24年組」が始めました。
しかし、そのことはあまり評価されているとは思えないので、ここで指摘しておくことにしました。
 
現在、幼児虐待事件はよくニュースになります。しかし、ニュースに接するほとんどの人は、虐待する親を非難するだけで、自分自身の問題としてとらえることができません。
幼児虐待を自分自身の問題としてとらえることができるか否かで、世界の見方はまったく変わってきます。

「獅子はわが子を千尋の谷に突き落とし、這い上がってきた子だけを育てる」という話があります。もちろん現実のことではありません。この話は中国の故事で、獅子というのも想像上の生物です。しかし、私が子どものころは、ライオンが実際にそうしているかのように語られていました。あきれたものです。
ネットで調べてみると、逆にライオンが谷に落ちた子を救助する写真があったので、紹介しておきます。
 
「獅子は千尋の谷に落ちた子供を救助することが判明」
 
「麦は踏まれて強くなる」という話もあります。これは必ずしも間違いではありません。実際に「麦踏み」ということが行われています。麦は背が高くなると耐寒力が低下し、また倒れやすくなるということで行うらしいのですが、全国的に行われているわけではなく、外国ではほとんど行われていないようです。もちろん、農作物全般を見渡しても、芽が出たときに踏みつけるというは、たぶん麦だけです。
「麦は踏まれて強くなる」というのは、子どもをきびしくしつけるのはよいことだという意味でいわれるわけですが、そういう特殊なものを子育ての教訓にするのは疑問です。むしろ農業や園芸から得られる教訓は、幼い芽はたいせつに保護して育てるべきだということでしょう。
 
「鉄は熱いうちに鍛えろ」ということも、やはり子どもはきびしくしつけるべきだという意味でいわれます。しかし、鉄と人間にどんな共通点があるのでしょうか。「ダイヤモンドは長く寝かせるほど大きく育つ」ということわざに従ってもいいのではないでしょうか(この“ことわざ”は私が今つくったものです)
 
「ゾウは子どもを蹴ってしつける」(中村幸昭著)という本があります。この本のタイトルはどこかへんではないでしょうか。
「足蹴にする」という言葉があるように、人間において蹴るというのは悪いイメージです。しかし、四つ足の動物というのは、手がないわけですから、蹴るのはあたりまえのことです。
ただ、考えてみると、ゾウは長い鼻を手のように使うことができます。そのために悪いイメージの「蹴る」という表現を使ってもおかしくはないということでしょうか。
「ゾウは子どもを蹴ってしつける」というタイトルを見ると、ゾウが子どもをきびしくしつける様子などを描いた本だと想像されるでしょう。しかし、この本はそんな内容ではありません。ゾウだけでなくさまざまな動物の子育てを紹介したもので、それももっぱら親が子どもをいかにたいせつに、愛情を持って育てるかを描いた本です。つまり本のタイトルと内容が違うのです。
私も出版業界には多少詳しいので想像できるのですが、タイトルのよし悪しは本の売り上げを大きく左右するので、出版社はタイトルづけに必死になります。出版社は考え抜いた挙句、世間の人々に受けそうなタイトルにして、そのため本の内容とも違うし、著者の考えとも違うタイトルになってしまったのではないでしょうか。
 
 
子どもをきびしくしつけるのは人間だけです。
人間は自分の行為が自然に反していることを薄々感じています。しつけを正当化する理屈はいっぱいありますが、所詮は人間(おとな)が考えだした理屈です。そのため、なんとかして自然界にしつけの根拠を見出そうとして、現実でない話を現実だとしたり(獅子の子育て)、特殊な事例を持ち出したり(麦踏み)、人間となんの関係もないことを持ち出したりし(鉄の鍛錬)、さらには内容とタイトルの違う本を出版したりしているわけです。
 
人間がきびしいしつけをすることにはそれなりの理由がありますが、しつけという行為は、その時点ではするほうもされるほうも不幸です。子どもをしつけるのが楽しいという母親はいないはずです。
最近は家族の絆を第一とする価値観が広がっています。となると、しつけも見直す必要があるはずです。

このページのトップヘ