村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

カテゴリ: 国旗国歌

開会式
東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会公式サイトより

7月23日、東京オリンピックの開会式が行われましたが、「意味不明」「史上最低」などさんざんな評判です。

コロナのせいで人が密になる演出はできないという制約はありましたが、だったらその分、ドローンの編隊飛行や花火をもっと派手にすることはできたはずです(しなかったのはやはり“中抜き”のせい?)。

演出の中心人物が何度も変わったために統一感がなくなったということもあるかもしれません。
たとえば「君が代」と国旗掲揚のあとで「イマジン」があるのは、どう考えても矛盾しています(「イマジン」には「想像してごらん、国などないと」という歌詞があります)。

しかし、開会式がだめな根本的な理由は、制作チームの“思想”にあります。
この思想というのは、おそらく「渡辺直美ブタ演出」で辞任した佐々木宏氏、「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」で解任された小林賢太郎氏の思想であり、さらには安倍晋三前首相、森喜朗前組織委会長、菅義偉首相の思想でもあるでしょう。


開会式の最初に、ランニングマシンでトレーニングする女性が出てきます。さらにマシンで自転車こぎをする女性、ボートこぎをする男性が離れた場所に出て、プロジェクションマッピングで季節の変化が表現され、赤いロープを使ったパフォーマンスがあります。
これだけ見ていると、まったく理解できませんが、NHKのナレーションによると、「コロナ禍のアスリートたちの心の内を表現しているといいます。不安やあせり、悲しみ、葛藤、選手たちに襲いかかる、乗り越えるべきハードルを表しています」ということです。
そして、ランニングマシンからおりてしばらく悩んでいた女性が立ち上がり、再び走り出すと、「壁に直面しても何度も立ち上がり、挑み続けるアスリートの姿は人々の心を動かし、結びつけてきました。希望を持って前を向けば、離れていても心はつながることができる。そんなメッセージが込められています」というナレーションがあります。


コロナ禍で世界はたいへんなことになり、東京五輪も1年延期になったのですから、開会式の冒頭でコロナ禍に触れるのは当然のことです。
ところが、「コロナ禍におけるアスリートの苦悩」に焦点を当てたのが間違いです。
苦悩といえば、たとえば「飲食店店主の苦悩」が深刻です。もちろん肉親をコロナで亡くした人もたくさんいます。それらに比べたら「アスリートの苦悩」は小さなものです。そのため誰にも共感されず、「意味不明」になってしまったのです。

パンデミックによる世界の感染者数は約1億9000万人、死亡者数は約400万人です。開会式で表現するべきは、この悲惨な状況と、医療従事者の苦悩です。
400万人の死者をどう表現すればいいかというと、小林賢太郎氏は「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」のために紙を切り抜いた人形を大量につくったそうですが、皮肉なことにその手法が役に立つかもしれません。
肉親を亡くした人々の悲しみ、コロナと戦う医療従事者の苦悩を、ダンスやパフォーマンスやプロジェクションマッピングで表現することは、クリエーターとして大いにやりがいのある仕事です。
その表現がうまくできれば、世界の人々は開会式に引きつけられたでしょう。

アスリートの立場はどうなるのかというと、パンデミックの中でアスリートの出番はありません。医療従事者やワクチン開発者や、ロックダウンや自粛生活に協力する人たちのがんばりで、コロナに打ち勝つ希望の光が見えたときが、アスリートの出番です。
そうすると、開会式のどこかでアスリート代表が世界の人に向かって、オリンピックを開催できることへの感謝を述べることがあってもいいはずです(本来はバッハ会長が言うべきですが、言いそうもないので)。

スポーツは人々に夢や希望を与えるということがよく言われますが、よく考えると、夢や希望がある世の中でスポーツが楽しまれるので、スポーツに世の中を変える力を期待するのは違うのではないでしょうか。


ともかく、冒頭の部分は15分ほどですが、ここで失敗して、見ている人は誰もがうんざりしました。
差別的ブタ演出の佐々木宏氏やホロコーストギャグの小林賢太郎氏には、パンデミックに苦しむ世界の人たちへの思いがなかったのでしょうか。
あるいは、「人類がコロナに打ち勝った証」などと言う安倍前首相や菅首相に影響されすぎたのでしょうか。


冒頭の部分が失敗したので、全体が意味不明と評されていますが、よく見ると、制作チームがなにを目指したかはわかります。
それは「ニッポンすごい」です。

冒頭の15分が終わると、天皇陛下とバッハ会長の入場があり、国旗の入場、MISIAさんによる「君が代」独唱があります。これなどいかにも安倍前首相好みの展開です。

森山未來さんのパフォーマンスとか劇団ひとりさんのコメディとか、意味不明のものが多いのですが、意味のわかるものもあります。それは「ニッポンすごい」を表現しようとしたものです。
日本は“木の文化”だということからか大工の棟梁のパフォーマンスと木遣り唄があります。
50のピクトグラムを表現するパントマイムもあって、これは好評でしたが、ピクトグラムは日本発祥のものです。
歌舞伎の市川海老蔵さんも登場します。
各国選手の入場行進は、ドラクエなどの日本のゲーム音楽をバックにしています。

デヴィ夫人はこうしたことから、開会式を「日本文化の押し売り」と評しました。
制作チームは「ニッポンすごい」を表現しようとしたのですが、日本文化はたいしてすごくないので、「押し売り」と思われてしまったのです。

「ニッポンすごい」が通用するのは日本国内だけです。
それを世界に発信しようとした制作チームが間違っています。
また、それを発信することに注力したために、「復興」の要素が消えてしまいました。


1998年の長野冬季オリンピックの開会式も、「ニッポンすごい」を表現しようとして大失敗しました。
総合演出の浅利慶太氏は大相撲の土俵入りと長野県諏訪地方の祭りである御柱祭をスタジアムで実演させたのですが、ビジュアルだけではなにも伝わらず、ただ退屈なだけのものになりました。

もっとも、北京五輪は「中国すごい」を表現し、ロンドン五輪は「イギリスすごい」を表現して、大成功しました。
これは実際に中国やイギリスが世界史の中ですごかったからです。

ブラジルは中国やイギリスの真似をしてもだめだと理解して、リオ五輪はブラジルの歴史を紹介する一方で、アマゾンの熱帯雨林が地球環境にいかに貢献しているかというグローバルな視点を入れて、それなりに成功しました。


そこで今回の東京五輪ですが、長野冬季五輪からも学ばず、北京、ロンドン、リオという流れからも学ばず、グローバルな視点がないまま「ニッポンすごい」を目指して、失敗したわけです。
これは安倍前首相らの右翼思想の敗北でもあります。



ところで、今回は「君が代」独唱とともに国旗掲揚が行われましたが、夜中に国旗掲揚をするというのは世界の常識にありません。
日本の伝統的右翼はともかく、最近の右翼は国旗についての常識もないようで、幸い今のところはっきりとは指摘されていませんが、ひそかに世界からバカにされているのではないでしょうか。


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中曾根康弘元首相の合同葬儀に約9600万円の国費が投入されるという報道が9月末にあったとき、「高すぎるのではないか」という批判の声が上がりました。

私自身は、こういう葬儀の相場を知りませんし、高いかどうか判断することができません。
私が気になったのは、金額よりも「内閣・自由民主党合同葬儀」という形式です。費用は国と自民党が折半するということで、それはいいのですが、国家と特定の政党が共同でなにかをやっていいのかと思いました。
しかもそれは葬儀という半ば宗教的な行為でもあります。

内閣府のホームページには、「令和2年10月17日(土)午後2時から」という告知とともに「開催趣旨」としてこう書かれています。
中曽根元総理は、約5年にわたり内閣総理大臣の重責を担われるなど、生涯を通じ、我が国の繁栄のために全力を傾けられたご功績及び合同葬儀の過去の先例等を総合的に勘案して、内閣と自由民主党の合同葬儀として執り行うものです。
https://www.cao.go.jp/others/soumu/goudousou/goudousou.html

法的な根拠は示されていません。
国家が特定の政党と特別な関係を結ぶというのは、まともな国家のあり方とは思えません。
一党独裁の共産主義国家なら別ですが。

調べてみると、「国庫から中曽根元首相の葬儀費9600万円を支出は妥当? 金額にはやむを得ない面も」という記事が合同葬の歴史を紹介していたので、そこから一部を引用します。

 では約半額を国庫から支出する「内閣・自由民主党合同葬」の妥当性を考察してみます。

 自民党が結成された1955年以来の歴代首相(同党出身)のうち鳩山一郎(初代)、石橋湛山(2代)池田勇人(4代)の各氏は自民党葬のみ。佐藤栄作氏(5代)は内閣と自民党に加えて氏の功績であった沖縄返還などの関係者ら「国民有志」が共催する「国民葬」が実現しました(75年)。

 それに先立つ67年には終戦直後から自民党結成直前まで日本を率いた吉田茂氏の「国葬」がなされています。前述のように国葬令は廃止されていたので名は同じでも閣議決定による「内閣葬」です。全額国費で実行されました。

 吉田氏はもちろん、佐藤氏も戦後政治に大きな足跡を残したのは反対者も含め認めるところで大きな反発は起きていません。

 80年、史上初の衆参同日選挙で陣頭指揮を採っていた大平正芳首相が急死。同情票もあいまって戦前の予想を覆す大勝を自民党にもたらしました。死去までの自民は事実上の分裂状態。それが急に「弔い合戦」の旗の下でまとまってまさかの勝利をもたらしてくれたので文字通り命をかけた結果です。戦後初の現職首相の死でもあったため国葬レベルも検討されたものの「内閣・自由民主党合同葬」に落ち着きます。これが今日までの先例となりました。

要するに現職首相が急死して、国民の同情が高まっているどさくさまぎれに内閣・自民党合同葬が行われ、それが前例となったのです。

国家と特定政党が結びつくのはおかしなことです。
これまで亡くなった元首相はたまたますべて自民党所属だから自民党に偏っているだけだという考えがあるかもしれませんが、ルールなしに合同葬が行われてきたのが問題です。
合同葬を行うなら、最初から各政党が公平になるようなルールをつくって、そのもとで行うべきです。
政党助成金も、最初にルールをつくって、公平に配分しています。


結局、内閣は恣意的に自民党との合同葬儀を行ってきました。
自民党は与党なので容易にそうすることができますが、本来国家機関と政党は厳密に区別されるべきで、内閣と政党の合同葬などはあってはならないことです。
これは国家と政党の癒着というしかありません。

ジャパンライフ事件では、山口隆祥会長が桜を見る会に招待され、その招待状の写真をパンフレットに載せて勧誘に利用していました。国家とつながりのあることは信頼感を生みます。
自民党も国との合同葬をしたことを投票呼びかけに利用することができます。
というか、利用するまでもなく、合同葬のことがマスコミで報道されるだけで自民党が有利になります。

中国では、共産党以外にも合法的な政党が八つあります。共産党は特別な地位にあるわけです。
日本も中国に近づいているのではないでしょうか。



そして、合同葬に向けてこんな動きのあることがわかりました。

故・中曽根氏の合同葬 文科省が国立大に弔意の表明を求める
17日に実施される内閣と自民党による故中曽根康弘元首相の合同葬に合わせ、文部科学省が全国の国立大などに、弔旗の掲揚や黙とうをして弔意を表明するよう求める通知を出したことが、分かった。13日付。識者からは政府の対応に疑問の声が上がっている。
 政府は2日、合同葬当日に各府省が弔旗を掲揚するとともに、午後2時10分に黙とうすることを閣議了解。同様の方法で哀悼の意を表するよう関係機関に協力を要望することも決めた。加藤勝信官房長官は2日付で、萩生田光一文科相にも周知を求める文書を出した。
 文科省はこれに基づき、国立大や所管する独立行政法人、日本私立学校振興・共済事業団、公立学校共済組合などのトップに対し、加藤長官名の文書を添付して「この趣旨に沿ってよろしくお取り計らいください」と記した通知を出した。
 都道府県教育委員会には「参考までにお知らせします」として加藤長官名の文書を送付。市区町村教委への周知を求めた。
 総務省も7日付で都道府県知事や市区町村長に「政府の措置と同様の方法により哀悼の意を表するよう協力をお願いいたします」との文書を発出している。
(後略)

これに対して、中曽根元首相の個人崇拝みたいなことはよくないという声が上がっています。

私自身は、それよりも、自民党の名前が入った葬儀に国民が黙とうするのでは“政党崇拝”になるのではないかと思います。
国が国民に特定の政党を崇拝させるというとんでもない行為です。

「内閣・自民党合同葬」という形式こそが問題です。

自民党の有村治子議員は参議院内閣委員会で、中国国旗の下に日の丸が配置されたNHKのニュース映像を取り上げ、日の丸を外国旗の下に配置するのはあってはならないことと主張しました。
しかし、その映像は、自衛隊機のスクランブル発進が急増しているという特集の中のもので、上に中国軍機、下に自衛隊機を並べ、その背景に国旗をあしらったものです。スクランブル発進ということを考えれば、自衛隊機と日の丸が下に位置するのは当然です。
 
ところが、産経新聞がこのことを「NHKが日の丸を中国国旗の下に 岸信夫外務副大臣『あってはならない』」との見出しで記事にし、ネット右翼が騒ぎました。しかし、岸外務副大臣は国旗掲揚についての一般的なマナーを述べただけで、ニュース映像について述べたわけではありません。
 
外務副大臣、NHK映像の国旗配置に言及せず 産経が見出しで誤導
 
ニュース映像で日の丸が中国旗の上になっていようが下になっていようが、どうでもいいことですが、右翼にとってはそうではありません。ごまかしをしてまでも問題にしたいようです。
右翼は国旗国歌に異常に執着します。卒業式・入学式での国旗国歌の強制にも熱心です。
 
 
ただ、国旗国歌の強制に反対する人は、よく「内面の自由」ということを反対理由に挙げますが、私はこれがどうも納得いきません。
 
ウィキペディアの「内面の自由」の項目によると、「内面の自由とは、自由権のうち、他者に影響を及ぼさず、行為となって現れないものを指す」とあり、それはさらに「思想・良心の自由」「学問の自由」「信教の自由」に分けられるそうです。
 
江戸時代、幕府は人々に踏み絵を踏ませてキリシタンを識別しました。幕府の役人は「絵を汚すことは気にするな。踏んでもなにも起きないから、遠慮せずに踏め」というように言ったでしょう。つまり反宗教あるいは合理主義の発想です。
しかし、キリシタンにとっては、キリストの絵を踏むことには「けがす」というような精神的な問題が生じます。もし当時そういうものがあればですが、「内面の自由」や「信教の自由」を主張して踏むのを拒否したいところです。
 
つまり踏み絵をめぐっては、踏み絵を踏ませるほうが合理主義で、踏まないために「内面の自由」を主張するほうが宗教です。
 
 
国旗国歌の強制は、外見的には踏み絵を踏ませることに似ていますが、実際は反対で、国旗国歌を強制するほうが宗教で、強制に反対するほうが合理主義です。
 
第一次近衛内閣が1937年から始めた「国民精神総動員」運動において、集会のときは「国旗掲揚、国歌斉唱、宮城遥拝」をすることが奨励されました。現在、右翼は「宮城遥拝」を除外し、「国旗掲揚、国歌斉唱」だけにしているわけですが、実質は同じようなもので、国家神道といえます。
少なくとも国旗国歌を崇拝するのは合理主義ではありません。
公立学校の中に非合理なものを持ち込むことは許されませんし、反対するのは当然です。
 
ところが、国旗国歌の強制に反対する人の中に「内面の自由」を持ち出す人がいるので、混乱します。
 
日の丸は軍国主義や侵略の象徴だからどうしても拒否したいという人などが「内面の自由」を持ち出すのでしょうが、そういう人は日の丸以外のデザインになれば、その国旗を崇めるのでしょうか。
 
国旗国歌の崇拝は宗教的行為ですから、それに反対するのに「内面の自由」を持ち出す必要はなく、合理主義だけで十分です。

卒業式と入学式の季節になると国旗国歌について議論が起きますが、この問題については馳浩文科相がおもしろいことを言っています。
 
岐阜大学が卒業式などで国歌斉唱をしない方針を表明したことについて、馳文科相は「国立大として運営費交付金が投入されている中であえてそういう表現をすることは、私の感覚からするとちょっと恥ずかしい」と言いました。
つまり国歌斉唱をするべき理由を「恥ずかしい」という個人的な感覚で説明したのです。
 
馳文科相はこの2日後、また同じ問題について、「国費も投入されている。日本社会のすべての方々に感謝の気持ちを表現する場合に、儀礼的な側面を重要視する必要がある」と言いました。どうやら「恥ずかしい」と言ったことを反省して、言い直したものと思われます。
 
しかし、「感謝の気持ち」や「儀礼的な側面」を持ち出しても、国歌斉唱をしなければならない理由にはなりません。
 
だいたい税金を投入しているから感謝の気持ちを表現しろというのは、とんでもない理屈です。
税金を投入するのは投入するべき理由があるからですし、それを受けるのは納税者として当然の権利です。そこに「感謝」など入ってくるわけがありません。
 
また、「儀礼的な側面」というのが問題です。
人が人に対しておじぎをするのは礼儀ですが、モノやシンボルに対しておじぎをするのは果たして礼儀でしょうか。
 
日本で国旗国歌への崇拝が強制的に行われるようになったのは、第一次近衛内閣が1937年から始めた「国民精神総動員」運動においてです。このときは「国旗掲揚、国歌斉唱、宮城遥拝」が3点セットになっていました。
宮城におられる天皇陛下は現人神ですから、これは明らかに宗教行為です(国家神道)。イスラム教徒がメッカの方向に礼拝するのと同じです。
 
今、学校で強制されているのは国旗掲揚と国歌斉唱だけです。宮城遥拝はさすがに宗教色が強すぎるので省かれているのでしょう。しかし、基本精神は昔と同じです。
馳文科相がうまく説明できないのも当然です。
 
外国人のいるとき、外国旗に礼をして外国に敬意を表するというのは意味のある行為ですし、国際試合などで国旗国歌を使って雰囲気を盛り上げるというのも意味がありますが、日本人しかいないところで国旗におじぎをして、直立不動で国歌を歌うことにはなんの意味もありません。
こういうむなしい行為を強いられるのは、普通の人間にとっては苦痛です。
 
宗教系の学校で、生徒に校門や校舎に対してお辞儀をさせているところがありますが、公立学校で同じことをさせたら問題になるでしょう。国旗国歌への崇拝も同じことです。
 
学校における国旗国歌の崇拝は宗教行為だと見なすとよく理解できると思います。
 当然これは憲法違反です。
少なくとも合理的行為でないことは明らかです。公立学校はもっぱら税金で運営されているのですから、不合理で無意味な行為は許されません。

大阪府の国歌起立条例について、私はこうしたことは最終的に生徒が判断することだと考えています。ですから、どこかが生徒にアンケート調査をしないかなと思っていたら、アンケート調査ではなかったですが、朝日新聞が生徒に取材した記事を掲載しました(6月29)
一部を抜粋します。
 
「君が代条例が成立する直前、大阪府内の複数の公立高校近くで、下校途中の生徒に『条例化についてどう思うか』を尋ねた。多くが『賛成』だった」
「条例化に『反対』と言い切った生徒はわずかだった」
「『どちらとも言えない』と言う3年の女子は、君が代より他に優先すべき課題があると指摘した」
 
何人中何人が賛成・反対という数字はないのですが、「多く」「わずか」という表現から、圧倒的に賛成が多かったことがわかります。
最高裁から見放された上、生徒からも見放されては、不起立教師によりどころはありません。負けといわざるをえないでしょう。
生徒から同情の声がまったくなかったというのは、みずからの日ごろの行いのゆえです。もっとも、生徒は不起立教師と起立教師の区別をつけているわけではないかもしれませんが(不起立教師の数は圧倒的に少ない)、どちらにせよ生徒に支持されていないことに違いはありません。
 
不起立教師の主張が要するに「内面の自由」しかないというのも弱いところです。今、「内面の自由」そのものがないがしろにされる時代だからです。
東西冷戦体制が崩壊し、911テロがあって以降、「正義」が暴走する時代となりました。たとえばテロの危機が迫っているときに、「内面の自由」を持ち出しても、一顧だにされないのです。
橋下知事は、「内面の自由」を否定するようなことはいいませんが、そんなことは無視しても平気だと思っていますし、実際その通りです。国民の大多数が「内面の自由」がそれほどたいせつなことと感じていないからです。
マルクス主義が失効して以降、世界を動かす思想はなくなり、道徳が最大の原理となりました。私はこれを「道徳原理主義」と呼んでいます。今、世界はキリスト教原理主義とイスラム原理主義が最大の対立軸となっていますが、キリスト教原理主義もイスラム原理主義も「道徳原理主義」の別名と考えればよくわかります。
今の世の中、国旗国歌崇拝が「道徳的」とされていますので、「内面の自由」でそれに対抗することはできないのです。
 
それに、学校の教師というのは、生徒に対し、生活指導はもちろんのこと勉強の強要など、生徒の「内面の自由」を日ごろから平気で踏みにじっているわけです。たとえば、英語の発音ができない生徒に教室で英語の教科書の朗読を命じれば、その生徒の「内面」はズタズタです。教師は「内面の自由」をもっとも口にしてはいけない職業ですし、生徒の支持が得られないのは当然です。
 
このことについては教師全員、教育界全体が反省しなければなりません。この反省は教育の根本に及ぶので、ここでは書ききれませんから、手近なことをひとつだけ指摘しておきます。
 
戦争が終わって、軍国主義の教科書に墨が塗られ、これからは平和主義の教育でいこうということになりました。これはなにも左翼の教師だけではなく、国民のほとんどがそう考えたのです。
だが、それが間違いだったのです。軍国主義から平和主義に転換したなら、やがて時代が変われば、また軍国主義、つまりナショナリズムの教育に転換することがあるのは当然のことです。
戦後の反省は間違っていました。正しい反省とはこのようなものです。
「あのような愚かな戦争をした私たちに、子どもに対してこれが正しい、これは悪いと教える資格はない。これからの社会がどうあるべきかは、子どもたち自身の判断にゆだね、私たちは口を出さないでおこう」
つまり、軍国主義教育であれ平和主義教育であれ、それは思想教育です。思想教育はしてはならないことです。それこそ子どもの「内面の自由」の侵害です。
 
教育界は、今のように問題の多い社会をつくってしまったおとなのあり方を反省し、思想教育や価値観の教育をやめて、知識と技術だけの教育に徹するべきです。
 
 
ところで、私はもちろん大阪府の国歌起立条例に賛成しているわけではありません。この条例は一部教師に対する単なるイジメです。これで学校がよくなることはなく、むしろ悪くなるからです。

大阪府で成立した国旗国歌条例(こんな名前ではありませんが、めんどくさいので)をきっかけに、国旗国歌問題を論じてきましたが、ほんとはこういうことはあまりしたくありません。というのは、これは宗教問題でもあるからです。
 
たとえば官邸で記者会見があるとき、入室した官房長官はまず国旗におじぎをします。東京都の入学式・卒業式では、壇上に演者が現れると、まず正面に張られた国旗におじぎをします。こうした習慣の意味を海外の人にどう説明すればいいのでしょうか。いちばん手っ取り早いのは、これは「国旗崇拝教」の儀式です、ということです。
 
しかし、これは正しくありません。実は官房長官にしても、入学式・卒業式で壇上に立つ人にしても、おそらく国旗を崇拝してはいないからです。
では、どう説明すればいいのでしょう。おそらくこういうふうにいうしかないと思います。
「日本では『国旗崇拝させ教』が猛威をふるっていて、彼らの決めた儀式に従わないと攻撃されるのです」
こういえば、日本にもイスラム原理主義みたいなものがあるのかと納得してくれるかもしれません。
 
「国旗崇拝させ教」という宗教の存在は一般には認知されていませんが、日本人は神社に参拝し、仏教による葬式をあげながら自分は無宗教であると考える国民ですから、当然ではあります。
 
「国旗崇拝させ教」によって国旗崇拝の儀式を強制される人たちは、その当然の結果として、国旗嫌いになっていきます。昔、国民の祝日は旗日ともいわれるぐらいで、多くの家が国旗を掲げました。しかし、今では祝日に町を歩いてもまず国旗を見かけることはありません。逆に交番に国旗が掲げられているのを見て、今日は祝日だったのかと気づくぐらいです。また、昔はオリンピックで日の丸が揚がるのを見ると日本人としての誇りを感じるという声がよく聞かれましたが、今そういう声は聞かれません。
 
そもそも、「国旗崇拝させ教」の信徒(教祖?)である橋下徹知事や石原慎太郎知事、産経新聞や読売新聞の記者や論説委員は、素朴に国旗を崇拝するような心の持ち主とは思えません。
では、「国旗崇拝させ教」の目的とはなんでしょうか。それは、国旗崇拝を強制するといういやがらせそのものにあるのではないかと思われます。
世の中には、人の幸せを願うのではなく、人を不幸にすることで少しでも自分が浮かびあがろうとする人がいます。そういう人に支持されるのが「国旗崇拝させ教」です。
 

世の中には、学校教育に恨みを持つ人がたくさんいます。しかし、「授業がわからなくてつまらなかった」というと、「勉強しないからだ」とか「バカだからだ」と否定されてしまいますし、「規則がうるさくていやだった」というと、「規則を守るのもだいじなことだ」とやはり否定されてしまいます。
自分の子どものことを名目に学校に恨みをぶつける人もいますが、こういう人はモンスターペアレントといわれて否定されてしまいます。
宅間守のように個人で学校に切り込み攻撃をかける者もいますが、死刑にされてしまいます。
こうして学校への恨みはほとんど表面化することがありませんが、そのエネルギーは巨大なマグマのように蓄積されています。
 
橋下徹大阪府知事は学校時代、身近に不良や劣等生と接していましたから、学校教育への恨みが広範囲に存在していることを知っています。ですから、それを利用することで人気取りをはかってきました。たとえば、学力テストの成績を市町村別に公表することを要求したり、PTA解体を主張したり、府教育委員会を解散すると脅したりと、教育界のバッシングを続けてきたのです。
今回、大阪維新の会が成立させた、国歌斉唱時に教職員に起立を義務づける条例も、その一環です。一部の教師を力で屈服させるというやり方に、過去に教師の力に屈服を余儀なくされていた人たちが快哉を叫ぶのも、いわば自然な感情でしょう。
 
石原慎太郎都知事は、主に右翼的イデオロギーから同じことをやってきました。橋下知事はむしろイデオロギーよりも、教育界バッシングそのものを目的としてやっているように思われます。
どちらも教員への職務命令という問題に絞り、生徒や保護者を切り離しているのが巧みです(右翼的イデオロギーからやるなら、生徒や保護者も起立すべしという条例になっているはずです)
 
いわゆる街宣右翼は、日教組攻撃という形で教育への恨みを晴らそうとしています。
いわゆるネット右翼は、自分たちは街宣右翼とはまったく違うといいますが、左翼教師を攻撃して教育への恨みを晴らそうとしている点では同じです。
 
石原知事や橋下知事のやり方に反対する勢力の代表的存在に朝日新聞があります。朝日新聞の記者は学歴社会の勝者であり、教育に恨みを持つ人たちからは、ただ朝日新聞の記者であるというだけで恨まれています。
朝日新聞記者に限らず、学者、評論家、エリート層は、教育への恨みが広範囲に存在することに無頓着です。ですから、街宣右翼やネット右翼の心情が理解できません。
 
私は、教育への恨みを晴らそうという思いには正当性があると考えていますが、一部教師のバッシングに走るのは間違っていると思います。それは一時的な快感にはなるかもしれませんが、ますます学校が窮屈になり、さらに教育に恨みを持つ人間をふやしてしまうことになるからです。
 
左翼教師とその他の教師にそれほど違いがあるわけではありません。
教育への恨みは、教師バッシングではなく、教育改革へとつながるものでなければいけません。
 

大阪府で国歌斉唱時に教職員に起立を義務づける条例が成立して、また日の丸君が代が問題になってきました。この問題はさまざまなとらえ方ができるので議論が迷走しがちです。とりあえず問題を整理してみましょう。
 
まずこれは政治の問題、とりわけナショナリズムの問題としてとらえられます。ナショナリズムを強化するべきだという立場と、反ナショナリズムの立場とでは、当然賛否が別れます。
また、一般的な国旗国歌の問題としてとらえる人もいれば、過去に軍国主義に利用された日の丸君が代の問題としてとらえる人もいます。この両者が議論すれば、当然議論はかみ合わなくなってしまいます。
それからこれは教育の問題であり、とりわけ規律の問題です。学校では規律はきびしくあるべきだという立場と、学校は自由であるべきだという立場とでも、賛否が変わってきます。
そして、これは入学式・卒業式の構成演出の問題です。国歌斉唱は通常、入学式・卒業式でしか行われないからです。入学式・卒業式はどうあるべきかということと密接に結びついています。
 
というわけで、本格的に論じるのはたいへんなので、今回は入学式・卒業式の構成演出の問題から考えてみます。
 
 
入学式・卒業式は厳粛であるべきだという考えの人が多いようですが、いったい誰がそんなことを決めたのでしょう。まったくバカバカしいことです。
生徒たちは厳粛な式を望んでいるでしょうか。そんなことはありません。楽しくて、感動的な式を望んでいるのです。
実は厳粛な式を望んでいるのは、教育委員会や校長や来賓などの偉い人たちです。彼らは壇上であいさつするとき、生徒や保護者や教員がかしこまって聞いてくれることを望んでいるのです。それをつまり厳粛な雰囲気というのです。
彼らの壇上でのあいさつの内容がすばらしくて、おのずと聞き手が厳粛な雰囲気をかもしだすというのならけっこうなことですが、もちろんそんなことはありません。私は自分の人生で何度も入学式・卒業式を経験して、壇上のあいさつをたくさん聞いていますが、その内容を覚えている話はひとつもありません。まったく時間のむだだったといっても過言ではありません。おそらくこれは私だけのことではないでしょう。
 
偉い人たちの話がつまらないのはわかりきった話です。これは成人式でも同じことで、さすがに二十歳になるとこのつまらなさにつきあいきれないので、“荒れる成人式”なるものが出現することになります。
 
で、国旗国歌は、このつまらない入学式・卒業式をなんとか格好づけするために使われているというわけです。東京都教委が国旗を壇上正面に張るよう指導しているのも、偉い人たちをより偉く見せかけるためです(これらの背後には、教育とはおとなが子どもを一方的に思い通りにすることだという思想があります)
ただ、こうしたつまらない式の中でも、卒業式の送辞や答辞はしばしば感動的であることは付け加えておきたいと思います。
 
では、どんな入学式・卒業式がいいのかということになりますが、当然、偉い人が喜ぶものではなく、生徒が喜ぶものにするべきです。
生徒はどんなものを喜ぶかというのは、おとなにはなかなかわかりません。おとながやると、またおとなに都合のいいものになってしまう可能性があります。
ですから、生徒自身に式の構成演出をしてもらいます。
入学式は新入生が主人公で、卒業式は卒業生が主人公です。彼らの一生の思い出になるような素晴らしい式をつくりだすことは、つくりだす側の生徒にとってもよい経験になります。
どんな式を生徒たちが考えるかわかりませんが、私としては東京ディズニーランド精神で新入生を迎え、卒業生を送り出すようなものを想像しています。
その中に多分国旗国歌の出番はないでしょう。出番があるのはむしろ万国旗でしょうか。
どうしても国旗を張っておきたいというのなら、保護者席の後ろがいいでしょう。当然そこが正しい位置になります。
 
入学式・卒業式ひとつとっても、その人が教育をどう考えているかわかります。
おとなのための教育か、子どものための教育か。あなたはどっちですか。

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