村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

カテゴリ: 嘘つき村のオキテ

身近な人(60代男性)が入院して、何度も見舞いに行ったり、今後のことを相談したりしているのですが、困ったのはなかなかほんとうのことがわからないことです。
たとえば、「もうトイレは1人でできてるの?」と聞くと、「できてる」と答えます。ところがすぐに看護婦さんが「さっきももらしたんですよ」と否定します。
「タバコが吸いたい」と言うのですが、もちろん病室では吸えません。「1日何本ぐらい吸ってたんだ」と聞くと、「10本ぐらい」と答えるので、「それぐらいならがまんできるだろう」と言っていたのですが、実際は20本以上吸っていたことがわかります。
書類に記入するので「身長はいくら?」と聞くと、どう見ても5センチぐらい高く言います。見栄を張っているのか、そういう自己イメージで生きてきたのか、不思議です。
「お前は一流会社に勤めてきたんだから、年金は3階建てで、かなりの額になるだろう?」と聞いても、「そんなことはない」と否定して、よくわかりません。
 
私の父は88歳で亡くなりましたが、最後まで1人暮らしをしていました。ときどき電話して体の調子を聞いていたのですが、これがよくわかりません。心配させたくないということもあるのでしょうが、わからないのは困ったものです。
ですから、ときどき家に寄ってくれてる友人に電話して聞いたり、近所の人に電話して聞いたりして、情報を総合して、さらにいろいろ推理して、父の様子を判断しなければなりません。
また、なにか問題があって問い詰めると、ボケたふりをしてごまかそうとすることもありました。こういう点は年寄りの強みです。
ちなみに森繁久弥さんは、年を取ってもけっこうかくしゃくとしておられたのですが、人の視線のあるところでは、わざとよぼよぼした歩き方をして同情を買っておられたそうです(本日1110日はたまたま森繁久弥さんの三回忌です)
 
上野千鶴子さんの「男おひとりさま道」という本を読むと、上野さんのお父さんはやはり高齢で1人暮らしをしておられたのですが、その生活の様子は上野さんには話すことがありましたが、息子さん(上野さんの兄や弟)には決して話さなかったそうです。また、近くに住む親族が心配して食べ物を持って訪ねても、戸も開けずに追い返したりしたそうです。
 
以上のことでなにが言いたいのかというと、人間は年を取ったり体が弱ったりすると、嘘やごまかしが多くなるということです。
嘘やごまかしで自分をよく見せたり、自分を守ったりするわけです。また、人に心配をかけたくないという場合もあるでしょう。
いずれにしても、年を取ると嘘やごまかしに対する抵抗感がなくなってくるものと思われます。長年人間をやっていると、それだけ嘘やごまかしを重ねてきたということでしょう。
 
一方、子どもには嘘やごまかしはありません。それだけの知恵がないといってしまえばそれまでですが(もっとも、いつも子どもを叱っていると、子どもは身を守るために嘘をつくようになります)
 
それなのに、おとなは子どもに対して「嘘をついてはいけません」などと説教をしています。まったくバカバカしいことです。

嘘つき村で嫌われるのは、正直者です。正直者は嘘つき文化を共有しない異端者だからです。
たとえば、嘘でも反省の態度を示せば刑が軽くなる可能性があるのに反省の態度を示さない被告。こういう正直者はマスコミからバッシングされます。
それから、子どもも嘘つき文化を共有していません。訪問客が子どものためになにかプレゼントを持ってきたとき、子どもは正直なことをいうかもしれないので、その前に「ありがとうは?」と、嘘でも感謝の言葉をいわせます。
子どものような純粋さを持ったおとなも当然同じことです。
 
たとえば女優の沢尻エリカさんは、なにか不愉快なことがあったので、舞台あいさつのとき、インタビュアーに「別に」と答えたら、大バッシングにあってしまいました。
確かに「別に」と木で鼻をくくったような応対をするのは、インタビュアーも観客も不愉快にさせますが、エリカさんはもっと不愉快なのですから、しかたがありません。
もっとも嘘つき村では、自分の不愉快な気持ちを隠して、にこやかに応対するのがオキテなので、エリカさんはオキテ破りをしてしまったわけです。
 
嘘つき村の芸能界というのは恐ろしいところで、大物芸能人は不愉快なことがあっても、人前ではにこやかにふるまっていますが、裏でスタッフに当たっています。しかし、これは嘘つき村では普通のことなので、決してバッシングされることはありません。
嘘つき村ではエリカさんのような正直者がバッシングされるのです。
 
エリカさんは女優です。女優というのは(男優も同じですが)、人間的な魅力を感じさせなければいけません。正直とか純粋とかは魅力の大きな要素です。愛想よく言葉巧みに世の中を渡っていけるような人は、女優には向きません。
しかし、ここは嘘つき村です。嘘のつけない、魅力的な女優さんに限ってバッシングされる傾向があります。たとえば広末涼子さん、葉月里緒菜さん、藤谷美和子さん。松たか子さんも一時はバッシングされました。
 
愛想笑いというのは所詮は嘘です。私はそんなものに魅力は感じません。つまらなければつまらない顔をし、楽しければ楽しい顔をする。そういう人の笑顔が見たいものです。
 

市橋達也被告が公判の場で被害者両親に土下座して謝罪し、また本の印税を被害者遺族への弁償にあてると表明しました。日ごろ、殺人事件の被告が法廷で遺族に対して謝罪の言葉を述べないことを批判しているマスコミは、きっぱりと謝罪した市橋被告の態度を絶賛した――なんてことはもちろんありません。罪を軽くするための演技である可能性があるからです。
 
それにしても、市橋被告は一般的な凶悪事件の犯人とはかなり異質です。謝罪の土下座をするというのは、不祥事を起こした企業経営者がするのと同じです。2年7カ月も逃亡生活を送れたということは、かなり現実的な判断ができるのでしょう。また、市橋被告は捜査員が自宅にきたとき、靴もはかずに逃げ出し、逃げおおせました。瞬間的な判断力と行動力に長けているのでしょう。
ということは、リンゼイさん殺しにそれほど計画性はなかった可能性が高いと思われます。なんとか2人きりになりたくて、2人きりになるとレイプしたくなり、レイプした以上監禁せざるをえなくなり、リンゼイさんが逃げ出そうとしたので押さえ込み、死んでしまったというようなことではないでしょうか。
 
ともかく、マスコミは市橋被告の謝罪を称賛はしないまでも非難はしません。一方で、法廷で謝罪や反省の態度を見せない被告は非難します。
ということは、どういうことかわかるでしょうか。マスコミは凶悪事件の被告たちを偽りの謝罪や反省に導いているのです。
これは昨日の「嘘つきな子のパラドックス」というエントリーで述べたことでもあります。マスコミは自分たちのやり方を反省しないといけません。
たとえば、不祥事を起こした企業がきちんと謝罪しないと、マスコミは非難します。謝罪すればとりあえずマスコミは非難しません。演技の謝罪であっても同じです。演技という証拠はないからです。その結果、どの企業も経営者や担当者がずらりと並んで深々と頭を下げる光景が見られるようになり、さらには土下座する光景が見られるようになりました。
 
マスコミが謝罪しない被告を非難し、謝罪した被告は非難しないというやり方を続けていると、そのうちどの凶悪事件の裁判でも、被告が土下座するという光景が見られるようになるかもしれません。
もちろんその光景は、真の謝罪や反省を意味するものではありません。
 
もっとも、実際にはそのようなことにはならないでしょう。凶悪事件の犯人は多くの場合、反省の態度を示しません。反省の態度を示せば刑が軽くなるのにしないということは、現実的な判断力に欠けているということです。凶悪事件の犯人たちは、そういう意味ではあわれな存在です。
その点、市橋被告はかなり異質な存在です。間違って凶悪事件の犯人になってしまったという感じがします。
 
ともかく、反省の態度を示せば罪が軽くなるのに反省の態度を示さないというのは、自分を偽ることができないということであり、正直という美徳を有しているということです。
今後マスコミは、法廷で反省の態度を示さない被告について、「自分が不利になるとわかっていても、ありのままの気持ちを示したのは立派だ」と、その部分に関しては称賛していただきたいものです。

昔、なにかの人生相談で、お母さんが子どもは嘘さえつかなければよいと思って子育てをしていたら、その子が嘘ばかりつくようになって困っているという相談がありました。これはまさに絵に描いたようなパラドックスです。当時、自分の思想を鍛えることに力を入れていた私は、当然食いつきました。このパラドックスを解決すれば、人間についての認識が大いに深まるはずです。
ちなみに、この相談に対する回答は、子育てのむずかしさを強調して、母親の悩みに寄りそうことで悩みを軽減しようとするようなもので、パラドックスを解決しようとするものではありませんでした。
 
私が考えたことを順を追って書いていきましょう。
まず、このお母さんですが、子どもは嘘さえつかなければよいという考えは少しへんです。そういう考えで子育てしている親はあまりいないでしょう。しかし、親はそれぞれ、思いやりのある子になってくれればいいとか、わんぱくでもいいたくましく育ってほしいとか(昔そういうCMがあったのです)、勝手な考えで子育てしているので、この親もその点では同じです。それに、子どもにあれやこれやといっぱい要求する親がいることを思えば、ひとつのことしか要求しないことで好感すら持たれるでしょう。
 
次に、嘘をついてはいけないという道徳はほんとうに正しいのかということを考えました。
たとえば、医者は患者に嘘をつかずに、「あなたは末期ガンで、余命は3カ月です」というべきかというと、そんなことはありません。ここは嘘をつくかごまかしてもいいことになっています。
また、知人から「先日差し上げた手作りのお菓子、いかがでしたか?」と聞かれたとき、「一口食べて、まずいので捨ててしまいました」などと正直に答えてはいけません。ここは嘘をついてもいいでしょう。
つまり、相手を傷つけないための嘘は許されるのです。
また、フランスのレジスタンスの闘士がゲシュタポに捕まり、「仲間の居場所を知っているだろう。どこか教えろ」と聞かれたときも、「知らない」と嘘をついてもいいですし、間違った場所を教えてもいいでしょう。つまり、不当に迫害されたとき、身を守る嘘も許されることになります。
ちなみに、民主的な法治国家では黙秘権というものがあるので、嘘はつかずに沈黙して身を守ることになります。ゲシュタポは黙秘権を認めてくれないので、嘘をつくことになるわけです。
 
このように考えると、嘘をついてはいけないという道徳は絶対的なものではなく、例外がいくつもあることがわかります。
 
では、このお母さんの子どもはどうして嘘をつくようになったのでしょうか。
まず考えられるのは、お母さんの不当な迫害から身を守るために嘘をついているのではないかということです。つまり、お母さんはゲシュタポで、子どもはレジスタンスになっているのではないかということです。
このお母さんは、子どもと会話するとき、まず「あなたには日本国憲法で保障された黙秘権があるので、自分に不利なことは答えなくていいのよ」といってから、会話を始めてはどうでしょうか。
いや、半分冗談ですが、半分本気です。このお母さんに限らず誰でも、子どもを人間として尊重することがたいせつです。
 
ここで角度を変えて考えてみます。
このお母さんは子どもを嘘つきにしないようにしようと思って育てているわけですが、逆に子どもを嘘つきにしようとすれば、どんな育て方をすればいいでしょうか。
まず考えられるのは、ほんとうのことをいったら叱り、嘘をついたらほめるというやり方です。
このお母さんは、自分でも知らないうちにそうしたやり方をしてしまっているのではないでしょうか。
 
たとえば、しまっておいたお菓子がなくなっているのに気づく。しかし、自分で食べたのを忘れているのかもしれない。そこで子どもに聞いてみます。
「ここにあったお菓子、知らない?」
「僕が食べちゃったよ」
「勝手に食べちゃだめでしょ! 悪い子ね。謝りなさい」
 
子どもは学習して、次に同じようなことがあったときはいい方を変えてきます。
「ここにあったお菓子、知らない?」
「知らないよ」
「あなたが食べたんじゃない?」
「食べてないよ」
お母さんは自分が食べたのかもしれないと思って、叱りません。
 
「宿題やったの?」と聞いたときも同じです。
「やってないよ」と正直にいうと、叱ります。
「やったよ」と嘘をつくと叱りません。
 
こうすれば子どもはどんどん嘘つきになっていきます。
このお母さんは「子どもが嘘ばかりつく」と思って悩んでいますが、実際のところは、子どもの嘘に気づいていないケースも多いでしょう。その場合は子どもは叱られることを回避しているわけで、そうしたケースがある限り、今後も子どもは嘘をつき続けるでしょう。
 
ここで、「子どもは嘘さえつかなければよい」というお母さんのちょっとかわった子育て方針の理由が見えてきました。このお母さんは子どもの生活の全領域を監視したいのでしょう。しかし、それは現実に不可能です。そこで思いついたのが、子どもが嘘をつかなければ質問するだけで子どもの生活の全領域が監視できるというすばらしいアイデアです。なぜそんなに監視したいのかというと、子どもが悪いことをするかもしれないと思っているからですし、悪いことをしたら叱ろうと思っているからです。
やはりゲシュタポ的なお母さんだったのです。
 
では、子どもを嘘つきにしない子育て法とはどんなものでしょうか。
子どもが嘘をついたら叱り、ほんとうのことをいったらほめるというやり方が考えられますが、これは実質的に不可能です。嘘とほんとうの見極めはきわめて困難だからです。
では、どうすればいいのでしょう。
嘘をつこうがほんとうのことをいおうが、いっさい叱らなければいいのです。そうすれば嘘をつく必要はなくなります(人を傷つけないための嘘はつく場合がありますが)
たとえば、ジョージ・ワシントンの父親は、たいせつにしていたサクラの木をジョージ・ワシントンが切ったと正直にいったとき、叱りませんでした。これによってジョージ・ワシントンは正直のたいせつさを学んだわけで、この父親のやり方をまねればいいわけです(これは実話ではないそうですが)
 
一応、嘘つきな子にしないようにと思って育てた子どもが嘘つきになってしまったというパラドックスはこれで解決できたのではないでしょうか。
そして、道徳が正しく把握できれば、ゲーム理論の適用領域が一気に拡大することもわかっていただけたでしょう。

私は、覚せい剤で複数の逮捕歴のある芸能人の誌上対談の原稿を担当したことがあります。そのとき、彼がなぜ覚せい剤にはまってしまったのか、そしてなぜ覚せい剤を断つことができないのかがわかった気がしました。
 
対談のテープ起こし原稿を読むと、明らかにつじつまの合わないところがいくつもありました。前にいったことと、あとでいったことが違うのです。その意味で、ロス疑惑の三浦和義さんの原稿と似ています。
(三浦和義さんについては「ロス疑惑についての一考察」で書いています)
 
私は原稿を読んで頭をかかえました。明らかに矛盾したことを書くわけにはいきません。文章のテクニックでごまかすことはできますが、あいまいなところがいっぱいある文章はつまらなくなります。
このときはまだウィキペディアも充実していなくて、ネットで調べてもわかりませんでした(ちなみにウィキペディアは芸能人の情報が多いということでよく批判されますが、メディアの仕事をしている人には確実に喜ばれていると思います。インターネットが発達する以前、なにが調べにくいかというと、芸能関係の情報なのです。わからないことは図書館に調べに行くことになりますが、芸能関係の情報は図書館にほとんどないからです)
 
私は繰り返し原稿を読み、どれが正しい事実なのかを考え、そして、ついに真実にたどりつきました。
彼が自分から先に話したことは事実なのです。しかし、対談相手がそれを誤解することがあります。
たとえば、彼が「22歳のときに大きな転機がありました」といったとします。それからほかの話題に移り、また転機の話に戻ったとき、対談相手が「転機は20歳でしたね。そのときあなたは……」といったとします。彼はそれを訂正しないのです。そのため、転機があったのは20歳のときという前提で話が続いていくので、前半と後半が違ってくることになります。
対談をしていると(対談に限りませんが)、当然誤解が生じることがあります。それは当然、そのつど訂正して対談を続けていかなければなりません。
彼は相手の話をさえぎって、「いや、そうじゃなくて、転機があったのは22歳のときです」というべきなのです。
しかし、これは“話の腰を折る”という行為です。一瞬、話の流れが断たれます。
彼は“話の腰を折る”ことができないのです。そのため、対談相手の誤解は放置され、いったん放置された以上、あとになって訂正することもできなくなります。
22歳と20歳というのは目に見えやすい誤解ですが、目に見えにくい、つまり水面下の誤解というのもあります。それも全部放置されます。そのため、対談の原稿を読むと、矛盾だらけになってしまったのです。
私は、この人は“話の腰を折る”ことができない人なのだ、相手の誤解を訂正しない人なのだという前提で原稿を読みました。そうするとすべてのことが矛盾なく、明快に解釈できたのです。
それによって、なんとか対談原稿をまとめることができました。
 
この人はなぜ“話の腰を折る”ことができなかったのでしょうか。それは、気が小さかったからです。瞬間でも、相手の不興を買うようなことができなかったのです。
私は対談原稿をいっぱい担当しましたが、こんなに気が小さい人は見たことがありません。若い女性タレントでも、自分について誤解されればすぐに訂正します。
 
この、複数の逮捕歴のある芸能人は、実はコワモテの役柄を演じることを得意とする役者でもあります。あのコワモテのイメージの人が、実際はひどく小心者であったのです。
このイメージの落差、つまり外面と内面の差をとりつくろうには、相当な精神的エネルギーがいったでしょう。それに疲れ果て、つい覚せい剤に手を出してしまう。そういうことだったのではないでしょうか。
 
芸能人に限らず、繰り返し覚せい剤に手を出す人は、意志が弱いと非難されます。
しかし、その人のことを深く知れば、そんな意志の問題ではないことがわかってきます。
覚せい剤に手を出す人は、非難されるべき人ではなく、救済されるべき人です。

私はライターとして仕事をしている関係から、人とはちょっと違う角度から人間観察ができます。たとえば、ロス疑惑で有名な故・三浦和義さんの特異な性格も、そのインタビューを原稿にまとめるときに見えてきました。
 
そのとき三浦和義さんは刑期を終えていて、映画のプロデュースをしたことでメディアに登場しました。インタビューのときは、立て板に水のしゃべりで、おもしろく聞いていたのですが、いざ原稿をまとめるときに、はたと困ってしまいました。微妙に事実と違ったり、矛盾したり、あいまいであったりするところがひじょうに多いのです。
今はインターネットの検索で有名人について基本的なことは簡単に調べられます。三浦さんは石原裕次郎と親しかったこと、今は大企業となった会社と自分の会社が競っていたことなどを話しました。それは必ずしも嘘とはいえないのですが、微妙に誇張されているのです。その誇張するやり方は、関係ないことを続けてしゃべって関係があるように思わせたり、おとなになってからのことを子ども時代のことと思わせたりといったやり方で、嘘というよりは相手に誤解させるしゃべり方といったほうがいいかもしれませんが、結果的に相手をだますということでは嘘になります。
つまり、三浦和義という人は、つねに軽い嘘をついているという虚言症の人なのです。その軽い嘘というのは、人を陥れる嘘ではなくて、自分を少し大きく見せかけるという嘘です。それは大なり小なり、ほとんどの人がやっていることですが、三浦さんはつねにやっているという点で少し特異です。
そうしたことが、話し言葉を文章化するとき、おのずと見えてきたのです。
 
そういう虚言症の人が、妻が撃たれた悲劇の夫として渦中の人となりました。三浦さんは、その悲劇性を強調するようにしゃべりました。どうせロスでのことですから、なにをいってもわからないだろうと思ったでしょう。
ですが、それがロス疑惑として追及されるようになると、そのしゃべったことがひとつひとつ蒸し返され、嘘だということになります。三浦さんは嘘だといわれると、すかさず嘘ではないという理由を述べます。それは、そのときは説得力があります。しかし、それもまた嘘なのです。それが追及されると、また三浦さんはそれが嘘ではないという理由を述べるか、こんな理由でやむをえず嘘をついたのだと述べますが、それもまた嘘なのです。
 
こうした追及が可能になったのは、すべての発言がビデオで記録されるようになったからです。三浦さんはつねに軽い嘘をつきながら世の中を渡ってきましたが、言葉はその場限りのものですし、人の記憶は不確かなものですから、その嘘が追及されることはまずありませんでした。ビデオ時代にマスコミの渦中の人になったことで、三浦さんの虚言癖が誰の目にも見えることになり、人々を驚かせたのです。
 
テレビで三浦さんの言い分が放映されます。それは説得力があり、いかにも真実に思われます。しかし、テレビ局が取材した事実と照らし合わせたり、過去の発言と比較したりすると、疑問が出てきます。この過程は、そんじょそこらの推理小説よりもおもしろいものでした。
 
私たちは、人が嘘をつくのはなにか隠したい真実があるからだろうと考えます。ですから、三浦さんが嘘をつくのは真犯人だからだろうと多くの人が考えました。そうしてロス疑惑は限りなく広がっていったのです。
しかし、実際のところは、三浦さんはいつもするように、自分を大きく、カッコよく見せようとしゃべっていただけなのです。
いや、この書き方では、三浦さんが無実のようですね。実際のところ、それはわかりません。
ただ、ロス疑惑があれほど大きな騒ぎになったのは、三浦和義さんが虚言症の人だったことにあるのは間違いないと思います。
 
もし三浦和義さんがロス事件をマスコミから追及されなかったら、今ごろは成功した実業家になっていたかもしれません。
自分を大きく見せる術を心得ていることは、実業家として成功するひとつの条件ですから。

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