村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

カテゴリ: 書評

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人間が戦争をするのは、本能や人間性によるのでしょうか、それとも人間がつくった文化によるのでしょうか。

アインシュタインはナチスの勃興期にこの疑問をフロイトにぶつけて、それは『ヒトはなぜ戦争をするのか?―アインシュタインとフロイトの往復書簡』と題する本になっていますが、フロイトは「攻撃的な性質は人間の本性で、取り除くことはできないが、文化によって戦争を防ぐことができる」という考えを示しました。

人間の深層に“悪”があるとするのは、フロイトの基本的な思想です。
エディプスコンプレックスは、男の子に母親への近親相姦願望があるという考え方がもとになっています。
また、多型倒錯といって、幼児の性欲には方向性がないとも言っています。つまり人間は生まれつき変態で、教育やしつけで型にはめることによって正常な性欲になるというわけです。
アインシュタインは質問する相手を間違ったかもしれません。

フロイト説はともかく、人間に闘争本能があるために戦争が起こるのだという考え方は広く存在していました。


そうした考え方を根底からくつがえしたのが、動物行動学者のコンラート・ローレンツです。
ローレンツの著作は世界で広く読まれ、人々は「刷り込み=インプリンティング」という概念をローレンツの著作によって初めて知りました。
また、人々は、ライオンやオオカミなどの猛獣は獰猛で、残忍で、無慈悲なものだと思っていましたが、ローレンツは『ソロモンの指環』において、まったく違う考え方を示しました。
それは、同種の動物同士は殺し合わないということです。

たとえば二頭のオオカミが激しく闘って、やがて優劣がはっきりすると、ぴたりと闘いが止まります。劣勢なほうは自分の首筋を無防備にさらし、優勢なほうはかみついて致命傷を与えることができる体勢にもかかわらず、かみつかないのです。一方が“服従の姿勢”をとると、もう一方は本能的に攻撃を止めます。オオカミは相手を殺すだけの攻撃力を持っていますが、こうした本能のおかげで殺すことはありません。
このように攻撃を停止する本能は多くの動物に備わっています。
ローレンツは、同じ種の中で殺し合っていては種の存続があやうくなるので、牙や角などの武器の発達した動物は、同時に攻撃を社会的に抑制する本能も発達したのだと言います。

そうすると、人間が殺し合いをするのは本能を逸脱した行為だということになります。
ノーベル賞学者であるローレンツのこの説は広く知られて、最近では「人間には闘争本能があるから戦争をするのだ」ということは言われなくなりました。

ただ、『ソロモンの指環』は1949年に出版された本で、今となっては古くなったところがあります。
たとえば、ローレンツは動物の攻撃が抑制されるのは「種の保存」のためであるとしていますが、現代の生物学では動物の行動は個体や遺伝子のレベルで説明され、「種の保存」のための行動というのはないことになっています。実際、ライオンの子殺しのように「種の保存」に反した行動が存在することも明らかになっています。
ただ、同種の動物は闘っても殺すところまではいかないというのはおおむね事実です。





ローレンツは動物の攻撃性や“悪”についてさらに考察して、1963年に『攻撃―悪の自然誌』を著しました。
ここでローレンツは大きな間違いを犯しました。
はっきり言って『攻撃』は失敗した著作です。
それは、弁解めいたおかしな「まえがき」がついていることからもわかります。

「まえがき」の冒頭はこうなっています。
この本の原稿に目を通して、気付いた点を言おうと約束してくれた親切な友人が、半ば過ぎまで読み進んだところで、つぎのような手紙をくれた。「これはもう、第二章のあたりから感じていることなのですが、読んでいておもしろくてたまらないと思う一方では、不安になってもくるのです。なぜかというと、読んでいる部分と全体とのつながりがはっきりしないからです。その関係をもっとよくわかるようにしてください」。これには、しごくもっともないわれがある。そこで、この本を読んでくださる方々に、前もって、本書のねらいがどこにあるか、またそのねらいとそれぞれの章とがどのような関係にあるかを知っておいていだだくために、このまえがきをそえておきたい。

しかし、残念ながら7ページの「まえがき」を読んでも、本書のねらいがどこにあるかも、各章が全体とどうつながっているかもわからないので、多くの人は読んでいてうんざりするに違いありません。
要するに最初から最後まで論理の歯車がかみあっていないのです。
ローレンツはどこを間違ったのでしょうか。


ローレンツはフロリダの海に潜り、サンゴ礁にいる魚の生態を観察し、魚のなわばり争いに注目しました。
なわばり争いとは、いいところに目をつけたと思います。お互いに相手のなわばりを尊重していれば、争いは起こりません。どのようにしてなわばり争いが起きるのかがわかれば、争いを回避して平和を実現する方法もわかるはずです。

ローレンツは魚の動きを細かく描写しています。

ついに見えた。はるか向こうから、とはいえ水がよく澄んでいる場合でも、たかだか一〇から一二メートルしか見通しがきかないが、第二のボー・グレゴリーが、明らかに餌をあさりながら、だんだん近づいてくるのだ。わたしの近くに定住しているほうのボー・グレゴリーは、わたしの発見よりはるかに遅れて、その侵入者が四メートルほどの所に迫ってきたとき、ようやく相手の姿に気がつく。すると、もとからいたほうは、世にも恐ろしいかんしゃくを起こして、よそ者にとびかかり、攻撃されたほうは、自分のほうが少し大きいにもかかわらず、すぐさま向きを変えると、必死に打ち込んでくる切先を激しいじぐざぐでかわしながら、全速力で逃げていく。その突きのひとつでも身に受けたなら、重傷を負うだろう。だが少なくとも一度は命中したのだ。うろこが、きらきらしながら枯れ葉のように舞い落ちてゆく。そのよそ者が、薄暗い青緑色のかなたへ姿を消してしまうとみるや、勝ったほうはすぐさま自分の穴へ戻ってくる。かれは、穴の入口のまん前に密集して餌をあさっているクチアカの子の群れの中を、しずかに身をよじって通り抜けていく。その無関心なようすは、まるで石とかその他の、とるに足りない無生物の邪魔物をよけているようにしか見えない。それどころか、色と形の点でボー・グレゴリーとそれほど違いのない小さなブルー・エンジェルですら、かれにかけらほども攻撃する気を起こさせないのである。
その直後、指の長さにもたりないブラック・エンジェルが二匹対決しているのに出会ったが、その経過は何から何まで前と同じで、その上もう少し劇的だった。攻撃する側の憤激はいっそう大きく、逃げていく侵入者の恐慌はいっそうあからさまだ。しかしそう見えるのはたぶん、ゆっくりとしか動かないわたしの肉眼にはエンジェルの動作のほうがよく追跡できるからだろう。ボー・グレゴリーのほうは遥かに速くて、度の過ぎた低速度撮影機でとった映画を見るようだ。

なわばりへの侵入者は、なわばり主によって必ず撃退されるということです。
これもまた、同種の動物が殺し合うことを回避するメカニズムです。

このような動物のなわばり争いの実態は、今では生物学界の常識となっています。
日高敏隆著『日高敏隆選集Ⅱ 動物にとって社会とはなにか』からも引用しておきます。

さらにすばらしいことには、なわばりに関する闘いは、殺しあいにまで発展することがまれである。
前にも述べたように、「他人の」なわばりに入りこんでいるな、と感じた個体(むしろ、ここは自分のなわばりでないなと感じている個体)は、あえて擬人化すればそのやましさのゆえに、なわばり所有者から攻撃されるとすぐ引きさがってしまう。そこではけっして組んずほぐれつの闘いなどおこらない。だが問題はこれですむほど単純ではない。なわばりの所有者は引きさがっていく侵入者を追いかけてゆく。しかし深追いは動物においても危険である。なぜなら、追跡が進む間に、両者の心理状態が刻々と変化していってしまうからだ。
動物の「闘志」は、なわばりの中心すなわち巣からの距離に反比例する。なわばりの境界近くまで侵入者を追いかけていった所有者には、もはや攻撃のはじめほどの闘志はわいてこない。闘志と同じくらい逃避の衝動が強くなっているのである。
この比例関係は、自分のなわばりに逃げこんだ動物についてもあてはまる。そこでこちらのほうは、自分の巣に近づくにつれて、闘志がみなぎってくるのである。
深追いしすぎて相手のなわばりに侵入した追跡者は、相手ががぜん反攻に転じると急いで後退して自分のなわばりへ逃げこむ。もし相手がそこまで深追いしてくると、事情が逆転する。こうしてしばしば一対の動物は、ふりこのようにふれながら、ついになわばりの境界線でとまることがある。

なわばりへの侵入者は、自分が“他人”のなわばりに侵入していることを理解しています。だからこそなわばり主と対峙すると、ほとんど闘わずに逃げ出すのです。

すべての個体が自分のなわばり内だけで生活し、ほかのなわばりに入らなければ、争いは起こらず、世界は平和です。
しかし、おそらくは餌を探すために、ほかのなわばりに侵入する個体がときどきいます。
この行為をたとえて言えば“不法侵入”です。そして、そのときそこにある餌を取ったら“窃盗”です。なわばり主に発見されて格闘になったら“強盗”です。
これは、自然界に“悪”が存在するということを意味します。
と同時に、“悪”の行為をやましく思う気持ち、すなわち“良心の呵責”や“罪の意識”が存在するということでもあります。

“不法侵入”でなくて“侵略”にたとえることもできます。
そうすると、なわばり争いは、侵入する側からすれば“侵略戦争”で、なわばり主からすれば“防衛戦争”です。そして、侵略軍は必ず防衛軍に撃退されるので、この戦争はそれほど深刻になりせん。

ちなみに、なわばりを持つ動物は、糞や尿を残す、体のにおいをつける、爪痕を残すなどのマーキングをし、鳥の場合はなわばりを主張するさえずりをし(テリトリー・ソング)、そこが自分のなわばりであることを他の個体にわからせます。しかし、他の個体となわばりの認識がつねに一致するとは限らないので、お互いに相手を侵入者と見なして争うこともあるでしょう。これは“国境紛争”です。

そうすると、動物の世界には“侵略戦争”と“防衛戦争”と“国境紛争”があることになります。

このような動物のあり方が人間性につながっていることはもちろんで、人間社会を考える上でもきわめて重要です。
たとえば人間は、他人のなわばりをどんどん併合していって「帝国」を築きますが、これは本能ではなく文化だということになります。
また、戦争を侵略戦争と防衛戦争と国境紛争に分類するときわめてわかりやすく、平和構築に役立つはずです(今は集団的自衛権というものが戦争の把握を困難にしています)。


ローレンツは動物のなわばり争いに注目しましたが、なわばり争いを「侵入対防衛」というふうにはとらえませんでした。
彼はもっぱら「攻撃性」に注目しました。
そうすると、なわばりを防衛するほうが攻撃的で、侵入するほうは平和的に見えます。防衛するほうは激しく攻撃して侵入者くを傷つけることがあるので、防衛するほうが加害者、侵入するほうはむしろ被害者になります。

つまり本来は侵入するほうが“悪”なのに、ローレンツは防衛するほうを“悪”としたのです。
そのため、まったく論理性がなくなり、『攻撃』を読んでいると終始わけのわからない感じがするのです。
失敗作と断じたゆえんです。


なわばり争いは同じ種同士で行われるので、ローレンツは「種内攻撃性」ととらえ、「種内攻撃性」は生存に役立つ本能だとしました。
生存に役立つ本能ならなくすことはできません。

ローレンツは「希望の糸」と題した最終章において、「わたしには種の変遷の偉大な設計者が、人類の問題をその種内攻撃性を完全にとり払うことによって解決してくれることは、どうしても信じられない」と書いています。
そのあとで、「私は人間の理性の力を信じており、淘汰の力を信じており、理性が理性的淘汰を進めていくと信じている」とも書いていますが、こんな言葉では希望は持てません。


ところで、ローレンツは若いころナチス党員でした。第二次大戦では軍医として東部戦線に行き、ソ連軍の捕虜になりました。
ドイツ軍は一方的にソ連に侵攻し、ソ連軍の激しい抵抗と反撃にあいました。
侵入側を“悪”ととらえるのではなく、防衛側の反撃を“悪”ととらえるのは、その体験が影響したのかもしれません。
また、先ほど引用した文章に「理性的淘汰」という言葉がありますが、これはどう考えても優生思想ではないでしょうか。


生物学をもとに人間と社会を研究することは、社会生物学や進化心理学として近年盛んになっていますが、ローレンツはその先駆者です。
ローレンツの業績の功罪を改めて検証する必要があります。

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本書は同じ著者矢部宏治氏の「日本はなぜ、『基地』と『原発』を止められないのか」の続編であり、また、矢部氏がプロデュースする「<戦後再発見>双書」という歴史シリーズの一冊でもあります。
このシリーズを読んでいる人と読んでいない人では、戦後日本の見方がまったく違うのではないかというほど重要なシリーズです。
 
「日本はなぜ、『戦争のできる国』になったのか」では、「基地権」と「指揮権」というふたつの概念を使って複雑な問題を解き明かしていきます。
 
沖縄の基地問題がまったく解決しないのを見て、「日本はまだ占領状態だ」と言うのは「基地権」のことを言っているわけです。
日米安保条約+日米地位協定+密約によって、アメリカは「日本中のどこにでも、必要な期間、必要なだけの軍隊をおく権利」を有していると矢部氏は言います。
事実、北方領土返還交渉において日本政府はロシアに「北方領土が返還されるとそこに米軍基地ができる可能性がある」と述べたために、プーチン大統領は返還をやめてしまいました。このことを見ただけで、アメリカが基地権を持っていて、日本が拒否できないことがわかります。
 
なお、細かい密約を決めるのは日米合同委員会という組織です。これはアメリカの軍人と日本の高級官僚によって構成されるという、まさに占領状態を示す組織となっています。
 
矢部氏の本を読んだ田原総一朗氏は「日経ビジネスオンライン」にこんなことを書いています。
 
 
 先日、僕はBS朝日の「激論!クロスファイア」で、ゲストとして本書の著者である矢部氏と石破茂元防衛大臣を招き、日米地位協定について議論をした。石破氏は、「この協定に少しでも触れたことを言おうとすると、『そんな話はしてはいけない』という空気がある」と述べた。いわば、この話はタブー視されているというわけだ。
 あるテレビ番組の取材で、外務省の元北米局長に日米合同委員会について尋ねると、「日米合同委員会については、何も知りません。そんなものがあるのかすら知りません」と答えた。
 北米局長は、同委員会の日本側の代表だ。何も知らないわけがない。しかし、何か知っていることを認めれば、日本国内で信用をなくし、誰からも相手にされなくなってしまうから言えなかったのだろう。
 
 
日米合同委員会については、外務省のホームページでその組織図が公表されていますから、元北米局長が「何も知りません」と言ったのは、あまりにも苦しい嘘です。
 
なお、「密約」といっても、多くはアメリカ側で公開された公文書を証拠としているので、説得力があります。
 
 
こうした基地権の問題はかなり知られるようになってきましたが、矢部氏はほかに指揮権の問題もあると言います。
 
指揮権の問題は朝鮮戦争と密接に関連しています。
 
朝鮮戦争において国連軍が組織されますが、これは国連憲章43条に基づかない非正規なもので、アメリカに「統一指揮権」と「国連旗の使用」が認められます。
「アメリカが指揮する国連軍」というのはおかしなものですが、ともかくアメリカは“錦の御旗”を手にしたわけです。
 
日本にいたアメリカ軍が朝鮮に出撃したあと、米軍基地を守るためにつくられたのが警察予備隊です。このときから「憲法破壊」が始まりました。
 
そして、アメリカから朝鮮半島近海に海上保安庁の掃海艇部隊を出すように要請がきます。吉田首相は「国連軍に協力するのは、日本政府の方針である」と言って、出動を許可します。
掃海艇部隊は日本近海の機雷除去を任務としていたのですが、朝鮮半島近海で敵が敷設した機雷を除去するのは戦争行為です。まだ占領下の日本とはいえ、これもまた「憲法破壊」でした。
 
なお、この掃海艇部隊は、1隻が機雷に触れて爆発、沈没し、1人の「戦死者」を出します。このことは長く秘密にされてきました。
このとき、25隻の部隊のうち、3隻が船長の判断によって戦場を離脱し日本に帰還したといいますから、そうとうなドラマがあったのでしょう。
 
このとき組織された国連軍は今も存在していて、板門店などの警備をしていますし、沖縄と横田基地にも国連軍後方司令部が置かれています。
そして、在日米軍というのは、「頭部は国連軍司令部、体は在日米軍というキメラ(複合生物)」であると矢部氏は言います。
そして、さまざまな法的トリックにより、戦時には自衛隊は米軍の指揮下に入る密約があるのだと言います。
現実に自衛隊はほとんど米軍と一体化しているので、そうなるに違いないと私も思います。

新安保法制はその具体化であったわけです。
 
 
韓国での有事指揮権はアメリカ軍(米韓連合軍)が握っていますが、文在寅大統領は韓国軍に移管させる方針で、交渉しています。
戦争になったら韓国軍よりアメリカ軍が指揮したほうがうまくいくと思いますが、少なくとも韓国では指揮権のことが議論になっています。
 
ところが、日本では指揮権のことはまったく話題にもなりません。
平和勢力は戦争のことを具体的に考えようとしない傾向がありますが、自衛隊が“参戦”するときに自衛隊の指揮権はどうなるのかということを安倍首相に問いただしてもらいたい気がします。
 
 
国連軍が一度組織されたのに二度目がないのは不思議ですし、その一度目がいまだに存在し続けているのも不思議でしたが、要はアメリカが国連をないがしろにしつつ国連軍という“錦の御旗”だけは手放したくないからだと考えると納得がいきます。
また、アメリカが決して北朝鮮と平和条約を締結せずに休戦状態を続けているわけもわかります。

憲法や安保法制について考えている人には必読の本です。

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パオロ・マッツァリーノ著「みんなの道徳解体新書」(ちくまプリマー新書)を読みました。
 
パオロ・マッツァリーノ氏の著者紹介には「イタリア生まれの日本文化史研究家、戯作者。公式プロフィールにはイタリアン大学日本文化研究科卒とあるが、大学自体の存在が未確認」とふざけたことが書いてあります。イザヤ・ベンダサン式の外国人を装う日本人ではないかと想像されます。
 
マッツァリーノ氏のデビュー作は「反社会学講座」です。これがめっぽうおもしろかったので、力のある名の通った書き手が別名で書いているのだろうと想像しました。そして、脳内サーチをしたところ、ある作家の名が浮かびました。思想傾向と文章が似ていますし、なによりも、その作家には社会学を批判する本を実名(それも筆名ですが)では発表しにくいという個人的な事情がありました。
 
その作家は元の筆名で小説と割とまじめなエッセイを書き、戯作的な社会批判をパオロ・マッツァリーノ名義で書くという戦略でやっているようです。
 
「パオロ・マッツァリーノの正体」で検索したところ、的外れの推測はされていますが、その作家の名前は挙がっていません。まだ誰も気づいていないようです。
 
私がここでその名前を書いてもいいのですが、本人があえて正体を隠しているのですから、その意向を尊重することにします。
もっとも、私も推測しているだけで、証拠があるわけではありません。ただ、正しいという確信があります。賭けてもいいです。
 
 
で、「みんなの道徳解体新書」ですが、北野武著「新しい道徳」が売れたので、それに触発されて書いたのではないかと思ったら、マッツァリーノ氏は自分の公式ブログで、北野氏の本が出る前から企画して下調べもしていたと主張していました。
 
 
『みんなの道徳解体新書』内容紹介
 
 
このページに内容紹介がされているので、ここで書くことがほとんどなくなってしまいました。そこで、道徳の副読本に書かれているさまざまなエピソードから、おもしろいものを紹介しておきましょう。
ちなみに道徳副読本は一般の人は容易に読めないので、ここに紹介するものはけっこう貴重ではあります。
 
 
子ねこのネネ(教育出版3年)
かわいがっていた子猫が死んでしまい、悲しみに沈んでいる女の子。
その子の誕生日がやってきて、誕生会が開かれます。同級生の男の子は、女の子を勇気づけようとプレゼントを渡します。
箱を開けると、なかには死んだ猫にそっくりの猫が……
 
 
なまはげ(光文書院1年)
なまはげは家をまわって、いけないことをした子を探します。
うそをついた子はいねが!
人の物をとった子はいねが!
いじわるをした子はいねが!
みなさんも「なまはげ」になって、してはいけないことを探してみましょう。
 
 
ナンシーのゆめ(教育出版3年)
ナンシーは夢を見ています。
夢の中では、ナンシーの臓器たちが会話をしています。
心臓や脳や手や足が不満を漏らします。おれたちはナンシーのためにいろいろ働いているのに、胃ぶくろのやつはなにもしていないじゃないか。彼らは胃ぶくろを懲らしめてやることにしました。
するとナンシーの体から力が抜けていきます。
心臓や脳は「私たち、まちがっていたのかしら……」
「胃ぶくろさんは、食べものをみんなにわけてくれていたのね……」
そこでナンシーは目を覚まします。「よのなかの生きものは、互いに関わりあっていのちを支えているんだわ。この地球だって……」
 
 
これらのエピソードについてマッツァリーノ氏がツッコミを入れていくわけです。
もとのエピソードがへんてこなので、いやおうなくおもしろくなります。
 
今後、小中学校で道徳が正式の教科に格上げされるので、こうしたツッコミは大いに意味があります。
 
本書には道徳教育の歴史がきちんと調べて紹介されているので、そこにも価値があります。
 
ただ、マッツァリーノ氏は北野氏の「新しい道徳」について、あまり調べずに根拠のないことを書いていると批判的に見ていますが、それは違うでしょう。
マッツァリーノ氏の「みんなの道徳解体新書」は道徳教育批判の書ですが、北野氏の「新しい道徳」は道徳批判の書です。
道徳教育批判よりも道徳批判のほうがより本質的です。
 
ちなみに、道徳教育批判は要するに政府や文部科学省や教育者を批判するだけですが、道徳批判はすべてのおとなと社会全般を批判することになるわけです。
 
道徳批判というのは、ルソーとマルクスがやっているのですが、そのあとを継ぐ者がいません。
本来はダーウィンがしなければならなかったのですが、ダーウィンは間違ってしまいました。そのためいまだに道徳についての言説は混乱しっぱなしです。

 
アメリカのトランプ次期大統領の主張は、ナントカ主義とかナントカ思想と名づけられるものではなく、要するに“むき出しの道徳”です。
道徳批判の視点がますます重要になってきました。その意味からも本書は大いに価値があります。

橘玲著「言ってはいけない残酷すぎる真実」(新潮新書)が売れているようです。
 
進化生物学、脳科学、認知科学などによる人間の科学的・実証的な研究がどんどん進んで、今や人間観を根底から変えなければならない時代です。しかし、この手の本はどうしても専門的になり、むずかしいし、おもしろくありません。
その点、橘玲氏は作家だけにおもしろく読ませる力がありますし、犯罪、暴力、お金、セックスなど読者が食いつきたくなる題材を扱い、専門家でないために総合的な視野もあります。
 
そういうことでおもしろく読め、いろいろなことも学べます。
 
たとえば、われわれは面長の男性と顔の幅の広い男性とを見比べると、顔の幅の広い男性のほうを攻撃的と判断して、この判断はかなり正確なのだそうです。というのは、男性ホルモンであるテストステロンが濃いと顔の形が幅広になるからだというのです。
私は昔から、政治家というのはなぜかブルドッグみたいな顔の人が多いなと思っていましたが、これを読んでその理由がわかりました。攻撃的な人が政治の世界で出世するのです。
トランプ氏も幅の広い顔で、いかにも攻撃的です。
一方、オバマ大統領や谷垣禎一自民党幹事長は面長で、政治家としては異色です(谷垣幹事長は自転車で転倒して入院中ですが、自転車が趣味というのも政治家としては異色です)
 
こんな興味深い話がいろいろ書かれているのですが、読んでいるうちにこれは“残念な本”だということもわかってきます。
 
たとえば、アメリカにおいて白人の知能の平均を100とすると黒人は85になるのだそうです。この数字が正しいか否かは別にして、人種と知能に関係があっても不思議ではありません。
 
本書では、容姿の美しさについてもいろいろ書かれ、「美人とブスでは経済格差は3600万円」だそうです。
私の経験では、美人とブスの問題にも人種は関係あります。ラテン系は美人が多いですが、アングロサクソン系にはあまりいません。東南アジアの女性は鼻が横に広く、あまり美人はいません。日本と韓国では韓国に美人が多い気がします(ネトウヨによると整形のせいだそうですが)。また、国内でも地域差があって、私はこれまで京都、名古屋、東京に住んできましたが、京都と東京には美人が多く、名古屋にはあまりいません。
 
ところが、本書には美人と人種の関係についてはなにも書かれていません。知能に関するところにだけ人種が持ち出されるのです。
しかも、知能と人種の関係を論じることはタブーにふれることだと強調されます。そのため「個人差」ということが無視されてしまいます。

黒人はみな肌が黒く、白人はみな肌が白いので、「黒人の知能は白人より劣る」と言われると、黒人はみな白人より知能が劣ると思う人がいるかもしれません。しかし、これは間違っていて、これが差別主義です。
 
自然界の現象の多くは釣鐘型(ベルカーブ)の正規分布になることが知られていて、知能も同様です。白人の平均知能が100、黒人が85だとすると、それぞれ釣鐘型に分布するのですから、かなりの部分が重なり合うでしょう。ですから、ある白人とある黒人の知能を比べると、黒人の知能が高いケースはいくらでもあることになります。これは差別主義者にとっては「残酷すぎる真実」でしょう。
 
名古屋には京都や東京より美人が少ないといっても、名古屋出身の美人女優やモデルがいっぱいいることを見てもわかるように、ごくわずかの差です。ですから、私も本来ならこんなことは言いません。問題はあくまで「個人差」です。
 
 
橘玲氏は性差についても同じような議論を展開します。
幼い子どもに絵を描かせると、女の子は暖色を多く使って人物やペットや花や木を描き、男の子は寒色を多く使ってロケットやエイリアンや車など動くものを描こうとする。これは親や教師が「男の子らしい」あるいは「女の子らしい」絵を描くように指導したからではなく、生まれつきの性差によるのだ。文化や教育が性差をつくってきたというフェミニストの主張は間違いだ。
 
確かにフェミニストは生物学的性差を軽視ないしは無視してきて、これは間違いです。
しかし、橘玲氏の主張も「性差」を強調するあまり「個人差」を無視しています。
生物学的性差の男らしさ、女らしさにも「個人差」があり、釣鐘型に分布するので、女の子らしい男の子、男の子らしい女の子も存在することになります。
橘玲氏の主張はLGBTの人への差別につながります。
 
 
ダーウィンの進化論以来、社会ダーウィン主義、優生学、エドワード・O・ウィルソンの社会生物学と、科学と差別主義を結びつけることが行われてきて、本書もその末席に連なることになりました。
読んでためになることもいっぱい書かれているので、なんとも“残念な本”と言わざるをえません。
 

北野武著「新しい道徳」が売れています。
私はこの本についてすでに書評を書きました。
 
北野武著「新しい道徳」書評
 
北野氏はこの本で、道徳についてさまざまな疑問を呈して、「道徳がどうのこうのという人間は、信用しちゃいけない」と主張しています。ところが、北野氏は母親から「食べ物が美味しいとか不味いとかいうのは下品だ」とか「行列に並んでまで食い物を喰うのは卑しい」と教えられ、それは受け入れていて、奥さんの料理にも「うまい」と言わないのだそうです。
おいしいものを食べる喜びを家族で共有するというのは、人間の幸せのもっとも基本的な部分ですが、北野氏にはそれがないわけです。
 
なぜ北野氏は母親から教えられたことは無批判に受け入れてしまうのかということが気になって、北野氏の「たけしくん、ハイ!」を図書館から借りてきて読んでみました。
 
 
「たけしくん、ハイ!」は、1947年生まれの北野武(ビートたけし)氏が幼少期の思い出を書いた本です。貧乏な暮らし、塗装業だった父親の仕事を手伝ったこと、紙芝居、ベーゴマ、川遊び、凧揚げなどの遊びのことが細かく書かれています。テレビドラマにもなったので、ご存じの方も多いでしょう。ここでは、北野氏と母親との関係に注目して、引用してみます。
 
 
小学校6年生ぐらいのとき、北野氏は母親といっしょに神田に行って、5教科全部の参考書や問題集を買ってきます。
 
そんで、帰ってきたら、
「さぁ、勉強しろ」
って始まっちゃってさ。
で、初めは目新しいから、一応すわってやるんだよね。そしたらおふくろ、にやにや笑って喜んでるわけ。三日目になったら、おっぽりだして、なにもやらなかったら大変よ。なぐるけるでさ、すごかったよね。
もう、パンチの雨なんだもの、うちのおふくろ。押し入れの中にまでけっとばされたりしてさ。鬼のようだったね。本当に、鬼子母神のようだったよ。恐かったなぁ、あれ。
そういう母親なんだもん。まぁ、すごい母親だったね。あれ。そいで、おやじが、酔っぱらいであれだもんね。異常な世界だよ、俺んとこ。
 
 
俺もほんと悪いガキだったけど、やっぱりおふくろだけには勝てなかったよね。
なにがダメというより、なにをやってもおふくろにもう見破られたってとこあるからね。なにやったって俺しかいないんだから、悪いことすんのは。だからあのころ、何をするにもおふくろとの対決だったんだよ。おふくろをだますか、見つかっておこられるかのどっちかだったからね。
 
 
あるとき、近所の質流れの店にお兄さんといっしょにグローブを買いに行きます。それもなぜか台風の日に必死で行くのですが、わずかにお金が足りなくて買えません。
 
兄きは異常に口惜しがってね。ついに泣きだしちゃったんだよ、質屋の前でね。それがまたすごく悲しくてさ、二人で泣きながら帰ってきたんだ、うちまでね。
うちまで泣きながら帰ってきたら、おやじがおふくろをぶんなぐってるの。夫婦ゲンカしてるのよ、いつものね。それ見て情けなくなっちゃってさ。情けないっていうか、もうなんとも悲惨だったんだ、あのころ。
日曜日だし、雨降ってるからペンキ屋できないわけよね。仕事はできねえし、おふくろは仕事がねえからって、おやじのことののしったらしくてさ。おやじは一升ビンかなんかで酒飲みながら、おふくろをけっとばしたりして。兄きは兄きで、グローブ買えなかったのが口惜しくて泣いてるし。とりあえずオレも泣かなきゃしょうがないって、意味もなくオレも泣きだしちゃってね。ほんと、それが情けなかったんだ。
おやじはいつも殴ってたんだよね、おふくろのことを。婆さんが出てくると、その婆さんまでけっとばしたりしてたんだもの。おやじの実の母をだよ。おやじのおふくろは、義太夫の師匠でさ。俺のおふくろと、つまり嫁と姑の仲がいいわけよね。そんで婆さんは、自分の息子であるおやじがどうしょうもないダメ人間なのを知ってるから、
「すまないね、すまないね」
って、いつもおふくろにあやまってるんだ。それをきくとおやじはいつも怒ってさ、
「テメェの息子に対して、なんだこのババァが」
とかいって、けっとばすんだよ、婆さんをね。八〇いくつの婆さんをだぜ。ムチャクチャなんだから、もう。地獄なんだ、俺んち。
 
 
この本は、古きよき時代を描いたノスタルジックなムードの本と思われているようですが、よく読むと、ドメスティック・バイオレンスと幼児虐待の本でもあります。私は読んでいて、元少年Aの家庭に近いのではないかと思いました(時代が違うので、こちらの家庭は開かれていますが)
 
母親はとても学歴にこだわる人で、北野氏はきびしく勉強を強制され、明治大学に進学しますが、結局中退して母親の期待を裏切ってしまいます。
当然北野氏には母親に対する恨みなど複雑な思いがあるはずですが、ウィキペディアの「ビートたけし」の項目によると、『1999年(平成11年)8月に母が死去した際には通夜の後に記者会見で、「俺を産んで良かったと思って欲しい…」と絶句し、泣き崩れる場面を見せた』ということです。
 
父親については、暴力だけではなく、人間的な描写がいろいろとあります。たとえば、ある年のクリスマスに高校生のお姉さんがケーキを買ってきます(母親はクリスマスらしいことをしなかったようです)。そこに酔っぱらった父親が帰ってきて、ちゃぶ台の上のケーキを見て、「バカヤロー。ペンキ屋の家でクリスマスパーティーもなにもあるかい」と言ってちゃぶ台をひっくり返し、北野氏とお姉さんはぐずぐずになったケーキを見てわんわん泣いて、父親はまた家を出ていってしまいます。しかし、よく見たら玄関に大きな紙袋が置いてあって、ひげのついたセルロイドのめがねと、クラッカーが入っています。おそらく父親は必死の覚悟でそのクリスマスセットを買ったものの、それを子どもに出すことができず爆発してしまったのだろうと察して、そのとき北野氏は泣いてしまったそうです。
 
つまり父親についてはそうした人間的な弱さを洞察しています。しかし、母親についてはそういう描写がありません。
母親から「食べ物が美味しいとか不味いとかいうのは下品だ」と言われたとき、母親は料理が苦手だからそんなことを言うんだろうという洞察があれば、その教えに縛られることはなかったでしょう。
親から虐待された子どもは、それを虐待と認識することができず、逆に親をかばいます。北野氏はいまだそういう段階にあるのではないかと思われます。
 
「新しい道徳」は道徳について深く考察した本ですが、母親との関係が洞察できていない分、不徹底になってしまいました。

北野武著「新しい道徳」(幻冬舎)を読みました。
 
「はじめに」という前置きがあります。
そこには「他人の書いたことを鵜呑みにする性癖のある読者は……これから先は読んではいけない」「これから書くのは、あくまでも俺の考えだ。その考えを誰かに押しつけるつもりはまったくない」「なんだかおかしいなあと思うから書いただけだ」というふうに、毒舌家の北野氏にしては珍しく謙虚な姿勢が打ち出されています。道徳を批判することに対するタブー意識がそれだけ強いということでしょう。
 
「道徳はツッコみ放題」というのが第1章のタイトルですが、これは全編にわたってのテーマでもあります。学校の道徳の教材を初めとして世の道徳に対してどんどん突っ込んでいきます。そこを紹介しましょう。
 
文部科学省の小学1・2年生の道徳の教材には「自分を見つめて」と書いてあるが、これがおかしいといいます。子どもに必要なのは、虫だのカエルだのを追いかけ回したり、野球やプロレスごっこをしたりして、好き勝手に遊ぶことだ。子どもはそこからいろんなことを学ぶ。小学1年生が自分を見つけるわけがないというわけです。
それから、「いちばんうれしかったことを書きなさい」というのもおかしい。そういうのは年を取ってから、昔を振り返ってすることだ。子どもに昔を振り返らしてどうしようっていうんだ。
 
道徳の教科書にはやたら老人とゴミが登場すると北野氏は言います。年寄りに席を譲る。年寄りの荷物を持ってやる。年寄りの道案内をする。道に落ちているゴミを拾う。ゴミを分別して出す。誰かが道にゴミを捨てたら注意する。老人とゴミが、子どもになにかいいことをしろと教えるときの定番になっているのです。
そうすると、老人とゴミはいっしょで、老人は社会の邪魔者だと思う子どもがふえてもしかたがない。
それに、老人だから善人とは限らない。刑務所の中は老人でいっぱいだ。重い荷物を持っているじいさんに声をかけて、家まで運んでやった子どもがそのまま家の中に連れ込まれたら、老人に親切にしろと教えた先生はどうするんだ。
やっぱり毒舌も好調です。
 
道徳はフラクタルだと北野氏は言います。つまり大きい世界の道徳も小さい世界の道徳も相似形のはずだと。
子どもに仲良くしましょうと教えているなら、国と国だって仲良くしないといけない。「隣の席のヤツがナイフを持ってるので、僕も自分の身を守るために学校にナイフを持ってきていいですか」って生徒が質問したら、「それは仕方がないですね」と答える教師はいるわけない。だとしたら、隣の国が軍拡したから我が国も軍拡しようという政策は道徳的に正しくないことになる。いかなる理由があっても喧嘩をしてはいけないと子どもに教えるなら、いかなる理由があっても戦争は許されないということになる。
ところが、おとなたちは戦争は必要悪だとか、自衛のための戦争は許されると言ったりする。もしそれが正しいのなら、子どもにも喧嘩をするなと教えるな。道徳はフラクタルなのだから。
 
さすがに北野氏は鋭く突っ込んでいます。
 
それから北野氏は、道徳は時代によって変わると言います。バブルの時代を経て、若くしてIT長者になることが可能な時代になると、農耕時代のような勤勉の道徳は通用しない。今、ノロマなカメでもコツコツ努力すればウサギに勝てるなんていう幻想を子どもに植えつけたら、まじめなカメはみんな頭のいいウサギの食い物になってしまう。
この指摘も鋭いです。
 
結局、本書の結論は、「道徳がどうのこうのという人間は、信用しちゃいけない」ということと、「道徳は自分でつくる」ということです。
 
私はその結論にだいたい賛成ですが、少し突っ込んでおきます。
 
北野氏は、支配者が庶民に押しつける道徳と親が子に伝える道徳は違うと言います。
北野氏の母親は「食べ物が美味しいとか不味いとかいうのは下品だ」とか「行列に並んでまで食い物を喰うのは卑しい」と教えたそうで、北野氏はその“道徳”を肯定しています。だから、今でも行列には並ばないし、奥さんの料理にも「うまい」と言わないのだそうです。
これはおかしな話です。道徳はフラクタルだと言ったことと矛盾しています。それに、奥さんが心を込めてつくったおいしい料理にも「うまい」と言わない“道徳”がいいわけがありません。
 
北野氏ほどの人でも、自分の母親のことになると客観視できないのです。
 
それから、「道徳は自分でつくる」といったって、どんな道徳をつくってもいいわけではありません。正しい道徳をつくらなければいけないわけで、そのためのヒントや方向性を示さないのは不十分です。
 
今の道徳がどのようにしてつくられたかは、北野氏自身も書いています。
「道徳は社会の秩序を守るためのもの……といえば聞こえはいいけれど、それはつまり支配者がうまいこと社会を支配していくために考え出されたものなんだと思う」
「道徳は時代によって変わる。
誰が変えるのかといえば、もちろん力を持っている奴だ」
「戦争の勝ち負けと、どちらが正しいかは別問題だと思うけれど、現実には勝った方の正義が通って、負けた方は間違っていたってことになる」
 
つまり道徳とは、力のある者に都合よくできているのです。ですから、自分なりの道徳をつくるとすれば、そこのところを訂正するべきだということになるでしょう。
私は「弱きを助け、強きをくじく」という道徳を最上位に位置づければいいのではないかと思っています。
 
私の考えとは少し違いますが、道徳についてこれほど深く考えた本はまずないでしょう。きわめて読みやすく、ためになります。

安田浩一著「ネット私刑」を読みました。
安田浩一氏といえば「ネットと愛国」で在特会の実態を取材したジャーナリストです。
 

ネット私刑(リンチ) (扶桑社新書)  2015/7/2  安田浩一 ()

内容(「BOOK」データベースより)
正義を大義名分にネットで個人情報を暴露・拡散する悪行=ネットリンチ。さらす人、さらされた人それぞれの実態に、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した気鋭のジャーナリストが迫る!川崎の中学生殺害事件の現場を直撃取材!
 
ヘイトスピーチなどネットで起こっていることは、リアルの世界にも影響を与えて、ますます重要になっています。
たとえば、自民党の大西英男議員が党の勉強会で「マスコミを懲らしめるには、広告料収入がなくなるのが一番」と発言しましたが、これはネットの中では昔から言われていて、実行もされてきたことです。
また、安倍首相は衆院予算委員会において、民主党議員に対して「日教組!」とヤジを飛ばし、さらに答弁で「日教組は補助金をもらっている」と述べましたが、これなどもまさにネットで見たことを真に受けたものでしょう。
 
本書には、上村遼太君が殺された川崎中1殺害事件、大津いじめ自殺事件、「ドローン少年」として逮捕された15歳の少年のこと、著者の知り合いである在日コリアンの女性が男子高校生から嫌韓のヘイトスピーチを受けた出来事、フジテレビへのデモの現場、フリーライターの李信恵氏や参議院議員の有田芳生氏へのヘイトスピーチなどが扱われ、ネット上で殺人犯扱いされたお笑い芸人のスマイリーキクチ氏へのインタビューも載っています。
 
大津いじめ自殺事件では、まったく無関係の人間が加害者側の親族として誤認され、プライバシーをあばかれ、勤務先に多数の抗議電話がかかってくるなど、たいへんな目にあいました。また、教育長がリアルで男子大学生に襲われるということもありました。このようなリンチを行う人間はどんな人間で、どのような論理で行っているのかということが具体的に書かれています。なんでもかんでも在日や反日や日教組のせいにする彼らの論理は、ネットでは当たり前になっていますが、こうして具体的に書かれると、そのおかしさが際立ちます。
たとえば「在日特権」のひとつとして大手マスコミには「在日枠」なる採用枠があって、そのために偏向報道が行われているなどということを真面目に信じているようなのです。
 
著者はネット上でヘイトスピーチやリンチをする人間にリアルで取材しているので、そこが本書の値打ちでしょう。
私がとくに興味深かったのは、大津いじめ自殺事件で無関係の人間を「加害者の祖父」としてネット上で攻撃し、刑事告訴されて罰金30万円の略式命令を受け、さらに損害賠償裁判も起こされているという30代無職の男性のことです。
著者は彼を取材しに行ったときのことをこのように書いています。
 
 
私は今回の取材で彼の自宅を訪ねた。
兵庫県内の山間部に位置する小さな町だった。彼はそこで両親とともに暮らしている。
彼の知人によれば、子どものころから人づきあいを苦手とするタイプだったという。地元の高校を卒業してからは仕事を幾度も替えた。どれも長続きしなかった。そこまではよくある話だ。今どき珍しくはない。
彼が熱中したのはネットだった。そしてハマった。朝から晩まで、寝る時間を惜しんでネットに夢中になった。「ネットの世界こそがすべてではなかったのか」と、その知人は話す。
自宅のドアを叩くと、顔を見せたのは父親だった。
父親は私が取材者だと知ると激怒し、そして落ち込んだ表情を見せた。
「親の気持ちがわかりますか?」
ため息とともに苦しげな声を漏らした。
「うちの子をあなたに会わせるわけにはいかない。わかってほしい」
顔に刻まれた深い皺が、父親の苦悩を表していた。なんとしてでもわが子を守りたいという愛情が伝わってくる。
「あの子なりの正義感だったとは思う。親として止めることができず、残念でならないんです」
パソコンの画面を見つめるだけの毎日。叱っても、励ましても、わが子は自室から動かなかった。
明け方になっても明かりの消えない部屋を、父親は情けない思いで見ていた。
父親はネットのことをよく知らない。自分とは違って、外に刺激も交流も求めないわが子を弱い人間だと思った。だから「強くなれ」と何度も叱咤した。今から振り返れば、それがプレッシャーになったのではないかとも感じている。
わが子が大津の事件に必要以上の興味と関心を抱いたことには、「心当たりがないわけではない」と漏らした。
「息子は子ども時代、私には何も言わなかったけれども、おそらくいじめられっ子だった。私も薄々とそのことは感じていた。今にして思えば父親として力になってやることができなかったのが悔しい。うちの子はそのときの傷を抱えたまま大人になったに違いない。いじめ事件に異常な反応を示したのも、そうした彼の経験が背景にあるのではないか」
そう話すと父親は、さらに深いため息をつき、下を向いた。
彼は彼の世界で闘っていたのだろう。理不尽ないじめに、そしてそれを許容している社会を相手に。
彼は自殺した少年の姿を自分と重ねていたに違いない。だから許せなかった。許してはいけなかった。情報の正誤など考えている余裕はなかった。
正義の名のもとに、彼は理不尽な社会悪を倒さねばならなかったのだ。
30万円の罰金刑を受け、警察からも相当に絞られた。そうしたこともあり、わが子も深く反省をしているという。
だが、私が訪ねた日も、彼は自室でネットの世界に籠もっていた。
「私の闘いはまだ続いているんですよ」
苦悩で震える父親の声は、一筋縄ではいかない未来を暗示しているようでもあった。
 
 
私は前から、ネットリンチをする人間はたいてい学校でいじめを体験しているに違いないと思っていましたが、彼はその典型的な例です。
 
ちなみに著者の安田氏も子どものころ転校を繰り返していじめられ、いじめられないために自分もいじめるという経験をしたそうです。
 
学校がどんどん息苦しくなり、その影響が社会全体に及んでいる気がします。
 
それから、この父親は息子がいじめられていることを薄々知りながら、なにもしませんでした。いや、息子を叱咤したことがいじめみたいなものです。そのため息子は引きこもり状態になってしまったのではないでしょうか。
 
ちなみに大津いじめ自殺事件において、私は自殺した少年は家庭で父親から虐待を受けていて、学校でのいじめよりむしろそれが自殺の主な原因ではないかと推測し、そういう観点からこのブロクでいくつも記事を書きました(「大津市イジメ事件」というカテゴリーにまとめてあります)
 
酒鬼薔薇事件の元少年Aも母親からひどい虐待を受けていました。
 
この国は、学校と家庭の両方で生きづらくなっており、それがネットリンチやヘイトスピーチやさまざまな犯罪となって現れているのではないかと思います。
「ネット私刑」を読んで、改めてそのことを感じました。

これは戦後最大の必読書です。日本の問題をここまで明快に指摘した本はほかにありません。とても読みやすい本ですが、あまりにも内容が衝撃的なため、私は書かれていることを胸に収めるために、何度も読む手を休めねばなりませんでした。


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内容紹介
なぜ戦後70年たっても、米軍が首都圏上空を支配しているのか。
なぜ人類史上最悪の事故を起こした日本が、原発を止められないのか。
なぜ被曝した子どもたちの健康被害が、見て見ぬふりされてしまうのか。
だれもがおかしいと思いながら、止められない。
 日本の戦後史に隠された「最大の秘密」とは?
 
 

著者の矢部宏治氏は出版プロデューサーとして「〈戦後再発見〉双書」を手がけた人です。私はその中の「戦後史の正体」(孫崎享著)を読んでいますが、これもたいへん素晴らしい本です。今回、自分で本を書いたということは、その集大成を目指したのでしょう。
 
現在の政治の混迷は、民主党政権が失敗し、政権交代の可能性がほとんどなくなってしまったことからきています。
では、なぜ民主党政権は失敗したのか。これについてマスコミや政治学者ははっきりしたことを語りません。
しかし、本書は明快にその理由を語ります。
 
 
第1章では基地問題が取り上げられます。
ここに書かれていることの多くは、私もあらかじめ知っていたことです。たとえば、沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落したとき、米軍が現場を封鎖し、大学関係者、マスコミはもとより日本の警察すら立ち入れなかったこと、砂川判決を出す前に日本の最高裁は判決内容をアメリカに伝えていたこと、米軍基地の騒音訴訟などで裁判所は騒音被害は認定しても米軍機の飛行差し止めは決して認めないこと、鳩山政権が辺野古移設問題でアメリカと交渉していたとき、日本の外務省の官僚がアメリカの交渉担当者に対して助言していたことなどです。
マスコミはこれらのことを報道しますが、その背後にあるものはまったく伝えません。しかし、本書はこれらの事実の背後には法律や条約や協定や(アメリカ側で公表された)密約があることを示します。
 
ところで、鳩山政権が辺野古問題で迷走しているころ、私は「日本辺境論」(内田樹著)を読んで、日本に外交力がまったくないことに妙に納得してしまいました。ただ、これはもっぱら文明史の観点から論じた本です。
それに対して本書は、もっぱら法制面から論じています。その分、具体的ですから、誰もが納得せざるをえないでしょう。
 
第2章は原発問題が取り上げられます。
これについては私も知らないことがいっぱいでした。
 
アメリカではトモダチ作戦に参加した米軍兵士が被曝の補償を求めて東電を訴えており、原告の数は200人にもなったということが報道されていますが、日本ではこうした訴訟はありません(これを書いたあとで知りましたが、日本でも訴訟は行われていました)。
その理由は日本の法律にあるということを初めて知りました。
 
大気汚染防止法 第27条 1項
この法律の規定は、放射性物質による大気の汚染およびその防止については適用しない」
土壌汚染対策法 第2条 1項
この法律において『特定有害物質』とは、鉛、ヒ素、トリクロロエチレンその他の物質(放射性物質を除く)であって()
水質汚濁防止法 第23条 1項
この法律の規定は、放射性物質による水質の汚濁およびその防止については適用しない」
 
また、環境基本法は、放射性物質については「原子力基本法その他の関係法律で定める」となっていますが、実はなにも定めていないということです。
 
これでは訴えられないのは当然です(健康被害は訴えられそうですが、これは水俣病裁判がそうだったように立証するのがたいへんです)
 
また、野田政権は原発稼働ゼロを目指すエネルギー戦略を閣議決定しようとしましたが、いつのまにか再稼働容認に変わってしまいました。これについて当時の報道で納得のいく説明はありませんでした。
 
本書によると、藤崎一郎駐米大使がアメリカのエネルギー省のポネマン副長官と国家安全保障会議のフロマン補佐官と面会し、日本政府の方針を説明したところ、「強い懸念」を表明されて、それで方針転換したのだということです。
 
これだけでは陰謀論のようですが、こうしたことの背後には日米原子力協定があるといいます。この協定は「アメリカの了承がないと、日本の意向だけでは絶対やめられない」ような取り決めになっているのです。
 
これを読んだとき、小泉純一郎元首相が「原発ゼロの方針を政治が出せば、必ず知恵のある人がいい案を作ってくれる」と繰り返す理由がわかりました。日本が原発をやめるには、なにか特別な知恵が必要なのです。

第3章以降は、こうした構造の解明と、歴史的な成立過程の解明に当てられます。
 
国際条約や国際協定は国内法の上位にあるとして、憲法はどうなのだということが論じられます。原発再稼働や危険な普天間基地の米軍使用は、健康で文化的な生活を営む権利を侵害する憲法違反なのではないか。
しかし、日本の最高裁は、安全保障のような高度な政治的判断を必要とすることには判断しないと決めています。これは「統治行為論」などと呼ばれますが、世界の法学の常識にはありません。国民の人権が侵されても裁判所はそれになにも言わないというのですから。
 
そのため安保条約や日米地位協定や日米原子力協定などの安保法体系は日本国憲法の上位に位置することになります。そして、日本の官僚は憲法ではなく安保法体系(とアメリカ)に忠誠を誓っているというわけです。
 
そして、安保法体系がつくられた過程を戦時中と占領時代にさかのぼって解明していくところも、きわめて説得力があります。
 
ほんの一例を挙げると、昭和天皇はマッカーサーと会見したとき、「自分はどうなってもいいから国民を救ってほしい」と言ったので、マッカーサーは感激して天皇制を存続させることにしたという話があります。私はこういう“美談”は眉唾ものだと思いますが、本書はまったく別の説をとっています。昭和天皇はアメリカに占領された場合は自分が助かる可能性があるが、ソ連に占領されると処刑されるに違いないと思っていて、原爆投下ではなくソ連の参戦によって降伏を決意した。戦後も、共産主義革命が起こると自分は殺されると思っていて、そうならないように米軍駐留を望んだというのです(「沖縄メッセージ」と言われる)
 
つまりこれは「自発的隷従」というべきものですが、これが隠されているため、日本に共産主義革命の起こる可能性のなくなった今でも「自発的隷従」から抜け出すことができないというのです。
いや、ますます「自発的隷従」が強まっていることは、最近の安保法制の議論を見ていればよくわかります。
 
あと、日本国憲法制定過程や国連憲章の敵国条項などについても「目からウロコ」のことが次々と出てきます。
 
今後、日本のあり方について議論しようとする者は、本書の主張に賛同するかどうかは別にして、本書に書かれている個々の事実を無視するわけにはいかないでしょう。そういう意味でも必読書です。

安倍政権が解釈改憲をやろうとするのは、もとはといえば最高裁が自衛隊についてきちんと憲法判断をしなかったからであり、そのため内閣法制局が最高裁の代わりを務めてきたからです。
政治家同士が、これは合憲だ、これは違憲だと議論しても結論の出るはずはなく、時間のむだです。戦後の日本はずっとそんな時間のむだをしてきたわけです。
 
裁判所がだめなのは、数々の冤罪事件を見逃してきたり、行政訴訟で行政側に都合のよい判決ばかりを出してきたりということで、ある程度知られてきているでしょうが、裁判所の内実とか、裁判官が一般的にどんな人間かということは、ほとんど知られていません。
そうした中で、「絶望の裁判所」(瀬木比呂志著/講談社現代新書)という本が出て話題になっています。
 
著者の瀬木比呂志氏は、1954年生まれ、東大文科Ⅰ類に入学し、4年生のときに司法試験に合格します。なぜ司法試験を受けたかというと、自分が会社勤めに向いているように思えなかったことに加えて、両親の望みもあったからです。しかし、瀬木氏本人がほんとうにやりたかったのは文学部での社会・人文科学の研究だったといいます。また、文学、音楽、映画などに造詣が深く、1年間アメリカに留学したこと、その後うつ病になったこと、裁判官をしながら学術的な本を何冊も出版したことなども、裁判官の世界を客観的、批判的に見る視点の確立に役立ったと思われます。
33年間裁判官を務めたのち、現在は明治大学法科大学院専任教授です。
 
裁判官の世界についてはこれまでほとんど知られてこなかったと思うので、ここでは書評というよりも、もっぱら内容の紹介をすることにします。
 
とりあえず「はしがき」から引用します。
 
あなたが理不尽な紛争に巻き込まれ、やむをえず裁判所に訴えて正義を実現してもらおうと考えたとしよう。裁判所に行くと、何が始まるだろうか?
おそらく、ある程度審理が進んだところで、あなたは、裁判官から、強く、被告との「和解」を勧められるだろう。和解に応じないと不利な判決を受けるかもしれないとか、裁判に勝っても相手から金銭を取り立てることは難しく、したがって勝訴判決をもらっても意味はないとかいった説明、説得を、相手方もいない密室で、延々と受けるだろう。また、裁判官が相手方にどんな説明をしているか、相手方が裁判官にどんなことを言っているか、もしかしたらあなたのいない場所であなたを中傷しているかもしれないのだが、それはあなたにはわからない。あなたは不安になる。そして、「私は裁判所に非理の決着をつけてもらいにきたのに、なぜこんな『和解』の説得を何度も何度もされなければならないのだろうか? まるで判決を求めるのが悪いことであるかのように言われるなんて心外だ……」という素朴な疑問が、あなたの心にわき上がる。
また、弁護士とともに苦労して判決をもらってみても、その内容は、木で鼻をくくったようなのっぺりした官僚の作文で、あなたが一番判断してほしかった重要な点については形式的でおざなりな記述しか行われていないということも、よくあるだろう。
もちろん、裁判には原告と被告がいるのだから、あなたが勝つとは限らない。しかし、あなたとしては、たとえ敗訴する場合であっても、それなりに血の通った理屈や理由付けが判決の中に述べられているのなら、まだしも納得がいくのではないだろうか。しかし、そのような訴訟当事者(以下、本書では、この意味で、「当事者」という言葉を用いる)の気持ち、心情を汲んだ判決はあまり多くない。必要以上に長くて読みにくいが、訴訟の肝心な争点についてはそっけない形式論理だけで事務的に片付けてしまっているものが非常に多い。
こうしたことの帰結として、2000年度に実施された調査によれば、民事裁判を利用した人々が訴訟制度に対して満足していると答えた割合は、わずかに18.6%にすぎず、それが利用しやすいと答えた割合も、わずかに22.4%にすぎないというアンケート結果が出ている(佐藤岩夫ほか編『利用者からみた民事訴訟――司法制度改革審議会「民事訴訟利用者調査」の2次分析』[日本評論社]15)。日本では、以前から、訴訟を経験した人のほうがそうでない人よりも司法に対する評価がかなり低くなるといわれてきたが、右の大規模な調査によって、それが事実であることが明らかにされたのである。
 
少し前まで、日本も好むと好まざるとに関わらずアメリカのような訴訟大国になっていくだろうといわれていました。そのため、司法試験合格者を年間3000人にふやすことを目標とし、法科大学院をつくったりという制度改革を行ってきましたが、最近は若い弁護士が生活していけないなどといわれます。私はそんなことはないだろうと思っていましたが、本書を読んで納得がいきました。
というのは、裁判所の統計によると、地裁訴訟事件新受件数は、民事ではピーク時である2009年度から2012年度には74.9%に減少し、刑事ではピーク時である2004年度から67.5%に減少しているのです。訴訟大国どころか逆に訴訟小国への道をたどっており、弁護士が余るのも当然です。
 
訴訟件数がへっているということは、裁判所や司法制度が国民から見離されつつあるということでしょう。問題は憲法判断や冤罪事件という目立つことだけではなく、むしろ日常的なレベルで進行しているのです。
 
裁判所がそのようになったのは、主に裁判所の人事制度のせいだと著者はいいます。
 
裁判所の組織は、最高裁長官を頂点としたピラミッド型で、しかも相撲の番付表にも似た細かい序列があって、事務総局中心体制に基づく上命下服、上意下達のヒエラルキーを形成しているということです。事務総局の意向に反する判決や論文等を出すと、露骨ないやがらせ人事をされます。いや、「事務総局に逆らう」ということでなく、「自分の意見を述べる」ということだけで、いやがらせ、見せしめの人事がされ、そのため裁判所は「精神的な収容所群島」となっているということです。
 
しかし、裁判官は憲法でも身分保障がされています。出世しなくても自分の信念を貫く裁判官はいないのかという疑問が生じますが、これについて著者はこういいます。
 
さて、学者仲間やジャーナリストと話していると、「裁判官になった以上出世のことなど気にせず、生涯一裁判官で転勤を繰り返していてもかまわないはずじゃないですか? どうして皆そんな出世にこだわるんですか?」といった言葉を聞くことが時々ある。
「ああ、外部の人には、そういうことがわからないんだ」と思い知らされるのが、こうした発言である。おそらく、こうした発言をする人々だって、裁判官になれば、その大半が、人事に無関心ではいられなくなることは、目に見えているからだ。
なぜだろうか?
それは、第一に、裁判官の世界が閉ざされ、隔離された小世界、精神的な収容所だからであり、第二に、裁判官が、期を中心として切り分けられ、競争させられる集団、しかも相撲の番付表にも似た細かなヒエラルキーによって分断される集団の一員だからであり、第三に、全国にまたがる裁判官の転勤システムのためである。
裁判官を外の世界から隔離しておくことは、裁判所当局にとって非常に重要である。裁判所以外に世界は存在しないようにしておけば、個々の裁判官は孤立した根無し草だから、ほうっておいても人事や出世にばかりうつつを抜かすようになる。これは、当局にとってきわめて都合のいい事態である。
 
私はこれまで、裁判官というのは裁判官を辞めても弁護士になれば食べていけるものと思っていました。しかし、裁判官は基本的に営業センスがないので開業などできませんし、すでに述べたように弁護士余りの時代ですから、弁護士事務所に雇ってもらうのも容易ではなく、多くの裁判官は現職にしがみつくしかないようです。
 
そのため、行政や立法に対する司法のチェック機能が問われるような事件について、裁判官が自分の考えによった、つまり日本の裁判官としてはかなり「思い切った」判決を出せるのは、たとえば現在のポストから上にも行かないし転勤もないと事実上決まった高裁の裁判長や、なんらかの理由によりやがて退官すると決意した裁判官ぐらいだということになります。
 
もっとも、著者が若かったころには、裁判官の間にはまだ「生涯一裁判官」の気概のある人もいて、そういう人を尊敬する気風もある程度存在していたのですが、2000年以降は裁判所の全体主義化が進んで、そうした気概や気風はほぼ一掃されてしまったということです。
 
裁判所が「精神的な収容所群島」になったために、心を病む裁判官がふえ、裁判官によるさまざまな不祥事が報道されるようになっています。たとえば痴漢行為、児童買春、盗撮、ストーカー行為、女性修習生に対するセクハラなどです。裁判官の数は3000人足らずであり、しかも高度専門職集団であることを考えると、不祥事の数は多すぎると著者はいいます。
 
以上のような精神構造の病理の根にあるのは、結局、人格的な未熟さであろう。私は、子どものような部分を持っている人間は好きだが、それは、老成した人格の中に子どものような純粋さや無邪気さ、好奇心、素直な共感の力などが残っている場合のことである。
裁判官の場合は、そうではない。ただ単に人格的に幼いのであり、聞き分けのないむら気でエゴイスティックな幼児性なのである。
感情のコントロールができず、すぐに顔色を変えることが、その一つの現れである。当事者が少し感情的な言葉を使ったときに、当事者のいない席で平謝りに謝る弁護士がいる。若いころ、どうしてそんなことをするのかなとやや不思議に思っていたのだが、後に、あるヴェテラン弁護士から、「それは、ちょっとでも気に障ると激高する裁判官が結構いるからです。それも、そのときだけならかまわないのですが、後から、訴訟指揮や和解で、さまざまな意地悪をして、報復してくる場合がある。ひどいときには、ねじ曲げた理由によって敗訴させられることさえある。そういうことがあるから、気の弱い弁護士は、当事者のちょっとした言動にも気を遣って平謝りに謝るのです」と聴かれさて、なるほどと納得した記憶がある。
 
著者は、裁判所を改革するには法曹一元化をはかる、つまり弁護士として経験を積んだ人間が裁判官になる制度がいいと主張します。確かにそれしか方法はないでしょう。
しかし、今の官僚機構や自民党政権がそうしたことをするはずはありませんが。
 
最後に、日本国民にとっての裁判所がどんなものであるかについての著者の言葉を引用しておきます。
 
私は、日本の国民、市民は、裁判所が、三権分立の一翼を担って、国会や内閣のあり方を常時監視し、憲法上の問題があればすみやかにただし、また、人々の人権を守り、強者の力を抑制して弱者や社会的なマイノリティーを助けるという、司法本来のあるべき力を十分に発揮する様を、まだ、本当の意味では、一度としてみたことがないのではないかと考える。

「美味しんぼ」の鼻血問題をどうとらえるかで、その人の政治的立場がある程度わかります。
原作者の雁屋哲氏はもちろん左翼です。というか、極左です。あまりに過激な主張のため騒ぎになってしまいましたし、普通の左翼の人もついていけないかもしれません。
 
「美味しんぼ」は食を扱うマンガです。そして、どんな食べ物を選ぶかで政治思想がわかると主張するのが「フード左翼とフード右翼」(速水健朗著)という本です。
 
資本主義対社会主義という対立軸がなくなっても、右翼対左翼という概念はいまだに生きています。今の左翼は社会主義を目指しているわけでもなさそうなのに、なにをもって左翼というのでしょうか。
ここに食の選び方をもってきたのが「フード左翼とフード右翼」の着眼点の素晴らしさです。
 
たとえば2011年、「ウォール街を占拠せよ」というデモが盛り上がりました。「われわれは99パーセントだ」というのがスローガンで、アメリカでは1パーセントの富裕層がアメリカ全体の資産の3分の1を所有しているという格差社会に抗議しました。
デモ参加者はズコッティ公園にテントを張って生活していましたが、長期にわたる占拠中に彼らはなにを食べていたのでしょうか。
「ニューヨーク・ポスト」紙は、ある日のディナーはこういうものだと紹介しました。
 
「根菜、パセリ、ローズマリーの入ったオーガニックなチキンスープ。羊のミルクからつくったチーズとチミチェリー・ソースに、少しばかりのニンニクを添えたサラダ。スパゲッティ。玄米。豆類。そして、イサカの生協から寄与された、デザートのナッツとバナナ・チップス」
 
なんとも自然志向、健康志向な食べ物です。
 
占拠デモの人たちは、牧師が運営する貧困層のための無料食堂のキッチンを借りて、平日で1500人分、休日で3000人分の食料を供給したといいます。
さらに彼らは、クレジット・カードで支払いができてデリバリー・サービスに対応しているレストランのリストをネット上に公表しました。そうすると世界中からデモ隊への差し入れの注文が舞い込みました。こうしたITを駆使した闘争を展開したのは、一流大学のリベラル派の大学生たちです。
また、全米各地の小規模な有機農業農家や卸売業者など有機農法に関わる人たちから新鮮な収穫物が届きました。
 
こうした運動の展開を見ていると、「フード左翼」という概念でくくりたくなるのもわかります。
 
ただ、こうした自然志向、健康志向の食べ物を食べるのは貧困層ではありません。ウォール街占拠デモの参加者は「豊かな側の2パーセント」に入る人たちだともいわれます。
つまり「フード左翼」対「フード右翼」というのは、資本主義対社会主義でもないし、富裕層対貧困層でもないということです。
 
本書によると、「フード左翼」と「フード右翼」はこのように分類されます。
 
フード左翼=有機農業、反農薬、反化学肥料、反遺伝子組み換え作物、ベジタリアン、地産地消、スローフード運動
 
フード右翼=ファストフード、ジャンクフード、メガ盛り、B級グルメ、コンビニ弁当、農薬つきの安い野菜、冷凍食品
 
このような食べ物の選択がなぜ政治的・社会的な立場に結びつくのかは、歴史を振り返ってみるとよくわかるようです。
 
本書によると、フード左翼の起源のひとつはアメリカの有名レストラン「シェ・パニース」であり、創業者のアリス・ウォーターズは「どう食べるかは政治的なことである」と述べています。
 
アリスは1971年、カリフォルニアのバークレーという場所でシェ・パニースを開業しました。当時のバークレーは反体制運動やヒッピーであふれていました。彼女の出身校であるカリフォルニア大学バークレー校は当時も今も反体制的な学生運動が盛んに行われる大学ですが、彼女は政治運動に積極的に参加したわけではなく、フランスに長期留学し、そのときにフランス料理に魅せられ、それでレストランを開業したのです。
彼女の集めたスタッフはみな素人同然の大学生やヒッピーでしたから、開業当時のシェ・パニースの厨房ではシェフたちがマリファナを吸い、レッド・ツェッペリンがガンガン鳴っていたということです。
アリスが目指したのは、フランスの田舎町にあった、地元で採れた新鮮な食材を使った料理を出すレストランです。そのためアリスはみずから地元の農家を回り、新鮮で旬な食材を探し回りました。そして、地元の農家もしだいに彼女の求める有機栽培の農産物をつくるようになり、彼女自身も有機栽培農園を運営します。
 
当時のアメリカは、大規模農業でつくられた農産物が大工場で加工され、全国のスーパーマーケットに配送されるという、もっとも効率的なシステムになっていました。そうした中でアリスのレストランは、まったく別の価値観を提示し、アメリカ社会に対する政治的批判となったのです。
そして、こうした動きがどんどん拡大し、1990年には有機食品生産法が施行され、有機食品の表示基準が制定されます。「フード左翼」がアメリカでも一定の勢力を持つようになったといえるでしょう。
 
 
スローフード運動も「フード左翼」の代表的な運動です。
 
スローフード運動の母体となったのは、イタリアのピエモンテ州ランゲ地方の小さな町にある地元ワインの愛好協会です。彼らは左派系新聞のグルメページから生まれたグループで、スローフードというキャッチフレーズを用いて、地元の伝統的食文化を守るキャンペーンを打ち出していきますが、1986年にローマ市内のスペイン広場にマクドナルドのイタリア1号店ができたことに対する抗議運動を行って、反グローバル運動という観点からも世界の注目を集めました。
そして、彼らは「スローフード宣言」を訴えます。その中身を要約すると、
「素材とその文化を学ぶこと」
「環境破壊から農作物を守ること」
「正当な価格に見合った品質を伝える」
「食べる喜びの探求」
ということになるそうです。
 
アメリカにおいては反体制的な運動から「フード左翼」が生まれ、イタリアでは反グローバリズムから「フード左翼」が生まれたというわけです。
 
資本主義はつねに効率を追求しながら発展してきましたが、「フード左翼」が目指す自然志向、健康志向は効率第一主義とは別の価値観です。そういう意味で「フード左翼」は新しい形の反資本主義運動ということもいえるようです。
 
「フード左翼とフード右翼」の著者の速水健朗氏は「ラーメンと愛国」を書いた人で、もともとは「フード右翼」であったようですが、本書執筆のために取材する過程で“転向”して、今では「フード左翼」になったそうです。
 
昔、若いときは左翼で、年を取ると右翼になるというのがよくありましたが、速水健朗氏によると、「フード右翼」から「フード左翼」への転向はあっても、その逆はありえないということです。
年を取るとともに健康な生活に目覚める人はいますが、不健康な生活に目覚める人はいないということでしょう。
 
有機農産物は高価なので、まだ「フード左翼」の実数はそんなに多くないでしょうが、今後はさらにふえると思われます。
 
 
こういう観点から、「美味しんぼ」は極左であることがわかります。
また、「フード左翼とフード右翼」には原発のことはまったく触れられていませんが、自然志向、健康志向の「フード左翼」が反原発であるのは明らかです。
 
本書は「フード左翼とフード右翼」というタイトルに反して、内容の9割は「フード左翼」について書かれていて、「フード右翼」についての記述は1割ぐらいしかありません。
 
私の理解によると、「フード右翼」というのは、目先の欲望に駆られて生きている人たちです。ファストフード、ジャンクフードは、とりあえず食べると満足が得られます。ただ長期的な視点では不健康になります。
 
原発稼働を主張する人たちも、目先の利益のためだけを考えて主張しているようです。
 
「フード左翼」と「フード右翼」という観点から世の中を見ると、いろんなことがわかってくる気がします。

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