村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

カテゴリ: 書評

自分がブログを書いていると、ほかのブロガーも気になるものですが、中でもいちばん気になるのがイケダハヤト氏です。
イケダハヤト氏が「なぜ僕は『炎上』を恐れないのか」(光文社新書)という本を出したので読んでみました。
 
イケダハヤト氏はとにかくよく「炎上」する人のようです。
たとえば最近では、201310月、記録的な勢力を持つ台風が東京に上陸しようとしていたとき、こんなときに会社が従業員に出社を求めるのはよくないという記事を書きました。
 
10年に1度の台風」のなか、社員に出社させる会社は「ブラック企業」だ
 
この記事が炎上したそうです。
主張していることはまっとうだと思います。ただ、個人よりも企業優先の風土がある日本ではあまりない発想です。それに、「ブラック企業」という決めつけに反発した人も多いでしょう(私にとっては、これぐらい刺激的なタイトルをつけたほうがいいのかと勉強になりましたが)
 
私がイケダハヤト氏のブログに注目するようになったのは、「BLOGOS」に載った次の記事がきっかけです。
 
たかが挨拶ぐらい、できなくてもいいんじゃない?
 
挨拶はたいせつだというのが社会常識ですから、これも炎上したことでしょう。現時点で142のコメントが寄せられていますが、ざっとその9割が批判的な意見です(常識に反する意見を言うときはつい身構えてしまうものですが、「たかが挨拶ぐらい、できなくてもいいんじゃない?」と軽いタイトルになっているのが逆に刺激的で、これも勉強になります)
 
なぜ挨拶ができなくていいかという論理構成は私と若干違うのですが、それでも基本的には私と同じ考えです。
 
イケダハヤト氏は2013年の夏ごろ、コンビニの従業員がアイスクリームの冷凍ケースの中に入った写真をウェブ上にアップして炎上した出来事をきっかけに同様の出来事が連続したとき、この程度の「バカ」はみんな若いころにやってきたはずで、それを見つけて騒ぐほうがよりバカだという主張をしました。私も同じ考えですが、これもかなり少数派の意見です。
 
イケダハヤト氏はどうしてこうした考えを持つようになったのかに興味があって、「なぜ僕は『炎上』を恐れないのか」を読んでみたわけです。
 
イケダハヤト氏は1986年、神奈川県の生まれで、今年28歳です。
子どものころはこんな様子でした。
 
特に小学生の頃は、自分の容姿にも、能力にも、体力にも自信を持つことができなかったため、人一倍シャイで、臆病で、人前で何かをすることを常に恐れていました。
新しい友だちを作るのも苦手で、クラス替えのたびに憂うつな気分になったことを覚えています。特に、女子と話すことは、19歳のときにいまの妻と出会うまで、苦手であり続けました(不思議なほど気が合う妻と出会えたのは、本当に運がよかったです)
 
要するにイジメられやすいタイプでしょう。しかし、彼はゲームに人一倍のめり込み、「クラスで一番ゲームに詳しい人間」というポジションを獲得します。そして、中学に入学したときに父親に入学祝いとしてパソコンを買ってもらい、すぐに自分のホームページを開設し、サイト運営に習熟します。暗記が得意という能力を生かして受験勉強もがんばり(受験の戦略と勉強のやり方についてかなりのページがさかれています)、早稲田大学政経学部に現役合格します。
そして、大企業に就職するのですが、ここはイケダハヤト氏には合わなかったようです。
 
ぼくがその空気に気づき、「あ、ヤバイかも」と感じ始めたのは、入社後1カ月間の新人研修を終え、部署に配属された初日という至極早い段階でした。
配属後、部長からまず伝えられたことは、「君の仕事は電話を取ることからだ。3コール以内に電話を取るのを目標にしなさい」という命令でした。
ぼくは電話が嫌いです。対面ですら人と話すことが苦手なのに、顔が見えない相手と回線経由でリアルタイムに話すなんて、激しくハイレベルです。メールでいいじゃないですか。ぼく、声も低いですし、ぼそぼそ話しますし……。
「何を大げさな」と思われるかもしれませんが、ぼくは、ほんっとに、電話が苦手なんです。かといって、さすがに「いや、自分苦手なんで無理です」と断ることができるような空気は、「会社」というコミュニティには、一切存在していませんでした。
電話が鳴るたびに心臓がドキッと飛び跳ね、心拍数MAXで受話器を取り、上司に取り次ごうとしたのはいいけれど、内線の回し方がわからずそのまま電話を切ってしまい、電話相手に迷惑を掛ける……。ほとんどトラウマ的な思い出です。いまも電話は嫌いなので、みなさん、ぼくによほどのことがないかぎりは電話しないでください。
 
イケダハヤト氏は会社の飲み会も苦手で、「会社員不適合者」でした。そうしたサラリーマン生活で癒しを与えてくれたものが、中学生以来の趣味である「ブログの執筆」だったのです。
イケダハヤト氏は会社でウェブマーケティングを担当していて、自分のブログでウェブマーケティングについて書くと好評を博したといいますから、会社員としてもある程度優秀だったのでしょう。
しかし、業界の先輩たちからは「イケダハヤトはマーケティングという単語を使うな」とか「何の経験もないのに偉そうに広告を語るな」と批判され、業界人の集まる飲み会に引っ張り出されて、一方的に攻撃を受けて帰ってくるということもあったそうです。
 
つまり、ウェブでは評価されるが、リアルでは攻撃されるということで、結局イケダハヤト氏はウェブのほうに力を入れ、今では会社員をやめて「一流ブロガー」の地位を確立したというわけです。
本書のサブタイトルは「年500万円稼ぐプロブロガーの仕事術」となっています。
 
本書は一応、ウェブで成功するためのハウツー本という体裁にもなっていて、イケダハヤト氏は成功のための三つの条件を挙げています。
 
1、ひとつのことに「情熱」を持つ
2、それに圧倒的な時間をかける
3、効率性を追求する
 
しかし、これを心がければ誰でも成功できるというものではありません。イケダハヤト氏が成功したのは、明らかに人よりも優れた能力を持っていたからです。クラスでいちばんゲームに詳しい人間になったものそうですし、早稲田大学政経学部に入ったのもそうです。むしろ本書を読んで感じるのは、ウェブで成功するための才能を持って生まれた人間がいるのだなあということです。
 
私は本書を読むことで、イケダハヤト氏が独自の思想を形成した理由がわかりました。
イケダハヤト氏は「会社員不適合者」でしたから、企業の論理に批判的です。そのため、『「10年に1度の台風」のなか、社員に出社させる会社は「ブラック企業」だ』ということが言えるわけです。
また、企業はタテ社会ですから、それに対する反発から、「たかが挨拶ぐらい、できなくてもいいんじゃない?」ということも言えるわけです。
 
ということは、イケダハヤト氏の思想はもっぱら個人的体験に基づいていて、普遍的な原理に結びついていないということになります。それも炎上しやすいひとつの理由でしょう。
 
たとえばイケダハヤト氏は「炎上を恐れるな」と言いますが、ヘイトスピーチをする人が炎上を恐れなくなると困ります。
ヘイトスピーチをする人は「日本を裏で支配する在日と戦う自分」を正義だと思っています。イケダハヤト氏は「台風の中で社員を出社させるブラック企業を批判する自分」を正義だと思っています。この両者の違いを明確にしていないので、「炎上を恐れるな」という主張そのものに説得力がありません。
 
イケダハヤト氏は“コミュ障”気味の性格で、学校では一歩間違うとイジメられっ子になっていたかもしれませんし、企業社会にもなじめませんでしたが、幸い能力に恵まれていたためにネットの世界に居所を見つけることができました。
もちろんこうした勝ち組は少数派です。
おバカなバイト店員を見つけて炎上させているような人は、ネットにおける負け組でしょう(極端な例では、「ネオむぎ茶」のハンドルネームを持っていた西鉄バスジャック事件の犯人である少年、秋葉原通り魔事件の犯人である加藤智大、最近では逮捕されるときに「ヤフーチャット万歳!」と叫んだ柏市通り魔事件の容疑者である竹井聖寿などもネットに居所を見つけようとして失敗した人たちでしょう)。
イケダハヤト氏のような勝ち組は、負け組が束になってきても怖くないのは当然です。
 
ネット社会の力学についてもいろいろと考えさせられる本でした。

「反省だけならサルでもできる」という言葉があります。これはもちろんサル回しのサルが反省のポーズをすることからきていますが、あのサルは反省のポーズをするだけで、反省をしているわけではありません。ですから、正しくは「反省のポーズだけならサルでもできる」というべきです。
「反省だけならサルでもできる」という言葉が広く流布しているのは、「反省」と「反省のポーズ」の区別もできない人が多くいるからと考えられます。世の中の「反省」についての認識はこの程度のものです。
 
それだけに読まれるべき価値があるのが、岡本茂樹著「反省させると犯罪者になります」(新潮新書)です。
 
 
イメージ 1
 
内容(「BOOK」データベースより)
犯罪者に反省させるな―。「そんなバカな」と思うだろう。しかし、犯罪者に即時に「反省」を求めると、彼らは「世間向けの偽善」ばかりを身に付けてしまう。犯罪者を本当に反省に導くのならば、まずは「被害者の心情を考えさせない」「反省は求めない」「加害者の視点で考えさせる」方が、実はずっと効果的なのである。「厳罰主義」の視点では欠落している「不都合な真実」を、更生の現場の豊富な実例とともに語る。
 
 
 
タイトルには少しむりが感じられます。「反省させると犯罪者になりやすくなります」というふうに読み替えておけばいいでしょう。
 
著者の経歴が少し変わっています。中学・高校で英語教員として勤めたあと、大学院に行って博士課程を修了し、現在は立命館大学産業社会学部教授、臨床教育学博士です。決められたレールの上を歩む人生から、ある時点で自分の判断で歩む人生へと、路線変更したのでしょう。こういう人だから常識にとらわれない発想が出てくるのだと思います。
 
著者は中学・高校で教員をしていたとき、「生徒指導」の仕事もしていました。たとえば生徒が飲酒、喫煙、万引きなどの問題行動を起こしたとき、停学などの処分をしますが、その間に生徒に反省文を書かせます。その反省文がちゃんと書けていれば、処分を解除します。そうしたことなどが「生徒指導」です。
反省文を書かせるというやり方は、全国どこの学校でも行われているそうです。そういえば、前ワタミ会長の渡辺美樹氏が理事長を務める郁文館夢学園で生徒に原稿用紙100枚の反省文を書かせていて、そのため退学者が相次いでいるというニュースもありました。
 
反省させる方法として、ロールレタリングというものもあります。これは、架空の形で「自分から相手へ」「相手から自分へ」の手紙を書いて、往復書簡を繰り返すうちに自分自身の内面を見つめたり、他者を理解しようとしたりする心理技法で、今ではすべての少年院で行われているそうです。
これはもともと少年院で法務教官を務めていた和田英隆という人が、義母が引き受けを拒否したことがきっかけで荒れ始めた少年に対して、原稿用紙を渡して「自分の思っていることを母親に対して書いてみなさい」といったところ、少年は母親に対する不満や怒りを思い切り書いてきて、そして落ち着きを取り戻したということがあったそうです。それをきっかけに和田らが研究してつくりだした技法です。
ですから、もともとは心の中の不満や怒りを吐き出すことの要素が大きかったのですが、今はもっぱら「被害者の立場」に立って反省させることが主眼となって、形骸化してしまっていると著者はいいます。
 
企業ではなにか失敗や不祥事を起こした者が始末書を書かされることがあります。始末書は反省文と同じようなものでしょう。日本には反省文を書かせるという文化があるのかもしれません。
 
著者は現在、刑務所において受刑者の更生プログラムを実践しています。その経験からも著者は「犯罪者に反省させてはいけない」という信念を強めます。
 
私も基本的に著者の考えと同じです。ですから、私が本書の内容を紹介すると、自分の考えが入り混じってしまうおそれがあるので、本書の重要と思われる部分を書き写しておきます。
 
 
重大な犯罪が起きたとき、新聞やテレビのニュースで、「まだ容疑者は反省の言葉を述べていません」「残虐な事件を起こしておきながら、まったく反省している様子はありません」といった言葉をよく耳にします。こうした報道を聞くと「あんなひどいことをしたのに、反省していないなんて、なんてひどい奴だ」「絶対に許せない」と怒りを覚えたことのある人は多いのではないでしょうか。
しかし、これまで述べてきたように、自分が起こした問題行動が明るみに出たときに最初に思うことは、反省ではありません。事件の発覚直後に反省すること自体が、人間の心理として不自然なのです。もし、容疑者が反省の言葉を述べたとしたら、疑わないといけません。多くの場合、自分の罪を軽くしたいという意識が働いているか、ただ上辺だけの表面的な「反省の言葉」を述べているにすぎません。そのように考えると、犯罪を起こした直後に「反省の言葉」を繰り返す犯人(容疑者)は、反省の言葉を述べない犯人よりも、「より悪質」という見方ができます。
 
受刑者は、例外なく、不遇な環境のなかで育っています。親からの虐待、両親の離婚、いじめの経験、貧困など、例を挙げればキリがありません。受刑者は、親(あるいは養育者)から「大切にされた経験」がほとんどありません。そういう意味では、彼らは確かに加害者ではありますが、「被害者」の側面も有しているのです。被害者だからと言って、人を殺したり覚醒剤に手を染めたりすることはけっして許されることではありません。しかし支援する立場になれば、加害者である受刑者の、心のなかにうっ積している「被害者性」に目を向けないといけません。このことが分かれば、最初から受刑者に被害者のことを考えさせる方法は、彼らの心のなかにある否定的感情に蓋をしてさらに抑圧を強めさせることになるのは明らかです。したがって、まずは「加害者の視点」から始めればいいのです。そうすることによって、「被害者の視点」にスムーズに移行できます。受刑者が「被害者の視点」を取り入れられる条件は、「加害者の視点」から始めることと言えます。
 
自己理解が得られれば、受刑者は自分の心の奥底に否定的感情があることに気づきます。彼らが真の「反省」に向かうためには、自分の心の奥底にあった否定的感情を吐き出す必要があります。否定的感情を吐き出すことは、受刑者にとって、とても苦しい作業となります。本来ならば、今さらみたくもない過去の自分の「心の痛み」と直面するわけですから、できるのなら避けて通りたいものです。しかし、ここを乗り越えない限り、他者の「心の痛み」にまで思いが至りません。そこで支援者の支えが必要となります。自分を支えてくれる支援者がいることによって、受刑者は自分の内面の問題と向き合う勇気を持てるのです。受刑者が自分の否定的感情を吐き出して自分の心の痛みを理解すると、自分自身が殺めてしまった被害者の心の痛みを心底から感じるようになります。ここにおいて、ようやく受刑者は、真の「反省」のスタート地点に立てるのです。
 
 
著者はさらに、「しつけ」の問題を指摘します。これについては、第4章の見出しを列記することにします。
 
第4章 頑張る「しつけ」が犯罪者をつくる
りっぱなしつけが生き辛さを生む
「しつけ」がいじめの一因に
「尾木ママ方式」ではいじめを減らせない
いじめ防止教育は「いじめたくなる心理」から始める
「強い子にしよう」というしつけ
早く「大人」にしようとすると危ない
「ありのままの自分」でいてはいけないというメッセージ
「しっかりした親」の問題
 
 
私は前に、今の社会は犯罪者を刑務所に送り込む「入口政策」にばかり関心が向いて、刑務所を出た犯罪者を更生させる「出口政策」がおろそかにされているということを書いたことがあります(「少年犯罪の厳罰化を逆にすると」)
 
著者は「出口政策」において正しい認識を示しておられる数少ない人の一人です。
正しい認識というのはつまり、犯罪者はきわめて不幸な人生を歩み、多くの場合幼児虐待の被害者で、その心のケアをしなければ更生できないということです。
 
この認識を示しておられるのはほかに、多くの死刑囚との面談などをしている長谷川博一氏などがおられます。
 
神戸児童連続殺傷事件の犯人「酒鬼薔薇」を更生させるために、医療少年院において、犯人の少年は親の愛情を感じていなかったとして「育て直し」が行われたということですが、これも同じ認識によるものでしょう。
 
また、「レ・ミゼラブル」なども、犯罪者を更生させるのは厳罰ではなく寛容な心に触れることであるという認識をもとにした物語で、それゆえに感動があります。
 
とはいえ、こうした正しい認識は、天動説が信じられている世の中での地動説みたいなもので、なかなか世の中に受け入れられません。
 
そうした中で、著者の岡本茂樹氏は受刑者の更生プログラムの実践経験を通して主張しておられるので、説得力があります。
できれば、著者の更生プログラムを受けた受刑者の再犯率と、ほかの更生プログラムを受けた受刑者の再犯率と、なんの更生プログラムも受けなかった受刑者の再犯率がデータとして提示されるとより説得力があるのですが、今の段階ではそこまでいっていないようです。
 
人間は本能的に、自分に害のありそうなものは遠ざけたい、消し去りたいと思います。
ですから、不潔なゴミは遠くに捨てたり、川に流したり、土に埋めたりしてきましたし、工場のばい煙は高い煙突で遠くに飛ばしてきました。しかし、地球環境が問題になると、ゴミはできる限り捨てるのではなくリサイクルするものになりました。
 
しかし、人間はいまだ犯罪者に対しては、本能のままに遠ざけたい、消し去りたいと思って、刑期を長くし、死刑をふやそうとしています(とくに日本はそうです)
 
ゴミはリサイクルするのに、なぜ犯罪者をリサイクルしようと思わないのでしょうか。
 
犯罪者をゴミにたとえるとはけしからんといわれそうですが、ほんとうにけしからんのは犯罪者をゴミ以下の扱いにしていることです。
犯罪者も自分と同じ人間であるということが当たり前の認識になってほしいものです。
 
 
ところで、一週間余りブログの更新をしませんでしたが、これは海外旅行(マレーシア)に行っていたためです。
以前は、海外旅行に行くのでしばらく更新はしないと予告していましたが、これは空き巣に狙われる可能性があるということなので、今回は事後のお知らせとしました。ご了承ください。

意外とありそうでないのが反教育論の本です。
教育批判、学校批判の本はいっぱいありますが、それらはたいてい「よりよい教育」を実現しようという立場です。教育そのものへの懐疑や否定の立場に立つ本はめったにありません。
 
「反教育論」(講談社現代新書)の著者の泉谷閑示さんは変わった経歴の人です。東北大学医学部を卒業したあとパリ・エコールノルマル音楽院に留学し、現在は精神科医として働く一方で舞台演出や作曲家としての活動も行っているということです。
私が思うに、医者と音楽家というのは「親がむりやり子どもにやらせたい二大職業」です。本人はその気がないのに医学部に行かされている人と、才能もないのにピアノやバイオリンをやらされている子どもが日本にはいっぱいいます。そのふたつの職業をやっている人は世界でも希でしょう。
そういう立場の人だからこそ書けた本ということがあるのかもしれません。
 
泉谷さんは職業柄、うつ病や神経症患者など、人生に行き詰った人々に多く接するうちに、彼らのある傾向に気づきます。
 
彼らは、幼少時からこまごまと大人たちに世話を焼かれ、大小にかかわらず先回り的にあらゆる危機や失敗につながる障害物を除去され、「お受験」のために幼児教育の塾に通わされ、それ以外の時間も各種「習い事」で埋め尽くされ、休日でさえもレディメイドな娯楽の予定がびっしり組まれていたといった生育史を持っていることが多い。
 
このように育てられた彼らは「優秀な」大人になるが、真の思考力や即興性が育っていないので、マニュアルの存在しない状況になると機能不全になってしまうというわけです。
 
著者は古今東西の名著からさまざまな言葉を引用しながら反教育論を展開していきますが、次の言葉が教育の間違いをいちばん端的に指摘しているのではないでしょうか。
 
二十世紀の人たちは大きな勘違いをしてしまった。それは、「人間が育っていくためには学習が大切だ」というのを、「人間を育てるには教育が大切だ」と思い込んでしまったことだ。(動物行動学者日高敏隆の言葉)
 
「学習」は好奇心の発露に基づいて自発的に行われるもので、そこには知的探求の喜びがありますが、「教育」になると、砂をかむような受動的作業になってしまいます。
もし人間の「脳」だけに注目すれば、あるいは人間を機械のようなものだと見なせば、自発的に学んだことも受動的に教えられたことも同じになるかもしれません。しかし、人間は機械ではなく、「心」という野性原理を備えた存在ですから、受動的なことばかり強いられていると「心」が病んでしまうというわけです。
 
著者は音楽家でもあるだけに、音楽教育において「早期教育」や「基礎教育」がかえって深刻なダメージを生んでしまうことを警告します。パリの音楽院に来ている日本の留学生の多くは、他国からの留学生よりも高い技術水準を備えているが、その演奏には、音楽を心から愛しているとか、演奏することに喜びを感じているとかいったものがなく、音楽というよりも「音楽の死体」ともいうべき音の連なりになってしまっているといいます。
 
著者の主張は明快ですが、今の世の中にこうした考え方をする人はほとんどいません。そのため著者がこの主張を展開するにはそれなりの勇気がいったことと思います。古今東西の名著から言葉を引用するのも、権威に頼りたい気持ちが多少あったのかもしれません。
 
また、新しい考え方だけに、未熟というか、わかりにくいところもあります。
たとえばこの本には「猿の思考から超猿の思考へ」というサブタイトルがついていますが、これだけ見てもなんのことかわからないでしょう。そして、中身を読んでも、あまりよくわかるとはいえません。
 
著者は野性原理を象徴するものとして狼を持ち出し、その対極にあるものとして猿を持ってきます。ここでの猿は、動物としての猿ではなく、猿真似、猿知恵というときの猿です。これがわかりにくいといえます。動物としての狼と、文化的イメージとしての猿を対比しているからです。
そして、「超猿」という言葉を持ってきます。これはニーチェの「超人」からきた言葉です。
それらのことを踏まえると「猿の思考から超猿の思考へ」という言葉の意味がわかるはずですが、ニーチェの思想に無関心か否定的な人には、やはりよくわからないでしょう。
私自身は、反教育論を展開するのにニーチェを持ってくる必要はないのではないかと思います。
 
この本には数学者の岡潔の言葉が何度も引用されていて、私はそれを読んで感心したので、図書館から岡潔の本を借りてきました。しかし、それを読むと、岡潔の考えは決して反教育論的なものではありませんでした。
たとえば、岡潔は詰め込み教育を批判して、寺子屋式の教育がいいと言います。寺子屋式の教育とはなにかというと、論語の素読を、内容はわからなくても百回ぐらい繰り返させることだというのです。
岡潔は寺子屋の教育を誤解しています。寺子屋はあくまで実用の教育をするところですから、論語の素読などはしません(それは藩校のことでしょう)
それに、素読を百回やらせるというのも、子どもに受動的な作業をやらせることで、自発的な学習を阻害する行為です。それに、百回読めばわからないことがわかってくるというものでもないと思います。
詰め込み教育はバカバカしいものですが、論語百回の素読も同じくらいかそれ以上にバカバカしいものだと思います。
 
この本にはエーリッヒ・フロム、ヘルマン・ヘッセ、バートランド・ラッセルらの言葉も引用されていますが、これらの人も教育に根本的な懐疑を持っていたということはないと思います。教育の愚かな部分を批判しただけではないでしょうか。
 
教育の根本的な否定は、今手探りでなされている最中ですが、著者の泉谷閑示さんは大きな仕事をしたと思います。
 
今、学校教育も家庭教育も明らかに機能不全に陥っています。これは「大人の教育」が「子どもの学習」を圧倒しているからです。ですから、対策としては、「大人の教育」をゆるめ、「子どもの学習」を回復させることです。
ところが、ほとんどの人はもっと教育を強化しなければならないと考えて、事態をさらに悪化させています。
 
最近は、知識の詰め込みだけでは足りず、道徳の教科化によって道徳の詰め込みまでしようとしています。愚かさもきわまった感じです
 

なにかと話題の本を読みました。
なぜ話題かというと、ひとつにはよく売れているからですし、もうひとつは読む人によって評価がまったく違うからですし、さらには朝日新聞の書評が訂正されるという“事件”があったからでもあります。
 
朝日新聞はこの本を書評欄の「売れてる本」というコーナーで取り上げました。「売れてる本」というコーナーは、「売れているから取り上げるけど、正規の書評欄で取り上げるほどの価値はない本」を取り上げるコーナーです。つまり朝日新聞はこの本をあまり高く評価していないことになります。そして、書評を担当したのはジャーナリストの佐々木俊尚氏です。佐々木氏もこの本をどちらかというと否定的に評価するに違いない立場の人です。つまり朝日新聞はこの本を書評欄で取り上げたものの、否定的に取り上げようという意図があったのではないかと推察されます。
そして、佐々木氏の書評に対して著者の孫崎享が抗議して、朝日新聞がその書評の冒頭10行を削除すると表明しました。
 
「孫崎享著『戦後史の正体』は陰謀史観」書評の一部削除 
 
孫崎享氏による、「戦後史の正体」の朝日新聞書評への反論
 
佐々木俊尚氏という個人の書いた文章について朝日新聞が削除を表明するというのはなんだか妙なことですが、それはさておき、毀誉褒貶のある書物であるということがこのことからもわかります。
 
著者の孫崎享氏は外務省国際情報局長を務め、防衛大学校で7年間安全保障の講義をしたこともある人で、本書はアメリカからの圧力を軸に日本の戦後史を読み解いたものです。
 
はじめに」と目次と序章は次で読むことができます。
 
私自身は、この本は大いに評価します。ただ、評価したくない人もいっぱいいることでしょう。
たとえば朝日新聞もそうです。この本にかかると、朝日新聞の昔の花形記者笠信太郎もアメリカの手先のように描かれます。朝日新聞がこの本を否定的に扱おうとしたのは当然でしょう。
朝日新聞だけでなく学者や言論人の多くにとってこの本は“不都合な真実”を書いたものです。著者も「まえがき」で書いているように、「『米国の意向』について論じることは日本の言論界ではタブーだからです」。
そして、そういう人は本書を否定する理由として「陰謀論の本だ」というふうに主張します。
確かにそういうふうに読めるところもあります。この本を全部信用するわけにはいきません。また、TPPにまで言及していますが、そこまで書く必要はなかったでしょう(「戦後史」というより「今」の問題ですから)
 
とはいえ、その陰謀論的な部分もおもしろいことは事実です。
たとえば、石橋湛山は戦前ジャーナリストとして軍部をきびしく批判した気骨の人で、1956年に首相になりましたが、病気のために2カ月で辞任しました。このことは教科書にも載っていて、誰でも知っているでしょう。しかし、どんな病気で辞任したのかを知っている人はいるでしょうか。また、首相を辞任してから15年間も生きていたことを知っている人はいるでしょうか。
真相を知りたい人は今すぐ書店へ――と書くと本の宣伝になってしまいますから、ここで書きます。
アメリカは石橋首相の自主独立路線を警戒しますが、米国務省北東アジア部長のパーソンズは秘密電報内で「われわれがラッキーなら、石橋は長つづきしない」と書きます。そして、石橋首相は突如肺炎になり、主治医は「肺炎の症状は消えて回復の途上にある。肺炎以外の病気は心配ない。体重の異常な減り方が、肺炎でやせたものとしては理解できない」と述べます。石橋首相は施政方針演説と予算審議ができないということで退陣に追い込まれます。
 
教科書に石橋首相は2カ月で退陣したと書いてあっても、どんな病気で辞めたのかまで書いてないのは、そういう事情だったわけです。「肺炎で辞めた」と書くと、逆に疑問が出てきますから。
 
また、60年安保闘争のとき、全学連が右翼の田中清玄から資金提供を受けていたことがのちに発覚し、人々に大きな衝撃を与えました。なぜ右翼が全学連に資金提供したのかというと、全学連は共産党と対立していたので、共産党を弱体化させるためだと説明されていました。
しかし、この説明はあまり説得力がありません。全学連が強大になり、薩長連合みたいに共産党と手を組むという可能性もないではないからです。とにかく、右翼が左翼に資金提供するというのは不可解です。
本書によると、アメリカが岸内閣を倒したかったからだということです。なぜ岸内閣を倒したかったのかというと、岸信介首相は意外と対米自立派だったからだということです。
 
本書には真偽の定かでないことも書かれていますが、事実に基づくことと推測によることはちゃんと区別されています。だから、本書を陰謀論の本として否定するのは間違いだと思います。
 
とくに本書で重要なのは、戦争直後から1951年のサンフランシスコ講和条約と日米安保条約調印までのところです。ここは全部資料に基づいて書かれていますし、説得力があります。本書を否定したい人は、陰謀論など持ち出さないでここを否定しないと意味がないと思います。
 
たとえば、講和条約が調印されたのはサンフランシスコの華麗なオペラハウスでしたが、安保条約調印の署名が行われたのはサンフランシスコ郊外の米国陸軍第六軍の基地の中で、しかも下士官クラブでした。そして、米側は4人が署名していますが、日本側は吉田首相1人でした。こうした事実を知るだけでも意味があるといえます。
 
また、本書では繰り返し、国務省顧問だったダレスの言葉「われわれ(米国)が望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保する、それが米国の目標である」が引用されます。この言葉を見れば、日米地位協定が聖域化していることもわかりますし、普天間基地の国外県外移設を主張した鳩山由紀夫首相が失脚したこともわかりますし、オスプレイ配備や米兵犯罪に日本政府がなにもできないこともわかります。
 
本書を読んで思い出したのですが、福田赳夫首相は「全方位外交」ということを掲げていました。今では考えられないことでしょう。今は、新しい首相が誕生するたびに「日米同盟は日本外交の基軸である」ということを、まるで踏み絵のように言わされることが儀式化しています。
日本は独立国であることをやめて占領時代に回帰しているかのようです。

社会生物学者のエドワード・O・ウィルソンは、社会科学や人文科学はやがて生物学によって統合されるだろうと述べ、猛烈な反発を買いました。現実にも生物学が社会科学や人文科学を統合するような流れにはなっていません。ウィルソンの野望はなぜ達成されないのでしょうか。
それを考えるためにも今日はこの本をとりあげました。2009年出版の本ですが、昨日のエントリーで小田亮著「利他学」をとりあげた流れです。
 
イメージ 1
 
内藤淳著「進化倫理学入門」光文社新書
 
内藤淳さんはもともと法学畑の人ですが、生物学的な観点から人間をとらえて研究を行っているということで、この本もきわめて意欲的ものといえます。
新書らしく平明な文章で書かれていて、一見わかりやすく、おもしろそうですが、実際のところはそうではありません。インターネットで本書の書評や感想を調べてみると、はっきりいって悪評サクサクです。私自身も同じ感想です。
とはいっても、倫理学の本といえばつまらないものと決まっています。図書館や大型書店で倫理学の棚を見てみると、どれもこれもつまらなさそうな本ばかりです。本書も例外ではなかったということです。
しかし、本書は進化倫理学を名乗っています。進化倫理学も普通の倫理学と同じなのかと思われると困ったことですし、その意味で本書は罪つくりでもあります。
 
もっとも、内藤淳さん自身は、進化倫理学を名乗るのは当然だと思っているでしょう。というのは、内藤さんはダーウィンの説を踏襲して本書を書いたからです。
しかし、ダーウィンの説だからといって、すべてが正しいわけではありません。そこのところを検証してみましょう。
 
ダーウィンは「種の起源」を出版した12年後に「人間の進化と性淘汰」を出版し、そこで道徳の起源について述べました。
ダーウィンによると、社会性動物には親が子の世話をしたり、仲間を助けたりという利他的性質があり、人間はその利他的性質をもとに道徳をつくりだしたということです。
人間は道徳をつくりだしたことでさらに利他的行動をするようになり、そうして人間は道徳的な存在になったというわけです。
ダーウィンの進化論は、当時の人々の人間観をくつがえす革命的なもので、そのため大きな反発を招きました。今でもアメリカには進化論を否定する人がたくさんいます。しかし、ダーウィンの道徳起源説にはなんの反発も起きませんでした。なぜなら、それは革命的なものではなく、当時の人々の価値観と基本的に同じだったからです。
ダーウィンは道徳の起源を考えるときに、世の中に妥協してしまったのです。
ですから、法学畑の内藤さんもダーウィンの道徳起源説を抵抗なく受け入れ、“進化倫理学”の本を書くことができたというわけです。そして、それは当然ながら、従来の倫理学の本と同じものになってしまいました。
 
道徳の起源については、ダーウィン説のほかにもうひとつ考えられます。
動物は基本的に利己的なものであり、人間はその利己的性質をもとに道徳をつくりだしたというものです。
人間は道徳をつくりだしたことでさらに利己的になり、互いに激しく争ったり、支配したり、抑圧したりするようになったというわけです。
こちらのほうが本物の進化倫理学だと思います(内藤さんの“進化倫理学”と混同されては困るので、私は「科学的倫理学」と呼ぶようにしているのですが)
 
本書では、「嘘をついてはいけない」と子どもに教える理由について、嘘をつくと損をするからだというふうに説明されています。
道徳を損得のレベルで理解しようとするのは進化倫理学的に正しいのですが、正しいのはそこだけです。あとは全面的に間違っています。嘘をつくと得する場合はいっぱいあります。
では、正しい説明とはなんでしょうか。私はこんなふうにいいます。
「嘘をついてはいけない」と子ども教えるのは、嘘をつかれるとこちらが損をするからです。
「人に迷惑をかけてはいけません」と教えるのは、こちらに迷惑をかけられると損をするからです。
「人に親切にしなさい」と教えるのは、こちらに親切にしてもらうと得をするからです。
このように考えると、道徳がすべて損得のレベルで理解できます。
これこそが本物の進化倫理学です。
 
 
ウィルソンはダーウィンの間違いを訂正していません。そのためウィルソンの野望は達成されないのです。 
内藤さんには、人間は利己的性質から道徳をつくりだしたという考えのもとに、本書を書き直していただきたいと思います。

人間はあくまで動物ですから、人間の行動の基本的な部分が生物学的に規定されるのは当然のことです。たとえば、ホッブスは人間の自然状態を「万人の万人に対する戦争」であるといいましたが、進化論からすればそんな動物はすぐに絶滅してしまうはずで、ありえないことです。これからは進化生物学と整合性を持たない思想は淘汰されていかねばなりません。
というわけで、大震災後という、ある意味よいタイミングで出版されたこの本の書評を書いてみます。
 
イメージ 1
 
小田亮著「利他学」新潮選書
 
小田亮さんはもともとサル学の人で、本書は社会生物学、進化心理学、人間行動進化学といった分野の本になります。
 
大震災後、被災者たちの互いに助け合う姿が報道されて世界の感動を呼び、また世界中の人々から被災者への援助が寄せられました。人間はなぜこのような利他行動をするのかということを、主に進化生物学を使って科学的に説明したのが本書です。「利他学」というタイトルそのままです。
つねに科学的データに基づいて書かれ、文章も平明です。科学的データから離れて著者の推測を述べる部分は、ちゃんとそれとわかるように書かれています。
 
ただ、私には決定的な不満があります。それは、本書が利他学の本であるということです。
利他学の本に利他学の本であるからけしからんなどというのはいいがかりとしか思えませんが、たとえていえば、高血圧の予防法とか、ガンになりにくい食事とか、そんなことが知りたくて「健康本」なるものを手にとってみれば、もっぱら健康のすばらしさばっかりが書かれていたみたいなことです。健康のすばらしさを知ったからといって、それがなにかプラスになるということはありません。
 
利他学はあっていいのですが、もうひとつ利己学も必要です。利他学と利己学は車の両輪のようなもので、利他学だけではほとんど意味がないのではないでしょうか(もちろん第一歩としての意味はあります)。
 
大震災で被災者はすばらしい利他行動を示しました。その一方で、原発事故を招いたのは、政府、電力会社、原子力の専門家たちの利己的なふるまいでした。彼らはみずからの利益のために“安全神話”をつくりだし、原発建設予定地にお金をばらまき、その地域の人たちも利己的な行動として原発を受け入れました。
また、戦争は人々を不幸にする最大のものですが、人類がこれまで限りなく戦争を繰り返してきたのは、互いの利己行動がぶつかりあったからでしょう。
私たちの幸不幸はほとんど利己行動によって決定されているといっても過言ではありません。お金を手にしたり恋人を得たりすることで私たちは幸福になり、他人の利己行動によって幸福を奪われ、また自分の利己行動によってみずから不幸を招いてしまいます。
こうした利己行動も当然進化してきたはずです。
 
文系の学者は社会の矛盾や問題点を見て、そこから発想するのが普通だと思いますが、理系の学者はあまり社会の矛盾を見ない傾向があると思います。大学の先生ともなれば生活の不安はないし、社会の矛盾など見なくても生きていけるのでしょうか。
 
私たちのたいていの行動は、利己的であると同時に利他的でもあります。
たとえば、贈り物という行為は、一般的に利他的な行動と見なされていますが、文化人類学で「贈与の一撃」という言葉があるように、贈り物によって相手に精神的な負債を与えて自分が優位に立つという利己的な面もあります。
また、商売というのは主に利己的な目的でするものですが、客に喜ばれるという利他的な要素を追求することで結果的に成功します。
かといって、商人が「お客様のもうけが第一、こちらのもうけは二の次です」と語る言葉をまに受けてもいけません。
つまり、利己的要素と利他的要素は複雑にからみあっており、それを解明することにこそ学問の醍醐味があるのではないでしょうか。
利他学だけでは物足りないのです。
 
 
ところで、利他学と利己学を車の両輪として考えたとき、道徳をどう位置づけるかという問題が出てきます。
ダーウィンは、人間は利他的性質をもとに道徳をつくりだしたと考えました。「利己的な遺伝子」で有名なリチャード・ドーキンスも同じ考えですし、小田亮さんも同じ考えのようです。
しかし、私は人間は利己的性質をもとに道徳をつくりだしたと考えました。
常識とはまったく逆なので、私はこれを道徳観のコペルニクス的転回と呼んでいます。
そして、これによって人間のすべての行動を合理的なものとしてとらえることができ、人文・社会科学における科学革命が始まると考えています。
 
小田亮さんが今後、進化生物学による人間行動の研究を進めていかれるときには、この道徳の位置づけの問題をぜひ考慮していただきたいと思いますし、進化生物学界全体でも考慮していただきたいと思います。
 
道徳観のコペルニクス的転回については、村田基のホームページでより詳しく説明しています。
 

このページのトップヘ