村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

カテゴリ: ヤクザ・暴力団

25日深夜の「朝まで生テレビ」のテーマは「激論!暴力団排除条例と社会の安全」でした。このブログで何度も暴力団について書いたこともあって、ついつい最後まで見てしまいました。
パネリストは以下の人たちです。
 
平沢勝栄(自民党・衆議院議員、元警察官僚)
青木理(ジャーナリスト)
石原伸司(作家、通称「夜回り組長」)
江川紹子(ジャーナリスト)
小沢遼子(評論家)
小野義雄(元産経新聞警視庁・警察庁担当記者)
木村三浩(一水会代表)
古賀一馬(元警視庁刑事、調査会社副代表)
原田宏二(元北海道警察警視長)
三井義廣(弁護士、元日弁連民暴委員会委員長)
宮崎学(作家)
 
 
番組は警察庁からの出席も求めたのですが、断られたそうです。警察にとっては広報のいい機会のはずなのに、情けない話です。
そういうこともあってか、番組全体の流れが警察批判に傾きがちで、司会の田原総一朗さんがなんとか暴力団批判の方向へと流れを変えようとする場面が何度も見られました。
 
私はもともと暴力団について詳しいわけでなく、島田紳助さんのことがあってから、にわか検索で得た知識をもとに暴力団について書いてきましたが、私の書いてきたことが基本的に正しかったことが今回の「朝生」で確認できました。暴力団や暴排条例について詳しい人たちが同じようなことを語っていたからです(もちろんそれに反対の意見の人もいます)。むしろ私のほうが歯切れがいいぐらいです。
たとえば、こうしたことが語られていました。
 
・条例で「交際」を禁止するのは異常だ。「交際」自体は悪くない。
・警察の暴力団対策は、頂上作戦以来ずっとうまくいっていない。
・島田紳助さんは警察に助けてもらえない。
・社会から落ちこぼれる人間がいるのが問題だ。
・暴力団は落ちこぼれの受け皿になっている。暴力団をなくすともっとひどくなる。
・暴力団員は離脱すると生活できない。
・警察は離脱支援や就職支援をしていない。
 
覚せい剤犯罪における暴力団関係者の比率は半分ぐらいで、あとの半分は暴力団関係者以外によるものだとか、警察の逮捕率は戦後しばらくのころよりはるかに低下しているとか、最近の警察は情報を金で買わないので情報収集力がほとんどないとか、興味ある事実も語られていました。
 
私は、暴力団事務所を追放しようという住民運動があるが、これは地域エゴだ、マスコミはなぜ批判しないのだろうということを「暴力団追放運動の不思議」というエントリーで書きました。
その住民運動に関して、ジャーナリストの青木理さんが語っていました。地元(浜松市)の商店街の会長さんだかに取材すると、地元は暴力団と祭りのときも協力するなどうまくやっていたのだが、警察に言われて訴えたのだ、ほんとうはやりたくなかったのだということです。この話を聞いて納得しました。暴力団事務所の追放運動など単なるいやがらせで、なんの解決にもならないことは誰の目にも明らかだからです。
 
暴力団対策がうまくいかないのは警察のやり方が間違っているからで、警察がやり方を改めない限りこれからもうまくいきません。
 
私は暴力団のことも警察の暴力団対策のことも詳しく知りませんでしたが、それでも大筋は正しく考えることができます。それは倫理の根本を知っているからです。
私は「暴力団員も私たちと同じ人間だ」ということを出発点にして考えていきます。しかし、多くの人は「暴力団は悪い、警察は正しい」ということを出発点にして考えていくので、どこまで行ってもデタラメな世界から抜け出られません。
マスコミも「暴力団は悪い、警察は正しい」という前提で報道するので、まったく現実をとらえることができません。
 
暴力団員が私たちと同じ人間なら、なぜあのような悪いことができる人間になるのかという疑問が生じます。この疑問を追究することで善や悪や正義というものがわかってきます。それを私は「科学的倫理学」と名づけています。
「科学的倫理学」の発想を身につければ、世の中の善、悪、正義に関わる問題のほとんどが明快にわかるようになります。

このところ週刊誌をにぎわしているのは「黒い交際」です。見出しから少し名前を拾っただけでも古関美保、TUBE前田亘輝、沢尻エリカ、松方弘樹、和田アキ子、中居正広など。「黒い交際」なんていう言葉を使うと、もうそれだけでいけないことのようです。しかし、人と人がつきあって悪いはずがありません。悪いのは、暴力団が犯罪をするのを助長するようなつきあい方です。
 
「黒い交際」がいけないというのは、カタギがヤクザとつきあうと、カタギが黒く染まってしまうからということでしょう。しかし、これは負け犬の発想です。こんな考え方で暴力団排除ができるはずありません。
むしろカタギはどんどんヤクザとつきあって、ヤクザをカタギの世界に引き込んでいくという発想でなければ、暴力団をなくすことはできません。
カタギがヤクザと友だちになって、「お前、そんなヤクザな稼業はやめて、まともな仕事をしないか。俺が働き口を紹介してやるよ」とか「俺の会社で働かないか」とか言うようになると、暴力団は消滅していくと思われます。
公共広告機構で「あいさつするたび友だちふえるね」というCMがありましたが、あいさつの対象をヤクザにして、「あいさつするたびヤクザがへるね」というCMもつくってほしいものです。
 
もっとも、現実にはこんなことはないでしょう。カタギというのはだいたいが小心者で、自分さえよければと思って生きているわけですから、ヤクザと対等の口を利くこともむずかしいわけです。
ヤクザというのは、修羅場を何度もくぐり抜けてきて、きびしい組織の掟にも従って生きています。鍛え方がカタギとはぜんぜん違うのです。ですから、たくさんのヤクザ映画がつくられてきたことを見てもわかる通り、昔からカタギはヤクザの生き方に憧れてきました。そして、ヤクザとつきあうことはむしろ自分のステータスを上げることでもあるのです。
警察はカタギの力を使って暴力団排除をしようと思っているようですが、それはそもそもむりな話です。
 
1013日の「朝日新聞」夕刊に、警察庁は暴対法の改正を目指しているという記事が出ていましたが、その解説記事では、「暴対法は施行から19年が経ち、これまでに4回改正したが、暴力団勢力はさほど減っていない」とあります。つまり暴力団対策は完全に失敗しているのです。そして、失敗の理由もちゃんと書いてあります。
「暴対法は、構成員の暴力団からの離脱と就職の支援もするとしているが順調ではない。毎年600人前後が離脱するのに、就職できた人は減少傾向で昨年は7人だった」
 
離脱しても食べていけないのなら、離脱するわけがありません。警察は就職支援のほうにむしろ力を入れるべきです。
そして、私はいいことを思いつきました。ほんとうは警察は自分たちの天下りの指定席を全部離脱者に譲ってやれと言いたいところですが、警察はそんことはしないでしょう。もうちょっと現実的な方法があります。
今、駐車違反の取り締まりは民間委託されていますが、この駐車監視員に離脱者を雇えばいいのです。警察が委託する民間業者を指導すれば簡単にできます。
 
そして、これが警察とヤクザの本来の姿なのです。江戸時代、町奉行所は博徒や的屋を目明し、岡っ引きとして使っていたのですから。

人間の究極の価値はみな同じというのが人権思想です。
売上の多いセールスマンと売上の少ないセールスマンは、セールスマンとしての価値は違いますが、人間としての価値は同じです。
また、人間は悪人として生まれたり、善人として生まれたりすることはありません。育つ過程で悪人になったり善人になったりするわけです。ボーボワール風に言えば、「人は悪人に生まれるのではない。悪人になるのだ」ということです。
 
こういう立場から現在の暴力団対策を見ると、「ヤクザ差別」という言葉で表現するのが適切です。
今は暴力団対策法と暴力団排除条例があるので、差別行為が合法ということになっていますが、法律自体が差別的ですから、合法であっても差別行為は差別行為です。
 
たとえば東京都の暴力団排除条例では、暴力団関係者を公共工事の入札に参加させないなど都の公共事業から排除することになっています。これはおかしな規定です。暴力団関係者が安くてよい仕事をする場合、それを排除すると税金のむだ使いをすることになります。また、暴力団関係者が正業をすることができなくなると、覚せい剤など非合法な稼業に向かわざるをえなくなります。
また、事業契約において、相手が暴力団関係者と判明した場合一方的に契約を解除できる特約を入れるよう努めなければならないという規定もあるのですが、これも正業をやりにくくさせます。
非合法な稼業を徹底的に取り締まり、正業をする場合はむしろ奨励するというのがヤクザを正しい方向に導くやり方ですが、今は非合法な稼業の取り締まりは中途半端なままで、正業を禁止するという逆のやり方になっています。
 
警察の基本方針は、一般市民に暴力団や暴力団関係者と交際させないというものですが、これは暴力団や暴力団関係者を不可触賤民と見なしているようなもので、差別というしかありません。
警察のするべきことは、暴力団の犯罪行為を取り締まることであって、それ以外にはありません。
 
これは法律とは関係ないことですが、サウナや公衆浴場などで、「刺青の人はお断り」としているところがありますが、これももちろん差別です。暴力団員は確かに刺青を見せて脅迫するということがありますが、だからといって刺青が悪いわけではありません。世界的に見ても、刺青の人を迫害しているのは日本だけです。
 
「ヤクザ差別」という言葉を使うと、今の暴力団対策の間違いがよりはっきりと見えてくるでしょう。

私が中学生のころ、一歳年上の兄の友人であるN君がよく家に遊びにきました。それも、そのきかたが半端ではありません。週に何日もきて、しばしばご飯も食べていきます。休日などは一日わが家に入り浸っています。私の両親は子どもの友だちがくるのを歓迎するほうでしたから、N君もきやすかったのでしょう。
N君の両親も「息子がご迷惑をおかけしています」ということであいさつにこられましたし、うちの両親と多少の交流がありました。N君の両親は2人とも高校教師です。お母さんはかなりきつい性格で、いつも1人っ子のN君に口うるさく指図したり叱ったりしています。お父さんは物静かな人で、N君には冷淡です。お父さんはある古典芸能の研究家で、著書も何冊かあり、亡くなったときは全国紙に訃報が載りました。
N君は家にいるのがいやで、うちにきていたのでしょう。うちの両親を親代わりに思っていた面もあったようです。N君のお父さんは「母親があまりにも口うるさくて」と、そのへんの事情は感じていたようです。
 
N君は高校に入ってからはほとんど遊びにこなくなりました。そして、あまり学校に行かず、しばしば家出しているという話を聞きました。
さらに何年かすると、まったく家に帰らなくなって、大阪でチンピラみたいになっているという話を聞きました(N君の家も私の家も京都です)
 
その後のことはわかりませんが、家に居場所のなかった人間は社会にもまともな居場所がなく(高校も中退だったかもしれません)、裏社会に落ちていったということのようです。
家出同然なので、たとえばアパートを借りるときの保証人にも不自由するはずですが、裏社会にはそれなりに助けてくれる人もいるのでしょう。
しかし、N君がヤクザになったということはないはずです。N君は色白で、しばしば女の子に間違えられるような子だったからです。
 
N君の家庭は、当然経済的に豊かで、両親とも知的で教育熱心で、外から見ると恵まれた家庭でしょう。しかし、そういう家庭からも裏社会に落ちていく人間がいます。
崩壊家庭の子どもも、社会でまともに生きていくのは困難で、多くは裏社会に落ちていきます。
一見まともな家庭でも、子どもを見捨てる親もいます。
 
こうして裏社会が生まれ、犯罪者や暴力団が生まれます。
こうしたメカニズムがわかれば、今の犯罪対策や暴力団対策が根本的に間違っていることもわかります。原因をそのままにして結果だけなくそうとするようなものだからです。

101日をもって暴力団排除条例が全国で施行されました。なんとも奇妙な条例で、人権無視、憲法違反の疑いが濃厚です。しかし、マスコミはぜんぜん批判的ことを書きません。まったくなさけないことです。
と思っていたら、産経新聞が山口組組長へのロングインタビューを掲載しました。暴力団の言い分がメディアにまとまった形で出るのはめったにないことでしょう。産経新聞、あんたは偉い、と言いたいところです。
本来なら、人権尊重とか差別反対とかを主張する進歩的なメディア、たとえば朝日新聞こそがこうしたことをしなければならないはずです。しかし、朝日新聞の記者は学歴社会の勝ち組で、エリート意識という点で警察のキャリア官僚と共通しており、暴力団など社会のダニといった意識なのでしょう。産経新聞の記者は、負け組というほどではありませんが、あまりエリート意識がないので、暴力団への差別意識も少ないのではないかと思われます。
 
ともかく、暴力団対策を立てるためにも、暴力団の言い分を聞くのはたいせつなことです。
産経新聞のインタビューの中でとくに重要と思われるところを引用します。
 
 
山口組を今、解散すれば、うんと治安は悪くなるだろう。なぜかというと、一握りの幹部はある程度蓄えもあるし、生活を案じなくてもいいだろうが、3万、4万人といわれている組員、さらに50万人から60万人になるその家族や親戚はどうなるのか目に見えている。若い者は路頭に迷い、結局は他の組に身を寄せるか、ギャングになるしかない。それでは解散する意味がない。ちりやほこりは風が吹けば隅に集まるのと一緒で、必ずどんな世界でも落後者というと語弊があるが、落ちこぼれ、世間になじめない人間もいる。われわれの組織はそういう人のよりどころになっている。しかし、うちの枠を外れると規律がなく、処罰もされないから自由にやる。そうしたら何をするかというと、すぐに金になることに走る。強盗や窃盗といった粗悪犯が増える。
 
 
これは重要な指摘です。果たして警察は暴力団を排除した結果を考えているのでしょうか。暴力団がなくなると、きれいな社会が実現するなんていうことはありません。多数の元暴力団員が一般社会に溶け込むことになるのです。
自分の意志で暴力団を抜けた者なら、みずから一般社会に溶け込もうと努力するでしょう。しかし、暴対法や暴排条例や警察の圧力のために組が解散し(たぶんそうはならないでしょうが)、自分の意志でなく暴力団員でなくなった者はどうするでしょうか。
元暴力団員を全員生活保護で丸抱えするというわけにもいかないので、働ける者には働いてもらわねばなりません。となると、たとえばあなたの会社にも元暴力団員が入社してくることになります。
暴力団員というのは、なにもしなくても、切ったはったの世界で生き抜いてきたすごみがあります。そのすごみこそが武器だともいえます。暴力団をやめても、人間のあり方は変わらないでしょう。そんな人間が会社の同僚や部下になるわけです。歓迎する人がいるでしょうか。
 
警察の暴力団対策は根本的に間違っているといわざるをえません。暴力団員は暴力団員のままでいてくれたほうが、一般社会で暮らすわれわれも安心していられるのです。

安藤隆春警察庁長官は9月1日、記者会見で島田紳助さんの問題に関連して、「社会全体が一体となり暴力団排除への取り組みを推進している中、テレビなどを通じて社会的に影響力の大きい芸能人が暴力団と交際していたことは大変残念だ」「芸能界においても暴力団排除に向けて本格的な取り組みがなされることを期待したい」と述べました。
この人はどういう神経をしてこんなことを言うのでしょう。芸能界が暴力団排除に本格的に取り組んだところで、暴力団が打撃を受けるということはありません。ちょっとしたいやがらせになる程度です。
安藤長官は年頭記者会見で「今年は暴力団対策が最重要課題だ」と述べています。で、なにをやっているかというと、山口組幹部の逮捕に力を入れ、一方で都道府県での暴力団排除条例の制定を進めるという作戦のようですが、これは今までやってきたことと基本的に同じで、そんなことでうまくいくわけがありません。
で、うまくいかなかったからといって、安藤長官はこれまでの歴代長官と同じく、責任をとるわけでもなく、謝罪するわけでもないでしょう。失敗してもなんのおとがめもないとは、なんとも気楽な商売です。
いや、もしかして責任を追及されるかもしれません。そうした場合、芸能界が暴力団排除に熱心でなかったからなどと言い訳する用意を今からしているのでは……というのはさすがにうがちすぎですね。要はなにも考えていないのでしょう。
 
「一般市民は善人、暴力団は悪人、警察は正義」というのが警察の基本認識でしょう。「善、悪、正義」というのは道徳の鉄のトライアングルというべきもので、ここにはまり込んだらなかなか抜けられません。
 
というわけで、今日も「暴力団イコール悪」という固定観念をゆさぶることにしましょう。
 
「暴力団は最高の倫理団体だ」というと暴論に聞こえるでしょうか。しかし、暴力団つまりヤクザは、「任侠」や「仁義」をうたっています。「仁」というのは儒教で「仁、義、礼、智、信」とある倫理段階の中で最高のものです。さらに彼らは、親分の命令は絶対で、親分にあいつを殺せと言われたら、10年以上の刑期も覚悟して命令に従う者もいます。つまり「忠」と「孝」という倫理もあるのです。警察も軍隊並みに上下関係のきびしい組織ですが、ここまで上司に忠誠を尽くす部下はいません。
 
一般市民には「仁」という最高段階の倫理など想像もつきません。理解できるのはせいぜい「礼」までです。学校でも家庭でも、道徳教育といえば「礼」を教えることです。
では、「礼」については一般市民のほうが暴力団より上かといったら、そんなことはありません。暴力団ほど「礼」にきびしい組織はありません。
股旅ものの映画でよくあるように、渡世人は旅先でヤクザ一家に世話になるとき、「お控えなすって」から「手前生国と発しますは」で始まる長いあいさつを滔々と述べなければなりません。このあいさつができなければ一人前とは認められないのです。そして、世話になれば一宿一飯の「恩」が生じるので、場合によっては出入りの助っ人もしなければなりません。
現在の暴力団でも、親分や兄貴分へ「礼」を欠くことは許されません。これは一般社会の比ではないでしょう。また、冠婚葬祭は盛大に行われ、このときは暴力団同士も互いに「礼」を尽くします。おそらく今の日本でいちばん冠婚葬祭に力を入れているのは暴力団ではないでしょうか。
 
このように暴力団とはきわめて倫理的な集団なのです。
 
それに比べて、一般市民のあり方はひどいものです。
そもそも暴力団員は一般市民から排除されたり差別されたりした者なのです。
自分たちが排除したり差別したりしたためにやむをえず暴力団になった者を、今また警察と一体となって抹殺しようとしている。これが一般市民の姿です。これほど邪悪な人間がいるでしょうか。
 
いや、これは誇張した表現ですが、こういう考え方もできるということです。
実際のところ、暴力団員は一般市民よりも悪い人間でしょう。しかし、親鸞は「善人なおもて往生す。いわんや悪人をや」と言っています。暴力団員のほうが一般市民よりも往生するに違いありません。

アメリカには賞金稼ぎという職業があります。賞金のかかった指名手配犯を探し出し、捕まえて賞金を稼ぐという職業です。ライセンスが必要ですが、逮捕権があり、犯人が抵抗すれば殺してもかまいません。
日本人で、アメリカへ渡って賞金稼ぎをしている人がいて、私はその人から話を聞いたことがあります。
賞金稼ぎといっても、そんなにもうかるものではないようです。逮捕すればその経費は請求できますが、逮捕できなければ一銭にもなりません。賞金の高い犯人は、賞金稼ぎ同士の競争になり、先を越されるとやはり一銭にもなりません。また、逮捕の瞬間は、犯人が銃を持って抵抗する可能性もあって、まさに命がけです。
なぜそんな危険な仕事をしているのかと思いますが、いろいろ話を聞いていると、その人は19歳ごろ、友だちが暴力団にひどい目にあわされたというので、1人で暴力団事務所に殴り込んだことがあったそうです。また、子どものころ母親が自殺し、その死体の第一発見者になったそうです。
どうやら命に対する感覚が普通の人と違うのです。いわゆる「命知らず」というやつです。
この人は高校中退ですが、六本木で外国人とつきあううちに英語を覚え、アメリカに渡りました。正義感が強い人なので、裏社会に行くことはありませんでしたが、もし裏社会に行っていたら、暴力団の幹部にもなっていたでしょう。
 
一昨日の「暴力団と裏社会」というエントリーで「胆力」という妙な言葉を使ってしまいました。
 
「胆力」という言葉には、武術や禅などのイメージがありますので、ここでは「命知らず」という言葉に言い換えて、もう少し具体的に表現してみようということで、今日のエントリーを書いています。
 
 
俳優の宇梶剛士さんは、高校野球部のときはプロを目指すほどの野球少年でしたが、暴力事件を起こしたことでプロ野球への夢が断たれ、自暴自棄となり、喧嘩に明け暮れる日々を送りました。1人で100人以上を相手に喧嘩したこともあったそうです。
母親との関係にも問題があったと宇梶さんは語っています。ただ、宇梶さんが子どものころ母親とよく映画を見に行って、それはよい思い出だったそうです。
宇梶さんは暴走族のトップにまでなりましたが、俳優を志して裏社会には行きませんでした。もし裏社会に行っていたら、やはり暴力団の幹部にはなっていたでしょう。
 
家族関係の問題やさまざまな人生体験から、人は「命知らず」になってしまいます。「命知らず」は人と物理的、肉体的な戦いをするとき圧倒的に有利なので、裏社会では上層に行きます。暴力団は主にこうした人によって構成されています。
 
暴力団員は決して特殊な人間ではありません。ちゃんと理由があってそうなったのです。
そうしたことを踏まえた暴力団対策が必要ですが、今の暴力団対策はハエ叩きでハエを叩いているようなレベルです。

島田紳助さんと暴力団とのかかわりについての週刊誌報道を見ていると、ぜんぜんおもしろくありません。ネタ自体が小さくてつまらないということもありますが、「暴力団は悪だ」「暴力団とつきあう芸能人も悪だ」という前提で記事を書いているのも一因です。なにごとにつけ「悪」のレッテル張りをした瞬間、思考停止に陥ってしまうからです。
ですから、一度「悪」のレッテルをはがす必要があります。そのための作業をしてみましょう。
 
週刊誌報道によると、事件の発端は、島田紳助さんがテレビ番組で右翼団体をバカにするような発言をしたことです(皇室にかかわる発言もあったようです)。それに対して右翼団体が街宣をしかけてきて、紳助さんは芸能界を引退しなければならないかと思うほど悩み、元ボクシング選手の渡辺二郎さん(現在被告人)に相談したところ、渡辺さんが山口組幹部に話をしてくれて、右翼の街宣はやみました。紳助さんは渡辺さんと山口組幹部に感謝しましたが、その後のつきあいはごく限定されたもののようです。公開されたメールによると、山口組幹部のために劇場のチケットを取ったことと、紳助さんの店にきたとき“接待”したことぐらいです(店にきた客をもてなすことを接待というのはへんです)
 
ここで誰でも疑問に思うのは、テレビ局と吉本はなにをしたのかということでしょう。これについてはなにも書かれていません。おそらくなにもやっていないのでしょう。だから、紳助さんも困って渡辺さんに相談したのです。
テレビ局は、VTR編集で問題発言はカットしなければならないので、明らかにテレビ局にも落ち度があり、責任があります。
また、紳助さんの所属事務所である吉本は、紳助さんが引退したら経済的に損失ですから、なんらかの手を打つべきですし、そもそも所属タレントが苦境に陥っていたらなんとかするのは当然です。
しかし、結果的にはなにもしていないも同然です。
 
一方、山口組幹部は、ただちに右翼の街宣をやめさせました。暴力団と右翼はひとつ穴のムジナみたいなものなので、やめさせるのはそんなにたいへんなことではなかったかもしれません。しかし、偉いのはそのあとです。山口組幹部は代償や返礼をなにも要求していないようなのです。だから、紳助さんも感謝したわけです。
恩を売っておいて、だんだんと取り込んでいくというのも暴力団の手法としてありそうですが、事件があったのは十数年前のことです。その後、チケットの手配ぐらいしか要求していません(これは現時点の報道で、これからなにか出てくるかもしれませんが)
ですから、山口組幹部は紳助さんを無償で助けたということです。これは明らかに美談です。
テレビ局や吉本はするべきことをせず、紳助さんが苦境に陥っても見て見ぬふり。一方、暴力団は無償で紳助さんを助けた。
これが現実の姿です。
 
ですから、週刊誌はテレビ局と吉本を「悪」として批判し、対照的に暴力団を称賛する記事を書くべきです。自分の落ち度を棚に上げて知らんふりをするテレビ局、所属タレントを見捨てる吉本、いくらでも批判できます。暴力団批判や紳助さん批判の記事より、絶対こちらのほうがおもしろい記事になります。
 
もちろん、現実にそんな記事は書かれません。週刊誌は同業者のテレビ局や芸能界で大きな勢力になる吉本を批判するわけにいかないからです。
このように考えれば、「悪」のレッテル張りがいかに恣意的なものかわかるでしょう。

どんな世界であれ、つねに生存競争が行われ、勝者が上層に、敗者が下層にという階層社会が形成されます。たとえば小説家の世界では、ベストセラー作家や文学賞受賞作家が頂点に、三流作家が下層に、さらに作家志望者が裾野にという階層社会が形成されます。学校の勉強の世界では、もっとも勉強のできる者が東大、次が京大、その下のほうに三流大、いちばん下に高校中退、中卒という階層社会になります。
 
裏社会でも生存競争が行われます。裏社会というのは、家庭から落ちこぼれた者と学校から落ちこぼれた者と被差別者によって主に形成されます。これらの者は表社会で生きようとしても最下層でしか生きられないので、裏社会に来るわけです。
裏社会における生存競争は、特定の才能ではなく(特定の才能がある者はその世界で生きられるので裏社会にはいない)、いわば人間の総合力によって行われます。
人間の総合力というのは、具体的には知力であり、腕力であり、さらには胆力です。
胆力というのは、一見勇気に似ていますが、勇気とは違って、自分は死んでもかまわないという思いです。こういう思いがあると戦いでは圧倒的に有利です。
この裏社会における生存競争に勝って最上層に登った者がヤクザであり暴力団です。
 
ですから、暴力団をなくそうとすれば、裏社会をなくすしかありません。裏社会がある限り、そこでの勝者が暴力団となるからです。
 
暴力団をなくそうと企てるのは、警察司法官僚であり、学校の勉強の世界での勝者です。こうした人間は裏社会のことをまったくわかっていないので、不可能な企てをしてしまいます。
警察司法官僚は暴力団対策を根本から見直さなければなりません。

島田紳助さんのメール106通が週刊誌に公開されました。「黒いつきあい」というので、暴力団幹部とのメールかと思ったら、そうではなくて、元ボクシング選手の渡辺二郎被告とのメールです。それも、メールのやりとりではなくて、島田さんから渡辺被告への片方のメールだけが公開されているのです。どうして刑事事件被告のメールは非公開で、一般人というか芸能人のメールだけ公開なのでしょうか。
私的なメールを一方的に公開することが不当なのはもちろんですが、ここではそれはおいておいて、なぜ島田さんばかりが一方的に非難されるのかについて考えてみます。
 
つきあいというものは、普通は一方的なものではなく、相互的なものです。対等なものといってもいいでしょう。
しかし、暴力団と島田さんの場合は対等とはいえません。暴力団は圧倒的に前科者の比率が高く、今後も犯罪をする可能性が高く、金の稼ぎ方もまともではありません。つまり反社会的存在、あるいは日陰者なのです。一方、島田さんは才能ある大物芸能人で、その芸で多くの人を楽しませています。もし暴力団が島田さんと対等のつきあいをしていたとすれば、マスコミは暴力団に対して、「お前たちに島田さんとつきあう資格はない」と非難するべきです。
ところが、マスコミは暴力団ではなく島田さんを非難しています。どうしてでしょう。
ひとつは、暴力団をいくら非難しても、彼らは少しもこたえないので、非難しがいがないということがあるでしょう。その点、島田さんを非難するのは、大いにやりがいがあります。
つまり、マスコミは弱い者イジメをしているのです。暴力団は手ごわいから、弱い芸能人をやっつけてやろうということです。
 
さらにいうと、いちばん悪いのは、暴力団の排除に失敗した警察です。警察が暴力団をのさばらせているのです。暴力団がのさばっている以上、暴力団とつきあわざるをえない状況も出てきます。警察がちゃんと暴力団排除に成功していれば、暴力団とつきあう者もいません。
ところが、マスコミは警察を非難しません。小さな不祥事は非難しても、警察の基本方針を非難するような根性はありません。
 
つまりマスコミは、権威ある警察を非難できず、手ごわい暴力団も非難できず、そのため、島田さんのような弱い芸能人を非難しているのです。
 
そして、一般の人も島田さんを非難しています。島田さんは人気とお金があるので、やっかみもあるでしょうし、芸能人は差別しやすいということもあるでしょう。
 
マスコミ、一般人、芸能人が騒いでいるのを、警察と暴力団が上から眺めています。

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