村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

カテゴリ: 戦争・テロ・平和

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戦後間もないころ、おばあさんが無邪気に遊んでいる小さな男の子たちを指差して「この子たちが大きくなったらまた戦争を始めるだろう」と言ったという話があります。
第一次世界大戦が終わってから21年後に第二次世界大戦が始まったのですから、そう思ってもむりはありません。

しかし、今年の8月15日で戦後75年がたち、曲りなりに日本は平和でした。
第二次世界大戦後、戦争の意味が大きく変わったからです。


松木武彦著「人はなぜ戦うのか――考古学から見た戦争」や佐原真著「戦争の考古学(佐原真の仕事4)」といった戦争考古学の本によると、人類が本格的に戦争をするようになったのは農耕社会になってからです。
その理由は、農耕社会では人口が増え不作のときの飢餓が深刻化したとか、土地争い、水争いが増えたとか、集団行動をするようになったとか、いろいろ説明されていますが、最大の理由は、食糧の備蓄量が大幅に増えたことでしょう。
狩猟採集社会では、食糧の備蓄といっても、せいぜい数日分から十数日分くらいです。
しかし、農耕社会では、収穫期には少なくとも半年間の労働の成果が蓄えられています。それを1日の戦争でごっそり奪うことができるなら、多少の危険を冒しても戦争しようという人間が出てきてもおかしくありません。
実際、農耕社会では外敵に備える環濠集落が広くつくられるようになります。
映画「七人の侍」では、収穫期になると野武士が村を襲いにくるのですが、ああいう感じだったのでしょう。

それからずっと戦争は利益のために行われてきました。
勝つと食糧、土地、財宝、女、奴隷を獲得することができます。

戦争するのは本能だと考えている人がいますが、それは間違いです。動物はなわばり争いをしますが、争い自体が不利益を生むので、それほど激しくは争いません。
人間の場合も、戦争をすると自分のほうもある程度損害が出るので、めったに戦争はしません。少ない損害で大きな利益が得られそうなときだけ合理的な判断で戦争をします。

文明が進んで富が蓄積されると、戦争の機会が増えていきます。
戦争の強い集団はどんどん戦争をして、ローマ帝国やらモンゴル帝国やらを築きました。

戦争でもっとも利益が得られたのは、近代国家が強力な軍隊を持って、近代化していない国を次々と植民地化していった植民地主義の時代です。
日本も遅まきながら植民地獲得の戦争をやりました。

このころに戦争はもうかるものだというイメージができて、それをいまだに引きずっているのではないでしょうか。
しかし、第二次世界大戦後は戦争の意味合いがまったく変わりました。

植民地主義の時代が終わり、戦争に勝っても領土や植民地を獲得することはできません。
それに、国連憲章で戦争は禁止されたので、賠償金を取ることもできませんし、国際社会から批判も受けます(実際は1928年に成立したパリ不戦条約から戦争は禁止されています)。

一方で、高度産業社会が実現し、各国の経済関係は緊密になり、そこから上がる利益が大きくなってくると、隣国と戦争するのは大損失になりました。


今ではまともに戦争ができるのはアメリカぐらいですが、やはり戦争には不利益しかありません。
湾岸戦争は、アメリカが多国籍軍を率いて勝利し、精神的満足があったかもしれませんが、アフガン戦争とイラク戦争は損失が巨大で、アメリカ国民もうんざりしています。


中国とインドは長い国境で接して、何度も国境紛争が起こり、戦死者も出ていますが、紛争が大きくなることはありません。
双方が戦争をするのは損だと認識しているからです。


日本に関していうと、今、尖閣諸島が日中間の緊張のもとになっています。
しかし、昔は「満蒙は日本の生命線」といったものですが、今「尖閣は日本の生命線」であるはずがなく、重みがぜんぜん違います。

北朝鮮は、拉致問題を起こすような頭のおかしい国だから、なにをするかわからないと思われていましたが、最近は北朝鮮なりに合理的な行動をしていることがわかってきて、脅威感が薄れてきました。


第二次大戦後の世界がどんどん平和になっていることは、国際連合広報センターの
「紛争と暴力の新時代」というサイトにも示されています。

世界的に見ると、戦死者の絶対数は1946年以来、減少を続けています。しかし同時にまた、紛争や暴力は現在、増加傾向にあり、大半の紛争は政治的民兵や犯罪集団、国際テロ集団など非国家主体の間で生じています。
   ※
現在では、武力紛争よりも犯罪が多くの人の命を奪っています。2017年には、全世界で50万人近くが殺人によって命を失っていますが、これは武力紛争による死者8万9,000人とテロ攻撃による死者1万9,000人を大きく上回る数字です。
   ※
テロは依然として幅広く見られるものの、その影響は近年、衰えてきています。全世界でテロ攻撃よるものと見られる死者の数は、2018年に3年連続で減少し、1万9,000人を下回っています。各国政府が暴力的過激主義を防止し、これに対処するため、テロ対策の取り組みや地域的、国際的な協調とプログラムを強化する中で、テロ攻撃による死者が減っているからです。2017年には、テロ攻撃の5分の1が失敗に終わっていますが、2014年の時点で、この割合は12%強にすぎませんでした。


戦争やテロの死亡者はへっていて、犯罪(殺人)による死亡者のほうがはるかに多いのです。

こうしたことはあまり知られていません。軍事・外交の専門家たちにとって不都合な真実だからです。

外務省の基本認識は、「わが国を取り巻く安全保障環境はいっそうきびしさを増している」というものです。
安倍首相も演説で決まって「わが国を取り巻く安全保障環境はいっそうきびしさを増している」と言うので、国民も耳にタコのはずです。

しかし、「わが国を取り巻く安全保障環境はいっそうおだやかさを増している」というのが正しい認識です。



日本人は第二次世界大戦の体験が強烈なので、いまだにそこにとらわれています。
戦争に負けて悔しいと思う者は、敗戦の象徴である憲法九条を改正して少しでも戦前の日本を取り戻そうと思っていますし、戦争が悲惨だったと思う者は、憲法九条の改正はなんとしても阻止したいと思っています。
どちらも過去にとらわれているので、現在の状況に適応することができません。


安倍首相は今年の全国戦没者追悼式の式辞で「積極的平和主義」という言葉を使いました。
かつては自衛隊を戦闘地域に派遣して、自衛隊に戦闘を経験させようとしていた節があります。
つまり日本を「戦争のできる国」にしようとしてきたようなのです。
しかし、それは実現していません。
世界が平和になってきているのを読み間違っているからです。

憲法九条改正に反対する人たちも、そのモチベーションをもっぱら戦争の悲惨さの記憶に頼っています。
しかし、記憶は風化していくので、こうした運動は若い人に理解されず、先細りが運命づけられています。
これからの平和運動は、経済合理性の追求にシフトしていくのが正しい道です。
戦争の損得を計算し、防衛費を費用対効果で算定するのが、いちばん有効な平和運動です。

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8月6日の広島原爆投下の日に『日本に「大きな責任」求める 駐日大使指名ワインスタイン氏―米上院委』というニュースがあったので、アメリカはまだ原爆投下の責任を日本になすりつけようとしているのかと思いましたが、それは私の勘違いで、次期駐日大使のワインスタイン氏が日本に同盟国としてのより大きな責任を求めると米上院で証言したというニュースでした。

原爆投下の責任でなくても、アメリカが日本に責任を求めることに変わりはなく、米軍駐留経費の負担や兵器の購入などで日本はさらに出費を求められそうです。


アメリカは日本に原爆投下を謝罪することもありませんし、日本がアメリカに謝罪を求めることもありません。
もっとも、日本がアメリカに原爆投下の謝罪を求めると、アメリカは「日本はパールハーバーの謝罪をしろ」と言ってきそうです。
日本も真珠湾攻撃の問題をうやむやにしてきました。


アメリカ人は真珠湾攻撃を「卑怯なだまし討ち」と思っています。
真珠湾攻撃のとき、日本政府の宣戦布告が攻撃開始から1時間遅れました。
もともと宣戦布告ないし最後通牒ののちに開戦するという国際慣習がありましたが、1907年の「開戦に関する条約」の第1条に「締約国は理由を付したる開戦宣言の形式、または条件付開戦宣言を含む最後通牒の形式を有する、明瞭かつ事前の通告なくして、其の相互間に戦争を開始すべからざることを承認す」とあるので、明白な国際法違反です。

ただ、自衛戦争の場合は宣戦布告の必要はありません。
靖国神社の遊就館には、大東亜戦争は「自存自衛」の戦争だったという展示がされています。
おそらく日本の保守派は自衛戦争だと見なして宣戦布告の遅れを無視してきたのかもしれませんが、「真珠湾攻撃は日本の自衛戦争だった」という理屈が、アメリカに対してもどこに対しても通じるわけがありません。

結局、日本は「卑怯なだまし討ち」をしたのに謝罪しない国ということになっています。

安倍首相は2015年4月29日、日本の総理大臣として初めて米国上下両院の合同会議でスピーチを行いました。
このときなど真珠湾攻撃について謝罪する絶好のチャンスでしたが、「私たちの同盟を希望の同盟と呼びましょう」などと空疎な言葉を述べただけでした。



宣戦布告の遅れの問題は誰でも知っていますが、もうひとつ、先制攻撃の問題はあまり認識されていないのではないでしょうか。

第一次世界大戦の反省から1928年に成立したパリ不戦条約では、戦争は禁止され、違法行為となりました。ただ、自衛戦争は合法であるという抜け道があり、制裁の規定もありませんでした。
日本が上海事変、満州事変と言って、「戦争」の言葉を使わなかったのは、このパリ不戦条約があったからです。
ドイツがポーランドに侵攻したときも、ポーランドが先に攻撃してきたという理由をつけました。
ただ、これに対してイギリス、フランスなどがドイツに宣戦布告したのは、パリ不戦条約からはありえないことで、このときにパリ不戦条約は有名無実化したのかもしれません。
さらにドイツが相互不可侵条約を破ってソ連に侵攻し、世界は無法状態になりました。

しかし、どんな無法の世界でも基本的な倫理というのは不変です。
それは、「喧嘩は先に手を出したほうが悪い」というものです。

決闘は、どちらが先に手を出してもかまわないというルールですが、たとえば西部劇のヒーローは、自分から先に銃を抜くことはありません。先に手を出すのは悪いという共通認識があるからです。

太平洋戦争は、日本が先に手を出した戦争ですから、日本が悪いに決まっています。パリ不戦条約があるので、法的にも違法です。
侵略か自衛かでいえば、日本が侵略、アメリカは自衛です。

アメリカ人も、宣戦布告の遅れなどは大して問題にしていなくて、先に手を出したことと不意討ちだったことで怒っているのです。

ですから、日本はむしろ宣戦布告の遅れよりも先制攻撃を謝罪しなければなりません。
そうすれば日本は原爆投下や都市無差別爆撃などでアメリカに謝罪を要求することができますし、さかのぼって黒船による砲艦外交で不平等条約を押し付けられたことも問題にできます。



ところで最近、敵基地攻撃能力の議論があって、その中に先制攻撃論もあります。
敵がわが国を攻撃することが明らかなときは敵基地を先制攻撃しようという議論です。
しかし、敵がわが国を攻撃するか否かを事前に察知することは至難の技で、それは真珠湾攻撃を振り返ってもわかります。

海軍航空隊は真珠湾攻撃の場合に備えて、地形のよく似た鹿児島湾を真珠湾に見立てて訓練をしていました。もしアメリカのスパイがそのことを察知すれば、日本にアメリカ攻撃の意志ありと判断したでしょう。
そして、南雲中将率いる機動部隊が出撃したことを察知すれば、攻撃行動に出たと判断して、もし可能ならアメリカ軍が機動部隊に対して先制攻撃をしたかもしれません。
しかし、実際は日本政府もぎりぎりまで日米交渉の妥結を目指していて、妥結すれば機動部隊は途中から引き返すことになっていました。艦隊が真珠湾に向かっているからといって、確実に攻撃するというわけではありません。

日本が敵国に攻撃の意志ありと判断して先制攻撃をしたところ、敵国は攻撃する意志も準備もなかったということが明らかになったとします。その場合、日本は敵国に対して謝罪して、先制攻撃で与えた損害の賠償をするのが筋ですが、そこまで考えているでしょうか(もっとも、アメリカは大量破壊兵器があると言ってイラクを攻撃し、大量破壊兵器がないことが明らかになっても、謝罪も損害賠償もしていませんが)。

ともかく、真珠湾攻撃を思い出せば、先制攻撃論の危うさがわかります。


ところで、なぜ今敵基地攻撃能力が議論されるかというと、イージス・アショアの配備が中止になって、代わりにアメリカからなにか高額な兵器を買わなければならないからです。
もちろんイージス・アショアの代わりになにかを買う義務はないのですが、日本は「卑怯なだまし討ち」をしたことを大目に見てもらっているという負い目があるので、対等な交渉ができません。
そういう意味でも真珠湾攻撃の謝罪をすることは重要です。


もっとも、日本がアメリカに真珠湾攻撃の謝罪をすると、中国や韓国やその他のアジア諸国も日本に謝罪を求めてきて、パンドラの箱を開けたみたいなことになりそうです。
確固とした歴史認識がないとできないことではあります。

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航空自衛隊の「宇宙作戦隊」が5月18日に発足しました。
アメリカの「宇宙軍」が2019年12月に発足したのを受けたものです。

「宇宙作戦隊」という名称は、昭和風でダサいのではないかという声があり、立憲民主党の小西洋之議員からは「作戦部や作戦課という名称は旧日本軍で用いられていた。専守防衛の自衛隊にふさわしくないのではないか」という指摘もあり、河野太郎防衛相も見直す可能性を示唆していました。

河野防衛相は、米国防総省が4月末にUFOとされる映像を公開したのを受けて、記者会見で「自衛隊のパイロットが、万が一遭遇したときの手順をしっかり定めたい」と語りました。かつて政府は「地球外から我が国に飛来した場合の対応について特段の検討を行っていない」とする答弁書を決定していたので、方針転換であるとしてニュースになりました。
おそらく河野防衛相の頭の中に宇宙作戦軍のことがあったので、踏み込んだ発言になったものと思われます。

私も「宇宙作戦隊」に代わる名称を考えました。
そして、思いついたのは「地球防衛軍日本支部」です。
ウルトラマンシリーズにも「地球防衛軍」が出てきます。
「軍」という言葉を使うので、右翼も大喜びでしょう。


人類の宇宙進出は、大航海時代から続いてきたロマンでした。
宇宙に進出すれば異星人と出会うかもしれません。そのときには人類はひとつになっていなければ不都合です。
昔のSFドラマの「スタートレック」や「宇宙家族ロビンソン」でも、国と国の対立などはありえないことです。

しかし、現実の宇宙進出は違いました。
1969年、アポロ11号の2人の宇宙飛行士が月面に降り立ったとき、アメリカ国旗を月面に突き立てたのです(あとで国連旗も立てましたが)。
それを見たとき私の中で、宇宙進出とともに人類がひとつになるという夢がもろくも壊れました。
アメリカは国威発揚のために月への有人宇宙飛行を行ったのです。

南極については南極条約があり、領土主権の凍結と軍事利用の禁止がうたわれ、実現しています。
宇宙についても同じであっていいはずですが、アメリカは人類がひとつになるという夢を打ち壊しました。

現在もその延長上にあります。
アメリカは宇宙の軍事利用を進め、ロシアや中国も対抗しています。
これを当たり前のことと思っている人がいるかもしれませんが、そんなことはありません。軍事費がかさむばかりです。
宇宙の軍事利用禁止が当たり前のことです。


宇宙作戦隊の発足と同時に隊旗も定められ、河野防衛相から阿式俊英隊長に隊旗が授与されました。
河野防衛相はツイッターで隊旗を披露しています。

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鷲の紋章がデザインされています。
これは航空自衛隊で使われているものと共通です。

これにネットでかなり突っ込みがあったといいます。
宇宙で翼は役に立たないではないかという突っ込みです。
確かに宇宙にふさわしいデザインにするべきでしょう。

私自身は、日本の伝統にない鷲の紋章が使われているのが気になります。
鷲の紋章はもともと古代ローマ帝国の国章であって、ヨーロッパで広く使われ、現在ではドイツ、アメリカ、ロシア、エジプトの国章としても使われています。つまりヨーロッパ文明と不可分です。
そんなものを航空自衛隊が使っているのが理解できません。
航空自衛隊創設のときにアメリカの影響が大きかったのでしょうが、日本の魂を売り渡しているみたいなものです。


トランプ大統領はアメリカ宇宙軍の軍旗のデザインをツイッターで公表しました。

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これはいかにも宇宙軍らしいデザインですが、「スタートレック」の宇宙艦隊の紋章に似ていると言われています。

今までにない宇宙軍をつくるのですから、日本もアメリカみたいにやればよかったと思います。


結局、「宇宙作戦隊(仮称)」はそのまま「宇宙作戦隊」になりました。
「地球防衛軍日本支部」にはもちろんなりません。
実態は「アメリカ宇宙軍日本支部」だからです。

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米軍によるソレイマニ司令官殺害は、どう見ても無法行為です。
アメリカはソレイマニ司令官をテロリストに指定していましたが、勝手に指定して、勝手に殺しただけです。
イラン国会はこの事件を受けて、すべての米軍をテロリストに指定する法案を可決しました。
無法の世界がどんどん拡大しています。

無法の世界といえば、西部劇がそうです。
私の世代は西部劇を見て育ったようなものです。子どものころ、映画はもちろんテレビでもアメリカ製の西部劇のドラマをいっぱいやっていました。

西部劇では、保安官は登場しても重要な役割は果たさず、主人公は自分の力で悪漢(あるいはインディアン)を倒さなければなりません。
法より力――というのが西部劇の基本原理です。

現在のアメリカは法の支配が行われていますが、銃を所持する権利も絶対視されています。法の支配は表面的なもので、一皮めくれば「法より力」の原理が現れます。

トランプ政権は2017年12月、安全保障政策のもっとも基本となる「国家安全保障戦略」を発表しましたが、その「四本柱」は次のようなものです。

I. 国土と国民、米国の生活様式を守る 
II. 米国の繁栄を促進する 
III. 力による平和を維持する 
IV. 米国の影響力を向上する
https://jp.usembassy.gov/ja/national-security-strategy-factsheet-ja/

「法の支配」も「世界」もありません。「アメリカ・ファースト」があるだけです。
「力による平和」は、銃で自分の身を守るという西部劇の原理です。

今のアメリカは法の支配が行き渡り、腰に銃をぶら下げていなくても警察が守ってくれますが、アメリカ人にとってフロンティアは世界に拡大し、アメリカ国外が西部劇の世界になりました。
世界に法の支配を広げるのではなく無法状態を広げるのがアメリカのやり方です。無法の世界では力のある者が得をするからです。

よくアメリカのことを「世界の警察官」にたとえますが、警察官なら法に従います。
今のアメリカをたとえるなら「自警団のボス」か「ギャングのボス」というべきです。

しかし、長い目で見れば今の無法の国際社会は過渡期で、いずれ法の支配が行き渡るに違いありません。

今の日本は「自警団のボス」に従っていますが、いつまでもこの状況は続きませんから、自分の手を汚さないようにしないといけません。


アメリカはソレイマニ司令官を殺害し、イランは米軍基地に弾道ミサイルで報復攻撃をしましたが、今のところアメリカもイランも抑制された対応をしているようです。
これはなぜかというと、「法の支配」はなくても「経済の支配」があるからです。
ソレイマニ司令官殺害の瞬間に株価は下がり、原油価格は上がりました。本格的な戦争になれば双方に大きな経済的損失が生じるのは目に見えています。

平和は「法の支配」でなく「経済の支配」でも達成できるのかもしれません。

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Eric PerlinによるPixabayからの画像 

私がムンクの「叫び」を初めて見たのは、中学校の美術の教科書でした。
教科書にいろいろな絵が載っている中で「叫び」は明らかに異色で、狂気を感じさせる絵に衝撃を受けたのを覚えています。
昔は私のような受け止め方が一般的だったでしょう。
しかし、今は「ムンクの叫び人形」のようなものがつくられ、絵の人物がおもしろキャラクターとして扱われて、むしろ笑える絵と見られている面があります。

絵は昔も今も同じですから、見る側の認識が変わってきたのです。
ユニークな絵ですから、メディアで取り上げられることも多く、みんなが見慣れてきたということもあるでしょう。
見慣れたということも含めて、私たちは狂気や異常性を感じさせる絵を普通に受け入れるようになっているのです。


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(ゾンビパレード)geri clevelandによるPixabayからの画像

ゾンビも、もともとはスプラッターホラーと言われるジャンルの映画から出てきたもので、ゾンビが人間の内臓をむさぼり食うシーンなどがあって、一部のマニアに受けていただけで、一般の人には嫌われていました。スプラッターホラーは宮崎勤事件などと結びつけられたこともあります。
ホラーの中でもゾンビものはもっともグロテスクですが、それがどんどん人気になって、「ウォーキング・デッド」というドラマ・シリーズは高視聴率番組となっています。
そして、ハロウィンの仮装の定番にもなりました。
見た目にもっともおぞましいものが、おもしろがられるようになっているのです。


異常で残虐なものを受け入れるようになってきたのは、戦争映画も同じです。
「ビーチレッド戦記」という映画の解説で町山智浩氏が語っていたのですが、ハリウッドにはヘイズ・コードという規制が1968年まであって、人体が破壊されるようなシーンをはっきり撮ることはできなかったそうです。ですから、弾丸が人の体に当たっても血が出ることはなく、穴が空くだけです。
そう言われてみれば、昔の戦争映画では、銃で撃たれてバタバタと人が倒れたり、崖から落下したり、爆発で人の体が派手に吹っ飛んだりするシーンはありますが、血が出たり、手足がもげたりするような残虐シーンはありません。“きれいな死”ばかりです。
「ビーチレッド戦記」はインディペンデント映画なので、そういう規制は無視して、上陸作戦のとき、水にちぎれた足が浮いているとか、隣の兵士の喉にパックリ穴が空いているとか、激しい砲撃の中で腕をなくした兵士が突っ立っているとかの残虐シーンがあり、画期的でした(1967年制作の映画なので、ベトナム反戦の意味があると想像されます)。

スピルバーグ監督の「プライベートライアン」は、「ビーチレッド戦記」の影響を受けたということで、残虐シーンがてんこ盛りです。メル・ギブソン監督の「ハクソーリッジ」は、それに輪をかけた感じです。
これらは血の出る戦争映画ということで、“スプラッター戦争映画”と言えるかもしれません。
それを私たちはエンターテインメント映画として受け入れています。

ホラー映画も、昔はほとんど血が出ませんでした。ドラキュラものも、首筋に牙でかみつくシーンはありますが、ほとんど血は出ません。ヒッチコック監督の「サイコ」も、ナイフを使っての殺人シーンは、カーテン越しのナイフの動きと、床に流れるシャワーの水に血が混じるという形で表現されました(しかもこれはモノクロ映画です)。


また、幼児虐待で子どもが死亡する事件は、今に始まったものでなく昔からありましたが、昔はそういう事件があっても、まったく報道されないか、報道されてもいわゆるベタ記事でしか扱われませんでした。幼児が親から虐待されて死ぬというのはあまりにも悲惨なので、そのような報道はみんなが拒絶していたのです。
今は幼児虐待事件は大きく報道されます。このように変わったのは、私の感覚ではせいぜい十年ぐらい前からです。


このように異常で残虐なものは、昔は多くの人が拒絶していましたが、今は一般の人が普通に受け入れるようになっています。
これはきわめて大きな変化です。
もちろん認識の上での変化ですが、それは現実にも影響を及ぼすはずです。

異常で残虐なことを目にするのに慣れると、自分も同じことをしやすくなるという考え方もありそうですが(スプラッターホラーと猟奇殺人事件が結びつけられたのもそれです)、現実はむしろ逆です。
殺人や強盗のような凶悪犯罪はへり続けています。
へっている理由はいろいろあるでしょうが、ひとつにはナイフで人を刺すと血が流れるとか、刺された人はもがき苦しむといったことが認識されてきたこともあるのではないでしょうか。

戦争も、昔のような大規模なものはなくなってきました。
この理由もいろいろありますが、昔のように戦争が経済的利益に結びつかなくなったことが大きいでしょう。それから、戦場では人が血を流して苦しんで死ぬということが認識されてきたことも影響しているのではないでしょうか。

幼児虐待事件が減少しているとは今のところ言えないようですが、幼児虐待の存在が広く認識されるようになり、対策が進められているので、いずれ事態は改善に向かうはずです。

精神病への偏見も少なくなり、猟奇事件の犯人の心理も、“心の闇”で片づけることなく、解明することに関心が向いています。

人類は宇宙の果てや量子の世界にまで認識を広げています。
それと同様に、異常、残虐、グロテスクといったものにも認識を広めています。
これも人類の大きな進歩です。

台湾の金門島に行きました。

金門島というと、台湾と中国の中間ぐらいの位置にあると思っている人が多いのではないでしょうか。
実際は、中国本土の一部としか思えない位置にあり、中国の厦門市の高層ビル群が肉眼で見えます。金門島

日本が台湾を統治していたときも、金門島は統治していません。ずっと中国の一部であったわけです。

中国大陸の戦いで負けた国民党軍は台湾と金門島に逃げました。
共産党軍は1949年に金門島に上陸し、国民党軍と激戦を繰り広げますが、撃退されます。これを古寧頭戦役と言います。
1958年には共産党軍が本土から島に向けて大規模な砲撃を行い、国民党軍も砲撃で応戦しました。8月23日から10月5日まで行われたので、台湾では八二三砲戦と呼ばれています。
砲戦はそのあとも1979年まで断続的に続きました。
ですから、金門島は中国・台湾対立の最前線です。

金門島にはさまざまな戦跡があるので、私が見た範囲のものを紹介します。


翟山坑道
砲爆撃に耐えられるように地中を掘ってつくられた船着き場です。
入口の前に戦車や高射砲、上陸用舟艇などが陳列されています。
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坑道は「A」の字型をしています。
今は出入口がせき止められているので、水面が鏡のようです。
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ありがたい軍人精神も書かれていました。
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馬山観測所
ここは中国大陸にいちばん近い場所になり、軍の観測所が設けられました。これも完全に地下化されています。
入口からやたら長いトンネルが続きます。
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ここでは中国向けのプロパガンダ放送も行われ、テレサ・テンも放送に協力したということで、等身大の写真がありました。
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観測所からの眺めです。手前に見えるのは中国領の島で、その向こうにぼんやり見えるのが中国本土です。
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獅山砲陣地
地下陣地の砲台です。
ここにも入口前に大砲などが展示されています。
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ここでは1日に4回ほど本物の兵士が大砲を操作して発射の実演をするのが観光名物になっています。
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北山古洋楼
古寧頭戦役の激戦で銃弾の跡の残った建物が今も保存されています。
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慈湖落日観海平台
海岸に設けられた三角堡というトーチカがあります。
周囲に戦車が展示されています。
海岸には敵の上陸を阻止するための障害物が設置されています。

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古寧頭戦史館
絵画と兵器などが展示されていますが、内部は撮影禁止です。

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ここの展示物はたいしたことありませんが、館員に言えば、日本語バージョンの13分の解説ビデオを見せてくれます。これを見れば、金門島における中国と台湾の戦争の概略がわかります(あくまで台湾側の見方ですが)。

なお、ここを含めて金門島内のすべての観光施設は無料です。

第二次大戦が終わってから始まった国共内戦で、国民党軍は連戦連敗で、とうとう海に追い落とされたわけですが、金門島における戦いでは国民党軍が勝利します。これは不思議なことです。
解説ビデオによると、第二次大戦で使って廃棄される予定の米軍戦車を国民党軍は使用したということです。これが大きかったのではないでしょうか。

また、八二三砲戦では、途中から投入された米軍の 203mm榴弾砲の威力がすさまじく、二発撃っただけで共産党軍は核爆弾だと誤解して戦意を喪失し、国民党軍の勝利につながったのだということです。
砲撃を核爆発と間違えることなどあるわけがないと、そのときは思いましたが、あとで調べてみると、当時は米軍が空母を近海に出動させていて、核攻撃の可能性も言われていたということです。兵隊の心理としてそういうこともあったかもしれません。

なお、古寧頭戦役で国民党軍が勝利したのは日本人の力があったからだということを、門田隆将氏が「この命、義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡」というノンフィクションで書いています。しかし、タクシーの運転手に「戦いに日本人も参加したことを知っているか」と聞いたところ、まったく知らないようでした。


金門島の現在
そうした歴史を振り返ると、金門島は今も最前線の緊張に包まれていそうなものですが、全然違います。
中国本土からフェリーで多くの観光客が金門島を訪れ、本土からパイプラインで水道水が供給されるようになり、中国本土との一体化が進んでいます。
そもそも大砲陣地や観測所が観光地化していることを見ても、緊張感のないのがわかります。

重要な陣地は隠されているのでしょうが、私は金門島に3日間滞在して、獅山砲陣地で大砲発射の実演をした兵士以外に軍服の兵士は見かけませんでしたし、軍用車両も見ませんでした。

現代の戦争は、上陸して島を占領するとか、砲撃戦をするとかではなく、航空戦で決着するのかもしれません。
もっとも、航空戦で勝利したからといって、昔みたいに領土や市場や賠償金が得られるわけでもありません。

そういうことを考えると、最近の自衛隊は離島奪還演習をよくやっていますが、果して意味があるのかと考えてしまいます。


風獅爺(おまけ)
金門島は風が強く、風獅爺という風よけの守護神みたいなものがあちこちに置かれています。
シンガポールのマーライオンや沖縄のシーサーにも似ています。華僑を通して文化の交流があったのでしょう。

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色彩が人間の心理に影響を与えることは知られていて、いろいろなことに応用されていますが、刑務所の部屋をピンク色にすると、囚人の攻撃性が低下し、おとなしくなるという心理学研究が発表されました。

「牢屋の壁をピンクに塗ると囚人の攻撃性が下がる」画期的なはずのアイディアがなぜか物議に

この記事から一部を引用します。

この「沈静のピンク」はスイスの10の刑務所で採用され、4年後には刑務官らによって囚人に特筆すべき暴力性の低減が見られたことが報告されました。Späth博士は同時により早いリラックス効果もあることを指摘しています。

この「沈静のピンク」はスイスを飛び出してドイツの複数の刑務所でも採用されているとのこと。Späth博士は空港のセキュリティエリアや学校、精神病院でも採用すべきだと提案しています。

ただ、スイスの元受刑者は「まるで『小さな女の子の寝室』のような牢屋に入れられるのは極めて屈辱的だった」と語ったということで、受刑者にとっていいことなのかという疑問が記事には書かれています。

私が感じた疑問は、刑務所にいる間は攻撃性が低下しても、刑務所を出たら元に戻るのではないかということです。そうであれば、看守がちょっと楽ができるだけのことで、たいした意味はありません。

ピンク色が人間の攻撃性を低下させるなら、むしろ刑務所以外での活用が本線でしょう。
記事には、空港のセキュリティエリア、学校、精神病院が例として挙げられていますが、方向性が間違っています。
とくに学校と精神病院を並べているところなど、この心理学博士の思想が心配です。
ミシェル・フーコーが刑務所、学校、病院、兵営、工場を一望監視施設として管理主義の観点から論じたことが想起されます。

攻撃性を低下させる必要のある人間は誰かというと、刑務所や学校の中にはいません。いるのはたとえばホワイトハウスです。
ホワイトハウスをピンクハウスにするべきです。建物の外観だけでなく内装もピンク色にします。
ロシアのクレムリンとか中国の国務院とかも同じです。
国家の指導者のいる場所をピンク色にすると、世界がより平和になります。

日本の場合は、国会議事堂内部が暗く古色蒼然とした雰囲気で、しかも絨毯が鬱血を想像させるような赤黒さで、議員の心理にも悪影響があるに違いありません。
内装をピンク色にするだけでなく、ガラス張りの明るい雰囲気で、中庭の緑が眺められるような建物にすれば、日本の政治もよくなるのではないでしょうか。

また、政治家などが使う公用車もたいていは黒塗りですが、これもピンク色にするべきです。

暴力的な映画は年齢制限がかけられて、子どもは見れないようになっていますが、これも方向性が違います。
暴力的な映画は政治家や国家の指導者にこそ見せないようにするべきです。
戦争映画はたいてい、主人公の側の軍隊が敵兵をバタバタと倒して勝利することになっていますが、国の指導者がこんなものを見て勘違いすると危険です。

ユネスコ憲章の前文には、「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」とありますが、ユネスコは教育の機関でもあるので、これは子どもの心に平和のとりでを築くという意味だと理解されています。
しかし、これも方向性が違います。子どもはおとなを手本にして成長するので、おとなを変えずに子どもだけ変えようとしてもうまくいきません。おとなを変えるべきです。


とはいえ、おとなを変えるのもたいへんなことです。
ホワイトハウスをピンクハウスにするのは、ネズミがネコの首に鈴をつけるのに似ています。
しかし、正しい方向性さえ認識していれば、少しずつでも世界をよくしていくことができます。

「平和」と「安全」は別の概念ですが、政治の世界では「安全」や「安全保障」という言葉が「平和」と同じような意味で使われています。
たとえば、防衛省のホームページの「わが国の安全保障」と題された文章の冒頭は、「平和と安全は、国民が安心して生活し、国が発展と繁栄を続けていく上で不可欠です」となっています。
「平和」と「安全」が同列になっています。
 
世界が平和なら自国も安全になります。そのため平和と安全が似た概念と思われるのかもしれません。
 
しかし、世界が戦争をしていても自国が安全だという場合があります。たとえば第二次世界大戦のときのスイスなどがそうです。これは安全保障政策としては成功したことになります。
 
戦争しながら自国が安全だという場合もあります。たとえば日清、日露、日中戦争をしていたときの日本がそうです。これも安全保障政策としては成功していたことになります。日本国民は兵隊以外、空襲にあうまで安全な生活を享受していました。
アメリカはアフガニスタン、イラクで戦争をしているとき、一部にテロはありましたが、自国は基本的に安全でした。
 
つまり安全と戦争は両立しうるのです。
いや、安全の追求が戦争を起こすといったほうがいいかもしれません。
 
昔の日本も、「満蒙は日本の生命線」などと言って海外で戦争をしたわけですし、アメリカはテロや大量破壊兵器からの安全を求めてアフガニスタンやイラクに攻め込んだわけです。
 
現在の日本では、敵基地攻撃能力を持つべきだという意見が一部にあります。もし日本が北朝鮮のミサイル基地を先制攻撃したら、自国の安全のために他国の安全を侵したことになります。

平和というのは相手とともに享受するものですが、安全というのは、相手の安全を侵して自分だけ安全になるということが可能です。
しかし、そのような利己的な振る舞いは、結局うまくいかないものです。
 
よく「一国平和主義」はだめだと言われますが、「一国平和主義」というのは言葉として矛盾しています。「一国安全主義」ないし「一国安全保障主義」というべきでしょう。
戒めるべきは「一国安全保障主義」です。
 
安倍首相は「積極的平和主義」という言葉を使いますが、これも「積極的安全保障主義」と言うべきでしょう。平和主義とは別物です。
 

終戦記念日が近づき、戦争と平和について考える季節になりました。
 
森友学園の幼稚園が園児に教育勅語を暗唱させ、軍歌を歌わせていたように、日本人の中にはまだ軍国主義時代に戻りたいと思っている人たちがいます。
一方に、憲法九条を守ることにこだわっている人たちがいます。
この両者は、角突き合っているうちに角がからまって身動きがとれなくなった二頭の雄鹿のようです。
どちらも過去にこだわっているので、未来志向の平和論が出てきません。
 
政治学では、平和とは「戦争が発生していない状態」という意味です。
これは「ローマの平和」という言葉があるように、「力の支配による平和」という意味でもあります。
 
しかし、私たちが普通に思う平和とは、「みんなが仲良くなって戦争が起こらない状態」のことです。
これは「真の平和」です。
 
世の中には「力の支配による平和」を目指している人と「真の平和」を目指している人がいて、両者の考える「平和」の意味が違うので、それを区別しないと議論が混乱します。
 
 
「力の支配による平和」よりは「真の平和」が好ましいのは当然で、私は「真の平和」はどうすれば実現できるかと考えてきました。
 
古代の戦争を研究する「戦争考古学」という分野があって、それによると戦争が行われるようになったのは農耕が始まってからで、狩猟採集社会では戦争と呼べるほどの争いはなかったということです。ですから、戦争は人類の本能というわけではありません。
このことはこのブログでも書きました。
 
戦争考古学のススメ
 
しかし、文化人類学によると、狩猟採集段階の未開社会ではけっこう部族間の争いがあって、ほとんど戦争と呼べるぐらいです。原始時代とはちょっと違うようです。
 
生物学によると、なわばりを持つ動物はつねになわばり争いをしています。各個体はつねに公平より少し利己的に振る舞うようにできているからです。ただ、なわばり争いはそれほど深刻にはなりません。
 
人間も本能レベルでは公平より少し利己的に振る舞うのは同じです。しかし、その振る舞い方は本能レベルにはとどまらず、どんどん激化していき、戦争をするようになったと考えられます。
 
みんなが仲良くなって争わないという「真の平和」は、限定的な場面では生じることがありますが、外部と交流したり、次の世代が生まれたりすると、崩れてしまいます。
「真の平和」という理想は長続きしないのです。
 
結局のところ、長続きする平和は、「力の支配による平和」ということになります。
昔の村でも、長老の裁定による村八分という秩序維持システムがありました。
今の社会には警察があって、それで個人の利己的な振る舞いを抑えて治安を維持しています。
国際社会もそれと同じはずです。
 
 
われわれは「真の平和」は当面諦めて、「力の支配による平和」を目指すしかありません(「真の平和」は人類がもっと知恵をつけた未来に実現するかもしれません)。
そうすると、アメリカに頼って、アメリカの力で平和を維持してもらおうということになりますが、これはよくありません。
なぜならアメリカもまた利己的に振る舞うからです。
「ローマの平和」といいますが、多くの人はローマ帝国に支配され、奴隷にされていたわけで、それと同じことになります。
 
アメリカであれ中国であれ、覇権国が世界を支配すると、支配される側は不幸です。
 
となると、民主的に運営される機関、つまり国連の力で世界を支配してもらおうという「国連中心主義」が正しいという平凡な結論になります。
 
 
ともかく、今の日本には、
「真の平和」を求める理想主義的な人、
アメリカの覇権を望む人、
国連中心主義の人、
の三種類の人がいると考えると、議論がわかりやすくなります。
 
ただ、アメリカの覇権を望む人は、自分の正体を隠そうとするのでやっかいですが、たいてい国連をバカにしたことを言うので見きわめられます。
 

アメリカがシリアの空軍施設をトマホークで攻撃したのは、アサド政権が化学兵器を使用したというのが理由です。
朝日新聞は化学兵器で被害にあった民間人の様子をやけに詳しく報道していますが、こういう報道を見ると、逆にあやしく思えてきます。アメリカが戦争を始めるときに謀略はつきもので、メディアもあやつられている可能性があるからです。
 
アサド政権が化学兵器を使ったのが事実だとしても、それがそれほどの“悪”かという問題があります。
大量破壊兵器とされるものには、核兵器と生物化学兵器の2種類があります。生物化学兵器は国際条約で禁止されていますが、核兵器は禁止されていません。核兵器禁止条約案が国連に提出されていますが、アメリカや日本が反対していて、採択のめどが立っていません。
 
化学兵器は容易につくれて大量殺人が可能なことから「貧者の核兵器」とも言われます。先進国は自分たちだけ核兵器を持って、途上国が「貧者の核兵器」を持つのは許さないわけです。
アメリカはアサド政権が化学兵器を使ったのはけしからんと言いながら、自分は核兵器を先に使う権利があると主張しています。
 
 
そもそも国際法というのは先進国に有利にできています。
 
残酷な兵器ということで最初に禁止が議論されたのはダムダム弾です。
ダムダム弾というのは、銃弾の先端に鉛を露出させたもので、体内で銃弾が砕けてダメージを大きくする効果があります。インドのダムダム兵工廠でつくられたのでこの名前があるそうです。最初はイギリス軍が植民地の反乱を鎮圧するために使いましたが、すぐに反乱軍も使うようになります。銃弾の先端に刻みを入れるだけでダムダム弾になるからです。

これは不必要な苦痛を与えるということで、1899年に採択されたハーグ陸戦条約で禁止されました。殺傷力の強い兵器はいっぱいあるのに、なぜこんな原始的なものが禁止されたかというと、これもまた“貧者の兵器”であるからです。
イギリスなど先進国の軍隊は機関銃や大砲などがありますが、植民地の反乱軍にはライフル銃ぐらいしかありません。ダムダム弾の禁止は先進国に有利です。
 
私の父親は元海軍士官で、やたら戦史に詳しい人でした。私は父親から「イギリス軍はダムダム弾に苦しめられたので禁止兵器にした」という話を聞いたことがあります。今回、ネットで調べてみると、「不必要な苦痛を与えるので禁止された」という記述があるだけで、先進国と後進国の関係に言及したものは見つかりませんでしたが、ダムダム弾禁止が先進国に有利な規定であることはまぎれもない事実です。
 
なお、ハーグ陸戦条約には、捕虜としての扱いを受けるには、遠くからでもわかりやすい特殊徽章をつけていなければならない(つまり実質軍服を着ていなければならない)という規定があり、必然的にゲリラやレジスタンスなどは除外されます。これも先進国に有利な規定です。
 
日本のメディアなどは、アサド政権が化学兵器を使用したと鬼の首を取ったように騒いでいます。しかし、シリア人権監視団によると、2011年3月から2016年9月までの内戦による死者の数は約30万人になり、今回のアサド政権軍による化学兵器攻撃による死者は100人程度です。
また、アメリカはハイテク兵器を駆使して多数の戦闘員と民間人を殺していて、ドローンを使った攻撃のように、自分は絶対安全地帯にいて敵だけ殺すということも行われています。これは非難されなくて、化学兵器攻撃だけ非難されるのは果たして公平でしょうか。
 
化学兵器使用は国際法違反だと非難されていますが、今の国際法こそがテロや内戦を生む元凶かもしれません。

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