村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

カテゴリ: 映画評

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「1917 命をかけた伝令」(サム・メンデス監督)を観ました。

「全編を通してワンカットに見える映像」が売りで、確かにそれはすごいのですが、それだけではありません。戦争映画としての新機軸がいくつもあります。

サム・メンデス監督といえば、「アメリカン・ビューティー」が衝撃的でした。アメリカ社会の病理を深く描きつつ、同時にじゅうぶんにおもしろい映画になっていました。
メンデス監督は「007 スカイフォール」なども撮っていて、そういうエンターテインメント性もあるし、イギリスの舞台演出でも実績のある人なので芸術性もあるということで、両面できるのが強みです。


第一次世界大戦下、二人のイギリス兵に重要な伝令の任務が与えられ、二人は敵中を横断して、その二日間にさまざまなことがあるという物語です。
物語としてはきわめて単純です。意外な展開があるということはありません。
ただ、敵中といっても敵は撤退したあとなので、緊張の連続というわけではなく、いろいろな人との出会いもあります。

この映画の見どころは、一言でいえば「戦場の臨場感」です。

まず美術スタッフの力がすごくて、たとえば塹壕とか、敵が撤退したあとの砲兵陣地とか、戦場に放置された死体とかがひじょうによくできています。
それがワンカットでずっと続いていくと、自分もそこにいるような気分になってきます。
ストーリーにひねりはなくても、次になにが起こるかわからない戦場の緊迫感があるので、引き込まれてしまいます。


それから、人間の描き方が類型的ではありません。
これまで戦争映画というと、英雄的な兵士、鬼軍曹、理不尽な上官、未熟な補充兵、乱暴者、ひょうきん者といった類型ばかりでした。
敵と味方の描き方も違います。ですから、バタバタと敵を殺すシーンを見ても、罪悪感を感じることはありません。
ところが、この映画に出てくるのは、“普通の人間”ばかりです。
敵兵の出てくるシーンはそれほど多くありませんが、敵兵も“普通の人間”なので、主人公が敵兵を殺すシーンを見ると、「人を殺した」という実感があって、ショッキングです。


戦争映画というのは、つくり手の価値観が強く反映されます。
英雄的な兵士を讃えたいとか、国の誇りを描きたいとか、あるいは戦争の悲惨さを訴えたいとか、戦争指導者の愚かさを描きたいといった“志”が必ずあるものです。つまり戦争映画というのは、戦争賛美映画か反戦映画かのどちらかです。
スピルバーグ監督の「プライベート・ライアン」は、戦争の悲惨さをリアルに描いたと評価されていますが、基本は兵士の勇敢さを讃える映画です。

つくり手が“志”を持つと、見方が偏ってしまい、戦争の全体像が見えてきません。
この映画はそうした偏見を極力排したことで、「戦場の臨場感」が体感できる映画になりました。


また、この映画には“死”が描かれます。
映画や小説というのは、死をより悲劇的に描こうとするもので、たとえば最愛の恋人が白血病になるとか、肉親が末期がんになるといった物語を量産してきました。
戦場の死の場合は、強い友情で結ばれた戦友の死がいちばん悲劇的ですから、そうした物語になりがちです。

ところが、この映画はその点でも画期的です。
二人の伝令兵は、命令を受けたときたまたまその場にいたために、いっしょに任務につくことになります。とくに親しかったわけでないことが、二人の会話でわかります。
ですから、その死は肉親の死でも恋人の死でも特別な戦友の死でもない、“普通の死”です。
特別な友情はなく、たった一日行動をともにしただけの関係でも、死というものがいかに重いかがわかります。


塹壕戦の映画というと、どうしても画面が暗くなりがちですが、この映画は明るくて、色彩的にも鮮やかです。平原を見渡すシーンも多く、爽快感もあります。


この映画を観ると、これまでの戦争映画がいかに偏見にとらわれていたかがわかります。
戦場や死を臨場感をもって体験できる価値ある映画です。

パラサイト


「パラサイト 半地下の家族」(ポン・ジュノ監督)を観ました。
カンヌ映画祭でパルムドールを受賞、アカデミー賞では作品賞など6部門でノミネートされている注目作です。

キム・ギテク(ソン・ガンホ)の一家は貧民街の半地下の家に住んでいます。窓のすぐ外で立ち小便する男がいたりと、衛生状態も劣悪です。父親は失業中、息子のギウと娘のギジョンも浪人中で、まったく先が見えません。
そうしたところ、ギウが友人から家庭教師の仕事を紹介されます。紹介された家は有名建築家の建てた豪邸で、父親は金持ちのIT社長、母親は美人、大学受験の娘と小学生の息子がいます。
まったく対照的なふたつの家族の物語です。

ギウは文書を偽造して大学生と偽り、母親の信頼を得て娘の家庭教師になります。そして、小学生の息子が絵を描いているのを見て、妹の経歴を偽らせて、美術の家庭教師として紹介します。ギウとギジョンは家庭教師として金持ちの家に出入りするうちに、あくどいやり方で家政婦と運転手を辞めさせ、代わりに自分の母親と父親を、やはり経歴を偽らせて家政婦と運転手として雇わせます。キムの一家は互いに他人のふりをして、金持ちの一家に入り込んだわけです。
ここまでが前半で、このあと予想外の展開になっていきます。

いろんな出来事が次々と起こって、退屈するということがありません。ずっとジェットコースターに乗っている気分です。詰め込みすぎともいえます。じわじわと盛り上がってクライマックスに至るという物語ではありません。

笑える場面がいっぱいあります。しかし、周りの観客は誰も笑っていませんでした。日本人の映画の観方に問題があるかもしれません。


貧乏一家と金持ち一家を描くことで、おのずと韓国の格差社会があぶりだされます。
ただ、人間の描き方が常識とまったく逆です。
ギウとギジョンは罪もない家政婦と運転手をきたない手を使って追い出します。それに四人全員が経歴を偽っています。
つまり貧乏一家は悪人です。
一方、金持ち一家のほうは、父親も母親も善人で、紳士的な教養人です。子どもも普通に子どもらしくて、“金持ちの子ども”のいやらしさがありません。

だいたいエンターテインメントの物語では、金持ちは高慢で、横柄で、つまり悪人として描かれ、貧乏人は善人として描かれるものです。
この映画は逆ですが、観客は悪人の貧乏一家の側に感情移入して観ることになります。
もちろんそちら側の視点で描かれるからですが、それだけではありません。やはり韓国の格差社会の深刻さが背景にあるからです。

ヤクザ、ギャング、殺し屋、詐欺師などを主人公にした映画はいっぱいありますが、彼らは犯罪はしても弱い者いじめはしません。弱い者いじめをする人間に観客は感情移入することはできないのです。
キム一家は罪もない家政婦と運転手をきたない手で追い出しますが、弱い者いじめにはなりません。キム一家のほうがもっと弱い立場だからです。


格差社会といえば、この前観た「ジョーカー」(トッド・フィリップス監督)はアメリカの格差社会を背景にしていました。
「ジョーカー」はアカデミー賞の11部門にノミネートされていて、今は格差社会を描く映画がトレンドのようです。

しかし、同じ格差社会を描いても「ジョーカー」と「パラサイト」ではかなりの違いがあります。
「ジョーカー」では、格差社会に押しつぶされた主人公が最後は一人で立ち上がります。「パラサイト」では、一貫して家族の絆が描かれます。
また、「ジョーカー」では正義と悪の構図になっていますが、「パラサイト」では善と悪はあっても正義はありません。
このあたりにアメリカと韓国の価値観の違いが出ています。

テレビの「水戸黄門」は、単純な正義と悪の物語でした。出てくる善人はつねに貧乏ですが、これは封建的身分制度の問題ですから、格差社会の問題ではありません。ですから、単純に楽しむことができました。

社会主義思想の物語では、資本家は悪、労働者は善、革命家は正義という図式でした。これを信じれば希望はあります。

「パラサイト」には正義が出てきませんし、格差社会が解決するという希望もありません。
個人が貧乏から成り上がることが唯一の希望ですが、それはあまりにもはかない希望です。

格差社会が深刻化すると、エンターテインメントの映画もむずかしくなってきます。

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「アナと雪の女王2」(字幕版)を観ました。

前作の「アナと雪の女王」では、エルサがなぜすべてのものを凍らせる魔法の力を持っているかの説明がまったくなく、両親が突然船の難破で死んでしまうのも不可解でした。そうした疑問に答える作品です。

前作は2014年の公開で、「王子さまのキスでお姫さまが救われる」という伝統的な物語の枠組みを壊し、お姫さまが自力で問題解決をするという点が画期的でしたが、もうひとつ画期的だったのは、親子関係の描き方です。
エルサは生まれつき魔法の力を持っていましたが、両親はその力を抑え込もうとし、手袋をつけさせ、部屋に閉じ込めます。エルサにとって両親は、自分の個性を否定する毒親です。その毒親が死んで、エルサは妹のアナの助けを得て、自己肯定に至るという物語になっています。
私は物語の最後で、「ご両親はエルサのためを思ってきびしくなさったのよ」みたいな展開になるのかと思いましたが、そういうのはいっさいなく、両親は最後まで無視されたままでした。
子ども向けの物語で、継母を否定的に描くのはありましたが、実の親を否定的に描いたのは初めてではないでしょうか。

そういうことから、続編で親はどう描かれるのかが気になりました。


全体的な印象を言うと、絵がひじょうに進歩しました。技術的なことだけでなく、芸術的というか、見て楽しいものになっています。
音楽も、まあいいのではないでしょうか。
前作の主な登場人物がそろって出てくるのも、前作のファンにはうれしいでしょう。

ストーリーに少し難点があります。いろんな要素を詰め込みすぎて、ストーリーの軸が見えにくくなっているのです。
レビューを見ても、よくわかっていない人が多いようです。
そこで、テーマがよくわかるように説明したいと思います。
いくらかネタバレになりますが、あらかじめ知っておいたほうが作品を楽しめるかもしれません。


アレンデール王国で、アナやエルサは平穏に暮らしていましたが、エルサは謎の歌声を聞くようになります。歌声が聞こえてくるのは、ノーサルドラの森からです。
この森ではかつて王国の軍隊と先住民とが戦ったことがありましたが、今は不思議な霧におおわれて、人間が入れなくなっています。
アナ、エルサ、山男のクリストフ、トナカイのスヴェン、雪だるまのオラフは、歌声のもとをたずねて旅に出て、エルサの力によって霧に閉ざされた森の中に入っていきます。
そうすると、森の中では王国の軍隊と先住民とがいまだに戦っていました。
つまり過去がそのまま封じ込められているのです。
また、森の中には王国がつくった大きなダムがあります。一応石造りですが、近代的なダムの形をしています。
こういうファンタジーの中にダムが出てくるのはかなり違和感があります。
さらに、火の精霊や風の精霊や地の精霊も出てきます。

アナたちは森の中で難破船を発見します。両親が乗っていた船です。船の中に地図があり、アナたちはそれを頼りに過去の秘密にたどり着きます。
詳しくは書きませんが、「罪もない者を殺した」という言葉が出てきます。

そして、「過去の過ちを正さなければ未来はない」という言葉も出てきます。これがこの映画の重要なポイントです。
つまり歴史修正主義との戦いです。


アレンデール王国は先住民の土地を奪い、ダムをつくって自然破壊をします。
一方、先住民は水の精霊、火の精霊などのいるアニミズムの世界に生きています。
アメリカ人は、この物語にインディアンを殺して土地を奪ったアメリカの歴史を見るでしょう。

これはケビン・コスナー監督・主演の「ダンス・ウィズ・ウルブズ」やジェームズ・キャメロン監督の「アバター」と同系列の映画です。
文明人が先住民や自然と触れ合うことで文明の悪に気づく物語です。

結局、アナたちの両親はまったく正当化されません。むしろその罪があばかれます(正確には祖父の罪です)。
こういう親子関係の描き方は、前作に続いてやはり画期的なものです。


前作は雪と氷の物語でした。
ですから、今作は水と火と風と地の物語にしようと制作陣は考えたのではないでしょうか。そのため焦点が定まらなくなってしまいました。
文明対自然、文明人対先住民というのが中心のテーマだと見なすと、わかりやすくなります。
そこに歴史修正主義との戦いも盛り込まれています。

最近のディズニー映画は実に挑戦的です。

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トッド・フィリップス監督の「ジョーカー」を観ました。
ベネチア国際映画祭で金獅子賞をとったこともあって世界的に大ヒット中です。
この一本の中に、アメリカや日本などの先進国が今直面している問題のほとんどが詰め込まれているという意欲作で、金獅子賞を取ったのも納得です。

「バットマン」シリーズでバットマンの敵役であるジョーカーがいかにしてジョーカーになったかという物語です。
バットマンは出てきませんし、ハリウッド映画らしいアクションシーンもほとんどありません。
舞台のゴッサムシティは、ちょっと前のニューヨークという感じです。インターネットはありませんが、テレビの人気トークショーがそれに代わる役割を果たしています。

主人公のアーサー(ホアキン・フェニックス)は、ピエロを演じて生活の糧を稼ぎ、将来はコメディアンを目指しています。しかし、彼には脳の障害で笑い出すとなかなか止まらないという症状があり、悪ガキにいじめられたり、やることなすことうまくいきません。母親と二人の生活は貧しく、母親は昔家政婦として働いていた金持ちの家の主人に金銭的援助を頼む手紙を何度も出しています。彼は同じアパートに住むシングルマザーの黒人女性に思いを寄せますが、ストーカー行為をしてしまいます。

希望のない生活と、主人公の不安定な精神状態と、ニューヨークらしい街から、 マーティン・スコセッシ監督の「タクシードライバー」を連想します。それは監督の狙いでもあって、ロバート・デ・ニーロが重要な役で登場することからもわかります。

主人公の希望のない生活を描写するシーンが続くと、観ていてうんざりしそうなものですが、表現するべきことを的確に押さえていて、ホアキン・フェニックスの演技も素晴らしいので、引き込まれます。
ただ、ここについていけない人もいるでしょう。映画評を見ると、賛否がかなり分かれます。

母親が金持ちの家に出していた手紙を読んだことから、アーサーの出生の秘密がわかり、幼児虐待を受けていたこともわかります(脳の障害もそれが原因?)。
彼は福祉制度からカウンセリングと薬の支援を受けていましたが、予算が削られて支援は打ち切りになります。仕事でヘマをして、芸能事務所をクビになり、さらに母親が病に倒れて入院します。

ゴッサムシティはひどい格差社会です。アーサーはそこから這い上がれず、犯罪に手を染めます。

「タクシードライバー」の主人公は最後まで孤独でした。
しかし、アーサーの犯罪は格差社会で苦しむ人々の喝さいを浴び、彼はヒーローになります。
ここに格差社会の深刻化がうかがえます。また、「タクシードライバー」の主人公の過去はまったく描かれませんが、こちらは幼児虐待の過去があったことが描かれ、時代による人間観の変化もうかがえます。


この映画がアメリカで公開されたとき、ニューヨークでは犯罪を警戒して市内全域の映画館に警官が配置されたというニュースがありました。そのときは意味がわかりませんでしたが、映画を観ると納得できます。

このシリーズの最初の作品である「バットマン」(ティム・バートン監督)では、主人公のバットマン(マイケル・キートン)はくよくよと悩む屈折した男で、悪役のジョーカー(ジャック・ニコルソン)は底抜けに陽気な男です。ゴッサムシティはきわめてダークな雰囲気で、まるで悪の都市です。正義と悪が逆転したかのような描き方が、今回の「ジョーカー」につながっています。

今の世の中では、凶悪犯罪が起こると、犯人は徹底的に非難されます。しかし、ちゃんと調査すると、犯人はアーサーのように幼児期に虐待され、脳に障害を負っていることがわかるはずです。
池田小事件の宅間守や秋葉原通り魔事件の加藤智大の視点で見た世界を描いた映画とも言えます。
その意味で犯罪を肯定する映画ともとれ、公開に反対する声があったことも理解できますが、「善人なおもて往生す。いわんや悪人をや」を具現化しただけとも言えます。

しかし、この映画はそんなに重くなりません。
トッド・フィリップス監督は「ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い」などのコメディ映画を撮ってきた監督です。この映画でも、チャップリンの映画の一シーンが挿入され、エンディングシーンもコメディタッチで、コメディ映画を撮ってきた監督の心意気が示されます。

トッド・フィリップス監督は「凶悪な犯罪と格差社会を描くコメディ映画」という新機軸に挑戦して、みごとに成功しました。

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映画「バイス」(アダム・マッケイ監督)を観ました。
 
息子ブッシュ大統領のもとで副大統領を務めたディック・チェイニーを描いた映画です。
クリスチャン・ベイルがチェイニーの20代のころから70歳ぐらいまでを演じていますが、特殊メイクがすごくて、ほんとうにその年齢に見えます。
ブッシュ大統領を演じたサム・ロックウェルはブッシュ大統領にそっくりで、よくこんなそっくりな俳優を見つけてきたなあと思いましたが、これも特殊メイクを使っていたのでしょう。
 
今も存命の実在の人物を批判的に描いているので、訴えられないように徹底的に事実にこだわったのでしょう。それがおもしろいと同時に、物足りないところでもあります。
たとえば、20代のチェイニーは大学を中退して田舎で電気工をしていて、飲酒運転で警察に逮捕されます。のちに結婚する恋人リンに「私が見込んだのはこんな男じゃない。このままだと別れる」と泣かれ、そこから一念発起して大学に入り直し、政治の道に入ってどんどん頭角を現していきます。
そのときどのように心を入れ替えたのかを知りたいところですが、それは描かれません。わかったことだけが描かれているからでしょう。
 
映画というのはストーリーの流れが中心にあるものですが、この映画では事実がレンガのようにいっぱいあり、それがうまくつながっていません。ただ、ひとつひとつの事実がおもしろく、観客は自分なりに頭の中でそれをつないで観ていくことになります。
 
.11テロのあと、イラク戦争へ突き進んでいくところが見どころです。ありもしない大量破壊兵器をあることにし、ありもしないイラクとアルカイダの関係をあることにします。なにも考えていないブッシュをチェイニーがあやつります。パウエル国務長官は国連でイラクは大量破壊兵器を持っていると不本意な演説をします。イラク戦争でチェイニーが大株主である石油会社ハリバートンは大儲けします。それらのことは当時の報道からもだいたいわかっていましたが、はっきり示されるとやはり衝撃的です。
 
妻のリンはすごく優秀な女性ですが、当時のアメリカでは女性が社会的に活躍する道はほとんどないので、チェイニーを成功させることで自分も成功を手にしようとします。
チェイニーの娘は同性愛であることをカミングアウトします。これはチェイニーの保守主義と相容れませんが、チェイニーは受け入れます。
こうしたことをチェイニーがどう思っていたのか、よくわかりません。しかし、保守主義の矛盾が浮き彫りになります。
 
マイケル・ムーア監督の映画のように笑えるシーンがいくつもあり、コメディ映画だともいえます。しかし、映画館では笑い声は起きませんでした。アメリカの愚行は世界にとって深刻なことですから、笑う気になれません。
マイケル・ムーア監督の映画はドキュメンタリーですが、この映画はそれをドラマ仕立てにしたともいえます。
 
チェイニーは何度も心臓発作を起こし、心臓移植手術を受けます。検索してみると、手術は71歳のときでした。71歳の老人が心臓移植手術を受けるには、かなりの金と権力を使ったのでしょう。
 
この映画を観ると、アメリカの政治がいかに金と権力によって動いているかがわかります。
日本の政治も基本的に同じでしょうが、レベルが違います。
 
小泉首相はイラク戦争のとき、自衛隊をサマワに派遣しました。国連とは関係なく、占領軍の一員として行ったので、まさに他国の領土を軍靴で踏みにじったわけです。
イラクに大量破壊兵器がなかったことで、自衛隊のサマワ派遣は日本の歴史の汚点になりました。
しかし、大方の日本人は、「アメリカが間違ったのだから、日本の責任ではない」という感覚でしょう。独立国としての意識に欠けています。これではアメリカに対抗できませんし、辺野古移設問題が解決できないのもわかります。
 
アダム・マッケイ監督が脚本も書いています。よく事実を調べた上で物語にしたなあと感心します。俳優の演技も素晴らしく、きわめて完成度の高い映画です。
 
トランプ大統領のようなおかしな大統領が出現したのも、この映画を観ると納得できます。

中島哲也監督の「来る」を観ました。
 
中島哲也監督というと、最初に「下妻物語」を観て、こんな映画の撮り方があるのかと、不思議なおもしろさに魅了され、それから注目しています。
今回の「来る」は、予告編の映像が半端ないので、おもしろいに違いないと思いました。
 
観始めて30分ぐらいまでは、俳優の演技が嘘っぽくて、演出も空回りしている感じがして、この映画は外れだったかと思いました。
しかし、それは登場人物がいつわりの人生を生きているからなのでした。
 
田原秀樹(妻夫木聡)はそこそこの会社に勤めるサラリーマンで、香奈(黒木華)と結婚し、祝福してくれる友人もたくさんいて、子どもができると子育てブログを始め、自分のイクメンぶりと幸せな家族のあり方をブログに書き綴ります。いかにも幸せそうな生活です。
しかし、実際は妻には冷たく、子どもの世話もせず、ブログに書かれているのは嘘ばかりです。友だちともうわべだけのつきあいです。
ですから、演技が嘘っぽく見えたのは当然です。田原は“幸せ芝居”を演じていたのです(とはいえ、一時的にせよつまらない感じがするのは作品としてマイナスです)
 
今の世の中、ママタレなど幸せな家庭生活をブログに書く人がいっぱいいますが、あれはほんとうのことかと誰もが疑問に思うでしょう。この作品はその裏側を描いているので、実に現代的です。
 
“幸せ芝居”が崩壊していくのは、それ自体がホラーです。
 
そのような家庭生活や人間関係が物語のひとつの軸で、もうひとつの軸になるのが田原の故郷に伝わる物の怪です。
田原はなにかにとりつかれ、身の回りで怪しいことが起こるので、友人の民俗学者、霊能力のあるキャバ嬢、オカルトライターなどの協力を得て立ち向かいます。
この物の怪は、原作では民俗学的な意味づけがあるのかもしれませんが、映画ではあまり描かれません。どうやって退治するかも、結局霊能力に頼るだけですから、物語としてはイマイチです。
ただ、スプラッターシーンもふんだんにあり、除霊の仕方も大がかりなので、ホラー映画としてもかなりの水準です。
 
なお、原作は日本ホラー小説大賞の「ぼぎわんが、来る」(澤村伊智著)で、ホラー小説として高く評価されています。
 
この作品のおもしろさは、もうひとつの軸の人間関係のほうでしょう。
田原の“幸せ芝居”が崩壊したあと、香奈は娘とともに“現実の幸せ”を目指しますが、シングルマザーの生活はきびしく、自分はろくでもない母親に育てられたので娘との関係もうまくいかず、結局“現実の幸せ”のほうも崩壊していきます。
 
霊能者のキャバ嬢(小松菜奈)も、実はたいした霊能力がなく、本物の霊能者の姉(松たか子)の真似をしているだけです。結局、除霊を中心になってするのは姉です。
 
オカルトライターの野崎(岡田准一)も、子どもをつくって家族を持つということができない人間です。
 
このように書くと、ずいぶんと暗い話のようですが、最終的に家族の崩壊と再生が描かれることになります。
また、テレビで見慣れた柴田理恵、伊集院光が出ていることも安心感につながって、うまいキャスティングだと思いました。
 
ホラーのいいところは、人間の暗部を描いてエンターテインメントにできるところです。この映画はそのホラーのよさが遺憾なく発揮されています。

「華氏119(マイケル・ムーア監督)を観ました。
トランプ大統領を描いた映画というよりも「トランプ時代のアメリカ」を描いた映画です。
日本のマスコミだけではわからないアメリカの姿が見えてきます。
 
たとえばミシガン州フリント市の水道水が鉛汚染され、子どもたちに重大な健康被害が及んでいるという問題。これは行政によって隠蔽され、まるで日本の水俣病みたいです。ここは黒人の多い貧困地域のため、放置されてきました。オバマ政権でも解決しなかったのです。
 
また、2016年の民主党予備選ではヒラリー・クリントン候補とバニー・サンダース候補が最後までデッド・ヒートを演じましたが、サンダース候補は民主党の不正により代議員票が獲得できず、敗北します。これによりサンダース候補支持者たちの多くは大統領選で棄権しました。
 
トランプ勝利には民主党側にも問題があったということです。
 
トランプ大統領への批判にはそれほど時間を割いていません。おらそくムーア監督が今さらする必要もないぐらいに批判されているからでしょう。
ただ、トランプ氏が娘のイバンカにキスしたり体に触ったり、性的な関心を示す目で見つめたりという近親相姦的シーンを集めたところは、いかにもムーア監督らしいところです。一般のメディアにはできないでしょう。
実の娘に性的関心を示すとは、もっとも忌み嫌われる行為ですが、トランプ氏の場合はほとんどマイナスになっていません。むしろ支持者は、美人の妻と娘に恵まれてうらやましいといった反応を示しているのではないでしょうか。
ただ、こうしたトランプ氏の人間像にはあまり切り込んでいきません。
 
ムーア監督が力を入れたのは、アメリカにとっての希望の方向を示すことです。
 
たとえば、ウエストバージニア州の教員はきわめて低い給与水準にあったということで、大規模な教員ストライキが起こりました。ストライキはSNSなどを通して拡大し、最後には勝利しました。
高校での銃乱射事件をきっかけに、高校生が先頭に立って銃規制を求める運動を展開するようになりました。
また、中間選挙では女性やマイノリティの候補が多く立って、支持を集めました。
 
これらを見ていると、アメリカの分断の構図が見えてきます。
アメリカ独立宣言では基本的人権がうたわれましたが、先住民にも黒人にも人権はなく、また選挙権は成人男性だけでしたから、女性と子どもにも人権はなかったことになります。
つまり建国のときから白人成年男性VS女性・子ども・黒人・先住民という分断があったのです。
トランプの支持者は白人男性が中心です。
今も白人成年男性VS女性・子ども・マイノリティという分断の構図が続いていることになります。
 
また、教員ストライキやサンダース旋風のもとにあるのは「社会主義」です。
最近アメリカでは若い世代を中心に社会主義の人気が高まっているということです。昔は「アメリカ=反共」と決まったものでしたが、そういう図式は成り立たなくなっています。
アメリカは冷戦に勝利し、世界に対立の構図はなくなりましたが、アメリカ国内に資本主義対社会主義という対立の構図が移し替えられたわけです。
 
日本のマスコミは、トランプ支持層であるラストベルトの白人ばかりを取り上げます。
しかし、彼らは現状への不満を移民やマイノリティにぶつけ、保護貿易に守ってもらおうとしています。今後、衰退していく一方でしょう。
トランプ政権はつねに支持率よりも不支持率のほうが上回っています。反トランプ派の動向のほうが重要です。

この映画には、いつものムーア監督の痛快な切れ味はないので、おもしろさを期待すると今一歩かもしれません。
しかし、アメリカの現在の姿がわかるという点で、やはり一見の価値があります。

アニメ「この世界の片隅に」(片淵須直監督)を観て、これは今年のベスト1だと思いましたが、そのあとじわじわと感動の波がきて、これは五年に一度か、もしかして十年に一度の傑作かもしれないと思うようになりました。
このようにあとから効いてくる映画はめったにありません。
 
どうして感動するのかについていろいろ考えました。ネタバレにならないように、ふたつの点について書いてみます。
 
 
この作品の魅力はまず、時代考証がすごくて、戦時下の生活がリアルに描かれていることです。食糧難、配給制、隣組、空襲など、知識としてはわかっているつもりでしたが、主人公の体験として描かれると、「ああ、そうだったのか」と、いちいち納得させられます。
 
と同時に、それまでの知識は偏っていたなということも感じさせられます。
たとえば空襲というと、町が火の海になって命からがら逃げた、死体をいっぱい見た、グラマンの機銃掃射を受けて隣にいた人が死んだ、というようなことばかりです。「火垂るの墓」も「はだしのゲン」も基本的にそういうものです。しかし、それらはみな極限状態で、めったにないことです。日常的にあるのは「自分のところに爆弾が落ちてこない空襲」です。
 
主人公すずの住んでいる呉は軍港のある町であり、米軍の空襲が頻発します。米軍機が接近してくると、高射砲の発射音、空中での炸裂音がドカン、ドカンと響き、空に弾幕が広がり、高射砲弾の破片がバラバラと降ってきます。空襲とはこういうことかと体験した気持ちになります。
 
高射砲弾が炸裂した煙が色とりどりに描かれるシーンがあり、「あれ?」と思いましたが、のちに軍オタの人が書いたレビューを読むと、日本軍は高射砲弾の煙に色をつけていたので正しく考証ができているということでした(どの高射砲から撃った弾かを識別して、弾道を修正するためです)
 
リアルな描写を見て、私も亡き父親の言っていたことを思い出しました。
私の父親は海軍の技術将校で、呉と横須賀に勤務したということです。原爆の話は聞いたことがないので、戦争末期は横須賀だったのでしょう。空襲のときに空を見ていると、高射砲弾が米軍機の後ろでばかり炸裂していて、なんでもっと前を狙って撃たないのかと思ったという話をしていました。
中学生ぐらいだった私は、高射砲は米軍機の進む先を狙って撃っているはずで、そんなバカなことはないだろうと反論したのを覚えています。
しかし、実際はそういう間抜けな光景があったのでしょう。
 
ちなみに父親は、戦争中は毎日ビールを飲んでいたと言っていました。戦争中に苦労したという話は聞いたことがありません。むしろいい目をしていたのでしょう。戦争体験といっても人によってさまざまです。
 
戦時下の庶民の生活というと、竹やり訓練、バケツリレー、勤労動員といったことばかり取り上げられますが、それはごく一部でしかなく、この映画を観ていると、そうした認識の偏りが訂正され、当時の生活の全体像が見えてきます。
それがこの作品の大きな魅力ですし、多くの人に見てほしいと思うゆえんです。
 
 
作品の最後のころになると、主人公すずも身近な人を亡くし、自身も大きな苦難に見舞われます(ネタバレにならないよう微妙な書き方になっています)。
こういうとき、主人公は努力して苦難を克服し、その姿に観客は感動するというのが物語の常道です。
しかし、この作品では、すずは苦難を克服しません。少なくともそこまでは描かれません。ただ苦難を受け止めるだけです。
これがこの作品の感動の深さではないかと思いました。
 
この反対がいわゆる「感動ポルノ」です。
障害や難病を負った人が努力して障害や難病を克服する姿をメディアが描いて感動を呼ぶというのが「感動ポルノ」です。
 
「障害を克服した障害者」は健常者と同じですから、健常者のフィールドに迎え入れられます。
しかし、「障害を克服した障害者」などというのはフィクションでしかありません。
だから「感動ポルノ」と呼ばれるわけです。
 
「障害を克服した障害者」の姿に感動する人は、障害者差別の感情を持っているに違いなく、その感動は偽物と言わざるをえません。
 
すずは大きな苦難を背負ってしまいますが、克服はせず、ただ受け入れています。
しかし、受け入れているところに人間の強さがあり、そこに本物の感動があります。
 
つけ加えると、その強さは、周りの人間の絆や、育ててくれた両親の愛があったからこそと思われます。
 
「この世界の片隅に」は、いろいろなことを考えさせてくれるすばらしい作品でした。

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「この世界の片隅に」を観ました。
上映館数が少ないにも関わらず公開第1週も第2週も興行成績ベスト10入りしています。私は平日の昼間に観ましたが、最前列にわずかの空席があるだけで、ほぼ満席でした。
 
今年の邦画は「シン・ゴジラ」「君の名は。」とヒット作に恵まれ、私はそれらも観ましたが、「この世界の片隅に」がナンバー1だと思います。
 
こうの史代のマンガを片渕須直監督がアニメ化した作品です。私は原作のマンガも知りませんし、この映画のことも公開直前まで知りませんでした。
普通、公開前には監督や声優がメディアに露出してプロモーションをしますが、テレビ局は一部の地方局を除いてまったくこの作品を取り上げませんでした。映画評論家などの評価はひじょうに高いのに、主人公役の声優はのん(能年玲奈)さんで、のんさんが辞めた芸能事務所が大手のバーニング系列だったため、バーニングの圧力でテレビ局は取り上げないのだという情報がありました。
それで興味を持ってヤフー映画のレビューを見てみると、ほとんどの人が星5つをつけて絶賛しています。
 
しかし、そうなるとまた疑いが芽生えます。「この世界の片隅に」はクラウドファンディングで資金を集めたので、たくさんの出資者がいます(エンドロールの最後に個人名がずら~と流れます)。出資者はネットで“工作活動”をする動機があります。
しかし、コピペみたいな書き込みではなく、それぞれ個人的な感想を書いていると判断して観にいったら、思った通り傑作でした(今回は当たりでしたが、今後クラウドファンディングで資金を集めた映画の評判には注意しないといけないかもしれません)
 
なお、のんさんの声優ぶりは素晴らしく、声優がほかの誰であっても、この映画の感動は何割か減じていたに違いありません。
こういう才能ある人が自由に芸能活動できないとは、まったく不当なことです。
 
戦争中、広島から呉へ18歳でお嫁に行ったすずという女性の日常生活が淡々と描かれるアニメです。
ストーリーの説明やこのアニメのよさについてはすでに語られていますし、ネタバレになってはいけないので、私はちょっと角度を変えて書いてみたいと思います。
 
 
今年ヒットした「シン・ゴジラ」は、いわば東日本大震災と原発事故の映画です。あのときああやっておけばあんなひどい事故にならなかったのにという悔しさはいまだにみんな持っていると思いますが、「シン・ゴジラ」を観ると、原発事故を追体験することでその悔しさが癒されます。
「君の名は。」は東日本大震災と津波被害の映画です。あのときみんな高台に逃げていれば津波の犠牲者の数は少なくてすんだのにという悔しさが、この映画を観ることで癒されます(未来に起こる災害から人を救おうとするストーリです)
そういう意味で、このふたつの映画が大ヒットしたのはよくわかります。
 
で、「この世界の片隅に」は、戦争と原爆の映画です。観ると戦争と原爆が追体験できます。それがやはりヒットしている理由でしょう。
 
普通、フィクションには「戦争反対」とか「命のたいせつさ」とかの訴えたいことがあって、それを最大限に訴えられるようにストーリーが構成されるものですが、「この世界の片隅に」のストーリーにはドラマチックなものがなにもありません。クライマックスも、あえて言えば「この世界の片隅に」という言葉が語られるシーンがそれでしょうが、クライマックスと言えるほど盛り上がるわけではありません。
 
それでもおもしろいのは、戦時中の生活が実に丹念に描かれることと、すずの周りに何重もの人間の絆があることが描かれるからでしょう。
 
あの大震災のときも“絆”ということが強調されましたが、わざとらしい言葉だとして反発する向きもありました。「この世界の片隅に」では、すずの実家の両親と兄、近所の人、幼なじみとの絆が嫁に行ってからも切れませんし、嫁ぎ先でも夫、義両親、出戻りの義姉とその子ども、近所の人、たまたま迷い込んだ遊郭の女性などとの絆が当たり前に描かれます。
 
それから、最近の映画の常道の物語は、「夢を持って努力する主人公が困難に打ち勝ち夢を叶える」というものですが、この映画にはそういう「夢を持って努力する人間」というのは出てきません。すずは絵を描くのが好きで、子どものころ展覧会で入賞したこともあるのですが、絵描きになりたいという夢があるわけではありません。周りの人間も、生活していける職があればいいという感じです。
 
つまりこの映画は、ドラマチックなストーリーもなく、普通の人間ばかりが出てくる映画です。それがかえって感動に深みを与えています(これは原作の力なのでしょう)
 
それにしても、今の時代は“絆”が強調され、“夢を持って努力する”ことのたいせつさが強調されますが、どうも人間観が薄っぺらになっている気がします(努力しない人間は貧乏になってもしかたがないという冷酷な価値観も広がっています)
 
 
原発事故を追体験できる「シン・ゴジラ」と、津波被害が追体験できる「君の名は。」は、大震災を経験した日本人にとって国民映画ともいえるものです。
そして、戦争と原爆を追体験できる「この世界の片隅に」も国民映画になるべきものです。
 
もっとも、「シン・ゴジラ」と「君の名は。」を観ると、しきりに大震災の過去が思い出されますが、「この世界の片隅に」を観ていると、未来に起こることを見ているような気になります。



【追記】
この映画評の続きを次に書きました。
『感動ポルノの逆を行く「この世界の片隅に」』

「シン・ゴジラ」(庵野秀明総監督・脚本)を観ました。
庵野監督というと「新世紀エヴァンゲリオン」シリーズですから、なんとなくオタク的な人かと思っていましたが、本作は国の統治機構のあり方に迫る骨太な作品です。
 
今回のゴジラは、一言でいうと東日本大震災と原発事故そのものです。暗喩という言葉がありますが、そういうレベルを超えて、なにもかもが東日本大震災と原発事故を想起させます。
 
国の統治機構がリアルに表現される中で、リアルでは存在しえないゴジラが出現することにそれほど違和感がありません。「個体が進化する」という一応の理論づけ()がされていることに加えて、私たちは東日本大震災と原発事故という「想定外」のことを目の当たりにしたので、ゴジラという「想定外」が出現してもおかしくないという気持ちになるからでしょう。
 
主役は内閣官房副長官役の長谷川博己、ヒロインは日系人の米国大統領特使役の石原さとみです。長谷川博己はあまり政治家っぽくないし、石原さとみは大統領特使っぽくありません。この2人は「進撃の巨人」でも重要な役でしたから、東宝がイチ押しの俳優なのでしょうか。あるいは、庵野監督があえてそれらしくない俳優を起用したのでしょうか。
有名俳優が多数、ちょい役で一瞬だけ出てくるのも見どころです。
 
ストーリーを説明するわけにはいきませんが、東日本大震災と原発事故を体験した日本人には必見の映画だと思います。
日本とアメリカの関係にも踏み込んでいて、「属国」という言葉も出てきます。
 
人間は衝撃的な体験をすると、繰り返し思い出したり夢に見たりします。その体験を心におさめるためにそうした作業が必要なのです。肉親を亡くしたときに“喪の仕事”といわれる心の作業が必要なのと同じです。
東日本大震災と原発事故はあまりにも衝撃的な体験なので、日本人はまだ心におさめることができていないはずです。追体験するには恰好の映画です。
 
 
考えてみれば、初代「ゴジラ」や多数の怪獣映画も、戦争体験、とりわけ空襲体験を追体験するためにつくられたようなものです。
ゴジラが東京の街に現れると、人々はリヤカーや大八車を引いたり、また荷物を背負ったりして逃げまどいます。ゴジラに対して自衛隊の戦車や戦闘機が雨あられと砲弾、ロケット弾を浴びせかけますが、ゴジラに傷ひとつ負わせることができません。これはB29の編隊に対して日本軍が無力だったことの再現です。そして、東京の街は破壊されます。
 
怪獣は繰り返し日本の都市を破壊してきました。それを見ることで日本人は戦争体験を心におさめてきたのでしょう。
 
「シン・ゴジラ」はそうした過去の怪獣映画を踏まえていますから、必然的に戦争を想起させる映画でもあります。
自衛隊の全面協力を得て、さまざまな兵器が出てきます。そして、自衛隊がゴジラを攻撃しますが、通常兵器はすべて無力です。むしろ自衛隊の兵器でないものを使っての攻撃が有効だったりします。
 
牧悟郎というゴジラを研究していた異端の学者がいるのですが、すでに死んでいて、写真のみの出演という形になります。その写真が故・岡本喜八監督です。
「シン・ゴジラ」は岡本監督の「日本のいちばん長い日」を意識しているのかもしれません。また、岡本監督は「肉弾」など戦争の愚かさを描く映画を多数つくってきました。
 
牧悟郎は暗号化された謎の資料を残していて、それを読み解く方法は、その紙を折り鶴の形に折り曲げることでした。
「折り鶴」も平和のメッセージでしょう。
 
東日本大震災と原発事故を追体験でき、戦争についても考えさせられるということで、日本人なら誰が見ても損はない映画だと思います。
 

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