村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

カテゴリ: 映画評

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「哀れなるものたち」(ヨルゴス・ランティモス監督)を観ました。

ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、ゴールデングローブ賞でも複数の受賞を果たし、アカデミー賞では、作品賞、監督賞、主演女優賞を含む11部門にノミネートされるという作品です。R18+指定。

スコットランドの作家アラスター・グレイの小説が原作ですが、物語の骨格がひじょうによくできています。

ビクトリア朝のロンドンで、天才外科医のゴドウィン・バクスター博士は自殺した若い女性の死体に胎児の脳を移植して蘇生させることに成功します。つまり成人女性の体に幼児の心があるという人間をつくりだしたのです。
『フランケンシュタイン』が連想されます。博士の特殊メイクはユニバーサル映画でフランケンシュタインの怪物を演じたボリス・カーロフそっくりです。博士はゴッドの愛称で呼ばれていて、マッドサイエンティストです。実は博士の父親もマッドサイエンティストで、息子の体を使って数々の人体実験をしていました。

ベラと呼ばれる幼児の心を持った女性は予測しがたい奔放なふるまいをします。ベラの心は急速に成長しますが、性的な欲望の制御ができません。遊び人の弁護士ダンカンに誘惑され、ベラも世界を見たくなって、二人でヨーロッパ各国を旅行します。

美術がひじょうに凝っていて、ビクトリア朝の雰囲気がよく出ていますが、ヨーロッパの都市には飛行船が浮かび、ロープウェイの乗り物が動いています。つまりリアルではなく、ファンタジーの要素がかなり入っています。ダークファンタジーともいわれますし、スチームパンクと評する人もいました。ゴールデングローブ賞ではミュージカル・コメディ部門で作品賞を受賞しています。実際、かなり笑える映画です。ウィキペディアには「SFラブコメ映画」と書かれています。


いろんな観方のできる映画ですが、やはり一本の軸となるのはフェミニズムです。
未熟な女性を男が育てるということでは、バーナード・ショーの『ピグマリオン』が連想されます。
最初は未熟だった女性がやがて性的に成熟して男を振り回すということでは、谷崎潤一郎の『痴人の愛』が似ています。
しかし、このふたつの作品は最後まで男の視点です。
この「哀れなるものたち」は、最初は男の視点でベラが描かれますが、やがてベラの視点で物語が展開するようになります。
ベラは性を通じて自立し、社会主義運動に関わって社会問題にも目覚めます。

このあたりで物語の三分の二ぐらいになります。しかし、ベラの身体になった自殺した女性は誰なのか、なぜ自殺したのか、脳を移植された胎児はどこの子なのかといった疑問がそのままなので、ずっともやもやした気分です。
しかし、ここから疾風怒濤の展開になります。説明するわけにはいきませんが、私は「パラサイト半地下の家族」の後半に似ているなと思いました。格差や差別は、下には下があります。
最後に“究極の差別男”とでもいうべき人間が登場します。偏見で凝り固まっていて、人間らしさがまったくない男です。この男と比べれば、ダンカンなど十分に人間らしく思えます。
こういう男とは戦って勝つしかありません。


ベラはやたら性に解放的です。「性の解放」が人間の解放につながるというメッセージがありそうです。

「クリトリス切除」という話が出てきます。これは「女子割礼」ともいわれ、アフリカを中心に広く行われているということは知っていましたが、私にとってはまるで実感のない話でした。
しかし、この映画の中で出てきたことで、急に実感できました。クリトリス切除は人間性の根源的な部分の剥奪です。

「纏足」も似ています。女性の身体を改変して、男性が支配しやすくするわけです。
マッドサイエンティストが登場する以前から人体改変は行われていました。


この映画は「エログロ」の映画でもあります。
観て感動するには、エログロ耐性が必要かもしれません。

グロテスクなものについての耐性は政治的立場と密接に関係しているという科学的研究があります。
「グロ画像を見た時の脳の反応で政治的傾向が右なのか左なのかがわかる?(米研究)」という記事によると、ウジ虫やバラバラ死体、キッチンの流しのヌメっとした汚れやツブツブが密集したものなどのグロ画像を見たときの反応を脳スキャンすると、右寄りの人のほうが強く反応したということです。右寄りの人と左寄りの人の脳スキャンは、あまりにも違っていたため、わずか1枚のグロ画像に対する脳の反応を見るだけで、95%の確率でその人の政治的傾向を言い当てることができたそうです。

中沢啓治のマンガ『はだしのゲン』は、政治的思想以上にグロい絵の印象が強く、右寄りの人はこの絵で拒絶反応を起こしているに違いありません。

エロについても政治的立場が強く関係しています。
昔から国家権力はわいせつなどのエロを取り締まろうとし、それに抵抗してきたのはつねに左翼でした。
保守派は学校での性教育が過激化しているとして騒ぎ立て、そのために日本の性教育はひどく後退してしまいました。

右寄りの人は当然フェミニズムが嫌いですが、それ以前にエログロという点でこの映画を嫌うでしょう。
しかし、エログロは現実に必ず存在するものですから、それを嫌っていたのでは認知がゆがんでしまいます。
右寄りの人は思想的なことよりもまずエログロ耐性を身につけるべきでしょう。


主演のエマ・ストーンはプロデューサーの一員としてもこの映画に参加していて、それだけ気合が入っているのでしょう。ひじょうにむずかしい役を演じ切りました。
奇妙な設定の、カルト映画になりそうな物語を、メジャーな映画に仕上げて、多くの映画賞を獲得したのに感心します。

ちょっと疑問に思ったのは、「性の解放」といっても、女性は妊娠の可能性があるのでそう簡単にはいかないということです(ベラは娼館で働いたりします)。
今の時代はピルなどの避妊法が開発されて、「性の解放」が可能になりました。
避妊法だけでなく妊娠中絶の権利もたいせつです。
今アメリカで保守派が中絶禁止を強く主張しているのは、女性の自己決定権の問題だからでしょう。

この映画は世界的にヒットしていますが、日本では公開第一週の興行成績は9位でした。
ジェンダーギャップ指数125位の国だからでしょうか。

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宮崎駿監督のアニメ「君たちはどう生きるか」を観ました。

宮崎監督が引退を撤回して10年ぶりに発表した新作です。
事前の宣伝をまったくしないという異例の手法がとられたので、いろいろと推測してしまいました。
あまりにも駄作なので、鈴木敏夫プロデューサーは宣伝する気を失ったのかとも考えました。
若者に対して説教くさい内容ならそういうこともありえます。
いいほうに推測すると、観る人によってさまざまな解釈が可能なので、宣伝によってひとつの観方を押しつけることを嫌ったのかとも考えました。

いざふたを開けると、公開4日間で興行収入21.4億円を突破し、これは2001年公開の「千と千尋の神隠し」を超える記録だということです。
宣伝なしという異例の手法が成功したことになりますが、これはひとえに宮崎駿ブランドの力でしょう。

私は映画のレビューなどもほとんど見ず、「異世界冒険ファンタジー」であるという情報だけ仕入れて映画館に行きました。
宣伝をしないというジブリの方針に敬意を表して、あまりストーリーに触れないようにして感想を書いてみます。


『君たちはどう生きるか』という吉野源三郎の小説があり、このアニメはそのタイトルを借りていますが、「宮崎駿原作・脚本・監督」となっていて、オリジナルのストーリーです。

物語は、東京が空襲にあうシーンから始まります。第二次世界大戦も末期です。
主人公の少年は母方の実家に疎開します。そこは金持ちの家で、庭には大きな池があり、庭の奥の森には謎めいた建物があります。
庭には怪しいアオサギがいて、人語をしゃべり、主人公を異世界へと導いていきます。
日常世界と異世界が微妙に重なり合っているのが宮崎ファンタジーの常道です。

前半は、ちょっと物語のテンポが遅いなと感じることがあります。物語がどう展開するかまったく読めないことも影響しています。
登場人物が微妙に重なり合っていて、死んでしまった大叔父から現在までの時間軸も長く、よく理解できないところがあります。「何度も観たい」という感想がある一方で、まったくつまらないという感想があるのもうなずけます。


この前、日テレで「となりのトトロ」をやっているのをたまたま観て、完全に子ども向きの物語だなと思いました。昔初めて観たときは、アニミズムとか自然との共生とかの“意味”を見ていたのですが、物語は、母親が入院して、初めての土地にやってきた子どもが不安の中でさまざまな経験をして、最後に母親が元気になって幸せになるというもので、要するに子どもの目に映った世界が描かれていたのです。
「魔女の宅急便」は、少女の成長物語です。
これらの作品と比べると、「君たちはどう生きるか」は一筋縄ではいかない作品で、「これがテーマだ」ということが単純にいえません。観る人によっていろいろな解釈ができます。
鈴木プロデューサーも宣伝のやりようがなかったということかもしれません。


私自身はというと、観終わって感動しました。
私は宮崎監督のアニメをずっと観てきて、宮崎監督が引退を撤回してまで撮ったのはなぜかと考え、「これがテーマだ」ということを自分なりに推測しました。その推測に基づいて感動したわけです。

その推測を書いてみますが、あくまで私の推測ですから、そういう解釈もあるのかと思って読んでいただければ幸いです。
影響されやすい人にとってはネタバレと同じことになるので、映画を観てから読んだほうがいいかもしれません。
ただ、私の推測を頭に置いて観たほうがおもしろく観れるのではないかとも思っています。



宮崎監督の「君たちはどう生きるか」はオリジナルのストーリーですが、宮崎監督は吉野源三郎の小説を読んで感動して、そのタイトルを借りたということなので、小説の影響はあるはずです。いや、ストーリーは違ってもテーマは同じと見ることができます。

吉野源三郎の小説が書かれた1937年は盧溝橋事件で日中戦争が本格化した年です。そういう時代にあらがうために科学や学問を学ぶことの重要性を説いた小説ということができます。ちなみに主人公の少年のあだ名は「コペル君」で、もちろんコペルニクスからきています。
宮崎監督のアニメも戦争を背景にしています。もうすぐ原爆を落とされて敗戦になるという時期ですから、観客は「戦争」を強く意識せざるを得ません。

宮崎監督は「戦争」を強く意識する作品をいくつもつくってきました。
アニメの「風の谷のナウシカ」は、最後にナウシカが奇跡を起こして戦争を止めます。マンガ版の「ナウシカ」とはまったく違う物語になっていて、宮崎監督はこのハッピーエンドが気にいらなかったそうです。それは当然で、奇跡によってしか戦争を止められないなら、現実の戦争を止めるすべはないことになります。
「紅の豚」は、戦争を止めることは諦めて、豚になって戦争から逃避している男の物語です。
「風立ちぬ」は、ゼロ戦を設計することでむしろ戦争に協力した男の物語です。

宮崎監督はもちろん反戦の立場です。
しかし、最後まで戦争を止める道を示すことはできませんでした。
それが心残りで、引退を撤回して「君たちはどう生きるか」を撮ったのではないかと思いました。

吉野源三郎の小説が書かれた時代は、科学の力や優れた知性によって戦争が止められるという期待が高まっていました。
1932年、国際連盟はアインシュタインに対して、「誰でも好きな人を選び、今の文明でもっともたいせつと思われる問題についてその人と意見を交換してほしい」と依頼しました。アインシュタインはフロイトを指名して、「人間を戦争というくびきから解き放つことはできるのか?」というテーマについて意見交換をしました(この内容は『人はなぜ戦争をするのか』(講談社学術文庫)で読めます)。

フロイトはアインシュタインとともに当代最高の知性と目されていました。
フロイトの代表作『精神分析入門』はわが国では1926年に翻訳出版されましたが、その中でフロイトは「人類は素朴な自己愛が三度侮辱を受けた」と書いています。一度目はコペルニクスの地動説によって地球は宇宙の中心ではないと知ったとき、二度目はダーウィンの進化論によって人間は特別に創造されたものではないと知ったとき、三度目はみずからの心理学による無意識の発見によって自我は自分自身の主人ではないと知ったときであるというのです。
フロイトは自分の心理学を天文学や生物学と同じ科学と見なしていたのです。

『精神分析入門』を翻訳した安田徳太郎は、1952年の改訳版の「訳者よりはじめに」でこのように書いています。

この『精神分析入門』は日本における最初のフロイト本の紹介であった。私の翻訳をとおして、日本でもフロイトの名前はいっぱんに有名になったが、日本の医学者はフロイトの原文を一ページも読まないくせに、さっそくフロイト征伐に乗り出し、私もそのまきぞえで、マルクスとフロイトがたたって、とうとう七年目に官学からたたき出された。ゲンコツが私へのほうびであった。それほどマルクスとフロイトの名前は日本の官学のお気にめさなかったのである。いっぽうフロイトはアインシュタインといっしょにドイツで反戦運動をやったために、ヒトラーからこれもゲンコツをくらって、イギリスに亡命し、そのごまもなく八十三歳の高齢で死んでしまった。こういうように、どこの国でも学問の道はじつにけわしかった。
(中略)
おわりに、今や歴史的名著になったこの本が十九世紀の偉大な学問的成果としてのダーウィンの『種の起源』とマルクスの『資本論』とともに、日本の青年男女のあいだにもひろく読まれて、人間の心理行動にたいして科学的な興味が高まることを希望してやまない。

この文章から吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』が書かれた時代背景がわかるでしょう。
科学や学問や知性によって戦争や貧富の差などの社会問題はやがて解決されるということが信じられていたのです。
宮崎監督は『君たちはどう生きるか』を読んだときに、その点に共感し、希望を持ったのでしょう。

しかし、現実はそうなりませんでした。
マルクス主義もフロイト心理学も過去の遺物になり、世界平和の実現は夢物語と化しました。
なぜそうなったかというと、ダーウィンが『種の起源』の12年後に著した『人間の由来』において、人間に進化論を適用するのに失敗したからです。
それ以降、進化論には社会ダーウィン主義、優生思想、人種差別がついて回るようになり、人間に進化論を適用して論じることはタブーとなりました(ダーウィンがなにを間違ったのかについては「道徳観のコペルニクス的転回」に書いています)。

進化論から見れば、人間の戦争は動物の生存闘争の延長線上に位置づけられます。生存のために戦争をするのに、戦争によって生存が脅かされるという矛盾した事態が生じています。これは戦争の目的を「正義」や「自由」や「民主主義」で粉飾しているからです。
したがって、ダーウィンの間違いを正し、戦争を生存闘争の一環と見なせば、戦争を止めることは十分に可能です。


宮崎監督の前作の「風立ちぬ」は、東日本大震災の2年後の公開でしたが、関東大震災のシーンから始まります。ストーリーは前からできていたので偶然の一致ですが、まるで震災を予見していたようだと話題になりました。
「君たちはどう生きるか」はウクライナ戦争のさ中に公開になりました。
これも偶然の一致ですが、戦争について危機感を持っていた宮崎監督の判断が正しかったといえるかもしれません。

宮崎監督が「君たちはどう生きるか」で訴えたかったのは、人間の知性によって戦争を止めることは可能だということです。
もっとも、その実現は次の世代に託されました。
ですから、これは「君たちはどう戦争を止めるか」という宮崎監督の問いかけでもあります。

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広島、長崎の被爆者の体験談を読むと、瀕死の重傷者から「水を飲ませてくれ」と訴えられたが、「重傷者に水を飲ませると死ぬ」と言われていたので飲ませなかったという話がよく出てきます。
同様の話は各地の空襲被災者や戦場での兵士の体験談にもあります(ただ、被爆者の体験談にひじょうに多いので、火傷と喉の渇きは関連しているのかもしれません)。

しかし、そうした体験をした人はたいてい、死ぬ間際の人の最後の訴えを聞き入れなかったことをずっと悔やみ続けています。


私はこうした話を読んだり聞いたりするたびに、「重傷者に水を飲ませると死ぬ」というのを疑問に思ってきました。
というのは、進化論的にありえないと思うからです。

もしけがをした動物が水を飲むと死ぬ確率が高くなるなら、「けがしたときに水を欲する性質」を持った個体は死ぬ確率が高く、その性質は淘汰されて消えていきます。
「けがしたときに水を欲する性質」が広く人類に存在するなら、それは生存に有利な性質だからと推測できます。

たとえば、火傷した人は体温が高くなっているので、水を飲むのは体を冷やすことにもなります。
出血している人は、水を飲んで血液を薄めることで、流出する血液成分を少なくすることができます。
あるいは、出血で体の体積が急に縮小して体のバランスが崩れるので、水を飲むことでバランスを回復するということもあるかもしれません。

水を飲むマイナスも考えられます。
たとえば、胃腸が傷を負っているとき、水を飲むと胃腸が反応して動くので傷が拡大するということはありそうです。
しかし、考えられるマイナスはそれぐらいではないでしょうか。

生死の瀬戸際で強い生理的欲求が起こったら、それは生存に必要なことに違いなく、その欲求を満たすと死んでしまうというのはとうていありえないことに思えます。


私の考えに医学的根拠はありませんが、「重傷者に水を飲ませると死ぬ」ということにもまったく医学的根拠はありません。
俗説というべきものです。
よくコントで、冬山で遭難したときに「眠るんじゃない。眠ると死ぬぞ」と言うのがありますが、それと同じです。


そうしたところ「KESARI/ケサリ 21人の勇者たち」というインド映画を観ていたら、戦場の負傷者がみな水を欲するということが出てきたのですが、そのとらえ方が日本とまったく違っていたので驚きました。




1897年、インド北部のサラガリ砦で21人のシク教徒の守備兵が1万人のアフガニスタンの部族の軍勢と戦ったという史実に基づく映画で、インドでは大ヒットしたそうです。
ジャンプしながら銃を撃つ過剰なアクションや、一か所だけですが歌と踊りのシーンもあり、お決まりの英雄的な戦いを描いていますが、インド映画らしい勢いがあって、154分が苦にならずに観られました。


砦にパシュトゥン人の料理係がいて、砦が包囲されていざ戦いになるというとき、彼は自分も銃を持って戦いたいと指揮官に申し出ます。
すると指揮官は、お前は銃を持つのではなく敵兵も含めて負傷兵に水を飲ませる役目をしろと言います。
「救助ではなく敵を倒したい」と料理係が言うと、指揮官は「倒れた兵は喉の乾いた人間だ。アナンドプル・サーヒブの戦いでムガルの負傷兵にシクの偉人は水をやった」と言います。「敵に塩を贈る」みたいな話がインドにもあったようです。
そして、「水を飲ませれば敵意が消える」と言うのですが、実際に倒れた敵兵に水を飲ませたとき、敵意が消えたか否かは物語のひとつのポイントです。
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インドでも戦場で倒れた兵は水をほしがるという認識があるようですし、アフガニスタンでも同じ認識がありそうです。
そして、倒れた兵に水を与えることは救助活動と認識されています。

ここは日本とまったく違います。
どう考えても、インドのほうがまともで、日本のほうが異常です。


どうして日本で「重傷者に水を飲ませると死ぬので飲ませてはいけない」という認識が生まれたかというと、おそらく日本軍がその認識を広めたからでしょう。

昔、学校の運動部では「練習中は水を飲んではいけない」というルールがあり、炎天下で水を飲まずに何時間も練習するという無茶が行われていましたが、こうした習慣は、日本軍で少ない補給に耐えるために水飲みを制限する訓練が行われていて、それが学校運動部にも広がってできたのです。

日本軍では喉の渇きをがまんするというのが常態化していたので、負傷者が水をほしがってもがまんさせることにあまり抵抗はなかったでしょう。
さらに、助からない人間に水を飲ませるのはむだなので飲ませるなということにもなったでしょう。
その際、「水を飲ませると死ぬから飲ませるな」という理由づけが行われたということはじゅうぶんに考えられます。
そして、そうした日本軍の考え方が一般社会にも伝わって、原爆投下のとき瀕死の人の訴えを無視するということが行われたのではないでしょうか。

「重傷者に水を飲ませると死ぬ」という医学的根拠のまったくないことが広く信じられた理由としては、こうしたこと以外には考えられません。


救急救命法について調べても、「水を飲ますな」ということは出てきません。
戦時中に信じられていた「重傷者に水を飲ませると死ぬ」というのは、日本軍から広まったデマや迷信のたぐいだと断定してもよさそうです。

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「1917 命をかけた伝令」(サム・メンデス監督)を観ました。

「全編を通してワンカットに見える映像」が売りで、確かにそれはすごいのですが、それだけではありません。戦争映画としての新機軸がいくつもあります。

サム・メンデス監督といえば、「アメリカン・ビューティー」が衝撃的でした。アメリカ社会の病理を深く描きつつ、同時にじゅうぶんにおもしろい映画になっていました。
メンデス監督は「007 スカイフォール」なども撮っていて、そういうエンターテインメント性もあるし、イギリスの舞台演出でも実績のある人なので芸術性もあるということで、両面できるのが強みです。


第一次世界大戦下、二人のイギリス兵に重要な伝令の任務が与えられ、二人は敵中を横断して、その二日間にさまざまなことがあるという物語です。
物語としてはきわめて単純です。意外な展開があるということはありません。
ただ、敵中といっても敵は撤退したあとなので、緊張の連続というわけではなく、いろいろな人との出会いもあります。

この映画の見どころは、一言でいえば「戦場の臨場感」です。

まず美術スタッフの力がすごくて、たとえば塹壕とか、敵が撤退したあとの砲兵陣地とか、戦場に放置された死体とかがひじょうによくできています。
それがワンカットでずっと続いていくと、自分もそこにいるような気分になってきます。
ストーリーにひねりはなくても、次になにが起こるかわからない戦場の緊迫感があるので、引き込まれてしまいます。


それから、人間の描き方が類型的ではありません。
これまで戦争映画というと、英雄的な兵士、鬼軍曹、理不尽な上官、未熟な補充兵、乱暴者、ひょうきん者といった類型ばかりでした。
敵と味方の描き方も違います。ですから、バタバタと敵を殺すシーンを見ても、罪悪感を感じることはありません。
ところが、この映画に出てくるのは、“普通の人間”ばかりです。
敵兵の出てくるシーンはそれほど多くありませんが、敵兵も“普通の人間”なので、主人公が敵兵を殺すシーンを見ると、「人を殺した」という実感があって、ショッキングです。


戦争映画というのは、つくり手の価値観が強く反映されます。
英雄的な兵士を讃えたいとか、国の誇りを描きたいとか、あるいは戦争の悲惨さを訴えたいとか、戦争指導者の愚かさを描きたいといった“志”が必ずあるものです。つまり戦争映画というのは、戦争賛美映画か反戦映画かのどちらかです。
スピルバーグ監督の「プライベート・ライアン」は、戦争の悲惨さをリアルに描いたと評価されていますが、基本は兵士の勇敢さを讃える映画です。

つくり手が“志”を持つと、見方が偏ってしまい、戦争の全体像が見えてきません。
この映画はそうした偏見を極力排したことで、「戦場の臨場感」が体感できる映画になりました。


また、この映画には“死”が描かれます。
映画や小説というのは、死をより悲劇的に描こうとするもので、たとえば最愛の恋人が白血病になるとか、肉親が末期がんになるといった物語を量産してきました。
戦場の死の場合は、強い友情で結ばれた戦友の死がいちばん悲劇的ですから、そうした物語になりがちです。

ところが、この映画はその点でも画期的です。
二人の伝令兵は、命令を受けたときたまたまその場にいたために、いっしょに任務につくことになります。とくに親しかったわけでないことが、二人の会話でわかります。
ですから、その死は肉親の死でも恋人の死でも特別な戦友の死でもない、“普通の死”です。
特別な友情はなく、たった一日行動をともにしただけの関係でも、死というものがいかに重いかがわかります。


塹壕戦の映画というと、どうしても画面が暗くなりがちですが、この映画は明るくて、色彩的にも鮮やかです。平原を見渡すシーンも多く、爽快感もあります。


この映画を観ると、これまでの戦争映画がいかに偏見にとらわれていたかがわかります。
戦場や死を臨場感をもって体験できる価値ある映画です。

パラサイト


「パラサイト 半地下の家族」(ポン・ジュノ監督)を観ました。
カンヌ映画祭でパルムドールを受賞、アカデミー賞では作品賞など6部門でノミネートされている注目作です。

キム・ギテク(ソン・ガンホ)の一家は貧民街の半地下の家に住んでいます。窓のすぐ外で立ち小便する男がいたりと、衛生状態も劣悪です。父親は失業中、息子のギウと娘のギジョンも浪人中で、まったく先が見えません。
そうしたところ、ギウが友人から家庭教師の仕事を紹介されます。紹介された家は有名建築家の建てた豪邸で、父親は金持ちのIT社長、母親は美人、大学受験の娘と小学生の息子がいます。
まったく対照的なふたつの家族の物語です。

ギウは文書を偽造して大学生と偽り、母親の信頼を得て娘の家庭教師になります。そして、小学生の息子が絵を描いているのを見て、妹の経歴を偽らせて、美術の家庭教師として紹介します。ギウとギジョンは家庭教師として金持ちの家に出入りするうちに、あくどいやり方で家政婦と運転手を辞めさせ、代わりに自分の母親と父親を、やはり経歴を偽らせて家政婦と運転手として雇わせます。キムの一家は互いに他人のふりをして、金持ちの一家に入り込んだわけです。
ここまでが前半で、このあと予想外の展開になっていきます。

いろんな出来事が次々と起こって、退屈するということがありません。ずっとジェットコースターに乗っている気分です。詰め込みすぎともいえます。じわじわと盛り上がってクライマックスに至るという物語ではありません。

笑える場面がいっぱいあります。しかし、周りの観客は誰も笑っていませんでした。日本人の映画の観方に問題があるかもしれません。


貧乏一家と金持ち一家を描くことで、おのずと韓国の格差社会があぶりだされます。
ただ、人間の描き方が常識とまったく逆です。
ギウとギジョンは罪もない家政婦と運転手をきたない手を使って追い出します。それに四人全員が経歴を偽っています。
つまり貧乏一家は悪人です。
一方、金持ち一家のほうは、父親も母親も善人で、紳士的な教養人です。子どもも普通に子どもらしくて、“金持ちの子ども”のいやらしさがありません。

だいたいエンターテインメントの物語では、金持ちは高慢で、横柄で、つまり悪人として描かれ、貧乏人は善人として描かれるものです。
この映画は逆ですが、観客は悪人の貧乏一家の側に感情移入して観ることになります。
もちろんそちら側の視点で描かれるからですが、それだけではありません。やはり韓国の格差社会の深刻さが背景にあるからです。

ヤクザ、ギャング、殺し屋、詐欺師などを主人公にした映画はいっぱいありますが、彼らは犯罪はしても弱い者いじめはしません。弱い者いじめをする人間に観客は感情移入することはできないのです。
キム一家は罪もない家政婦と運転手をきたない手で追い出しますが、弱い者いじめにはなりません。キム一家のほうがもっと弱い立場だからです。


格差社会といえば、この前観た「ジョーカー」(トッド・フィリップス監督)はアメリカの格差社会を背景にしていました。
「ジョーカー」はアカデミー賞の11部門にノミネートされていて、今は格差社会を描く映画がトレンドのようです。

しかし、同じ格差社会を描いても「ジョーカー」と「パラサイト」ではかなりの違いがあります。
「ジョーカー」では、格差社会に押しつぶされた主人公が最後は一人で立ち上がります。「パラサイト」では、一貫して家族の絆が描かれます。
また、「ジョーカー」では正義と悪の構図になっていますが、「パラサイト」では善と悪はあっても正義はありません。
このあたりにアメリカと韓国の価値観の違いが出ています。

テレビの「水戸黄門」は、単純な正義と悪の物語でした。出てくる善人はつねに貧乏ですが、これは封建的身分制度の問題ですから、格差社会の問題ではありません。ですから、単純に楽しむことができました。

社会主義思想の物語では、資本家は悪、労働者は善、革命家は正義という図式でした。これを信じれば希望はあります。

「パラサイト」には正義が出てきませんし、格差社会が解決するという希望もありません。
個人が貧乏から成り上がることが唯一の希望ですが、それはあまりにもはかない希望です。

格差社会が深刻化すると、エンターテインメントの映画もむずかしくなってきます。

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「アナと雪の女王2」(字幕版)を観ました。

前作の「アナと雪の女王」では、エルサがなぜすべてのものを凍らせる魔法の力を持っているかの説明がまったくなく、両親が突然船の難破で死んでしまうのも不可解でした。そうした疑問に答える作品です。

前作は2014年の公開で、「王子さまのキスでお姫さまが救われる」という伝統的な物語の枠組みを壊し、お姫さまが自力で問題解決をするという点が画期的でしたが、もうひとつ画期的だったのは、親子関係の描き方です。
エルサは生まれつき魔法の力を持っていましたが、両親はその力を抑え込もうとし、手袋をつけさせ、部屋に閉じ込めます。エルサにとって両親は、自分の個性を否定する毒親です。その毒親が死んで、エルサは妹のアナの助けを得て、自己肯定に至るという物語になっています。
私は物語の最後で、「ご両親はエルサのためを思ってきびしくなさったのよ」みたいな展開になるのかと思いましたが、そういうのはいっさいなく、両親は最後まで無視されたままでした。
子ども向けの物語で、継母を否定的に描くのはありましたが、実の親を否定的に描いたのは初めてではないでしょうか。

そういうことから、続編で親はどう描かれるのかが気になりました。


全体的な印象を言うと、絵がひじょうに進歩しました。技術的なことだけでなく、芸術的というか、見て楽しいものになっています。
音楽も、まあいいのではないでしょうか。
前作の主な登場人物がそろって出てくるのも、前作のファンにはうれしいでしょう。

ストーリーに少し難点があります。いろんな要素を詰め込みすぎて、ストーリーの軸が見えにくくなっているのです。
レビューを見ても、よくわかっていない人が多いようです。
そこで、テーマがよくわかるように説明したいと思います。
いくらかネタバレになりますが、あらかじめ知っておいたほうが作品を楽しめるかもしれません。


アレンデール王国で、アナやエルサは平穏に暮らしていましたが、エルサは謎の歌声を聞くようになります。歌声が聞こえてくるのは、ノーサルドラの森からです。
この森ではかつて王国の軍隊と先住民とが戦ったことがありましたが、今は不思議な霧におおわれて、人間が入れなくなっています。
アナ、エルサ、山男のクリストフ、トナカイのスヴェン、雪だるまのオラフは、歌声のもとをたずねて旅に出て、エルサの力によって霧に閉ざされた森の中に入っていきます。
そうすると、森の中では王国の軍隊と先住民とがいまだに戦っていました。
つまり過去がそのまま封じ込められているのです。
また、森の中には王国がつくった大きなダムがあります。一応石造りですが、近代的なダムの形をしています。
こういうファンタジーの中にダムが出てくるのはかなり違和感があります。
さらに、火の精霊や風の精霊や地の精霊も出てきます。

アナたちは森の中で難破船を発見します。両親が乗っていた船です。船の中に地図があり、アナたちはそれを頼りに過去の秘密にたどり着きます。
詳しくは書きませんが、「罪もない者を殺した」という言葉が出てきます。

そして、「過去の過ちを正さなければ未来はない」という言葉も出てきます。これがこの映画の重要なポイントです。
つまり歴史修正主義との戦いです。


アレンデール王国は先住民の土地を奪い、ダムをつくって自然破壊をします。
一方、先住民は水の精霊、火の精霊などのいるアニミズムの世界に生きています。
アメリカ人は、この物語にインディアンを殺して土地を奪ったアメリカの歴史を見るでしょう。

これはケビン・コスナー監督・主演の「ダンス・ウィズ・ウルブズ」やジェームズ・キャメロン監督の「アバター」と同系列の映画です。
文明人が先住民や自然と触れ合うことで文明の悪に気づく物語です。

結局、アナたちの両親はまったく正当化されません。むしろその罪があばかれます(正確には祖父の罪です)。
こういう親子関係の描き方は、前作に続いてやはり画期的なものです。


前作は雪と氷の物語でした。
ですから、今作は水と火と風と地の物語にしようと制作陣は考えたのではないでしょうか。そのため焦点が定まらなくなってしまいました。
文明対自然、文明人対先住民というのが中心のテーマだと見なすと、わかりやすくなります。
そこに歴史修正主義との戦いも盛り込まれています。

最近のディズニー映画は実に挑戦的です。

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トッド・フィリップス監督の「ジョーカー」を観ました。
ベネチア国際映画祭で金獅子賞をとったこともあって世界的に大ヒット中です。
この一本の中に、アメリカや日本などの先進国が今直面している問題のほとんどが詰め込まれているという意欲作で、金獅子賞を取ったのも納得です。

「バットマン」シリーズでバットマンの敵役であるジョーカーがいかにしてジョーカーになったかという物語です。
バットマンは出てきませんし、ハリウッド映画らしいアクションシーンもほとんどありません。
舞台のゴッサムシティは、ちょっと前のニューヨークという感じです。インターネットはありませんが、テレビの人気トークショーがそれに代わる役割を果たしています。

主人公のアーサー(ホアキン・フェニックス)は、ピエロを演じて生活の糧を稼ぎ、将来はコメディアンを目指しています。しかし、彼には脳の障害で笑い出すとなかなか止まらないという症状があり、悪ガキにいじめられたり、やることなすことうまくいきません。母親と二人の生活は貧しく、母親は昔家政婦として働いていた金持ちの家の主人に金銭的援助を頼む手紙を何度も出しています。彼は同じアパートに住むシングルマザーの黒人女性に思いを寄せますが、ストーカー行為をしてしまいます。

希望のない生活と、主人公の不安定な精神状態と、ニューヨークらしい街から、 マーティン・スコセッシ監督の「タクシードライバー」を連想します。それは監督の狙いでもあって、ロバート・デ・ニーロが重要な役で登場することからもわかります。

主人公の希望のない生活を描写するシーンが続くと、観ていてうんざりしそうなものですが、表現するべきことを的確に押さえていて、ホアキン・フェニックスの演技も素晴らしいので、引き込まれます。
ただ、ここについていけない人もいるでしょう。映画評を見ると、賛否がかなり分かれます。

母親が金持ちの家に出していた手紙を読んだことから、アーサーの出生の秘密がわかり、幼児虐待を受けていたこともわかります(脳の障害もそれが原因?)。
彼は福祉制度からカウンセリングと薬の支援を受けていましたが、予算が削られて支援は打ち切りになります。仕事でヘマをして、芸能事務所をクビになり、さらに母親が病に倒れて入院します。

ゴッサムシティはひどい格差社会です。アーサーはそこから這い上がれず、犯罪に手を染めます。

「タクシードライバー」の主人公は最後まで孤独でした。
しかし、アーサーの犯罪は格差社会で苦しむ人々の喝さいを浴び、彼はヒーローになります。
ここに格差社会の深刻化がうかがえます。また、「タクシードライバー」の主人公の過去はまったく描かれませんが、こちらは幼児虐待の過去があったことが描かれ、時代による人間観の変化もうかがえます。


この映画がアメリカで公開されたとき、ニューヨークでは犯罪を警戒して市内全域の映画館に警官が配置されたというニュースがありました。そのときは意味がわかりませんでしたが、映画を観ると納得できます。

このシリーズの最初の作品である「バットマン」(ティム・バートン監督)では、主人公のバットマン(マイケル・キートン)はくよくよと悩む屈折した男で、悪役のジョーカー(ジャック・ニコルソン)は底抜けに陽気な男です。ゴッサムシティはきわめてダークな雰囲気で、まるで悪の都市です。正義と悪が逆転したかのような描き方が、今回の「ジョーカー」につながっています。

今の世の中では、凶悪犯罪が起こると、犯人は徹底的に非難されます。しかし、ちゃんと調査すると、犯人はアーサーのように幼児期に虐待され、脳に障害を負っていることがわかるはずです。
池田小事件の宅間守や秋葉原通り魔事件の加藤智大の視点で見た世界を描いた映画とも言えます。
その意味で犯罪を肯定する映画ともとれ、公開に反対する声があったことも理解できますが、「善人なおもて往生す。いわんや悪人をや」を具現化しただけとも言えます。

しかし、この映画はそんなに重くなりません。
トッド・フィリップス監督は「ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い」などのコメディ映画を撮ってきた監督です。この映画でも、チャップリンの映画の一シーンが挿入され、エンディングシーンもコメディタッチで、コメディ映画を撮ってきた監督の心意気が示されます。

トッド・フィリップス監督は「凶悪な犯罪と格差社会を描くコメディ映画」という新機軸に挑戦して、みごとに成功しました。

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映画「バイス」(アダム・マッケイ監督)を観ました。
 
息子ブッシュ大統領のもとで副大統領を務めたディック・チェイニーを描いた映画です。
クリスチャン・ベイルがチェイニーの20代のころから70歳ぐらいまでを演じていますが、特殊メイクがすごくて、ほんとうにその年齢に見えます。
ブッシュ大統領を演じたサム・ロックウェルはブッシュ大統領にそっくりで、よくこんなそっくりな俳優を見つけてきたなあと思いましたが、これも特殊メイクを使っていたのでしょう。
 
今も存命の実在の人物を批判的に描いているので、訴えられないように徹底的に事実にこだわったのでしょう。それがおもしろいと同時に、物足りないところでもあります。
たとえば、20代のチェイニーは大学を中退して田舎で電気工をしていて、飲酒運転で警察に逮捕されます。のちに結婚する恋人リンに「私が見込んだのはこんな男じゃない。このままだと別れる」と泣かれ、そこから一念発起して大学に入り直し、政治の道に入ってどんどん頭角を現していきます。
そのときどのように心を入れ替えたのかを知りたいところですが、それは描かれません。わかったことだけが描かれているからでしょう。
 
映画というのはストーリーの流れが中心にあるものですが、この映画では事実がレンガのようにいっぱいあり、それがうまくつながっていません。ただ、ひとつひとつの事実がおもしろく、観客は自分なりに頭の中でそれをつないで観ていくことになります。
 
.11テロのあと、イラク戦争へ突き進んでいくところが見どころです。ありもしない大量破壊兵器をあることにし、ありもしないイラクとアルカイダの関係をあることにします。なにも考えていないブッシュをチェイニーがあやつります。パウエル国務長官は国連でイラクは大量破壊兵器を持っていると不本意な演説をします。イラク戦争でチェイニーが大株主である石油会社ハリバートンは大儲けします。それらのことは当時の報道からもだいたいわかっていましたが、はっきり示されるとやはり衝撃的です。
 
妻のリンはすごく優秀な女性ですが、当時のアメリカでは女性が社会的に活躍する道はほとんどないので、チェイニーを成功させることで自分も成功を手にしようとします。
チェイニーの娘は同性愛であることをカミングアウトします。これはチェイニーの保守主義と相容れませんが、チェイニーは受け入れます。
こうしたことをチェイニーがどう思っていたのか、よくわかりません。しかし、保守主義の矛盾が浮き彫りになります。
 
マイケル・ムーア監督の映画のように笑えるシーンがいくつもあり、コメディ映画だともいえます。しかし、映画館では笑い声は起きませんでした。アメリカの愚行は世界にとって深刻なことですから、笑う気になれません。
マイケル・ムーア監督の映画はドキュメンタリーですが、この映画はそれをドラマ仕立てにしたともいえます。
 
チェイニーは何度も心臓発作を起こし、心臓移植手術を受けます。検索してみると、手術は71歳のときでした。71歳の老人が心臓移植手術を受けるには、かなりの金と権力を使ったのでしょう。
 
この映画を観ると、アメリカの政治がいかに金と権力によって動いているかがわかります。
日本の政治も基本的に同じでしょうが、レベルが違います。
 
小泉首相はイラク戦争のとき、自衛隊をサマワに派遣しました。国連とは関係なく、占領軍の一員として行ったので、まさに他国の領土を軍靴で踏みにじったわけです。
イラクに大量破壊兵器がなかったことで、自衛隊のサマワ派遣は日本の歴史の汚点になりました。
しかし、大方の日本人は、「アメリカが間違ったのだから、日本の責任ではない」という感覚でしょう。独立国としての意識に欠けています。これではアメリカに対抗できませんし、辺野古移設問題が解決できないのもわかります。
 
アダム・マッケイ監督が脚本も書いています。よく事実を調べた上で物語にしたなあと感心します。俳優の演技も素晴らしく、きわめて完成度の高い映画です。
 
トランプ大統領のようなおかしな大統領が出現したのも、この映画を観ると納得できます。

中島哲也監督の「来る」を観ました。
 
中島哲也監督というと、最初に「下妻物語」を観て、こんな映画の撮り方があるのかと、不思議なおもしろさに魅了され、それから注目しています。
今回の「来る」は、予告編の映像が半端ないので、おもしろいに違いないと思いました。
 
観始めて30分ぐらいまでは、俳優の演技が嘘っぽくて、演出も空回りしている感じがして、この映画は外れだったかと思いました。
しかし、それは登場人物がいつわりの人生を生きているからなのでした。
 
田原秀樹(妻夫木聡)はそこそこの会社に勤めるサラリーマンで、香奈(黒木華)と結婚し、祝福してくれる友人もたくさんいて、子どもができると子育てブログを始め、自分のイクメンぶりと幸せな家族のあり方をブログに書き綴ります。いかにも幸せそうな生活です。
しかし、実際は妻には冷たく、子どもの世話もせず、ブログに書かれているのは嘘ばかりです。友だちともうわべだけのつきあいです。
ですから、演技が嘘っぽく見えたのは当然です。田原は“幸せ芝居”を演じていたのです(とはいえ、一時的にせよつまらない感じがするのは作品としてマイナスです)
 
今の世の中、ママタレなど幸せな家庭生活をブログに書く人がいっぱいいますが、あれはほんとうのことかと誰もが疑問に思うでしょう。この作品はその裏側を描いているので、実に現代的です。
 
“幸せ芝居”が崩壊していくのは、それ自体がホラーです。
 
そのような家庭生活や人間関係が物語のひとつの軸で、もうひとつの軸になるのが田原の故郷に伝わる物の怪です。
田原はなにかにとりつかれ、身の回りで怪しいことが起こるので、友人の民俗学者、霊能力のあるキャバ嬢、オカルトライターなどの協力を得て立ち向かいます。
この物の怪は、原作では民俗学的な意味づけがあるのかもしれませんが、映画ではあまり描かれません。どうやって退治するかも、結局霊能力に頼るだけですから、物語としてはイマイチです。
ただ、スプラッターシーンもふんだんにあり、除霊の仕方も大がかりなので、ホラー映画としてもかなりの水準です。
 
なお、原作は日本ホラー小説大賞の「ぼぎわんが、来る」(澤村伊智著)で、ホラー小説として高く評価されています。
 
この作品のおもしろさは、もうひとつの軸の人間関係のほうでしょう。
田原の“幸せ芝居”が崩壊したあと、香奈は娘とともに“現実の幸せ”を目指しますが、シングルマザーの生活はきびしく、自分はろくでもない母親に育てられたので娘との関係もうまくいかず、結局“現実の幸せ”のほうも崩壊していきます。
 
霊能者のキャバ嬢(小松菜奈)も、実はたいした霊能力がなく、本物の霊能者の姉(松たか子)の真似をしているだけです。結局、除霊を中心になってするのは姉です。
 
オカルトライターの野崎(岡田准一)も、子どもをつくって家族を持つということができない人間です。
 
このように書くと、ずいぶんと暗い話のようですが、最終的に家族の崩壊と再生が描かれることになります。
また、テレビで見慣れた柴田理恵、伊集院光が出ていることも安心感につながって、うまいキャスティングだと思いました。
 
ホラーのいいところは、人間の暗部を描いてエンターテインメントにできるところです。この映画はそのホラーのよさが遺憾なく発揮されています。

「華氏119(マイケル・ムーア監督)を観ました。
トランプ大統領を描いた映画というよりも「トランプ時代のアメリカ」を描いた映画です。
日本のマスコミだけではわからないアメリカの姿が見えてきます。
 
たとえばミシガン州フリント市の水道水が鉛汚染され、子どもたちに重大な健康被害が及んでいるという問題。これは行政によって隠蔽され、まるで日本の水俣病みたいです。ここは黒人の多い貧困地域のため、放置されてきました。オバマ政権でも解決しなかったのです。
 
また、2016年の民主党予備選ではヒラリー・クリントン候補とバニー・サンダース候補が最後までデッド・ヒートを演じましたが、サンダース候補は民主党の不正により代議員票が獲得できず、敗北します。これによりサンダース候補支持者たちの多くは大統領選で棄権しました。
 
トランプ勝利には民主党側にも問題があったということです。
 
トランプ大統領への批判にはそれほど時間を割いていません。おらそくムーア監督が今さらする必要もないぐらいに批判されているからでしょう。
ただ、トランプ氏が娘のイバンカにキスしたり体に触ったり、性的な関心を示す目で見つめたりという近親相姦的シーンを集めたところは、いかにもムーア監督らしいところです。一般のメディアにはできないでしょう。
実の娘に性的関心を示すとは、もっとも忌み嫌われる行為ですが、トランプ氏の場合はほとんどマイナスになっていません。むしろ支持者は、美人の妻と娘に恵まれてうらやましいといった反応を示しているのではないでしょうか。
ただ、こうしたトランプ氏の人間像にはあまり切り込んでいきません。
 
ムーア監督が力を入れたのは、アメリカにとっての希望の方向を示すことです。
 
たとえば、ウエストバージニア州の教員はきわめて低い給与水準にあったということで、大規模な教員ストライキが起こりました。ストライキはSNSなどを通して拡大し、最後には勝利しました。
高校での銃乱射事件をきっかけに、高校生が先頭に立って銃規制を求める運動を展開するようになりました。
また、中間選挙では女性やマイノリティの候補が多く立って、支持を集めました。
 
これらを見ていると、アメリカの分断の構図が見えてきます。
アメリカ独立宣言では基本的人権がうたわれましたが、先住民にも黒人にも人権はなく、また選挙権は成人男性だけでしたから、女性と子どもにも人権はなかったことになります。
つまり建国のときから白人成年男性VS女性・子ども・黒人・先住民という分断があったのです。
トランプの支持者は白人男性が中心です。
今も白人成年男性VS女性・子ども・マイノリティという分断の構図が続いていることになります。
 
また、教員ストライキやサンダース旋風のもとにあるのは「社会主義」です。
最近アメリカでは若い世代を中心に社会主義の人気が高まっているということです。昔は「アメリカ=反共」と決まったものでしたが、そういう図式は成り立たなくなっています。
アメリカは冷戦に勝利し、世界に対立の構図はなくなりましたが、アメリカ国内に資本主義対社会主義という対立の構図が移し替えられたわけです。
 
日本のマスコミは、トランプ支持層であるラストベルトの白人ばかりを取り上げます。
しかし、彼らは現状への不満を移民やマイノリティにぶつけ、保護貿易に守ってもらおうとしています。今後、衰退していく一方でしょう。
トランプ政権はつねに支持率よりも不支持率のほうが上回っています。反トランプ派の動向のほうが重要です。

この映画には、いつものムーア監督の痛快な切れ味はないので、おもしろさを期待すると今一歩かもしれません。
しかし、アメリカの現在の姿がわかるという点で、やはり一見の価値があります。

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