村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

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アニメ「この世界の片隅に」(片淵須直監督)を観て、これは今年のベスト1だと思いましたが、そのあとじわじわと感動の波がきて、これは五年に一度か、もしかして十年に一度の傑作かもしれないと思うようになりました。
このようにあとから効いてくる映画はめったにありません。
 
どうして感動するのかについていろいろ考えました。ネタバレにならないように、ふたつの点について書いてみます。
 
 
この作品の魅力はまず、時代考証がすごくて、戦時下の生活がリアルに描かれていることです。食糧難、配給制、隣組、空襲など、知識としてはわかっているつもりでしたが、主人公の体験として描かれると、「ああ、そうだったのか」と、いちいち納得させられます。
 
と同時に、それまでの知識は偏っていたなということも感じさせられます。
たとえば空襲というと、町が火の海になって命からがら逃げた、死体をいっぱい見た、グラマンの機銃掃射を受けて隣にいた人が死んだ、というようなことばかりです。「火垂るの墓」も「はだしのゲン」も基本的にそういうものです。しかし、それらはみな極限状態で、めったにないことです。日常的にあるのは「自分のところに爆弾が落ちてこない空襲」です。
 
主人公すずの住んでいる呉は軍港のある町であり、米軍の空襲が頻発します。米軍機が接近してくると、高射砲の発射音、空中での炸裂音がドカン、ドカンと響き、空に弾幕が広がり、高射砲弾の破片がバラバラと降ってきます。空襲とはこういうことかと体験した気持ちになります。
 
高射砲弾が炸裂した煙が色とりどりに描かれるシーンがあり、「あれ?」と思いましたが、のちに軍オタの人が書いたレビューを読むと、日本軍は高射砲弾の煙に色をつけていたので正しく考証ができているということでした(どの高射砲から撃った弾かを識別して、弾道を修正するためです)
 
リアルな描写を見て、私も亡き父親の言っていたことを思い出しました。
私の父親は海軍の技術将校で、呉と横須賀に勤務したということです。原爆の話は聞いたことがないので、戦争末期は横須賀だったのでしょう。空襲のときに空を見ていると、高射砲弾が米軍機の後ろでばかり炸裂していて、なんでもっと前を狙って撃たないのかと思ったという話をしていました。
中学生ぐらいだった私は、高射砲は米軍機の進む先を狙って撃っているはずで、そんなバカなことはないだろうと反論したのを覚えています。
しかし、実際はそういう間抜けな光景があったのでしょう。
 
ちなみに父親は、戦争中は毎日ビールを飲んでいたと言っていました。戦争中に苦労したという話は聞いたことがありません。むしろいい目をしていたのでしょう。戦争体験といっても人によってさまざまです。
 
戦時下の庶民の生活というと、竹やり訓練、バケツリレー、勤労動員といったことばかり取り上げられますが、それはごく一部でしかなく、この映画を観ていると、そうした認識の偏りが訂正され、当時の生活の全体像が見えてきます。
それがこの作品の大きな魅力ですし、多くの人に見てほしいと思うゆえんです。
 
 
作品の最後のころになると、主人公すずも身近な人を亡くし、自身も大きな苦難に見舞われます(ネタバレにならないよう微妙な書き方になっています)。
こういうとき、主人公は努力して苦難を克服し、その姿に観客は感動するというのが物語の常道です。
しかし、この作品では、すずは苦難を克服しません。少なくともそこまでは描かれません。ただ苦難を受け止めるだけです。
これがこの作品の感動の深さではないかと思いました。
 
この反対がいわゆる「感動ポルノ」です。
障害や難病を負った人が努力して障害や難病を克服する姿をメディアが描いて感動を呼ぶというのが「感動ポルノ」です。
 
「障害を克服した障害者」は健常者と同じですから、健常者のフィールドに迎え入れられます。
しかし、「障害を克服した障害者」などというのはフィクションでしかありません。
だから「感動ポルノ」と呼ばれるわけです。
 
「障害を克服した障害者」の姿に感動する人は、障害者差別の感情を持っているに違いなく、その感動は偽物と言わざるをえません。
 
すずは大きな苦難を背負ってしまいますが、克服はせず、ただ受け入れています。
しかし、受け入れているところに人間の強さがあり、そこに本物の感動があります。
 
つけ加えると、その強さは、周りの人間の絆や、育ててくれた両親の愛があったからこそと思われます。
 
「この世界の片隅に」は、いろいろなことを考えさせてくれるすばらしい作品でした。

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「この世界の片隅に」を観ました。
上映館数が少ないにも関わらず公開第1週も第2週も興行成績ベスト10入りしています。私は平日の昼間に観ましたが、最前列にわずかの空席があるだけで、ほぼ満席でした。
 
今年の邦画は「シン・ゴジラ」「君の名は。」とヒット作に恵まれ、私はそれらも観ましたが、「この世界の片隅に」がナンバー1だと思います。
 
こうの史代のマンガを片渕須直監督がアニメ化した作品です。私は原作のマンガも知りませんし、この映画のことも公開直前まで知りませんでした。
普通、公開前には監督や声優がメディアに露出してプロモーションをしますが、テレビ局は一部の地方局を除いてまったくこの作品を取り上げませんでした。映画評論家などの評価はひじょうに高いのに、主人公役の声優はのん(能年玲奈)さんで、のんさんが辞めた芸能事務所が大手のバーニング系列だったため、バーニングの圧力でテレビ局は取り上げないのだという情報がありました。
それで興味を持ってヤフー映画のレビューを見てみると、ほとんどの人が星5つをつけて絶賛しています。
 
しかし、そうなるとまた疑いが芽生えます。「この世界の片隅に」はクラウドファンディングで資金を集めたので、たくさんの出資者がいます(エンドロールの最後に個人名がずら~と流れます)。出資者はネットで“工作活動”をする動機があります。
しかし、コピペみたいな書き込みではなく、それぞれ個人的な感想を書いていると判断して観にいったら、思った通り傑作でした(今回は当たりでしたが、今後クラウドファンディングで資金を集めた映画の評判には注意しないといけないかもしれません)
 
なお、のんさんの声優ぶりは素晴らしく、声優がほかの誰であっても、この映画の感動は何割か減じていたに違いありません。
こういう才能ある人が自由に芸能活動できないとは、まったく不当なことです。
 
戦争中、広島から呉へ18歳でお嫁に行ったすずという女性の日常生活が淡々と描かれるアニメです。
ストーリーの説明やこのアニメのよさについてはすでに語られていますし、ネタバレになってはいけないので、私はちょっと角度を変えて書いてみたいと思います。
 
 
今年ヒットした「シン・ゴジラ」は、いわば東日本大震災と原発事故の映画です。あのときああやっておけばあんなひどい事故にならなかったのにという悔しさはいまだにみんな持っていると思いますが、「シン・ゴジラ」を観ると、原発事故を追体験することでその悔しさが癒されます。
「君の名は。」は東日本大震災と津波被害の映画です。あのときみんな高台に逃げていれば津波の犠牲者の数は少なくてすんだのにという悔しさが、この映画を観ることで癒されます(未来に起こる災害から人を救おうとするストーリです)
そういう意味で、このふたつの映画が大ヒットしたのはよくわかります。
 
で、「この世界の片隅に」は、戦争と原爆の映画です。観ると戦争と原爆が追体験できます。それがやはりヒットしている理由でしょう。
 
普通、フィクションには「戦争反対」とか「命のたいせつさ」とかの訴えたいことがあって、それを最大限に訴えられるようにストーリーが構成されるものですが、「この世界の片隅に」のストーリーにはドラマチックなものがなにもありません。クライマックスも、あえて言えば「この世界の片隅に」という言葉が語られるシーンがそれでしょうが、クライマックスと言えるほど盛り上がるわけではありません。
 
それでもおもしろいのは、戦時中の生活が実に丹念に描かれることと、すずの周りに何重もの人間の絆があることが描かれるからでしょう。
 
あの大震災のときも“絆”ということが強調されましたが、わざとらしい言葉だとして反発する向きもありました。「この世界の片隅に」では、すずの実家の両親と兄、近所の人、幼なじみとの絆が嫁に行ってからも切れませんし、嫁ぎ先でも夫、義両親、出戻りの義姉とその子ども、近所の人、たまたま迷い込んだ遊郭の女性などとの絆が当たり前に描かれます。
 
それから、最近の映画の常道の物語は、「夢を持って努力する主人公が困難に打ち勝ち夢を叶える」というものですが、この映画にはそういう「夢を持って努力する人間」というのは出てきません。すずは絵を描くのが好きで、子どものころ展覧会で入賞したこともあるのですが、絵描きになりたいという夢があるわけではありません。周りの人間も、生活していける職があればいいという感じです。
 
つまりこの映画は、ドラマチックなストーリーもなく、普通の人間ばかりが出てくる映画です。それがかえって感動に深みを与えています(これは原作の力なのでしょう)
 
それにしても、今の時代は“絆”が強調され、“夢を持って努力する”ことのたいせつさが強調されますが、どうも人間観が薄っぺらになっている気がします(努力しない人間は貧乏になってもしかたがないという冷酷な価値観も広がっています)
 
 
原発事故を追体験できる「シン・ゴジラ」と、津波被害が追体験できる「君の名は。」は、大震災を経験した日本人にとって国民映画ともいえるものです。
そして、戦争と原爆を追体験できる「この世界の片隅に」も国民映画になるべきものです。
 
もっとも、「シン・ゴジラ」と「君の名は。」を観ると、しきりに大震災の過去が思い出されますが、「この世界の片隅に」を観ていると、未来に起こることを見ているような気になります。



【追記】
この映画評の続きを次に書きました。
『感動ポルノの逆を行く「この世界の片隅に」』

「シン・ゴジラ」(庵野秀明総監督・脚本)を観ました。
庵野監督というと「新世紀エヴァンゲリオン」シリーズですから、なんとなくオタク的な人かと思っていましたが、本作は国の統治機構のあり方に迫る骨太な作品です。
 
今回のゴジラは、一言でいうと東日本大震災と原発事故そのものです。暗喩という言葉がありますが、そういうレベルを超えて、なにもかもが東日本大震災と原発事故を想起させます。
 
国の統治機構がリアルに表現される中で、リアルでは存在しえないゴジラが出現することにそれほど違和感がありません。「個体が進化する」という一応の理論づけ()がされていることに加えて、私たちは東日本大震災と原発事故という「想定外」のことを目の当たりにしたので、ゴジラという「想定外」が出現してもおかしくないという気持ちになるからでしょう。
 
主役は内閣官房副長官役の長谷川博己、ヒロインは日系人の米国大統領特使役の石原さとみです。長谷川博己はあまり政治家っぽくないし、石原さとみは大統領特使っぽくありません。この2人は「進撃の巨人」でも重要な役でしたから、東宝がイチ押しの俳優なのでしょうか。あるいは、庵野監督があえてそれらしくない俳優を起用したのでしょうか。
有名俳優が多数、ちょい役で一瞬だけ出てくるのも見どころです。
 
ストーリーを説明するわけにはいきませんが、東日本大震災と原発事故を体験した日本人には必見の映画だと思います。
日本とアメリカの関係にも踏み込んでいて、「属国」という言葉も出てきます。
 
人間は衝撃的な体験をすると、繰り返し思い出したり夢に見たりします。その体験を心におさめるためにそうした作業が必要なのです。肉親を亡くしたときに“喪の仕事”といわれる心の作業が必要なのと同じです。
東日本大震災と原発事故はあまりにも衝撃的な体験なので、日本人はまだ心におさめることができていないはずです。追体験するには恰好の映画です。
 
 
考えてみれば、初代「ゴジラ」や多数の怪獣映画も、戦争体験、とりわけ空襲体験を追体験するためにつくられたようなものです。
ゴジラが東京の街に現れると、人々はリヤカーや大八車を引いたり、また荷物を背負ったりして逃げまどいます。ゴジラに対して自衛隊の戦車や戦闘機が雨あられと砲弾、ロケット弾を浴びせかけますが、ゴジラに傷ひとつ負わせることができません。これはB29の編隊に対して日本軍が無力だったことの再現です。そして、東京の街は破壊されます。
 
怪獣は繰り返し日本の都市を破壊してきました。それを見ることで日本人は戦争体験を心におさめてきたのでしょう。
 
「シン・ゴジラ」はそうした過去の怪獣映画を踏まえていますから、必然的に戦争を想起させる映画でもあります。
自衛隊の全面協力を得て、さまざまな兵器が出てきます。そして、自衛隊がゴジラを攻撃しますが、通常兵器はすべて無力です。むしろ自衛隊の兵器でないものを使っての攻撃が有効だったりします。
 
牧悟郎というゴジラを研究していた異端の学者がいるのですが、すでに死んでいて、写真のみの出演という形になります。その写真が故・岡本喜八監督です。
「シン・ゴジラ」は岡本監督の「日本のいちばん長い日」を意識しているのかもしれません。また、岡本監督は「肉弾」など戦争の愚かさを描く映画を多数つくってきました。
 
牧悟郎は暗号化された謎の資料を残していて、それを読み解く方法は、その紙を折り鶴の形に折り曲げることでした。
「折り鶴」も平和のメッセージでしょう。
 
東日本大震災と原発事故を追体験でき、戦争についても考えさせられるということで、日本人なら誰が見ても損はない映画だと思います。
 

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「ドローン・オブ・ウォー」(アンドリュー・ニコル監督)を観ました。
この映画は従来の戦争映画とはまったく違います。戦争映画というよりも、「あるIТ技術者の日常生活と仕事の苦悩を描いた映画」に近い感じです。
 
アメリカ軍は前からアフガニスタンやパキスタンなどでドローンを使った攻撃をしていましたが、その実態はまったく報道されないので、イメージがわきませんでした。この映画はフィクションですが、「事実に基づく」という字幕が出るので、かなり現実に近いものではないかと思われます。報道統制がきびしいので、「アメリカン・スナイパー」もそうでしたが、戦争の現実を知るには報道よりも映画に頼らなければならない時代です。
 
イーガン少佐(イーサン・ホーク)はラスベガス近郊の空軍基地に勤務しています。基地には“ボックス”と呼ばれるコンテナのようなものがずらっと並んでいて、その中に入ってドローンの操縦をします。
操縦といっても、ドローンはほとんど上空を旋回しているだけなので、もっぱらモニターを見て、攻撃対象を発見するのが仕事です。「この地域に目標となる司令官がいる」というように、ある程度情報が提供されています。モニターは、人物が識別できるくらいの解像度があります。
ターゲットを特定すると、レーザーを照射し、ミサイルを発射します。着弾するまでに10秒前後かかります。
 
殺されるのはターゲットだけとは限りません。銃を持った武装グループを狙ってミサイルを発射すると、近くにいる民間人もいっしょにやられます。あるいは、発射したら、そこにボール遊びをしている子どもが走ってきて、ちょうどその瞬間に着弾します。
 
同じ地域をずっと監視していると、女をレイプするひどい男を発見します。しかし、この男はターゲットではないので、見逃します
 
イーガン少佐は仕事に疑問を持ちますが、そこにCIAが関与してきて、CIAの指示を受けて仕事をすることになります。上官は、CIAは軍の交戦規定とは別の規定を持っているが、それに従えと言います。
 
狙っていた司令官が車で帰ってきて家の中に入ります。家の中には妻と子どもがいることがわかっていますが、CIAはそれでも撃てと指示します。イーガン少佐はしかたなく撃ちます。
 
標的のいる家を撃つと、壊れた家から人を助け出そうと、人々が集まってきます。その連中はほとんど仲間だから、それも撃てと指示されるので、撃ちます。
 
司令官を殺すと、人々が遺体を運び出して、葬儀が始まります。葬儀には司令官の弟も参列するという情報が入ります。葬儀は数十人で行われますが、そこにもミサイルを撃ち込みます。
 
イーガン少佐の部下は、こんなことをしてはかえってテロリストをふやすだけではないかと言いますが、上官は、テロリストを見逃すとそれだけアメリカの安全が脅かされるという論理を示します。
 
ドローンは3000メートル以上の高空を飛んでいるので、地上からは見えないそうです。ミサイルも見えません。地上の人にすれば、突然爆発が起こり、人が死ぬわけです。まったく不条理な状況です。
 
イーガン少佐は毎日車で基地に通勤しています。家に帰れば妻と子どもがいますが、だんだん酒びたりになり、妻や子どもとの関係もうまくいかなくなります。
イーガン少佐は実際の戦闘機に乗る勤務を希望しますが、希望は叶えられません。
 
ドローン操縦の仕事は、誰にとっても過酷なようです。どんどん人が辞めていき、つねに新人を入れなければなりません。
 
普通の戦争は、こちらが撃たなければ相手に撃たれるという状況です。したがって、相手を撃つことは正当防衛という意味もあります。しかし、この戦争は、こちらは絶対的に安全ですから、一方的な殺戮です。
これが逆に精神的なダメージになるようです。
 
一方的な殺戮は、映画を観ていても楽しいものではありません。
わが身を危険にさらすからヒーローになれるので、この映画にはヒーローはいません。
ただ、ハリウッド映画らしく、最後に少しカタルシスがあるようなストーリーになっています。
 
この映画の戦争シーンは、すべでモニターの中の映像です。
ドローンが離着陸したり、ミサイルを発射したりするシーンもありません(基地に止まっているドローンは映ります)
CIAの人間も姿は現さず、ただ電話で指示してくるだけです。
それがバーチャルな戦争というものを実感させてくれます。
 
そんなに楽しい映画ではありませんが、今の戦争を知るということではとてもいい映画です。 

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「チャッピー」(ニール・ブロムカンプ監督)を観ました。
ニール・ブロムカンプ監督といえば、「第9地区」で、宇宙人が地球人に差別されるという意表をついた設定で世の中をあっと言わせました。
ブロムカンプ監督は南アフリカの人です。欧米の人とは物事の見方が正反対です。
 
「エリジウム」では、やはりSF的設定で格差社会と移民問題を描きました。
今回の「チャッピー」では、人工知能を備えたロボットと犯罪を描いています。
 
舞台は2016年の南アフリカのヨハネスブルグです。犯罪が横行し、ギャングと警察が激しく抗争しているというのは、現実そのままでしょう。
ただ、ひとつ違うのはロボット警官が多数導入されているところです。
 
軍用・警察用ロボット製造会社に勤める技術者のディオン(デヴ・パテル)は、ロボットに搭載する人工知能をつくりだしますが、経営責任者(シガニー・ウィーバー)に採用してもらえず、やむなく壊れて廃棄予定のロボット警官に人工知能をインストールします。これがチャッピーです。
 
チャッピーは最初赤ん坊のようなもので、学習しながら成長していきます(実際の人工知能も学習しながら“人格”形成していくもののようです)
しかし、チャッピーはギャングに奪われ、ギャングの男女を親だと思い、そのため自動車泥棒などをするようになります。
 
しかし、チャッピーはもともと壊れたロボットであるために7日間しか生きられません。チャッピーはディオンの力を借りて自分の人工知能をほかのロボットに転送して生き延びようとします。
 
一方、ディオンのライバルである技術者のヴィンセント(ヒュー・ジャックマン)は、人間が操縦する強力な攻撃力を持ったロボットを開発していますが、ディオンが違法なやり方でチャッピーをつくったことに気づきます。そして、ギャングたちはチャッピーを使って現金輸送車襲撃を実行しようとしますが……。
 
チャッピーが学習して成長していくところは、ストーリーが進展しないのでちょっとだれる感じがありますが、それ以外は、“命”を持ってしまった人工生命の“死”の悲しみ、親と子の絆、“命”の創造者となってしまった技術者の苦悩、ギャング同士の抗争、ギャングと警察の闘い、ロボット製造企業のもうけ主義など、さまざまな要素がてんこ盛りで、飽きさせません。
 
 
私がとくにおもしろいと思うのは、ブロムカンプ監督の善と悪についての常識を超えた発想です。
無垢なチャッピーが“親”に教えられた通りに自動車泥棒をすることは誰も責められません。ということは、たとえば南アフリカの犯罪地域で育った者の多くも同じではないかということを考えさせられます。
 
また、キャスティングにもブロムカンプ監督の独特の狙いがあると思われます。
「エリジウム」では、SF映画の王道をいく「コンタクト」で正義の科学者を演じたジョディ・フォスターを、富裕層の社会を守る冷酷な防衛長官に配しましたが、今回は、「エイリアン」でヒロインを演じたシガニー・ウィーバーを、ロボット会社のもうけ主義の経営責任者に配しています。
これは明らかに既成の価値観をひっくり返そうというブロムカンプ監督の狙いではないでしょうか。
 
また、白人のシガニー・ウィーバーとヒュー・ジャックマンを悪役に配し、インド人のデヴ・パテルを人工知能をつくりだした“創造者”に配しているところにも、南アフリカで白人による人種差別を目の当たりにしてきたブロムカンプ監督の意図が感じられます。
 
ハリウッド映画の基本路線は、犯罪者やテロリストを、人を人とも思わずに抹殺していくというものです(アメリカの実際の犯罪対策やテロ対策も同じようなものです)
そうした映画ばかり見ていると、現在問題になっている安保法制についてもまともな判断ができなくなってしまいます。
「チャッピー」は、犯罪者や人工知能も同じ人間であるということを考えさせてくれる映画です。

ディズニー映画の「シンデレラ」(ケネス・ブラナー監督)を観ました。
 
このところ「アナと雪の女王」「マレフィセント」と、童話を題材にしたディズニー映画を観てきましたが、“王子様のキス”の価値が暴落しています。明らかにディズニー映画の価値観が変わっているのです。今回はどうなのでしょうか。誰でも知っているストーリーを今さら実写版でやるのですから、なにか新機軸があるはずです。
 
そう思って見始めましたが、ストーリーは思いっきりオーソドックスです。ほとんど原型のグリム童話そのままです。カボチャの馬車もガラスの靴も出てきます。
 
グリム童話と明らかに違うのは、シンデレラが舞踏会の前に王子と森の中で出会うところです。このとき王子は恋に落ちて、再びシンデレラと会うために国中の未婚の女性を招待した舞踏会を開催するわけです。
また、王子はシンデレラの顔を知っているのになぜガラスの靴に合う娘を探すのかといったことも、不自然にならないようにうまく設定されています。
 
王子は好青年ですし、シンデレラも計算高くガラスの靴を置いてきたなんていう女性ではありません。

舞踏会にシンデレラが美しいドレスで現れるシーンは、実写版ならではの壮麗さで、女性にはたまらないのではないでしょうか。
誰が観ても楽しめるディズニーらしい映画です。
 
グリム童話そのままのストーリーですから、最初は新機軸らしいものはなにもないと思いました。ただ、シンデレラをいじめる継母の側の事情も描いているところは新しいといえます。
 
シンデレラは両親から愛されて育ちますが、母親が病気で亡くなり、父親が再婚相手を連れてきます。
継母はあやしげな雰囲気の人間で、猜疑の目でシンデレラを見ます。しかし、継母が実の母のように子どもを愛してくれるということはめったになく、世の中はこれが普通でしょう。シンデレラは自分の部屋を義理の姉に譲らされ、屋根裏部屋に追いやられますが、前向きに受け止めます。
 
父親は亡くなった妻のことが忘れられず、シンデレラと亡き妻のことを語り合ったりします。それを継母が見てしまいます。これは継母が傷ついて当然でしょう。こうしたことが2度ほど繰り返されます。そして、父親が死ぬと、継母と義理の姉2人による本格的なイジメが始まります(義理の姉2人はただのバカっぽい人間として描かれます)
 
こうした継子イジメは、もともとのグリム童話にあるものですが、それをそのまま描いたところが新機軸ともいえます。
 
というのは、これまでのシンデレラの物語は、あくまで魔法の力で王子様と出会って結ばれるということに力点が置かれていたからです。
つまりこれは「恋愛第1、家族第2」という構成です。主人公が幸せになるのは恋愛によってです。
 
ところが、最近のディズニー映画は「家族第1、恋愛第2」という構成になっています。
「アナ雪」は、親から個性を封印されて育った姉が妹の力を得て自己回復を図るという物語ですし、「マレフィセント」は、オーロラ姫の呪いを解くのは王子様のキスではなく、親代わりとしてオーロラ姫を育てたマレフィセントのキスです。
 
今回の「シンデレラ」も、王子様との結婚で幸せになるという物語に見えるかもしれませんが、それよりも自分をイジメた継母との関係を清算することで幸せになるという物語と見るべきでしょう。それは最後の重要な台詞がシンデレラから継母へ向けられたものであることを見てもわかります。
 
私は「アナ雪」は親から個性を封印されて育った姉が妹の力を得て自己回復を図る物語だと言いましたが、こうした見方をする人はほとんどいません。親子関係にある問題というのは見えにくいものなのです。
 
ケネス・ブラナー監督といえば、私は「フランケンシュタイン」を思い出します。たいへん感動的な映画でしたが、当時はあまり評価されませんでした。もしかして早すぎたのかもしれません。
ウィキペディアを見ると、ケネス・ブラナー監督は「フランケンシュタイン」について、「父親に愛されなかった息子の物語」だと語ったということです。
そうするとこの「シンデレラ」については、「母親に愛されなかった娘の物語」だと語るのでしょう。
 
このように考えると、「アナ雪」「マレフィセント」「シンデレラ」と、最近のディズニー映画は家族関係、中でも親子関係をテーマにした映画をつくり続けているということになります。これがヒット連発の理由でしょう(もっとも、ヒロインが継母からイジメられながらも成長して幸せをつかむという物語は、昔は童話やマンガや少女小説にいっぱいあったので、先祖返りしただけともいえますが)。

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クリント・イーストウッド監督の「アメリカン・スナイパー」を観ました。
アメリカではクリント・イーストウッド監督の作品としては過去最高の興行収入をあげ、日本でも公開された週の興行成績はトップでした。イスラム国の問題が関心を集めているというタイミングもよかったのでしょう。
 
イラク戦争で160人以上を射殺し、“レジェンド”といわれたスナイパー、クリス・カイルの自伝が原作です。
敵のほうにも、オリンピック出場経験のあるムスタファという凄腕のスナイパーがいて、その対決がストーリーの軸になっていて、多少エンターテインメント色がついています。
 
クリス・カイルはテキサス生まれ、ロデオが好きな、典型的なアメリカ人です。父親からは「人間は羊・狼・番犬の三種類しかいない。お前は羊になるな、羊を守る番犬になれ」という教えを受けます。そして、9.11テロを目の当たりにして、アメリカを守る番犬になるため志願してアメリカ海軍特殊部隊ネイビーシールズに入隊してスナイパーになります。
 
イラクに派遣されると、「仲間を守る」という行動原理で敵をやっつけ、仲間の海兵隊員を救い、功績をあげていきます。
彼らの敵はザルカウィ一派であり、中でもザルカウィの副官で“虐殺者”のあだ名で呼ばれる男です。
“虐殺者”はとにかく残虐で、電気ドリルで子どもを殺したりします。
 
敵が残虐であるということは、こちら側が正義であるという理屈になりがちです。アメリカでは、おおむねこの映画は愛国者に歓迎されたようです。
 
しかし、この映画は単純に「アメリカは正義、敵は悪」というものではありません。「硫黄島からの手紙」と「父親たちの星条旗」をつくったイーストウッド監督がそんな描き方をしないのは明らかです。
 
朝日新聞にイーストウッド監督のインタビューが載っていて、それによると、原作には「野蛮」という言葉はなかったそうですが、クリス・カイルに問いただすと、実際には「野蛮」という言葉を使っていたということで、映画には「野蛮」や「蛮人」という言葉が出てきます。つまりアメリカ兵は敵を「野蛮」と見なしているのです。

「野蛮」といっているのはとりあえず敵の武装グループのことですが、イラク人やイスラム教徒全体を「野蛮」と見なしているということも否定できません。
 
これはイラク戦争の本質だと思います。
イーストウッド監督はちゃんと本質を見抜いて、映画に表現したのです。
 
この映画には、主人公のクリス・カイルとイラク人の人間的な交流は描かれません。
彼が守ろうとするのはあくまで仲間であるアメリカ兵です。イラク人を守ろうとするのではありません。
 
ハリウッドのエンターテインメント映画のお決まりのパターンであれば、まず主人公とイラク人少年の人間的な交流が描かれます。そして、邪悪な敵が現れて少年や町の人々が危機に瀕し、主人公が英雄的な戦いで敵を打ち負かします。ラストシーンは主人公が少年や町の人々の歓呼に迎えられるというものです。
 
しかし、この映画では主人公たちとイラク人との交流がないので、そのような展開にはなりようがないわけです。
 
原作がノンフィクションですし、この映画はイラク戦争の実態をかなり正確に描いているのではないかと思われます。
 
ベトナム戦争のときは多数のジャーナリストが戦場に入り込み、戦争の実態を伝えました。そのため反戦運動が高まったということがあったので、アメリカは湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争では徹底的な情報統制を敷き、私たちは戦争の実態がまるでわかりません。ですから、そういう意味でもこの映画は貴重です。
 
戦場帰りの兵士が精神を病み、家庭生活がうまく営めなくなるというところも描いています(ちなみに自衛隊員でイラクに派遣されたのちに自殺した人は28人にもなるということで、日本人にとっても人ごとではありません)
 
予告編で暗示されているように、クリス・カイルが女性や子どもを射殺するシーンもあります。それでいて戦闘シーンはそれほど派手ではないので、痛快な戦争エンターテインメント映画というわけにはいきません。
しかし、イラク戦争、さらには現在行われているイスラム国との戦いについて考えるにはとてもいい映画です。

映画「マレフィセント」を観てきました。
「アナと雪の女王」と連続してディズニー映画を観たわけですが、どちらも「王子さまのキス」になんの価値もないことに笑ってしまいました。ディズニーは思想的に“転向”したのでしょうか。
 
「マレフィセント」では、眠り姫は「真実の愛のキス」によってしか目覚めることができません。王子は単に姫の美貌に一目惚れしただけですから、王子のキスで目覚めないのは当然かもしれません。
では、「真実の愛」はどこにあるのかというと、結局、姫が生まれたときから見守っていた者の心にあったのです。
生まれたときから見守ってきたということは、親の子に対する愛とか家族愛ということになります。「アナと雪の女王」も姉妹愛の物語でした。
恋愛よりも家族愛がたいせつにされるのは、ディズニーに限らず時代の流れでもあります。今では映画でも小説でも家族愛の花盛りです。
 
家族愛といえば、今騒がれている佐世保高1同級生殺人事件の加害少女の家に家族愛はあったのでしょうか。
父親は有名弁護士で高収入、亡くなった母親は東大卒で、教育委員を長く務めるなどした社会的名士、家は地上2階地下1階、家の中にはエレベーターがあり、庭には錦鯉の泳いでいる池があるという豪邸。そして、加害少女は勉強がよくできて、ピアノ、絵画、スケート、スキーでも優秀だったということで、「人もうらやむエリート一家」と報道されています。
しかし、そこに家族愛があったという報道はありません。
 
父親は、昨年10月に妻が亡くなるとすぐに婚活パーティに出席し、21歳年下の女性と再婚しました。妻が亡くなってすぐ婚活してはいけないという法はありませんが、妻の死を重く受け止めていたらそういうことはできません。
 
この父親はどういう人間かということに興味がわきますが、5月に親しい友人らに新妻のプロフィールをビラにして配っていたということで、「フライデー」8月2229日合併号にそのビラが掲載されていました。
それはこのようなものです。
 
■■■■■■■■■のプロフィール
旧姓 ■■■■■■
■■■出身 昭和■■年■月■■日生 ■■歳(本日が誕生日です)
■■■■■大学経済学部卒 法科大学院卒(法務博士)
 
職業(しばらくは、残務や引き継ぎのため、佐世保と東京を往復する予定です)
◎芸能界関係のお仕事 テレビCM等に出演する動物(ソフトバンクドッグの「お父さん・白戸次郎さん」など)の演技指導など(下記写真のとおり)
◎特技の乗馬経験を活かして、■■■■■■■■■■■■と■■■■■■■■■■■■の事務・大会運営等の事務
 
趣味は、乗馬、水泳、自転車、ピアノ(かなり上手です)。幼少の頃は、日本舞踊や新体操もしていました。明るく社交的な女性です。今後とも、夫婦ともども宜しくご指導下さい。
 
結婚の報告として、夫婦連名で「今後宜しくお願いします」という挨拶状を配るならわかりますが、これはあくまで新妻のプロフィールです。
自分の妻を自慢しているとしか思えません。
まるで高価なオモチャを買ってもらった子どもが友だちに自慢しているみたいです。
 
この父親にとって妻とは、人生の伴侶というよりも“自慢の品”なのでしょう。
 亡くなった妻も東大卒ですから、この父親にとっては自慢の妻だったのでしょう。
加害少女が成績優秀で、ピアノや絵画やスポーツもよくできたというのも、自慢できる娘であってほしいという父親の願望に応えていたのでしょう。
 
この父親はすごい“自慢しい”で、職業も収入も家も家族も全部自慢できるものにしたいのです。そのために司法試験に合格し、すぐに婚活パーティに参加するなど、努力もしています。しかし、“自慢の品”と見られる家族はたまりません。
いや、おとな同士の関係ならそれで割り切れるかもしれませんが、子どもはそうはいきません。
 
 
では、加害少女はどんな人間だったのでしょうか。親しい同級生を殺して首を切断するぐらいですから、人間の心を持たないような、異常な人間だと思われているかもしれません。
「女性自身」8月1926日合併号に加害少女が中学時代に書いた作文が掲載されていましたので、紹介してみます。
 
 
「数える」
僕が人生で本当のことを言えるのは、これから何度あるだろうか。
 
人生で、
涙ぐむほど美しいものを見ることは、
悲しみに声を枯らすことは、
お別れのあいさつを書くことは、
好きな人と手をつなぐことは?
 
数えたら、きっと拍子抜けするだろう。
 
いま人生を始めたばかりの薄い肩に、どこまでも水平線が広がっている。
あまりにも短い航海の間、僕は何度心から生を叫べるか。
正の字つけて数えておこう。
 
この人生の幕引きに笑ってお辞儀ができたなら、
僕はきっと幸せです。
 
 
これを読むと、ちゃんと“人間の心”があります。
表面的には絶望と悲しみを表現していますが、その背後に幸せになりたい、人間らしく生きたいという思いがあります。
 
妻を自慢のタネとしか考えていない父親より、娘のほうがよほど人間的に思えます(このへんは人によって感じ方が違うでしょうが)
 
とはいえ、この娘が恐ろしい殺人事件を起こしたのは事実です。
 
映画「マレフィセント」の主人公マレフィセントは、予告編に出てくる姿は完全に魔女に見えますが、実際はもともと翼の生えた妖精だったのです。しかし、信頼していた人間に裏切られ、翼を切り取られてしまいます。そして、その憎しみから、自分を裏切った人間に赤ん坊ができたとき、その赤ん坊にはなんの罪もないにも関わらず呪いをかけてしまいます。
 
加害少女もなんの罪もない同級生を殺してしまいましたが、もしかすると翼を切り取られた妖精だったのかもしれません。

今さらながら「アナと雪の女王」(2D/日本語吹き替え版)を観てきました。
興行成績は250億円を越え、「千と千尋の神隠し」「タイタニック」に続く歴代3位になったというのも納得の出来でした。
 
もうすでに論じ尽くされていて、今さら私が付け加えることはないかなあと思いながらヤフー映画レビューを見ていると、ストーリーに不満な人が意外とたくさんいます。また、ほめている人も、このストーリーのほんとうのよさに気づいていないのではないかと思われます。
ということで、私のとらえ方にも独自のことがあるかなと思って、ストーリーについての自分の考えを書いてみます(以下はネタバレになります)
 
この物語は「王子さまのキスでお姫さまが救われる」という伝統的な物語の枠組みを踏襲していないので、そこを評価する人もいれば、不満な人もいるというのはわかります。しかし、この物語にはほかにも斬新なところがいくつもあります。
 
王女エルサは、触れるものは何でも凍らせる魔法の力を持っています。なぜ魔法の力を持っているかの説明はありませんし、妹のアナにそうした力はないので、持って生まれた性質、個性というしかありません。
ただ、個性とはいっても、常識で理解できる範疇を超えています。
ですからこれは、親にとっては発達障害みたいなものかもしれません。たとえばアスペルガー症候群の人は、特定の分野に驚異的な能力を発揮することがあり、それに似ています。
 
それが個性や発達障害なら親は受け入れるしかありませんが、エルサの両親は、魔法の力を危険なものととらえて、手袋をはめさせ、力を封じ込めようとします。
 
そして、エルサの両親はあっけなく海難事故で死んでしまいます。
死んでしまったあとは、すぐに忘れられてしまいます。「ご両親があなたに手袋をはめるように言ったのは、あなたを思ってのことですよ」などという面倒くさいシーンもありません。
幼い主人公の両親がこれほどあっけなく、なんの余韻もなく死んでしまう物語はこれまでなかったと思います。
 
この物語は、「王子さまのキス」に価値がないという点で画期的ですが、「親の愛」や「親の恩」に価値がないという点でも同様に画期的です。
 
エルサは親に言われた通りに魔法の力を封印しようとしますが、うまくいかず、とうとう戴冠式の日に魔法の力を暴走させてしまいます。そして、エルサは一人で山に向かいますが、そのとき、「ありの~ままで~」の歌の通りに、ありのままの自分を受け入れて生きていこうと決心し、これが前半のクライマックスになります。
 
 
しかし、エルサが魔法の力の封印を解いたために、王国が冬の世界になってしまいます。妹のアナはエルサを救い、冬を終わらせるために山に向かいますが、この時点で、どうすればエルサを救い、冬を終わらせることができるのかわかりません。エルサは自分でも魔法の力を制御することができないからです。
 
しかし、これは最終的にうまくいきます。アナは自分を犠牲にしてエルサを救おうとし、アナの愛を感じたエルサは、アナを救うと同時に、魔法の力をコントロールする術を身につけます。
ここのところは論理的にうまく説明できているとはいえず、ちょっと納得いかない感が残ります。
 
ともかく、アナの愛によってエルサは魔法の力をコントロールすることができるようになったわけですから、最初に戻って考えると、両親がエルサの魔法の力を抑えるのではなく、ありのままを受け入れていれば、エルサは魔法の力をコントロールすることができていたのではないかと想像されます。
 
つまりこの物語は、親が十分に子どもを愛することができなくても、姉妹が力を合わせて自立を勝ち取っていくことの感動を描いたものです。
 
もちろんそれだけではなく、後半は男と女の関係が中心に描かれます。
親子関係という縦軸と、男女関係という横軸から物語が成り立っているといえます。
ただ、男女関係というのは誰でも認識できますが、親子関係を認識できる人はほとんどいないので、私のこの記事が新しい認識を提供することになるかもしれないと思って書いてみました。
 
 
ところで、私はエルサが魔法の力を持っていることを発達障害にたとえましたが、発達障害に詳しい岡田尊司氏は「発達障害と呼ばないで」という著書において、「発達障害」は「非定型発達」と言い換えるべきだと主張しています。つまり「正常な発達」に対する「異常な発達」というとらえ方をするのではなく、人間にはさまざまな発達の仕方があり、その中のひとつだというとらえ方をするべきだということです。
 
また、発達障害とまではいえない普通の個性であっても、それを受け入れられない親がいて、子どもの個性を抑えつけたり矯正したりしようとしています。つまりエルサの境遇に共感できる要素は幅広く存在していて、それもヒットのひとつの理由かと思われます。

映画「永遠の0」が観客動員ランキングで8週連続1位となり、「風立ちぬ」の記録に並んだということです(9週目は2位)
私はそれほどおもしろい映画とは思わなかったのですが、ヒットするにはそれなりの理由があるはずで、それについて考えてみました。
 
たまたま2月から3月にかけてCSの「日本映画専門チャンネル」で戦争映画をまとめてやっていたのですが、番組表の五十音順のインデックスを見ると、冒頭にこんなタイトルが並んでいます。
 
「あゝ海軍」
「あゝ零戦」
「あゝ特別攻撃隊」
「あゝ陸軍 隼戦闘隊」
 
そのほかに「海軍兵学校物語 あゝ江田島」というのもあります。
 
これはみんな大映作品ですが、「あゝ」シリーズという呼び方はないはずです。要するに当時の気分として、戦争を描くときには「あゝ」という詠嘆が似合っていたのでしょう。
ほかに「連合艦隊」(東宝)や「聯合艦隊司令長官 山本五十六」(東映)というのもあります。
これらはすべて割と戦史に忠実につくってあり、太平洋戦争を描いているというのも共通しています。
当然映画の結末は重苦しいものとなり、「あゝ」といいたくなるのもわかります。
 
私は「永遠の0」を観たとき、これらの映画と比較して、リアリティがないなと思いました。
しかし、考えてみると、日本の戦争映画には別の系統もありました。
 
それは、岡本喜八監督の「独立愚連隊」シリーズと、勝新太郎主演の「兵隊やくざ」シリーズです。
どちらも戦争エンターテインメント映画で、軍隊では本来存在を許されないような型破りな主人公が活躍します。そういう意味でリアリティはありません。
戦史とはほとんど関係なく、どちらも中国戦線を舞台にしています。
なぜ中国戦線かというと、太平洋方面では悲惨な敗北をするので、エンターテインメント映画はつくりにくいからでしょう。
 
「永遠の0」は、太平洋戦争を舞台に、戦史に忠実につくられていますが、軍隊では本来存在を許されない型破りの主人公が活躍する戦争エンターテインメント映画です。
主人公は天才的なパイロットで、軍隊の論理ではなく家族のためという自分の論理で行動しますが、最後は軍隊の論理でもヒーローとなり、家族のためという論理でもヒーローになるというスーパーヒーローです。
つまり、ふたつの系統のいいとこ取りの物語となっています。
 
ですから、シリアスな戦争映画が好きな観客にも受けるし、家族もの、恋愛もののエンターテインメント映画が好きな観客にも受けるというわけです。
それが異例のヒットの理由ではないでしょうか。
 
 
ところで、「永遠の0」は戦争肯定ではありませんし、特攻作戦にも否定的ですが、にもかかわらず、最終的には特攻による死を美化した映画となっています。
これは原作者の百田氏の心の中にある矛盾からきているのでしょう。
矛盾というのは、表面的には平和を望んでいるといいながら、半ば無意識に戦争を望む気持ちがあるということです。
 
「永遠の0」では、ミッドウェー海戦において、敵空母発見の知らせがきたとき、艦載機には陸用爆弾が搭載されていたので、陸用爆弾を艦船用爆弾と魚雷に取り替えようとし、そうするうちに敵の爆撃機に攻撃され、1発被弾しただけで誘爆が起きて、たちまち4隻の空母が撃沈されるというシーンがあります。山本五十六長官は魚雷を搭載した艦載機をつねに用意しておけと命令していたのに現場は従わなかったこと、陸用爆弾でもいいからすぐに出撃するべきだという意見が無視されたことも描かれます。
これとまったく同じシーンが「連合艦隊」や「聯合艦隊司令長官山本五十六」や「あゝ海軍」にもあります。
つまりこれは太平洋戦争のターニングポイントなので、どうしても無視できないところです。
敵空母はいないだろうという油断、陸用爆弾で艦船を攻撃するものではないという杓子定規な考え方が敗北を招いたのです。
 
この場面にこだわるのは、敗戦の悔しさがあるからです。
世の中には、どうせ負ける戦争だから、そんなことは関係ないと考える人もたくさんいるはずですが、勝ち負けにこだわる人、負けたことに納得いかない人もいます。そういう人は心の奥底で、リベンジしたいと思っています。
 
私は前にこのブログで、戦争を望む心理についての記事を書いたことがあります。
 
「老人たちの望む戦争」
 
「永遠の0」の原作者である百田尚樹氏はもちろん戦後生まれですが、あの戦争に負けたことが悔しくて、リベンジしたい心理があるのでしょう。
 
百田氏は東京都知事選のときの田母神候補の応援演説の中で、「東京大空襲や原爆投下は米軍による大虐殺だ。東京裁判はそれをごまかすための裁判だった」といいました。
 
また、百田氏は2月にイランを訪問し、記者団の前でアメリカの原爆投下を非難し、「私はあるときアメリカのやったことを強く非難したが、彼ら(アメリカ人)は私のこの言葉に不快感を示し、私を普通ではないといったが、私は普通ではないのはアメリカ人のほうだと思う」と語り、これはイラン国営放送で大きく報道されたそうです。
 
百田氏は安倍首相のお友だちで、昨年12月には2人で対談集も出しています(これが「日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ」という恥ずかしいタイトルです)
 
安倍首相の心中にも百田氏と同じような反米の思いがあるに違いありません。国会答弁で、「教育基本法は占領時代につくられたが、衆参両院で自民党単独で過半数をとっていた時代も手を触れなかった。そうしたマインドコントロールから抜け出す必要がある」とか「憲法や教育制度を私たちの手で変えていくことこそが、戦後体制からの脱却になる」と語っています。
 
百田氏は明白に反米の姿勢を出していますが、安倍首相はうわべは親米、心中は反米という状態です。この矛盾が今後どういう形で表面化するのか、今いちばん気になることです。

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