アニメ「この世界の片隅に」(片淵須直監督)を観て、これは今年のベスト1だと思いましたが、そのあとじわじわと感動の波がきて、これは五年に一度か、もしかして十年に一度の傑作かもしれないと思うようになりました。
このようにあとから効いてくる映画はめったにありません。
どうして感動するのかについていろいろ考えました。ネタバレにならないように、ふたつの点について書いてみます。
この作品の魅力はまず、時代考証がすごくて、戦時下の生活がリアルに描かれていることです。食糧難、配給制、隣組、空襲など、知識としてはわかっているつもりでしたが、主人公の体験として描かれると、「ああ、そうだったのか」と、いちいち納得させられます。
と同時に、それまでの知識は偏っていたなということも感じさせられます。
たとえば空襲というと、町が火の海になって命からがら逃げた、死体をいっぱい見た、グラマンの機銃掃射を受けて隣にいた人が死んだ、というようなことばかりです。「火垂るの墓」も「はだしのゲン」も基本的にそういうものです。しかし、それらはみな極限状態で、めったにないことです。日常的にあるのは「自分のところに爆弾が落ちてこない空襲」です。
主人公すずの住んでいる呉は軍港のある町であり、米軍の空襲が頻発します。米軍機が接近してくると、高射砲の発射音、空中での炸裂音がドカン、ドカンと響き、空に弾幕が広がり、高射砲弾の破片がバラバラと降ってきます。空襲とはこういうことかと体験した気持ちになります。
高射砲弾が炸裂した煙が色とりどりに描かれるシーンがあり、「あれ?」と思いましたが、のちに軍オタの人が書いたレビューを読むと、日本軍は高射砲弾の煙に色をつけていたので正しく考証ができているということでした(どの高射砲から撃った弾かを識別して、弾道を修正するためです)。
リアルな描写を見て、私も亡き父親の言っていたことを思い出しました。
私の父親は海軍の技術将校で、呉と横須賀に勤務したということです。原爆の話は聞いたことがないので、戦争末期は横須賀だったのでしょう。空襲のときに空を見ていると、高射砲弾が米軍機の後ろでばかり炸裂していて、なんでもっと前を狙って撃たないのかと思ったという話をしていました。
中学生ぐらいだった私は、高射砲は米軍機の進む先を狙って撃っているはずで、そんなバカなことはないだろうと反論したのを覚えています。
しかし、実際はそういう間抜けな光景があったのでしょう。
ちなみに父親は、戦争中は毎日ビールを飲んでいたと言っていました。戦争中に苦労したという話は聞いたことがありません。むしろいい目をしていたのでしょう。戦争体験といっても人によってさまざまです。
戦時下の庶民の生活というと、竹やり訓練、バケツリレー、勤労動員といったことばかり取り上げられますが、それはごく一部でしかなく、この映画を観ていると、そうした認識の偏りが訂正され、当時の生活の全体像が見えてきます。
それがこの作品の大きな魅力ですし、多くの人に見てほしいと思うゆえんです。
作品の最後のころになると、主人公すずも身近な人を亡くし、自身も大きな苦難に見舞われます(ネタバレにならないよう微妙な書き方になっています)。
こういうとき、主人公は努力して苦難を克服し、その姿に観客は感動するというのが物語の常道です。
しかし、この作品では、すずは苦難を克服しません。少なくともそこまでは描かれません。ただ苦難を受け止めるだけです。
これがこの作品の感動の深さではないかと思いました。
この反対がいわゆる「感動ポルノ」です。
障害や難病を負った人が努力して障害や難病を克服する姿をメディアが描いて感動を呼ぶというのが「感動ポルノ」です。
「障害を克服した障害者」は健常者と同じですから、健常者のフィールドに迎え入れられます。
しかし、「障害を克服した障害者」などというのはフィクションでしかありません。
だから「感動ポルノ」と呼ばれるわけです。
「障害を克服した障害者」の姿に感動する人は、障害者差別の感情を持っているに違いなく、その感動は偽物と言わざるをえません。
すずは大きな苦難を背負ってしまいますが、克服はせず、ただ受け入れています。
しかし、受け入れているところに人間の強さがあり、そこに本物の感動があります。
つけ加えると、その強さは、周りの人間の絆や、育ててくれた両親の愛があったからこそと思われます。
「この世界の片隅に」は、いろいろなことを考えさせてくれるすばらしい作品でした。