村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

カテゴリ: 生物学的経済学

経済学の入門書を読むと、たいてい「一物一価の法則」というのが書いてありますが、果たしてこれは「法則」というほどのことでしょうか。これは「当たり前」というべきです。初歩の段階で「一物一価の法則」を学んでしまうと、そのあとのことが頭に入りにくくなってしまいます。
経済学でだいじなのはむしろ「価格変動の法則」でしょう。同じ物でも場所と時間で価格が変動するということを理解すれば、「一物一価の当たり前」はどうでもよくなります。
 
価格変動といえば、需要と供給の法則ということになりますが、需要にせよ供給にせよ抽象的な概念です。そもそも需要とはどうして発生するのでしょうか。こういうことは具体的なことから説明してほしいものです。
 
人間が生きていくにはまず空気が必要ですが、空気はどこにでもあります。水もそれほど苦労せずに手に入ります。問題は食糧です。食糧がないと生きていけませんが、食糧を手に入れるのは簡単なことではありません。
これはどんな動物でも同じです。動物の最大の関心事は食糧を得ることです(次に子孫を残すことです)。食糧を得られないために死んでいく個体はつねに少なからずいます。
 
ですから、人間もつねに食糧を得るために必死であるわけですが、もともと人間は自分の食べるものを自分で得ていて、つまり自給自足の生活をしていたわけで、そうすると市場もありませんし、需要と供給も、価格変動もありません。
しかし、あるとき物々交換が始まりました。こうして市場ができ、経済学が存在する理由ができたわけですが、物々交換はどうして始まったのでしょうか。
物々交換は、双方ともに得だと思うことで成立するのですが、どうして物を交換することで双方が得をするのでしょうか。
これは人間の生理的欲求の性質によります。この生理的欲求は生物学的に規定されています。
 
山の民は主に獣の肉を食べて暮らし、海の民は主に魚を食べて暮らしていますが、いつも同じものを食べていると飽きてきて、別のものを食べたくなります。別のものを食べるとおいしく感じます。これは人間の生まれついての性質で、生物学的に規定されています。そうしてさまざまな栄養素を取り込むことができるわけです。
つまり、山の民はたまに魚を食べると獣の肉よりもおいしく感じ、海の民はたまに獣の肉を食べると魚よりもおいしく感じます。双方がまずいものをおいしいものと交換したと思うから、物々交換が成立するのです。
 
これはあくまで人間が生物学的存在だからです。このことを無視して物々交換の発生を説明することはできないと思います。
 
しかし、経済学の本には、人間の生理的欲求だとか、本能だとか、生物学的要素だとかはめったに書かれていません。たいていは、いきなり市場における価格決定のことから書かれています。
 
経済学の入門書は、人間がほかの動物と同じように暮らしていたところから書き出すと、とてもわかりやすくなると思います。
 

経済学に「限界効用理論」というのがあります。私はこれがどういうことかわかりませんでした。経済学の入門書を読んでもわからないし、経済学部の友人に聞いてもわからない。あるとき、NHK教育テレビでアニメを使って説明しているのをたまたま見る機会があり、今度こそわかるかと思って集中して見ましたが、やはりわかりませんでした。
 
私は、モノの価値というものを経済学はどう説明しているのかが知りたかったのです。マルクス主義経済学では労働価値説というのがあり、これが正しいかどうかは別として、考え方としてはわかります。それに対して、近代経済学では効用価値説というのがあるのですが、この「効用」というのがよくわからないのです。「効用」を理解するには「限界効用」を理解しなければならないのかと思ったのですが、結局「限界効用」もわからないということになってしまいました。
 
もっとも、こういうことはわからなくても困りません。今は市場というものが成立しているので、市場においてモノの価値が決定されるからです。そういう意味では、労働価値説でも効用価値説でもどっちでもいいということになります。
しかし、市場が成立する以前にもモノの価値はあったわけですから、私はそれが知りたかったわけです。
いろいろやってもわからないというのは、私の頭が悪いからだと思って諦めていましたが、やはり納得いかない思いが残ります。
 
ということで、今回ちょいと思いついて検索してみると、「限界効用」も「効用」もわかりました。そして、今までなぜわからなかったかもわかりました。私の問題意識が経済学とずれていたのです。
「限界効用」とはこのようなもののようです。
 
消費者が財を消費するときに得る欲望満足の度合いを効用という。しかし同じ1枚のパンの効用も、1枚目と2枚目とではその大きさは異なるであろう。通常は、1枚目のパンの効用よりも2枚目のそれのほうが小さく、さらに3枚目はもっと小さくなる傾向がある。このように、財の消費量が増加していくときの追加1単位当りの効用を限界効用といい、財の消費量の増加とともに限界効用がしだいに減少することを「限界効用逓減(ていげん)の法則」(または「ゴッセンの第一法則」)という。
(Yahoo!百科事典「限界効用」より)
 
 
なるほど、一枚目のパンより二枚目のパンの価値が小さいというのはよくわかりますし、それが法則化されているというのもわかりました。
しかし、私が知りたかったのは、一枚目のパンの価値はどうして決まるのかということなのです。そういう問題意識で経済学の入門書などを読んでいたので、ぜんぜんわからなかったのです。
 
一枚目のパンの価値について、経済学者はちゃんと論じているでしょうか。論じていないのではないかと思います。
文系の学問がだめなのはここです。いちばん根底のところをないがしろにしているのです。
 
一枚目のパンの価値を論じようとすると、人間はパンなしでは生きていけない存在、つまりただの動物であることを認めなければなりません。これは当たり前のことですが、とくに欧米の学者は認めたくないようです。そのため、経済学の根本のところがいい加減になってしまうのです。
 
たとえば、「水とダイヤモンドのパラドックス」といわれるものがあります。これも人間が動物であることをごまかしているので、よくわからない説明しかできていません。
 
価格の表す希少性は、効用とは区別すべき概念である[1]。伝統的には水とダイヤモンドを例として価値と価格のパラドックスを問題にしたアダム・スミスがいる。水はそれなしで人間が生きていけない程効用の大きなものであるが、豊富に供給されているためその限界効用(後述)は小さくなっており、市場価格は非常に安いものとなっている。一方、ダイヤモンドは単なる装身具であり、水に比べて効用は小さいが非常に希少であるため限界効用が大きく市場では高い価格で取引される。これが水のない砂漠であれば、人は容易に一杯の水のためにダイヤモンドを手放すであろう。水に希少性が出てきたのでダイヤモンドの限界効用を上回ってしまうためである。
(ウィキペディア「効用」より)
 
ウィキペディアにかみついてもしょうがないのですが、ウィキペディアがいちばんわかりやすく説明していたので、取り上げました。
 
砂漠の遭難者がコップ一杯の水のためにダイヤモンドを手放すというのはよくわかります。しかし、それは水に希少性があるからだけではありません。砂漠で希少性があるのは、ガソリンにしてもお米にしても同じです。しかし、ガソリンやお米のためにダイヤモンドを手放すことはありません(つけ加えれば、砂漠ではダイヤモンドの希少性も高まります。近くに宝石店がないので)
なぜ水のためにダイヤモンドを手放すのかといえば、水がなければ人間は生きていけないからです(ウィキペディアにも一応そのことは触れられていますが、市場価値を中心に論じているので、わかりにくい)。
 
つまり、モノの価値の根本には、「人間が生きていくために必要である」ということがあるのです。
ですから、空気、水、食べ物、衣服、住まいなどに価値があります。それらが満たされたときにダイヤモンドなどにも価値が出てくるのです。
ところが、経済学者は市場価値を基準に考えているようで、そのため私とかみ合わなかったのです。
 
これから経済学が真に科学といえる学問になるには、人間が生物であるという前提から組み立てていってもらわなければなりません。

金相場がずっと高値圏にあります。金融危機など世界経済の先行き不透明感から、資金が安全資産とされる金に逃避しているのだと説明されています。
といって、ここで金相場について語ろうというわけではありません。そもそもどうして金にそんなに価値があるのかということについて考えてみます。
 
金に高い価値があるのは、普通こういうふうに説明されます。
 
・産出量が少ない(これまでに産出された総量はオリンピックプール3杯分だそうです)
・工業用に需要がある(コンピュータのCPUなど)
・装飾用に需要がある。
 
ほかにも、化学的に安定していて加工しやすいといった特徴も挙げられますが、要するに工業用や装飾用に需要があるのに、産出量が少なく、その需給によって価値が決まっているわけです(その価値ゆえに資産や貨幣用の需要も出てきます)
問題は、金が装飾用に強い需要があるのはなぜかということです。
それは金の色と光沢が美しいからです。
では、なぜ金は美しいのでしょうか。
言い換えれば、なぜ人は金を美しいと思うのでしょうか。
実は、ここのところについて、はっきり語られることはまずありません。たとえばウィキペディアの「金」の項目を見ても、装飾用の価値について書かれているのはこれぐらいです。
 
「金は多くの時代と地域で貴金属としての価値を認められてきた。化合物ではなく単体で産出されるため装飾品として人類に利用された最古の金属である」
「金は有史以前から貴重な金属として知られていた」
「金とその他の金属の合金は、その見栄えの良さや化学的特性を利用して指輪などの装飾品として、また美術工芸品や宗教用具等の材料として利用されてきた」
 
「見栄えの良さ」という言葉はありますが、どうして見栄えが良いのかは書いてありません。
こういう根本的なことをごまかしているのが、これまでの学問なのです。
 
なぜ人間は金を美しいと思うのでしょうか。
その答えは簡単です。人間は金を美しいと思う性質を生まれながらに持っているからです。
そんなことは当たり前じゃないかと思われるかもしれませんが、これまでその当たり前のことをごまかしていたのです。
 
人間は、甘いものを好み、苦いものを嫌うという性質を生まれながらに持っています。これは進化論からも説明できるので、否定する人はまずいないでしょう。
人間が金を美しいと思う性質を生まれながらに持っていることを進化論から説明するのはちょっとむずかしいかもしれませんが、説明はできなくても、そういう事実があることは明白です。どの時代、どの地域でも、金は価値あるものだったからです。
 
ちなみにカラスはビー玉などの光るものを集めることがあります。光るものを好む性質を持っているのでしょう。人間にも同じ性質があっても不思議ではありません。都会の夜景、花火、星空などは誰でも美しいと思います。
 
人間は金を美しいと思う性質を生まれながらに持っているという考え方は、人間は生物学的存在であって、その性質や能力は生まれながらに決定されているという考え方でもあります。これは人文・社会科学の世界ではタブーとされてきました。
しかし、ものごとを根本から考えようとすれば、人間が生物学的存在であることを無視することはできません。
 
もし人間に金を美しいと思う生まれながらの性質がないとすれば、金の価値は時代の価値観によって変化することになり、資産としての価値に重大な疑義が生じることになりますが、現在の金相場の動きを見れば、誰もが金の資産価値は絶対だと思っているようです。

1015日、格差社会に反対するデモが世界規模で行われました。
格差社会とはなんでしょうか。格差社会はどうして生まれたのでしょうか。それを考えてみたいと思います。
 
人間は生まれながらに能力差があります。頭のよい人と悪い人がいますし、体力のある人とない人がいます。もちろん頭も体も鍛えれば能力は向上しますが、生まれつきの差があることは動かせない事実です。
では、どれくらいの能力差があるのでしょうか。
障害を持って生まれた人もいます。これももちろん生まれつきの能力差ということになりますが、ここでは一応健常者について考えてみることにします。
 
100メートル走の場合、速い人が約10秒ということになります。高校生男子の平均は14秒ぐらい、遅い人でも17秒ぐらいのようです。約10秒の人は相当鍛えた人ですが、それでも遅い人の2倍まではいかないわけです。
持久走の場合は、鍛えた人と鍛えてない人では大きな差が出ますが、鍛えた人同士、あるいは鍛えてない人同士を比べると、やはり2倍まではいかないのではないでしょうか。
 
頭のよさについても同じようなものではないかと思われます。
もっとも、頭のよさというのはいろんな要素から成っています。言語能力、数学的能力、記憶力、頭の回転の速さなど、数えていけばいくらでもあるでしょう。知能検査で測れるのは、その知能検査で測れる頭のよさですが、頭のよさの目安としては知能検査に頼るしかないでしょう。
IQは、95%の人が70から130の間に収まるとされますから、やはり頭のよさが2倍以上になることはまずないのではないかと思われます。
 
要するに、人間の能力は生まれつき違いがありますが、それほど大きくは違わないということです。
たとえば畑を耕すとき、たくさん耕す人とあまり耕せない人がいることになりますが、2倍まで耕せることはまずないということです。
ということは、農耕社会においては、能力によって貧富の差が生じるとしても、2倍まで豊かになる人はまずいない……と言いたいところですが、そんなことはありません。
たとえば、飢饉になったとき、収穫の少ない人は飢え死にしそうになりますが、収穫の多い人はそうではありません。となると、収穫の少ない人は収穫の多い人に食べ物を譲ってもらわなければなりませんが、圧倒的に不利な立場なので、来年の収穫時に2倍にして返せとか、土地の一部をよこせとか言われても、受け入れるしかありません。そうしたことが繰り返されるうちに、地主と小作人に分かれることになり、貧富の差が拡大します。
もっとも、小作人が死ぬと地主も利益を失うため、地主は小作人を死なない程度の貧乏にとどめておきます。
 
さて、現在の資本主義社会ではどうでしょうか。
カジノ資本主義という言葉があるように、ここではマネーゲームが行われています。テーブルを囲んでゲームを行っていると、実力の差はわずかであっても、実力のある者の前にはチップが山と積まれ、実力のない者はすっからかんになって、借金の証文を書き、土地家屋の権利書を渡し、娘を売るというはめに陥ります。
この社会では、マーケットが世界規模で広がっているために、小作人に死なれると困る地主とは違って、富裕層は貧困層が何人死のうと平気です。
そのため貧富の差は、数千倍、数万倍になっていると思われます。
 
農耕社会以前の狩猟採集社会というのは、どういうものであったのかちょっと想像しにくいのですが、おそらくそこでは能力の差が貧富の差だったのではないでしょうか。
能力の差が貧富の差であるような社会が、人間性にかなった本来の社会ではないかと私は考えています。
 
ところで、マルクス主義は生産力が向上して豊かになるとともに貧富の差が生まれ、原始共産制から奴隷制へと移行したと説明しますが、なぜ貧富の差が生まれたのかは明瞭ではありません。私の説明のほうがよほど明瞭ではないでしょうか。
人間は生まれつき能力の差があるということは、人間と社会について考えるときの大前提です。
 
 
次のエントリーも参考にしてください。
「生まれつきの不平等」http://blogs.yahoo.co.jp/muratamotoi/6522093.html
 

「機会の平等」か「結果の平等」かという問題があります。格差社会を論じるときにも避けて通れない問題です。しかし、この問題はいくら議論しても結論は出ません。なぜなら肝心のことがすっぽりと抜け落ちているからです。
それは、「生まれつきの不平等」ということです。
 
人間は生まれたときからそれぞれ違います。それが個性ですが、能力もまた個性です。頭のよさもそれぞれ違いますし、体力、運動能力も違います。
これは当たり前のことで、否定する人がいるとも思えないのですが、現実には、これは言ってはいけないことになっています。つまり現代のタブーです。
 
なぜこれがタブーになっているかというと、このことを言うと差別を助長するとされるからです。
たとえば、人間も動物ですから、生物学によって人間を研究することはあっていいはずです。しかし、人間を生物学的にとらえることで、過去に社会ダーウィン主義や優生学といった差別思想が生まれたことも事実です。また、エドワード・O・ウィルソンという生物学者が社会生物学と称して、人間を生物学の新しい理論でとらえることを提唱しましたが、この人がひどい差別主義者であったために、寄ってたかってボコボコにされるということもありました(社会生物学論争といいます)
こうして生物学による人間研究は限定的なものになり、人間は生まれによって決まるのか環境によって決まるのかということがいまだに論争の種になっています。
 
なぜ人間を生物学でとらえると差別主義につながるのでしょうか。差別主義というのは偏見によるものであって、正しい認識はむしろ差別主義を消滅させるはずです。
もし生物学が差別主義を助長するとすれば、それは生物学が間違っているからです。私はその間違いに気づきました。
ですから、私が人間を生物学でとらえたり、人間は生まれつき能力に違いがあるといったりしても、それによって差別主義を助長することはありません。
 
ともかく、人間は生まれつき能力に違いがあります。しかも、家庭環境によってもその能力の発達が違ってきます。たとえば、知的で文化的な会話が交わされている家庭で育つのと、アル中の父親が暴力をふるっている家庭で育つのとでは、ぜんぜん違います。
 
「機会の平等」は「スタートラインの平等」ともいわれますが、ほんとうにスタートラインの平等を実現しようと思えば、生まれと家庭環境の違いを踏まえないといけません。
しかし、今そんな議論はほとんど行われていません。
「結果の平等」についても、人間が生まれながらに違うとすれば、「結果の平等」を追求するのはおかしいことになります。
 
人間は生まれながらに能力の差があるということは、すべての社会科学の基礎になるべき重要な認識です。

よく政府に対する批判として、「成長戦略がない」ということが言われます。これは今の政権に対してだけでなく、ずっと前から言われてきました。しかし、成長戦略とは具体的にどんなものでしょうか。たとえば規制緩和、TPP参加、新エネルギーなど成長産業への投資といったことが言われているようですが、そんなことで経済成長が実現できるものでしょうか。
いや、たとえば規制緩和にしても、やればそれなりの効果はあるはずですし、やらないよりはやったほうがいいでしょう。しかし、「成長戦略」という言葉には、この長期停滞を抜け出してバラ色の成長が実現できるようなイメージがあります。よく「成長戦略がない」と言う人は財界人、エコノミスト、評論家、マスコミの偉い人などですが、こうした人たちは高い経済成長を求めているのでしょう。
 
しかし、私が思うに、国民のほとんどは高い経済成長など求めていないと思います。というか、実現不可能と思って、諦めていると思います。
とくに若い人は、生まれてからずっとデフレ経済の中で生きてきたわけで、高い経済成長というものをイメージすることもできないのではないでしょうか。
 
現在のデフレ経済、長期停滞は、経済政策の誤りによるもので、たとえば日銀が大胆な金融政策を打ち出せば成長できるのだと主張する人もいますが、日銀の人もそんなにバカではないので、できるものならやっているでしょう。
なお、今の日本は巨額の財政赤字のため財政出動の余地がなく、そのためもっぱら日銀に責任をおっかぶせる議論が行われるわけです。
 
さて、こうした経済停滞は日本だけのことかと思っていたら、いつのまにかアメリカもヨーロッパも同じ穴にはまり込んでいるようなのです。
アメリカは大きな財政赤字のために財政出動ができず、金融政策も出し尽くして、手詰まりに陥っています。ヨーロッパも多くの国が大きな財政赤字を抱え、ギリシャなどいくつかの国に債務不履行のおそれがあって、金融危機が再燃しつつあります。
「日本化japanificationまたは japanizationという言葉があって、アメリカもヨーロッパも日本のようになりつつあるのではないかといわれています。
もしそうなれば、先進国はみな経済停滞に陥るということになります。
 
実際どうなるかはわかりませんが、私はそうなってもいいと思っています。今の先進国の生活レベルは十分に豊かです。これ以上になる必要があるとも思えません。中国などの国が同じレベルの豊かさに追いついてくることを思うと、資源や環境の問題からしても、先進国がこれ以上成長することは逆に許されないことのように思えます。
 
日本人の多くもこれ以上の豊かさは求めていないのではないでしょうか。
ただ、失業は困りますし、格差社会のために貧しくなる人がいるのも困ります。そうした問題が解決されれば、別に経済成長する必要はないというのが大方の考えではないかと思われます。
 
経済成長しなくても失業や貧困のない社会をつくるという「成長しない戦略」が今求められているのではないでしょうか。
それが実現できれば、日本は先進国の手本になれるわけです。

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