村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

カテゴリ: 橋下流政治

橋下徹氏の新党「日本維新の会」が発足しましたが、具体的な形を見てしまうと、夢から覚めたような気分になってしまいます。
そもそもは橋下氏の個人商店のような政党ですが、その橋下氏が次の選挙に出ないとなると、節操もなく寄ってきた現職議員と、公募で集まった一年生議員ばかりの集団となり、国会内でどんな仕事ができるのか疑問です。
いや、維新の会が明確な指針を持っていれば、一年生議員でも働けると思いますが、維新の会がなにをやろうとしているのかよくわかりません。
 
「維新八策」というのが維新の会の基本方針です。
 
最初に、「今の日本、皆さんにリンゴを与えることはできません。リンゴのなる木の土を耕し直します」と書いてありますが、これは完全に小泉純一郎氏が首相に就任して最初の施政方針演説で言った「米百俵の精神」のパクリでしょう。
で、中身を見てみると……中身がありません。本でいえば目次があるだけで本文がありません。
「基本方針」の中に首相公選制、参議院廃止、道州制という文字がありますが、これはいわば入れ物の形を変える話であって、中身を変える話ではありません。また、優先順位もわかりません。維新の会の候補者は、議員になってもなにをやればいいのかわからないでしょう。
 
理念がない、優先順位がわからない、実現が容易でないといったことはすでに批判されています。なぜそうなるのかというと、私が思うに、橋下氏はテレビのトーク番組(「たかじんのそこまで言って委員会」みたいな)で受けそうな政策を羅列しているだけだからです。首相公選制、参議院廃止、道州制というのは、派手だから一般受けしそうです。
 
「維新八策」の「八策」はもちろん坂本龍馬の「船中八策」から取ったものです。
「維新」という言葉も、右翼的イメージがあって普通あまり好まれませんが、今は右翼が受ける時代だからということで使ったのでしょう。しかし、橋下氏は「明治以来の統治機構を変える」ということを言っているのですから、「明治維新」の「維新」という言葉を使うのは矛盾しています。
 
そうした矛盾が「日本維新の会」の英訳に露呈してしまっているというニュースがありました。
 
「維新の会」の英訳に外国人は「???」- ゲンダイネット(20129281000分)
  橋下新党「日本維新の会」が今月12日、政党のロゴを発表したが、そこに書かれていた英語名「JAPAN RESTORATION PARTY」に、外国人から疑問の声が上がっている。
 
 「RESTORATIONと聞いて、英語圏の人がすぐにイメージするのは、英国史における『王政復古』です。RESTORATIONの本来の意味は、復古や復活のこと。橋下新党を『日本復古の会』と読んでしまう外国人も多いのではないか」(英国人記者)
 
 「維新」を広辞苑で引くと、「物事が改まって新しくなること」「政治の体制が一新されること」だが、「明治維新」は天皇親政の“復活”だったことから、「MEIJI RESTORATION」と英訳されている。そこから、日本維新の会も「JAPAN RESTORATION PARTY」と訳したようだが、米国を中心に取材活動をしているジャーナリストの堀田佳男氏も、こう指摘する。
 
 「リストア=修復という言葉の通り、『RESTORATION』だと古いものを元に戻す、というニュアンスになります。明治維新の直訳をそのまま使うのは、あまりいい訳とは言えませんね。まして、これから新しいものを作っていこうという日本維新の会だけに、奇異に感じている外国人は多いと思います」
 
  実は、維新の会にも同様の問い合わせがあるという。事務局の担当者は困惑気味に言う。
 「確かに、英語の解釈では『王政復古』の意味になるのではないか、という声が寄せられています。ただ、この名称は執行部が決めたことですので何とも……」
 
  右傾化が目立つ維新の会は、名が体を表しているように見える。
 
 (日刊ゲンダイ2012925日掲載)
 
ほんとうは「革命」とか「革新」という言葉を使うのが正しいのでしょうが、日本ではそれは左翼のイメージになってしまいます。
私の考えでは、どうせ日本の歴史から取ってくるなら、「大化の改新」の「改新」を使えばいいと思います。
「日本改新の会」あるいは「日本改新党」でいいのではないでしょうか。
 
ともかく、国民が橋下氏や維新の会に期待したのは、なにか政治理念を実現してほしいということではないはずです。
橋下氏が大阪府知事に当選したとき、最初に取り組んだのは、財政非常事態宣言を出して財政再建の道筋をつけることでした。府職員の給料カットや補助金のカットなどを、圧倒的な抵抗勢力と戦いながら実現していったその成果とその姿勢が支持されたのだと思うのです。
国政においても、国家公務員の給料カットはもちろん、財政のむだを省くいわゆる“シロアリ退治”が期待されているのではないかと思います。ですから、最初は既得権益を徹底的に排除して財政再建に集中的に取り組むということを公約にすればいいと思うのです。
民主党は「事業仕分け」をうまくやれませんでしたが、維新の会は「本物の事業仕分け」をするということで、既成政党との違いを明確化することができます。
 
それにしても、自民党新総裁になった安倍晋三氏と比べると、橋下氏は対照的なところがあります。
橋下氏は府知事就任間もないころ、確か府下の自治体の首長とバトルを演じたときだと記憶していますが、最後は半泣きになってしまいました。しかし、そうした姿をさらしてまでもがんばっている橋下氏に支持が集まり、また橋下氏自身、そうした経験を通じてたくましくなっていったと思うのです。
一方、安倍氏は自分の病気を隠し、つねに自分のいい姿ばかりを国民の目に見せていました。
半泣きの無様な姿を見せた橋下氏はたくましくなり、いい姿ばかりを見せていた安倍氏はいつまでもひ弱で、結局ストレスに負けてしまいました。
 
そういう意味では、橋下氏に期待したい気持ちは大いにあります。
識者は理念や政策がだいじだと言いますが、理念や政策よりも人間がだいじだということを改めて思います。
 

5月1日、「大阪維新の会」市議団が「家庭教育支援条例案」を発表しましたが、これに対して批判が噴出し、市議団は7日、条例案を白紙撤回することを決めました。いかにも「大阪維新の会」らしい顛末です。
このことは全国的にはあまり報道されていないので、念のためにふたつの記事を張っておきます。
 
家庭教育支援条例案:虐待防止狙い 維新の会、提案へ
 毎日新聞 20120502日 大阪朝刊
 大阪市議会の最大会派「大阪維新の会市議団」(33人)は1日、児童虐待事件が多発する現状を踏まえ、家庭教育の支援などを目的にした「家庭教育支援条例案」を5月議会に議員提案する方針を決めた。第2会派の公明党と協議し、可決を目指す。
 条例案は、家庭用道徳副読本の導入▽乳幼児との触れ合い体験学習の推進▽発達障害課の創設▽保護者を対象にした保育士体験の義務化−−などの内容で、「親学」を提唱する高橋史朗・明星大教育学部教授の助言を受けて条文を検討している。
 教育関連では、橋下徹市長が提案した教育行政基本条例案と市立学校活性化条例案の2案が5月議会で議決される見通しで、維新市議団はこの2案を補完する条例と位置づけている。【林由紀子】
 
大阪維新の会:「発達障害は親の愛情不足」 「家庭教育支援条例案」に批判続出 市議団提案延期
 毎日新聞 20120507日 大阪夕刊
 橋下徹・大阪市長が代表を務める「大阪維新の会」の市議団が議員提案を予定している「家庭教育支援条例案」に批判の声が広がっている。条例案は、児童虐待や子どもの非行などを「発達障害」と関連付け、親の愛情不足が原因とする内容だが、医師や保護者らが「根拠がない」「偏見を助長する」と猛反発。発達障害の子どもを持つ保護者らの13団体は7日午後、議会を訪れて提案中止を要望。市議団も5月議会での提案見送りを決めた。
 条例案は今月1日、維新市議団が公表。児童虐待が相次ぐ現状を踏まえ、家庭教育の支援や親に保護者としての自覚を促す目的で作られた。「親になるための学びの支援」「発達障害、虐待等の予防・防止」など全5章、23条から成る。
 しかし、発達障害について「乳幼児期の愛着形成の不足」が要因と指摘し、「伝統的子育て」によって障害が予防できるなどと言及した条文に批判が続出。高田哲・神戸大大学院教授(小児神経学)は「親の育て方が原因であるかのような表現は医学的根拠がないばかりか子どもや家族が誤ったイメージで見られかねない」と危惧する。
 長男(16)が広汎(こうはん)性発達障害という母親(45)=東大阪市=は「私のせいで子どもが発達障害になったと言われているようで傷ついた。最近は理解も広がってきたと思っていたのに、怒りを通り越して言葉にならない」と憤る。「大阪自閉症協会」「大阪LD親の会 おたふく会」など大阪府内を中心に活動する13団体は7日、「学術的根拠のない論理に基づいている」として条例案撤回のほか、当事者団体や専門家を含めた勉強会の開催を求めた。
 インターネットの「ツイッター」でも1日以降、「うちの子は失敗作ですか」「ニセ科学だ」などと抗議が噴出。橋下市長は7日、記者団に「発達障害の子どもを抱えているお母さんに愛情欠如と宣言するに等しい」と苦言を呈し、市議団に条例案見直しを求めたことを明かした。【林由紀子】
 
これに関し、名前を挙げられた高橋史朗・明星大教育学部教授は、「ある県の極めて粗雑な非公式な私案」がマスコミに流れ出たのは理解に苦しむと言いつつも、「環境要因や育て方が(発達障害の)二次障害に関係するとの見解までもタブー視」するのはよくないと主張しておられます。
 
 
この条例案には、「乳幼児期の愛着形成の不足が軽度発達障害またはそれに似た症状を誘発する大きな要因である」「わが国の伝統的子育てによって発達障害は予防、防止できる」というくだりがあり、この部分が非科学的であるとして集中的に批判されています。確かにその批判はもっともですが、私はこの条例案のあまり批判されていない別の点について批判したいと思います。
 
この条例案の前文の前半部分を引用します。
 
家庭教育支援条例 (案)  
(前文)
 かつて子育ての文化は、自然に受け継がれ、父母のみならず、祖父母、兄弟、地域社会などの温かく、時には厳しい眼差しによって支えられてきた。
 しかし、戦後の高度成長に伴う核家族化の進展や地域社会の弱体化などによって、子育ての環境は大きく変化し、これまで保持してきた子育ての知恵や知識が伝承されず、親になる心の準備のないまま、いざ子供に接して途方に暮れる父母が増えている。
 
つまり、昔は家庭や地域社会がちゃんと子どものしつけや教育をしていたが、最近は家庭や地域社会の教育力が低下してきているという認識が示されているわけです。この認識は幅広く共有されており、マスコミでも普通に語られています。たとえば、最近の親は家庭でするべきしつけをせず学校任せにしている、といった具合です。
ですから、このくだりを読んでも疑問に思う人は少ないでしょう。
しかし、「昔は家庭や地域社会が子どもをちゃんと教育していた」というのは、実はトンデモ歴史観なのです。
子どもの教育やしつけのことがうるさく言われるようになったのは最近のことです。昔は今のように子どものしつけや教育をしていなかったのです。
 
私は、昔の寺子屋では子どもに行儀を教えることはなく、子どもはそれぞれ好き勝手な格好で勉強していたということを次のエントリーで指摘しました。
「オランダの学校と寺子屋」
 
今回は、「日本人のしつけは衰退したか」(広田照幸著・講談社現代新書)に基づいて、昔は今のように子どもの教育・しつけをしていなかったということを言いたいと思います。
適当に目についた部分を引用します。
 
特に、幼少期のきびしいしつけが重視されてきた西洋とは対照的に、日本の伝統的な子供観は、子供は自然に大きくなって一人前になるものだという考え方が支配的であった(山住正己「近世における子ども観と子育て」)。昭和初めの熊本県須恵村に住み込んだ米国人の人類学者は、小さい子供が傍若無人にふるまっても大人たちがほとんど怒らないことを詳細に書き残している(スミス&ウィスウェル「須恵村の女たち」)。日本の伝統的な考え方に基けば、「子どもは年頃になれば自然に分別がつくもの」だから、小さいときにきびしくしつける必要などないと考えられていたのである。
 
実際、両親そろっている場合でも、都市下層では経済的・文化的にみて子供に十分な配慮をしてやれるだけの余裕に乏しかった。また、時間的に余裕がある場合でも、子供のことは家庭内で優先順位がけっして高くなかったからであろうか、子供は放任されていた。昭和初めの小学校教師がみた都市下層の家庭の様子を紹介しよう(古関蔵之助「細民街を生活環境とする子供等」)
共稼ぎの場合。「父母は朝早く出て夜遅く帰宅する。労働者が家を留守にすることは夥しいもので、仕事の都合では数日間子供の寝顔しか見られぬ事がある。……父母は留守勝ち故、三銭おくからこれで好きなものを買へとあてがふのである」。
母親が主婦の場合。「夫が朝早くから外に出て働いてゐるのに、家を預かってゐる主婦は昼寝をしたり、隣近所の人々とお茶を飲みつゝ、我が子の行動などには皆目無関心で、雑談に耽つてその日その日を無意味に暮らしてゐる」。実際には、内職に従事する率が非常に高かったから、内職のじゃまにならないよう、子供を追い出した家庭も多かったはずである。
 
このように、農村でも都市でも、多くの親たちはしつけや家庭教育に必ずしも十分な注意を払っていなかった。村では、しつけや人間形成のさまざまな機会は、近隣や親族・若者組など大きなネットワークに拡散的に埋め込まれていた。都市でも、下層から庶民層にいたる広い層で、家族という単位自体が不安定で流動的であったし、経済的・時間的余裕の少ない多くの親にとって、子供のことはなおざりにされがちであった。「昔の親は子供をしっかりしつけていた」というイメージにあてはまらない親の方が、むしろ普通であったのである。
 
この一冊の本からの少しの引用だけでは十分な根拠を示したことにはならないかもしれませんが、あとはこの本を読むなり、昔の庶民の生活を調べるなりしてください。
「昔の親は子どもをしっかりしつけていた」と主張する人はほとんどの場合、なにか根拠を示すわけではなく、ただ自分の印象を語っているだけですから、比較すればよくわかるはずです。
 
ちなみに、とくに教育やしつけをしなくても人間は悪くなりません。もともと悪く生まれついているわけではないので、当たり前のことです(子どもに教育やしつけをしなければならないという近代的教育観のほうがへんなのです)
 
「昔の親は子どもをしっかりしつけていた」というのは、年寄りが「昔はよかった」「近ごろの若い者はなっていない」というのと同じようなものです。マスコミまでこんな妄言を信じてしまうのは困ったものです。
 
しかし、こうした間違いを放置しておくと世の中が間違った方向に行くことになりかねません。たとえば以前、統計的には少年犯罪は減少し続けていたにもかかわらず、「少年犯罪がふえている・凶悪化している」ということが盛んに言われ、それを根拠に少年法が厳罰化の方向に改変されてしまうということがありました。
正しい歴史観を持たないと、「家庭教育支援条例案」みたいなトンデモ法案が通ってしまうことにもなりかねません。

このブログはできるだけ、社会にとってあるいは人間にとって大きな問題を扱うようにしているのですが、ネットの特性として、重箱の隅をつつくような問題に関心が集まる傾向があるような気がします。そこで、これまでの流れもあって、私もそういう小さい問題を取り上げてみることにしました。
というのは、大阪の府立和泉高校での国歌斉唱時の“口元チェック”問題の報道に関して、和泉高校の中原徹校長が自身のブログで反論するということがあり、これがテレビ朝日の「報道ステーション」に対して謝罪を求める署名集めにまでつながっているからです。私もこの問題は二度も取り上げているだけに、放ってはおけません。
 
中原校長のブログを読んだときは、お粗末な反論だなと思いましたが、1人の校長に対して批判するというのもあまり意味はないと思い、前回のエントリーでは「つまらない弁解です」ぐらいの表現にとどめておきました。しかし、今回はもう少し批判したいと思います。
 
「報道ステーション」が誤報したとするガジェット通信の記事
 
「報道ステーション」に謝罪を求める署名集めのサイト
 
中原徹校長のブログ「読売新聞の記事について」
 
中原徹校長のブログ「国歌斉唱について」
 
中原校長は、自分は前を向いて歌っていたのでチェックしたのは教頭と主席教諭である、時間にして5秒ぐらいだった、凝視して監視していたわけではない、とブログに書いています。
しかし、口元チェックをしていたことは否定しようもありません。とくに歌っていたかいないかを判断するのは、「一瞥」するぐらいではむりですから、やはり「凝視」していたに違いありません。そういうことで私は「つまらない弁解」と書いたわけです。
 
また、中原校長は「私自身、人が歌っているのをジーっと疑惑の目で監視するようなことを生徒の晴れの門出の舞台ですることには反対です」と書いています。しかし、教頭と主席教諭にはさせているわけです。自分がしたくないことを教頭と主席教諭にさせるというのはどうなのかとも思ってしまいます。
 
そして、ここがいちばん肝心のところですが、中原校長は「大阪の条例・職務命令に基づき、教頭が数秒間は起立・斉唱を確認しなければならないのです。これは絶対に行わねばなりません」と書いていますが、これは事実に反します。
府教委の通達には、「式場内のすべての教職員は、国歌斉唱に当たっては、起立して斉唱すること」と書かれていて、これが「職務命令」ということですが、この通達には「起立・斉唱を確認しなければならない」というようなくだりはいっさいありません。
 
府教委の通達
 
「起立・斉唱を確認しなければならない」というのは命令ではなく、中原校長と府教委とのやりとりの中で出てきたことです。一部繰り返しになりますが、校長のブログから引用します。
『私自身、人が歌っているのをジーっと疑惑の目で監視するようなことを生徒の晴れの門出の舞台ですることには反対です。だからこそ、府教委に確認をしました。その結果、「じっと凝視したり、近づいたりすることなく、遠目で確認してください」との回答をもらいました』
つまり、校長がもらったのは「命令」ではなく「回答」なのです。もちろん通達ではなく、文書の形でもないはずです。
 
私が想像するに、中原校長は府教委に電話して、歌っているのを確認するべきかどうか聞いたのでしょう。そして、「遠目で確認してください」と言われたのでしょう(誰かと面会していても同じことです)。
誰が言ったのか? 府教委に口はありません。府教委の誰かが言ったわけです。誰とは書いてありませんが、事務方の誰かでしょう。教育長かもしれませんが、その下の人間かもしれません。
 
教育委員会というのは、首長に任命された民間有識者などの教育委員と、事務方である役人とで成り立っています。教育委員のトップが教育委員長で、事務方のトップが教育長です。
これを文部科学省にたとえれば、中原校長は事務次官か局長あたりの意見を聞いて、それを「文部科学省の命令」だと言っているようなものです。そんなものは文部科学大臣や副大臣や政務官に否定されればおしまいです。
で、実際そうなりました。生野照子教育委員長やほかの教育委員が次々と中原校長のしたことを批判したのです。
 
中原校長は自分の行為を正当化するために、「大阪の条例・職務命令に基づき、教頭が数秒間は起立・斉唱を確認しなければならない」と事実に反することをブログに書いてしまいました。そして、それに“釣られた”人たちが変な署名集めの運動を始めて、問題が広がってしまったのです。
 
中原校長は人が歌っているのを疑惑の目で監視するのには反対だったということです。それなら、教育長にもそのことを主張すればよかったのです。もし教育長が強い口調で「監視せよ」と言ってきたら、教育委員に直訴するという手もありますし、自分の意志ではねつけてもよかったのです(教育長というのはただの役人です)。民間出身の校長なのですから、そういう役割も期待されていたはずです(私が最初に中原校長のブログを読んだときには、教育委員会の組織的な欠陥を指摘するくだりもあったのですが、現在は削除されています)。
 
国歌斉唱や起立問題など、教育の世界においてはまったくつまらない問題で、ほかにだいじな問題が山積されています。中原校長は自分の果たすべき役割をしっかりと自覚してほしいものです。
 
 
ところで、中原校長はなぜ「回答」を「命令」と書いたのでしょうか。もちろんそれは「命令」にしておけば自分の責任を問われることがないからです。犯罪行為の責任を問われた旧日本軍の軍人が上官の「命令」を盾に責任逃れをしようとしたことが思い出されます。「命令」で動く組織は、自分で判断しない、無責任な人間をつくりだします。

大阪の学校の卒業式における国歌斉唱と起立問題から派生した府立和泉高校の“口元チェック”問題ですが、中原徹校長は自身のブログにおいて、チェックしたのは自分でなく教頭だとか、時間は5秒ぐらいだとか、1030メートルぐらい離れていただとか述べていますが、つまらない弁解です。橋下徹市長がせっかく「服務規律を徹底するマネジメントの一例」と絶賛しているのですから、橋下市長にも失礼です。
とはいえ、歌っているかいないかチェックするというのは、さすがに誰の目から見ても姑息な行為なので、弁解したくもなるでしょう。
 
しかし、ネットの反応を見ていると、相変わらず不起立教師バッシングの意見が多いようです。2ちゃんねるがそういう反応なのはだいたい想像がつきますが、BLOGOSというサイトの掲示板も8割ぐらいが不起立教師に批判的です。
 
『大阪の「口元チェック」騒動、あなたはどう見る?』
 
不起立教師を批判する論理は、ほとんどがルールや規律や命令は守るべきだからというものです。
国歌斉唱時には起立するべきだからという意見もありますが、これは価値観の問題ですから、価値観の違う人は説得できません。人に礼儀を尽くすのは合理的行動ですが、国旗や国歌に礼儀を尽くすのは合理的行動とはいえませんから、行為そのものの正しさを説明することはできないわけです。
そのためルールや規律や命令は守るべきだからという論理になります。
しかし、そのルールや規律や命令は正しいか否かという議論はありません。ルールや規律や命令にまったく無批判なのです。
 
なぜこういう人が多いのでしょうか。それは日本の教育がだめだからです。だめな教育はだめな人間をつくります。ルールや規律や命令を無批判に受け入れるのはだめな人間です。
 
日本の学校は圧倒的に、生徒にルールや規律を守らせることにこだわっています。そういう学校で学ぶと、人にルールや規律を守らせることにこだわる人間になってしまいます。
 
たとえば、日本の学校は生徒の服装や髪形や髪の毛の色に異常にこだわります。その結果、人の服装(とくに若者の服装)に異常にこだわる人間が量産されます。そのひとつの例が、2010年のバンクーバー冬季オリンピックにおいてスノーボード代表の国母和宏選手が制服を“腰パン”にしていたということで大バッシングを受けたことです。これから国を代表して戦いに行こうという若者を後ろから撃つ日本人がいっぱいいたのです。
このことは「リクルートスーツと学生服」というエントリーでも書きました。
 
こうした教育は富国強兵と軍国主義の時代のものです。兵隊と単純労働の労働者をつくるための教育です。そこから一歩も進歩していないのです。
左翼教師は軍国教育を批判して、平和教育への転換をはかろうとしましたが、たとえば生徒を校庭に整列させて、気をつけ、休め、前へならえ、右向け右、回れ右など軍隊と同じことをさせることにはまったく無批判でした(こうしたことは自衛隊か警察に就職しない限り役に立ちません)。
そのため戦後教育も、教科書の内容は多少変わりましたが、形態としては軍国時代のままなのです。
 
たとえば、教師は職務命令に従うべきだという意見があります。
戦争映画を観ていると、上官が「これは命令だ!」と言う場面がよく出てきます。「命令に従え」というのは軍隊の論理です。
一般の会社でも命令に従うべきではあるのですが、あくまで上司は部下を動機づけ、納得ずくで動かさなければなりません。納得いかない部下を「これは命令だ!」と言って動かす上司は指導力がないということになってしまいます。
 
ちなみに民主国家では、間接民主主義とはいえ国民が法律をつくるわけですから、国民はその法律が正しいかどうかを判断する力を持たなければなりません。ルールや規律や命令に従えと言っている人は、民主国家にはふさわしくない人です。
 
そのルールや規律や命令は正しいか否かということを考えさせる教育が必要です。

橋下徹大阪市長や大阪維新の会の言動がお笑いの領域に入ってきました。
大阪府立和泉高校の卒業式で国歌斉唱の際、教職員がほんとうに歌っているか校長が口の動きで確認し、口が動いていなかった教員の処分を府教委が検討しているということで、橋下市長はこれを「服務規律を徹底するマネジメントの一例」と絶賛しました。
和泉高校の中原徹校長は実は弁護士で、橋下市長の友人でもあり、民間人校長として就任した人です。橋下市長と価値観を共有しているのでしょう。
 
口の動きを確認されるなら、口パクで対抗すればいいということになります。そうすると、今度は指向性マイクを使って声が出ているかどうかを確認することになるのでしょうか。
 
なぜこんなバカバカしいことになるのかというと、もともと国歌斉唱とか起立とかいうことがくだらないことだからです。くだらないことを追究していくと、くだらなさがどんどんあらわになっていくというわけです。
 
大阪府の国歌斉唱問題についてはこんなニュースもありました。
 
 
「信念ある人間なら自決の覚悟」維新府議が教員を批判
大阪府立学校の卒業式で、府教育長らの職務命令に反して君が代を起立斉唱せず戒告処分を受けた17人の教員について、大阪維新の会の中野隆司府議は12日の府議会で、定年退職前の教員らが多かったことに触れて「そろばんはじいて退職金に影響ないんかという程度の信念」「本当に信念ある人間なら自決するぐらいの覚悟があるでしょ」などと発言した。
 中野府議はキャリア約20年の元公立中学校教諭。戒告処分が退職金に影響せず、60歳以上が約半数(8人)だった点を指摘し、「ダライ・ラマさんがおられるチベットで中国が侵攻したときに何人の僧侶が自決したか」「年齢構成をみると、いかに信念のない人間の集まりであるかということがよくわかります」と主張。「(不起立は)即座に解雇というぐらいの強い態度を示すべきだ。議論を会派に持ち帰り、検討を加えたい」と述べた。
 一方、松井一郎知事が入学式でも不起立だった教員は現場を外して指導研修させるべきだとの方針を示していた点について、府教委は、別の府議の質問に「(現場を外す研修は)懲罰的な取り扱いになりかねない」と慎重な姿勢を示した。(金成隆一)
朝日新聞関西2012313
 
この中野府議は、不起立教師をダライ・ラマのいるチベット側の人間にたとえています。ということは、自分たちはチベットに侵攻した中国政府の側になるわけです。
語るに落ちるとはこのことでしょう。人間というのは心の深層では問題を正しくとらえているものなのですね。
 
不起立問題はバカバカしいことがわかりやすいですが、こちらのほうはどうでしょうか。朝鮮総連系の学校への補助金の問題です。
 
 
朝鮮学校補助金:大阪府内8校が交付申請 「総書記の肖像画職員室から外した」
  大阪府は9日、府内の朝鮮初・中級学校8校から「故・金正日(キムジョンイル)総書記の肖像画を職員室から外した」として、補助金交付の申請があったと発表した。府は交付要件の一つに、職員室から肖像画を撤去することを提示していた。現地調査し、撤去が確認されれば2月府議会に補正予算案を提案する方針。
  府私学・大学課によると、8校を運営する大阪朝鮮学園(東大阪市)から今年度の補助金計約8100万円の交付申請があった。府は10年度分については教室からの肖像画の撤去を求めたが、11年度分では、職員室からの撤去も求めた。
  大阪府には朝鮮初・中級学校が全9校あり、生徒数で補助金交付の要件を満たしているのは今回の8校。大阪朝鮮学園のある関係者は毎日新聞の取材に「教室からは十数年前に肖像画を下ろしている。府民に理解してもらうため、職員室からも下ろすことを決めた。補助金のために下ろすわけではない」と話した。【田中博子】
毎日新聞2012310
 
 
これはやはりバカバカしいことですが、実はあまり笑えません。これはマスコミもちゃんと批判しないといけません。
 
肖像画を掲げるのをやめることが補助金交付の条件になるというのは、いろんな意味でへんです。補助金がおりたらまた掲げ直すということもできますし、小さな肖像画をワッペンにしてつけるとか、たとえば橋下市長の肖像画を掲げておいて、その裏に金正日の絵を張って、それを拝むとか、いろんな抜け道があります。
もっと問題なのは、金正日の肖像画がだめということが通ってしまったら、今度はキリスト像がだめということにもなりかねないことです。
金正日はだめで、キリストはよいということを論理的に説明することができるでしょうか(金正日は日本人拉致事件の責任はありますが、日本の法律で犯罪者とすることはできません)
 
肖像画や国旗国歌はシンボルや偶像であって、合理的にとらえることができません。ですから、政治や行政はそういうことにかかわってはいけないのです。
そういうことをしている国は、宗教と政治が一体化したイスラム国と、個人崇拝の独裁国と、実質的に宗教国家であるアメリカぐらいのものです。
 
靖国神社も同じです。英霊の存在は証明することができないのですから、こういうことは政治の場でいくら議論しても時間のむだです。
孔子も「君子は怪力乱神を語らず」と言っています。
 
橋下市長も大阪維新の会も、政治や行政を本来の役割に戻さなければなりません。

大阪維新の会の「船中八策」について、立ち上がれ日本の平沼赳夫代表が「国家観がない」と批判しました。もともと橋下徹氏は、みずから志して政治家になったわけではなく、なりゆきでなった人で、地方政治しか経験していないので、そういう批判があるのは当然でしょう。
私も同じく「国家観がない」と批判します。というか、国家観が矛盾だらけです。
 
橋下氏は「明治以来の国の統治機構を変える」ということを再三言っています。その一方で、大阪維新の会というぐらいですから、「維新」という言葉を肯定的にとらえているはずです。そうすると、橋下氏は明治維新をどう評価しているのでしょうか。
明治維新でできた統治機構がよくなかったから変えるというのか、明治維新当時の統治機構はよかったが、経年劣化したから変えるというのか、どちらかよくわかりません。
「維新」という言葉は右翼の好む言葉です。橋下氏は右翼的なイメージが時代に合っていると思って、自分も使ってみたというところではないでしょうか。
 
「船中八策」という言葉はもちろん坂本龍馬からとっています。坂本龍馬はたいへん人気がありますから、橋下氏も使ってみたというところでしょうか。
しかし、坂本龍馬は明治維新の担い手ではありません。18671014日に大政奉還があり、坂本龍馬は同年1115日に暗殺されました。正しくは幕末に活躍した志士というべきです。
明治維新の中心的な担い手は大久保利通であり、西郷隆盛であり、木戸孝允です。この3人のうち、大久保利通と木戸孝允はまったく人気がありません。西郷隆盛は大人気ですが、これは維新政府に反旗をひるがえした人です。
さらにいうと、木戸孝允は人気がありませんが、桂小五郎は人気があります。同じ人間が幕末と明治維新以降ではまったく評価が変わってしまうのです。
坂本龍馬にしても、もし暗殺されずに明治維新の担い手になっていれば、まったく人気がなくなっていた可能性があります。
伊藤博文、山縣有朋となると、さらに人気がありません。高杉晋作、吉田松陰の人気と対照的です。
 
なにがいいたいかというと、明治維新や明治政府や明治時代というのはまったく人気がないのだということです。
このことは明治ものの小説やドラマがまったく人気がないことを見てもわかります。これは「低視聴率の理由」というエントリーでも書きました。
 
人気というのは大衆レベルのことです。ですから、日本の大衆は明治時代が嫌いだということです。八っつあん、熊さんが呑気に暮らしていた江戸時代が好きです。学校に行かされ、規律を学ばされ、横並びで競争させられ、挙句に労働者や兵隊になるしかないという時代を好きになるわけがありません。
もっとも、一部の頭のいいエリートにとっては違います。こういう人は明治時代になると立身出世することができました。
ですから、今でもエリートである知識人はやたら明治時代を持ち上げるのです。
 
橋下氏は「明治以来の国の統治機構を変える」と言っていますが、「維新」という言葉を使い、子どもを横並びで競争させる相変わらずの教育を推進し、地方公務員たたきはしますが、中央官庁の官僚はほとんどたたきません。統治機構のなにを変えるのでしょうか。むしろ“明治返り”しようとしているように見えます。
 
橋下氏のプレーンの堺屋太一氏や古賀茂明氏はもともと中央官庁のエリートです。
 
橋下氏は「明治以来の国の統治機構」という手のひらの上で踊っているだけかもしれません。
 

連日なにかしらの発言をして世の中を騒がせている橋下徹大阪市長がまたまた妙な発言をしました。といっても、これを妙と思う人はほとんどいないかもしれません。むしろ“日本の常識”とされています。
しかし、「日本の常識は世界の非常識」という言葉もあります。これはその典型ではないでしょうか。
 
 
橋下市長、入れ墨職員「クビ無理なら消させよ」
大阪市の橋下徹市長が、市職員の入れ墨を禁止するルール作りを関係部局に指示した。
市の児童福祉施設の男性職員が子どもたちに入れ墨を見せ、2か月の停職処分を受けたが、市側の指導で長袖シャツで隠したまま職務を続けていることを問題視し、「入れ墨だけでクビにできないのなら、消させるルールを」と服務規律を厳格化する方針だ。
市の職員倫理規則に入れ墨の規定はないが、橋下市長は関係部局への指示の中で、「入れ墨をしたまま正規職員にとどまれる業界って、公務員以外にあるのか」としている。
 2012321529  読売新聞)
 
 
いうまでもなく、刺青を迫害・差別しているのは日本だけです。世界のどこの国でも、刺青はオシャレのひとつです――と書いたものの、念のために調べてみると、イスラム法では禁止されているようです。
ということで、「イスラム国は別にすれば、刺青を迫害・差別しているのは日本だけです」と言い換えます。
 
日本でも刺青はずっと認められた文化でした。刺青が迫害されるようになったのはごく最近のことです。
要するに、ヤクザは刺青をしている、ヤクザは刺青を見せることで相手を威嚇する、だから刺青は悪だ、という論理なのでしょう。
これは、どこかの犯罪者がナイフを使って人を威嚇したからナイフは悪い、という論理とほとんど同じです。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ではなく、「ヤクザ憎けりゃ刺青まで憎い」というわけです。
 
ちなみに刺青の人を排除してもいいという法的根拠はありません。
鳥取県警本部の暴力団排除条例に関するサイトから引用しておきまます。
 
「意見の要旨と意見に対する警察本部の考え方について」
(意見の要旨)「公衆浴場等に入浴する刺青のある人を、条例で排除できないか」
(警察本部の考え方)「公衆浴場等への立ち入りを一律に禁止することは、人権上の問題もあることから、本条例には規定しておりません。
なお、今後とも公衆浴場等の暴力団の利用につきましては、施設の管理者等に対して、暴力団の排除を働きかけてまいります」
 
ここも妙な論理になっています。刺青の人を規制することは人権上の問題があるといいながら、公衆浴場等の管理者に対しては暴力団の排除を働きかけていくというのです。公衆浴場等の管理者にとっては人権上問題のある行為を強要されるわけで、まさに警察による“迷惑行為”です。
 
サウナなどにはたいてい「刺青の人の入場お断り」みたいな表示がありますが、これはやはり警察の指導によるものなのですね。しかし、入場を断る根拠がまったくありませんから、刺青の客から「なぜ入っていけないんだ」と抗議されたら、サウナの人も対応に苦慮することになってしまいます。
 
 
ということで、刺青の人を排除するのは差別にほかならないわけですが、こうした問題についてマスコミは警察に追随するしか能がありませんから、世の中全体がこれが差別であることに気づいていません。ですから、橋下市長が刺青についておかしな発言をしても、ほとんど人がおかしいと気づかないわけです。
 
ところで、児童福祉施設の男性職員は腕の刺青を見せて子どもを脅したそうで、それはよいことではありません。しかし、それは子ども脅す行為がよくないので、刺青が悪いわけではありません。刺青を消させたところで、その男性職員がたとえば拳骨を見せることで子どもを脅し続ければなんの意味もありません。
 
橋下市長は体罰肯定論者で、「口で言ってわからない年齢の子には痛みをもって反省させることが重要」と言ったことがあるそうです。男性職員の刺青を見せるという行為は、橋下市長の主張する物理的暴力よりはよほど洗練されたやり方です。むしろ橋下市長はこの男性職員のやり方に学ぶべきでしょう。

2月13日、「大阪維新の会」が骨格となる政策「船中八策」を発表しましたが、これは網羅的な政策ですから、ひとつひとつを論評してもあまり意味はないでしょう。「維新の会」は政策の優先順位も発表してほしいものです。
 
それよりも、2月12日の朝日新聞に載っていた橋下徹大阪市長のインタビュー記事のほうが論評するに値します。はっきりいって突っ込みどころ満載です。ということは、今まで誰も橋下氏に突っ込まなかったのでしょう。ちゃんと突っ込んであげないと本人のためにもなりません。
政策論としては恐ろしく低レベルです。こんな議論が行われているのは日本の知的レベルが低いからだといいたいところですが、アメリカはもっとレベルが低いです。大統領予備選を見ていると、保守派の主張は、「小さい政府」を別にすれば、「家族の価値」「中絶禁止」「同性婚禁止」と、日本人からすれば議論する価値もないようなことばかりです。
 
 
橋下氏はインタビューにおいて「努力」を強調します。「今の日本人の生活レベルは世界でみたら、五つ星ホテル級のラグジュアリー(贅沢)なものです」と言ったあと、「努力」という言葉を連発します。
 
「東アジア、東南アジアの若者は日本の若者と同じような教育レベル、労働力になってきました。そのような状況で、日本人がラグジュアリーな生活を享受しようとするなら『国民総努力』が必要です。競争で勝たないと無理です」
 
「付加価値の創出は、努力がすべてだと僕は思っています」
 
「何歳で努力から解放されるかは制度設計次第で、役人にはじいてもらわないと具体的には言えません。常識的には60歳あたりでしょう」
 
「では、日本の生活のレベルを落としますか? 東南アジアレベルにしますか? 今の日本を維持しようと思えば、そりゃ努力をしないといけないですよ」
 
普通は政策論議をするときに「努力」という言葉も概念も持ち込みません。ですから、橋下氏のように「努力」という言葉を持ち出す人が出てくると、新聞記者や学者はとまどってなにも言えなくなります。
かといって、「努力」を否定することもできません。自分たちも日ごろから若い人たちに「努力」のたいせつさを説いているからです。
 
それにしても朝日新聞の記者なら、「国民総努力」と言われたときには、「なるほど、『進め一億火の玉だ』の精神ですね」ぐらい皮肉を言ってほしいものです(言ったとしても、記事に載ることではないですが)
 
しかし、橋下氏が言っているのはなにも特別なことではありません。ネットの掲示板やテレビの討論番組などでは当たり前に言われていることです。日本の学者や知識人はそうした議論を放置してきました。というか、批判することができなかったのでしょう。ですから、橋下氏がそうした議論を政策として次々に現実化していくと、あたふたするしかなくなってしまうのです。
 
ネットの掲示板やテレビの討論番組などで当たり前に言われていることというのは、ひと言でいえば「道徳」です。橋下氏もただ「道徳」を語っているにすぎません。
冷戦が終結し、マルクス主義が廃棄処分されてから、大きな思想というのはなくなってしまいました。そういう状況で議論をしていると、より道徳的な主張のほうが優位になっていきます。たとえば、犯罪者は厳罰に処するべきだ、凶悪犯は死刑にするべきだ、怠け者に福祉はいらない、それは自己責任だ、などの結論へと導かれるのです。
 
私はこれを「道徳の暴走」といい、また「道徳原理主義」ともいっています。
橋下氏の思想は「道徳原理主義」そのものです。それに競争の要素を強調すると「新自由主義」になり、それに生物学的根拠を持ち出すと「社会ダーウィン主義」になります。
 
マルクス主義なきあと、学者、知識人の思想的怠慢がこうした状況を招いてしまったのです(「怠慢」というのも道徳的な言葉です。道徳的な言葉は人を非難するときに便利です)
 
ですから、この状況を変えるには道徳そのものを批判する思想が必要です。このブログを読んで勉強してください。
とりあえず今は、橋下氏へどう突っ込むかを書いておきましょう。
 
「努力すれば競争に勝てるのですか。負けたときはどうしますか」
「努力すれば誰でもイチロー選手のようにヒットを打つことができるのですか」
「東南アジアの若者に負けないためという理由で努力する気になりますか」
 
橋下氏は「いったんは格差が生じるかもしれません。でも、所得の再配分もしっかりやります」とも言っています。
これには「所得の再配分がしっかり行われるなら、それを見越して努力しない人間が出てくるんじゃないですか」と突っ込んであげましょう。どう考えても「所得の再配分がしっかり行われる社会」と「競争社会」は矛盾しています。
 
ところで、アメリカの保守派が主張する「家族の価値」「中絶禁止」「同性婚禁止」もアメリカ式道徳です。道徳原理主義は世界をおおっています。

大阪維新の会が国政進出の準備を進めています。国政となれば外交政策も打ち出さなければなりませんが、これがどうなるのかよくわかりません。
私は実は、橋下徹大阪市長は外交音痴ではないかと前から疑っています。鳩山政権当時、大阪府知事だった橋下氏は普天間飛行場の関空への受け入れを表明しましたが、そのとき日本政府やアメリカ政府になにも注文をつけませんでした。自治体の首長としては正しい態度ですが、日ごろから外交について考えている人間なら、あの状況ではなにか言いたくなるものです。
石原慎太郎都知事はアメリカや中国について年中なにか言っています。
橋下氏は自制心があるともいえますが、単に外交についてなにも考えていないのではないかと思ったのです。
 
たいていの日本人は、欧米にコンプレックスを持っていて、裏腹にアジアに優越感を持っています。しかし、最近は中国が日本を追い抜いてきて、多くの日本人は複雑な心境です。そのため反中国発言をする人もいますし、そうした発言はけっこう世の中に受けます。しかし、橋下氏はそうした発言もしていないようです。
 
ウィキペディアで「橋下徹」の項を見てみると、核武装を肯定する発言をしたということですが、これはあくまで政治家になる前のテレビでの発言です。外国人参政権についての発言もありますが、これは外交とは基本的に違う問題です。
 
橋下氏の外交についての考えを知りたいと思っていたところに、こうしたニュースがありました。
 
橋下市長が拉致問題で「不法国家である北と付き合いは一切しないという意思示せ」 政府に注文
「産経ニュース」2012.2.5 16:56
 大阪市の橋下徹市長は5日、市内で開かれた北朝鮮による拉致問題を考える集会であいさつし「政府はもっとはっきり意思を示してほしい。何がしたいのかさっぱり分からない」と政府の対応を批判した。
 市長は「大阪府、大阪市では拉致問題は許さない。不法国家である北朝鮮が正常な国になるまで付き合いは一切しないという意思をはっきり示していきたい」と強調。自身が府知事時代に打ち出した朝鮮学校に対する補助金支給要件の厳格化を上げ「全国の自治体でやればできる。これぐらい国が何で指示を出せないのか」と指摘した。
 集会に先立ち橋下市長は松原仁拉致問題担当相と会談。松原氏は朝鮮学校の補助金厳格化について「他の都道府県も大阪の先例に大きく学ぶべきだ」と評価した。松井一郎大阪府知事も同席した。
 
 
橋下氏の対北朝鮮政策は、いっさいつきあうな、もっときびしくしろというもののようです。
これはいかにも橋下氏らしい政策です。一般受けすることは確かでしょう。
しかし、このやり方で拉致問題が解決するかというと、そんなことはないでしょう。もうすでに日本政府は北朝鮮に対しさまざまな制裁を行っています。そして、北朝鮮はどんどん中国との経済関係を深めています。
北朝鮮と中国との貿易高は、2011年から2012年にかけて62%増加したそうです。
 
もしほんとうに拉致問題を解決しようとするなら、北朝鮮と話し合うことが必要ですし、なんらかの経済援助、つまりアメも必要になるでしょう。
しかし、そうした主張は国民感情に反しますし、橋下氏もそのことはわかっているわけです。
 
北朝鮮は日本と国交がなく、拉致事件を起こしたことで不法国家呼ばわりしても問題ありません。つまり、悪役に仕立ててバッシングできる相手だから、橋下氏は珍しく外交的発言をしたのでしょう。
 
やはり橋下氏は外交についてなにも考えてなくて、つねに悪役を見つけて、それをバッシングするという政治手法だけで突っ走っているように思えます。
 
しかし、それが悪いかというと、そんなことはないと思います。前にも書きましたが、政治家はなまじ哲学やどうしても主張したいことがあると失敗するものです。
たとえば、石原慎太郎氏は「『NO』と言える日本」で反米的主張をしたところ、激しい反発を受け、結局それで国政での展望を失ってしまいました。鳩山由紀夫氏は、「友愛」という哲学を持つ政治家ですが、哲学を持っていることによって失敗した感があります。
 
哲学やどうしても主張したいことがない政治家は、臨機応変に行動できるので、かえって成功する傾向があると思うのです。
そういう意味で、橋下氏が外交音痴であったとしても問題はなく、かえってプラスであると思います。外交はむしろほかの人に任せて、「国の統治機構を変える」という一点で突っ走っていけばいいのではないでしょうか。
 

沈滞した日本の中で今いちばん勢いのあるのが橋下徹大阪市長なので、このブログもついつい橋下氏について書いてしまうことになります。
大阪府の教育基本条例案がまとまりました。これについていろいろな議論がありますが、こういう議論は時間のむだといっても過言ではありません。教育論というのは不毛と決まったものなのです。
たとえば、体罰是か非かというテーマで議論すると、体罰賛成派と反対派が熱くバトルを繰り広げることになりますが、結局結論は出ませんし、誰かが説得されて意見を変えるということもありません。
こうした事態を打破するには、教育の本質論をしなければなりませんが、それは大阪府教育基本条例とは次元の違う話になってしまうので、ここではやりません。
そこで、教育委員会についてだけ少し意見を述べることにします。
 
条例案には教育委員を罷免する規定があり、これによって「民意」を反映させるということですが、それに対して「教育の政治的中立」を冒すものだという反対論があります。どちらが正しいのでしょうか。
まず「教育の政治的中立」ですが、政治から中立であるということはどういうことかというと、要するに官僚支配、役人天国ということなのです。聖域ができると、そこが役人天国になるのは当然です。
私は教育委員会にどんな存在価値があるのかまったくわかりません。たとえば学校でイジメがあったとき教育委員会に訴えたら、教育委員会が迅速に解決してくれたという話はあまり聞きませんし、学校が体罰事件などを隠ぺいしているとき、教育委員会が指導したという話もあまり聞きません。むしろ学校をかばうようなことをしているという印象があります。
以前から教育委員会の形骸化ということが指摘されていたので、ここに改革のメスを入れるということは当然あっていいでしょう。
 
しかし、首長が教育委員会を完全に支配し、首長の考え次第で教育のあり方がころころ変わるのも困ったものです。首長は「民意」によって選ばれるといっても、教育問題が首長選の重要争点になるということはまずありえないので、「首長の教育についての考え」を「民意」だというのはむりがあります。
 
では、どうすればいいのかというと、答えはきわめて簡単です。
「教育委員公選制」にすればいいのです。
 
教育委員会は戦後、GHQの勧告でつくられたもので、アメリカの制度をまねたものです。ですから、最初は公選制だったのです。
ちなみにアメリカでは保安官や地方検事も公選制です。アメリカの推理小説を読んでいると、選挙が近づくと住民に愛想がよくなる保安官や、話題性のある事件を手がけてテレビに出たがる検事などが出てきます。
教育委員会は公選制だからこそ、首長から独立した存在であるわけです。
 
ところが、教育委員選挙が低投票率であることや政治対立が持ち込まれるなどの理由から公選制は1956年に廃止されます。
その結果、教育委員会は独立しているのかしていないのか、わけのわからない組織になり、実質的に役人が支配するものとなったのです。
 
そうした中、東京都中野区では、1981年から教育委員公選制を復活させました。これは区民の投票で直接選ぶのではなく、区民の投票結果を尊重して区長が選ぶという形式なので、「準公選制」と言われます。
 
ウィキペディアの「中野区教育委員候補者選定に関する区民投票条例」の項から引用します。
 
1981年、1985年、1989年、1993年の計4回、教育委員会準公選制が実施された。準公選による教育委員会は、栄養士の全校配置、図書館司書の配置、会議回数の増加、会議での傍聴市民の録音・写真撮影・発言の許可など様々な改革に乗り出し、一定の成果を収めた。
 
一方で投票率は第1回が42.98%、第227.37%、第325.64%、第423.83%と低迷。特定の組織を抱えた委員候補が有利になりやすい、教育委員会に党派的対立が持ち込まれるなど、かつて教育委員会公選制が行われていた時期と同様の問題点も浮上した。さらに文部省が準公選に対して違法の疑いと政治的中立が失われるとする懸念を表明する。
 
 
そのため1995年に準公選制は廃止されます。私の記憶では、文部省が再三「違法の疑いがある」と表明して、そのためにつぶされたという印象があります。
 
教育に「民意」を反映させることがだいじだと思うなら、大阪府も「教育委員準公選制」を採用するべきでしょう。これなら誰からも文句が出ないのではないでしょうか(文部科学省は別にして)。
 
つけ加えると、教師をクビにするときも、もっぱら「民意」によって決めればいいのです。これは保護者を含むあやしげな組織によって決めるというのではなく、教師と直接接している保護者と生徒が教師を評価するという形にしなければいけません。
こういう意見は極論だとして反対する人もいるでしょうが、こういう議論を深めていくと教育の本質に迫っていくことができます。

このページのトップヘ