村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

カテゴリ: 橋下流政治

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安倍晋三氏が政権から遠ざかって世の中が落ち着いてきたと思ったら、代わりに維新の会がのさばってきました。
もっとも、維新の会をのさばらせたのは立憲民主党です。
いったいどちらの罪が大きいのでしょうか。


きっかけは菅直人元首相が1月21日、橋下徹氏に関して述べたツイートです。

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これに対して橋下氏は、「弁舌の巧みさはお褒めの言葉と受け取っておく」としたあと、「ヒトラーへ重ね合わす批判は国際的には御法度」として菅元首相を批判しました。

これを受けて、日本維新の会の副代表である吉村洋文大阪府知事も「とんでもない発言」「国際法上あり得ない。どういう人権感覚をお持ちなのか」と菅元首相を批判。

日本維新の会の藤田文武幹事長は26日午前、立憲民主党本部を訪れて抗議文を手渡し、菅元首相の投稿の撤回と謝罪を要求しました。

さらに、産経新聞の「<独自>維新の抗議文判明 菅直人元首相のヒトラー投稿」という記事によると、『維新幹部は産経新聞の取材に「立民が逃げ回るならば党本部に乗り込む。維新を怒らせたらどうなるか徹底的に思い知らせる」と語った』ということです。


橋下氏の「ヒトラーへ重ね合わす批判は国際的には御法度」という主張はまったくでたらめです。
国際的にご法度なのは、ヒトラーを賛美したり肯定したりすることです。ヒトラーを批判したり、ヒトラーもどきの政治家を批判したりするのがご法度なわけがありません。
ちなみに2013年に麻生太郎副総理が「憲法はある日気づいたらワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。誰も気づかないで変わった。あの手口を学んだらどうかね」と発言しましたが、これはナチスを肯定しているので、まさに国際的にご法度の発言です。

橋下氏がヒトラーに重ね合わせて批判されたとき、「私はヒトラーとはまったく違う。いっしょにするな」と言って反論するのはありです。
ところが、橋下氏は「ヒトラーを重ね合わせた個人批判は一律禁止」だと主張しました。
こんな主張が通ったら、ヒトラーと同じような政治家が出てきたとき、「彼はヒトラーみたいだ」と言って批判するのも禁止されることになります。
橋下氏の主張は、日本でヒトラーのような政治家が登場する地ならしをしているようなものです。

したがって、菅元首相や立憲民主党はきちんと反論し、こんな主張はつぶさなければなりません。


菅元首相は投稿の撤回と謝罪は拒否し、ツイッターで維新批判を繰り広げていますが、ヒトラー問題ではこれという反論はしていないようです。
立憲民主党の泉健太代表はインターネットテレビの番組に出演した際、ヒトラーを持ち出して個人を批判することについて、「警鐘を鳴らすということはあり得る」「一律だめとはならない」と述べましたが、いかにも弱い表現です。
「橋下氏の主張は間違っている。撤回するべきだ」ぐらい言わなければなりません。


今回の橋下・維新側と菅・立民側のやり取りを見ていると、圧倒的に橋下・維新側が攻めて、菅・立民側は防戦一方という感じです。

維新のやり方は、ヤクザかヤンキーが大声で相手を恫喝するみたいなもので、立民側は相手の大声にびびって、言うべきことが言えなくなっているようです。
テレビのコメンテーターなども、維新の大声にびびるのか、橋下氏の「ヒトラーを重ね合わせた個人批判は一律禁止」を肯定するようなコメントをしています。


日本の劣化とも見えますが、もともと政治とはこういうものです。
政治は言葉を武器にした戦いです。

インターネットの登場で、その戦い方が変わりました。
掲示板やSNSで短い言葉のやり取りで議論するので、大きな思想や理念を戦わせるのではなく、その場その場で相手を論破するというやり方になりました。
このやり方が巧みだったのがトランプ前大統領です。政敵を罵倒する能力だけでアメリカ大統領にまでのぼり詰めました。
日本では、ネトウヨという言葉があるように、左翼よりも右翼のほうがインターネットでの議論に熱心で、その分議論もたくみです。

維新は喧嘩慣れしたヤンキーみたいです。論理はむちゃくちゃですが、相手を威圧しています。

立憲民主党の人たちの議論の下手さはあきれるばかりです。
しかし、同じリベラルでも、れいわ新選組は議論がひじょうにたくみです。
この違いは、インターネットでの議論に慣れているかどうかの違いでしょう。

最近「論破王」の異名をとるひろゆき(西村博之)氏は、2ちゃんねる(現5ちゃんねる)の創始者ですから、おそらく最初のころから2ちゃんねるに書き込んで議論していたのでしょう。その圧倒的経験で論破王になりました。


実は私も2ちゃんねるによく書き込んでいた時期があります。
私は自分の思想の「道徳観のコペルニクス的転回」を世に問うとき、反対する人もいるだろうから、論争の技術を磨き、誹謗中傷されることにも慣れておこうと思ったのです。
いちばん激しく論争するのは右翼対左翼ですから、右翼対左翼の論争が常時行われていて、あまり大規模でない「板」を選んで、私が左翼に加勢することで論調を転換できるか試してみました。
2004年にイラク日本人人質事件があり、人質たちの「自作自演」だという書き込みがあふれた2ちゃんねるが世の中から注目されました。そのころから数年間、わりと熱心に書き込んでいました。

今回、その「板」をちょっとのぞいてみると、ものすごく劣化していて、まともな議論が行われている雰囲気はありません。昔はもうちょっと人間的なやりとりもありました。今では「2ちゃんねるによく書き込んでいた」などと言うと、恥ずかしいだけかもしれません。

最初は「名無し」で書き込んで議論し、やがて慣れてきて「コテハン(固定ハンドルネーム)」を使って積極的に論戦を挑むようになると、百戦百勝しました。
その中で培った論戦のノウハウを紹介しましょう。


大きなテーマを選ばない
議論に勝ちたいなら、大きなテーマを選んではいけません。これは当たり前のことです。性善説か性悪説かみたいなことはいくら議論しても決着しません。小さなテーマ、狭い分野、具体的なことほど逃げ道がないので、相手を追い詰めることができます。

攻撃する。守る立場にならない。
「攻撃は最大の防御」というのは論戦でも同じです。このことはわかっていても、人はつい自分の主張したいことを主張してしまいます。そうすると、「考えが甘い」とか「こういう場合はどうするのか」と攻撃されて、守りの立場になってしまいます。守りの立場である限り、勝利はありません。「差別はよくない」と言うのではなく、「それはヘイトスピーチだ」とか「人を傷つけて平気なのか」というように攻撃します。

特定の個人を攻撃する
いくら正しいことを主張しても論破したことにはなりません。論破するというのは、特定個人に間違いを認めさせることです。実際には間違いを認める相手はほとんどいなくて、沈黙するだけです。そのとき「あいつは逃亡した」と言って、反論がないことを確かめてから、勝利宣言します。これが実際の論破ということです。
多数から攻撃されて守りの立場になったときも、攻撃してくる人間を見極めて、いちばん勢いのある個人を名指しして(匿名でもIDを指定します)、その個人を攻撃します。
健全な常識からすると個人攻撃はよくないとされますが、間違った考えをする連中の代表を言い負かせば世の中はよくなると考えればいいのです。

論理の矛盾または主張の根拠を追及する
攻撃するときは焦点を絞らないといけません。相手の主張に矛盾があるというのはいちばん攻撃しやすい標的です。それから、相手の主張のソース(情報源)を問い、根拠のない主張であったり、あやしい根拠の主張である場合は、その主張を否定します。
この目標設定が正しければ、論争は必ず勝てます。つまり論争というのは、始まった瞬間に勝敗が決まっているのです。
議論しているうちに、自分の主張したいよけいなことを言ったり、相手に挑発されてよけいなことを言ったりして、議論が目標からそれていくこともしばしばありますが、そのつど最初の目標を思い出して軌道修正します。ボクシングで相手をコーナーに追い詰める感覚です。

相手の言いすぎを追及する
議論していると、相手が言いすぎて、間違った主張をすることがあります。そういうときは、目標を変更して、そちらを追及するのもありです。
自分も言いすぎることがありますが、そういうときはすぐに修正します。そうすれば問題はありません。ところが、たいていの人は言いすぎを正当化しようとしてドツボにはまります。

論争に慣れる
最初のうちは、相手から攻撃されると、冷静さを失って、思考力が働かなくなります。また、相手を強く攻撃すると、想定外のカウンターパンチを食らうのではないかと不安になって、なかなか強く攻撃できません。しかし、論争に慣れれば、冷静に思考できるようになります。勝てそうだと思うときだけ論争を挑めば、百戦百勝できます。


このような議論は、思想の戦いではなく、論理力の戦いです。
正しいほうが勝つのではなく、論理力の強いほうが勝つのです。
裁判所が支払いを命じた賠償金を平気で踏み倒すひろゆき氏が論破王になっているのを見てもわかります。
釈然としない人のためには「正しき者は強くあれ」という言葉を贈っておきます。



このような私の経験から菅元首相と橋下氏の論争を見ると、橋下氏はさすがに論争の仕掛けがうまいなと思います。

発端となった菅氏のツイートを見ると、橋下氏のことも維新のこともまったく批判していません。それでいて「ヒットラー」という言葉が出てきます。論理が矛盾しているといえます。橋下氏はそこを突きました。

菅氏としては、このツイートを正当化するのは容易ではありません。「橋下氏はヒトラーのようだから言ったのだ」と主張しようとしても、橋下氏の過去の言動にヒトラー的なものはそれほどありませんし、現在は政治家でもありません。維新の会には優生思想的な発言をする議員や候補者が何人もいましたから「維新の会はナチス的だ」という主張はできなくもありませんが、維新の会と橋下氏は別です。
ですから、「弁舌の巧みさがヒトラーを思い起こすと言っただけで、それ以上の意味はない」と弁解するか、「ヒトラーという言葉を使ったのは適切ではなかった」と謝るぐらいでしょう。
不利な状況では戦わないこともたいせつです。

ところが、橋下氏は「ヒトラーを重ね合わせた個人批判は一律禁止」だと主張しました。調子に乗って言いすぎたのです。
ここは反転攻勢に出て、「じゃあヒトラーみたいな政治家が出てきても、『彼はヒトラーみたいだ』と言って批判してはいけないのか」と言って、発言撤回に追い込みたいところです。

また、テレビコメンテーターとして活躍する橋下氏は日本維新の会とは無関係ということになっています(大阪維新の会の法律顧問という肩書はありますが)。
ところが、橋下氏が侮辱されたとして日本維新の会は立憲民主党に抗議文を提出しました。
橋下氏が「政党間のバトルは私人として関知しないので好きなようにやってくれたらいいが、俺を巻き込まんでくれ」とツイートすると、日本維新の会の足立康史議員は「私の衆院予算委で使ったパネルでは、意識して橋下氏の名前を消しましたが、抗議文では消し忘れました。失礼しました。橋下氏はマスコミ人。有権者が維新と重ね合わせて見ないよう、私たちも改めて注意しなければなりません」とツイートしました。
抗議文の提出者は馬場伸幸共同代表となっていますが、文章を書いたのは足立康史議員だったようです。

「抗議文では名前を消し忘れた」とはひどい話です。立憲民主党は「書き直して再提出してください」と要求するべきです。
しかし、書き直すことができるでしょうか。抗議の出発点は橋下氏がヒトラーにたとえられたということにあるからです。
ちなみに抗議文の全文はこうなっています。

令和4年1月26日
立憲民主党
代表 泉 健太 様
日本維新の会
共同代表 馬場 伸幸

抗議文

さる1月21日、貴党の菅直人最高顧問が自身のツイッターに、わが党に関して、創設者の橋下徹元大阪府知事の名を挙げ「弁舌は極めて歯切れが良く、直接話を聞くと非常に魅力的」「主張は別として弁舌の巧みさでは第1次大戦後の混乱するドイツで政権を取った当時のヒットラーを思い起こす」などと投稿した。

世界を第二次世界大戦に巻き込み、ユダヤ人虐殺など非道の限りを尽くしたナチスドイツの独裁者アドルフ・ヒトラーを、民間人の橋下氏および公党たる日本維新の会を重ね合わせた発言であり、看過できない。いったい、どのような人権感覚を持っているのか。怒りを覚えるとともに、断固抗議する。

菅氏の投稿は、言うまでもなく、まったく事実に基づかない妄言であり、誹謗中傷を超えた侮辱と断じざるを得ない。
国会議員としてはもとより、人として到底許されるものではない。

ましてや菅氏は民主党政権下で内閣総理大臣を務め、なおも野党第一党の重責を担う大幹部である。
その発言の重大性を真摯に受け止めるべきであり、これを放置するのであれば貴党の責任も問われると考える。

貴党ならびに菅氏に対し、今月末日までに当該投稿(発言)を撤回し、謝罪するよう強く求める。
以上
https://torachannel.work/archives/13149341.html

「維新の会と橋下氏は無関係」としながら、「橋下氏が侮辱されたので維新の会が抗議する」というのは明らかに矛盾ですから、ここはいくらでも追及できます。
「この抗議文を出すことを橋下氏は了解しているのか」とか「この抗議文に対する回答は橋下氏に知らせるのか」と具体的に質問するのがコツです。
「人権」という言葉も出てきます。「誰の人権ですか」と聞きたいところです。「橋下氏の人権です」と答えるはずです。「維新の会のメンバーの人権です」などとごまかせば、「具体的に誰ですか」とさらに質問します。

「発言を撤回しろ」という要求もあります。
もしかすると菅氏の発言は橋下氏への名誉棄損になるかもしれませんが、それは橋下氏が対処するべき問題で、維新が口出しすることではありません。
「この抗議文は、理由なく発言を撤回するよう求めている。これは言論の自由の否定だ」と言って、抗議文の撤回と謝罪を要求することができます。
維新の会が要求に応じなくても、ネチネチと追及すれば自然と優位に立てます。


こういう低レベルの争いをしていていいのかと思われるでしょう。
確かにその通りです。
根本的な原理の転換をしなければなりませんが、それについては「すべての思想を解体する究極の思想」を参照してください。

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日本維新の会ホームページより

総選挙で躍進した日本維新の会は「身を切る改革」をキャッチフレーズにしていますが、こんな言葉を信じる人がいるのでしょうか。

人間は誰も「身を切る」ことなどしたくありません。するのは、心を病んでリストカットする人か、ハラキリする侍ぐらいです。
「身を切る改革」なんていうのは、詐欺師が「出資者には毎月10%の利息を支払います」と言うのと同じくらいあやしい言葉です。
大阪の人はこんな言葉を信じているのでしょうか。
政治家が「身を切る改革」をやるのは、世論に追い詰められたときぐらいだと思って間違いありません。


国会議員には歳費のほかに毎月100万円の「文書通信交通滞在費」が払われるのですが、先の総選挙で当選した議員は投開票日の10月31日から議員になったと見なされ、10月分の100万円が支払われました。
1日議員であっただけで1か月分もらうのはおかしいと新人議員がツイートしたのをきっかけに「文通費」のことが話題になっています。

とくにそのツイートをしたのが維新の議員だったので、維新の会がここぞと「身を切る改革」のアピールに利用しました。
維新の代表である松井一郎大阪市長や副代表である吉村洋文大阪府知事は「1日議員であっただけで100万円もらうのはおかしい。一般常識とかけ離れている。国庫に返納できないなら、どこかに寄付するべきだ」と主張して、「身を切る改革」に不熱心な他党を攻撃しました。

ところが、吉村知事が衆院議員を辞めて大阪府知事選に立候補した2015年、10月1日に議員辞職して10月分の100万円を丸ごともらっていた事実が発覚し、“ブーメラン”と批判されたのはお笑いです。
生活保護受給で批判された大阪の芸人が「もらえるものはもらっとけ」と言ったそうですが、吉村知事も同じなのでしょう。
ただ、「もらえるものはもらっとけ」というのは普通の感覚です。
「身を切る改革」が詐欺師の言葉なのです。

結局、1日在職しただけで1か月分もらえるのはおかしいということで、どうやら文通費を日割り計算で支払うことにするという法案が提出されるようです。


しかし、これは所詮小さな問題です。
こんなことで「改革」をやった気になられては困ります。

今回の総選挙で当選した新人議員と元議員の合計は120人です。この全員が文通費を返納したところで1億2000万円です。
前職の当選者は345人で、10月14日まで在職していたことになるそうで、日割り計算して100万円の半分とすると、1億7250万円です。
合計しても3億円になりません。


国会が召集され、国会議員が集まって、最大の話題が3億円のことです。日割り計算もせこい話です。
日本の政治の劣化を象徴しています。

しかも、この3億円がむだかというと、そうとは限りません。
車の通らない道路をつくったり、配布されないアベノマスクをつくったりするのはむだですが、国会議員に配られて、ちゃんと政治活動のために使われるならむだではありません。

名目は「文書通信交通滞在費」ですが、領収書は必要とされないので、使途は自由です。
サラリーマンの給料には基本給のほかに住宅手当や家族手当などがありますが、住宅手当だからといって住宅費にしか使えないとか領収書が必要だとかいうことはありません。
国会議員は歳費という基本給に「文書通信交通滞在費」という手当てがついていると考えればいいわけです(ほかに1人当たり月65万円の「立法事務費」もついてきます)。

いったんもらった文通費は国庫に返すことができないそうで、維新は所属議員から回収して、まとめてどこかに寄付すると言っています。
どこに寄付するのか早く明らかにしてほしいものです。
たとえばどこかの被災地の復興のために寄付するのであれば、自分たちの政治活動にお金を使うより被災地の復興に使ったほうがいいということで、自分たちの政治活動の価値を低く見ていることになります。

いや、自分たちの政治活動にはそんなにお金が必要ではないということかもしれません。
だったら、文通費を国庫に返納できるように法律を改正して、維新の国会議員は全員、文通費を国庫に返納すればいいのです。
日本維新の会の国会議員は衆参合わせて56人なので、年間6億7200万円を国庫に返納できることになり、これはバカになりません。
これこそが「身を切る改革」ですから、維新の議員は率先して行うべきです。

政党助成金は年間総額317億円です。
共産党は政党助成金を受け取っていません。これこそ「身を切る改革」です。
維新は受け取っています。これのどこが「身を切る改革」でしょうか。

要するに維新の「身を切る改革」は、文通費を日割り計算するだけですから、単なる見せかけ、パフォーマンスです。


いや、これから文通費を廃止し、歳費を減額し、さらに政党助成金の減額も主張していくのかもしれません。
しかし、それはそれで困ったことになります。
というのは、もともと政治資金には「与野党格差」があるからです。

企業団体献金は圧倒的に自民党に多く入ります。
さらに政治資金パーティも、与党議員のパーティと野党議員のパーティでは、パーティ券の売れ行きが全然違います。

自民党は資金が豊富なので、たとえば2019年の参院選で広島選挙区に立候補した河井案里氏に自民党本部から1億5000万円が贈られたりします。
また、自民党は選挙区の情勢を詳細に調査して、解散時期を決めたり選挙戦術を決めたりしますが、資金のない野党にはそういうことはできません。
政権交代を考えるなら、こうした与野党格差の解消をはかることも重要です。

ともかく、与野党格差があるときに、たとえば一律に文通費100万円を返上したら、与党はたいして痛くありませんが、野党はかなり痛いことになり、格差は拡大します。

維新の会のことを「自民党維新派」と言っている人がいました。つまり自民党の別動隊みたいなものだということです。
与野党が同じように「身を切る改革」をしたら、野党が先につぶれます。
もしかするとそれが維新の狙いでしょうか。

維新の「身を切る改革」にだまされてはいけません。

橋下徹
橋下徹公式ウェブサイトより

大阪都構想が住民投票で否定されて、「都構想は一丁目一番地」としてきた維新の会の存在意義はほとんどなくなりました。
ツイッターでは「#維新はいらない」が一時トレンド入りしました。

そもそも「都構想は一丁目一番地」というのがおかしな話です。
都構想は行政をよくする手段のひとつでしかないはずです。
維新の会とはどういう存在でしょうか。

維新の会(現在は大阪維新の会と日本維新の会)は大阪府知事だった橋下徹氏と自民党を離党した府議らが結成したもので、実質的に橋下氏の個人政党でした。つまり理念でできた政党ではなく、橋下氏の個人的人気でできた政党です。
橋下氏は現在も維新の会の顧問であり、メディアではつねに維新の応援をしています。
ですから、橋下氏の思想が維新の会の理念だと言っていいぐらいです。

では、橋下氏の思想とはなんでしょうか。

橋下氏はもともと「茶髪の弁護士」としてテレビに出てきました。当時は法律家といえば四角四面の人ばかりというイメージなので、大いに目立ちました。
そのころは政治家になるような感じはまったくありませんでしたが、人間であれば必ずなんらかの政治的な思想はあります。
その思想のもっとも根底的な部分が次の記事からうかがえます。

橋下徹氏、選挙制度で持論披露「産まれた子供たちにも一票を与えて、親が行使」
 元大阪府知事の橋下徹氏(51)が2日、TBS系「グッとラック!」(月~金曜・前8時)にリモートで生出演。大阪市を廃止して4特別区を新設する「大阪都構想」の賛否を問う住民投票が1日に投開票され、反対票が賛成票を上回り、2015年5月の実施に続いて否決されたことに言及した。

 橋下氏は現状の選挙制度について「投票率も高齢者の方が高いので、今の選挙制度では高齢者の方に目を向けるようになってしまいます」とどうしても高齢者を重視したものになってしまうと指摘。

 その上で「僕の持論は、産まれてからの子供たちにも一票を与える。その子供たちが選挙権が行使できないので、親が行使する」と持論を披露。「これを言うと僕は7人子供がいるから、自分の家庭のことを考えて言っているだろと言われてしまうんだけど。僕は産まれた子供たちにも一票を与えて、親が行使するということをしないと、未来に向けた政治が出来ないと思っています。ただ、政治家はやらないですよ。高齢者から票をしっかり集める政治家はやらないでしょうね」と実現は極めて難しいと推察。

 また、電子投票についても「これをやると若い人がちが簡単に投票をしてしまう。高齢者を支持層としている政治家がたくさんいるので、若い人たちが簡単に投票することを嫌がる国会議員は多いですね。子供に一票を与えて親が行使する、僕が言っているこんな話を永田町に言ったって、全然動いてくれないでしょうね」と見解を語った。
https://news.yahoo.co.jp/articles/d8b6e1fda771dba9bce301f51b5ea0c797fe0462

実は私も、選挙権の年齢制限を撤廃し、子どもには生まれたときから選挙権を与えるべきだという考えです。
3歳ぐらいではさすがにむりでしょうが、小学生ぐらいになれば政治に興味を持って、自分も投票したいという子どもが出てきますし、政党も子どもや若者にアピールする政策を打ち出すようになり、政治が未来志向になります。

橋下氏も私と同じ考えかと思ったら、ぜんぜん違いました。
橋下氏は「子どもの人権」も「子どもの意志」もまったく無視しています。
子どもを親の所有物だと思っているのです。
親が子どもの代わりに投票したら、子どものための政治ではなく、親世代のための政治になってしまいます。

それから、橋下氏はまったく触れていませんが、子どもの選挙権を行使するのは父親か母親かという問題があります。
子どもの数が偶数なら分け合えても、奇数ならそうはいきません。
橋下氏がこのことに触れないのは、子どもの選挙権は自分(父親)のものと思っているからでしょう。
「子どもの意志」を無視するだけでなく「妻の意志」も無視しているのです。

選挙権年齢が今の18歳のままであれば、親は50歳ごろまで一人で2票とか3票の投票ができることになります。そうすると中年世代の投票数が大幅に増えて、高齢者と18歳以下の若者の意志が相対的に政治に反映されなくなります。
橋下氏の「生まれたときから選挙権」説は、一見子どもや若者のためのようですが、実際は親世代のためのものです。

都構想も、維新の会は若い世代のためになると言っていますが、実際は維新の会のためのものかもしれません。


橋下氏が若い世代のことを考えないのは昔からです。

橋下氏はもともと体罰肯定論者で、2012年に大阪市立桜宮高校のバスケットボール部のキャプテンが顧問教師から体罰を受けて自殺した事件が大きく騒がれたときも、最初のうちは体罰肯定の立場でしたが、世の中の空気を読んで途中から体罰反対に転換しました。
しかし、家庭内では体罰を続けていたようです。
今年1月の記事でこのように語っています。

橋下徹氏 以前は「バリバリ体罰の親」だったが…改正児童虐待防止法で難しさ語る
 元大阪市長で弁護士の橋下徹氏が4日に放送されたカンテレ「モモコのOH!ソレ!み~よ!」にゲスト出演し、子育ての難しさについて語った。

 メインMCのハイヒール・モモコに「子供には厳しく怒ったりする?」と尋ねられた橋下氏は「下2人まではかなり厳しくやった。手を上げてたし。今ちょうど、児童虐待の法律を変えて、体罰のガイドラインを変えたんです。親であっても体罰的な指導はダメだというガイドラインができた」と、改正児童虐待防止法に関連し、厚労相が昨年12月に公表した虐待に該当する指針に触れた。
 橋下氏は自身のしつけを振り返り「全部それに当てはまる。バリバリ、体罰の親」と自認。モモコが「あれは確かに厳しいですが、それ以上のことをやってしまう親もいるのが事実」と意見を挙げた。橋下氏は「上の子は、親バカですが、まあ外に出してもちゃんとやってくれそうな感じ。下の2人は自由すぎる。だけど人に迷惑をかけない程度だが、あの程度でもいいのかなと。そこまで手を上げて押さえ込んでやらなくていいのかなと正直、思いますね」と、悩みながらしつけ方法を模索していることを語った。
(後略)
https://www.daily.co.jp/gossip/2020/01/04/0013008505.shtml

これを読めば、いかにひどい親かわかります。
親の体罰は子どもの脳の萎縮・変形を招くので、まったく正当化できません。


橋下氏のこのような強権的で暴力的なやり方が維新の会の体質をつくっています。
松井一郎大阪市長、吉村洋文大阪府知事の強権的なふるまい、尊大な態度は橋下氏譲りです。
都構想の住民投票にしても、賛成するのが当たり前というような、上から目線のところが維新の会にはあったのではないでしょうか。


橋下氏は、元農水省事務次官の熊沢英昭被告が長男を殺害した事件について、「僕が熊沢氏と同じ立場だったら、同じ選択をしたかもしれない」「僕は熊沢氏を責められない」などと殺人を肯定するかのようなツイートをしたので、私は『橋下徹氏の「予防殺人」論について』という記事を書いて批判したことがあります。


体罰や殺人を肯定する橋下氏がテレビに出続けているのは信じがたいことですし、維新の会には橋下氏の思想や体質が今も染み付いているように思えます。

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大阪都構想の賛否を問う住民投票は、反対多数で否決されました。

私は京都出身ですが、東京在住が長いので、都構想については詳しくありません。しかし、外から見てろくなものではないだろうと見当はつきます。都構想がそんなにすばらしいものなら、京都府や愛知県や神奈川県でも同様の議論が起きてもいいはずだからです。

敗北が決まってからの維新関係者のコメントを聞いても、そのことがわかります。
松井一郎大阪市長は、任期満了後の政界引退を表明するとともに、「これだけ大きな問題提起ができたことは政治家冥利に尽きる」「やることをやった。全く後悔はないしこれ以上できない。心が晴れている気持ちだ」などと語りました。
吉村洋文大阪府知事は「大阪都構想は間違っていたのだろう。僕は政治家を続ける中で、都構想に挑戦することはもうないと思う。本当にやりきったという思いだ」と語りました。

いさぎよく敗北を受け入れるのはいいのですが、コメントがあまりにも自己中心的です。
「二重行政のむだ」を訴えてきたのですから、「これからも二重行政のむだが続いていくと思うと残念だ」ぐらいのことは言うべきです。
言わないのは、やはり「大阪都構想は間違っていたのだろう」ということなのでしょう。

松井市長が政界引退を表明したのも不可解です(吉村知事も引退をほのめかすようなことを言いました)。
大阪をよくするために政治家になったのなら、都構想はだめになっても、大阪に尽くすことはできます。
政界は自分を目立たせるための舞台だったのでしょうか。


国政というのは、外交安保、憲法改正など大きな問題を扱い、右翼と左翼、保守とリベラルなど大きな対立がありますが、地方政治は、税金を正しく使って住民サービスを向上させることが中心で、地味なものです。

「大阪維新の会」は地域政党ですから、そういう地道なことをするのが本来の姿です。
ところが、松井市長や吉村知事、橋下徹氏などは目立ちたがりで、大きなことをやろうとします。
都構想というのは、地方政治でできるいちばん大きなことかもしれません。
要するに大風呂敷を広げることが目的で、風呂敷の中身は最初からどうでもよかったのです。

かつて「道州制」というのがかなり議論されたことがありましたが、今はすっかり忘れられています。それと同じで、要するに地方政治で「やってる感」を出すためのアイテムです。


また、松井市長や吉村知事、橋下徹氏らは、いかにも大阪らしい人ですが、どうも“大阪愛”が感じられません。
たとえば「都構想」というのは、東京コンプレックスからくる発想ではないでしょうか。
京都人なら都構想なんていうことは絶対に考えません。

大阪の地域政党なら、大阪らしさを追求して、大阪人が誇りを持てる大坂をつくるべきですが、これまでの大阪維新がやってきたことは、統合型リゾート(IR)誘致とか万博誘致とかで国から金を引っ張ってくることです。これなら与党である自民党と変わりません。


もともと大阪人は東京に対抗意識を持っていました。
東京が政治の中心地なら、大阪は経済の中心地だというような意識です。
「王将」にうたわれる坂田三吉が大阪人に愛されるのは、実力名人を名乗って東京の将棋界に対抗したからでもあります。
1970年の大阪万博を中心になって企画した小松左京も大阪を強く意識していた作家で、「物体O」という短編は、ある超常現象で関西が隔離され、大阪を首都とする国を関西に築いていくという物語ですし、長編の「日本アパッチ族」は、再び全体主義化した戦後日本において、大阪の屑鉄泥棒たちが鉄を食う“食鉄人種”に変身して国に対抗するという物語です。

そういう東京への対抗意識が大阪を元気にするのではないかと思うのですが、都構想は大阪をミニ東京にしようというものですから、それと真逆です。
それに、松井市長らは安倍首相や菅首相とのつながりを利用してきました。これでは地域政党の意味がありません。

意味がない政党なので、松井市長にしても簡単に引退できるのでしょう。



ただ、松井市長は政界引退を表明しましたが、これはほんとうかという問題があります。
松井市長は現在56歳です。2年半後の任期満了ののち、おとなしく消え去るとは思えません。
橋下氏は府知事選出馬について「2万%ない」と言いながら出馬しましたし、府知事を辞めたあと「政治家はやりません」と言いながら、政治家と変わらない動きをしています。
そして、橋下氏の引退とともに都構想も終わったはずなのに、5年後にまた住民投票になりました。

そもそも政治的信念がなく、自分が目立ちたい人たちなので、なにか目立つことをやってくるのは確実です。
森嬉朗元首相が政界引退後も東京オリンピックを牛耳る立場になっているので、松井市長は大阪万博を牛耳る立場になるのでしょうか。


住民投票のためにコストもエネルギーも費やされました。
信念のない政治家は困ったものです。

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吉村洋文大阪府知事にはびっくりです。
うがい薬を使ってうがいをすることで「コロナの陽性者が減っていく。薬事法上、効能を言うわけにはいきませんが、コロナに効くのではないかという研究が出ました」「このコロナに、ある意味、打ち勝てるんじゃないかというふうにすら思っています」と大々的に発表したからです。

殺菌作用のあるうがい薬で何度もうがいをすれば、口中のウイルスが減少するのは当然です。しかし、それだけで「コロナに効く」とか「コロナに打ち勝てる」とはいえないはずです。

吉村知事の発表でうがい薬が店頭からなくなり、ヨード系のうがい薬を多用すると甲状腺機能障害の危険性があると医療関係者から指摘されるなど、世の中が混乱しました。

吉村知事はなぜこんな愚かな発表をしたのでしょうか。
私なりに調べてみました。


このうがい薬による“実験”をしたのは、大阪はびきの医療センターの松山晃文次世代創薬創生センター長です。被験者は41人で、論文にもなっておらず、ずさんな実験だと批判されています。

その実験というのは、41人を2群に分け、1日4回、ポビドンヨードを含むうがい薬でうがいを毎日実施した群と、うがいを実施しなかった群を比較し、毎日、唾液によるPCR検査をおこなったところ、4日目にはうがいを実施しなかった群の陽性率は40%だったのに対して、ポビドンヨードを含むうがい薬を使った群は陽性率が9.5%に低下したというものです。
しかし、この実験ではポビドンヨードを含むうがい薬の効果は立証されません。水うがいでも同じ効果が出るかもしれないからです。

松山センター長もそのことは認めて、『「うがい薬でコロナウイルス減少?」 大阪はびきの医療センター・研究責任者に直撃』という記事で次のように語っています。

「水うがい」「塩うがい」でも口の中のウイルスの濃度を減らすことができると思います。
ポビドンヨードだとのどを痛めたり、副作用がありますけれども、「水うがい」「塩うがい」は日本古来からありますし、お勧めできると思います。
   ※
1回のうがいでは数時間しか効果が持ちません。2時間後、3時間後ではウイルスは再度陽性になってきますので、うがいを継続的にした人は「陰性」になるということはあると思います。


やはり口中のウイルスを一時的にへらすだけのことだと松山センター長も認めています。しかも、うがい薬を使わずに水うがいでも同じような効果がある可能性があります。

では、この実験結果にどんな意味があるのかというと、松山センター長は、唾液中のウイルスがへれば人に移すリスクがへることと、軽症者の場合、唾液を肺に吸い込んで肺炎になるリスクがへることを挙げています。
しかし、陽性者はすでに隔離され、マスクをするなどして人に移さないように心がけていますし、口腔中のウイルスはへっても肺に直結する鼻腔中のウイルスはへらないので、肺炎になるリスクはそれほど変わらないとも思えます。

ただ、松山センター長は、実験はずさんだったとしても、そんなにでたらめなことは言っていません。
問題は、そんな実験結果に食いついて、「うがいでコロナに打ち勝てる」などと誇大妄想的な発表をした吉村知事です。

私は最初、吉村知事はニセ科学による詐欺にひっかかったのかと思いました。
しかし、実際は一人相撲ならぬ“一人詐欺事件”とでもいうのか、松山センター長はだます気がないのに吉村知事が勝手にだまされてしまったのです。
吉村知事は口腔中のウイルスがへって検査結果が「陰性になる」ということを、勝手に「コロナが治る」と脳内変換したに違いありません。
そして、それをマスコミに発表する自分の姿を想像して酔いしれ、正常な判断力を失ってしまったのです。


これまでメディアは吉村知事をひたすら持ち上げてきました。
政府のコロナ対策はでたらめで、安倍首相も西村コロナ担当相も加藤厚労相も自分の言葉で説明することができないので、メディアは各知事に注目し、中でも歯切れのいいしゃべりのできる吉村知事は連日テレビに顔出ししてきました。
そのため吉村知事は自分が日本のコロナ対策の中心であると勘違いをするようになったのではないでしょうか。

そして、吉村知事が力を入れたのが、大阪府、大阪市、大阪大学、大阪市立大学、医療機関、民間会社などオール大阪で取り組む“大阪ワクチン”の開発です。
世界中でワクチン開発を競っている中で、“大阪ワクチン”がどの程度有力なのかよくわかりませんが、「やってる感」を出すのにこれ以上のものはありません。
マスコミも食いつきがよく、吉村知事が「6月30日から臨床試験を始め、市大病院の医療従事者からワクチンを接種してもらう」などと発表するたびに大きく取り上げてきました。


そうしたところに松山センター長の実験結果が知らされ、吉村知事は「大阪発のコロナ対策」というところに食いついたのでしょう。
しかも、ポビドンヨード含有のうがい薬の代表的存在であるイソジンは、大阪の塩野義製薬の製品です。塩野義製薬は“大阪ワクチン”の開発に深く関わり、大阪万博のスポンサー企業でもあります。吉村知事の「うがい薬がコロナに効く」発言で塩野義製薬の株価が急騰し、インサイダー疑惑もささやかれ、吉村知事は“イソジン吉村”と揶揄されました。

インサイダー疑惑については『吉村知事「ヨードうがい薬」会見を『ミヤネ屋』に事前漏洩! 出演者のテリー伊藤が「会見の1時間半前に知った」「インサイダー取引できた」』という記事があります。


吉村知事は、コロナ対策をするときに「大阪」にこだわったのが失敗です。
科学では客観性がだいじで、自己中心的とか身びいきとかお友だち優遇とかは科学の敵です。

それは安倍首相においても同じです。
安倍首相は緊急事態宣言解除のときに「『日本モデル』の力を示した」と言って胸を張ったために、感染再拡大の事態ではなにも言えなくなりました(吉村知事が先に「大阪モデル」という言葉を使っていて、「日本モデル」はそのパクリでしょう)。
安倍首相はまた、富士フイルム富山化学の抗インフルエンザ薬「アビガン」を新型コロナ治療薬として強く推し、2020年度補正予算案に139億円を計上し、承認を急がせました。日本発の薬だということのほかに、富士フイルムHDの古森重隆会長が安倍首相を囲む財界人「四季の会」の中心メンバーであること、つまりお友だち優遇ということもありそうです。
しかし、臨床試験ではいまだに有効性が立証できず、一時は5月中の承認を目指していた安倍首相も、最近はアビガンに言及することもなくなりました。


吉村知事は、ポピドンヨード含有のうがい薬について「治療薬ではない」「予防効果があるとは一言もいっていない」と弁解しましたが、訂正や謝罪はしていません。
大阪のメディアがみんな大阪維新の会のお友だち化して、吉村知事を追及することもないので、それで通っているのでしょう。

橋下徹氏の新党「日本維新の会」が発足しましたが、具体的な形を見てしまうと、夢から覚めたような気分になってしまいます。
そもそもは橋下氏の個人商店のような政党ですが、その橋下氏が次の選挙に出ないとなると、節操もなく寄ってきた現職議員と、公募で集まった一年生議員ばかりの集団となり、国会内でどんな仕事ができるのか疑問です。
いや、維新の会が明確な指針を持っていれば、一年生議員でも働けると思いますが、維新の会がなにをやろうとしているのかよくわかりません。
 
「維新八策」というのが維新の会の基本方針です。
 
最初に、「今の日本、皆さんにリンゴを与えることはできません。リンゴのなる木の土を耕し直します」と書いてありますが、これは完全に小泉純一郎氏が首相に就任して最初の施政方針演説で言った「米百俵の精神」のパクリでしょう。
で、中身を見てみると……中身がありません。本でいえば目次があるだけで本文がありません。
「基本方針」の中に首相公選制、参議院廃止、道州制という文字がありますが、これはいわば入れ物の形を変える話であって、中身を変える話ではありません。また、優先順位もわかりません。維新の会の候補者は、議員になってもなにをやればいいのかわからないでしょう。
 
理念がない、優先順位がわからない、実現が容易でないといったことはすでに批判されています。なぜそうなるのかというと、私が思うに、橋下氏はテレビのトーク番組(「たかじんのそこまで言って委員会」みたいな)で受けそうな政策を羅列しているだけだからです。首相公選制、参議院廃止、道州制というのは、派手だから一般受けしそうです。
 
「維新八策」の「八策」はもちろん坂本龍馬の「船中八策」から取ったものです。
「維新」という言葉も、右翼的イメージがあって普通あまり好まれませんが、今は右翼が受ける時代だからということで使ったのでしょう。しかし、橋下氏は「明治以来の統治機構を変える」ということを言っているのですから、「明治維新」の「維新」という言葉を使うのは矛盾しています。
 
そうした矛盾が「日本維新の会」の英訳に露呈してしまっているというニュースがありました。
 
「維新の会」の英訳に外国人は「???」- ゲンダイネット(20129281000分)
  橋下新党「日本維新の会」が今月12日、政党のロゴを発表したが、そこに書かれていた英語名「JAPAN RESTORATION PARTY」に、外国人から疑問の声が上がっている。
 
 「RESTORATIONと聞いて、英語圏の人がすぐにイメージするのは、英国史における『王政復古』です。RESTORATIONの本来の意味は、復古や復活のこと。橋下新党を『日本復古の会』と読んでしまう外国人も多いのではないか」(英国人記者)
 
 「維新」を広辞苑で引くと、「物事が改まって新しくなること」「政治の体制が一新されること」だが、「明治維新」は天皇親政の“復活”だったことから、「MEIJI RESTORATION」と英訳されている。そこから、日本維新の会も「JAPAN RESTORATION PARTY」と訳したようだが、米国を中心に取材活動をしているジャーナリストの堀田佳男氏も、こう指摘する。
 
 「リストア=修復という言葉の通り、『RESTORATION』だと古いものを元に戻す、というニュアンスになります。明治維新の直訳をそのまま使うのは、あまりいい訳とは言えませんね。まして、これから新しいものを作っていこうという日本維新の会だけに、奇異に感じている外国人は多いと思います」
 
  実は、維新の会にも同様の問い合わせがあるという。事務局の担当者は困惑気味に言う。
 「確かに、英語の解釈では『王政復古』の意味になるのではないか、という声が寄せられています。ただ、この名称は執行部が決めたことですので何とも……」
 
  右傾化が目立つ維新の会は、名が体を表しているように見える。
 
 (日刊ゲンダイ2012925日掲載)
 
ほんとうは「革命」とか「革新」という言葉を使うのが正しいのでしょうが、日本ではそれは左翼のイメージになってしまいます。
私の考えでは、どうせ日本の歴史から取ってくるなら、「大化の改新」の「改新」を使えばいいと思います。
「日本改新の会」あるいは「日本改新党」でいいのではないでしょうか。
 
ともかく、国民が橋下氏や維新の会に期待したのは、なにか政治理念を実現してほしいということではないはずです。
橋下氏が大阪府知事に当選したとき、最初に取り組んだのは、財政非常事態宣言を出して財政再建の道筋をつけることでした。府職員の給料カットや補助金のカットなどを、圧倒的な抵抗勢力と戦いながら実現していったその成果とその姿勢が支持されたのだと思うのです。
国政においても、国家公務員の給料カットはもちろん、財政のむだを省くいわゆる“シロアリ退治”が期待されているのではないかと思います。ですから、最初は既得権益を徹底的に排除して財政再建に集中的に取り組むということを公約にすればいいと思うのです。
民主党は「事業仕分け」をうまくやれませんでしたが、維新の会は「本物の事業仕分け」をするということで、既成政党との違いを明確化することができます。
 
それにしても、自民党新総裁になった安倍晋三氏と比べると、橋下氏は対照的なところがあります。
橋下氏は府知事就任間もないころ、確か府下の自治体の首長とバトルを演じたときだと記憶していますが、最後は半泣きになってしまいました。しかし、そうした姿をさらしてまでもがんばっている橋下氏に支持が集まり、また橋下氏自身、そうした経験を通じてたくましくなっていったと思うのです。
一方、安倍氏は自分の病気を隠し、つねに自分のいい姿ばかりを国民の目に見せていました。
半泣きの無様な姿を見せた橋下氏はたくましくなり、いい姿ばかりを見せていた安倍氏はいつまでもひ弱で、結局ストレスに負けてしまいました。
 
そういう意味では、橋下氏に期待したい気持ちは大いにあります。
識者は理念や政策がだいじだと言いますが、理念や政策よりも人間がだいじだということを改めて思います。
 

5月1日、「大阪維新の会」市議団が「家庭教育支援条例案」を発表しましたが、これに対して批判が噴出し、市議団は7日、条例案を白紙撤回することを決めました。いかにも「大阪維新の会」らしい顛末です。
このことは全国的にはあまり報道されていないので、念のためにふたつの記事を張っておきます。
 
家庭教育支援条例案:虐待防止狙い 維新の会、提案へ
 毎日新聞 20120502日 大阪朝刊
 大阪市議会の最大会派「大阪維新の会市議団」(33人)は1日、児童虐待事件が多発する現状を踏まえ、家庭教育の支援などを目的にした「家庭教育支援条例案」を5月議会に議員提案する方針を決めた。第2会派の公明党と協議し、可決を目指す。
 条例案は、家庭用道徳副読本の導入▽乳幼児との触れ合い体験学習の推進▽発達障害課の創設▽保護者を対象にした保育士体験の義務化−−などの内容で、「親学」を提唱する高橋史朗・明星大教育学部教授の助言を受けて条文を検討している。
 教育関連では、橋下徹市長が提案した教育行政基本条例案と市立学校活性化条例案の2案が5月議会で議決される見通しで、維新市議団はこの2案を補完する条例と位置づけている。【林由紀子】
 
大阪維新の会:「発達障害は親の愛情不足」 「家庭教育支援条例案」に批判続出 市議団提案延期
 毎日新聞 20120507日 大阪夕刊
 橋下徹・大阪市長が代表を務める「大阪維新の会」の市議団が議員提案を予定している「家庭教育支援条例案」に批判の声が広がっている。条例案は、児童虐待や子どもの非行などを「発達障害」と関連付け、親の愛情不足が原因とする内容だが、医師や保護者らが「根拠がない」「偏見を助長する」と猛反発。発達障害の子どもを持つ保護者らの13団体は7日午後、議会を訪れて提案中止を要望。市議団も5月議会での提案見送りを決めた。
 条例案は今月1日、維新市議団が公表。児童虐待が相次ぐ現状を踏まえ、家庭教育の支援や親に保護者としての自覚を促す目的で作られた。「親になるための学びの支援」「発達障害、虐待等の予防・防止」など全5章、23条から成る。
 しかし、発達障害について「乳幼児期の愛着形成の不足」が要因と指摘し、「伝統的子育て」によって障害が予防できるなどと言及した条文に批判が続出。高田哲・神戸大大学院教授(小児神経学)は「親の育て方が原因であるかのような表現は医学的根拠がないばかりか子どもや家族が誤ったイメージで見られかねない」と危惧する。
 長男(16)が広汎(こうはん)性発達障害という母親(45)=東大阪市=は「私のせいで子どもが発達障害になったと言われているようで傷ついた。最近は理解も広がってきたと思っていたのに、怒りを通り越して言葉にならない」と憤る。「大阪自閉症協会」「大阪LD親の会 おたふく会」など大阪府内を中心に活動する13団体は7日、「学術的根拠のない論理に基づいている」として条例案撤回のほか、当事者団体や専門家を含めた勉強会の開催を求めた。
 インターネットの「ツイッター」でも1日以降、「うちの子は失敗作ですか」「ニセ科学だ」などと抗議が噴出。橋下市長は7日、記者団に「発達障害の子どもを抱えているお母さんに愛情欠如と宣言するに等しい」と苦言を呈し、市議団に条例案見直しを求めたことを明かした。【林由紀子】
 
これに関し、名前を挙げられた高橋史朗・明星大教育学部教授は、「ある県の極めて粗雑な非公式な私案」がマスコミに流れ出たのは理解に苦しむと言いつつも、「環境要因や育て方が(発達障害の)二次障害に関係するとの見解までもタブー視」するのはよくないと主張しておられます。
 
 
この条例案には、「乳幼児期の愛着形成の不足が軽度発達障害またはそれに似た症状を誘発する大きな要因である」「わが国の伝統的子育てによって発達障害は予防、防止できる」というくだりがあり、この部分が非科学的であるとして集中的に批判されています。確かにその批判はもっともですが、私はこの条例案のあまり批判されていない別の点について批判したいと思います。
 
この条例案の前文の前半部分を引用します。
 
家庭教育支援条例 (案)  
(前文)
 かつて子育ての文化は、自然に受け継がれ、父母のみならず、祖父母、兄弟、地域社会などの温かく、時には厳しい眼差しによって支えられてきた。
 しかし、戦後の高度成長に伴う核家族化の進展や地域社会の弱体化などによって、子育ての環境は大きく変化し、これまで保持してきた子育ての知恵や知識が伝承されず、親になる心の準備のないまま、いざ子供に接して途方に暮れる父母が増えている。
 
つまり、昔は家庭や地域社会がちゃんと子どものしつけや教育をしていたが、最近は家庭や地域社会の教育力が低下してきているという認識が示されているわけです。この認識は幅広く共有されており、マスコミでも普通に語られています。たとえば、最近の親は家庭でするべきしつけをせず学校任せにしている、といった具合です。
ですから、このくだりを読んでも疑問に思う人は少ないでしょう。
しかし、「昔は家庭や地域社会が子どもをちゃんと教育していた」というのは、実はトンデモ歴史観なのです。
子どもの教育やしつけのことがうるさく言われるようになったのは最近のことです。昔は今のように子どものしつけや教育をしていなかったのです。
 
私は、昔の寺子屋では子どもに行儀を教えることはなく、子どもはそれぞれ好き勝手な格好で勉強していたということを次のエントリーで指摘しました。
「オランダの学校と寺子屋」
 
今回は、「日本人のしつけは衰退したか」(広田照幸著・講談社現代新書)に基づいて、昔は今のように子どもの教育・しつけをしていなかったということを言いたいと思います。
適当に目についた部分を引用します。
 
特に、幼少期のきびしいしつけが重視されてきた西洋とは対照的に、日本の伝統的な子供観は、子供は自然に大きくなって一人前になるものだという考え方が支配的であった(山住正己「近世における子ども観と子育て」)。昭和初めの熊本県須恵村に住み込んだ米国人の人類学者は、小さい子供が傍若無人にふるまっても大人たちがほとんど怒らないことを詳細に書き残している(スミス&ウィスウェル「須恵村の女たち」)。日本の伝統的な考え方に基けば、「子どもは年頃になれば自然に分別がつくもの」だから、小さいときにきびしくしつける必要などないと考えられていたのである。
 
実際、両親そろっている場合でも、都市下層では経済的・文化的にみて子供に十分な配慮をしてやれるだけの余裕に乏しかった。また、時間的に余裕がある場合でも、子供のことは家庭内で優先順位がけっして高くなかったからであろうか、子供は放任されていた。昭和初めの小学校教師がみた都市下層の家庭の様子を紹介しよう(古関蔵之助「細民街を生活環境とする子供等」)
共稼ぎの場合。「父母は朝早く出て夜遅く帰宅する。労働者が家を留守にすることは夥しいもので、仕事の都合では数日間子供の寝顔しか見られぬ事がある。……父母は留守勝ち故、三銭おくからこれで好きなものを買へとあてがふのである」。
母親が主婦の場合。「夫が朝早くから外に出て働いてゐるのに、家を預かってゐる主婦は昼寝をしたり、隣近所の人々とお茶を飲みつゝ、我が子の行動などには皆目無関心で、雑談に耽つてその日その日を無意味に暮らしてゐる」。実際には、内職に従事する率が非常に高かったから、内職のじゃまにならないよう、子供を追い出した家庭も多かったはずである。
 
このように、農村でも都市でも、多くの親たちはしつけや家庭教育に必ずしも十分な注意を払っていなかった。村では、しつけや人間形成のさまざまな機会は、近隣や親族・若者組など大きなネットワークに拡散的に埋め込まれていた。都市でも、下層から庶民層にいたる広い層で、家族という単位自体が不安定で流動的であったし、経済的・時間的余裕の少ない多くの親にとって、子供のことはなおざりにされがちであった。「昔の親は子供をしっかりしつけていた」というイメージにあてはまらない親の方が、むしろ普通であったのである。
 
この一冊の本からの少しの引用だけでは十分な根拠を示したことにはならないかもしれませんが、あとはこの本を読むなり、昔の庶民の生活を調べるなりしてください。
「昔の親は子どもをしっかりしつけていた」と主張する人はほとんどの場合、なにか根拠を示すわけではなく、ただ自分の印象を語っているだけですから、比較すればよくわかるはずです。
 
ちなみに、とくに教育やしつけをしなくても人間は悪くなりません。もともと悪く生まれついているわけではないので、当たり前のことです(子どもに教育やしつけをしなければならないという近代的教育観のほうがへんなのです)
 
「昔の親は子どもをしっかりしつけていた」というのは、年寄りが「昔はよかった」「近ごろの若い者はなっていない」というのと同じようなものです。マスコミまでこんな妄言を信じてしまうのは困ったものです。
 
しかし、こうした間違いを放置しておくと世の中が間違った方向に行くことになりかねません。たとえば以前、統計的には少年犯罪は減少し続けていたにもかかわらず、「少年犯罪がふえている・凶悪化している」ということが盛んに言われ、それを根拠に少年法が厳罰化の方向に改変されてしまうということがありました。
正しい歴史観を持たないと、「家庭教育支援条例案」みたいなトンデモ法案が通ってしまうことにもなりかねません。

このブログはできるだけ、社会にとってあるいは人間にとって大きな問題を扱うようにしているのですが、ネットの特性として、重箱の隅をつつくような問題に関心が集まる傾向があるような気がします。そこで、これまでの流れもあって、私もそういう小さい問題を取り上げてみることにしました。
というのは、大阪の府立和泉高校での国歌斉唱時の“口元チェック”問題の報道に関して、和泉高校の中原徹校長が自身のブログで反論するということがあり、これがテレビ朝日の「報道ステーション」に対して謝罪を求める署名集めにまでつながっているからです。私もこの問題は二度も取り上げているだけに、放ってはおけません。
 
中原校長のブログを読んだときは、お粗末な反論だなと思いましたが、1人の校長に対して批判するというのもあまり意味はないと思い、前回のエントリーでは「つまらない弁解です」ぐらいの表現にとどめておきました。しかし、今回はもう少し批判したいと思います。
 
「報道ステーション」が誤報したとするガジェット通信の記事
 
「報道ステーション」に謝罪を求める署名集めのサイト
 
中原徹校長のブログ「読売新聞の記事について」
 
中原徹校長のブログ「国歌斉唱について」
 
中原校長は、自分は前を向いて歌っていたのでチェックしたのは教頭と主席教諭である、時間にして5秒ぐらいだった、凝視して監視していたわけではない、とブログに書いています。
しかし、口元チェックをしていたことは否定しようもありません。とくに歌っていたかいないかを判断するのは、「一瞥」するぐらいではむりですから、やはり「凝視」していたに違いありません。そういうことで私は「つまらない弁解」と書いたわけです。
 
また、中原校長は「私自身、人が歌っているのをジーっと疑惑の目で監視するようなことを生徒の晴れの門出の舞台ですることには反対です」と書いています。しかし、教頭と主席教諭にはさせているわけです。自分がしたくないことを教頭と主席教諭にさせるというのはどうなのかとも思ってしまいます。
 
そして、ここがいちばん肝心のところですが、中原校長は「大阪の条例・職務命令に基づき、教頭が数秒間は起立・斉唱を確認しなければならないのです。これは絶対に行わねばなりません」と書いていますが、これは事実に反します。
府教委の通達には、「式場内のすべての教職員は、国歌斉唱に当たっては、起立して斉唱すること」と書かれていて、これが「職務命令」ということですが、この通達には「起立・斉唱を確認しなければならない」というようなくだりはいっさいありません。
 
府教委の通達
 
「起立・斉唱を確認しなければならない」というのは命令ではなく、中原校長と府教委とのやりとりの中で出てきたことです。一部繰り返しになりますが、校長のブログから引用します。
『私自身、人が歌っているのをジーっと疑惑の目で監視するようなことを生徒の晴れの門出の舞台ですることには反対です。だからこそ、府教委に確認をしました。その結果、「じっと凝視したり、近づいたりすることなく、遠目で確認してください」との回答をもらいました』
つまり、校長がもらったのは「命令」ではなく「回答」なのです。もちろん通達ではなく、文書の形でもないはずです。
 
私が想像するに、中原校長は府教委に電話して、歌っているのを確認するべきかどうか聞いたのでしょう。そして、「遠目で確認してください」と言われたのでしょう(誰かと面会していても同じことです)。
誰が言ったのか? 府教委に口はありません。府教委の誰かが言ったわけです。誰とは書いてありませんが、事務方の誰かでしょう。教育長かもしれませんが、その下の人間かもしれません。
 
教育委員会というのは、首長に任命された民間有識者などの教育委員と、事務方である役人とで成り立っています。教育委員のトップが教育委員長で、事務方のトップが教育長です。
これを文部科学省にたとえれば、中原校長は事務次官か局長あたりの意見を聞いて、それを「文部科学省の命令」だと言っているようなものです。そんなものは文部科学大臣や副大臣や政務官に否定されればおしまいです。
で、実際そうなりました。生野照子教育委員長やほかの教育委員が次々と中原校長のしたことを批判したのです。
 
中原校長は自分の行為を正当化するために、「大阪の条例・職務命令に基づき、教頭が数秒間は起立・斉唱を確認しなければならない」と事実に反することをブログに書いてしまいました。そして、それに“釣られた”人たちが変な署名集めの運動を始めて、問題が広がってしまったのです。
 
中原校長は人が歌っているのを疑惑の目で監視するのには反対だったということです。それなら、教育長にもそのことを主張すればよかったのです。もし教育長が強い口調で「監視せよ」と言ってきたら、教育委員に直訴するという手もありますし、自分の意志ではねつけてもよかったのです(教育長というのはただの役人です)。民間出身の校長なのですから、そういう役割も期待されていたはずです(私が最初に中原校長のブログを読んだときには、教育委員会の組織的な欠陥を指摘するくだりもあったのですが、現在は削除されています)。
 
国歌斉唱や起立問題など、教育の世界においてはまったくつまらない問題で、ほかにだいじな問題が山積されています。中原校長は自分の果たすべき役割をしっかりと自覚してほしいものです。
 
 
ところで、中原校長はなぜ「回答」を「命令」と書いたのでしょうか。もちろんそれは「命令」にしておけば自分の責任を問われることがないからです。犯罪行為の責任を問われた旧日本軍の軍人が上官の「命令」を盾に責任逃れをしようとしたことが思い出されます。「命令」で動く組織は、自分で判断しない、無責任な人間をつくりだします。

大阪の学校の卒業式における国歌斉唱と起立問題から派生した府立和泉高校の“口元チェック”問題ですが、中原徹校長は自身のブログにおいて、チェックしたのは自分でなく教頭だとか、時間は5秒ぐらいだとか、1030メートルぐらい離れていただとか述べていますが、つまらない弁解です。橋下徹市長がせっかく「服務規律を徹底するマネジメントの一例」と絶賛しているのですから、橋下市長にも失礼です。
とはいえ、歌っているかいないかチェックするというのは、さすがに誰の目から見ても姑息な行為なので、弁解したくもなるでしょう。
 
しかし、ネットの反応を見ていると、相変わらず不起立教師バッシングの意見が多いようです。2ちゃんねるがそういう反応なのはだいたい想像がつきますが、BLOGOSというサイトの掲示板も8割ぐらいが不起立教師に批判的です。
 
『大阪の「口元チェック」騒動、あなたはどう見る?』
 
不起立教師を批判する論理は、ほとんどがルールや規律や命令は守るべきだからというものです。
国歌斉唱時には起立するべきだからという意見もありますが、これは価値観の問題ですから、価値観の違う人は説得できません。人に礼儀を尽くすのは合理的行動ですが、国旗や国歌に礼儀を尽くすのは合理的行動とはいえませんから、行為そのものの正しさを説明することはできないわけです。
そのためルールや規律や命令は守るべきだからという論理になります。
しかし、そのルールや規律や命令は正しいか否かという議論はありません。ルールや規律や命令にまったく無批判なのです。
 
なぜこういう人が多いのでしょうか。それは日本の教育がだめだからです。だめな教育はだめな人間をつくります。ルールや規律や命令を無批判に受け入れるのはだめな人間です。
 
日本の学校は圧倒的に、生徒にルールや規律を守らせることにこだわっています。そういう学校で学ぶと、人にルールや規律を守らせることにこだわる人間になってしまいます。
 
たとえば、日本の学校は生徒の服装や髪形や髪の毛の色に異常にこだわります。その結果、人の服装(とくに若者の服装)に異常にこだわる人間が量産されます。そのひとつの例が、2010年のバンクーバー冬季オリンピックにおいてスノーボード代表の国母和宏選手が制服を“腰パン”にしていたということで大バッシングを受けたことです。これから国を代表して戦いに行こうという若者を後ろから撃つ日本人がいっぱいいたのです。
このことは「リクルートスーツと学生服」というエントリーでも書きました。
 
こうした教育は富国強兵と軍国主義の時代のものです。兵隊と単純労働の労働者をつくるための教育です。そこから一歩も進歩していないのです。
左翼教師は軍国教育を批判して、平和教育への転換をはかろうとしましたが、たとえば生徒を校庭に整列させて、気をつけ、休め、前へならえ、右向け右、回れ右など軍隊と同じことをさせることにはまったく無批判でした(こうしたことは自衛隊か警察に就職しない限り役に立ちません)。
そのため戦後教育も、教科書の内容は多少変わりましたが、形態としては軍国時代のままなのです。
 
たとえば、教師は職務命令に従うべきだという意見があります。
戦争映画を観ていると、上官が「これは命令だ!」と言う場面がよく出てきます。「命令に従え」というのは軍隊の論理です。
一般の会社でも命令に従うべきではあるのですが、あくまで上司は部下を動機づけ、納得ずくで動かさなければなりません。納得いかない部下を「これは命令だ!」と言って動かす上司は指導力がないということになってしまいます。
 
ちなみに民主国家では、間接民主主義とはいえ国民が法律をつくるわけですから、国民はその法律が正しいかどうかを判断する力を持たなければなりません。ルールや規律や命令に従えと言っている人は、民主国家にはふさわしくない人です。
 
そのルールや規律や命令は正しいか否かということを考えさせる教育が必要です。

橋下徹大阪市長や大阪維新の会の言動がお笑いの領域に入ってきました。
大阪府立和泉高校の卒業式で国歌斉唱の際、教職員がほんとうに歌っているか校長が口の動きで確認し、口が動いていなかった教員の処分を府教委が検討しているということで、橋下市長はこれを「服務規律を徹底するマネジメントの一例」と絶賛しました。
和泉高校の中原徹校長は実は弁護士で、橋下市長の友人でもあり、民間人校長として就任した人です。橋下市長と価値観を共有しているのでしょう。
 
口の動きを確認されるなら、口パクで対抗すればいいということになります。そうすると、今度は指向性マイクを使って声が出ているかどうかを確認することになるのでしょうか。
 
なぜこんなバカバカしいことになるのかというと、もともと国歌斉唱とか起立とかいうことがくだらないことだからです。くだらないことを追究していくと、くだらなさがどんどんあらわになっていくというわけです。
 
大阪府の国歌斉唱問題についてはこんなニュースもありました。
 
 
「信念ある人間なら自決の覚悟」維新府議が教員を批判
大阪府立学校の卒業式で、府教育長らの職務命令に反して君が代を起立斉唱せず戒告処分を受けた17人の教員について、大阪維新の会の中野隆司府議は12日の府議会で、定年退職前の教員らが多かったことに触れて「そろばんはじいて退職金に影響ないんかという程度の信念」「本当に信念ある人間なら自決するぐらいの覚悟があるでしょ」などと発言した。
 中野府議はキャリア約20年の元公立中学校教諭。戒告処分が退職金に影響せず、60歳以上が約半数(8人)だった点を指摘し、「ダライ・ラマさんがおられるチベットで中国が侵攻したときに何人の僧侶が自決したか」「年齢構成をみると、いかに信念のない人間の集まりであるかということがよくわかります」と主張。「(不起立は)即座に解雇というぐらいの強い態度を示すべきだ。議論を会派に持ち帰り、検討を加えたい」と述べた。
 一方、松井一郎知事が入学式でも不起立だった教員は現場を外して指導研修させるべきだとの方針を示していた点について、府教委は、別の府議の質問に「(現場を外す研修は)懲罰的な取り扱いになりかねない」と慎重な姿勢を示した。(金成隆一)
朝日新聞関西2012313
 
この中野府議は、不起立教師をダライ・ラマのいるチベット側の人間にたとえています。ということは、自分たちはチベットに侵攻した中国政府の側になるわけです。
語るに落ちるとはこのことでしょう。人間というのは心の深層では問題を正しくとらえているものなのですね。
 
不起立問題はバカバカしいことがわかりやすいですが、こちらのほうはどうでしょうか。朝鮮総連系の学校への補助金の問題です。
 
 
朝鮮学校補助金:大阪府内8校が交付申請 「総書記の肖像画職員室から外した」
  大阪府は9日、府内の朝鮮初・中級学校8校から「故・金正日(キムジョンイル)総書記の肖像画を職員室から外した」として、補助金交付の申請があったと発表した。府は交付要件の一つに、職員室から肖像画を撤去することを提示していた。現地調査し、撤去が確認されれば2月府議会に補正予算案を提案する方針。
  府私学・大学課によると、8校を運営する大阪朝鮮学園(東大阪市)から今年度の補助金計約8100万円の交付申請があった。府は10年度分については教室からの肖像画の撤去を求めたが、11年度分では、職員室からの撤去も求めた。
  大阪府には朝鮮初・中級学校が全9校あり、生徒数で補助金交付の要件を満たしているのは今回の8校。大阪朝鮮学園のある関係者は毎日新聞の取材に「教室からは十数年前に肖像画を下ろしている。府民に理解してもらうため、職員室からも下ろすことを決めた。補助金のために下ろすわけではない」と話した。【田中博子】
毎日新聞2012310
 
 
これはやはりバカバカしいことですが、実はあまり笑えません。これはマスコミもちゃんと批判しないといけません。
 
肖像画を掲げるのをやめることが補助金交付の条件になるというのは、いろんな意味でへんです。補助金がおりたらまた掲げ直すということもできますし、小さな肖像画をワッペンにしてつけるとか、たとえば橋下市長の肖像画を掲げておいて、その裏に金正日の絵を張って、それを拝むとか、いろんな抜け道があります。
もっと問題なのは、金正日の肖像画がだめということが通ってしまったら、今度はキリスト像がだめということにもなりかねないことです。
金正日はだめで、キリストはよいということを論理的に説明することができるでしょうか(金正日は日本人拉致事件の責任はありますが、日本の法律で犯罪者とすることはできません)
 
肖像画や国旗国歌はシンボルや偶像であって、合理的にとらえることができません。ですから、政治や行政はそういうことにかかわってはいけないのです。
そういうことをしている国は、宗教と政治が一体化したイスラム国と、個人崇拝の独裁国と、実質的に宗教国家であるアメリカぐらいのものです。
 
靖国神社も同じです。英霊の存在は証明することができないのですから、こういうことは政治の場でいくら議論しても時間のむだです。
孔子も「君子は怪力乱神を語らず」と言っています。
 
橋下市長も大阪維新の会も、政治や行政を本来の役割に戻さなければなりません。

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