村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

カテゴリ: 橋下流政治

連日なにかしらの発言をして世の中を騒がせている橋下徹大阪市長がまたまた妙な発言をしました。といっても、これを妙と思う人はほとんどいないかもしれません。むしろ“日本の常識”とされています。
しかし、「日本の常識は世界の非常識」という言葉もあります。これはその典型ではないでしょうか。
 
 
橋下市長、入れ墨職員「クビ無理なら消させよ」
大阪市の橋下徹市長が、市職員の入れ墨を禁止するルール作りを関係部局に指示した。
市の児童福祉施設の男性職員が子どもたちに入れ墨を見せ、2か月の停職処分を受けたが、市側の指導で長袖シャツで隠したまま職務を続けていることを問題視し、「入れ墨だけでクビにできないのなら、消させるルールを」と服務規律を厳格化する方針だ。
市の職員倫理規則に入れ墨の規定はないが、橋下市長は関係部局への指示の中で、「入れ墨をしたまま正規職員にとどまれる業界って、公務員以外にあるのか」としている。
 2012321529  読売新聞)
 
 
いうまでもなく、刺青を迫害・差別しているのは日本だけです。世界のどこの国でも、刺青はオシャレのひとつです――と書いたものの、念のために調べてみると、イスラム法では禁止されているようです。
ということで、「イスラム国は別にすれば、刺青を迫害・差別しているのは日本だけです」と言い換えます。
 
日本でも刺青はずっと認められた文化でした。刺青が迫害されるようになったのはごく最近のことです。
要するに、ヤクザは刺青をしている、ヤクザは刺青を見せることで相手を威嚇する、だから刺青は悪だ、という論理なのでしょう。
これは、どこかの犯罪者がナイフを使って人を威嚇したからナイフは悪い、という論理とほとんど同じです。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ではなく、「ヤクザ憎けりゃ刺青まで憎い」というわけです。
 
ちなみに刺青の人を排除してもいいという法的根拠はありません。
鳥取県警本部の暴力団排除条例に関するサイトから引用しておきまます。
 
「意見の要旨と意見に対する警察本部の考え方について」
(意見の要旨)「公衆浴場等に入浴する刺青のある人を、条例で排除できないか」
(警察本部の考え方)「公衆浴場等への立ち入りを一律に禁止することは、人権上の問題もあることから、本条例には規定しておりません。
なお、今後とも公衆浴場等の暴力団の利用につきましては、施設の管理者等に対して、暴力団の排除を働きかけてまいります」
 
ここも妙な論理になっています。刺青の人を規制することは人権上の問題があるといいながら、公衆浴場等の管理者に対しては暴力団の排除を働きかけていくというのです。公衆浴場等の管理者にとっては人権上問題のある行為を強要されるわけで、まさに警察による“迷惑行為”です。
 
サウナなどにはたいてい「刺青の人の入場お断り」みたいな表示がありますが、これはやはり警察の指導によるものなのですね。しかし、入場を断る根拠がまったくありませんから、刺青の客から「なぜ入っていけないんだ」と抗議されたら、サウナの人も対応に苦慮することになってしまいます。
 
 
ということで、刺青の人を排除するのは差別にほかならないわけですが、こうした問題についてマスコミは警察に追随するしか能がありませんから、世の中全体がこれが差別であることに気づいていません。ですから、橋下市長が刺青についておかしな発言をしても、ほとんど人がおかしいと気づかないわけです。
 
ところで、児童福祉施設の男性職員は腕の刺青を見せて子どもを脅したそうで、それはよいことではありません。しかし、それは子ども脅す行為がよくないので、刺青が悪いわけではありません。刺青を消させたところで、その男性職員がたとえば拳骨を見せることで子どもを脅し続ければなんの意味もありません。
 
橋下市長は体罰肯定論者で、「口で言ってわからない年齢の子には痛みをもって反省させることが重要」と言ったことがあるそうです。男性職員の刺青を見せるという行為は、橋下市長の主張する物理的暴力よりはよほど洗練されたやり方です。むしろ橋下市長はこの男性職員のやり方に学ぶべきでしょう。

2月13日、「大阪維新の会」が骨格となる政策「船中八策」を発表しましたが、これは網羅的な政策ですから、ひとつひとつを論評してもあまり意味はないでしょう。「維新の会」は政策の優先順位も発表してほしいものです。
 
それよりも、2月12日の朝日新聞に載っていた橋下徹大阪市長のインタビュー記事のほうが論評するに値します。はっきりいって突っ込みどころ満載です。ということは、今まで誰も橋下氏に突っ込まなかったのでしょう。ちゃんと突っ込んであげないと本人のためにもなりません。
政策論としては恐ろしく低レベルです。こんな議論が行われているのは日本の知的レベルが低いからだといいたいところですが、アメリカはもっとレベルが低いです。大統領予備選を見ていると、保守派の主張は、「小さい政府」を別にすれば、「家族の価値」「中絶禁止」「同性婚禁止」と、日本人からすれば議論する価値もないようなことばかりです。
 
 
橋下氏はインタビューにおいて「努力」を強調します。「今の日本人の生活レベルは世界でみたら、五つ星ホテル級のラグジュアリー(贅沢)なものです」と言ったあと、「努力」という言葉を連発します。
 
「東アジア、東南アジアの若者は日本の若者と同じような教育レベル、労働力になってきました。そのような状況で、日本人がラグジュアリーな生活を享受しようとするなら『国民総努力』が必要です。競争で勝たないと無理です」
 
「付加価値の創出は、努力がすべてだと僕は思っています」
 
「何歳で努力から解放されるかは制度設計次第で、役人にはじいてもらわないと具体的には言えません。常識的には60歳あたりでしょう」
 
「では、日本の生活のレベルを落としますか? 東南アジアレベルにしますか? 今の日本を維持しようと思えば、そりゃ努力をしないといけないですよ」
 
普通は政策論議をするときに「努力」という言葉も概念も持ち込みません。ですから、橋下氏のように「努力」という言葉を持ち出す人が出てくると、新聞記者や学者はとまどってなにも言えなくなります。
かといって、「努力」を否定することもできません。自分たちも日ごろから若い人たちに「努力」のたいせつさを説いているからです。
 
それにしても朝日新聞の記者なら、「国民総努力」と言われたときには、「なるほど、『進め一億火の玉だ』の精神ですね」ぐらい皮肉を言ってほしいものです(言ったとしても、記事に載ることではないですが)
 
しかし、橋下氏が言っているのはなにも特別なことではありません。ネットの掲示板やテレビの討論番組などでは当たり前に言われていることです。日本の学者や知識人はそうした議論を放置してきました。というか、批判することができなかったのでしょう。ですから、橋下氏がそうした議論を政策として次々に現実化していくと、あたふたするしかなくなってしまうのです。
 
ネットの掲示板やテレビの討論番組などで当たり前に言われていることというのは、ひと言でいえば「道徳」です。橋下氏もただ「道徳」を語っているにすぎません。
冷戦が終結し、マルクス主義が廃棄処分されてから、大きな思想というのはなくなってしまいました。そういう状況で議論をしていると、より道徳的な主張のほうが優位になっていきます。たとえば、犯罪者は厳罰に処するべきだ、凶悪犯は死刑にするべきだ、怠け者に福祉はいらない、それは自己責任だ、などの結論へと導かれるのです。
 
私はこれを「道徳の暴走」といい、また「道徳原理主義」ともいっています。
橋下氏の思想は「道徳原理主義」そのものです。それに競争の要素を強調すると「新自由主義」になり、それに生物学的根拠を持ち出すと「社会ダーウィン主義」になります。
 
マルクス主義なきあと、学者、知識人の思想的怠慢がこうした状況を招いてしまったのです(「怠慢」というのも道徳的な言葉です。道徳的な言葉は人を非難するときに便利です)
 
ですから、この状況を変えるには道徳そのものを批判する思想が必要です。このブログを読んで勉強してください。
とりあえず今は、橋下氏へどう突っ込むかを書いておきましょう。
 
「努力すれば競争に勝てるのですか。負けたときはどうしますか」
「努力すれば誰でもイチロー選手のようにヒットを打つことができるのですか」
「東南アジアの若者に負けないためという理由で努力する気になりますか」
 
橋下氏は「いったんは格差が生じるかもしれません。でも、所得の再配分もしっかりやります」とも言っています。
これには「所得の再配分がしっかり行われるなら、それを見越して努力しない人間が出てくるんじゃないですか」と突っ込んであげましょう。どう考えても「所得の再配分がしっかり行われる社会」と「競争社会」は矛盾しています。
 
ところで、アメリカの保守派が主張する「家族の価値」「中絶禁止」「同性婚禁止」もアメリカ式道徳です。道徳原理主義は世界をおおっています。

大阪維新の会が国政進出の準備を進めています。国政となれば外交政策も打ち出さなければなりませんが、これがどうなるのかよくわかりません。
私は実は、橋下徹大阪市長は外交音痴ではないかと前から疑っています。鳩山政権当時、大阪府知事だった橋下氏は普天間飛行場の関空への受け入れを表明しましたが、そのとき日本政府やアメリカ政府になにも注文をつけませんでした。自治体の首長としては正しい態度ですが、日ごろから外交について考えている人間なら、あの状況ではなにか言いたくなるものです。
石原慎太郎都知事はアメリカや中国について年中なにか言っています。
橋下氏は自制心があるともいえますが、単に外交についてなにも考えていないのではないかと思ったのです。
 
たいていの日本人は、欧米にコンプレックスを持っていて、裏腹にアジアに優越感を持っています。しかし、最近は中国が日本を追い抜いてきて、多くの日本人は複雑な心境です。そのため反中国発言をする人もいますし、そうした発言はけっこう世の中に受けます。しかし、橋下氏はそうした発言もしていないようです。
 
ウィキペディアで「橋下徹」の項を見てみると、核武装を肯定する発言をしたということですが、これはあくまで政治家になる前のテレビでの発言です。外国人参政権についての発言もありますが、これは外交とは基本的に違う問題です。
 
橋下氏の外交についての考えを知りたいと思っていたところに、こうしたニュースがありました。
 
橋下市長が拉致問題で「不法国家である北と付き合いは一切しないという意思示せ」 政府に注文
「産経ニュース」2012.2.5 16:56
 大阪市の橋下徹市長は5日、市内で開かれた北朝鮮による拉致問題を考える集会であいさつし「政府はもっとはっきり意思を示してほしい。何がしたいのかさっぱり分からない」と政府の対応を批判した。
 市長は「大阪府、大阪市では拉致問題は許さない。不法国家である北朝鮮が正常な国になるまで付き合いは一切しないという意思をはっきり示していきたい」と強調。自身が府知事時代に打ち出した朝鮮学校に対する補助金支給要件の厳格化を上げ「全国の自治体でやればできる。これぐらい国が何で指示を出せないのか」と指摘した。
 集会に先立ち橋下市長は松原仁拉致問題担当相と会談。松原氏は朝鮮学校の補助金厳格化について「他の都道府県も大阪の先例に大きく学ぶべきだ」と評価した。松井一郎大阪府知事も同席した。
 
 
橋下氏の対北朝鮮政策は、いっさいつきあうな、もっときびしくしろというもののようです。
これはいかにも橋下氏らしい政策です。一般受けすることは確かでしょう。
しかし、このやり方で拉致問題が解決するかというと、そんなことはないでしょう。もうすでに日本政府は北朝鮮に対しさまざまな制裁を行っています。そして、北朝鮮はどんどん中国との経済関係を深めています。
北朝鮮と中国との貿易高は、2011年から2012年にかけて62%増加したそうです。
 
もしほんとうに拉致問題を解決しようとするなら、北朝鮮と話し合うことが必要ですし、なんらかの経済援助、つまりアメも必要になるでしょう。
しかし、そうした主張は国民感情に反しますし、橋下氏もそのことはわかっているわけです。
 
北朝鮮は日本と国交がなく、拉致事件を起こしたことで不法国家呼ばわりしても問題ありません。つまり、悪役に仕立ててバッシングできる相手だから、橋下氏は珍しく外交的発言をしたのでしょう。
 
やはり橋下氏は外交についてなにも考えてなくて、つねに悪役を見つけて、それをバッシングするという政治手法だけで突っ走っているように思えます。
 
しかし、それが悪いかというと、そんなことはないと思います。前にも書きましたが、政治家はなまじ哲学やどうしても主張したいことがあると失敗するものです。
たとえば、石原慎太郎氏は「『NO』と言える日本」で反米的主張をしたところ、激しい反発を受け、結局それで国政での展望を失ってしまいました。鳩山由紀夫氏は、「友愛」という哲学を持つ政治家ですが、哲学を持っていることによって失敗した感があります。
 
哲学やどうしても主張したいことがない政治家は、臨機応変に行動できるので、かえって成功する傾向があると思うのです。
そういう意味で、橋下氏が外交音痴であったとしても問題はなく、かえってプラスであると思います。外交はむしろほかの人に任せて、「国の統治機構を変える」という一点で突っ走っていけばいいのではないでしょうか。
 

沈滞した日本の中で今いちばん勢いのあるのが橋下徹大阪市長なので、このブログもついつい橋下氏について書いてしまうことになります。
大阪府の教育基本条例案がまとまりました。これについていろいろな議論がありますが、こういう議論は時間のむだといっても過言ではありません。教育論というのは不毛と決まったものなのです。
たとえば、体罰是か非かというテーマで議論すると、体罰賛成派と反対派が熱くバトルを繰り広げることになりますが、結局結論は出ませんし、誰かが説得されて意見を変えるということもありません。
こうした事態を打破するには、教育の本質論をしなければなりませんが、それは大阪府教育基本条例とは次元の違う話になってしまうので、ここではやりません。
そこで、教育委員会についてだけ少し意見を述べることにします。
 
条例案には教育委員を罷免する規定があり、これによって「民意」を反映させるということですが、それに対して「教育の政治的中立」を冒すものだという反対論があります。どちらが正しいのでしょうか。
まず「教育の政治的中立」ですが、政治から中立であるということはどういうことかというと、要するに官僚支配、役人天国ということなのです。聖域ができると、そこが役人天国になるのは当然です。
私は教育委員会にどんな存在価値があるのかまったくわかりません。たとえば学校でイジメがあったとき教育委員会に訴えたら、教育委員会が迅速に解決してくれたという話はあまり聞きませんし、学校が体罰事件などを隠ぺいしているとき、教育委員会が指導したという話もあまり聞きません。むしろ学校をかばうようなことをしているという印象があります。
以前から教育委員会の形骸化ということが指摘されていたので、ここに改革のメスを入れるということは当然あっていいでしょう。
 
しかし、首長が教育委員会を完全に支配し、首長の考え次第で教育のあり方がころころ変わるのも困ったものです。首長は「民意」によって選ばれるといっても、教育問題が首長選の重要争点になるということはまずありえないので、「首長の教育についての考え」を「民意」だというのはむりがあります。
 
では、どうすればいいのかというと、答えはきわめて簡単です。
「教育委員公選制」にすればいいのです。
 
教育委員会は戦後、GHQの勧告でつくられたもので、アメリカの制度をまねたものです。ですから、最初は公選制だったのです。
ちなみにアメリカでは保安官や地方検事も公選制です。アメリカの推理小説を読んでいると、選挙が近づくと住民に愛想がよくなる保安官や、話題性のある事件を手がけてテレビに出たがる検事などが出てきます。
教育委員会は公選制だからこそ、首長から独立した存在であるわけです。
 
ところが、教育委員選挙が低投票率であることや政治対立が持ち込まれるなどの理由から公選制は1956年に廃止されます。
その結果、教育委員会は独立しているのかしていないのか、わけのわからない組織になり、実質的に役人が支配するものとなったのです。
 
そうした中、東京都中野区では、1981年から教育委員公選制を復活させました。これは区民の投票で直接選ぶのではなく、区民の投票結果を尊重して区長が選ぶという形式なので、「準公選制」と言われます。
 
ウィキペディアの「中野区教育委員候補者選定に関する区民投票条例」の項から引用します。
 
1981年、1985年、1989年、1993年の計4回、教育委員会準公選制が実施された。準公選による教育委員会は、栄養士の全校配置、図書館司書の配置、会議回数の増加、会議での傍聴市民の録音・写真撮影・発言の許可など様々な改革に乗り出し、一定の成果を収めた。
 
一方で投票率は第1回が42.98%、第227.37%、第325.64%、第423.83%と低迷。特定の組織を抱えた委員候補が有利になりやすい、教育委員会に党派的対立が持ち込まれるなど、かつて教育委員会公選制が行われていた時期と同様の問題点も浮上した。さらに文部省が準公選に対して違法の疑いと政治的中立が失われるとする懸念を表明する。
 
 
そのため1995年に準公選制は廃止されます。私の記憶では、文部省が再三「違法の疑いがある」と表明して、そのためにつぶされたという印象があります。
 
教育に「民意」を反映させることがだいじだと思うなら、大阪府も「教育委員準公選制」を採用するべきでしょう。これなら誰からも文句が出ないのではないでしょうか(文部科学省は別にして)。
 
つけ加えると、教師をクビにするときも、もっぱら「民意」によって決めればいいのです。これは保護者を含むあやしげな組織によって決めるというのではなく、教師と直接接している保護者と生徒が教師を評価するという形にしなければいけません。
こういう意見は極論だとして反対する人もいるでしょうが、こういう議論を深めていくと教育の本質に迫っていくことができます。

橋下徹大阪市長はなにかと話題の中心です。週刊誌は、解散総選挙になれば大阪維新の会が300人擁立して200人当選するなどと書いています。しかし、私の考えでは、かりにそうなったとしても日本の政治はよくなりません。
 
128日の橋下氏が出演した「朝まで生テレビ」を見ましたが、橋下氏の論争術もたいしたものではないと思いました。たとえば大阪市長選のマニフェストで区長の「公選制」を掲げていたのに、当選後は「公募制」に変えたことを追及され、答えに窮すると、「では、大阪をどう変えたいのか」と相手に切り返していました。これは明らかにすりかえですが、幸い相手がまともに答えてしまって、すりかえが成功していました。もし相手が論争術にたけた人で、「私の考えはどうでもいいんですよ。マニフェストが間違っていたことを認めるんですか」と切り返していたら、橋下氏は自分の間違いを認めざるをえなくなり、劣勢が印象づけられてしまったでしょう。
ボクシングでいえば、橋下氏はコーナーに追い詰められたものの、うまく身をかわして相手に決定打を打たせなかったという格好です。橋下氏は同じやり方で23回ピンチを切り抜けていました。
テレビ討論では、どちらが正しいことを言ったかではなく、観客が優勢と思ったほうが勝ちです。ボクシングのように有効打の数がポイントになります。
 
しかし、今回のテレビ出演で橋下氏の手口は読まれてしまったでしょうから、今後は同じ手口は使えなくなるのではないでしょうか。
 
その点、小泉純一郎氏はあの手この手で議論に勝利していました。
たとえば、自衛隊がイラクのサマワに行っていたころ、自衛隊は非戦闘地域でしか活動できないと特措法で決まっていたのですが、党首討論の場で岡田克也氏に「サマワは非戦闘地域ではないのではないか」と追及されたとき、「自衛隊がいるところが非戦闘地域だ」とあからさまな詭弁の答弁をしました。岡田氏がその詭弁をその場で追及できなかったために、結局それで通ってしまったのです。
小泉氏は言葉に気迫を込めていたために、岡田氏が気おされてしまったということもあるでしょう。
詭弁が通るというのも困ったことですが、劇場型の政治ではそういうこともあります。
橋下氏にそこまでの気迫があるかどうかですが。
 
また、橋下氏は「統治機構を変える」ということを繰り返し言っていました。これは民主党が「政治主導」や「脱官僚依存」と言っていたことの橋下氏的表現でしょう。
民主党の「政治主導」や「脱官僚依存」がうまくいかなくて、橋下氏の「統治機構を変える」がうまくいく根拠があるでしょうか。はっきりいってまったく見えません。
 
たとえば、「体制維新――大阪都」(橋下徹・堺屋太一共著)という本で堺屋太一氏は、民主党の失敗をたとえて、タクシーの客は行き先を言って運転はプロの運転手に任せておけばいいのに、自分で運転席を占拠してハンドルを握ってしまったようなものだと言っています。
はっきり言って、この認識は甘いのではないかと私は思います。確かに民主党は自分でハンドルを握って失敗したのですが、なぜ自分でハンドルを握ったのかということです。行き先さえ言って目的地に着くのなら、そうしていたはずです。
 
民主党がうまくできなくて、橋下氏にうまくやれるとは思えません。
たとえば、大阪維新の会が300人擁立して200人当選させたとしても、その200人はほとんどが素人同然です。中央省庁の官僚に立ち向かえるとは思えません。鉄砲の打ち方だけ教えた兵隊に近代要塞を攻撃させるようなものです。
「みんなの党」にはある程度実力者がいますが、数が少なすぎます。
 
民主党の失敗に学ばない者は、また同じ失敗をするに違いありません。
 
 
このエントリーをアップしようとしたら、やしきたかじんさんが食道がんで芸能活動を休業するというニュースを見ました。これも橋下氏にはけっこうマイナスになるのでしょうね。

橋下徹大阪市長の強みは、なんといってもテレビで鍛えた論争術でしょう。
東京に住んでいる人は、橋下氏のテレビ出演といえば「行列のできる法律相談所」しか思い浮かばないかもしれませんが、関西にはトーク番組がいっぱいあり、中でもやしきたかじん氏の番組では時事問題についてきびしいやり取りが行われ、橋下氏はそうした場で経験を積んでいたわけです。ですから、当意即妙の反論などはお手のもので、学者も橋下市長を相手にするとなかなか論争に勝てません。
 
テレビ番組における論争というのは、とりあえずその場で説得力を持たせるというのがたいせつですが、最終的にその論争の勝ち負けを決めるのは視聴者、つまり一般大衆です。
ですから、むずかしいことを言ってはいけませんし、正しいことを言ったほうが勝つわけでもありません(もちろん間違いを指摘されたら負けますが)
では、なにを言えば勝つのかというと、一般大衆を喜ばせることを言えばいいわけです。
一般大衆はなにを喜ぶのかというと、それはエンターテインメント映画を見ればわかります。
エンターテインメント映画は基本的に、最後は悪人を大々的にやっつけて正義のヒーローが勝利するという構造になっています。正義のヒーローが戦う理由はさまざまで、たとえば誘拐犯から人質を救出しようとする場合、こっそり救出しても目的は達するわけですが、そんなエンターテインメント映画はありません。実は人質救出は名目にすぎず、誘拐犯を徹底的にやっつける快感を味わうことを観客は求めているからです。
 
「人助けは名目で、悪人をやっつける快感が目的」というのは、テレビ討論においても同じです。
たとえば、貧困層のためにセーフティネットを手厚くしないといけないと主張する人と、生活保護の不正受給者にきびしく対処しないといけないと主張する人がいた場合、どうしても後者が一般受けすることになります(この両者の主張はどちらも間違っていなくて、論争としてはかみ合っていないのですが)
死刑賛成派と死刑反対派が論争した場合も、どうしても賛成派が有利になります。橋下氏はもちろん死刑賛成派ですが、単に凶悪犯を死刑にしろと主張するだけでなく、死刑反対の弁護団に対する懲戒請求を行うよう一般に呼びかけるというところまで踏み込みます。これには弁護団に逆に訴えられるなど反発の動きも大きかったのですが、橋下氏は自分の主張が大衆に支持されているという自信があるので、訴えられても動じません。
 
政治家となってからの橋下氏は、次々と“悪いやつ”をやっつけることで人気を博してきましたが、このやり方はテレビ出演の中で学んだという面も大きいでしょう。
問題は、“悪いやつ”がほんとうに悪いやつかどうかですが、この点の橋下氏の判断力はまったく信用できません。というか、今の時代に正しい判断力を持った人はまずいません。
というのは、橋下氏であれ誰であれ、道徳に基づいて誰が“悪いやつ”かを判断するわけですが、今の道徳は根本的に間違っているので、この判断は必然的に間違ってしまうのです(今の道徳のなにが間違っているかというと、道徳の中に愛情や思いやりがないのです。「愛情や思いやりがない」と非難することはありますが)
このことは誰でも体験的に知っています。正義を徹底して追求し、“悪いやつ”をどこまでもやっつけていくと、より悪い事態を招くことになるのです。ですから、正義の追求はほどほどにしようという“おとなの知恵”があるわけです。
 
しかし、エンターテインメント映画にそんなものはありません。橋下氏の今までの言動を見ていても、そんなものはないようです。正義のヒーロー路線を突っ走っています。
今のところ、既得権益者をたたくということがメインになっているので、マイナスよりはプラスのほうが大きいと思いますし、これから中央省庁の官僚をたたいてくれればいいなと私は思っているのですが、果たしてその方向に行ってくれるかどうかわかりません。
かりにすべてうまくいっても、そのあとは“虐殺しないポル・ポト”みたいなことになっていくでしょうから、それもおそろしいことです。
 
橋下氏に「正義の追求はほどほどに」ということを理解させることができるでしょうか。たぶんできないと思います。“おとなの知恵”を身につけた橋下氏は人気を失ってしまうからです。
 
どこかで壁にぶつかって止まるのを待つしかありません。
 
 

世の中にはいろいろな対立関係がありますが、その中でもっとも重要で、かつ意外と認識されていないのが世代間対立です。世の中の混乱は、世代間対立ということに焦点を当てて見てみると、意外と簡明に理解できたりします。
 
たとえば、私は全共闘世代ですが、あの全共闘運動も世代間闘争だったのだと考えるとよくわかります。
全共闘運動というのは、表面的には左翼思想で動いていたし、中心にいたのは過激な左翼党派だったわけですが、左翼思想だけであんなに盛り上がるわけがありません。左翼思想はむしろ若者の反抗を理由づけるのに利用されただけです。
 
若い世代が年寄り世代に反抗するというのはいつの時代にもありますが、戦後30年ぐらいの期間は、核兵器の登場、人工衛星打ち上げ、冷戦激化、高度経済成長、ベビーブーマー世代の登場など、人類の歴史上でもっとも変化の激しかった時代でしょう。年寄り世代はこうした変化についていけないので、若い世代からすれば古くさく見え、必然的に対立が激化します。たとえばビートルズひとつとっても、若い世代は圧倒的に支持していましたが、古い世代のほとんどは「あんなものは音楽ではなく騒音だ」などと言っていました。そうしたところにアメリカで若者によるベトナム反戦運動が激化し、それが世界に報道されます。また日本では日大闘争などさまざまな大学闘争が起こり、それも世界に報道され、ヨーロッパでも若者の反乱が起こり、中国では共産党内の政治闘争から生まれた紅衛兵がおとなをつるし上げます。それらは互いに影響し合って「アラブの春」ならぬ「若者の春」といえる状況をつくりだしたのです。
 
その背景にあったのは、いつの時代にもある、おとな世代による若者世代の抑圧です。おとなは既得権益者で、若者は新規参入者です。社会においても学校においても、若者はおとなの基準に合わせることが求められます。
 
しかし、おとなに反抗した若者もいずれおとなになり、今度はおとなとして若者を抑圧する側となります。人類の歴史において、ずっと同じことが繰り返されてきたわけです。
 
全共闘世代が社会の中心的存在となったとき、団塊ジュニア世代が親世代への反抗を理由づけるのに利用したのが右翼思想です。親の世代が左翼思想なので、必然的に自分たちは右翼思想で対抗することになります。もちろん共産圏の崩壊という背景があり、そこに小林よしのり氏の「戦争論」が出版されるというきっかけもありました。
 
もちろん左翼と右翼は世代と関係なく対立している部分がありますが、世代間対立のほうがより大きな対立として存在し、それに左翼思想や右翼思想が利用されているという部分があることも忘れてはなりません。
 
 
現在、政治の焦点となっているのが橋下流の政治手法をどう評価するかということですが、これについても世代間対立が大きな要素になっていることを見逃してはいけません。
橋下氏の政策や方針は単純にひとつの思想としてまとめることはできません。競争至上主義、新自由主義、劇場型政治などという面もありますが、一方で反原発、反電力会社ですし、情報公開も徹底してやっていますし、国の出先機関の廃止では国にかみついています。
これをあえてひとつのカテゴリーにおさめるとしたら、「既得権益者との戦い」ということになるでしょうか。
自治労や教育委員会も既得権益者と見ると、橋下氏のやっていることが明白になります。
そして、若い世代が橋下氏を支持し、年寄り世代が反橋下になっているのも理解できるでしょう。右翼であれ左翼であれ、年寄り世代は既得権益者であるからです。
 
たとえば、内田樹氏は左翼といってもいい人でしょうが、反橋下の立場を表明しています。しかし、その主張はちょっとへんです。
 
 
橋下さん(徹・大阪市長)は何もできない、それでも投票する有権者――内田樹・思想家
行政機構の非効率とか二重行政についても、同じ機能を持つ施設や機構が複数あることで、災害とか事故のときにシステムクラッシュを避けるリスクヘッジができる。「大阪の危機」を唱える人たちが、リスクマネジメントを考えないのは不思議だ。
 
 
いくら反橋下を訴えたいにしても、行政機構の非効率や二重行政を肯定するような主張をしてはだめでしょう。
内田樹ともあろう人がなぜこんなおかしな主張をしてしまうのかというと、よほど感情的になっているからと思われます。
なぜ感情的になってしまうかというと、結局のところ世代間対立に巻き込まれて、しかもそのことに無自覚だからでしょう。
 
私も年寄り世代ですから、橋下氏の矢継ぎ早に問題提起をするやり方にはついていけない感じがありますが、これは世代間の対立だと思っているので、若者世代の立場に立って考えるようにして、自分の感覚を修正しています。
 
思想対立より世代間対立のほうがより重大であるという観点から世の中を見ると、いろんなことがよく見えてきます。

橋下徹大阪市長率いる「大阪維新の会」の国政進出がこれからの政治の焦点になると思いますが、「ピーターの法則」と多くのデータから判断すると、国政進出は失敗に終わると結論せざるをえません。
 
「ピーターの法則」というのは、教育学者ローレンス・J・ピーターが提唱した法則で、能力主義の階層社会では、無能な人間はそのポストにとどまり、有能な人間は出世していずれ無能レベルに達するので、すべてのポストは無能な人間で埋め尽くされるという法則です。
もちろん上のポストほど能力を必要とするという前提があります。
この法則は学術的な説ではなく、ほとんど冗談のようなものです。人間の学習能力や、古い人間は引退して新しい人間が入ってくるということを無視しています。ただ、会社の上司の無能ぶりや、どこかの窓口で対応を受けた係員の無能ぶりをしょっちゅう罵倒しているような人にとってはありがたい法則です。
 
しかし、ピーターの法則が冗談であるにしても、有能な人間が昇進して仕事がむずかしくなると無能になってしまうということは確実にあります。
そして、少なくとも日本の国政と地方政治の関係においては、明らかにピーターの法則が適用できるように思われます。
つまり、地方政治で有能だった政治家が国政に進出するとみんな無能になってしまうのです。
 
その例を挙げる前に、逆の例を挙げてみましょう。こちらのほうがわかりやすいからです。
 
石原慎太郎都知事は、もともと国政にいて環境庁長官、運輸大臣を歴任し、自民党内で小さな派閥を率いる立場になり、次は総理総裁を狙うというところで無能レベルに達しました。自分でも限界を悟ったのでしょう、衆院本会議場で日本を「去勢された宦官のような国家」と罵倒して政治家を引退しました。しかし、その4年後、東京都知事に当選、それからは存在感を発揮して、次の都知事選では史上最高の得票率で再選されるなど、人気も得ました。つまり都知事というのは国政の要職よりはうんとポストが軽く、石原氏の能力でも余裕でこなせて、それがリーダーシップがあると見なされて人気のもとになったのでしょう。
 
河村たかし名古屋市長も、衆議院議員を5期務めましたが、民主党総裁選に出馬しようとしても推薦人を集められないことが何度も繰り返され、明らかに頭打ちとなりました。しかし、名古屋市長に転じてからは独自の政策を掲げて人気となっています。
 
中田宏氏は衆議院議員を3期務めたあと横浜市長に転じ、行政改革の手腕が評価されてなんなく再選されました。そのあとはどういう事情か市長を辞任しましたが、最近出版された「政治家の殺し方」(幻冬舎)という本が話題になっています。
 
以上の人たちの業績については評価が分かれるかと思いますが、少なくとも国政の経験があることで首長のポストを余裕をもってこなせて、そのために大胆な政策を打ち出せたりして、それが人気につながっているということは言えるでしょう。
あと、国会議員から知事に転じた人として、達増拓也岩手県知事、森田健作千葉県知事、松沢成文元神奈川県知事などがいますが、ある程度の評価は得ているのではないでしょうか。
つまり、国会議員から自治体の首長に転じると、国政では無能レベルだった人も有能レベルに復活するのです。
 
 
では、自治体の首長から国政に転じた人はどうでしょうか。
 
岩國哲人氏は、メリルリンチ日本法人の社長を務めるなどしたあと出雲市長に当選し、その行政手腕が大いに評価されましたが、国政に転じたあとはあまり活躍することもなく、すでに政界を引退しています。
 
片山義博氏は鳥取県知事を2期務め、改革派知事の代表格でしたが、菅内閣で民間人閣僚として総務大臣に就任し、地方行政を改革するには最適のポストと思われましたが、目立った成果を出すことはできませんでした。
また、増田寛也氏も岩手県知事時代は改革派知事として評価されていましたが、やはり総務大臣に就任したときは目立った成果は出せませんでした。
 
田中康夫氏は長野県知事として脱ダム宣言やガラス張り知事室などで注目されましたが、国政に転じてからは、現在新党日本代表ですが、小党ということもあって目立った活躍はありません。
 
北川正恭氏は、衆議院議員を4期務めたあと三重県知事に転じ、やはり改革派知事として大いに評価されました。知事を2期で辞任したため国政復帰が期待されましたが、「マニフェスト」という言葉を政界に定着させるなどの功績はあったものの、なぜか国政には復帰しませんでした。
 
つまり、自治体の首長として活躍した人は、国政に転じるとほとんど活躍できないのです。
アメリカでは知事として評価された人が大統領になるというケースがいくらでもありますが、日本の事情はまったく違います。どうやら地方自治と国政のレベルが大きく違っているのでしょう。そのためピーターの法則が発動して、自治体の首長として有能だった人も国政では無能レベルに達してしまうのです。
 
 
以上の例からすると、橋下徹大阪市長の国政進出もうまくいきそうもありません。
もちろん過去がだめだったから今後もだめだとはいえませんし、橋下市長のキャラクターはかなり強力です。
しかし、今まで橋下市長がやってきたのは地方公務員バッシングです。それによって人気を得てきたのです。
国政に転じると、国家公務員バッシングをしなければなりません。期待されているのはそれだからです。外交などはどうせ未知数です。
国家公務員の給料を引き下げ、さらには高級官僚に向かって、「官舎にいるなら民間並みの家賃を払え。払わないなら官舎を出ていけ」などと言って喝采を受けるというのが橋下流ですが、そんなことになりそうになれば、官僚はその前につぶしにかかるでしょう。今までの歴史がそうでした。
 
昭和初期に軍官僚の支配が確立されてからずっと日本は官僚支配の国でした。
これをくつがえすには相当な戦略が必要です。
橋下市長のキャラクターに頼るようではとうてい不可能です。

大阪で起こった橋下旋風は国政にも影響を与えています。橋下流の政治はどうしてこれほど人気なのでしょうか。
 
まず現在の国の政治状況は、官僚とマスコミが既得権益を守る勢力として存在し、民主党政権はそこに切り込もうとしましたが、官僚とマスコミの反撃にあって後退しています。
橋下氏は大阪府において、公務員制度を初めとする既得権益構造を徹底改革し、次は大阪市の既得権益に切り込もうとしています。この動きが圧倒的な支持を受けているわけです。
大阪府の教育基本条例も、いろいろな問題はありますが、今まで聖域であった教育界に切り込んだという点では改革的です。
しかし、マスコミを含む既得権益勢力は、橋下人気に脅威を感じて、先の選挙を「独裁か反独裁か」という図式で描き、また週刊誌は橋下氏の出自を重点的に報道しました。橋下氏の過去の情報は官僚組織から提供されたものと想像できます。
ですから、今後橋下氏が国政に出そうな状況になればなるほど、反橋下の動きが強くなり、橋下人気が失速する可能性があります。
 
普通、官僚組織が改革派を攻撃するときは、検察がその先頭に立ちます。小沢一郎氏、堀江貴文氏などがその攻撃にさらされました。人権派の安田好弘弁護士も露骨な攻撃を受けたことは「オウム真理教と検察」というエントリーに書きました。
 
ですから、検察が橋下氏の弁護士としての仕事の中から犯罪に仕立て上げられそうなことを摘発するということは大いに考えられるのですが、今は橋下氏に勢いがあるので、それをやると検察が逆にバッシングを受けてしまうでしょう。安田弁護士のようにはいきません。
 
橋下氏の人気をささえているのは若い世代です。やはり年輩者は既得権益者であることが多いですし、性急な改革にもついていけません。その点、若い世代は橋下氏の荒っぽい手法にむしろ快哉を叫んでいると思われます。
ですから、「独裁か反独裁か」という図式は的外れですが、「若い世代対年寄り世代」という図式はかなり当たっています。若い世代が改革派であるのは当たり前です。
 
小泉改革のときも若い世代が圧倒的に支持しました。ただ、小泉改革は官僚の既得権益を冒すようなことはしませんでした(郵政民営化や道路公団民営化はむしろ官僚の利権を拡大する意味がありました)。しかし、橋下改革は主に官僚組織を改革の対象にしています。これから官僚とマスコミの反撃はさらに激しくなるでしょう。
 
ですから、今後たいせつになるのは、若い世代の力を結集することです。
インターネットによる選挙運動の自由化などは当然実現しなければなりません。
それに加えて選挙権年齢の引き下げもだいじです。
今、18歳に引き下げることが議論されていますが、これは引き下げれば引き下げるほど日本は改革的な国になることになります。日本は老人国家になって、非改革的な国になっていますから、それを打ち破るためにも引き下げなければなりません。
どこまで引き下げるのがいいかというと、年齢制限を撤廃して、何歳でも選挙ができるようにするのがいいのです。
選挙権の年齢制限がなければ、小学生でも投票することができます。小学生の投票は純粋に国の将来を考えたものになるでしょう。
選挙権の年齢制限撤廃は、日本再生の切り札になるはずです。
 
選挙権の年齢制限撤廃については「人権思想の欺瞞について」というエントリーでも書きました。これはなかなか理解されにくいことですが、きわめて重要なことで、教育改革にも直結しています。
 
「人権思想の欺瞞について」http://blogs.yahoo.co.jp/muratamotoi/6125341.html

214日、「報道ステーション」に橋下徹新大阪市長が出演して、そこで語ったことが気になりました。YouTubeで確認しましたが、確かにこう語っています。
「競争というものを外して僕は成長はないと思っています。生物である以上はやっぱり競争というものは原則になっている」
 
これは完全に社会ダーウィン主義です。
橋下氏はこの前後に「競争」という言葉を連発しています。よっぽど競争が好きなようです。
 
通常、こういう社会ダーウィン主義的発言は批判されますが、橋下氏は勢いがあるので、スルーされているようです。
社会ダーウィン主義はいうまでもなく間違っています。改めて批判しておきましょう。
 
「自然界に競争がある。だから人間社会にも競争があるべきだ」
これが社会ダーウィン主義の基本的な考え方です。
「自然界に競争がある」というのは事実に関する記述です。
一方、「人間社会にも競争があるべきだ」というのは価値観に関する記述です。
事実と価値観はまったく違う概念です。事実から価値観を導くのは間違いで、倫理学者のG・E・ムーアはこれを「自然主義の誤謬」と名づけました(「自然界に競争がある。だから、自然界の一部である人間社会にも競争がある」というのであれば一応論理的な記述です)
 
ですから、「自然界に競争がある。だから人間社会にも競争があるべきだ」というのは論理的に成立しない間違った考え方なのですが、これはダーウィンの進化論を踏まえているので、科学的な考え方のように見えます。そのため一時は猛威をふるいました。自称“科学的社会主義”のマルクス主義が猛威をふるったのと同じです。
 
もっとも、橋下氏自身は社会ダーウィン主義にこだわりがあるわけではないでしょう。おそらく単純な競争主義者(あるいは新自由主義者)なのです。ですから、「自然界に競争があるからといって、人間も競争するべきだということはいえないのですよ」と指摘すると、「そうですか。じゃあ自然界と関係なく人間は競争するべきだと主張します」というでしょう(それでも、指摘してあげたほうがいいと思いますが)
  
 
ただ、自然界と人間社会はまったくの別物ではありません。人間はあまりにも自然を逸脱した生き方をしていては幸せなれないでしょう。だからこそ、ルソーは「自然に帰れ」といったわけです。
ルソーの時代は、なにが自然かというのはよくわかりませんでした。しかし、今は自然科学が発達したので、かなりよくわかるようになっています。動物の生態についてもそうです。
「競争」について動物と人間を比較すると、人間の競争の仕方はあまりにも自然から逸脱しています。
たとえば、親や教師が子どもを競争させるなどということは動物の世界には絶対にありません。
学力テストで子ども全員の順位をつけたり、運動会で走らせたりというのはまったくばかばかしいことです。これは「競争している」のではなく「競争させられている」のです。
競争というのは、子どもたちが自由の中でしていけばいいのです。
 
橋下氏も教育改革をいうのなら、こういうところから改革していかないといけません。
 

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