村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

カテゴリ: 橋下流政治

橋下徹大阪市長はなにかと話題の中心です。週刊誌は、解散総選挙になれば大阪維新の会が300人擁立して200人当選するなどと書いています。しかし、私の考えでは、かりにそうなったとしても日本の政治はよくなりません。
 
128日の橋下氏が出演した「朝まで生テレビ」を見ましたが、橋下氏の論争術もたいしたものではないと思いました。たとえば大阪市長選のマニフェストで区長の「公選制」を掲げていたのに、当選後は「公募制」に変えたことを追及され、答えに窮すると、「では、大阪をどう変えたいのか」と相手に切り返していました。これは明らかにすりかえですが、幸い相手がまともに答えてしまって、すりかえが成功していました。もし相手が論争術にたけた人で、「私の考えはどうでもいいんですよ。マニフェストが間違っていたことを認めるんですか」と切り返していたら、橋下氏は自分の間違いを認めざるをえなくなり、劣勢が印象づけられてしまったでしょう。
ボクシングでいえば、橋下氏はコーナーに追い詰められたものの、うまく身をかわして相手に決定打を打たせなかったという格好です。橋下氏は同じやり方で23回ピンチを切り抜けていました。
テレビ討論では、どちらが正しいことを言ったかではなく、観客が優勢と思ったほうが勝ちです。ボクシングのように有効打の数がポイントになります。
 
しかし、今回のテレビ出演で橋下氏の手口は読まれてしまったでしょうから、今後は同じ手口は使えなくなるのではないでしょうか。
 
その点、小泉純一郎氏はあの手この手で議論に勝利していました。
たとえば、自衛隊がイラクのサマワに行っていたころ、自衛隊は非戦闘地域でしか活動できないと特措法で決まっていたのですが、党首討論の場で岡田克也氏に「サマワは非戦闘地域ではないのではないか」と追及されたとき、「自衛隊がいるところが非戦闘地域だ」とあからさまな詭弁の答弁をしました。岡田氏がその詭弁をその場で追及できなかったために、結局それで通ってしまったのです。
小泉氏は言葉に気迫を込めていたために、岡田氏が気おされてしまったということもあるでしょう。
詭弁が通るというのも困ったことですが、劇場型の政治ではそういうこともあります。
橋下氏にそこまでの気迫があるかどうかですが。
 
また、橋下氏は「統治機構を変える」ということを繰り返し言っていました。これは民主党が「政治主導」や「脱官僚依存」と言っていたことの橋下氏的表現でしょう。
民主党の「政治主導」や「脱官僚依存」がうまくいかなくて、橋下氏の「統治機構を変える」がうまくいく根拠があるでしょうか。はっきりいってまったく見えません。
 
たとえば、「体制維新――大阪都」(橋下徹・堺屋太一共著)という本で堺屋太一氏は、民主党の失敗をたとえて、タクシーの客は行き先を言って運転はプロの運転手に任せておけばいいのに、自分で運転席を占拠してハンドルを握ってしまったようなものだと言っています。
はっきり言って、この認識は甘いのではないかと私は思います。確かに民主党は自分でハンドルを握って失敗したのですが、なぜ自分でハンドルを握ったのかということです。行き先さえ言って目的地に着くのなら、そうしていたはずです。
 
民主党がうまくできなくて、橋下氏にうまくやれるとは思えません。
たとえば、大阪維新の会が300人擁立して200人当選させたとしても、その200人はほとんどが素人同然です。中央省庁の官僚に立ち向かえるとは思えません。鉄砲の打ち方だけ教えた兵隊に近代要塞を攻撃させるようなものです。
「みんなの党」にはある程度実力者がいますが、数が少なすぎます。
 
民主党の失敗に学ばない者は、また同じ失敗をするに違いありません。
 
 
このエントリーをアップしようとしたら、やしきたかじんさんが食道がんで芸能活動を休業するというニュースを見ました。これも橋下氏にはけっこうマイナスになるのでしょうね。

橋下徹大阪市長の強みは、なんといってもテレビで鍛えた論争術でしょう。
東京に住んでいる人は、橋下氏のテレビ出演といえば「行列のできる法律相談所」しか思い浮かばないかもしれませんが、関西にはトーク番組がいっぱいあり、中でもやしきたかじん氏の番組では時事問題についてきびしいやり取りが行われ、橋下氏はそうした場で経験を積んでいたわけです。ですから、当意即妙の反論などはお手のもので、学者も橋下市長を相手にするとなかなか論争に勝てません。
 
テレビ番組における論争というのは、とりあえずその場で説得力を持たせるというのがたいせつですが、最終的にその論争の勝ち負けを決めるのは視聴者、つまり一般大衆です。
ですから、むずかしいことを言ってはいけませんし、正しいことを言ったほうが勝つわけでもありません(もちろん間違いを指摘されたら負けますが)
では、なにを言えば勝つのかというと、一般大衆を喜ばせることを言えばいいわけです。
一般大衆はなにを喜ぶのかというと、それはエンターテインメント映画を見ればわかります。
エンターテインメント映画は基本的に、最後は悪人を大々的にやっつけて正義のヒーローが勝利するという構造になっています。正義のヒーローが戦う理由はさまざまで、たとえば誘拐犯から人質を救出しようとする場合、こっそり救出しても目的は達するわけですが、そんなエンターテインメント映画はありません。実は人質救出は名目にすぎず、誘拐犯を徹底的にやっつける快感を味わうことを観客は求めているからです。
 
「人助けは名目で、悪人をやっつける快感が目的」というのは、テレビ討論においても同じです。
たとえば、貧困層のためにセーフティネットを手厚くしないといけないと主張する人と、生活保護の不正受給者にきびしく対処しないといけないと主張する人がいた場合、どうしても後者が一般受けすることになります(この両者の主張はどちらも間違っていなくて、論争としてはかみ合っていないのですが)
死刑賛成派と死刑反対派が論争した場合も、どうしても賛成派が有利になります。橋下氏はもちろん死刑賛成派ですが、単に凶悪犯を死刑にしろと主張するだけでなく、死刑反対の弁護団に対する懲戒請求を行うよう一般に呼びかけるというところまで踏み込みます。これには弁護団に逆に訴えられるなど反発の動きも大きかったのですが、橋下氏は自分の主張が大衆に支持されているという自信があるので、訴えられても動じません。
 
政治家となってからの橋下氏は、次々と“悪いやつ”をやっつけることで人気を博してきましたが、このやり方はテレビ出演の中で学んだという面も大きいでしょう。
問題は、“悪いやつ”がほんとうに悪いやつかどうかですが、この点の橋下氏の判断力はまったく信用できません。というか、今の時代に正しい判断力を持った人はまずいません。
というのは、橋下氏であれ誰であれ、道徳に基づいて誰が“悪いやつ”かを判断するわけですが、今の道徳は根本的に間違っているので、この判断は必然的に間違ってしまうのです(今の道徳のなにが間違っているかというと、道徳の中に愛情や思いやりがないのです。「愛情や思いやりがない」と非難することはありますが)
このことは誰でも体験的に知っています。正義を徹底して追求し、“悪いやつ”をどこまでもやっつけていくと、より悪い事態を招くことになるのです。ですから、正義の追求はほどほどにしようという“おとなの知恵”があるわけです。
 
しかし、エンターテインメント映画にそんなものはありません。橋下氏の今までの言動を見ていても、そんなものはないようです。正義のヒーロー路線を突っ走っています。
今のところ、既得権益者をたたくということがメインになっているので、マイナスよりはプラスのほうが大きいと思いますし、これから中央省庁の官僚をたたいてくれればいいなと私は思っているのですが、果たしてその方向に行ってくれるかどうかわかりません。
かりにすべてうまくいっても、そのあとは“虐殺しないポル・ポト”みたいなことになっていくでしょうから、それもおそろしいことです。
 
橋下氏に「正義の追求はほどほどに」ということを理解させることができるでしょうか。たぶんできないと思います。“おとなの知恵”を身につけた橋下氏は人気を失ってしまうからです。
 
どこかで壁にぶつかって止まるのを待つしかありません。
 
 

世の中にはいろいろな対立関係がありますが、その中でもっとも重要で、かつ意外と認識されていないのが世代間対立です。世の中の混乱は、世代間対立ということに焦点を当てて見てみると、意外と簡明に理解できたりします。
 
たとえば、私は全共闘世代ですが、あの全共闘運動も世代間闘争だったのだと考えるとよくわかります。
全共闘運動というのは、表面的には左翼思想で動いていたし、中心にいたのは過激な左翼党派だったわけですが、左翼思想だけであんなに盛り上がるわけがありません。左翼思想はむしろ若者の反抗を理由づけるのに利用されただけです。
 
若い世代が年寄り世代に反抗するというのはいつの時代にもありますが、戦後30年ぐらいの期間は、核兵器の登場、人工衛星打ち上げ、冷戦激化、高度経済成長、ベビーブーマー世代の登場など、人類の歴史上でもっとも変化の激しかった時代でしょう。年寄り世代はこうした変化についていけないので、若い世代からすれば古くさく見え、必然的に対立が激化します。たとえばビートルズひとつとっても、若い世代は圧倒的に支持していましたが、古い世代のほとんどは「あんなものは音楽ではなく騒音だ」などと言っていました。そうしたところにアメリカで若者によるベトナム反戦運動が激化し、それが世界に報道されます。また日本では日大闘争などさまざまな大学闘争が起こり、それも世界に報道され、ヨーロッパでも若者の反乱が起こり、中国では共産党内の政治闘争から生まれた紅衛兵がおとなをつるし上げます。それらは互いに影響し合って「アラブの春」ならぬ「若者の春」といえる状況をつくりだしたのです。
 
その背景にあったのは、いつの時代にもある、おとな世代による若者世代の抑圧です。おとなは既得権益者で、若者は新規参入者です。社会においても学校においても、若者はおとなの基準に合わせることが求められます。
 
しかし、おとなに反抗した若者もいずれおとなになり、今度はおとなとして若者を抑圧する側となります。人類の歴史において、ずっと同じことが繰り返されてきたわけです。
 
全共闘世代が社会の中心的存在となったとき、団塊ジュニア世代が親世代への反抗を理由づけるのに利用したのが右翼思想です。親の世代が左翼思想なので、必然的に自分たちは右翼思想で対抗することになります。もちろん共産圏の崩壊という背景があり、そこに小林よしのり氏の「戦争論」が出版されるというきっかけもありました。
 
もちろん左翼と右翼は世代と関係なく対立している部分がありますが、世代間対立のほうがより大きな対立として存在し、それに左翼思想や右翼思想が利用されているという部分があることも忘れてはなりません。
 
 
現在、政治の焦点となっているのが橋下流の政治手法をどう評価するかということですが、これについても世代間対立が大きな要素になっていることを見逃してはいけません。
橋下氏の政策や方針は単純にひとつの思想としてまとめることはできません。競争至上主義、新自由主義、劇場型政治などという面もありますが、一方で反原発、反電力会社ですし、情報公開も徹底してやっていますし、国の出先機関の廃止では国にかみついています。
これをあえてひとつのカテゴリーにおさめるとしたら、「既得権益者との戦い」ということになるでしょうか。
自治労や教育委員会も既得権益者と見ると、橋下氏のやっていることが明白になります。
そして、若い世代が橋下氏を支持し、年寄り世代が反橋下になっているのも理解できるでしょう。右翼であれ左翼であれ、年寄り世代は既得権益者であるからです。
 
たとえば、内田樹氏は左翼といってもいい人でしょうが、反橋下の立場を表明しています。しかし、その主張はちょっとへんです。
 
 
橋下さん(徹・大阪市長)は何もできない、それでも投票する有権者――内田樹・思想家
行政機構の非効率とか二重行政についても、同じ機能を持つ施設や機構が複数あることで、災害とか事故のときにシステムクラッシュを避けるリスクヘッジができる。「大阪の危機」を唱える人たちが、リスクマネジメントを考えないのは不思議だ。
 
 
いくら反橋下を訴えたいにしても、行政機構の非効率や二重行政を肯定するような主張をしてはだめでしょう。
内田樹ともあろう人がなぜこんなおかしな主張をしてしまうのかというと、よほど感情的になっているからと思われます。
なぜ感情的になってしまうかというと、結局のところ世代間対立に巻き込まれて、しかもそのことに無自覚だからでしょう。
 
私も年寄り世代ですから、橋下氏の矢継ぎ早に問題提起をするやり方にはついていけない感じがありますが、これは世代間の対立だと思っているので、若者世代の立場に立って考えるようにして、自分の感覚を修正しています。
 
思想対立より世代間対立のほうがより重大であるという観点から世の中を見ると、いろんなことがよく見えてきます。

橋下徹大阪市長率いる「大阪維新の会」の国政進出がこれからの政治の焦点になると思いますが、「ピーターの法則」と多くのデータから判断すると、国政進出は失敗に終わると結論せざるをえません。
 
「ピーターの法則」というのは、教育学者ローレンス・J・ピーターが提唱した法則で、能力主義の階層社会では、無能な人間はそのポストにとどまり、有能な人間は出世していずれ無能レベルに達するので、すべてのポストは無能な人間で埋め尽くされるという法則です。
もちろん上のポストほど能力を必要とするという前提があります。
この法則は学術的な説ではなく、ほとんど冗談のようなものです。人間の学習能力や、古い人間は引退して新しい人間が入ってくるということを無視しています。ただ、会社の上司の無能ぶりや、どこかの窓口で対応を受けた係員の無能ぶりをしょっちゅう罵倒しているような人にとってはありがたい法則です。
 
しかし、ピーターの法則が冗談であるにしても、有能な人間が昇進して仕事がむずかしくなると無能になってしまうということは確実にあります。
そして、少なくとも日本の国政と地方政治の関係においては、明らかにピーターの法則が適用できるように思われます。
つまり、地方政治で有能だった政治家が国政に進出するとみんな無能になってしまうのです。
 
その例を挙げる前に、逆の例を挙げてみましょう。こちらのほうがわかりやすいからです。
 
石原慎太郎都知事は、もともと国政にいて環境庁長官、運輸大臣を歴任し、自民党内で小さな派閥を率いる立場になり、次は総理総裁を狙うというところで無能レベルに達しました。自分でも限界を悟ったのでしょう、衆院本会議場で日本を「去勢された宦官のような国家」と罵倒して政治家を引退しました。しかし、その4年後、東京都知事に当選、それからは存在感を発揮して、次の都知事選では史上最高の得票率で再選されるなど、人気も得ました。つまり都知事というのは国政の要職よりはうんとポストが軽く、石原氏の能力でも余裕でこなせて、それがリーダーシップがあると見なされて人気のもとになったのでしょう。
 
河村たかし名古屋市長も、衆議院議員を5期務めましたが、民主党総裁選に出馬しようとしても推薦人を集められないことが何度も繰り返され、明らかに頭打ちとなりました。しかし、名古屋市長に転じてからは独自の政策を掲げて人気となっています。
 
中田宏氏は衆議院議員を3期務めたあと横浜市長に転じ、行政改革の手腕が評価されてなんなく再選されました。そのあとはどういう事情か市長を辞任しましたが、最近出版された「政治家の殺し方」(幻冬舎)という本が話題になっています。
 
以上の人たちの業績については評価が分かれるかと思いますが、少なくとも国政の経験があることで首長のポストを余裕をもってこなせて、そのために大胆な政策を打ち出せたりして、それが人気につながっているということは言えるでしょう。
あと、国会議員から知事に転じた人として、達増拓也岩手県知事、森田健作千葉県知事、松沢成文元神奈川県知事などがいますが、ある程度の評価は得ているのではないでしょうか。
つまり、国会議員から自治体の首長に転じると、国政では無能レベルだった人も有能レベルに復活するのです。
 
 
では、自治体の首長から国政に転じた人はどうでしょうか。
 
岩國哲人氏は、メリルリンチ日本法人の社長を務めるなどしたあと出雲市長に当選し、その行政手腕が大いに評価されましたが、国政に転じたあとはあまり活躍することもなく、すでに政界を引退しています。
 
片山義博氏は鳥取県知事を2期務め、改革派知事の代表格でしたが、菅内閣で民間人閣僚として総務大臣に就任し、地方行政を改革するには最適のポストと思われましたが、目立った成果を出すことはできませんでした。
また、増田寛也氏も岩手県知事時代は改革派知事として評価されていましたが、やはり総務大臣に就任したときは目立った成果は出せませんでした。
 
田中康夫氏は長野県知事として脱ダム宣言やガラス張り知事室などで注目されましたが、国政に転じてからは、現在新党日本代表ですが、小党ということもあって目立った活躍はありません。
 
北川正恭氏は、衆議院議員を4期務めたあと三重県知事に転じ、やはり改革派知事として大いに評価されました。知事を2期で辞任したため国政復帰が期待されましたが、「マニフェスト」という言葉を政界に定着させるなどの功績はあったものの、なぜか国政には復帰しませんでした。
 
つまり、自治体の首長として活躍した人は、国政に転じるとほとんど活躍できないのです。
アメリカでは知事として評価された人が大統領になるというケースがいくらでもありますが、日本の事情はまったく違います。どうやら地方自治と国政のレベルが大きく違っているのでしょう。そのためピーターの法則が発動して、自治体の首長として有能だった人も国政では無能レベルに達してしまうのです。
 
 
以上の例からすると、橋下徹大阪市長の国政進出もうまくいきそうもありません。
もちろん過去がだめだったから今後もだめだとはいえませんし、橋下市長のキャラクターはかなり強力です。
しかし、今まで橋下市長がやってきたのは地方公務員バッシングです。それによって人気を得てきたのです。
国政に転じると、国家公務員バッシングをしなければなりません。期待されているのはそれだからです。外交などはどうせ未知数です。
国家公務員の給料を引き下げ、さらには高級官僚に向かって、「官舎にいるなら民間並みの家賃を払え。払わないなら官舎を出ていけ」などと言って喝采を受けるというのが橋下流ですが、そんなことになりそうになれば、官僚はその前につぶしにかかるでしょう。今までの歴史がそうでした。
 
昭和初期に軍官僚の支配が確立されてからずっと日本は官僚支配の国でした。
これをくつがえすには相当な戦略が必要です。
橋下市長のキャラクターに頼るようではとうてい不可能です。

大阪で起こった橋下旋風は国政にも影響を与えています。橋下流の政治はどうしてこれほど人気なのでしょうか。
 
まず現在の国の政治状況は、官僚とマスコミが既得権益を守る勢力として存在し、民主党政権はそこに切り込もうとしましたが、官僚とマスコミの反撃にあって後退しています。
橋下氏は大阪府において、公務員制度を初めとする既得権益構造を徹底改革し、次は大阪市の既得権益に切り込もうとしています。この動きが圧倒的な支持を受けているわけです。
大阪府の教育基本条例も、いろいろな問題はありますが、今まで聖域であった教育界に切り込んだという点では改革的です。
しかし、マスコミを含む既得権益勢力は、橋下人気に脅威を感じて、先の選挙を「独裁か反独裁か」という図式で描き、また週刊誌は橋下氏の出自を重点的に報道しました。橋下氏の過去の情報は官僚組織から提供されたものと想像できます。
ですから、今後橋下氏が国政に出そうな状況になればなるほど、反橋下の動きが強くなり、橋下人気が失速する可能性があります。
 
普通、官僚組織が改革派を攻撃するときは、検察がその先頭に立ちます。小沢一郎氏、堀江貴文氏などがその攻撃にさらされました。人権派の安田好弘弁護士も露骨な攻撃を受けたことは「オウム真理教と検察」というエントリーに書きました。
 
ですから、検察が橋下氏の弁護士としての仕事の中から犯罪に仕立て上げられそうなことを摘発するということは大いに考えられるのですが、今は橋下氏に勢いがあるので、それをやると検察が逆にバッシングを受けてしまうでしょう。安田弁護士のようにはいきません。
 
橋下氏の人気をささえているのは若い世代です。やはり年輩者は既得権益者であることが多いですし、性急な改革にもついていけません。その点、若い世代は橋下氏の荒っぽい手法にむしろ快哉を叫んでいると思われます。
ですから、「独裁か反独裁か」という図式は的外れですが、「若い世代対年寄り世代」という図式はかなり当たっています。若い世代が改革派であるのは当たり前です。
 
小泉改革のときも若い世代が圧倒的に支持しました。ただ、小泉改革は官僚の既得権益を冒すようなことはしませんでした(郵政民営化や道路公団民営化はむしろ官僚の利権を拡大する意味がありました)。しかし、橋下改革は主に官僚組織を改革の対象にしています。これから官僚とマスコミの反撃はさらに激しくなるでしょう。
 
ですから、今後たいせつになるのは、若い世代の力を結集することです。
インターネットによる選挙運動の自由化などは当然実現しなければなりません。
それに加えて選挙権年齢の引き下げもだいじです。
今、18歳に引き下げることが議論されていますが、これは引き下げれば引き下げるほど日本は改革的な国になることになります。日本は老人国家になって、非改革的な国になっていますから、それを打ち破るためにも引き下げなければなりません。
どこまで引き下げるのがいいかというと、年齢制限を撤廃して、何歳でも選挙ができるようにするのがいいのです。
選挙権の年齢制限がなければ、小学生でも投票することができます。小学生の投票は純粋に国の将来を考えたものになるでしょう。
選挙権の年齢制限撤廃は、日本再生の切り札になるはずです。
 
選挙権の年齢制限撤廃については「人権思想の欺瞞について」というエントリーでも書きました。これはなかなか理解されにくいことですが、きわめて重要なことで、教育改革にも直結しています。
 
「人権思想の欺瞞について」http://blogs.yahoo.co.jp/muratamotoi/6125341.html

214日、「報道ステーション」に橋下徹新大阪市長が出演して、そこで語ったことが気になりました。YouTubeで確認しましたが、確かにこう語っています。
「競争というものを外して僕は成長はないと思っています。生物である以上はやっぱり競争というものは原則になっている」
 
これは完全に社会ダーウィン主義です。
橋下氏はこの前後に「競争」という言葉を連発しています。よっぽど競争が好きなようです。
 
通常、こういう社会ダーウィン主義的発言は批判されますが、橋下氏は勢いがあるので、スルーされているようです。
社会ダーウィン主義はいうまでもなく間違っています。改めて批判しておきましょう。
 
「自然界に競争がある。だから人間社会にも競争があるべきだ」
これが社会ダーウィン主義の基本的な考え方です。
「自然界に競争がある」というのは事実に関する記述です。
一方、「人間社会にも競争があるべきだ」というのは価値観に関する記述です。
事実と価値観はまったく違う概念です。事実から価値観を導くのは間違いで、倫理学者のG・E・ムーアはこれを「自然主義の誤謬」と名づけました(「自然界に競争がある。だから、自然界の一部である人間社会にも競争がある」というのであれば一応論理的な記述です)
 
ですから、「自然界に競争がある。だから人間社会にも競争があるべきだ」というのは論理的に成立しない間違った考え方なのですが、これはダーウィンの進化論を踏まえているので、科学的な考え方のように見えます。そのため一時は猛威をふるいました。自称“科学的社会主義”のマルクス主義が猛威をふるったのと同じです。
 
もっとも、橋下氏自身は社会ダーウィン主義にこだわりがあるわけではないでしょう。おそらく単純な競争主義者(あるいは新自由主義者)なのです。ですから、「自然界に競争があるからといって、人間も競争するべきだということはいえないのですよ」と指摘すると、「そうですか。じゃあ自然界と関係なく人間は競争するべきだと主張します」というでしょう(それでも、指摘してあげたほうがいいと思いますが)
  
 
ただ、自然界と人間社会はまったくの別物ではありません。人間はあまりにも自然を逸脱した生き方をしていては幸せなれないでしょう。だからこそ、ルソーは「自然に帰れ」といったわけです。
ルソーの時代は、なにが自然かというのはよくわかりませんでした。しかし、今は自然科学が発達したので、かなりよくわかるようになっています。動物の生態についてもそうです。
「競争」について動物と人間を比較すると、人間の競争の仕方はあまりにも自然から逸脱しています。
たとえば、親や教師が子どもを競争させるなどということは動物の世界には絶対にありません。
学力テストで子ども全員の順位をつけたり、運動会で走らせたりというのはまったくばかばかしいことです。これは「競争している」のではなく「競争させられている」のです。
競争というのは、子どもたちが自由の中でしていけばいいのです。
 
橋下氏も教育改革をいうのなら、こういうところから改革していかないといけません。
 

大阪のダブル選挙で橋下氏と松井氏が当選し、大阪維新の会が勝利しました。もし松井氏が落選していたら、今まで橋下氏のやってきたことがすべてむだになりかねなかったので、まあよしと考えるべきでしょうか。
私は東京に住んでいることもあって、大阪都構想のことはよくわかりません。ただ、公務員給料の引き下げなどの橋下氏の手腕は大いに評価します。
橋下氏がリーダーシップのある政治家であることは間違いないでしょう。
 
日ごろマスコミや識者は、政治家はもっとリーダーシップを発揮しろといいます。となれば、マスコミや識者は橋下氏を絶賛するかというと、そんなことはありません。橋下氏のリーダーシップが確立されてくるに従って、マスコミや識者は反橋下になっていったように思えます。
 
もともと日本人はリーダーシップのある指導者は好きではありません。トップに立つ人間は、切れ味の鋭くない、むしろ暗愚とも見えるぐらいの人間で、その下の人間が働きやすければよしとしてきたのです。
島国ですし、平和な時期が長かったので、そのほうがよかったのでしょう。戦国時代や維新のころは例外的な時代です。
 
さて、現在はリーダーシップのある指導者が求められる時代かというと、私は必ずしもそうではないと思います。
もともと国際政治において、日本がリーダーシップを発揮するべきことはたいしてありません。冷戦が終わり、中国は資本主義化して、大きな問題はないからです(だから、竹島だの尖閣だの普天間だのという小さなことが問題になります)
国際経済はたいへんなことになっています。しかし、日本がここで大きな役割を果たせるということはないと思います。
 
問題は国内経済です。国内経済をなんとかよくしてほしいというのが多くの人の願いでしょう。
しかし、経済の専門家もその処方箋を出せません。処方箋がなければ、いくらリーダーシップのある政治家でもなにもできない理屈です。
小泉改革のとき、日本は一応好景気ということになっていましたが、国民の給与はふえず、むしろ格差社会になってしまいました。
「デフレの正体」(藻谷浩介著)という本によると、働き手の人口が減少する社会では経済成長は期待できないということになります。
 
ですから、今リーダーシップのある政治家に求められるのは、財政再建であり、そのための出費の抑制と増税です。
しかし、増税は国民の反発を買います。小泉政権も消費税増税は封印していました。
出費の抑制はそれに関わる国民の反発を買いますし、公務員給与の引き下げはもちろん公務員の反発を買います。
ですから、橋下氏が国政に進出して総理大臣になって、出費の抑制と増税を行おうとすると、その瞬間に橋下氏はリーダーシップの源泉たる国民の支持を失うということになります。
現在、野田政権も増税の方針を出したために国民の支持を失いつつあります。
 
こうした状況下で、将来の橋下総理にできることはなにかというと、小泉劇場にならって、抵抗勢力とバトルを演じて、人気を維持することです。
小泉政権のときは、抵抗勢力はあくまで政治家で、官僚や公務員ではありませんでした。
しかし、将来の橋下政権では、抵抗勢力は全官僚と全公務員です。これを敵にしてバトルを演じなければなりません。
橋下氏は大阪府知事時代は大阪府の公務員を抵抗勢力として、これに勝利しました。しかし、自治体の公務員と中央官庁の官僚とでは、あらゆる意味でレベルが違います。
 
橋下氏が今後国政に出ていくとすれば、全官僚と全公務員を相手にバトルを演じる覚悟が必要です。 

大阪でダブル選挙が始まり、橋下政治への評価が問われていますが、これは簡単なことではありません。私は、橋下氏が公務員給与引き下げなどで支出を削減し、大阪府の財政を健全化したことは高く評価しますが、ただの人気取り政策みたいなものも多くて、そこは評価できません。
最初のうちはとにかくがむしゃらに改革をして、その姿勢が人気を呼んでいたのだと思いますが、だんだんと人気取りのために改革をするというように、本末転倒になってきた感があります。たとえば教育基本条例などはその典型でしょう。教師バッシングは、学校教育に恨みを持っている多くの人にアピールします。
とはいえ、多くの改革を行ってきたのは事実ですし、リーダーシップもあります。人気があるのも当然でしょう。
 
橋下氏のこうした政治手法はどこからきているのでしょう。私が思うに、それはヤクザ魂です。
週刊誌の報道によると、橋下氏の父親やおじは暴力団関係者であったそうです。そのことを問題にする人もいるかもしれませんが、問題にするべきではありません。それどころか、そのことが橋下氏にプラスになっているに違いないのです。
 
ヤクザというのは、度胸で稼ぐ商売のようなものです。自分が傷つくことを恐れず、場合によっては死ぬことも恐れない。もちろん、刑務所に入ることも恐れない。そういう生き方で稼ぐわけです。
橋下氏の突破力というのも、そうした恐れ知らずの姿勢からきているに違いありません。
 
ちなみに小泉純一郎元首相も、祖父の小泉又次郎はもともととび職人の請負師で、全身にいれずみがあり、「いれずみ大臣」と言われた人ですから、そのヤクザ魂を受け継いでいるといえます。だからこそあれだけの改革ができたし、人気もあったのでしょう。
 
今の日本の指導者に欠けているのは、まさにこのヤクザ魂です。
ヤクザ魂でなくサムライ魂といってもいいのですが、サムライはすでに絶滅しているので、手本がありません。その点、ヤクザはまだ身の回りにいて、手本にすることができます。ヤクザ映画もいっぱいあります。
 
ヤクザ魂が必要なのは政治家だけではありません。
日本はTPP交渉に参加することになりましたが、この交渉において、とくにアメリカに対したときの交渉力のなさが危惧されています。今のままではアメリカのいいようにされてしまうかもしれません。
TPPの実際の交渉に当たるのは官僚です。官僚というのは学校秀才ですから、喧嘩の経験もほとんどない人が多いはずです。これでは交渉ごとはうまくできません。
官僚もヤクザ魂を学ばなければなりません。ヤクザ魂でカウボーイ魂に対抗するのです。
そのためにはヤクザすなわち暴力団に体験入門するのがいいと思います。暴力団といってもいろいろありますが、随一の武闘派とされる山口組系弘道会がいいでしょう。警察は官僚の体験入門の斡旋をするべきです。
また、外務省は外交交渉についてアドバイスをしてもらうためにヤクザを顧問に迎えるべきです。
 
橋下氏や小泉元首相の政治手法を評価するなら、その根底にあるヤクザ魂を見なければなりません。
ヤクザ魂で日本復活といきたいものです。

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