村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

カテゴリ: マナーのある不幸

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食事におけるマナーはたいせつです。
スープを音を立ててすすったり、ナイフやフォークを必要以上にカチャカチャさせたりするのは、周りの人を不快にさせます。

では、箸の持ち方がおかしいというのはどうでしょうか。
音を立てたり唾を飛ばしたりするのと違って、どんな箸の持ち方をしても人の迷惑になることはありません。
箸の持ち方がおかしいと食べにくいということはあるでしょうが、それは本人の問題です。

ところが、世の中には「お箸の持ち方がおかしい」と言ってクレームをつける人がかなりいます。


不登校のYouTuber、“少年革命家ゆたぼん”の父親が、ゆたぼんがお寿司を食べる写真をツイートしたところ、「お箸の持ち方がおかしい」というクレームが殺到したそうです。

ゆたぽん
ゆたぽん2
中村幸也@ゆたぼんのパパ」のツイートより



ゆたぼんさんが批判されているのを見て、ダルビッシュ有選手が「ゆたぼんさんのお箸の持ち方どうこうってあんなん俺からしたら上手く持ててるからな」とツイートして、自分の箸の持ち方の動画を投稿しました。

ダルビッシュ有
https://twitter.com/faridyu/status/1224426899981520896

ダルビッシュ選手は前に箸の持ち方でバッシングされたことがあり、それ以来、この問題にはこだわりがあるようです。ツイッターのプロフィールには「箸が箸であればどんな使われ方をされても愛せ。そして箸を使う人すべてを愛せ」という言葉を書いています。


私が思うに、「機能的で、見た目にも美しい箸の持ち方」というのはあるでしょうし、それを目指すのはいいことです。しかし、我流の持ち方をしたからといって非難される筋合いはありません。
ダルビッシュ選手も、「鉛筆の持ち方が変だからといって叩かれないし、歩き方や走り方が変だからといって叩かれない。なぜお箸の持ち方だけ叩かれるのか」という主旨の主張をしています。

問題は、へんな箸の持ち方をする人にあるのではなく、箸の持ち方が悪いと非難する人のほうにあります。
それは、「発言小町」に投稿された次の悩みを読めばわかるはずです。

箸の持ち方を直してほしい
こぶた  2013年7月31日 21:46
33歳会社員です。
お付き合いしている彼に箸の持ち方を直してほしいのですが
何と言うのがよいでしょうか。
付き合い始めくらいに、直してほしいと一度言ったことがあります。
彼は自分でもおかしな持ち方をしているのは自覚していて、
「上司と一緒の時やきちんとした席では直しているから大丈夫」みたいな言い訳をされました。それ以来は気なりつつ口に出していません。
その前にお付き合いした彼もきちんと箸を持てない人で指摘をすると、誰にも迷惑をかけていないし、誰がそんなルールを決めたんだ?という風に逆切れ気味に言い返されたこともあり、直してほしいけど何と言えば気持ちよく直してくれるのか悩んでいます。
私としては、マナーとして当然と思っており、できないことは恥ずかしく思います。また、それをどうでもいいと思っている人は根本的な所で価値観が合わないかもとすら思います。
皆さんなら、パートナーの箸の持ち方がおかしい時はどうしますか?
https://komachi.yomiuri.co.jp/t/2013/0731/608705.htm

この悩み相談に対して、「別れればよい」という回答が多数です。
こうした回答は無責任です。

稼ぎのない男、暴力をふるう男、自分勝手な男、浮気をする男などとは別れたほうが賢明です。
しかし、「箸の持ち方が悪い男」と別れるのは愚かです。そんなことは欠点のうちに入りません。男選びの基準が間違っています。
箸の持ち方を異常に気にするこの女性に問題があるのは明らかです。

ゆたぼんさんやダルビッシュ選手の箸の持ち方をたたく人は、この女性と同じ精神構造と思われます。

どうしてこのような精神構造になってしまったのか、それもこの女性の次の書き込みから推測できます。

こぶた  2013年8月7日 21:30
私が持ち方を直してほしいと彼に言おうと思ったきっかけは、
お正月には両親に彼を紹介しようと思ったからです。
(遠方で年に一度しか帰省しません。)
私の価値観ができあがったように、当然両親は箸の持ち方を見る人です。
口には出さないでしょうか、内心よく思わないでしょう。
その前に直してほしかったのです。
https://komachi.yomiuri.co.jp/t/2013/0731/608705.htm?o=2&g=04&rj=1

基本的に子どもの箸の持ち方は親がしつけます。子どもは当然、箸がうまく使えません。そのときに強引なしつけ方をすると、それが子どものトラウマになります。この女性とか、ゆたぼんやダルビッシュ選手をたたいている人たちは、そうしたトラウマがあるのでしょう。

幼児虐待で逮捕された親はたいてい「しつけのためにやった」と言います。
こういう親は決して特別ではなくて、虐待の程度の軽い親はいっぱいいて、軽いトラウマを受けた子どももいっぱいいて、そうした子どもがおとなになると、ゆたぼんさんやダルビッシュ選手の箸の持ち方をたたくようになります。
こういう人は、自分のしつけのされ方を振り返るといいと思います。

食事のマナーはたいせつです。
箸の持ち方のような細かいことにこだわらず、楽しく食事することが最大のマナーです。

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人間に裏表があるのは当たり前です。
しかし、ネットの世界では裏表の区別もつかない人が多いようです。

ドコモショップの店員から「クソ野郎」とののしられたとして怒っている人がいて、それがきっかけで炎上しています。

「親が支払いしてるクソ野郎」 ドコモ代理店の書類に信じられないメモ書き 受け取った本人に話を聞いた
ドコモショップの書類に残されていた信じられないメモ書きがTwitterで拡散されています。「親が支払いしてるから、お金に無トンチャク」「つまりクソ野郎」と利用客を侮辱したうえで、プランの追加を勧めるよう指示が記されています。
編集部では、メモを受け取ったAさんに取材。あわせてNTTドコモ本社にコメントを求めました。

 以下は編集部がAさんに電話取材した内容です。

「場所は機種変更で訪れた千葉県のドコモショップです。その際、店員からプランの変更を勧められ、ホチキスで綴じられた資料を渡されました」

「やりとりの中で店員がPCを操作し始め、手持無沙汰な時間ができました。それなら変更内容を確認しておこうと資料のページをめくったところ、『クソ野郎』などのメモが書かれていたという経緯です。本来は客に見せない紙が紛れ込んでしまったのだと思います」

「『親が支払いしてる』とありましたが、うちは一家で自営業を営んでおり、父親の名義でまとめて支払うと都合がいいというだけの理由です。顧客情報から勝手に事情を推測して、このような指示を出しているのでしょうか。信じられません」

「メモを発見しすぐに責任者を呼びました。納得できる説明を求めましたが、『すみません』とへらへら謝るばかりで、らちがあきませんでした」

「ドコモ本社に報告したいと申し出ましたが、『コールセンターしかありません』と説明され、直通の電話番号などは教えてもらえませんでした。そのコールセンターも、代理店が用意した番号だったので、ちゃんと本社まで話が通っていたかは分かりません」

「Twitterで話題になってから、ようやく代理店よりお詫びのメールが届きました。何度もなかったかのようにだんまりを決め込んでおいて、事が大きくなって初めて連絡してくるのもおかしな話だと思います」

「インターネット回線もドコモ光の契約を検討していましたが、今回の一件で躊躇(ちゅうちょ)してしまいました」
(後略)
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2001/09/news126.html
NTTドコモはこの事実を認めて、「お客様にご不快な思いをさせてしまったことを大変申し訳ないと考えております」と謝罪しています。


要するに客に見せるべきでないメモを見せてしまったことで生じた問題です。
メモを客に見せたのは店のミスです。
「クソ野郎」などと書いたのはよくありませんが、客が見なければどうでもいいことでした。

客の側も、これが純然たる私的なメモなら、目にしても読まないのがマナーですが、自分のことが書かれているのですから、読むのは当然です。
そこに「クソ野郎」などと書かれていれば、腹が立つのも当然です。
で、文句を言いたくなるのも当然ですが、ここが考えどころでした。

自分は本来読むべきでないものを読んだので、それほど堂々と文句を言える立場ではありません。
それに、文句を言って謝罪させたところで、なにか得をするわけではありません。この人はコールセンターに電話して文句を言ったようですが、まったくの時間のむだです。

店の対応が悪い場合、クレームをつけることで店の対応が改善されることが期待でき、少しは世のため人のためになります。
ところが、この場合は店の対応が悪いわけではないので、クレームをつけてもなにも改善しません。

要するにこれは、人のひそひそ話がたまたま耳に入ってきて、自分の悪口を言っていたので、怒って謝罪を要求したというのと同じです。
そこは、聞いて聞かないふりをするのがおとなというものです。



ただ、この人が腹を立てたのはわかります。
問題は、この人に便乗してネットで炎上させた人たちです。
店の人やドコモを攻撃し、店長の名前や写真をネットにさらしたりしています。
これは世のため人のためにならないばかりか、むしろ逆です。
NTTドコモは「全店舗に対して今まで以上に指導徹底し、再発防止に努めてまいります」と表明していますが、店員同士がやり取りするメモまで監視されるようになると、働きにくくなります(監視する手間もむだです)。
この店員は、「この客は親が料金を払っているので、高いプランを勧めてもうまくいくかもしれない」という業務連絡のメモを書くのに、それだけではつまらないので、「クソ野郎」という言葉を入れたわけです。誰にも迷惑をかけずに、つまらない仕事を少しでもおもしろくしようという工夫です。


いわゆる「バイトテロ」も同じ構図です。
若いバイト店員が悪ふざけをして、SNSに動画や写真をアップして仲間内で楽しんでいると、それを拡散して、攻撃する人が出てくるわけです。バイト店員の悪ふざけは個人的な行為ですし、隠れてやっている限り問題はありません(若者が悪ふざけをするのは自然な姿です)。それを拡散させて攻撃するほうに問題があります。

ところが、拡散させて攻撃するほうは圧倒的多数派で、攻撃されるほうは個人です。そうすると、多数派のほうが正義だという世論が形成されます。


人間に裏表があるのは当たり前で、たまたま裏を見て、「表と違う」と怒るのは愚かです。
こういう問題は、多数派に影響されずに、各個人がしっかりとした倫理の軸をもって判断することがたいせつです。

ただ、最近は炎上させる側を「正義マン」とか「道徳警察」という言葉で批判する傾向も出てきました。
私自身は「道徳という棍棒を持ったサル」という言葉を使っています。

麺をずるずると音を立てて食べるのは不快だから、そういう食べ方をヌードルハラスメント、略してヌーハラというのだそうです。
最近、ラーメン好きの外国人がふえてきていますが、外国人には麺をすすって食べるという習慣がなく、日本人の音を立てる食べ方に苦情を言うことがあるそうです。
それに対して「日本の食文化について外国人に文句を言われる筋合いはない。それがいやなら食べにくるな」などと反論が出て、一種の文化摩擦になっています。
 
人がものを食べる音は生理的に不快なので、できる限り音を立てないで食べるというのは世界共通のマナーです。ところが日本では、とくに日本そばについては逆に音を立てて食べるのがマナーとされます。
その類推でラーメンも音を立ててかまわないとされているようです。
 
世界の常識とまったく逆のマナーがどうしてできたのかについて、前に書いたことがありますが、もう一度書くことにします。
 
そもそも細く切った麺が食べられるようになったのは江戸時代のことです。ウィキペディアの「蕎麦」の項目にはこう書かれています。
 
 
蕎麦粉を麺の形態に加工する調理法は、16世紀末あるいは17世紀初頭に生まれたといわれる。蕎麦掻きと区別するため蕎麦切り(そばきり)と呼ばれた。
(中略)
蕎麦切りという形態が確立されて以降、江戸時代初期には文献に、特に寺院などで「寺方蕎麦」として蕎麦切りが作られ、茶席などで提供されたりした例が見られる。寛永20年(1643年)に書かれた料理書『料理物語』には、饂飩、切麦などと並んで蕎麦切りの製法が載っている。17世紀中期以降に、蕎麦は江戸を中心に急速に普及し、日常的な食物として定着していった。
 
 
「江戸を中心に急速に普及し」と書いてあるところがポイントです。
つまり、江戸にはそば切りがあるが田舎にはない、という一時期があったのです。
 
「すすって食べる」ということは、すぐにはできません。外国人が苦手としているのを見てもわかるように、何度も食べているうちにできるようになります。
 
江戸に住んでいる人間は、いち早くすすって食べることができるようになります。ところが、田舎から出てきた人間はできません。
ですから、そば切りの食べ方を見れば、その人間が田舎者かどうかわかるわけです。
 
当時の江戸はどんどん人が流入して人口が増え続けていました。要するにみんな田舎者なのですが、それだけにわずかの違いを見つけて差別化しようとします。そのとき、そば切りの食べ方はいい材料になりました。
 
そば切りをすすれる人間は、すすれない人間の前で、わざと音を立ててすすって違いを見せつけ、田舎者をバカにしました。
わざと音を立てることは、そば切りはこうして食べたほうがうまいのだと言って正当化しました。
これがそばを食べるときのマナーになり、いまだに続いているのです。
 
なお、江戸前寿司は手で食べたほうがうまいといって、手づかみがマナーとされたのも同じと思われます。
江戸っ子はせっかちですから手づかみで食べ、箸で食べようとする田舎者をバカにしたのでしょう。
 
上方では、そばではなくうどんが食べられましたが、うどんについては、音を立ててすするというマナーはありません。上方では田舎者差別がそれほどではなかったからと思われます。
 
 
もともと食事のマナーは、人に不快感を与えないためにつくられたものですが、文明の進歩とともに行き過ぎてしまって、差別の道具にも使われるようになりました。
高級な西洋料理や日本料理のマナーは、やたらに細かくて複雑で、人に不快感を与えないということを通り越しています。高級な料理を食べつけている人がそうでない人を差別する道具にしたのです。
麺を音を立ててすするというマナーも差別の道具として生まれましたが、江戸時代の一時期に発達した特殊なもので、本来のマナーと真逆ですから、すたれるのは時間の問題と思われます。
 
寿司は手づかみのほうがうまいと言って手づかみで食べる人も最近はあまりいません。
日本そばをわざと音を立ててすする人はまだいますが、それが不快だという声はふえてきています。
 
ヌーハラ論争を外国との文化摩擦ととらえるとおかしなことになります。
本来とは真逆に発達したマナーのおかしさを外国人から指摘されているととらえればいいのです。
 
もっとも、ラーメンや日本そばは庶民の食べ物ですから、高級西洋料理のような厳格なマナーを要求されても困りますが。

人を礼儀知らずとかマナーをわきまえないとかいって非難する人は、その人自身がろくでもない人だというのが私の考えです。
もっとも、こんなことをいうと、ほとんどの人は日常的に人を礼儀知らずとかマナーをわきまえないとかいって非難しているので、総反発を買ってしまいそうです。
そこで、実例を示してみましょう。東京都では保育所不足が深刻で、杉並区の待機児童をかかえた母親らが行政に異議申し立てをしましたが、これについて2月27日付朝日新聞朝刊東京版に「杉並・保育園問題、区議ブログに批判殺到」という記事が載りました。
その区議ブログは次のどちらでも読めます。
 
BLOGOS
一抹の忸怩なき待機親に一抹の疑義あり
 
田中ゆうたろうブログ
一抹の忸怩なき待機親に一抹の疑義あり
 
このブログのさわりの部分だけ引用しておきます。
 
私は、今のこの不況を本質的に打破するためにも、女性力を思い切って爆発させることは必要だと考えている。仕事と子育てを真に両立できる社会を創らねばならないと強く願っている。だが、それゆえにこそ、「子育ては本来は家庭で行うもの」という基本中の基本を忘れるべきではないと痛感する。一抹の遠慮も忸怩の念もなく、声高に居丈高に「子供を持つなということか」「現状のおかしさに気付いて」などと世を恨むかのような態度は、それこそどこかおかしい、どこか的を外している。「お願いです。私達の子育てをどうか手伝って下さい」、これが待機親に求められる人としてのマナー、エチケットというものではなかろうか。
 
 
この田中裕太郎区議は、仕事と子育ての両立を考えている人のようです。となれば、異議申し立てする母親たちと同じ立場に立ってもいいはずです。
しかし、それはタテマエで、本音のところは男権主義的な考えなのでしょう。そのため、女たちが集団で行政に抗議してくるということががまんならなかったに違いありません。また、田中区議は幼稚園の主事を務める教育畑の人で、そのため人に道徳を説くということも普通のことと思っているのでしょう。
そこで、行政に文句をつけてくる母親たちを「声高に居丈高に」「世を恨むかのような態度」と決めつけ、「人としてのマナー、エチケット」を説いてしまったというわけです。
 
ここでのマナー、エチケットはまさに人を非難・攻撃する道具となっています。
 
ただ、田中区議の誤算は、自分は政治家で、マナー、エチケットを説いた相手が有権者であったことです。政治家対有権者という関係では、有権者のほうが優位です。そのためブログには批判が殺到してしまいました。
 
もしこれが夫と妻の関係であったらどうでしょうか。夫が妻に対して優位に立っているときは、「お前はマナー、エチケットがなっていない」「夫に対する感謝が足りない」などという主張がそのまま通ってしまいます。
 
 
また、電車内でベビーカーを利用することについてマナー論議が起きたことも記憶に新しいところです。
一般乗客にとって、満員電車にベビーカーで乗り込んでこられるのは確かに迷惑なことです。ですから、ベビーカーの利用をやめろという主張があるのは不思議なことではありません。ただ、これはあくまで利己的な主張です。
利己的な主張がいけないというのではありません。むしろみんなが利己的な主張をすると、問題がはっきりと見えてきます。
 
「こんな満員電車にベビーカーで乗ってくるな。どうしても乗りたければ子どもを抱っこしろ」
「いちいちベビーカーを畳んで抱っこするのはたいへんなのよ。それぐらいのスペースは空けなさいよ」
 
こうしてお互いに利己的な主張をぶつけ合って、妥協点を探ればいいわけです。
 
ただ、一般客のほうが多数で、ベビーカー利用者が少数であるという問題があります。そのため多数派有利の結論に導かれがちです。
その結果どうなるかというと、「ベビーカー利用者はマナーを守れ」という主張が通り、「ベビーカー利用者に対して一般客はマナーを守れ」という主張は退けられてしまいます。
これがつまりベビーカーのマナー問題の本質です。
 
田中区議のブログ発言や、電車内ベビーカー問題について考えると、人に対してマナーを説くというのはどういうことかわかるのではないでしょうか。
 
ちなみに私は、人の行為を迷惑に感じたときは、マナーを説いたりせず、「その行為はやめてもらえませんか」とやんわりと頼みます。これは相手の思いやりに期待するやり方です。
一方、マナーを説くというのは、圧力をかけて相手を動かそうとすることですから、相手と衝突する恐れがありますし、少なくとも相手を不愉快にすることは間違いありません。
どちらが世の中をよくするかは明らかではないでしょうか。

昔、握り寿司は箸でなく手で食べたほうがおいしいとされ、箸で食べると寿司通にバカにされたものです。しかし今、握り寿司を手で食べる人はめったにいません。手で食べると手が汚れて不愉快だからでしょう。
もともと箸を使うようになったのは、手で食べるよりもそのほうが食べやすかったからに違いありません。西洋でナイフとフォークが発達したのも、手で食べるよりも食べやすかったからであることは明らかです。
つまり箸やナイフとフォークを使うのは、基本的に使う本人にとってそのほうがいいからです(インド人もそのうち手づかみをやめるかもしれません)
 
しかし、今では本人にとっていいからではなく、見る人にとっていいことが求められます。つまりテーブルマナーです。
 
たとえば刺し箸、寄せ箸、迷い箸などはマナーが悪いとされます。しかし、こうした細かいマナーに縛られることでかえって不幸になっている面があるのではないでしょうか。
 
次は「ヤフー知恵袋」に寄せられた質問です。
 
家の祖父と祖母はお互いに寄せ箸をします。(器を箸で引き寄せたり、押したりする...
 too11583さん
 
家の祖父と祖母はお互いに寄せ箸をします。(器を箸で引き寄せたり、押したりすること)この事はよくないというのをあるサイトで見るまでは知りませんでした。しかし、判ってからやるのを見ていると非常に情けなく思います。たいした事無いかもしれませんが、皆さんの周りにも同じようなことをする人はいませんか?こんなに気になるのは私だけなんでしょうか?
 
これに対する回答でベストアンサーに選ばれたのは、「祖父母ともお年のようだから治りようがないでしょう。見て見ぬふりをするしかありません」というものです。
 
この質問者は、寄せ箸がよくないということをサイトを見て知ったということです。もしそのことを知らなかったら、悩むこともなかったと思われます。
つまり食事のマナーがあるばっかりに(知ったばっかりに)不幸になってしまったという例です。
 
寄せ箸がいけないのは、もともとはその器をひっくり返してしまう恐れがあるからでしょう。しかし、ひっくり返さない自信があれば、やってもいいはずです。
私は今は刺し箸はしませんが、考えてみると、子どものころはやっていました。里芋など子どもの不器用な手でつかみにくいものは、刺したほうが食べやすいということもあると思います。
 
見ていて不愉快に思う人がいるからやってはいけないとなると、行動の自由がひとつ失われることになります。
こうしたマナーがどんどんふえていくと、どんどん不自由になっていくことになります。
これを「洗練」とか「上品」といって肯定し、どんどんその方向に進んできたのが文明というものです。
しかし、みんなが同じように上品になるわけではありません。上品な人と下品な人の間に溝が広がることになります。
 
次は掲示板「発言小町」に寄せられた相談です。
 
こんな夫と一緒に食事をしなくてもいいでしょうか?  くらら 2013215 9:51
 1年以上夫と一緒に食事をしておりません。
私が作って食べ、その後に夫が食べます。
 
夫は食事マナーが悪く(肘をつく,寄せ等)、私が注意すると「うるさい!」と言うので、
言わないで我慢してきましたが、ある日私がまだ食事中なのにすぐそばで鼻をほじくりました。
そのときから私は夫がいると、食事が喉を通らないようになりました。
育ちが悪くてマナーがなっていないのなら、まだよかったのです。知らないのは仕方がないので。
でも、夫の実家はきちんとした家です。
 
夫が来ると私は食事をやめて別室に行くので、夫は私が食べているときは台所に入って来なくなりました。
 
一人で食べるごはんは本当においしいのですが、家族としてこれでいいのかな?とも思います。
本当は以前のように、笑いながら一緒に食事をしたいという気持ちもあります。
もう二度とそんなことはできないのでしょうか?
 
これもマナーがあるばっかりに不幸になってしまった例です。
もっとも、トピ主のこのあとの書き込みを見ると、夫婦間にはいろいろ問題があったようです。それがテーブルマナーの問題に集約されて出てきた格好です。
 
この解決策としては、夫がマナーをよくするべきだと考える人が多いのではないでしょうか。しかし、妻がマナーのことを気にしないようにするという解決策もありますし、それが私のお勧めです。
 
私が「洗練」や「上品」には限度があるはずだと考えるのは、赤ん坊には「洗練」も「上品」もないからです。つまり上品な人間をつくるには、子どもにマナーを教えなければなりませんが、教える作業がおとなにとっても子どもにとっても重荷になるなら、ほどほどにしたほうがいいと思うのです。
 
今ではむりやり子どもにマナーを教えている家庭が多いのではないでしょうか。そのことがまた不幸を生みます。
 
箸の持ち方直せ、と友人Aが友人Bに注意、喧嘩になってしまい…  せい 2013122 12:46
 私と友人Aと友人Bが外食した時の話です。
私と友人Aは箸の持ち方は普通です。Bは良く見たらちょっと
違うかな、という持ち方をしてます。
というか私はそれに全く気がつきませんでした(汗
友人Aが友人Bに「箸の持ち方がおかしい、
社会人になってそれじゃあ
会社の人とか彼氏の両親とかと食事した時恥だから治したほうがいいよ」
と忠告。
友人Bは「うんそうだね…」とこのときは普通に終わったのですが。
それから三ヶ月。何度か食事しましたが友人Bの箸の持ち方がなおってないらしく。
そのたびにAが口うるさく注意してました、この前とうとうBが切れて
「練習はしてるよ。でも中々なおらないんだ」
「え? すぐなおせるもんだよ。あんた練習してないんじゃないの?」と二人喧嘩になってしまいました。
私が仲裁に入りましたが、二人は喧嘩したままです。
こういう場合、どちらについたらいいのかもわかりません。
ABのためを思って言ってるのはわかりますし、でもBも練習しているのに(実際矯正箸をかって練習してるのみました)一々煩い。と思う気持ちもわかりますし。
どうしたらいいのでしょう? 箸の持ち方なんて一々気にしてみてなかったんで、
気にする人の心理さえわからず困ってます。
 
友人に口うるさく言えば、喧嘩になって当然です。なぜ口うるさく言ってしまったのかというと、自分が子どものころ親から口うるさく言われたからではないでしょうか。
 
そもそも食卓でマナーのことを口うるさく言っていては、食卓が楽しいものになりません。人を不愉快にしないためのものがマナーであるはずなのに、マナーを教えるために食卓が不愉快になっては本末転倒です。
 
世の中の常識は、マナーを身につけるのはよいことで、子どもにきびしくマナーを教えるのもよいことだというものでしょう。
私の考えはそうした常識とは逆ですから、納得いかない人も多いかと思いますが、人を不愉快にしない、食卓を楽しくするという原点を踏まえれば、私の考えも理解してもらえるのではないでしょうか。
 
テーブルマナーに関して、私の好きなこんな話があります。
洋食のコースでフィンガーボールが出てきて、知らない人が飲み物だと思ってその水を飲んでしまったとします。こんなとき同じ食卓にいる人はどうするのが正しいマナーかと聞かれたら、あなたはどう答えるでしょうか。
正解は「自分も飲む」です。
自分もいっしょに恥をかけば、その人の気持ちが楽になるからです。
 
それからこんな話もあります。
中華料理はうるさいテーブルマナーのないのが特徴ですが、料理をこぼすのはさすがにみっともない行為です。真っ白いきれいなテーブルクロスだと、なおさらこぼしにくくなります。ですから、客人を招いた主人は最初にわざと自分が料理をこぼしてテーブルクロスを汚すのだそうです。そうすれば客人はテーブルクロスを汚すことを気にせずリラックスして食事できるようになるというわけです。
 
テーブルマナーというのは、知識として知っているのはいいことですが、こだわるのは愚かなことです。
私自身は、人のマナーを批判することだけはしないように心がけています。

電車内で化粧することは是か非かという問題は、小さなことのようですが、これはすべてのマナーや道徳に共通することでもあるので、「電車内化粧問題」というエントリーに引き続いて、再び取り上げます。
 
具体的な迷惑がないのに、「それは見ていて不愉快だからマナー違反だ」と主張する人がいますが、この場合、その人の不愉快だと感じる感性や価値観は正しいのかという問題があります。
たとえば、「電車内で化粧をする人は羞恥心がない」と言って非難する場合、要するに非難する人と非難される人の羞恥心の感覚が違うだけで、どちらが正しいのかはわからないはずです。
 
自分の感覚が正しいと主張できるのは、その感覚が人間全般に共通する本能的、生理的な根拠を持っている場合だけです。そうした根拠がないのに「それはマナー違反だ」と主張すると、それは自分の感覚に他人は従うべきだという、たいへん傲慢な主張になる可能性があります。
 
こうしたことを書いていたところ、ちょうど朝日新聞11月4日朝刊に「電車内化粧 中三が考えた」という記事が掲載されました。漫画家伊藤理佐さんが書いた「やめなよ、電車内の化粧」という文章があって、それに対して多くの反響があったということをまとめた記事です。
 
朝日新聞に寄せられた投書は36通で、多くは伊藤さんに共感するものですが、「化粧より迷惑なことはたくさんある」「女性だけを責めている」などの反論も6通あったということです。
さらに、東京都大田区立羽田中学校からは3年生76人の感想が届き、ここでは「認める」派が3割超を占めたということで、「いいじゃないですか。迷惑にならないならOKです。公共の場だけど、自分の範囲だけのことなので」「家でする時間がないくらい忙しいんだと思う。その人が恥ずかしくないならいいんじゃないかな。私もしてみたい」といった意見がありました。
 
私は中学生のほうが容認派の比率が高いというところに注目しました。子どもほどまともな感覚を持っていて、おとなになるほど偏見が強くなるというのが私の考えです。
 
また、自分も電車内で化粧したことがあるという42歳の女性の意見もありました。
 
かつては「人前でするくらいなら、ノーメークでいればいいのに」と思っていたが、埼玉に住んでいたころ、約2時間の長距離通勤を経験して考えが変わった。夜遅くまで働き、睡眠は4時間。ゆっくり化粧できるのは電車内だった。「それぞれ事情があるので大目に見てほしい」
 
とはいえ、多くの人が電車内化粧に批判的であるのは事実で、これについて私は、化粧を人目にさらすと「女性は美しい」という“共同幻想”を壊してしまうからではないかと考えました。
とすると、この“共同幻想”はどれほど守る価値のあるものかという問題になってきて、これはむずかしくてなかなか結論は出ません。
 
ただ、一般論として言うと、私はマナーというのはできるだけ少ないほうがいいと思っています。経済の世界では、規制緩和をすれば経済が活性化して成長率が高まるということが言われますが、それと同じで、マナーを緩和して多様な生き方ができるようになったほうが社会が活性化すると思うのです。
 
人間性というものが基本的に変わらないことを考えると、マナーやルールをたくさんつくればいいというものではありません。人間はもっといい加減な存在として生まれついていると思います。
 

電車内でベビーカーを利用することについて論争が起き、これがかなり広く関心を呼びました。私は一度このブログで取り上げましたが、それからまたいろいろ考えたので、もう一度ベビーカー問題について書いてみたいと思います。
 
最初に書いたエントリーはこちらです。
「電車内ベビーカー問題!」
 
これはもともとマナー向上を訴える鉄道会社のポスターがきっかけで始まった議論です。これまで電車内でのベビーカー利用についての確立されたマナーというのはなかったようですから、これはマナーのつくり方の問題でもあります。
一般に新しいマナーはどのようにしてつくられるのでしょうか。
 
まず基本的認識として、私は人間には利己的性質と利他的性質の両方があると考えています。このふたつは必ずしもバッティングするものではなくて、人のために行動することが自分のためにもなり、自分のために行動することが人のためにもなるということがほとんどです。ですから、普段は利己的性質と利他的性質があるということは意識されませんが、物事を掘り下げて考えるときは、分けて考えるとわかりやすくなります。
 
電車内のベビーカーについては、「混雑時には乗るべきでない」とか「折り畳んで乗るべきだ」といった声が意外と多くありました。ただでさえ満員電車で窮屈な思いをしているのに、ベビーカーが乗ってくればますます窮屈になるから迷惑だということでしょう。これは言うまでもなく、人間の利己的性質から出る声です。
一方、利他的性質から出る声というのもあります。「混雑しているときにベビーカーで電車に乗らなければならない母親はたいへんな思いをしている。周りの人間はできるだけ配慮してあげるべきだ」という声です。
 
まったく相反する声があるわけです。こうした場合は、最終的に声の大きいほうが勝利して、それが社会のマナーとなります。
今のところ、利己的性質から出る声のほうが大きいような感じですが、まだマナーとして確立されるところまではいっていません。
 
ここで視点を変えて、ベビーカーで電車に乗る母親の立場で考えてみましょう。
子育て中のママの会みたいなものがあって、そこで利他的性質から出てくる声があるとすれば、それは、「私たちは通勤客の迷惑にならないようにできるだけ満員電車に乗らないようにしましょう。乗るときはベビーカーを折り畳みましょう」というものになるはずです。
しかし、そんな声は出ないでしょう。なぜなら、通勤客というのは毎日働けるだけの健康な体を持っているはずで、そんな人たちのために行動しようという気になるわけがないからです。
 
一方、利己的性質から出てくる声はというと、「乗客はみんな私たち子育て中の母親のために協力するべきだ」というものになるでしょう。しかし、今はそういうことを言うとバッシングを受けてしまいそうですから、現実にはほとんど声は出てきていないと思います。
黙っていても世の中のバッシングがひどくなれば、「私たちは通勤客の迷惑にならないようにできるだけ満員電車に乗らないようにしましょう。乗るときはベビーカーを折り畳みましょう」という声が出てくることが考えられます。
これは一見、利他的性質から出てきた声とまったく同じです。しかし、これはバッシングから自己防衛をするためですから、利己的性質から出てきた声です。
 
つまり周りに利己的な言動をする人がいると、自分も対抗するために利己的な言動を取らざるをえなくなるというわけです。
もともと人間は利他的性質よりも利己的性質のほうがほんの少し強く生まれついていますから、利己的言動が利己的言動を呼ぶという悪循環に陥りがちです。尖閣など領土問題を見ればよくわかるでしょう。
今のままでは、一般の乗客のほうが多数派で、子育て中の母親は少数派ですから、双方の利己的な主張がぶつかれば、ベビーカーは混雑時には持ち込んではいけないというマナーが確立されてしまいそうです。
 
とはいえ、人間に利他的性質があるのも間違いありません。
 
私は中学生のころボーイスカウトに入っていて、その活動の一環として赤い羽根や緑の羽根の募金活動をしたことがあります。当時は京都に住んでいて、休日に植物園の前や金閣寺の前で募金活動をすると、かなりの金額が集まりました。しかし、平日に繁華街である四条通りや京都駅前あたりで募金活動をすると、通る人数はうんと多いのに極端に少ない金額しか集まらないのです。
京都駅前や繁華街にいるのは平均的な人たちですし、休日に植物園や金閣寺に行く人たちもおそらく平均的な人たちです。同じ人間が募金したりしなかったりするのです。
この理由は簡単です。休日にのんびりと出かけ、自然や文化財に接して豊かな気持ちになると、利他的な性質が前面に出て募金しようという気持ちになるのです。反対に、平日にせかせかと歩いているときは利己的性質が前面に出て、募金する気持ちにならないというわけです。
 
現在、ベビーカーを非難する声が大きいのは、心に余裕のない通勤客が多いということでしょう。
しかし、その人たちも心のモードが切り替わると、また別の主張をするようになるはずです。
 
たとえば北欧では福祉が行き届いて、人々は日本人よりよほど余裕のある気持ちで生きているはずです。そういうところでは人々はヘビーカーにも寛容です。
日本が急に北欧のように変わることはできませんが、気持ちに余裕がないからベビーカーを非難してしまうのだということを理解するだけでも変わってくるはずです。
少なくとも、今ベビーカーを批判する声が大きいからといって、その声に合わせたマナーをつくる必要はないと思います。
 
ベビーカー問題は逆に、私たちの心の豊かさを示すバロメーターになってくれています。
 

最近、電車の中で化粧をする女性がふえていて、不愉快だ、マナー違反だという声がよく聞かれます。電車内で化粧することはほんとうによくないのでしょうか。
今回は電車内化粧問題について考えてみます。
 
電車内で化粧していると、化粧品の粉が飛んで周りの人にくっつくということがあるかもしれません。これは明らかな迷惑ですから、いけないに決まっています。
では、そういう物理的、具体的な迷惑をかけないようにやればよいのかというと、そういうことではありません。見ていて不愉快だという声が多いようです。
 
見ていて不愉快というのは、感性とか価値観に関わってきて、人によって違います。
では、ほとんどの人が見ていて不愉快だと思えば、それはマナー違反としていいのかというと、そうともいえません。ほとんどの人の感覚が間違っているということもあるからです。たとえば、白人が多数派の社会で、黒人と同席するのは不愉快だという声が多いからといって、待合室を白人用と黒人用に分けるべきだということにはならないわけです。
 
電車内化粧が嫌われるのは、もしかして差別と関わっているかもしれません。というのは、電車内化粧をするのは、当然働く女性だからです。
 
もちろん、偏見や差別と関係のない、正しい感覚というのもあります。
では、正しい感覚と間違った感覚というのはどうして区別すればいいのでしょうか。
ひとつの判断基準として、進化生物学的な根拠があるかないかというのがあります。
 
たとえば嘔吐物、要するにゲロですが、朝の路上に見かけたりするとひじょうに不愉快です。なぜ不愉快かというと、吐瀉物には毒が含まれている可能性があるからです。同時に栄養物でもありますから、いくら飢えていても決して食べることがないぐらいに強烈な不快を感じるように私たちは生まれついているわけです。
糞尿に不快を感じるのも同じです。たとえば赤痢のような病気が移ってしまう可能性があるからです(母親は赤ん坊の便を不快には思いません。赤ん坊から母親に病気が移る可能性はないからです)
 
ですから、このような感覚には進化生物学的根拠があるといえます。
ただ、人間というのはひじょうに複雑で多様ですから、中にはスカトロマニアというのもいます。また私は、女性が口の中に指を突っ込んで透明なボウルにゲロを吐き続け、そのゲロをすくってまた食べるというフェチビデオを見たことがあります。
しかし、進化生物学を踏まえれば、そういう感覚はまともではないと判断できます。
 
ですから、路上に犬の糞を見るのは不愉快だから飼い主は糞の始末をするべしというマナーもおおむね正当なものであると判断できます。
 
ただ、化粧というのは高度に文化的なものなので、おそらく進化生物学を基準には判断できないと思われます。
しかし、多くの人が電車内化粧、つまり公衆の面前で化粧することを不愉快に感じるという現実があります。この不快感はどこからくるものなのでしょうか。
 
私が思うに、化粧というのは女性の美しさを底上げするものですから、その過程を見せてしまうと、すべての化粧した女性の美しさは底上げされたものだということがバレてしまうので、とくに女性は嫌うのではないかということです。
もちろん最初からバレてはいるのですが、日常的にそれを見ると、バレ方が違ってきます。映画のセットの裏側を何度も見せられるようなものです。
また男性も、女性の美しさに幻想を抱いていたいので、化粧をするところを見たがらないということもあるでしょう。
 
つまり化粧というのはあくまでごまかしなので、化粧の過程を見せたらごまかしにならないということで、電車内化粧は嫌われるのではないかと思われます。
 
では、電車内化粧はマナー違反かというと、私はあまりそうは言いたくありません。
なぜなら、電車内化粧をする人にはそれなりの理由があるはずだからです。
勤め人にとって朝の時間は貴重です。1分でも長く寝ていたいからです。それを考えると、電車内で化粧する人をあまり批判する気になれません。
 
それに、そもそも化粧というのはほんとうに必要なのかという疑問もあります。
たとえば、昔はストッキングは「第二の皮膚」と言われ、ストッキングをはくことはおとなの女性の身だしなみとされていました。しかし、いつのまにかナマ足ブームがきて、今ではナマ足が当たり前になっています。
そのうち“ナマ顔”が当たり前になる時代がこないとも限りません。
 
そもそも、男性の化粧がまったくないわけではありませんが、女性だけが義務のように化粧するというのはひじょうに奇妙な風習です。女性が男性と対等に働くようになると、化粧の時間が大きなハンデになります。
私は電車内化粧がふえているのは世の中の変化の兆しではないかと、どちらかというと肯定的にとらえています。

前回の「走る子どもを怒る」というエントリーで、店内を走り回る子どもを怒鳴りつけた店員についてのニュースを取り上げましたが、またもや似たニュースがありました。どうやら子どもを迫害する傾向はどんどん強まっているようです。
  
電車内のベビーカー利用に賛否両論 啓発ポスター引き金
  列車でのベビーカー利用に理解を求める鉄道会社や東京都のポスターに、批判が寄せられている。車内で通路をふさぐなどと苦情があり、鉄道会社はマナー向上の呼びかけに力を入れている。
 「ベビーカーでの電車の乗り降りには注意が必要です。周りの方のお心づかいをお願いします」「車内ではストッパーをかけて」
 首都圏の鉄道24社と都は3月、利用者に呼びかけるポスター約5700枚をJR東日本や私鉄、地下鉄の駅に張り出した。少子化対策の一つで、担当者は「赤ちゃんを育てやすい環境をつくる」と話す。
 だが、利用者から「ベビーカーが通路をふさぐ」として、ポスターに対する疑問の声が都に寄せられた。都営地下鉄には「車内でベビーカーに足をぶつけられた」「ドアの脇を占領され、手すりを使えなかった」との声が相次いだ。
 JR東日本にも「ポスターがあるからベビーカー利用者が厚かましくなる」「ベビーカーを畳もうというポスターも作って」と意見が寄せられたという。ネットでは意見が1千件以上飛び交っている。
 ただ、ベビーカー利用者には事情がある。今月、JR新宿駅近くでベビーカーを押していた杉並区の主婦(38)は「子どもを病院に連れて行く時、電車に乗らざるを得ない。荷物と子どもを抱えてベビーカーを畳むのは無理」と話す。出産前は、通勤時にベビーカーを迷惑と思っていたが、考えが変わったという。
 JR東日本は列車内のベビーカー利用を認めてきた。かつて駅や車内でベビーカーを畳むよう呼びかけた私鉄9社や都営地下鉄は99年、母親の要望を受け、「周囲に迷惑をかけない」ことを条件に利用を認めるようになった。
 ポスター掲示を続ける小田急電鉄は、乗務員が車内を回る際、ベビーカー利用者に「通路をふさがないでください」と声かけをしている。「母親の育児ノイローゼを防ぐためにも外出は効果的」という都は、母親向けに「車内でもベビーカーから手を離さないで。暴走車になっちゃうよ」とマナー向上を呼びかけるチラシ約5万枚を保育所などで配っている。(藤森かもめ)
朝日新聞デジタル 20128261817
 
鉄道会社のポスターの狙いはあくまでベビーカー利用に対して一般客の理解を求めることであったわけですが、一般客は逆に、「ベビーカーが通路をふさぐ」など、ベビーカーの利用を非難する反応を示したというわけです。
 
ベビーカーというと、ノルウェーに行ったときのことを思い出します。
ノルウェーでは街のいたるところでベビーカーを見かけました。それも2人用、3人用も多く、4人用のべビーカーもあるのには驚きました。
ノルウェーは先進国にしてはかなり出生率の高い国です。1980年代までは低かったのですが、男女共同参画を進め、子育て支援策を充実させることで出生率が向上しました。
ただ、これは単に政策だけの問題とは思えません。子どもが普通にたいせつにされている感じがするのです。たとえば、ノルウェーにはスカンジナビア航空の飛行機で行ったのですが、客室乗務員が客に飲み物をサービスするとき、8、9歳の女の子がニコニコしながら横にいて、客にジュースを渡したりしているのです。女の子が手伝いをしたがったので、客室乗務員が好きにさせているということでしょう。これが日本なら、子どもに手伝いさせるとはけしからんといってクレームがつくに違いありません。
もちろんスカンジナビア航空でも、規則ではこういうことをさせてはいけないことになっているはずです。しかし、子どもがやりたがったら、おとなはそれを尊重するということが普通に行われているのでしょう。そして、その女の子は楽しい時間をすごし、人生経験を積むこともできたわけです。
ノルウェーには、電車の中のべビーカーに文句を言うような人はいないと思われます。
 
日本がノルウェーと違うのは、とくに都会の交通機関は混み合うことが多い点です。
おんぶやだっこという方法があるではないかという人もいるかもしれません。
しかし、ベビーカーを使いたい事情もあるでしょう(おんぶやだっこは重い)
 
どんな社会であっても、子育て中の親は周りのみんなでささえるものだと思います。そうでないとその社会は持続していきません。
そう考えると、電車内のベビーカーを非難する日本の社会のあり方はかなり異常です(外国ではしばしばベビーカー用のスペースが設けられた電車やバスを見かけます)
 
これもやはり「子ども差別」のひとつの表れというべきでしょう。
厳密には子どもではなく子ども連れの親が差別されているわけですが、根底にあるのは子どもをたいせつにしないことですから、「子ども差別」と言ってもいいでしょう。
 
これが「子ども差別」であることは、車椅子が電車に乗ってくることと比較するとよくわかるはずです。迷惑という点ではベビーカーも車椅子も変わらないでしょう(むしろ車椅子のほうがかさばります)。しかし、車椅子が電車に乗ってくるのは迷惑だと主張する人はまずいません。
 
とは言ったものの、最近は車椅子も迷惑だという声が多くなっているかもしれないと心配になり、検索してみましたが、そんなことはありませんでした。「Yahoo!知恵袋」で「ラッシュ時に車椅子で電車に乗る人ってどう思います?『遠慮』というのも考えていただきたい」という意見に対しては、圧倒的に否定的でした。
 
ベビーカーで電車にも乗りにくい社会では少子化が進むのも当然です。
 
このような子どもを迫害する傾向は最近急速に強まっている気がします。
その原因はなにかと考えたら、法務省の方針がかかわっているのではないかという気がしています。
日本は官僚主導の国で、マスコミもそれに追随していますから、法務省の方針は国民意識までも変えてしまいます。
 
2001年、少年法が厳罰化の方向へ改正されました。これはもちろん法務省の方針ですし、これに先立って、「少年犯罪が凶悪化している」という報道が盛んに行われました(統計的にはそうではなかったのですが)
そして、数日前の8月24日の朝日新聞朝刊の一面に「少年の有期刑引き上げ」と題する記事が掲載されました。
従来の少年法では、18歳未満の少年に対しては有期刑は最長15年とするなど、成年よりも量刑を軽くする規定がありましたが、法務省はそれをよりきびしくする方針を固めたということです。その理由としては、裁判員裁判を経験した市民から「少年事件で思ったような量刑が選択できない」といった不満が出ていたことが挙げられています。
 
少年法の厳罰化であれ死刑制度の存続であれ、つねに国民感情を持ち出すのが法務省のやり方です(財務省や厚生労働省も国民感情に合わせてほしいものですね)。そして、その国民感情を形成するために、明らかにマスコミは偏った報道をします。たとえば、少年法改正の前ごろから、殺人事件については必ず被害者遺族の感情が強調されるようになりました(加害者サイドのことはほとんど報道されないので、アンバランスです)
 
法務省が刑法改正に国民感情を持ち出すのは、それ以外に理由がないからです。つまりなぜ犯罪が起こるのか、どうすれば犯罪を防げるのか、犯罪者はどうすれば更生するのかといったことが法務省にはまったくわかっていません。
 
それは誰にもわからないのではないかと思われるかもしれませんが、そんなことはありません。ノルウェーの法務省はなぜ犯罪が起こるかわかっているのです。
これは「厳罰主義の果て」というエントリーで書いたことですが、ノルウェーの法務官僚は犯罪の原因として「幼年期の愛情不足。成長時の教育の不足。そして現在の貧困」を挙げたそうです。
「厳罰主義の果て」
 
ノルウェーの法務省と比べると、日本の法務省は明らかにバカです。このことをほとんど誰も指摘しないのは不思議です(もちろん日本の法務省だけでなく日本の法学界もバカなのですが)
 
ともかく、日本の法務省は明らかに少年をきびしい目で見ています。昔の日本人なら、「こんな若い者を罰するのは忍びない」とか「まだ若いんだから立ち直るだろう」といった感情があったものですが、今の法務官僚にはないようです。そして、それが日本全体に広がってきています。
これはつまり、おとなの劣化です。
決して子どもや若者の問題ではありません。
 
おとなが子どもや若者を迫害する社会に未来はありません。

人間は基本的に利己的な存在です。対等の関係だと争ったり妥協したり友好関係を築いたりしますが、強者と弱者の関係だと、強者が一方的に利己的にふるまうことになります。奴隷制度、植民地支配、人種差別、性差別などがそうです。
それに加えて、おとなが強者で子どもが弱者であることから生じた「子ども差別」もあります。しかし、「子ども差別」はほとんど認識されていません。これを認識するとしないとでは世の中の見方がまったく変わってきます。たとえば、「子ども差別」を認識しない人は、イジメの解決策を出すことができません。
ということで、今回は「子ども差別」を認識するためのレッスンです。
 
最近の新聞の投書欄にこんな意見が載っていました。
 
子どもの迷惑行為 謝れない親
会社員 (女性 氏名略)(東京都新宿区 46)
 
 母の入院先に毎週通っていた時のことだ。夕方、自宅へ帰るために駅へ向かいながら、帰宅時間を携帯で家に連絡していた。広い道幅にもかかわらず、前から走ってきて思い切りぶつかり、そのまま走り去ろうとした男の子がいた。謝りもしないで走り去ろうとしたその男の子に、私は「謝るぐらいして」と怒った。ところが、先を歩いていた父親が私の所まで戻ってきて、子どもに謝らせるどころか、「言い方が悪い」とくってかかった。母親も一緒にいたが、そんな父親に対し「放っておきなさい」と言うばかり。
 
 最近の親は、人に迷惑をかけたら、きちんと子どもに謝らせ、今後注意するように言い聞かせることすらできないのだろうか。私が年寄りで、ぶつかられたはずみで転倒し、骨折でもしていたらどうしていたのか。
 
 スーパーなどでも同じで、子どもが走り回っていても知らん顔の親たち。電車の中で子どもが大声を出していても、意に介さず自分たちの会話を続ける夫婦。他者への配慮などひとかけらも感じられない。大げさなようだが、日本人のよさは本当に失われているのではないか、と感じることの多い日々だ。
朝日新聞デジタル記事2012822
 
この人は子どもを一方的に非難していますが、この認識にかなり問題がありそうです。というのは、自分も道を歩きながら携帯電話を使っていたからです。2人がぶつかったのは、双方に不注意があったからでしょう。
この人は「夕方、自宅へ帰るために駅へ向かいながら、帰宅時間を携帯で家に連絡していた」と書いています。つまり、携帯を使う必要性を言うことで自分の正しさをアピールしたのでしょう。しかし、そんなことは他人にはどうでもいいことです。他人から見れば、ただ道を歩きながら携帯で話しているおばさんがいるだけです。
ちなみにぶつかった男の子にしても、道の前のほうに両親がいて、走って追いつく必要性があったわけです。
 
この人が「謝ることぐらいして」と怒ったのは、いつも子どもにはそのようにふるまっているのでしょう。しかし、今回は両親が後ろにいたので、父親に「言い方が悪い」とくってかかられてしまいました。果たしてどんな言葉の調子で「謝ることぐらいして」と言ったのかわからないので、この父親の態度が正しいのかどうか判断できませんが、文句をつけるのもおとなげないでしょう。母親の「放っておきなさい」という態度が妥当なところではないかと思われます。
 
この人は、父親から文句を言われて引き下がり、やり場のない不満をかかえてしまったので、この投書をしたのでしょう。普通なら子どもに怒りをぶつけて、すっきりしていたはずです。
 
よく飲食店などでミスをした店員に向かって「謝れ」と怒っている人がいますが、こういう人は、誰が見てもいい気はしないものです。この人の態度も同じでしょう。
 
ただ、この場合は子どもが相手です。子どもに向かって「謝れ」という場合は、子どもに謝ることを教えるという、教育やしつけのためという名目があります。そのためこの人の態度は正しいと考える人もいるでしょう。
しかし、謝ることはたいせつですが、人に向かって「謝れ」ということはまったく別です。子どもに「謝れ」というと、子どもはその態度を学んで、人に対して「謝れ」という人間になってしまう可能性があります。
この人は子どもに謝ることを教えたいなら、ぶつかったときに子どもに対して「ごめんね」と言えばよかったのです。そうすれば子どもは人にぶつかったときは謝るものだと学んだでしょう。
 
そもそもは「広い道幅」のところで子どもは走っていたのです。ぶつかったのは不注意ですが、それはお互いさまですし、子どもがおとなのように注意深くないのは当たり前のことです。子どもは走ってぶつかったり転んだりしながら運動能力を伸ばしていきます。
 
ただ、この投書にもあるように、子どもがスーパーの中を走り回ったり、電車の中で大声を出すのはどうなのでしょうか。
これについてはたまたま、店内を走り回る子どもを店員が怒鳴りつけたということに関するニュースがありました。
 
 
店内で走る子供を怒鳴る店員は失格だ! 「無印良品」批判ブログが大炎上
 
    広報アドバイザーを名乗る人物がブログで、店員が店内を走る子供を怒鳴る場面に出くわした、と書いた。これは接客業としてやってはいけない行為だから、この店員にもう一度基礎から研修させるべき、としたところ「迷惑行為の子供を叱って何が悪い!」などと批判が殺到しブログが「大炎上」した。
 
   また、「販売員ならだれでもなれる」という職業蔑視とも取れる表記があったため、火に油を注ぐ形になった。
 
「この店員を野放しにすするなら買い物はしない」
 
   筆者のプロフィールには、繊維業界の川上から川下まで担当する業界紙記者などを経て、現在はライターのほか、広報代行業、広報アドバイザーを請け負っていると書かれている。
 
   炎上したのは2012822日にアップされた「一体店員にどんな指導をしているの?」というタイトルのブログ。大阪にある「無印良品」の名前が実名で記されていた。
 
   内容は、店内で「走るな!」という男性の威圧する声が聞こえたため、声のする方向に目をやると、小学校低学年の男の子二人を睨みつける20代後半~30代前半くらいの男性がいたのだという。初めは父親か親戚のオジサンかと思っていたが、それが店員であることがわかって驚いた、という。いくら目に余る様子だからといって、店員が怒鳴るのはおかしいし、今回の場合はそれほど子供が騒いでいない。
 
「この店員がたまたまイラついていただけかもしれないが、これは接客業としては失格である。良品計画はもう一度この店員に基礎から研修を受け直させるべきだろう」
 
と書いた。
 
   さらに、日本では販売員は下に見られがちな職種であり、応募する側も「販売員ならだれでもなれる」。店側も品出しとレジ打ち、おたたみくらいを覚えてくれればいいという軽い気持ちがあるため、このような店員をたまに見ることがある。そしてこの店員を野放しにしておくのなら、この無印良品で買い物をすることは今後ないだろうと締めくくった。
 
「むしろ素晴らしい店員だ」と反論多数
 
   すると、このブログに書かれていることが許せないとネットで騒動になり、筆者のブログと「ツイッター」に批判が殺到「大炎上」することになった。このブログはポータルサイト「ライブドア」にも配信されていて、ここではコメントが23日の夕方までに1800を超えた。
 
「あんたが書かなきゃいけないことは、店内で子供が走り回っているのに注意しない親の方だろ」
 「うるさいガキ、それを野放しにする親、なにもしない店員に、客はうんざりしているのですよ」
 「走りまわっている時点で迷惑な客。子供は注意していることを理解させなければ反省しない。威圧した声で注意するのは当然。むしろよく教育されたすばらしい店員」
 
などというコメントが並んだ。
 
    筆者は今回のブログへの批判の多さに驚いたのか、
 
「今回のブログで多くの方々に誤解を与えたことはお詫び申し上げます」
 
などと23日の昼過ぎに謝罪文を掲載した。ただし、販売接客業は「怒鳴りつける」という手段を採ることは原則ない、などと付け加えた。
 
   ブログは一部が書き換えられ、本文から「無印良品」の名前を消した。そして、23日夕までにこのブログは削除されてしまったのか、現在はアクセスできなくなっている。
 
 
この広報アドバイザーを名乗る人物も少しおかしなことを書いていますが、店内を走り回る子どもを怒鳴りつけた店員を批判したのは当たり前のことだと私は思います。
もっとも、この人物は接客業の店員としてあるべき態度という観点から批判しているのですが、私は子どもが店内を走り回るのは当たり前のことだということから、子どもを怒鳴りつけた店員を批判しているので、その点は違いますが。
 
子どもは、ここは走ってよい場所だとか走ってはいけない場所だとかの判断はできませんから、店内であろうと走るのは当たり前のことです。ほかの客に迷惑になるとか、たいせつな商品が壊されるかもしれないとかいうことなら、子どもに対して「ここでは走らないでくれるかな」とか「向こうに行って遊ぼうか」などとやさしく言えばいいのです。当然のことですが、怒鳴りつければ子どもが傷つきます。
 
子どもが走るのを怒鳴りつけていいのなら、年寄りがのろのろ歩いていたり、レジでもたもたしているのも怒鳴りつけていいのでしょうか。子どもが走るのも年寄りがのろのろ歩くのも、どちらも自然な姿です。
 
もっとも、年寄りの動作が遅いといって怒鳴りつける人はまずいません。それは、年寄りは必ずしも弱者とは限らず、社会的に力のある人物であるかもしれないからです。
しかし、子どもは絶対的に弱者ですから、近くに親がいない限り遠慮なく怒鳴りつけられるので、そういう社会的習慣ができてしまったのです。
 
それにしても、この広報アドバイザーのブログが炎上したということは、子どもを怒鳴りつけるのは当然だと思っている人が多数いるということでしょう。
これがまさに「子ども差別」社会です。
子どもが走り回るのがいけないというのは、自己中心的なおとなの考えです。こういう考えのおとなは自分の子どもに対しても、「うるさい」とか「走るな」とか「ちゃんとしろ」とかしょっちゅう怒鳴っているに違いありません。
そして、子どものときにそうして怒鳴られて育ってきたおとなは、自分の子どもに対しても同じように怒鳴り、ときにこの広報アドバイザーのブログを炎上させたりするというわけです。
 
子どもがうるさいといって怒鳴る人は、赤ん坊が夜泣きしたときも怒鳴るでしょうし、それで泣き止まないと殴るかもしれません。「子ども差別」社会では幼児虐待が当たり前のように起きます。
 
「子ども差別」に気づくと、「怒りや暴力」を克服する道が見えてきます。もちろんその先にあるのは「愛と平和」というわけです。

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