村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

カテゴリ: マナーのある不幸

今の世の中における最大の問題はなにかと問われたら、私は迷わず「愛情の不足」と答えます。というのは、たいていの問題は「愛情の不足」から生じているからです。幼児虐待はもちろん、戦争やテロも「愛情の不足」から起きるのですし、格差社会にしても、富裕層や中間層に貧困層に対する愛情が不足しているからといえます。
 
そうはいっても、愛情というのは目に見えませんし、計測も不可能ですから、「愛情の不足」が問題だといっても、どうしようもないと思われるかもしれません。しかし、そうとは限りません。「愛情の不足」が生じる原因は実は単純なことだからです。
 
次に紹介するのは、新聞の投書欄に載った意見です。なにも特別な意見ではなく、むしろありふれた意見の代表例です。
 
 
「息子の汚い言葉遣い直したい」
学校事務職員(静岡県藤枝市 41)
「やってねえし」「うるせえ」「消えろ」「きもい」「うぜえ」……。すべて小3の息子の言葉です。あまりの汚さに聞いていて気分が悪くなります。自宅では夫も私もこんな言葉は使わないし、テレビもほとんど見ていません。覚えてくるとすれば、学校です。これだけの影響を考えると、恐らく多くの子が同じような言葉を使っているのでしょう。その子たちはどうして使うようになったのでしょう。やはりテレビの芸能人の影響でしょうか。そして、ご両親はこれらの言葉遣いをどう思っているのでしょうか。
息子のように、幼い時からそういう言葉が当たり前のように飛び交う中にいると、何の嫌悪感も持たぬまま大人になってしまいかねません。今は注意すれば言い直すので、悪い言葉だとは思っているようで、それが救いです。根比べですが、しつこく直していこうと思います。(朝日新聞「声」6月21)
 
 
世間はこういう母親をどう見るのでしょうか。子どもをちゃんとしつけているよい母親ということになるのでしょうか。
少なくともこういう母親はけっこういると思われます。子どもに悪影響があるとしてテレビの“低俗番組”を批判する声がよく聞かれるのは、こうした母親が発しているのでしょう。
 
もしこの母親をきちんと子どもをしつけているよい母親だと思った人がいたら、自分の感覚を疑う必要があります。
 
この母親の問題点はまず、子どもの心がまったく見えていない点です。
これが他人であれば、うわべだけ見ていても仕方ないかもしれませんが、母親がそれでは困ります。
「うるせえ」「うぜえ」という言葉が発せられるときは、それなりの感情や思いがあるわけですから、それを受け止めるのが母親としての当然の反応です。たとえば、「どこがうるさいのよ」「あなたが何度もそんなことするからうるさく言うんでしょ」とか言い返せば、会話がつながっていきます。しかし、「そんな言葉を使ってはだめよ」と言えば、それでおしまいです。会話がかみ合ってないからです。
 
この母親は自分はきたない言葉は使っていないと思っていますし、それがよいことだと思っています。しかし、きたない言葉を使わないことは、うわべを飾っているだけで、偽善の可能性があります。いつも心がきれいなので、きたない言葉を使わないというのならいいのですが、いったいそんなおとながいるものでしょうか。
 
たとえば、小3の息子は「やってねえし」という言葉を使うそうですが、それは「あなたがやったんでしょう」と詰問されたときに使うのではないでしょうか。「あなたがやったんでしょう」という言葉を使うときの、息子を信じない心はきれいなのでしょうか。
 
結局のところ、この母親は「きもい」「うぜえ」と言われても当然の人ではないかと思うのですが、ただ、そうだという根拠はありません。
それでも確実に言えるのは、「きもい」「うぜえ」と言われたときに、それを受け止めないのはよくない母親だということです。
 
この投書が掲載されて何日か後に、これについての反論が掲載されました。その反論というのは、子どもがすることに無意味なことはない、きたない言葉を覚えることも必要だというものでした。
確かに人と喧嘩して相手を罵倒することもあるでしょう。そのときに罵倒する言葉を知らないというのでは困ります。
 
根比べですが、しつこく直していこうと思います」ということですが、根比べが悲惨な結果にならないことを祈るばかりです。
 
 
さて、私はこのような母親の態度に「愛情の不足」を見ます。そして、このような家庭のあることが世界的な「愛情の不足」の原因になっていると思うのです。
しかし、この母親は自分が愛情不足だとは感じていないでしょう。むしろ自分をよい母親だと思っているはずです。
なぜなら、子どもの「悪い」言葉遣いを直すのは「よい」ことだからです。
つまりここには「道徳的思考」があります。それが「愛情の不足」を覆い隠しているのです。
世の中にも、子どもの言葉遣いを直すのは母親のするべきことであり、それをするのは母親に愛情があるからだと考える人が少なくありません。
 
しかし、少し考えればわかるはずです。子どもが悪いほうに行ってしまうのを阻止しようとするのは、放っておくと子どもは悪いほうに行ってしまう可能性があると思っているからであり、そう思うのは子どもを信頼していないからです。
子どもが悪いほうに行くのではないかと監視する母親の目に愛情のあるわけがありません。
そんな目で見られては、子どもは愛情を感じることはできません。
 
子どもを愛して、信頼していれば、道徳は必要ありません。
子どもを愛してなくて、信頼していないとき、そういう自分を正当化するために道徳が持ち出されます。
また、政治家を批判するとき、道徳はとても役に立つアイテムです。職場のライバルのミスを追及するときにも、道徳は有効です。インターネットの掲示板でも、道徳はもっぱら人を批判する道具として使われています。
 
ですから、「愛情と道徳は反比例する」のです。
この法則を頭に入れておけば、家庭に愛情があるかないかが簡単に判定できます。愛情は目に見えませんが、道徳は言葉という形で目に見えます。
先の投書の家庭は、道徳ばかりの家庭でした。
 
そして、家庭にちゃんと愛情があるようになれば、世界の愛情不足もおのずと解消されていくはずです。
 

食事のマナーというのは、人に不快感を与えないのが基本ですから、音を立てて食べてはいけません。西洋料理で音を立ててスープをすするのはもっとも無作法ななことですし、日本料理でも吸い物を音を立ててすすったらいやがられます。
ところが、ざるそばに限っては、音を立ててすするのがマナーとされます。逆に音を立てずに食べると、そばの食べ方を知らないやつだとバカにされます。
音を立てて食べるのがマナーであるというのは、おそらく世界でも日本のざるそばぐらいしかないのではないでしょうか。
どうしてこんな奇妙なマナーが成立してしまったのかを考えてみましょう。
 
そばは小麦粉のように粘りがないので麺にしにくく、ずっと団子や粉の形で食べられてきました。小麦粉をつなぎにして麺の形にすることが広がったのは江戸時代になってからです。
以下は、ウィキペディアの「蕎麦」の項からの引用です。
 
 
蕎麦粉を麺の形態に加工する調理法は、16世紀末あるいは17世紀初頭に生まれたといわれる。古くは、同じく蕎麦粉を練った食品である蕎麦掻き(そばがき、蕎麦練りとも言う)と区別するため蕎麦切り(そばきり)と呼ばれた。現在は、省略して単に蕎麦と呼ぶことが多いが、「蕎麦切り」の呼称が残る地域も存在する。(中略)
17世紀中期以降、蕎麦切りは江戸を中心に急速に普及し、日常的な食物として定着した。
 
 
そばきりが普及しつつあったころの江戸は、全国から人が流入し、急速に発展していました。ですから、江戸っ子といってももとはみな田舎者なのですが、ほんの少しでも先に江戸に来ていた者はそれなりに江戸の文化を身につけ、あとから来た者を田舎者としてバカにしていました。田舎者をバカにするのは生存競争におけるひとつの手段でした。
 
江戸に来た田舎者は初めてそばきりに接し、その食べ方にとまどったでしょう。というのは、麺をすするというのは簡単にできることではないからです。
今の日本人は誰でも麺がすすれると思いますが、麺をすするというのはかなり日本的な文化で、外国人はほとんど麺をすすれません。外国人はカップ麺などもすすらずに食べていますし、イタリア人はスパゲッティをフォークで丸めて食べます。
ですから、当時の江戸で、そばきりをとまどいながら食べているのは田舎者ということになり、食べ慣れて、すすって食べているのは江戸っ子ということになります。つまり、そばきりの食べ方が江戸っ子度を判定するバロメーターになったわけです。
 
というわけで江戸っ子はそば通であることを自慢し、そばをすすれない田舎者の前で、これみよがしに音を立ててそばをすすって、「そばは音を立ててすすったほうがうまいのだ」などと田舎者に講釈を垂れたのでしょう。こうしてそばは音を立ててすするものだというマナーができたのだと思うのです。
つまりこのマナーは、互いに相手を田舎者として差別しようとする特殊な江戸文化の中で生まれたのです。
 
同じようなことは握り寿司にもあります。握り寿司はやはり江戸時代に江戸で発達した食べ物です。寿司通はすなわち江戸っ子ということになります。
とはいえ、江戸っ子は時間もないので手づかみで寿司を食べていました。これは普通はよいマナーとはいえません。しかし、江戸っ子は田舎者に対して、「寿司は手づかみで食べたほうがうまいのだ」などと講釈を垂れて、自分を正当化しました。こうして寿司は手で食べるものだというマナーができたのです。
私が若いころは、寿司屋で箸で寿司を食べるとバカにされるのではないかという雰囲気がまだありました。
 
 
というわけで、そばは音を立てて食べるものだという世界でも特殊なマナーは、発展期の江戸という特殊な条件の中で生まれたものだというのが私の考えです。
私は歴史の専門家ではないので、データを示して実証することができませんが、これが唯一合理的な説明だと思います。
 
最近は、音を立ててそばをすすると周りの人にいやがられるので、音を立ててそばをすする人がへってきたようです。これが本来の姿でしょう。
 
ちなみに西洋料理の厳格なテーブルマナーも、上流階級が下層階級を差別するためにつくったという意味がおおいにあるでしょう。

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