村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

カテゴリ: マナーのある不幸

前回の「走る子どもを怒る」というエントリーで、店内を走り回る子どもを怒鳴りつけた店員についてのニュースを取り上げましたが、またもや似たニュースがありました。どうやら子どもを迫害する傾向はどんどん強まっているようです。
  
電車内のベビーカー利用に賛否両論 啓発ポスター引き金
  列車でのベビーカー利用に理解を求める鉄道会社や東京都のポスターに、批判が寄せられている。車内で通路をふさぐなどと苦情があり、鉄道会社はマナー向上の呼びかけに力を入れている。
 「ベビーカーでの電車の乗り降りには注意が必要です。周りの方のお心づかいをお願いします」「車内ではストッパーをかけて」
 首都圏の鉄道24社と都は3月、利用者に呼びかけるポスター約5700枚をJR東日本や私鉄、地下鉄の駅に張り出した。少子化対策の一つで、担当者は「赤ちゃんを育てやすい環境をつくる」と話す。
 だが、利用者から「ベビーカーが通路をふさぐ」として、ポスターに対する疑問の声が都に寄せられた。都営地下鉄には「車内でベビーカーに足をぶつけられた」「ドアの脇を占領され、手すりを使えなかった」との声が相次いだ。
 JR東日本にも「ポスターがあるからベビーカー利用者が厚かましくなる」「ベビーカーを畳もうというポスターも作って」と意見が寄せられたという。ネットでは意見が1千件以上飛び交っている。
 ただ、ベビーカー利用者には事情がある。今月、JR新宿駅近くでベビーカーを押していた杉並区の主婦(38)は「子どもを病院に連れて行く時、電車に乗らざるを得ない。荷物と子どもを抱えてベビーカーを畳むのは無理」と話す。出産前は、通勤時にベビーカーを迷惑と思っていたが、考えが変わったという。
 JR東日本は列車内のベビーカー利用を認めてきた。かつて駅や車内でベビーカーを畳むよう呼びかけた私鉄9社や都営地下鉄は99年、母親の要望を受け、「周囲に迷惑をかけない」ことを条件に利用を認めるようになった。
 ポスター掲示を続ける小田急電鉄は、乗務員が車内を回る際、ベビーカー利用者に「通路をふさがないでください」と声かけをしている。「母親の育児ノイローゼを防ぐためにも外出は効果的」という都は、母親向けに「車内でもベビーカーから手を離さないで。暴走車になっちゃうよ」とマナー向上を呼びかけるチラシ約5万枚を保育所などで配っている。(藤森かもめ)
朝日新聞デジタル 20128261817
 
鉄道会社のポスターの狙いはあくまでベビーカー利用に対して一般客の理解を求めることであったわけですが、一般客は逆に、「ベビーカーが通路をふさぐ」など、ベビーカーの利用を非難する反応を示したというわけです。
 
ベビーカーというと、ノルウェーに行ったときのことを思い出します。
ノルウェーでは街のいたるところでベビーカーを見かけました。それも2人用、3人用も多く、4人用のべビーカーもあるのには驚きました。
ノルウェーは先進国にしてはかなり出生率の高い国です。1980年代までは低かったのですが、男女共同参画を進め、子育て支援策を充実させることで出生率が向上しました。
ただ、これは単に政策だけの問題とは思えません。子どもが普通にたいせつにされている感じがするのです。たとえば、ノルウェーにはスカンジナビア航空の飛行機で行ったのですが、客室乗務員が客に飲み物をサービスするとき、8、9歳の女の子がニコニコしながら横にいて、客にジュースを渡したりしているのです。女の子が手伝いをしたがったので、客室乗務員が好きにさせているということでしょう。これが日本なら、子どもに手伝いさせるとはけしからんといってクレームがつくに違いありません。
もちろんスカンジナビア航空でも、規則ではこういうことをさせてはいけないことになっているはずです。しかし、子どもがやりたがったら、おとなはそれを尊重するということが普通に行われているのでしょう。そして、その女の子は楽しい時間をすごし、人生経験を積むこともできたわけです。
ノルウェーには、電車の中のべビーカーに文句を言うような人はいないと思われます。
 
日本がノルウェーと違うのは、とくに都会の交通機関は混み合うことが多い点です。
おんぶやだっこという方法があるではないかという人もいるかもしれません。
しかし、ベビーカーを使いたい事情もあるでしょう(おんぶやだっこは重い)
 
どんな社会であっても、子育て中の親は周りのみんなでささえるものだと思います。そうでないとその社会は持続していきません。
そう考えると、電車内のベビーカーを非難する日本の社会のあり方はかなり異常です(外国ではしばしばベビーカー用のスペースが設けられた電車やバスを見かけます)
 
これもやはり「子ども差別」のひとつの表れというべきでしょう。
厳密には子どもではなく子ども連れの親が差別されているわけですが、根底にあるのは子どもをたいせつにしないことですから、「子ども差別」と言ってもいいでしょう。
 
これが「子ども差別」であることは、車椅子が電車に乗ってくることと比較するとよくわかるはずです。迷惑という点ではベビーカーも車椅子も変わらないでしょう(むしろ車椅子のほうがかさばります)。しかし、車椅子が電車に乗ってくるのは迷惑だと主張する人はまずいません。
 
とは言ったものの、最近は車椅子も迷惑だという声が多くなっているかもしれないと心配になり、検索してみましたが、そんなことはありませんでした。「Yahoo!知恵袋」で「ラッシュ時に車椅子で電車に乗る人ってどう思います?『遠慮』というのも考えていただきたい」という意見に対しては、圧倒的に否定的でした。
 
ベビーカーで電車にも乗りにくい社会では少子化が進むのも当然です。
 
このような子どもを迫害する傾向は最近急速に強まっている気がします。
その原因はなにかと考えたら、法務省の方針がかかわっているのではないかという気がしています。
日本は官僚主導の国で、マスコミもそれに追随していますから、法務省の方針は国民意識までも変えてしまいます。
 
2001年、少年法が厳罰化の方向へ改正されました。これはもちろん法務省の方針ですし、これに先立って、「少年犯罪が凶悪化している」という報道が盛んに行われました(統計的にはそうではなかったのですが)
そして、数日前の8月24日の朝日新聞朝刊の一面に「少年の有期刑引き上げ」と題する記事が掲載されました。
従来の少年法では、18歳未満の少年に対しては有期刑は最長15年とするなど、成年よりも量刑を軽くする規定がありましたが、法務省はそれをよりきびしくする方針を固めたということです。その理由としては、裁判員裁判を経験した市民から「少年事件で思ったような量刑が選択できない」といった不満が出ていたことが挙げられています。
 
少年法の厳罰化であれ死刑制度の存続であれ、つねに国民感情を持ち出すのが法務省のやり方です(財務省や厚生労働省も国民感情に合わせてほしいものですね)。そして、その国民感情を形成するために、明らかにマスコミは偏った報道をします。たとえば、少年法改正の前ごろから、殺人事件については必ず被害者遺族の感情が強調されるようになりました(加害者サイドのことはほとんど報道されないので、アンバランスです)
 
法務省が刑法改正に国民感情を持ち出すのは、それ以外に理由がないからです。つまりなぜ犯罪が起こるのか、どうすれば犯罪を防げるのか、犯罪者はどうすれば更生するのかといったことが法務省にはまったくわかっていません。
 
それは誰にもわからないのではないかと思われるかもしれませんが、そんなことはありません。ノルウェーの法務省はなぜ犯罪が起こるかわかっているのです。
これは「厳罰主義の果て」というエントリーで書いたことですが、ノルウェーの法務官僚は犯罪の原因として「幼年期の愛情不足。成長時の教育の不足。そして現在の貧困」を挙げたそうです。
「厳罰主義の果て」
 
ノルウェーの法務省と比べると、日本の法務省は明らかにバカです。このことをほとんど誰も指摘しないのは不思議です(もちろん日本の法務省だけでなく日本の法学界もバカなのですが)
 
ともかく、日本の法務省は明らかに少年をきびしい目で見ています。昔の日本人なら、「こんな若い者を罰するのは忍びない」とか「まだ若いんだから立ち直るだろう」といった感情があったものですが、今の法務官僚にはないようです。そして、それが日本全体に広がってきています。
これはつまり、おとなの劣化です。
決して子どもや若者の問題ではありません。
 
おとなが子どもや若者を迫害する社会に未来はありません。

人間は基本的に利己的な存在です。対等の関係だと争ったり妥協したり友好関係を築いたりしますが、強者と弱者の関係だと、強者が一方的に利己的にふるまうことになります。奴隷制度、植民地支配、人種差別、性差別などがそうです。
それに加えて、おとなが強者で子どもが弱者であることから生じた「子ども差別」もあります。しかし、「子ども差別」はほとんど認識されていません。これを認識するとしないとでは世の中の見方がまったく変わってきます。たとえば、「子ども差別」を認識しない人は、イジメの解決策を出すことができません。
ということで、今回は「子ども差別」を認識するためのレッスンです。
 
最近の新聞の投書欄にこんな意見が載っていました。
 
子どもの迷惑行為 謝れない親
会社員 (女性 氏名略)(東京都新宿区 46)
 
 母の入院先に毎週通っていた時のことだ。夕方、自宅へ帰るために駅へ向かいながら、帰宅時間を携帯で家に連絡していた。広い道幅にもかかわらず、前から走ってきて思い切りぶつかり、そのまま走り去ろうとした男の子がいた。謝りもしないで走り去ろうとしたその男の子に、私は「謝るぐらいして」と怒った。ところが、先を歩いていた父親が私の所まで戻ってきて、子どもに謝らせるどころか、「言い方が悪い」とくってかかった。母親も一緒にいたが、そんな父親に対し「放っておきなさい」と言うばかり。
 
 最近の親は、人に迷惑をかけたら、きちんと子どもに謝らせ、今後注意するように言い聞かせることすらできないのだろうか。私が年寄りで、ぶつかられたはずみで転倒し、骨折でもしていたらどうしていたのか。
 
 スーパーなどでも同じで、子どもが走り回っていても知らん顔の親たち。電車の中で子どもが大声を出していても、意に介さず自分たちの会話を続ける夫婦。他者への配慮などひとかけらも感じられない。大げさなようだが、日本人のよさは本当に失われているのではないか、と感じることの多い日々だ。
朝日新聞デジタル記事2012822
 
この人は子どもを一方的に非難していますが、この認識にかなり問題がありそうです。というのは、自分も道を歩きながら携帯電話を使っていたからです。2人がぶつかったのは、双方に不注意があったからでしょう。
この人は「夕方、自宅へ帰るために駅へ向かいながら、帰宅時間を携帯で家に連絡していた」と書いています。つまり、携帯を使う必要性を言うことで自分の正しさをアピールしたのでしょう。しかし、そんなことは他人にはどうでもいいことです。他人から見れば、ただ道を歩きながら携帯で話しているおばさんがいるだけです。
ちなみにぶつかった男の子にしても、道の前のほうに両親がいて、走って追いつく必要性があったわけです。
 
この人が「謝ることぐらいして」と怒ったのは、いつも子どもにはそのようにふるまっているのでしょう。しかし、今回は両親が後ろにいたので、父親に「言い方が悪い」とくってかかられてしまいました。果たしてどんな言葉の調子で「謝ることぐらいして」と言ったのかわからないので、この父親の態度が正しいのかどうか判断できませんが、文句をつけるのもおとなげないでしょう。母親の「放っておきなさい」という態度が妥当なところではないかと思われます。
 
この人は、父親から文句を言われて引き下がり、やり場のない不満をかかえてしまったので、この投書をしたのでしょう。普通なら子どもに怒りをぶつけて、すっきりしていたはずです。
 
よく飲食店などでミスをした店員に向かって「謝れ」と怒っている人がいますが、こういう人は、誰が見てもいい気はしないものです。この人の態度も同じでしょう。
 
ただ、この場合は子どもが相手です。子どもに向かって「謝れ」という場合は、子どもに謝ることを教えるという、教育やしつけのためという名目があります。そのためこの人の態度は正しいと考える人もいるでしょう。
しかし、謝ることはたいせつですが、人に向かって「謝れ」ということはまったく別です。子どもに「謝れ」というと、子どもはその態度を学んで、人に対して「謝れ」という人間になってしまう可能性があります。
この人は子どもに謝ることを教えたいなら、ぶつかったときに子どもに対して「ごめんね」と言えばよかったのです。そうすれば子どもは人にぶつかったときは謝るものだと学んだでしょう。
 
そもそもは「広い道幅」のところで子どもは走っていたのです。ぶつかったのは不注意ですが、それはお互いさまですし、子どもがおとなのように注意深くないのは当たり前のことです。子どもは走ってぶつかったり転んだりしながら運動能力を伸ばしていきます。
 
ただ、この投書にもあるように、子どもがスーパーの中を走り回ったり、電車の中で大声を出すのはどうなのでしょうか。
これについてはたまたま、店内を走り回る子どもを店員が怒鳴りつけたということに関するニュースがありました。
 
 
店内で走る子供を怒鳴る店員は失格だ! 「無印良品」批判ブログが大炎上
 
    広報アドバイザーを名乗る人物がブログで、店員が店内を走る子供を怒鳴る場面に出くわした、と書いた。これは接客業としてやってはいけない行為だから、この店員にもう一度基礎から研修させるべき、としたところ「迷惑行為の子供を叱って何が悪い!」などと批判が殺到しブログが「大炎上」した。
 
   また、「販売員ならだれでもなれる」という職業蔑視とも取れる表記があったため、火に油を注ぐ形になった。
 
「この店員を野放しにすするなら買い物はしない」
 
   筆者のプロフィールには、繊維業界の川上から川下まで担当する業界紙記者などを経て、現在はライターのほか、広報代行業、広報アドバイザーを請け負っていると書かれている。
 
   炎上したのは2012822日にアップされた「一体店員にどんな指導をしているの?」というタイトルのブログ。大阪にある「無印良品」の名前が実名で記されていた。
 
   内容は、店内で「走るな!」という男性の威圧する声が聞こえたため、声のする方向に目をやると、小学校低学年の男の子二人を睨みつける20代後半~30代前半くらいの男性がいたのだという。初めは父親か親戚のオジサンかと思っていたが、それが店員であることがわかって驚いた、という。いくら目に余る様子だからといって、店員が怒鳴るのはおかしいし、今回の場合はそれほど子供が騒いでいない。
 
「この店員がたまたまイラついていただけかもしれないが、これは接客業としては失格である。良品計画はもう一度この店員に基礎から研修を受け直させるべきだろう」
 
と書いた。
 
   さらに、日本では販売員は下に見られがちな職種であり、応募する側も「販売員ならだれでもなれる」。店側も品出しとレジ打ち、おたたみくらいを覚えてくれればいいという軽い気持ちがあるため、このような店員をたまに見ることがある。そしてこの店員を野放しにしておくのなら、この無印良品で買い物をすることは今後ないだろうと締めくくった。
 
「むしろ素晴らしい店員だ」と反論多数
 
   すると、このブログに書かれていることが許せないとネットで騒動になり、筆者のブログと「ツイッター」に批判が殺到「大炎上」することになった。このブログはポータルサイト「ライブドア」にも配信されていて、ここではコメントが23日の夕方までに1800を超えた。
 
「あんたが書かなきゃいけないことは、店内で子供が走り回っているのに注意しない親の方だろ」
 「うるさいガキ、それを野放しにする親、なにもしない店員に、客はうんざりしているのですよ」
 「走りまわっている時点で迷惑な客。子供は注意していることを理解させなければ反省しない。威圧した声で注意するのは当然。むしろよく教育されたすばらしい店員」
 
などというコメントが並んだ。
 
    筆者は今回のブログへの批判の多さに驚いたのか、
 
「今回のブログで多くの方々に誤解を与えたことはお詫び申し上げます」
 
などと23日の昼過ぎに謝罪文を掲載した。ただし、販売接客業は「怒鳴りつける」という手段を採ることは原則ない、などと付け加えた。
 
   ブログは一部が書き換えられ、本文から「無印良品」の名前を消した。そして、23日夕までにこのブログは削除されてしまったのか、現在はアクセスできなくなっている。
 
 
この広報アドバイザーを名乗る人物も少しおかしなことを書いていますが、店内を走り回る子どもを怒鳴りつけた店員を批判したのは当たり前のことだと私は思います。
もっとも、この人物は接客業の店員としてあるべき態度という観点から批判しているのですが、私は子どもが店内を走り回るのは当たり前のことだということから、子どもを怒鳴りつけた店員を批判しているので、その点は違いますが。
 
子どもは、ここは走ってよい場所だとか走ってはいけない場所だとかの判断はできませんから、店内であろうと走るのは当たり前のことです。ほかの客に迷惑になるとか、たいせつな商品が壊されるかもしれないとかいうことなら、子どもに対して「ここでは走らないでくれるかな」とか「向こうに行って遊ぼうか」などとやさしく言えばいいのです。当然のことですが、怒鳴りつければ子どもが傷つきます。
 
子どもが走るのを怒鳴りつけていいのなら、年寄りがのろのろ歩いていたり、レジでもたもたしているのも怒鳴りつけていいのでしょうか。子どもが走るのも年寄りがのろのろ歩くのも、どちらも自然な姿です。
 
もっとも、年寄りの動作が遅いといって怒鳴りつける人はまずいません。それは、年寄りは必ずしも弱者とは限らず、社会的に力のある人物であるかもしれないからです。
しかし、子どもは絶対的に弱者ですから、近くに親がいない限り遠慮なく怒鳴りつけられるので、そういう社会的習慣ができてしまったのです。
 
それにしても、この広報アドバイザーのブログが炎上したということは、子どもを怒鳴りつけるのは当然だと思っている人が多数いるということでしょう。
これがまさに「子ども差別」社会です。
子どもが走り回るのがいけないというのは、自己中心的なおとなの考えです。こういう考えのおとなは自分の子どもに対しても、「うるさい」とか「走るな」とか「ちゃんとしろ」とかしょっちゅう怒鳴っているに違いありません。
そして、子どものときにそうして怒鳴られて育ってきたおとなは、自分の子どもに対しても同じように怒鳴り、ときにこの広報アドバイザーのブログを炎上させたりするというわけです。
 
子どもがうるさいといって怒鳴る人は、赤ん坊が夜泣きしたときも怒鳴るでしょうし、それで泣き止まないと殴るかもしれません。「子ども差別」社会では幼児虐待が当たり前のように起きます。
 
「子ども差別」に気づくと、「怒りや暴力」を克服する道が見えてきます。もちろんその先にあるのは「愛と平和」というわけです。

今の世の中における最大の問題はなにかと問われたら、私は迷わず「愛情の不足」と答えます。というのは、たいていの問題は「愛情の不足」から生じているからです。幼児虐待はもちろん、戦争やテロも「愛情の不足」から起きるのですし、格差社会にしても、富裕層や中間層に貧困層に対する愛情が不足しているからといえます。
 
そうはいっても、愛情というのは目に見えませんし、計測も不可能ですから、「愛情の不足」が問題だといっても、どうしようもないと思われるかもしれません。しかし、そうとは限りません。「愛情の不足」が生じる原因は実は単純なことだからです。
 
次に紹介するのは、新聞の投書欄に載った意見です。なにも特別な意見ではなく、むしろありふれた意見の代表例です。
 
 
「息子の汚い言葉遣い直したい」
学校事務職員(静岡県藤枝市 41)
「やってねえし」「うるせえ」「消えろ」「きもい」「うぜえ」……。すべて小3の息子の言葉です。あまりの汚さに聞いていて気分が悪くなります。自宅では夫も私もこんな言葉は使わないし、テレビもほとんど見ていません。覚えてくるとすれば、学校です。これだけの影響を考えると、恐らく多くの子が同じような言葉を使っているのでしょう。その子たちはどうして使うようになったのでしょう。やはりテレビの芸能人の影響でしょうか。そして、ご両親はこれらの言葉遣いをどう思っているのでしょうか。
息子のように、幼い時からそういう言葉が当たり前のように飛び交う中にいると、何の嫌悪感も持たぬまま大人になってしまいかねません。今は注意すれば言い直すので、悪い言葉だとは思っているようで、それが救いです。根比べですが、しつこく直していこうと思います。(朝日新聞「声」6月21)
 
 
世間はこういう母親をどう見るのでしょうか。子どもをちゃんとしつけているよい母親ということになるのでしょうか。
少なくともこういう母親はけっこういると思われます。子どもに悪影響があるとしてテレビの“低俗番組”を批判する声がよく聞かれるのは、こうした母親が発しているのでしょう。
 
もしこの母親をきちんと子どもをしつけているよい母親だと思った人がいたら、自分の感覚を疑う必要があります。
 
この母親の問題点はまず、子どもの心がまったく見えていない点です。
これが他人であれば、うわべだけ見ていても仕方ないかもしれませんが、母親がそれでは困ります。
「うるせえ」「うぜえ」という言葉が発せられるときは、それなりの感情や思いがあるわけですから、それを受け止めるのが母親としての当然の反応です。たとえば、「どこがうるさいのよ」「あなたが何度もそんなことするからうるさく言うんでしょ」とか言い返せば、会話がつながっていきます。しかし、「そんな言葉を使ってはだめよ」と言えば、それでおしまいです。会話がかみ合ってないからです。
 
この母親は自分はきたない言葉は使っていないと思っていますし、それがよいことだと思っています。しかし、きたない言葉を使わないことは、うわべを飾っているだけで、偽善の可能性があります。いつも心がきれいなので、きたない言葉を使わないというのならいいのですが、いったいそんなおとながいるものでしょうか。
 
たとえば、小3の息子は「やってねえし」という言葉を使うそうですが、それは「あなたがやったんでしょう」と詰問されたときに使うのではないでしょうか。「あなたがやったんでしょう」という言葉を使うときの、息子を信じない心はきれいなのでしょうか。
 
結局のところ、この母親は「きもい」「うぜえ」と言われても当然の人ではないかと思うのですが、ただ、そうだという根拠はありません。
それでも確実に言えるのは、「きもい」「うぜえ」と言われたときに、それを受け止めないのはよくない母親だということです。
 
この投書が掲載されて何日か後に、これについての反論が掲載されました。その反論というのは、子どもがすることに無意味なことはない、きたない言葉を覚えることも必要だというものでした。
確かに人と喧嘩して相手を罵倒することもあるでしょう。そのときに罵倒する言葉を知らないというのでは困ります。
 
根比べですが、しつこく直していこうと思います」ということですが、根比べが悲惨な結果にならないことを祈るばかりです。
 
 
さて、私はこのような母親の態度に「愛情の不足」を見ます。そして、このような家庭のあることが世界的な「愛情の不足」の原因になっていると思うのです。
しかし、この母親は自分が愛情不足だとは感じていないでしょう。むしろ自分をよい母親だと思っているはずです。
なぜなら、子どもの「悪い」言葉遣いを直すのは「よい」ことだからです。
つまりここには「道徳的思考」があります。それが「愛情の不足」を覆い隠しているのです。
世の中にも、子どもの言葉遣いを直すのは母親のするべきことであり、それをするのは母親に愛情があるからだと考える人が少なくありません。
 
しかし、少し考えればわかるはずです。子どもが悪いほうに行ってしまうのを阻止しようとするのは、放っておくと子どもは悪いほうに行ってしまう可能性があると思っているからであり、そう思うのは子どもを信頼していないからです。
子どもが悪いほうに行くのではないかと監視する母親の目に愛情のあるわけがありません。
そんな目で見られては、子どもは愛情を感じることはできません。
 
子どもを愛して、信頼していれば、道徳は必要ありません。
子どもを愛してなくて、信頼していないとき、そういう自分を正当化するために道徳が持ち出されます。
また、政治家を批判するとき、道徳はとても役に立つアイテムです。職場のライバルのミスを追及するときにも、道徳は有効です。インターネットの掲示板でも、道徳はもっぱら人を批判する道具として使われています。
 
ですから、「愛情と道徳は反比例する」のです。
この法則を頭に入れておけば、家庭に愛情があるかないかが簡単に判定できます。愛情は目に見えませんが、道徳は言葉という形で目に見えます。
先の投書の家庭は、道徳ばかりの家庭でした。
 
そして、家庭にちゃんと愛情があるようになれば、世界の愛情不足もおのずと解消されていくはずです。
 

食事のマナーというのは、人に不快感を与えないのが基本ですから、音を立てて食べてはいけません。西洋料理で音を立ててスープをすするのはもっとも無作法ななことですし、日本料理でも吸い物を音を立ててすすったらいやがられます。
ところが、ざるそばに限っては、音を立ててすするのがマナーとされます。逆に音を立てずに食べると、そばの食べ方を知らないやつだとバカにされます。
音を立てて食べるのがマナーであるというのは、おそらく世界でも日本のざるそばぐらいしかないのではないでしょうか。
どうしてこんな奇妙なマナーが成立してしまったのかを考えてみましょう。
 
そばは小麦粉のように粘りがないので麺にしにくく、ずっと団子や粉の形で食べられてきました。小麦粉をつなぎにして麺の形にすることが広がったのは江戸時代になってからです。
以下は、ウィキペディアの「蕎麦」の項からの引用です。
 
 
蕎麦粉を麺の形態に加工する調理法は、16世紀末あるいは17世紀初頭に生まれたといわれる。古くは、同じく蕎麦粉を練った食品である蕎麦掻き(そばがき、蕎麦練りとも言う)と区別するため蕎麦切り(そばきり)と呼ばれた。現在は、省略して単に蕎麦と呼ぶことが多いが、「蕎麦切り」の呼称が残る地域も存在する。(中略)
17世紀中期以降、蕎麦切りは江戸を中心に急速に普及し、日常的な食物として定着した。
 
 
そばきりが普及しつつあったころの江戸は、全国から人が流入し、急速に発展していました。ですから、江戸っ子といってももとはみな田舎者なのですが、ほんの少しでも先に江戸に来ていた者はそれなりに江戸の文化を身につけ、あとから来た者を田舎者としてバカにしていました。田舎者をバカにするのは生存競争におけるひとつの手段でした。
 
江戸に来た田舎者は初めてそばきりに接し、その食べ方にとまどったでしょう。というのは、麺をすするというのは簡単にできることではないからです。
今の日本人は誰でも麺がすすれると思いますが、麺をすするというのはかなり日本的な文化で、外国人はほとんど麺をすすれません。外国人はカップ麺などもすすらずに食べていますし、イタリア人はスパゲッティをフォークで丸めて食べます。
ですから、当時の江戸で、そばきりをとまどいながら食べているのは田舎者ということになり、食べ慣れて、すすって食べているのは江戸っ子ということになります。つまり、そばきりの食べ方が江戸っ子度を判定するバロメーターになったわけです。
 
というわけで江戸っ子はそば通であることを自慢し、そばをすすれない田舎者の前で、これみよがしに音を立ててそばをすすって、「そばは音を立ててすすったほうがうまいのだ」などと田舎者に講釈を垂れたのでしょう。こうしてそばは音を立ててすするものだというマナーができたのだと思うのです。
つまりこのマナーは、互いに相手を田舎者として差別しようとする特殊な江戸文化の中で生まれたのです。
 
同じようなことは握り寿司にもあります。握り寿司はやはり江戸時代に江戸で発達した食べ物です。寿司通はすなわち江戸っ子ということになります。
とはいえ、江戸っ子は時間もないので手づかみで寿司を食べていました。これは普通はよいマナーとはいえません。しかし、江戸っ子は田舎者に対して、「寿司は手づかみで食べたほうがうまいのだ」などと講釈を垂れて、自分を正当化しました。こうして寿司は手で食べるものだというマナーができたのです。
私が若いころは、寿司屋で箸で寿司を食べるとバカにされるのではないかという雰囲気がまだありました。
 
 
というわけで、そばは音を立てて食べるものだという世界でも特殊なマナーは、発展期の江戸という特殊な条件の中で生まれたものだというのが私の考えです。
私は歴史の専門家ではないので、データを示して実証することができませんが、これが唯一合理的な説明だと思います。
 
最近は、音を立ててそばをすすると周りの人にいやがられるので、音を立ててそばをすする人がへってきたようです。これが本来の姿でしょう。
 
ちなみに西洋料理の厳格なテーブルマナーも、上流階級が下層階級を差別するためにつくったという意味がおおいにあるでしょう。

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