
いじめ防止対策推進法が2013年に成立したのに、学校でのいじめは少しも解決せず、自殺につながるような深刻ないじめもあとをたちません。
それも当然で、いじめ防止法は学校のいじめ防止体制の整備やいじめが起きたときの対処法を主に規定するもので、いじめの発生を防止する規定はほとんどありません。
あえて探すと、次のようなことだけです。
第四条 児童等は、いじめを行ってはならない。※第九条 保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、その保護する児童等がいじめを行うことのないよう、当該児童等に対し、規範意識を養うための指導その他の必要な指導を行うよう努めるものとする。※第十五条 学校の設置者及びその設置する学校は、児童等の豊かな情操と道徳心を培い、心の通う対人交流の能力の素地を養うことがいじめの防止に資することを踏まえ、全ての教育活動を通じた道徳教育及び体験活動等の充実を図らなければならない。
文科省のホームページにある「いじめ防止対策推進法(概要)」も、学校のするべき基本的施策は「道徳教育等の充実」であるとしています。
道徳教育の好きな自民党らしい法律です。
しかし、道徳教育でいじめがなくなるわけがありません。
道徳で社会がよくなったり、道徳教育でよい人間がつくれたりするなら、とっくに理想社会が実現しています。
道徳を当てにする法律をつくったのが失敗でした。
そのため、いじめをする子どもを厳罰にしろという声が高まっています。
罰を抑止力にしていじめをなくそうというわけです。
これは刑法の基本的な思想でもあります。
しかし、一般社会でも厳罰化で犯罪はなくならないのですから、学校でも厳罰化でいじめはなくならないでしょう。
それに、こうしたやり方は、監視の目がないと悪いことをする人間をつくりそうです。
さらにいうと、いじめている子どもはたいてい自分はいじめをしているという自覚がありません。相手をからかっているだけ、いじっているだけ、いっしょに遊んでいるだけといった認識です(いじめられている子もたいていはっきりと「いや」という意志表示をしないものです)。
ですから、「いじめはよくない」とか「いじめた者は罰する」と言ってもあまり効果がないのです。
「いじめている側はいじめとは思っていない」ということがよくわかるニュースがありました。
“背の順”の整列に異議 小学校教員・松尾英明さんが訴え「いじめのひとつと考えてもいいんじゃないか」小学校で当たり前のように行われている“背の順”による整列。背の順に異議を唱える声が上がり、波紋を広げている。公立小学校教員・松尾英明氏は「背の低い順に並ばせるのは差別である」と自らの著書で訴えている。さらに「子どもたち同士の中でも背の高い、低いというのは気にするようになるんです。コンプレックスを抱くということがありますので傷つく人がいるということを考えると、これはいじめのひとつと考えてもいいんじゃないかと思っています」と主張している。“背の順”について、並ぶことが嫌とか思ったことあるか聞かれた街の子どもは「(男児)あまりない」「(女児)ない~」と答え、親は「考えたこともなかったです。すごく現代ならではだなと思いました」と気にしない意見が上がった一方、「背の順はイヤ。前の方もイヤです。目立ったりするし、(後ろでも)横から見ればいける。バラバラでもいいと思う」といった反対の声も上がっている。松尾さんは、背の順ではなく名簿順を勧めていて「名簿順であれば序列意識がなくなり、成長によって起きる“順序の変動”といった混乱も避けることができる」と指摘している。また、声をあげた理由について「全体の数%の子たちがすごく嫌な思いをしている。その声が全体の中の少数派であったとしても、少数派の人たちに目を向けるということ自体がものすごく大事なことだと思うので、私はすごく意味があることだと思っています」と心境を明かしている。(『ABEMAヒルズ』より)https://news.yahoo.co.jp/articles/03a789e2c45a296eb91677997e6df5b183aee259
私も“背の順”による整列は当たり前と思っていたので、この記事には意表をつかれました。
私自身は背の高いほうだったので、小学校、中学校で校庭に整列するときはかなり後ろでした。そのときは背が高くてよかったと思いましたし、いつも前のほうにいる子はいやだろうなとも思いました。
男の子の世界では、背が高いことは価値があります。背が低いと、それだけで体力的に不利ですし、しばしば「チビ」と言われてバカにされます(「チビ」と呼ぶのはいじめであるとして、最近はないかもしれません)。
背の順に整列すると、背の低い子はそのことが誰の目にも歴然となります。当然いやに違いありません。
これは、体重の順に整列することを考えてみればわかるでしょう。あるいはテストの点数順の整列とかでも同じです。
もっとも、この記事についてのヤフコメを見ると、「背の順の整列は前を見やすくするための合理的なものなのでいじめではない」という意見が圧倒的です。
しかし、私自身の体験を振り返ってみると、小学校と中学校では校庭で背の順に整列していましたが、高校では整列ということをしたことがありません。朝礼というものがなかったし、全校集会とかなにかのイベントのときは整列せずに雑然と集まっていました。それでなんの問題もありませんでした。
校庭に整列するというのは軍国教育の名残です。整列する経験が役立つのは自衛隊か警察などに就職した場合だけで、一般社会では無意味です。
ですから、校庭や体育館に集合したとき、整列せずに雑然と集まっていればいいのです。そうすれば背の低さも気になりません。
なお、運動会で全員にかけっこをさせるのも、足の遅い子にとっては屈辱以外のなにものでもありません。こういうことをさせると自己肯定感が低くなり、競争嫌いの子どもになりかねません。競争は自分の得意な分野でするべきです。
背の順の整列にせよかけっこにせよ、させるほうは認識していませんが、一部の子どもにとってはいじめそのものです。
もっとも、いじめ防止法では、こうしたケースはいじめとは見なされません。いじめの定義が「児童生徒が他の児童生徒に行う行為」となっているからです。
教師や親が子どもをいじめても、いじめにはならないのです。
これもいじめ防止法の欠陥です。
社会にもいじめはありますが、それほど多くはありません。しかし、学校におけるいじめは圧倒的に多くあります(社会におけるいじめの数の統計はないので、比較できませんが)。
これは学校をつくってきた文科省や教育委員会や教師に責任があり、さらには親にも責任があります。
道徳教育も厳罰化もいじめ防止には役立ちません。
では、どうすればいいかというと、私の知る範囲ではシュタイナー教育の考え方がいいと思います。
日本におけるルドルフ・シュタイナー思想研究の第一人者である高橋巌の著書『シュタイナー教育の方法』から引用します。
私自身は背の高いほうだったので、小学校、中学校で校庭に整列するときはかなり後ろでした。そのときは背が高くてよかったと思いましたし、いつも前のほうにいる子はいやだろうなとも思いました。
男の子の世界では、背が高いことは価値があります。背が低いと、それだけで体力的に不利ですし、しばしば「チビ」と言われてバカにされます(「チビ」と呼ぶのはいじめであるとして、最近はないかもしれません)。
背の順に整列すると、背の低い子はそのことが誰の目にも歴然となります。当然いやに違いありません。
これは、体重の順に整列することを考えてみればわかるでしょう。あるいはテストの点数順の整列とかでも同じです。
もっとも、この記事についてのヤフコメを見ると、「背の順の整列は前を見やすくするための合理的なものなのでいじめではない」という意見が圧倒的です。
しかし、私自身の体験を振り返ってみると、小学校と中学校では校庭で背の順に整列していましたが、高校では整列ということをしたことがありません。朝礼というものがなかったし、全校集会とかなにかのイベントのときは整列せずに雑然と集まっていました。それでなんの問題もありませんでした。
校庭に整列するというのは軍国教育の名残です。整列する経験が役立つのは自衛隊か警察などに就職した場合だけで、一般社会では無意味です。
ですから、校庭や体育館に集合したとき、整列せずに雑然と集まっていればいいのです。そうすれば背の低さも気になりません。
なお、運動会で全員にかけっこをさせるのも、足の遅い子にとっては屈辱以外のなにものでもありません。こういうことをさせると自己肯定感が低くなり、競争嫌いの子どもになりかねません。競争は自分の得意な分野でするべきです。
背の順の整列にせよかけっこにせよ、させるほうは認識していませんが、一部の子どもにとってはいじめそのものです。
もっとも、いじめ防止法では、こうしたケースはいじめとは見なされません。いじめの定義が「児童生徒が他の児童生徒に行う行為」となっているからです。
教師や親が子どもをいじめても、いじめにはならないのです。
これもいじめ防止法の欠陥です。
社会にもいじめはありますが、それほど多くはありません。しかし、学校におけるいじめは圧倒的に多くあります(社会におけるいじめの数の統計はないので、比較できませんが)。
これは学校をつくってきた文科省や教育委員会や教師に責任があり、さらには親にも責任があります。
道徳教育も厳罰化もいじめ防止には役立ちません。
では、どうすればいいかというと、私の知る範囲ではシュタイナー教育の考え方がいいと思います。
日本におけるルドルフ・シュタイナー思想研究の第一人者である高橋巌の著書『シュタイナー教育の方法』から引用します。
そこで、そういう子どもの「いじめ」が中学一年生のクラスに起こった時に、現在の時点でどういう態度をとることができるかと言うと、先生はその暴力を引き起こしている子ども、いじめられっ子ではなく、いじめっ子の方とできるだけ親しくなる、ということが必要です。
まず先生は、暴力を引き起こしている「いじめっ子をかばう」という姿勢をとる必要があります。いじめっ子をかばうということは、いじめっ子がいちばんかわいそうな存在だからです。人をいじめるということでしか自分を表現できないのですから、どんなにその子の内面は苦しんでいるかわかりません。ですからまず先生はその子と仲好しになって、その子どもとだけでいろんな約束をするのです。たとえば「君はきっと今度の秋の運動会では百メートル競走の代表選手になるはずだから、一緒に今から練習してくれないか」とか、あるいは「このクラスのこの子はとてもからだが悪いので、君、ぜひ面倒をみてくれ」とか、「先生の代わりに、今入院している誰それのお見舞いに行ってくれ。その時に悪いけどこのお金でお花を買ってくれ」とか、そういうような形でその子どもと個人的に関っていく、というところから始めるのです。その子どもが他の子どもをいじめる必要がなくなるところまで面倒をみるということが第一です。
それから第二に、もちろんいじめられる子どもに対しても、同じようにできるだけ細かく配慮して、そしてその子がどうしていじめられるのか、そのいじめられる原因を見つけ出して、それを皆にわからない仕方で、解消するように配慮するのです。そういう筋道を先生が辿って行かないかぎり、問題は解決できません。
いじめっ子にいじめをやめさせる方法としては、これが王道であると思えます。
高橋は、先生は親のような立場に立てと説いています。
たとえば、子どもが犯罪を起こして親が警察に行ったときは、親は「自分の責任だ」と感じて、警察の側ではなく子どもの側に立つはずです。
「そういう形で子どもの側に立てれば、まともな先生なのです。ところが、裁判官であったり警察官であったりする態度をとって何とも思わない先生でしたら、それは教師でも何でもない、ということになります」と高橋は書いています。
今の世の中は、教師だけではなく親も警察官や裁判官の立場に立っている感があります。
シュタイナーの思想は神智学といい、神秘思想でもあり、かなり宗教的なものです。
宗教といってもいろいろありますが、深い宗教思想は善悪を超越します。
親鸞の「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」というのもそうです。
キリストの「汝の敵を愛せよ」というのもそうでしょう。
一般には「いじめっ子は悪、いじめられっ子は善」と考えられていますが、ひとつのクラスに善と悪があるのもおかしなことです。
善悪を超越した目を持つことがたいせつです。
シュタイナーの思想は「宗教的寛容」と名づけることができるかもしれません。
いじめは進化倫理学の立場から考察することもできます。
生物としての人間に基づいて倫理を考えるのが進化倫理学です。
哺乳類の場合、子どもは親に守られ、親に世話をされて、つまり親の愛情を受けて育ちます。
しかし、人間の場合、親は高度に文明化していますが、赤ん坊は原始時代と変わらない状態で生まれてくるので、親と子のあり方が大きく乖離しています。親は子どもの気持ちが理解しにくく、「なぜこんなことがわからないのか」といった理不尽な感情を抱きがちです。また、文明化された生活様式の中で子どもは物を壊したり汚したりするので、それも親にはがまんできません。そうしたことが親の愛情不足につながり、さらには虐待につながります。
また、文明社会に適応するには多くのことを学習しなければならないので、学校では子どもの好奇心や学習意欲以上のことを教えます。空腹になればおいしく食べられるのに、その前にむりやり食べさせるみたいなことをしているのです。
文明が発達すればするほど親と子が乖離し、学校での子どもの負担が増えます。こうしたストレスがいじめにつながっているのです。
ですから、いじめをなくすには家庭と学校のあり方から見直していかなければなりません。
いじめ防止法にはこうした発想がまったくなく、そのため効果がないのです。
いじめ対策としては、道徳教育も厳罰化もうまくいきません。これらはおとな本位の発想だからです。
宗教的寛容や進化倫理学によって、子どもの立場から考えることが必要です。