村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

カテゴリ: 大津市イジメ事件

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いじめ防止対策推進法が施行されて9月28日で10周年となりました。
法律をつくった効果はあったのでしょうか。

2021年度の小中高におけるいじめの認知件数は61万5351件と過去最多となりました。
認知件数は、学校が隠蔽をやめてまじめに報告しても増えますが、自殺などの「重大事態」も705件と前回調査から37%増えています。
いじめ防止法の効果はほとんどなかったといえるでしょう。

いじめは複雑な問題です。
法律をつくったらいじめが解決した――なんていううまい話があるわけありません。

いじめ防止法で唯一評価できるのは、いじめの定義がされたことです。
「他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為」により「対象生徒が心身の苦痛を感じているもの」がいじめであるとされました。
つまりいじめ被害者の「苦痛を感じている」という主観でよくなったのです。
いじめる側の「これはいじめじゃなくてイジリだ」というような言い分は通用しなくなりました。

しかし、マイナスの面もあります。
いじめを児童生徒と児童生徒の間に起こることと狭く定義したのです。
つまり教師の行為は不問とされたのです。
実際は、教師が生徒に体罰をしたり暴言を吐いたりということが行われています。この行為はいじめと同じか、いじめよりも深刻です。教師の体罰・暴言を受けた生徒がストレス発散のためにほかの生徒をいじめるということもありえます。
教える力や指導力のない教師が、思い通りにならない生徒にいら立ちをぶつけてクラスの空気が悪くなり、それがいじめを生むということもありえます。

親から虐待されている生徒もいます。
いつも親から殴られている生徒がほかの生徒を殴るということもあるでしょう。
親から虐待されているために自己評価が低く、そのためほかの生徒からいじめられるということもあるでしょう。

つまりいじめというのは、学校や家庭のあり方が影響し、さらには社会のあり方も影響しますから、きわめて複雑なのです。
それをいじめ防止法は、生徒間の問題に限定してしまったわけで、これではいじめの原因も把握できないし、いじめ防止の方法もわかりません。
いじめ防止法ができてもいじめがへらないのは当然です。

どうしてこういう無意味な法律ができたのでしょうか。
それは、法律が制定された当時、社会がいじめに関して異常な心理状態にあったからです。


2011年10月、大津市で中学2年生の男子生徒が自宅マンションから飛び降り自殺をするという事件がありました。
学校は自殺原因究明のために全校生徒を対象にアンケートを行い、その中に「自殺の練習をさせられていた」という記述があったことがマスコミに報じられると、世の中は騒然としました。
「自殺の練習をさせられていた」というのは確かにショッキングです。そんないじめをされたら、自殺の原因になってもおかしくありません。

私はこのことをブログで取り上げよう思って、いくつかのニュースを詳しく読んでみました。すると、「自殺の練習をさせられていた」というのはあくまで無記名のアンケートに書かれていただけで、具体的な証言も証拠もありませんでした。
私はこんな不確実なことを書くわけにはいかないと思って、ブログで取り上げるのは見合わせました。
ところが、それからもどんどん報道は加熱して、いつの間にか「自殺の練習」はあったことにされ、いじめ加害者とされる中学生はネットで名前をさらされ、猛烈なバッシングを受けました。

私は「自殺の練習」を疑っていたこともあって、事態を冷静に眺めることができました。
そうすると、男子中学生の自殺の主な原因は、父親による虐待だったのではないかと思えました。

自殺した生徒は「家族にきびしく叱られる」などと担任に何度か相談していました。当時、母親は家を出て、生徒は父親と暮らしていました。ですから、担任は生徒の自殺の原因は父親との関係だろうと判断し、そのことは学校や教育委員会にも伝えられていました。
しかし、父親は自分が自殺の原因だとは思いたくないので、同級生のいじめが原因だと思い、いじめの被害届を警察に出しますが、3度にわたって警察に被害届の受け取りを拒否されます。
のちにこの警察の態度は非難されますが、警察はいじめはほとんどなかったと判断していたのでしょう。
学校や教育委員会の態度も、いじめの調査に積極的でないことから「いじめを隠蔽している」として非難されましたが、基本的に自殺の原因は父親にあると思っていたわけです。
大津市の越直美市長は「自殺少年は父親からDVを受けていた」と語りましたし、澤村憲次教育長は「学校からは亡くなったお子さんの家庭環境に問題があると聞いている」と語りました。
もっとも、こうした認識は世間から「責任逃れ」と受け止められ、よりいっそうの非難を招きました。

冷静に考えて、自殺の原因として、同級生のいじめと父親の虐待の両方があったでしょう。
問題はその割合がどれくらいだったかです。

結局、「自殺の練習」については、県警によって有力な目撃情報はなかったと結論づけられました。
また、自殺少年の親はいじめ加害者の少年3人に対して約3850万円の損害賠償請求の訴えを起こし、第一審では約3750万円の支払いが命じられましたが、控訴審では父親が自殺少年に暴力をふるうなどしていたことによる「過失相殺」を認めて、約400万円に減額し、最高裁で約400万円の判決が確定しました。
第一審は世間の熱狂に引きずられた判決でしたが、控訴審では冷静な判決になったと思われます。

判決で「過失相殺」という言葉が使われるぐらいですから、父親の虐待と同級生のいじめの両方が自殺の原因だったということでしょう。


中学生ぐらいの子どもは、家庭と学校が生活圏のほとんどすべてです。もし自殺すれば、家庭と学校の両面で原因を探さなければなりません。
家庭と学校とどちらが子どもにとって重要かといえば、もちろん家庭です。
もし学校でひどいいじめにあっていたとしても、家庭生活が幸せなら自殺しないでしょう。
それに、まともな親なら、子どもの様子から問題を察知して、子どもが自殺する前に対処するはずです。
ですから、もし子どもが自殺すれば、とりあえず家庭に問題があっただろうと想像できます。
自殺の原因は複合的なのが普通ですが、第一の原因は家庭にあって、学校でのいじめがあったとしても、それは第二の原因でしょう。


大津市で中学2年生の男子生徒が自殺したというときも、私は家庭環境はどうなっていたのだろうかと考えました。
ところが、「自殺の練習」ということもあって、報道はいじめのことばかりです。自殺生徒の家庭のことはまったく報道されないので、家族構成すらわかりません。父親は盛んにメディアに出てきますが、母親はまったく姿が見えないので、どうなっているのかと思っていました。両親は不仲で、母親は家を出ていたというのは、かなりあとになってからわかりました。

学校でのいじめのことばかり報道して、自殺少年の家庭環境のことはまったくといっていいほど報道しないというところに、社会のいちばん深い病理が表れています。
中学2年生の少年が自宅マンションから飛び降り自殺をしたら、家庭に問題があったのだろうと推測されます。親から虐待されていた可能性が大です。しかし、その問題はまったく追及されません。
しかし、少年が学校でいじめにあっていたかもしれないとなると、嵐のように報道されます。

これはどういうことかというと、いじめが原因で自殺したということになれば、家庭内で虐待はなかったということになります。
現に越直美市長の「自殺少年は父親からDVを受けていた」という言葉はかき消されてしまいました。

ほとんどの親は子どもをガミガミと叱り、勉強に追い立て、ときに体罰をしています。
子どもが自殺したというニュースに接すると、こうした親は不安になります。
しかし、自殺の原因が学校でいじめであったということになれば、安心できます。
つまり「幸せな家族」幻想が守られるわけです。

このときは、メディアだけでなくおとな社会全体が家庭内の虐待を隠蔽し、その代わりに学校でのいじめに自殺の責任を押しつけました。
しかも、それがきわめて熱狂的でした。
その熱狂が「いじめ防止法」をつくらせたのです。
酒鬼薔薇事件のときの熱狂が少年法改正を生んだのと同じです。

ですから、いじめ防止法は不純な動機でつくられました。
その隠れた目的は、家庭内の虐待の隠蔽です。
そのため、いじめは子どもの間の出来事とされ、いじめの加害者も被害者も家庭環境の影響を受けているという当然のことが無視されました。
こんな法律になんの効果もないのは当然です。
子どもは家庭で親から、学校で教師からの影響を受けるということを前提に、法律をつくり直さなければなりません。


なお、幼児虐待を隠蔽して、「幸せな家族」幻想を維持しようとすることは今も行われています。
そのため、子どもが死ぬか大ケガをする事態になってやっと幼児虐待が表面化するということが少なくありません。


大津市の中学2年生の自殺事件については、私は十本余りのブログ記事を書いて、「大津市イジメ事件」というカテゴリーにまとめています。
世の中の100%近い人がいじめと学校や教育委員会の対応を糾弾していたときに、少年の自殺の主な原因は家庭内のことにあると主張したので大炎上しましたが、結果的に私の主張が正しかったわけです。

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いじめ防止対策推進法が2013年に成立したのに、学校でのいじめは少しも解決せず、自殺につながるような深刻ないじめもあとをたちません。
それも当然で、いじめ防止法は学校のいじめ防止体制の整備やいじめが起きたときの対処法を主に規定するもので、いじめの発生を防止する規定はほとんどありません。
あえて探すと、次のようなことだけです。

第四条 児童等は、いじめを行ってはならない。
   ※
第九条 保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、その保護する児童等がいじめを行うことのないよう、当該児童等に対し、規範意識を養うための指導その他の必要な指導を行うよう努めるものとする。
   ※
第十五条 学校の設置者及びその設置する学校は、児童等の豊かな情操と道徳心を培い、心の通う対人交流の能力の素地を養うことがいじめの防止に資することを踏まえ、全ての教育活動を通じた道徳教育及び体験活動等の充実を図らなければならない。

文科省のホームページにある「いじめ防止対策推進法(概要)」も、学校のするべき基本的施策は「道徳教育等の充実」であるとしています。

道徳教育の好きな自民党らしい法律です。
しかし、道徳教育でいじめがなくなるわけがありません。
道徳で社会がよくなったり、道徳教育でよい人間がつくれたりするなら、とっくに理想社会が実現しています。
道徳を当てにする法律をつくったのが失敗でした。


そのため、いじめをする子どもを厳罰にしろという声が高まっています。
罰を抑止力にしていじめをなくそうというわけです。
これは刑法の基本的な思想でもあります。
しかし、一般社会でも厳罰化で犯罪はなくならないのですから、学校でも厳罰化でいじめはなくならないでしょう。
それに、こうしたやり方は、監視の目がないと悪いことをする人間をつくりそうです。

さらにいうと、いじめている子どもはたいてい自分はいじめをしているという自覚がありません。相手をからかっているだけ、いじっているだけ、いっしょに遊んでいるだけといった認識です(いじめられている子もたいていはっきりと「いや」という意志表示をしないものです)。
ですから、「いじめはよくない」とか「いじめた者は罰する」と言ってもあまり効果がないのです。


「いじめている側はいじめとは思っていない」ということがよくわかるニュースがありました。
“背の順”の整列に異議 小学校教員・松尾英明さんが訴え「いじめのひとつと考えてもいいんじゃないか」
 小学校で当たり前のように行われている“背の順”による整列。背の順に異議を唱える声が上がり、波紋を広げている。

 公立小学校教員・松尾英明氏は「背の低い順に並ばせるのは差別である」と自らの著書で訴えている。さらに「子どもたち同士の中でも背の高い、低いというのは気にするようになるんです。コンプレックスを抱くということがありますので傷つく人がいるということを考えると、これはいじめのひとつと考えてもいいんじゃないかと思っています」と主張している。

 “背の順”について、並ぶことが嫌とか思ったことあるか聞かれた街の子どもは「(男児)あまりない」「(女児)ない~」と答え、親は「考えたこともなかったです。すごく現代ならではだなと思いました」と気にしない意見が上がった一方、「背の順はイヤ。前の方もイヤです。目立ったりするし、(後ろでも)横から見ればいける。バラバラでもいいと思う」といった反対の声も上がっている。

 松尾さんは、背の順ではなく名簿順を勧めていて「名簿順であれば序列意識がなくなり、成長によって起きる“順序の変動”といった混乱も避けることができる」と指摘している。また、声をあげた理由について「全体の数%の子たちがすごく嫌な思いをしている。その声が全体の中の少数派であったとしても、少数派の人たちに目を向けるということ自体がものすごく大事なことだと思うので、私はすごく意味があることだと思っています」と心境を明かしている。(『ABEMAヒルズ』より)
https://news.yahoo.co.jp/articles/03a789e2c45a296eb91677997e6df5b183aee259
私も“背の順”による整列は当たり前と思っていたので、この記事には意表をつかれました。

私自身は背の高いほうだったので、小学校、中学校で校庭に整列するときはかなり後ろでした。そのときは背が高くてよかったと思いましたし、いつも前のほうにいる子はいやだろうなとも思いました。
男の子の世界では、背が高いことは価値があります。背が低いと、それだけで体力的に不利ですし、しばしば「チビ」と言われてバカにされます(「チビ」と呼ぶのはいじめであるとして、最近はないかもしれません)。
背の順に整列すると、背の低い子はそのことが誰の目にも歴然となります。当然いやに違いありません。
これは、体重の順に整列することを考えてみればわかるでしょう。あるいはテストの点数順の整列とかでも同じです。

もっとも、この記事についてのヤフコメを見ると、「背の順の整列は前を見やすくするための合理的なものなのでいじめではない」という意見が圧倒的です。

しかし、私自身の体験を振り返ってみると、小学校と中学校では校庭で背の順に整列していましたが、高校では整列ということをしたことがありません。朝礼というものがなかったし、全校集会とかなにかのイベントのときは整列せずに雑然と集まっていました。それでなんの問題もありませんでした。
校庭に整列するというのは軍国教育の名残です。整列する経験が役立つのは自衛隊か警察などに就職した場合だけで、一般社会では無意味です。
ですから、校庭や体育館に集合したとき、整列せずに雑然と集まっていればいいのです。そうすれば背の低さも気になりません。

なお、運動会で全員にかけっこをさせるのも、足の遅い子にとっては屈辱以外のなにものでもありません。こういうことをさせると自己肯定感が低くなり、競争嫌いの子どもになりかねません。競争は自分の得意な分野でするべきです。

背の順の整列にせよかけっこにせよ、させるほうは認識していませんが、一部の子どもにとってはいじめそのものです。

もっとも、いじめ防止法では、こうしたケースはいじめとは見なされません。いじめの定義が「児童生徒が他の児童生徒に行う行為」となっているからです。
教師や親が子どもをいじめても、いじめにはならないのです。
これもいじめ防止法の欠陥です。

社会にもいじめはありますが、それほど多くはありません。しかし、学校におけるいじめは圧倒的に多くあります(社会におけるいじめの数の統計はないので、比較できませんが)。
これは学校をつくってきた文科省や教育委員会や教師に責任があり、さらには親にも責任があります。


道徳教育も厳罰化もいじめ防止には役立ちません。
では、どうすればいいかというと、私の知る範囲ではシュタイナー教育の考え方がいいと思います。

日本におけるルドルフ・シュタイナー思想研究の第一人者である高橋巌の著書『シュタイナー教育の方法』から引用します。

そこで、そういう子どもの「いじめ」が中学一年生のクラスに起こった時に、現在の時点でどういう態度をとることができるかと言うと、先生はその暴力を引き起こしている子ども、いじめられっ子ではなく、いじめっ子の方とできるだけ親しくなる、ということが必要です。
まず先生は、暴力を引き起こしている「いじめっ子をかばう」という姿勢をとる必要があります。いじめっ子をかばうということは、いじめっ子がいちばんかわいそうな存在だからです。人をいじめるということでしか自分を表現できないのですから、どんなにその子の内面は苦しんでいるかわかりません。ですからまず先生はその子と仲好しになって、その子どもとだけでいろんな約束をするのです。たとえば「君はきっと今度の秋の運動会では百メートル競走の代表選手になるはずだから、一緒に今から練習してくれないか」とか、あるいは「このクラスのこの子はとてもからだが悪いので、君、ぜひ面倒をみてくれ」とか、「先生の代わりに、今入院している誰それのお見舞いに行ってくれ。その時に悪いけどこのお金でお花を買ってくれ」とか、そういうような形でその子どもと個人的に関っていく、というところから始めるのです。その子どもが他の子どもをいじめる必要がなくなるところまで面倒をみるということが第一です。
それから第二に、もちろんいじめられる子どもに対しても、同じようにできるだけ細かく配慮して、そしてその子がどうしていじめられるのか、そのいじめられる原因を見つけ出して、それを皆にわからない仕方で、解消するように配慮するのです。そういう筋道を先生が辿って行かないかぎり、問題は解決できません。

いじめっ子にいじめをやめさせる方法としては、これが王道であると思えます。

高橋は、先生は親のような立場に立てと説いています。
たとえば、子どもが犯罪を起こして親が警察に行ったときは、親は「自分の責任だ」と感じて、警察の側ではなく子どもの側に立つはずです。
「そういう形で子どもの側に立てれば、まともな先生なのです。ところが、裁判官であったり警察官であったりする態度をとって何とも思わない先生でしたら、それは教師でも何でもない、ということになります」と高橋は書いています。

今の世の中は、教師だけではなく親も警察官や裁判官の立場に立っている感があります。

シュタイナーの思想は神智学といい、神秘思想でもあり、かなり宗教的なものです。
宗教といってもいろいろありますが、深い宗教思想は善悪を超越します。
親鸞の「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」というのもそうです。
キリストの「汝の敵を愛せよ」というのもそうでしょう。

一般には「いじめっ子は悪、いじめられっ子は善」と考えられていますが、ひとつのクラスに善と悪があるのもおかしなことです。
善悪を超越した目を持つことがたいせつです。

シュタイナーの思想は「宗教的寛容」と名づけることができるかもしれません。


いじめは進化倫理学の立場から考察することもできます。

生物としての人間に基づいて倫理を考えるのが進化倫理学です。
哺乳類の場合、子どもは親に守られ、親に世話をされて、つまり親の愛情を受けて育ちます。
しかし、人間の場合、親は高度に文明化していますが、赤ん坊は原始時代と変わらない状態で生まれてくるので、親と子のあり方が大きく乖離しています。親は子どもの気持ちが理解しにくく、「なぜこんなことがわからないのか」といった理不尽な感情を抱きがちです。また、文明化された生活様式の中で子どもは物を壊したり汚したりするので、それも親にはがまんできません。そうしたことが親の愛情不足につながり、さらには虐待につながります。

また、文明社会に適応するには多くのことを学習しなければならないので、学校では子どもの好奇心や学習意欲以上のことを教えます。空腹になればおいしく食べられるのに、その前にむりやり食べさせるみたいなことをしているのです。

文明が発達すればするほど親と子が乖離し、学校での子どもの負担が増えます。こうしたストレスがいじめにつながっているのです。
ですから、いじめをなくすには家庭と学校のあり方から見直していかなければなりません。
いじめ防止法にはこうした発想がまったくなく、そのため効果がないのです。


いじめ対策としては、道徳教育も厳罰化もうまくいきません。これらはおとな本位の発想だからです。
宗教的寛容や進化倫理学によって、子どもの立場から考えることが必要です。

陰謀論というのはおもしろいものですが、私は実名でブログをやっているので、そんなことを書くわけにはいきません――と思っていたのですが、考えてみれば、陰謀論と断った上で書けばいいわけです。
というわけで、これから私が書くことを信じるか信じないかはあなた次第です。
 
 
大津市イジメ事件が世間の注目を集めたのは、自殺少年が「自殺の練習」をさせられていたという報道があったからでしょう。私もこれにショックを受けて、ブログで取り上げようかと新聞記事を詳しく読んでみたら、「自殺の練習」というのはアンケートに書かれていたことで、しかも伝聞であることがわかったので、書くのは控えました。
しかし、その後もマスコミはイジメの“実態”を次々と報じましたが、そのほとんどはアンケートに書かれていた不確かなものか伝聞の証言です(目撃証言もありましたが、目撃者が匿名の中学生ですから、報道の信ぴょう性がイマイチありません)
マスコミがこんな不確かなことを大々的に報道するのは実に不可解です。私はそこになにか巨大な闇の力が働いていることを感じざるをえませんでした。
 
「自殺の練習」についてはその後、目撃したという女子中学生のいたことが新聞で報じられました。やはり「自殺の練習」はあったのかと思っていたら、今になってこんな報道がありました。
 
「自殺練習」有力目撃なし 大津いじめ、県警聞き取り 
 大津市で昨年10月、中学2年の男子生徒=当時(13)=が自殺した問題で、生徒が同級生から受けたとされるいじめのうち、「自殺の練習」の強要について、滋賀県警が在校生に聞き取りを行った結果、有力な目撃証言がなかったことが1日、捜査関係者への取材で分かった。県警は同日からいじめていたとされる同級生への事情聴取を開始し、こうしたいじめとの関連が不明瞭な複数の行為について事実の有無を最終確認する方針。
 県警は1日、生徒をいじめていたとされる同級生3人のうち2人から事情聴取を行った。残る1人からも今後、聴取する。
 亡くなった男子生徒が「自殺の練習をさせられていた」という指摘は、全校アンケートの中で16人がいずれも「伝聞情報」として回答していた。7月上旬にこのアンケート内容が報道され、いじめ問題で大津市教委や学校の対応が非難されるきっかけとなった。
捜査関係者によると、県警が、男子生徒と同学年だった約300人への聞き取りを行った結果、「生徒が自殺の練習を無理やりさせられている場面を見た」という在校生はいなかった。
 また、校舎の窓から身を乗り出すよう同級生から要求され、男子生徒が拒否するのを目撃した在校生はいたが、強要容疑を裏付ける証言はなかったという。
 県警は今後、複数の目撃証言がある体育大会での暴行容疑についても同級生から事情聴取を行い、裏付けを進める方針。
 遺族が提訴した民事訴訟で同級生側は「遊びの範囲」といじめを否定している。
20120902 0920分】
 
300人に聞き取りをしても目撃者がいかなかったということは、先に報じられた「目撃した女子中学生」はなんだったのでしょうか。女子中学生がうそをついたのか、新聞がうそを書いたのかということになります。
 
ともかく、「自殺の練習」がなかったということなら、イジメの存在そのものまで怪しくなってしまいます。
というのは、自殺した少年はイジメられているとは誰にも言わなかったからです(担任から2度聞かれても否定しました)。もちろんイジメの加害者側とされるほうも否定しています。自殺した少年の親にもそのときはイジメの認識はありませんでした。となると、同級生の証言に頼るしかありませんが、「イジメていた」か「ふざけていた」かの判断は印象でしかありません。これでは警察もイジメがあったと立証するのは不可能なはずです(しかし、世論に迎合してむりやり立件する可能性が大です)
また、学校や市教委はイジメを隠蔽したと批判されていますが、そもそもイジメがなかったのなら、なにをやっても“隠蔽”になってしまいます。
 
では、なぜアンケートの中にイジメについての伝聞情報が多数あったかというと、同級生が自殺したということは中学生にとってはショックですから、自殺の原因について話し合ううちに噂が噂を呼び、それがアンケートに現れたということでしょう。噂のもとになったことがあったとしても、それは軽いイジメだったかもしれません。
 
イジメの報道が過熱したのも妙なことですが、一方で自殺者遺族を支援するための寄付を受け付けるホームページがいち早く立ち上げられたのも妙なことです。
自殺者遺族は3人の同級生とその保護者と市を相手に損害賠償を求めて訴えており、寄付金はその裁判費用などに当てられるということですが、勝訴すれば賠償金が入るのですし、自殺者遺族の年収レベルもわかりません。また、ホームページを開設したのは自殺者遺族の代理人弁護士である吉原稔法律事務所ですが、自分が受け取る裁判費用のための寄付を自分で募るという格好になります。
このホームページは当初、誰でも開設できる形式のホームページでしたから、これが本物かどうかわからないという苦情が相次ぎ、そのため滋賀弁護士会のホームページからリンクが張られることになりましたが、滋賀弁護士会より「閲覧者に対して、同会が特定事件につき一方当事者の立場を支持するかのような誤解を招く」としてクレームがあり、リンクが削除されるというドタバタ劇がありました。
 
なお、今ホームページで確かめてみると、8月31日時点で一千万円を超える金額が集まっているということです。
 
大津中2いじめ自殺裁判支援
 
ということは、儲け主義の敏腕弁護士がアンケートのあやふやな“事実”をもとに大きな事件をつくりあげたということでしょうか。
 
いや、いくら敏腕でもそう簡単にはいかないでしょう。
やはりキーマンは、自殺者遺族、つまり自殺した男子生徒の父親と思われます。
 
自殺した男子生徒の父親がどんな人物であるかについてはまったく報道がありません。職業もわかりませんし、家族構成もよくわかりません。加害者側とされる生徒やその保護者について多数の情報がさらされているのとは正反対です。
 
この謎の父親がモンスター・ペアレントに違いありません。
モンスター・ペアレントというと学校に無茶なクレームを言ってくる親とされますが、モンスター・ペアレントは学校に対するより前に自分の子どもに対してもモンスターなのです。
自殺した生徒は「家族に厳しく叱られる」と電話で担任に相談していました。もちろんその家族とは父親ことでしょう。生徒は父親よりも担任を信頼していたのです。
(「大津市イジメ事件に新事実」を参照)
 
子どもをきびしく叱っていた父親は、子どもが自殺したときはショックだったでしょうが、間もなく子どもが学校でイジメにあっていたという情報を入手します(そのとき学校内では噂が噂を呼ぶという状態でした)。父親の心の中で「子どもの自殺の原因はイジメだ」という確固たる信念が生まれます。そうなら自分は免罪されるからです。
父親は学校にアンケート内容を知らせるように要求し、警察には3度も被害届を出しに行き、弁護士に相談してイジメ加害者生徒とその保護者と市を訴えます。
この父親のモンスターぶりが弁護士にも乗り移り、弁護士はおそらくマスコミに情報提供を行い、素早く支援ホームページを立ち上げます。
そして、父親のモンスターぶりがマスコミを通じて全国に広がります。
 
いや、子を持つ親は誰しも心にモンスターを飼っています。モンスターがいるゆえにいつも子どもを叱り、勉強を強要し、子どもを追い詰めています。その心の中のモンスターが一斉に暴れ出し、また、そうした親に育てられている子どもや若者の心にもすでにモンスターが生まれていますから、そうしたモンスターも暴れ出しました。そうして大津市イジメ事件はつくられました。
 
父親は最近もモンスターぶりを発揮しています。
 
確約書で遺族が市を提訴=アンケート部外秘で精神的苦痛-大津いじめ自殺問題
 いじめを受けた大津市立中学2年の男子生徒=当時(13)=が自殺した問題で、男子生徒の父親(47)が7日、学校側から全校生徒を対象に実施したアンケート調査の結果を受け取る際、「部外秘を確約する」との不当な確約書に署名させられたことで精神的苦痛を受けたとして、市を相手に100万円の損害賠償を求める訴訟を大津地裁に起こした。
 訴状によると、父親は自殺の真相に迫ろうと資料を入手したが、確約書のために同級生や保護者へ資料を基にした事実確認ができなかった。
 一方、7月に開かれた市議会では、一般傍聴者に対してもアンケート調査の結果が配布されたことから、確約の必要性や義務はなかったとしている。(2012/09/07-19:17
 
父親はすでに大津市などに約7700万円の損害賠償を求めて提訴しています。不当な確約書に署名させられたことの精神的な苦痛もそこに含めればいいと思うのですが、なぜ別件で100万円の損害賠償を求めるのでしょうか。2件の訴訟にすると、弁護士事務所への支払いが増えて好都合なのでしょうか。
 
ともかく、親や親の予備軍の心に棲むモンスターが巨大な闇の力となって大津市イジメ事件を初めとするイジメ事件を全国でつくりだしたのです。
これが“真相”です。
 
もちろん、以上のことを信じるか信じないかはあなた次第です。

大津市イジメ事件について、私は自殺した少年の家庭環境の問題を一貫して重視してきましたが、家庭環境についての報道がほとんどありません。そうした中、朝日新聞が「笑顔の向こうは――大津・いじめ事件」と題して、3回の連載記事を掲載しました。とくに目新しい事実はないなと思っていたら、連載の最後に新事実がありました。
連載の最後の部分だけ引用します。
  
実はこのころ、担任は少年から「家族に厳しく叱られる」と電話で相談されていた。少年の父親からも「息子の金遣いが荒くなった」と相談があった。口座から引き出した金額は10万円を超え、父親が問い詰めると「ゲームソフトなどに使った」と答えたという。担任は「家庭生活に課題あり」「生活が不安定」ととらえ、気にかけていた。
一方で「いじめ」の言葉は宙に浮いた。少年が自殺するまで、どの大人も受け止められなかった。(朝日新聞8月19日朝刊)
 
自殺した少年が泣きながら担任に電話で相談していたという報道はありました。なんの相談かはわからなかったので、なんとなく同級生からのイジメのことを泣きながら相談したのに、担任は取り合わなかったのだという解釈がまかり通っていましたが、そうではなかったわけです。
父親から叱られることを担任に相談するのですから、少年は父親よりも担任のほうを信頼していたのかもしれません。
 
自殺の主因は、イジメよりも父親に叱られたことかもしれません。そうだとすると、父親が損害賠償を求めて学校や市を訴えているのはひじょうに妙なことになります。
今の制度は、親が子どもに対して間違ったことをするわけがないという前提に立っています。「親の恩は山よりも高く海よりも深い」とか「親、親たらずとも、子、子たれ」という封建道徳のままです。子どもの立場から親を訴える制度をつくるべきだと思います。
 
それはともかく、子どもが自殺したら、親の責任が大きいという当たり前のことがもっと広く認識される必要があります。
 
 
ところで、私は今回のイジメ事件について、マスコミの報道や世間の声があまりにも一方的に市や学校を非難することに危ういものを感じていました。私が学校でのイジメよりも家庭の問題が大きいのではないかと主張したのは、世の中の偏りを中和する方向に行ったほうがいいと思ったこともひとつの理由です。
で、大津市の澤村憲次教育長が19歳の男子大学生に襲われてケガをするという事件が起きて、懸念が現実になってしまいました。
学校や市教委を非難するのは、イジメをなくそうという建設的なものではなくて、誰かに「悪」のレッテルを張って、そいつをイジメたいという“イジメの連鎖”にすぎません。その結果として澤村教育長襲撃事件やその他の脅迫事件が起きたのです。
学校や市教委を非難している人は、自分がしていることの意味を考え直す必要があります。
 
 
それにしても、大津市のイジメ事件に関連して、有名人や一般人で自分もイジメを体験したと告白する人が実にたくさんいて、子どもの世界にイジメがこれほど広がっていたのかと驚きました。私の若いころはこれほどのことはありませんでした。子どもの境遇はどんどん悪くなっているようです。
 
子どもの世界のイジメの根本原因は、家庭や学校が子どもに対して抑圧的であることにあります。こうした世の中のあり方を私は「子ども差別」と呼んでいます。
 
人間は生まれながらに少し利己的です。利己的なおとなと利己的な子どもが対すると、おとなの利己主義が通ってしまいます。世代を経るうちに、文化の中におとなの利己主義がどんどん蓄積されていき、「子ども差別」社会が成立しました。教育やしつけも「子ども差別」の一環です。
しかし、おとなたちは「子ども差別」の存在を認めようとしません。そのため、イジメの原因をほかに求めることになります。いちばん一般的なのが、イジメの原因は個々の子どもの心(自由意志)にあるという考え方です。こう考えると、周りのものはすべて免罪されるので好都合です。あと、日教組とか大津市教委とかテレビ番組とかケータイとかゲームとか、その都度適当な原因がでっちあげられます。
 
たとえば奴隷制社会において、奴隷の間にイジメが起きたとします。対策としては、奴隷の過重な労働を軽減し、衣食住の生活環境を改善することですし、より根本的には奴隷制度を廃止することです。しかし、奴隷の主人たちはそんなことはしたくないので、環境はそのままにして、イジメをした奴隷が悪いとして罰したり、別の部屋に移したりという対策を取ります。
現在行われているイジメ対策や、有識者が主張するイジメ対策も同じです。学校や家庭のあり方はそのままにして、子どもの心ばかりを問題にしています。転校すればいいとか、学校に行かなくてもいいとか、警察力で対応するべきだとかいう意見も、学校と家庭のあり方を不問にしていることでは同じです。
 
家庭のあり方を変えるのは簡単ではありませんが、学校を楽しくのびのびと学べる場にすることは、少しずつでもやっていくことができます。
 
学校改革で私がいちばん重要だと思うのは、生徒が教師を評価する制度を取り入れることです(一部の私立学校ではすでに行われています)
現在、教育改革は逆のほうに行っています。つまり内申書重視ということで、教師が生徒を評価することが強まっているのです。私の考えでは、どんどんイジメがひどくなってきているのは、教師の権力が強まり、生徒が抑圧されてきているからです。
 
ラーメン屋であれ自動車会社であれ、顧客に評価されなければ商売は成り立ちません。ところが、教師という商売は、まったく生徒から評価されない授業をしていても成り立ちます。イジメられている生徒を無視しても同じです。ですから、生徒が教師を評価する制度の導入は当たり前のことです。
ところが、現在は校長や教頭が教師を評価することが強化されています。これではベクトルが逆です。
 
学校でのイジメをどう見るかということだけで、その人の人間観や社会観のすべてが試されます。そういう意味で、大津市イジメ事件は私たちにいろいろなことを考えさせてくれます。

世の中の関心がオリンピックに移ったこともあって、ようやくイジメについて冷静に考える環境が整ってきたようです。
そもそもは大津市で中2男子生徒が自殺した事件が発端となって、イジメについての報道が過熱したのです。この事件について改めてふれておきましょう。
 
中2の少年が自殺したとき、自殺の原因は家庭と学校の両面から探らなければなりませんが、報道は学校でのイジメに集中していたので、私は家庭にも問題はあったはずという観点から、このブログで何回か書いてきました。報道が少ないので推測を交えて書くしかないのがつらいところです。
今も自殺少年の家庭についての報道はまったくといっていいほどありませんが、推測の材料はふえてきたので、いくらか書きやすくはなっています。
 
大津市の越直美市長は、一時は涙を流して、自殺少年の遺族と和解する方針を示しましたが、その後態度を変えました。これはどういう事情かよくわからなかったのですが、7月17日の第2回口頭弁論の終了後に行われた囲み取材で、越市長は「自殺少年は父親からDVを受けていた」と語ったということです。
これについては責任転嫁だという批判の声が上がりました。確かに市側がこういうことを言うと、批判されるのはやむをえないところがあります。ただ、DVがあったかなかったかということは、それとは別に検証されないといけません。ところが、例によってそうした報道はまったくありません。
イジメ加害者の家庭については週刊誌やネットで過剰なまでに情報がさらされていますが、自殺少年の家庭はまるで聖域のようになっています。この極端な差は異様な光景というべきです。
 
大津市の澤村憲次教育長は、プライバシーなので言えないとしつつも、最初から家庭の問題を匂わせていました。「SAPIO」8月29日号にジャーナリスト鵜飼克郎氏の『それでも「原因は家庭にある」と言い放つ大津市教育長を直撃!』という記事が載っていたので、内容の一部を紹介します。
 
同氏への直撃取材では、こんなやりとりもあった。
――なぜこの期に及んで「男子生徒の家庭に問題があった」と言うのか。
(家庭の問題は)具体的に言えない。いろいろ誤解を招いていることはわかっているが、学校からは亡くなったお子さんの家庭環境に問題があると聞いている。学校に関係すること、本人に関係すること、家庭に関係すること、この3つを調べなさいと文科省は指導しています。学校については私たちが調べるが、他の2つは調べられない。警察や外部の第三者委員会が明らかにしていくわけだが、全体を見ないと真相がわからないのでは、と言っているのです」
(中略)
「命の重みを感じて対応しているのか」という問いに対してはこう答えた。
「当然のことながら、一報を聞いた時にどうしちゃったんだ、何があったんだと驚きました。ただ、ご遺族から『これは学校の問題じゃない。家庭の問題なので表に出さないで欲しい』と申し出があったと聞いている。もし家庭に問題があるなら、学校が大騒ぎしてはいけないと判断した。3日目になってご遺族から『いじめがあったのではないか』と申し出を受けた。校内でも生徒たちが2日目から『いじめがあったのでは』と騒ぎ始め、学校も調査を始めたということだった」
 
ここで重要なところは、「ご遺族から『これは学校の問題じゃない。家庭の問題なので表に出さないで欲しい』と申し出があったと聞いている」というところでしょう。これが事実なら、澤村教育長が一貫して、イジメと自殺の因果関係を無視ないし軽視してきたことが理解できます。
とはいえ、「3日目になってご遺族から『いじめがあったのではないか』と申し出を受けた」ともあります。
このあたり説明がなくてよくわかりません。遺族が態度を変えたということでしょうか。そうかもしれませんが、それよりも、「遺族」が別人と考えたほうがよさそうです。つまり母親が「家族の問題なので表に出さないで欲しい」と言い、父親が「いじめがあったのではないか」と申し出たということです。そうすると、母親がまったく姿を見せないことも納得がいきます。
 
7月25日、大津市役所において越市長は遺族側代理人の弁護士と父親に面会し、謝罪しました。このとき、テレビカメラがあるときは弁護士だけが市長と面会し、カメラが退席したあと、父親と弁護士が市長に面会するという形がとられました。そして、そのあと父親と弁護士がマスコミとの話し合いの場を持ったということです。
とすると、マスコミ関係者は父親と直に話をし、父親がどのような人物であるかもだいたい理解したと思われます。
 
光市母子殺人事件の被害者遺族である本上洋氏はやたらマスコミに出て、被告を死刑にするべきだと訴えました。本上氏のようにマスコミに出る人は特別ですが、遺族が表に出て訴えるのは当然のことです。顔だけ出さなければいいのです。
 
しかし、この大津市の事件においては、父親が市や学校を批判する声は報道されますが、父親と自殺した子どもの関係はどうだったのかについての報道はまったくありません。また、母親はどういう考えであるのかについてもいっさい報道がありません。
マスコミ関係者は父親と会って話しているのですから、そのときに「自殺前の息子さんの様子を見てどう思ったのか」ということは当然聞いているはずです。
報道管制が敷かれているなんていうことはあるはずはありません。とすると、知っていても報道しないということでしょう。つまりタブー意識が働いているのです。
タブー意識というのは、家庭内の問題、とりわけ親子関係の問題に触れてはいけないという意識と、もうひとつは被害者側の落ち度をあばいてはいけないという意識です。
 
そのためこの事件の報道は、自殺した生徒の家庭のことがブラックボックスになったまま、そのほかのことばかりが騒がれるという形になっています。
 
先ほどの「SAPIO」の記事においても、澤村教育長の言葉に対する批判はありますが、「自殺生徒の家庭に問題はなかった」という意味の記述はありません。その記述があれば、それだけで澤村教育長の言葉を否定することができるのですが。
 
現場で取材しているマスコミ関係者は、父親がどんな人間かわかっているわけです。わかっていて書かないということは、そこに問題があるからでしょう。
 
マスコミはつまらないタブー意識は捨てて、真実を報道するべきです。
マスコミが自殺した子どもの家庭の問題を隠蔽することは、大津市の学校や教委がイジメを隠蔽することとなんら変わりません。

イジメというのは、当たり前のことですが、強い者が弱い者をイジメることです。弱い者が強い者をイジメることは不可能です。下請けイジメはありますが、元請けイジメや親会社イジメはありません。
 
強い者が弱い者をイジメるのは、どこの世界にもあることです。大津市の事件に関連して、自分もイジメられたことがあると語る人が有名人にも一般人にも実にたくさんいます。いかに学校内でのイジメが広範囲に行われていたかがわかります。
 
会社でも上司が部下をイジメるのは当たり前のことです。“パワハラ”という言葉が出てきたのはごく最近のことです。上司が部下をイジメるのは一般に“鍛える”といいます。
 
学校の運動部や相撲部屋などでのイジメは“シゴキ”や“かわいがり”といいます。
 
兵士の訓練はイジメなしにはありえません。旧日本軍の兵営でのイジメはすさまじく、おかげで日本軍は兵卒レベルではきわめて優秀といわれました。ロシア軍のイジメも相当なもののようですし、アメリカ軍でのイジメは映画「フルメタル・ジャケット」でリアルに描かれています。
 
学校で教師が生徒をイジメるのは“体罰”といいます。最近、体罰ができなくなったために教師が指導しにくくなったなどといいますが、実際はまだまだ体罰は行われています。
 
家庭で親が子をイジメることは“しつけ”と言います。子どもを殺したりケガさせた場合だけ“虐待”と言われますが、子どもが死んでも親は「しつけのためにやった」と言って罪の意識がないのが普通です。
 
つまりイジメというのは体制の秩序の一部であって、実際は普通に容認されているのです。学校で教師がイジメに気づかないというのも、イジメは秩序を乱すものではないからです。むしろイジメられっ子が逆らったりすると、それは“事件”になります。
 
イジメはむしろ必要なものという認識すらあります。人は多少のイジメを経験することで精神的に強くなり、一人前になれるというわけです。
ですから、子どもが親に学校でイジメられていると相談しても、親は助けないことがよいことだと思っている場合もあると思われます。
 
 
今回、大津市のイジメ事件が世間の注目を集めているのは、「自殺の練習」というショッキングな報道が引き金となり、それからイジメの隠蔽が次々と明らかになるという展開が人々を引きつけたからです。
この事件で騒いでいる人々はイジメをなくそうとしている人々かというと、疑問があります。むしろ「バスに乗り遅れるな」ではありませんが、自分もイジメの側に加わろうとしている人々かもしれません。
つまり“イジメの連鎖”です。
世の中にはイジメられてきた人がいっぱいいます。そういう人の中には、機会があればやり返してやりたいと思う人がいても不思議ではありません。
大津市教委や学校や教師や加害少年やその保護者にはたいした権力はありません。集団の力によって大津市教委や学校や教師や加害少年やその保護者を批判する側のほうが明らかに強者でしょう。つまり集団で弱い者をイジメているという構図です。
また、今回の事件に関して日教組を批判する人はいますが、文部科学省を批判する人はほとんどいません。これは文部科学省がいまだに権威だからでしょう。
 
ただ、大津市教委と学校側はイジメを隠蔽したという点で批判されてもしかたがありませんが、便乗して弱い者をイジメようとする人もいます。
たとえば、片山さつき議員は自身のブログに、「少年法、この件をもって廃止しろとまでは言いませんが、前回の改正だけでは抑止力にはなっていないのではないか、と言う点から再検討が必要ではないでしょうか」と書いています。
 
少年法の前回の改正というのは、少年犯罪は増加して凶悪化しているというマスコミのミスリードの中で行われたもので、実際のところは統計的には少年犯罪は減少していたのです。そのことに対する反省もなしにまた少年への厳罰化を言うのは、まさに子どもへのイジメです。
 
また、実業家でブロガーの北村隆司氏は自身のブログで『幼児が「火」や「熱湯」に近ついたら、理屈無しに厳しく叱り、子供に物心がついたら、真っ先に「善悪」の区別を教えるのが親としての最低の義務である』と書き、「勧善懲悪」を勧めています。
 
「懲悪」というのは、「悪い子」を懲らしめろということで、まさに子どもへのイジメです。こうして親からイジメられた子どもが学校でイジメっ子になったりイジメられっ子になったりするのです。
 
ところで、学校でのイジメにはそれなりの理由がつけられます。たとえば、あいつは汚い、臭い、トロい、バカだ、変わっている、といったことです。
ですから、イジメっ子にすれば、向こうが悪いからイジメられるのだということで、自分が悪いという認識はないのが普通です。
今、イジメ事件に関していろいろなものを批判している人たちも同じでしょう。
 
しかし、イジメというのは誰かを批判して解決できることではありません。
批判はむしろ“イジメの連鎖”によって生じているのです。
イジメを解決するには、批判ではなく、愛情、温情、寛容が必要です。
これはイジメとはベクトルが180度違うので、心の切り替えが必要です。

タレントの関根勤さんは家庭をたいせつにすることで有名ですが、娘さんが小さいときに考えたそうです。この子もいずれ学校に行き、世の中に出て、人にイジメられたりとか、さまざまな不幸な目にあうかもしれない。それに対して親としてなにができるかというと、今のうちにいっぱい幸せな思いを味わわせることしかないのではないか。つまり、将来、不幸なことがいっぱいあっても、天秤がバランスを失ってひっくり返らないように、今のうちにこちら側に幸福の分銅をいっぱい積んでおくことだと思って、娘さんが小さいうちは必ず遊び相手になって、楽しい思いをいっぱいさせるようにしたというのです。
幸福と不幸の天秤という考え方がおもしろくて、印象に残っています。
ちなみにその娘さんというのは関根麻里さんのことです。
 
関根さんの家のようなところに生まれると子どもは幸せですが、世の中に関根さんの家のようなところは少数でしょう。
子どもにとっては、生まれる家()を選べないのがつらいところですが、生まれた家によって、子どもの人生は決定的に左右されます。
 
わかりやすいのは、裕福な家に生まれるとの、貧乏な家に生まれるのとの違いです。貧乏な家に生まれると、頭がよくても上の学校に行けず、人生の選択肢が限られてしまいます。貧乏な家というのは社会の下層ということですから、下層のままの人生になってしまう可能性が大です。
 
また、サラリーマン家庭に生まれると、その子どももサラリーマンになる可能性が大です。なかなか自分で商売をするという発想が出てきません。
商店など自営業の家庭に生まれた人は、自分も商売をするという発想が自然に出てくると思います。
たとえばワタミ会長の渡辺美樹氏、焼肉牛角などのレインズインターナショナル社長の西山知義氏は、どちらも一代で大きな事業を築いた方ですが、どちらも幼少時、父親がかなり大きな事業をしていて、それが倒産するという体験をしています。
ちなみに私はサラリーマン家庭の生まれで、自分で商売をしようと思ったことは一度もありません。
 
 
それから、最初に言ったように、愛情の多い家庭に生まれるのと、愛情の少ない家庭に生まれるのとの違いがありますが、愛情というのは目に見えないので、これは意外と認識されていないようです。
 
愛情の少ない家庭に生まれるというのは、たとえば生まれてすぐ親と死別して、親戚の家をたらい回しにされたとか、養護施設で育ったとかです(養護施設にも愛情を持って子どもに接する人はいますが)
それから、父親がアルコール依存症で、母親や子どもに暴力を振るうとかも、愛情の少ない家庭の典型でしょう。
こういうのは認識されやすいほうですが、普通に見える家庭でも愛情の少ないことがよくあります。
 
たとえば、親が一流大学の出で、子どもに一流大学に入るように強いるということがよくあります。子どもの将来の幸せのためだというわけですが、これは関根勤さんの考えとちょうど反対になっています。つまり、今は勉強ばかりで不幸でも、将来の幸せで天秤は釣り合うというわけです。
しかし、一流大学に入れば幸せになるとは限りませんし、いくら勉強しても一流大学に入れない場合もあります。
こういう親はたいてい、学歴差別意識がひじょうに強く、子どもの成績が悪くなり一流大学に入れそうもないとなると、それだけで愛情を失ってしまったりしますが、こういうのはもともと子どもを丸ごと愛していないのです。また、自分の見栄のために子どもを一流大学に入れたいという親もいます。
 
子どもがほしがるものはなんでも買い与え、小遣いも十分に渡しているという家庭もあります。こういう親はお金が子どもへの愛情の証だと思っているのですが、そうとは限りません。
貧乏な家庭で、母親が節約に努めてやっと子どもがほしがっていたオモチャを買ってやるというとき、それはわずかな金額であっても愛情の証になります。しかし、豊かな家庭で、子どもの面倒を見る代わりにお金を渡しているというとき、そのお金は逆に愛情がない証になります。
 
このように愛情というのはわかりにくく、暴力を振るっても「愛のムチ」だという親もいます。
 
 
ここで大津市イジメ事件のことに話をつなげますが、子どもが家庭の外でどんな不幸な目にあっても、家庭内で幸福の分銅を積んでおけば、天秤がひっくり返るわけがないと私は思っているので、自殺者の家庭はどうだったのかということを問題にしてきました。
たとえば、自殺者遺族の父親はきわめて活発に活動しておられますが、母親の姿はまったく見えないのが気になるところです。また、子どもが生きていたころ、親と子がこんなに仲良くしていたという報道がまったくないですし、父親の口からも語られたことがないように思います。
学校と家庭の両方で不幸の分銅を積んでいたのではないでしょうか。
 
イジメ加害少年の家庭も同じようなものでしょう。
そもそもイジメとは相手を不幸にすることですが、なぜイジメっ子は相手を不幸にするようなことをするのでしょうか。
それは、自分が人から不幸にされているからでしょう。
誰から不幸にされているかというと、まず間違いなく親からでしょう。
つまり、家庭でイジメられているので、学校でもイジメてしまうのです。
イジメ加害少年の家庭も表面的には普通の家庭であるようですが、やはり不幸の分銅を積んでいたのでしょう。
 
現在、加害少年の親も週刊誌などで批判されていますが、親と子をいっしょに批判しているだけで、親のなにが悪くて子どもをイジメに走らせたのかという観点からの批判はないのではないでしょうか。
 
もっぱら大津市の教委や学校や加害少年を批判する現在のやり方は、たとえば大津市の教育長が辞任すればそれで終わってしまいます。これでは学校の問題も家庭の問題も解決されず、なんのための批判だったのかわかりません。

アクセスが急増して、話に聞く「炎上」なるものが私のブログでも起こるのかと、期待半分、不安半分で見ていたら、別段何事も起こらないようです。考えてみたら、子どもが自殺したら家庭と学校の両方に原因があるはずだと、当たり前のことを主張しているだけですから、そんなことで「炎上」が起こるのもおかしな話です。
 
コメントも多数いただいていますが、ほとんどが罵倒や嫌がらせの類です。感情的に反対だが理論的に反対することができないので罵倒や嫌がらせになるわけで、やはり自分の説は正しいのだと、自信を深める糧にさせていただいています。
レスをつけたほうがいいかなと思うコメントもあるのですが、「あっちにつけてなぜこっちにつけないんだ」という不満が出るでしょうから、控えさせていただきます。
まともなコメントをしていただいている方には、この場からまとめてお礼を申し上げます。
 
「家庭」について書いたのだから、次は「学校」についての考察をうかがいたいというコメントがありましたが、それは自然な流れですから、今回は学校の問題について書くことにします。
 
 
現在、有識者などがイジメ対策についていろいろ語っていますが、私の知る範囲では、イジメの対症療法ばかりが語られていて、イジメそのものをなくす対策を語る人はいません。
イジメの対症療法の最たるものは、イジメは犯罪だから警察力で対応しろというものでしょう。
しかし、イジメで悩んでいる子どもというのは、親や教師が対応してくれないから悩んでいるわけで、誰が警察に通報するのかという問題があります。そうしたら、新聞の投書欄に、子どもが自分で110番しろと書いてあるものがありました。110番したら警察は必ず対応してくれるからというのです。
しかし、これも子どもの役に立つ助言とも思えません。確かに110番したら警察は必ず駆けつけてくれるでしょうが、そのときイジメっ子らが口裏を合わせれば、通報した子どもが逆に叱られることになります。まあ、死ぬほど思い詰めているなら、死ぬ前にやってみる価値はありますが、静かに死ぬのではなく、恥をかいてから死ぬハメになるかもしれません。
そもそも警察は、傷害罪が適用できるような事態ならいいですが、“陰湿なイジメ”なんていうのは対応しようがないと思います。今は大津市の事件が世間で騒がれているので、警察も動いてくれていますが、警察の本音としては、こっちは忙しいのだから、そんなことは学校で対応してくれというところでしょう。
警察力で対応しろと主張する有識者も、面倒なことを警察に押しつけているだけです。警察にとっても迷惑です。
 
警察力以外の対策をなぜ誰も言わないのか不思議です――などと言っていると、もっとくだらないことを言う人が出てくるかもしれません。たとえば、校内に監視カメラを備えよとか、屈強な警備員を配置しろとか。
結局、対症療法とはそういう方向に行くしかないわけです。まあ、それがいいという人もいるかもしれませんが。
 
では、イジメそのものをなくす対策とはなにかというと、これは簡単です。
学校が楽しくのびのびと学習できる場になればいいのです。
こうすれば学校が原因のイジメはなくなります(イジメの原因には家庭やその他の要素もあるので、完全になくなるとは言えませんが)
 
「イジメの構造」というエントリーでも書きましたが、子どもがストレスを強く感じるような学校ではイジメがひどくなります。たとえば、きびしい校則で縛るとか、プレッシャーをかけて勉強させるとか、わからない退屈な授業とかはイジメの原因になります。だから、その逆にすればいいのです。
 
対策としてはあまりにも簡単です。誰も言わないのが不思議です。
もっとも、今は子どもには規律を学ばせることがたいせつだとか、子どもにはがまんを覚えさせることがたいせつだとかいう考えの人がむしろ多数なので、テレビのコメンテーターなどはこういうことは言いにくいでしょう。たとえば体罰肯定論のほうが受けるのがテレビの世界です。
しかし、子どもにがまんを覚えさせることがたいせつだというのなら、イジメっ子はイジメられっ子にまさにがまんを覚えさせているわけで、イジメっ子は教育功労者として表彰しないといけません(がまんするのと、がまんさせられるのは別だということを理解していないと、こんなへんなことになります)
 
具体的なイメージとしては、たとえば尾木ママがテレビで紹介したオランダの小学校とか、私が勧める江戸時代の寺子屋方式とかがあります。これは「オランダの学校と寺子屋」というエントリーで書きました。
 
学校制度改革というと時間のかかる話ですが、今の制度でも、とりあえず子どもがのびのびと楽しくすごせるように各教師が心がければ、それだけ効果はあるはずです。
 
子どもが楽しくのびのびとしていればイジメはなくなる。当たり前の理屈です。
 
というか、それ以外の対策はないといってもいいでしょう(監視カメラや警備員が対策だというのなら別ですが)
 
 
しかし、子どもが楽しくのびのびと学習する学校というのに反対する人もたくさんいます。自分は学校でつらい思いをしてきたのに、今の子どもが楽しくのびのびするのは不当だという感情があるからです。この感情は一見理不尽ですが、感情のメカニズムとしてはむしろ自然なものだといえます。学校の運動部で、1年生のときに球拾いばかりやらされ、不当だと思っていても、自分が2年生になると、1年生に球拾いばかりやらせるようになるのと同じです。
 
今のおとなは、親や教師も含めてですが、子どもを幸せにしたいという気持ちが薄くなっています。ですから、親や教師の多くはイジメられている子がいても気づかず、気づいても面倒なので、みずから動いて解決しようとしないのです。
幼児虐待やきびしいしつけから、選挙権に年齢制限があることまで、子どもはおとなから不当に扱われています。
こういう社会のあり方を私は「子ども差別」と呼んでいます。「人種差別」や「性差別」は認識されていますが、「子ども差別」はまだほとんど認識されていません。そのためさまざまな問題が生じ、そしてその解決策がわからないという状態が生じています。イジメ問題もそのひとつというわけです。
 

このところ、大津市の中2男子生徒が自殺した事件について連続して書いていたら、どこかでリンクを張っていただいたのかアクセスが急増し、コメントもいくつもいただいています。これまでの繰り返しになる部分もありますが、今回はコメントへの返答も兼ねて書くことにします。
 
この事件について考えるとき、いちばんたいせつなのは、このような悲劇が二度と起こらないようにするにはどうすればいいかということです。このことに異論のある人はいないでしょう。
そうすると、自殺した中2男子生徒の気持ちになって考える必要があります。これが肝心なところです。しかし、私の見る限り、自殺した生徒の気持ちになって考えている人はほとんどいません。
 
自殺した生徒の親の気持ちを持ち出す人はいっぱいいます。しかし、当たり前ですが、自殺した生徒とその親とは別人格です。
また、自殺した生徒の親を指すのに「被害者遺族」という言葉を使う人もいますが、これは不適切です。正しくは「自殺者遺族」です。「被害者遺族」という言葉は「犯罪被害者遺族」を連想させます。「犯罪被害者遺族」はイノセンスですが、「自殺者遺族」は親族を自殺させた罪を問われる被告の立場ですから、まったく違います。
 
さて、生徒はなぜ自殺したのかというと、イジメがひとつの原因だったことは明らかでしょう。しかし、原因はそれひとつだったとは限りません。
 
中学2年生の生活を考えてみると、家庭と学校のふたつに生活の場があります。自殺した場合、その両方に自殺の原因を探らねばなりません。
学校でひどいイジメにあっていたとしても、家庭生活が楽しいものであれば、死ぬとは思えません。
いや、そもそもまともな家庭であれば、子どもが死ぬほど思い詰めていれば、親は気づくはずですし、なんらかの手を打つはずです。
しかし、報道によると、この親は子どもが自殺するまでイジメに気づいていなかったようなのです。
いったいどんな家庭環境だったのか知りたくなりますが、マスコミの報道は学校のイジメのことばかりなので、これでは自殺の原因の解明はできないと私は主張しているわけです。
 
とはいえ、少しは家庭環境についての報道もあります。
 
大津いじめ、自殺2日前「登校イヤ」家族に相談(読売新聞)
大津自殺少年 祖父母から金盗み「悪い友と交際ない」と手紙(女性セブン)
 
このふたつについては過去のエントリーで紹介しましたが、もうひとつあったのでここに張っておきます。
 
 
蛙食べさせられた大津自殺少年 親戚宅でひどい下痢していた
滋賀県大津市で昨年10月、いじめが原因で自殺した当時中学2年生だったAくん(享年13)。Aくんは、いじめに遭っていることを一切口に出さず、家族の前ではむしろ元気に振る舞っていた。卓球部の試合があると、「今日頑張ったんやで」と得意げに家族に話していたという。
 
 昨年の夏休みが終わったころから、突然、Aくんは仲良しグループの生徒たちからいじめられるようになり、やがて金銭も要求されるようになっていったという。初めは、自分の口座からお金を引き出し、いじめた生徒たちに渡していた。次第にAくんの口座も底がつき、今度は、祖父母の家からお金を盗んで渡していたという。
 
 しかし、思い返せば、いじめの被害に遭っていた痕跡はお金以外にもあったという。
 
「“蜂を食べさせられていた”とアンケートにあったそうですが、実際にはカエルまで食べさせられていたみたいです。あるとき、親戚の家に遊びに行ったとき、もうすごい下痢をしたみたいで…。きっと変なものを食べさせられたから、お腹を壊したんでしょうね…」(Aくん一家の知人)
 
 さらに、この知人が言葉を詰まらせながら続ける。
 
「メガネのフレームが壊れていたときがあったそうです。“メガネ、どうしたん?”って聞いても、“ちょっとコケただけや”って答えるだけだったらしくて…。周りに心配かけまいとしたんでしょうね。本当に優しい子でした」
 
 家族や友達にも相談できぬまま、徐々に生きる希望を失い、“死”を真剣に覚悟するようになっていったAくん。祖母に一度だけ、理由もいわずに本音をさらけ出したことがあったという。
 
「鼻水を垂らしながら、おばあちゃんにしがみついて、“おばあちゃん、ボクなぁ、死にたいねん…”って泣きついたそうです」(前出・知人)
 
 その数日後、Aくんは自ら命を絶った。
 
「遺体は傷もなくて、きれいだったと聞いてます…。本当に安らかな顔をしていて、ようやく苦しみから抜け出して、ほっとしたような表情だったそうです。お父さんは冷静さは保っていますが、やっぱりショックでショックで仕方ないんです。“あのとき、こうしておけば…気づいてあげていれば…”なんてことを何度も何度もこぼしてましたよ」(前出・知人)
 
※女性セブン2012726日号
 
 
おばあちゃんにはしがみついて「死にたいねん」と本音を言えたのに、両親には最後まで本音を言えなかったのはなぜでしょう。
「今日頑張ったんやで」とは言えるが、「今日あかんかったわ」と言えない家庭だったのでしょうか。だとすると、「学校でイジメられてるんや」と言えなかったのもわかりますが。
 
よく、親に心配をかけたくないのでイジメのことを話さなかったのだという人がいますが、親に心配をかけたくない子どもが、親に子どもを喪う悲しみを味わわせるというのは矛盾しています。
 
子どもが学校でイジメられていることを親に話さないことはよくありますが、それはどちらかというと親のあり方に原因があると思います。たいていの親は「学校でよくやっている子」は好きですが、「学校でイジメられている子」は好きではありません。子どもは本当のことを言うと親から嫌われるのではないかと恐れて、あるいは家庭の雰囲気が悪くなることを恐れて、本当のことが言えないのです(ですから、親はなにがあっても子どもを愛するというメッセージを発していなければなりません)
 
それにしても、親が不機嫌になっても、家庭の雰囲気が悪くなっても、死ぬよりはましだと思って、ほとんどの子は自殺する前に親に救いを求めると思います。親になにも言わずに自殺するというのは、よほど親子関係に問題があるのだと思います。
 
この記事によれば、父親は「“あのとき、こうしておけば…気づいてあげていれば…”なんてことを何度も何度もこぼしてましたよ」ということですが、このへんのことを具体的に語ってもらいたいものです。世の中には子どもがイジメられているのに気づかない親がいっぱいいると思われますが、そういう親に参考になりますし、イジメられている子を救うことにもなります。
 
しかし、父親は損害賠償を求めて加害少年と保護者と市を訴えている立場です。学校がイジメに気づかなかったのは過失責任だと主張しているのですから、自分もイジメに気づかなかったと言うと、過失相殺されてしまうので、弁護士から止められているのかもしれません。
 
この裁判は、自殺した少年からすれば、加害少年や学校や教委と自分の両親とが互いに相手に責任をなすりつけ合っている裁判です。
天国の少年は、双方が反省してくれることを望んでいるに違いありません。
 
 
 
学校や教委はイジメを隠蔽しようとしてきましたが、マスコミは家庭の問題を隠蔽しようとしています。それは、マスコミの人も問題のある家庭を持っていて、それから目をそらしていたいからではないかと私は思っています。
 
私がこうして家庭の問題を追及していると、加害少年や学校や教委の味方をしているのではないかと誤解されるおそれがあり、それが少々つらいところです。
 
しかし、私は加害少年や学校や教委を非難している人たちに同調する気はまったくありません。
現在の教育界には大きな問題があり、大津市の学校や教委の問題は、いわば氷山の一角です。氷山の一角だけ集中攻撃している人たちに、教育界全体を改革しようという気持ちがあるとは思えません。
むしろ、目立つものを集団で攻撃するというのは、イジメの構造そのものです。
 
 
 
大津市中2男子生徒自殺事件についてこれまで書いたエントリーを紹介しておきます。私は最初から一貫したことを主張しているので、今回書いたことと重複している部分もかなりあります(「大津市イジメ事件」というカテゴリーにまとめたので、そこから入れば効率的に読めます)。
 
「イジメ自殺事件の根本問題」
「自殺した子どものために」
「異常な学校と異常な家庭」
「家族関係からの逃走」
「他罰的傾向の父親?」
「イジメの構造」

イジメについての議論が盛んです。
朝日新聞は連日、朝刊一面で「いじめられている君へ」と題して、有名人の自身のイジメられた体験などを織り込んだ助言を掲載しています。こんな人も子ども時代はイジメられていたのかというおもしろさがあり(ボクシングの内藤大助さん、経済評論家の森永卓郎さん、モデルの押切もえさんなど)、イジメられていても人生の成功者になれることを教える効果もあるかもしれません。
しかし、中学生までの子どもというのは自己決定権がほとんどないので、子どもに助言するのは筋違いのきらいがあります。
 
たとえば、学校に行かないというのは手っ取り早いイジメ回避策ですが、子どもが学校に行きたくないと言うと、おそらく9割の親は反対するでしょう。で、親に反対されると、子どもは学校に行かないわけにいきません。
親が反対するのは、憲法に義務教育の規定があるからでもあります。しかし、親が子どもの意志を尊重しないというのはよくありません。私は憲法改正をして義務教育を廃止するべきだとかねてから主張しています。
 
義務教育というのは、子どもに学校に行く義務があるのではなく、親に子どもを学校に行かせる義務があるということです。憲法の条文を示しておきます。
 
日本国憲法第26条2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。 
 
親子関係というのは人間関係の基本であり、また国家のもっとも基礎をなす部分です。そこに外部から義務規定を持ち込むというのは根本的に間違っています。
義務教育規定があるために、学校にイジメがあっても、体罰をする教師や無能な教師がいても、親は子どもを学校に行かせなければならないので、逆に学校の堕落を招いてしまいます。
日本国憲法は、帝国憲法にあった兵役の義務を廃止したのですから、同時に教育の義務も廃止すればよかったのだと私は主張しています(代わりに子どもの学習権を規定します)
 
憲法談義はさておいて、イジメとはなにか、イジメにどう対処するべきかについて考えてみましょう。
 
「イジメは犯罪だから警察力で対応しろ」と主張する人がいます。最近そういう声が強まっています。
しかし、警察は犯罪の事後処理をするだけで、犯罪の予防はしません。また、警察が対象とするのは、当然ながらひどいイジメだけです。学校でのイジメは広範囲に存在しますから、そういうのは放置されることになります。つまり、警察力でイジメを解決することはできないのです。
 
イジメについて考えるとき、たいていの人は「イジメっ子は悪い」というふうに考えてしまいます。こういう発想ではだめです。善人、悪人で色分けするというのは、「水戸黄門」とかハリウッドのエンターテインメント映画の発想です。現実はそんなに単純なものではありません。今では、単純に善人と悪人に色分けされたような小説は、エンターテインメント小説としても底が浅いとして売れません。
 
善人、悪人というような道徳的発想をすべて頭の中から追い出すと、現実が正しく見えてきます。
もっとも、この現実は複雑系です。無数の要素の相互作用によって決定されるので、すべてを把握するということはできません。
今回は、とりあえず私にわかる部分だけ書いておきます。
 
学校内のイジメは、当然ながら学校という環境が大きな原因になります。子どもがストレスを強く感じるような学校は当然イジメもひどくなります。
動物園の檻が狭いと動物同士のイジメが発生しやすいのと同じです。
 
同じ学校の中でも、子どもの資質や家庭環境によって、イジメっ子とイジメられっ子が発生します。
イジメっ子というのは、誰でも見境なくイジメるのではなく、イジメる対象を選びます。ですから、イジメられやすい要素を持った子がイジメられっ子になります。
こういうことを言うと、「イジメられる子が悪いということか」と怒る人がいますが、そういう発想はやめてくださいとお断りしています。
 
イジメられっ子というのは、たとえば気が弱くて、あまり友だちがいなくて、成績がよくなかったり(ときには成績がよかったり)、家が貧乏だったり、日本の文化になじんでいなかったりという要素を持った子どもです。
 
イジメっ子というのは、活動的で、攻撃的で、仲間がいる(イジメというのはたいてい集団で行われるので)というタイプです。
 
イジメっ子とイジメられっ子が出会ったときにイジメが発生します。
 
ですから、イジメられっ子は学校を変わることでとりあえずイジメを回避することはできますが、イジメられやすい要素はそのままですから、新しい学校でもほかの子よりもイジメられる可能性は高くなります。
 
イジメっ子というのは、たいてい家庭で強い圧力にさらされています。たとえば、成績が悪いと叱られる、物事をテキパキとしないと叱られるなどです。そういう子は、学校で成績の悪い子や動作がのろい子をイジメやすくなります。
また、家庭で暴力を振るわれている場合も、当然ほかの子に対して暴力的に振舞うことになります。
 
イジメられっ子の場合も実は同じです。家庭でいつも成績が悪いといって叱られていたり、暴力を振るわれていたりすると、学校でイジメられやすくなります(ですから、立場が変わるとイジメやすくもなります)
 
このように「イジメる・イジメられる」という関係が生じるのは、イジメられるほうがその関係を拒否しないからです。
ここがイジメを理解する上でひじょうに重要なところです。
 
普通の子なら、少しでもイジメにあうと、反撃するなり、拒否の態度を示すなりします。イジメっ子に誘われても二度とついていきません。ですから、「イジメる・イジメられる」という関係が持続することはありません。
 
しかし、イジメられっ子というのは、イジメっ子との関係をみずから断とうとしないのです。
これは、イジメっ子の暴力が怖くて関係を断てないのだと一般に思われていますが、それだけではありません。イジメられっ子はイジメっ子に心理的に依存する場合が多いのです。
 
これは、恋人間のドメスティック・バイオレンスに似ています。男から暴力を振るわれても関係を絶たない女性がいますが、それと同じようなものです。
ですから、離れたところからイジメっ子とイジメられっ子を見ていると、友だち関係のように見えることがよくあります。また、イジメっ子もこれがイジメとは思っていないこともよくあります。
 
こうした関係が生じるのは、イジメられっ子が親から十分な愛情を受けていないことが原因だと私は思っています。これは最近、「愛着障害」という言葉で説明されるようになりましたが、これを話すと長くなるので、ここでは省略します。
 
つまり、イジメというのは、学校環境、家庭環境、個人の資質から発生するもので、とりあえずの対策としては、イジメっ子とイジメられっ子を分離することや監視することが有効ですが、根本的には学校環境と家庭環境を改善しなければなりません。
とはいえ、社会環境がまともでないのに、学校環境と家庭環境だけよくするということは事実上不可能で、根本的解決には長い時間がかかります。
 
しかし、家庭で子どもに十分な愛情を注いでいれば、子どもはイジメっ子にもイジメられっ子にもならないものだと私は思っています。
 
それにしても、テレビのコメンテーターなどは、イジメ加害者は少年院送りにしろなどという愚論しか言えない人がほとんどです。こういう人たちの家庭は大丈夫かと心配になります。

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