村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

カテゴリ: 元少年A「絶歌」

元少年Aが長文の手紙を送りつけてきたということで、週刊文春と週刊新潮がその記事を載せています。私は両誌とも立ち読みしましたが、内容はほとんど同じです。
 
ネットではここが詳しく書いています。
 
ナメクジだらけのHPよりもスゴい中身…少年Aが『絶歌』出版から逃げ出した幻冬舎・見城徹社長の裏切りを告発!
 
また、元少年Aが開設したホームページはこちらです。
 
元少年A公式ホームページ
存在の耐えられない透明さ
 
元少年Aがこの時期に週刊誌などに手紙を送ってきたのは、ホームページを開設したことの宣伝と、「絶歌」の宣伝という意図が根底にあると思われます。ここで取り上げるのは宣伝の片棒を担ぐ格好になりますが、「絶歌」についていろいろと書いてきたいきさつがあるので、やはり取り上げることにします。
 
元少年Aは幻冬舎の見城徹社長のことをひじょうに批判していて、それが手紙の主旨であるようです。
見城社長は最初は「絶歌」の出版に前向きだったのに、途中で態度が変わりました。世間の反応を気づかったものと思われますが、元少年Aはそれを裏切りととらえたわけです。しかし、見城社長は太田出版の岡社長を紹介して、最終的に出版を実現させているので、それほど不誠実とも思えません。
 
元少年Aは「かつては『心の父』と慕い、尊敬していた人物のみっともない醜態を見せつけられることほど辛いものはありません」と書いています。
「心の父」という言葉が元少年Aの思考と感情を解明するキーワードです。
 
元少年Aは両親から虐待されて育ちました。つまり親の愛を十分には受けていないわけです。そういう人は世の中に出てから、親代わりの人を見つけて足りなかった愛を獲得しようとしますが、たいていうまくいかずに人間関係のトラブルを引き起こします。心理学用語の「転移」というやつです。
 
■転移
 transference
 
 カウンセリングや心理療法をしていく中で、クライアントが無意識にカウンセラー・治療者に対して、親など過去に出会った人物に対して抱いたものと同様の感情や態度を示すときがある。
 
 これを転移といい、陽性と陰性に分かれる。陽性転移の場合は信頼、感謝、尊敬、情愛などで、陰性転移の場合は敵意、不信、恨み、攻撃性などの感情である。
 
 治療者は、これらの感情を分析することでクライアントの心の中核に迫っていき、治療に活かすことができる。
 
 クライアントが自分の依存や不安に気づき、こうした転移を乗り越えたとき、治療者との信頼が深まりカウンセリングもスムーズに進む。
 
 クライアントの転移感情は複雑で、甘えと恨みが裏表になっていたり、恋愛感情のあとに攻撃性を示したりなど、両方が現れ、陽性でも陰性でも、そうした感情が強く表れると、反対に治療者が巻き込まれてしまうことがある。
 
 治療過程で、反対に治療者の側がクライアントに特殊な感情(恋愛感情など)を持つようになることを逆転移という。
 
この解説は主にカウンセラーとクライアントの関係のことを言っていますが、見城社長のような権威ある人と新人作家の関係でも当然起こりえます。見城社長にとっては迷惑な話です。
問題は、元少年Aは自分の心理がわかっているのかどうかということです。
 
 
元少年A公式ホームページには「ギャラリー」というコーナーがあって、自作のイラストや写真が多数掲載されています。
同じモチーフのイラストが延々と続いていたり、ナメクジの写真が多数あったりして、見ていると辟易します。
 
私はその中の写真入りのイラストに注目しました。
そこには手書きで高村光太郎の有名な「道程」という詩が書かれています。
しかし、「父」という字が「母」に変えられています。
 
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
僕を一人立ちにさせた広大な
僕から目を離さないで守る事をせよ
常にの気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため
 
この詩の横にあるイラストは、巨大なナメクジに後ろ姿の裸の男がまたがっていて、ナメクジは向こうのほうに遠ざかっていき、ナメクジの光る軌跡が手前から続いているというものです。
これは母親に対して、お前が育てた息子はナメクジと化して人生の道を歩んでいるのだということを言おうとしたものでしょう。
 
ですから、元少年Aは母親への恨みは自覚しているようです(「絶歌」においては「たっぷり愛情を注いでくれた」「僕は今でも、母親のことが大好きだ」などと書かれていましたが、やはり本心ではなかったのでしょう)
 
母親への恨みは自覚しているが、父親への恨みはあまり自覚していないので、見城社長を恨むことになっているのではないかというのが私の見立てです。
元少年Aはもっともっと自分の生育歴を顧みないといけないと思います。
 
それにしても、元少年Aは「絶歌」の出版ではひどいバッシングを受けたので、もしかして落ち込んでいるのではないかと思ったのですが、どうやら元気いっぱいのようです。常人にはない精神力の持ち主です。
しかし、前向きの気持ちがあれば再犯はないと思います。
落ち込んで、自暴自棄になって犯罪に走るというのが、犯罪の基本的なパターンです。
 
今回の手紙とホームページの開設についても、反省がない、謝罪がないという声が多数上がっています。しかし、そういう人は、元少年Aが反省や謝罪をしたら許すのでしょうか。許す覚悟のある人だけが反省や謝罪を求めるべきです。 

このところ続けて「絶歌」を読んだ感想を書いています。
 
14歳の少年が異常な殺人事件を起こしたら、その少年の家庭はどのようなものだったのだろうと誰もが考えます。
今ならその少年は幼児虐待の被害者ではないかと疑われるでしょう。幼児虐待は“魂の殺人”とも言われます。自分が殺されるような体験をしていたら人を殺しても不思議ではありません。
 
しかし、酒鬼薔薇事件が起きた1997年には、幼児虐待はまだあまり社会的に認知されていませんでした。そのため少年Aは普通の家庭で普通に育ったのに異常な殺人を犯したということで「心の闇」ということが言われたのです。
 
それに対して、秋葉原通り魔事件が起きたのは2008年です。犯人の加藤智大は当時25歳でしたが、この時代には幼児虐待が社会的に認知されていたので、週刊誌は加藤が子ども時代に母親から虐待されていたことを派手に報道しました。
その報道は加藤の認識にも影響を与えたのでしょう。彼は獄中で4冊も本を出して、中の1冊は「殺人予防」というタイトルです。私は読んでいないのですが、おそらく幼児虐待が犯罪の原因になることを言っているものと思います。
 
そう判断するのは、加藤は「黒子のバスケ」脅迫事件の犯人である渡邉博史の被告人意見陳述書に共感して、手紙を「月刊創」の篠田博之編集長に送ってきたからです。渡邉の意見陳述書は自分の犯罪の原因を悲惨な幼児期に求めたものです。
つまり秋葉原通り魔事件の加藤も、「黒子のバスケ」脅迫事件の渡邉も、自分の幼児期の虐待が犯罪の原因であるという認識を持っているのです。
 
このへんの事情は次の記事に書きました。
 
「黒子のバスケ」脅迫事件被告からのメッセージ
 
元少年Aもそうした認識を持っていいはずです。
元少年Aの場合は、とりわけ母親にきびしくしつけられました。小学校3年のときにこんな作文を書いています。
 
・「ま界の大ま王」  914923(小3
 
 お母さんは、やさしいときはあまりないけど、しゅくだいをわすれたり、ゆうことをきかなかったりすると、あたまから二本のつのがはえてきて、ふとんたたきをもって、目をひからせて、空がくらくなって、かみなりがびびーっとおちる。そして、ひっさつわざの「百たたき」がでます。お母さんはえんま大王でも手が出せない、まかいの大ま王です。
 
ところが、「絶歌」にはそうしたことはまったくといっていいほど書かれていません。むしろ逆に母親は事件の原因ではないと書かれています。
 
母親を憎んだことなんてこれまで一度もなかった。事件後、新聞や週刊誌に「母親との関係に問題があった」、「母親の愛情に飢えていた」、「母親に責任がある」、「母親は本当は息子の犯罪に気付いていたのではないか」などと書かれた。自分のことは何と言われようと仕方ない。でも母親を非難されるのだけは我慢できなかった。母親は事件のことについてはまったく気付いていなかったし、母親は僕を本当に愛して、大事にしてくれた。僕の起こした事件と母親には何の因果関係もない。母親を振り向かせるために事件を起こしたとか、母親に気付いてほしくて事件を起こしたとか、そういう、いかにもドラマ仕立てのストーリーはわかりやすいし面白い。でも実際はそうではない。
(中略)
「僕の母親は、“母親という役割”を演じていただけ」
「母親は、ひとりの人間として僕を見ていなかった」
少年院に居た頃、僕はそう語ったことがある。でもそれは本心ではなかった。誰も彼もが母親を「悪者」に仕立て上げようとした。ともすれば事件の元凶は母親だというニュアンスで語られることも多かった。裁判所からは少年院側に「母子関係の改善をはかるように」という要望が出された。そんな状況の中で、いつしか僕自身、「母親を悪く思わなくてはならない」と考えるようになってしまった。そうすることで、周囲からどんなに非難されても、最後の最後まで自分を信じようとしてくれた母親を、僕は「二度」も裏切った。
(中略)
あんなに大事に育ててくれたのに、たっぷり愛情を注いでくれたのに、こんな生き方しかできなかったことを、母親に心から申し訳なく思う。
母親のことを考えない日は一日もない。僕は今でも、母親のことが大好きだ。
 
これはいかにもそらぞらしい文章です。「絶歌」には留置所に面会にきた母親に「はよ帰れやブタぁー!」と叫ぶ場面も書かれているので、それとも矛盾します。
しかし、「絶歌」に対する反応を見ていると、これをそのまま信じている人もいます。
 
好意的に解釈すれば、母親がこれ以上社会的に非難されないように配慮したのかもしれません。
しかし、私自身は、元少年Aは自分が社会に受け入れられるために社会の常識に合わせて書いたのではないかという気がします。
 
現に「絶歌」はベストセラーになっています。
 
しかし、真実を偽ったのでは、むなしいベストセラーというしかありません。

元少年Aが書いた「絶歌」を読んで感じたことの続きです。
 
「絶歌」についてはさまざまな批判があります。反省がない、文学趣味に走りすぎ、自己顕示欲だ、金もうけ目的だなどですが、どれもうわべの批判です。どうせ読まずに批判しているのでしょう。
 
「週刊ポスト」最新号に「ビートたけし『元少年Aは下品すぎだぜ』」という記事があったので、立ち読みしてみたら、やはり読まずの批判でした。
もし「絶歌」が上品に書かれていたら、そのほうがよほど批判に値します。それに自分は下品なギャグを言っているのに人のことを下品と批判するのもおかしなことです。
 
「絶歌」を批判する人の脳内では、おそらく元少年Aが今も14歳の少年Aのままなのでしょう。
実際はあれから18年たって、法的な償いが済んでいることはもちろん、人格も変わっています。
そこには「育て直し」を行った医療少年院のスタッフを初めとする多くの人の力があります。元少年Aを批判する人は、元少年Aを傷つけるのはもちろん、元少年Aの更生に力を尽くした多くの人も傷つけています。
 
 私は元少年Aを擁護していますが、「絶歌」の内容を擁護しているわけではありません。むしろ誰よりも「絶歌」の内容を批判しているかもしれません。
今回はそれを書いてみます。

 
元少年Aはあの犯行の原因や動機を正しくとらえていません。むしろごまかしています。ここが「絶歌」の最大の問題点です。
 
犯行の動機については、少年Aの精神鑑定書に一応書かれています。「性的サディズム」が原因だというのです。
 
しかし、「性的サディズム」というのは、言い換えればSM趣味のことで、SM趣味はアダルトビデオでは一大ジャンルを形成しているぐらいありふれたものです。SM趣味があるから殺人をするということはありません。
 
精神鑑定書では、そこに祖母の死を持ってきて、性的サディズムと死を結びつけるという“物語”をつくっています。そこのところを元少年Aは「絶歌」でこのように書いています。

 
精神鑑定書には次のように書かれている。
 
未分化な性衝動と攻撃性との結合により持続的かつ強固なサディズムがかねて成立しており、本件非行の重要な要因となった。
 
最愛の祖母の死をきっかけに、「死とは何か」という問いに取り憑かれ、死の正体を解明しようとナメクジやカエルを解剖し始める。やがて解剖の対象を猫に切り換えた時にたまたま性の萌芽が重なり、猫を殺す際に精通を経験する。それを契機に猫の嗜虐的殺害が性的興奮と結び付き、殺害の対象を猫から人間にエスカレートさせ、事件に至る。
実に明快だと思う。ひとかけらの疑問も差し挟む余地がない。しかしどうだろう? もしもあなたが、多少なりとも人間の精神のメカニズムに興味を持ち、物事を注意深く観察する人であるならば、このあまりにもすんなり「なるほどそういうことか」と納得してしまう、“絵に描いたような異常快楽殺人者のプロフィール”に違和感を覚えたりしないだろうか?
 
かなり皮肉な書きぶりです。ここだけ読むと、元少年Aは精神鑑定書の“物語”を否定しているのかと思えます。
しかし、その後の展開は逆です。精神鑑定書の性的サディズムと祖母の死が結びついたという“物語”を補強するのです。
 
彼は祖母の死後、よく祖母の部屋に行って、祖母の思い出にひたります。そしてあるとき、祖母の愛用の電気按摩器を取り出します。

 
祖母の位牌の前に正座し、電源を入れ、振動の強さを中間に設定し、祖母の思い出と戯れるように、肩や腕や脚、頬や頭や喉に按摩器を押し当て、かつて祖母を癒したであろう心地よい振動に身を委ねた。
何の気なしにペニスにも当ててみる。その時突然、身体じゅうを揺さぶっている異質の感覚を意識した。まだ包皮も剥けていないペニスが、痛みを伴いながらみるみる膨らんでくる。ペニスがそんなふうに大きくなるなんて知らなかった。僕は急に怖くなった。
不意に激しい尿意を感じた。こんなところで漏らしては大ごとになる。だがどうしても途中でやめることができなかった。苦痛に近い快楽に悶える身体。正座し、背を丸め前のめりになり、按摩器の振動にシンクロするように全身を痙攣させるその姿は、後ろから見れば割腹でもしているように映ったかもしれない。
遠のく意識のなかで、僕は必死に祖母の幻影を追いかけた。祖母の声、祖母の匂い、祖母の感触……。涙と鼻水とよだれが混ざり合い、按摩器を掴む両手にポタポタと糸を引いて滴り落ちた。
次の瞬間、尿道に針金を突っ込まれたような激痛が走った。あまりの痛さに一瞬呼吸が止まり、僕は按摩器を手放し畳の上に倒れ込んだ。
(中略)
僕は祖母の位牌の前で、祖母の遺影に見つめられながら、祖母の愛用していた遺品で、祖母のことを思いながら、射精を経験した。
僕のなかで、“性”と“死”が“罪悪感”という接着剤でがっちりと結合した瞬間だった。
 
要するに初めての射精は、祖母の部屋で祖母の思い出にひたりながらだったので、そのために性と死が結びついたというのです。
 
この文章には三島由紀夫の「仮面の告白」の影響が感じられます(元少年Aは三島由紀夫と村上春樹に傾倒しています)
かりにここに書かれていることが実際にあったとしても、“死”と“殺人”は違います。
偶然人が殺される場面を目撃したときに性的興奮を覚えて、それから殺人シーンを思い浮かべながらオナニーするようになったという“物語”なら多少説得力があるかもしれませんが、祖母は普通に病院で死んだのですし、元少年Aは祖母を慕っていて、その死を悲しんでいます。どうしてそこに“殺人”が出てくるのでしょうか。
 
もともと性的サディズムに祖母の死を結びつけるという精神鑑定書の“物語”にむりがあったのですが、そのむりの上にむりを重ねた格好です。
 
ネクロフィリアといって死体を愛好する変態性欲がありますが、ネクロフィリアの人が殺人をするわけではありません。SM趣味の人が殺人をするわけでないのと同じです。
 
人を殺すというのはよほどのことです。よほどのことが原因になったに違いありません。
 
14歳の少年といえば、家庭と学校に完全に管理されています。元少年Aの場合、不良グループに属していたということもありません。
 
そうなると、家庭と学校の責任が問われます。
それはおとなにとってひじょうに都合の悪いことです。
 
しかも少年は「さあ、ゲームの始まりです」という犯行声明文を出したので、おとな社会は震撼しました。
 
そこですべて14歳の少年の内面に責任があることにしようというのが精神鑑定書の“物語”です。
「少年法の厳罰化」が打ち出されたのも、おとなの責任から目をそらさせるためでしょう。
 
現在、「絶歌」を抹殺しようという動きがひじょうに激しいのも、そうした流れを受け継いでいると思われます。
しかし、「絶歌」の内容は、精神鑑定書をなぞったものになっているので、おとなたちにとって不都合なものはなにもありません。
元少年Aは“おとな”になったのです。
 
「絶歌」の内容をひと言でいえば、「さあ、ゲームの終了です」ということになります。

私からすれば、そこが「絶歌」のいちばんの問題点です(考えてみれば私も過激思想の持ち主ですね)

元少年Aの書いた「絶歌」を読みました。
 
「絶歌」は2部構成になっていて、第1部は犯行に至るまでの過程と、逮捕後の取り調べの過程が交互に描かれ、第2部は少年院を出てからの社会復帰の道のりが描かれます。
 
第1部は、書きにくいことをよく書いたなあという印象です。当然、残虐なシーンもあります。被害者遺族が読むのはつらいでしょう。
しかし、ほんとうは被害者遺族こそが読むべき本だと思いました。第2部だけでも読むといいのですが。
 
おそらくみんなが知りたいのは、元少年Aがどういう人間で、どうしてあんな残虐な犯罪をしたのかということでしょう。
 
精神科医の香山リカさんも、「何らかの脳の機能不全」があると推測し、それにあえて名前をつけるとすれば「サイコパス」であると言っています。
 
香山リカ、『絶歌』から「元少年A」の脳の機能不全を読み解く
 
しかし、私自身は「絶歌」を読んで、元少年Aが生まれながらの異常者であるとはまったく思いませんでした。
では、彼はどうしてあのような異常な犯行に及んだのかというと、私の考えでは、間違った環境で間違ったことを学習したからです。
間違った学習は修正が可能です。その人間の本質ではありません。
 
そのへんのことを、私の主観が入らないように、できる限り引用によって示したいと思います。
 
 
本文の第1ページ目にこう書かれています。
 
「少年A」――それが、僕の代名詞となった。
僕はもはや血の通ったひとりの人間ではなく、無機質な「記号」になった。それは多くの人にとって「少年犯罪」を表す記号であり、自分たちとは別世界に棲む、人間的な感情のカケラもない、不気味で、おどろおどろしい「モンスター」を表す記号だった。
 
自分が世間からどう見られているかを正確に把握している文章です。異常者にこういう文章が書けるとは思えません。
 
このあと、自分がどういう人間であるかを説明しますが、これがとてもわかりやすい説明です。
 
中学時代の同級生たちのことを思い出してみてほしい。最初に思い出すのは誰だろう? 成績優秀、スポーツ万能、おまけに容姿にまで恵まれた学級委員長の彼だろうか?
二番目に思い出すのは誰だろう? 根アカで、話が面白くて、いつも場を盛り上げていた、ムードメーカーの彼だろうか?
三番目に思い出すのは誰だろう? 髪を染め、タバコをふかし、ケンカに明け暮れ、時折はにかんだような可愛い笑顔を見せてくれた彼だろうか?
全員出揃ったところで、教室の片隅に眼をやってみてほしい。ほら、まだいたではないか。あなたが、顔も名前も思い出せない誰かが。自分と同じクラスにいたことさえ忘れている誰かが。
勉強も、運動もできない。他人とまともにコミュニケーションを取ることもできない。教室に入ってきても彼のほうを見る者はいない。廊下でぶつかっても誰も彼を振り返りはしない。彼の名を呼ぶ人はひとりもいない。いてもいなくても誰も気付かない。それが僕だ。
どの学校のどのクラスにも必ず何人かはいる、スクールカーストの最下層に属する“カオナシ”のひとりだった僕は、この日を境に少年犯罪の“象徴(カオ)となった。
 
この説明は、読者が学校にたいしてどういう認識を持っているかということを踏まえた上でなされているので、読者としては実に腑に落ちます(元少年Aが実際にこの通りの人間かどうかは別です)
 
また、彼はダウンタウンの松本人志さんについてこのように書いています。
 
ダウンタウンは関西の子供たちにとってヒーローだった。「ダウンタウンのごっつええ感じ」が放送された翌日には、みんなで彼らのコントのキャラを真似して盛り上がった。
他の同級生たちがどう見ていたのかは知らないが、僕がダウンタウンに強く惹きつけられたのは、松本人志の破壊的で厭世的な「笑い」の根底にある、人間誰しも抱える根源的な「生の哀しみ」を、子供ながらにうっすら感じ取っていたからではないかと思う。にっちもさっちもいかない状況に追い詰められた人間が「もう笑うしかない」と開き直るように、顔を真っ赤にして、半ばヤケっぱちのようにギャグを連射する松本人志の姿は、どこか無理があって痛々しかった。彼のコントを見て爆笑したあとに、なぜかいつも途方もない虚しさを感じた。
 
松本人志さんの本質をこれほど的確にとらえた文章はほかにないのではないでしょうか。
松本さんは「絶歌」の出版に関して、テレビで「僕は読まない」と明言しましたが、残念なすれ違いです。
 
ともかく、元少年Aの人間を認識する能力に大きな欠陥があるとは思えません。
ただ、人間関係の能力には問題があります。しかし、それは今どきの人間にはありがちなものでもあります。
 
彼は少年院を出て、ある更生保護施設の離れに泊まり、就労先を世話してくれる別の更生保護施設に通うという生活をすることになりますが、初めて朝早く別の更生保護施設に行ったときはこんな調子です。
 
朝早く、まだ他の入居者が寝ている暗いうちに、こそこそと離れを出る。電車に乗り、先方の施設の最寄り駅に着くと、改札を抜け、駅前のファーストフード店で朝食を摂る。三十分ほど時間を潰し、店を出て歩きながら、施設長にこれから向かいますと電話をかける。十五分ほどで施設に着く。インターフォンを鳴らし、施設長に挨拶を済ませると、箒と塵取りを借りて、仕事が始まる時間まで施設の周りを掃き掃除する。犬の散歩をしているおばさんが通りかかり、
「ごくろうさまぁ~」
と声をかけてきた。僕は声を出さずに小さく会釈して掃除を続ける。二十分ほど掃除を続けていると、玄関から施設長が出てきて僕にこう言った。
「おぉ~い、もぉいいって。仕事の前からそんな働くことない。こっちきて、いっしょに茶でも飲もぉや」
こういう時は「はい、わかりました」と返答し、気を利かせ声をかけてくれた施設長の言うとおりにするのが“正解”だということを、僕は知らなかった。
「いいです、いま喉渇いてません」
バカなのかと思われてしまいそうだが、僕はこのとおりに言った。施設長はちょっと困ったように頭をぽりぽり掻いて、でも不快そうにするわけでもなく、踵を返してゆったりとした足取りで家の中に入っていった。僕はかまわずに掃除を続けた。
僕は自分の家や自分の部屋、自分の領域に他人が入ってくることが苦手だ。同じように、他人の領域に自分が足を踏み入れることにも強い抵抗を感じる。相手が自分の過去を知っている場合は余計にそうだ。たとえ向こうが気にしない場合でも、僕が気にする。落ち着かなくなる。うまく言えないのだが、自分が属する世界を見失いそうになるのが嫌なのだ。
 
彼は更生保護施設を出て、今度は篤志家のYさんの家に世話になります。
保護観察所の課長と次長といっしょにYさんの家に初めて行ったときはこんな様子です。
 
玄関の引き戸は半分開けられていた。課長がインターフォンを押す。ぺちゃぺちゃとペンギンが歩くような足音を響かせながら、Yさんが玄関から出てきた。
「こんにちは。今日からよろしくお願いします」
僕はYさんに挨拶した。
「やあ。やっと来てくれたね。待ってたよ。ささ、そんなところに突っ立てないで、上がった上がった」
Yさんは僕と課長と次長を家の中に招き入れた。キッチンでは奥さんがスキヤキ鍋の準備をしていた。
「こんにちは。お世話になります」

僕は奥さんに挨拶した。
「あぁ、いらっしゃい。お腹空いたでしょう? ほらほら、座ってちょうだいな。あなたたちも、ほら」

そう言って奥さんは、僕と観察官たちをテーブルに促し、四人で鍋をつついた。
Yさんと彼の奥さんは、すべて事情を知った上で僕を自分の家に置いてくれた。彼らがいなければ、僕の社会復帰はなかった。
Yさんはとても明るくて、愉快な人だった。人とのどんな些細な繋がりも大事にしていた。僕の他にも、過去に傷がある人や、生き辛さを抱える人たちのために、手弁当であちこち駆け回り、無償で尽くしていた。
Yさんの奥さんは、穏やかで、物静かであるが、そこはかとない芯の強さと忍耐力を感じさせる人だった。奥さんは人付き合いが苦手な僕のことをよく理解してくれて、いつも一歩引いたところから、僕を支え、見守ってくれた。
彼ら二人は、嫌な顔もせず、文句のひとつも言わず、取り返しのつかない罪を犯した僕を実の家族のように迎え入れてくれた。食事や身の回りの世話ばかりではなく、これからどのように生き、罪を償っていけば良いのかを、僕と一緒に悩み、真剣に考えてくれた。自分でも気付かないところで、どれほどこの二人に支えられたかわからない。
Yさんは、僕が少しでも早く地域に溶け込めるように、僕をいろいろなところに連れて行き、友人知人に僕のことを「息子です」と言って紹介した。Yさんと親しい人たちも、皆親切だった。
 
Yさんのような人にはまったく光が当たりませんが、実際に世の中をささえているのはYさんのような人です。
 
私は前に「出口政策」と「入口政策」という言葉を使ったことがあります。刑務所の入口には、司法当局が推進する厳罰化の風潮に乗った人たちが群れて、「死刑にしろ」「反省しろ」「謝罪しろ」と叫んでいますが、刑務所の出口にはYさんのような人や無給の保護司がいて、静かに更生の手伝いをしています。
 
元少年AはYさんのもとにいてプレス工として働き、なんの問題もなかったのですが、自立への欲求が高まって、Yさんやサポートチームの管理下から飛び出して、まったく一人で生活するようになります。
そこにリーマンショックがきて、いわゆる派遣切りにあうなどしますが、困難な中で一人の若者が自立と自己回復を目指す過程は、普通におもしろく読めますし、感動的でもあります。
 
 
ともかく、元少年Aはもともと普通に生まれついていたと思われます。
一時異常な世界に行ってしまいますが、医療少年院、少年院、出所後のサポートチームなどの人々の支援でかなり立ち直ったと思われます(「反省しろ」などと叫ぶ人はなんの役にも立ちません)
 
そうすると、彼が一時異常な世界に行ってしまったのはなぜかということになりますが、それについては次回に書くことにします。

元少年Aの書いた「絶歌」をようやく手に入れたので、読み終えたら感想をアップします。
途中の印象ですが、残虐描写もあって、一般の人にはあまりお勧めできません。ですから、「私は読みたくない」という人が多いのもわかります。
とはいえ、自分が読みたくないからといって、読みたい人の権利を踏みにじるような主張をしてはいけません。
 
「絶歌」の出版を巡る動きを見ていると、私は昔よくテレビでやっていた西部劇のシーンを思い出します。
 
1960年代の日本のテレビはアメリカのドラマが花ざかりで、中でも西部劇は人気でした。
子どものころに見たものの影響は大きく、私は「人生でたいせつなことはすべて西部劇で学んだ」と言ってもいいぐらいです。
 
西部劇でよくあったのは、町の人を殺した犯人を保安官が逮捕して留置場にぶち込むと、町の人々が保安官事務所の前に押し寄せてきて、「犯人を引き渡せ」「やっちまえ」「吊るしてしまえ」と口々に叫ぶというシーンです。
主人公と保安官は体を張って町の人々に対峙し、「リンチはいけない。犯人は法の裁きにかけるべきだ。○日後に巡回判事がくるから、それまで待て」と言って説得します。
西部劇にこのシーンはよくありましたから、犯人をリンチするということはかなり行われていたのでしょう。そういう無法の世界を法の支配する世界に変えていくというのが西部劇の隠れたテーマです。
 
留置場にぶち込まれた容疑者は、実は濡れ衣を着せられていて、巡回判事がくるまでに真犯人を捕まえて無実を証明しなければならないというのがよくあるストーリーですが、ほんとうに憎らしい犯人である場合もあります。その場合も主人公や保安官はリンチをやめさせ、法の裁きにかけようとします。
 
「リンチはいけない」というのはそのときから私の頭に刷り込まれていますが、「絶歌」の出版に反対する人たちの姿は、「やっちまえ」と叫びながら保安官事務所の前に押し寄せてくる人たちにダブります。明らかに法の裁きでは満足できず、リンチにかけようとしているのです。
 
彼らを止めるために「法の裁きにかけるまで待て」と言うわけにはいません。元少年Aはすでに裁きが終わった身だからです。
つまり犯人でも容疑者でもない人間をリンチにかけようとしているのですから、むちゃくちゃです。
 
問題は、リンチを止めようとする正義の主人公と保安官がいないことです。
 
ネットの世論とテレビのコメンテーターの意見はほとんどリンチ賛成です。
学者とか知識人とか政治家はさすがにそういうことは言いませんが、反対の声も上げません。そのためリンチ賛成派の人たちは互いに肯定し合って、ますます勘違いを強めてしまいます。
 
いや、日本の場合、保安官に当たる司法当局は、これまで少年犯罪の厳罰化を推進してきて、そのために酒鬼薔薇事件を利用し、実際は減少している少年犯罪が増加しているようなイメージを捏造してきました。そして、マスコミも、犯罪報道は優良コンテンツであるため、司法当局の共犯者となってきました。
 
その結果、元少年Aの人権を踏みにじる意見が言い放題というリンチ国家になっています。

女優の広瀬すずさんがテレビの発言で炎上騒ぎを起こし、謝罪したというニュースがありました。
いかにもピュアな印象の彼女がどんな発言をしたのかと興味を持って見てみました。
 
 
広瀬すず、”スタッフ軽視”発言を謝罪「軽率な発言がありました」
 
女優の広瀬すず(17)が19日、自身のツイッターを更新。きのう放送の番組での“スタッフ軽視”発言について、「いつもお世話になっているスタッフの方々に誤解を与えるような発言をしてしまい申し訳ありませんでした」と謝罪した。
 
広瀬は18日、フジテレビ系バラエティー『とんねるずのみなさんのおかげでした』(毎週木曜 後900)の「食わず嫌い王決定戦」に出演。「冷めててドライなんですよ」と自分の性格を分析し、「(電飾を)あんな高いところにかけた人は一生懸命やってるんだな」と感じている、と明かした。
 
MCのとんねるず・石橋貴明から「テレビ局で働いている照明さんなんか見るとどう思うの?」と聞かれると、「どうして生まれてから大人になった時に照明さんになろうと思ったんだろう?」と回答。続けて、音声スタッフについても「なんで自分の人生を女優さんの声を録ることに懸けてるんだろう?と考えちゃう」「大人になって年齢を重ねると共に、本当に…声を録るだけでいいの?」と語った。
 
この発言を受け、ネットでは「裏方のスタッフを軽視している」と批判的コメントが続出。一部スポーツ紙などが取り上げ、広瀬のツイッターへ直接クレームをつけるユーザーも現れた。
 
これらの騒動を受け、広瀬は「先日放送された、『とんねるずのみなさんのおかげでした』の中で、私の軽率な発言がありました。いつもお世話になっているスタッフの方々に誤解を与えるような発言をしてしまい申し訳ありませんでした」と謝罪。「本当にごめんなさい」と反省の意を示した。
 
 
これは、思ったことをそのまま口にした発言です。
彼女は小さいころから女優を志して、とくにここ2、3年は重要な役を演じて、頭の中は女優業のことでいっぱいなのでしょう。ですから、世の中には自分の容姿や才能から女優を諦めた人とか、最初から照明や音声を目指してる人とか、いろんな人がいるということに思い及ばないわけです。
一般の人は、若さと一途さからくる発言として、ほほえましく聞いたと思われます。
しかし、照明さんや音声さんが聞くと、傷つく恐れはあります。
 
ただ、彼女に傷つけようという意図がないのは明らかです。
つまり、こちらには相手を傷つける意図はないのに、相手は傷ついてしまうという、ありがちなコミュニケーション不全の一例です。
 
問題は、彼女の発言をとらえて炎上させた人たちです。
この人たちは彼女を攻撃し、非難しました。つまり彼女を傷つけようという意図があります(彼女になにか言うとすれば、「そういうことを言うと傷つく人がいるかもしれないよ」ぐらいで十分です)。
 
単純に言えば、彼女には悪意がないのに、彼女を非難する人たちには悪意があります。
 
このパターンはいろいろなところで見られます。
 
たとえば、バイト店員炎上事件です。バイト店員はただおもしろがっておバカをやっているだけで、誰かを傷つけようとか、店に迷惑をかけてやろうとかいう気はないのに、それを炎上させる人たちは、バイト店員を傷つけてやろうとか、店に損害を与えてやろうという悪意があります。
 
元少年Aが「絶歌」という本を出版したことを巡る騒動も同じです。元少年Aに誰かを傷つけようという意図があるとは思えませんが、元少年Aを非難する人たちは元少年Aが傷つくことをわかってやっています。
 
犯罪者というのは、すぐに刑務所に入れられてしまうので、たいして世の中を悪くすることはできません。
ほんとうに世の中を悪くしているのは、悪意ある一般の人たちです。
 
広瀬すずさん、バイト店員、元少年Aを並べ、さらにそれらを非難する人たちを並べると、いちばん世の中を悪くしているのは誰かがわかるはずです。

元少年Aが出版した「絶歌」について、読まずに批判する人、出版中止を求める人がいっぱいいます。
そのため大田出版は出版中止を決めるのではないかと心配しましたが、そんなことはありませんでした。大田出版は社長名で出版の意義を訴える声明を発表しました。
 
『絶歌』の出版について
 
しかし、それでもまだ「絶歌」の出版になんだかんだと文句をつける人がいます。
 
たとえば、被害者遺族に知らせることなく出版したのはけしからんという意見があります。
確かに事前にあいさつしておくというのは礼儀かもしれませんが、あくまで礼儀の問題です。出版に被害者遺族の許可がいるわけではありません。
 
それから、このような本の出版は被害者遺族を傷つけるという意見もあります。出版に反対する理由としてはこれがメインでしょう。
 
確かにあの事件のことが書かれた本が出版されると、また事件のことを思い出して、心の傷がうずくということがあるでしょう。しかし、あの事件についてのノンフィクションは何冊も出版されています。そっちがよくて、元少年Aが書いた本はなぜだめなのでしょうか。
元少年Aは社会の片隅でひっそりと生きていてほしい、脚光を浴びて幸せになるのは許せない――そういう感情なのでしょうか。
あまり好ましい感情とはいえませんが、そういう感情があることはしかたないといえます。
 
しかし、元少年Aのほうにも、自分の思いを表現したい、社会に理解してもらいたい、幸せになりたいという感情があるのは人間として当然です。
世の中は元少年Aの感情にも配慮する必要があります。
 
ところが、私の見た範囲では、元少年Aの感情に配慮した意見はまったくといっていいほどありません。
いや、それどころか、彼を傷つける意見があふれています。
 
「絶歌」というタイトルは彼が考えたものだそうです。
「絶歌」という言葉はこれまでありませんでした。なかったのが不思議に思えるほど、単純で力強い言葉です。彼がこの言葉を思いつき、この言葉をタイトルにしようとしたことに、彼の思いの深さがうかがわれます。
 
もちろんお金がほしいという気持ちもあるでしょう。どうせ薄給で働いているに違いなく、印税収入は彼にとって貴重です。印税を被害者遺族に寄付しろという意見がありますが、被害者遺族がお金に困っているという話はなく、自分で書いた本の収入を自分が手にするのは当然です。
 
「絶歌」を読んだ若い人が犯罪に走るかもしれないという意見もありますが、あまり元少年Aを傷つけると、彼を再び犯罪に走らせる、いや、自殺に追い込むかもしれません。
元少年Aは少年院の人、保護司、弁護士、勤務先の人などの支援で更生の道を歩んできました。
犯罪者を更生させることは世の中全体に課せられた責務です。
 
「絶歌」の取り扱いをやめた書店チェーンがあります。本を愛する書店員が本を差別し、その著者を傷つけているのは不思議なことです。
 
ともかく、被害者遺族の感情を傷つけるなと主張する人が平気で元少年Aの感情を傷つけています。
元少年Aが人間であるという認識がないのでしょう。
元少年Aを傷つけている人々は、元少年Aが自分と同じ人間であるという当たり前の認識から出直すべきです。

神戸連続児童殺害事件の犯人であった元少年Aが「絶歌」という本を出版したことに対して、出版中止を求める声があふれましたが、そんな要求にはなんの正当性もありません。
さすがにそのことがわかってきたのか、論調が変わってきました。
 
 
坂上忍、元少年Aの手記出版を批判 - 松本人志の「僕は読まない」に共感
 
俳優の坂上忍(48)が、14日に放送されたフジテレビ系トーク番組『ワイドナショー』(毎週日曜10:0010:55)にゲスト出演し、1997年の神戸連続児童殺傷事件の加害者男性(32 / 事件当時14歳の元少年A)が手記『絶歌』(太田出版)を出版したことについて批判した。
 
同書が発売されたことを受け、小学6年生の土師淳くん(当時11)を殺害された父・守さんは「なぜこのようにさらに私たちを苦しめることをしようとするのか全く理解できません」「今すぐに出版を中止し本を回収してほしい」とコメントを発表。この出版の是非について、ネットを中心に賛否両論が巻き起こっている。
 
番組でこの話題が取り上げられ、坂上は「"表現の自由"がよく分からなくなった」と吐露。「原作者は少年Aなんでしょうが、亡くなられたお子さんも遺族の方も、もう一方での原作者だと思う」と持論を述べ、「なぜその人たちの了解を得ずに初版で10万部刷るのか。さっぱり分からない」「担当者の方にOKを編集長が出したのか分からないですけど、僕がその立場だったら無理ですね。勇気ないです」と発行元に疑問を投げかけた。
 
「法的には罪を償って出てきているわけで、出版に関して問題ないのかもしれない」と認めつつも、「やっぱり感情論としては全く納得ができない」。同じくゲスト出演した俳優・武田鉄矢(66)の「少年犯罪を分析する上で貴重な例となるのでは」という意見には、「でもそれって出版する必要あるんですかね」と問いかけ、「若い子たちが読んだら(犯罪の)助長になりかねないんじゃないか」と続けた。
 
また、同番組レギュラー・松本人志(51)の「被害者のお父さんがここまで言うなら、僕は読まない」に、「僕も読む気もない」と共感。「"読まない"ということしかできない」と悔しさをにじませていた。
 
 
要するに、出版中止要求に正当性がないことは認めざるをえないが、それでも出版に反対する気持ちがあるので、自分は読まないということを表明して抗議する、ということのようです。
 
ちなみに6月14日のフジテレビの「Mr.サンデー」においても、木村太郎氏が「表現の自由だから(出版は)しょうがないんでしょうが、私は読みません」とまったく同じ趣旨の発言をしていました。
 
読む読まないは個人の自由ですし、それを表明するのも自由ですが、この人たちはキャスターやコメンテーターです。またなにか犯罪が起こればコメントするはずで、そのときのために犯罪者の心理について知る努力をする必要があります。みずから「読まない」と宣言してしまうのは、職業意識に欠けるといわざるをえません。
 
もっとも、コメンテーターには「心の闇」という便利な言葉が用意されています。これからも「心の闇」という言葉でごまかしながら、うわべだけのコメントをしていくつもりでしょう。
 
おとなの犯罪というのは、交友関係も広いですし、複雑な利害関係もありますから、犯行の動機を解明するのがむずかしいこともあります。しかし、元少年Aのように14歳の犯行であれば、家庭と学校しか生活の場がないわけですから、犯行の原因は探すまでもありません(昔は犯罪性向が遺伝するという説もありましたが、今は否定されています)
「心の闇」という言葉を使う人は、もともと真実から目をそむけている人です。
 
アマゾンでの「絶歌」のカスタマーレビューを見ると、本も読まずにコメントしている人がほとんどです(読んでいる人はかなり高いポイントをつけています)。読まずにレビューを書くというのはマナー違反です。こういう人も真実から目をそむけている人でしょう。
 
私は「絶歌」をまだ読んでないのですが、元少年Aも目をそむけている可能性があります。しかし、それは大した問題ではありません。読む側に真実を見ようとする目があれば見えるものです。

神戸連続児童殺害事件の犯人であった元少年A(酒鬼薔薇聖斗)が手記を出版しました。
事件当時彼は14歳でしたが、新聞社に送りつけた犯行声明文はとても14歳のものとは思えず、かなり文才のある人だと思いました。ですから、いずれこういう日がくることは予想していたことです。
 
彼の両親は共著で「『少年A』この子を生んで」という本を出しています。凶悪犯の育った家庭というのはたいてい崩壊家庭で、親が表に出てくることはまずありませんから、親が本を出すというのはきわめて珍しいケースです。
今回彼が本を出したことで、ふたつの視点から事件を立体的に見ることができるわけで、大いに意味のあることです。
 
ところが、被害者遺族の土師守さんが出版中止を求める声明を出しました。
 
「思い踏みにじられた」 神戸連続児童殺傷事件の遺族、土師守さん 「元少年A」の手記出版中止を求める
 平成9年に神戸市須磨区で発生した連続児童殺傷事件で、当時14歳だった加害男性(32)が手記を出版したことをめぐり、殺害された土師淳君=当時(11)=の父、守さんは10日、代理人弁護士を通じ、「私たちの思いは無視され、踏みにじられた」とするコメントを公表し、出版の中止と本の回収を求めた。
 
 守さんは「何故、このように更に私たちを苦しめることをしようとするのか、全く理解できない。遺族に対して悪いことをしたという気持ちが無いことが、今回の件で良く理解できた」としている。
 
 全文は次の通り(原文のまま)。
 
「加害男性が手記を出すと言うことは、本日の報道で知りました。
 
 彼に大事な子供の命を奪われた遺族としては、以前から、彼がメディアに出すようなことはしてほしくないと伝えていましたが、私たちの思いは完全に無視されてしまいました。何故、このように更に私たちを苦しめることをしようとするのか、全く理解できません。
 
 先月、送られてきた彼からの手紙を読んで、彼なりに分析した結果を綴ってもらえたことで、私たちとしては、これ以上はもういいのではないかと考えていました。
 
 しかし、今回の手記出版は、そのような私たちの思いを踏みにじるものでした。結局、文字だけの謝罪であり、遺族に対して悪いことをしたという気持ちが無いことが、今回の件で良く理解できました。
 
 もし、少しでも遺族に対して悪いことをしたという気持ちがあるのなら、今すぐに、出版を中止し、本を回収して欲しいと思っています。
 
 平成27年6月10日
 
        土師守」
 
出版中止を求めるということは、言論表現の自由の侵害です。暴論というしかありません。
元少年Aは医療少年院と中等少年院に服役して、法的には罪を償ったわけで、今では一般人です。土師さんがいくら被害者遺族であるにしても、そういうことを要求するのは間違っています。
 
少年院の服役は前科にならないので、元少年Aは前科者ではありませんが、もちろん前科者であったとしても同じことです。
土師さんの要求は、少年院出身者や前科者に対する人権侵害であり差別ともいえます。
 
マスコミも土師さんの声明文をそのまま載せるだけでは、読者はその主張は正当なのかと思ってしまいます。載せる以上はなんらかの解説が必要でしょう。
 
 
弁護士の紀藤正樹氏は、匿名で出版するのは許されないという意見を述べていて、「BLOGOS」で紹介されていました。その意見の核心のところだけ引用します。
 
もう匿名は許されないのではないか?=元少年A「神戸連続児童殺傷事件」手記出版の波紋
自ら本を出す以上、少年時代の犯罪という点で、将来の更正のために与えられてきた「少年A」という「匿名」特権も許されることはないでしょう。
 
逆に、表現する側の者として、著者である「元少年A」のことを、「知る権利」が国民の側にも出てくると思います。そうでないと、国民は「著者」への批判ができないことになります。
 
それが「表現の自由」の「自己責任」の帰結です。
 
今回の書籍「絶歌」の筆者名は、「元少年A」で出してはいますが、自ら匿名で「更正」の機会を得る権利を放棄したも同様というほかありません。
 
匿名で出版するのは世の中にいくらでもあることです。
会社勤めをしながら小説を書いている作家は、しばしばペンネームだけで本名を明かしません。
内部告発の本を出す人が匿名というのもよくあります。「原発ホワイトアウト」と「東京ブラックアウト」という本を出した若杉冽という作家も、現役キャリア官僚だということですが、当然本名を明かしていません。
 
もし今の世の中が前科者や元犯罪者に対する差別がまったくない世の中であれば、本名で出版しろという要求はそれほど不当ではないかもしれませんが、もし今、元少年Aが本名を明かせば、住所などが特定され、たいへんな嫌がらせを受けるに違いありません。紀藤弁護士はそういうことがわかって言っているのでしょうか。
 
紀藤弁護士は、匿名だと『国民は「著者」への批判ができないことになります』と書いていますが、匿名であっても本の内容の批判はできます。できないのは「人格攻撃」です。
 
 
今回、改めてこの国の人権意識の低さを感じてしまいましたが、「人権」という言葉を使うと、なにか特別な感じがするかもしれません。要するに犯罪者や元犯罪者も自分と同じ人間だという認識があればいいだけの話です。
 
私は元少年Aが出した「絶歌」という本はまだ読んでいませんが、両親の出した「『少年A』この子を生んで」は読みました。読めば少年Aが普通の人間であることがわかります。

このページのトップヘ