村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

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パラサイト


「パラサイト 半地下の家族」(ポン・ジュノ監督)を観ました。
カンヌ映画祭でパルムドールを受賞、アカデミー賞では作品賞など6部門でノミネートされている注目作です。

キム・ギテク(ソン・ガンホ)の一家は貧民街の半地下の家に住んでいます。窓のすぐ外で立ち小便する男がいたりと、衛生状態も劣悪です。父親は失業中、息子のギウと娘のギジョンも浪人中で、まったく先が見えません。
そうしたところ、ギウが友人から家庭教師の仕事を紹介されます。紹介された家は有名建築家の建てた豪邸で、父親は金持ちのIT社長、母親は美人、大学受験の娘と小学生の息子がいます。
まったく対照的なふたつの家族の物語です。

ギウは文書を偽造して大学生と偽り、母親の信頼を得て娘の家庭教師になります。そして、小学生の息子が絵を描いているのを見て、妹の経歴を偽らせて、美術の家庭教師として紹介します。ギウとギジョンは家庭教師として金持ちの家に出入りするうちに、あくどいやり方で家政婦と運転手を辞めさせ、代わりに自分の母親と父親を、やはり経歴を偽らせて家政婦と運転手として雇わせます。キムの一家は互いに他人のふりをして、金持ちの一家に入り込んだわけです。
ここまでが前半で、このあと予想外の展開になっていきます。

いろんな出来事が次々と起こって、退屈するということがありません。ずっとジェットコースターに乗っている気分です。詰め込みすぎともいえます。じわじわと盛り上がってクライマックスに至るという物語ではありません。

笑える場面がいっぱいあります。しかし、周りの観客は誰も笑っていませんでした。日本人の映画の観方に問題があるかもしれません。


貧乏一家と金持ち一家を描くことで、おのずと韓国の格差社会があぶりだされます。
ただ、人間の描き方が常識とまったく逆です。
ギウとギジョンは罪もない家政婦と運転手をきたない手を使って追い出します。それに四人全員が経歴を偽っています。
つまり貧乏一家は悪人です。
一方、金持ち一家のほうは、父親も母親も善人で、紳士的な教養人です。子どもも普通に子どもらしくて、“金持ちの子ども”のいやらしさがありません。

だいたいエンターテインメントの物語では、金持ちは高慢で、横柄で、つまり悪人として描かれ、貧乏人は善人として描かれるものです。
この映画は逆ですが、観客は悪人の貧乏一家の側に感情移入して観ることになります。
もちろんそちら側の視点で描かれるからですが、それだけではありません。やはり韓国の格差社会の深刻さが背景にあるからです。

ヤクザ、ギャング、殺し屋、詐欺師などを主人公にした映画はいっぱいありますが、彼らは犯罪はしても弱い者いじめはしません。弱い者いじめをする人間に観客は感情移入することはできないのです。
キム一家は罪もない家政婦と運転手をきたない手で追い出しますが、弱い者いじめにはなりません。キム一家のほうがもっと弱い立場だからです。


格差社会といえば、この前観た「ジョーカー」(トッド・フィリップス監督)はアメリカの格差社会を背景にしていました。
「ジョーカー」はアカデミー賞の11部門にノミネートされていて、今は格差社会を描く映画がトレンドのようです。

しかし、同じ格差社会を描いても「ジョーカー」と「パラサイト」ではかなりの違いがあります。
「ジョーカー」では、格差社会に押しつぶされた主人公が最後は一人で立ち上がります。「パラサイト」では、一貫して家族の絆が描かれます。
また、「ジョーカー」では正義と悪の構図になっていますが、「パラサイト」では善と悪はあっても正義はありません。
このあたりにアメリカと韓国の価値観の違いが出ています。

テレビの「水戸黄門」は、単純な正義と悪の物語でした。出てくる善人はつねに貧乏ですが、これは封建的身分制度の問題ですから、格差社会の問題ではありません。ですから、単純に楽しむことができました。

社会主義思想の物語では、資本家は悪、労働者は善、革命家は正義という図式でした。これを信じれば希望はあります。

「パラサイト」には正義が出てきませんし、格差社会が解決するという希望もありません。
個人が貧乏から成り上がることが唯一の希望ですが、それはあまりにもはかない希望です。

格差社会が深刻化すると、エンターテインメントの映画もむずかしくなってきます。

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トッド・フィリップス監督の「ジョーカー」を観ました。
ベネチア国際映画祭で金獅子賞をとったこともあって世界的に大ヒット中です。
この一本の中に、アメリカや日本などの先進国が今直面している問題のほとんどが詰め込まれているという意欲作で、金獅子賞を取ったのも納得です。

「バットマン」シリーズでバットマンの敵役であるジョーカーがいかにしてジョーカーになったかという物語です。
バットマンは出てきませんし、ハリウッド映画らしいアクションシーンもほとんどありません。
舞台のゴッサムシティは、ちょっと前のニューヨークという感じです。インターネットはありませんが、テレビの人気トークショーがそれに代わる役割を果たしています。

主人公のアーサー(ホアキン・フェニックス)は、ピエロを演じて生活の糧を稼ぎ、将来はコメディアンを目指しています。しかし、彼には脳の障害で笑い出すとなかなか止まらないという症状があり、悪ガキにいじめられたり、やることなすことうまくいきません。母親と二人の生活は貧しく、母親は昔家政婦として働いていた金持ちの家の主人に金銭的援助を頼む手紙を何度も出しています。彼は同じアパートに住むシングルマザーの黒人女性に思いを寄せますが、ストーカー行為をしてしまいます。

希望のない生活と、主人公の不安定な精神状態と、ニューヨークらしい街から、 マーティン・スコセッシ監督の「タクシードライバー」を連想します。それは監督の狙いでもあって、ロバート・デ・ニーロが重要な役で登場することからもわかります。

主人公の希望のない生活を描写するシーンが続くと、観ていてうんざりしそうなものですが、表現するべきことを的確に押さえていて、ホアキン・フェニックスの演技も素晴らしいので、引き込まれます。
ただ、ここについていけない人もいるでしょう。映画評を見ると、賛否がかなり分かれます。

母親が金持ちの家に出していた手紙を読んだことから、アーサーの出生の秘密がわかり、幼児虐待を受けていたこともわかります(脳の障害もそれが原因?)。
彼は福祉制度からカウンセリングと薬の支援を受けていましたが、予算が削られて支援は打ち切りになります。仕事でヘマをして、芸能事務所をクビになり、さらに母親が病に倒れて入院します。

ゴッサムシティはひどい格差社会です。アーサーはそこから這い上がれず、犯罪に手を染めます。

「タクシードライバー」の主人公は最後まで孤独でした。
しかし、アーサーの犯罪は格差社会で苦しむ人々の喝さいを浴び、彼はヒーローになります。
ここに格差社会の深刻化がうかがえます。また、「タクシードライバー」の主人公の過去はまったく描かれませんが、こちらは幼児虐待の過去があったことが描かれ、時代による人間観の変化もうかがえます。


この映画がアメリカで公開されたとき、ニューヨークでは犯罪を警戒して市内全域の映画館に警官が配置されたというニュースがありました。そのときは意味がわかりませんでしたが、映画を観ると納得できます。

このシリーズの最初の作品である「バットマン」(ティム・バートン監督)では、主人公のバットマン(マイケル・キートン)はくよくよと悩む屈折した男で、悪役のジョーカー(ジャック・ニコルソン)は底抜けに陽気な男です。ゴッサムシティはきわめてダークな雰囲気で、まるで悪の都市です。正義と悪が逆転したかのような描き方が、今回の「ジョーカー」につながっています。

今の世の中では、凶悪犯罪が起こると、犯人は徹底的に非難されます。しかし、ちゃんと調査すると、犯人はアーサーのように幼児期に虐待され、脳に障害を負っていることがわかるはずです。
池田小事件の宅間守や秋葉原通り魔事件の加藤智大の視点で見た世界を描いた映画とも言えます。
その意味で犯罪を肯定する映画ともとれ、公開に反対する声があったことも理解できますが、「善人なおもて往生す。いわんや悪人をや」を具現化しただけとも言えます。

しかし、この映画はそんなに重くなりません。
トッド・フィリップス監督は「ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い」などのコメディ映画を撮ってきた監督です。この映画でも、チャップリンの映画の一シーンが挿入され、エンディングシーンもコメディタッチで、コメディ映画を撮ってきた監督の心意気が示されます。

トッド・フィリップス監督は「凶悪な犯罪と格差社会を描くコメディ映画」という新機軸に挑戦して、みごとに成功しました。

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