村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

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コンプガチャに関する報道の中に「射幸心」という言葉が出てきて、少し驚きました。「射幸心」という言葉はもう死語ではないかと思っていたからです。
私はコンブガチャのことはわかりませんが、コンプガチャは射幸心をあおるからよくないということらしいです。
しかし今、テレビを見ていると、射幸心をあおるCMがいっぱい流されています。高田純次の「当たりたいなら買うしかない」という最高6億円の宝くじBIG、木村拓哉の「1等賞金金額競うよりもたくさんの人に1億当たるのどうですか」というドリームジャンボ宝くじがそうです。
公営ギャンブルのCMも目立ちます。桐谷健太、吉高由里子、佐藤健の競馬、オダギリジョー、長澤まさみ、大森南朋の競輪、南明奈の競艇です。
パチンコ・スロット台のCMもよく見ます。
これだけ大っぴらに射幸心をあおっておいて、コンプガチャの射幸心はよくないというのはおかしな理屈です。
 
いや、それなりの理屈はあるわけです。というのは宝くじも競馬、競輪、競艇も公営だからです(パチンコは民営ですが、警察利権と強く結びついています)
つまり公営が射幸心をあおるのはオーケーだが、民営が射幸心をあおるのはだめという理屈になっているわけです。
こんなところにも日本人の官尊民卑が現れています。
 
そういえば、「官尊民卑」という言葉も死語かもしれません。しかし、これが死語になっているのは、その実態が隠されているからです。
 
たとえば、パチンコ依存症のことはよくマスコミで取り上げられますが、競馬、競輪、競艇の依存症のことはまったくといっていいほどマスコミには出てきません。しかし、実際は、競馬、競輪、競艇の依存症はパチンコ依存症と同じように深刻です(金額が大きくなるだけに競馬、競輪、競艇の依存症のほうがより深刻だともいえます)
つまりこれはギャンブル依存症ということでまとめて取り上げるべきなのですが、マスコミは公営ギャンブルに遠慮して、パチンコ依存症だけを取り上げているのです。
 
けしからんのは、日本の公営ギャンブルは異様にテラ銭が高いことです。公営くじは54%、競馬、競輪、競艇は25%が持っていかれます。
パチンコは競馬などよりはかなり低くなっています。そのためパチプロというのが存在します。賭け麻雀で生活するプロも存在します(これは非合法です)。しかし、競馬の勝ちで生活しているプロというのはまず存在しません。
 
さまざまなテラ銭を比較したサイトがあるので張っておきます。
「賭事・ギャンブルゲームの控除率(テラ銭の割合)
 
賭場を営む博徒にはそれなりの職業倫理や商道徳があり、法外なテラ銭を取ることはありません。最高でも5%ぐらいです。しかし、日本の官僚たちには倫理も道徳もないので、ただ自分たちの利益だけを考えます。そのためギャンブル愛好家はむしり取られる一方です。
 
最近、日本でもカジノをやるべきだという声がよく聞かれます。これも官僚など日本の支配層が自分たちの利益だけを考えているからです。
日本にカジノができれば、当然そのために不幸になる人が出ます。
競馬、競艇、競輪、オートレースのために不幸になる人もいっぱいいます。アルコール依存症とギャンブル依存症は人を不幸にする二大アイテムです。
マスコミはパチンコ依存症のことばかり取り上げす、ギャンブル依存症のことを取り上げるべきです。
 
どうせ日本でカジノをやるのなら、いっそのこと暴力団に経営を任せるという手もあります。そのほうが官僚が経営するよりうまくいきそうですし、暴力団対策にもなります。
ま、これはほとんど冗談ですが、官僚がギャンブルを独占経営している害はきわめて大きいので、なんとかしたいものです。

大王製紙の前会長が総額106億円を連結子会社から借入れ、カジノのギャンプルに使っていたということが話題になっています。ギャンブルの魔力とは恐ろしいものです。
常識的には、カジノというのは遊ぶところで、勝ち続けることはできないと思うのですが、中にはカジノの稼ぎで生活するプロのギャンブラーもいます。たとえば作家の森巣博さんがそうです。
森巣さんは最近こそ作家業で稼いでいるかもしれませんが、ずっとプロのギャンブラーとして生活してきた人です。麻雀やポーカーのように技術的要素の強いゲームなら、その稼ぎで生活することが可能なことはわかりますが、森巣さんが主にやるのはバカラやパイガオといわれるもので、運の要素の強いもののようです。どうしてそれで生活することができるのでしょうか。
もっとも、森巣さんにいわせると、プロのギャンブラーというのは一時は羽振りがよくても、最終的には負けて、死屍累々だということですが。
 
100%運で決まるゲームなら、カジノにテラ銭を取られるので、長くやればやるほど負けていく理屈です。
しかし、必ずしもそうはならないと思います。というのは、「いつゲームをやめるか」というファクターがあるからです。
 
100%運で決まるゲームでも、続けて勝ったり、続けて負けたりということがあり、波があります。さらに、人間の心理として、続けて勝って調子に乗ると賭け金を多くし、続けて負けると一発逆転をねらって賭け金を多くする傾向があるので、その波はさらに大きくなります。
で、普通の人は、勝っている間は気分がいいし、もっと勝ちたいので、ゲームを続けます。そして、負けると元手がなくなってやめざるをえなくなるか、元手があっても心理的に痛手をこうむってやめます。
つまり普通の人は、勝っているときにやめることは少なく、負けているときにやめることが多いので、必然的に負けが多くなるのです。
では、その負け分はどこに行くのかというと、普通でない人のところに行きます。
普通でない人というのは、ギャンブラー体質の人です。
ギャンブラー体質の人は、負けてもやめません。勝つまでやるのです。ですから、必然的に勝ちが多くなります。
 
私がこんなことを考えるようになったのは、昔の友人A君がいたからです。
A君とはよく麻雀をしましたが、とにかくギャンブルが好きな人で、麻雀のメンバーが崩れたあとも、私にチンチロリンを挑んできました。
チンチロリンというのは、阿佐田哲也さんの小説「麻雀放浪記」にも出てくるのですが、サイコロ3個を丼に放り込んでする単純なギャンプルです。サイコロの目で勝負が決まるので、100%運で決まるゲームだといえます(もっとも、「流れ」を読んで賭け金を増減させるところに“腕”があるとされるのですが)。
A君が勝つまでやる人でした。負けが込んでくるとますます熱くなります。私はもともとそれほど乗り気ではなく、早くやめたいと思うのですが、いつまでもやめさせてくれません。そうして適当な気分でやっていると、そのうちA君に流れがきて、A君が勝ってきます。そこでようやくやめることになります。
一方、私は負けた状態が続くと、嫌気が差して、自分からやめたりします。
というわけで、たいていA君が勝った状態で終わるのです。
 
作家の畑正憲さんは麻雀が強いので有名です。もちろん腕もあるのですが、ものすごい体力があって何日でも徹夜できるそうです。畑さんも勝つまでやるタイプの人です。
 
森巣さんも実に精神的にタフな人であることは、森巣さんの小説やエッセイを読むとよくわかります。森巣さんは今どき珍しい左翼的な人で、右派や保守派に対して挑発的な文章をよく書いていますが、おそらく反論されることはあまりないのではないでしょうか。誰もがこの人とは論争したくないと思うタイプです。ギャンブルの卓でも相手は逃げ腰になってしまうのではないでしょうか。
 
おそらく森巣さんもギャンプル体質で、自分が勝ったときはスパッとやめ、負けたときはとことんねばるのでしょう。
もっとも、このやり方だと、とことん負けて死屍累々の1人になってしまう場合もあります。森巣さんはその前にやめる判断力もあるのでしょう。それによって長くプロのギャンブラーを続けてこられたのではないかと思います。
 
もっとも、「いつゲームをやめるか」というファクターで勝ち組と負け組が分かれるという私の説が論理的、数学的に成り立つかどうかについては、あまり自信がありません。

プロ野球中継を見ていると、解説者が勝負の「流れ」を解説することがあります。たとえば、送りバントを失敗し、そのイニングに点が取れなかったとき、解説者は「こういうことをしてると『流れ』が相手チームにいってしまいますよ。次のイニングは要注意ですね」などといいます。で、実際に次のイニングで相手チームが点を入れ、それで相手チームが勝ったりすると、解説者は「あの場面の送りバントの失敗がすべてでしたね。あれで『流れ』が変わってしまいました」などといいます。
こちら側のバント失敗と、次のイニングでの相手側の得点とどういう関係があるのかといえば、なにもないはずです。拙攻の繰り返しで、残塁の山を築いたとしても勝つことはあります。野球は「筋書きのないドラマ」という通り、次になにが起こるかわからないからこそ、観客も引きつけられるのです。
 
とはいえ、その野球解説者がいうような「流れ」が絶対ないかというと、そうともいいきれません。野球にはメンタルな要素もあるからです。
ノーアウトでランナーが出て、ピッチャーは味方が点を取ってくれるのではないかと期待していたら、送りバントを失敗し、結局点は入らなかった。それでがっかりしながらマウンドに上がったら、ピッチングにも勢いがなくなっているかもしれません。
また逆に、味方の野手がファインプレーでピンチを救ってくれた。そうするとピッチャーもそのファインプレーに応えようと、おのずとピッチングに力が入るでしょう。そういうプラスの相乗効果のようなものは確かにあると思われます。
ですから、野球の場合は、一見非論理的に見えても、一概には否定できないところがあります。
 
しかし、麻雀でも同じような「流れ」を解説する人がいます。この場合は明らかにおかしいものがあります。
私が加入しているケーブルテレビでCSの「MONDO TV」が見られるのですが、このチャンネルでは麻雀番組を放送しています。プロ同士の対局をプロが解説するものですが、その解説を聞いていると、たとえばある雀士が巧みな打ち方で上がった場合、解説者が「こういう上がり方をすると、運を引き寄せて、手がよくなってきますよ」ということがあります。また、反対に、なにか失敗をした場合、「あんなミスをすると、手が落ちてくるものです」ということがあります。
この場合、手がよくなるとか手が落ちるとかは、配牌やツモがよくなる、配牌やツモが悪くなるという意味です。
しかし、配牌やツモは、自動卓では機械がかき混ぜて決定されますので、前局の結果が反映されるということは決してありません(完全伏せ牌なら手でかき混ぜて積んでも同じことです)。まったく非論理的、非科学的な考えです。
これは、トランプを完全にシャッフルして配っているのに、その配られたカードに前の勝負の結果が反映されているという考えと同じで、それが間違っていることは明らかでしょう。
 
もっとも、こうした考えが生じたのはそれなりの理由があります。1度いい上がり方をすると、気分がよくなり、そうすると平均的な配牌がきてもよい配牌に見えるものです。だから、「上がれば手がよくなる」「ミスをすると手が悪くなる」ということは主観的にはありますし、勝負に没入しているとすっかりそう思ってしまってもしかたがありません。
しかし、冷静になって、牌の積み方が毎回まったくランダムなものであることに思い至ると、その考え方の間違っていることはすぐにわかるはずです。
 
問題は、プロの雀士までがそうした間違ったことを考え、解説でしゃべっていることです。プロ麻雀界のレベルの低さがわかってしまいます。
もっとも、そうしたことをいうのはベテラン雀士に多く、最近の若い人は合理的に考える人が多いようです。非合理的な考え方をオカルト派といい、合理的な考え方はデジタル派というようです(デジタルというネーミングはちょっと違う気がしますが)。
 
囲碁や将棋の5番勝負や7番勝負でも、勝負の「流れ」をいうことがよくあります。たとえば、「第3局の大逆転で勝負の流れが変わり、挑戦者がタイトルを奪取しました」などといいますが、これは大逆転で勝ったほうは気持ちに余裕ができ、負けたほうは後悔を引きずるというようなメンタル面をもっぱらいっているわけで、オカルト派とはまったく違います。

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