村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

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4月29日、群馬県の関越自動車道で大型バスが側壁に衝突し、7名が死亡するという事故がありました。30日のニュース番組はどれも、この事故のことを大々的に取り上げています。
「どれも」といいましたが、もちろんすべてのニュース番組を見たわけではありません。それでも、すべてのニュース番組が大々的に取り上げていることは間違いないと思います。というのは、30日は休日で官庁や企業からのニュースはありませんから、必然的にこの事故を大々的に取り上げざるをえないわけです。
その結果、バス会社は過当競争で、運転手に過酷な労働条件を強いているという、まったく同じ内容のニュースばかりになってしまいます。
もちろん、事実がそうなのだから、同じ内容になるわけですが。
 
私は夜型の生活をしているので、少し寝るのが遅くなると、テレビで朝の情報番組が始まってしまいます。内容は前日のニュースのおさらいで、それがどの番組もあきれるほど同じです。4時から始まる番組を見て、次に4時25分、4時30分、4時45分から始まる番組を見ると、まったく同じ番組を見ているようです。ニュースの順番もほぼ同じで、ということはニュースバリューの判断も各局同じだということです。結局、女子アナの顔が違うだけなので、女子アナの好みで番組を選ぶしかありません。
 
普通、番組のつくり手は、他局と同じ内容の番組はつくりたくないので、なんとかして独自性を出そうとすると思うのですが、どうやらそうではないようです。むしろ他局と同じ内容だと安心するのかもしれません。そういえば、なにか大きな出来事があったとき、ひとつの局が中継の特番を始めると、他局も追随し、テレビ東京以外みんな同じ場面を中継しているということがよくあります。
 
朝8時からのワイドショーや午後のワイドショーにはコメンテーターが出てきますが、コメンテーターの言うこともみな同じです。事故が起これば、悲惨だ、深刻だと言い、事故の責任者を非難します。よい成績を上げたスポーツ選手がいると、みな同じように絶賛します。
普通、人はほかの人と同じことは言いたくないものですし、とくにみなが同じことを言う場合はバランス感覚が働いて逆のことを言ったりしそうなものですが、そういうことはありません。
 
テレビや新聞はこうして同じような内容になっていますが、ネットの中の意見はどうかというと、やはり同じようなものです。事件や事故、政治に関することは、もう判で押したように同じです。
 
もちろんそれが正しければいいのですが、現実はそうではありません。
正しい意見というのは現実を変える力があります。みんなが正しい意見を持てば現実は変わるはずです。みんながずっと同じことを言い続けているというのは、それはきっと正しい意見ではないのです。
 
みんなが同じことを言う。しかも、ずっと同じことを言い続けている。そんなときはうんざりするという普通の感情を持ちたいものです。

大震災1周年を迎え、改めて被災者の皆様にお悔やみとお見舞いを申し上げます。
 
震災関連のテレビ番組を見ていると、強い悲哀の感情が押し寄せてきて、いたたまれない気持ちになります。1年ではなかなか傷が癒えません。
もちろん震災の規模があまりにも大きかったからですが、報道の仕方にも問題があるかもしれません。
 
私は津波で家や車が押し流されていくシーンをテレビで見ると、ついつい目をこらして、人が流されていないか、家の中から助けを求める人がいないかと探してしまいます。しかし、人の姿を見つけたためしがありません。まったく無人の映像ばかりです。
もちろんこれは編集されているからです。
震災当時シンガポールに在住していた知人とこの前会って話したのですが、シンガポールのテレビは、中国のテレビの映像を使うことが多いこともあってか、人の流される映像や死体がごろごろしている映像を平気で流していたそうです。
そういう悲惨な映像は見たくないという気持ちはもっともですが、真実に直面したほうがいいということもいえます。
 
私の母が亡くなったとき、兄はちょうど奥さんが出産間際だということで、母の死に目にあえませんでした。父は兄に、どうせあえなかったのだから、あくまで出産に付き添ってやれ、そのため葬式に来れなくてもいいと言いましたが、私は絶対に来たほうがいいと言いました。母の遺体を見るということが母の死という事実を受け入れるためにも必要だと思ったからです。火葬したあとの遺骨を見るのと、遺体を見るのとでは大きな違いがあると思います。
 
震災での遺体の映像を見るのはつらいことですが、それを見たほうが早く心の傷が癒されるということもあると思います。
もっとも、悲惨な映像は見たくないという気持ちももっともなことなので、簡単に結論は出せませんが。
 
私はこうした震災に対してあまりにも無力ですが、なにか役に立てることはないかと探すと、震災時に被災者が示した行動を理論づけることでしょうか。
 
あのとき被災者は忍耐心と助け合いの精神を示し、世界の人々から高く評価されました。しかし、従来の倫理学ではそれを理論づけることができません。従来の倫理学では、良心や道徳性は人間の高度な知性の働きによるものとされ、ごく平凡な人たちが無秩序の中で平常時以上に良心や道徳性を示すということは説明できないのです。
 
私の提唱する新しい倫理学では、利他行動や助け合い行動は本能に基づくものです。ですから、あの極限状態で虚飾をはぎとられた人間は、本能的な行動をとったということになります。
ちなみにああした災害時に助け合うのは日本人だけではありません。そのことは「災害ユートピア――なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか」(レベッカ・ソルニット著)という本に書かれています。この本によると、とくに欧米のメディアは、社会の下層の人たちが商店を襲撃したりする場面を好んで報道するため、間違ったイメージがつくられるということです。
 
新しい倫理学では、災害時の人々の行動は人間本来の姿が現れただけのことで、これを論じてもあまり意味はありません。むしろ問題は、さまざまな知識や文化に縛られた平常時の人間のほうにあります。
たとえばあの震災時、被災地の人たちは商品を求めてスーパーの開店を何時間も並んで待ち、開店しても商品はすぐに売り切れ、それでも文句を言わずに去っていきました。
これがもし平常時だとすると、並んだ客は、「何時間待たせるんだ」と文句を言い、「商品がないとはなにごとだ。商品をそろえるのは店の義務だろう。俺たちをバカにするのか」と怒りをエスカレートさせたに違いありません。
災害時じゃないのだから当然だという意見もあるでしょうが、こうした人の行動は商店の側の事情をまったく考慮しない利己的なものです。そして、こうした利己的なふるまいが当たり前とされるのが今の世の中なのです。
 
震災時の人々の行動が当たり前とされる世の中にならなければなりません。

島田紳助さんと暴力団とのかかわりについての週刊誌報道を見ていると、ぜんぜんおもしろくありません。ネタ自体が小さくてつまらないということもありますが、「暴力団は悪だ」「暴力団とつきあう芸能人も悪だ」という前提で記事を書いているのも一因です。なにごとにつけ「悪」のレッテル張りをした瞬間、思考停止に陥ってしまうからです。
ですから、一度「悪」のレッテルをはがす必要があります。そのための作業をしてみましょう。
 
週刊誌報道によると、事件の発端は、島田紳助さんがテレビ番組で右翼団体をバカにするような発言をしたことです(皇室にかかわる発言もあったようです)。それに対して右翼団体が街宣をしかけてきて、紳助さんは芸能界を引退しなければならないかと思うほど悩み、元ボクシング選手の渡辺二郎さん(現在被告人)に相談したところ、渡辺さんが山口組幹部に話をしてくれて、右翼の街宣はやみました。紳助さんは渡辺さんと山口組幹部に感謝しましたが、その後のつきあいはごく限定されたもののようです。公開されたメールによると、山口組幹部のために劇場のチケットを取ったことと、紳助さんの店にきたとき“接待”したことぐらいです(店にきた客をもてなすことを接待というのはへんです)
 
ここで誰でも疑問に思うのは、テレビ局と吉本はなにをしたのかということでしょう。これについてはなにも書かれていません。おそらくなにもやっていないのでしょう。だから、紳助さんも困って渡辺さんに相談したのです。
テレビ局は、VTR編集で問題発言はカットしなければならないので、明らかにテレビ局にも落ち度があり、責任があります。
また、紳助さんの所属事務所である吉本は、紳助さんが引退したら経済的に損失ですから、なんらかの手を打つべきですし、そもそも所属タレントが苦境に陥っていたらなんとかするのは当然です。
しかし、結果的にはなにもしていないも同然です。
 
一方、山口組幹部は、ただちに右翼の街宣をやめさせました。暴力団と右翼はひとつ穴のムジナみたいなものなので、やめさせるのはそんなにたいへんなことではなかったかもしれません。しかし、偉いのはそのあとです。山口組幹部は代償や返礼をなにも要求していないようなのです。だから、紳助さんも感謝したわけです。
恩を売っておいて、だんだんと取り込んでいくというのも暴力団の手法としてありそうですが、事件があったのは十数年前のことです。その後、チケットの手配ぐらいしか要求していません(これは現時点の報道で、これからなにか出てくるかもしれませんが)
ですから、山口組幹部は紳助さんを無償で助けたということです。これは明らかに美談です。
テレビ局や吉本はするべきことをせず、紳助さんが苦境に陥っても見て見ぬふり。一方、暴力団は無償で紳助さんを助けた。
これが現実の姿です。
 
ですから、週刊誌はテレビ局と吉本を「悪」として批判し、対照的に暴力団を称賛する記事を書くべきです。自分の落ち度を棚に上げて知らんふりをするテレビ局、所属タレントを見捨てる吉本、いくらでも批判できます。暴力団批判や紳助さん批判の記事より、絶対こちらのほうがおもしろい記事になります。
 
もちろん、現実にそんな記事は書かれません。週刊誌は同業者のテレビ局や芸能界で大きな勢力になる吉本を批判するわけにいかないからです。
このように考えれば、「悪」のレッテル張りがいかに恣意的なものかわかるでしょう。

なんのための批判かという原点を喪失したフジテレビ批判騒動は、結局2ちゃんねるというコップの中の嵐に終わってしまいそうです。しかし、これによっていちばん痛手をこうむったのは保守勢力でしょう。とくに産経新聞は、2ちゃんねるの若者は圧倒的に自分の味方だと思って、それをよりどころにしていたので、ショックが大きかったはずです。
フジテレビをターゲットにするというのは、保守的な人、右翼的な人には思いつけません。イデオロギーとは無縁のひろゆき氏ならではの発想でしょう。やはり2ちゃんねるはひろゆき氏の脳内ワールドなのです。
 
とはいえ、多くの人がフジテレビ批判に参加したのは事実です。なぜ参加したのかというと、それが“祭り”であったからです。祭りには高揚感と連帯感があり、参加すること自体に喜びがあります。どんな神輿を担いでいるかはたいした問題ではありません。
 
2ちゃんねるに積極的に書き込みをしている人は、リアルでは非活動的な人です。私はそれを「引きこもり系の不良」と名づけています。群れをなして盛り場をうろついたり喧嘩したりするのは「行動化する不良」です(なぜ不良かというと、家庭、学校、社会になじめない人たちだからです)
引きこもり系の人でも、というか、引きこもり系の人だからこそ、祭りへの参加欲求は強いものがあります。リアルで祭りに参加するということができないタイプの人だけに、2ちゃんねるでときどき祭りが行われるのはひじょうにありがたいことに違いありません。
 
それから、フジテレビ批判に参加することによって、自分の力を確認したいという気持ちもあるでしょう。つまり、「自分は非力な1人のネットユーザーだが、みんなと力を合わせることによって世の中に影響を与えることができた」という実感がほしいのです。
これも当然の欲求だといえます。とくに日本人の若者は自己評価が低いとされるので、よけい欲求は強いでしょう。
もっとも、世の中に影響を与えるにはいろいろな形があります。今回は、というか2ちゃんねるではつねのことですが、大勢の力によってフジテレビを屈服させようとしました。これは学校におけるイジメと似た構造です。おそらく多くの人は学校でイジメられるかイジメられる恐れを感じてきて、今度はイジメる側に回りたかったのでしょう。しかし、こうしたやり方では世の中によい影響を与えることはできません。
 
ともかく今回の騒動は、2ちゃんねる側はなんの成果も得られないまま敗北しつつあります。
この敗北は最初から予見されていました。今回の祭りを演出した者の戦略的な失敗です。
祭りの参加者はむなしい思いのまま解散していきます。
これは2ちゃんねるにとってもひとつの転機になるかもしれません。

2ちゃんねるにおける“韓流推し”フジテレビ批判は終息に向かったかと思ったら、今度はフジ系列の東海テレビで「汚染されたお米 セシウムさん」というテロップが流れたことや、原爆忌の翌日のドラマで「リトルボーイ」と書かれたTシャツが登場したことや、宮城県南三陸町に行ったボランティアがフジの「27時間テレビ」の会場の設営を手伝わされたことなどが批判されています。
最初は「“韓流推し”だからフジテレビはけしからん」といっていたのが、今度は「○○だからフジテレビはけしからん」といっているわけです。いったい最初の“韓流推し”批判はどこにいったのでしょうか。今はフジテレビならなんでも批判するということになっていて、批判する目的が不明です。
そもそもフジの“韓流推し”批判をしていた人たちは右寄りの人たちのはずで、そういう人がフジ産経グループを批判するというのも筋が通らない話でした。
 
そこで思い出されるのが、2ちゃんねるの実質的創始者であるひろゆきこと西村博之氏が7月27日の「ひろゆき日記」において、外国人株主比率の問題から日本テレビとフジテレビは電波法により免許取り消しの恐れがあると指摘したことです。これは2ちゃんねるの「ニュース速報+」でも取り上げられました。俳優の高岡蒼甫さんがツイッターでフジテレビ批判発言をしたのが7月23日ですから、ひろゆき氏にこの問題をプッシュしようという意図があったと推測するのにむりはないでしょう。
 
なぜひろゆき氏がこの問題をプッシュしようとしたかというと、当然2ちゃんねる内で“祭り”を起こしたかったからでしょう。“祭り”そのものでアクセス数が増えるのはもちろん、社会的な話題になれば新たに2ちゃんねるにアクセスする人も増えるでしょう。
 
ネットユーザーはマスコミ批判をする傾向があります。とくに2ちゃんねるでは、毎日新聞の英文サイトの変態記事批判が大きな“祭り”になったという実績があります。今回はマスコミ批判に加えて嫌韓、反韓もあるのですから、大きな“祭り”にする条件はそろっています。
具体的には、フジテレビに関する批判的な記事を積極的に取り上げ(そういえばサッカーの松田直樹選手の葬式でフジの女子アナが笑顔を見せたという記事もありました)、スレッドの書き込みが1000に達したらすかさず次のスレッドを立ち上げるといったことで(これが間延びすると盛り上がりません)、“祭り”を演出していったのです。
 
私はかつて「ひろゆきの脳内ワールド」というエントリーで、2ちゃんねるはひろゆき氏の独特の価値観で運営されてきたため独特の世界となり、それはひろゆき氏の脳内ワールドにほかならないと指摘しました。
 
今回のフジテレビ批判騒動を見ても、やはり2ちゃんねるはひろゆき氏の脳内ワールドにほかならないといわざるをえません。

それにしても、俳優の高岡蒼甫さんのツイートをきっかけに2ちゃんねる内で盛り上がった韓流推しのフジテレビ批判は、どう考えても勘違いでしょう。おそらく、毎日新聞の英文サイトの変態記事をきっかけにした騒動における成功体験と混同しているのではないかと思われます。
毎日新聞のときは、実際に問題のある記事が配信されていたわけですが、フジテレビが韓流推しをすることにはなんの問題もありません。すばらしい韓流ドラマを放映してくれると喜んでいる人もいるわけですし、韓流ドラマが嫌いな人は別のチャンネルを見ればいいだけです。
もしフジテレビが韓流ドラマの放映をへらしたりしたら、視聴者から文句を言われかねません。
ちなみに私が子どものころは、アメリカ製テレビドラマがあふれ返っていました。今の韓流ドラマの比ではありません。
スポンサー企業への不買運動も呼び掛けられていますし、有名人が同感の意見を述べたりもしていますが、大義名分のない運動はやがて沈静化するものと思われます。
 
もともと嫌韓というのは主に2ちゃんねる内であったもので、リアルで実名で主張する人はほとんどいませんでした。ところが、高岡蒼甫さんという一応有名人が実名で言ったことから、公然と主張しやすくなったものと思われます。
しかし、高岡さんは自分でも精神病院に通っていたと書いているわけで、そういう人の発言に追随してもうまくいくと思えませんし、高岡さんのためにもなりません。
 
2ちゃん内のお祭りは楽しいでしょうが、戦略を間違っては勝利もありません。
 

私は一時「2ちゃんねる」にはまっていたことがあります。そのころ2ちゃんねる内は嫌韓ブーム一色で、一方、世の中は「冬ソナ」をきっかけにした韓流ブームが盛んになっており、その落差に驚きました。その後も韓流ブームはますます盛んで、今では韓流は当たり前のものになり、ブームともいわなくなりました。
最近、私はブログを始めたことで、ネタを探すために2ちゃんねるの「ニュース速報+」板をときどき見ているのですが、今また嫌韓というか反韓流の勢いがすごいことになっています。きっかけは俳優の高岡蒼甫さんがツイートで、フジテレビが韓流ばかりを推進していると批判したことのようです。
しかし、高岡さんの批判に同調するのはどうでしょうか。テレビ局には編成権があり、韓流ドラマばかりを放映したからといって批判されることはありません。視聴者を無視して、何らかの意図を持って韓流ドラマを放映しているというなら問題ですが、韓流ドラマの視聴率がとくに悪いわけでもないようです。
 
私は俳優がテレビ局を批判したことに違和感を覚え、なにか別の原因があるのではないかと考え、「韓流ブーム批判発言の深層」というエントリーを書きました。
 
今、高岡蒼甫さんの「本人ブログ」を読むと、高岡さんのフジテレビ批判の理由がさらにわかってきます。
 
「本人ブログ」7月29日より抜粋
暫くして自分をよく理解してくれていた彼女と結婚する事になるがそれ以前から続くバッシングで完全にマスコミ嫌いになっていた。
 
マスコミなど全員くたばれと心底思っていた。
 
調子に乗り妻も仕事でいない事をいい事に毎晩のように飲み歩いていた。
そしたらパシャりと。自分の不注意でまたマスコミに騒ぎ立てられる生活に戻った。
 
無数のフラッシュを浴び観客の視線が怖くなり気づいたら自分の目の前に最前列の人の足があった。
またもマスコミに今度はクスリのフラッシュバックではないかと疑いをかけられた。
 
 
要するに高岡さんは徹底したマスコミ不信をいだいていたのです。しかし、マスコミ全体を批判するほどの勇気はなかったし、批判しても誰にも相手にされないことはわかっています。そこで、たまたま韓流が目立つフジテレビを愛国者的な立場から槍玉にあげたということではないでしょうか。
 
高岡さんは「精神病院に通い睡眠薬、精神安定剤の服用」をしていたとも書いています。現在は所属事務所を解雇され、奥さんとも連絡がとれない状態です。それでいてブログには「このままじゃこの国はダメになる」とか「日本人の誇りにかけて」とか書いています。
「ダメになるのは自分だろ!」とツッコミを入れたくなります。
 
しかし、今回の高岡さんの発言に賛同し、高岡さんを激励する人も多いようです。しかし、それは高岡さんにとってマイナスになる可能性があります。
もともと禅の言葉で、心理療法である森田療法でよく使われる言葉に「迷いの中の是非は是非とも非なり」というのがあります。ノイローゼ患者がいろいろ是非を言い立てても、心理療法家はそういう言葉を相手にしてはいけないということです。
 
現在、高岡さんの発言に便乗してフジテレビ批判をしている人たちは、フジテレビにとって的外れであるだけでなく、高岡さんが自分自身の問題に向き合うことを妨げているおそれがあります。

公共広告機構(AC)のCMは日本中の人をうんざりさせました。放映回数が多いからうんざりしたのはもちろんですが、それだけではありません。内容にも問題があったからです。
 
たとえば、ぽぽぽぽ~んの「あいさつの魔法」は、アニメも音楽も楽しいので、よくできたCMだと思います。しかし、「あいさつするたび友だちふえるね」というのは間違っています。そんなことで友だちがふえれば、友だちがいなくて悩んでいる人はいなくなります。
あいさつは、言葉さえ覚えれば誰でもできます。また、人間関係の無用な摩擦を避ける効能があります。しかし、あいさつで友だちはできません。あいさつのあと、自分の気持ちを込めた言葉が出せるかどうかが友だちづくりの決め手です。
「あいさつの魔法」のCMは、子どもたちにあいさつさせようという意図のCMでしょう。しかし、あいさつさせるために、「あいさつするたび友だちふえるね」というのは明らかに誇大広告、嘘の広告です。JAROに通報したい。
 
金子みすゞの「こだま」のCMも評判がいいですね。これはもう金子みすゞの詩の力というしかありません。
しかし、そのすばらしい詩のあとに、「やさしく話しかければ、やさしく相手も答えてくれる」という一行が付け足されています。これはもう芸術に対する冒涜です。たぶん著作権者の了解を得てやっているはずなので犯罪にはなりませんが、本来やってはいけないことです。とくに「やさしく話しかければ、やさしく相手も答えてくれる」というのは、詩が読者に伝えようとしていることを直接言葉にしてしまっているので、最悪というしかありません。
 
評判のいいこのふたつのCMにもこのような問題があるのですから、評判の悪いCMはどういうことになるでしょうか。
私にとってのワーストワンのCMは、『「心」は見えないけれど、「心づかい」はだれにでも見える』というやつです。これがテレビで流れるとうんざりしてしまいます。
その次に、手が妙な動きをする「こどもに、あなたの手当てを」というCMも相当うんざりします。
なぜうんざりするのか。その説明はけっこう困難です。あえていえば、道徳そのものがうんざりするものだから、ということでしょうか。
これはもう少し考えを詰めてから書いてみたいと思います。

515日午後9時からNHKで「虐待カウンセリング~作家柳美里・500日の記録」というドキュメンタリー番組がありました。幼児虐待という問題がメジャーなテレビ番組で取り上げられるのは珍しいことです。
番組には、柳美里さんを子ども時代に虐待した両親も登場します。父親は紳士といえる雰囲気の人、母親もごく普通の人にしか見えません。これがなかなか怖いところです。私たちの周りのごく普通の人も、過去に子どもを虐待していたか、今虐待している人かもしれないからです。
 
世の中には、たとえばヒロシマ・ナガサキ、アウシュビッツなど、あまりにも悲惨で認識しにくいことがいろいろありますが、中でももっとも認識しにくいのが幼児虐待でしょう。ごく幼い時期から親から虐待され続けた子どもの心情というのは、共感するのがむずかしいほど悲惨なものです。
 
そして、ここで注目しなければいけないのは、親(親の代理人も含めて)から虐待されている子どもは、ほぼ100パーセント、親を告発することがないということです。アザのある子どもにアザの原因を聞いても、子どもは親から殴られたとは決していいません。どうやら人間は親からの虐待を虐待と認識することができないようなのです。
そして、さらに注目しなければいけないのは、虐待された子どもは虐待を虐待と認識できないままおとなになるということです。番組では、柳美里さんも最初は自分が虐待された子どもであったことを認識していませんでした。
 
ということは、どういうことかわかるでしょうか。
あなたは自分は子ども時代に虐待されたことはないと思っているかもしれませんが、もしかして虐待されていたかもしれないのです。
人間は自分のことはなかなかわからないものですが、そのいちばん大きな問題がこの幼児虐待です。
子どもを虐待する親は、子どもが悪いことをするので、子どもを罰することは正義だと考えています。
あなたがもし被虐待児で、しかもそのことに気づいていないとしたら、あなたの善悪、正義の判断はどうなるでしょうか。
いや、あなただけのことではなく、世の中に自分が被虐待児であることに気づかない人がたくさんいれば、世の中の善悪、正義の判断はどうなるのでしょうか(私はこの問題を突き詰めて考えて、「科学的倫理学」に到達しました)
 
番組で虐待カウンセラーとして出てくる長谷川博一という人は、タレントの東ちづるさんのカウンセリングもした人です。また、池田小事件を起こした宅間守死刑囚に面会して、宅間守には被虐待児の特徴があったという報告もしています。
最近では、秋葉原通り魔事件の加藤智大被告への第一審判決で、加藤被告は幼児期に親から虐待されていた事実を認定していながら、死刑の判断が下されました。
死刑とは、虐待された子どもへの仕上げの虐待なのでしょうか。
 
幼児虐待の問題は、考えれば考えるほど人間についての認識を深めさせてくれます。

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