村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

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卒業式と入学式の季節になると国旗国歌について議論が起きますが、この問題については馳浩文科相がおもしろいことを言っています。
 
岐阜大学が卒業式などで国歌斉唱をしない方針を表明したことについて、馳文科相は「国立大として運営費交付金が投入されている中であえてそういう表現をすることは、私の感覚からするとちょっと恥ずかしい」と言いました。
つまり国歌斉唱をするべき理由を「恥ずかしい」という個人的な感覚で説明したのです。
 
馳文科相はこの2日後、また同じ問題について、「国費も投入されている。日本社会のすべての方々に感謝の気持ちを表現する場合に、儀礼的な側面を重要視する必要がある」と言いました。どうやら「恥ずかしい」と言ったことを反省して、言い直したものと思われます。
 
しかし、「感謝の気持ち」や「儀礼的な側面」を持ち出しても、国歌斉唱をしなければならない理由にはなりません。
 
だいたい税金を投入しているから感謝の気持ちを表現しろというのは、とんでもない理屈です。
税金を投入するのは投入するべき理由があるからですし、それを受けるのは納税者として当然の権利です。そこに「感謝」など入ってくるわけがありません。
 
また、「儀礼的な側面」というのが問題です。
人が人に対しておじぎをするのは礼儀ですが、モノやシンボルに対しておじぎをするのは果たして礼儀でしょうか。
 
日本で国旗国歌への崇拝が強制的に行われるようになったのは、第一次近衛内閣が1937年から始めた「国民精神総動員」運動においてです。このときは「国旗掲揚、国歌斉唱、宮城遥拝」が3点セットになっていました。
宮城におられる天皇陛下は現人神ですから、これは明らかに宗教行為です(国家神道)。イスラム教徒がメッカの方向に礼拝するのと同じです。
 
今、学校で強制されているのは国旗掲揚と国歌斉唱だけです。宮城遥拝はさすがに宗教色が強すぎるので省かれているのでしょう。しかし、基本精神は昔と同じです。
馳文科相がうまく説明できないのも当然です。
 
外国人のいるとき、外国旗に礼をして外国に敬意を表するというのは意味のある行為ですし、国際試合などで国旗国歌を使って雰囲気を盛り上げるというのも意味がありますが、日本人しかいないところで国旗におじぎをして、直立不動で国歌を歌うことにはなんの意味もありません。
こういうむなしい行為を強いられるのは、普通の人間にとっては苦痛です。
 
宗教系の学校で、生徒に校門や校舎に対してお辞儀をさせているところがありますが、公立学校で同じことをさせたら問題になるでしょう。国旗国歌への崇拝も同じことです。
 
学校における国旗国歌の崇拝は宗教行為だと見なすとよく理解できると思います。
 当然これは憲法違反です。
少なくとも合理的行為でないことは明らかです。公立学校はもっぱら税金で運営されているのですから、不合理で無意味な行為は許されません。

インターネットは集団で個人を攻撃するときに威力を発揮するツールのようです。
「ネットのバカ」(中川淳一郎著)という本を読んでいたら、中国の「時計兄貴」の話が書いてありました。交通事故の現場でニヤニヤと笑っていた役人が妙に立派な時計をたくさん持っていると指摘する声が出て、ネットユーザーがみんなでこの役人が登場する写真を確認していくと、毎回高級な腕時計をしていることがわかり、そのため「時計兄貴」というあだ名がつき、12億円もの不正蓄財をしていることもわかって、その役人は更迭されたそうです。
「交通事故現場で不謹慎な笑顔」「高級な腕時計」というネットユーザーが食いつきやすいアイテムがあったからでもありますが、ネットが「社会正義」を実現した一例ということです。
 
しかし、こうした例はまれでしょう。とくに日本では集団で弱者を攻撃するという場合がほとんどのように思われます。
 
お笑い芸人の母親が生活保護を受給していた問題では、税金のむだ使いを追及するという点で多少は「正義」の要素がありましたが、最近のバイト店員炎上事件では、追及するほうに「正義」の要素はほとんどありません。
多くの人は、フェイスブックやツイッターを仲間内でやりとりするツールとして使っているはずです。そういうところに入り込んで、仲間に受けようとした写真を勝手に多数の人の目にさらすのは、むしろネットマナー違反、ネチケット違反ではないでしょうか。
 
ただのバイト店員を個人攻撃しても世の中がよくなるものでもなく、これは学校にあるイジメと同じようなものです。
 
とはいえ、こうしたことを多くの人が行っているのは事実です。なぜこうなるのかという理由はいくつもあると思いますが、そのひとつに学校教育の問題があるはずです。
学校ではどうでもいい細かい校則で子どもを縛りつけています。そうした中で育った人間は、他人が常識やルールから逸脱するのを見ると攻撃したくなります。
 
学校は昔から子どもを縛りつけてきたのではないかと思われるかもしれませんが、そうではありません。いや、学校や教師は子どもを縛りつけようとしてきたのですが、子どもの側が違いました。
 
たとえば、夏目漱石の「坊っちゃん」を見てみましょう。「坊っちゃん」は漱石自身が若いころ旧制松山中学に赴任した経験に基づく小説とされていますから、ここには当時の中学校の実態がかなり反映されているはずです。
 
「坊っちゃん」に出てくる中学生(今の中学1年生から高校2年生までに当たる)は、今の中学生、高校生とかなり違います。
 
坊っちゃんが赴任して最初の授業の日のことです。2時間目の最後に、一人の生徒が「ちょっとこの問題を解釈をしておくれんかな、もし」と、できそうもない幾何の問題を持って迫ってきたので(坊っちゃんは数学の教師)、「この次教えてやる」と急いで引き揚げたら、生徒たちは「わあ」とはやし立て、「出来ん出来ん」という声が聞こえてきます。
 
ある日、そば屋で天ぷらそばを食べ、翌日教室に入ると、黒板いっぱいの大きな字で「天麩羅先生」と書いてあり、みんな坊っちゃんの顔を見て「わあ」と笑います。「天麩羅を食っちゃ可笑しいか」と言うと、生徒の一人が「しかし四杯は過ぎるぞな、もし」と言うので、「四杯食おうが五杯食おうがおれの銭でおれが食うのに文句があるもんか」と言い返します。そして、次の教室に行くと、黒板に今度は「一つ天麩羅四杯なり。但し笑うべからず」と書いてあるので、「こんないたずらが面白いか、卑怯な冗談だ」と言うと、「自分がした事を笑われて怒るのが卑怯じゃろうがな、もし」と言い返す生徒がいます。そして、次の教室に行くと、「天麩羅を食うと減らず口が利きたくなるものなり」と書いてあります。
 
それから4日後に、団子屋で団子を食うと、黒板に「団子二皿七銭」と書いてあります。また、人のいない温泉で泳いでいると、温泉場に「湯の中で泳ぐべからず」と張り紙をされ、教室に行くと、例のごとく黒板に「湯の中で泳ぐべからず」と書いてあります。
つまり生徒たちは坊っちゃんに関する情報をインターネットさながらに素早く共有して、ことあるごとに坊っちゃんをからかってくるのです。
 
そして、宿直の日に布団の中に五、六十匹のイナゴを入れられ、大騒動になります。
夜中に寄宿生を集めて、「なんでバッタなんか、おれの床の中へ入れた」と言うと、「そりゃ、イナゴぞな、もし」とやり込められます。
そのあとのやり取りはこんな具合です。
 
「イナゴでもバッタでも、何でおれの床の中へ入れたんだ。おれがいつ、バッタを入れてくれと頼んだ」
 「誰も入れやせんがな」
 「入れないものが、どうして床の中に居るんだ」
 「イナゴは温い所が好きじゃけれ、大方一人でおはいりたのじゃあろ」
 「馬鹿あ云え。バッタが一人でおはいりになるなんて――バッタにおはいりになられてたまるもんか。――さあなぜこんないたずらをしたか、云え」
 「云えてて、入れんものを説明しようがないがな」
 
(引用は「青空文庫」の「坊っちゃん」から)
 
生徒を相手にむきになる坊っちゃんのキャラクターもおもしろいのですが、生徒も相手が教師だからといってぜんぜん負けていません。
 
明治時代の学校というと、教師は威厳をもってきびしく生徒を指導し、生徒も教師を敬っていたというイメージがあるかもしれませんが、実際はぜんぜん違います。
そもそも江戸時代の寺子屋は、先生にとって子どもは月謝を払ってくれるお客さんですから、きびしい指導なんかできるはずがなく、子どもたちは遊びながら学んでいたのです。
明治になって近代学校ができたからといって、そんなに急に変わるはずがありません。
 
「『学歴エリート』は暴走する」(安富歩著)という本によると、学校で教師がきびしく生徒を指導するようになったのは、軍国主義の影響です。それまでの普通の体操が「兵式体操」中心に転換し、1925(大正14)の「陸軍現役将校学校配属令」によって教育現場に軍人が入ってきて、学校の雰囲気が変わるのです(現在の「竹刀を持った体育教師」のイメージは当時学校に入ってきた下士官からきているそうです)
 
こうした軍国主義的学校は、戦後民主主義の時代でかなり変わったはずです。石坂洋次郎の小説「青い山脈」などがその時代の雰囲気を伝えています。
 
しかし、それからの長い自民党政権によって、また軍国主義的学校に戻ってきたというのが私の考えです。
とくに内申書重視と推薦入学制度の普及で、生徒が教師に反抗できなくなったのが決定的だと思います。
 
今の学校で、生徒が先生の布団にイナゴを入れるような「悪ふざけ」ができるとは思えません。もしやったら生徒はひどくつらい立場に立たされてしまうでしょう。
そして、そういう学校で育った者たちが、バイト店員が冷蔵庫に入るなどの「悪ふざけ」を見つけては炎上させているというわけです。
 
教師が生徒を上から指導しようとするのは、今も昔も同じです。しかし、昔の生徒は教師をバカにして、心の中でその指導をはね返していたのです。そのため、生徒は自尊心や自己肯定感を維持することができました。
今の生徒は教師の指導に押しつぶされています。
 
「坊っちゃん」の学校では、生徒たちは坊っちゃんをからかうことでストレス解消ができていたので、生徒同士のイジメもほとんどなかったのではないでしょうか。
 
イヴァン・イリイチという思想家は、学校の価値観で社会がおおわれることを「学校化社会」と名づけました。
たまには「坊っちゃん」を読み返して、今の社会がいかに異常な「学校化社会」になっているかを考えてみるのもいいかもしれません。

世界の小中学生の理科と算数の学力の比較が発表されました。日本の小学4年生の得点が過去最高だったということで、文部科学省は「脱ゆとり」の成果が現れたと見ているそうです。
 
小4の理数学力改善、脱ゆとり効果か 国際テスト
2012/12/12 0:10
  国際教育到達度評価学会(IEA、本部オランダ)は11日、小学4年と中学2年が対象の国際学力テスト「国際数学・理科教育動向調査(TIMSS)」の2011年の結果を発表した。日本は全科目で平均点が上昇または横ばいとなり、小4は過去最高になった。国際順位は全科目で5位以内に入った。
 小4の成績が明確に上向いたのは1995年以降で初めて。文部科学省は「子どもの学力は改善傾向にある」と指摘。「脱ゆとり教育」路線を鮮明にした新学習指導要領の成果とみている。
 過去の調査と比較できるよう95年の国際平均点を500点とし、今回の得点を統計処理した。日本の平均点は小4の算数が前回より17点上昇、理科も11点上昇した。中2は数学が横ばい、理科も4点上昇だった。順位は小4の算数が5位、理科が4位。中2の数学が5位、理科が4位だった。
 調査は4年に1度。03年は順位下落が目立ち、学力低下論争が起きた。今回は小学校は50カ国・地域、中学校は42カ国・地域が参加した。経済協力開発機構(OECD)の学習到達度調査(PISA)で全科目トップだった上海は参加していない。日本は約8800人の小中学生が受けた。
 
ベスト5の国は以下のようになっています。
 
小4算数
1位 シンガポール
2位 韓国
3位 香港
4位 台湾
5位 日本
 
小4理科
1位 韓国
2位 シンガポール
3位 フィンランド
4位 日本
5位 ロシア
 
中2数学
1位 韓国
2位 シンガポール
3位 台湾
4位 香港
5位 日本
 
中2理科
1位 シンガポール
2位 台湾
3位 韓国
4位 日本
5位 フィンランド
 
 
要するに日本、韓国、台湾、香港、シンガポールという儒教圏の国が上位になっているのです。これは昔からそうです。
日本、韓国、台湾はハイテク産業の盛んな国です。学力の高さがそういう形で生きているのかもしれません。
しかし、ノーベル賞受賞者の数で見てみると、文学賞、平和賞を別にすると、韓国、シンガポール、台湾、香港はゼロです。日本にしても、いち早く先進国の仲間入りをしたことを考えると、決して多いとはいえません。
つまり学力はあってもあまり創造性はないということがいえるのではないでしょうか。
学力があるからいいというものでもありません。
 
儒教圏以外の国はフィンランドとロシアしかありません。しかし、朝日新聞には同じ調査の過去3回の結果が掲載されており、中学2年の場合は6位までの国が出ています。そうすると儒教圏以外の国がいくつも出てきます。それらの国は、ベルギー、イングランド、カザフスタン、エストニア、ハンガリー、スロベニアです。
これらの国の特徴はなにかと考えると、北のほうの寒い国と、ヨーロッパでもアジア寄りの国だということです。あと、ロシアを別にすると概して小さい国です。
 
私の勝手な想像では、寒い国では子どもは外で遊べないので家で勉強するのではないでしょうか。アジア寄りの国は儒教圏の影響を受けているということが考えられます。
 
小さい国が多いということも考えさせられます。アメリカ、中国、インドという国はどうなっているのでしょうか。
 
一般に競争が学力を上げるように言われています。全国規模の学力テストをやって競わせるのが最高の競争のようにも思われています。しかし、小さな国の学力が高いことを考えると、大規模な競争はむしろマイナスで、競争ではなくともに学ぶというやり方のほうがいいのかもしれません。
 
ともかく、「詰め込み教育」への反省から「ゆとり教育」が生まれたのですが、その結果もろくに見ないうちに「脱ゆとり教育」に変わっています。
日本の教育の変化は、子どものテストの成績が悪かったからといってあわてて子どもを塾に通わせる母親に似ています。
 
今回はちょっとテストの成績がよくなったわけですが、そんなことで喜んでいてよいのでしょうか。

アクセスが急増して、話に聞く「炎上」なるものが私のブログでも起こるのかと、期待半分、不安半分で見ていたら、別段何事も起こらないようです。考えてみたら、子どもが自殺したら家庭と学校の両方に原因があるはずだと、当たり前のことを主張しているだけですから、そんなことで「炎上」が起こるのもおかしな話です。
 
コメントも多数いただいていますが、ほとんどが罵倒や嫌がらせの類です。感情的に反対だが理論的に反対することができないので罵倒や嫌がらせになるわけで、やはり自分の説は正しいのだと、自信を深める糧にさせていただいています。
レスをつけたほうがいいかなと思うコメントもあるのですが、「あっちにつけてなぜこっちにつけないんだ」という不満が出るでしょうから、控えさせていただきます。
まともなコメントをしていただいている方には、この場からまとめてお礼を申し上げます。
 
「家庭」について書いたのだから、次は「学校」についての考察をうかがいたいというコメントがありましたが、それは自然な流れですから、今回は学校の問題について書くことにします。
 
 
現在、有識者などがイジメ対策についていろいろ語っていますが、私の知る範囲では、イジメの対症療法ばかりが語られていて、イジメそのものをなくす対策を語る人はいません。
イジメの対症療法の最たるものは、イジメは犯罪だから警察力で対応しろというものでしょう。
しかし、イジメで悩んでいる子どもというのは、親や教師が対応してくれないから悩んでいるわけで、誰が警察に通報するのかという問題があります。そうしたら、新聞の投書欄に、子どもが自分で110番しろと書いてあるものがありました。110番したら警察は必ず対応してくれるからというのです。
しかし、これも子どもの役に立つ助言とも思えません。確かに110番したら警察は必ず駆けつけてくれるでしょうが、そのときイジメっ子らが口裏を合わせれば、通報した子どもが逆に叱られることになります。まあ、死ぬほど思い詰めているなら、死ぬ前にやってみる価値はありますが、静かに死ぬのではなく、恥をかいてから死ぬハメになるかもしれません。
そもそも警察は、傷害罪が適用できるような事態ならいいですが、“陰湿なイジメ”なんていうのは対応しようがないと思います。今は大津市の事件が世間で騒がれているので、警察も動いてくれていますが、警察の本音としては、こっちは忙しいのだから、そんなことは学校で対応してくれというところでしょう。
警察力で対応しろと主張する有識者も、面倒なことを警察に押しつけているだけです。警察にとっても迷惑です。
 
警察力以外の対策をなぜ誰も言わないのか不思議です――などと言っていると、もっとくだらないことを言う人が出てくるかもしれません。たとえば、校内に監視カメラを備えよとか、屈強な警備員を配置しろとか。
結局、対症療法とはそういう方向に行くしかないわけです。まあ、それがいいという人もいるかもしれませんが。
 
では、イジメそのものをなくす対策とはなにかというと、これは簡単です。
学校が楽しくのびのびと学習できる場になればいいのです。
こうすれば学校が原因のイジメはなくなります(イジメの原因には家庭やその他の要素もあるので、完全になくなるとは言えませんが)
 
「イジメの構造」というエントリーでも書きましたが、子どもがストレスを強く感じるような学校ではイジメがひどくなります。たとえば、きびしい校則で縛るとか、プレッシャーをかけて勉強させるとか、わからない退屈な授業とかはイジメの原因になります。だから、その逆にすればいいのです。
 
対策としてはあまりにも簡単です。誰も言わないのが不思議です。
もっとも、今は子どもには規律を学ばせることがたいせつだとか、子どもにはがまんを覚えさせることがたいせつだとかいう考えの人がむしろ多数なので、テレビのコメンテーターなどはこういうことは言いにくいでしょう。たとえば体罰肯定論のほうが受けるのがテレビの世界です。
しかし、子どもにがまんを覚えさせることがたいせつだというのなら、イジメっ子はイジメられっ子にまさにがまんを覚えさせているわけで、イジメっ子は教育功労者として表彰しないといけません(がまんするのと、がまんさせられるのは別だということを理解していないと、こんなへんなことになります)
 
具体的なイメージとしては、たとえば尾木ママがテレビで紹介したオランダの小学校とか、私が勧める江戸時代の寺子屋方式とかがあります。これは「オランダの学校と寺子屋」というエントリーで書きました。
 
学校制度改革というと時間のかかる話ですが、今の制度でも、とりあえず子どもがのびのびと楽しくすごせるように各教師が心がければ、それだけ効果はあるはずです。
 
子どもが楽しくのびのびとしていればイジメはなくなる。当たり前の理屈です。
 
というか、それ以外の対策はないといってもいいでしょう(監視カメラや警備員が対策だというのなら別ですが)
 
 
しかし、子どもが楽しくのびのびと学習する学校というのに反対する人もたくさんいます。自分は学校でつらい思いをしてきたのに、今の子どもが楽しくのびのびするのは不当だという感情があるからです。この感情は一見理不尽ですが、感情のメカニズムとしてはむしろ自然なものだといえます。学校の運動部で、1年生のときに球拾いばかりやらされ、不当だと思っていても、自分が2年生になると、1年生に球拾いばかりやらせるようになるのと同じです。
 
今のおとなは、親や教師も含めてですが、子どもを幸せにしたいという気持ちが薄くなっています。ですから、親や教師の多くはイジメられている子がいても気づかず、気づいても面倒なので、みずから動いて解決しようとしないのです。
幼児虐待やきびしいしつけから、選挙権に年齢制限があることまで、子どもはおとなから不当に扱われています。
こういう社会のあり方を私は「子ども差別」と呼んでいます。「人種差別」や「性差別」は認識されていますが、「子ども差別」はまだほとんど認識されていません。そのためさまざまな問題が生じ、そしてその解決策がわからないという状態が生じています。イジメ問題もそのひとつというわけです。
 

尾木ママこと教育評論家の尾木直樹氏が4月13日の日本テレビの「アナザースカイ」に出演し、オランダの小学校を視察したときのことを紹介しておられました。
オランダの教育のキーワードは「個別教育」です。オランダの小学校には時間割がありません。学年もありません。11人が別々のことをしているからです。なにをするかは子どもが選びます。
 
入学も日本のように4月に一斉にというのではありません。義務教育は5歳からで、5歳の誕生日の次の月から登校すると決まっていますが、実際は4歳から学校に通うことができます。つまり入学がバラバラなので、そもそも一斉の授業というのは不可能です。
 
オランダでは、子どもを200人集めることができれば学校が自由に設立できます。ですから、学校によって教育方針や教育内容がぜんぜん違います。100の学校があれば100の教育が行われているということです。
日本の場合は、学習指導要領によってこと細かく規定されていますから、実はどの学校を選んでも中身は同じです。ですから、中高一貫か中高別かぐらいしか選択の余地がありません。先生のレベルもほとんど同じですから、日本の学校の違いは、実際は生徒の違いによって決まります。
 
オランダの教育は日本とあまりにも違いすぎて、とても参考にならないと考える人がいるかもしれませんが、そんなことはありません。私は、オランダの教育はむしろ日本の伝統的な教育のやり方、つまり寺子屋と同じだと思いました。
寺子屋は、入学の時期はバラバラですし、1人1人教材が違うので、まさに「個別教育」が行われていたのです。
寺子屋については次のエントリーでも書きました。
 
「呉智英につける薬その2」
 
一斉教育、つまり子どもがみな同じ姿勢で先生のほうを向いて話を聞くというのは、ただ教える側にとって効率がよいだけで、子どもの生理に反します。また、4月に一斉入学というのも、6歳になったばかりの子とすでに7歳になった子を同じに扱うわけで、これも教える側の都合だけでやっているわけです。
近代学校というのは、兵隊と単純労働の労働者を効率よくつくるためのものです(少数の優秀な者だけがエリートになります)。
 
寺子屋というと、子どもは先生の前で正座して背筋を伸ばし、「論語」などを素読しているようなイメージを持たれるかもしれませんが、これはまったくの誤解です。子どもはそれぞれ好きな格好をして、半分遊びながら勉強していたのです。
寺子屋はあくまで読み書き算盤を教えるところで、行儀などは教えません。
「寺子屋」で画像検索して、いくつかの絵を貼っておきます。
 
 
 
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寺子屋は民間で個々につくられていたので、寺子屋についての記録というのはひじょうに少ないのです。しかし、寺子屋の師匠が亡くなると、教え子たちがお金を出し合ってお墓をつくることがよくありました。これを筆子塚といいます。寺子屋の研究者は全国の筆子塚を調べて、寺子屋が普及していく過程や寺子屋の数を研究しました。
教え子が師匠のお墓をつくるということから、師匠と教え子の関係が推測できます。今の学校にそうした関係があるでしょうか。
 
江戸時代後期の日本は、寺子屋のおかげで世界でもトップクラスの識字率であったといいます。
今の日本では、学習塾が寺子屋の伝統を継いでいると思います。学習塾では「個別指導」が行われていることが多いですし、学力をつけるには学校よりも学習塾のほうが明らかに優れているでしょう。
 
私は、今の画一的な学校はなくして、学習塾を学校に格上げすれば、今よりもうんといい教育ができるのではないかと考えています。
 

私は学校教育や学校制度に反対する思想を持っているのですが、これはもちろん私だけのことではありません。反学校教育の思想家としては、まずミシェル・フーコーが挙げられるでしょう。
フーコーの主著「監獄の誕生」は、近代以前の刑罰はムチ打ち、烙印など肉体に対して与えられるものでしたが、近代以降は犯罪者を監獄に収容し、精神を矯正するものとなったとし、そして、最小限の費用で犯罪者を監視するために一望監視施設と呼ばれる刑務所ができ、軍隊、学校、工場、病院も同じ原理で運営されているとします。刑務所と学校が同じ原理だという点で、フーコーが学校を批判的に見ていることは明らかでしょう。
 
イヴァン・イリイチはややマイナーな思想家ですが、学校は過剰な効率性を追い求めるあまり人間の自立、自律を喪失させるものであるとして批判しましまた。以下はウィキペディアからの引用です。
学校教育においては、真に学びを取り戻すために、学校という制度の撤廃を提言。パウロ・フレイレの革命的教育学と並んで、地下運動から国際機関まで世界中を席捲した。イリイチの論は「脱学校論」として広く知られるようになり、当時以降のフリースクール運動の中で、指導的な理論のひとつになった」
 
学校や教育について真剣に考えると、フーコーやイリイチなど知らなくても、反学校の思想に傾いていくのは当然です。
とはいえ、日本で反学校、反教育を明確に主張している人は少ないようです。私が知っている中では、絵本作家の五味太郎さんがおられます。五味さんの「大人問題」(講談社文庫)を読んで、同じようなことを考えている人がいるんだなあと思いました。
図書館から五味さんの「勉強しなければだいじょうぶ」(朝日新聞出版)という本を借りてきたので、そこから学校教育への本質的な批判の部分を引用してみます。
 
 
非常に浅い子ども教育理論は、子どもというものをなぜか物的にとらえ、繰り返しやれば覚えるはずだとか、鉄は熱いうちに打てみたいな理論を平気で言います。子どもはしっかり躾けておかなきゃダメよとか、たくさん愛せばいい子になりますとか、いっぱい絵本を読むと情緒豊かな子になりますとか、そのぐらい物的で雑なことを単純に信じてしまう大人というのは、たぶん愛されなかったんだろうなとしか思いようがないわけです。もうすでにどこかが破壊されてしまっている、あるいはどこかが未発達のままのような。それが親になれば、愛するという形が自分でもよくわからないよね。ましてや、子どもに愛されていることさえわからない。
 
子どもを生物的にゆっくり見るという習慣がついていない社会なんだよ。社会の中でしかその子を見ていないのね、恐ろしいことに。それはたぶん、社会の中でしか、あるいは学校という中でしか個人個人を見ない教育を受けてきた人なんだと思う。家に帰ってきても「勉強したの」「宿題できたの」って学校基準でしか物を喋れない、そういう暮らしをしてきた親の歴史なんだと思う。そんなことはさておいて、もっと大事なことがあるだろう、ということについてはもうわからない人たち。
 
生まれつきの力をほとんど殺されて改めて再教育(している側には「再」という感覚はないだろうけれど)されて、めでたく誕生したのが勉強人、あるいは学校人。
 
その学校人は、学校的なものがすべてだから、そこの評価査定については敏感になるわけです。成績が良いのは良い。成績が悪いのは悪い。先生に怒られるのは悪い。ほめられたことは良いことだと考える。ただそれだけ。
 
今、学校に行っていないのは悪い子です。学校行かないと「きみ、どうしたの?」とみんなに言われます。補導されちゃうわけです。ま、犯罪者です。
 
学校というものをなんでこれほど重要視して、なんでいまだにあるのかというと、学校出てないと資格を与えないというシステムがあるからね。これが最後の砦。資格を取るには学校を出ているということをまず前提にしておいて、それがなければ次の試験は受けられませんよと。次はないですよと。就職もまともにはできませんよと。自衛隊にも入れませんよと。
 
 
学校教育を否定する人が少ないのは、学校教育を否定すると自分の過去を否定してしまうことになるからです。人間はやはり自分を肯定したいですから。
しかし、学校教育にかかわることは自分自身の表面的な部分です。それを否定することで自分自身の中心的な部分を肯定することができるわけです。そう考えると、学校教育を否定する気になれるのではないでしょうか。
 
学校をなくせといっているのではありません。学校は子どもが自主的、自発的に学ぶ場に変わるべきだといっているわけです。
今の学校は、お腹の空いていない子どもに、決められた食べ物をむりやり口の中に押し込んでいるようなものです。

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