村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

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子どもが自分の意見を言うようになると、「口答えするな」とか「屁理屈を言うな」とか言う親がいます。子どもの意見をちゃんと受け止めれば、子どもも親も成長することができるのですが。
 
これは家庭内のことですが、社会でも同じようなことが起きています。
たとえば、“少年革命家ゆたぼん”を名乗る10歳のユーチューバーが「不登校は不幸じゃない」「同級生がロボットに見える」といったことを発信し、メディアに取り上げられたこともあって、賛否両論が巻き起こっています。
 
「不登校は自由」10歳のYouTuberゆたぼんをめぐり、有名人からも賛否両論が大噴出
 
賛否両論といっても、実際は否定の声のほうが圧倒的です。
不登校を肯定する意見に反対が多いのは不思議ではありませんが、議論はそういう方向へはいきません。「ゆたぼんは父親のあやつり人形ではないか」という形で批判が起きています。
ゆたぼんの父親は元暴走族、中卒、高卒認定試験に合格して現在は心理カウンセラー、著書もあるという人で、ゆたぼんは父親の主張を言わされているだけではないかというわけです。
 
 
似たことはほかにもあります。
東京新聞の望月衣塑子記者が菅官房長官の記者会見において質問を制限されるなどしているのを「いじめ」と感じた女子中学生(14)が今年2月、インターネット上で「特定の記者の質問を制限する言論統制をしないで下さい」などとする署名活動を始めると、やはり炎上しました。
 
東京新聞の望月衣塑子記者を支援する署名をネットで集めた中2、誹謗中傷に「子どもが何か意見しちゃいけないんだと感じた」
 
この場合は、「母親にあやつられている」さらには「女子生徒は実在しない」という批判がありました。
 
 
はるかぜちゃんこと春名風花さんは、子役だった2010年、9歳のときにツイッターを始め、いじめ、不登校、義務教育などについて発信し、数々の炎上が起きましたが、最初のころは「自分の意見のはずがない。親に言わされているのだろう」という批判がもっぱらでした。
 
 
つまり、子どもが自分の意見を発信すると、必ずといっていいほど「親に言わされている」とか「親にあやつられている」という批判が起きるわけです。
しかし、そもそも人間は「純然たる自分の意見」など持ちようがありません。必ず周りの影響を受けて意見を形成します。子どもであれば親の強い影響を受けるのは当然です。
 
「親にあやつられている」ということでは、たとえば小学生のときから父親に野球を教えられてきたイチローさんもそうだということになります。
いや、そもそも学校に行って勉強している子どもはみな親にあやつられています。
「親にあやつられている」ということで批判するなら、学校に行っているほとんどの子どもを批判しなければなりません。
 
したがって、「親にあやつられている」か否かということを論じても意味はありません。
世の中には、子どもが自分の意見を社会に発信することに反対するおとなが多数いて、そういうおとなは、ほんとうは「子どもが生意気なことを言うな」と言いたいのですが、それでは反発を買うので、代わりに「親にあやつられている」と言っているだけなのです。
 
子どもとおとなは、体の大きさではハンデがありますが、頭の働きではほとんどハンデはないと思います。たとえば将棋の藤井聡太七段とか、10歳でプロ入りして話題になった囲碁の仲邑菫初段とかを見てもわかります。
小さいころから自分の意見を言って、人と議論していると、その能力もどんどん進歩していきます。
 
17歳でノーベル平和賞を受けたパキスタンのマララ・ユスフザイさんは、11歳のときにタリバーンの女子校破壊活動に反対する意見をインターネットに投稿して注目を浴びましたが、マララさんの父親は私立女子校の経営者ですから、その影響があるのは明らかです。「父親にあやつられている」という批判も当然あったでしょう。しかし、15歳のときに銃撃を受けて重傷を負い、世界的に注目され、16歳の誕生日に国連本部で演説し、高く評価されました。もちろん今、「父親にあやつられている」と言う人はいません。
 
なにか意見を言えば、賛否があるのは当然ですが、「意見を言うな」と言うのは間違いです。
 
子どもがどんどん意見を言うようになれば、学校教育の問題点などもはっきりしますし、政治、経済、クリエイティブな分野で活躍する子どもも出てきて、社会が活性化するでしょう。
 
今はむしろ、ゆたぼんのような子どもがあまりにも少ないのが問題です。

「いじめ防止対策推進法」が施行されて今年の9月で5年になり、改正の機運が盛り上がっているそうです。
 
いじめ防止法は、2011年に大津市で中学2年の男子生徒が飛び降り自殺し、「自殺の練習」を強要されるなどのいじめを受けていたという報道があって世論が沸騰し、急遽まとめられた法律です。たったひとつの事件で法律ができるのですから、法律の世界も大衆迎合になりました。
いじめ防止法にいじめ防止効果はあったのでしょうか。
 
尾木ママこと尾木直樹氏の記事によると、「法律施行前の四年間に自殺した児童生徒の人数は七百九十三人だったのが、施行後四年間では九百四十二人。法律が施行されたにも関わらず百四十九人も激増したことになる」とのことです。
 
やはり泥縄式の法律ではうまくいかないようです。
法律の付則に、施行後3年を目途に見直すと書かれているので、遅まきながら改正の機運が盛り上がってきたのでしょう。
 
では、どこを改正すればいいのでしょうか。
私は改めて法律を読んでみました。
 
別添3 いじめ防止対策推進法(平成25年法律第71号)
 
読んでみれば、欠陥は明らかです。
一言でいえば「子ども不在」の法律です。
 
子どもの権利条約は子どもを「権利を持つ主体」と位置づけています。
ところが、いじめ防止法には「主体としての子ども」の姿がありません。
いや、一行だけありました。
 
(いじめの禁止)
第四条 児童等は、いじめを行ってはならない。
 
これは当然の規定です。
そして、この規定があれば、次にいじめられた子どもについての規定があるはずです。
たとえば、「いじめにあった児童は、身を守らなければならない。それが困難なときは担任に報告しなければならない」といった具合です。
さらに、「いじめを見聞きした児童は、いじめをやめさせるよう努めなければならない」という規定もあって当然です。
つまりいじめは、とりあえず子ども自身が解決するべきで、うまくいかない場合におとなが出てくるという順番になるはずですが、この法律には子どもがいじめにどう対処するべきかが書かれていません。
つまり子どもの主体性をまったく無視しているのです(いじめっ子の主体性を制限することだけはしています)
 
この法律には、もっぱら国や地方自治体や学校設置者がするべきことが書かれています。
たとえば、地方自治体や学校はその地域や学校の実情に応じた「いじめ防止基本方針」を作成しなければならないと書かれています。
現実には、法律に定められているからということで、お役所仕事的に、形式的に「方針」が作文されているのでしょう。
しかし、正しい「方針」が作成されればいじめ防止に力を持つはずですから、この規定は重要です。
では、どうすれば正しい「方針」が作成できるかというと、子どもの意見を聞くことです。
 
子どもの権利条約には「子どもの意見表明権」および「表現の自由」が規定されています。
 
12
1 締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。
2 このため、児童は、特に、自己に影響を及ぼすあらゆる司法上及び行政上の手続において、国内法の手続規則に合致する方法により直接に又は代理人若しくは適当な団体を通じて聴取される機会を与えられる。
13
1 児童は、表現の自由についての権利を有する。この権利には、口頭、手書き若しくは印刷、芸術の形態又は自ら選択する他の方法により、国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む。
2 1の権利の行使については、一定の制限を課することができる。ただし、その制限は、法律によって定められ、かつ、次の目的のために必要とされるものに限る。
 
a)他の者の権利又は信用の尊重
b)国の安全、公の秩序又は公衆の健康若しくは道徳の保護
 
ですから、いじめ問題について子どもは意見表明の権利を持っています。
子どもの意見を聞かずにおとなだけで「いじめ防止基本方針」を作成するのは、子どもの権利条約の精神を無視しています。
 
いじめについていちばん真剣に考えているのは子どもです。子どもがいい意見を言わないはずがありません。
子どもの意見を取り入れて各学校で「いじめ防止基本方針」を作成するのが、とりあえずの最善の策です。
 
子どもの意見を聞くのはいじめだけに限りません。
たとえば小学校での早期英語教育とかプログラミング教育についても、小学生の意見を聞くべきです。
子どもはそんなこと考えていないという反論があるかもしれませんが、意見を聞かれることで自分の意見が形成されていきます。
そういう意味でも、さまざまな場面で子どもの意見を聞くことはたいせつです。
 
それにしても、文科省が子どもの権利条約に反して子どもの主体性をまったく無視してきたのにはあきれます。
文科省のそういう「子ども不在」の教育や学校運営こそがいじめを生む大きな要因でしょう。

 いじめ防止法の見直しをするなら、学校での「いじめ防止基本方針」の作成に際して「必ず児童の意見を聴取する機会を設ける」などの規定を加えるべきです。

新学期が始まりました。
学校では1年か2年ごとにクラス替えがあり、せっかく友だちができても引き離されてしまいます。子どもにとっては酷な制度です。
なぜこんな制度があるのかというと、地元の友だちとの絆を薄くして、将来地元を離れて就職しやすくするためです。
と同時に、会社に入って知らない人ばかりに囲まれても対応できるようにするためです。
 
クラス替えと同時に担任も変わります。
担任の良し悪しは大問題です。体罰をする教師とか、えこひいきする教師とか、教え方のへたな教師とかもいて、教師のせいで勉強嫌いになったり不登校になったりすることもあります。しかし、子どもや親は担任を選べませんし、拒否権もありません。
子どもが担任を選べないというのも、将来会社に入ったら上司を選べないことに慣れさせるためです。
 
日本の学校教育は、戦前は「富国強兵」のためのものでした。
戦後は「強兵」が取れて「富国」のためのものになりました。
子どもが将来よい労働力になれば国が豊かになりますし、今のおとな世代も潤います。
よい労働力とは、もちろん仕事をする能力が高いことですが、それを別にすれば、どんな職場にも適応して、転勤もいとわず、どんな上司にも仕える人間です。
要するに今の学校教育は、汎用性の高い労働力、使い勝手のいい人間をつくる制度になっているのです。
 
しかし、これはもはや時代遅れでしょう。
汎用性の高い労働力ができる仕事というのは、たいていAIや外国人労働者でもできる仕事です。
 
 
そもそも子どもを汎用性の高い労働力にすることは、子どもの幸せのためではありません。
給料は少なくても友だちがたくさんいる地元で生きていく幸せというのがあります。
クラス替えに子どもの希望を反映させるようにすれば、子どもは友だちとの絆が深くなり、学校生活も楽しくなります。いじめもほとんどなくなるはずです。
こんな簡単ないじめ対策をなぜやらないのか不思議です。
 
もちろん高い学力をつけることは子どもの幸せに直結します。
今はそのために子どもにむりやり勉強させようとしています。
しかし、それは誤った対応です。優秀な教師さえいれば子どもの学力は自然と向上します。
 
では、どうして優秀な教師をつくるかというと、子どもに選ばせるようにすればいいのです。
小学校では担任を選ぶことになりますが、中学高校では生徒が好きな教師の授業を選択できるようにすればいいのです。
予備校や学習塾では子どもや親が教師や塾を選んでいます。その中からきわめて教えるのがうまい予備校教師などが生まれています。
江戸時代の寺子屋も親や子どもが選ぶシステムですが、世界的に見ても高い教育水準になっていました。
 
子どもが教師を選ぶと、教師同士の競争が起きて、つまり市場原理によって、教師のレベルが向上します。体罰教師もいなくなりますし、子どもが教師にいじめを訴えても聞いてもらえないということもなくなるはずです。
 
子どもが教師を選ぶというシステムはすぐにはむずかしいかもしれませんが、子どもが教師を評価するというシステムならすぐにでも導入できます。
 
なお、能力別クラス編成がよく議論されますが、子どもが選別されるのは傷つきますが、子どもが自分に合ったクラスを選ぶ形にすれば問題ないわけです。
 
 
ところで、子どもにまったく選択権のない今の教育システムは、将来軍隊に入ったときに適応できるようにするという、いまだに「強兵」を引きずったものと見ることができます。
今は就職先も自分で選ばなければならないのですから、教育システムも変わらなければなりません。
 
今の学校システムは欧米から入ってきたものですが、欧米では、おとなと子どもは画然と区別され、子どもはおとなが規律を教えなければならない存在とされていました。
日本はもともと子どもをたいせつにする文化があって、おとなと子どももそれほど区別されません。そこからマンガ、アニメ、カワイイなどの文化が生まれました。
ですから、教育改革も日本が世界の先頭を行っていいはずです。
 
日本が活力を取り戻すには、子どもの主体性を尊重する教育改革しかありません。

幼児虐待事件を防ぐために、児童相談所や学校や警察の対応力を強化するべきだと議論されていますが、肝心のことが忘れられています。
それは、子ども本人の対応力を強化するということです。
言い換えれば、子どもに対して親や教師から虐待されたときにどう対応するかを教えるということです。
幸い小学校ではすでに道徳の教科がありますから、そこで教えればいいわけです。
 
子どもは親から虐待を受けても、そのことを他人に訴えるということはまずありません(そういう意味で野田市の栗原心愛さんが学校のアンケートに「お父さんにぼう力を受けています」と書いたのは異例です。その前に沖縄にいたときに母親が児童相談所に相談していたことが影響したのでしょう)
哺乳類の子どもは親に依存して生きていくようにプログラムされていて、親から逃げるという選択肢はありません。現実に親から離れると生きていけないわけです。
 
しかし、今は不十分ながらも福祉制度があって、親から離れても生きていけます。
ですから、子どもに「親から逃げる」とか「親を告発する」という手段があることを教えるべきです。
その前に、「親からこんなことをされたら虐待だ」ということから教えなければなりませんが。
 
 
子どもに親から虐待されたときの対処法を教えるというのは当たり前のことですが、今の教育界とか文科省にはまったくその考えがありません。
そもそも「子どもの権利」とか「子どもの幸福」ということすら考えていないに違いありません。
たとえば道徳教育で教えるのは、文科省のホームページによると、次のようなことです。
 
道徳教育
児童生徒が,生命を大切にする心や他人を思いやる心,善悪の判断などの規範意識等の道徳性を身に付けることは,とても重要です。ここでは,道徳教育の充実に向けた取組等を紹介します。
 
つまり子どもに道徳性を身につけさせることが道徳教育の目的です。
 
ところが、世の中には道徳性のない人間がいっぱいいます。たとえば子どもを虐待する親、子どもに体罰をする教師、級友をいじめる子どもなどです。これらの対処法を教えるのは、今すぐに必要なことです。将来的には、詐欺商法にあったり、ブラック企業に勤めたりした場合の対処法も知らなければなりません。
こういうことが真の道徳教育です。
 
道徳的でないおとながいっぱいいる世の中で、子どもを道徳的にしようというのは、妙な発想です。
詐欺商法やブラック企業のカモを育てるようなものです。
もちろん虐待する親から身を守ることもできません。
 
幼児虐待を防止するには、子どもに親から虐待された場合の対処法を教えることがいちばんの対策です。 

学歴や収入よりも自分の進路を自分で決める「自己決定度」が日本人の幸福感に大きく影響している――こうした調査結果を、神戸大と同志社大の研究チームが昨年8月に発表しました。
 
所得や学歴より「自己決定」が幸福度を上げる 2万人を調査
 
ここから「調査結果」のところを引用します。
 
 年齢との関係では、幸福感は若い時期と老年期に高く、3549歳で落ち込む「U字型曲線」を描きました。所得との関係では、所得が増加するにつれて主観的幸福度が増加しますが、変化率の比(弾力性)は1100万円で最大となりました。
 また、幸福感に与える影響力を比較したところ、健康、人間関係に次ぐ要因として、所得、学歴よりも「自己決定」が強い影響を与えることが分かりました。
これは、自己決定によって進路を決定した者は、自らの判断で努力することで目的を達成する可能性が高くなり、また、成果に対しても責任と誇りを持ちやすくなることから、達成感や自尊心により幸福感が高まることにつながっていると考えられます。
 
 日本は国全体で見ると「人生の選択の自由」の変数値が低く、そういう社会で自己決定度の高い人が、幸福度が高い傾向にあることは注目に値します。
 
 
自分で決めた人生を歩む人はそうでない人よりも幸せというのは当たり前のことですが、今の日本では、自分で決めた人生を歩むというのがけっこう困難です。
というのは、たいていの子どもは「自分の行きたい学校」ではなく「親の行かせたい学校」に通っているからです。
習いごとなども、子どもがやりたいことよりも親がやらせたいことをやっているのではないでしょうか。
 
子どもの自己決定権がないがしろにされている根本原因は、憲法に義務教育の規定があることです。
6歳になれば誰でも親の手によって強制的に学校に行かせられ、自己決定権が奪われます。
親のほうも、どうせ学校に行かせるのだから、どの学校に行かせるかも親が決めていいという感覚になるでしょう。
こうして高校や大学進学、さらには職業選択までも、子どもの自己決定権を侵害する親が出てきます。
 
明治時代には、帝国憲法にこそ義務教育の規定はありませんが、国民の三大義務のひとつに教育の義務があって、今と実質的に変わりません。
明治時代からずっと義務教育があるので、日本人は義務教育がない状態というのを想像できなくなっているのではないでしょうか。
 
「『江戸の子育て』読本」(小泉吉永著・小学館)という本から、義務教育のない江戸時代の教育を紹介したいと思います。
 
 
田村仁左衛門吉茂が明治6年(1873)に著した「吉茂遺訓」に、彼がどういう幼少期をすごしたかが書かれています。
親は寺子屋入学を勧めてくれましたが、吉茂は生まれつき手習いが嫌だったので、返事もせず黙っているばかりでした。親は寺子屋は諦めて家で読み書きを習わせようとしましたが、吉茂はいっこうに習おうとしません。
あるとき母親は「お前のように手習いが嫌いなら、乞食になるほかはない」と言いました。すると祖母は「この子は小細工が好きだから、大工にでもなるのがよかろう」と言いましたが、父親は「大工になっても手習いができなければ、番号付けすらできない」と言い、吉茂は困りましたが、仕方なく日々を送りました。ただ、読み書きできない不自由さも痛感し、むりやり種子札や農事日記などをなすり書き(原文ママ)するようになりました。しかし、農業だけは寝ても覚めても怠ることなく勤めました。
18歳のとき、祖父と伯父の二人が「今度、算術家が村にきて、若者に算術稽古をしてくださるというので、お前もぜひ算法を学ぶがよい。必要なことはすべて面倒見てやる」と勧めてくれましたが、吉茂が「私は手習いもしていませんし、四十日ほどの算術稽古に参加しても算術を身につけられるとは申し上げ難く存じます。師匠を頼んでも学べないときはかえって恥をさらすように存じますので、どうかお許し下さい」と言うと、両人は「それももっとも」と聞き入れてくれました。吉茂は「無師」の許しを得て、ますます農業に精を出しました。
そして、吉茂は五十代には日本有数の農業指導者となり、晩年に多くの著作をものにしています。中でも「農業自得」は有名で、平田篤胤は彼を東西二人の「農聖」の一人と称えました。
読み書きは独学で身につけたわけです。
 
幕末の国学者小池貞景が著した弘化4年(1847)刊「こそだて草」にも、子どもに学びを強制してはいけないと書かれています。
 
「男は算筆、女は縫い針」と言って、これらができないと、その身の生涯の損となる。従って、どれほど貧しい家庭でも、ほどほどに仕込んでおきたいものである。しかし、生まれつき嫌いな子もおり、どれほど教えても憶えない子もいる。
このような子どもには強いて教えてはならない。知らないことがかえって、その子にとって良い場合もあるからだ。
世間には無筆でも金をためる者がいるし、学者となって家を滅ぼす者もいる。ほころび一つ縫えない女性でも、立派な夫を持って生涯楽しく暮らす者もいる。逆に縫い針は人に優れても放蕩者を夫に持って生涯苦しみ、その縫い針でその日暮らしをする場合もある。
 
只野真葛の「むかしばなし」によると、江戸時代中期の医者・経世家として知られる工藤平助の養父であった工藤丈庵の妻についてこのように書かれていました。
 
ちなみに、丈庵の妻は、両親の秘蔵っ子として育てられ、十六歳になっても幼児のごとく撫育され、読み書きも教えられなかった。しかし、十六の春から武家奉公をすることになり、周囲の女中から「十六歳にもなる娘に、いろはさえ教えずに育てたものよ」と嘲笑されて奮起した彼女は、文殻(不要になった手紙)を拾い集めて、人が寝静まった後に手習いに励み、夏は蚊除けのために手拭いで頬被りして習った。
努力の結果、半年で手紙も書けるようになり、一年後には周囲よりも立派な手紙が書けるようになった。二年後には奉公先の代書役も務めるようになったという。
 
これらは学習を強制されなくても独学でうまくいった例ですが、もちろん強制されないために読み書きができないという例もいっぱいあったわけです。しかし、落語の登場人物は手紙がくると大家さんに読んでもらって、普通に生活しています。
それに、江戸時代後期になると多くの子どもは寺子屋に通うようになるので、義務教育がなくても問題ありませんでした。
 
 
義務教育がないことのメリットは、なんといっても教える側がしっかりすることです(これからも「『江戸の子育て』読本」に基づいて書いていきます)
 
寺子屋を開業するには資格がいらないことから、師匠らしからぬ師匠もいました。天保初年の「続女大学」には、「弟子が上達しない場合は、みずからの書が未熟で指導方法も行き届かないことは言わずに、弟子の不器用や無精を批判する師匠が世間には多い」という記事があります。手習い師匠もピンキリだから親はよく吟味せよという注意です。
しかし、評判の悪い寺子屋は続かないので、そういう例はごくわずかでした。
 
昭和4年(1929)刊行の乙竹岩造著「日本庶民教育史」全三巻は、大正4年から2年余りにわたって幕末期の手習い師匠経験者83人、寺子経験者3007人に聞き取り調査を行い、寺子屋の実態を明らかにしました。
その調査結果によると、「師匠を尊信している」という寺子は97%、「そうではない」という寺子は3%でした。
また、寺子屋はたいてい個人宅を教室代わりにしていたため、ひじょうに家庭的で、師匠と寺子の家庭の間に家族的な交流がありました。寺子は卒業してからも69%が師匠宅を訪問したことがあり、師弟関係は生涯続き、師匠が没すると寺子一同が葬儀費用いっさいを負担したり、記念報恩の碑を建てたりしました。
 
寺子屋では「席書」という成績発表会のようなイベントがありました。師匠の前に寺子が順番に呼び出され、手本を見ずに清書をし、成績をつけてもらって、壁に張っていきます。門戸や障子を開放し、父兄や通行人が自由に参観できるようになっていて、寺子にとっては日ごろの練習成果を披露する機会で、師匠にとっては指導力を示す機会でしたから、師匠も寺子も一生懸命でした。大きな寺子屋では寺院の本堂を借り切り、多数の来賓を招いて大々的に行い、付近に露店が立ち並んで縁日のようでした。
 
義務教育などなくても、親や子どもが学ぶことの重要性を認識していればうまくいくことがわかります。
いや、逆に義務教育があると、子どもはいやでも学校に行かされるので、学校は社会主義国の商店みたいになります。
今の学校教育の問題は、すべてそこからきています。
 
そもそも義務教育は、富国強兵のためのものでした。なぜ今もやっているのか疑問です。
憲法から義務教育を廃止し、代わりに学習権を規定すれば、学校教育は大いに改善されますし、行きたい学校、習いたい教師を選べる子どもも幸せになります。

相手の立場に立って考える――とよくいいますが、実際はむずかしいものです。

ヤフーのトップページの「あなたは知ってる?Twitterをにぎわす話題」に出ていたツイートを読んで、そのことを改めて感じました。

 
早く抱っこして欲しいもんね
道端でギャン泣きしてる2歳ぐらいの男の子の手を引くお母さんを見て、「ああ…わかる…大変…」って呟いたら、末っ子が「わかるわかる。大変…足の裏が痛くなっちゃうのよね〜あと、早く抱っこして欲しいもんね、ずっと抱っこして欲しいからね…」って、そっち目線!(って、そりゃそっち目線か)
とけいまわり(1085才三姉妹母)
 
私は教育問題などについて子どもの側に立って考えるということを重視していますが、この発想はありませんでした。
2歳の子どもの気持ちになるのはたいへんです。
たいていのおとなは、母親に同情するか、子どもを泣かす母親を非難するかのどちらかでしょう。
 
もっとも、子どもの気持ちがわかったとしても、母親を非難することはできません。荷物を持っていたら子どもをだっこするわけにいきませんし、急いでいればむりをしても子どもを引っ張らなければなりません。
泣く子どもにも事情があり、泣かせる母親にも事情があります。
 
 
このツイートを見たのとほぼ同じときに、朝日新聞の「かあさんのせなか」というコーナーに加藤登紀子さんのインタビューが載っていました。加藤さんは幼児期に満州から引き揚げてきた体験があります。
 
 母と一緒に、中国東北部は何度か訪れています。95年、引き揚げ時に通ったであろう線路を2人で歩きました。その線路の上で母も私も言葉が出なくて。母は荷物もあり、2歳8カ月の私を線路におろして「歩きなさい。歩かないと死ぬことになるのよ!」と言ったと、幼い頃から何度も聞いていました。
 兄と姉、私の3人の子を連れての引き揚げ。「限界は超えるもの。超えられない時は死ぬ時」「人間ってすごいのよ。生き延びるためには何でも超えられる」とよく言っていました。
 
 
幼い子どもにむりやり歩かせるというのは、その場面だけ見ると幼児虐待です。
もちろんそうする事情があるので、虐待とはいえません。子ども(加藤さん)ものちにその事情を理解するので、虐待とは受け止めません。
 
とはいえ、このような場面が子どもにとって不幸であるのは事実です。こうした不幸は人間特有、あるいは文明特有のものです。
たとえば、旧約聖書によるとユダヤ人は民族ごとエジプトを脱出してパレスチナに移住したとされますが、そのとき少しでも歩ける子どもはむりやり歩かされたに違いありません。
原始時代なら子育てしやすい環境が優先されたでしょうが、文明が進むと“おとなの事情”が優先され、そのため子どもが犠牲になります。
 
 
ともかく、冒頭の子どもがギャン泣きしているシーンでいえば、母親が悪いわけでも子どもが悪いわけでもありませんが、悪知恵のあるおとなは、子どもが悪いと主張します。泣いて母親を困らせるのは子どものわがままで、わがままを放置すると子どもは限りなくわがままになるので、きびしく叱らなければならないというわけです。
 
子どものほうもおとなが悪いと主張したいところですが、残念ながらそういう言語能力がないので、おとなが一方的に主張することになります。
そうして今は、「子どもは本質的にわがままであり、おとなが叱らないとまともな人間にならない」というおとな本位の考え方が主流になっています。
 
しかし、動物の子育てを見ればわかりますが、親が叱らないと子どもが限りなくわがままになるということはありません。
 
子どもは本質的にわがままなので叱ってまともな人間にしなければならないという考え方は、幼児虐待の原因にもなります。
また、道徳教育の根拠にもなっています。
 
道徳教育をするべきなのは、悪知恵を発揮するおとなに対してです。

教育はなんのためにあるのかと聞けば、ほとんどの親は「子どもの幸せのため」と答えるでしょう。
実際に子どもから「なんのために勉強するの」と聞かれたとき、「世の中に出たときに役に立つから」などと答えているはずです。
 
しかし、「教育の目的は子どもの幸せ」という考え方は教育界にはありません。
教育基本法にも「子どもの幸せ」とか「子どものため」という言葉は出てきません。
 
教育基本法
 
もともと日本の教育は「富国強兵」という目的のために始まりました。
ですから、「子どものため」ではなく「社会のため」です。
戦後教育も「社会のため」の教育であることは同じです。
教育基本法でも「教育の目的」として「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成」をうたっています。
 
そもそも近代教育は古代ギリシャの教育を理想としています。古代ギリシャのスパルタの教育が軍国主義的なものであったことはよく知られています。アテナイの教育は文化的なものを重視したとされますが、スパルタとの戦いで敗北します。
 
国家や社会のための教育をする国家や社会が生き残り繁栄していくのは当然です。日本の富国強兵の教育もその流れにあるといえます。
そういう意味では、戦後教育は経済戦士をつくる教育と見ることができます。
学校の広告コピーに「明日の社会を担う人材を育成する」といったものをよく見ますが、これは「社会のための教育」をうたっているわけです。
「明日の社会を担いたい」と思っている若者がいるとは思えません。あの広告コピーはおとなにアピールするためのものでしょう。
次の世代が社会を担ってくれれば、親や教師の世代にも恩恵があります。
 
教育をするのはつねにおとなですから、教育がおとなのためのもの、つまり「社会のため」のものになるのは当然です。
親や教師は、教育は「子どものため」だといいますが、それは子どもに対していうだけです。
「社会に役立つ人間になれば結局自分のためになる」ともいいますが、目的の違いをごまかすための理屈です。
 
今の教育は「社会のため」の教育ですから、子どもにストレスがかかってもおかまいなしです。
つまらない勉強をすることも、将来つまらない労働をするときの役に立つという感覚です。
そんな学校には当然イジメが発生しますが、おとなはイジメを解決しようという気もなく、イジメの責任を子どもに負わせています。
 
親や教師は「社会のため」の教育をしているのに、子どもに対しては教育は「子どものため」だと嘘をいっています。
いつまでも嘘をいい続けるのか、それとも教育の大転換をするのか、今こそ考える必要があります。
 

9月1日と4月8日は統計的に子どもの自殺が多い「自殺の特異日」ということで、8月末にメディアでいろいろな人が「つらければ学校へ行かなくてもいいよ」という呼びかけを行っていました。
 
学校へ行かなくてもいい――という考え方は、ひと昔前はありえないものでした。
ほとんどの親は、子どもが不登校になるとパニックになり、むりやり子どもを学校に行かせようとして修羅場を演じました。
といって、世の中の価値観が変わったというより、「自殺の特異日」という概念がよかったのでしょう。子どもの命より学校がたいせつというわけにはいきません。
 
今でも親にとって学校は子どもの命の次ぐらいにたいせつなのではないでしょうか。
というのは、憲法に義務教育の規定があるからです。
この義務は子どもが負うのではなく親が負うわけで、子どもが学校に行かないと親が憲法違反をすることになります。憲法違反をしたくなければ、親はむりにでも子どもを学校に行かせなければならないわけで、憲法が親子対立を生むことになります。
 
これはもちろん義務教育という規定が間違っているわけです。
憲法には「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」とあり、もともと教育を受けることは権利なのです。
ですから、義務教育の規定をなくして権利のままでいいのです。
 
さらに、「教育を受ける権利」というのも、今は「学習権」という考え方が定着しているので、時代遅れになっています。
憲法改正をやるなら、義務教育を廃止して、学習権を明記する改正をやるべきでしょう。
これは実質的な意味があります。
 
 
今は義務教育の規定があるので、かりに子どもがイジメにあっていても、親は子どもを学校に行かせなければなりません。それ自体が子どもには不幸なことですし、自殺につながることもあります。
また、義務教育であれば、どんな教え方をしても子どもは学校にくるわけで、これは教師の堕落につながります。
 
今あるのは「教育を受ける権利」ですから、親や子どもは教育の中身を選ぶことができません。しかし、「学習権」になれば、子どもは学習したいものを学習できることになります。
たとえば小学校ではプログラミング教育の必修化が予定されていますが、子どもには適性があるので、全員にさせるのは疑問です。かといって、どの子に適性があるかを見きわめるのもたいへんです。これは子どもに選ばせればいいわけです。
 
今の教育は、能力も適性も違う子どもを同じ教室に入れて一律に教えています。また、年1回の入学ですから、実質的に6歳の子どもと7歳の子どもが同じ教室にいます。教える側の効率しか考えていないのです。
その結果、ほとんどの子どもにとって教室は苦痛で退屈な場所となり、そこからイジメや不登校が生じるのは当然です。
 
子どもに選ばせればいいというと、それでは子どもがわがままになってだめだという反論がありがちですが、それは人間性も人権も民主主義も否定する考え方です。
 
「自殺の特異日」という発想で学校絶対主義みたいなものは少し揺らぎましたが、自殺を回避すればいいというものではありません。
教える側主体の「教育」から学ぶ側主体の「学習」へと、学校制度の根本的な改革が必要です。

「遊んでばかりいないで勉強しなさい」というのは親の子どもに対する常套句です。
なぜ勉強しないといけないのか――というのは誰もが感じる疑問でしょうが、それ以前に、なぜ遊びと勉強があって、両者は対立する関係にあるのでしょうか。
 
いうまでもなく勉強させられるのは人間の子どもだけです。
犬の子や猫の子を飼ったことのある人はわかるでしょうが、彼ら彼女らは遊んでばかりいます。
 
猫の遊びというと猫じゃらしです。猫じゃらしを動かすと、つかまえようと飛びかかります。
これはもちろん無意味な遊びではなく、明らかに狩りで獲物を捕まえる練習です。
 
複数の猫がいる場合は、しばしば家中を走り回って取っ組み合いをします。これはまるで喧嘩をしているようですが、よく見ると、追いかけたり追いかけられたりと役割を交代しているので、遊びとわかります。これももちろん獲物を追いかけて捕まえる練習です。
 
それから、物陰に隠れて、突然人間を襲撃するということもします。じっと身構えて、突然ダッシュするということもします。これらも狩りの練習であることは明らかです。
 
高いところに飛び乗ったり、飛び降りたり、そのほかさまざまな動きをするのも、運動能力を高めることに役立ちます。
 
つまり猫の遊びというのは、ほとんどが狩りに役立つことばかりです。
 
犬も同じようなものです。
犬の場合は猫じゃらしのようなものではなく、ボールやフリスビーなどを追いかける遊びを好みますが、これは犬の祖先の狼が草原で狩りをしていたからです。
犬はよく物をかんで、スリッパや靴をだめにしたりしますが、犬は爪の威力はあまりなくて、もっぱらかむ力で獲物を仕留めます。物をかむことでかむ力が鍛えられます。
 
もちろん犬も猫も目的意識を持ってやっているわけではありません。その行為が楽しくてやっているのです。ですから、遊びです。
遊んでいるうちに生きる能力が身につくわけですから、遊びと勉強が一致していることになります。
 
 
人間も狩りをするサルですから、狩猟採集社会では遊びと勉強が一致していたはずです。
子どもの遊びの代表的なものに鬼ごっこがあります。オニが子を追いかけてつかまえるというものですが、これも狩りの練習です。
 
ちなみに狩りというのは、探索・発見・追跡・格闘・捕獲という要素から成っています。
遊びにはこの要素のいくつかが必ず入っています。テレビゲームなども同じです。
 
文明が進むとともに、子どもは遊んでばかりいられず、読み書きをさせられ、兵士になる訓練をさせられるようになりました。
つまり遊びと勉強の分離です。
 
近代産業社会では勉強の量があまりにも増大し、そのため遊びが極端に迫害されています。
しかし、遊びが人間の基礎をつくるということは今も変わらないはずです。
 
それに、ビジネスというのは狩りときわめて似ています。
なにかもうかることはないかと探索し、もうかりそうなことを発見し、追いかけ、ライバルと格闘し、もうけを捕獲するというのがビジネスです。
ですから、遊びをすることはビジネスにも役立つはずです。
 
また、勉強を遊びすなわち狩りのようにするということも考えるべきです。
たとえばゲーム感覚で勉強ができるアプリというのもできています。
 
子どもに「勉強しろ」ばかり言っていればいいというものではありません。

籠池夫妻が10か月ぶりに釈放され、記者会見をしましたが、久しぶりに“人間”を見たような気がしました。
というのは、森友加計問題で佐川氏や柳瀬氏は完全な“嘘つきマシーン”と化していたからです。
籠池夫妻はいかにも大阪のおっちゃん、おばちゃんという感じで、言うことも官僚答弁とは違います。
籠池泰典氏は昭恵夫人から100万円の寄付金をもらったと繰り返し言っていて、一方昭恵夫人はフェイスブックの文章で一度それを否定したきりです。両者を比較すれば、どちらが正しいかおのずとわかってきます。
 
とはいえ、籠池氏もいろいろ問題のある人で、もともと安倍首相と思想的に近い人です。保釈されての会見でも「小学校建設についてはまだあきらめておりません」と言っています。まだ日本会議的な学校をつくりたいのでしょうか。
 
森友問題は、国有地の不正払下げという問題と同時に、教育思想の問題でもあります。
塚本幼稚園では教育勅語暗唱、五箇条の御誓文暗唱、論語唱和、国歌斉唱、整列行進などの軍国主義的教育をしていましたが、昭恵夫人はその教育を見て、このように語りました。
 
「この幼稚園でやってる事が素晴らしいが、それがこの幼稚園で終わってしまう。ここから公立の学校へ行くと、普通の公立小学校の教育を受ける。せっかくここで芯ができたものが、学校に入った途端に揺らいでしまう」
 
この発言は、首相夫人が公立学校を否定しているということで、当時問題になりました。
しかし、この発言のいちばんの問題は、このような教育で「芯ができる」と見ているところです。
 
なお、昭恵夫人は森友学園のホームページに名誉校長として次の文章を載せていたことがあります。
 
「瑞穂の國記念小學院は、優れた道徳教育を基として、日本人としての誇りを持つ、芯の通った子どもを育てます」
 
ここでも「芯」ということを言っています。
 
しかし、塚本幼稚園でやっていたのは、子どもの外側に関することだけです。
つまり「型にはめる」教育です。
これでは人間の芯はできません。型にはめることをやめれば、本来の姿に戻ってしまうのは当然です。
 
「型にはめる」教育は塚本幼稚園だけでなく、程度の違いはあれ、広く行われています。服装や頭髪に細かい校則をつくって守らせているなどもその一例です。
 
 
そもそも人間の「芯」の部分を教育によってつくろうとか変えようとかいうのが間違いです。
DNAを変えられないのと同様に、人間の「芯」も変えられません。

文部科学省の認識も問題です。2008年に改訂された学習指導要領では『子どもたちの「生きる力」をよりいっそう育むことを目指します』とうたわれています。
「生きる力」は生物ならすべて持っているものです。ゴキブリは誰にも「生きる力」を育んでもらわなくてもたくましく生きています。なぜ人間だけ「生きる力」を育む必要があるのでしょうか。
 
熱血教師が生徒の心を変えるというのはフィクションの中の話です。
ほんとうによい教師というのは、生徒を尊重する教師です。
教育にできることは、知識と技術を教えることぐらいです。
教師はそういう謙虚さを持たないといけません。
 
もっとも、富国強兵時代の教育は、「型にはめる」ことで内面までも支配し、お国のために死ねる人間をつくることを目指しました。
軍国主義の時代にはそれがうまくいったように見えたかもしれませんが、人間の「芯」が変わったわけではないので、戦争に負ければ一瞬にして崩壊してしまいます。
 
安倍夫妻や日本会議が理想とするのは、軍国主義時代の教育です。
塚本幼稚園にその理想の姿があったので、次に同じような小学校をつくりたいというのが安倍夫妻や日本会議の目標でした。
そのため安倍夫妻が関係して国有地の不正払下げが行われたのです。
 
今後、国有地不正払下げの実態が明らかになると思われますが、教育思想の間違いも明らかにしていかないといけません。

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