村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

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たいていの親は口ぐせのように子どもに「勉強しなさい」と言っているはずです。
では、子どもから「なぜ勉強しなければいけないの」と聞かれたときにどう答えているでしょうか。
次の記事に、いろいろな答えが書いてありました。
 
「なぜ勉強が必要?」子供への模範回答3
回答内容でバレる、賢い親ダメな親
 
この筆者自身は、次のように答えるそうです。
 
「“大人”をきちんと楽しめる大人になるため」
 
これは教養主義をこの人なりの言葉にしたものでしょう。
教養主義というのは、要するに人間は教養を身につけるべきだという考え方ですが、なぜ教養を身につけるべきかについて納得のいく説明がありません。そこで筆者なりの説明をしたのでしょう。
しかし、この答えで子どもが納得するとは思えません。
 
ある神父さんは次のように言ったそうです。
 
「勉強は自分の窓を開けるということです。学ぶことで、今まで見ていたものとはまた違う何かを見ることになります。視界を広げるために学ぶのです」
 
これも教養主義の答えです。
 
教養主義の反対語は実利主義です。
漫画家の西原理恵子さんは次のように書いているそうです。
 
「大事なのは自分の幸せを人任せにしないこと。そのためには、ちゃんと自分で稼げるようになること。食いっぱぐれないためには最低限の学歴は確保する」
 
これはわかりやすく、説得力があるでしょう。
誰でもお金はほしいし、異性にもてたいし、世の中に認められたいので、そのために勉強するというわけです。
 
しかし、どうしても勉強が嫌いな子どもは、「学歴がなくても生きていける」などと主張するかもしれません。そういう子には結局教養主義で説得しなければならないことになります。
 
 
ところで、「なぜ勉強しなければならないか」を子どもに説明しなければならなくなったのは、明治時代に義務教育が始まってからです。
 
江戸時代の寺子屋は、実利のための教育でした。読み書きソロバンは、その子どもが生きていくために必要なことですから、説明するのは簡単でした。
しかし、明治以降の学校教育は富国強兵のためですから、子どもが納得いく説明はできません。教養主義の説明も実利主義の説明も、所詮はおためごかしです。
最後はむりやり勉強させるわけです。
 
戦後の教育は、富国強兵のためではありませんが、義務教育という点では同じです。
親は教養主義の説明をしたり実利主義の説明をしたりしますが、どうせ最後はむりやり勉強させるわけです(高校以降は義務教育ではありませんが、親は惰性で同じように対処しています)
 
「義務」という規定がよくありません。
憲法改正をして、義務教育を廃止して、代わりに学習権を設定すれば、親はむりやり子どもに勉強させる必要はなくなります。
子どもに勉強させたければ、ちゃんと子どもが納得いく説明をしなければなりません。
教師も同じです。学習塾や予備校の教師は子どもを引きつける教え方を知っています。義務教育を廃止したほうが学校のレベルは上がります。
 
単純な話、親が「勉強しろ」と言わなくなれば、子どもは自発的に勉強するようになります。人間には好奇心や知識欲があり、幸せになりたい欲求があるからです。
将来稼げるようになるために勉強するのか、教養を身につけるために勉強するのかは、子どもが考えることですから、親が考える必要はありません。

この一年を振り返って思うのは、日本人はどんどん自信をなくしているなあということです。
 
「日本スゴイですね」系のテレビ番組がいっぱいあるのは、日本人としての自信がないからでしょう。
安倍首相がトランプ大統領になにも言えなくても、多くの日本人は分相応と思っているようです。日本がなにか言える相手は、北朝鮮と韓国ぐらいです(最近は中国にも言えなくなっています)
 
自信がないと、強い者にはさからえないので、弱い者イジメをしがちで、ヘイトスピーチや生活保護たたきが盛んになります。
究極の弱い者イジメが子どもイジメです。
親や教師が子どもをイジメているので、子どもは学校で自分より弱い子どもをイジメることになります。
 
保育園の子どもの声がうるさいとか、電車の中で赤ん坊が泣くのがうるさいとかの声がどんどん大きくなっています。
赤ん坊の泣き声がうるさいといっても、赤ん坊を泣きやますことはできないので、赤ん坊といっしょにいる母親に対して、「泣きやませろ」とか「よそに行け」と言うことになります。
しかし、母親だからといって必ず赤ん坊を泣きやますことができるわけではありませんし、たとえば電車の中なら外に出るわけにもいきません。
 
そこで、松本人志氏は「新幹線で子供がうるさい。子供に罪はなし。親のおろおろ感なしに罪あり」とツイートして話題になりました。
松本氏はこのツイートに関して「ワイドナショー」の中で、「(親が)ほんのちょっとでも申し訳ないですって顔をしてくれたらすべて丸くおさまる。平気な顔でスマホいじってると、だんだん子供にまで腹立ってくるんですよね」と説明しました。
 
これは一見、赤ん坊と親に配慮しているようですが、「赤ん坊が泣くのは親に罪がある」という認識ですから、たいして変わりません。
 
こういう認識の人間が周りにいたら、親も肩身が狭いですし、子育てが負担になります。
 
つまり社会全体が子どもを愛していないので、親も子どもを愛しにくくなっているのです。
これは少子化のひとつの原因ではないでしょうか。
 
いや、それだけではありません。
日本人が自信をなくしていることにもつながっているのではないかと思います。
自信というのは、軍事力や経済力やなにかの実力や実績から生まれるものばかりではありません。「理由のない自信」というのがあります。
たとえば、途上国の貧乏な人が自信を持って明るく生きているということがあります。
これは親から十分に愛されて育ったので、自己肯定感を持って、周りともいい人間関係が持てているからです。
 
最近の日本人の自信のなさは、経済が停滞していることだけが理由ではありません。
親が子どもに対して、行儀がよくないとだめだ、成績がよくないとだめだ、学歴がないとだめだという育て方をしているせいではないでしょうか。
自信がないので、恋愛、結婚もできないし、友だちもつくれないし、ひどいと引きこもりになってしまいます。
 
赤ん坊はどこでも泣いて、子どもはどこでも走り回ったり騒いだりして、周りのおとなが温かい目で見守る国になれば、日本人はかりに貧しくても、自信を持って幸せに生きていけるのではないかと思います。
 

大阪府立懐風館高校で、生まれつき髪の毛が茶色いのに黒く染めるように強要され精神的苦痛を受けたとして、女子生徒が損害賠償を府に求める訴えを起こしました。
この学校は、染色や脱色を禁じる「生徒心得」を理由に髪を黒く染めさせるという論理矛盾した指導を行っており、「たとえ金髪の外国人留学生でも規則で黒染めさせる」など人権無視の発言をして、世間をあきれさせています。
 
校則と頭髪といえば、少し前に都立高校の約6割で入学時に「地毛証明書」を提出させているという記事が朝日新聞に出て、話題になりました。
パーマをかけていたり髪の毛を染めていたりするのではないかと疑わしい生徒に「地毛証明書」を提出させ、一部では証拠として幼児期の写真も提出させているということです。
 
黒く染めるよう強制するとか、「地毛証明書」を提出させるとかは話題になりやすいケースですが、どうやら茶髪禁止とかパーマ禁止というのは当たり前に行われているようです。
 
私の若いころは、男子生徒に丸刈りを強制する中学や高校がかなりありましたが、最近はほとんどありません。学園の自由化はいくらか進んでいるのかと思っていたら、そうでもなかったようです。
 
昔、丸坊主が強制されたのは軍隊がそうだったからで、いわば軍国主義教育の名残りです。
刑務所に入るときも丸刈りにされるので、それとの関連もあるかもしれません。
頭髪は身体の一部ですから、「お前たちには身体の自由もないのだ」ということをわからせるねらいでしょう。
それが今も続いているわけです。
 
もっとも、こういうことを言うと、高校生が髪を染めることがいかによくないことであるかとか、黒髪がいかに素晴らしいかとか、反論する人が出てきそうです。きっと教育現場ではつねにそういう議論がされているのでしょう。
 
髪型とか毛髪の色とかについてはいろいろな価値観がありますが、これは価値観の問題ではなく、「自分のことは自分で決める」という自己決定権の問題です。
教師がどんな価値観を持ってもかまいませんが、それを生徒に押しつけてはいけません。
 
それに対して、ルールを守ることのたいせつさを主張する人もいます。
しかし、それもやはり自己決定権の問題です。
生徒のルールは生徒が決めるべきです。
 
現在は生徒のルールを教師が決めているので、「おかしな校則」がいっぱいできています。
 
「自分が守るルールを自分でつくったら、自分に甘いルールをつくるからだめだ」という人もいるかもしれませんが、その主張は民主主義の否定です。
「地方自治は民主主義の学校」という言葉がありますが、「生徒自治は民主主義の学校」でもあります。
18歳選挙権が実施されていますが、民主主義について学ばないのに急に投票だけしろと言われても、うまくいきません。
 
現在、生徒自治会の活動が不活発だということもあるようですが、それは自治会の権限が小さいからです。校則をすべて自治会がつくることにするだけで、まったく変わるはずです。
 
 
立憲民主党の枝野幸男代表は、「上からの政治か、下からの草の根民主主義か」と対立軸を設定しましたが、これはきわめて明快でした。
これは学校のあり方にも適用できます。
自民党政権下の学校では、生徒は教師から一方的に指導されるだけです。
若者は自民党支持率が高いというデータがありますが、こういう学校で育った結果でもあるでしょう。
ついこの前も、小中高校のいじめ認知件数が過去最多の32万件になったというニュースがありましたが、いじめの多い学校というのも、結局は生徒の声が学校運営に生かされていないからです。
 
文科省、学校、教師の上からの学校運営か、生徒の草の根民主主義の学校運営かという対立軸で教育改革の議論をすれば、うまくいくはずです。

トランペット奏者の日野皓正氏が中学生の演奏会でドラムのソロパートをたたき続ける中学生に往復ビンタをした動画が公開され、またしても体罰論議が起きています。
 
事件のいきさつと議論をまとめたのが次の記事で、問題の動画も見られます。
 
日野皓正さん往復ビンタ「体罰容認」の空気を作ってしまう日本
 
日野皓正氏が大物であることに便乗して、沈黙していた体罰肯定論者が声を上げたということでしょう。
 
スティックを取り上げられても手でドラムをたたき続ける中学生が悪いから、日野氏の体罰は正しいという意見もありますが、中学生の行為は関係ありません。強い者が弱い者に一方的に暴力をふるうということは、どんな理由があってもだめに決まっています。
 
ただ、日野氏の側にもそれなりの理由はあったでしょう。
問題の中学生がドラムをソロで長時間たたき続けたために、ほかの中学生の演奏する時間がなくなるとか、聴衆がうんざりしているという事情があったと思われます。
ですから、ビンタをむりやり正当化するとすれば、「ほかの子や聴衆のためにやむをえなかった」ということになりますが、実際はビンタしなくてもやめさせられますから、やはりこの理屈は成り立ちません。
 
そこで、体罰肯定論者は「その子のためだ」と主張して、教育や道徳を持ち出して理由づけをします。
「ドラムをたたき続けた中学生が悪い」とか「言ってわからなければ体罰はしかたがない」とか「きびしくしないとわがままになる」とかです。
 
しかし、実際はわがままなおとながキレて、自分を正当化する理屈を言っているだけです。
もちろん体罰はその子のためになりません。体罰されると体だけでなく心がダメージを受け、繰り返されると人格がゆがみます。
そのゆがみが体罰肯定、暴力肯定の考えとして表れます。つまり暴力の連鎖です。
今回、日野氏に便乗して体罰肯定論を言っているのはそういう人なのでしょう。
 
それに、このケースでは、問題の中学生はソロでドラムをたたいているうちに乗ってきて、止まらなくなったものと思われます。それを暴力で止めると、次にまた演奏するうちに乗ってくると、そのときの記憶がフラッシュバックして、乗れなくなってしまうおそれがあります。つまりこのビンタは、この子の可能性をつぶしてしまったかもしれないのです。
 
そもそもジャズではこの中学生の暴走は少しもおかしいことではないという意見があります。「リテラ」の「日野皓正ビンタ事件で、中学生が非難され日野の体罰が支持される異常!教育的にもジャズ的にも日野がおかしい」という記事から一部を引用します。
 
 
 たとえば、元ジャズミュージシャンのギター講師・八幡謙介氏は自身のブログのなかで、〈「おのおの決まった小節ずつ平等にソロを回す」という決まりを本番で無視し、自分だけのドラムソロとして食ってしまうことは、<ジャズ的>には全然ありです〉と、少年の行動をジャズプレイヤーの見地から認めている。ただ、〈その後に<回復>できなかったのは彼の責任〉ではあるとしつつも、中学生では仕方がないことだと述べ、こうつづけている。
〈それにしても、この少年の勇気には脱帽です。
 考えてみてください、日本人の中学生が世界的アーティストの監督する舞台の本番で、自らルールを破りジャズの精神に則って<逸脱>したのです!(しかもスティック取り上げられても、髪を掴まれても反抗してる!!)
 この一点だけ見ても僕には彼がそこらへんのプロよりも立派な「ジャズミュージシャン」であると思えます〉
 
 
一方、日野氏のほうはあまりジャズミュージシャンらしくありません。
事件が起きたジャズコンサートは世田谷区教委主催で、地元の中学生による「ドリームジャズバンド」を日野氏が指導していたということですが、果たしてジャズというのは教えることができるものなのでしょうか。
クラシック音楽の世界は、小さい子どもに徹底した教育を行いますが、ジャズの世界はその対極にあるものです。
子どもに教えて演奏がうまくなっても、それはジャズといえるか疑問です。
 
今回の体罰論議は、「世界的なトランペット奏者」という肩書に惑わされ、体罰とは強者が弱者に一方的にふるう暴力であるという本質が見えなくなった人たちが引き起こしたものです。
 

道徳の教科化が小学校では2018年度から始まることもあって、道徳教育についてさまざまな議論が起きています。
道徳の教科書検定によってパン屋が和菓子屋に変えられたということも話題になりました。
 
朝日新聞の「声」欄には、12歳の中学生が「答えがないのが道徳では」という意見を投稿し、それに対してさまざまな意見が出ました。
48歳の主婦は「道徳とは教えられる前にみんなでつくっていくもの」と言い、81歳の元小学校校長は「道徳とは善悪を判断する心を育むこと」と言い、83歳の無職は「道徳は大人から教えられる必要はない」と言い、22歳の大学生は「道徳とは評価にとらわれずに『私の意見』を言うこと」と言い、政治学者の姜尚中氏は「大人も子どもも答えのないものについて考えていくことがたいせつ」と言いました。
 
みんな言っていることがバラバラです。
以前、若者が「なぜ人を殺してはいけないのか」と発言し、それに対する有識者の答えがバラバラだったのと同じです。
 
なぜこんなことになるのかというと、みんな道徳について根本的な勘違いをしているからです。
 
今の考え方は、子どもには「よい子」と「悪い子」がいるというものです。子どもを「悪い子」にせず「よい子」にするというのが道徳教育の目的です。
 
しかし、赤ちゃんに「よい赤ちゃん」と「悪い赤ちゃん」がいるというふうには誰も考えません。
生まれたばかりの子どもには善も悪もないというのが常識です。
 
そして、小学校に入る6歳ぐらいになると、さまざまなことの影響で「よい子」と「悪い子」に分化していくというふうに考えられます。
たとえば、いじめっ子になる子どもと、いじめっ子にならない子どもがいるという具合です。
 
そうして子どもが成長し、大人になるとどうでしょうか。
これはもう歴然と「よい大人」と「悪い大人」がいます。
「悪い子」よりも「悪い大人」のほうがはるかに悪いことをしています。
 
たとえば、少年が殺人事件を起こすと大きく報道されますが、実際のところは10代前半までの子どもはめったに殺人を犯しません。10代後半になると殺人を犯すようになりますが、それでも成人よりは少ない数です。
 
2005年のデータですが、人口10万人当たりの殺人事件の検挙人数は、
14-19歳 0.91
20-29歳 1.62
30-39  1.64
40-49 1,39
 
詐欺、贈収賄など知恵を使った犯罪は大人のものですし、テロのような思想犯罪も大人のものです。
 
つまり人間は、生れたばかりは善も悪もないのですが、だんだんと「よい人間」と「悪い人間」に分化していくのです。
 
そうすると道徳教育というのは、まだ悪くなっていない子どもに、もう悪くなっている可能性のある大人が「悪いことをしてはいけない」と説くことになり、わけのわからないものになるのです。
こんな道徳教育はまったく無意味です。
 
 
ただ、有用な道徳教育もありえます。
それは、世の中には「よい大人」と「悪い大人」がいるので、それを見きわめなさいと教えるものです。
 
たとえば、「よい親」と「悪い親」がいて、「悪い親」は子どもを虐待します。虐待されたときはどうすればいいかを子どもに教えることはとてもたいせつです。
また、「よい教師」と「悪い教師」がいて、「悪い教師」は教え方も下手ですし、クラスにイジメがあっても対処しません。下手をすると教師が子どもをイジメることもあります。そんな教師への対処法も教えなければなりません。
社会に出れば、ブラック企業がありパワハラ上司がいますし、詐欺商法もあります。若者はこれらの被害にあいやすいので、それらも教えなければなりません。

親に虐待された子どもは自分も虐待する親になりやすく、ブラック企業に適応した若者は自分もパワハラ上司になります。振り込め詐欺で最初は出し子に使われた若者はいずれ犯罪グループを担うようになります。つまり「悪い大人」の影響でまだ悪くない子どもも「悪い大人」になっていくのです。
このような「悪の連鎖」を断ち切る道徳教育なら意味があります。

5月5日の「子どもの日」の朝日新聞に、学力テストに関する中学生の投書が載っていて、考えさせられました。
  
(声)若い世代 こどもの日特集 全国学力調査、何のため?
 中学生(神奈川県 14)
 先日、中学校で全国学力調査が行われた。3年生を対象に実施されたが、私はこの調査に疑問を抱いた。
 試験問題のどこにも調査目的や調査結果の使用方法などが明記されていなかった。授業を1日潰してテストをやらされ、その結果が何に使われるかわからない。それが私にとっては、すごく怖かった。
 新聞によると、この調査に毎年50億~60億円ものお金がかかっているらしい。自治体や学校現場に「点数を上げなければ」という圧力がかかるうえ、毎年問題が異なるため過去と正答率を比較することもできない。過剰なテスト対策が行われたり、今年度は教諭が漢字問題の正解を前日に板書したりした問題も発覚した。これでは、何のための調査かわからない。
 私は、目的をはっきり示さないような調査はする必要はないと考える。調査のために授業を1日削るより、授業をした方が学びが広がる。その費用で学校施設や教育制度をもっと充実させてほしい。
 
 
全国学力テスト(全国学力・学習状況調査)については、いろんな人がいろんなことを言ってきましたが、テストを受ける子どもの意見を聞いたのは初めてです(この投書は周りのおとなの意見に影響されたようなところもないではありませんが)
ということは、メディアがフィルターをかけて子どもの意見を遮断してきたのでしょう。
 
なんのためのテストかわからないままテストを受けさせられるのは、子どもにとってはむなしいことです。
テスト用紙に目的は書かれていなくても、教師によっては子どもに説明しているかもしれません。しかし、説明したところで、「学力テストの目的は、学校がテストの成績を元に教育の成果を検証して指導の改善に役立てることです」ということですから、子どもにとってはどうでもいいことです。
 
テストの結果は通知されるので、自分の学力を全国平均と比較したりはできます。しかし、それがわかったところで無意味だということも言えます。
 
受験目的の模擬試験なら、合格率などを教えてもらえます。
学校の期末テストなどなら成績に反映され、その成績はさまざまなことに影響します。
 
文部科学省は、どうしても学力テストを行いたいのなら、それが子どもにとっても意味のあることだとちゃんと説明する必要があります。
 
 
全国学力テストに限らず、子どもの意見を聞けば見えてくることがあります。
たとえば学校でのイジメに関して、事実関係について子どもにアンケート調査が行われることはありますが、子どもの意見が聞かれることはまったくありません。「イジメはなぜ起こると思いますか」とか「どうすればイジメはなくなると思いますか」とか聞けば、有意義な意見が出てくるはずです。
教育改革とか、小学校での英語授業とかも、子どもの意見をまったく聞かずに行われています。
森友学園問題で教育勅語暗唱について議論が起きましたが、すべておとなたちの議論です。
 
ちなみに「子どもの権利条約」には、子どもの意見表明権が明記されています。

 第13条
1.児童は、表現の自由についての権利を有する。この権利には、口頭、手書き若しくは印刷、芸術の形態又は自ら選択する他の方法により、国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む。
 
文部科学省は子どもの意見表明権をまったく無視して一方的に教育政策を進めており、「主体としての子ども」ではなく「客体としての子ども」という認識のようです。その点ではメディアも同罪です。
 
子どもの意見に耳を傾けるだけで世の中の風通しはうんとよくなるはずです。

2018年度から教科化される小学校道徳の教科書の検定が行われ、文部科学省がパン屋を和菓子屋に、アスレチックの遊具のある公園を和楽器屋に変えさせました。学習指導要領にある「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつ」という点が足りないからだそうです。
ほかに「しょうぼうだんのおじさん」が「しょうぼうだんのおじいさん」に変えられました。これは感謝する対象に「高齢者」を含めるためだそうです。
 
検定全体では「244の意見がつき、このうち43が指導要領に合わず」ということなので、ここに挙げた例はその一部ですが、検定のバカバカしさはわかります。
 
これまでの道徳の副読本もバカバカしいものばかりでした。
私は道徳副読本についての本の書評を書いたことがあります。
 
「みんなの道徳解体新書」書評
 
ですから、検定に合格した教科書もバカバカしいものであることは想像がつきます。
というのは、教科書に書くべき道徳が定まっていないからです。
 
たとえば、人間性善説と人間性悪説とどちらが正しいのかわかりません。
これは教科書に書くということ以前に、現在の道徳の限界です。
そのため新自由主義的な自己責任論が正しいのかどうかもわからず、みんながいつも論争しているわけです。
 
ですから、道徳の教科で教えることができるのは、「世の中にはこういう道徳があります」ということしかありません。たとえば、儒教道徳やキリスト教道徳があるとか、武士には武士道があって、江戸期の商人には商人道があったとか、カントやニーチェの思想があるとかです。高校の「倫理」はそういうものです。
 
宗教教育というのも、世の中にはどんな宗教があって、その教義はどんなものかということを教えるものでしょう。もし宗教教育と称して、学校でキリスト教会で行われるのと同じような説教が行われたら問題になるでしょう。
 
ところが、日本の道徳教育では、子どもに道徳について教えるのではなく、道徳の説教をしようとしているのです。
 
実際のところは、道徳の説教をすると問題になるので、ほとんどは「〇〇について考えましょう」という形になります。
おとなが考えても結論が出ないので、子どもに考えさせるわけですが、結論の出ないことを考えさせるのは時間のむだです
 
ただ、「日本スゴイデスネー」みたいなのは日本人において最大公約数的な支持がありますし、「親孝行をしましょう」はあまりに儒教的なので反発がありますが、「高齢者に感謝しましょう」は保護者の年齢層には支持されるでしょう。そういうことで今回の検定が行われたのかなと思います。
 
 
そういうことを考えると、教育勅語を支持する人がいまだに多い理由もわかります。
教育勅語は天皇の言葉という権威があったので、そのまま道徳を教えることができました。今の時代にもこういうものがほしいのでしょう。
 
しかし、教育勅語は戦後の国会で否定されましたし、今の天皇陛下が認められるはずもありません。天皇陛下が国民に生き方を教えるということは象徴天皇制に根本的に反します。
 
文部科学省や教科書執筆者はどんな資格で子どもたちに「道徳を」教えるのでしょうか。
道徳の教科は「道徳について」教えるものにするしかありません。

国有地不正払下げ疑惑の森友学園傘下の塚本幼稚園では、園児に教育勅語を唱和させています。こうしたことが安倍首相ら右翼政治家を感激させたようです。
 
教育勅語は1948年に国会で失効が決議されています。現在の皇室や天皇陛下が認めるはずもありません。これを持ち出すのは、右翼の好きな“戦前ごっこ”です。
 
とはいえ、教育勅語にもいいところがあるという意見があり、もちろん否定する意見もあります。
ここで改めて教育勅語について考えてみます。
 
議論が集中するのは、次の部分です。
 
爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦󠄁相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博󠄁愛衆ニ及󠄁ホシ學ヲ修メ業ヲ習󠄁ヒ以テ智能ヲ啓󠄁發シ德器ヲ成就シ進󠄁テ公󠄁益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵󠄁ヒ一旦緩󠄁󠄁アレハ義勇󠄁󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ
 
現代語訳はいくつかあり、ここでは明治神宮のサイトから引用します。
 
国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。
 
肯定派は、道徳の基本が述べられていることのどこが悪いのかと主張します。
否定派は、最後の部分の、戦争になれば天皇のために命を捧げろというのはけしからんと主張します。
 
ですから、最後の部分を別にすれば、ほとんどの人はここに書かれていることを肯定していることになります。
これは十二の徳目とも言われています。
 
孝行
友愛
夫婦の和
朋友の信
謙遜
博愛
修業習学
知能啓発
徳器成就
公益世務
遵法
義勇
 
これを全体として否定する意見はあります。「お前に言われたくない」と「今さら言われたくない」です。
しかし、内容を否定する人はまずいません。
 
実際はこの内容そのものに根本的な欠陥があります。
どんな欠陥かわかるでしょうか。
 
それは、いちばん重要な徳目が欠けていることです。
その徳目というのは、「親は子を慈しみ」です。
表現は「親は子を愛し」でも「親は子をよく育て」でもかまいません。
 
親が子を愛し、たいせつに育てるというのは、人の道の根本です。教育勅語にはそれが欠けています。これでは道徳の教えとして欠陥品です。
 
もっとも、それは教育勅語に限らず儒教道徳に共通した問題でもあります。
儒教道徳は、子どもに対して親孝行は説きますが、親に対して子どもを愛せよとは説きません。

現実には子どもを愛さない親もいます。そういうとき儒教道徳は「親、親たらずとも、子、子たれ」と教えます。だめな親でも子どもは親孝行をしろというのです。
むちゃくちゃな理窟です。
 
今の世の中、幼児虐待が大きな問題となっていますが、儒教道徳や教育勅語がそれを生み出してきたともいえます。
 
このような欠陥のある教育勅語は捨て去るのが当然です。 

森友学園の土地不正取引疑惑もさることながら、塚本幼稚園でのトンデモ教育にはあきれるばかりです。

たとえば、園児に運動会の選手宣誓で、「安倍首相ガンバレ、安倍首相ガンバレ、安保法制国会通過良かったです」などと言わせていました。

 
これは特定の政党を支持する政治教育を禁じた教育基本法違反であると批判されていますが、問題はそれだけではありません、幼稚園児に安保法制のことがわかるはずがなく、幼児の発達を無視した教育を行っていることも問題です。
「価値観の押しつけ」という批判もありますが、子どもはその価値観すら理解できないわけです。
意味のわからないことを言わされる子どもがかわいそうです。
 
幼稚園児に論語素読をさせるのも同じです。文語を読んでも意味がわかりませんし、かりに意味を説明したところで、人生経験がないのでわかりません。
 
教育勅語の暗唱もそうです。いろいろなことを学ばねばならないたいせつな時期に、無意味なことを覚えさせられ、繰り返し言わされるのは時間のむだです(軍国時代にも幼稚園では暗唱させていなかったはずで、塚本幼稚園のやり方は軍国時代を越えています)
 
すべては籠池泰典理事長らの自己満足です。
 
 
ただ、教育勅語暗唱については、意味がわからないまま暗唱させるというのは、本来のやり方ではあります。
軍隊では、命令されたらなにも考えずに従わなければなりません。意味のわからない言葉を唱和せよという命令に小さいころから従っていれば、軍隊に入ったときに役立ちます。
つまり、森友学園で行われているのは、なにも考えずに命令に従わせる教育です。
 
今は、みずから考える人間をつくる教育をしなければなりません。
そのために教育勅語は利用価値があります。小学校ではむずかしいかもしれませんが、中学高校で教育勅語の意味と背景を教えて、みんなで議論すればいいのです。天皇制、国家主義、戦争、儒教道徳、教育など、いくらでも考えることがあります。
 
森友学園問題は、土地取引の不正疑惑と、安倍首相の関与のほうに追及の矛先が向かいがちですが、教育問題として追及すると得るものが多い気がします。

俳優の高畑裕太容疑者(22)がホテル従業員の女性に対する強姦致傷の疑いで逮捕されました。
高畑裕太容疑者の母親が女優の高畑淳子さんなので、例によって「親の責任」が問題になっています。
「子どもが20歳すぎれば親に責任はない」というのが今の主流の考え方ですが、それは子どもが自立していればの話です。
次の記事を読むと、果たして自立していたのか疑問です。
 
 
坂上忍、高畑容疑者を「ガチで怒った」過去明かす
 
 俳優の坂上忍が24日、フジテレビ系「バイキング」で、強姦致傷の容疑で逮捕された高畑裕太容疑者に対し、番組で共演した時に「ガチで怒った」ことがあったと明かした。高畑容疑者は昨年8月、同局系「ダウンタウンなう」に出演した際、「僕、性欲が強くて」などと下ネタや奔放発言を連発。ダウンタウンらをあきれさせ、坂上は「オレ、親だったら絶対ブン殴ってる」と怒りモードになっていた。
 
 この日の「バイキング」では、高畑容疑者逮捕について冒頭から特集。坂上は「残念というよりとんでもないニュースが飛び込んできました」と番組を始めると、高畑容疑者の人となりについても言及。以前、ダウンタウンとともにバラエティ番組で高畑容疑者と共演した時の話として、「その時に怒ってるからね、俺。どこからが天然で、どこからがキャラ作りなのか、見えないんだよね。悪い子じゃないけど、ガチで怒った」と、芸能界の先輩たちに“失礼”な物言いがあったことを明かした。
 
 これを受け、高畑淳子の親友でもあるピーターは、裕太容疑者が小学校4年生の頃、母親と一緒に舞台に出ていたピーターの楽屋を訪れ「ピーター、よかったよ」と、呼び捨てで肩をたたかれたエピソードを明かした。
 
 「小学生に肩たたかれてね。こいつなんだと思ったけど、すごいのはそれが本気でそう思ってくれた感じがしたこと」と、失礼な言い方も、純粋さの裏返しだったのかもという見方を示したが、坂上は「俺だったら、ちょっとこっち来いってなってる」とコメントしていた。
 
 結局怒った数日後、その後に、母の淳子が坂上のもとを訪れ、「ご迷惑を掛けました」と謝ってきたといい、「お母さんは本当にちゃんとした人だから」と話していた。
 
 
高畑容疑者が坂上忍氏に失礼なことを言ったあと、母親の淳子さんが謝りにきたというのはおかしな話です。ほんとうに失礼なことを言ったのなら、淳子さんは息子に「今度会ったら謝っておきなさい」と言うべきです。おとななのですから、本人が謝るのが当然です。
母親がこんなことをしていては、いつまでたっても子どもは自立しません。
 
そういう意味では、このケースは母親に大いに責任があるというべきでしょう。
 
 
ところで、「子どもが20歳すぎれば親に責任はない」ということは、裏を返せば「子どもが20歳未満であれば親に責任がある」ということになるはずです。
 
8月23日に埼玉県東松山市の河川敷で16歳の井上翼さんが半ば砂に埋まった遺体で発見された事件で、知人の16歳の少年が父親に付き添われて警察に出頭し、警察は25日、殺人容疑で少年を逮捕しました。そして26日、警察はさらに少年4人を殺人容疑で逮捕しました。
 
容疑者はみんな20歳未満ですから、親の責任を問う声が沸き起こっていいはずです。
しかし、今のところそういう声は聞きませんし、おそらくこれからも聞かないでしょう。
要するに子どもが20歳以上であろうと20歳未満であろうと、親の責任が問われることはないのです(民事裁判では親が賠償責任を負ったりしますが、子どもに責任能力がないので親が肩代わりするだけで、親の行為の責任が問われるわけではありません)
 
オリンピックで選手がメダルを取ると、その選手を育てた親にも脚光が当たり、称賛されます。
だったら、若者が犯罪をすれば、その若者を育てた親が批判され、責任が問われるのは当然のことです。
 
この責任というのは「教育責任」のことです。
この責任が曖昧なために、かえって親への批判が陰湿化しています。
 
子どもが懲役10年の罪を犯した場合、親と子で折半して5年ずつ服役するというのがひとつのやり方です。
こうすれば親はいい加減な教育ができなくなり、真剣に教育に取り組むはずです。
あるいは、子どもの世話だけをして教育はしないというやり方もあります(これは結果的に子どもの人格を尊重することになります)
いずれにせよ、無責任な親が横行する今よりよくなることは確実です。

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